仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2026.04.17
XML
カテゴリ: 東北


奥州藤原氏と貢馬の道 (2026年04月16日) に続く
■後続記事   東北と海の大道 (2026年04月18日)
■井ヶ田良治他編(当巻担当編集委員吉田晶)『歴史の道・再発見 第1巻 平泉からロシア正教まで』面屋龍延、1994年
(同書のうち、大石直正による「第2章 奥州藤原氏と貢馬の道」から。おだずま要約・再構成)

1 出羽と陸奥をむすぶ道

交易御馬は、陸奥国だけの制度で、奈良時代に同様に馬を貢納した出羽国には存在しない。その理由は、交易御馬の制度が奥六郡の北の糠部郡の馬産から生まれたこと(1)と、津軽や糠部をふくむ北奥羽が全体としてこの時期に陸奥国の側から支配された(2)からと考えられる。

第(1)の要因について。渡辺真紀子氏の研究では、岩手山麓から糠部郡に至る地域は、全国的に最大の黒ボク土地帯である。黒ボク土は馬の放牧を主要因に形成されるが、興味深いのは、岩手山麓の植物珪酸体の分析から、約千年前からシバ草型の草地成立の時代に入ったと言われていることである。シバ草の形成は過放牧と密接に関連するという。つまり、10世紀ころから過放牧になるほど馬産がさかんだったのである。陸奥国交易御馬の制度はこれを踏まえて成立したと考えられる。



道に即していえば、能代から米代川をのぼって比内・鹿角を通り、安比川に沿って北上し糠部にいたるコースが、当時の北奥の主要交通路ということになる。奥六郡から糠部に至るコースも、現在のように直接奥中山を越える(国道4号)のでなく、いったん鹿角方面への道に入ってやはり安比川沿いに一戸に入ったと考えられる。この点は、頼朝に追われた泰衡が夷狄島をさして糠部郡に赴き、また比内郡贄柵にあらわれて河田次郎に殺された事実からもうかがえるが、しかしそれは、9,10世紀において糠部地方を外界と結ぶ主要な道ではなかったことになる。

だが、12世紀には、糠部のみならず鹿角・比内、その北の津軽地方までが陸奥国に編入され、それぞれ郡に編成される。北奥がすくなくとも政治的には北上川をさかのぼるルートで支配されたのであり、その原型ができあがるのが10世紀後半で、その結果、交易貢馬は陸奥国だけのものになったと考えるのである。その景気は、鎮守府を中心とする北方の軍事的支配の強化、鎮守府直轄としての奥六郡の一体化、その司の安倍氏の台頭などにあったと考えられる。

2 北海道ルートとの関係

奥州藤原氏が都に貢納したのは、馬や金だけでなく、鷲羽やアザラシの皮がある。鷲羽は上質のものは北海道産で、アザラシは北海道でも主にオホーツク沿岸の住人との交易ではじめて供給が可能になる。12世紀以前のオホーツク海岸はオホーツク文化人の生活地で、それ以外の北海道は、本州と接触する渡島半島を含め、擦文文化人の居住地だった。アイヌ文化は、擦文文化を母胎にオホーツク文化を吸収して成立したと言われる。アザラシの皮の供給は、その変化すなわちアイヌ文化の形成を促進した役割を果たしたことが推測される。

いずれにしても、奥州藤原氏が北海道方面の交易を自己の重要な権力基盤としたことを示しているといえるだろう。

この交易は、津軽半島の陸奥湾側の海岸(外が浜)または日本海側(西が浜)で行われた。平泉からそこに至る道は藤原氏時代に開発されたものだが、北上川を北上し、鹿角・比内を経て、上記の北奥横断路と交差するものである。この結果、鹿角・比内郡は、12世紀には陸奥国内の郡として編成された。これは、鹿角・比内を北上する交通路が主として平泉と津軽・北海道を結ぶ役割を帯びるものとして、開発、維持されたことを如実にものがたる事実といえるだろう。

そのことを示すのが、津軽地方のこの時代の遺跡から出土する、渥美・常滑焼の陶器とカワラケ(土器)である。渥美焼、常滑焼は、奥州藤原氏の時代の12世紀初めに勃興し、中世においては東国で使用される陶器の最大を占めるのであるが、平泉にもすでに12世紀の段階で大量に搬入された。柳之御所跡遺跡からも出土している。

ところが、その渥美・常滑焼の陶器が、それも12世紀のものだけが津軽から出土するのである。津軽地方から出土する中世陶器で、最も多いのは珠洲焼の系統のもので、多くなるのは13世紀以降であるが、渥美・常滑焼は12世紀のものだけで、以後のものは出土しない。つまり、藤原氏時代のものだけが出土し、その滅亡後は出ないのである。これは、渥美・常滑焼が奥州藤原氏を媒介として、その北奥支配の政治的ルートによって津軽に運び込まれたことを示している。鷲羽やアザラシとは逆の道をたどったのだ。

一方、カワラケは、京都風の宴席の使い捨ての食器だが、平泉では非常に大量に出土する。柳之御所跡だけで10数トンである。東北地方では前後にもこれだけ大量に出土するところはない。京都の12世紀の仏教文化の最先端をストレートに移入したことは、中尊寺や毛越寺で明らかだが、カワラケ大量出土は、それが生活文化の面にも及んでいたことで明らかになった。京都風の華麗な宴会が頻繁に催されていたのだ。

このカワラケが津軽の遺跡からは出土する。そして、これも12世紀のものだけで、以後はまったくない。これもまた奥州藤原氏の政治的支配を媒介に運び込まれたと考えねばならない。出土する遺跡の中には、外が浜の館もある。そこは中世の日本国の東の境界で、北海道から来た人々と本州の人々が接触する場所であった。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2026.04.18 16:19:30
コメントを書く
[東北] カテゴリの最新記事


■コメント

お名前
タイトル
メッセージ
画像認証
上の画像で表示されている数字を入力して下さい。


利用規約 に同意してコメントを
※コメントに関するよくある質問は、 こちら をご確認ください。


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

×

コメント新着

おだずまジャーナル @ Re[1]:荒巻地区の新町名と宅地開発史(12/14) 荒巻昭和人さんへ コメントありがとうご…
荒巻昭和人@ Re:荒巻地区の新町名と宅地開発史(12/14) 団地名なつかしいですね。広告に使われて…

プロフィール

おだずまジャーナル

おだずまジャーナル

サイド自由欄

071001ずっぱり特派員証

画像をクリックして下さい (ずっぱり岩手にリンク!)。

© Rakuten Group, Inc.
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: