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地すべり、宅地被害、活断層などに関する基礎知識の整理。下記文献から。■釜井俊孝『宅地の防災学:都市と斜面の近現代』京都大学学術出版会(学術選書090)、2020年■関連する過去の記事 宅地災害フロンティアの東北(2024年05月28日)=上掲書に基づく記事1 土砂災害・地すべり、土石流、崖崩れ、のこと・(おだずま記載:土砂災害防止法第2条の定義)「土砂災害」とは、(1)急傾斜地の崩壊(傾斜度30度以上の土地が崩壊する自然現象)(2)土石流(山腹が崩壊して生じた土石等又は渓流の土石等が水と一体となって流下する自然現象)若しくは(3)地滑り(土地の一部が地下水等に起因して滑る自然現象又はこれに伴って移動する自然現象)(→(1)(2)(3)を「急傾斜地の崩壊等」と総称)又は(4)河道閉塞による湛たん水(土石等が河道を閉塞したことによって水がたまる自然現象)を発生原因として国民の生命又は身体に生ずる被害をいう・日本では、崖崩れが多い(地すべり、土石流の合計より多い)2 崖崩れ・崖(急斜面)が浅く崩れる現象。自然斜面のほか人工的に作られた(切土盛土)斜面を含む。・地質との結びつきは、地すべりほど強くない・各県が把握する急傾斜地崩壊危険個所がひとつの指標。約33万カ所(平成15年)・県別は広島県が圧倒的に多く、山口、大分、島根、兵庫と続く・西日本に多いのは、地質(素因)と降雨(誘因)によると考えられる・地質は、中国地方と兵庫には花崗岩がひろく分布。風化して真砂(マサ)となる。家の裏手に砂の崖ができるのが一般的。雨が浸水して容易に崩壊・また、大分県には火山岩・火山噴出物が広く分布し、割れ目や脆い岩石の崖が多い・南九州には、シラス(姶良カルデラ噴出の火砕流堆積物)やボラ(降下した火山灰)。シラスは真砂(マサ)によく似るが、斜面上のボラがシラスの上を滑るタイプの崖崩れ(ボラすべり)も・さらに最近の異常な集中豪雨が多数の崖崩れの主因に3 地すべりと地質・地すべりは、専門家によって微妙に定義が異なるが、日本では、重力によって斜面が比較的ゆっくり塊となって滑る現象(マスムーブメント)とするコンセンサス・特定地域に発生する傾向。地質(岩石の種類や地質構造)と深い関係があることがわかっている・小出博の三分類=(1)第三紀層地すべり 新潟・北陸等 (2)破砕帯地すべり 中央構造線・御荷鉾帯・三波川帯 (3)温泉地すべり 火山地帯・この分類の長所は、山地斜面で粘土が形成されやすい条件を端的に表現していること・一方、地すべりは発生後に傷跡を残す(地すべり地形)4 浅層崩壊と深層崩壊・自然状態の斜面は、土壌直下の地山は強く風化しているため、強度的には土壌と同様に見えることが多い(強風化部と呼ぶ)・大雨や地震で強風化部の下底をすべり面にして崩落することが多く、浅層崩壊とよぶ。通常2m以下。また、「崩壊の免疫性」がある(崩れるべきものが一度落ちると、しばらく発生しない)・深層崩壊は、もともとは2010年頃に国交省と砂防学会が行政的に使いだした用語。以前「山崩れ」「大規模崩壊」「山腹崩壊」「崩壊性地すべり」と呼んでいたもの・現在のコンセンサスは、すべり面が強風化層(ママ。おだずま注:強風化部と同義か)より深く地山を巻き込んだ崩壊の総称・深層崩壊は、素因(地山の弱層、割れ目、地下水が貯まりやすいなど)と誘因(浅層崩壊に比べてより強い豪雨や地震動が必要)による。したがって、浅層崩壊より稀だが、崩壊土砂量が多いので土砂ダムを造ったり土石流が大規模化する・他方で、深層崩壊に至る準備期間で、斜面のたわみ、頂上の尾根筋の凹みなど不安定化のサインとなる微地形(重力性斜面変形)が多数報告される5 土砂災害関連の法律・主に下記4つで、それぞれの時代の災害と人間の関係を反映(1)砂防法(明治30)=はげ山の土砂流出が問題(2)地すべり等防止法(昭和33)=昭和32年集中豪雨で熊本、長崎、新潟の地すべり災害が契機(3)急傾斜地法(昭和44)=郊外ニュータウンの崖崩れ、また、昭和42年集中豪雨で神戸、呉、長崎等で多くの崖崩れ・(1)(2)(3)を土砂三法とよび、公共事業として施設を作るための法律・(4)土砂災害防止法(平成13)=都市計画が事実上失敗したことを受けて、リスク調査と居住規制を含む法律。ハードからソフトへの流れ6 宅地と法律・宅地造成等規制法(昭和57)は、昭和36年集中豪雨で神奈川県、兵庫県の宅地造成地で多発した崖崩れに対処するもの・しかし、(豪雨災害のみならず)1995年兵庫県南部地震以降、地震活発期にはいり、想定していなかった宅地の谷埋め盛土の地すべりが地震で多発した・そこで、2006年(平成18、宅地耐震化元年)、谷埋め盛土地すべり災害の軽減を目的とした規制と対策を柱に、宅造法の改正が行われ、同時に宅地盛土の耐震化推進事業の創設と耐震化対象の減税措置も導入された・しかし、これは、盛土宅地に住む住民の自己責任を公共が半分助けるという基本精神である・では、住民に土地を売った者の責任はどうなるのか。そのため、1999年(平成11)住宅の品質確保等の促進に関する法律(品確法)が制定。瑕疵担保を10年の長期に設定(特例で20年)・だが、地盤の不具合が明らかになるのは相当の年数経過後で、10年なら運がいい方だ7 活断層・地殻には多くの割れ目があり、通常は固着するが、力が加わると固着が取れる(破壊する)。このずれた割れ目が断層で、ずれの向きで正断層、逆断層、(右左)横ずれ断層に分類される・地下深部で地震を発生させたのを震源断層、地表までずれが到達したものを地表地震断層とよぶ・断層のうち、過去数十万年以内に繰り返し活動しているものが活断層・活断層は、一定間隔で繰り返し活動し、原則として同じ向きにずれる・これは、活動のエンジンであるプレート運動の向きや速さが過去数十万年単位ではほとんど変わらないから・ずれの平均的な速さは断層ごとに異なり、断層の活動度の指標とされる・活断層による地表の食い違い(変位)が繰り返され、変位の累積が記録されると、さまざまな断層変位地形となる。これら地形を手掛かりに調査した結果、現在日本では2000以上もの活断層が見つかっている・しかし、変位地形が浸食・堆積作用で不明瞭となる場合もあり、地下に隠れている活断層も沢山あると考えられる8 土石流のしくみ・土石流は、斜面や河床の土砂が水と混合して流動し、谷に沿って流下する現象・巨大な岩や流木を含み、打撃力が大きく深刻な災害を起こす・沢筋の土砂を削るため流れが黒く濁る。そのため「蛇抜け」とも呼ばれる・土砂割合が高く密度が高いことから、慣性力が強く作用し直進性が顕著でなかなか停止しない。「鉄砲水」とも・発生形態から、土石流には3つの原因(1)渓流に堆積している砂礫が大雨で流動化(2)斜面崩壊や地すべりの崩壊土砂が、地下水や表面水により流動化(3)河道閉塞を起こした天然ダムが、水位上昇で決壊し土砂とともに流下・このうち(1)(2)が同時に起こることも。始まりは小規模な浅層崩壊でも、渓床の堆積物を取り込んで推進力と体積を増やし成長する・土石流防止方法の代表は、コンクリート製砂防ダムだが、高コスト。そこで、土石流の底面から水だけを抜き土砂を止める対策工法(底面水抜きスクリーン)も考案されている・しかし最も効果的な対策は、土石流の通り道である扇状地(土石流堆)に住むリスクを理解することだ
2024.05.28
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人口戦略会議の「自治体持続可能性レポート」が反響を呼んでいる。そこで、当ジャーナルで対策の考え方を整理してみた(情報源は主に下記、敬称略)。・人口戦略会議『人口ビジョン2100:安定的で、成長力のある「8000万人国家」へ』2024年1月・人口戦略シンポジウム(4月24日)における資料や発言など■今回のシリーズ・自治体持続可能性分析レポート(人口戦略会議)を考える(その1)全体(2024年04月26日)・自治体持続可能性分析レポート(人口戦略会議)を考える(その2)自治体ごとの結果(2024年04月26日)・今回 自治体持続可能性レポートと少子化対策・地域づくりを考える(2024年04月27日)■関連する過去の記事(令和5年人口推計(全国、地域別)についてのシリーズ)・地域別人口推計を考える(その1)(2024年01月31日)=地域別推計結果の概要・地域別人口推計を考える(その2)東北の市区町村(2024年02月14日)=個別の市区町村の結果・地域別人口推計を考える(その3)(2024年02月15日)=将来推計人口について・地域別人口推計を考える(その4)移動仮定と封鎖人口(2024年04月25日)1 問題の理解(1)比喩 高齢化は漕ぎ手がオールを置いて一般乗船客になる問題。少子化はボートの中の人間がどんどん減る問題(白川方明)。(2)3つの基本的課題(人口ビジョン2100)・国民の意識の共有(人口減少のスピード、超高齢化と地方消滅)・若者、特に女性の最重視(希望を持てる環境づくり、子供を持つリスクや負担の解消) ←未婚女性の非婚就業予想が急増、非正規社員は正社員より意欲低い、女性就労のL字カーブ(30歳以降非正規)etc・世代間の継承・連帯と「共同養育社会」(3)未婚女性と「非婚就業」予定の増加(永瀬伸子)・出生動向基本調査では、34歳以下未婚女性の希望ライフコースは、非婚就業コース(結婚・出産せずに仕事)が増加(12.2%←前回5.8%)、予想ライフコースは、非婚就業コースが3分の1に増加(33.3←21.0)。・下がった予想ライフコースは、再就職コース(子育て後に再就職)(22.7←31.9)と専業主婦コース(3.5←7.5)。いずれも希望コースでも低下している・非婚就業コースが上昇したのは、子供を持つと収入を失う、自由時間が無くなる、離婚リスクで女性が貧困に陥るから、簡単に子を持てない。また、結局女性が子育て責任をとらねばならない、教育費も不安などの声が聞かれている。このため、家事ケアのための無職の恐れがない未婚女性が増えているのだ。・なぜか。若年者の子育て不安を解消する政策がとられていない。(a)非正規が拡大したが、非正規の訓練機会や賃金格差縮小などの強い雇用ルールがない、(b)出産後3年で仕事に戻るなど、欧州で行われている雇用ルールを、(c)大学奨学金の軽減方策がない、(d)離婚の際に父親の養育費支払いが義務化されていない、(e)男性育児分担を奨励する政策がない、など。・非正規は有配偶女性ばかりでなく、若年男女や中高年シングルにも拡大。年収のカベ問題。・母親の多くが就くパートを改革する変化が最も重要。・不妊治療時期(40歳前後がピーク)を早められないか2 危機感が共有されない5つの理由と問題(白川)(1)明治の初めに戻るだけ →それで静止する展望がない(2)個人の価値観に立ち入る懸念? →社会全体(働き手、年金etc)の問題だ(3)経済的豊かさ求める時代終わった(文明論)→生活インフラや精神的豊かさの余裕なくなる(4)イノベーションや生産性向上で解決 →現実に見合う向上は限界(5)受け入れるしかないor手遅れ(諦観論)→深刻な帰結を認識しあらゆる手立て講じたか3 重要な3つの視点(白川)・国民間の対立図式(高齢者vs現役、子供いる人vsいない人etc)で論じないこと・政府の仕事と考えないこと。子育てに優しくない各種社会慣行の是正を(ゼロサムのように思われているが、社会的慣行の是正でプラスサムに転じる)・安定的な財源の必要4 政治の取り組み方・国家ビジョンを議論する場がない(人口ビジョン2100)・政治の本気度の問題・国会は政府との論戦なので同じ方向の議論しにくい・地方への投資を大胆にすべき(東京の議員が止めないこと、木原誠二)・1953年人口問題審議会設け、1997年報告書採択。審議会は2000年見直しで廃止。その間、子供は2人までとの抑制策さえあった(公団住宅サイズが関係との指摘、大島敦)。1.57ショックでも本気にならず(宮本太郎)・優等生スウェーデンも1930年代は保守派(女性は家庭に)とリベラルの対立で進まず。ミュルダールの貢献もありラウンドテーブルに。5 政治が取り組む際の2つの重要な視点(宮本)(1)合意と掘り下げ。2014レポートで地方に30万人の雇用と謳ったのになぜ実現できなかったのか。(2)若い世代の不安や怖れによりそう(←大学あげてやれるか、良い子育てできるかetc)6 取り組むべきこと=2つの人口戦略(人口ビジョン2100) 定常化戦略と強靭化戦略で、未来選択社会の実現を(1)定常化戦略・人口定常化には、人口置換水準TFR2.07の継続が条件・将来推計人口は、3ケース(高位・中位・低位)とも定常化せず、高齢化率高止まり・(独自試算により)めざすべきは、2060年にTFR2.07達成、2100年総人口8000万人のケース ←2040年頃TFR1.6,2050年頃1.8程度に上げる。 =高齢化率は、2054年ピーク36%のあと、30%に低下(2)強靭化戦略・人口が定常化しても効果発現に数十年。またその規模は小さくなる。このため、社会経済システムの質的な強靭化と多様性に富んだ成長力ある社会をめざす・労働生産性の伸びは内閣府ベースラインを想定・定常化戦略により2050-2100年の平均成長率は0.9ポイント上昇・さらに、強靭化戦略(生産性向上)で2020年代以降1ポイント引き上げ・2つの戦略で成長率プラスを継続・一人当たりGDPは2101年に2.5倍程度(3)未来選択社会 未来として選択しうる望ましい社会の姿 =幸福度(例、一人あたり可処分所得)が世界最高水準、個人と社会の選択が両立、多様なライフスタイル、世代間の継承と連帯7 定常化戦略の論点(人口ビジョン2100)(1)若年世代の所得向上と雇用改善(最重要) 正規化、労働法制、年功序列カーブ、男女格差、中小企業対策(生産性向上と価格転嫁)、地方企業の魅力向上(2)共働き・共育ての実現 L字カーブ問題、育児給付制度、社会保険被扶養者問題、長時間労働、同調性意識排除(3)多様なライフサイクルが選択できる社会づくり ライフイベントの集中する20代30代(人生のラッシュアワー)で多様な選択を可能に。制度や社会規範の見直し。また、高齢者就労の促進(4)プレコンセプションケア 晩婚化晩産化のなか、若い男女の選択を支えるため、健康管理やライフプラン設計の意識を高める(5)安心な出産と子どもの健やかな成長の確保 妊娠、出産、育児の一貫した伴走型相談支援と経済的支援。地域全体で支える体制、正常分娩の保険適用、虐待対策、一人親(特に母子)家庭の支援(6)子育て支援の「総合的な制度」と財源 子ども一人当たり家族関係支出をスウェーデンなみに引き上げ。また、2030年代初頭までに予算倍増(加速化プラン)(7)住まい、通勤、教育費など(特に東京圏) 住宅費高騰と通勤長時間で若い男女の可処分所得が低水準。さらに教育費(塾も)→東京集中の是正は不可避8 強靭化戦略の論点(人口ビジョン2100)・戦略の本質は、生産性上昇率の更なる引き上げ・人への投資の強化。(1)人材育成のオープン化、(2)教育費用個人負担の軽減(公費支援)、(3)教育の質的向上、(4)企業等での能力資質向上、(5)子育て世代が子育てや学びに使える「可処分時間」の増加、(6)教育分野の規制改革と分権・ローカルインクルージョンとグローバルチャレンジ9 永定住外国人政策(人口ビジョン2100)・(移民の語はともかく)既に日本は労働移民(労働目的の永定住)は年間33万人、世界第5位・アジアからの人口移動は年間590万人。湾岸諸国、次いでOECD諸国(230万人)うち日本が48万人と最多。依然、日本への就労希望は強い・しかしながら、永定住外国人の総合的戦略はいまだ策定されず・人口定常化のための補充移民政策は(年間75万人入超が必要)、非現実的で、また社会の安定性にも危惧・永定住外国人政策の視点は、高度・専門的人材を基本とする。非高技能は、慎重に検討10 人口戦略の進め方(人口ビジョン2100)・EBPMの政策立案プロセス・内閣に推進本部を設置(司令塔)、また政策研究部門を設置・国会での超党派の合意形成(プログラム法)・民間(ESG項目としての認識)と地域の主導的取組。若年女性の東京集中の是正のための戦略会議11 欧州の出生動向(金子隆一)・2010年代以降、出生動向に新たな変動。大まかには二極化・これまで出生率高かった北欧や仏で一斉に低下(仏1.80 瑞1.53など)・一方、90年代の経済体制転換以降低迷した東欧で反騰(羅1.81 チェコ1.82など)・南欧諸国も低迷している・独は家族政策の充実。2016年1.6に飛躍的上昇するも、2020年急降下・フランスについて。年次TFRは1993年最低値1.66まで低下したが、世代TFRでは概ね2.0を下まわらず推移している(年次TFRはその年の各世代の出生行動の強さ。日本の丙午の例では、その年出産控えた(TFR1.58)が、結局生涯で2.0を下回った世代はなかった。世代TFRは50歳にならないと測定できないので、例えば30歳の世代の世代TFRは20年後でないとわからない。)・晩産化になる場合に、年次TFRにテンポ効果(先走って低下)が出る。フランスはこれであり、平均出生年齢の増減とテンポ効果の存在が一致する。生涯を通じては安定的に実質的出生力が保たれている・スウェーデンについて。年次TFRは変動幅が大きいが、フランス同様、テンポ効果を含んでおり世代TFRは安定的に観測されている。12 地域づくりとの関係(人口戦略シンポジウムでの発言)・住み続けられる地域であること、保育料無償化はインパクトあった、女性が(短大が消え)県外に出るのをどう戻ってもらうか(平井伸治)・寛容性ランキングで富山県43位。女性に選ばれない地域でなくすること(田中幹夫)13 社会減対策と自然減対策の関係(当ジャーナル整理)(1)自治体持続可能性レポート(4月24日)の示唆・前回記事 自治体持続可能性分析レポート(人口戦略会議)を考える(その2)自治体ごとの結果(2024年04月26日)・同レポートは移動仮定と封鎖人口の各将来推計を比較しながら、市区町村ごとに自然減対策と社会減対策の必要度を示唆する・両者の関係について。各自治体の対策は社会減対策に重点が置かれすぎているきらいがあるが、(東京圏への流出防止はともかく)若年人口の奪い合い(ゼロサムゲーム)は出生率向上に結び付かず日本全体の人口減少を変える効果がない(同上分析レポート)。(2)東北地域のデータと評価(当ジャーナル)・令和5年推計(地域別)で、封鎖人口推計を自然増減とし、「推計人口(移動仮定)-封鎖人口」を社会増減として、データを確認すると(若年女性人口ではなく全人口)、下記の通り■(図)当ジャーナル作成・人口推計では、(東北の場合)人口減に占める自然減のシェアが非常に高い。・人口減の主因は自然減。流出(社会減)を止めても人口減少は止まらない(小池司朗)・しかし、(社会減対策はたしかにゼロサムの側面は強いが)集中のデメリットを抱える東京圏からの移動促進は、国全体でもメリットになる(3)考え方・基本的には実効性ある自然減対策(出生率向上)を根気強く続けるべき・併せて、(特に地方レベルでは)社会減対策が即効性を持ち、また、地域づくりの総力を高めることに繋がる ← (例)移住者の視点による地域資源の見直し、高齢者の巻き込み・高度成長期は東京も出生率高かったが、「東京生まれ東京育ち」が増え一流の大学を出る(結婚こだわらない)価値観の定着化につながっているのでないか。いかに価値観を変えるか(小池)・地方のことが知られていない。情報発信が重要(小池)
2024.04.27
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■今回のシリーズ(予定含む。4月26日時点)・自治体持続可能性分析レポート(人口戦略会議)を考える(その1)全体(2024年04月26日)・今回 自治体持続可能性分析レポート(人口戦略会議)を考える(その2)自治体ごとの結果(2024年04月26日)・自治体持続可能性レポートと少子化対策・地域づくりを考える(2024年04月27日)前回は分析の考え方と全体の結果を記した。今回は東北を中心に個別の結果を記したい。1 結果の概要 移動仮定推計と封鎖仮定推計の比較をした今回分析では、両者をクロスさせて新たに9つの分類を設定した。・自立持続可能性自治体(A) 65 =移動仮定、封鎖人口ともに若年女性人口の減が小さい。減少率20%未満であれば、100年後も若年女性が5割近く残存する。・ブラックホール型自治体(B) 25 =移動仮定の減少率は小さい(50%未満)が封鎖人口の減少率が大きい(50%以上)。人口増を他地域からの流入に依存し、自らの出生率が小さい。・消滅可能性自治体(C) 744 =移動仮定の減少率が50%以上の自治体。前回と同様。・その他の自治体(D) 895 =A,B,C以外のもの。ほとんどで若年女性人口は減る。このうち東北の自治体を見ると、(D)消滅可能性自治体の割合が他ブロックに比べて最も高い。・(A)自立持続可能性 全国 65 → 東北 1・(B)ブラックホール 全国 25 → 東北 ゼロ・(C)消滅可能性 全国 744 → 東北 165(その割合4分の3は突出)・(D)その他 全国895 → 東北49他ブロックでは、北海道を除き(D)が半数以上だが、東北は4分の1しかない。(A)自立持続可能性は、東北は大衡村のみ(移動仮定の若年女性人口減少率15.2%である)。関東8、中部12,近畿7,中四国3,九州が34と多い(沖縄が顕著)。具体的には、関東だとつくばみらい市(+4.1%)、流山市(+2.4%)、八丈町(-19.5%)など。東京特別区の大半は、移動仮定の減少率はさほど大きくない(新宿区で-6.6%)が、封鎖人口での減少率が大きく(新宿区で-68.2%)、(B)ブラックホールに分類される。2 東北の自治体について(1)宮城県内(35自治体)・概要 (A)自立持続可能性が大衡村。(C)消滅可能性19、(D)その他15である。・自然減対策と社会減対策の視点を得るための「9分類」に当てはめると、下の表となる。封鎖人口減少率20未満同20-50未満同50以上移動仮定減少率20未満(A)自立持続可能性大衡村(D)-1名取市(B)-1同20-50未満(D)-2富谷市(D)-3仙台市、塩竈市、多賀城市、岩沼市、東松島市、大崎市、大河原町、柴田町、亘理町、山元町、利府町、大和町、美里町(B)-2同50以上=消滅可能性(C)-1(C)-2石巻市、気仙沼市、白石市、角田市、登米市、栗原市、蔵王町、七ケ宿町、村田町、丸森町、松島町、七ヶ浜町、大郷町、色麻町、加美町、涌谷町、女川町、南三陸町(C)-3川崎町 川崎町が(C)消滅可能性自治体の中でも、最も厳しい評価の区分となった。(C)は全国で744だが、そのうち(C)-3は全国で23しかない。東北でも、外ヶ浜町と川崎町だけ(他では、南牧村、銚子市、都留市など)。 また、(D)その他の中では、名取市と富谷市が分かれた。移動仮定の若年女性人口減が少ないが、封鎖人口でみると減少が大きい(→自然減対策が必要)区分(D)-1に名取市が該当し、移動仮定で減少は比較的多いが封鎖人口では実はあまり減らない(→社会減対策が必要)区分(D)-2に富谷市。他の13は、自然減も社会減も対策すべき区分(D)-3だ。 なお、(D)-1は全国で176あるが、東北では名取市のみである。(D)-2は全国に260あり、東北では12ある。消滅可能性に該当する自治体の前回からの動きは下記の通り。・前回消滅可能性から今回脱却 4 →大衡、塩竈、山元、美里・今回新たに該当 ナシ・前回も今回も該当で、若年女性人口減少率が改善 5 →気仙沼、角田、栗原、村田、松島・同上で、若年女性人口減少率が悪化 14 →石巻、白石、登米、蔵王、七ケ宿、川崎、丸森、七ヶ浜、大郷、色麻、加美、涌谷、女川、南三陸(2)青森県(40)・(C)消滅可能性が35、(D)その他5である。・(C)のうちでも厳しい(C)-3は、外ヶ浜町のみ。封鎖人口での減が比較的小さい(C)-1には、東北町、東通村、三戸町、田子町。他の30が(C)-2だ。 なお、(C)-1は全国で176あり、東北ではほかに、平泉町、岩泉町、田野畑村、野田村、最上町、真室川町、大蔵村、鮭川村、小国町、遊佐町、只見町、西会津町、矢祭町。秋田県と宮城県にない。・(D)のうち、(D)-1はなく、(D)-2に4町村、(D)-3は1のみ。(3)秋田県(25)・(C)消滅可能性が14、(D)その他は秋田市のみである。・(C)の14はすべて、(C)-2に区分される。(4)山形県(35)・(C)消滅可能性が28、(D)その他が7である。・(C)の28のうち、(C)-1区分が6あり、他は(C)-2だ。■関連する過去の記事(令和5年人口推計(全国、地域別)についてのシリーズ)・地域別人口推計を考える(その1)(2024年01月31日)=地域別推計結果の概要・地域別人口推計を考える(その2)東北の市区町村(2024年02月14日)=個別の市区町村の結果・地域別人口推計を考える(その3)(2024年02月15日)=将来推計人口について・地域別人口推計を考える(その4)移動仮定と封鎖人口(2024年04月25日)(上記その4は、人口戦略会議が4月24日に公表した自治体持続可能性分析レポートが封鎖人口推計と移動仮定推計を比較する手法を用いているため、その説明のために、地域別推計のしくみを整理したものです。)
2024.04.26
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人口戦略会議が4月24日に、令和6年・地方自治体「持続可能性」分析レポートを公表。2014年の増田レポート(消滅可能性都市)から10年が経ち、今回は昨年12月の地域別将来推計人口(令和5年推計)に基づいた分析である。以下にその概要とポイントを記す。■今回のシリーズ・今回 自治体持続可能性分析レポート(人口戦略会議)を考える(その1)全体(2024年04月26日)・自治体持続可能性分析レポート(人口戦略会議)を考える(その2)自治体ごとの結果(2024年04月26日)・自治体持続可能性レポートと少子化対策・地域づくりを考える(2024年04月27日)■北海道総合調査研究会サイトに、令和6年・地方自治体「持続可能性」分析レポート資料が収めされている。1 分析の考え方(1)基本的考え方 2014年分析を基本的に踏襲。すなわち、若年(20-39歳)女性人口が減少→出生数低下→総人口減少で地域消滅、と推測。2020年から2050年までの30年間で若年女性人口が50%以上減少する自治体を「消滅可能性自治体」とする。(2)封鎖人口仮定推計の活用 今回はこれに加えて、(社会減対策に重点が置かれすぎたきらいがあるがゼロサムゲームに過ぎず、)各自治体が(出生増で)人口減少を回避するための対策の視点も検討した。 このため、昨年12月公表の日本の地域別将来推計人口(令和5年推計)" >地域別将来推計人口における封鎖人口を仮定した推計を活用する。(封鎖人口仮定については、下記過去記事(その4)を参照ください。) すなわち、移動仮定の推計(推計結果の本論)と封鎖人口仮定(出生と死亡だけが人口変動要因)の推計とを比較して、封鎖人口の若年女性人口が急減する地域は、自然減対策(出生率向上)が重要な課題になる。逆に、移動仮定推計で(封鎖人口仮定での減少に比較して更に)急減する地域では社会減対策が重要となる。2 分析の結果・消滅可能性自治体 =移動仮定の若年女性人口の減少率が(2020→2050年)50%以上の自治体・今回の結果は、744自治体(※711)。・前回896であり、今回脱却したのが239自治体、新たに該当が99自治体(※67)。・前回も今回も消滅可能性該当は(おだずま注;896-239=657と思われる)のうち、若年女性人口減少率が改善したのが362で、悪化が283自治体(おだずま注;同数値が12か)。(※は前回対象としない福島県下自治体を除いた数値。なお、今回は浜通り13市町は一個として推計。)3 新たな分類の設定 移動仮定推計と封鎖仮定推計の比較をした今回分析では、両者をクロスさせて新たに9つの分類を設定した。・自立持続可能性自治体(A)65 =移動仮定、封鎖人口ともに若年女性人口の減が小さい。減少率20%未満であれば、100年後も若年女性が5割近く残存する。・ブラックホール型自治体(B)25 =移動仮定の減少率は小さい(50%未満)が封鎖人口の減少率が大きい(50%以上)。人口増を他地域からの流入に依存し、自らの出生率が小さい。・消滅可能性自治体(C)744 =移動仮定の減少率が50%以上の自治体。前回と同様。・その他の自治体(D)895 =A,B,C以外のもの。ほとんどで若年女性人口は減る。■関連する過去の記事(令和5年人口推計(全国、地域別)についてのシリーズ)・地域別人口推計を考える(その1)(2024年01月31日)=地域別推計結果の概要・地域別人口推計を考える(その2)東北の市区町村(2024年02月14日)=個別の市区町村の結果・地域別人口推計を考える(その3)(2024年02月15日)=将来推計人口について・地域別人口推計を考える(その4)移動仮定と封鎖人口(2024年04月25日)(上記その4は、人口戦略会議が4月24日に公表した自治体持続可能性分析レポートが封鎖人口推計と移動仮定推計を比較する手法を用いているため、その説明のために、地域別推計のしくみを整理したものです。)
2024.04.26
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昨年12月に公表された地域別人口推計(令和5年推計)について何度か書き記してきた。前回(その3)では全国推計のしくみを記したが、今回は地域別推計の方法についてポイントを記す。なぜならば、人口戦略会議が4月24日に公表した自治体持続可能性分析レポート(それについての記事は下記)が封鎖人口推計と移動仮定推計を比較する手法を用いているため、その前提として地域別推計のしくみを整理するもの。■令和5年人口推計(全国、地域別)についてのシリーズ・地域別人口推計を考える(その1)(2024年01月31日)=地域別推計結果の概要・地域別人口推計を考える(その2)東北の市区町村(2024年02月14日)=個別の市区町村の結果・地域別人口推計を考える(その3)(2024年02月15日)=将来推計人口について・今回 地域別人口推計を考える(その4)移動仮定と封鎖人口(2024年04月25日)■自治体持続可能性分析レポートについての記事・自治体持続可能性分析レポート(人口戦略会議)を考える(その1)全体(2024年04月26日)・自治体持続可能性分析レポート(人口戦略会議)を考える(その2)自治体ごとの結果(2024年04月26日)・自治体持続可能性レポートと少子化対策・地域づくりを考える(2024年04月27日)1 全国推計との関係 将来推計人口(全国値、令和5年推計、2023年4月公表)のしくみと評価は、前回(その3)記事のとおり。地域別推計は、この全国推計のうち、出生中位・死亡中位による男女・年齢別推計人口と一致する。2 地域別人口推計(令和5年推計、2023年12月公表)のしくみ・社人研サイト 日本の地域別将来推計人口(令和5年推計) 5歳以上はコーホート要因法により推計(ある年の男女・年齢別人口を基準として人口動態等の仮定値=生残率と移動率=をあてはめて推計)。0-4歳人口は、これに加えて出生率及び出生性比に関する仮定が必要。 以下、具体的に。(1)基準人口 令和2年(2020年)国勢調査による。(2)将来の生残率 全国推計から得られる全国の男女・年齢別生残率を利用。ただし、地域差については次のように対処。 まず、(a)55-59歳→60-64歳以下の年齢は、地域差は極めて小さいため都道府県別に将来の生残率を仮定した(日本版死亡データベースの都道府県別生命表を用いて都道府県別に男女・年齢別生残率を計算し、次いで全国に対する相対的較差(比)を計算し、2045-2050年の全国値との相対的較差が、2015-2020年における相対的較差の2分の1になるよう直線的に減少させた)。 (b)60-64歳→65-69歳以上については、同じ都道府県内の市区町村間でも生残率の差が大きいため、都道府県と含まれる市区町村の較差を利用して生残率の仮定値を設定した(厚生労働省の市区町村別生命表から市区町村別に男女・年齢別生残率を計算し、次いで日本版死亡データベースを用いて所属する都道府県の男女・年齢別生残率を計算。これら生残率の相対的較差を2045-2050年の期間まで一定と仮定して、(a)と同方法で設定した都道府県別の生残率を用いて市区町村別の生残率を設定)。 ただし、2020年以降の死亡状況と地域差が大きく変化したため、2020-2025年の生残率については、人口動態統計個票データを二次利用して得た死亡数を反映して、2020年から2022年までの死亡の地域差を設定した。(3)将来の移動率 将来の人口移動は、転出数と転入数に分けて推計。(a)転出数は、地域別人口に占める域外への転出数の割合=転出率=を仮定し、(b)転入数は全地域の転入数(全国推計による人口から各地域に生残する人口の合計値を引いた値)に占める地域別の転入数のシェア=配分率=を仮定して推計。転出率と配分率を総称して移動率という。 地域別にみた男女・年齢別移動傾向は一時的要因で大きく変化する。そこで、(a)男女・年齢別転出率は、2005-2010年、2010-2015年、2015-2020年の3期間の地域ごとの平均値を、2045-2050年まで一定として仮定値を設定。(b)配分率は、上記3期間の平均値をベースに、対象地域の人口規模の変化や転入元地域の人口分布変化を考慮して、2045-2050年までの仮定値を設定。 なお、上記3期間の移動率が大きく変動した地域は、突発的変化の期間を除外して算出するなどした。また、新型コロナの影響については、2020-2025年に限定して国勢調査以降の変化を加味。(4)将来の子ども女性比 0-4歳人口の20-44歳人口に対する比である。市区町村別の子ども女性比の全国の同指標に対する相対的較差を用いて仮定値を設定する。具体的には、2005年、2010年、2015年、2020年の4時点における市区町村別の相対的較差(比)を算出し、原則としてその趨勢を直線的に延長して2025年の市区町村別の較差を設定し、その後2050年までは一定と仮定した。これを、全国推計による2025-2050年の男女・5歳階級別人口による将来の子ども女性比に乗じて得た市区町村別の子ども女性比を仮定値とした。 ただし、4時点の相対的較差の変化が直線的かどうかを市区町村ごとに検討し、直線的推移の場合はその趨勢を2025年まで延長し、そうでない場合は直近の地域差の動向を投影した。具体的には下記。・1時点の較差のみが極端な値の場合は、当該時点を除外して直線的趨勢を延長・2010-2020年の較差が明瞭に低下した場合は、当該3時点又は直近2時点の較差の趨勢を投影・2015年、2020年の2時点の較差がほとんど変化ない場合は、2020年の較差が2025年まで継続するとして将来に投影(5)将来の0-4歳性比 全国推計による2025年以降各年次の施肥を一律に適用。3 封鎖人口推計について 地域別推計では、参考として、「封鎖人口を仮定した」男女・年齢階級別推計が示されている。これは、地域間の人口移動をゼロとした(出生と死亡の要因のみによる)推計である。 なお、この各地域の合計値は、全国推計で示されている「条件付き推計」の一環としての封鎖人口推計(出生中位・死亡中位)と一致する。全国推計の場合の封鎖人口推計は、国際移動だけをゼロにしたものになるが、地域別推計における封鎖人口推計は、国内の地域間の移動(各地域の移動を足し合わせると全体でゼロになる)もないと仮定した推計である。 ちなみに、封鎖人口を仮定した推計はどのように相違するか。・宮城県の場合(県単位) 移動を仮定した地域別推計では、 (2020年)2,301,996人→(2050年)1,829,565人 指数(2020年対比)79.5 封鎖人口仮定では、 (2020年)2,301,996人→(2050年)1,792,773人 指数(2020年対比)77.9・丸森町 移動を仮定した地域別推計 12,262 → 4,974 指数40.6 封鎖人口仮定 12,262 → 6,995 指数57.0・秋田県(県単位) 移動を仮定した地域別推計 959,502 → 560,429 指数58.4 封鎖人口仮定 959,502 → 613,338 指数63.9・東京都(都単位) 移動を仮定した地域別推計 14,047,594 → 14,399,144 指数102.5 封鎖人口仮定 14,047,594 → 11,541,143 指数82.2東京は、地域間移動がなければ将来人口が減ることになる。秋田は、いずれにしても人口は減るが、地域間移動がなければ減りは少ない。丸森町も同様だが、宮城県全体では移動を仮定した方が人口減は緩和されている。
