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塩竈神社の桜を見に散歩してきた。桜咲く新年度。新入生の皆さんは期待に胸ふくらませていることだろう。仙台第二高校の進路資料によると、今春の東北大学合格者は116(うち現役66)、東京大7(4)、京都大10(3)である。国公立医学科の数では、48(22)であり、昨春の35(12)から伸長し、一昨年の44(16)も上回っている。昨年は全国の公立高校で第5位に躍進したが、今回はさらに上がっている可能性がある。東北大学医学科だけでも23(11)となり、地域医療充実のために県教委が進めた医学部志望者の増加策も一定の成果を出してきているものと考えている。当ジャーナルの総力をあげて、東北の高校について、東北大学の合格者数を中心に拾ってみた。(2名以上合格の高校。なお、東京大学の合格者数がある場合は、東北大学合格者数に拘わらずすべて付記。なお、現役は合格者の内数。)高校名東北大学うち現役東京大学うち現役青森2723青森東32八戸252133八戸北221弘前211611五所川原33三本木44盛岡第一463896盛岡第三2522盛岡北33盛岡中央87宮古22水沢76福岡44久慈22大船渡55黒沢尻北87花巻北1615一関第一201844仙台第一80531仙台第二1166674仙台第三31251仙台二華12988宮城第一2114仙台向山55仙台南97泉32泉館山75宮城野33仙台青陵23162聖ウルスラ英智111011仙台育英32東北学院138東北学院榴ヶ岡31仙台城南22仙台白百合32宮城学院2石巻98白石85古川83古川黎明54古川学園119秋田433187秋田南2013秋田北33大館鳳鳴76大曲22本荘4421横手2423能代22湯沢43山形東4635106山形南108山形西22山形中央22米沢興譲館1312長井44酒田東42鶴岡南131021新庄北331福島403063福島東22橘106福島成蹊22磐城10611いわき秀英33安積201731安積黎明1110白河3222相馬1111会津951会津学鳳431まず、宮城県について。やはり顕著な特徴は仙台二華だろう。上の表には記していないが、京都大が4(4)となっている。仙台青陵とともに、中高一貫の卒業生が出始めたためだ。トップ校の浪人状況は相変わらずだが、個人が主体的に望む努力を高く評価して良いかどうかは評価が分かれるだろう。(この辺の論議は過去の記事をご参照下さい。私は個人の高い志は是としたいが、現役志望達成を目指さなくて良いとする学校側や卒業生集団の気風と、そもそも大学(高校も?)の序列を前提にしたような進路感を問題にしている一人です。)いずれにしても、客観的にみて、宮城県の場合は未だにこの気風が他県に比べて突出していることだけは指摘されよう。他県を見渡しても、中高一貫の成果であろう一関第一の躍進はめざましいし、会津学鳳などもその成果と言えるのかも知れない。ただし、三本木や古川黎明をどう評価するかは難しい気もするし、例えば先進県の秋田では御所野はじめ数校があるが顔を出していない。もっとも、中高一貫の理念がそれぞれにあり、学生・保護者側の期待がそれを支えて発展していく場合もあれば、創設の理念とは若干相違する場合などもあるだろう。もちろん一概に進学実績で評価してはならないとは思う。私学にはがんばってほしいが、仙台の場合は、伸び悩んでいるようにも感じられる。終わりに一言。大学合格だけを高校の評価尺度とみている訳ではない。先生や学友に出会って人生を学ぶこと、部活や多様な学校活動で、ひとりひとりが人間として多くの発見をすること、それが非常に重要だと思っている。ただし、進学校として生徒や保護者が期待するのであれば、人間教育とともに現役で進路を達成することを後押ししてくれる高校であってほしい。特に仙台・宮城では、学校側があぐらをかいてきたのではないかとの問題意識で、評論や提言を行っています。(いつも言っていることですが。)■関連する過去の記事 東北大学合格者数を比較する(2015年9月4日) 宮城県進学トップ高校の今はどうか(続)(2015年4月18日) 宮城県進学トップ高校の今はどうか(2015年4月13日) 宮城県進学トップ高校の状況は変わったか(2012年9月8日) 今春の各高校の大学合格実績 概略(2012年5月29日) 宮城県の高校の進学実績を考える(2010年11月20日) 宮城の県立高校の「現役」進路実現力を考える(09年8月25日) 宮城県の県立高校の進路実現力を考える(09年8月21日) 共学化の方針を堅持(09年2月5日) 県立高校共学化論議を考える(08年12月18日) 梅原市長の高校男女別学の主張を考える(08年11月13日) 高校の進学状況 福島県のデータ(08年8月3日) 宮城県の伝統校の進学力を考える 青森県との比較(08年8月1日) 改めて宮城県の伝統校の進学実績を考える(08年7月31日) 公立高校の学区撤廃を考える(08年7月30日)(宮城県の方針) 宮城県立高校の男女共学化を考える(4)真に学校を思うなら(05年12月11日) 宮城県立高校の男女共学化を考える(3)妙案登場!?(05年12月7日) 仙台市梅原市長の「仙台一高・仙台二高別学維持」発言に思う(05年11月30日) 宮城県内の公立高校の男女共学化論議を考える(2)歴史(05年11月28日) 宮城県立高校の男女共学化を考える(1)序論(05年10月28日) 宮城の進学率と公立高校を考える(05年9月6日)
2016.04.10
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きのう東北大学の前期の合格発表があり、今朝の新聞には大手予備校の「合格体験記」がさっそく載っている。わが家の大学一年生は、一浪した高校の同級生たちの名を続々と見つけては、大いに喜んでいた。良かった良かったと。ところで、雑談の中で素朴な疑問がいくつか出てきた。(1)昨日の発表で、昨日のうちに新聞広告用の原稿を合格者に書かせて出すとは、何と早いことか(2)なぜ現役合格者でなく過卒者を中心にするのか(3)卒業した高校名まで出す必要があるのか(1)については、どうせ受験生は後期日程のために予備校に通っているから、予備校の建物内で呼びかけて書かせたのでないか、というのが子の推測。そうかも知れない。(2)は、広告を出す予備校の側からみれば、前期日程で合格しなかった人に見てほしいのだ。つまり、現役合格者はビジネスの相手でないのだ。合格できなかった受験生に、わが予備校でがんばりませんか、というメッセージなのだ。これは私の推測。予備校には現役向けのコースもあるし、そのための営業も必要ではあるが、それは今このタイミングで打つ必要はない。合格発表のタイミングですべきことは、不合格者あるいは後期日程に迷いを持ったり併願私立に入るかどうか悩んでいる受験生達に向けて、予備校生活を選択させることなのだ。これに、子も納得。こう考えると、(3)もうなずける。自分の学校の先輩が、1年がんばって合格したのだ。かりにその人のことを知らなくても、親近感や現実感がわいて1年間予備校生活をする決意に繋がる...と。
2016.03.10
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仙台第二高校の今春(平成27年春)の進路実績が同校サイトに出ている。宮城県の進学トップ校の充実をねがって記事にしたのが、もう3年前のこと。当時の記事のテーブルに併せて、今春の実績を記してみる。仙台第二高校 大学合格状況 種別平27年3月うち現役平24年3月現役23年3月現役22年3月現役国立大学232127218137221129233125公立大学207201116102012私立43590397131374103東北大学1066810675894812568東京大学1710126127126医学科国公立35124416医学科総数68135518いま時間がないので、平成26や25を省略してしまっているのだが、仙台二高は安定的に東北地域でぬきんでた実績を確立しつつあるといって良いだろう。週刊誌では例によって主要高校の大学進学状況が出ているが、関東以北では随一だ。東京大学進学者数でみても、県立高校としては全国的にも有数になるだろう。ただ、切磋琢磨の校風が上昇志向を生みすぎるのか、現役の進路達成状況は相変わらずだ。ここは評価が分かれるかも知れないが、本県の大きな特徴であることは間違いない。(週刊誌でみると、他県はずいぶん浪人は減っているように感じられる。)以前はひとりきり論じたが、もう、共学の是非や学区制論議は落ち着いただろう。(もちろん検証はされるべきだが。)時間をみつけて、当ジャーナル流の分析を行いたい。(ところが、仙台一高、三高など、まだデータが出ていないのですよ。)■関連する過去の記事 宮城県進学トップ高校の状況は変わったか(2012年9月8日) 今春の各高校の大学合格実績 概略(2012年5月29日) 宮城県の高校の進学実績を考える(2010年11月20日) 宮城の県立高校の「現役」進路実現力を考える(09年8月25日) 宮城県の県立高校の進路実現力を考える(09年8月21日) 共学化の方針を堅持(09年2月5日) 県立高校共学化論議を考える(08年12月18日) 梅原市長の高校男女別学の主張を考える(08年11月13日) 高校の進学状況 福島県のデータ(08年8月3日) 宮城県の伝統校の進学力を考える 青森県との比較(08年8月1日) 改めて宮城県の伝統校の進学実績を考える(08年7月31日) 公立高校の学区撤廃を考える(08年7月30日)(宮城県の方針) 宮城県立高校の男女共学化を考える(4)真に学校を思うなら(05年12月11日) 宮城県立高校の男女共学化を考える(3)妙案登場!?(05年12月7日) 仙台市梅原市長の「仙台一高・仙台二高別学維持」発言に思う(05年11月30日) 宮城県内の公立高校の男女共学化論議を考える(2)歴史(05年11月28日) 宮城県立高校の男女共学化を考える(1)序論(05年10月28日) 宮城の進学率と公立高校を考える(05年9月6日)
2015.04.13
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昨日の全国高校駅伝。監督や選手の大量移籍で話題となったのが、我らが宮城代表だ。女子の代表は当の仙台育英。今回は主力の欠場もあってどこまで踏ん張れるか。男子は育英から何年ぶりかで戻された代表の座で健闘が期待される... そんなところが当ジャーナルの視点だった。女子代表の仙台育英は多くが県外出身。男子代表の東北は逆に全員県内の中学出身だ(以前の河北新報記事による)。さて、結果だが、仙台育英から移籍した監督が率いる愛知代表の豊川高が男女とも健闘。男子は初出場で圧勝。女子は24秒差で堂々準優勝。なお、豊川高校は男子の7区間中5人の選手が転入組だ。宮城の地元紙河北新報では、今朝こう報じている(独自か配信かわからないが)。------------(概略)監督の退任や東日本大震災などの影響で今春、仙台育英から転入生が多く加わった。転入組と既存の選手の力の融合で前半から流れを作り、早々に独走態勢。森監督は女子の指導経験は豊富だが男子は不安があったという。目標の男女アベック優勝は成らなかったが、集団転入に批判を浴び、複雑な状況に置かれたチームをまとめ上げた。------------さて、愛知県ではどう報じられているのだろう。中日新聞を見たが、転入問題に言及したり批判の中の優勝などの論調はないようで、豊川市長の祝意を伝えている。大会主催者でもある毎日新聞の愛知地域版も、転入についてさえ触れていないようだ。たしかにスポーツは競技そのものが第一であり、選手の健闘をたたえるべきであって、周辺事情は二の次でいいとは思う。当日の報道はこれで当然かも知れない。もっとも、毎日は、仙台育英の女子選手が再開した話題を生徒の視線で記事にしていた。大会前日の22日には毎日愛知版で、仙台育英からの転入生が躍進の原動力、と大会に向けて盛り上げを狙うような記事があった。半年間の試合参加自粛についても触れている。今回の騒動を簡単に振り返ってみると、仙台育英の前監督が前回大会の成績不振を理由に引退と後任者調整などを学校側から求められたということに発している。ゴタゴタがあって結局監督は辞任。主力選手の10人ほどが縁のある豊川高校に移籍(転校)したというものだ。形の上では大震災の影響とされているが、それは要因としてあったにせよ、根本は学校側の内紛というべきだろう。よく特待生やスポーツ留学が批判的に論じられ、また、アマチュアとプロ・商業資本の間における経済的な関係の不透明さも指摘される。私もそれは大いに問題だとは思う。しかしながら、何かに一途に取り組もうとする若い才能にフィールドを与えてあげることは重要なことであり、また、フィールドで一心不乱に上を目指す俊英を讃えるべきことに異存はない。今回の問題は、その意味でいえば、移行期間もなくフィールドを勝手に取り上げてしまったというきわめて特異な問題であり、仙台育英学園側の責任は重大だ。そもそも特待生制度に論議はあれども、長い期間をかけて施設を整備し、教員を求め、広く優秀な中学生を受け入れて、誰もが認める陸上教育の名門を目指してきたはずだ。そうであれば、若い監督と学校に何があったか、震災でどんな困難があったか、それはわからないが、単に更迭してあとは「生徒の自主性を尊重」などという姿勢が取れるはずがないだろう。私学ならではの、育英ならではの教育に力を入れてきたのではなかったのか。ならば、それこそ学校の威信をかけて乗り越えるべきものだ。選手の大量移籍は異例だが、生徒は責められない。本心は自分が目指した仙台育英というブランドで走り続けたかったはずだから。震災に言寄せることが、生徒にも、仙台・東北の住民にも迷惑な話だ。繰り返すが、仙台育英学園の経営陣はじゅうぶん責任を自覚しなければならない。ほかにも種々の問題が生じている同校だ。仙台の私学のリーダーとしての資質が問われている。仙台・東北としても恥ずかしいことだ。再生を願いたい。
2012.12.24
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突然学校から姿を消す行方不明の子ども達。TVでやっていたが平成23年度全国で1191人もいるという。借金やDVなどで人知れず転居するなどの事情によるのだそうだが、実際にはもっと多くの子どもが「消えて」いるとも思われ、非常に大きな問題だ。文科省の平成24年度学校基本調査によると、不就学学齢児童生徒調査として、そのうち一年以上居所不明者の数が児童704人、生徒272人とされている。合計976人だ。各県ごとの数字を、各県公式サイトから拾ってみた。青森(H24)1岩手(H24)1(12歳以上で1人)宮城(H23)10(児童6 生徒4)秋田 不明山形(H23年3月)2(児童2)福島(H24)1(児童1)200人以上が報告されている大都市地域の都府県とは数値は違うとはいえ、問題は問題だ。子どもの学習が妨げられることのないよう、学校、教委、役所の連携でできるだけの対策をして欲しい。それから、(進学率などもそうだが)統計データの公表もしっかりと。県ごとに姿勢がことなっている。なるべく市町村ごとなど基礎データも出すべきだ。
2012.10.11
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NHKニュースでやっていた。いじめ認知件数が宮城は多い。中高は減ったが小学校が前年比40%も増えたというのだ。まずはデータを。平成23年度いじめ認知件数(国公私立) 都道府県小学校中学校高校特別支援計千人あたりアンケ-ト実施率全国33124307496020338702315.090.2%青森県2704546257915.187.4%岩手県12412379123382.393.6%宮城県934649131817226.794.3%秋田県1032454313923.694.1%山形県75135131183592.887.4%福島県47873741750.896.5%文部科学省平成23年度「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査」結果から 「いじめ」についての認識度や教委・学校のアンケートに臨む姿勢などから、客観的な事実とは(かなりの程度に)乖離があると考えるべきだろう。それにしても、こうして数字が出ている(そのような当局の努力自体は大切で評価されるべき)以上、数字の絶対値を信頼した物言い(地域比較など)は極力避けるべきとしても、経年的な趨勢はある程度有益かも知れない。(もちろん、こうした数字だけが独行すべきでなく、アンケートにもあるように、相談状況、学校の対応や取組状況を可視化することがきわめて重要だ。当ジャーナルとして信頼度の低い「いじめ件数」だけをもって地域比較などの物言いをするつもりではないことをご理解いただきたい。)かかる観点から、そして冒頭のNHKの報道ぶりも気になることもあり、前年のデータを拾ってみる。平成22年度いじめ認知件数(国公私立) 都道府県小学校中学校高校特別支援計千人あたりアンケ-ト実施率全国35988323486617342752955.690.4%青森県2714677378185.188.6%岩手県宮城県秋田県1193025924824.397.0%山形県113137127223993.087.9%福島県文部科学省平成22年度「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査」結果から ところで、この文科省HPの平成22年度結果は、今回発表されている平成23年度調査結果における前年度データと異なっている。今回発表の資料における前年(平成22年度)は総数で77,630件、千人あたり5.5で、実施率90.7%とされているのだ。不思議な気もするが、今回発表の前提となる調査で前年分が訂正(補遺)されていると考えよう。アンケート実施学校数が約1200増えているので、被災3県分を遡って追加したのかも知れない。NHKが言っている宮城の小学校で件数40%増加とは、対前年(H22)か、それとも前回調査(H21)の意味だったのか、聴き漏らした。ちなみに、文科省サイトで公表されている平成21年度の件数は次の通り。平成21年度いじめ認知件数 都道府県小学校中学校高校特別支援計千人あたりアンケ-ト実施率全国34766321115642259727785.1青森県2655046768425.2岩手県1981767354522.9宮城県10136441021317726.7秋田県2182774615424.7山形県1081688523632.7福島県43825801830.7文部科学省平成21年度「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査」結果から 宮城で4割増とは、おそらく平成23年度との対比だろう。その対比されている23年度のデータは一覧表としては公表されていないことになる。NHKの取材なのか、県教委が別途発表しているのか。なお、アンケート実施率の少ない地域がある。東京(平成23年度72.7%←平成22年度77.1%)、長野(79.6←77.8)、京都(75.7←87.5)、沖縄(77.1←70.5)など。社会的事情だろう。例えば私学が実施しないなど(他にも背景ありそうだが迂闊に記載は控える)。この2年度間でも、高知(93.5←73.8)のように実施校を増やした県もある。更に言えば、大変申し訳ないが福島県の数値はどうだろうか。調査体制や意識の点で他と違う事情があるのではないか。各都道府県でも当然データを把握してあるはずで、県教委や知事部局(私学)で公表するしないで、対応が分かれているのではないだろうか。この辺は有る意味で高校進学状況を公表や議会報告する都道府県教委とそうでないところと分かれていることと類似していて、教育によせる地域の意識の高さを反映するかも知れない。
2012.09.17
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仙台第二高校の進路資料で大学入試合格状況を見てみた。まずは、データを。仙台第二高校 大学合格状況(過去3年間) 種別平24年3月うち現役23年3月うち現役22年3月うち現役(b/a)(a)(b)(c)(d)(e)(f)国立大学218137221129233125.628公立大学201116102012私立43590397131374103東北大学10675894812568.708東京大学126127126.500医学部医学科合格(平成24年3月) 国公立44(うち現役16)、私立他11(うち現役2) 以前から仙台市内の県立上位進学校は、浪人率が非常に高い。私は率直に学校側の意識にあると見ていた。すなわち、教員の意識や同窓生の醸成してきた伝統的な学校生活・進路に対する態度文化、である。入学する生徒が山形や秋田に比較して全体として見た場合に、学力や意欲で劣っていると言うはずはなく、しかしながら例えば秋田高校や山形東高校の現役進路達成状況(つまり浪人比率)とは大きな開きがあった。仙台の閉鎖性や非開明性を象徴するようなナンバースクールの文化も、共学化を契機に変わって欲しいと願っている一人だ。その観点から、上のデータをどう考えるか。合格状況であって現実の進路状況とは異なる点があるだろう(特に私立)が、まず国立合格者の現役比率は、53.6% → 58.3% → 62.8% と上がっている。これを有意と見るかどうか見解は分かれるかも知れないが、過卒合格者実数(a-b)が 108 → 92 → 81 と下がっていることからも、浪人にまわる全体数は一応着実に下がっていると言えそうだ。これを東北大学で見ると、半分が浪人だったのが7割になり、浪人に回って合格した数も、57 → 41 → 31 と減っている。やはり共学化の進展と無関係ではあるまい。山形東高を比較例として挙げる。山形東高 大学合格状況(平成24年春) 種別現浪計うち現役(b/a)(a)(b)国立大学183135.738東北大学6552.800医学部医学科合格 17(うち現役6) もちろん個々の生徒が主体的意欲を持って卒業後に希望を叶えるべく受験準備をすることを悪いというつもりは全くない。人生をどう考えるか自由だ。例えば医学科に浪人で入学する人が多数いる現状からしても、主体的浪人生が一定程度あることは直視すべきことだ。しかし、当ジャーナルが以前から主張しているのは、修学年限で希望を達成しようとする生徒を支援する力が弱い「進学トップ校」では困るということだ。宮城の進学校に入った若者だけが「浪人希望率」が高いわけではないだろうに、ハッキリと浪人の結果が多いのは、現役進路達成を重視しない(むしろ浪人を是とするかの如き)風潮があったからに他ならない。それに甘んじてきたことが問題なのだ。宮城県では共学化や学区撤廃の効果を客観的に検証するのだという。ぜひ、当ジャーナルの拙見もご参照いただきたい。■関連する過去の記事 今春の各高校の大学合格実績 概略(2012年5月29日) 宮城県の高校の進学実績を考える(2010年11月20日) 宮城の県立高校の「現役」進路実現力を考える(09年8月25日) 宮城県の県立高校の進路実現力を考える(09年8月21日) 共学化の方針を堅持(09年2月5日) 県立高校共学化論議を考える(08年12月18日) 梅原市長の高校男女別学の主張を考える(08年11月13日) 高校の進学状況 福島県のデータ(08年8月3日) 宮城県の伝統校の進学力を考える 青森県との比較(08年8月1日) 改めて宮城県の伝統校の進学実績を考える(08年7月31日) 公立高校の学区撤廃を考える(08年7月30日)(宮城県の方針) 宮城県立高校の男女共学化を考える(4)真に学校を思うなら(05年12月11日) 宮城県立高校の男女共学化を考える(3)妙案登場!?(05年12月7日) 仙台市梅原市長の「仙台一高・仙台二高別学維持」発言に思う(05年11月30日) 宮城県内の公立高校の男女共学化論議を考える(2)歴史(05年11月28日) 宮城県立高校の男女共学化を考える(1)序論(05年10月28日) 宮城の進学率と公立高校を考える(05年9月6日)
