仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2025.12.14
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カテゴリ: 仙台


古海道東の公園たち(荒巻地区) (2025年12月07日))で調べた荒巻地区について、さらに町名の由来や昭和の宅地開発の歴史を知りたくなって、水の森市民センターの図書室を訪れたら、素晴らしい資料に出会うことができた。『荒巻地区平成風土記』(荒巻地区平成風土記作成委員会、2011年)である。以下に、同冊子により勉強した成果を記します。

◆住居表示の整備で荒巻は12町に
 仙台市の都市区域は、慶長以来の城下町を中核に、昭和初期、4次にわたる周辺地域との合併で膨張したが、町名・字名の数が多過ぎた。旧荒巻村だけで148もの字名があり、昭和に入って、よほど整理されて59字となっていた。その町割も複雑で地番が入り乱れていた。加えて、昭和30年代以降、周辺部に出現した新興住宅団地では、宅造業者が勝手に町名・地番を決めたものもあり、甚だしく一体性・整合性を欠いていた。
 このような事態が全国各都市に共通して見られるに至り、昭和37年5月「住居表示の整備に関する法律」が制定され、ようやく各都市とも住所表示の合理化に取組むこととなった。仙台市は早速、同39年から着手している。
 新しい町割は、一見して分かる道路・河川・鉄道等で区切り、新町名の選定は、旧来の町名を基本としたが、さらに由緒ある、親しみ深い好名があれば考慮する等、地域住民の意向を尊重しながら進められた。
 当荒巻地区では、まず昭和43年2月、通町関連の5町から実施され、第2次は52年7月本沢、第3次は翌53年7月堤町等、そして最後に62年菊田町で終了を見た。着手以来、実に23年の月日を要し、59の旧字名が整理・統合されて、別表の通り12町となった。参考までに、あけぼの町は北海道から沖縄まで全国に71、青葉町は56町、山手町は47町といずれも人気の高い町名であることが判明している。

◆青葉町一一杜の都・仙台のシンボル
 伊達政宗は、京都五山にならって仙台城の鬼門に当たる北山に東昌・光明・覚範・資福・満勝の

 その門前町・寺町としての旧通町、北山町、さらに通町北裏・穴田下堤のそれぞれ一部が加わって成立した町である。その中核は、青葉神社、東昌寺、光明寺の広い境内一円の北山丘陵である。
住宅街をなした部分は、この北山丘陵の表側(通町・北山町)と裏側(穴田下堤)の傾斜面である。
 新町名は、この地に鎮座する青葉神社の社名と仙台の中心市街地の北側を縁どる貴重なグリーン地帯の景観とにあやかったもの。青葉山、青葉城、青葉通、青葉城恋歌と「青葉」は仙台のシンボルである。この感銘を一身に背負う住民として、新町名の採択に異論のあろうはずもない。
 因みに、東昌寺の樹齢500年とされるマルミガヤの巨樹は、国指定天然記念物になっているが、毎年この樹の下で野外コンサートが開催される。
(写真 マルミガヤ前での野外コンサート風景)

◆あけぼの町一一希望の持てる朝ぼらけ
 仙台市荒巻字北裏の全部と穴田東・川竹・北鷺ケ森・古海道東の各一部が合体して「あけぼの町」となった。神明町のバス通りと水の森1丁目とを南北に結ぶ市道で、あけぼの町は東西に二分された形である。事実二つは生い立ちも性格も異なる。
 東側は昭和14、5年以降「曙分譲地」の名で売り出され、戦時中、製薬会社ができた頃から急速に開発が進んだ。あけぼのの名を冠した町内会「あけぼの会」が昭和35年生まれた。狭く入り組んだ露地を挟んで立つ家々の庭に、よく手入れされた鉢植えが並んでいたものだ。
 戦後、それまで一面の杉林だった西側の新しい土地に家が建ち始めた。東よりは若い世代の人々が住む小ざっぱりした住宅やアパートが点在し、ここに新町内会「グリーンプラザ自治会」が同52年誕生した。そして53年、統合の時、先住の「あけぼの会」を引き継ぐ提案に対し、西側が譲歩する形で、「あけぼの町」の名が決定した。
 枕草子の「春はあけぼの」。明け方、朝ぼらけ、あの空の薄紅に黄みの交じった色は、何か希望を持てる色だ。町名に平がなを当てたのは優しい。