2024.04.25
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またまた、議員報酬とは何かを考えさせられる報道が、あった。以下に要約して引用。------------●(2月22日朝日新聞県内版)岩沼市議会が、出席停止議員の報酬を停止日数に応じ減額する規定の廃止を決定した。21日の議会運営委員会で、条例改正案の提出が了承され、22日の本会議で可決される見通し。そもそも岩沼市議会では、議員の言動に対する懲戒処分が繰り返されて問題となっていたが、出席停止の場合の報酬減額は2012年に決められた。こうした規定は全国でも少数だという。2023年仙台地裁が、出席停止処分を裁量権の逸脱として違法と認定。議員報酬の減額分の支払いを市に命じる判決を相次いで下し、確定。今回の条例改正は地裁判決を受けた動きとみられる。●(2月23日河北新報県内版)岩沼市議会は22日、出席停止の懲罰を受けた市議の報酬を減額する規定をとりやめる条例案を、全会一致で可決。昨年の3月と5月に、少数会派の市議に科した出席停止の懲戒処分を裁量権の乱用として取消などを命じた2つの仙台地裁判決が確定。2012年12月に設けられた報酬減額規定にも出席停止が対象となっており、昨年12月の市議会改選後、議員が見直しに動いていた。酒井信幸議長「裁判を踏まえて時代にそぐわないと判断した」。(ここまで新聞記事の要約)------------経緯を簡単に整理する。2016年9月に大友健市議が、市議会での発言が品位を欠くとして、23日間の出席停止処分を受ける。市議は処分取り消しと報酬支払いを求めて仙台地裁に提訴。地方議会の出席停止処分が審査対象となるかが争点だったが、2018年1月地裁は訴え却下。2審は審査対象と認め、市側が上告。最高裁は2020年大法廷で60年ぶりに判例を変更し、審査対象となるとして審理を差し戻した。そして、2023年3月仙台地裁は処分取り消しと議員報酬支払いを命じる判決(確定)。大友さんは、2023年12月24日の市議選で再選されている(得票数3位)。むかし憲法で学んだ「司法権の限界」論では、(議会の)自律権や部分社会の法理として、議会(や団体)の自立性を尊重し裁判所は立ち入らないのが基本だ。地方議会は、民主主義に立脚して多数派少数派のダイナミックな渡り合いがあるのはむしろ当然で、政治に司法が介入するべきでないという実質論的な事情もある。しかし、その社会の構成員から除外する処分(議員懲罰なら除名)はさすがに司法も判断するべきだ、ということだったと思う。60年ぶりに判例を変更したという。最高裁の判断の内容をちゃんと勉強すべきだろうが、割愛。そして、こうした問題の本論とはちょっと離れるのだが、議員報酬について考えた。判決に従って岩沼市議会としては出席停止処分自体を取り消して議員報酬も支払ったのだろうから、その点では条例が支障にはならないのだが、条例改正の問題は、「出席停止処分中の議員に報酬を支払わないことの是非」に直結した別の議論だ。朝日は、こうした条例は全国でも少数という。ここで、改正前の岩沼市の条例では、出席停止中の議員報酬を減額するというので、その内容を見ると、以下のようだ(下線は当ジャーナル)。------------議会議員の議員報酬、費用弁償及び期末手当に関する条例(抜粋) (議員報酬、期末手当の減額)第6条 (略)3 議会活動ができない事由が公務災害による療養のとき、又は議長が特に認めたときは、第1項の規定にかかわらず議員報酬の月額の全額を支給する。(略)第6条の2 第2条の規定にかかわらず、地方自治法第135条第1項第3号に規定する一定期間の出席停止の懲罰を受けた議員に係る議員報酬を減額するものとし、減額する額は、第3条第3項の規定〔おだずま注:日割り計算〕を準用する。2 前項の規定により返納金が生じた場合には、第3条第4項の規定を準用する。(平24条例30・追加)------------一般職の公務員なら、懲戒処分で停職ならその間無給になる。制裁として賃金を与えないことが主旨だ、また、減給処分より重いのだから当然とも説明できるし、ノーワークノーペイ原則にもかなう。では、議会議員はどう考えるべきだろうか。労働者としての大切な生活給を制限される一般職とのバランスから、政治的地位にある議員は不支給が当然だ、との論法があろう。他方で、多数派が少数派をつぶそうとするなどまさに政治の世界であって(多数派が議案通すために少数派を出席停止させる事例←司法が介入してくれるようになったから考慮しなくていいとの反論もあるか)、懲罰を受けるのもいわば議員の仕事で、他方で議会の外での政治活動継続も役割として期待されているのだから報酬支払うべき、という民主主義機能面からの論陣も成り立ちそうだ。問題を定式化し、「(出席停止処分などの)議員活動が制限された場合の議員報酬の支払」について、まず、国会議員の場合を含めた法制や解釈をいくつかの場面に分けて確認しよう。(1)懲罰による場合 地方議会における議員の懲罰は、戒告、陳謝、出席停止、除名の4種類だ(地方自治法135条)。国会議員の場合は、憲法58条の議院自律権に基づき、国会法122条で、戒告、陳謝、登院停止、除名の4種がある。国会議員の歳費、旅費及び手当等に関する法律では、除名に関してだけ記載があり(4条、11条の2)、歳費等は辞職と同様の扱いとなる。規定がない登院停止は歳費等を支給する扱いだ。 地方議会については、懲罰による出席停止期間中の報酬を減額や不支給とする条例規定を認める解釈(昭和32年自治庁)が示されている。(2)理由のない欠席の場合 じつは(登院停止とはちょっと異なるが)理由なく登院しない議員の歳費を4割減額する法案が、昨年参院に提出されたことがある。NHK党のガーシー議員の問題をうけてのことだ。法案には、登院しないことに加えて、何らかの懲戒処分を受けることを要件とし、また出席すれば支給する、などの「配慮」も盛り込まれたようだ。結局、ガーシー議員が除名され(最初は陳謝の処分、次いで除名となった)、法案も審議されなかったようだ。 地方議会の報酬条例で、議会や委員会に不出席の議員の報酬を不支給とする規定を設けることはできるというのが公権解釈(昭和24年地方自治庁)のようだ。現に都道府県議会レベルでも事例がある。宮城県議会の場合も、議員報酬条例に規定がある(3条の2)。なお、欠席が公務災害や出産などの事情による場合は、除外としている。岩沼市の条例でも上記引用の通り。(3)当選無効となった場合の無効確定までの期間 どう考えるべきか難しい問題だが、地方議員について50年ほど前に自治省が返還請求できないとの解釈を示していたが、大阪市の事例で、昨年12月に最高裁判決が支給すべきでない(返還求めよ)の判断を示して、国会議員にも及ぶのかを含めて反響を呼んだ。■前回の記事 当選無効と議員報酬の返還を考える(2024年2月12日)(4)逮捕などの場合 これも難しい問題。国会議員には不逮捕特権(憲法50条)もあるほどで、少数派を政治圧力から守る法制や解釈が重要であると言えそうだ。ただし、地方の場合はその要請はそれほどでもない(団体自治を重視)ともいえるし、現に拘束される期間は議会外を含め議員活動ができない訳だし、逮捕が不当であった場合は事後救済策を措置すればよいという考え方が可能と思われる。住民意識にも適うだろう。 宮城県議会の場合は、昨年(2023年)に条例に次の規定が追加された。------------第三条の三 前条の規定にかかわらず、県議会議員が被疑者又は被告人として、逮捕、勾留、その他の身体の拘束を受けたときは、当該身体の拘束を受けた日から身体の拘束を解かれた日までの期間(以下「拘束期間」という。)に係る議員報酬の支給を停止する。ただし、拘束期間の始期が議員報酬の支給日の直前であることその他の理由により当該支給を停止することができない月の議員報酬については、この限りでない。2 (略)〔おだずま注:日割り計算にする規定〕3 第一項の規定による議員報酬の支給停止(以下「支給停止」という。)は、当該支給停止に係る行為に関し次の各号のいずれかに該当する場合にこれを解除する。一 公訴を提起しない処分があった場合二 無罪の裁判が確定した場合------------■関連する過去の記事(類似の論点を含むもの。地方議会に関するもの。他にもあるかも知れません) 当選無効と議員報酬の返還を考える(2024年2月12日) 国会議員の懲罰を考える(2023年03月19日) 別れさせ屋と不法原因給付(2013年2月15日) 山形県の無免許元教諭の返還額を考える(2016年2月25日) 山形県教委の教員任用無効の法理を考える(2016年2月23日) チケット不正転売禁止法の謎(2019年6月16日) 仙台厚生病院の提訴の件(続き)(2016年7月25日) 仙台厚生病院が市議を提訴した件を考える(2016年7月23日) 条例の取消を求めて提訴 青森県の新渡戸記念館の廃止で(2015年7月1日) 大衡村の議会解散を考える(2015年3月18日) 今度はラン問題の大江町議会(2012年4月11日) 大江町議のその後(2011年11月30日) またも議員飲酒運転か(2011年11月26日)(大江町議) 仙台市議会と定員問題を考える(10年8月26日) 警部補飲酒運転と山形県議会(08年4月23日) 山形県村山県議の動向(07年12月5日) あの飲酒運転山形県議、お隣さんからも三行半(07年8月10日) 村山県議問題を考える(07年7月11日) 山形県議会議員の飲酒運転問題を考える(07年5月25日) 鳥取県の人権侵害救済条例について真剣に考える(05年10月13日)
2024.02.24
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2020年国勢調査をベースにした将来推計人口(令和5年推計)について。(4回シリーズとしています。)・地域別人口推計を考える(その1)(2024年01月31日)=地域別推計結果の概要・地域別人口推計を考える(その2)東北の市区町村(2024年02月14日)=個別の市区町村の結果・今回 地域別人口推計を考える(その3)(2024年02月15日)=将来推計人口について・地域別人口推計を考える(その4)移動仮定と封鎖人口(2024年04月25日)これまで2回は地域別推計について記した。3回目の今回は、推計人口というもの自体について。(本来は順番が逆とも言える。地域別将来推計人口は昨年12月公表だが、全国値の将来推計人口は昨年4月26日に公表されています。)公的な将来人口の推計として、国立社会保障・人口問題研究所が国勢調査の確定値を出発点として算定する「日本の将来推計人口」がある。2020年(令和2)の国勢調査を受けて、2023年版の「日本の将来推計人口(令和5年推計)」が2023年(令和年)4月に公表された。この最新推計では、前回の推計(「日本の将来推計人口(平成29年推計)」)と比較して、将来の総人口が増える結果となったのが特徴である。つまり、日本の総人口は減少することは前回推計と変わらないが、人口減少の進行はわずかながら緩和するというのである。以下に当ジャーナルとして解説したい。1 将来推計人口の基本的なしくみまず、「将来推計人口」の基本的なしくみを確認しよう。国際標準とされる人口学的手法に基づいている。具体的には、人口変動要因である (1)出生、(2)死亡、(3)国際人口移動 の統計指標を数理モデルにより将来に投影する形で、男女年齢別に仮定(後述)を設け、それらを起点人口に適用して1年後の人口を推計するコーホート要因法により、将来の男女別年齢別人口を推計するもの。すなわち、既に生存する人口については、加齢とともに生じる死亡数と国際人口移動数を反映して、将来人口を求める。また、新たに生まれる人口については、15-49歳の女性人口に生ずる出生数を性比で分け、その生存数及び国際人口移動数を順次算出して求め、翌年の0歳人口として組み入れる。このコーホート要因法の推計のためには、いくつかの仮定が必要だ。(1)基準人口(男女年齢別)、(2)将来の出生率及び出生性比(同前)、(3)将来の生残率、(4)将来の国際人口移動率(数)に関する仮定である。これらの仮定の設定に際しては、統計指標の実績値に基づいて人口統計学的な投影を実施することで行う。(1)基準人口(男女年齢別)は、令和2年国勢調査の人口(2)将来の出生率及び出生性比 日本人女性に発生する出生率に基づいて総人口の出生動向を推計。 コーホート年齢別出生率は、(a)50歳までの累積出生率と、(b)年齢パターンを設定して求める。(a)は、初婚、出生、離婚再婚などの行動に関する各指標を投影し、出生順位別コーホート合計特殊出生率(注:ここで3つの出生仮定=出生中位・高位・低位=が設定される)を合計することで定める。(b)は拡張リー・カーター・モデルで将来推計。 人口動態統計と同定義の合計特殊出生率は、実績値が2020年で1.33に対して下記となる。 中位の仮定で 2023年1.23 2070年1.36 高位の仮定で 2023年1.37 2070年1.64 低位の仮定で 2023年1.09 2070年1.13 男女の出生性比は、2016-2020年の実績値平均の(女児100に対して男児)105.2を一定として用いた。 (3)生残率の仮定(将来生命表)について。翌年の事項を推計するには、生残率(男女年齢各歳別)が必要で、それを得るために将来生命表を作成する必要がある。本推計では、1970-2020年の死亡率に基づき、作成。ここで、死亡率の推計について、標準となる死亡中位仮定のほか、死亡高位仮定、死亡低位仮定が付加されている。(4)国際人口移動率(数)の仮定は、国際情勢や災害等により大きな影響を受ける。日本人については入国超過率、外国人については入国超過数を基礎として設定。 なお、ベースは日本に常住する総人口であり、外国人を含む。国勢調査の対象と同一だ。2 推計のパターン(場合分け)将来の出生推移及び死亡推移について、それぞれ、中位・高位・低位の3仮定を設け、組み合わせにより9通りの推計を行う(これらを基本推計という)。公表資料では、出生3仮定(中位・高位・低位)と死亡中位仮定を組み合わせた3推計が主に記述されている。3 推計結果の概要死亡中位推計で、出生3推計は以下の通り。・出生中位仮定 総人口 2020年12615万人→2070年8700万人【←前回推計時8323万人】 0-14歳人口 2020年1503万人(11.9%)→2070年797万人(9.2%)【←853万人】 15-64歳人口 2020年7509万人(59.5%)→2070年4535万人(52.1%)【←4281万人】 65歳以上人口 2020年3603万人(28.6%)→2070年3367万人(38.7%)【←3188万人】 合計特殊出生率 2070年1.36【←前回推計時1.44】 平均寿命 2070年 男85.89年 女91.94年【←前回 男84.95女91.35】 外国人入国超過数 2040年163,791人【←前回 2035年69,275人】・出生高位仮定 総人口 2020年12615万人→2070年9549万人 0-14歳人口 2020年1503万人(11.9%)→2070年1115万人(11.7%) 15-64歳人口 2020年7509万人(59.5%)→2070年5067万人(53.1%) 65歳以上人口 2020年3603万人(28.6%)→2070年3367万人(35.3%) 合計特殊出生率 2070年1.64・出生中位仮定 総人口 2020年12615万人→2070年8024万人 0-14歳人口 2020年1503万人(11.9%)→2070年569万人(7.1%) 15-64歳人口 2020年7509万人(59.5%)→2070年4087万人(50.9%) 65歳以上人口 2020年3603万人(28.6%)→2070年3367万人(42.0%) 合計特殊出生率 2070年1.13要約すれば、総人口は50年後に総人口は7割に減る。前回推計(平成29年)よりも出生率位は低下するものの、平均寿命が延伸し外国人入国超過増により、人口減少はわずかに緩和している。4 今回の推計の特徴(編集長が加入している学会における討議を参考に。)前回推計に比較して、総人口が増えている。高齢者も増えるが、生産年齢人口が増えている。(以下中位推計で論じる。)前回との相違を整理すると、(1)出生率は長期で1.36(前回1.44)と推計されており、少子化が進行。(2)寿命は伸びるが伸び幅は大きくない。それにもかかわらず推計総人口が全期間で前回を上回っている。とはいえ、年齢別では、14歳未満人口は推計の全期間で前回推計より少ない一方で、生産年齢人口が全期間で前回推計より増加している。少子化が進行する一方で生産年齢事項が前回より増える現象の理由は、外国人の増加である。国際人口移動仮定において、純流入(入国超過数)が前回6.9万人→今回16.4万人、すなわち約10万人が増加することになっている。外国人でも定住すれば年金の加入と支払いの義務が生じるが、増えているのは若い世代(就学、一時的就業)であり、将来にわたり定住するかは定かではない。日本人人口の推計だけで見ると、総人口と異なり、生産年齢人口は前回から減少する結果となっている。少子化の影響は大きい。周辺諸国を見ても、韓国(0.8程度)、香港、台湾、シンガポールなどは急激な先進国化による現象で、日本に追随した形である。
2024.02.15
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ちょうど2か月前になるが、昨年(2023年)12月12日のニュースで報道された。非常に興味深い判決だ。2019年4月に当選して公選法違反(買収。ウグイス嬢手配に報酬を支払)で失職した大阪市議会議員が、当選無効の判決確定(20年2月)までの間に受け取っていた議員報酬や政務活動費など1400万円余りについて、大阪市に全額の返還を命じる判決が最高裁(第三小法廷)であった(12日)。1審と2審は、議員の活動で市も利益を得たとして、身柄拘束期間だけの約160万円に限って返還を認めていた(市が上告)。判決では、民主主義の根幹である選挙の適正を著しく害したもので、確定までの期間を議員として活動していたとしても、市との関係で価値はないと評価すべき、として全額の返還を命じた。なお、1人の裁判官は、資格がなくても活動した事実は残り市は利益を受けた、とする反対意見を述べた。また、自治体での議員報酬返還に関するルール作りなど議論が尽くされることを期待するとの補足意見もあった。(NHKなどのニュースから)当選無効確定までの間の議員報酬についての初の判断で、今後国会議員などにも影響しそうだという。なお、半世紀以上前に自治省が返還を請求できないとの行政解釈を示しており、現在まで返還請求のハードルになってきた(朝日)。以下は当ジャーナルの見解。まず、当選無効判決確定までの期間の報酬をどう考えるか。その前提として、現行法制に明記ないことから問題になるのであって、裏を返せば(補足意見にあるように)立法的解決が一つの解決方途だろう。とはいえ、現在は法解釈で乗り切るしかないとして、大きく二つの(極端な)方向があると思われる。(1)当選無効は民主主義の根幹である選挙の効力(議員の資格)の問題だから、判決確定までの期間の(事実上の)議会における行動や議員としての対外的活動も無にすべきが基本。すなわち、議会における表決もこの議員については遡及的に削除されるべき。同様に、報酬も支払う理由がなく、返還は当然。不当利得の法理では、善意なら現存利益の範囲で返還となりそうだが、私法体系よりも公法上の秩序を優先するのだろう。(2)たしかに議員としての地位について公法上の無効の効力は遡及すべきだ(そうでないと意味がない)が、議員として活動した実態から事実上生じた社会的関係は存在し、地方公共団体の団体自治にも一定程度は寄与している。また、議会活動は他の議員や住民との相互作用の総体と見ることもできるから、たとえば議会の討論から当該人物の言動だけを抜き取っても、それによって影響を受けた他の議員の言動まで削除するのかの問題も生じる。 そうであれば、その活動の対価としての報酬は支払っても許容される。実質的に考えても、議員の地位が遡及的に消えるとしても、当人は当該活動で市(団体自治)に貢献した利益の対価を求める権利がある。公法上議員ではなくなったとしても、いったんは公に当選証書を与えられて活動をしたのであるから、単なる一市民とは異なる。時間を見つけて研究しようと思っていたが、まだできていない。半世紀前の自治省の見解とやらも調べてみたいところ。当ジャーナル編集長が怠慢しているうちに、今度は、名取市の市議が、地方教育行政法(スポーツ事業を知事部局に所管させるには条例が必要)に反して、条例を設けずに、名取市がスケボーのトップ選手を育てる「スーパーキッズ育成事業」を行うことについて、その公金支出と契約の差し止めを求めて仙台地裁に提訴したという(2月7日河北新報記事)。地教行法に反するかどうかの判断が第一だが、かりに違法とされる場合、市が行った民事上の契約の有効性はどう判断されるのかに関心を持った。■関連する過去の記事(類似の論点を含むもの。他にもあるかも知れません) 別れさせ屋と不法原因給付(2013年2月15日) 山形県の無免許元教諭の返還額を考える(2016年2月25日) 山形県教委の教員任用無効の法理を考える(2016年2月23日) チケット不正転売禁止法の謎(2019年6月16日)
2024.02.12
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(4回シリーズとしています。)・今回 地域別人口推計を考える(その1)(2024年01月31日)=地域別推計結果の概要・地域別人口推計を考える(その2)(2024年02月14日)=個別の市区町村の結果・地域別人口推計を考える(その3)(2024年02月15日)=将来推計人口について・地域別人口推計を考える(その4)移動仮定と封鎖人口(2024年04月25日)昨年(2023)12月22日、国立社会保障・人口問題研究所が地域別の人口推計(2050年)を公表した。■日本の地域別将来推計人口(令和5年推計)昨年(2023年)4月に、令和2年国勢調査等から2070年までの全国の推計人口を発表しているが、今回は、2050年までについて地域別(都道府県、市区町村)のデータを試算したものである。その要点は以下の通り。(1)全国推計との関係 全国では、2020年(令和2)と比べ、2050年の全国の人口は17%減の1億468万6千人。 なお、今回の推計値合計は、2023年4月公表の全国推計である「日本の将来推計人口(令和5年推計)」=出生中位・死亡中位仮定=の値と合致するもの。 全国推計では、2020年126,146千人→2050年104,686人→2070年86,996千人 と推計されているが、このうち30年後の2050年までについて、5年ごとに地域別の推計(男女別、5歳階級別)を行ったものである。(2)都道府県別(2-1)総人口●46道府県で減少。うち11県で30%以上の減。●人口減少割合の高い都道府県1.秋田 -41.6% 96万人→56万人2.青森 -39.03.岩手 -35.34.高知 -34.85.長崎 -33.86.山形 -33.47.徳島 -33.28.福島 -32.09.和歌山 10.山口 11.新潟●宮城 -20.5 230万人→183万人 宮城県の場合、今回推計では、230.2万人→183.0万人(-20.5%)だが、前回(H30推計)では、2015年233.4万人→2045年180.9万人(-22.5%)である。なお、今回推計における2045年は192.4万人である(11.5万人分持ち直し)。今回推計では(前回もだが)5年刻みの後になるほど減少幅が大きい。つまり減少は加速的に進むということだ。●人口減少の割合の小さい都道府県(東京都を除く)1.沖縄 -5.22.神奈川 -7.73.千葉 -9.54.埼玉 -9.7●増加は東京都のみで、2.5%増 1405万人→1440万人。もっとも東京も人口が増えるのは2040年までで以降は減少に転じる。全国に対する東京都の人口割合は、11.1%→13.8%と高まる。●2050年の人口の順位は、東京、神奈川(852万人)、大阪(726)、愛知(668)、埼玉(663)、千葉(569)の順で、20年と変わらず。●東北ブロック(6県)の総人口の全国に占める割合 2020年 6.8% → 2050年 5.6%(2-2)年齢別人口●0-14歳人口 低出生率により全都道府県で減少する。 2050年の各県総人口に占める14歳以下人口の割合でみると(全国は9.9%)、秋田が最低の6.9%に減少。次いで、青森7.4%、岩手8.0、福島8.2、山形8.5 と東北各県が低位に続く。最高は沖縄の13.8%で、宮城は9.0である。 全国人口に占める東北ブロックの0-14歳人口の割合は、(2020年6.3%→)4.7%となる。●15-64歳人口 全国推計は今後一貫して減少する。地域別推計では、東京都のみ2030年のピークまで増加し、以降減少する。 各県の総人口に占める割合では、人口が減少しても(他の年齢別人口の推移の影響で)2025年まで7都府県、2025-2030年で6県でわずかに割合が上昇するが、全般的には各都道府県とも低下で推移する。2050年で割合が高いのは(全国52.9%)、順に東京都60.4%、神奈川、愛知、埼玉、千葉であり、低いのは、順に秋田43.2%、青森44.2、高知、岩手46.2、長崎、となる。 他の東北は、山形47.2 福島47.6 宮城51.6 である。 全国人口に占める東北ブロックの15-64歳人口の割合は、(2020年6.5%→)5.1%となる。●65歳以上人口(なお人口割合は次項目へ) 全国推計は2043年まで増加し、以降減少と見通されている。 地域別推計では、2020年に対して2025年で65歳以上人口が減少するのは26道県。 期間(5年ごと)に着目すると、2025年にかけて10府県で65歳以上人口は減少。それ以降で減少するのは次のようになる。 2025年→2030年 減少は23県 2030年→2035年 24道県 2035年→2040年 13県 2040年→2045年 36道県 2045年→2050年 44道府県 65歳以上人口が最大となる年次を見ると、2040年が15道県で最多、ついで2025年(12県)となっている。(なお、2030年と2035年ではゼロ。)秋田、島根、山口、高知など9県では2020年が既に最大になっている。 一方、東京、愛知、沖縄は、2050年まで一貫して増加する。 全国人口に占める東北ブロックの65歳以上人口の割合は、(2020年7.7%→)6.7%となる。●65歳以上人口の占める割合 各都道府県とも今後一貫して上昇する。30%を超える都道府県数は次のように増加する。 2020年 30道県 →2030年 38道府県 →2040年 46道府県 40%を超える都道府県は(2020年ゼロ)、2025年に1県(秋田)、2040年12県、2050年には25道県となる。 2050年に割合が最も高いのは、秋田(2020年37.5%→49.9%)で、次いで、青森(48.4)、岩手(45.9)、高知、徳島。割合が低いのは順に、東京(29.6)、沖縄(33.6)、愛知、神奈川、福岡。 他の東北は、山形44.3 福島44.2 宮城39.4 である。●75歳以上人口(なお人口割合は次項目へ) 全国推計では当面は増加傾向が続く。地域別推計では、2030年まですべての都道府県で増加するが、増加率は2030年から2040年前後にかけ縮小し、以降一貫して減少する県もある一方で、大都市圏では2050年にかけて再度急増する。 2020年との比較(指数)では、沖縄179.3、神奈川152.9、滋賀150.2 となり、1.5倍以上に増加する。2050年時点で75歳以上人口が多いのは、東京、神川、大阪、埼玉、愛知など大都市圏である。 全国人口に占める東北ブロックの75歳以上人口の割合は、(2020年7.7%→)6.7%となる。●75歳以上人口の占める割合 各都道府県とも今後ほぼ一貫して上昇。特に、2020→25年と、2045→2050年で上昇幅が著しい都道府県が多い。 2050年には75歳以上が20%を超えるのが46道府県で(2020年には該当ナシ)。最も高いのは秋田(32.2%)で、次いで青森(29.5)、高知、岩手(29.1)、徳島と続く。東京都は17.5%で最低、、沖縄(20.4)、福岡(21.3)の順に低い。他の東北は、山形28.1 福島27.8 宮城24.0である。 大都市圏と沖縄は、75歳以上人口が急増する(上述)が、その2025年における人口割合は相対的に低水準である。(3)市区町村別 全国の市区町村は1883地域と、福島県浜通り13市町村(1地域とされている)の合計1884地域。(市769 町736 村180 特別区23 政令指定都市(20)の区175 福島県浜通り地域)(3-1)総人口 総人口が減少する市区町村は、2015年→2020年で既に1416団体(81.9%)。今回推計では、減少する団体は今後も増加し、下記の通り。 2025年→2030年 1610団体(93.2%) 2035年→2040年 1674(96.9) 2045年→2050年 1709(98.9) 2020年に比較して2050年の総人口を指数でみると(全国推計では83.0)、100以上(増加)は77団体(4.5%)に過ぎない。指数100未満の1651団体(95.5%)である。 半数未満に減少する市区町村が2割(19.7%)で、人口が5千人未満となるのが約3割(27.9%)。30%以上減るのが6割。人口1万人未満の市区町村が4割を超え、5千人未満は(20年の283団体=16.4%から)482団体=27.9%になる。(3-2)年齢別人口●0-14歳人口 全国推計で30.8%の減少だが、ほぼ全ての市区町村で減少する。2050年に2020年の人口を上回るのは17団体(1.0%)のみ。 総人口に占める割合でみると(全国推計では2020年11.9%→2050年9.9%)、低下は1659団体(96.0%)で、0-14歳人口が1割未満となる市区町村が全体の68.4%となる。●15-64歳人口 全国推計では26.2%の減少。地域別推計では、人口が増加するのは19団体(1.1%)である。 総人口に占める割合では(全国推計は59.5%→52.9%)、割合が低下するのは1689団体(97.7%)であり、半分(50%)を切る市区町村は(2020年450団体=26.0%から)1229団体=71.1%となる。60%以上の団体は(257団体14.9%から)36団体(2.1%)に減少する。●65歳以上人口 全国推計では2020年を100として(指数)、2050年に107.9に増加する。 地域別推計では、2020年を上回るのは、546団体(31.6%)で、その内訳では、指数150以上が39団体(2.3%、なお200以上1団体)、100以上150未満が507団体(29.3%)である。このように、1.5倍や2倍に至る市区町村もある一方で、7割近い団体では2020年を下まわり、半数未満の市区町村もある(88団体5.1%)。 総人口の減少に伴い、65歳以上人口も今後は増加から停滞や減少に転じる市区町村が増える。65歳以上人口のピークは、2020年が845団体(48.9%)と最多で、早い時期に最大となりその後一貫して減少する。また、基準となる2020年の65歳以上人口割合が高いほど、ピーク年次も早い傾向。●65歳以上人口の占める割合 総人口に占める割合では(全国推計は28.6%→37.1%に上昇)、割合の上昇は1696団体(98.1%)。この間に、50%以上の団体数は59(3.4%)から557(32.2%)に増加。他方、30%未満は490(28.4%)から51(3.0%)に減少する。●75歳以上 全国推計では、2020年を100として(指数)、130.8となる。2035年から2040年に一時的に減少するが2050年まで増加する。 今回推計では、2050年に指数100以上は、952団体(55.1%)で、その内訳は、100以上150未満が741(42.9%)、150以上200未満が195(11.3%)、200以上が16(0.9%)。他方で、100未満は776団体(44.9%)で、32団体(1.9%)では半数未満になる。 最大になる年次は2030年が594団体(34.4%)と最も多く、次いで2050年520団体(30.1%)だが、総人口の減少に伴い今後は増加から停滞や減少に転じる市区町村が多くなる。 2050年の指数を地域ブロック別にみると、100未満の市区町村の割合が高いのは、北海道(76.0%)、四国、中国、東北(65.0%)の順で、逆に100以上の市区町村の割合は、南関東(87.3%)、北関東の順に高い。このうち南関東では指数150以上の団体が32.1%を占める。すなわち、75歳以上人口が2020年以上となる市区町村は、大都市とその郊外を中心に分布する。●75歳以上人口の占める割合 75歳以上人口割合は(全国推計では14.7%→23.2%)、上昇するのが1713団体(99.1%)である。この間に割合30%以上の団体は45(2.6%)から789(45.7%)に増加するが、15%未満の団体は471(27.3%)から19(1.1%)に減少する。●高齢者人口割合の動向の地域差 年齢構成について全般に高齢化が進行するが、ブロック別には状況が異なる。著しく進行する市区町村の割合が高いのは東北や四国。東北は、2050年の15-64人口割合50%未満の団体が89.3%を占めると同時に、75歳以上割合30%以上の団体が70.1%にのぼる。 対照的なのは南関東。15-64歳人口割合50%未満の団体が40.1%と低く、75歳以上割合30%以上の割合は25.0%にとどまる。
