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きのう伊達氏先祖の真岡市中村について記した。■土生慶子『伊達氏の源流の地』宝文堂、1994年■関連する過去の記事 伊達氏先祖の地は栃木県真岡市(2013年4月6日)土生慶子さんの著作に拠りながら記したのだが、真岡市中村の中村城跡、中村八幡宮、下館市(現在は筑西市)中館の観音寺など、伊達家が伊達に移って伊達を名乗る以前の世代にゆかりの地が紹介されていた。また、伊達綱村が現地を訪問するなど相互の交流もあったが、明治以降は仙台側にはあまり認知されていないながらも、当地の寺社は伊達家の安泰を祈願し続けてきたことが改めて知られることとなり、時を越えて平成の今になって再び交流が深まったというのだ。大変おもしろく拝読したが、この本の中に、伊達家重臣(御一家)で岩ヶ崎に住した中村日向のことが記されていた。とても興味深いので、以下にまとめてみた。1 真岡市遍照寺の掲示板の説明伊達氏ゆかりの真岡市中村の遍照寺の掲示板にはこう説明されている。中村城、朝宗以来、380年間代々中村氏の居城であったが、約450年前の天文13年10月7日、下館城主水谷(みずのや)出羽守正村に攻められて落城、14代城主父入道玄角は居城に於て討死、城主中村小太郎時長は居城を焼き奥州米沢に逃れ、宗藩伊達家に属し、名を中村日向と号し、奥州岩ヶ渕の館を賜り、代々岩沼に住す。文中の岩ヶ渕、岩沼はいずれも誤りで、正しくは岩ヶ崎であろう。住職の話では口伝だが、中村八幡宮は中村城や遍照寺のすぐ近くにあり、伊達氏との関係は最後の藩主慶邦の子息宗基の明治5年の奉賽まで続いたがその後はほとんど交流がない(1981年以降の土生氏の訪問が初めてか)。ただし中村城のことは地元に脈々と伝えられていたのである。2 中村城主中村氏の歴史と伊達領行き建武の新政にはじまる内乱の結果、中村氏がやむを得ず宇都宮公綱(きんつな)の臣になっている。これは、伊達家7世行朝が義良親王と北畠顕家に従い南朝の柱石として転戦し、顕家死後は中村城主中村太郎経長らと伊佐城を根拠に善戦したが、高師冬軍により包囲され、行朝は泉村(中館西部)で戦史、中村経長は中村城に逃れ、ついに宇都宮公綱に降って被官となったものである。被官の際に、経長は持久の策なく、中村の庄をもって芳賀禅可を頼み、宇都宮公綱に降る由、中村の庄の3分の1を賜り累代居住す、と伝える(遍照寺由緒書)。伊佐城は結城直光に略奪され、その他の中村領は宇都宮領となった(興国4年(1343))。戦国時代の天文13年(1544)には、結城氏重臣で下館城主水谷(みずのや)正村(政村)が北方への進出を図り、10月17日宇都宮氏の臣、中村城を攻めた。中村経長10代の裔中村日向入道玄角は防戦し切れず館の内で戦死、子息の小太郎時長は城を焼いて宇都宮に走った。翌14年(15年説もあり)4月23日、宇都宮城主下野守尚綱(俊綱)は中村城を回復しようと激戦を演じて敗れ、中村小太郎時長の領地は水谷に略奪されて、正村の養子(弟)勝俊、その子勝隆の支配地となっていった。(水谷と宇都宮の競り合いは永禄年間、天正年間にもあり、中村庄のうち中村城跡が常州の下館城主の領地となったことが、後に中村城と伊達氏始祖のことが歴史に埋もれる一因となった。)時長が中村城回復の頼みとした宇都宮尚綱は天文18年戦死、嗣子が幼いため一族の芳賀氏ら老臣が権を争い国政が安定しないことから、中村氏は伊達氏に寄るべく奥州米沢に走り、宗藩伊達に属し、同根の好みをもって名を中村日向と号し、伊達氏青運の後奥州岩ヶ崎の館を賜り子孫今に連綿であると郷土史に伝えられる。伊達領行きについては宇都宮氏改易の慶長2年とする説もあるが、主流は天文14年の後まもない時期と推定している。