◆荒巻神明町一一支えたい鎮守の森

 古老の話によると、藩政以来、村の集会はすべてこの神明社を利用し、太鼓で時刻を告げたという。また寺小屋の代わりに、子供たちの学習の場にもなった。しかし、今日「地域の人たちの関心は薄い。淋しいことだ」と古老は嘆く。拝殿には常時、鍵がおろされている。耳を澄ませば、境内の樹林を渡る一陣の風韻が聞こえる。
 一歩境内を出ると、神明町は密集住宅地であり、細長い商店街が続く。スーパー、郵便局、銀行、病院、小学校、何でも用の足せる便利な町である。最近の話題は、建設中の大型店の完成後の雲行きだという。

◆山手町一共同墓地に眠る先住者
 旧集落名の北山町と、荒巻字白石道北・山下上・山下中・手戸・裏新田・山新田・山下土手が合体して、新しく山手町となった。JR仙山線の鉄路を隔てた北山霊園の北で、東は荒巻街道、北は梅田川の流れに囲まれ、仙山線北山駅に近い。
 終戦まで、この一帯は森林の茂る丘陵地で、戦後いち早く引場者のための市営手戸住宅が70戸ほど建設された。当時は道路や水道が整備されておらず、小学校へも遠いという悪条件であったが、鋭意これを克服し、住みよい環境を確保した。


◆北山1丁目一泉岳がはっきり見える
 古くからの北山町と支倉通・通町のそれぞれ一部を合わせて、北山1・2・3丁目の新北山町が生まれた。古くから北山と呼ばれ、城下町の北辺を画したのは、伊勢堂から東へ堤町の鹿島崎に連なる北山丘陵であった。そしてこの北山の南山腹に、北山五山と呼ばれる名刹が建置され、青葉神社・香取・鹿島両社も鎮座している。その南麓を通町から西へ中山街道に沿っている町が、昔からの北山町で、おのずから社寺群の門前町を形成していた。
 北山1丁目は、北山丘陵の北側を走っている仙山線を以て荒巻神明町との境界とし、西は輪王寺の西側を北上する荒巻街道、南は中山街道に沿っている旧北山町の南裏、東は覚範寺と青葉神社の境内を以て、ほぼ境界としている。そして、この北斜面に住宅街が東西に細長く発達している。泉岳を眺望できる地の利はあるが、永年、運搬車・消防車・救急車の入れない狭い道路が、住民の悩みの種になっている。
 北山1丁目で、満勝寺に代わって五山の一つに加わった輪王寺は、伊達政宗とともに梁川・若
松・米沢・岩出山・仙台と六遷、今や東北曹洞宗の大本山と仰がれているが、元禄4年(1691)に建てられた仁王門には、湛慶(たんけい)作といわれる仁王像が安置され、池泉式回遊庭園とともに知られる。
(写真:輪王寺庭園)

◆荒巻本沢1~3丁目一銅谷は製鉄の名残り?
 荒巻字菖蒲沢の全部と瀧道山・龍道(たつみち)・山添・雷神のそれぞれ一部を合わせて本沢1丁目、下銅谷・銅谷・水門下の全部と北川・北川山のそれぞれ一部を2丁目、また字苗代の全部と川平・北川・北川山・鳶巣山のそれぞれ一部を3丁目とした。
 本沢という地名は、明治38年の帝国陸地測量部の地図に掲載されているから、すでに100年以上も前から存在したことは間違いない。地域の古老の話では、戦前、陸軍の演習でこの地域にきた兵土たちが「本沢」という呼び方をしていたという。しかし、地籍としての字名は存在しない。つまり総括的な通称であったと思われる。
 一方、銅谷という地名は、江戸期の絵図をはじめ、文献にも明記され、戦後の住居表示整理まで残っていた。もともと銅谷は、根白石に3ヶ所、実沢に1ヶ所、仙台藩全体で129ヶ所も見つかっているが、烔谷と書き、昔、砂鉄をタタラにかけて銑鉄を作るタタラ製鉄の場所を指す。本沢では未調査なので遺跡は発見されていないが、多分にその匂いがしてならない。
 昔の村長、当時の肝入りを務めた山田正人家、東海林家をはじめ、庄子家、高橋家、相沢家等、旧家が健在であるのは頼もしい。