2024.01.31
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自転車ヘルメットの着用率の都道府県ごとのデータが報道された。全国の警察が7月に目視で調べたものを警察庁が集計して、14日に発表したということだ。(警察庁サイトにはないようだ。)上位1愛媛59.9% 2大分46.3 3群馬43.8 4鳥取30.9 5山梨26.26佐賀23.4 7山口21.5 8茨城21.3 9石川20.7 10徳島18.4下位47新潟2.4% 46青森2.5 45秋田3.5 44大阪4.2 43福島4.342埼玉6.1 41兵庫6.2 40千葉6.4 39広島6.6 38福井6.8全国平均13.5%だが、最高が愛媛県59.9%で、最低が新潟県2.4%と、相当のバラツキがある。グラフを示せばいいのだが、取り急ぎ階級に分けると、0-<10(%) 23県(さらに、0-<5は 5県、5-<10は 18県)10-<20 14県20-<30 6県30-<40 1県40-<50 2県50-<60 1県という度数分布であり、地域差は顕著で、上位県は特異な背景を有するはずだと言えよう。客観的に比較できる調査なのかどうか気になるが、警察庁サイトには掲載がない。報道では、各県とも駅前で2か所、商店街やSCで2か所を選び、通行の多い時間帯に1か所最低200人、52,135人を調査したとある。いちおう、地域比較には耐えうるデータマスと思うし、地点によるバイアスもさほどないだろう。愛媛が高いのは2013年に関連条例を施行するなど取組が進んでいるため、ワーストの新潟、青森(2.5%)、秋田(3.5%)は雪の影響で普段から自転車を活用しているかどうかが影響した(共同)、全国3位の群馬(43.8%)は2021年に条例を施行し努力義務にしたり中高生の啓発を行った影響だ(読売)、トップの愛媛は教育委員会が主導して通学時の中高生の着用100%をほぼ達成しているが、最低の新潟は、町の人も理由はわからないが冬場乗らないからか、と言っている(NHK)、などの解説が報じられている。やっぱり、条例制定や学生通学時に徹底するなどの成果で明暗が分かれていると言えよう。東北各県のデータは以下。青森 2.5%岩手 7.6宮城 10.8秋田 3.5山形 8.9福島 4.3全体的に低位。やはり冬場に乗らない影響か。東北で高い宮城は条例施行の効果かも知れないが、それでも全国より低い。やはり学校での徹底が大きな要因になるのだろう。かくいう自分も4月から着用している。意外と高かったが、身の安全のためと割り切った。面倒くさい、髪型が崩れる、などの意見も実感として理解できるが、安全面の効果を説きながら着用が当たり前という雰囲気を作り出すことが肝要か。■関連する過去の記事 自転車利用の地域比較(2022年12月11日)
2023.09.15
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記事の最後に記した文献に基づくお勉強により、感染症の歴史との関わりを。(構成と要約は当ジャーナル)1.病原体との共存●狩猟採集生活から農耕牧畜生活へ。人口が増えて定住。また、人手必要で人口集中。家畜飼養で動物との接触。 →エピデミック(流行)が発生。●通常は、特定地域のエンデミック(風土病)として出現 →流行繰り返して免疫機能働き収束。●しかし、人の移動が容易になると、エピデミックが出現。 →さらに、世界同時の感染爆発(パンデミック)も。●家畜との共存が進んだユーラシアは古くから免疫獲得。南北に細長いアメリカ大陸は免疫弱く、スペイン人征服者の天然痘持ち込んで被害(ジャレド・ダイヤモンド)2.アテネの病疫(b.c.5世紀)=記録に残る最古のエピデミック●スパルタ軍の侵入を拒んだが、城壁内に入った避難民から衛生状態悪化。3分の1が死亡(トゥキュディデス『戦史』)、指導者ペリクレスも感染死亡、無政府状態(扇動政治家)。スパルタに降伏。3.ローマ帝国の衰退=史上初のパンデミック●AD2世紀のパルティア遠征の帰還兵が持ち込む(アントニヌスの疫病。天然痘か)。●人口減少で経済衰退。五賢帝から軍人皇帝時代に。ゲルマン人の流入(→民族大移動へ)●疫病の不安により、ローマの神々から、新興宗教へ。 ←キリスト教=肉体の死を恐れるな。この世からの解放。●3世紀半ばには、キプリアヌスの疫病(アレクサンドリアで3分の2が死亡)。●ミラノ勅令(313年)でキリスト教迫害を停止4.漢王朝の疫病●2世紀後半の後漢で飢饉と疫病 →黄巾の乱(張角)で、動乱へ。●晋の統一後に(3世紀後半)疫病。洛陽の人口半減。匈奴の流入(永嘉の乱)。●東アジアでは、感染症への不安の解消の役割を担ったのが仏教。仏図澄による布教。漢人の僧釈道安。印度人鳩摩羅什が漢語に翻訳。5.日本最古の疫病=崇神朝の疫病●記紀にあり。崇神即位5年目、人民の半数が死亡。●大神(おおみわ)神社を建てて大物主(国つ神)を祀る。また天照大神を祀る伊勢神宮の起源など。=崇神(第10代)が、疫病を契機に神道を確立。●それに先立つ神武東征神話は、九州から大和への人の移動でないか。晋の疫病とも関係かも。6.東ローマ帝国 ユスティニアヌスの疫病(6世紀)●ナイル川河口から、ペルシアとコンスタンティノープルに流行。ペスト(腺ペスト)。帝国の人口半減。ササン朝ペルシャも疲弊。●インドから交易を介して流入したか(マクニール)。●両大国の中間のアラビア半島からムハンマドが現れ、イスラム国家を建設。(アラブ人は免疫持っていたのかも。)●なお、530年ハレー彗星接近(天変地異の兆し。また、冷夏もたらし飢饉で免疫力低下とも。)7.日本の状況●高句麗南下で百済が日本に救済求める。聖明王が欽明天皇に仏像と仏典を送る(仏教公伝)。→公伝の後に疫病始まった(日本書紀、敏達天皇の記載。天然痘か)。→物部氏(疫病を持ち込んだ仏教を受容せず)と蘇我氏(百済人を受容)の対立。8.エピデミックと政権崩壊(その1) =天平の病疫、長屋王の祟り●藤原四兄弟が権勢確保のため、長屋王に自害を強要=長屋王の政変(729年)●大陸では、半島統一した新羅と唐が対立、また、唐は則天武后の混乱から渤海が建国される。●渤海王が朝貢使節を平城京に送り、これを見た新羅から735年(天平7)に日本への朝貢を廃止の通告に来た新羅使を日本が追い返す。●同じ735年、太宰府管内で豌豆瘡(えんどうそう)が発生(続日本紀)。天然痘だろう。経路は新羅使なのか、遣唐使(734に帰国)なのか。●2年後の737年(天平9)には再び大宰府に「瘡のできる疫病」が流行(続日本紀)。おそらく麻疹(はしか)。前年(736)に、聖武天皇が新羅に派遣した使節が、待遇を受けられず無念の帰国途上の対馬で阿倍継麻呂が病死。都にもひろがり、病死者には舎人親王や藤原四兄弟(←長屋王の祟りとされた)。100-150万人(当時の日本人口の25-35%)が死亡との推計も。●聖武天皇は、減税(調の停止)、国分寺と国分尼寺の建立。その総本山として東大寺と大仏、法華寺。光明皇后の施薬院、悲田院。●なお、天平パンデミックと同時期にアッバース朝で流行。初代カリフが天然痘で死亡(754年)。前年に長安で玄宗皇帝を前に宴会で両国の遣唐使が同席している。9.同前(その2) =早良親王の祟り●仏教勢力の介入を嫌う桓武が藤原種継の進言で長岡京遷都を決定。これに抵抗する興福寺など奈良仏教勢力が、桓武実弟の早良親王を擁立。種継が何者かに射殺され、桓武は早良親王を流罪、早良は断食して憤死(785年)。桓武はさらに北の山背国に平安京建設を命じる(現地豪族の秦氏が協力)。最中に再び豌豆瘡(天然痘)が流行。桓武一族にも広がる。早良の祟りとして、崇道天皇を追号。さらに、平安京を守護する東寺西寺を建設。●(桓武の遷都に関しては下記の記事もご参考に願います。) 優れていた仙台のインフラ条件(2022年3月5日)10.祇園祭とケガレ思想●平安前期(貞観-延喜、859-923、清和-醍醐天皇)は疫病と自然災害(富士大噴火、貞観地震)の激しい時代。●まず、史上初の赤痢の流行(←平安京の排水の悪さか)。次いで、咳逆(しわぶき、日本三大実録)=史上初のインフルエンザ流行か。915年天然痘が流行。●災害と疫病を起こす怨霊を祀る「御霊会」が貞観5年(863)神泉苑で行われる。貞観11年(869)には、祇園(八坂)神社から神輿を出して全国の怨霊を鎮魂する儀式が始まる=祇園祭の起源。●血や死を忌み嫌う風潮が強まる。死穢(死が感染する)の思想から、嵯峨天皇は死刑を停止。死体放置させぬため、検非違使を設置。●菅原道真の失脚(昌泰の変、901年)を仕掛けた藤原時平の急死、醍醐天皇の親王らの死、清涼殿落雷(930)で、北野天満宮。●この時期(8-10世紀)は地球規模の中世温暖期の始まり。また、東アジアの地殻変動が活発な時期=貞観富士大噴火(864年)、貞観地震(869年)、十和田火山噴火(915年)、白頭山大噴火(926年か946年。→前者なら渤海滅亡(926年)を招いたのか)。→これらの火山灰が寒冷化と飢饉を招いたと考えられないか(867年から新羅でも疫病と飢饉、唐では黄巣の乱(875-)。)11.ハンセン病●感染力弱く大量死もないが、顔面や手足の変形が祟りや罪業の報いとみなされ差別や隔離が行われた。●日本では、延喜式(平安中期)で清められるべきケガレとして、白人(しらひと)が該当するとされる。他方で、光明皇后の救済や、忍性(1217-1303)による救済事業。●大谷吉継(秀吉政権の奉行、敦賀城主)が失明(ハンセン病説と梅毒説)。●明治期には、宣教師リデルが熊本に施設を設置。貞明皇后の下賜金で、らい予防協会。●明治40年らい予防法で隔離政策(光田健輔)、共同生活で断種手術も。昭和6年らい予防法改正(無らい県運動=放浪や在宅の患者をなくす)で、昭和15年熊本の本妙寺事件(患者集落に踏み込み施設に強制収容)。実際には収容を拒み放浪する患者も(松本清張「砂の器」)。●1943年特効薬プロミンの有効性が確認される。遺伝病も否定された。●しかし日本政府は隔離政策を続行。らい予防法廃止は平成8年。12.史上最凶の感染症、黒死病(ペスト)●1348年フィレンツェで流行(デカメロン)、ヨーロッパ人口の3分の1死亡=14世紀ペスト世界的流行(このとき港外に船を40日間待機させる→quarantineの語源)●中国(元朝末期)では3分の2が死亡(ペストか)→紅巾の乱で崩壊。●14世紀ペストパンデミックは、中世ヨーロッパの精神世界を一変。カトリック教会の権威失墜、ユダヤ人差別、死や骸骨を扱う絵画(メメント・モリ)、ラテン語から俗語の文学(ボッカチオ、チョーサー)、スコラ哲学から解放→科学革命、宗教革命へ。●ヨーロッパ最後の大流行は1665年ロンドン大ペスト。ロンドンの7分の1死亡。原因不明ながら隔離防護措置は認識された。患者出た家を1か月封鎖(家族外出させず)、経済に打撃、監視人や死体運搬人に日当支払い。翌1666年ロンドン大火(当時シティは木造家屋)でペスト終息。●1894年英領香港で発生、北里柴三郎とイェルサン(仏)がほぼ同時にペスト菌を確認。ネズミ等の体内に寄生し、ノミを媒介して感染。腺ペストが固くなり前身転移して黒紫色になり、さらに肺ペストに至ると数日で致死。感染率高い(飛沫)ので、移動制限が必須。●原生地は、ヒマラヤ山脈の風土病(有力説)=6世紀ユスティニアヌスのペストは、インド貿易船がエジプトへ。1894年香港ペストは、雲南に出兵した中国兵が持ち帰った。14世紀流行は大理国を滅ぼして帰還したモンゴル兵が持ち帰り、ユーラシア内陸交通のグローバリズムが前提条件になったか。13.新大陸と天然痘●ローマ帝国を衰退させ(アントニヌスの疫病)、天平の疫病もたらすが、人類の破滅的災厄は、大航海時代のアメリカ大陸(先住民に免疫なかった)。1492年コロンブスがハイチ来航、1518年同島で天然痘発生、先住民だけが感染し、人口25万人の大半が死亡 →西アフリカから奴隷貿易に。→マラリアなど熱帯性感染症がアメリカ大陸に。●コルテスが1519年メキシコ上陸、1521年アステカ王国(推定25万人)を滅亡させる。この間、天然痘がアステカを襲っていた。●1531年ピサロがペルー上陸、インカ帝国(推定人口600-800万人)の首都クスコに入城(1533年)する ←インカに天然痘が蔓延(スペイン人は被害受けず)。さらに欧入植者(麻疹など)とアフリカ奴隷(マラリアなど)が疫病持ちこむ。 →カトリックに改宗すすむ。●北米は小さな部族集団が分立。17世紀英仏が入植。天然痘が広がる。14.天然痘との戦い(免疫獲得)●天然痘はユーラシア大陸でも小規模な流行を繰り返し、人痘(微量感染で免疫)の接種が中国やオスマントルコで行われた。→自然状態の致死率30%(ペストに匹敵)が2-3%に。ヨーロッパでは人痘接種は忌避されたが、スチュアート朝(アン女王)に続くハノーヴァー朝(1714年)ジョージ1世の家族が天然痘に。モンタギュー夫人が人痘を広める。●安全性が懸念だったが、町医者ジェンナーが牛痘から安全な種痘法を開発。英政府が1840年公認(人痘接種を禁じる)。スペイン国王カルロス4世も採用、植民地中南米の人口減少にも歯止めに。●日本では承応2年(1653)、明から人痘が伝わるが普及せず。牛痘が英国の20年後に伝わる。ルートは2つ。(1)(蝦夷地経由)陸奥国の廻船問屋五郎治が択捉島に上陸したロシア兵に捕縛され、ロシアでジェンナー種痘法を習い、1812年(文化9)蝦夷地に戻る。和人が持ち込んでアイヌ人に天然痘が広がっていたが、日本初の種痘実施で効果。(2)嘉永1年(1848)長崎オランダ商館の独人医師モーニッケが佐賀藩主鍋島直正の依頼で牛痘接種に成功(←牛少ないので発症した子からワクチンをつくる方法)。緒方洪庵(大坂)などが広める。安政5年(1858)幕府が公認、神田お玉ヶ池(岩本町)に私営種痘所(のち幕府直轄の西洋医学所)。●慶応2年12月(1867年1月)攘夷派の孝明天皇(宮中で西洋医学禁じた)が急死。天然痘か。維新後、新政府も種痘を制度化(3度の義務化)。→明治42年種痘法。●昭和31年以降は日本国内で発生なし。なお、昭和49年度生まれまで、右肩に種痘受けている(昭和50年接種停止)。●1980年WHOは天然痘の世界根絶宣言。1984年米ソ各1か所で天然痘株の冷凍保存を合意。15.産業革命による新たな感染症(その1)=結核●産業革命により、農業に代わり都市部の工場雇用で人口の大移動。上下水道インフラ間に合わず、生活環境と労働環境が劣悪に。 →結核とコレラが蔓延する。●結核菌は、らい菌(ハンセン病)と近縁で、飛沫・空気感染で肺に定着。感染から発病に1-2年を要し、(家族間発症が多いことから)遺伝病と疑われ、差別も。顔色が青白くなる(白いペスト)。放置すると血痰や喀血、重症化すると結核性髄膜炎や脊椎カリエスに移行し、後遺症。正岡子規、樋口一葉、石川啄木、梶井基次郎、堀辰雄。●紀元前3千年の中国長江流域の広富林遺跡(上海市)、紀元前1千年のエジプト遺跡のミイラ、弥生後期の青谷上寺地遺跡(鳥取市)人骨などから脊椎カリエス痕が確認される。縄文人骨にはないことから、長江流域の弥生人渡来で、結核菌が列島に上陸したか。●清少納言「枕草子」で病の筆頭に(胸)。●14世以降ヨーロッパでの流行で集団免疫でき、近縁のハンセン病も激減したの説も。●産業革命以降に猛威。←大気汚染の影響(結核菌は紫外線に弱い)。日当たりと換気が悪いと感染広まる。日本でも明治期「国民病」に。●1921年仏でBCGワクチン(カルメットとゲラン)、1944年米で特効薬ストレプトマイシン(ワクスマンら)が開発。サナトリウム隔離収容(不治の病)から脱する。16.産業革命による新たな感染症(その2)=コレラ●コレラは、経口感染が特徴。←→ 飛沫・空気感染(ペスト、天然痘、麻疹)。飲食物が消化器官に達するのだが、大半のコレラ菌は胃液で死滅。クリアして小腸下部で増殖すると、下痢嘔吐。患者の排泄物吐瀉物が、手に触れ飲食物に混入して感染拡大に。●コレラ菌が腸管からナトリウム吸収を阻害するため、急激な脱水症状と低カリウム血症。重症化すると水下痢が止まらず数時間でチアノーゼ(血中酸素濃度減少)や血圧低下、痙攣や昏睡で死に至る。死亡率高いため、日本ではコロリとも。●もともとベンガル地方(バングラデシュ)風土病で、巡礼者によりインド各地に運ばれエピデミック。英の植民地支配で、19世紀に世界規模パンデミックに。1817年英領ベンガルで発生のコレラが、シンガポール、清朝広東港に上陸して感染拡大に。文政5年(1822)長崎に入港した清国船がもたらし(朝鮮経由説も)、西日本で猛威。1831年メッカで蔓延し、イスラム教巡礼者が世界に拡大。ギリシャ(オスマン帝国と独立戦争)、ロシア(ギリシャに援軍)、ドイツや北欧(バルト海交易)にも拡大。ベルリン大学のヘーゲルも落命(1831年)。英にも上陸し5万人死亡。1830年代には英領アイルランドの移民から米にもたらされ、西部開拓とともに天然痘やインフルエンザとともに、コレラも拡大し先住民の人口を激減。●医学界の論争。原因は、瘴気(汚染された空気)か(ヒポクラテス以来)、有害な微生物(細菌)か(19世紀新説)。←患者と直接接触なくとも爆発的に広まるので、瘴気説も優勢。→1854年ロンドンのコレラは1か月で616人が死亡。スノウ(疫学の父)は瘴気説を疑い、感染経路を徹底調査し、共同ポンプ井戸が感染源と特定。ポンプ付近で肥溜めの汚水が地中に漏出していた。→チャドウィック(公衆衛生の父)が上下水道の完全分離を働きかけ。→しかし原因物質は特定できず。センメルヴェィス(ハンガリー)がウィーン総合病院で、死体解剖に従事した研修医に助産立ち合い前の手洗いを徹底することで、妊婦死亡率を激減させる。また、外科医リスター(英、口腔消毒薬リステリンの名の由来)がフェノール(石炭酸)による消毒法で化膿を防止。→さらに顕微鏡の実用化で、パスツール(仏)が微生物の自然発生説を否定。→コッホ(独)は、炭疽菌(1876年)、結核菌(1882年)に次いで、コレラ菌発見に成功(1883年)。また、抗体の有無を確かめる試薬ツベルクリンを開発。→北里柴三郎(コッホ研究所で破傷風菌の抗血清を開発)が帰国後の明治25年、伝染病研究所と結核専門病院(土筆ヶ岡養生園)を設立。明治27年にはペスト発生した英領香港にわたり、ペスト菌を発見した。(1週間後にイェルサン(仏)も発見)●日本では、安政5年(1858)ミシシッピ号が下田に来航、乗員にコレラ感染者あり広がる。江戸(100万都市)で10-30万人が犠牲。狐狼狸(ころり)、虎狼痢(ころり)、箇労痢(ころり)などとも。開港後はコレラのエピデミックが外国人排斥に拍車。明治10年、マカオから長崎に入港の船でコレラ発生、九州に広がる。西南戦争鎮圧に徴兵され罹患して日本各地に帰還して、コレラ死者は10万人以上に。患者の隔離や移送をめぐり官憲と衝突するコレラ騒動が各地で発生(衛生問題が治安問題に)。●明治6年、内務省が発足。初代内務卿大久保利通は、衛生行政を文部省から移管して衛生局(内局)を設置。初代衛生局長は長与専斎。(後に、後藤新平、北里柴三郎も。)●明治19年、衛生局通達でコレラ予防のため石灰酸の消毒、患者の回復や死亡の後10日間出勤や登校を禁じた。日清戦争の帰還兵が遼東半島からコレラやチフスを広島(大陸派遣軍大本営)に持ち帰る。→似島に大規模な検疫所(石黒忠悳、後藤新平)。コレラとチフスの拡大抑止に成功。→日清戦争の経験から、防疫課設置、伝染病予防法(明治30年)。日露戦争で戦病死者を減少。17.インフルエンザ●19世紀後半から、顕微鏡により主要な感染症の病原体(細菌)が発見された。しかし、天然痘(種痘法確立したが)、狂犬病、小児麻痺(ポリオ)、黄熱、インフルエンザ、風邪の病原体は発見できず。●アフリカ植民地化の最大の障壁は、マラリアと黄熱。野口英世(黄熱で死亡)は、黄熱の病原体が細菌より微細で発見できず。1892年、ベイエリンク(蘭)は、細菌(単細胞生物)よりはるかに微細のウイルスを発見。ウイルスの構造がわかるのは1960年代。●ウイルスはDNAウイルスとRNAウイルスに分類される。(←→生物は細胞内にDNAとRNAの二種類がある。)●DNAウイルス =遺伝情報安定で制圧が容易。→天然痘(種痘法で撲滅)など●RNAウイルス =DNAコピーの際にエラー起こし変異しやすい。→インフルエンザ(毎年流行)、新型コロナなど。風邪症候群の3-5割はライノウイルスで、免疫力で自然治癒する。インフルエンザは感染力が強く、史上最悪がスペイン風邪のパンデミック(1918-19)で、感染約5億人、死者0.4-1億人。原因は第一次大戦での米陸軍基地から感染者を欧州戦線に派兵。●スペイン風邪は、横浜や神戸の商船から日本にも上陸。竹田宮恒久王、島村抱月、辰野金吾などが犠牲。マスクの習慣も始まる。■参考とした文献 茂木誠『世界と日本がつながる 感染症の文明史 人類は何を学んだのか』2023年、KADOKAWA■関連する過去の記事(仙台・宮城と感染症) 水の森公園の叢塚と供養塔(2023年08月03日) 仙台とコレラ流行の歴史(2022年9月19日) 芋峠(2021年8月9日) 芋峠(仙台市)と感染症(2020年11月28日) 鈴木重雄と唐桑町(2016年6月19日) 宮城の民間医療伝承(2011年9月4日) 明治のコレラ大流行と仙台市立榴岡病院(10年9月3日)■関連する過去の記事(疫病や感染症に関する民俗) 世界に誇る東北の郷土芸能(西馬音内盆踊り、鬼剣舞など)(2022年12月14日) 疫病と向き合う東北の民俗伝承(2022年6月8日) 民俗信仰と東北(2022年6月4日) 鬼剣舞と念仏踊りを考える(2022年6月2日) 魔よけと東北を考える(08年2月10日)■(参考)関連する過去の記事(奇祭など。ほかにも過去記事ありそうですが) ついに見た!米川の水かぶり(2023年02月09日) 中新田火伏せの虎舞(2013年4月29日) ハンコタンナと覆面風俗(2015年2月1日) 塩竈の「ざっとな」(2011年2月27日) 奇祭 鶴岡化けもの祭(2011年1月3日) 民俗信仰と東北(2022年6月4日)(弘前市鬼沢) 岩木山信仰とモヤ山(2022年5月30日)■(参考)関連する過去の記事(来訪神などに関するもの) 西馬音内の盆踊り(2012年8月5日) ナマハゲやスネカの起源と神(鬼)の両義性(2022年5月29日) 秋田美人を考える(再)(2022年5月11日) 日本三大美人と秋田(2016年1月31日) 小野小町(2011年7月23日) 秘密結社とナマハゲ(2011年6月4日) 海の民、山の民(2010年12月25日) 秋田美人を考える(2010年12月23日) 秋田ナマハゲは秘密結社か 再論(2010年5月20日) なまはげと東北人の記憶を考える(10年4月27日) 秋田なまはげは秘密結社か(07年8月13日)
2023.08.15
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今月、参議院本会議でガーシー議員の除名が決議された。国会議員の除名なんて異例だと思ったが、ニュースによると現憲法下で3例目なのだという。また、除名に至らない懲戒処分(登院停止など)だと事例は結構ある。両院の懲罰委員会に付託された事案の一覧をみると、戦後は議事進行の妨害などかなりの件数がある。吉田茂のバカヤロー発言もとりあげられた。平成以降の懲罰委員会事案は、11件とだいぶ少ないが、何か懐かしさを感じるものもある。・松浪健四郎(本会議壇上からコップの水を撒く)→登院停止・永田寿康(堀江偽メール問題)→議員辞職で審議未了・アントニオ猪木(会期中に無断で北朝鮮訪問)→登院停止■関連する過去の記事 いったい何だったのか (06年2月23日)(永田寿康代議士関連)
2023.03.19
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日本では国会や地方議会を軸とした議論と採決による政治過程というものが、議会メンバーを選定する選挙制度の浸透を含めて、いちおう根付いていると思う。欧米やアジア各国と比較して、政治社会学的に、日本人に馴染んだ制度化や受容がなされてきた面もあると感じる。しかし、江戸時代の都市や農村社会の社会学的な状況をひきずった明治維新の時代には、いきなり会議をせよ、意見を述べよ、などと言われても、それこそ混乱の極みだっただろう。以下、三村昌司「日本の議会事始め」(歴史科学協議会編『知っておきたい歴史の新常識』勉誠出版、2017年)から要点を当ジャーナルで整理(小見出しも一部当ジャーナル)。(日本における議事機関の始まり)議会制度の始まりとされるのは、慶応4年(1869)5月の貢士対策所である。これは、広く会議を興し万機公論に決すべし(五箇条御誓文)の趣旨にのっとり、貢士と呼ばれた構成員が各藩から出すと定められたが、人材不足もありうまく機能しなかった。そこで、洋楽に通じた若手官僚の神田孝平、津田真道、加藤弘之を中心に改めて制度設計を行い、公議所という議事機関が創設され、その議員たる公議人は選挙でなく各藩内で家老クラスが任命された。また、過半数でなく5分の3以上の賛成で可否が決まる点も現在と異なる。それでも、西洋の制度を参考に、様々な意見をもった人が一堂に会して討論し、多数決で可否を定め、そのプロセスと結果を公表するという議事機関はそれまでの日本にないものだった。(江戸時代との関係)そもそも江戸時代は、代表者が公的な場に会して討論して、その政治的意思決定を公開にするということはなかった。幕末に海防問題が浮上すると、幕府が大名以下に諮問したことはよく知られているが、あくまで諮問であり、一堂に会して多数決するものではなかった。諸藩でも同様で、藩主への意見は直接藩主に提出するものであって、公開の場で討論するという発想はなかった。とはいえ、政治的な問題を討議する経験がいっさいなかった訳ではない。幕府の意思決定にかかわる数人による討議は勿論あっただろうし、江戸時代の民衆は非常に多様な要望書や建白書を幕府や藩に出すのだが、そのような要求を作成する過程で人々が討議することは当然あっただろう。ただ、村の寄合では結論が出るまで話し合って最後に責任者が決をとったという。多数決の原理はなかった。近世と近代で異なるのは、一堂に会した場で多数決によって意思(おだずま注:原文は意志)を決し、そのプロセスを公開することだった。(公議所の実態 - 硬直的な「評論」と根付かない多数決)公議所は明治2年(1869)3月7日に初めて開かれた。公議所は討論をどう制度化していったのか。「公議所法則案」では、「各議員は議案を受け取ったら持ち帰って、熟考の上評論を加えて、次の会議の日に持参して議員の前で読み上げるべし」「そのとき、質問するものがあればそれに答えるべし」と定められている。佐倉藩の公議人であった依田学海は、「人々の論ずるところが多すぎて聞くに耐えない」「数が多すぎて読むのに不便」と日記に記した。学問のある家老クラスを集めたことで「評論」は集まっただろうが、逆に議事の実効性を欠いたようだ。また、公議所議長秋月種樹は、「冗長になり場合によっては罵詈を主とするものもいる」と述べている。ただ、そのような公議人の強硬な態度は必ずしも個人の資質によるのではなかった。「評論」は藩の公式見解であり、他者や公議人個人が簡単に曲げることができない性質だったからだ。ある公議人は「100人いてもはいはいというだけならば、1人の士が率直に意見を述べるのに劣る」という中国の故事を引きながら、多数決を改めるべきとする内容の建白書を出している。しかし、それでは参加者相互の妥協点を見つけることはほとんど不可能になる。すなわち、質問や討論の意味がなくなり、異なる意見への罵倒につながってしまうのだ。この点は、廃刀論をめぐって最も先鋭化した。当時公議所議長心得の森有礼が提出した廃刀論に対して、多くの公議人が激憤し、森や賛成派公議人の命を狙ったのである。このような行為は、武士の矜持から出たとのみ理解するのは一面的だ。先述のように、公議所で表明される「評論」は他と妥協しえない性質を持っているから、自分の意見に従わせるためには、究極は暴力に訴えることになったのだ。(地方ではどうか)明治に入って各地の地方民会(地方議会)はどうだったか。木更津県会は、明治5年(1782)にはじめて開催された。議員は複選制で選ばれた者と官吏から任命された者の2通り。議事の様子は、やはりうまく機能しなかった。最初の県会の様子を翌年振り返った藤田九万という官吏議員の記録によると、「知事のルールが不備のため、発言は私語のようであり、大声で罵詈に類するものもあり、ほとんど議会としての体面がなかった」という。権令として県会を開催した柴原和も、初県会の様子は「集会談話場にすぎなかった」と4年後に振り返っている。翌6年、木更津県が合併した千葉県では、千葉県議事条例という詳細な議事のルールを作成した。議事進行の円滑化を図ったと思われ、議長から番号を呼ばれない限り議員に発言権がないと定められ、私語や罵詈の抑制が図られた。また、議員の意思が選挙区の意思であるとして(*)、議員個人の発言の裁量を認めた。これは、議員個人に個人的な意思の存在を認めることで、公議所のような非和解的な対立を防ごうとしたと考えられる。(*)おだずま注:議員の意思は選挙区の意思との面を強調すると(憲法学でいう法的代表、命令的委任とか)、論旨の議員の裁量を認める趣旨には接続しにくいと感じるが、ここは、議員個人に託された「評論」に拘泥せず、選挙区(地域)にある多様な意見を代議人個人の裁量で踏まえて発言するべき(政治的代表、自由委任)との趣旨であろう。しかし、討論の経験の少なさはすぐに改善できるものではなかった。県令の柴原和は地方官会議の場で、明治7年開催の県会では出席県吏の能弁に多くの議員が雷同してしまったと語っている。また、同年千葉県のある大区で開催の民会の様子について、千葉県会議長が「議事がどういうものか分かっていない」「私語雑話を思い出す」と語っている。(討論の経験の積み重ね)それでも、地方民会の経験を積むことで、少しづつ公の場での討論や多数決の原理になじんでいったと思われる。もちろん、議場における野次や罵声はどこでもあったし現在もある。しかし、議員個々の意思を認め討論による妥協と多数決の承認の可能性を開いた意味は大きい。現在の感覚では、政治的意見が異なるからといって暴力で屈服させるのは許されないし、私語や罵倒はよくないという感覚もある。それは、明治に入って積み上げてきた討論の経験の延長線上に位置づけられるといえよう。