2012.09.08
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青森のニュースによると、昨日(5日)が県立高の前期選抜で、9日合格発表。後期選抜が14日実施で19日発表という。各県で制度や日程がそれぞれだが、青森の場合は、前期が募集人員が多く、後期は3教科の学力検査のほか実技や面接なども重視されるものだ。岩手県や宮城県の場合の推薦入試と一般入試の関係と比べると、実施の順序が逆のように思える。また2制度の実施日程は非常にテンポが近い。今さらながらだが、各県によって多様なのだ。
2012.03.06
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再試験が今日の午前に実施されたと昼のニュースで報じていた。先週の試験では、気仙沼でリスニングの器材が届いていないという考えられないミスがあった。また、全国的に科目選択の複雑さから、配付する教職員がついて行けないトラブルがあったという。いずれにしても、十分対策を取っていれば絶対に防げることだろう。センター試験は、独立行政法人から各大学が委託を受けて行う構図と思われるが、センターと各大学の連携も不十分である上に、もともと各大学の教職員の訓練の度合いが低かったのだろう。頼まれている仕事という意識も有ったのかも知れない。もともと、しっかりと事前に訓練して、咄嗟の際にも対応できるような組織とはほど遠いのだ、とも言えそうだ。とすれば、監督業務、配送業務などを含めて、完全民間委託とするのが効率的なのかも知れない。向学の若者を受け止めるべき役割の教職員が、その任に堪えられないということほどの皮肉はなかろうに。
2012.01.21
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今朝の新聞に出ていた。文部科学省のまとめによると、今春全国の国立教員養成大学44校を卒業した人が教員に就職した率は62.0%になるという。年よりは2.4ポイント上昇。卒業10,479人に対し、教員採用は6,494人(正規3820臨時2674)だった。ちなみに、教員以外への就職1752人、進学1137人、未就職者946人。鳴門教育大学は2年連続の全国第一位で、77.9%(9月末時点)。徳島新聞によると、今春の卒業生は113人で教員採用は88人(正規57臨時31)。このうち県内公立学校就職は23人(正規13臨時10)で昨年の22人を1人上回った。同大は2001年に就職支援室を開設し公立学校校長経験者をアドバイザーに配置。05年卒業生から60%以上の教員就職率を維持。徳島新聞には線グラフまで掲げられており、誇らしげだ。教員就職率の全国第2位は兵庫教育大。以下、愛知教育大、京都教育大、岐阜大。低かったのは秋田大(44.5%)、鹿児島大(47.2%)、琉球大(同)、岩手大(49.1%)、福井大(50.5%)などとなっている。東北では宮城教育大60.2%、弘前大52.1%とのこと。河北新報の記事でも、ここまでしかわからない。こうなると、全国最低の秋田大についての記事や、山形大、福島大の就職率が気になる。東北は低調なのだろうか。今回の文科省調査の一覧は文部科学省のリリース一覧には出ていない。昨年12月の発表資料は出ている(全国45大学)。これによると、教員就職率ワースト5は鹿児島、横浜国立、琉球、秋田、熊本で、低調な大学の要因として、● 学生の地元志向が高いことと地元採用数の少なさ● 教員に正規採用されないと民間就職していることが指摘されている。一覧データによると、全国 59.6%弘前 53.1岩手 48.2宮城教育 68.9秋田 44.0山形 63.0福島 51.4となっている。今回の報道と比べると、宮城教育大はかなり下がって全国平均を下回ってしまった。秋田大は依然低調。岩手大と弘前大も全国以下で低迷という感じだ。
2011.12.29
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河北新報の読者の声に何件か出ていたが、仙台市内の小学校の修学旅行先変更の動きに異論が出ている。今朝の新聞では、学校が風評被害の片棒を担いではいけない、助け合いの精神こそ小学校で学ばせるべきでしょう、とのご意見。まったくその通りで、学校や教育委員会には再考をお願いしたい。市議会でも議論にならないのだろうか。毎日新聞によると、仙台市の小学校のうち100校以上が毎年6月頃、会津若松を修学旅行で訪れる。しかし原発事故を受け福島に子どもを行かせるのを心配して変更を求める保護者が相次ぎ、各校の判断で山形県や岩手県などに変更するケースが続いたという。しかし、仙台市教委によると、冷静に考えるべきだ、被災した東北同士なのに、と再考を求める保護者もいるという。これも毎日の記事だが、会津若松市観光課によると、09年度に同市内を修学旅行で訪れた小中学校約1090校のうち、宮城県(仙台市を含む)の学校は約350校で、47都道府県のうちトップ。やはり旅行先変更は、誤りだ。先月も記事に書いたが、修学旅行自体にはいろいろ異論もあるけれども、会津と決めているのなら、風評やそれに基づく根拠のない保護者の声で変更するなどは、何の意味もないばかりか、教育としてみても歪んだ判断だ。私だけの意見ではなかったことに、救われた思いがする。今必要なのは、風評に飲まれることでは決してない。是非、学校関係者の正しい判断をお願いしたい。■関連する過去の記事 頑張れ会津!負けるな学校!(2011年4月24日)
2011.05.07
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変なタイトルになったが、仙台市などで小中学校の修学旅行先を、予定していた会津から他に変更する動きがあるという。保護者の声を考慮して判断した、と学校関係者の話が新聞に出ていた。私はかねて、学校教育における修学旅行の意義や効果を批判的に論じたことがあり(当ジャーナル記事では書いておりませんが)、教育論を離れてみても、例えば訪問先が何十年も変わらないとか、業者が固定化しているとか、問題点は数多いと思っている。しかし、修学旅行の在り方に関する立場とは全く別に、東北魂が沸き上がり、旅行先変更の動きに大いに異を唱えたい。いったん決めた歴史の町会津への旅を、是非ともそのまま実現すべきでないか。安全を願う親の心もわからないではないが、風評などはね返すのも大事な行政の仕事であり、それも大切な教育とも言えるのではないか。被災地でも内陸部でも日本海側でも、あるいは日本全体で、みんなそれぞれの立場で精一杯がんばろうとしている。一時的に避難せざるを得ない人もいれば、解雇され、或いは耕作ができず、店を再開できず、商品が届かず、風評で客が来ないなど、皆さん大変な思いをしながらも、簡単に家族や事業所を移すことなどできずにいる。一時的に目を背けて、それでどうする。それが子ども達にとって、何になるのか。我らが東北の風土や歴史を、今だからこそ、大事にしようではないか。
2011.04.24
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今日で2月も終わり。早いものです。今朝はショボショボと雨が降っているような止んだような、気温はそれほど下がっていないようです。さて3月になると、卒業式シーズン。秋田さきがけ新報に秋田県内の各学校の卒業式が詳細に出ていた。読むと、小学校はピークが16日。中学校は12日。そして高校は1日だ。もう30年近くも前になるが、私は仙台に移った時に、宮城県の高校の卒業式が3月1日と聞いて随分早いと感じた記憶がある。自分の場合を標準に置くからそう思うのだろうが、国立大学の2次試験よりは後にしないとおかしいだろう、と思った。また、卒業生に1か月もどうさせるというのか。教員は何をするのだろうか。などと素朴に思った。しかし、今では岩手県でも1日や2日に行っているようだ。東北各県の高校をいくつかザッとネットで見たが、やっぱり1日が主流だ。宮城県はかなり前から3月1日が主流だ。以前に高校卒業式の日程について考え方を教育関係の方から聞いたことがあるが、合格発表はともかく、受験の前にハイ卒業よ、と追い出すのはいかがなものかとの小生の疑問について、どんな議論をしたか詳細は忘れた。ただ、私自身の単純な日程設定の問題意識よりも、学校や先生方は深く考えていることは確かだった。中学校は、宮城県でも3月11日(金)、12(土)あたりが主流だ。これは、公立高校の一般入試の直後で、合格発表の前ということになろう。私自身が中学校の際も日にちは異なるが、高校入試と発表の日程と卒業式の関係は、同様だったように記憶している。
2011.02.28
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上の子が次の日曜に英検3級の二次試験だという。ふと思い立って英検のホームページを見たら、受験データが紹介されている。都道府県別の数字もある。さて、中学生程度の英語教育熱の高い県はどこかと、軽い気持ちで調べてみた。A 3級志願者数(人)(2010年度第1回と第2回の合計)全国467,477(合格者数250,663 合格率.536)青森4,544(2526 .556)岩手4,947(2315 .468)宮城6,236(3532 .566)秋田4,194(2166 .516)山形4,211(2517 .598)福島6,735(3502 .520)B 中学生の生徒数(平成22年学校基本調査)全国3558166青森41203岩手38010宮城65480秋田29411山形33642福島61866A/B全国 .131青森 .110岩手 .130宮城 .095秋田 .143山形 .125福島 .109となっている。つまり、東北では受験熱の高いのが秋田県、岩手県。宮城県は最も低いことになる。なんとなく予想通りというところか。さて、A/Bの数値を全国の都道府県ごとに出してみたら、高いところは、東京 .202宮崎 .190埼玉 .176栃木 .163石川 .163沖縄 .159群馬 .158低いのは山口 .073奈良 .077島根 .079高知 .085北海道 .089大阪 .093鳥取 .095和歌山 .095新潟 .097つまり、宮城県は全国的にも堂々の低位グループ。大雑把に言えば、関東が高く、関西や中国四国が低いようだ。
2011.02.17
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文部科学省では定員抑制方策をとってきた大学医学部の在り方について検討しているそうだ。資料によると、医学部における地元出身者の比率(所在する都道府県内の高校出身者の割合)は、平成22年度で全国で36.7%だそうだ。県別に拾うと------------青森 42.9%岩手 22.5宮城 15.6秋田 26.5山形 16.8福島 41.9(低率の県)茨城 11.3滋賀 15.3佐賀 19.8(高率の県)北海道 65.7東京 49.3愛知 57.8三重 52.8広島 52.1鹿児島 71.0沖縄 62.6(以上、文部科学省医学教育課調べ。自治医科大学、防衛医科大学校は除く。)------------厚生労働省が中心となって医師不足対策が論議されているが、養成機関の増設や地域バランスの再検討について、大学を所管する文部科学省でも動き出したというところだろうか。まずは総数の議論があるだろう。そして地域の視点も必要だ。そこで、このような出身者のデータが出されているのだと思われる。もちろん出身率が低いことが悪いわけでは全くないはずだが、医師数の足りない地域に医学部定員が増えるとすれば、一定程度は定着も進む可能性はある。ただし、受験生の動向や卒業後の進路は、決して距離だけではないのだから、認可庁である文科省としては数字だけにとらわれずに、大学の個性と品質(費用や立地場所などを含めて)が論議の本質であることは忘れないでもらいたい。ところで、データに戻るが、東北で見ると、青森(弘前大)と福島(県立医科大)は全国平均より高い結果となっている。平成16年の数字(全国平均31.7%)と比較すると、青森は28.0から42.9へ、福島は38.8から41.9に、それぞれ上がっている。地元の医学部志望総数が増えたのか、或いは他県からの流入が減ったのかはこれだけでは判らない。宮城(東北大)の15.6は、平16も12.9であり、構造的に低いのだろう。東北大学の吸収力はもちろんだが、よく言われるように宮城県の高校生の受験者絶対数が少ないことで(幾分か東北他県や首都圏方面に進学すると思われる)、定着した傾向だろう。岩手(岩手医科大)は私立のため、全受験者の選択動向と県内の高校生の進路選択志向のバランスが、恐らく定常状態にあるのではないだろうか。平16の数字も23.8とあまり変わらない。山形(山形大)は平16の24.0からやや下げて16.8となった。宮城、福島、関東からの流入だろうか。それにしても、これだけでは判らない。医学部新設に名乗りを上げている学校法人等が出てきた。県内でも、仙台厚生病院が構想を発表した。東北の医師不足に貢献するという。臨床主義を打ち出して東北大とは別の特色を出すような雰囲気に思われた。宮城県に東北大学とは別に医学部があれば、「入りやすい」し卒業生の定着も進むから望ましい、との意見もあるだろう。旧7帝大所在県で医学部が複数ないのは宮城県だけだし、などと。大都市圏を除いて、複数の医学部を持つのは、福岡(4)、愛知(3)、北海道(3)、京都、石川、岡山 という辺りだ。栃木も複数だが、各県ごとに選抜され必ず出身県に戻る制度の自治医科大学は上記データに含めていない。これらの場合を見ると、まず石川県は25.8%(平16は13.1%)でかなり低い方だ。金沢大学の吸引力と、私立金沢医科大学の受験層が広域にわたるのだろう。岡山県は25.0で、平16(33.7)は全国平均を超えていたが、平22では下がっている。愛知や北海道は経済圏域の自己完結性の発露か。いずれにしても、第2の医科大学を政策的に認めたとして、地元出身者の比率が上がるかどうかは、即断できない。大学の質によるはずだからだ。また、医師確保政策の立場からすれば、大学入学の比率よりも卒後の定着がとりあえずは重視されるべきだろう。東北大学の場合、地元高校生の入学比率は1割台でも、卒業後の残留は3割以上と言われている(新聞記事)。東北人としては若者の進路の多様性重層性、また医療スタッフの向上と地域医療の充実につながるとするならば、大変嬉しいことだ。しかし、大学の定員や地域配置の論議はもちろん重要で、国家百年の大計でしっかり検討して欲しいけれども、医師不足対策の決定打とばかりに表面のデータ論議中心で決めつけるとすれば、それは良くないと思う。もちろん有識者個人が流されることはないとしても、マスコミの風ばかり気にする政策責任者(政治家)の風潮が、心配だ。
2011.02.12
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学校要覧やホームページなどから拾って整理したもの。現役合格だけを拾っている。もちろん、仙台二や仙台一の場合は特に、これ以外に浪人合格が多数あるのだが、現役での進路達成を高校の重要な務めとする立場から、あえて現役だけに絞った。 高校名現役・国公立うち東北大備考仙台第一11328仙台第二13768仙台第三16022宮城第一10621仙台二華9710仙台三桜100泉876仙台向山9411泉松陵30泉館山11810仙台南1004富谷380宮城野596市立仙台200白石263旧白石分のみ古川725石巻1038気仙沼470仙台育英6113秀光中等教育191古川学園6111東北10前後0東北学院3816(※)※過卒含む山形東13152医?東12米沢興譲館12914酒田東13016盛岡第一17044医?東8花巻北15514一関第一12315医?東1会津15514安積17626秋田18050医14東10青森18224医17東0八戸15333医11東2高校の力を評価する場合に、国公立で測ること、東北大学を目安にすることについても様々な意見があるだろう。また、私学の場合は推薦制が多様に存在するメリットなどもあるし、一概にこれだけの指標で議論できないことは当然だ。しかし、もしシンプルに尺度を示すなら、やはり「現役」での国公立合格実績、そして東北大学合格者数の比率を併せ見るのが、さしあたり一番わかりやすいと思う。詳しい分析は後回しなのだが、共学化で白石、古川、気仙沼あたりは今後とも進学実績を伸ばすであろう。仙台二高はいまだに現役合格数が極めて少ないが、東北大学の比率は、山形東と並んで抜きん出ている。合格者のちょうど半数が東北大なのである。おそらく二高は名実ともに東北のトップ高の地位を不動にするだろう。もっとも、現役進路達成の実力と雰囲気を着実に備えて欲しいのだが。後ほど評論を整備したい。
2010.11.20
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私は本当に怒っている。本当に情けない。教育を担う人間、しかも地域の拠点校の校長職ではないか。この不祥事続発の緊急時に、なんの緊張感も持たないどころか、指導的立場をよそに自分はコソコソ飲酒運転。これはどこの世界の出来事かと言いたくなる。築館小の校長が10月31日に酒気帯び運転容疑で逮捕された。校長は30日午後5時10分頃、栗原市栗駒中野の市道上で酒気帯び状態で乗用車を運転した疑い。道路縁石に乗り上げる事故を起こして発覚。校長は30日昼から自宅近くの催し会場など数カ所で酒を飲み、歩いて帰宅。その後に運転したとみられる。(読売新聞、河北新報による)一応言っておくが、私は行きすぎた公務員バッシングを問題視するバランス感覚も持ち合わせているつもりではある。たまたま事件が重なったからといって教員や公務員の不祥事を殊更に喧伝するマスコミの姿勢にも、一歩距離を置いている(他方で、公務に対する批判的姿勢は有る意味で社会の健全なバランス感覚だとも思っている)。さらに言えば、確定判決までは容疑者は推定無罪に扱うべきと純朴に考えている立場だ。しかし、どう考えても、この一件はどうにも救いようがないと思うし、宮城の教育界を考えてもどうしようもない気持ちに襲われてしまう。つまり、こういうことだ。最近教員の不祥事が続き、県教委では各学校の宣誓書を促すなど、従来にない姿勢で現場の意識を喚起していた。その折りも折り、しかも拠点校の校長だ。本当に言いたくないのだけれど、この人の行動は、つまるところ、酒を飲んで帰って、その意識は十分ある前提で、たぶん「自分は大丈夫だろう、捕まりはしない」との軽信でハンドルを握った。その神経が、私は許せない。多いに非難に値する。自動車の前面が破損した映像もTVで見た。言い逃れはできない。平時にも許せるものではないが、今は県教委を挙げて信頼回復に努めているときだ。そんな時に、なんでそんな、わざわざ事を起こすのか。悪く言えば、この校長は普段からこうなのだろう。世間に向けては小綺麗なことを言って、それで立派に校長も務まってきた。表面的には。飲酒運転も実際に何度もやったのでないか(思い込みで言うのは控えるべきだが、今回だけはどうしても言いたい)。少なくとも、教育界が騒然としているときに、仮にこの人間が普段は飲酒運転をしていたとしても(失礼)、こんな時ばかりは(せめて)、形だけでも(それも哀しいが)、範を示すべきだ。そんな最低限のことも履践できなかったのだ。どう考えても、故意に行った酒飲み運転なのだ。どこに弁護の余地があろうか。そう考えるから、私は本当に残念で、悔しくて、怒っているのだ。月曜日や火曜日に、意外とこうした視点の報道ぶりはなかったが、私は重大なことだと思っている。仮にマスコミが、自分たちも飲酒運転をしているから過度な報道を控えているとしても、そんな問題ではない。とにかく、教育者の反社会的行為なのだ。極言かも知れないが、教育界や他の多くの善良な教育者を、冒涜しているのだ。一般には「上がりポスト」と見なされている拠点校の校長。この人も早くから見込まれた人材なのだろう。(たかが)酒飲み運転で教育者の評価を歪めるのは妥当でない、というもっともらしい反批判が、一昔前ならあったかも知れない。しかし、私は確信を持って言う。現在の情勢を踏まえるならば、最優先にコンプライアンスを自ら発信すべきだ。それができないなら如何なる意味でも教育者と言えない、と。哀しい出来事だ。教育界は歴史に残したくないだろう。しかし、こういう出来事こそ、歴史に刻むべきなのだ。その良識が、県教委には備わっていると思いたい。絶対にかくあってはならない、と後世に教えるために。
2010.11.02
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河北新報では、東北中学野球で秀光中教校が初優勝との記事。仙台育英学園の運営する宮城県内初の中等教育学校だが、学校教育法が改正されて中高一貫教育の新しい校種が導入された際に、「中等教育学校」とはいかにも機能的でしかも冗長だと思っていた。略称や通称はどうするのだろう、と心配したものだ。高校なら○○高、中学校なら○○中、で決まりだが、中等教育学校は難しい。記事もそうだが、日常会話でもどうするのだろう。河北新報では、当初は「中等教育」などと表現していた。「中」や「高」とは別の単語があるのならそれで良いのだが、わざわざ「中等教育学校」と法定されているから、本当に苦しい。一時期は、middle school から「ミドル」と呼ばれ、記事でも「秀光M」とされたこともあったようだが、結局は「中教高」に落ち着いたようだ。さて、学校関係者などはどう通称しているのだろうか。どうでも良いことだが。
2010.08.10
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教育を考えるには、目先の事柄に惑わされるだけでなく、時代の流れ、特に我々がたどった道を意識しなければならないと思う。不登校、学力低下などがまさに今日的課題であろうが、制度かくあるべしなどの喧しい論議に明け暮れるだけでなく、明治以来の私たち日本人がたどった、等身大の教育事情に思いを致すことが必要ではないか。横須賀先生の文章で、あれこれ考えさせられている。以下に、要約させて頂く。----------昭和22年のキャスリーン・アイオン両台風の被害を報じた新聞の写真に、ランドセルを背負ったまま流れ着いた少年の遺体があった。当時の私(横須賀先生)の意識もそうだが、避難に際してはランドセルを背負ったほど、学校や教科書は大切なものであり、親もそう教えた。昭和末期から登校拒否が問題となりやがて不登校と呼ばれ、今も10万人を越えると報じられるが、かつては毎晩就寝前にランドセルに教科書を詰めて枕元に置いたもので、学校や勉強とは、好き嫌いの問題以前に大切なものとして意識されていた。もちろん、不登校を積極的な個性の表現と理解する論や、不登校の子が生き生きと過ごす施設なども一概に否定はしない。しかし、現在の学校そのものを否定したり、就学義務を教育義務と置き換えるような論調に際しては、近代社会の黎明からこれを支えてきた教育や学校に思いを致すと、複雑な思いになる。更に、平成の教育の重要問題である学力低下問題も不登校問題と表裏をなす。西村和雄の指摘(分数ができない大学生)を契機に、平成12年頃からマスコミでさかんに取り上げられ、ゆとり教育批判を軸に学力論争が展開される。平成16年に公表されたPISA調査結果で、学力低下とゆとり教育批判が決定的となった。文部科学省は受け身に立たされ、ゆとり教育見直しと全国一斉学力テスト復活、そして授業時数増加(平成20年学習指導要領改訂)に至り、マスコミ上は学力低下批判は影を潜めた。百人に百通りの学力の定義があると言われ、そもそも学力低下なる指摘の適否も難しい。学力とは計測可能なもの以外が重要と反論もされる。平成の学力低下論争も同様の展開となり、しかしまた、教育行政の動向を左右したのも過去と軌を一にしている。敗戦直後の民主教育を満喫した後に、まもなく学力低下批判で受験競争が復活したのだから、歴史は繰り返すと言える。学力水準として示されるのは平均点だけだが、平成の学力問題では学力の二極分解が顕著で、下層における学習そのものへの拒否や放棄の実態がある。それは、日常の生活態度と連想しており、不登校予備軍と呼べる。この本(後掲)は、学校教育が明治立国の基礎となり、一人ひとりが世に出るルートとなったこと、そこに民衆の夢と希望が託され、汗と涙にまみれてきたことを示す。それが明治以来の教育であり学校である。しかし、その地点から見れば平成の教育は間違いなく変調をきたした。立ち直ることはできないのか、いやこれも歴史の一コマか、わからない。しかし、130年余の教育と学校の歩みを振り返ることが将来展望に大切なことであろう。----------横須賀薫監修『図説 教育の歴史』河出書房新社、2008年要約したのは、同書の「おわりに」の部分である。この本は、明治以来の我が国教育のありのままを、資料と主要な言説を紹介しながら丹念に示すものである。地方教育行政や学習指導要領などを含む広い意味での制度論、また、予算、学校施設、教員の資質など教育資源のあり方など、様々な議論が進められるべきである。しかし、制度や資源の観点がまさに教育論の本質なのだと、ついつい思いこんでしまうことはないだろうか。それらは、所詮は二の次なのかも知れない。教育は、育つ若者と導く教師とによる等身大の実践にこそ実在しており、それこそ明治の学制以来、そのことは変わっていないだろう。政策論として制度面や予算などが論じられるのは、仕方のない面もある。現場の個々の教育実践そのものは、現実には論評し尽くすことができないし、政策として作用できにくいから、どうしても制度の変更や予算増強などが議論されてしまう。しかし、制度や予算は教育実践に仕えるためのもので、それ以上のものではない。生身の人間それぞれが、どう考え、どう導かれていくのか。教育とは、やっぱり子どもが中心にあるのだろう。そして、個々の生身の子を教えるのは教師であり、これはいかにIT社会が進み家族制度がバーチャル化したとしても、おそらく変わらない営為だ。横須賀先生は教育学、特に日本教育実践史がご専門とのことだ。上記の文章は、おそらくは敢えてご自分の見解や主張を控えて、教育実践の原点に立ち返って考えることの重要さを我々に示そうとされるのだ、と私は思った。私は、教育実践論など物言える立場でもないのだけれども、数値化された「学力」や「不登校」など、何か「一定の」子ども像や教員増をイメージしながら制度かくあるべし式の議論が、それは大切だけれども、それが教育論のAtoZのような誤った意識に陥らないよう戒めたい。事実、ほかならぬ昔の私を含めて、無数の個性と可能性を備えた子どもが、それぞれに育ってきたのだから。
2009.04.22
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朝日新聞によると、県内の小学生の2割、中学生は4割以上が携帯電話を持っており、学校の9割は持ち込みを禁止している、ということだ。○仙台市 携帯の所持 小学生 23.6% 中学生 47.6% 「学校への持込みが必要」とする保護者 小学校 31.1% 中学校 16.5%○仙台市を除く県内 携帯の所持 小学生 14% 中学生 49% 学校への持ち込みについて、文部科学省は先月、「原則禁止」とする方針を各都道府県教委などに通知している。県教委は各学校に通知を徹底させる方針だが、県教委では、の担当者は「国の趣旨同様、安全などを考えて親が申請すれば認めるなど、柔軟に対応して欲しい」としている、という記事であった。私はこの件について学校や教育関係者と議論したことはないが、基本的な視点として2つのことを感じている。第一点。原則禁止とすることの是非である。ある識者がラジオで解説していたが、学校に持ち込むことを禁じるという対応が、本当に教育上適切なのか、あるいは有効かどうかは、極めて疑わしい。誰でもわかることだが、学校という空間や学校滞在中という時間において携帯電話を持たせないとしても、自宅や校外で使用するとなれば、論者が問題視している誹謗中傷などの問題状況はさして変わらないだろう。ダチョウの平和論と同じで、「学校」にとっては問題から目をつぶることができるかも知れないが、子どもの立場で考えれば、それで問題が解決することにならない。そもそも現代社会において携帯電話は書くことのできないツールであろうから、これを教育において無視することはできないのであって、ルールを教えることこそが、むしろ必要な教育なのではないか。もちろん、このような批判が常に問題も含んでいることは、自覚しているつもりだ。「そんなことやっても効果がない、事態は総合的に解決すべきだ」式の最大限綱領主義であって、批判のための批判に永遠に自己陶酔しているという図式だ。ちょっと誇張すれば。むしろ、現実を直視し、責任ある問題解決を図るならば、できることから進めることは有意義であり、必要である、と見るべきだ、と言われるかも知れない。■文部科学省サイト 「学校における携帯電話等の取扱い等に関する調査」の結果について(1月30日)■同 学校における携帯電話の取扱い等について(通知)(1月30日)上記の通知文には、「携帯電話は、学校における教育活動に直接必要のない物であることから、小・中学校においては、学校への児童生徒の携帯電話の持込みについては、原則禁止とすべき」と記されている。また、学校で禁止してもネットいじめや有害情報から守り切ることはできないから、情報モラル教育の必要性やいじめ対策の取組、また、家庭や地域への働きかけを、各教育委員会に求めている。その点では、私が上記で批判しかけた点にも、文部科学省はちゃんと配慮していますよ、と言わんばかりに記載されているようにも思う。おそらく、内部でも議論はあったのだろう。しかし、結局のところ、この通知でも重視している情報モラル教育や家庭・地域ぐるみの取組について、それこそが学校や各教育委員会の悩みではないだろうか。文科省でも、調査研究の成果を公表したり、モデル事例を紹介したりなど、何もしていないわけではないと思うが、それにしても、一律的な持ち込み禁止の方だけを明確に打ち出しているというアンバランスさは、否めない。一律禁止と書いたが、実際には、緊急の連絡手段などのやむを得ない場合には許可するなど、柔軟な対応も求めている。しかし、そんなことは何も文科省が言わなくても当然のことだろう。各市町村教委や学校でそう対応しているだろう。たぶん、省としての旗幟を明確にしようという意志、あるいは、拱手することなく通知文を出しているよ、という存在意義の発揮とか、多分に「政策的」な意図的なのではないだろうか。第二点。これはあまり意識されない論点で、おだずまジャーナルならではの議論と言われるかも知れない。なにゆえに、国の省庁の局長がこんな通知を各県教委に出せるのか、という点だ。そもそも小中学校なら市町村教委が、県立高校なら県教委が責任を持つべきが基本だ。いったい、この通達の性格は何だろうか。技術的助言(地方自治法)なのか。必要な指導(地方教育行政法)なのか。法理的問題を離れて、実質的に考えるとしても、実際子ども達に指導したり保護者と話し合ったりするのは、教員であり学校である。社会学的に考えても、このような問題こそ、地域の発意により、団体自治で決めて良いことだろう。何も国が一律に決めつけることはない。もっとも、そんなきれい事言ったって、日本は同質社会。国が基準を決めないと動かない。地方もそれを望んでいるでしょう、という批判もあるだろう。一理の半分くらいはあるが、このような問題こそ、本質を見極める目が大事だ。いつまでもそれで良いのか。さほどの意味もない通知文を出して事足れりとする文科省のあり方自体を鋭く問い、仮に地域ごとに対応がまちまちでも良い、と考えていかなければならない。どこかの新聞に、このような指摘をして欲しいものだ。■関連する過去の記事 国の関与のおかしな事例2題(2008年09月10日)(学力テスト公表問題と文部科学省の対応)
2009.02.20
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最近各県の高校の進学状況を見ている。県教委が各学校ごとのデータを公表している姿勢そのものにも注目しているのだが。今回は福島県。平成18年度卒業者の進路状況が公開されている。ただ残念だったのは学校別を出していないこと。学科別や地域別はあるのだが。何故か進路先は個別の大学名まで挙げているのに。青森や秋田が私学も含めて各学校ごとの進学状況を整理していることと対照的だ。なんらかの配慮や経緯があるのだろうか。繰り返すが、学校の差別化や優劣比較意識を助長することが本意ではない。若者の進路希望をなるべく叶えてあげるのが高校教育だとすれば、スポーツや資格取得や就職と同じように、大学進学させる学校の実力もしっかりと議論するべきだ。それを踏まえた学校の個性化や学区撤廃の方針であるべきで、前提には現状データの公表が当然なのだ。各校がHPで出すだけでなく、県教委がしっかり把握し、傾向や課題を認識して示すこと、これがあって然るべきと思っている。■関連する過去の記事 宮城県の伝統校の進学力を考える 青森県との比較(08年8月1日) 改めて宮城県の伝統校の進学実績を考える(08年7月31日) 公立学校の学区撤廃を考える(08年7月30日) 中高一貫校と東北(08年1月15日) 宮城県立高校の共学化について(4)真に学校を思うなら(05年12月11日) 宮城県立高校の男女共学化を考える(3)妙案登場!?(05年12月7日) 仙台市梅原市長の「仙台一高・仙台二高別学維持」発言に思う(05年11月30日) 宮城県内の公立高校の男女共学化論議を考える(2)歴史(05年11月28日) 宮城県立高校の男女共学化を考える(1)序論(05年10月28日) 宮城の進学率と公立高校を考える(05年9月6日)
2008.08.03
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昨日の記事で秋田県教委の発表している学校毎の進学実績を引用したが、青森県教委でも学校毎のデータ(平成19年春)を公表していた。昨日と同様に、まずは大学等進学率7割以上の学校をピックアップする。なお、進学準備者は、大学等進学者と就職者以外の者として表示された数値である。進学校だからこの数値のほとんどは浪人と考えた。------------青森 卒業者319 大学等進学者243(76.2%) 進学準備者5青森東 273 209(76.6%) 34青森戸山(普+美)222 165(74.3%) 19弘前 278 216(77.7%) 8弘前南 232 163(70.3%) 3八戸 274 229(83.6%) 13八戸北(普+理)238 185(77.7%) 5五所川原(普+理)193 147(76.2%) 6三本木(普+理)276 232(84.1%) 14------------一見して感じるのは、浪人が非常に少ないこと。青森高、弘前高、八戸高がトップレベルだと思われるが、いずれも宮城県に比べて極めて少ない。歴然と違っている。これら高校について、進学者数(全日制)を見る。過卒者のデータはないようだ。------------青森 大学等進学者243 国公立161(弘前26、東北26)青森東 209 国公立120(弘前34、東北5)青森戸山 165 国公立66(弘前18)弘前 216 国公立157(弘前67、東北25)弘前南 163 国公立100(弘前46、東北3)八戸 229 国公立178(弘前17、東北63 )八戸北 185 国公立105(弘前11、東北1)五所川原 147 国公立99 (弘前34、東北14)三本木 232 国公立129(弘前25、東北4)------------なお、私立のデータも出ているが、進学率7割を超えるところはない。国公立の進学者の多いところでは、東奥義塾52名(弘前15、東北7)、青森山田40(弘前10、東北2)である。■関連する過去の記事 改めて宮城県の伝統校の進学実績を考える(08年7月31日) 公立学校の学区撤廃を考える(08年7月30日) 中高一貫校と東北(08年1月15日) 宮城県立高校の共学化について(4)真に学校を思うなら(05年12月11日) 宮城県立高校の男女共学化を考える(3)妙案登場!?(05年12月7日) 仙台市梅原市長の「仙台一高・仙台二高別学維持」発言に思う(05年11月30日) 宮城県内の公立高校の男女共学化論議を考える(2)歴史(05年11月28日) 宮城県立高校の男女共学化を考える(1)序論(05年10月28日) 宮城の進学率と公立高校を考える(05年9月6日)
2008.08.01
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公立高校の学区撤廃のことを記したが、宮城県内の高校の今春の進学実績はどうだったのだろうか。各学校のサイトを見ると、出している学校と出していない学校(1年前や2年前のママ)がある。本当は、教育委員会で一覧にしても良いと思うのだが、進学一辺倒イメージを避ける深慮なのだろうか。この辺から意識改革が必要かも知れない。念のため言うが、何も進学だけが全てだと思っているわけではない。就職の資格取得もスポーツも勿論大事だ。ただ、進学志望の若者の未来を切り開く手助けになっていない高校では困る、ということだ。進学校を標榜するならそれにふさわしい実績があるべきでしょう、ということである。本県の場合、ナンバースクールと呼ばれる学校でさえも、学校は勉強ばかりでない、浪人でも良いじゃないか、のような風潮が先生方自身にも一部にあるようだ。進学校の教育陣の責任転嫁にほかならないのだが、それではあまりに宮城の若者がかわいそうでないか。だから、進学校は進学校たるべし、というのが当ジャーナルの主張であり、宮城の公立高校の進学実績の低さを何度となく訴えてきた。当然ながらデータだけを嘆いても仕方がない。仙台偏重の教員人事にも何か問題があるかも知れないし、もっと根本的に県民意識にも内在するものがあるようにも思う。学区撤廃には、競争激化で振り分けになるなどの反対論や慎重論もあるが、それは他の方策で救うことができよう。学校の特性伸長と中学生の機会選択の拡大のため、やはり学区撤廃は進めた方が良い。もちろん、撤廃して全てがうまくいくものでもなく、各学校もこれを好機に、意識をもってそれぞれの学校づくりを進めていくべきなのだが、学区撤廃のインパクトなくして実現できるだろうか。改めて、東北各県と比較してみて、いわゆる進学校の実績の相対的低さを検証してみたい。教育委員会で各学校の進学実績を一覧表にしても良いと冒頭記したが、この点、秋田県では県教委が学校別の一覧表を提供している(19年春のデータ)。秋田市外と市内に分けて、進学率(全日制卒業者の進路)が7割以上の学校は以下の通り。なお私立はいずれも進学率が7割に満たない(明桜43.8%、精霊大付58.8%など)。------------大館鳳鳴 卒業者271 大学進学218(80.4%) その他(浪人等)29(10.7%)能代 277 215(77.6%) 24(8.7%)本荘 274 209(76.3%) 38(13.9%)大曲 254 201(79.1%) 18(7.1%)横手 276 245(88.8%) 28(10.1%)湯沢 237 190(80.2%) 16(6.8%)秋田 315 222(70.5%) 89(28.3%)秋田南 315 248(78.7%) 53(16.8%)秋田北 277 211(76.2%) 24(8.7%)秋田中央 278 210(75.5%) 25(9.0%)------------今度はこれらの学校の進学状況(全日制)である。過年度卒のデータも入っている。国公立大の現役・過卒別の進学状況を拾った。------------大館鳳鳴 現役117 過卒11能代 112 9本荘 96 11大曲 113 7横手 186 9湯沢 113 7秋田 149 44秋田南 138 14秋田北 88 3秋田中央 76 7------------進学率7割以上の学校で拾ったが、これらは概ね国公立進学100名以上となっている。宮城県内の学校はどうだろう。旧制中学など地方中心都市のいわゆる進学校の実績はどうだろう。秋田県の上記学校のように国公立現役100人以上は何校あるか。なお、学校によって最新(平成20年春)データは掲げていないし、また合格実績と進路実績などデータは統一されていない。------------石巻高校(普通科6クラス) 平成20年 国公立合格者 現役70 過卒16 計86 なお、卒業者進路実績データもあり、卒業者の国公立進学68、浪人30である。 過去数年で最高の実績。平成14年現役国公立合格24名からは随分伸長。石巻好文館高校(普通科5クラス) 平成20年 国公立合格者 現役18 過卒5 合計23古川高校(普通科6クラス) 平成20年 国公立合格者 現役72 過卒9 合計81 近年で最高。15年度の現役29(過卒17)から見れば相当の躍進。白石高校(普通科4クラス。なお今後統合により普通科6看護科1) 平成20年 国公立合格者 現役46 過卒14 合計60 過去5年は70人前後だが、H15は35人(うち過卒7)と極端に少ない。角田高校(普通科5クラス。平成17年に統合) 平成18年 国公立合格者 合計21気仙沼高校(普通科7クラス。平成17年統合) 平成20年 国公立合格者 65 上記は卒業生(現役)実績と思われる。統合前から毎年着実に伸びている。------------という訳で、やはり宮城県内の地方中心都市の進学校は、秋田に比べて見劣りする。それでも古川、石巻、気仙沼は近年顕著に伸びている。共学化の成果の点もあるだろうが、今後に期待したい。ちなみに今春初の卒業生を出した本県初の中高一貫校(併設型)古川黎明は、進路実績で国公立14という数字だ。参考までに近県の学校をいくつか拾う。------------酒田東高校(平成20年度から普通科5クラス。以前は6クラス) 平成20年 国公立合格者 現役120 なお、卒業者の進路実績もあり(19年)、国公立計126、浪人30とある。 国公立合格実績は、H17が98、H18が114、H19が140と、躍進を続ける。新庄北高校(普通科5クラス) 平成18年 国公立合格者 現役79 過卒10 合計89 今は中央学区(山形市など)と統合したが北学区の伝統校。大船渡高校(普通科6クラス) 平成18年 国公立合格者 現役113 過卒4 合計117------------これらと比較すると、何度も言うが、やっぱり本県の石巻や古川はまだまだというべきだろう。秋田の本荘や湯沢が例年確実に100人を出していることに比べて、12万都市(合併前)の石巻高校の実績は寂しい。これでも随分改善しているが。また、他県は浪人が少なく、本県は多いように思われる。石巻高校の30人も多めだが、仙台市内の高校だともっと多いはずだ。県民意識や経済事情もあるだろうが、現役で合格せずとも仕方ないという意識が学校側にもあるとすれば、大変残念だ。是非、この状況に安住しないでいただきたい。ここで仙台市内の高校を見てみる。------------仙台第二高校(普通科8クラス) 平成20年 進路実績 国公立252(東北大127) 平成19年 同 国公立229(東北大104) 平成18年 同 国公立221(東北大103) 平成20年 国公立合格者数 現役129 過卒124 合計253仙台第一高校(普通科8クラス) 平成20年 国公立合格者数 現役141 過卒97 合計238(東北大73) 平成19年 同 現役118 過卒101 合計219(東北大74) 平成18年 同 現役93 過卒81 合計174(東北大43)宮城第一高校(普通科5クラス、理数科2クラス。昨年まで宮城第一女子高校) 平成19年 国公立合格者数 現役126(東北大26)(過卒はデータ無し) 平成19年 進路決定数 国公立116(東北大25)泉館山高校(普通科7クラス) 平成19年 国公立合格者数115(現役だけと思われる)------------仙台一高は一時の落ち込みからは盛り返しているだろうか。それにしても仙台市内の進学校の浪人比率は相当高いというべきだろう。秋田のデータでは、秋田高校で卒業生の3割弱が浪人と思われる。自分の進路を見極めて追求することも大事だと思うが、それにしても半分程度が浪人というのは大変なことでないだろうか。浪人比率も共学化によって徐々に変わるかと思われるが、自発的な浪人選択はそれで良いとしても、現役で目指す進路実現を支援できるような学校であってほしい。進学校の名に恥じない責任を期待する。■関連する過去の記事 公立学校の学区撤廃を考える(08年7月30日) 中高一貫校と東北(08年1月15日) 宮城県立高校の共学化について(4)真に学校を思うなら(05年12月11日) 宮城県立高校の男女共学化を考える(3)妙案登場!?(05年12月7日) 仙台市梅原市長の「仙台一高・仙台二高別学維持」発言に思う(05年11月30日) 宮城県内の公立高校の男女共学化論議を考える(2)歴史(05年11月28日) 宮城県立高校の男女共学化を考える(1)序論(05年10月28日) 宮城の進学率と公立高校を考える(05年9月6日)
2008.07.31
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宮城県教委は高校合同相談会を初めて開催し、二千人が来場した(河北新報の28日の記事)。10年度に公立高校の学区撤廃を控え、進路選択に役立ててもらう趣旨で、7月27日(会場:仙台市体育館)を皮切りに、気仙沼、大崎、白石、石巻と県内5会場で順次開催する(県教委の資料)。また、これとは別に夏休みなどに学校説明会(オープンキャンパス)を実施する高校も多い(県教委の資料)。しばらく前は宮城県では男女共学化の是非が喧しく論じられた。学区撤廃論議(宮城県では全県一学区制の語が用いられる)についても賛否両論があった。本県の場合、学区撤廃の理由について、表向きはより多くの学校から希望に応じて選択できるようにするため、と説明されている。そして今回のオープンキャンパスも、選択対象の広がった各高校を知るための機会を提供する、という位置づけだ。このことを説明している県教委の広報用リーフレットには、さらに各学校の取り組みとして、進学、資格取得、就職、スポーツなど、それぞれに特色のある学校づくりをめざす、とされている。こちらの方が、むしろ学区撤廃の理由にふさわしいだろう。上記の選択機会拡張論は、生徒側の視点を押し出したものだろう。ところで、学区撤廃は全国的な流れで、私立高校に危機感が生じているとの報道があった(読売新聞の28日の記事)。03年以降20都県が撤廃、9道府県が統合(学区減)。09年には北海道と京都が2度目の統合、10年には宮城が撤廃、熊本が統合。少子化と私立人気の中、公立高校が生き残りをかけて、住み分けから競い合いに舵を切った、という説明だ。以下、この記事から要点を拾ってみる。うまく整理されているからだ。------------○ 学区制は高校進学率アップの仕組みとして長年機能してきた。60~70年代の受験競争加熱時代には、15の春を泣かせない抑止策として使われた。特に首都圏では学区内でさらに学校群制を設けて合格者の希望とは無関係に振り分けた。○ しかし高校全入時代を迎え、今や生徒の多様なニーズにどう対応するかが求められているところ、学区制が選択の幅を狭め、優秀な生徒は私立や国立に流れてきた。都は82年に学校群制を廃止したが、都立離れに歯止めはかからなかった。○ 01年度地方教育行政法が改正され、都道府県の判断で学区撤廃が可能となり、03年の東京(14学区)と和歌山(9学区)が初の撤廃。○ この流れは広がる。東京同様私立との争奪が激しく交通網も整備された神奈川や埼玉は早期に撤廃。北海道、岩手、長野など面積の広い自治体では学区統合で対応。○ 私立を含む学校間の競争が激化。東京では都立の定員割れが、撤廃前の19校(02年)から32校(08年)に。高校の序列化や激しい受験競争が再燃する恐れも。○ ところで学区撤廃をめぐる動きも都会と地方では様相が違う。○ 都会の場合は、私立優位の勢力図が変わりつつあり私立も神経をとがらせる。▽ 60年代までトップクラスの日比谷高校は、都の学校群制度(67年)以降私立に押され気味だったが、03年学区撤廃により1.5前後の競争率は2倍を超え、東大合格者数も1桁から28人(07年)に増加。旧学区外の受験生が8割に上る。旧制中学の伝統校は同様の傾向にあるため、学区撤廃の効果とされる。 伝統校以外にも秋留台高校(基礎学力や生活面に課題ある生徒を受入れ)なども倍率が高い。他方で、特色を出せずに苦戦の都立高校も。▽ 一方で私学も打撃を受けている。大阪府では私立1校だけを受ける専願受験生の割合が低下し、定員割れの私学も。08年大きく定員割れした摂陵高(茨木市)は関西で初めて早稲田大の系列に。北陽高(大阪市)も関西大の併設校に。○ 地方都市の場合は、交通網の関係で事情が異なる。▽ 秋田県(05年撤廃)は、秋田高(秋田市)を旧学区外から受験する生徒は3~5%に過ぎない。香川県は2つの学区の存廃論議で揺れ、県議会は猛反発。第2学区の伝統校丸亀高が、第1学区の高松高に飲み込まれると心配する。------------東北の各県はどうだろうか。青森 05年撤廃(6学区)岩手 04年統合(19学区→8学区)宮城 10年撤廃(5学区)秋田 05年撤廃(3学区)山形 -福島 -山形県は現在3学区制。南学区(米沢市ほか)、西学区(酒田市、鶴岡市ほか)、東・北学区(山形市、村山市ほか)。北学区は地域の要望で統合したものだそうだ。隣接学区への枠はナシ。福島県は現在8学区制。ただし、隣接学区に越境入学枠が3%認められている。つい5年前までは、他県から仙台に来ると、おそらく多数の人の抱くのは、こんな感想だった。「男女別学高校に思い入れが異常に強くて、それを誇りに思って疑わない。そのくせ、進学率も悪くて浪人も平気。かといって私学もちょっとだし。仙台以外では伝統校でも大学進学は難しい。生活するには絶好の環境なのに高校の教育体制だけは変によどんでおり、子どもの教育環境は大いに不安。」まずは、宮城の教育界も、良い意味で「普通の状態」になってくれれば良い。共学化は実現する。その上で、特色ある学校づくりのために学区撤廃だ。もちろん何事もバラ色ばかりではない。欠点もある。反対論は、特定学校への志願集中や学校の格差助長の点に集約されるだろう。しかし、少子化を踏まえて、また宮城県の高校の実力(進学や就職の実態)を素直に直視して、これで良いと思う人はいないだろう。学区撤廃は、歴史の必然だから、という受け身の理由ではなく、沈滞を破り高校の実力を引き出すため必要なのだと思う。そして当然ながら、学区撤廃だけで終わってはいけない。教員の人事政策、中学校の進路指導、各学校での特色の認識と努力、など関係者の配慮が根付いていくことが必要だ。
2008.07.30
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大分県教育委員会による教員採用試験をめぐる汚職疑惑の一件は、本当に残念だ。有罪を推定して論じるようでやや気が引けるが、おそらく間違いないのだろう。いろんな角度から論じたいことがあるが、まずは要職にある人間の卑劣な行動を厳しく糾弾したい。ものごとを解きほぐす時に、素朴な感覚こそ本質を照らすことがある。今回の件もそうだろう。教員某の子女を採用試験で有利に取りはからう、それで金が流れる。ということは、これまでもそのような構造になっていたと考えて間違いない。案の定、今日になってからは、口利きは数十人に上るとか、管理職任用試験でも汚職があった、などの報道も出ている。こうなると例の元参事だけでなく、さらに以前からの構造だったとみるべきなのか。全く残念なことだ。私の小学生の娘はこのニュースを見て、もし自分の学校の校長先生だったら、学校全体が悪いことしたみたいで嫌だね、と語った。大多数の教員は生徒のため熱心に仕事をしている。元締めの教育委員会がこれでは全く示しがつかない。口利きで採用された当の若い教員も気の毒だ。その親は自らを恥じねばならない。親としてもだが、教育者としてふるさとにどう説明するのか。教員採用試験は狭き門だ。ボーダーラインで誰を拾うか、誰になってもみな若い情熱を教育に注ぐだろう。だから、という訳じゃあるまいが、裁量を悪用してしまう幹部が、いた。考えても見よ。カネや商品券や請託がなかったとしても、採用担当者がいたずらに主観で採用するようでは絶対に困るのだ。教員の採用は、公務員任用の大原則である人事専門機関(人事院、人事委員会)による競争試験ではなく、教育長の選考によることとされている。客観的な能力の検定だけではなく、人間味を十分吟味するために、教育委員会の専門家がきめ細かく審査する、という趣旨に違いないだろうが、これをはき違えられたら、身も蓋もない。感覚が麻痺したなどという言い訳では済まされない。こんな幹部を任用した教育長の責任は必至だし、場合によっては膠着的で不透明な人事システムも見直すべきかもしれない。どうもこの辺がおかしいのだが、物事は悪く疑うべきかも知れない。どこの県の教育の世界でも、教育委員会の幹部として採用や教育内容の指導に携わるのは、現場から選抜登用された少数の教員たちだろう。もちろん大多数は公平無私に、そして身を削って教育界に貢献しようとする。しかし登用されて育てられるというタテの人間関係の中で、ヨコシマな幹部がいるとどうなるのか。登用も採用も、情報公開が十分でないという事情もある。競争試験によらない採用という制度も、不透明な採用手続も、それもこれも、本当に立派な人物が心をこめて運用してこそのものだ。どうやら、時代は変わったのだ。まずは手始めに、各県ごとに新規採用教員のうち、親が教員のケースを数字で示すといい。
2008.07.06
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朝日新聞記事によると、大都市圏では私立中高一貫校で高校の募集停止(いわゆる完全中高一貫)が相次いでいるという。1都2県(千葉、神奈川)ではここ5年間に私立中学(中等教育含む)は定員を1000人増やし、私立高校は7000人以上減らした。愛知や関西も同様。6年一貫で進学実績を伸ばしたいという思惑と、高校からの入学組に対応して進度を変える手間を省くため、だという。少子化を背景に、優秀な生徒を囲い込む私立の流れが加速しているということだろう。相対的に数が多くなり生き残りが課題の女子校に特に目立つ。中堅進学校が公立の滑り止めを脱皮する狙いもあるそうだ。 1都3県(埼玉含む)では今春の中学入試は、5万2500人で、小学6年生の6人に1人が受ける見通しで、過去最高だった今年度をさらに若干上回るそうだ。県立千葉中の開設(県立千葉高校に併設)など公立の一貫校も増えており、公立を合わせると受験者は6万を超えるとも。こうした中学受験ブームも追い風になっている。 もっとも高校募集停止には問題もあって、似た境遇の生徒がずっと一緒のため社会性の欠如を心配する声もあるそうだ。------------ザッとこんな記事だった。東北の教育事情は首都圏などとはだいぶ異なるが、それでも中高一貫校の台頭の兆しは、あるように思う。ところで、中高一貫教育には、3つのタイプがある。(例示した学校のクラス数は1学年あたり)(1)中等教育学校(一つの学校で一体的に中高教育)。いわゆるミドルスクール。 東北を中心に例を挙げれば、 仙台育英学園秀光中等教育学校(私立、前期3クラス、後期2クラス) 新潟県立津南中等教育学校、群馬県立中央中等教育学校(2)併設型の中学校・高等学校 (高校入試を行わずに同一の設置者による中学と高校を接続) 例 宮城県立古川黎明中学校・高校(中学2クラス、高校6クラス) 青森山田中学校・高校(私立、中学2クラス、高校11クラス)(3)連携型の中学校・高等学校 (既存の中学校と高校が,教育課程の編成や教員・生徒間交流等の面で連携を深める。) 従来の私学の中・高併設タイプではなくて、近年主に公立中・高間で取り組まれるもの。 例 軽米高校・葛巻高校(岩手) 志津川高校(宮城)文部科学省のサイトには全国の取り組みが紹介されている(説明)。中等教育学校なる制度が我が国に導入されて10年近くになるが、制度改革による多様化としての機会提供という意味にとどまらず、教育の成果としても評価を受けつつあるようだ。東北では、中等教育学校としては仙台育英学園秀光(平成15年度、前期全学年9+後期全学年6クラス)。併設型では、私立で 青森山田中学校+高校(平成13年度、7+33) 弘前学院聖愛中学校+高校(平成18年度、4+18) 東日本国際大学附属昌平中学校+高校(平成12年度、3+18) 桜の聖母学院中学校+高校(平成18年度、6+13)公立では、青森県、宮城県、秋田県(2ペア)、秋田市、福島県が設置済み。----------青森県 県立三本木高校附属中学(平成19年度 学年2クラス)+三本木高校(全20)宮城県 県立古川黎明中学校(平成17年度 2)+古川黎明高校(6)秋田市 市立御所野学院中学校(平成12年度 4)+御所野学院高校(2)秋田県 県立横手清陵学院中学校(平成16年度 2)+横手清陵学院高校(設置母体校は県立横手工業高)(5)秋田県 県立大館国際情報学院中学校(平成17年度 2)+大館国際情報学院高校(設置母体校は県立大館商業高)(5)福島県 福島県立会津学鳳中学校(平成19年度 3)+会津学鳳高校(6)がある。----------さらに、平成20年度以降では、仙台市が東北初の公立中高一貫校を開設し(21年度)、また併設型は宮城県立(仙台市、仙台二女高を母体)、岩手県立(一関市、一関第一高を母体)で設置を予定している。私立では、岩手中学校・高校(21年度)。宮城県でいうと、古川黎明は今春に初の高校卒業生を輩出する。その進路状況が注目される。また、進学校として着実な大学合格実績を挙げている古川学園も中学校を開設予定で先日入試があった。古川学園中学校が上記の文部科学省サイトに出ていない理由は調べていないが、進学校に進めるというメリットは大きいだろう。初年度ということで倍率は高くなかったようだが、やがて人気が出るのではないだろうか。東北の中高一貫教育の成果と評価はこれからだが、見守っていきたい。
2008.01.15
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1 概要 県立高校などの入学式と卒業式の国歌斉唱時に起立しなかった教職員の氏名を神奈川県教委が校長に報告させている行為について、神奈川県個人情報保護審査会は県個人情報保護条例が禁止する「『思想、信条』に関する個人情報の収集」に該当するとの判断を示し、県教委に情報の保管や利用をやめるよう答申した。 県教委は同日、「答申を尊重せざるを得ない」として、05~07年度の報告分を破棄する方向で検討を始めた。 県教委は06年3月の卒業式から、国歌斉唱時に起立しなかった教職員名と校長らの指導内容などを記載した経過説明書の提出を、校長に指示。同年6月、県立高教職員23人が「思想信条に関する個人情報」に当たるとして、収集した情報の消去や利用停止を県教委に請求した。 これに対し、県教委は「集めた情報はいずれも客観的事実で、不起立の理由も聞いていないので思想信条に該当しない」との決定を出し、報告を継続させた。23人のうち16人は審査会に不服を申し立てたもの。 審査会は、(1)明確な理由のない起立拒否は想定しがたい、(2)起立しない理由の多くは、過去に日の丸、君が代が果たしてきた役割に対する否定的評価に基づく、などの点から「不起立の理由を聞かなくても一定の思想信条に基づく行為と推定できる」として、経過説明書に記載された情報を思想信条に該当する個人情報と判断。決定を取り消すよう県教委に答申した。 県教委高校教育課は「主張が(答申内容に)生かされず残念」とし、今年度の卒業式以降については「これまで通り学習指導要領にのっとり、国歌斉唱時に教職員は起立するよう指導する。(不起立者の氏名を報告させるかは)県個人情報保護審議会への諮問も含め対応を検討したい」としている。不起立者の人数は「個人情報に当たらない」として、今後も各校に報告させる方針。(毎日新聞記事10月29日から)2 評価 ちょっとビックリしたのは毎日新聞がこれを評価する解説を付していること。要約すれば、次のような論理だ。---------- 思想・信条など「センシティブ情報」は保護する度合いの高い個人情報として、神奈川県のように、個人情報保護条例の中で取扱い自体を禁止する規定を設けている地方自治体は少なくない。県個人情報保護審査会が出した答申は、こうしたプライバシー尊重の流れに沿った判断と言える。一方で国の個人情報保護法には同様の規定はなく、日弁連などの主張にも政府は条文化を見送った経緯がある。しかし今年6月には陸上自衛隊情報保全隊がイラク派兵に反対する国民の個人情報を「反自衛隊活動」などとして収集していたことが発覚。今回の審査会の答申を機に「官」による収集のあり方が改めて問われそうだ。---------- これは、短絡的に過ぎる評価だと思う。公務員たる教員ではない一般国民県民のセンシティブ情報なら、まさにそうだろう。プライバシー重視の流れに乗せて考えるべきだろう。しかし、事は学校教育行政の問題であって、的はずれ。3 考え方 教育を学校組織で行う以上、おのずと統制は必要だ。法制的には学習指導要領もあるが、さらに、職員会議での話し合い、あるいは校長の指示などにより、組織的秩序が保たれているだろう。公務員だと職務命令という形式をとることもある。 もちろん、学校が統一的に決めるべきだから、あるいは公務員だからといって、思想信条の自由やプライバシーを軽視して良いとは言えない。公務員であっても尊重されるべきだ。例えば、職務に無関係の政治的思想や加入団体を問うことはもちろんできない。校長が、あなたは参院選で誰に投票したか、あなたは創価学会員か、などと聞くのは許されない。 また、例えば校長や県教委が、教育は一致団結が大事だとして教員全員に、一定程度の研修を受講させるのは許されるだろうが、特定の信条や教義を唱えさせたりするのは、思想信条の自由に反するだろう。校長と教員の間の問題もだが、そもそも教育の中立性の問題もある。 国旗国歌については、個人としての受け止めには、たしかにナーバスな面があるだろう。しかし、少なくとも教員として職務に従事する限りにおいては、国旗国歌を教える責任こそあるとしても、これを教えない自由はないというべきである。 この点は、もちろん異論もあるだろう。私も、意見の多様性という意味では認めたい。しかし、本件の問題は生徒や父兄ではなく、教員なのだ。学校として国旗国歌をどのように教え、あるいは式典でどのように扱うか、は個人の勝手な発意で決めるものではなく、学校として統一的に決めるべきであるし、そう決めた以上は学校スタッフとして従うべき、この問題はそういう程度の問題だと思う。それでも抵抗すべきほどのナーバスさではない、と思うのだ。国民一般の意識もそうだと思う。 俗っぽく言えば、生徒や父兄が立つのに、先生はバラバラのママで良いのか、ということにもなる。本当はそれでも良いのかも知れない。しかし、ここで考えるべきは、学校として教育指導の内容、あるいは式典運営のあり方として、起立を決めているなら、そうすべきだ、ということだ。 実質的に考えても、起立させることが、ことさら個人の人格的核心を害するとも考えられない。4 なぜこんな判断になるのか ハッキリ言わせてもらえば、判断主体が「個人情報保護審査会」だから、かような結論を出すのだ。このことは、有る意味割り切って受け止めなければならないし、そうすれば良いのだろう。審査会に教育現場の問題を裁断する責任もないし、期待もしてはいけない。報道するマスコミにも、個人情報保護に軸足が乗るだろう。(そのことを悪いと言うつもりはない。体制ないし権力とマスメディアとの間の、ある種の健全性だから。) 少々意地悪く考える。この卒業式に参加した父兄である県民が、「我々も起立したのに教員には起立しない者がいた。誰々なのか教えてくれ」と学校に説明を求めたとしよう。 少なくとも、校長としてはどの教員が起立しなかったかは頭にメモしていなければならない。万一校長自身が起立反対論者だとしても、管理者である以上、教員と学校行事の状況を把握しないでは務まらないからだ。 しかし審査会の論理だと、「いや、それは答えられないんですよ」というのが校長の正しい対応となる。そんなバカな。 ではその父兄は資料を開示請求した。校長の頭の中のメモは文書でないが、紙にメモしていたら、文書はあるが教員の個人情報が記載されて非開示、ということか。 しかし、現場にいた父兄や生徒は見ている。公然の事実なのだ。そして、着席していたかどうかの単なる事実によって、あの先生はやっぱり反対なのか、という想像はされるとしても、それが人格形成や世界観に関わる価値でないことは前記の通り。むしろ、誰が起立しなかったという情報を踏まえて、(その教員を糾弾するという意味ではなく)父兄も一緒になって国旗国歌の指導や式典のあり方を考えていく、ということが健全な学校づくりではないか。やっぱり非開示もおかしい。5 国旗国歌問題 国旗国歌問題は、上記3の整理で一応カタが付いているのだが、昨年の東京地裁判決のように(起立・斉唱義務はないと判示)、ヘンテコな判断が出てくる。これは、教育現場を管理しようとする風潮が強いばかりに、教員の権利救済という形で管理主義に警鐘を慣らそうという価値観が発露するのだ。確かに画一的な管理主義は改められるべきだ。 しかし、教委の管理圧力が強いからといって、教育行政の正当な統制力を歪める判断をしてはいけない。一種の政治的偏向判断に陥ってしまうのだ。(東京地裁判決の批評と、管理主義の意味などについて、当ジャーナルの意見は下記過去記事を参照下さい。)5 その後 30日の記事によると、神奈川県教委は審査会答申通りに収集した情報は破棄するが、来春以降については個人情報保護審議会(審査会とは別)に諮問して検討する、という。 個人的には、破棄せずに毅然として欲しいとも願うのだが、一定の教育上の配慮もあるのだろうか。審議会の判断も見守りたい。6 附言:条例の法文の解釈について 以上は問題になっている神奈川県個人情報保護条例の法文を見ずに書いてしまったが、条例を読むと、確かに「思想、信条及び宗教」に該当する個人情報(第6条第1号)は取扱いの制限を受けるとあり、職員が職務として行っている場合を正面から除外(正当化)する規定はみあたらない。 私は、職員の職務執行に関わる情報収集は、地方公務員法の服務監督権などの法令に基づくもの(第6条但書)として正当化されると解釈するか、あるいはそもそも「思想信条」に該当しないと論理解釈する余地も十分あるとは思うが、思想信条の自由の優越性に鑑みて文面上だけで解釈すべきという立場(憲法的考え方)も一理あるから、多少の苦しさは免れない。 従って、同条但書にあるように、「あらかじめ神奈川県個人情報保護審議会(以下「審議会」という。)の意見を聴いた上で正当な事務若しくは事業の実施のために必要があると認めて」取り扱う、というのが王道のようだ。県教委の方針はこれで明確に合法化したい、ということだろう。 条文の文理上では、「思想信条」なら職務遂行でも一律(?)保護される。これは立法の配慮不足のようにも思うが、個人情報保護の理念からはそう考えたのだろうか。 できれば立法(条例)上も明確にして欲しいと思う。 国歌反対の教員側は着眼点が卓越していた、とも言えよう。■関連する過去の記事 東京地裁「国旗国歌通達違憲」判決を考える(06年9月24日) 財政審議会の教員給与引下げ論議と教育の質について考える(05年10月22日)
2007.10.31
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こんな記事があった。甲府市の保育園で、50代の女性保育士が、園児の指しゃぶりをやめさせようと指にカラシを塗った。保育所は不適切を認め、山梨県は行政指導をした、というのだ。毎日新聞で見たが、地元紙の報道も見た。(山梨日日新聞記事)報道されるのだから重大な事なのだろう。親はもちろん園内的にも隠れてやっているのかも知れないし、また、0歳児だというから、強制的にやるほどの必要もないと言うべきなのだろう。しかし、と思う。別な風に私は考えた。実は我が2番目の子は7歳になったが、今でも指しゃぶりを卒業していない。寝る前に必ずやる。指も口も大きくなったから、チュパチュパとすごい音を立てている。1歳を過ぎて保育所に入れた頃に、一度薬局で指しゃぶり防止の薬なるものを買った事がある。マニキュアのようなもので、一度使ったが、指をなめては泣き叫んで眠りに入れない我が子がかわいそうで、すぐやめたように思う。そしたら、保育所の先生が、そんなのがあるんですか、ちょっと見せてくれませんか、というので「薬」を保育所に見せたことがある。もちろん、保育所で塗って下さい、と頼んだわけではなく、先生の勉強のためだったと思う。普通は自然に治るというが、この子はかなり遅い方だと思うし、歯並びに影響必至なので、何とかすべきだろう。コトバで説明しているが、意に介さない。2番目となると、親も変に大人になって、焦りが薄れているのかも知れない。もし、保育士さんが指しゃぶり防止作戦をいっしょにやってみよう、となれば、親としても喜んだだろう。祖母などは、昔は指にカラシ塗ったモノだと言うが、健康に支障のない範囲でいっしょに子育てに取り組めれば、これほどありがたいことはない。昨今の学校や幼稚園、保育所の風潮で気になる事がある。うちの子どもたちも保育所時代はちょっとした怪我でも必ず状況説明とお詫びが、保育士さんから必ずノートに書いてあった。我が子の事だから、状況を教えて頂くのは大変結構なことだが、何もわざわざ、と恐縮することさえある。いちいち報告しないとウルサい親がいるのかな、と想像してしまう。こういうことは最悪のケースを想定する方に横並びするから、過剰サービスで統一する、つまりどんな些細なケースでも迅速に報告する、ということになる。保育士の先生方も、もちろん子どものためにやってくれるのだが、いつしか親の顔色を見て形骸化してしまわないか、と余計な心配までしてしまう。子ども同士けんかしたり、遊んで転んでどこか打ったり、なんてのは家庭でも公園でも当然ある事だ。事情で家で見られずにお願いしているのだし、病院に連れ込んだような時以外は、先生も大変だから連絡なくても良いですよ、とついつい思ってしまう。また、病院に連れて行ってもらうのも、本来は親の努めだから、緊急とは言え、そこまで申し訳ないという思いもある。(このセンスは妻とは微妙に違うらしい。)頼んでもいないのに家庭に無断で何をしたんだ、とばかりに、保育士の一挙手一投足にモノを言う親もいる。正しい保育の仕方がどうこう、とか言い出すのなら自分で育てればいいだろう。かと思えば、箸の持ち方から生活指導まで保育園任せで平気な親さえいる。そんな中で、預けられた範囲で文句の言われないことばかりやればいいという萎縮の発想でなく、親の顔色なんか関係ない、いま目の前にいる子を育てたい、という自由闊達でのびやかな発想だとしたら、私は逆にすばらしく、またさわやかな一陣の風のような印象さえ感じる。今回の件は県の監査での指摘だという(山梨日日の記事)。うがって見るが、監査の成果欲しさに飛びついたようにも感じられる。新聞も安易に乗っているのじゃないか。願わくは、カラシが本当に危害になるのかどうか。血が出るほどしゃぶっているのを見かねての「矯正」だというが、親との連絡は本当になかったのか。監査の過程で保育園側はどう説明したのか。このあたりの説明が欲しいと、私は思う。もっとも今回のは、ある種の密室性を感じるから、当の保育士も批判を受けて当然だろうけどね。カラシ事件を肯定的に論じているこんなヤツは、日本全国おそらく私だけだろう。
2007.08.31
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昨日のイーグルスは残念。TVで観ていたが全く良いところナシ。悪い面を全部出し切ったと割り切って、今日は好投と連打で行きましょう。さて、テレビ放映中のCMに、球団公式スポンサーでもある自動車整備学校の花壇が何度か登場した。自動車整備「大学校」という。エッ、そうなの。いつから、何で!?大学校の呼称は学校教育法に準拠する大学以外に、各省や自治体が置く高等教育機関に使用されているのが通常だし、一般人もそう思っている。防衛大学校、気象大学校、各県の農業(実践)大学校などなど。大学校の呼称は法令上他者使用を制限されていないのだろうか。また、花壇や赤門は位置づけとしては専修学校だろうが、認可官庁(宮城県知事か)が校名について指導をしないのだろうか。調べると自動車関係は専修学校なのに大学校を称するものが多いようだ。4年制の一級自動車整備士養成課程がスタートしたため、これを称する資格があるということだろう。国土交通省と文部科学省が統一した見解を出して、各県知事に通達しているに違いない。課程指定の権限を持つ国土交通省からすれば、陸運分野行政の利権確保の狙いもあるのだろうか、専門学校ビジネスの悪弊の温床にならないことを願う(失礼)。さて、そんなわけで大変ややこしいことになった訳だ。そもそも花壇や赤門は「専門学校」を称していたと思うが、専門学校の名も制度的には複雑だ。学校教育法ではまず「専修学校」の位置づけがあり、このうち専門課程を置く場合に「専門学校」を称することができる。そして今度は国土交通省の指定を受けて大学校を通称できる、というわけだ。花壇のサイトを拝見すると、2年制の「専門学校」部分は学位である専門士を称することができるほか、2級自動車整備士の受験資格を得る。更にその上に2年間の専攻科が用意されているが、国土交通省サイドの1級自動車整備士の道があるが、文部科学省サイドでは学位はない。花壇の称し方もこうだ。「財団法人角川学園 専門学校 花壇自動車整備大学校」と。
2007.06.17
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宮城県もそうだが、全国的に春の大会の参加辞退が相次いで、もう高校野球はボロボロ状態だ。昨日高野連は専修大学北上高校に対して正式に対外試合禁止の処分を出した。こうなると同様の実態にある全国の有力校も同列に扱われるはず。申告を渋ったり見え見えの言い訳をしている学校ほど「悪さ」を印象づけることになりかねない。虚偽申告の点はともかくとして、そもそも特待生制度はそんなに問題なのか。日本学生野球憲章に反するという形式的違法性をどこまで貫くのか。高野連が解釈を出したと言うが(記事)、学業に着眼すればセーフ、野球部活動が必須の条件となっていればアウト、ということらしい。形式的にはわかるが、現実には判断は難しいし、学校によってはあくまで学業や経済理由だと抗弁するところもあろう。そもそも高校野球はどうして特待制度をそんなにまで忌避するのか。高野連の解釈が自ずと示しているように学業の特待生は許容するのだし、他のスポーツについては関知しないのだから、野球だけそのように厳しく律することに国民的な同意が得られているかどうかだ。以前にも記したが、問題の根本はアマスポーツを土壌とした不透明な金銭授受、はっきり言えば関係者の金儲けの排除だろう。特待で学生が有力高を目ざすこと、また家族が経済的に救われることは、それ自体は問題ないことだ。ただ、その純粋な制度にさまざまな悪弊がコレステロールのようにはびこってくる。問題は関係者のモラルなのだ。徹底的に透明化することは大賛成。だが、対外試合禁止などという、これまた形式的な処分で学生の活動の道を閉ざす結果をとることは、大変悲しい。高校生に悪い点はないのだ。さらに付言すれば、国民の見方にも良くない点がある。これも以前に記したが、一部の私立高校が優秀な選手をかり集めることに対しての冷ややかな見方だ。地元選手で正々堂々とした県代表となるべき、などという情緒的などうしようもない議論まで飛び出してしまう。もっとも、申告に検討すべき点もある。脱落者問題だ。高野連などは知った事じゃないと言うだろうが、いかに自らの意思で入部した高校生とはいえ、まだ若い退部学生のケアを自己責任という訳にはいかない。これは学校自身が真剣に考えて欲しい。いずれにしても、憲章に象徴されるペーパー上の「フェアプレー」を貫徹しようとして、そして出す処分は生徒の野球活動禁止、という対応ばかりでは、高野連の姿勢も納得をえられまい。■関係する以前の日記 ○本荘高はフェアプレー違反?-雨天コールド2題(06年7月23日) ○一関学院の甲子園出場を応援したい(06年2月2日) ○高校野球の「野球留学」論議について再び考える(05年12月2日) ○高校野球の「野球留学」抑制論議を考える(05年11月25日) ○高校生の「野球留学」を考える(05年10月20日)
2007.04.28
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ドキッとする指摘だ。「先生」の権威を無くした教師は、社会全体の縮図である教室を支配する空気のコンダクターに堕し、教師が空気を読み違えると学級は崩壊する。担任という軸を失った学級は不安定となり、TVのバラエティのように道化役を求める。いじられて悲鳴を上げる道化役の存在で、空気は安定する。つまり教師もいじめに加担している、というのだ(藤原智美「『空気読み』と化した教師たち」、中央公論12月号)。教育に関する論評や提言は星の数ほどある。学力低下、いじめや自殺、私立中学志向の是非、教育基本法改正まで飛び出してきた。混沌として、軸が見えない。軸が見えないけれども、私は、初中教育は教師の人間力が基本だと思っていた。ところが、その教師の資質をズバリ指摘されたので、戸惑っている。たしかに現在の教師は難しい。保護者や地域の意見も多様化し、また、校長や教育委員会の変わらぬ上意下達体質に戸惑いながら、学力向上や生活指導に日夜努力しなければならない。学校もサービス業だろうという風潮がまかり通ってしまう。カネで教育を買う。子供も、あの学校はダメだ、あの先生はダメだ、と公言してしまう。何故勉強するのと聞かれて、いいから学校へ行け、と言いたくても言えない親。子供の権利なる観念、虐待防止、情報公開、評議員制度、などの流れも関連している。コストや競争の感覚の点は供給側の意識としては重要なことなのだが、経済合理性の見地の一本槍で教育現場を見ることは、本質を見失う危険をはらむ。対等な主体としての教師と生徒ということは、本質的な意味に置いてはあり得ない。言葉が適当かどうかわからないが、「強制」の要素が必要だ。「教壇」が消えて、生徒様をお預かりする責任者。子供から見れば、教師も数ある大人の1人に過ぎない。教師の人間力を基本に、などと考えていた私には、なんだか難しくなってきた。私は、答えられない。
2006.11.15
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1 判決の概要(裁判所サイトにないので主に毎日と読売の新聞記事からODAZUMA Journal整理)------------(1) 訴えの内容 都教委は03年10月23日、各都立学校長に「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について(通達)」という文書を通達。国旗に向かって起立、国歌斉唱、その際のピアノ伴奏、こうした職務命令に従わない場合に服務上の責任を問われることを教職員に周知、との内容。 これに従わず懲戒処分を受けた教職員らが提訴。判決文がないのでわからないが、懲戒処分の取消しを求めたのではなく、抜本的に、「起立・斉唱義務」がないことの確認を求める訴えの形式をとったようだ。その上で違法な通達に基づいて指導し処分した都教委の違法性に関して、都に慰謝料を求める国家賠償の訴えも併せて行ったのだと思う。(この辺、例によって新聞記事は被告が都教委なのか都なのか混乱している。)(2) 訴え(確認の訴え)の適法性 今後も職務命令とその拒否により懲戒処分や研修などが確実。また侵害される権利が精神的自由で事後的救済になじまず、式典が反復されることから回復しがたい損害を被るおそれ。よって訴えは適法。(3) 日の丸と君が代 日の丸・君が代は戦前まで皇国思想や軍国主義思想の精神的支柱であった。国旗国歌法制定された今も、宗教的政治的に価値中立的とまでは至っていない。反対する者の思想良心の自由も憲法上保護すべき(憲法19条)。従って、教職員に一律に起立・斉唱・伴奏の義務を課すことは思想良心の自由を侵害する。(4) 学習指導要領の性格 学習指導要領は法規の性質を持つが大綱的基準にとどまる。これを逸脱して教職員に一方的な論理や観念を生徒に教え込むことを強制する場合は、不当な支配(教基10条1項)に該当し法規としての性質は失われる。 指導要領では、国旗掲揚と国歌斉唱指導を規定するだけである。従って、指導要領が、起立・斉唱・伴奏の義務を負わせていると解釈するのは困難。(5) 通達と指導 都教委の通達は国旗掲揚・国歌斉唱の具体的方法等を指示するもので、各学校の裁量の余地はほとんどない。また、都教委は、従わない教職員の現認や報告の方法を指示し、職務命令違反の教職員を回数に応じて一律に処分するなど、校長の裁量を許さず教職員に国歌斉唱等を強制してきた。とすると、教育の自主性を侵害する上に、一方的な理論や観念を生徒に教え込むことを強制するに等しく、不当な支配に該当し(教基法違反)、公共の福祉による制約の範囲を超えて憲法19条にも反する。(6) 校長の職務命令 命令に重大かつ明白な瑕疵があれば従う義務はない。起立・斉唱・伴奏の義務はなく、むしろ拒否する自由がある。原告等が拒否しても式典進行を妨害することはなく生徒等に拒否を煽る恐れもない。伴奏拒否しても代替手段がある。以上から、命令には重大かつ明白な瑕疵がある。------------2 判決の基本思想 この判決は割合単純な論理で、1つのスジは通っている。ごく簡潔に要約すればこうだ。 ○ 国旗国歌は未だに国民に定着しているとは言えない。従って起立や斉唱などを国民に強要することは憲法19条に反する。 ○ これは教職員についても同じ。 ○ 従って、これを教職員に強要する通達も懲戒処分も違法(違憲)。 ○ なお国旗国歌を式典で指導することは有意義とは言えるが、懲戒処分までして強要させるのは行きすぎ。国旗国歌は強制でなく自然に定着させるべきもの(国旗国歌法の趣旨。学習指導要領の理念)。 判決では、国旗国歌の「価値中立性」が未成熟であること、つまり多様な考えがあり国民個人の精神的自由に属するナーバスな問題であることを非常に重視している。そして、そうである以上、国民一般も教職員もこれを害することはまかりならぬ、という構成だ。だから私は単純だと評した。 特徴的なのは、「校長」も自由を侵害される側として理解している点だ。校長は教職員に対して指導を強要された被害者であり、都教委によって学校(校長)の裁量や教育の自由が侵害されている(不当な支配)、という見方だ。3 判決への批判の基本 私は判決のこの基本思想(論理の出発点と言っても良い)である国旗国歌の「価値中立性」未成熟論と、多様な考えを保護することは、さして異論はない。問題は、この基本思想(出発点)だけで物事を単純に測定しようとする「世間知らず」の点にある。 公立学校における教育を充実させるために、指導や統制の必要はある。校長も教職員も個人事業者ではない。ハッキリ言えば先生個人の勝手気ままで教えられては困るのだ。保護者や生徒は学校に何を期待しているかを考えるべきだ。 この観点から考えるべきだと思う。以下に。4 どう考えるべきか 公立も私立も、学校は先生でもっている。先生との人格的接触が学校の本質だ。現実的には、さらに教職員以外の指導者、後援会、保護者なども人的金銭的に関与するし、最近は保護者がうるさくて先生方も苦心していると思うが、ここでも問題は学校と外部(保護者など)ではなく、学校行政の内側(教職員と校長、教委)の問題だ。 先生が学校の本質であるとすれば、また先生方が一生懸命仕事するためにも、校長の職務命令や教委の指導などの教育行政的な観点は邪道のようにも思える。確かに、1人の先生の教育の一挙手一投足まで縛るような指導では、当の先生が力を発揮できない恐れもある。 しかし、(特に公立の場合は)組織として学校が成立している以上、一定の統制は必要である。また教職員の質を保持し学校の教育力全体を高めるためにも適切な指導は必要である。 と、ここまでは一般論として十分当然のこと。なのだが、この辺から、建前と実態が分かれてくる。 最近、学校の自主性や校長の裁量などが言われているが、実のところ、そんなこと言われても困るのは当の校長かも知れない。従来は、校長が指導も職務命令もしたことなどないからだ。 生活面での指導なら、上司として当然に話すだろう。朝はもっと早く出てこい、とか、保護者の前ではスリッパはヤメよ、とか。しかし、教育内容面については、先輩としてアドバイスを求められたのならともかく、積極的にこうしろああしろ、とは言いにくいだろう。ほとんどの場合、校長や教頭は教職員から登用されるから、登用された瞬間から、今までと態度を変えることはできないのだ。 このことは、決して先生方が上司の言うことをきかない人間だ、と悪く言っているわけではない。もともと教員は高い責任感をもって教育にあたっている。勤務時間や公私の別もなく一生懸命やる先生が大多数だ。だから、上司と部下という関係はそもそもなじまないとも言える。 ところが、学力問題や、保護者との関係など、従来にない学校環境を背景に、学校組織にもチャントとした上下関係を当然のように求める風潮が出てきた。ここ20年くらいだと思う。従来の、1人1人独立した人格を前提にしてクラスを任せる教員像(新人もベテランも)、そして、アドバイスし合う同僚、その同僚の長(先輩)として校長がいる、という認識は、崩れてきているのだ。 これが学校運営面だけならまだしも、教育内容の面にも及ぶとなると、無理が表面に出てくる。このことが、今回の問題の核心なのだ。5 学校と教委の関係 国旗国歌については多様な意見があろう。教職員が多様な意見を持つのも当然だ。しかし、学校として式典をどう行うか、校長が決定権を持って、また職務命令を行うことができることも、当然だ。 もし都教委の通達がなければ、校長は従来通り教員の意見を聴いて式典の内容を決定しただろう(今回は争点でないようだが職員会議の性格も従来の教育界の争点だった)。都教委が懲戒処分を行うとの前提で、起立しない教員の現認・報告をさせられるのだから、校長も辛い立場だ。式典をどう行うかは学校に任せて欲しい、とホンネを訴える校長もいただろう。自分の学校内をワザワザ荒立てたくないから。 しかし、形式的には教委の通達は可能だし、実質的に教育的に考えても行き過ぎとは思わない(判決が不当な支配と判断するのはおかしい)。一般社会なら、「本社から通知来たから従ってネ」で済むことが、それでは済まないのが学校現場の特殊性であり、管理職のつらさだ。6 良心の自由との関係 私は、職務命令は当然できるとの立場だ。しかし判決は教職員の思想良心の自由に反するという。ここはまさに判断の問題だが、社会常識からして、「それはこらえて当然だろう」という程度に属すると思う。 また、現実問題として父兄や生徒を立たせるのに、教員が座っているというのでは学校行事にならないだろう。それが良いかどうかは別としても、そのようなことを職務命令することができない、という判断は誤っている。7 まとめ 以上のとおりだが、教員の一部には、教育内容面への管理主義的支配に反対する気持ちがあるのはわかる。たしかに、国旗国歌を処分を持って強要する都教委の姿勢は、何か躍起になっているようだ。 しかし、都教委は、国旗国歌を「正しく」理解することこそ教育の立て直しの重要な点だと考えるのだろう。そのことを批判することは自由でも、教員が従わない自由は、ない。 問題は、学校現場の組織的状況だ。私は、現場のつらさに変におもねるような、今回の「勇み足」判決が、正しい方向の流れを押し戻そうとするようで、その意味でも理解しがたい判決だ。上級審での是正を願う。
2006.09.24
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朝に新聞読んで仰天した。国旗国歌で起立斉唱を求める都教委の通達が違憲だ、としたようだ。浅野前知事のパフォーマンスでブログ書いているどころではない。たしかに行きすぎた四角四面の管理主義で現場がモノを言えない風潮は察せられる。一律的で融通のない行政現場を懲らしめるバランス感覚は有っても良い。また個人としての思想の自由は、ある意味で教師にこそ尊重すべきとも言える。しかし、生徒に斉唱させることは意義があるが、先生は拒否していい、なんて教育がありうるハズがない。世紀のヘンテコ判決だ。朝の出勤前で時間がない。判決の分析と批評は週末に必ずやります。
2006.09.22
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昨日は小学校の終業式。我が家の子たちも通知票と荷物をもって帰ったようだ。夜に帰宅すると、1年生の下の子は初めての終業式だが、もらったもらったと大喜びしている。喜んでいるのは、通知票ではなくて、「きゅうしょくペロリ賞」の方だ。ペロリ賞は、給食を15回以上完食した人がもらうそうだ。1学期に50回以上は給食があっただろうから、15回で表彰するというのは、相当残している実態があるのだ。祖母によれば、子供以外の周囲からも話を聞いているのだろうが、給食の量が結構多くて残す児童が多いようだ。上の子も、給食は量が多いと言っている。う~ん、私には信じられない話だ。給食を残す、なんて。さもしい根性だが、オレなら、家で食わなくても学校の給食はお代わりしたはず。1度おかずにアリが入っていた時以外は、残した記憶はない。給食が楽しみで学校に行ったようなものだ。豊かな時代の象徴なのか、過食を戒める風潮なのか。量が多くて太ッチョになるという声もあるそうだ。妻や祖母も、どうもそれを気にかけているようでもある。1年生の子の担任の先生は、ことし新任の先生だ。先生も初の終業式で、大変ご苦労様でしたと言いたい。児童も親も地域も一筋縄では行かない昨今の学校事情だろうが、とにかく子供は学校が楽しいと言っていますから、まずは満点ですよ。ついつい仕事柄(実は無関係だが)、先生の立場に立ってしまう。毎日、ペロリする児童をチェックして、賞状を書くのも、手間がかかっただろう。こっそり子供には言った。給食は全部食えよ、と。
2006.07.21
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NHKラジオ第一(06年5月24日午後)いきいきホットライン「英語をめぐる“最近”事情」で慶応大教授の唐須教光さんが出ていた。車中で聴く。途中ホーマックで蟻の巣のクスリを買ったりして、途切れ途切れで全体の半分も聴いていないが、印象に残った氏の見解は概ね次のようだ。(理解が一部不正確。私見も入って整理しているかも。)(1) 母音子音の単純な日本語が母語の場合、音声の複雑な英語に慣れるには、小学校高学年までに始めた方が良い。文章の内容の理解はなくても良い。音になれること。(2) 英語が母語で来日して間もないのにきれいな日本語をしゃべる人がいる。読み書きはできなくても。これは日本語の音声が単純だから。逆は、そうはいかない。(3) (中学校から始める、あるいは必要に応じて、関心を持ってから英語を勉強すれば良いではないかとの意見に対して)それでは時間がかかる。損をする。もったいない。(4) (しっかりした国語教育が先決だ、との意見に対して)英語教育で時間が奪われるとすれば、それはそれで議論しなければならないが(優先順位の問題)、英語をやるから国語がダメになる、ということはない。(極論すれば?)授業も日本語でやる必要もない。(5) 世界的には幼い頃から複数言語の環境にあるところが少なくない。日本でも日常生活に英語が入っている。だから、まず日本語を確立するというだけに拘泥すべきでない。(6) 日本語の形成過程である入学前だと複数言語に混乱があるかも知れないが、小学生なら混乱は生じず、ちゃんと使い分けられる。なお、(6)の点は、ご家族の米国での体験を話しておられたので、氏の意見ではないかも知れない。そもそも、早期教育の必要性は、言語理解というより、音に慣れさせる点に主眼があるようだ。敢えてキャッチフレーズ風に分類して、「有害」「不要」「有効」「必要」の各論者がいるとして、私は、早期教育「不要」論者であった。 ■関連する過去の日記 ○早期英語教育「あなたは本当に賛成?」チェックシートを開発!(05年10月6日) ○Yellow Submarine と早期英語教育を考える(05年10月5日)ただ、「有害」論に振り回されて、正しい議論になっていないという感覚は持っていた。つまり、国語の乱れを直すのが先決だ、という意見は、それはそれでもっともなのだが、だから英語教育を導入するのは良くない、とは論理的には結びつかない。せいぜい、学校の現行カリキュラムの総枠の制限を前提にして優先順位の問題となるだけのはずだ。国語の乱れを憂える気持ちが先行して、さらにこれを煽動する業界と煽られる哀れなお母さんたちの様を考えると、ついつい早期英語教育を否定する方向に気持ちが向く。それでも、何か、罪のない早期英語教育をバッシングしているような、そんな気持ちは持っていた。そこに今回の唐須さんの意見。「小学校高学年までに耳を慣らさないと、損である」という点。あっ、やっと正しい議論ができる、とピンと来る気がした。他の点はちょっと賛同できない(というより私にはわからない)面もある。(やっと、じゃなくて、あんたが知らなかっただけでしょうが、と言われそうですが。)科学的に正しいとすれば(学者が言うのだからそうなのでしょう)、確かに小学校から導入する方が良い。あとは、最低限必要な英語教育の内容はどうかの点と、既存教科との優先順位調整の点、だ。音声に親しむという点なら、時数も多くないだろうから、何とかなるようにも思われる。ここで気づく。私の場合、早期英語教育バッシングは、何やら自分のノスタルジー擁護とつながっていたと思う。しょせん第二外国語としての英語なのだから、それで良いだろう。文法と発音記号と、明治以来の伝統的な日本人向けの英語学習でやるべきだ。オレもそうやってきた。てな感じ。昔の若者が苦労して漢籍を学び、仏典を修めていくような、そんなイメージかも。日本人好みの、道を極めるイメージか。若い頃、渦中にいる頃は、さほど意識もしていないのに、年を取って無責任に振り返る立場に納まると、自分の中になる昔の感性を擁護したくなるのだろう。全く無責任な話だ。勿論それだけではないが、その気持ちがあったことは今思えば否定できない。意識してか意識せずしてか、自分の何か守りたい事のために、あれこれ理屈を持ち出して、都合の良いように並べる。そして自分の心の安泰に至る。前回の日記でも、英語はリテラシーではないから、と理由付けして自分で疑問に思ってもいた。また、教育に対する過度の期待や産業界の煽動など、縁辺的な事情を、早期英語教育の否定の理由にすることにも、自分ながら割り切れないでいた。本質論でないところで増幅・混乱していることと、早期教育の是非は、別なのだ。ところで、さらに気づくのは、この状況は、まさに仙台に今なお残る別学維持論者の精神構造なのだ。仙台二高の共学化対応予算の執行停止を求めるとか、よくもそんなに元気があるなと逆に感心もするが、結局はノスタルジー擁護、自分の感性擁護なのだ。とりあえず、周辺的なモヤモヤを振り払って、真っ当な早期英語教育の議論ができそうで、安心しているのが、現時点の私です。ちなみに、キャッチフレーズなら早期英語教育「有効」論者に変わりそうです。「有効」かどうか冷静に確認した上で、カリキュラムの調整(優先順位)と児童に楽しんでもらえる工夫、必要な施設設備、教員の資質と配備などを考えていくべきではないかと思います。