◆荒巻中央一歩行者専用橋がご自慢
 荒巻字北川・北川山の全部と川平・古海道東のそれぞれ一部を合わせて荒巻中央とした。10数年前までは山の中で、狐も出歩いた場所が、西に中山、西北に桜ヶ丘、北に水の森と大団地群に包囲され、この辺りが何となく中央の感じになったのも無理はない。少々面映ゆいが、思い切って「中央」と付けてしまった。
(写真:荒巻橋一右側が歩行者専用橋)
 ご自慢は、荒巻橋の脇に歩行者専用橋を付けたこと。これで荒巻橋は車が2台すれ違えるから、神明町の交通渋滞も緩和されると踏んだ。結果は必ずしも期待通りに行かなかったようだが、アイディアは十分評価されてよい。
 古海道東という古めかしい名の土地と一緒に暮らしてきた山田一族、一条一族等が健在である。
市営バスの臨時ターミナルとなった五差路の運営に力を貸し、また町内の水道敷設のため、いち早く水道組合を設立して頑張ったのも、この人たちであった。表通りには、商店街がある。ここの商店主には「通い」が多いというが、一人一人が知恵を出し合って、文字通り「中央」を誇れる町にしてほしい。

◆葉山町ーJRに5分、地下鉄に4分
 青葉神社の北裏に位置し、旧荒巻街道やJR仙山線にほど近い通町・通町北裏・穴田下堤・中才
のそれぞれ一部と穴田・南間田下の旧集落を合体し、葉山町とした。南には青葉神社や東昌寺等の鬱蒼とした森、北は梅田川を隔てて全山の青松を背景とする住宅地帯を望む景勝の地。しかもJR北仙台駅に5分、地下鉄駅に4分、バス停には2分と交通至便の地である。
 葉山御用邸、葉山温泉等、好印象があり、語調もいいので、この新町名は人々に歓迎された。交通至便、しかも小川が流れる静かな環境も好感され、日毎に人口を増やしてきた。この地域内には早くから老人ホームの長生園・楽生園が設置され、高齢者介護の実績を積み重ねてきた。

◆堤(おだずま注、ママ)2丁目一堤人形は足軽の内職
 JR仙山線・北仙台駅の西側踏切に立ち、「陸羽街道踏切」という掲示板を眺めつつ、北に一歩踏み出すと、すぐダラダラ坂である。ここは往年「焼物の町」として賑わった堤町の入り口である。
 江戸時代初期、この地を城北の要衝とみなし、梅田川を堰止めた穴田池の堤を陸街道に充て、街道筋に足軽屋敷を配した。堤の北の鹿島崎には日浄寺、正眼院、浄眼寺の三寺を置いた。この一帯
は景色も良く、街道の往来もあって、活気があった。
 町名の堤町は、「土手八丁」の別名もある堤に由来する。堤(ママ)2丁目は、通町北裏の全部と堤町、
荒巻字穴田東、三本松、山田のそれぞれ一部を合わせたものである。
 この街は、良質の陶士に恵まれ、足軽たちの内職として制作された堤焼によって知られ、冬季の作業として堤焼人形も制作され、特産品となった。

◆菊田町ーー狐沢も姿を消す
 今の仙山線北山駅の西方一帯は、江戸期から菊田山と呼ばれる丘陵地で、梅田川の水源地帯でもあった。昭和に入ってからも、夜間、狐が行列して鳴いて歩く姿を、しばしば見たとは、近くに住む古老の話である。
 字名は江戸期以来一貫して、菊田・菊田山・狐沢の三つであった。ここに開発の手が入ったのは、昭和47年以降で、仙山線ガード近く2ヘクタールほどが千代田苑という名称で造成・販売された。住所は、それぞれ旧字名のままであった。同62年7月に至り、荒巻では一番遅れて住居表示の整備が行われ、三つの小字が統合されて菊田町となった。
 梅田川の源流といえば、中山のウドウ沼の湧水は水門をオーバーフローして流れ落ち、また国
見ヶ丘の臨済沼・弁財天堂裏の湧水は東北福祉大キャンパス内の調整池を経て急勾配で梅田川に注ぐ。梅田川は2つの水源に恵まれている。

【以下、荒巻圏の団地開発】
◆開発適地の評価、公的開発が先行
 藩政初期、仙台城下町の建設に際し、北山丘陵以北に押し込められ、続く明治・大正の都市計画
では、「山岳丘陵ヲ控エ発展ノ余地ナシ」と無視された荒巻である。一転、戦後の住宅難で、北方丘陵地が注目され、特に荒巻地区は評価が高かった。開発適地が広く、高度も程々、地質上の難点もなかったからである。今、その範囲を旧国道4号線(現県道泉仙台線)以西、北山丘陵以北、県道仙台北環状線以南と限定し、これを荒巻圏と見立てて、住宅団地開発の足どりを整理する時、怒濤のように激動した日々が思い起こされる。
 戦後いち早く出現したのは「荒巻県営住宅」で、昭和23年、南間田中(みなみまたなか、仙山線北側の緩斜面)に建坪35m2の可憐な住宅群が500戸建設された。共用井戸、道路は農道跡で雨天にはぬかるみ、劣悪な環境であった。続いて24年以降、手戸に「市営住宅」が70戸出現、31年には仙台市が神明町の農道に沿って、水田を宅地に転換し分譲した。ぬかるみがひどく、梅田川の氾濫で床上浸水にも見舞われた。31年以降、県住宅協会による「北山団地」が56戸、堤町でも24区画が分譲された。いずれも公的開発であった。