2022.08.13
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山口県阿武町が新型コロナ臨時特別給付金の総額約4千6百万円を、4月8日に誤って一人の町民の口座に全額振り込んでしまった問題。この町民(電子計算機使用詐欺の疑いで逮捕)は誤送金を知りながら、私的に消費してしまった。町では、4月8日のうちに金融機関からの指摘を受けて、容疑者に金融機関から町に戻す「組み戻し」の手続きを要請し、一度は容疑者に同意されたが一転拒否された、という。金は、19日までに34回にわたり国内の決済代行会社の口座などに出金された。町が容疑者に接触できたのは21日で、もう戻せないと言われた。以上が事件の概要だ(河北新報記事による)。他のメディア報道と町の広報により経緯を整理すると、次のようだ。・4月1日 町は口座情報をフロッピーディスクで銀行に提出・4月6日 振込依頼書を銀行に提出→振込依頼書は本来必要がないものだった→振込依頼書の一番上に記載があった容疑者のメガバンク口座に全額が振り込まれた(容疑者の口座しか記載されていなかった、との報道もある。)・4月8日(金)9時50分 山口銀行阿武支店(町の指定金融機関)から誤振込ではないかと連絡→すぐに町から組み戻しの依頼をする→容疑者口座のあるメガバンク宇部支店から容疑者に電話したがつながらない旨を、山口銀行阿武支店から町に連絡される→町から容疑者に連絡するが連絡がつかない。そこで、町職員(面識ある職員)が職場に行ったが不在。次に自宅に行ったら自宅にいた・同日11時 副町長が事態を把握し、すぐに山口銀行阿武支店に行って相談。「銀行同士でどうにかならないか」→銀行「本人が行って申請していただかないとどうにもなりません」・同日11時過ぎか 町職員が容疑者に一緒に銀行に向かおうとする。容疑者は風呂に入るため1時間かかるとして、12時30分頃出発(自宅から銀行は2時間ほど)・14時30分頃 メガバンク支店に到着。容疑者「今日は手続しない」※町の広報では、本人、会計管理者、職員1名が役場の公用車に同乗して支店まで移動したが、駐車場で下車、支店玄関前で「やはり今日は手続しない、後日公文書を郵送してくれ」と求められた、交渉の甲斐なく支店窓口は営業終了時間を迎えた、公用車での帰途は本人から途中で降ろしてくれと求められ物別れになった、としている。・町は、メガバンクに容疑者への払い戻しを行わないよう依頼する公文書を速達で送った・4月9日(土)10日(日)にも町は容疑者と連絡をとっていたとされるが、12日に弁護士と相談する旨の説明があったので、それまで様子を見ていた※町の広報では、10日(日)本人から知人弁護士と相談すると電話連絡あり。11日から12日まで複数回訪問するも会えず※この間の金の移動 8日67万円、10日250万円、11日 900万円→しかし容疑者から連絡がない・13日(水)容疑者の母親に連絡して説得を依頼(4月8日から18日まで 34回にわたり出金。オンラインカジノに使ったと供述している)・〔町広報による〕14日(木) 母親、副町長、職員1名が、勤務先で本人と面会したが、役場の非を述べ弁護士と話すとの一点張りで話にならず。同日夜、町議員に状況説明・〔町広報による〕15日(金) 町顧問弁護士と相手方弁護士が話し、相手方から「近日中に母親立ち合いの元本人が組み戻し手続きを行うので、日時が決まったら知らせる」と連絡あり・15日夕方 記者会見で町長がお詫びと経緯説明・4月21日 町が容疑者に接触。もう戻せないと言われる※町広報では、20日まで連絡待ったが音沙汰ないので、21日(水)訪宅、車はあるが呼びかけても一切応答なし。夕方、屋外で喫煙していた本人に偶然接触できたが、本人から「金は動かした、もう戻せない、犯罪にあることはわかっている、罪は償う」と発言あり・5月12日 町が返還を求め提訴(町議会臨時会で可決)・5月18日 容疑者逮捕・〔町広報による〕23日(土)から25日(月) 東京都で関係先銀行等の調査法律上の問題(民法では不当利得、刑法上はどの時点で着手か、欺罔の点は電磁的記録物に関する1987年刑法改正で対処か、などなど)も深めたいのだが、さしあたり最も気になるのは、町の対応だ。銀行から知らされるまで気づかなかったことはもちろん重大で、じゅうぶんな点検と今後の予防対策を講じるべきだが、ここでは、起きてしまった事案への対処を考えたい。危機管理対応はどうだったか。4月8日午前からの対応で、全額費消される最悪の事態をどうして防げなかったのか。まず、山口銀行から連絡を受けた町は、なじみの山口銀行の町内支店に任せるのでなく、直接メガバンクの宇部支店長に町長が電話すべきだった。「本人に手続きしてもらわないとどうにもならない」ということになっているが、約款や法令でどうなっているかはともかく、せめて出金実行のまえに容疑者に確認のため連絡をとるなどの対応は、コンプライアンスにも反しまい。そして、当の本人に対しては、職員が複数で出向いて、スマホで出金操作しないようピッタリとそばに張り付く。トイレの際はテーブルにでも置いてもらう。自分の金でないことはわかるのだから、一刻も早くその状態を直すよう本人も協力することは理解するだろう。町の誤振込は平に詫びて、一円でも私用に使ったら詐欺罪ですよ、とにかく協力してください、というしかない。町は、悪気を起こさないと信用したのかもしれない。しかし、問題は容疑者が善人か悪人かではない。かりに一切手を付けずにいてくれる善人だったとしても、大枚の公金が一私人の口座にあることを一刻も早く是正しなければならないことは変わらない。この問題の本質を、町職員や町長は本当にわかっていた(いる)のだろうか。町の広報には、「強制権を持たない町としては、忸怩たる思いの中で、可能な限りの手段を講じ、一方で金融機関の預金者保護の高い壁がある中、口座の動き等の証拠の調査に多くの時間を要しました。(中略)町としても最大限の努力をして参った...」とある。報道による町長の説明ぶりでは、不幸が重なったとか、金を戻してくれればいいのだ、という認識が感じられる。それはそうだろうが、一番重要な問題は、危機対応力だ。今回の事案では、発覚した後の対応である。普段接しない(であろう)メガバンクが絡んで壁があったとか、土曜日曜が入ったとか、事情はさまざまあっても、乗り越えられない事情とはいえないだろう、と当ジャーナルは思う。大きな地震、風水害、大事故、そして今回のような特殊な事件。頻繁にあることではないが、いつ起きるか分からないという意味で非常に身近だ。他人事と笑ってはいられない。■関連する過去の記事(危機管理的な記事、不当利得のからむ事件など。ほかにもありそうですが。) 福島県で実弾入り拳銃トイレに置き忘れ(2015年6月7日) 盛岡で5億円(2012年8月10日) 青森警察署の事件を再び考える(10年8月24日) 警察署留置施設の脱走事件を考える(10年8月23日) 爆破予告で臨時下校(08年11月1日) 1万円封筒事件を考える(07年7月12日)(仙台市役所ほか) アニータ騒動の青森と山形(07年2月2日) 忘年会中止脅迫を考える(06年12月20日) 私のヒヤリ・ハット体験(06年4月7日)(山形県公文書紛失事件) 自宅に百万円の札束!(06年5月3日)
2022.05.22
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最近目に留まったニュース。福岡県大牟田市が保健所を廃止するという。お堅い表現でいうと、保健所設置市(保健所政令市)を解除する。もっと正確に言うと地域保健法施行令に定める「保健所を設置する市」としての記載から市名が削除される。現象としては、同市域の保健所業務は、市ではなく県に移管されることになる。6月26日に改正政令が公布され、来年(令和2年)4月に指定解除が決定した。全国でも初めてのケースだ。普通の住民にとってはあまり関心もなかろう。行政内部のちょっとした仕組みの変更。仕事で関係ある人だと、届け出先が市保健所から県保健所になるという影響はある。この場合、大牟田市内で用が済んだのが、おそらく柳川市か八女市に所在する県の保健所まで行くことになるようだ。市のサイトの資料や議会の議事録をみると、市は設置主体変更を昨年9月に国と県に要望。市としては、運営経費がかさむこと、医師や獣医師の確保が困難なことを理由としている。また、食中毒、感染症、自然災害などに十分に対応できない、と説明している。自治体がみずからの体制の脆弱を理由に、業務を返上するというのは異例のことだと、私は感じたのだが、考えてみれば十分ありえることだ。大牟田市は工業都市として栄えた土地だが、人口減少も激しい。環境や健康を担う保健所に寄せられるニーズも減ってきた、と言えなくもないか。村は町に、町は市に昇格をめざし、大きな市は指定都市や中核市をめざし、また国としても保健や衛生の事務は県から市町村に移管する流れを作ってきたと言えるだろう。しかし、現実は冷ややかだ。なんでも右肩上がりの時代はとうに過ぎた。経済学的には、県が規模の経済を生かして業務を担うのが合理的。これに抗って、市民の自治だとか、県の業務を受け取って一元的行政に励みます、などとカッコつけて居られなくなっているのだ。東北各地でも、小中学校や高校は廃止や統合が進んでいるし、そもそも平成の合併は基礎体力の落ちてきた市町村の体制強化の意味合いもあった。大牟田市の事例は、二層構造の地方自治体制の視点からみれば、福岡県が大牟田市を救済するという見方もできる。同様のことは今後増えていくのだろう。市立の高校、病院、のみならず各市町村が単独経費で実施してきた産業、観光、文化などの面の独自の取組も解消されていく方向が顕著になるのでないか。これを悲観的に眺めていても仕方がない。どこまで行政に担わせるのか、換言すれば、人口や財政が縮小していく中で、市民、企業、行政の役割分担を大いに議論していかなければならないだろう。自治の根本問題でもある。国家の統制を嫌って(特に都市型社会において)市民自治を追求しようとした時代があった。その意義はもちろん失われていないが、経済合理性だけでなく、コストをかけてでも守る真剣な地方自治について改めて議論すべきタイミングなのかも知れない、と。
2019.07.21
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最近のニュースでこの法律が今月施行されたと知った。買占めや高額転売を防ぐのが趣旨で、業界団体から制定の要望があった、という話のようだが、自分にはあまり耳慣れない件だったこともあり、即座にいくつか疑問がわいた。(1)罰則はあるというが民事上の売買の効力まで否定するのか(2)そこまでいかなくとも不正転売と知って買った者まで罰するのか(3)所管省庁はどこなのか(4)経緯としてどのような人たちがどう要望したのかたしかにチケットが入手できない、あるいは不当に高値を強いられる、その原因が転売サイトの存在やそれを悪用して利益を得ようとする者だとすれば、一般消費者の利益のために規制は理由があるとは思う。ただ、これまでの論議を知らなかった(注目していなかった)。(1)(2)は立法の在り方としての疑問、(3)(4)は政治過程論的な側面での関心だ。立法の概要。名称は「特定興行入場券の不正転売の禁止等による興行入場券の適正な流通の確保に関する法律」である。演劇、コンサート、スポーツなどのチケット(特定興行入場券)を不正に転売した場合、または不正転売を目的に譲受した場合は、懲役1年以下・罰金100万円以下に科するというもの。少し正確にいうと(法律条文と文化庁サイトから)、・立法目的(第1条) 興行の振興を通じた文化及びスポーツの振興並びに国民の消費生活の安定に寄与するとともに、心豊かな国民生活の実現・「特定興行入場券」(定義、第2条) 不特定又は多数の者に販売され、かつ、①興行主等が、販売時に、興行主の同意のない有償譲渡を禁止する旨を明示し、かつ、その旨を当該入場券の券面等に表示し②興行が行われる特定の日時及び場所並びに入場資格者又は座席が指定され ③興行主等が、販売時に、入場資格者又は購入者の氏名及び連絡先を確認する措置を講じ、かつ、その旨を当該入場券の券面等に表示しているもの・「不正転売」(定義、第2条) 興行主の事前の同意を得ない特定興行入場券の業として行う有償譲渡であって、興行主等の当該特定興行入場券の販売価格を超える価格をその販売価格とするもの・禁止される行為(第3条、第4条) (a)不正転売 (b)不正転売を目的とした譲受・なお、適正な流通確保のための興行主の努力義務、国・自治体の助言協力義務なども定められている。・所管は文部科学省(文化庁)になるようだ(同省設置法第4条の所掌事務に追加)第197国会(昨年秋の臨時会)で議員立法として提案され(衆法)、会期内成立。法案制定には、超党派の議員連盟や自民党の議員連盟が活動したが、山下法務大臣などが主力となったようだ。背景には、音楽関係を中心とした制作者や興行者の声があった。設定したチケット値段の何倍もの高値を健全なファンが強いられる一方で、音楽や文化に関係のない人間が利益を得ている状況は許せない、ということだろう。業界としても本人認証などの対策コストに難渋した事情もあるか。立法目的は健全なチケットの流通の確保。そして、実現手段としては、転売業者や投機目的で買い受ける個人の取り締まりだ。売買行為の民事的効力の否定まではしないから、高値で買わされた健全なファンが払い戻しを求める権利まではない。高値で買った者は、さらにもっと高値で転売しようという意図をもった場合に限って罰せられる。刑法総論でいう目的犯だろう。自分の抱いた所管省庁の疑問とは、効力規定まで設けるなら法務省、払い戻しまで規定するなら消費者庁、流通業界監督なら経済産業省か、などと頭の中に浮かんだのだが、文化庁とは意外だった。立法目的と規制手段のあり方にも依るものだから、上記の立法内容からすれば頷けるものではある。もっとも、議員連盟の議論の過程で所管省庁をどこにするかは、永田町と霞が関で難しい調整があったかと勝手に推察。細やかな政省令への委任規定もなく、地方自治体にも緩やかながら義務を課するというあたりは、いかにも議員立法のフレーバーを放つ。だが、まず所管部署縦割りの発想や予算措置の考慮をするでなく、また、地方分権や行財政秩序の確認などにも目もくれず、現に民の中に所在する問題点を救い上げて罰則規制を設けたことは、国民代表の立法府の仕事として、内閣提案立法にない良さが評価されるべきという感じがする。
2019.06.16
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前回(下記)に続く記事です。■石巻殺傷事件の実名報道を考える(2016年6月16日)新聞や放送メディアが、死刑判決確定を契機に実名報道に転じたことに、どうも割り切れない感覚を持っていたが、『週刊新潮』(6月30日号)が解説している。これまでも少年事件について実名報道をしている同誌の立場から、一律横並びで思考停止に陥っている大新聞各社を批判するもので、紹介されている識者のコメントを含めて、大変興味深い。そのポイントは以下のようだ。------------毎日新聞と東京新聞を除いて、大新聞はすべて実名で報道。これまで少年法を錦の御旗にその不備を批判してきた大新聞が、他方で死刑確定を理由に自ら少年法の壁を乗り越えているというのは奇妙であり、矛盾だ。非常に冷酷な犯行であり、(新潮としても)実名報道は否定しないが、問題は、各メディアが横並びで同じ対応をすること。その理由は何で、それは妥当なのか。〔おだずま注:読売も実名報道。前回記事で当日の読売ネット版は匿名と書いたが、翌朝の紙面ではやはり実名報道で、実名とする理由が添えられていた。〕高山文彦氏(作家)〔おだずま注:高はハシゴ〕・(氏はかつて堺市シンナー少年通り魔事件で、『新潮45』で実名報道を行い、少年からプライバシー権侵害で訴えられ、勝訴している。)・少年の生い立ちや生育暦を調べた上で事件の重大性を考慮して実名を報道するのならわかる。・しかし死刑確定だから出すというベルトコンベヤ式では、事件や犯人そのものをみて判断しておらず適切でない。田島泰彦氏(上智大学教授)・メディア本来のあり方は、死刑確定かどうかは実名報道に関係ない。・その犯罪が重要で実名を知らせるべきと思えば、報じれば良いこと。・死刑判決あったとか更生可能性なくなったという理由で画然と実名にするのは、あまりに機械的。思考停止だ。高橋正人氏(犯罪被害者等支援弁護士フォーラム(VSフォーラム))・今回の実名報道は加害者の立場に偏り過ぎている。・更生可能性を考慮し、それがないから実名に踏み切った。・一方で、被害者にはそれだけの配慮したか。・2004年に犯罪被害者等基本法が成立。・この事件でも加害者の名を出す慎重さに比べて、被害者は何も論じられることなく名を出されていた。・加害者こそ実名にすべきで、被害者は匿名にして欲しい。元少年の犯行は、氏名や更生のレベルをはるかに超えている。いまさら社会復帰の可能性を論じること自体、滑稽だ。まして死刑確定したから実名との理由に至っては、死刑囚が国家の犠牲者であるとのスタンスすら言外に伝わってくる。加害-被害認識の転倒ぶりが感じられる。そもそも少年法61条には、死刑確定したらとの規定はない。つまり、新聞社は独自の法解釈で実名報道しているだけ。では、これまで同種の判断を行ってその都度実名で報じた媒体に対しては、彼らはどう論じているのか。〔おだずま注:実名報道した新潮に対する各紙の論調ということだ。〕堺市事件に対する各紙の論調(1998年2月)・ひとりよがりな法への挑戦(読売、社説)・あざとい言い分。法律の規定を勝手に曲げて更生の芽を摘む権利は誰にもない(朝日、社説)・少年法に反し容認できない(産経、主張)各紙とも法に触れる〔ママ〕こと自体が悪いと言わんばかり。一方では自ら同様のこと〔おだずま注:結局実名報道していること〕しているのだから、ご都合主義だ。石巻の件では、毎日と東京が匿名を続けている。更生に向かう姿勢があること、再審や恩赦の可能性、を理由としている。何が何でも少年法墨守の姿勢は首肯できないが、少なくとも論理の一貫性はあるだけ骨がある。徳岡孝夫氏(元毎日新聞社会部)・1958年小松川高校事件が典型だが、かつて新聞社は未成年容疑者でも、場合により、逮捕時から自らの判断で実名報道した永山事件では、多くの新聞が逮捕時から独自の判断で実名報道。浅沼委員長刺殺、中央公論社長宅襲撃では、死刑にする案件でもないのに実名を用いた社もある。しかし、80年代にはこの流れは消え失せ、少年犯罪はほぼ匿名になった。・市川一家4人殺人(1992)→ 逮捕、刑確定を通じて匿名・大阪愛知岐阜連続リンチ殺人(1994)→ 毎日、東京以外は、横並び。死刑確定時に実名。・光市母子殺害(1999)→ 同上。・今回の石巻事件も。死刑確定時に実名が一般化。田島教授は「少年法にメディアが違反すると抗議され、裁判で損害賠償の対象にもなりうるから、実名で報じない。報じるとしても死刑が確定してから、という面倒を回避する発想に向かっているのでしょう」という。名前を消したり出したりの「人権遊戯」。思考停止、ご都合主義、事なかれ主義だ。------------ところで、朝日新聞は昨日、この元少年と記者が面会したとして記事にしている。「死刑は予想して、納得もしている」。実名報道したことについては、「国家によって生命奪われる刑の対象者は明らかにすべき。被害者にとっては少年でもおじさんでも同じだ。ただ、自分の家族に困ることがあるかも。」と語ったという。
2016.06.25
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東京都知事選挙が行われることになって、誰が立候補するのかに関心が移っている。ところで、2012年10月に石原元知事が4期目の途中で国政復帰のため辞任して以来、後継の猪瀬前知事が1年ほどで辞任し、舛添現知事は今度は自らの公費支出や政治資金の問題で1年半ほどで辞任となる。辞任と選挙が相次ぐ形で、都知事選はこの6年間で4回行われる勘定になる。この事態に関連して、あまり注目されてはいないだろうが(読売新聞が15日に報じた)、河野太郎行政改革防災担当大臣が独自の主張を展開している。都道府県においては知事と副知事をセットで公選して、知事辞職の際は副知事が残任期を務めるべし、との意見だ。17日の閣議後の会見で、地方自治制度や選挙を担当する高市総務大臣は、記者の質問に答えて、憲法では自治体の長は住民の直接選挙と定められていることとの関係で、慎重に検討する必要があると発言。河野氏の意見を否定する趣旨である。では、その河野大臣の主張とはいかなるものか。14日の会見での発言だ。舛添知事が自信の政治資金流用問題で不信任決議を受けそうな見通しだが、どう対処すべきと考えるか、との共同通信の記者の質問に対して、次のようなことを言っている。(内閣府ホームページから、おだずまジャーナル要点要約)・2014年1月に猪瀬氏が辞職した際に、5千万円もらった知事が辞任して50億円かけて都知事選するのはいかがなものかと思った。当時、山口県知事も病気で辞職して同様に選挙になった。・知事や指定都市市長が辞めるケースは結構あるが、そのたびに選挙コストかかる。・しかも、短期の選挙戦になるのでノーウィッシュで知名度選挙みたいになるのは良くない。・数十日間で次の知事を選べといわれても、何が争点で、東京の抱えるどの問題に候補者はどう対応するのか、が伝わらないまま知名度のある人が次の都知事になるのはおかしいだろう。・党内でも提言したが、知事と副知事をセットで選んで、知事辞任の残任期間は副知事がやることにする。2人セットで都道府県民に選んでもらうのが良い。・2年経って同じ状況になったので、今回は間に合わないが、次回から見直していく必要があり、しっかり問題提起してきたい。河野氏の主張の根拠は、(a)相当のコストを犠牲にすることと、(b)突然の選挙でまっとうな候補者選択の機会にならないことの2点に存すると言えるだろう。(b)については、たしかに、東京都の知事選挙はおよそ他の道府県と異なり、大衆票が鍵を握るなどの特異性が際だっているように思われる。ただ、突然の辞任という事情がそれを一層浮き彫りにする事情はあるとしても(特に候補者を擁立する側の事情)、通常の任期満了選挙についても言えることでもあろう。青島氏が当選した歴史もある。また、前者の(a)コストの点については、たしかにわかりやすい根拠だ。特に、今回のように辞任する本人に責めがあるようなケースだと、当人のせいで50億円を無駄に使うというような庶民的話題になるのもうなずける。だが、そんな大衆迎合的な論拠で直接民主主義の最大の機会である選挙を邪魔者扱いするのは果たして適切かどうかは問題だろう。いまジャーナリズム的には舛添知事の個人の資質の問題とされているが、知事としてこの人を選んだのは、まさに主権者(住民)なのだ。辞職や不信任決議や解散や解職などの制度が用意されていることからも、任期の4年ごとの選挙以外のイレギュラーな選挙だって、いわば民主主義のコストとして織り込まれるべきではないかというのが、おそらくは制度論の側からの一応の反論だろう。あまりコストを強調すると、議会による不信任や住民運動による解職などのダイナミズムも封じられるかも知れない。おそらく、河野氏は、米国大統領選挙のしくみなども参考にして、都知事選の実態やコスト感覚などから大局的に考えているのだろう。ひとつの提案としてはありうるものだとは思われる。高市総務大臣の「憲法規定があるから」というのは、官僚作文に依拠しているのだろうが、たしかに憲法93条2項との関係は一応検討すべき事柄になるだろう。では、もし河野氏のように「知事選挙は必ず知事と副知事のセットで行い、知事辞任など(死亡や欠格も含めるか)の際には自動的に副知事が知事となる」という立法を行おうとする場合に、果たしていかなる問題が生じるか。まず、やはり、長や議員は住民による直接選挙で選ぶことを定める憲法93条2項が問題になる。同項の解釈に際しては、長は住民の「直接選挙によるべきこと」が憲法の要請とされるからだ。憲法93条2項に反しないとみる説もありうるように思う。すなわち、予め「知事が欠けた際には副知事が昇格する」との了解の上で副知事を知事とセットで直接公選するというのであれば、自動昇格によって知事に就任することも、93条2項の求める「直接選挙」の範囲に含まれると解釈する余地もあるのかも知れない。これに対して、93条2項に反し認められないとする論拠は、(1)予断なく(セットではなく)単純に一人の「長」を直接公選することが要請されている(2)条件付きの有権者の承諾ではなく、「就任するその時の」承諾が求められるなどが考えられる。さらには、(3)我が国においては、憲法制定当時も現在も、自治体の長とナンバー2をセットで選挙するような風土は存在していないから(cf.米国憲法は副大統領の存在と昇格制度を明定する。)、憲法が認めるとは考えられないこと(4)かりに副知事を必須の公選職と立法する場合、(単なるナンバー2という事実上の権能行使だけでなく)有権者が期待すべき、知事の職責とは別個独立あるいは知事を牽制するなど何らかの意義のある職責を負うものであるべきだろうが、そのような役割についての認識や合意がまったくなされていないことなどの論拠も援用されるかも知れない。もっとも、(3)(4)の点は憲法が禁止しているとまでは言い切れないようにも思われ、とすると立法政策の問題だろう。(4)の点について補足すると、現行地方自治法では副知事はあくまで知事を補佐する補助機関に過ぎず(条例で不設置も可能)、議会の同意を必要とするが、知事と独立あるいは知事の職務執行を牽制するような制度上の権限は何ら有していない(職務代理者となる程度)。いわば制度上は知事の権限の枠の中にあるのである。(完全ではないにせよ)枠の外にある警察本部長や教育長などを公選とする(憲法上の要請とまでは解されないが立法では可能だろう)のに比較すると、必要度は下がるというべきであると思われる。とすると、やはりセット公選の構想は、自治体のあるべき組織体制というよりは、コスト論や選挙の(不)効率性を重視したものということだろう。憲法問題に関して参考になるのは、93条2項の解釈において、首長の公選制が要請されている(間接選挙は認めない)のは当然だが、そもそも首長の必置までを要請するものではないとする学説があり、この解釈に立てば地方自治法を改正して、公選の知事という制度にかわって、議会やその任命する者(例えばシティ・マネージャー)が執行機関となることは可能である余地がある。実際に、93条1項は「法律の定めるところにより(中略)議会を設置する」と定めるが、議会の設置を憲法上必須の要請としたものとは解釈されていない(現実に地方自治法は、議会を置かず条例により有権者全員の総会(町村総会)を設けることを規定する)。このように、93条2項についても、その核心は直接公選制にあり、首長や議会などの組織のあり方については、憲法が(少なくとも長や議員の語を用いている以上、その存在を想定ないし奨励しているとは言えるとしても、)長なる執行機関または議会なる合議機関を必ず置けと言っているわけではないから、執行や合議のための組織のあり方については、憲法は一定の立法裁量を許しているという見方が可能かも知れないことになる。この論点(論点Bとしよう。)は、長や議会が必置でなく自治体の組織については一定の柔軟性を憲法も容認しているのではないかとの点であり、上述の河野構想が「長の直接公選」に反しないかの論点(論点Aとしよう。)とは、議論の対象を異にする。しかし、「長」の選び方として「直接公選」と見ることができるのかできないのか、という論点Aの議論はしっかり検討されるべきとして、そもそも「長」のあり方をどう構想するかについては(論点Bの憲法解釈の柔軟性を踏まえて)さまざまな観点から合目的的に考えて、ある程度柔軟に立法できるものと考えるとすれば、結局は、新しい形の「直接公選」を伴った長とナンバー2の組織体制のあり方という議論ができるのではないかという気もする。さて、河野構想は広がりを得られるか。憲法論議や自治制度の観点で見ると、高市総務相の答弁は否定的だが、おそらく、地方自治制度の従来の論議の図式には全くないような異次元なものを取り上げるわけにはいかないという官僚側の原稿を読んだだけだろう。異次元の異論と書いたが、私が不勉強なだけで、実はこれまで地方制度の議論で俎上にのぼったのかも知れない。知事の度重なる辞職という場合よりも、長の不信任と議会解散などで選挙が連発されるような場合はたびたびクローズアップされたから、これにともなうコストや行政の混乱停滞を回避するような制度の可能性について議論がなされてきているのかも知れない。■関連する過去の記事 大衡村の議会解散を考える(2015年3月18日)副知事の存在や機能は一般にどう認識されているだろうか。膨大な事務を抱える都道府県にあって、トップを補佐しつつ、あるいは政治情勢と行政ニーズの相克する場合にいわばクッション役となって、事実上は組織を統率して地方行政を牽引する、という姿だろうか。一般に、当該都道府県職員OBが就任したり中央官庁の職員が出向で務めることが多いのは、職員組織の統轄や行政実務の実質的な調整を担うという側面を反映している。また、この事実上の重要な職責に着目して、長が自らの施政方針の実現のために主体的に任用することもある(民間人や政治家の起用など)。このため、自治体事務の管理執行の責任はすべて長が負う建前ではあるけれども、副知事の地位の行政上や政治上の実質的な重要性から、議会の同意を必要としたもの(住民リコールの対象にもなる)と考えられるだろう。少なくとも現時点では、副知事が制度的に「次の知事」になるポストだという認識は、議会など政治の側にも、住民の側にもないだろう。実際に副知事から知事に立候補したり、知事が後継指名に副知事を挙げることはあっても、あくまで多数の選択の中の一つだ。これを、立法で(上述の憲法論議をクリアする前提で)セット選挙と自動昇格なる制度を導入するとしたら、政治側や有権者はどう考えるだろうか。政界の側では、勢力(与党、野党など)の内部が一本化するような配慮のもとに正副知事候補を擁立することが、まず考えられる。米国大統領選のように、与野党の指名を受けた大統領候補が、政党内の勢力バランスをみて副大統領補を指名するような図式だ。おそらくは、職員OBや中央省庁職員は擁立されにくくなるだろう。住民の側としては、どうだろうか。少なくとも、選挙に際して副知事候補の「独自の」政策などの訴えはなされないだろうから、人物の知名度やイメージぐらいしか認識しない可能性がある。自治体の内部で考えると、副知事が政治任用の側にすっかり振れてしまって、調整やクッションの役割が期待できなくなり、選挙に際する争点を中心にトップの意向が直裁に行政組織を動かすことになり、行政の継続性中立性のような側面は後退するのではないか。さらに、都道府県議会としても、公選の知事の施政方針を質しつつ、職員組織には法制面や予算面での実行可能性の検討などを迫るなど、ある意味で県政チェックの実効的な作法が積み重なってきたと言えるように思うが、このようなチェック手法もやりにくくなるかも知れない。もっともこれらは、程度の問題で、本質的な変革というべきものではないかも知れない。以上のようなことを考えると、やはり、河野構想の核心は、やはり自治の組織論ではなく、選挙コスト回避の観点と選挙の効率性(知名度選挙に流れるのではなく真っ当な候補者をじっくり選ぶという意味での効率性)なのだろう。しかし、効率性の点に関しては、逆に副知事候補に知名度ある人を挙げて(ドリームチケット)、当選可能性を高めるという政治側の行動が容易に予想されてしまい、むしろ河野氏の問題意識からかけ離れていく気もする。重要な問題提起だが、まずは自治の組織論としてしっかり検討されねばならないと思う(その上で、或いは同時に憲法論議も)。今回の舛添辞任については、都民には申し訳ないが、住民の判断のツケというしかない。本当にコストの点だけを重視するなら、辞任させないよう議会や都民が声を上げるべきことだ。住民に非があると言っているのではなくて、政治組織や選挙制度について合意がない以上、ルールに従わねばならないということだ。もちろん、辞職や不信任の判断をする長や議会においても、コスト論を十分考慮して行動すべきことは当然だが、長も議会も判断は「選挙」だったのであり、その判断はルールに反していないのはもとより、都民の多くの支持に依拠してもいるだろう。選挙のコストや効率性は重要な問題だ。だが、表面的や即応的な感覚の論議ではなくして、地方自治のあり方に根ざして考えていかなければならない。