2006.05.26
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仙台市の聖ウルスラ学院高校について、大変面白い記事を目にしました。伊達藩作法を学校認定科目に取り入れている、というのです。「仙台藩作法指南役」なる先生が教える。具体的には、挨拶から始まって、お茶の飲み方、マナーなど、あらゆる作法を教えるのだという。秘書検定合格にも役立つという効果もあるとか。校長によると、「真の国際化は日本の文化を身につけること、そして個々の存在意義を確立させること」だという。目に見える違いとして、体育館に集合した生徒たちの頭が動かなくなった、そうです。(以上、「仙台経済界」2006年3-4月号による。)真の国際化のためには、日本を知り、個々を確立すること。はい。私も全く同感です。数年前ですが、当時教頭先生だった現校長に、私も何度か話を伺ったことがあります。聖ウルスラ会がそもそも世界規模の組織で、仙台は大きな拠点なのだそうですが、先生ご自身も国際交流活動を通した教育に非常に熱心で意欲的でした。私自身、私立の女子校の建物に合法的に(!)入る数少ない機会でもありましたが、生徒さんの礼儀の正しさが印象的だった。しつけが行き届いているのだ。今は聖ウルスラ学院英智高校となり、一部コースは男女共学。また小中学校も新たに一貫教育の男女共学学校となり(聖ウルスラ学院英智小・中学校。小中を通じての「4・3・2制」は加速的発達段階を考慮した先進的システム)、他にない大きな特色を出している一本杉の風景もだいぶ変わりました。個人的な思い出だが、大学1年か2年の時、フランス語の先生でもあったシスターに招いていただき、ウルスラ高校と隣接する一本杉教会を訪れたことがあります。赤ワインと、いっしょに行った宮城学院の人の歌が記憶にあります。確か音楽科の4年生できれいなお姉さんだったな。ま、それはともかく、クリスチャンでもない私にとって、印象的なクリスマスパーティでした。バスで行ったはずで、当時はどの辺かもよくわからなかったのですが、冬の夜の、ささやかで美しい思い出の地です。今では、高校のすぐ南側に都市計画道路が開け、若林区文化センター・図書館もできた。藩政時代からのたたずまいに加えて、文化拠点という雰囲気も出て、まさに学園ライフに好適と思います。英智高校のある場所も伊達屋敷だったそうで、その縁もあって伊達藩作法の授業が実現したようです。少子化時代を迎えて特色を出すという私学の経営上の事情はもちろんあるでしょうが、仙台の教育環境の多様化・充実の観点からも、大変素晴らしいと思います。小中段階からの人間教育が最大の特色。頑張れウルスラ学院。 ■朝日新聞(宮城版)でも紹介されていました。 (卒業式には伊達泰宗当主が直々にいらっしゃったそうで。すごい。) ■なぜか仙台市ガス局のHPに聖ウルスラ学院一本杉キャンパスの紹介 (ウルスラの挑戦を簡潔に紹介。校長先生が国会で説明しているのも、すごい。)
2006.03.03
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河北新報の本日(11日)の「持論・時論」コーナーには仙台一高同窓会副会長という方の投稿がでている。要旨は、------------ (1) 戦後占領政策の中で宮城県が共学に抵抗できたのは、有識者の時流にとらわれぬ公正な教育観と権力に盲従しない勇気によることを想起せよ (2) 仙台には個性的な伝統を持つ別学校と新設の共学校がバランス良く併存している。中学生が自分の意思で別学か共学かを選択できる現在の方式を維持すべき。 (3) 百年の伝統を持ち人材を社会に送ってきた1つの文化を、一方的に歪めるべきでない。 (4) 共学切替えには多額の投資が必要。県財政の状況下では急ぐ理由がない。 (5) 11月25日に高校生とが村井知事に存続を陳情したが、現代の風潮に抗して自らの意志を持って学校づくりに参加する高校生の姿も尊重せよ。------------というところ。この方が別学維持の意見を整理しているとすれば、つまるところ別学維持論者は「確立した伝統であり選択肢の多様性からも残しても良いだろう」ということだろう。なお、(1)は歴史認識が違うが、かりに主体的に抵抗したと評価しても、ではなぜ別学が優れているのか、の議論が必要だ。(5)に至っては、この議論をする場合に取り上げるべきではない。私は、問題は「残しても良いか」という図式ではなく、宮城の学力水準向上のために「不可欠だ」という立場である。内容は以前に記したが、論理的に再整理すれば次のとおり。 (1) 宮城県の高校生の学力向上は急務(現役の大学進学率が指標) (2) 仙台市内はもちろんだが、石巻、古川、白石など地方都市の中心的高校の進学レベルが低い。東北他県の同等の規模の都市に所在する公立高校と比較すると歴然。 (3) すなわち、県全体の公立高校の学力レベルが低いのが現状で、重大な問題。 (4) そして、これを改善するためには、県全体の教育水準を牽引するような模範となるトップ進学校が実績を伸ばすことが必要である。 (5) 普通に考えれば、それは県都仙台市にある伝統県立校である。 (6) 教育内容の見直し、学校関係者の理解、教員の人事方策や資質向上などとセットで行わなければならないが、このような「水準牽引校」はいくつも作れない。せいぜい1校、あるいは競わせる意味で2校。 (7) となれば、男女別というわけにはいかない。当然共学でなければならない。目標・模範・頂点は1つであるべきだ。また、付随的に資源投入(人、カネ、施設)の視点からも。県教委は、学力向上推進プログラムと高校再編の視点とは、表面上、特にリンケージさせていないと思われるが、現実には学力向上のための男女共学化という戦略的意図を持って考えておられるのではないかと思う。それは当然のことだ。この問題は深い根がある。一高、二高、一女、二女などは、伝統校の良さは存分に発揮しているとは思うが、進学の面では近年の不本意な傾向が改まる兆しが薄い。要因として、例えば教員人事が悪いと言われた。旧東北帝大を出て高校教諭になった先生が、理解できない生徒への懇切丁寧な指導や、ましてや生活指導などするはずがない。それよりは、自分の好きな研究や論文作成にいそしむために教諭の道を選んだ、などと言われる。仙台一高などは教科別に職員室が構成されている。学校としての共通目標を校長が言っても聞き入れるはずもない。人事上も仙台の安住を好み、同一学校に10年も20年も居るから、革新の気風が生じない。というわけだ。他県なら引っ越しも当たり前なのに。これもだいぶ改善されてきているようです。私は、番号付き高校(横文字を言いたくないのでこう呼んでいます。)にこそ再生・躍進して欲しい。人事や教育財政の問題とも絡むが、共学なんてのは当然のことなのです。さまざまな「よどみ」や「停滞」を誠実に直視し、これを断ち切って、新しいステージに出るべきだ。再生のチャンスでもある。もし別学を維持するという一点を押し通すと、県教委はどうするのだろうか。泉館山高や、仙台南高に資源を投入して県全体を牽引する代表的進学校にする、とせざるを得ないのかも知れない。普通なら、それこそ「伝統」と関係者の裾野の広い番号つき高校こそ、トップ進学校にする、それが効率的でもあるのだが。意地の悪い言い方だが、同窓生に代表される別学論者も、それでも別学を通しますか。私たちは未来を見なければならない。百年の伝統はもちろん尊重されるべきだし、同窓生が母校を思う熱い気持ちはわかる。しかし、「別学」という一属性にこだわり続けることの弊害に冷静に思いを致して欲しい。他県で言えば、戦後の占領政策によって他律的に、あるいは近時になって自主的に共学化に踏み出しているが、それで学校の価値が下がったという議論が、あるか。長いから伝統というのでは議論にならない。未来をみつめないと。仙台市外では、学校統合がそろそろ具体化を帯びてきた。学校が廃止されるのは、実に辛い。同窓生のセンチメンタリズムだけではなく、現実に地域の中学生の進学の機会が(距離が広がるという意味で)制約されるからです。これに対して、統合・廃止ならともかく、共学か別学か、という私に言わせれば学校やその伝統の、ほんの一属性に過ぎないことを、アヤコヤ論議している、のんきな実情ではないのです。県教委には、このような本県の学力向上の視点からの議論をもっと明示的に主張していただきたいと思うのですが、どうでしょうか。別学維持派の考えは、アンケート実施など民意を再確認して、維持派の強い伝統校は別学で残そう、という作戦のようです。でも、各学校ごとに考えていい問題ではありません。県全体の問題であって、これらの学校こそ改革の焦点となるべきなのです。■関連する過去の日記です ○宮城県立高校の男女共学化を考える(3)妙案登場!?(12月7日) ○仙台市梅原市長の「仙台一高・仙台二高別学維持」発言に思う(11月30日) ○宮城県内の公立高校の男女共学化論議を考える(2)歴史(11月28日) ○宮城県立高校の男女共学化を考える(1)序論(10月28日) ○宮城の進学率と公立高校を考える(9月6日)
2005.12.11
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別学が「あってもいい」のではないか、という意見があるようです。私は、まずもって宮城の現役進学率の低さが大きい問題だと考えています。そして、一応頂点とされてきた仙台市内の番号付き県立高校が、もっともっと現役進学率を高めなければならないと考えています。宮城県の高校教育の水準を牽引する役割を、もっともっと発揮して欲しいのです。この観点からは、共学化なんてのは当然クリアされるべき小さい課題にしか過ぎず、理想を言えば、仙台市内の県立高校も統合再編して、教員と施設など教育資源を統合・特化して心機一転、スーパー進学校を作るべきなのです。県教委も全体への配慮からあまり明確には言えないのでしょうが、(統合はともかくとしても)県全体の現役進学率の向上のため、番号付き高校が進学校として真価発揮すべきとの意識があるのだろうと思います。知人と談笑しつつ思いついたことですが、どうしても別学を残したい? ヨシそれならば、次のようにしてはいかがでしょうか。ついに、妙案登場!?(もちろんブラックユーモアですよ。)題して、仙台の根強い別学「伝統」論者と、宮城の学力向上と、その双方を満たす画期的プロジェクト登場!(1) 全県一学区どころか、県をとびこして山形県と共通で、両県一学区とする。(2) 仙台・宮城の優秀な中学生は、是非山形東高校を受験するよう、薦める。進学なら山形へ、が仙台・宮城の中学3年生の常識となる。(3) 別学の伝統重視という中学生は、もちろん番号付き県立高校を受験できる。別学信仰の親も満足できましょう。(4) 山形からも、都市へのあこがれと別学モノ珍しさで、多少の中学生は仙台の番号付き県立高校に入学するかも知れない。番号付き県立高校は、裾野の広い準トップ進学校としての特色を発揮していくことになりましょうか。(5) なお、両県の連携・交流にも大きなはずみがつくという効果も。(6) 仙台から山形東高に通学する場合の交通。現状だと、 ○仙山線 仙台駅6時12分発→山形駅7時37分着 ○バス 県庁市役所前発6時55分発・仙台駅前7時05分発→山交ターミナル8時05分着 (前後に10~15分間隔で便があり。)というものです。どうでしょうか!問題を茶化す、あるいは自嘲と自虐を好むわけでもなく、問題の本質を訴えたいのです。仙台・宮城を真剣に考える当ジャーナル読者(誰だろう?)にはご理解いただけると思います。学都仙台・宮城を引っ張ってこそ、ナンバースクールじゃないのですか。ここでデータを紹介。(各校HPから整理。単位は人。いずれも17年度の数値で合格者ベース。つまり私立は実人数の数倍になっていると思われる。) ○仙台二高(1学年8クラス) ・国公立 現役115(うち東北大55)・浪人107(うち東北大31) ・私立 現役63・浪人291 ○山形東高(1学年6クラス。約4割が女子生徒) ・国公立 現役151(うち東北大50)・浪人38(うち東北大18) ・私立 現役90・浪人101 ちょっと分析すると、仙台二高の場合、現役進学者実数は(私立の実入学実績が不詳なのだが、かりに私立合格者がほぼ入学したとしても、つまり上限で見ても)160名程度と推測され、就職はゼロ、専門学校等がいるとしても、残る現役160人程度は浪人して来春以降の進学をめざしていることになる。約半数が浪人、と何ともすごい。 これに対して山形東高は、国公立の「浪人」合格者が実在することから浪人(学校用語としては進学準備)に回る層もある程度が伺えるが、二高に比較すれば現役進学率は相当に高い。200人程度は現役で進学していると思われる。 現役での国公立合格者数(私立は実入学数がわからないので国公立に限定。)を学年定員に占める割合でみると、仙台二高は36%、山形東高は63%となる。(もちろん私立より国公立が価値が高いというつもりは全くなく、私立は「合格数」と「進学実績数」に相当の乖離があるはずなので、とりあえず国公立合格者数で測る趣旨です。ちなみに他県に目を転じて、岩手のおそらく4,5番目クラスとされる進学校で、宮城県からも越境入学が許される県立某校も、浪人志向が高いと言われますが、平成17年度の実績からこの割合を計算すると49%でした。) ○仙台一高(1学年8クラス)※平成15年実績 ・国公立 現役63(うち東北大22)・浪人117(うち東北大46) ○宮城第一女子(8クラス)※平成17年実績 ・国公立 現役127(うち東北大35)・浪人82(うち東北大24) ○宮城第二女子(8クラス)※同上 ・国公立 現役104(うち東北大20)・浪人44(うち東北大15) 仙台一高は二高よりもっとすごいですね。ズバリ言いますが、一高の凋落は目を覆うばかり。特に15年度は前年度と比べても歴然と低く、HPでH16・H17の実績を公表しないのも、「自粛」しているのでしょうか。一女高・二女高も、現役合格実績が相当低いというべきです。 ハッキリ言えば、「別学が文化だ」などノンキな事を言っている場合じゃないでしょう。統合されないだけでも郡部に比べれば良いのに。実施時期を遅らせて合意形成に配慮しているだけでも、十分な尊重を受けているものと思います。 本当に子どもたちのこと、本当に未来の仙台・宮城を真剣に考えているのか、と言いたいです。 高校は卒業生のモノではない。現役学生を中心として、未来の入学生のもの。そして、公立である以上、人材育成・供給機関という意味で県民みんなの共有財産だ。 過去の郷愁を大事にするのは結構だが、同窓生という特定の部分社会での意識にしか過ぎないこと、しかも前向きの議論でないことをわきまえて欲しい。過去の郷愁は、仲間内で談笑する程度の話で、せいぜい、別学だとこうだったよといわば情報提供する程度にとどめるというのが普通、というものではないでしょうか。 それが、やれ伝統文化だと真顔で声高に叫んで、それだけを押し通そうとすると、結果的に、現実と未来に関わる本来の議論(冒頭に記したこと)を歪めてしまうのですから、大変重大です。現在と未来を真剣に考えるべき。学校は卒業生のものではないからアレコレと口を挟まなくて結構です、とさえ言いたくなるけど、もちろん本当は卒業生にこそ真剣に母校のことを考えて欲しいのですが、ね。 ちょっと思うのは、こうした「伝統文化至上主義論」も卒業生個々の真の意思ではないと思う。実は卒業生も大多数はわかっている。ただ団体として意思表明するとどうしてもそうなる、そしてそれを押し通そうとする有力?な人たちが存在する、ということなのだろう。ここは想像です。 だから、その存在に対しては、教育論とは無縁のまさに政治的配慮の世界で対処すれば良く、またそれ以上の配慮をして教育論を害すべきではない、ということでしょう。そうして欲しいです。■関連する過去の日記です ○仙台市梅原市長の「仙台一高・仙台二高別学維持」発言に思う(11月30日) ○宮城県内の公立高校の男女共学化論議を考える(2)歴史(11月28日) ○宮城県立高校の男女共学化を考える(1)序論(10月28日) ○宮城の進学率と公立高校を考える(9月6日)
2005.12.07
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ある週刊誌の記事で読みました。高校野球特に甲子園を神聖視してきた全国紙も現実を見始める時期、というような論調の記事でした。具体的には、全国から球児を集める私立強豪校が、多数の野球部員を集めるのはいいが、現実には相当の数の「脱落者」を出している実態がある、との内容。そして、他県から野球部員を集めているベスト5に、山形県と宮城県が入っていました。(斜め読みしたので、こんな感じの記事でした、という程度です。)ナルホド、という感想を持つとともに、このような実態を是非オープンにして、いかに対応すべきか論議して欲しいと思います。この問題、そもそも問題の所在は何なのか、と想像するに、行きすぎた勧誘に伴う不透明や入学処理の実態だろうと漠然と思っていましたが、大量の「脱落者」という記事で問題意識に伴う中身を教えてもらったという感じがします。(これがナルホドの意味です。言われれば当然とも思えますが)。「脱落者」に対して、合意に基づく競争の論理もある程度は通用するのかも知れませんが、全ての生徒に十分なケアができてこそ教育であって(あくまで学校教育の一環)、仮にケアのできる限界を超えて勧誘しているのならば、野球中心の学校「教育」内容も含めて、よく論議されるべきです。私は仕事の関係で、宮城県内の有力な私立高の幹部に何度かお話を伺う機会がありました。各種スポーツで県外から優秀な生徒を入学させる一方、学業面でも停滞する県立を尻目に実績を上げている学校です。いち早く中高一貫教育を導入し、また施設面でも県立とは比較にならないほど素晴らしく、教職員の熱意も感じられました。その幹部は、名前だけ在籍させて実際にはその学校にはほとんど居ないような(卓球の某有名女性選手のこと)、経営の論理優先の東北北部の某学校とは違いますよ、との趣旨の話をしていたのを思い出します。その学校も、ちょうどその頃に野球部が相次ぐ不祥事で、やがて活動自粛や部員募集停止をするという状態だったのですが。根底には私学のモラルが問われます。また、ある種の制裁も必要かも知れませんが、それにしても「大会出場の際に他県出身生徒の登録を制限する」式の対応は、短絡的で筋違いである上に、生徒に責任を転嫁するようなもので反対です。高野連の当事者能力の程はわかりませんが、ここは、教育の観点を重視して、是非公明な議論を進めて欲しいです。そういう意味では、甲子園礼賛の全国紙を読んでいては、確かに問題の適切な理解ができなかったのかも知れません。関係する以前の日記 ○高校野球の「野球留学」抑制論議を考える(11月25日) ○高校生の「野球留学」を考える(10月20日)
2005.12.02
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29日の梅原市長の記者会見で、発言しています。要約すれば、 ○伝統的な価値観や文化は大切な価値があり、これを大事にすべき。 ○仮に男子のみ又は女子のみが進学できるという制度なら差別だが、男子校、女子高が共学の高校と並存することはなんら差別ではない。 ○戦後GHQの圧力や指導にも屈しなかった本県の伝統的なエピソードだ。 ○すべてを別学というのではない。別学の高校もあってもいい。 ○仙台一高・仙台二高は別学であるべきだ。という具合です。なお、河北新報(30日)の記事。私見は以前に書きましたので、今日はダラダラ書きませんが、梅原市長の言い方は、どうも後ろ向きで視野が狭く、将来を向いて仙台・宮城の教育を本当に考えているとは思えないのが残念です。また、「GHQの圧力に屈した誇りを持て」という認識も、残念です。本当に歴史を直視せよ。単に嵐が過ぎるのを待ったのが、当時の宮城県の対応だったのでないのか。また、「村井知事を支持する」と言っていますが、知事以上にハッキリ言っているようです。或いは、県のことだからこそ、気楽に本音が出てしまったのでしょうか。(市立高校の共学化は別論だという。だから、教育論ではないことを自白したようなもの。)仙台エスタブリッシュメントの共有意識を丸出し、か。■以前の私の日記を参照して下さい。 宮城県立高校の男女共学化を考える(1)序論 宮城県内の公立高校の男女共学化論議を考える(2)歴史
2005.11.30
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村井知事が男女共学化の方向の見直しを求めるような発言をしています。別学維持論者の声が強くなるのかも知れません。知事の論理は次のようです。(28日県議会での説明内容をTV報道から要約。) ○共学化は時代の流れ(少子化、効率化)としてやむを得ない方向 ○しかし学校の多様性や伝統も重要 ○学校運営の実態、財政面、受験生と保護者の意向などを総合的に勘案して検討すべき ○当面は「併存」し、全校共学化方針は見直しを含めて再検討すべき ○なお学区は全県一学区とすべき ○教育委員会に伝えていく 「見直す」という決意の存在がわかるとしても、見直しの必要性が不明だし、最も肝心な「なぜ別学を残すことが良いのか」の根拠がないじゃないか... と大いに当惑します。今後の手続論も含めて、ちょっとスタンスがわかりませんけど、という感じです。 私の考え方は、未整理ながら前回の日記(宮城県立高校の男女共学化を考える(1)序論)のとおりです。 現時点ではこれ以上具体的な議論ができる材料がありません。そこで、今日は視点を変えます。温故知新。男女別学が残された歴史を振り返ってみましょう。 以下は、『仙台市史 特別編 4(市民生活)』(平成9年3月31日、仙台市史編纂委員会編集、仙台市発行)の内容を、ODAZUMA Journal編集局が要約。------------ 仙台市内の公立高の男女共学は昭和43(1973)年の泉高校(OJ注:当時は仙台市ではなく泉町)が初めて。それまでは公立私立全て男女別学だった。なお、翌74年には市立仙台高校が男子校を改め共学化。 戦後の占領政策における教育改革は、昭和23(1948)年以降の新制高校を(1)学区制、(2)男女共学、(3)総合制(職業高校を普通高校と統合化すること)、の3原則で改革することにあった。ただし、文部省は総合制と共学についてはある程度柔軟な姿勢を示し、宮城県でも、郡部の4校を共学化したにとどめ、総合制は取らなかった。 しかし、1948年から49年にかけて占領軍が強く実施を勧告したため、共学校を増やし、統合化も実施したが、いずれも郡部だけにとどめた。(厳密には仙台市内でも仙台商業と仙台女子商業を形だけ合併したが、1957年に元どおりにしている。) 宮城で別学が残ったのは何故か。 占領期に米国は太平洋陸軍第8軍の第1軍団を京都に、第9軍団を仙台に、それぞれ駐留させて、東海以西と関東以北とを管轄させた。在仙台の第9軍団の民間情報教育課長であったB.E.マーチン氏は、日本と仙台に愛着を持つ人で、教育改革にも柔軟な路線を示した。 なお同じ東北でも秋田は秋田軍政部教育課長のモロニー氏が強い方針を示したため、別学が消滅したが、宮城軍政部教育課長のハリントン氏次いでK.F.デリカ氏は寛大な方針であった。そのため、宮城県側の抵抗というより、むしろ占領軍の無理な強制はしないとの基本方針に沿った形で、県が選択したものである。 しかし、本当に主体的に選んだのだろうか。 共学化の方針に対して県側が示した抗弁は、「別学が良い」というものではなく、共学化強行の問題点に集中していた。すなわち、性道徳の混乱の懸念、財政難、高校関係者・同窓会の反対。共学と別学を比較検討した議論の形跡はない。占領政策に飲み込まれないぞという一般論的な反対意識、また余計なことはしたくないという守旧意識で、時期の過ぎるを待った、というのが実態ではなかったか。------------ 今回の議論で、もし別学を残すというのなら、本当の教育論の視点で、是非を議論して欲しいです(そして、わが県高校教育の水準を牽引すべき仙台二高と仙台一高の沈滞打破という「本論」を見失わずに。これは私見ですが)。歴史を見てもその思いを強くします。 同窓生のノスタルジーや現役高校生の現状変更反対論で、本来の議論が歪められるという愚だけは、避けたい、と思っているのですが。
2005.11.28
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本日(25日)の河北新報の記事「野球留学生 高野連、是正に本腰 東北の私立校に戸惑い」に出ています。また酒田南高校が例に引用されていますね。私の意見は以前に記しました。(10月20日 高校生の「野球留学」を考える)高校生が主役であること、また学校教育であることを忘れないように。一方で地域には特色ある学校や高校生を温かく受け入れる度量が欲しい。勧誘の過熱にまつわる諸問題があるならそれ自体を改善するべき。それだけのこと。冷静で温かい(変な表現?)論議を望みます。
2005.11.25
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前回、学校給食の「いただきます」について書きましたが、もう1題。同じく学校給食の「いただきます」に関してなのですが、話の重点が変わります。「合掌」について、です。 平成14年12月15日に秋田市で、「第5回一日中央教育審議会」が開催されました。教育基本法の見直しなどについて意見発表がされているのですが、岩手県で小学校の教頭をされている畠山さんという方が、次のような発言をされています(文部科学省HPからODAZUMA Journal要約)。------------ 宗教に関する教育をより重視する方向で見直すべきである。特定の宗派でない、宗教的な情操の涵養や生命に対する畏敬の念の育成は、人格の形成に欠かせないが、現状の学校教育ではおろそかにされている。教育基本法第9条の第1項(宗教について教える必要性)がおそろかにされ、第2項(特定の宗教のための教育の禁止)が全ての宗教教育を禁じていると過大に受けとめられているのが実態。 例えば、給食前に合掌して「いただきます」と唱和していた富山県の小・中学校では、保護者から「合掌という言葉は宗教的な色彩があり、強制されるのは苦痛」という指摘を受け結局合掌を取りやめ、平成8年以降は、「気をつけ。いただきます」に変えたという。(他に、近畿地方では多くの小学校が伊勢神宮を修学旅行のコースに入れていたのが激減した、ゆとりの時間に家庭で神棚、仏壇、墓地を清掃し、花を献じるよう指導した校長に教育委員会は中止の指導を行った、などの紹介があり、)伝統、文化の尊重の視点からも残念なことだ。(なお、発言の後「宗教教育」の語義について中教審委員とやりとりあり。)------------ 政教分離や「宗教教育」については色々言いたいこともあるのですが、グッと我慢して、ここは「合掌」を宗教教育を理由に廃止したという点に注目したいと思います。 これは、富山市内のK中学校で平成8年に現実に投書がなされたという実例を指すようですが、実はその以前から富山県内では合掌の号令をやめた小中学校があるのだそうです(98年7月28日産経新聞が過剰反応だという視点で記事にしている)。 憲法20条の解釈論で行けば、「目的効果基準」を採用することとなり、合掌の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進または圧迫、干渉になる場合には、違法(違憲)ということになるでしょう。私個人としては、軽く合掌する程度は、現在の感覚として宗教的意義は薄く世俗的な生活の一部なのであって、公立幼稚園のクリスマス会(サンタ登場、キャンドルサービス)の方がよっぽど宗教的だと思います。 ちなみに、我が家の2人の娘たちに給食の時間の「いただきます」の際に、どうしているか(合掌するかどうか)確認してみましたら、小学校3年(公立)の姉も、保育所(公立)の5歳の妹も、いずれも手を合わせるしぐさをしてくれました。 もっとも、「いただきます」を発声するときに軽く両手を合わせる感じのようです。日常生活でも通常こんなものでしょう。 富山の例で言えば、給食前の合掌のさせ方に通常の生活を明らかにはみ出したものがある、例えば一斉号令で黙祷させる、時間が長くある程度の苦行と感じられる、などならば、目的効果基準のテストに照らしても問題にもなりえるでしょう。また、浄土真宗の強い土地柄で、何らかの社会的な要因があるのかも知れません。 いずれにしても、異論が出るようではまともな指導ができないという配慮で、こうなったのでしょう。 教育上の現実的配慮としては、妥当な対応かも知れません。個人的には教育委員会に毅然として欲しいとも思いますし、後味はよくありません。しかし、学校教育の枠内だけに押し込めた議論に終始するのも、また間違いでしょう。 「合掌有害論」は特殊な一例なのかも知れませんが、皆が自然に合意し依拠する揺るぎない考え方や所作(大げさに言えば文化とか伝統)というものが崩れているのだろうか、と思ってしまいます。
2005.11.24
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ある方のブログページを読んでいて、同感しました。その内容は...ある小学校で一部の親が「給食費を保護者が支払っているのに子どもに”いただきます・ごちそうさま”と言わせるとは何事か。」と抗議。担任の教師は抗議に従ったとのこと。感謝を込めていう「いただきます」を、「指導しません」と言う教師は資格がない。「いただきます」が自然に言え、その意味をしっかり理解する子どもを育てるべきである。という趣旨です。私も1ヶ月くらい前に新聞の投書欄か何かでこんな抗議があるという記事を読んだ気もします。ブログのご意見に全く同感です。 食育教育や食文化の観点からは、さまざまな議論があるのでしょうが、私は、もっと自然かつ単純な、子どもの頃言われたことを思い出します。 よく祖母に言われました。「米粒を残すな」と。農家だった我が家では、食後の茶碗に白湯を入れて飲み込むのが風習でした。 高校時代の同級生で別な市町村から下宿していた、やはり農家出身のM君は、茶碗ではなくおつゆの椀にお湯を入れて飲むのが「M家の伝統」だと言っていました。 要するに、苦労して作った米粒や野菜を残して捨てるなんてバチ当たりだ、という、ごく自然の発想でしょう。胸を張って貧乏根性といっても良いです。自分たちが丹精こめて作ったのですから、当然そうなるのでしょう。 自ら作物を作らない都会人からすれば、「感謝」という言い方になるのですが、食べ物、それを作った人、食にあずかれる自分などについて謙虚に思いを致すという意味で、私のような「貧乏根性」と、(ちょっと我田引水的でしたが、)根っこは同じだと思います。 それが、食事の際の当然の挨拶(というか自然の所作)として「いただきます」「ごちそうさま」となって口に出てくる、これは我々日本人の体にしみた伝統ではないのでしょうか。 本来的には学齢期になってから初めて学校で教えるものではなく、自然な挨拶として家庭で身につけるべきことだと思います。(もちろん食を題材に、栄養、農業、食糧事情を学校教育で深めることは良いと思いますが。) かくいう私、子どもたちに食べ物を残すなよ、全部食べろ、とうるさく言いながら、子どもの残したご飯を、台所でセッセと腹に入れています。どうしても食べられない場合は、翌朝に私だけ冷えたご飯を食べます。(小さい頃から、テレビCMで見せるような「アツアツの炊きたてご飯」よりも、冷めてもなお弾力のあるご飯を、そのまま、あるいはみそ汁などをかけて食べる方がウマいと感じて生きてきたので、全く支障ありません。) ただ、茶碗に残った「米粒」まで全部拾って食べることは、今はまずしませんね。祖母に言われた40年近い昔を思い出して、娘たちに話してみようか、と思います。 それから、そう言えば我が家では皆そろって「いただきます」「ごちそうさま」をシッカリやっているかというと、これも自信がないです。反省。 最初の話題に戻りますが、このすっかり有名になった?「いただきます」反対論の保護者が、どれだけ深い信念をもっているか知りませんが、学校給食費という対価を納めているのだから「いただく」のではない、という論法ならば、 (1)ラーメン屋で「いただきます」も禁句となるでしょう。さらにこの論法を進めますと、 (2)新聞配達のオジサンに「ご苦労様」という必要はない。 (3)最も「いただきます」を言わねばならない人は、泥棒である。ということでしょうか。微妙なのは、 (4)ガソリンスタンドで子どもにキャンディーをもらう場合です。ガソリンスタンドの経費に含まれていると考えれば、いただくとかお礼を言う必要はない、となり、顧客のガソリン代とは別経理で純粋に対価のない贈与であればお礼を言う、このいずれかを店員に確認して対応を決める、と相成るのでしょうか。 ああアホらしい。私はガソリンスタンドでは娘たちに必ず大きな声でお礼を言え、と言っていますよ。有償無償ではなくて、相手に対する敬意と礼儀の問題なのだから。 最後になりますが、我が家の娘たちに、給食の時間の「いただきます」をどうやっているのか、確認してみました。 ○姉 小学校3年(公立) 係が前に出て、「みなさん手を洗いましたか」と確認した後、「いただきます」を言って、手を合わせるよ。 ○妹 5才。保育所(公立) 手を合わせて「いただきます」。「お当番さん」(子どもが輪番で担当)がやるんだよ。 ということでした。この、「手を合わせる」(合掌)についても、少し書きたいのですが、項を改めます。
2005.11.24
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日曜日(20日)毎日新聞の「発言席」に出ている西尾理弘出雲市長の意見を、娘たちと訪れた公共施設の新聞コーナーで、読んだ。明瞭に本質を突いた文章。私の意見も軌を一にしているのですが、自分でもよく整理出来ない点が、よく整理されていて、敬服しました。その概要は、下記のとおり(ODAZUMA Journal要約・補遺)。------------ 三位一体改革での国庫負担金の地方移譲の議論は、単に財源措置の問題にとどまらない。戦後60年来のこの制度の下で、公立学校教育の機会均等や水準維持向上に多様な問題が生じているからこそ、地方自治体が教育自治権を確立する必要があるということだ。 この現実を無視した文部科学省サイドの反対論は、国民的課題である公教育の危機の打開へのリーダーシップ欠如と安易な現状維持に過ぎない。文科省は、地方移譲を牽制する狙いもあり総額裁量制を導入したが、依然地方は思い切った配置はできない。教育現場が地域のニーズや特色を生かせるよう、地方の主体性を真に尊重すべきだ。 文科省は、地方に任せれば財政格差から教育格差が生じるという。しかし、現行の国庫負担制度で拘束するから格差拡大を助長させていることが問題。国庫負担金は目標財源が十分認められない歴史が繰り返されてきた。むしろ地方の財源確保の方が安定的といえる。 その際、地方教育行政は自治体の総合行政の中で首長が主導する体制を確立すべきである。政治的中立性から首長の参画が制限されたが、東西の思想対立が終息しつつある現在、首長を信頼し教育行政への責任・参画を認めるべき歴史的転換点にある。 文科省は、自らは大学・研究機関の強化、芸術文化予算の充実に努めつつ、勇断をもって教育分権に舵を切ることによってこそ国民が信頼する政策官庁に飛躍しうる。------------ 以下、私(Odazuma Journal編集長)の意見です。 文部科学省は、学校教育分野については、学力水準統一や教育研究研修の中央機能にとどめ、行政監督は基本的に排除、財政関与は一切行わないという在り方が良いと考えております。その際、交付税制度で適切に措置されることは絶対条件。本来地方の固有財源である交付税は「当然措置されるべき」はずのもので、不安などないはず。しかし、実際、文部省の従来の小手先の一般財源化では、結果として実質的な地方の持ち出しが発生しています。交付税がジワジワ絞られるから。財務省の作戦(交付税化したら総額で絞る)と総務省の弱さ問題もありますが、このような実態があると不安もうなずけます。しかし、だとしても、ここにつけ込んで負担金堅持を主張するのであれば、文部科学省とは何とも滑稽な役所というべきでしょう。 単に省益維持したいだけで、地方自治や教育論を考えて対応してきたのではないことの証左です。 もう1点。西尾市長の意見に強く主張されていますが、地方教育行政の主体性を、真に考えるべきです。 総額裁量性が望ましい方向だというような言い方がされますが、実態は全く違います。教育財政に携わる人はすぐ気づいたはず。基準となる給与モデルをずいぶんと絞ったため、従来の支給実績ベースの負担(それも完全に1/2ではないのだが)よりも総額では下がるのです。実態としては、独自の給与カットをしてはじめて人数を増やせるという程度の「裁量」しかありません。文科省も知恵を絞ったのでしょうが、実態は総額を抑制する言い訳なのです。財務省に迎合したものと言われても仕方ありません。某新聞が浅はかにも制度を賞賛する記事を書いていましたが、よく検証して欲しい。 また、この点で、西尾氏が教育委員会制度に触れています。地方教育行政の主体性統一性の強化のため、地方自治法と地方教育行政法の改正論議になりますが、私も教育委員会制度は見直してもいいと思います。教育長を廃止して首長に一元化し、教育委員会は現在の執行機関でなく、審議・勧告的機関として、公選の議会とは別個に残置する、というデザインが良いと思います。この辺はさまざまな意見があるでしょうが、自治体レベルでの水平的統合という視点が基本となるべきでしょう。
2005.11.21
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この問題、いつも正面から考えたいと意識はあるのですが、考え方の整理がつきません。これまで知事憎しで空転していた面もあると思われ、知事交替で冷静に議論が進むことを期待しています。まちがいなく今年来年は本格的な議論をしなければなりません。 なのに、まだ整理がつきません。ただ、女性・女帝天皇容認論も出たので(というのは関係ありませんが)、未整理を理由に甘えるわけにもいかず、とりあえず序論的なことですが、記します。議論の整理の観点を3点。 第1に、「別学は宮城の誇る文化」論の取扱い。ノスタルジー表明合戦と教育論とが全くかみ合わないことをしっかり認識して、教育論として議論すべし。 純粋にノスタルジーあるいは文化論の問題なのなら一致点を見いだす必要もない。阪神ファンと中日ファンの議論と同じ。俺はこっちが良い、はいそうですか、でおしまい。 しかし、問題はこれからの若者の教育の議論です。昔若者だった人のノルタルジーの議論では決してありません。「文化」論者は、単なるノスタルジーではない、これからの若者をどう育てるかの教育論に根ざしているとどれほど意識しているのでしょうか。 私は共学の高校で過ごしたので共学の思い出しかない。これは当たり前。別学の良さは体感はしていない。体感していないから解らないだろう、と言われたら、ハイというだけ。どうしようもない。かと言って、私自身は、アンタね共学の方が優れているよ、共学に賛成しないのはおかしいよ、とまで言えないと思っているし言う気もない。せいぜい、共学で「俺は」良かった、といえるだけである。いや正確には、自分の過ごした高校は共学だったと説明する方が正しい。 例えれば、男きょうだいだった(私も)人と、女きょうだいだった人で、兄と姉とどっちが良かったデスか、と言う議論と同じで、何の生産性もない。私は男二人の弟だが、姉や妹いたら違ったろうなとは一応思うが、かといってガキの頃から面倒見てくれた兄個人には深く感謝しているので、兄を否定することは出来るはずもない。 私は、「別学文化」論もその程度だと感じている。つまり、今後の高校どうあるべきかという議論ではなくて、自分の過去を否定されたくない。別学をやめても学校を否定するわけではないのに、こんなに強く抵抗するのは、別学という属性が学校のアイデンティティの本質的な要素だと意識しているのだろう。 私にはハッキリ言って理解できない。学校を無くす訳でもないのに。「文化」論者は、(1)別学がその高校の本質だと思いこみ(他を知らないだけでしょう?)、(2)しかも自分のいた頃の高校とこれからの高校を絶対同一視している(なぜか時代の変化を敢えて無視する)、(3)ノスタルジー重視のあまり現役にもそれを押しつける(本末転倒)、という3つの意味でドグマに陥っていると言わねばならない。 いずれにしても、単なる文化論であれば言いっ放しで構わないが、そうでないから、問題なのだ。 議論の整理のために、次のような仮想設例を考える。 他の属性(伝統、進学度合い、部活動、交通機関、学校設備など)は全く同じで、県立の別学校B男子高校、G女子高校と共学校K高校の合計3校が仙台市内にあるとします。 Q1 あなたはどの高校を選びますか。いや、正しくは、保護者であるあなたは子供をどちらに入学させたいと考えますか。 Q2 県民(一応「納税者」と言い換えても良い。本当は非課税世帯多いのだけど。)として県立高校の(将来)構想を考えた場合、これら高校をどうすべきと思いますか。併存別学、併存共学化、統合共学化、どれかの廃止。 Q3 与条件として、県財政の制約と適正定員の観点から、1高校だけにしなければならないとしたら、どうですか。 私の答え。 A1 子供に任せる。相談されたら、自分で決めろ、行かなくても良い、と言う。 A2 少子化で学校数を減らすことを踏まえ、統合共学化。 A3 A2と考える以上、なおさら統合共学化と考える。 筋金入りの別学出身者の答え。 A1 子供に聞かれなくても、B校に入れ、と言う。 A2 別学文化礼賛だから、併存別学しかない。統合なんて考慮外。 A3 父親はB高校を、母親はG高校を残せと言う(パラドクスに陥る)。 設問の趣旨は次の通り。 Q1は、保護者としての素直な「別学」観の強度を問うもの。Q2は、学校統合の必要性に対する意識を問うもの。Q3は、ギリギリの条件下でも「別学」なる属性を他の属性に優先させるかの意識を問うもの。 「文化」論者は、Q1をQ2やQ3にまで及ぼそうと言うことになる。ちょっと極端な仮想設例だけれど、「文化」論の無茶さがわかると思います。 第2に、既に上の仮想設例で取り上げてしまいましたが、少子化による学校の再編、また財政効率化の要素を認識すべし。換言すれば、「別学文化」維持にいくら負担するのか、というシビアな議論を覚悟しているのか、ということ。もっと別言すれば、二高OBのノスタルジー観のために県民がカネを出しますか、ということだ。 第3は、これが私は実質的な問題の所在だと思うのだが、宮城県のリーディングな地位にある進学校が別学であること。具体的には仙台二高、仙台一高、宮城一女、宮城二女です。これが決定的な問題です。これは、少子化とか学校の再編とかとは理論的に別の問題です。 県教委も、共学化の理由として「性差を設けないのが自然」としていますが、背景には、ここに強い問題意識を持っているのではないかと私は思います(そう期待したい)。 わが県の公立高校は大学進学教育を本気で考えなければなりません。9月6日の日記(宮城の進学率と公立高校を考える) いつも私が言っている(エッどこで?と言われそう)宮城のデータ3つの不思議(人口規模や拠点都市仙台を抱えながら、(1)県民所得、(2)進学率、(3)投票率が全国的に顕著に低いことを指します。)の1つです。 そのためには、リーディング的な地位の学校にもっともっと実績がでなければなりません。そして、そのためには人身一新がもっとも有効だと思います。 私は、共学化論議に際しても、このことをもっと正面から出してもいいのではないか。「別学」が、ナンバースクールの現状安寧意識と停滞の象徴だとさえ思うのです。 万が一、何かの配慮で、もし仙台二高を男子校として残すとするなら、例えば共学化する新塩釜高校を徹底して進学校にする。人事上も優秀な教員を集めて、姿勢を示す。なんで塩釜か、なんて悪平等な足引っ張りを言っては居られません。もちろん全県一区。塩釜ならJR駅から至近で仙台からも通えます。本当に伝統文化に浸りたい生徒は二高へどうぞ。進学なら、仙石線で育英秀光ミドルスクールか、東北本線で新塩釜高校か、というくらいにして欲しい。 例えば山形の米沢興譲館高校。人口9万の小都市にありながら、すばらしい進学校だそうです。県内では山形東高に次いで第二の進学校と目されていると思います。地域の気風と伝統が違いますね。わが県も呑気なこと言っている場合じゃないと思いますよ。第二の都市石巻の現状を! まあ、私の意見がマイナーかも知れず、であれば財政状況との相談もありますが、最後に多数意見で「伝統文化」を残すなら、まあいいかも知れません。その時は、仙台二高には期待できませんから、塩釜高校です、例えば。 そのくらいの決意で高校再編を考えないと、ダメです。もちろん、塩釜高校にリソースを集中させるより、伝統ある仙台二高の方が望ましいのです。変な「伝統文化」論で、本来の議論が歪められるのは、何とも残念です。「文化」論者には、本当に母校のことを考えているのか、と言いたくなります。 なのに、必ず出てきますよね。「いや~、仙台の人はハングリー精神がないからね~」「浪人をしたがるんだよね~」「進学にとらわれない校風?」など、オバケのような奇異な議論が。自由な気風とか良い面ばかり思い出して、ノスタルジーを信仰にまで高めて、しかも他に優先させて後代に押しつけるという図式だけはやめて欲しい。一番大事な議論ができなくなってしまうじゃないか。そういう文化こそ仙台の停滞の象徴だとさえ感じる。宮城の教育を、従って、将来の地域を担う人材をどう考えるか、という問題なのですから。(ああ、やっぱり冷静でないかも。だから整理がつかないのです...) この問題、もっと整理が必要。データも拾って客観的に、また問題の本質が何なのか、教員と現場の本音も聞いて、整理したいと思います。
2005.10.28