◆民間開発の第1号は常盤団地
 民間業者による開発第1号は、同35年、常盤常男氏等の海外引揚者共済組合によって造成された「常盤団地」である。旧国道4号線の西側の山に、その稜線とほぼ平行の道路を通じ、階段状に人家を列ねた。今は鷺ヶ森2丁目の東部をなしている。翌36年、その北方に、双葉建設(のちの双葉総合開発)による「双葉ヶ丘団地」が山の斜面そのままに造成・分譲された。今の双葉ケ丘1丁目である。
 常盤団地は南に延びて、堤町西北の三本松に続<山地となり、その南に大山神社に連なる「大山団地」が小規模ながら整然と造成、38年、旧国道に面した東北斜面は、東一不動産の「東藤松団地」として開発された。41年、その西側に造成された勝山企業の「第一勝山団地」は、東斜面をコンクリートの大擁壁で覆った。49年、双葉ケ丘の創建者である双葉総合開発が、丸田山の斜面を削って「双葉グリーンハイツ」とし、現在の双葉2丁目を生んだ。その後、この高台がテレビ電波の送受信に好適であるため、東日本放送が着目、町内に小学校用地として残されていた遊休地を買い取り、社屋建設・移転を遂げた。

◆古海道沿いに宅造ラッシュ
 旧国道の西側の発展に遅れをとることなく、古海道(旧秀衡街道)方面にも、団地造成の波は押し寄せた。昭和35年、共済組合による「市職員共済団地」、その東南、今の水の森2丁目に仙台土地開発の「平和台」が造成された。さらに36年、平和台の東、今の水の森1丁目(当時は古海道東
副(ひがしそい))にセルコホームにより「ひばりヶ丘」が出現した。39年には、平和台に隣接して、共済組合による「国鉄荒巻団地」「警友団地」も加わった。
(写真:造成中の共済団地)
 当時これらの団地は、北に走るカケス沢の上流にあり、ひばりヶ丘との間は山地で隔たっていたが、41年、その東斜面に横山商事の「幸福(さち)ヶ丘」が生まれた。続いて43年、勝山企業がカケス沢両側の山を削り、谷を埋めて「第二勝山団地」を開いた。古海道を隔てて西隣にあった三木ゴルフ場は84年(おだずま注、ママ)、旧泉市西部に転出し、その跡に大和団地(株)の「荒巻ネオポリス」が造成された。またひばりヶ丘の南側に、横山氏の所有する山林を崩して、第一開発が「北仙台グリーンプラザ」(現在あけぼの町)とし、その西には「希望ケ丘」が生まれた。まさしく宅造ラッシュであった。

◆本沢の地主たちが協力した中山開発
 昭和37年、東一不動産によって、今の荒巻本沢3丁目に属する山腹で、「川平東一団地」が開かれたが、軌道に乗らなかった。39年、双葉総合開発が、中山丘陵に乗り込んできた。「太陽の丘・中山ニュータウン」と名づけ、月急・滝道・鳶巣の三山を崩して、谷を埋める総面積142ヘクタールの大規模開発で、二十人山、六人山などの名で山林を所有する荒巻本沢の地主たちも、最初は渋っていたが、たっての要請に折れ、協力に転じた。
 団地の中央を南北に12m幅の幹線道路を通し、電力研究所、国家公務員宿舎、尚絅短大、有名企業の社宅などを誘致した。41年9月の台風で、工事現場からの土石流が鳥滝不動尊を直撃、大惨事となった。完成まで約10年を要し、開発は成功したが、ほとんど同時に開発を進めた桜ケ丘とともに、朝夕の荒巻神明町の交通量に大きな負荷をかける等、思わぬ波紋をもたらした。
 これより先、昭和38年、第一物産が滝道で「泉ヶ丘団地」の造成に着手、事業半ばで倒産した。しかも道路分を第三者に売却していたため、入居者たちが舗装・下水管の埋設に支障をきたし、その第三者と10数年にわたり交渉、最後は裁判に付し、一件落着という苦渋を味わった。また、滝道の北の細長い谷底は、46年、阿部勝治氏により開発、電話局分局、泉ヶ丘幼稚園が設置された。今の川平1丁目で、中山学区に所属している。中山開発に先立つ38年、中山2丁目南部で、永和商事(社長は台湾出身の方氏)による「荒巻永和台」、同時に貝ヶ森で恵通商事による「恵通苑」の造成が進められた。梅田川を隔てた菊田山側で、信三実業が「千代田苑」を開いたのは47年であった。