2016.06.18
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集団的自衛権行使を可能とする政府の憲法解釈や法律成立に関して、「違憲性」を主張する憲法学者や法制局長官OBの側の対応に対して、規範論理的な見地から大きな問題提起をしたのが、話題の藤田名誉教授・元最高裁判事の論文ということだろう。その内容については、拙ブログにても要約した。 → 藤田論文を読む(2016年5月30日)従来の政府見解を変えようとすることが(それだけで当然に)憲法に反する、歴代の内閣法制局長官ができないと言っているのに変更する総理の姿勢は違憲だ(or立憲主義に反する)、などの論議がなされた。たしかに内閣の姿勢は、安全保障情勢や紛争地での活動に関する認識の点でも、憲法解釈論の理論的な説明の点でも丁寧さを欠き、さらに、審議時間を重ねたからなどと強引な姿勢も残した。だが、最後まで噛み合わなかった感じがするのは、根本的に何が原因だったのだろうか。私は、漠然とこう考えていた。久々に憲法が国民の前にクローズアップされた舞台で、憲法学者(の多く)は、集団的自衛権を(憲法改正を経ずして)解釈で導くのは無理だから違憲だという。だが、解釈にも柔軟性や変遷があっても良いはずで、70年間の世界情勢の変化をすくい上げながら(だって昔は自衛隊の存在さえ否定していたでしょ!)どこまでが(憲法の改正をしなくても)認められてどこからが憲法に反するか(やるなら憲法改正せよ)、学者にこそ明確にしていただきたいと思う。だが、国際情勢には冷淡で超然としているのか、いやむしろ、憲法解釈とは私らの専権事項とばかり、政治が(原子力ムラならぬ)憲法ムラに容喙するのを忌避しているような風さえ感じられた。そして、野党が露呈した自らの問題は、憲法学者が不得意だというのなら、政治家こそが、国際政治の現状をどう理解して国防の方向を導くかの議論をしていくべきところを、自衛隊員を危険にさらすとか、9割の学者も言っているのだから憲法を守れとか、社会党がよみがえったかのように硬直的で金科玉条的だったことにあった(だからこそ一致団結できたのか)と言っては言い過ぎか。国の守りを真剣に考えることを放擲する理由に憲法を挙げてはダメでしょう(憲法守って国滅ぶ。小林節の本の名)。このように今回の論議の「わかりにくさ」又は「消化不良感」は、国防政策論でも憲法論としても残ったのだが、このうち憲法論の側面で、より個別的な問いかけで具体化するとすれば、例えば、・憲法解釈は誰か(例えば内閣法制局長官の答弁で)行ったら、そこからどこまで変えられる/変えられないのか。・国会で何度も答弁した憲法解釈だとして、そのことから解釈を変えるのは憲法(立憲主義)に反するのか。・内閣法制局長官がダメと言ったら総理も従うのか。そんな点だろうか。これを思い出したのは、3月の読売新聞の記事だ。憲法学界でも、(ダメだからダメ、ではなく)この問題を理論的に考える見解が出ている。当ブログでも勉強した。(安保法制をめぐる立憲主義や違憲の論議を考える(その1)(2016年5月22日))藤田論文は、私自身のような一般人の漠然とした問いかけを含めて、今回の事態を法律学が規範論理的にどう考えるべきかを論じたものだと自分では理解した。もとより私には憲法も行政法も理論的な知識は薄いが、氏の意図を一言でいえば、(おそらく一般国民も安倍政権は不誠実だと思う一方で感じていた)憲法学の側の硬直性、言い換えれば、現実(国際)社会の問題の解決を導くために理論の発展を目指すという、およそ法解釈学や法律学者の存在意義ともいうべきものを、皆さんは(長らく)忘れておられるのではないか、の点を指摘するものだと言えよう。藤田名誉教授は、今回の法制が憲法に反するのかの結論については慎重にして言及しておらず、あくまで規範論理的な議論がしっかりと行われるべきだという立場から論じている。ただし、「憲法学界は戦略的に違憲論を振りかざすだけではなく、法案が現実に成立したのだから、(基本は反対だとしても)運用上の具体的な問題について学者として責任を持って見解を示す姿勢をとるべき」(この表現は私の意訳含む。)というのは、挑戦的ではある。省庁再編に携わり、最高裁判事も務められた氏が、(違憲合憲の結論に言及しないまでも)行政法分野での法解釈学の努力の事例をわざわざ引用しながら(憲法学者だって知らないはずもない)、憲法学界の(努力不足との)姿勢を批判するものである。従って、伝統的(?)憲法学者からは煙たがられる可能性があり、野党や一部マスコミからは「御用学者」とレッテルを貼られるかも知れない。もちろん、氏はそんなことは織り込み済みだろう。かくいう私も、かつて藤田教授の行政法の講義を聴いた。定義すら確定しない行政法(総論)の深みに戸惑ったが、例えば行政行為の公定力とは何か、行政裁量とは何か、民事法関係の適用の有無など、現実に事は進んでいるのに理論的には未だ整理されていない問題をどう考えていくかの点が、(理解がどこまで追いついたかは別として)興味深かった。とにかく論理的に考えること。現実の問題があるとすれば、さしあたりどのような理解や整理ができるか提示しながら検証していくこと。そんな印象があった。その後、行政関係をめぐる法整備は飛躍的に進んだ。通則的な部分では、手続法や救済法が格段に整備されてきた。戦後の公害問題、都市の土地利用と収用問題、情報公開、財政問題、住民訴訟などなど、社会や国民意識の変化とともに、行政法学も現代的に発展してきたと言えるだろう。個人的には、いまでも実定法規や行政法理論が本当のあるべき姿(住民の権利救済、行政コストの極小化など)に沿っていないと思う点は少なくないと思う。それでも、様々な法益のバランスを踏まえながら真剣に議論して、立法や運用に反映させてきたことは間違いない。その点で、憲法学の分野とは全く雲泥の格差なのではないか。(森羅万象の実定法規を対象とする行政法学と異なり、改正すらされていない実定憲法法規を扱う憲法学は事情が異なるという面はあろう。しかし、だからこそ、行政法学の場合と比べてあまり多くないはずの「現実世界」と接する機会に、学問の側がまさに学問の成果として、解釈論を丁寧かつ真剣に紹介する姿勢であるべきだということでないか。)憲法学者はどう受け止め、とりわけ集団的自衛権を違憲と結論づけている論者はどう反応・反論するのだろうか。9条の解釈を踏み越えることは説明済みだ、安倍内閣の行動は立憲主義に反することは十分に明らかになったはずだ、と主張するような気もする。しかし、具体的争訟に至らないと憲法判断に踏み込まれず、また統治行為とされる可能性もあることから、現実の権利救済や国のあるべき形に責任をもった議論を避けて、むしろ気安く違憲だと決めつけてきた風潮もあるのではないか。少なくとも、藤田論文の提起する規範論理的な検討の枠組にどうコメントし、あるいはその枠組じたいをどう批判できるのか、(非才ながら憲法学者の主張に)関心を持っていきたい。そして、学界論議のメディアによる正しい解説などを通じて、我が国の根本constitutionをどう考えるかが、本物の国民的論議として深まっていくとすれば、藤田先生の本当の願っておられることなのでないか。久しぶりに先生の下で勉強させていただいた気分である。そして、社会と学問のあり方を真剣に考えた学者としての良心と気概には、深く敬服申し上げたい。■藤田宙靖「覚え書き - 集団的自衛権の行使容認を巡る違憲論議について」 (第一法規『自治研究』92巻2号(通巻1104号、平成28年2月)pp3-29)■関連する過去の記事 藤田論文を読む(2016年5月30日) 安保法制をめぐる立憲主義や違憲の論議を考える(その1)(2016年5月22日) 気仙沼の九条(2015年9月19日)(安保法案成立に寄せて) 新安保法制と憲法学者(2015年6月6日)
2016.06.12
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藤田宙靖「覚え書き - 集団的自衛権の行使容認を巡る違憲論議について」(第一法規『自治研究』92巻2号(通巻1104号、平成28年2月)pp3-29)以下は当ジャーナルにおいて要約整理したもの。なるべく原文の表現を生かしたが、縮約する上での論理展開の明確さなどのため、一部で用語を置き換え、或いは語句を補っている。1 問題の所在昨秋189通常国会で成立した新安保法制とりわけ集団的自衛権行使は、政権が憲法9条改正手続を取らず、内閣法制局に解釈変更させた上で、政府解釈の閣議決定を行い、改正案を国会に提案したものだが、これは多くの憲法学者にとって言わば想定外。従って、この事態を阻止するための憲法理論が前もって十分に積み上げられたとは言えないだろう。それだけ、「立憲主義」を前提とする憲法学者の想定を越える「非常識」な政治行動だが、しかし、それが実定憲法に反するかの法規範論理上の問題は、それとは別に、そして正に実定法学としての憲法学が詰めるべき点だ。憲法学者の9割が違憲を主張することが重みを持つというのは、(数が9割だからではなく)専門家として理論的かつ詳細な検討の積み重ねの上に表明する見解であることが前提にあって初めて言えることだろう。とすると、行われるべきことは、事態(1)=内閣法制局による従来の政府解釈の変更(事態(1a)=それに付随する内閣法制局長官のすげ替え人事)事態(2)=政府解釈(現行憲法で集団的自衛権行使は不可)を変更した閣議決定事態(3)=改正法案の国会提出の国家行為がいかなる意味で憲法に違反するか、明確で精緻な理論的説明である。ところが、憲法学者や法制局長官OB等のこれまでの説明は必ずしもそうではない。その一因は、実定法解釈論の大前提たるべき法規範論理上のルール(公理)を踏まえた理論的展開がなされていないから。2 議論の出発点に置かれなければならない法解釈論上の「公理」公理とは以下の通り。(1)法解釈である以上、仮に従来の解釈が誤っていれば改めるのは当然。変更が許されないということは法理論上あり得ない。(むしろ、誤った解釈を認識しながら放置すれば憲法違反とも。)従って、解釈の変更が許されるかは、従前の解釈が誤っていたか否かの点に(のみ)掛かるはず。(2)国家機関は、法を適用するにあたり自ら法の内容の確定が必要だから、第一次的判断権を持つ。その際、明確な最高裁判例が無ければ、さしあたり自らの解釈によるしかない。内閣の場合これを助けるのが内閣法制局だが、同局は内閣を助けるにとどまり、内閣が内閣法制局の見解に法的に拘束される法理は現行法制上存しない。(3)憲法法規の内容について国家としての最終判断権は最高裁に属すから、他の国家機関の解釈は暫定的なものであり、ましてや内閣を補助する内閣法制局が憲法の守護神であるはずがない。この意味で、「解釈改憲」の語は誤解を招く。内閣や内閣法制局の憲法解釈が誤っていると考えれば、立法府は政府提案の法律を成立させないことが可能だし、立法が違憲と考えれば裁判所が無効を判断できる。(閣議決定をもって改憲行為や法の破砕行為とみる(石川健治)のは規範論理的に誤り。)これら(1)(2)(3)は何ら立憲主義に反せず、むしろ忠実。そして、これら枠組との関係で見る限り、上記1記載の3つの事態は理論的に悖るところはない。安倍総理が憲法違反はないというのも、まさに理論的根拠がある。従って、3つの公理を否定せずして違憲を指摘しようとするのならば、3つの事態において何故にこれら公理が適用されないのかを理論的に明確にしなければならない。以下に順次検討。3 「公理(1)」に関して仮に間違った解釈だとしても、一度確立した解釈の変更は許されないということが、いかなる理由のもとにあり得るのか。違憲とする見解がこれまで挙げた論拠は、憲法によって縛られる政府が自ら従来の憲法解釈を変更するのは立憲主義に反するという理屈。しかし、それだけでは余りに粗雑だ。国家権力を抑制するための法規の内容を、拘束される側の国家機関が自らに有利に(拘束緩和の方向に)解釈変更することが許されるかの問題は、行政法では例えば、課税要件の解釈を重課に変更する通達が租税法律主義に反する「通達課税」にならないかとして、古くから議論の積み重ねがある。すなわち、本来の法規範論理からすれば、行政機関の法解釈である通達は対国民、対司法では一切拘束力を持たないから、新通達に基づく課税処分の適法性は、すべて、法律の規定自体の解釈如何に係るのであって、通達とは無関係に国民は課税処分の違法性を争うことができるし、裁判所は自ら考える解釈に基づいて判断できる。とすれば、通達の変更とそれに基づく処分自体が違法となる理屈は本来ありえない(公理(1))。ただし、旧通達を前提に経済活動をしてきた納税者に及ぼす事実上の影響が大きいから、納税者の信頼保護の見地から、法的効果に(例えば信義則を引いて)何らかの制約をかけることが理論的に(どこまで)可能かが問われる。ここで重要なのは、本来、租税法律主義(法律による行政の原理)の中には、行政庁が予め一般的抽象的に定められた法律に従うことによって国民の信頼保護(法的安定性)と民主的正当性が担保されるという構造が存在することが大前提とされていること。従って、問題は、この基本原則を貫くこと自体が逆に信頼を破ることになるケースがあり得ることを(いかなる場合に)認め得るかに存することになる。最高裁は、まずは租税法定主義の遵守を出発点にして、納税者の信頼保護を個別的に図るという解決方法を選択している。租税法定主義と通達変更の関係を、立憲主義と憲法解釈の変更に相応して考えれば、行政法学(租税法学)では公理(1)の例外を上記のように理論的に導いているのであり、政府の憲法解釈変更もそれが本来可能であること(公理(1))を明確に認めた上で、例外が認められる場合と理由を詳細に詰めなければならない。行政法の世界では、例外を認める根拠は国民一人一人の信頼保護だが、憲法9条の政府解釈の場合は直接そのような理論的構造にはない。従来論拠とされる「法的安定性」は、誰に対するいかなる意味の保護なのか。憲法尊重義務を負う国家機関が自ら誤った解釈を正しい解釈に改めようとする(まさしく立憲主義に忠実な)所為を制約するほどの「法的安定性」とは、具体的にいかなる要請か明確にすべきだ。この点、長谷部教授は、従来の政府解釈を一内閣が勝手に変更するのは「法的安定性」を害するとした上で、この「法的安定性」の意味は、政府解釈に対する信頼が揺らぐ(その内閣限りの考えに過ぎないという不安感を与える)という。規範論理的意味が理解しにくい主張だが、さしあたり3通りの理解の仕方が考えられようか。(a)政府が一度憲法解釈を示すや、直ちに不可変更的効果が生じる。(政府の憲法解釈は、現在又は将来の国民や諸外国を名宛人として約束したもので、これを改めるのは合意は拘束するという近代法の根本原則に抵触する。石川健治) --> しかし、国家機関が一度行った行為を自ら変更できないというのは、裁判判決の自縛力のように特別の任務を与えられた場合に限られる(なお判例変更が認められる)。契約にも、例外的に事情変更法理がある。(b)従来の政府解釈は、ある内閣が一時点で示した(可能な中の一つの)解釈というにとどまらず、長期にわたり広く承認され、それに基づいて法的社会的に一定の秩序が形成されてきた。(内閣法制局長官OB達の指摘。阪田雅裕。確立した憲法解釈で、憲法習律といっても良い(宮崎礼壱)。従来の解釈が9条の規範として骨肉化(山口繁)。) --> 一定の説得力あるが、事実の積み重ねによる正当化は、規範論理的には限界が残る。例えば、前提状況が全く異なった場合にも変更が許されない(法的安定性が国民安全確保に優先する)のか。また、仮に解釈が行政府立法府の一種の内部規範になっていたとしても、直ちに憲法9条の内容そのものになっていたというためには、理論的根拠が不足する(司法部の判断は全くなされていない)。とすれば、従来の解釈は、通達のように一般的に内部ルール化されたと考えるべきであり、行政府立法府が自らこれに反する行動を取ることは法的安定性を自ら破壊すると言えるとしても、直ちに憲法の規定の意味するところであるとの論理を導かない。(例えば、このような拘束に反した法案が国会で法律として成立した後に、司法が法律の合憲性を審査する場合、上記の事実から当然に司法独自の憲法解釈を禁じられることにはならないだろう。)(c)「法的安定性」とは実は、従来の解釈こそが内容的に正しく、新解釈は誤りであるという実体的判断が既に前提にされている。(変更後の解釈が憲法9条の下では許容されないから、閣議決定でなし得る範疇を超えた措置であり、内閣の権能を越えたもの。大森政輔) --> とすると、結局、旧解釈は誤った解釈かという(後述の)問題に帰着することとなる。違憲の論の主張の趣旨を推し量るならば、(主張される「法的安定性」の実体は;おだずま注)実質的に、国会における審議の積み重ねで確立した政府解釈には、正しい解釈であるとの推定が働く、或いは、それを誤りという場合にはそれなりの十分な立証が必要である、という主張として理解することができるかも知れない。4 「公理(2)及び公理(3)」に関して内閣法制局が憲法の守護神というのは誤りだが(上述)、そうした主張の根源は、抽象的違憲審査が認められていない我が国では成立した法律の違憲を裁判所が判断する可能性が実質上極めて限られているところにあると思われる。加えて最高裁の従来の考え方では、安全保障については統治行為との判断を受ける可能性が大きい。この意味で内閣法制局が事実上護憲の砦として機能せざるを得ないという現実は否定できない。とすると、制度的制約を踏まえた上で、内閣法制局に行為規範の内容を法理論上論じることは可能かも知れない。例えば、内閣による憲法解釈変更に際しては法制局見解を踏まえる法的義務がある、法制局の憲法解釈変更に際しては最高裁判例変更のように手続上の加重要件を求める、などの法理が導けるか。長官の人事に関して何らかの制約(山本一。おだずま注:「本」原文ママ)も検討の余地あろう。今回の政府の憲法解釈変更は閣議決定の形式。これを、本来よるべき憲法改正手続回避の便法で権限の濫用から違法違憲とする主張ある(石川健治)。個々の行為は違法でなくとも組み合わされた一連の全体では違法と評価されるのではないかとの問題は、行政法の分野ではしばしば論じられる。例えば、行為形式の選択の自由の濫用(行政手続法適用を免れるため敢えて契約形式)、不当結合(行為の結果もたらされる事実上の結果ないし派生的法効果を利用)。これらは、本来の政策的狙いと選択された法形式との乖離が、広義の権限濫用とされる。とすると、閣議による憲法解釈の変更と法案提出が、当初9条改正を、次いで96条改正を狙い、それが困難であるため解釈変更の手法を用いたという経緯に鑑みて、改正手続回避の「形式の濫用」として違法(違憲)とできないかの問題提起も不可能ではなかろう(石川の主張)。ただし、その議論の際には他方で、一般に行政機関には手段の選択の余地も広いことを踏まえなければならない。本来法律改正で要件効果を明確に定めるのが望ましい場合でも、従来の法制度の運用で処理できる場合は敢えて法改正を求めない行政手法は珍しくなく、その全てを違法と決めつけることは、ほとんど不可能である。憲法9条についても、自衛権の行使が認められ、自衛隊が軍隊ではないとされてきたのは、まさにこの種の解釈運用によるもの。すなわち、権限の濫用が違法と一般的には言えても、何が濫用に当たるかは精緻な議論を必要とする問題なのである。結局、既存の法制度の解釈運用が許される範囲や余地の如何の問題なのであり、新解釈がその余地に納まるのかという内容の問題に帰着する。今回の閣議決定を、上記の経緯からのみ権限の濫用として違憲と断ずるのは、規範論理的に粗雑に過ぎると言わざるを得まい。5 閣議決定並びに(おだずま注:「並びに」は原文ママ)法案の内容の合憲性について結局、今回の事態をめぐる憲法問題は閣議決定及び法案の内容自体が正しい憲法解釈かという実体法上の問題を抜きには論じえない。この見地からまず検討されるべきは、安倍政権が言う従来の憲法解釈の「変更」とは、理論的には性格に何を意味するか。おそらく3通りの考え方があり得る。(変更1)旧解釈(集団的自衛権行使認められない)はそもそも間違っていたので、これを否定して改めて正しい解釈を行うもの。 --> 政府与党が砂川判決を引き合いに出して主張するところを見ると、この可能性も全く無いではない(変更2)旧解釈はかつては正しいが現在は状況の変化により誤ったものとなったので、新解釈を行うもの。 --> 安倍政権が国際的安保環境の変化を強調するところを見ると、この理論的可能性は明らかにある。(変更1)と解釈置換えの理論的根拠は異なるが、法的安定性は正面からは後退する結果になることは共通。(変更3)旧解釈は現在も基本的に誤っていないが、現状により則したように内容を一部解釈し直すもの。いわば(憲法の内容についての新解釈ではなく)解釈についての新解釈。 --> 従来の政府解釈(三条件前提とする限り集団的自衛権行使認められない)に対し、今回の閣議決定内容は、三条件は引き継いだ上で、その下でも必要最小限のものであれば集団的自衛権行使も認められる場合があるとしたもの。理論的は、旧解釈の内容を全面的原則的に否定したのではなく、例外的に極く絞られたケースにおいては例外も認められることを言うものに過ぎない。このように置換えでなく修正であればこそ、新解釈が従来政府解釈との連続性が断たれ法的安定性が損なわれるのでないかの問題が生じるのである。上記の3つの論点が明確に区別されないで議論されているため、違憲合憲の両主張がすれ違い、政府与党の「言い抜け」に利した感もある。論点を明確に整理し正面から理論的に詰める作業が法律学者に求められている。以下に考察の結果を示す。(変更1)について。政府自民党が理論的根拠を砂川判決に求めるのは全く的はずれの議論である(同判決が集団的自衛権行使を排除していないのは問題とされなかったからであって、容認しているのでは全くない)が、その理屈は、(1)9条の下でも自衛権に基づく武力行使は許される、(2)武力行使は国家存立を守るために必要最小限のものでなければならない、(3)その範囲内で集団的自衛権行使も許される、との論理に立った上で、砂川判決は(1)を明確に認めているから、(2)の要件クリアされる限り(3)も論理必然的に導き出しうる筈であるから、同判決は(3)の内容を含んでいると読むべきである、との考え方だろう(特に高村副総裁)。しかし、この理屈は、最高裁判決は具体的事案を離れて一般的に妥当する理論や命題を定立する目的でないことを全く理解しない初歩的な誤りを犯している(石川も)。ただ、最高裁判例のこの性質は学者においてもしばしば十分理解されていないと思われ、高村氏等の砂川判決論を批判する学者の側にも自覚が必要だ。(なお、今回専ら問題とされたのは、旧解釈から新解釈への変更の是非であって、違憲側の論者において旧解釈の正しさは大前提とされていたようだが、憲法学者の中にはその前提自体に疑念を抱くものもある。例えば大石眞は、予てより集団的自衛権は明文をもって禁止されてはおらず、立法経緯に照らしても9条制定に際してこの問題を考慮されていたとは考えられないと指摘する。ごく最近では棟居快行が個別的/集団的自衛権の二項対立的図式を批判して、合憲論は「芦田修正という9条の限定解釈」へ回帰すべきと主張。これら見解に対する違憲論側からの反応は不明だ。)(変更2)について。旧解釈が国際的安保環境の変化により「誤った解釈」に至ったのか否かが問題。誤っていると主張する側に説明・立証責任があるが、個別的自衛権行使で十分対処できるとの批判に政府が十分説得的な反論できていない。ただし、その判断は基本的に国際政治論や安保政策の問題であって、その判断の適否を法律学の分野でどう取り上げうるかは、それ自体十分な検討を要する困難な問題。政策的判断の適否をどう法的コントロール下に置けるかの問題は、行政法の分野では裁量処分の司法審査の可能性に関して(とりわけ判断過程のコントロールの視覚から)学説判例上議論が進展。かりに憲法学でもこれに類した手続法的アプローチを試みるならば、「ある政治的判断を行うために不可欠の事項について検討・説明を全く行わない(or極めて不十分な)ままに立案されている」場合に、これを法の問題として扱う余地がないか、が検討されるべきである(最大判平成16.1.14補足意見2を参照。おだずま注:参院非拘束名簿式比例代表制の合憲性に関する。立法裁量を尊重する補足意見1に対して、藤田氏を含む補足意見2は立法裁量の適正行使義務を果たさない場合は違憲判断も可能とする)。(変更3)について。この適否が、今回の違憲論議で究極的に重要な問題。政府の新解釈が旧解釈の枠組みを大きく踏み越えるものではない(基本的躯体を残した上での部分的修正に過ぎない)と言えるか否かが問題の枢要。ところで「旧解釈」による自衛権発動の要件について、従来の考え方は、(1)我が国に対する急迫不正の侵害があること。すなわち武力攻撃が発生したこと(2)これを排除するため他の適当な手段が無いこと(3)必要最小限度の実力行使に止まるべきことであり(阪田)、集団的自衛権行使は他国防衛であり、要件(1)「我が国に...」を満たさないとして、憲法9条の下で許される自衛権の行使に当たらないとの論理を採用してきた。安倍政権は、この解釈を修正して、要件を絞った上で集団的自衛権の行使も認められるというものに変更するのであるが、その際、「旧解釈」の変更であることを認めつつ、しかしその大枠から離れるものではない(その基本は踏まえたもの)と説明をしている。その理由は、新解釈の下で容認される集団的自衛権行使は、我が国の平和と安全を守るため必要最小限度に限られるから、という。しかし、要件(3)は武力行使に関わる要件であって、自衛権発動の前提条件に関わる要件ではない(阪田)。従来、集団的自衛権が許されないとされたのは、あくまで要件(1)を満たしていないとの考え方による(阪田)。そこで、自衛権行使が許される場合に関する要件(1)を厳密に考え、1ミリたりとも例外は認められないという考え方を前提とすれば、安倍政権の新解釈がその例外を認めようとするものであった場合には、新旧解釈の間には(量的ではなく)理論的に質的差異が生じていることになる(この点最も明確に指摘は宮崎。集団的自衛権は留保無しに、論理的帰結として否定されてきたとする)。長谷部が新解釈は従来の解釈の枠内では説明できないので許されないというのは、この意味で初めて理解されうる(長谷部の「法的安定性」確保には、先に指摘した点とならび、この意味での法解釈の連続性も含意されていると思われる。内閣法制局OBら(阪田、大森)のいう先に取り上げた主張も、法解釈の連続性という「修正の限界論」の一種とみることもできよう)。以上から、問題は新解釈の量的な連続性(安倍政権)があれば良いか、質的連続性も要するか、の点に帰することになりそうだが、もう1つ看過できないのは、政府与党の新解釈も原則(集団的自衛権行使は許されない)を全否定しているのではなく、ごく限られた例外のケースにおいては可能性も排除されないという論理に立っていることで、これを理論的に質的連続性欠くものと決めつけうるかの問題はなお残されていると思われる。まず、集団的自衛権が国連憲章51条に導入された背景等に照らし、自衛のための権利ではなく暫定的に認められた「同盟による私的解決」に過ぎない(宮崎)ことが前提とされるべき(石川は、同盟政策(集団的自衛権)と安全保障政策(個別的自衛権)とでは規範論理的構造が全く違うと指摘する)。その限りで、両者の大きな違いは否定できないが、「密接な関係にある外国に対する武力攻撃がなされていて実質自国に対する武力攻撃と同じ意味を持つような場合」或いは「引き続き自国に対する武力攻撃が確実である場合」にどう考えれば良いかは非常に微妙な問題である。集団的自衛権違憲説を徹底して貫くならば、これらケースでも先制攻撃にあたる武力行使は絶対に許されない、となろう(高見)。論理的にも実際的にも十分理由があるが、ただその場合にも「先制攻撃」とは何かの問題が残る上に、一般に法解釈論上、ある原則におよそ例外は一切認められないという硬直性を欠いた議論は(おだずま注:ママ。硬直性を貫徹した、或いは、柔軟性を欠いた、と換言すべきか。)むしろ稀有なことである。例えば、公明党は例外の要件を厳しく限定する形で旧解釈の修正を図ったが、一般的にあり得ない訳ではない。元長官の大森も、閣議決定が要件として掲げた「...我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」との要件について、素直に判読するとかなり限定的な表現だと発言している。しかし、例外を認めたとしても、今回の法律は、厳しく絞った筈の要件が実質的に底抜けではないかとの問題が残る。大森は表現上は限定的でありながら(ホムルズ海峡機雷掃海は認められる、自衛隊派遣の地理的制約はない、などの答弁から)新三要件は現実にほとんど制限的作用を果たさないとする。定式化された文言と定式化した政府の意思の間にずれがある(長谷部)ことを問題にする。換言すれば、法律の文言、立法者の意思、背景など、様々な立法事実の何を重視するかの解釈方法論の問題でもあるということだ。例えば、木村草太が、提案者発言から独立して法案文言の緻密な分析が必要との見地から、閣議決定で解釈変更したと説明されることも多いが、それは憲法論的には取り得ない解釈で、あくまで、ある武力行使が個別的自衛権としても集団的自衛権としても国際法上説明可能な場合に限り許されるに過ぎないと理解すべきと主張するのは、一例だろう。(閣議決定や法案の目的は木村の言う範囲に止まるものではない。安倍政権の解釈変更は、従来の政府見解では個別的自衛権しか認められないから解釈を変更したのである。)法解釈論として考えるとき、改正法が集団的自衛権の発動要件とする「存立事態」などの概念が余りにも抽象的すぎて、内閣の裁量判断の余地を広く認め過ぎているように見えることに、どのような規範的意味を与えるかが、何より検討されるべき。意味の確定が不明で無効とされるのは自明だが、有意味な文言で要件効果が定められている場合は単純な問題でない。例えば行政法上、裁量処分に関して法規裁量の概念が学説上生み出されたことからも容易に理解されるが、憲法の分野でも、合憲手限定解釈の手法がある。新三要件が、文言を素直に判読してかなり限定的な表現のはず(大森)と評価しうるものならば、問題は容易でない。法律制定を阻止するための戦略的な違憲論に止まらず、法案成立後に後始末をどうするのかまで視野に入れた場合には、問題は一層複雑となる。この点において、「憲法の枠内での法整備を実現させるには、提案者の発言から独立して、法案の文言を緻密に分析が必要で、そうでなければ実際に自衛隊が活動する段階で政府の勝手な法解釈を許し、法治主義による権力統制を不可能にしてしまうだろう」との木村の指摘は、極めて重要と思われる。6 結びに代えて安倍内閣の政治的な所作に対する怒りや、法制が真に日本の安全保障に必要かどうかの疑問があるとしても、憲法学が法律学であろうとするならば、政治的思いをそのまま違憲の結論に直結させることはむしろ足元を危うくするものであり、憲法学(者)もルールとマナーを踏まえるべきである。憲法学が何に答えており何に答えていないかを整理する作業だけは、誰かがやるべきである。同じ公法学者としてやむにやまれず筆を執った。本稿の公表に際しては、当初は日本法律家協会の「法の支配」に掲載を希望。しかし、現職の裁判官検察官を会員とする協会として当面掲載はできない。元最高裁判事という地位の影響力の強さも考慮された結果という。それでは、日本法律家協会と法の支配が泣く。真に情けない話と言わざるをえない。『自治研究』の寛容さと良心に深く感謝。■関連する過去の記事 安保法制をめぐる立憲主義や違憲の論議を考える(その1)(2016年5月22日) 気仙沼の九条(2015年9月19日)(安保法案成立に寄せて) 新安保法制と憲法学者(2015年6月6日)
2016.05.30