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昨日(10月21日)の各紙に報道されていますが、昨日の財政審の分科会で、優遇されている教員給与がバッシングに遭っています。 ついに出たな、という感じです。 私は、教育行政こそ、霞ヶ関と現場の感覚が見事にずれた第一級の行政分野だと思っており、文部科学省に肩入れするつもりはありませんが、財務省のこの議論は一面的な議論です。三位一体論議で財務省が主唱している「地方のムダ使い」キャンペーンの一環としか思えません。財界も何時もながら上手に乗せられるでしょう。「高い給料を求めてモラルハザードになる」との発言も出た(毎日新聞)のだそうです。あらまあ。 学校現場は、ハッキリ言って大変です。給与が高いゾ、という人は一日8時間の勤務時間を前提にモノを考えるのですが、実態は勤務時間なんて概念はありませんよ。生徒や保護者と向き合っていて、時計見てハイ帰ります、なんて先生は、文部科学省的には正しいのでしょうが、そんな先生はハッキリ言って不要、いや有害です。朝の登校指導、部活、土日の行事、修学旅行に行けば24時間、卒業生の相談にも乗る、エゴの保護者にも対応し... それでも当然のように頑張っています。児童生徒に「勤務時間」はありませんから。(ちなみに警察官もそうで、ケンカがあれば家で風呂に入っているときでも、酒飲んでいても現場に飛んでいきます。そうあらねばならないのです。この個人としての使命感には素直に尊敬します。組織としては問題がありそうですけど。) だからこそ、先生が生徒や親から人間として感謝されるのではないですか。IT社会が進んでも学校と教師だけは人格力の発揮の場だと思っています。(あ、「親」業もです。人格力なくてスミマセン。) 教員の感情や組合活動に迎合するつもりで言うのではなくて、教育は質が重要だからです。教育は人材ですから。 おそらく、ある程度は給与水準下げられても(現に宮城県の公立学校教職員は浅野知事の政策でカットされていますが)、先生たちは相も変わらず児童生徒に向き合っていくはずです。最近の教員採用も相当吟味されているようです。 しかし、慎重に議論しなければなりません。確かに、給与特例法(給与特例条例)や人材確保法が時代に合わないという問題はあります。また、夏休みは遊んで居るんじゃないか、とか。それも個別には問題だけれど、その一面だけつかまえて議論してはダメなのです。 教育問題を考える場合は、第一に教育の質の維持を考えなければなりません。教育は人格力、人材ですから。質の維持を大前提に置きながら、いかに人材を確保できるかの観点で、考えるべきです。結果として是正すべきは当然すべきですが。 という訳で、私は、現在の「事実上勤務時間なし」状態をどう扱うかも含めて総合的に考えるべき、その中で給与水準も検討すべきと考えています。これがポイント。 例えば、勤務時間という概念はやめて、報酬制にする方法があります。さらに、教員評価と連動させた期限付き任用制度を導入する。校長の権限や教員のキャリア形成の問題などもありますが、従来的な閉鎖的な学校経営そのものも見直さねばならないので、デザインの余地は広いと思います。 これら全体の制度設計をしながら、財政面では、総給与額は現行の歳出の中で教員数増加を実現しつつ、軟着陸させる。その際に、重要なのは、教育の質の維持という点から、どの程度の給与レベルが適当か。人材需給面と保護者=納税者の納得の両面から。 そのような検討を勇気をもって踏み出さないままに、ただ単に、給与水準高いから、なんて議論は危険だ、と言いたいのです。「高給与でモラルハザード」(低給与ほど良い人材ということか?)なんて訳の分からないこと言わせて。また「少人数学級にしても(先生増やしても)学力上がらないじゃないか!」...もう単なる「教員バッシング」です。 もっとも、財務省だからカネの話は仕方ないのであって、ある程度確信犯的なフッカケの面もあろう。やっぱり文部科学省がダメなのでしょう。 教育内容面でもズレていますが、学校管理、教育行政、教育財政、になるともっとズレています。かつては日教組対応という図式もありましたが、今はもっと教育の質を考えていくべき時です。でも、何にも考えていない。給与負担の一般財源化の議論が出て、やっと総額裁量制とか言い出して。 こんなことを財務省に言わせるより、地方に完全に税源移譲し、大学と科学技術以外の行政監督権限は全て手放して、文部科学省はスリムにするべきです。角度を変えて言えば、教育に寄せる住民の信頼に応える責任主体を、目に見えない文部科学省ではなく、自治体に担わせるということです(教育委員会制度、県と市町村の関係も課題があるが)。実際には、自治体もいい加減なことはできませんから、心配には及びません。他方で、教育指導要領など教育水準の維持に文部科学省が真剣に関わればいいのです。 何十年も時代に遅れている。何とも情けない限りです。
2005.10.22
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今日(10月20日)の朝日新聞朝刊(高校「野球留学」の実態調べたら… 大阪府出身が半数)ここ10年で隣接しない県の中学から高校に入学した選手の総数は916人。流出は大阪が457人、次いで兵庫59、神奈川57。流入は香川86人、次いで高知84、山形の82など四国・東北地方に集中。大阪は少年硬式野球が盛んで受入側との人脈もある。高校生も甲子園に出られる高校を選択する、という内容。なお、関連して18日朝日の記事(「県外選手」の割合 甲子園出場校で2割強 高野連調査)は、これに先立つ全国調査の記事。東北の夏の甲子園出場校では、酒田南が7割を超えています。禁止されている指導者の中学生への家庭訪問がひそかに行われている問題や、奈良、和歌山、大阪、兵庫の各府県では中退者による再入学や転校生が近年増えたことも各都道府県連盟から指摘。一方で、中学生の進路選択の自由や他の競技団体との整合性など留学抑止に慎重な意見も寄せられたという。同委員会ではこの日、来夏の選手権地方大会から出身中学を選手資格証明書に必ず記入させることが決まった。また、選手勧誘のルール順守の徹底を指導することを確認した。一部の委員からは「実態の改善には県外選手の登録人数の制限が必要」との声があり、実施に向けて議論を重ねていく方針も決まった。今年の夏の甲子園の開会式をテレビで見ていましたら、中山文部科学大臣が挨拶の中で、「全国から選手を集める風潮があるが、高校野球の原点は、地域で生まれ育った高校生が郷土の代表として出場し、地元の人が応援することにある、関係者の検討を望む」との趣旨を語っていました。個人的に気になっていましたが、確か翌日の新聞の記事にもなったので、特筆すべき発言だったようです。中山大臣や規制論者の主張について、考えられる理由としては... 1 生徒の安易に進路選択(中退・転校も)や経済的負担を抑制させる(パターナリズムの観点) 2 地元出身者の活躍の機会を保障する(実質的機会の均等の観点) 3 青少年ハ自分ノ地域ニテ生活スルベシ(健全な青少年の育成?の観点) 4 地元の父兄や住民の応援に力が入るようにするため(社会政策or経済活性化の観点) 5 不正入学や利権の温床となることを防止するため(現実にありそう)理由2が中心でしょうか。確かに、青森、岩手、秋田あたりでも最近は公立高校が出なくなりました(秋田商は頑張ってます)。ここは見解の分かれるところでしょう。高校生の選択の自由や学校づくりの自由を重視するのか、枠の中での競争(独占禁止法)の発想でやらせるのか。人々の総意として後者を取るなら、規制も絶対反対ではないですが... 私は高校生の主体的な選択を重視したいです。高校生(正確には、高校を志望する中学生)たるもの、自らの希望で高校を選べばいい、県外生活も自分で選ぶならいいじゃないか、という意見です。大人の変な「高校野球観」を押しつけてはいけません。高校生中心に考えないと。親の経済的負担などが大変というなら、親が行かせなければいいだけ(というより、高校生もそれぐらい自分で考えなさい)。実態として甲子園常連校は勉学もせず野球ばっかり、との批判もあります。野球専門校と同じ土俵では一般!?高校が迷惑する、と。これは重要な問題ですが、野球留学の是非ではなくて(通学生なら良いの?)、学校そのものの問題です。野球ばっかりが悪いというのなら、私学の行政監督権限で是正させるべきです。文部科学省だし。ただ、私は多様な教育の一環で、ある程度許して良いと思いますが。基本的な部分では、悪平等主義に反対、というのが私の考えです。自由主義論者?ですし、パターナリズムは保護者の責任と考えます。高校も多様性があった方が良い、むしろ望ましいと思います。自由にさらすと個々の「高校」の序列化や衰退を招くという論調がありますが、「高校生」の観点で考えなければなりません。あえて言えば、公立高校もバンバンと県内外から中学生を獲得してもいいのです。野球でも学業でも。学業で言えば、私は学区制撤廃に基本的に賛成。全県的序列化を懸念するのではなくて、例えば石巻高校をガンガンとネジ巻いて、仙塩(通学可能)から中学生が進学するくらいの本当の進学校にすればいいのです(人口20万の石巻の拠点校が他県の地方中小都市より劣っているのですよ!宮城の進学率と公立高校を考える(9月6日))。そもそも「序列化」の頂点になる?であろう仙台の県立高校だって緊張感がないのだけれど。学校や教育委員会の怠慢の言い訳として「学区制」を掲げているような気がしているもので。それから、高校野球は「高校」の活動の一環なのであって、「県」や「地域」の活動ではない。その点で、国体のジプシー問題とは異なります。根本的に、中山大臣のような人は、例えば酒田南高校に大阪から来る高校生を「異質な」(あるべきでない)存在と見ているのでしょう。あえて酒田を選んで3年間を過ごす若者こそ歓迎すべきなのに。彼らだって、野球留学という意識で来ています。地元の人が、お前野球留学だナ、と言うのは結構。当該「留学生」の堂々たる個性なのだし。応援したくないならそれも結構。しかし、間違っていけないのは、酒田南高校の生徒であって、酒田南高校の学校活動の一環です。そこに踏み込んで、「その県」あるいは「その地域」の生徒でがんばるべし、というのは学校の主体性を離れた応援者の論理(というより心情)以外の何モノでもなく、ハッキリ言って余計なお世話です。高校生の選択の自由、高校の学校作りの多様性、などの重要な価値に優先するべきではないと思います。なお、理由5だけは要注意。中山大臣は「高校野球観」で言っているかも知れませんが、現実問題としての課題はコレだと思います。もっとも、コレは、指導者の資質の問題であって、留学抑止、県外者の登録制限などのような馬鹿な方策で解決するはずもありません。問題の解決を高校生に転嫁してはなりません。良識のある議論を望みます。
2005.10.20
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昨日の日記(10月5日)で、幼児英語教室のブームや小学校英語必須化論議について、私は早期英語教育導入には反対と記しました。趣旨は、賛成論は教育論としての是非ではなく、業界の煽り、教育の混乱からの逃避、などがまとわりついて、実体を見失った暴走した論議で危険でないか。冷静に何を子供に求めるか、そして犠牲にするものを考慮しているのか、よく考えるべきだ、と言う趣旨です。結論として例えば短時間の導入なら絶対反対とまで言いませんが、本質から離れたところで議論されて導入しても解決にならないのではないか、そんな議論をしているのは無益有害だ、本質で議論しましょう、と言いたかったつもりです。電車の中で改めて冷静に考えて、次のようなチェックシートを独自に発明!しました。文部科学省に提案してみようか?と思います。題して「あなたは本当に賛成?」。私の意図としては、チェックシートを進うちに、保護者の7割と言われる「小学校英語必修化」賛成派の大部分の人の、表層的な皮がはがれるのではないか、ということです。これに全部答えられた人が正統派の賛成派として残ります。そこで初めて、かみ合った教育論になります。------------「あなたは本当に賛成?」チェックシート(注意)この手順で進んで下さい。1 どの程度・内容の英語が必要と考えるのですか2 そのレベルとは普通教育に求める趣旨ですか、それとも特に自分の子供に備えたい能力という趣旨ですか3 そのために、現状の普通教育(中学校必修)の枠内での工夫(学習意欲喚起策、表現能力重視など)で改善することについて意見はどうですか4 なぜ小学校から(幼児から)始めるべきと考えるのですか5 小学校の他教科を削減しても優先させるべきと考えますか------------ ちょっと、誘導の意図が見え見えでしょうか。改善を考えます。
2005.10.06
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昨夜のこと、帰宅したら娘達が母親の指示で自分たちの物の片づけをしていました。リビングに、2人それぞれにディズニーのバケツ(幸町ジャスコでコカコーラ製の小さい缶ジュール類20本買ったら付いてきたやつ。というよりバケツ目当てに買いました。)を決めておき、遊んだあとはそこに入れておくようにしているのですが、その中身も雑然としてきたので、要らないものは捨てなさい、ということらしい。 小学3年生の姉は中から1枚のプリントを出して、これ何?と聞きます。見れば、Yellow Submarine の歌詞が英語で書いています。 夏休みに3日間くらいだけの英語体験イベントがあって、娘が行きました。英語といっても、本格的な教育ではなく、教育委員会のALTの先生がやっている、ちょっとした遊び的感覚のもののようです。その時は、帰ってきた娘が、英語のスペルの名札を自慢げに胸に付け、また、教えてもらった Yellow Submarine を歌っていました。もちろん英語は読めないしわからないのですが、子供なりに新しいことを教えてもらうのに興味があるのでしょう。紙にアルファベットで自分の名前を書いたりしていました。 昨夜は娘も、何このプリント?って感じですぐ思い出せなかったようですが、私が歌ってやったら、すぐ思い出して一緒に歌いながら、片づけをしました。ところで私はこれを歌うとどうしても金沢明子になってしまいます(イエローサブマリン音頭)。下の妹が、何て言っているの?、というので、「♪ぼくらが住んでる潜水か~ん。はぁ、黄色いよ。はぁ、潜水艦。」と歌ってやりました(どうしても金沢明子が入る)。すると、「え~、なんでセンスイカンに住んでるの?」。そこで、「黄色い潜水艦に色んな人がみんなで仲良く住んでいる、これは歌う人が地球のことを言いたかったんだよ」と適当に教える。ビートルズなんて、実は私もほとんど同時体験はしていないのだけど(兄の部屋にポスターがあったが)、この子供達にとってはそれこそ歴史の世界に属する文化になるのでしょう。 さて、今回の「英語教室」は体験メインなので、親としても許可?(というほど威厳はない。)しましたが、私は、度を過ぎた児童の「英語教室」通いには、もろてをあげて大反対です。同様に小学校の英語教育導入にも基本的には反対です。 しかし世論としては根強い導入論があるようです。文部科学省による平成16年6月の「小学校の英語教育に関する意識調査」では、小学校の英語必修化について、 ○ 保護者 そう思う 70.7% そう思わない 21.5% ○ 教員 36.6% 54.1% ○ (参考)校長 53.4% 42.1%保護者の賛成の理由は、「抵抗感が無くなる」など。教員の反対の理由は「他教科をしっかり学んで欲しい」がそれぞれトップ。意見対立の図式が明確です。 私が反対する理由は次の通りです。(1) 単語を言えるとか、英語で表現できるとか、CMにあるような英語教室の効用は否定しないし、習い事の1つとして良い。子供にとっては未知を知る興味があるだろう。この範囲でやる分には良いでしょう。現在行われているように、総合的学習での「英語活動」なども良いと思います。(2) しかし問題は2つあります。第1は「早く始めた方が良い。ウチの子も乗り遅れれては困る」という親心。これが業界の煽り風に乗って無用の英語教室通いを助長する。早めに興味を持たせたい。それはわかります。 しかし、日本語さえ覚束ない幼児・児童の段階での英語教育は、他に必要な教育内容の時間を奪い取るし、また混乱を与えてかえって有害でないかという気がします。さらに、度を過ぎると子供自身が忌避してしまい数年後の中等教育段階で英語を嫌ってしまう恐れすらあるように思います。大学に進む世代が英語を使えないというのは致命的である。この辺は杞憂かも知れませんが。 別な観点から。日本語や日本のことをよく知らないで国際人というのは貧相です。また、人間として素養や意見を持てることが先のはずで、子供のうちから英語を学ばせる時間があるのなら、こうした「普通の」教育にこそ時間かけるべきと思います。当の本人が困るのだから。 他言語学習の開始時期に関して「言語学習の臨界点」という議論があるようですが、不勉強。常識論として「早ければ早いほど」はわかりますが、現実的にいって、私は英語習得は高校からで十分でないかとさえ思っています。極言すれば、興味を持ってから、または必要性を感じてから自発的にやればいいとまで思いますが、けれどそれは語学だけでなく数学も歴史も学習一般言えることで、中等教育段階の学校教育の否定になってしまうから、そこまでは考えません。中学校から必修としていることは、国民の総意として英語が基本的に必要な素養だと一応認めているのであって、もちろんそれで良いです。 ただし、小学校から、となるとちょっと別でしょう。上記のとおり他に優先すべきものがあるから。 なお、早く始めると発音が良くなるから賛成、という意見も根強いようです(上記調査の保護者の賛成意見の第2の理由)。そうかもしれないが、だから何だというのだろう。よく理解できません。(3) 第2は、親が幻影を見ていることに気づかないことです。国際人として羽ばたく可能性は広げてやりたい、その場合現在の学校英語教育以外に教育を施すことが必要条件だ、と思っている風潮があるようですが、そうでしょうか。今の学校英語がダメで使えないと言う親は、自分が若かりし頃ろくに勉強しなかっただけのことでしょう。 さらにひどい場合ですが、今の学校教育に行き詰まりを感じて、これまでにないものとして「英語教育」「国際教育」に光を見てしまう親もいるようです。先日日本テレビの特番で、日本にあるインターナショナルスクール(日本人も受け入れる!)を紹介して、授業は英語(当たり前)、服装や化粧も自由で自立性育つ...なんて好意的に放送していました。冗談じゃない。日本の普通教育を放棄してまで、しかも教員の資格実証もされない所に行かせる親がいるなんて。親として理解できませんが、現実にそういう親がいるのは事実。本当に子供の将来設計に責任をもって他を犠牲にしても英語を優先する、あるいは移民する計画でもあるとか、スパイにするのなら(!)、それはそれで良いと理解できるが、大多数は違います。これは、英語教育礼賛を越えて、現在の教育の混乱ぶりが問われる深刻な課題です。(4) 更に国民的問題として捉えると、問題の本質に近づくように思われます。本当に日常的に必要だというのなら、小学校からやる必要もありましょう。リテラシーとして、ひらがなカタカナと同様だから。しかし国民各層に「日常生活は英語を使おう」あるいは「日本語と英語半分づつ使おう」などという合意なんて我が国では絶対にありえません。親が合意するはずがない。フィリピンやインドとは違う。普通の場合、大学生や社会人としてなら、読み書きができる程度で十分、より一般的には、日常生活に困らない最低限度とせいぜいタマの海外旅行やネット検索ぐらい、というのが実情でしょう。 だから、親の華やかな願望もわかるが、そもそもは「英語できたらいいな」「他の子に後れないで欲しいな」という親として当然の思いが、何かにせき立てられて、国際人という華やかな衣をまとって世間を通用しているだけなのです。「可能性」や「夢」と言いながら、その実、親の自己満足、自己安心というのが実体でないでしょうか。不安だから、とりあえずやっとけば安心する、という程度。 そう考えたときに、本当に現状の学校教育の枠でダメなのか。確かに英語力が国際的に低いと言われます。学校でも会話に力を入れるべきだと言われます。私個人は、ネイティブでない日本人の英語学習としては、やはり文法や読み書きが基本で、英会話・英作文はその応用という考えなのですが、この辺は英語の先生に聞くと、考え方がいろいろあるそうです。また、英会話自体よりも、コミュニケーション能力や自分の考えを持つという英語以前の問題も相当にあると思います。いずれにしても、こうした改善点は議論して進めて行くべきでしょう。問題は、「現在の学校教育体制で内容を改善すること」を検討もしないで、短絡的に「早くから教えれば解決する」と決めつける式の議論がまかり通っていることです。これは不思議です。「現状が本当にダメとは言えない」し、実際に「体制の改善でも対応できる」と思います。生徒のやる気の問題だってあります。さらに、「他の機会を奪う」デメリットを意識しなければ責任ある議論になりません。 他愛もない親の希望が、さもシリアスな国民的課題のようになって「英語を使える日本人教育の在り方」みたいに議論されているのは、大変危険だとも言えます。文部科学省は教育問題の本質をはずすのが得意だが、これもその一例でしょうか。できること、賛同されやすいことを導入して、教育改革しました、と見栄を張りたいのか。 こう言うと、子供の夢をつぶす冷たい議論のように聞こえるかも知れませんが、本当に外国語で勝負したいのなら、自分の将来像を確立できる高校生以降に頑張ればいい。文献の読み書きなら普通の高校英語の勉強プラスアルファで十分だし(勉強していないから問題なのだが)、もっと本格的に命をかけたいなら渡航してもよい。トロイ発掘の一心で、そこらの現地人を家に住まわせひたすら会話した、というシュリーマンの例もある。極論ですが。そう、言語はツールなのだ。何のツールなのか目的もわからずに学習に身が入るはずがありません。あえて言えば、要は自分の選択と優先順位の問題です。親の自己満足のために子供の時間と機会を無目的に潰したくありません。 ところで、習い事は上の娘に幾つかやらせていますが、そのうちピアノは唯一私の提案でやっています。先生に週1回来てもらっています。娘は、時折イヤだと言いながらも、何とか続いています。本当にイヤになったら、イヤとも言わず、親の顔見てやるようになるでしょうが、そこまで無理強いさせる気はありません。頑張ればできるようになるという自信と、音楽の楽しさ発見、そして自己表現を体得できればと思い、もう少し続けられればと思います。これだけは「親の自己満足」的な側面がありますが。 ピアノだけはと思っているのは、音楽のリテラシーだからです。和音を知り、両手を動かし、表現することを体得するためには、間違いなくピアノしかなく、ピアノはメソッドに従った能力開発が必要です(自説)。ヴァイオリンや管楽器では和音が出ないし、ギターは音域が狭い、電子オルガンは人間の地力を増幅しすぎて努力や達成感がない、などなど。子供の頃、縦笛に飽き足りて、鍵盤を紙に書いて1人で机上で練習したことがありますが、どうにもなりませんでした。運指もめちゃくちゃで、そろそろ娘に追い越されそう。 これは、ピアノが音楽のリテラシーなので、ある程度一方的に与える必要があると思ったからです。もっとも音楽をやらせる必然性自体はないから、そこは無理強いできません。 しかし、英語はどうでしょうか。日本人の英語力の低さに便乗して、賛成派は勝手に要求水準を引き上げていないか。英語=国際人=現状の学校の問題打破? 現在の学校教育の供給側に原因があると一方的に決めつけられ、さらに、改善することも考えずに、一足飛びに「早期に開始すればいいのだ」などという議論に流れている。それで親は、現体制が悪いのだからこれで大丈夫という安心感、また隣もやっているからウチも、的な安心感を得ている、ということだろう。そんな浮ついた保護者心理で、大事な教育論が左右されていいのだろうか。 導入するならするで、絶対反対ではないけれど、問題は早期英語教育論が、本質ではないところで増幅されている、そのこと自体なのだと思います。 仮に本当に実現した場合、彼ら賛成派に訪れるであろう混乱が、実は最も怖いのかも知れない。
2005.10.05
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