◆挫折団地を生かした桜ケ丘、しんがり川平
 川平沢を隔て、中山丘陵と向き合う丘の上に、昭和40年、丸春商会の「春日団地」が造成され、NHKの運動場の円形レストハウスが人目を引いた。同年、その後背に東北建設機動が進出、「桜ケ丘団地」の大部分の造成に着手した。46年には、ノースエンタープライズ社による「荒巻公苑団地」が開かれ、今の桜ケ丘3、4丁目をなした。先に東一不動産が放棄した桜ケ丘7丁目西半が、47年、東急不動産により「青葉台」の名で再造成され、その東北には、宮城学院女子大の広大な敷地が残された。
 桜ヶ丘の入口に当たる丘の上に、前地権者の阿部勝治氏が築いた天守閣式「望岳荘」が話題を呼び、一方、桜ヶ丘に通ずる荒巻本沢2丁目の道路沿いに、スーパーマーケットを伴う高層マンション「荒巻ハイネス」(セントラルプラザ)が出現、地域商店街に衝撃を与えた。かってはホトトギスが鳴く静かな山村であった荒巻に、戦後わずか10数年で近代化の黒船が進入するとは、想定外の事態であろう。
(写真:菊田町西の高台から造成中の貝ヶ森を臨む、昭和52年5月)
 中山丘陵の北側頂上部に、かって明治不動産が放棄した「行楽園団地」は、45年、渡辺土建・東北不動産センターのジョイントで再造成され、川平2丁目の名が与えられた。この町内に、市中心部から転入してきた明成高校が開校した。行楽園の後背山地では、46年、勝山企業が「第三勝山団地」を造成した。今の西勝山である。
 川平の開発は遅れた。荒巻土地整理組合が昭和51年、中山丘陵の北斜面、丸田沢以南の山腹を含めて、「荒巻宝団地」の名で開発、施工業者は間組・熊谷組であった。これが現在の川平3~5丁目である。これには、かつて東一不動産が階段状に削ったまま放棄した大平(おおだいら)西団地も含まれる。

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古海道東の公園たち(荒巻地区) (2025年12月07日)
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中山道のむかし (09年3月23日)(根白石街道)
セントラル自動車が奥州街道を復活 (09年2月13日)

■関連する過去の記事(仙台の団地造成史)
仙台の団地名を考える(荒巻方面) (2012年5月27日)
昭和30-50年 仙台の団地造成の概要(その2) (2012年5月22日)
昭和30-50年 仙台の団地造成の概要(その1) (2012年5月22日)
仙台の団地名を考える(再び) (2012年5月20日)
仙台の「団地名」を考える(後編) (2011年12月11日)
仙台の「団地名」を考える(前編) (2011年12月11日)
仙台圏の宅地開発史を考える (2011年1月5日)





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最終更新日  2025.12.14 22:26:38
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Re:荒巻地区の新町名と宅地開発史(12/14)  
荒巻昭和人 さん
団地名なつかしいですね。広告に使われて耳になじんだ昭和の時代がありました。開発者や分譲業者の名称だったり、旧字名だったり、何かの愛称とかさまざまでした。今でも町内会の名称に残っていたりします。バス停の名前にもありましたが、だいぶ消えたかも知れません。

後続記事を楽しみにしております。 (2025.12.25 08:55:27)

Re[1]:荒巻地区の新町名と宅地開発史(12/14)  
荒巻昭和人さんへ

コメントありがとうございます。団地名の探訪は、一世代二世代前の先輩方が、開発する側もマイホームを求めた側も、懸命にわが町の地域づくりを行ってきた、その昭和の歴史です。大げさなことを言いましたが、地名好きと歴史好きの自分にとっては、楽しさも感じています。 (2025.12.26 08:11:39)

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荒巻昭和人@ Re:荒巻地区の新町名と宅地開発史(12/14) 団地名なつかしいですね。広告に使われて…

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