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安保関連法が施行されて2か月近く。この間、以前なら相容れないはずの小林節と樋口陽一の両氏共著の本が話題になったり(新聞に書評があった)、小林氏にいたっては参院選に打って出るという、まさに憲法学者や学界にも大きなうねりが起きているのか、と勝手に感じていた。ところで、安保法制をめぐる憲法学あるいは憲法学者の姿勢という意味では、3月末の読売新聞の特集記事がずっと頭に残っていた。(登場する3氏がみな東北大法学部ゆかりの先生という点も印象深いのだが、そのような側面はまったく別にして、)端的にいえば、学者の良心という意味であるべき姿勢なのではないか、という感覚で受け止めていた。どのような論議だったのか検証してみたく、あらためて新聞縮刷版を読んでみた。概ね次のようなものだ。(当ジャーナルで要約しました。)------------「論点スペシャル」立憲主義とは何か(読売新聞2016年3月30日東京版11ページ)(解題)安保関連法や政府憲法解釈変更を違憲とか立憲主義に反するとする声が今もある。では、そもそも「立憲主義」とは何か。政府の憲法解釈変更は許されないのか。2人の憲法学者に聞いた。■大石眞教授(京都大学大学院)(末尾に笹森春樹編集委員の名がある。聞き手or文責の意か)○ 立憲主義=憲法に則って国政を運営すること。その要素としては、国民権利保障と権力分立が強調されてきたが、現在は、憲法の最高法規性と合憲審査制が加えられることも。○ 安倍内閣の解釈変更を立憲主義に反するという人いるが、(1)およそ憲法解釈の変更が許されないとの議論はありえない。状況変化あれば解釈変わるのは当然(だからこそ判例変更も認められる)。(2)9条に絡むから解釈変更はいけないという人多いが、防衛力や自衛隊を保持しても平和主義の基本原理を捨てるわけではないし、9条解釈には国際的安全保障環境が大きく左右する事実を無視できない。(3)有権解釈権は政治部門の国会や内閣も持つ。法令制定や法案作成するから憲法適合性を判断する権限と義務を持つのは当然で、その解釈の変更もありうる。具体的争訟事件ない限り司法審査行われないから、内閣法制局の解釈が重要な働き。(4)そもそも元の憲法解釈が唯一で正しいという保証はあるのか。この問いかけないのが不思議。○ もちろん、野放図な解釈変更はよくない。国民生活上の予測可能性から、一定の安定は必要。○ また、解釈には一定の作法がある。例えば天皇の国事行為は7条列記以上の拡大解釈は趣旨を損ない許されない。また、どの要素が変わったのでこう解釈変えるときちんと説明が大事。○ こうした作法を守り丁寧な説明で必要な解釈変更を行うのは、むちゃなことではない。特に、防衛や安保は一種の保険。保険は事後に掛けても遅い。事前の手当ては立憲主義を守るならむしろ必要な作業だろう。○ 集団的自衛権行使に関しては憲法は解答を与えていないから、当然に違憲でなく推奨もされない。○ ある時代に作られた憲法があらゆる事を想定し答を書いていると考えるのは無理(だからこそ憲法改正手続に意味ある)。憲法の無謬性や完全性を強調すると、何でも取り込んで解釈しなければいけなくなる。○ 9条の解釈で戦争や侵略の歴史が強調されるのは解釈の作法としてあり得るが、それなら(尚更のこと)、憲法制定当時に意識されていなかった集団的自衛権の問題に、現行憲法が解答を与えているとは言えないというべき。■山元一教授(慶応大学大学院)(末尾に舟槻格致調査研究本部主任研究員の名)○ 国際標準に基づけば、立憲主義=憲法に政治を従わせること。裁判所が憲法違反と判断すれば、政府は政策を諦めるか憲法改正するかだ。○ 憲法改正反対の人たちの間では「どうしても必要なとき以外は改正すべきでない」との意見も。しかし、国際的に仏などそう考えられていないし、立憲主義は特定の政策に反対するために使う概念でない。○ 現在の日本では、立憲主義が統治の品格(政治家がわきまえるべき権力行使への畏怖心をもつこと)のような意味で使われる。例えば、安倍内閣が法制局に勤務経験のない人物を長官にしたのは好ましくないという見方は可能だが、それが法律に反したわけでも立憲主義が崩壊したわけでもない。そんな意味で立憲主義の語を使うと、結局好き嫌いの問題に帰着するから注意すべき。○ 政府の新3要件は少なくとも論理的には成立。ただし、実際に当てはまる事例が起きるかは疑問。9条解釈変更は本当に必要だったのかと思う。今後、選挙や国会審議で争点となり国民の判断を仰ぐことになろう。○ 法律の解釈は親子鑑定のように絶対的ではないが、あまりにはずれた解釈は認められないとの意味で相場観がある。9条に関してはその幅が極めて広い(自衛権すら認めていないという人から、個別的自衛権までは認められる、さらに、集団的自衛権まで全部、核武装も可能、と全く収拾つかない)。残念ながら戦後に防衛政策のコンセンサス得られなかったことに起因。○ だから、9条の議論はどうしても政治性帯びる。9割の憲法学者が違憲と言ったから学理的に違憲という言い回しは妥当と思わない。学説は戦後大きく変容した。自衛隊違憲論が主流 → 政府による合憲との解釈が市民権得た。国民的熟議のたまものとも言われる。日本では解釈変更により合意形成が積み上げられてきたとも言え、多くの憲法学者が個別的自衛権や自衛隊を容認するのは、学者も合意形成のプロセスに参加してきたということだ。現実に対応しながらラジカルでなく緩やかな変化で済ませることも可能になった。これによって自衛隊への信頼が高まり戦後の日本が安定して繁栄したことをプラスに評価しないのはフェアでない。○ 集団的自衛権は戦後発効の国連憲章で弱小国守るために認められた側面あるから、集団的自衛権が認められない世界は恐ろしい面も。そして、その行使を認めることは、憲法をはじめとする戦後レジームからの脱却ではなく、戦後レジームの追求そのものとも言える。■上記2氏の記事に挟まれた格好で、舟槻格致氏の署名の解説記事がある。○ 昨年6月4日衆院憲法審査会で、長谷部教授ら三人が法案を違憲と指摘。長谷部氏は「集団的自衛権の行使が許されるというその点について憲法違反と考える。従来の政府見解の基本的な論理の枠内では説明がつかない」と語った。○ 学界では、集団的自衛権行使を違憲とし、政府が憲法解釈を変えたことを立憲主義に反すると批判する声が強い。○ 一方で、新三要件により厳しく行使を限定したことに一定の評価を示す見解も。元内閣法制局長官の阪田雅裕弁護士。井上武史・九州大準教授。○ 元最高裁判事で行政法権威の藤田宙靖東北大名誉教授が、総合月刊誌「自治研究」2月号に寄稿した論文が関係者で注目されている。論文は、「政府が従来の憲法解釈を変更するのは立憲主義に反するという理屈は、それだけではあまりにも粗雑」との評価を示し、「従来の法制度の運用で処理できる場合には、あえて法改正を求めるのではなく、従来の法規の解釈運用によって済ませるという行政手法は決して珍しくはなく、そのすべてを違法と決めつけることはほとんど不可能」とする。○ 藤田氏は、読売新聞に、「どの党が政権を持っても通用する解釈の議論をしたかった。憲法解釈も法解釈の一つ。議論を通じて憲法学の足腰が鍛えられればいい」と語った。○ 安保関連法制定の背景には、日本の安保環境の悪化がある。多くの国や外交安保の前面に立つ当局者達が法制を支持している。むしろ従来の憲法解釈との整合性を重視したため内容が不十分になったとの意見も多い。国家と国民をタテの関係で捉え、憲法で権力の暴走を防ぐという近代の発想は重要でも、それだけでは現代社会を捉えきれないとの指摘もある。学説は現実にどのように向き合うのか、今後の議論見守りたい。------------大石教授の説明は極めて論理的で、政治的政策的な価値判断を前提とせずに、憲法の存在意義や機能の点から立憲主義の意義と憲法解釈のあり方を説得的に示していると思う。もっとも、集団的自衛権に関して現行憲法が(制定当時から)解答を与えていないという点は、学界では異論が多いのだろう。山元教授の説明は、戦後日本の進路の評価や集団的自衛権の現代史的意味なども取り上げ、その点で「政治」に向き合うようにも感じられるが、防衛政策のあり方を憲法解釈の幅の中で国民的熟議で決めていくべきことは、(これまでのプロセスの評価も含めて)政治のあるべき姿とも重なり首肯されるように思う。また、立憲主義を特定の政策や政治姿勢の好き嫌いのために持ち出すべきでないことは、説得的だ。「政府解釈を変更するから違憲だ」式の議論は、ナンセンスだと思ってはいた。9条を破壊するからいけない、というのも何か教条主義的で、国際情勢や国民生活の現実をあえて考慮しようとしない硬直思考だと感じていた。今回の読売の特集は、憲法の解釈運用の範囲として改正法が許容されることを支持ないし示唆するもので、さらに言えば、舟槻氏の解説も含めて読売の社論を鮮明にしたものとも見られるかも知れない。注目されているという藤田名誉教授の雑誌論文。「自治研究」2月号の冒頭に掲載されている。私も、昨日読んでみた。内容は次回に譲りたいが、熱意や使命感がほとばしる論文で、次のような部分が印象に強く残る。安倍内閣の政治的な所作に対する怒りや、法制が真に日本の安全保障に必要かどうかの疑問があるとしても、憲法学者たとえば長谷部教授が「従来の政府解釈を一内閣が勝手に変更するのは法的安定性を害する」とかする発言に規範論理的な意味があるのか。法律学たるべき以上、憲法学(者)もルールとマナーを踏まえるべきで、憲法学が何に答えており何に答えていないかを整理する作業だけは、誰かがやるべきである。同じ公法学者としてやむにやまれず筆を執った。本稿の公表に際しては、当初は日本法律家協会の「法の支配」に掲載を希望。しかし、現職の裁判官検察官を会員とする協会として当面掲載はできない。元最高裁判事という地位の影響力の強さも考慮された結果という。それでは、日本法律家協会と法の支配が泣く。真に情けない話と言わざるをえない。こんな事が論文の中に、書かれている。大石教授が集団的自衛権について憲法は特定の姿勢を示していないことを指摘して以後、学界から反論がないことなども指摘されていた。山元教授らの学説も登場する。読売が言うように、どれだけ学界の波紋となっているのか解らないが、極めて興味深く重要な一稿であろう。もとより憲法の素養も知識もうすいが、藤田論文の内容についてじっくり考えてみたい。(次回に続く)■関連する過去の記事 気仙沼の九条(2015年9月19日)(安保法案成立に寄せて) 新安保法制と憲法学者(2015年6月6日)
2016.05.22
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何となしに新聞の地方選挙の結果欄を眺めていた。日曜日(10日)の投開票の結果が並んでいる。詳しいことまではわからないから、現職が敗れたんだとか、元県議どおしの一騎打ちだったとか、あるいは都会は投票率が低いななど、想像をめぐらすしかできない。その中で、岐阜県下呂市長選挙の結果が気になった。新人が元職を破ったのだが、この55歳の元職の肩書きが元衆院議員。つまり、下呂市長と代議士を両方経験しているはずで、なおかつ、少なくとも改選時において市長ではないことがわかる。若い頃から公選のポストにあった人物だということになる。下呂市長選挙結果当選 服部氏(無新、自公推薦)12227次点 山田氏(無元)9753新聞の解説によると、序盤は8年ぶりの返り咲きを目指す山田氏がリード。自民のテコ入れで服部氏が形勢を逆転したという。山田氏は下呂町議を務めた後、岐阜県議選や衆院選に出馬して落選。2004年に誕生した下呂市の市長選挙で僅差で当選したが、08年市長選で敗退。09年の衆院選で民主党公認で比例東海ブロックで当選。最近まで民主党県連の役員でもあったので国政復帰も期待されたようだが、これを辞しての市長選出馬。実は、下呂市長選挙は注目される選挙のようで、当ジャーナルが4年前にも記事にしていた。■関連する過去の日記下呂市長選 過去最低の投票率が84%(2012年4月16日)このときは、宮城県の首長選挙に比べて高い投票率であることから、政治的な盛り上がりのあった選挙戦だったのだろうという観点で関心をもったのだった。今回の投票率は79.74%で、これでも宮城県民としてはずいぶんと高いと感じるのだが、下呂市長選挙では過去最低。
2016.04.12
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民主と維新が合流することになり、党名を公募するという。ところで、複数の週刊誌が報じていることだが、寡黙ながら野党大連合に向けて布石を打ってきた岡田代表を突き動かしたのは、ほかならぬ昨年の宮城県議選。共産が倍増の8議席、民主は2議席減らした。今のままの民主党の末路を予感し、また、安倍政権の批判票を受け止める野党の体制の必要性を痛感したということだろうか。その宮城では、夏の参院選で共産党が候補者取り下げを決定。野党が民主の桜井参院議員に一本化する体制ができた。自民は熊谷氏が再選をめざすが、今回から定数が1人に減り、相当激戦が予想される。第三極を目指してきた勢力が離合を繰り返して残ったのが維新。民主とは、例えば公務員制度改革などで温度差が大きいだろう。そして、共産党だが、さすがに革命を実行するとの言葉は消えているだろうが、共産主義社会実現を綱領に明記した政党であって、野党と言うだけが共通点であって政治観は根本的に違う。国民生活に影響する政策などでの共通性はあるとしても、国会での活動に際しての協定や統一行動はありえようが、有権者との接点であり政治への窓口である選挙の段階で既に「一本化」してしまっては、当の有権者はどうすればいいのか。もっとも、大多数の国民はそこまで深刻には考えないだろうが、(政治観はともかく)少なくとも主要政策についてしっかりと「統一候補」が語れるようにしなければならない。なりふり構わない民主党の対応のようにも見えるが、党勢の今後を熟考していることは間違いない。それに、党衆参同日選の可能性もある。安倍総理が党内の反対を抑えこむようにあえて衆院定数削減の発言をしたり、野党のみだれをつくような改憲発言。さらには辺野古の訴訟和解で知事と握手してみせたり。同日選挙があるかも知れない。
2016.03.05
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ついに今日、全国集計がでた。報道としては、まず、国勢調査人口が初めてマイナスになったことや東京集中が進んでいることが言われている。だが、東北人としては、震災の影響を含む東北の真の姿がどうだったか、だ。今回は人口や世帯数だけなので、年齢区分別や通勤通学状況などがわからないから詳しい分析はできないのだが、それでも象徴的ながらも、かなりのことが浮かび上がっていると言えるだろう。まず、人口減少。秋田県が全国で最高(最低)の減少率。5.8%だ。下位から、秋田、福島、青森、高知、山形、和歌山、岩手...と、東北が際だっている。このうち、福島は前回国調より大きく下がったのは大震災の影響だが、その他の県は、前回も高い減少率であったのが更に低下していることは深刻だ。比較するに、鳥取、島根は前回の減少率よりは持ち直している。実は、東北では岩手もそうだ。秋田、青森、山形とはこの点で分かれた形だ。次に、大震災の影響。これは複雑だ。福島県が大きく減少したのは、全町避難で人口ゼロの4町を抱えるなどの特殊事情だが、市町村単位で見れば、岩手、宮城でも激減の市町村が多い。全国の市町村で人口減少数が高いのは、北九州市、長崎市に次いで、第3位が石巻市(13590人)だ。また、気仙沼市が12位。逆に仙台市は全国7位の増加数(36199人)で、これは震災の影響と無縁ではない。宮城県全体では前回より減少率が増加したものの、減少した道府県中では、大阪、広島に次いで3番目の「好成績」だった。大震災は、津波被害地で人口減少をもたらした一方で、内陸部に人口移動と集中を招いているのである。なお、人口減少率の高い市町村でみると(全域が避難指示区域の町村を除く)、楢葉町(-87.3%)を筆頭に、女川町(-37.0)、南三陸町(-29.0)、川内村、山元町と続く。悔しくて悲しいことだ。逆に増加率の高いのは、大和町(全国第3位で13.5%)、富谷町(全国第13位)がある。東北の各県も、地域によってずいぶんと事情が異なるということだ。最後に、世帯増減率について触れておきたい。沖縄がダントツで第一位。7.6%の増だ。次いで第2位が何と宮城県で、4.8%だ。以下、東京、埼玉、愛知と続く。宮城の2位はもちろん大震災の影響だろう。世帯あたり人員は、前回(平成22)の2.60から2.47と大きく下がった。東北各県の情勢、また前にちょっとふれたが、男女比などについて、後に調べて記します。■関連する過去の記事(平成27国勢調査関係) 福岡市の人口が神戸市を上回る(2016年2月21日) 人口の男女比の地域差を考える(2016年1月14日) 国勢調査速報と山形市の人口ビジョン(2015年12月28日)
2016.02.26
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先日、山形県で32年間無免許のまま県立学校教諭として教えていた件で、任用無効の法理などについて記した。■ 山形県教委の教員任用無効の法理を考える(2016年2月23日)この女性が受給した1億数千万円の給与は、全額返還となるのかどうか。ここには様々な論点が含まれている。前回の記事では、理論上は女性による根拠のない労務提供が県側の不当利得となり、県側はこれを女性に返還すべき義務を負うから、女性の負う給与返還義務と相殺できる余地があると書いた。より突っ込んで考えてみたい。(思いつくままに記す。判例や学説の検討などは後回しです。)1 労務提供による不当利得が成立するかまず、女性の給与返還義務については、受益者である女性は悪意というべきで(法律上の原因を欠くことを知っている)、利息を付して返還する義務を負う(民法704条)。ここは問題ないだろう。そして、労務提供という県の受益の返還義務が問題となるが、受益者の県が善意とみるならば、返還額は現存利益に縮減されることになる(703条)。(県側には、しっかり調べるべきだという落ち度には大きいものがあるが、まずは善意であることとする。)なお、受益及び現存利益の存否が一応問題となるが、ともかくも7700人に授業を教えて単位を与えて、あるいは生徒指導をして卒業させたきたのだから、当人がいなければ他の教員を一人任用して従事させねばならなかったはずで、利益は存在したのであり、また、生徒達が卒業したということからは高校教育を施すという県の「利益」は現存していると考えて良いように思われる。ただし、女性の労務提供は、その義務が本来存在しないことを知って行ってきたのだから、非債弁済(705条)であって女性側に返還請求権は生じないとも言えそうだ。この論点は相当に微妙な気がする。形式的にみれば、たしかに免許状がないことを知って任用されたし、いつでも白状して自ら違法状態を解消できた(そうすべき)だったから、法の保護に値しないというのは、正論だ。しかし、実質的に考えると、どうか。そもそも不当利得や非債弁済の制度があるのは、当事者の公平の観点から適正な結果を導くためのもの。実態としては、学校や生徒の求めに応じて長年にわたり教育活動を実践していたこと、教育を通じた人間関係を形成し、さらには給与が女性の生活基盤であったことなどを、どこまで評価してやれるか(やるべきか)。2 時効の適用不当利得の返還請求権の消滅時効期間は10年間。起算点は、請求できる時点であるから、県側の給与返還請求権は無免許を知った時点(つい最近)で、さほど問題はない。問題は、女性側の返還請求権(上記の検討で請求権が発生するとして)で、起算点は権利行使できた時点(166条)、すなわち最も早くには任用された時点にさかのぼるということができるだろう。そして、その後、継続的に労務を提供したから、その時点時点で返還請求権の消滅時効が起算しているということになるのではないだろうか。結果として、現在から10年前までの部分については、女性は県の時効援用を拒むことができる、つまり県に返還請求できるということになると考える。3 民法の適用があるかさて、ことは公務員の任免と公務労働の問題だから、一般私人関係を律する民法の適用があるかが、そもそも問題となる。時効の期間や援用の要否などで違いが出ると思われるが、任免関係を通説である行政行為とみるか契約説をとるかどうかにかかわらず、勤務に基づく給与支給や労務提供の問題は、公の債権としての規律をあてはめるべきではないと考える。以上、後に時間を見つけて補充します。
2016.02.25
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衆院定数の削減が現実的な段階に動き出した。先週の野田元首相と安倍総理の討論で思い起こす人たちも多いだろうが、自民が政権を奪還した12年末の総選挙の前提である解散の決断の際に、野田総理は定数削減を安倍総裁に確約させた。うろたえた安倍氏の姿が印象に残る。しかし、三党合意などの「証文」にも関わらず、自民は、ゼロ増5減だけは成立させたものの(14年総選挙で適用)抜本改革は先送りの姿勢だった。衆院の有識者調査会の答申があり、政治の世界はまた自らを律する力を問われる局面になった。そして、自民に追い打ちをかける議員の失態が相次いだこともあり、自民も改革を引っ張る姿勢を明確にし始めた。10減は先送りせずに実施し(小選挙区で6減)、アダムズ方式は採用しない(もっとも安倍総理は含みを残す)。野党はおおむね答申尊重であるなか、逆に目立つのが定数削減に反対する共産党の姿勢だ。その共産は、昨日、夏の参院選1人区での公認候補の取り下げを発表した。野党共闘を重視するという方針だが、安保関連法廃止などを公約とすることを条件に取り下げることで、政策実現に向けた歴史的な一歩を記したということになろう。私は、民主党の姿勢が試されると思う。もともと寄り合い所帯が、維新との合流も見えてきて、さらには共産と政策協定なのか、など国民はこの野党第一党の揺るぎない姿勢や信念や、あるいは疑似政権党として何をしてくれるのかという明確な印象を求めている。自民の選挙改革の姿勢を批判するのは良いが、「責任政党」自民も政治の現実を見据えて動き出した。共産も、ある意味現実路線戦略。民主が、従来の民主党から脱皮できるかの点こそが、いまの政界でいちばん問われているのではないか。参院選の対応、だいじょうぶか。
2016.02.23
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数日前に新聞で小さく報道されていたが、昨年の国勢調査の結果、福岡市の人口が神戸市を上回った。指定都市中の順位は神戸市を上回って第5位に、ということだ。当の福岡や兵庫ではどんな報道をしているのかと思って、見てみた。西日本新聞では「福岡市、暮らしやすさが好評 魚おいしく、緑も豊か」との見出しで、上げ潮ムード。市役所庁舎各室の照明を利用して、数字の5をイルミネーションにしている写真が載った。対して、神戸新聞では「人口6位に転落」として、人口規模のみを追い求めず、神戸らしい魅力やブランド力に磨きをかけ、まちの総合力を高めたい」との市長のコメントを紹介。単に人口規模の序列を云々するだけなら、さほど意味はない。市域の物理的限界などの事情もあろうし、市長のコメントはそのとおりだと思う。ただし、人口動態には当然、マクロには経済の実勢、ミクロには人々の生活の実相の積み重ねが反映するのだから、そこをどう適切に解釈していくのかは非常に重要だろう。単なる優越(劣等)感をこえて、危機感にもつながるその実相はどうなのか、という関心があるから、人口順位という簡明で象徴的な数字も取り上げられるという訳だ。さて、数字だが、神戸市は1,537,860人0.4%の減。阪神大震災直後を除いて初めての減少。少子化や東京圏への流出と説明されている。地元としては衝撃ともいえる受け止めだろう。対する福岡市。以前から九州圏域での吸収力が指摘されていたが、1,538,510人で、何と5.1%の増加は指定都市中第一。こちらは一貫して増加を続けている。九州各県からの流入が多い。前回は京都市をも下回って7位だったのが、一気に5位だ。なお、京都市では、順位に着眼した目立った報道は少ないようだ。前回調査では京都市は減少だったが、今回は微増(+555人、+0.04%)で、1,474,570人。市中心部でマンションが増え、大学キャンパスの都心回帰もあった、などと説明されているようだ。あとから福岡市の速報値が報道されたところで、もともと都市の質や格(!)が違うのだから、動じないという姿勢か。(以上、数字は速報値です。)さて、人口順位だけで見れば京都や神戸という旧5大市を上回った福岡市の実力が浮かび上がっている形だが、指定都市の全体を見渡すと、まず、札幌市は既に200万人を伺う規模となり、4位で安定している。今回は2.1%増で、1,953,784人。福岡市と同様に旧5大市以外の新参都市である札幌市だが、昇格後の1975国調では、福岡市、川崎市、そして先輩指定都市の北九州市をすでに上回っているが、京都、神戸に次ぐ第6位。85年までに両市を抜いて4位にあがったが、昇格前(100プラス数万人程度)に比較して人口は倍近くに成長している。ここで、指定都市の上位各市の順位の変遷をみてみよう。まず、横浜市は1960年代に名古屋市を、70年代には大阪市を抜いて(なお合併による市域拡大などの事情もある。いか同じ)、第1位を不動にしている。今回3,726,167人。福岡市は昇格後の75年国調では、100万2千人で、指定都市中最下位の第9位だったが、翌調査から川崎と北九州を抜いて7位にあがっている。京都市と神戸市は、それぞれ第4位と第5位が指定席だったが、80年に札幌が5位に入り神戸が6位に。85年には京都が札幌に4位の座を明け渡して5位に落ちる。90年に両市同士で逆転して神戸5位、京都6位となる。いったん95年に再び順位が逆転するが(大震災の影響だろう)、2000年からふたたび神戸5位、京都6位である。今回は揃って福岡市に抜かれたわけだ。そして、わが仙台市だが、11番目に仲間入りした指定都市だったが、現在の順位も11番目。これまでに北九州市を抜いたが、後発参入のさいたま市が人口では上位にある。今回1,082,185人で3.5%増。150万都市クラスの福岡、神戸、京都、川崎の各市は目標としては上すぎるか。とすると、120万前後のさいたま市(今回1,264,253人、+3.1%)と広島市(今回1,194,504人、+1.8%)がいちおう「目標」だろうか。今後間違いなく、人口減少局面が予想される。数字は上昇したとしても、内実をよく見なければならない。仙台市の場合も、沿岸部と中心部での格差、また、女性が伸びていないことなどを重視すべきだ。
2016.02.21
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4月に行われる衆院京都3区の補欠選挙では、民主党現職の泉健太氏が立候補を表明している。しかし、泉代議士は、辞職した宮崎氏(自民)に京都3区で敗れているはいえ、比例近畿ブロックで復活した現役の代議士だ。わざわざ辞職して小選挙区で勝ちたいという本人の意向や政党の思惑はそれとして、選挙制度における有権者の立場から見れば、何の意味があるのか。素直に、そう感じていた。誰かこの点を指摘して論じてくれないかと思っていたら、河北新報の県内版によると、中野正志参院議員が、ズバリ泉氏の鞍替え立候補を批判したという。わが宮城の国会議員と我らが河北新報が報じたことに、感謝?の念。中野氏の論は、辞めて同じバッジをつけ直すのはおかしい、というのだが、中野氏本人にまつわる経緯があるのだ。04年に衆院宮城2区選出議員だった鎌田さゆり氏(民主党。現宮城県議)が辞職した際に、中野氏は自民党公認で宮城2区で鎌田氏に敗れ、比例で復活していた。ちょうど、今回の京都3区の泉氏の立場だ。鞍替え立候補を検討したが、自民党や他党から、現職が辞職して同じ選挙に出るのはおかしいとの批判を受けて断念したという。中野氏は、泉氏は当然のように立候補し、民主党は公認すると言うが、それはおかしい、議員と政党のわがままだ、と指摘したとのことだ。まさに簡潔にして明瞭。まったく同感だ。有権者からすれば、衆院議員として立候補した泉氏は、比例復活であってもとにかく衆院議員になったのだ。小選挙区当選議員も、復活議員も、あるいは比例単独議員も、議員としての責任や権能に何の違いもないし、もちろん任期が長くなるわけでもない。この人にとって言わば「立候補の大義」がない。かりに、晴れて小選挙区当選の栄誉を勝ち得たとして、有権者や国民からみて、泉氏に期待する国会議員活動に何の違いも出るわけでないから。(あえて言うならば、比例ではなく小選挙区なら、当該地域の有権者のためだけに仕事をさせてもらいます、という違いか。議員は全国民の代表(半代表)の建前とは言っても、現実的に選挙区を念頭に活動するのは当然だから。だがしかし、比例復活議員は小選挙区議員を目指して立候補して惜敗した人なのだから、実質は小選挙区の議員と言っていいだろう。これとは峻別された「比例議員像」を有権者が観念しているとは思えない。比例当選議員が、どの地域に根を張って活動するかは、それまでの経緯や事情で決まってくるのであって、(比例で復活したら)近畿とか東北とかのブロックを満遍なくドブ板活動しろとは有権者は思っていない。なお、以上の私の立場からすれば、比例単独で当選した人が小選挙区に鞍替え立候補するのは、多少は「立候補の大義」があることになろうか。小選挙区当選の現職が選挙区を替えて鞍替え立候補する場合に近いことになる。)さて、ならば、なぜ鞍替え立候補なのか。それは、政治的な事情だけだ。民主党が議席を増やせるからである。すなわち、自民は公認を立てないだろうから、小選挙区で悠々勝利した上に、比例で繰上を得られる。また、夏の参院選に向けて党勢に弾みが付くというものだ。ちなみに、繰り上げする人は、比例近畿で次点だった北神圭朗氏で、京都4区が地盤という。現職の参院議員が衆院補選に打って出ることはよくある。国会議員を大括りにしてみれば、それだって批判されるべきとも言えそうだが、しかし、少なくとも形式上、衆院と参院の議員に期待される役割は違うし、実質的にも選挙区の地域の広さや任期も違うから、有権者にとって「選挙の利益」はあると言えるだろう。これに比較して、まったく同じ衆院議員になるために現職をやめるというのだから、「投票の利益」などないのだ。あるとすれば、永田町の論理。政治的な思惑にお付き合いする(付き合わされる)ということだけだ。民主党の対応も、いかがなものか。私は、小選挙区は堂々と泉代議士以外の候補者を公認すべきと思う。勝てる候補で楽勝して党勢拡大、などと永田町の論理丸出しで、それは有権者に失礼というものだ。いったい選挙を何だと思っているのか。だいたい、今回の件も、敵失で喜んでいる程度の話だ。しっかり新人を擁立していくなどの対応もできないのか、と逆に底の浅さを示してしまうことにならないか。そもそも何でこのような事態が生じるのだろうか。そこには、複雑怪奇な選挙制度の存在がある。小選挙区と比例区の並立制で、しかも重複立候補を認める法制がとられていることだ。現実として(特に自民や民主では)重複立候補が多く行われ、惜敗率に基づき比例復活するという仕組みが、政治的な面では、候補者の救済の機能を果たすとともに、地方政治の世界で、「わが選挙区あるいは地域には現職衆院議員が2人いる。2人目は復活だけどね。」という状況を作り出す。ここから、一種の小選挙区「優位」観が生じてきて、何としても小選挙区勝利をめざすという思いが候補者や陣営にわき上がるという面があるだろう。また(より重要な点だろうが)、比例繰り上げ当選の仕組みとあいまって、選挙区で逆転勝利すれば、党の議席数拡大に寄与することが狙いとされることになる。そして、誰を立てるか。人材が豊富なら良いが、貴重な候補者(いわゆる総支部長)が比例復活していると、それをさしおいて新人を立てるより、総支部長ならまとまりやすい。だが、あくまで選挙制度として見た場合には、当選人決定の技術的な過程に過ぎない。一番大事なのは有権者がどう見るかだろう。例えば、わが宮城県の場合、1区では郡和子さん(民主)が、5区で勝沼栄明さん(自民)が比例復活だ。復活だろうが小選挙区だろうが、とにかく、しっかり仕事をしてくれれば良い、というだけなのだ。京都3区補選に際して、この論議が沸き起こるかどうか注目したい。とは言っても、つまらない制度論やスジ論が受けるはずもないか。ところで、京都3区は、1996年の初めての小選挙区選挙で共産党候補が議席をとっている。こんな選挙区は全国的にもまれだ。共産は、野党統一候補に含みをもたせる対応をしているようだ。維新は独自候補を擁立の構え。そして、補選の原因となった極めて情けない宮崎辞任の自民は、地元の主戦論をよそに党本部が不戦敗に傾いているという。何とも無責任なことだ。各党の対応についても、有権者、国民がしっかり評価していくべきだ。(補論)実は過去にも比例復活当選議員が、衆院補選で選挙区に鞍替え立候補した事例があることを知った。木下厚さんで、2003年埼玉8区で民主党公認で落選するも比例北関東ブロックで復活。直後に8区の当選議員(自民)が公選法違反で辞職。木下氏は翌年4月の補選に鞍替え立候補(衆院議員を自動失職)。自民新人に敗れた。この際にも、鞍替え立候補に批判はあったようだ。
2016.02.18
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今朝の朝日新聞(県内版)で、平成27国勢調査の結果(速報値)をもとに男女別の視点で人口増減を分析していた。宮城県全体では前回平成22年に対して1万4千人の減少なのだが、実は男性だけをみると増加(+561人)している。市町村別では沿岸部で男性が多くなっており、復興事業に携わる人を反映しているという。男女比という単純な数字ながら、地域のさまざまな違いを反映していることが考えられ、奥深いものがあるように思われる。実は、当ジャーナル編集長は、かつて男女比の地域差を調べようと思って、平成22国勢調査データをもとに全国市区町村の比率を出したことがある。総務省サイトにあるので簡単に表計算で作業できる。(ありがたい時代になりました。)人口に占める女性の比率を計算すると、全国では0.5133になる。なお、市部では.5130で、郡部は0.5161である。県単位では、青森0.5295 岩手0.5226 宮城0.5147 秋田0.5304 山形0.5204 福島0.5147となる。すべて全国値より高い(女性が多い)が、中でも秋田、青森が高い。ちなみに、東京都0.5051 茨城0.5017 栃木0.5035 千葉0.5016など首都圏はずいぶん低い。愛知県は0.4965で、神奈川県は0.4978、埼玉県0.4984で、男性の絶対数が多い。市区町村別でこの値をみていくと、値の高い(0.54以上)ところ(女性比が大)は、東北では、弘前市、五所川原市、外ヶ浜町、大鰐町、板柳町、三種町である。青森に集中している。逆に値の小さい(0.51以下。なお0.5未満は数値を示す。)は、東北では、三沢市、西目屋村(0.4831)、六ヶ所村(0.4425)、大間町、東通村、風間浦村、佐井村、階上町、北上市、金ケ崎町、仙台市宮城野区、同若林区、多賀城市(0.4989)、七ヶ宿町、村田町、柴田町、七ヶ浜町、大和町、大衡村、大潟村、米沢市、東根市、朝日町、郡山市、白河市、大玉村、鏡石町、檜枝岐村、北塩原村、西郷村(0.4963)、中島村、矢吹町、棚倉町、鮫川村、玉川村、平田村、浅川町、広野町、富岡町(0.4853)、川内村(0.4986)、大熊町、葛尾村(0.4722)、飯舘村。直観的にだが、言えそうなこととして、自衛隊のあるところや自動車関連の工場集積がある地域は男性が多いようだ。その要因以外では、過疎地域には女性が多いところと、逆に男性が多い町が、混在するようにも見える。一般的平均的には女性が多いはずなのだが、働き手の男性が都市部に出てしまったという側面と、女性が若い時代に都市部に出て戻らない側面とがあって、各地域の交通や雇用などの状況を反映して、どちらの面が強くでるかということなのだろうか。ちょっといい加減な仮説。年齢階層別の男女比、さらには経済や雇用の指標との関連性を分析すれば、非常に面白いだろう。あとで時間があれば、深めたい。
2016.01.14
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過日、大潟富士について調べた際に気になっていたこと。(日本一低い山より低い山(2015年10月7日))通常、地方公共団体の誕生(新設)は、廃置分合によって生じるのであって、その区域は従前はいずれかの地方公共団体の区域に含まれていたはずである。しかし、大潟村は、干拓によって全く新しく生まれた自治体だろう。その区域が全く新たに出現したのだろうから。これに関係するのかどうか、昭和39年法律106号「大規模な公有水面の埋立てに伴う村の設置に係る地方自治法等の特例に関する法律」というのがある。気になった。何が原則に対する特例なのか。そもそも区域の新規出現に際して、地方自治法はどういう姿勢で臨んでいるのか。また、細かいことだが、干拓事業の途中で出現していた陸地は、大潟村誕生までの間、どこかの町に属していたのかどうか。属していたと考えれば、そこから分離して新しい団体となったのか。そもそも干拓前の八郎潟の水面はどこかの町に属していたのでないか、などなど。この疑問は、以下のように整理されるようだ。1 新たに生じた土地の帰属に関する法理「市町村の区域内に新たに土地を生じたとき」は、市町村長は、議会の議決を経て確認し都道府県知事に届け出なければならない(知事は直ちに告示する)とされる(自治9条の5)。昭和36年11月法235による改正で設けられた条文である。「確認」という議会提出議案もユニークな気がするが、この立法内容の意味を知るには、前提として、以下2から5までに記したような自治法の規定及び経緯を理解しなければならない。2 従来地方公共団体に属しない地域の処遇なお、注意すべきは、自治6条2項後段、7条の2に、「従来地方公共団体の区域に属しなかった地域」という語が登場する。これは、わが国土を構成するが地方公共団体に属していない地域のことで、次の手続が規定されている。○(法律で別に定めるものを除く外、)編入する必要があると認めるときは、内閣が定める(※法律で定める場合とは、割譲等により相当に広い土地が我が国の領土となるような場合が考えられる。現在までに法律は存在しない。)○ あらかじめ、利害関係のある都道府県又は市町村に意見を聴く○ 意見については議会の議決を経る(以上、7条の2)○ 都道府県の境界は(法律を要せずに)変更される(6条2項後段)この対象となる地域(地方公共団体に属していない地域)とは、具体的に言えば○ 地方自治法施行前から我が国の領土ではあるが、いずれの地方公共団体にも属していない地域○ 新たに領海外の海中に造成された島嶼で、我が国の領有となった地域○ 新たに我が国の領土に属せしめられた地域と例示される(松本英昭『逐条地方自治法』)。領海内の埋立地は、元来領海であればいずれかの普通地方公共団体の区域であるはずだから、この対象とならないと考えるようだ。従って、この規定が発動されたことはまれであり、青森、秋田両県の沖合に存在し、長く両県で争いがあったため、どの地方公共団体にも帰属していなかった久六島について、内閣が青森県(深浦町)の区域に編入することを定めた(昭和28年)ことがある(松本上掲)。なお、7条の2を加える法改正は編入告示前年の昭和27年8月成立(法律306)であり、久六島問題を解決が現実の目的だったようだ。(この久六島周辺はアワビやサザエの宝庫で、久六サザエという有名ブランドだそうだ。)3 市町村の境界に関する争論及び決定について上記の2は、「いずれの地方公共団体にも属していない地域」の問題だが、これと異なるケースとして、「市町村の境界に関して争論があるとき」(自治9条)と「市町村の境界が判明でない場合」(自治9条の2=昭和27年8月法律306追加)がある。前者の場合には、市町村の申請(議会の議決経由)と知事が調定に付すること又は裁定することが定められており、後者の場合は、知事が関係市町村の意見(議会の議決経由)を聴いて決定することが定められている。これらと上記2との場合分けは、やや微妙な感じもするが、上記2は、どの自治体も「自分のところだ」と主張せず、「(新たに)ウチに編入されるべき」という主張だった、と理解しておこう。現実感覚としては、遠く離れた岩礁である九六島のケースと、蔵王などの良くある境界争いとでは、たしかに違う。4 公有水面のみに係る特例さて、昭和36年11月法235は、新たに第9条の3を設けて、公有水面のみに係る境界決定等の特例規定を置いた。その理由は、公有水面埋立地の所属について、関係市町村の意見が一致せず、埋立竣功後長期間に所属が決定しない事例が多かったため、これを未然に防止すべく事前に確定させる趣旨のようだ(松本上掲)。○ 公有水面のみの境界変更は、関係市町村の同意(議会の議決経由)を得て知事が県議会の議決を経て定める(7条1項の例外。市町村の申請を要しない。)。○ 公有水面のみに係る市町村の境界に争論があるときは、知事は職権で調定に付することや裁定ができる(9条1項2項の例外)。この法改正では9条の4も設けられた。○(総務大臣又は)知事は、公有水面の埋立により造成されるべき土地の所属すべき市町村を定めるため必要があると認めるときは、できる限りすみやかに前2条に規定する措置を講じなければならない。すなわち、法改正の趣旨をより確実にするために、努力義務を課したものだ。5 小括ここまで、地方自治法の規定をみてきたが、第9条の5の存在は、それに先立つ第9条の2から第9条の4までを前提にしている。「市町村の区域内にあらたに土地を生じたとき」、すなわち埋立や干拓などがあった場合は、予め(埋立前に)確定されていた境界を、埋立後に改めて確認するという手続を設けたのである。随分と慎重な規定を設けたように思える。昭和36年改正以前には、「所属未定地編入処分」なる制度があった。しかし、地先の水面埋立の造成地の帰属に紛争が生じるケースが多く、知事の編入処分ができない(知事が編入処分する法制だったようだ)事例が相次いだことから、法改正に至ったもののようだ。6 特別法の意義さて、ここまで来ていよいよ、特別法の話である。昭和39年法律106号「大規模な公有水面の埋立てに伴う村の設置に係る地方自治法等の特例に関する法律」である。規定内容は概ね次のとおり。○ 大規模な埋立の場合、造成土地であらたに村を設置するのが適当と認める場合、内閣が関係地方公共団体の意見(議会の議決経由)を聴いて、あらたに村を設置することができる。○ その他、設置選挙、職務執行者、組織や条例の特例等。直接に国が村を設置する。それも、自治(総務)大臣ではなく、内閣が定めるというのだ。村の発足は、昭和39年10月1日。この特例法の適用によって設置されたのかどうか、今のところ調べ尽くせないが、このような法律が存在していることからすれば、そうだったのだろう。埋立で紛争が絶えなかったので自治法を改正した。その頃に動いていた巨大プロジェクトについては、さすがに、通常の法理とは別の特例法に仕立てて対応しようと考えられたのだろう。そして、三権分立の建前から、内閣や地方自治の権限であるべき個別自治体の監督権限を国会が直接処置するように見えることを避けて、一般的な定めとして定立した姿を纏っているのだろう。それにしても、大潟村は、特別な存在だ。
2015.10.09
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青森のニュースで、十和田市が耐震性などの理由で新渡戸記念館を廃止する条例改正をしたのに対して、記念館の資料保有者がの「条例の取消を求めて市を相手に訴えた」というのが報じられている。ここで、条例の取消を求める訴訟というから、抗告訴訟だろう。とすると、条例制定(廃止する条例の制定ということになろうか)の処分性が論点になるはずだ。ここで思い出すのが、横浜市の市立保育所民営化の訴訟。横浜地裁が条例制定に処分性を認めたことにあれこれ論評した。■関連する過去の記事 保育所民営化が違法? 横浜地裁判決を考える(その5 見解・続)(06年6月9日) 保育所民営化が違法? 横浜地裁判決を考える(その4 見解)(06年6月6日) 保育所民営化が違法? 横浜地裁判決を考える(その3 判決の論理・続々)(06年6月6日) 保育所民営化が違法? 横浜地裁判決を考える(その2 判決の論理・続)(06年6月6日) 保育所民営化が違法? 横浜地裁判決を考える(その1 判決の論理)(06年6月6日)私の問題意識は特に、条例制定という自治体活動が実質的に行政処分と同視されるとする構成に対する疑問だった。法律と行政活動との関係(措置法・処分的法律の論点)も参考に、条例それ自体に処分的性格を認るめことは疑問だし、また、公選の議会が住民の意向を反映して意思を集約、表明したものである以上は、たとえそこに表面上一貫性がみえないとしても、あるいは政治的判断どの事情があったとしても、その手続や過程が団体自治として優先されるべきであって(国政なら立法裁量、あるいは話を広げれば統治行為論)、裁判所が立ち入って判断すべきではないのではないか、というものだった。裁判所には、条例制定行為はあくまで自治体の長の総合調整の延長で、地方議会は可否を表明するワンステップにすぎないという感覚もあるのかも知れない。実質的に考えても、私人の救済(何らかの地位の回復、損害賠償など)は、何らかの個別的な行政活動を捕まえれば良くて、あえて条例制定(可決)行為を違法とすべき必要性はさほどないのでないか。さらには、第三者との関係で判決の効果をどう考えるのかなどなど、疑問はつきない。もう10年近くにもなるが、上記のとおり当時の意識で論点は整理していた。(今じっくり読み返す時間と体力がありませんが。)その後、横浜市の事件では最高裁も、処分と実質的に同視すべき処分性を一般論としては認めた、と評されている。今回は、条例を違法といわねばならない論理構成の必要性があるのだろうか。自治体の政策法務の観点から、また、地方議会の立場としても(条例の処分性が認められる余地が広がるとすれば)大きな関心が寄せられるべき論点だろう。
2015.07.01
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4日の衆議院憲法審査会で、新しい安全保障法制に関して、3人の憲法学者が参考人として意見を述べた。長谷部恭男氏は自民、公明の推薦)、小林節氏(民主)、笹田栄司氏(維新)。いずれも新法制は現憲法9条に反しているとの陳述だった。政府与党の出鼻をくじいた形となり、また、有る意味で久々に「憲法学者」の存在感が発揮されたという印象を受けた。有る意味、というのは、かつての安保闘争などの社会運動を背景にして、憲法といえば9条。護憲といえば9条神聖視。そして憲法学者といえば砦を守る人たち、というイメージが長くあったのではないだろうか。慶應の小林氏については、もう20年も前になろうか著書『憲法守って国滅ぶ』の印象か、改憲論者と思っていた。それまで、空理空論で現実の国家間関係や生活者の感覚とは遊離しているものと一般に思われていたはずの憲法学界で、新たな旗手登場との印象を私は持っていた。なので、民主党側の推薦ということに少し驚いたが、考えてみれば改憲論者であっても(だからこそというべきか)、現在の憲法規定を踏み越えていることについては明確に論破するのだろう。国家の根本法たる憲法の範囲をどう確定するかについて、古今東西の知恵をもって正しい解釈を論じるのが憲法学者であるならば、その指し示す解釈の域を超える以上は、憲法を改正する必要があるのだ。やや飛躍していうならば、今回の法改正が国家の今後のために必要なのであればまず9条改正を国民に問うのが先だ、というのが我が国の constitution(国家法規体系とでもいおうか)の導く帰結だ。すなわち健全な論議であり、憲法学者の本領発揮である。かつてのイデオロギー性を帯びた憲法学者の存在(注)から、新たに、法規範たる憲法の代弁者として、憲法学者の存在がクローズアップされている、と言えるのでないか。(注:憲法学者がみな特定の政治的主張を持っていたと私が思っているのではない。安保論議や国際平和貢献に対して抑制的に論じる憲法学界は、マスコミの報道ぶりもあって政党間の構図の中で硬直的平和主義と捉えられてきたというのが実態でないか。その根本には我が9条の世界史的特異性があるのだ。)
2015.06.06
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政府与党はドローンの法規制の検討に入ったという。まず、官邸や国会周辺の上空を飛行禁止とする議員立法を、いまの定例会に提出。次いで、購入の際の登録義務づけなどの規制を、次の臨時国会に提案するという方針と報道されている。そんな中、大阪市は市内981の全ての公園でドローン飛行を禁じる方針を打ち出した。条例の制定や改正を行うのではなく、「他人に危害を及ぼす恐れのある行為」という現在の条項の運用で対処するのだとか。一網打尽にドローンの操作を禁止するのは広汎に過ぎないか、との懸念は一応感じる。もちろん、社会情勢の変化に応じた法(条例)解釈の多少の幅はあって当然ではあるが。運用上にしても立法論としても、届出制にするとか、構築物の周辺に限定するなどの、より制限的な規制方法は考えられるだろう。おそらく、保守派の首長のことだから、いま国に先んじて厳しい印象を与える行動そのものに意義を感じているのだろう。この動きが上滑り的な時流にのって全国に広まってしまうかも知れない。ところで、総務省総合通信基盤局が28日に、小型無人機「ドローン」による撮影映像等のインターネット上での取扱に係る注意喚起、というものをリリースしている。読んでみると、ドローンは「普段人の目が届かない民家やマンションの部屋の中などを空から撮影することが可能です」から始まって、撮影した画像をインターネットで公開することは、プライバシーや肖像権を侵害するおそれがあるということを述べている。政府の方針に沿ってまずは注意喚起ということだろうが、おかしいと感じるのは私だけであるまい。そもそも、飛行物体を承諾なく他人の家の上に飛ばすこと自体が、所有権を侵しているのであり、(民事上)違法と評価されるべきことである。「...が可能です」と言える役人の感覚がおかしいのだ。インターネット通信を所管する立場で言えること(だけ)を精一杯国民に伝えたということだろうが、まさに縦割りの典型だ。そもそも、ドローンなる新手の飛び道具が登場したとはいえ、ドローン問題の本体は、勝手にのぞき見してはいけないよという点と、これに加えて勝手に人家の敷地内に飛ばしてはいけない、という点。何のことはなくて、違法ではあるが、本来的に社会生活におけるマナーに属すると言っても良い程度の話だ。そんなこと言ったって、やっぱり危険だろう、という国民の方々もおられるだろう。しかし、ドローン自体に危険があるのではなく、危険物を装填して落下させるとか、機密やプライバシーを覗かれることについて、危険や危機を感じるのではないか。とすれば、それはドローンなる道具を極めて特殊な用途に活用した場合なのであって、当該の行為そのものを規制(強い処罰)することが本筋だ。銃について、道具じたいが危険であることから規制を行っている(登録制など)こととは、本質的に異なるのだ。また、官邸などの危機管理は当然のことで、警備や情報管理をしっかりして守るべきを守ることにつきる。今回は、黒く塗って悪質だとか、福島の放射能を含む砂を入れた点からテロに悪用されるだとか、警備の不備を押し隠そうと躍起になる故か、無理をして危険性を誇張しようとしているようにさえ見える。何だか余計なところで大騒ぎ。
2015.04.30
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各紙で報道されているが、北名古屋市で字の「読み方」を変更する議案が全会一致で可決されたという。「土部」を「どぶ」ではなくて「つちぶ」と読ませる変更なのだが、気になったのは、どのような「議案」なのだろうか。たしかに地方自治法は、市町村長は「市町村の区域内の町若しくは字の区域を新たに画し若しくはこれを廃止し、又は町若しくは字の区域若しくはその名称を変更しようとするときは、当該市町村の議会の議決を経て定めなければならない」と定める(260条1項)。だが、そこにいう「名称」とは町名そのもの、具体的に言えば漢字(ひらがな地名もあるが)の表記の問題であって、「読み方」を想定しているのではないように思われる。つまり、「読み方」の変更ならば、260条1項による議会の議案とせず、また、同条の後項で定める市町村長の告示などの手続も不要になる、と解釈できるような気もするのだ。実際には、どうだったのだろう。北名古屋市のサイトには丁寧に各号議案が載っている。議案第75号というもので、地方自治法第260条第1項の規定により字の呼称を別紙のとおり変更する、とする。別紙には、変更前後の表があり、「徳重土部」は変更の前も後も同じ表記で、併記されるカッコ書きの読み仮名が、「(とくしげどぶ)」から「(とくしべつちぶ)」に変わることが示されている。なるほど。「260条1項の規定により」と議案事項であることの根拠を示しているから、今回の変更は自治法上は「名称」の変更に該当するものと理解されているはずである。ただし、議案の文中では、変更する対象が文字ではなく読み方にとどまることをわかりやすく示すために、あえて「名称」ではなく「呼称」の変更との表現を採用した、ということになろう。議案の件名が「字の呼称の変更について」としているのも、工夫なのだろう。報道には、名称変更を議決事項とする自治法の規定に「準じて」議決した、とするものがある。この表現は微妙だが、上記のように議案そのものは根拠条文をはっきり示しているから、名称変更として扱っているというほかないだろう。換言すれば、名称変更の範囲をどう理解するかの問題なのだ。今回の北名古屋市の事例は住民からの要望に基づくという。今後も同様の事例がありうるかもしれない。また、「名称変更」の射程範囲の問題として考えると、たとえば(a)多賀城の下馬「げば」を東京みたいに「しもうま」と読ませたいとき(b)「七ヶ浜」を「七ケ浜」と表記を改めたいときは議会の議案になるのか、という具体的な問題も派生するだろう。時間があれば、あとで扱ってみます。■関連する過去の記事 金ケ崎町は大きな「ケ」で決まり(07年9月29日)
2014.12.20
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この思いは多くの国民が抱いているだろう。安倍政権の長期化をねらった政治的判断、というのが取りあえずは共通理解というところか。しかし、政治的深謀はそれとして、建前だけの解散の「大義」だとしても、増税を問うて解散ならまだわかるが、増税を延期することを問う解散というのは、まことにわかりにくい。ある解説によると、もともと総理は年内の解散を目論んでいた。アベノミクスの成果に、北朝鮮の拉致問題の一定の成果をひっさげて、政権の盤石をねらう。かねてから消費再増税を延期する考えがでいたのかどうかは不明だが、経済好調なら再増税の決断をした上で信を問うという形も、当然あり得よう。ところが、拉致の進展はない、おまけに閣僚の不祥事が続出した。支持率もそこそこあるうちに解散してしまおう。野党も共闘態勢が整わないように、サッサと。何も、GDPが2期連続マイナスとは言っても、識者は消費再増税を支持しているし、何より財政再建の本気度はどうなのか。国民の多くも、いずれ増税はやむなしと考えている。なぜに、誰のために、トップがわざわざ旗を降ろすのだろうか。ここで想起するのは、ここまでの条件整備に大きく貢献した野田前総理。あの2年前の党首討論でのサプライズな解散発言。あきらかに安倍総裁はうろたえていたが、野田氏は選挙制度の改革を明確に引き出した。そもそも、社会保障と税の一体改革に道筋をつけたという点では、後世に大きな功績を残した野田政権だった。それなのに、再増税は延期、しかも選挙制度改革は何の進展もなかったばかりか、三党合意は白紙になると言わんばかりの勢いだ。引かれたレールから自ら降りようとしている安倍総理は、今度ばかりは、この判断を決して民主党のせいにはできないのは明らかだ。野田氏は、先日、公約違反であることを淡々と語っていたが、内心は相当怒っているだろう。いや、国民が怒らねばならないのだ。与党の多数にまかせて、国家百年の計をゆがめ、議会制の本質ともいうべき政治的妥協も無視し、それを国民が求めていることだからなどと説明されるのでは、主権者国民も情けないのではないか。それとも、堂々と長期政権めざす必要があるから、それが国民のためだから、と本音丸出しで説明するのだろうか。それが、本格派政権なのか。実はセコいばかりではないのか。今回の解散のわかりにくさ、割り切れなさについて、私なりに記してみました。
2014.11.17
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わが宮城県のニュースで気になった。県内の女性が、交際相手の浮気を解消させるため都内の「別れさせ屋」に工作を依頼して代金も支払ったが、会社側が仕事をしないので、代金に利息を付した分の損害賠償を求めて、昨年12月下旬に仙台地裁に提訴したというものだ。13日にわかった、という説明で報道されている。この会社が請け負ったような「別れさせ屋」とは、疑似恋愛で人をダマして破局させる(結果的に復縁できるようにする)という手法なのだそうだ。具体的には、依頼者の配偶者や交際相手が浮気をしているような場合に、さらに別の異性(おとり)を接近させて、その浮気をまず解消させ、さらにおとりの異性も姿を消すということになるのだろう。そんなことがうまく行くのかどうか知らないが。そしてこの県内女性の場合は、2006年12月に会社に工作を依頼。調査料として代金80万円を支払った。契約上は会社が女性調査員を派遣して気を引き、別れさせたあとに復縁させることになっていた(らしい)。しかし、その後会社側は女性調査員を派遣していないとして、女性は契約解除の意思を伝えた(とされる)。それで、利息分を含めて107万円の損害賠償を求めているということらしい。ちなみに浮気も解消していないらしい(そりゃそうだろう)。原告側代理人は「そもそも、個人間の恋愛感情に干渉し、対価を得ることは公序良俗に反する。そうでなくても、別れさせることが可能であるかのような虚偽説明は詐欺にあたる」と契約の無効や取消しを主張しているそうだ。民法90条(公序良俗違反で契約無効)を根拠とし、かりに有効だとしても、できもしない工作を説明した会社側の欺罔だとして、同法96条(詐欺による意思表示で取消し)を根拠にするという主張なのだろう。なお、会社側は答弁書で「婚姻外の男女を別れさせる働き掛けが、当然に公序良俗に違反するということはできない」と反論。女性調査員の派遣はした、と主張しているようだ。朝日新聞の記事では、内容は淡々と叙述しているが、見出しが「私が頼んだんだけど・・・ 別れさせ屋は違法で無効」という趣旨のタイトルで、原告女性が虫の良さを示唆するような感じだ。さて、よく考えてみよう。詐欺の主張は別として、90条違反の点だ。公の秩序と善良の風俗に反する内容の契約は当然に無効で(90条)、教室設例的には、裏口入試の依頼、愛人契約、暴利行為などだろう。そして、90条が出たら必ず708条を論じろと民法の先生に言われたように、不法原因給付の議論があるはずだ。90条違反の契約は絶対的に無効(追認もできないはずだからだ)。となると、既に給付された依頼料80万円は不当利得であって、会社側が保有するいわれがないから、女性に返還することになりそうだ。しかし、民法708条は不法の原因のため給付した者は返還をもとめることができないと定める。つまり、反社会的行為(契約)をした場合は、その契約自体も無効とする(90条)上に、さらに、給付してしまった物の返還請求権を法的に認めない。かりに訴訟で求めても国家として認めないとしているのだ。とんでもない契約をした者が、給付したカネを返せと訴えることができるのでは、虫が良すぎるという思想だろう。息子の裏口入学を依頼した親が、不合格だったから金返せとは言えないのだ。請け負ったエージェントが裏の世界で返還するのはあるだろうけど、エージェントが息子ができが悪かったからだと突っぱねた場合に、親が表の世界(裁判)で返還を主張してもダメなのだ。それは、エージェントを得させる趣旨ではなく、不法な契約をした者に国家が助力しないという毅然とした姿勢からくる結果なのだ。俗な言い方をすれば、悪を頼んだ者が、予定通り行かないからあのカネ返せというのは正義に反するだろう、ということだ。これを今回の女性について言えば、金返せというのは正義に反するということで、庶民感覚にも合いそうな感じがする。法律的には708条に反して認められないとなりそうで、このことは記事では触れていないが、上記の朝日の見出しが、女性の身勝手を読者に代わってとりあえず非難しているようにも読める。(なお、訴訟では損害賠償を主張しているようだが、708条は、不当利得返還の場合のみならず損害賠償の場合にも類推適用される。)原告はどのような論法で臨んでいるのだろう。別れさせ契約の無効を主張しておきながら、708条の場面ではないという構成をとっているハズだから、やり方として思いつくままに考えてみると、(1)90条違反だが708条該当ではない(どうやって?)(2)別れさせ契約自体は無効だが、返還の合意が別途有効に存在していた(返還合意は当初からではなく会社の不作為が明らかになった後に救済のために行われた、として当初契約との関係を希薄化させて主張)(3)別れさせ契約は無効。しかし会社側の全体の態度(不作為)が損害を与えた(契約外の事実たる不法行為の構成だが、そんなの無理だろう)(4)不法性はもっぱら会社(反社会的行為を広告)に存在し、女性(かよわい消費者!)の賠償請求は保護される(708条但書)(5)不法性は両者が認識していたが、圧倒的に会社側の方が主導していたとか。記事では、被告の会社側は90条違反ではないという主張のようだから、708条の論議には入っていないのかも知れない。
2013.02.15
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酒田市長選挙は今日夕方立候補締切りで、前副市長と前衆院議員の2人の争いが確定した。ところで、国政から転じた和嶋氏が衆院議員を辞職したことに伴い、比例(東北ブロック)の名簿の繰上をめぐって問題が起きている。本来は、次点の川口民一元岩手県議・元雫石町長が繰り上がるはずのところだが、当の川口氏が新党「国民の生活が第一」の活動に参加するなどの反党行為があったとの理由で民主党を除籍(除名)された。今月5日に処分決定を受けたもの。このため、国の選挙会は19日、名簿順位で川口氏の下で次点となった渡部一夫元南相馬市議の繰上当選を決めている。川口氏は、民主党の処分は納得できないとして提訴する方針を表明している。処分をした党本部には事実誤認があるという主張らしい。対する民主党本部は、当選した後に「生活」に移籍する事態を絶つとともに、「生活」に厳しい姿勢を示したということだろう。比例代表制度や名簿順位は、政党の自治と有権者の投票意思あるい「全国民の代表」性をめぐって問題が生じる焦点だ。選挙区候補と違い、比例代表制度により当選した候補は、政党の名簿に載ることが前提だから、党を移籍した場合や党から除名された場合に国会議員の地位を保持するのかどうかが問題になる。今回と似たようなものが、日本新党繰上補充事件だ。平成4年参院比例代表選挙で登載順位5位で次点となった者(松崎哲久)が平成5年6月に除名となった。同年7月の衆院選挙に名簿順位1位と2位の議員が立候補(細川護煕、小池百合子)したため、参議院議員の欠員が生じたが、名簿登載順位6位と7位の者が当選人とされた。順位5位ながら除名された松崎は、除名の不存在ないし無効を理由に当選訴訟を提起した。東京高裁は松崎の訴えを認めたのだが、平成7年の最高裁判決は、政党の自律性を尊重し、除名届が適法である限り、政党による除名が不存在又は無効であることは当選訴訟における当選無効の原因にはならない、とした。なお、平成12年の公選法改正では、比例代表選出の議員が所属政党を移動した場合は、退職者となる(当選人は資格喪失)と定められた。(無所属となった場合や新政党への移動は退職者とならない)。今回のケースは基本的には日本新党事件のパターンだろう。もっとも、平成7年最高裁判決は、当選訴訟では除名処分内容の当否に踏み込まないと政党の自律性を優先させているから、今回の川口氏は、まず処分自体の当否を争うということになるのだろう(私見)。
2012.10.21
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朝日の社説。予想通り、対中関係への配慮と、例によって明解な立場は避け判断留保的な姿勢に終始する。曰く、都知事の発言は溜飲を下げる効果はあるとしても、本来の政治家の役割は複雑な政治問題を丁寧に解決すること。そして、そもそも都の仕事ではないはずだ。両国内が強硬に批判しあっても何も得るものはない...パフォーマンスなどに走るなとの意見は、まずわかる。しかし、隣国関係を配慮し、丁寧に話し合えば解決するだろうとでも言いたげな朝日の感覚こそ、政治や外交関係についての幼稚な理想論に縛られたものではないか。政治の腐敗や政治家の資質の低さをあげつらう一方で、ではどうすべきかという具体的な議論になると、イヤそれは全体を見て判断すべきでしょう、とか、両国の長い関係を配慮して、とか、歯切れが悪くなる。つまり、批判者としてだけは成立するが、政策論になると、「そんなものではない」と大人ぶるだけで、何ら創造性もなければ、批判に値する議論ができない。朝日の悪いところだ。今回の石原知事のように、颯爽と閉塞感を破る具体策が出てしまうと、出る釘を打ったり、ヤッカミに走ってしまう。そんな姿勢であり、とても国のことを真剣に考える大新聞とは、思えない。そもそも都の仕事ではない、都議会も理解しないだろう、というが、それなら、被災地支援はどうだ。都の事務ではないかどうかは、法令を踏まえ具体的に都民が決めるのはもちろんだが、域外だからとか外交に絡むからというだけで、地方公共団体の事務ではないと言い切れないだろう。政府が所有する方が理にかなっている、と朝日はいう。ならば、都でなくて国が購入するのならいいのか。複雑な問題を丁寧に解決するのが政治だと、あれだけ言っておきながら、都がやるのは駄目というだけの話なのか。結局良くわからない。ヤッカミだけの批判だから、こうなるのだ。私は、都知事の購入発言は非常に面白いと思う。国の外交の至らないところを救った。まさしく卓見だ。地方は、国があって存立し、国は地方から成り立っている。そして我々日本人は古くからアジアと関わっている。国だけが外交関係を担うべしというなら、民間外交も企業の国際貢献も余計なことか。まあ、朝日も責任もってこう論陣を張るわけでない。単なるヤッカミから出た方便なのだから。被災地支援の例を取り上げたが、じっさいに我が宮城県では昨春以来、東京都の支援を多方面で継続的に受けている。都職員も多数が宮城に入っている。それを都の仕事ではないというのなら、単純だがそれも一意見だろう。都の税金を宮城に使うなと言う意見があっても、私はいいとは思うけれども、たぶん都民の皆さんも理解していただいているだろう。日本はひとつ。災害に県境はない。今回の都知事の発言には、沖縄県知事や官房長官も理解を示しているとの報道もある。国が動かなかったという背景もあるようだ。政治家個人のパフォーマンスでも何でも良い。対中関係は毅然とすべき場合もある。れっきとした日本領土なのだから合法的行動に躊躇は無用だ。しかも、都民国民の理解が得られるならばなおさら。朝日は、まず自らの論理をもって都民に聞いてみてほしい。
2012.04.18
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驚いた。前田国交相の事前運動疑惑が政界の火種の一つになっているが、その下呂市長選挙が昨日行われた。自民系現職が再選し、国交相が建設業界に応援を要請したとされる前代議士(元犬山市長)で改革を訴えた候補者は敗れた。国交相とともにこの候補を支持したとされる山田良司衆院議員(比例)は、2004年合併後の市長選挙で当選。このとき、山田12,322票、金山鎭雄12,032票(他2候補者)と僅差だった。前回08年は、一騎打ちで野村誠13,056票、山田12,697票であった。政治家の怨念がからんでもつれた選挙戦が続いているのだろうか。驚いたのは、実は勝敗ではなく投票率だ。84.11%で、随分高いが合併後の最低だという。前回が84.60%だ。2004年は87.98%とすごい。宮城県の市長選でいえば、今や7割でも超高水準。8割超えは今後もう無理と思われるほど高いハードルだろう。■関連する過去の記事 低投票率を考える(続)(2011年11月29日) 低投票率を考える(2011年11月28日) 低かった投票率 宮城県議選(2011年11月14日) 首長選挙の投票率を考える(2011年2月21日)(その他、投票率については過去に多数の記事があります。)
2012.04.16
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新聞の社会的役割や憲法論的意味(表現の自由、アクセス権など)、また報道内容の政治的中立性などについて何度か考えたことはあった。しかし、発行主体の会社組織の問題、とりわけ株式の譲渡制限に固執するなどの実情は考えたことがなかった。一大経済主体として会社を維持充実させるための、政治とも積極的に関わる側面なのだが、特に戦後制定された特別法の存在は、新聞の政治的中立性や政治に対する距離という建前的イメージを打ち破り、見事に世俗的側面を浮かび上がらせるもので、存在を知らなかった私には衝撃的でさえあった。以下の整理内容は、下記の文献に負うものだ。日本の新聞社は、徳島新聞と名古屋タイムズを除いてすべて株式会社の企業形態だが、それは株式会社とは似ても似つかぬ奇妙な存在である。株式会社はもちろん株式譲渡自由が原則。しかし、新聞社は外部資本の報道への干渉を防ぐとの理由で、譲渡制限を定めている。このため、読売、朝日などでは、創業家など特定の個人や従業員持株会、また系列放送会社などが主要株主であり、また朝日とテレ朝の堂々たる相互持合など、閉鎖的な実態だ。株式会社の原則に反するこの譲渡制限は、「日刊新聞特例法」によって合法化されている。1950年公布の商法で株式譲渡制限を認めないとされたことに対して、朝日をはじめ98社で全国新聞社商法対策協議会を結成して、新聞業界にだけ譲渡制限を認める特例法を制定するよう政治家に働きかけた。その結果、1951年に議員立法で「日刊新聞特例法」(正式名称は、日刊新聞紙の発行を目的とする株式会社及び有限会社の株式及び持分の譲渡の制限等に関する法律)ができた。国会では、商法改正法で具合が悪いというのならば、もともと同族会社的な新聞社だから、大衆から資本を集めるべき株式会社の形態をやめればいいだけだ、との反対意見もあった。また、戦前から譲渡制限を認められていた新聞社だが、経営者は大量の紙を入手したいが為に軍部に屈し、また、編集者や記者は真実を報道する保障がなかったために戦争を支持し敗北を勝利と報道したのであって、新聞の社内株保有制度にはこうした危険があることを忘れてはならないとする反対論もあった。特別法で譲渡制限が認められたのは、1953年の日本航空だけだったが、その後1966年商法改正で定款で認めればすべての会社に制限が認められるようになった。米国と異なり日本の新聞社はみな株式非公開である。社内ですら財務内容は知らされていないと言われる。経済報道に際しては株式公開と自由譲渡の理想を唱えながら、自らは、言論の自由を守るためとして譲渡制限をかけるという時代錯誤的な実態である。以下、若干個別的なこと。毎日新聞は、他の大手紙と違い株主に大手銀行が入っている。70年台の経営危機から再建する際の経緯によるのだが、やはり譲渡には取締役会の承認という制限があることは同様だ。この経営危機には西山事件が影響している。沖縄返還の密約事件を、その情報入手方法(国家公務員法違反)の特異性に世間の目を向けさせるという政府の世論操作に、毎日叩きをねらった他紙が加担したのだ。もちろん毎日の社内でも西山があんなことしたから会社経営が大変になったとの風潮もあったという。■奥村宏『徹底検証 日本の五大新聞』七つ森書館、2009年■関連する過去の記事(河北新報ネタは除きました) なぜ朝日マイタウンの宮城は「みちのく宮城」なのか(10年6月15日) 全国紙の夕刊を考える(10年2月11日) 気になる朝日新聞の誤字(10年1月11日) 朝日新聞の所得隠し(09年2月23日) 読売新聞と東北(08年10月21日) 沖縄返還協定密約問題の証言の報道(06年2月10日)
2012.04.15
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TVニュースの映像をみて全国でかなりの人が気付いたと思う。橋下大阪市長が塾長の維新政治塾が来月開かれるのを前に、全国から公募した塾生2200人余りを決定したというNHKの報道だ。官僚や弁護士、医師がいる、などとして映像では事務局と思われる人物が履歴書らしき応募書類をめくっているシーンだ。それは良いが、ファイルの背中のワープロ打ちと思われるタイトルが、政「冶」塾なのだ。私の見間違いかと思って凝視したが、やっぱり「冶」だった。複数のファイルが映るシーンでも複数がそうだった。わざとしたとは思えないが、普通に変換して打ち出せばいいのに、かなり不自然だ。それにしても、ファイルを作るときに、その人は気付かないのだろうか。意気揚々と国政に旗揚げしようというには、実にお粗末で情けない。橋下氏の考えや行動様式には賛同する部分もあるのだが、このニュースでは本当にがっかりした。にわか仕立てでうわべだけを見せかけるような、虚構が暴かれたような気がしたからだ。カメラマンやディレクターが意図していたなら、それは褒めたい。
2012.02.28
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前回の続き。首長選挙で、投票率が低そうなところを調べてみた。まず、都道府県知事。埼玉県は、2011年選挙で24.89%だ。おそらくこれが都道府県知事の全選挙中の最低記録と思われる。最高は昭和28年の77.57のようだ(説明)。この埼玉県選管のサイトには、投票当日の天候も出ている。昭和28年は「晴」で、最低の2011年は「雨時々曇」だ。前回の2007年は「晴」だが、27.67と低かった。2回連続で2割台ということになる。神奈川県は、最近(2011年)45.24で、前回(07年)47.04だ。面白いのは、横浜市、川崎市とも県平均を上回っていること(最近も前回も)。千葉県は、森田健作知事の当選した最近(09年)が45.56で、前回は43.28だ。東京都も一覧がある。想像通り、隣接3県よりはずいぶん高く、最近(2011年)で57.80で、最低でも87年の43.19だ。市区町村長選挙となると、データを完全に把握しきれないが、知事選挙の全データ標本に比べれば、相当分散が大きいだろう(高率から低率までバラツキがある)と思われる。首都圏や近郊の住宅密集地だと、投票率はさがるように思われる。たとえば、東京都の特別区だと、世田谷区長(2011年4月)が41.76で、新宿区長(2010年11月)は26.33だ。新宿の場合、前回26.58で、前々回25.15と低調が続いている。そもそも公職選挙法では、あまりに投票率が低い場合に選挙そのものの有効性を失わしめる「最低投票率」は導入されていない。理論的には、投票に行った者が有権者全体の「きれいな」(偏りのない)抽出代表であるかどうかの数理的な評価ができない以上、どのラインで当該選挙の有効性を線引きするかが導き出せない、という難点があるのだろう。また、かりに導入したとして再選挙で投票率が上がる保障もない、という実質的な観点もありそうだ。現職再選を阻むために投票率を下げさせる棄権キャンペーンが横行するとの懸念もあるようだが、現実的な懸念かどうか疑問はある(逆に投票に行こうキャンペーンもあり得るから、その意味で中立とも)。しかし、よく考えてみよ。さすがに投票率が2割となると、有権者の1割前後の支持でトップとなりうることになる。もちろん、他の9割も不支持と限らないから妥当性はあるかも知れないが、政治的に明確な争点を争った場合で、たとえば変革を選択する候補が当選したときに、本当に変革の実行を許して良いのか、そういう政治制度で良いかどうか、という疑念はある。そのためにこそ、二元代表の(この言葉はおかしいと以前から感じているが)自治体議会が存在するので、民意の健全性(ポピュリズムに走る棄権の緩和)は保たれると、一応は言えるかも知れない。ただ、それも同時選挙の場合などを考えると、どうだろうか。民主主義とは治者と被治者の自同性にほかならず、普通直接選挙が普遍的原理とまで高められたのは、多くの人が投票に向かうことを前提にしている。もちろん、多くの人が投票に向かうような仕組みを考えることが先だとは思うが、それにしても、2割しか投票しない恒常的実態が明らかとなるとすれば(遠い将来ではないかも)、それでもまだましだ(政治的選択としては打算ないし妥協も一つの王道だから)と割り切るか、あるいは、一時代の「普遍的」制度を疑ってかかる必要があるのかも知れない。反語的にいうのだが。■関連する過去の記事 低投票率を考える(2011年11月28日) 首長選挙の投票率を考える(2011年2月21日)
2011.11.29
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大阪市長選挙と大阪府知事選挙(なぜか今回はこの順番だ)についてもいろいろ書きたいことがあるが、今朝の新聞で気になったのは、高知市長選挙の投票率。現職が共産新人に大差で三選したが、盛り上がらなかったようで、投票率は28.05%と低い。前回を12.50ポイントも下回ったという。それでも、過去最低ではなく過去2番目の低さというから、もっと盛り下がった選挙イヤーもあったのだ。ちなみに大阪市長選挙は60.92%で、前回から17.31ポイントの大幅アップ。すごい。高知市の低投票率もすごいと思うが、20%台ともなると、本当に市民の選んだ首長と言えるのかという気もしてくる。■関連する過去の記事 首長選挙の投票率を考える(2011年2月11日)仙台市長選の最低は31.97%だが、さすがに3割を割り込むと、危機意識を強烈に持つべきだろう。
2011.11.28
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昨日最高裁では、裁判員制度を合憲とする大法廷判決があった。憲法理論上たしかに問題点が論議されたことがあったが、今は昔の感がある。海の向こうの米国では、オバマ大統領の医療保険改革が憲法論議になっているそうだ。国民に保険加入を義務づける法律が違憲だという共和党系の州知事等の主張だ。連邦最高裁はこれを受理し来年に判決を出すという。さすがに自由の国というのか、所変われば考えも違うものだ。日本では、皆保険が根付いているから、違憲論などないだろう。むしろ、皆保険を転換する立法案が出ようものなら、生存権保障に反するとの反論がでるかも知れない。このあと、すこし理論的な考察をしようと思っていたが、時間がなくなった。後日。
2011.11.17
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昨日(25日)最高裁第三小法廷の判決があった。■関連する過去の記事 混合診療の禁止と判決を考える(10月17日)報道によると、保険医療の安全性や有効性の確保と財源面から制限はやむを得ない、としたもの。健康保険法は混合診療を原則禁止していると解釈できる。また、混合診療を原則禁止しているとしても、患者の治療選択の自由を不当に侵害しているとは言えず憲法違反ではないと判断した。結論は妥当だと思う。また、個別意見を示した裁判官が、明解な法規定を求めたように、わかりやすい規定を設けるべきである。ちょっと気になったのは、「患者の治療選択の自由」に関する憲法判断をしたとのこと。先進医療を受ける機会を全く閉ざしたわけではないし、医療保険制度が医療の安全性に関連し、また国家財政と密接に関わるものであることから、(憲法判断をしたのだとすれば)正しい判断だと思うが、治療選択の自由なる基本的人権は、憲法のどの条項に位置づけているのだろうか。最高裁のサイトで判決文を読んでみたが、上告理由の中で憲法14条1項、13条及び25条違反が論じられ、最高裁判断では、2つの大法廷判決を引用している。これらは、昭和39年待命処分無効判決(14条の解釈)と、昭和57年堀木訴訟判決のようだ。判決は「不合理な差別を来すものとも、患者の治療選択の自由を不当に侵害するものともいえず、また、社会保障制度の一環として立法された健康保険制度の保険給付の在り方として著しく合理性を欠くものということもできない」としており、法の下の平等に配慮していることは明確だが、治療選択の自由はどの規定に根拠があるのか、そもそも憲法上の人権と見ているのかどうかハッキリしないのではないだろうか。社会保障制度と立法政策論(著しく合理性を欠くのでなければ立法裁量)については、生存権に対する配慮なのだろう。ところで、患者団体の受け止めもさまざまのようで、今回の判決を残念だとする見解もある一方で、自由診療に道を開く混合診療の解禁には反対を表明するとの意見も出ている。これは、前回記事に記したように、自由診療問題の複雑性を反映している、と思う。
2011.10.26
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興味深い論点について最高裁の姿勢が報じられた。報道によると、混合診療禁止を不当として保険適用の確認を求める訴訟の上告審で、第三小法廷は、弁論を開かずに判決期日を25日に指定した。これにより原告側敗訴とした二審の判断が維持される見通しとなった。原告は藤沢市のがん患者男性で、腎臓がんを患い保険適用のインターフェロン治療を受け、その後に保険適用外療法も併用したため、治療費全額を自己負担とされたもの。(日経、毎日など15日の報道) 訴訟の最大の争点は、混合診療について現行法上は禁止規定がなく、国が法解釈で禁じていることの妥当性である(日経)。07年11月の一審東京地裁判決は、混合診療を保険適用から排除する規定がなく、国の法解釈は誤り、として混合診療禁止は違法とする初の判断を行って注目された。これに対して09年9月の二審東京高裁判決は、一定条件で保険外併用療養費制度があることから、同制度以外は保険給付を受けられないと解釈すべきで、混合診療は原則禁止と解するのが適当として、原告逆転敗訴とした。 混合診療の禁止とは、保険適用診療と適用外診療(自由診療)を併用した場合に、自由診療分だけでなく本来の保険適用診療分も含めてすべてが保険適用外となるルールのことだ。裁判は法の発見であり、法解釈論だから、まずは実定法規定をみよう。健康保険法には混合診療に保険適用を禁じる旨の明確な規定は、ない。(そして、このことが一審の判断の根拠でもある。) 他方で、保険医療機関及び保健医療担当規則(形式は厚生労働省令)第2章(保険医の診療方針等)に位置づけられる第18条には、「保険医は、特殊な療法又は新しい療法等については、厚生労働大臣の定めるもののほか行つてはならない。」とあり、二審判決はこれを混合診療禁止の根拠と解釈した。 そもそも、混合診療を原則禁止するという考え方を支える医療上のあるいは社会的な合理性とは何だろうか。実は、そこが難しい。肯定派(医師会が代表だろう)は、所得格差により受けられる医療に差が出ることは良くないという思想が根幹にあると思われる。解禁派(経済界か)は、保険対象の裾野を広げれば受療機会も広がるという考えが根本で、規制緩和の立場からは、新しい治療法や薬剤にいちいち国が個別に関与して適否をチェックする関与のあり方自体を忌避するのだろう。医療ツーリズムやTPPなど規制緩和の論議でも、日本医師会は混合診療の全面解禁には反対の姿勢だ。経済界サイドから保険外併用療養を届け出制にしてチェックを緩める方向の議論がなされたが、医師会側は、保険収載を前提とする従来の制度の拡大にとどめるべきとしている。 実はあまりかみ合っていない議論なのだが、これに、総医療費抑制の是非や、最近クローズアップされてきた高額療養費のあり方論議も絡むので、複雑だ。さらに、自由診療の通常分娩費の場合には、国の出産一時金支給制度と絡み合って、保険適用とすべきかどうかの論議もなされている。実証的に政策代替案の効果を研究している人もいるのかも知れないが、それ単独では保険対象の医療が何故に混合されると対象分も含めて対象外とすべきかの論拠は、かなり難しいだろう。 一患者の立場として、最新の療法をちょっと受けただけで全体がひっくり返るのは納得がいかない、という気持ちはわかる。病院から十分な説明はあっただろうが、社会的に異を唱えて議論することは、一つの意義があるとは思う。しかし、考えるべきことは、裁判所がどこまで医療政策に踏み込むべきなのかという視点だ。この点が興味深いと冒頭言ったことだ。裁判所は国家予算運営に責任を持てる立場にはないから、迂闊に判断すべきではないのだ。加えて、保険適用とするか否かには、治療や薬剤の安全性を評価するという専門的視点も含まれているのだろう。とすれば、なおさらである。現行制度に、相当程度以上の害悪性がなければ、やはり判断をするのは踏み込みすぎだ。(もっとも、反対派からすれば、個別に保険適用の適否を裁判所が判断しようというのではなく、混合診療を一律にまるごと保険適用外とする乱暴な制度を廃止すべしと言う論議であって、医療費政策や医療安全の視点から個別の療養行為や薬剤について保険適用の可否を判断することは行政裁量で構わないのだ、という再反論があるかも知れない。ただ、それにしても論拠は難しい。)願わくは、政策論としての混合診療禁止の根拠と、かりに解禁した場合の影響などを国民が納得できるようにオープンに論議してもらいたいものだ。もちろん裁判とは別の場で、だが。実定法規の明文規定の有無で疑義があるのなら、内閣と国会が責任を持って立法上解決すべきことだろう。ただ、おそらくもともと優れて政策的で裁量的な扱いだったのだろう。厚生労働省の得意(というより特異)な手法で、法による行政の視点や経済合理的思考などよりは、政治圧力の間で物事を決めてきたツケかも知れない。 ところで、生存権侵害として合憲性も争われており初の憲法判断が示される見通しというが(毎日新聞15日記事)、これは本当だろうか。下級審の判決文を詳細に読んでいないから論じられないが(時間があれば検討したい)、わざわざ憲法論議をする必要がないと思われ、判断することはないと思うし、するべきでない。がんの治療に関わることだから命に関わることとは言えよう。しかし、だからといって最高法規を持ち出して立法の誤りを指摘するのは、ほかに手のない場合とすべきだ。保険適用外でも治療の道が閉ざされたわけではない。古くは堀木訴訟で併給禁止規定が合憲とされたが(基本的には裁量論)、今回の件は、基本的に健康保険法の解釈の問題で済む。加えて、堀木訴訟のような平等権侵害の点の配慮も関係がないから、憲法判断をするまでもない、と思うのだが、上告受理した以上は判断が示されるということなのだろうか。
2011.10.17
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初めに断るがTV報道は一方的な思いこみや主観で、映像を切り取る面があるから、真実は必ずしもそうでないかも知れない。しかし、それにしても破天荒なハナシだ。大臣失格、そのとおりだ。大臣と言うより、政治家、あるいは社会的に地位を持つ人間として、非常に問題がある。何度も言っているが、私は政治家に聖人君子性を求めないなら(あれば望ましいが)、表面的な口調や態度それ自体を取り上げてどうこう言いたくはない(そういうTV報道の傾向は好きでない)。うわべの愛想の度合いで被災地への配慮が多い少ないという議論だけで良いはずはない。そこで、松本氏の表面的な態度の悪さについては、東北人として感情が高ぶるけれども、それこそ心を鬼にしてさておくとしよう。それでも、今夜の報道で一番問題だと思うのは、岩手県知事に対して「国はあらゆる知恵を出した。あとはおまえ達がしっかりやれ。知恵を出さない者は助けないぞ」というような意味のことを語っていたことだ。知恵を出さないから助けないというのは、平時のアイデアコンテストならともかく、この非常時でよくもそんなことがいえる政治家だ、とビックリする。それにも増して驚くのは、国はやることはやり尽くしているという認識だ。これは極めて重大なことだ。マスコミも、ここを取り上げるべきである。被災地が地元でまず自助努力すべきこと、国に声を上げるべきこと、また、(宮城県知事に語ったとされるように)県が意見をまとめるべきこと(私はこの国と地方の関係についての認識には異論があるが)、はなるほどそうかも知れない。しかし、いまこの国政の混乱と被災地復興方針の揺らぎの中にあって、担当大臣が、国は万策出したなどとうそぶいていて、そんな大臣では良いはずがない。どれだけ被災地が困って、生活の再建のために国の決断と財源を必要しているのか、国政に求められていることが何なのか、それを最も解っていない発言そのものではないのか。いま国の政治家がなすべきことは、被災地がやろうと思っても出来ないこと、まとめようとしてもまとまらないことを、それこそ民意をさぐり緒論をまとめて方針や予算を形作ることだ。地方になすりつけるのなら国家官僚で十分間に合っている。恥ずべきことだ。もし大臣を辞めないのなら、ビッグマウスに恥じない納得できる成果を出して欲しいとも思うのだが、それは、無理だ。地方が知恵を出さないとか県がコンセンサスを作らないとか、そんなことを言う大臣だから、結局は無策を地元や県の責任にするのが明白だ。この国の政治。明日に光が欲しい。
2011.07.04
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国民主権は政治の普遍的大前提。そして、選挙はもっとも重要な主権の行使、ということが、細かい議論はさておくとしても、概ね現代人の意識だろう。浦安市では、東日本大震災で埋立地が液状化現象を起こすなどして、県議会選挙などできないとして選挙事務を拒んでいると報じられている。松崎市長と長野選管委員長が4月1日に記者会見した。選挙したくても安全性を確保できる状況にないというのが市長の説明だ。早速、2日から始めるべき期日前投票が行われない違法状態が生じている。市長の説明は、ライフライン最終復旧が優先で、市職員が投票所の安全点検にまで手が回らないということのようだ。これに対して、森田知事は、市民が選挙権が行使できないと民主主義の根幹を揺るがすことになる、と首をかしげているという(読売)。このまま投開票ができない状態になると、50日以内の再選挙実施となるとか。市民の安全性の面でも、民主政の根幹たる選挙を行わない(参政権行使を拒絶する)と自治体が宣言する点も、どちらも重大な事態である。もっとも、浦安の場合について言えば、投票所を変更して安全なスペースで選挙を行う選択肢は少なくないだろうし、市職員以外に「手」を増やす策はいくらでもあるから、私としても首をかしげたくなる。さて、浦安の問題が報じられるより暫く前のことだが、震災直後の慌ただしさの中で私がこりゃ異常事だと感じていたのは、被災都道府県における統一地方選挙の延期の話だ。被災が激しい沿岸部市町村を中心に、統一選挙を延期するのは、まったく正しい判断だと思う。市町村の職員は施設復旧や避難者の世話に文字通り不眠不休で対応しているはずだし、所によっては職員数そのものが激減している。選挙をしている場合ではないというのが、市民感覚に沿っている。ただ、極めて異常事態と感じたというのは、民主政治の根幹たる選挙が自然現象や社会的事情で左右されてしまったことの実感だ。そもそも、国や自治体の政治のありかたは、国民主権原理に基づいて国民や住民(有権者との異同の議論は省略)が決定する。教科書的に考えれば、その重要な具体的場面であり、参政権の行使でもある選挙こそ、何者にも優先して行われるべきではないか。選挙を通じて国民住民が政治を形づくる。ならば、世の中がある限りどんな時も選挙は最優先でないか。国民が主権者で、政治を決める選挙が先。主権者の意思表示を、自然的ないし社会的な事情で先送りするなど言語道断だ、と。しかし、できないものは、できない。自然の脅威を思い知らされた。当たり前のことなのだが、これだけ明々白々にされると、話を大きくし過ぎるかも知れないが、国民主権あるいは憲法じたいの脆弱性に思い至る。そのことが、私が重大事と思ったゆえんなのだ。一昔前まで、現行憲法は素晴らしい宝、極端に言えば、国が滅びても憲法守るべし、とでも評すべき憲法礼賛論があった。これら論者の思想基盤には、「普遍的原理」に基づきつつ、全能の国民が主権をふるって国を決めるのだ、なる発想があるように思われた。少しの期間とはいえ、国民住民の信任を得ないまま首長や議員が継続することは、まさしく非常事態で、国民主権を基本原理とする憲法に対する冒涜だ、と厳しく非難するのではないか。勝手にそう思ったが、そういう意見も出ていない。もともと、憲法ないし政治とはそういうものだろう。教科書的に国民主権で選挙で決めよとの枠組で決められるなら、それは理想だが、その枠組自体が崩れたり歪んだりしたのなら仕方がない。それを憲法が予想していたとすればその対処も合憲的だが、憲法自体が予想していないとすれば、非常事態の対処は憲法の外にある。すなわち革命だ。この辺は、憲法制定権力なる概念を持ちだして合憲と考えるなど、法哲学的にはいろいろな議論があるだろう。このへん、今回の統一選挙延期とは随分かけ離れた議論になった。選挙の延期は、何も違法や違憲の議論を起こすわけではない。あくまでも風呂敷を広げた私の妄想的な議論だ。改めて断って、論を続ける。憲法礼賛論には、自然的社会的条件がいかになろうとも憲法という根本は変わってはいけないという思想があるように思う。だが、世界では民族紛争や宗教戦争に巻き込まれながらの国や政体の変遷が少なくない。単一民族単一国家でやってきた日本人には考えにくいのだろうが、憲法が想定している枠組みの外にある要因によってconstitutionは脆弱にも歪められがちなものなのだ。しょせん政治体制とはそういうものだ。津波で町ごと消失した地域もある。人も減ってしまった。ライフラインも途絶えた。そんなときに、通常のケースを想定した法体系の粛々とした執行を墨守しようとするのは、まさしく本末転倒だ。選挙の多少の延期も構わないだろう。海外なら大統領の任期や再選制限を改正することもあった。憲法も道具だ。自己目的ではない。世界の歴史はそれを示している。憲法も政体も揺れ動くものだ。国民が主体的に選び取ったり、あるいは外から無理矢理変革させられたり、していた。我が国は平和だった。永遠不変の憲法が常に先にある、という思想もあったほどだから。こんなことを考えていた。
2011.04.05
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今朝の河北新報に、昨日投票の全国の市長選挙結果が4件出ている。当落結果はともかくとして、投票率の格差が実に大きい。北から順序に載っていて、1 吉川(埼玉県)39.46%(過去最低)2 篠山(兵庫県)48.45%(過去最低)3 鳥栖(佐賀県)57.40%4 国東(大分県)73.66%(過去最低)過去最低が多いのだが、大局的に見て投票率は低下傾向にあることから、それは良いとしても、同じ「過去最低」でも随分と地域によって違うものだ。吉川は首都近郊の新興住宅地だと思う(近年まで町だったはず)ので、地縁の強さは残っているだろうが、比較して新住民が増加しつつあるだろうから、投票率は下がっていく傾向が顕著なのでないかと勝手に想像する。首都圏では、4割あるだけまだマシかも知れない。ちなみに仙台市は最低が31.97(平成9)で、最近は44.72である。吉川市と比較するなら、多賀城や名取あたりだが、直近は多賀城48.29で、名取51.93と、5割程度だ。篠山市は旧4町の合併による新市で、比較的都市化の進んでいない土地柄と思われる。現職と新人の一騎打ちだが、新人はわずか1081票で、おそらく盛り上がらない選挙戦だったろう。潜在投票率(本来の水準)はもう少しあって良いように思う。前回59.64、前々回55.94であるが、いずれも接戦ではなかったようだ。鳥栖市だけは「過去最低」でない。現職が自民推薦の元職(2期)を破ったというので、かなり盛り上がったのではないだろうか。結果も、15,743対13,417と緊迫している(他に1候補あり)。前回は62.22である。とすると、潜在投票率は高い地域なのだろうか。最後の国東市。今回の4市長選でここだけが現職敗退である。結構な大差を付けて、元県職員が当選。過去最低という73.66%でも宮城県に比べれば随分高いのだが、前回は77.70である。宮城県内は直近の投票率で高い方でも、気仙沼市71.87 白石市68.33 石巻市58.82 などである。
2011.02.21
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今朝の河北新報に政府公報として参加者募集が出ていた。菅総理が掲げる平成の開国に関する「開国フォーラム」で、玄葉大臣が出席予定だという。3月6日にKKRホテルで開催。面白ろそうだと思ったが、ところで場所の案内に「市営地下鉄勾当台公園駅下車7分...」とすべきところを、駅名の勾当台の「勾」(カギ)の字が「匂」になっていた。仙台人でもたまにやる間違いであって、別の駅で降りるほどの決定的な問題でもないから、どうでも良いのだが、考えてみたら開国フォーラム事務局といっても、当然ながら官邸や国家戦略室の職員が直営でやっているはずもなく、新聞広告も受託業者が代理店に頼んでいるのだろう。政府職員が直接校正するのなら直したかも知れないが、霞ヶ関の人間では気にもしなかった可能性も高い。ちなみに、国家戦略室のサイトでは、正しく「勾当台公園駅」と出ていた。政府イベントの委託と言えば、タウンミーティングの問題やネット広報の巨額な委託費などが記憶に新しい。自民政権時代だと言われるかも知れないが、現在でも、国民生活が第一という政権でありながら、補正のための補正予算、改革のための改革、国家戦略室を設置するためだけの国家戦略室、という気がしないでもない。平成の開国は多いに議論してもらいたいところだが、フォーラムをやったという実績が自己目的でないか、また、NPU(国家戦略室)の存在意義を示すための活動に終わらないか、気になっている。金を掛けることが悪いというわけではないが、おそらく少ない委託費ではないはずだから、手段としての金の使い方をよく考えて欲しいと思う。新聞広告には、フォーラムの透明性を確保する観点から、メディアには公開するし、参加者も映像が配信されることがあると断り書きがある。それなら、フォーラムの委託費用や発注経緯なども透明化されたい。
2011.02.19
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