なぜなら、中村日向の先祖義綱は伊達家の稙宗、晴宗、輝宗に仕えたことが家譜からわかり、また、天文22年には晴宗から采地をもらっているからである。3 中村日向について伊達御一家の中村家は5代目まで新田の姓を名乗っていた。中村家の家譜には6代目の中村日向成義が、時の藩主4代綱村に元禄3年9月招かれ、中村氏と雲次の佩刀を拝賜したこと、中村氏は公室先祖の氏であることが記されている。「性山公(輝宗)治家記録」には、後のこととして、「今新田ヲ称スル事ヲ憚リ玉イテ元ノ御氏中村を賜フ」と出ている。後子孫は岩ヶ崎の鶴松城の館跡の家におられ、(著者の土生さんが)家譜を見せていただいた。一つは清和天皇にはじまる新田氏の系図。一つは伊達世臣家譜(藩撰家譜)と同様に新田三河守を祖とする家譜であった。(土生さんが訪ねた中村あや子さんは平成4年亡くなられた。ご主人の中村小四郎氏は東京大卒業後海軍造船大佐でドイツ留学、日本で初めて潜水艦を作った方。弟の中村貞夫氏は栗駒町の公民館長をしておられた。なお、13代目の中村小治郎氏は明治に初代の岩ヶ崎町長。)元禄3年に中村姓をもらった6代目日向成義は、綱村公の妹(3代綱宗の娘)の三姫を奥方に迎える。更に9代目中村日向義景は、6代藩主宗村の娘認姫を迎えている。中村氏の伊達家に対する忠誠は目を見張るものがある。9代目中村日向義景は27歳で奉行に上がり、明敏で度量があった。8代藩主斎村が寛政8年に没し、生まれたばかりの長子周宗が襲封。堀田正敦が藩政の補佐を託され、奉行の中村日向義景と大内縫殿が藩務を支えた。しかし9代周宗は14歳で病没。ここから中村日向義景の真価が発揮される。当時の幕府の規則で諸侯は17歳に満たないと嗣子を立てることが出来ない。仙台藩存亡の危機に直面し、中村日向は周宗の喪を秘めること3年、はじめて幕府に報告し異母弟の徳三郎を10代斎宗として藩主に立てることに成功した。この3年間は、周宗の飲食起居のこと皆生者の如く他に知らしめず、その苦労は大変なものだったと伝えられる。斎宗はこの功労に千石を加増し、義景は5千石(4千5百石とも)になった。中村氏は元禄7年から明治を迎えるまで最も長い采地として栗駒の岩ヶ崎におり、城は鶴丸城といった。それ以前は、元和5年に采地の宇多郡駒ヶ峯の火災で文書が消失しているので不詳という。鶴丸城は明治以後、小学校ができ、残りは整備された美しい公園となって、一部中村家になっている。館の正面に向かう道は下小路(昭和30年頃までは四軒丁)で太宰式部はじめ四軒の家老が住んでいた。中村家の家譜では、祖である三河守は采地伊達郡新田郷及び羽州置賜郡長井荘、古来伊達一家を称す、とある。この時新田郷をもらったので伊達の先祖が伊達氏を名乗ったように、新田姓を名乗ったのかも知れない。新田氏一代とされる景綱〔おだずまジャーナル注:上記2最終段落でまとめた対象部分の記載では義綱とある〕は、稙宗、晴宗、輝宗に仕え、また天文22年には晴宗公より采地を賜っている。この経緯から、中村氏先祖は天文10年代には米沢入りをしたと思われる。天文24年8月、初代景綱は4人の家士(太宰、赤間、佐藤、泉沢)と紀州熊野本宮を参拝したと特記される。元亀元年には伊達家の存亡に関わる事件がある。宿老家の中野常陸宗時がおごりたかぶり輝宗に疎んじられる。宗時は女婿であった景綱の長子義直を巻き込んで謀叛を計画、息子の義直から聞いた父の景綱は、諌めたが聞き入れられず、義直を捕らえて輝宗に死を賜うよう望み、義直は自決、自家などに放火した中野らは相馬に逃れたという事件である。景綱は嫡子を犠牲にして伊達家の存在を守り抜いたのであり、輝宗公を守った忠誠は高く評価されている。なお、この事件の新田の忠節は遠藤基信の考えにもとづく。中野の謀叛を遠藤は予見し、新田義直を前もって中野の縁者にすれば、父の景綱は忠貞の志深いことから中野を滅ぼす人物になるとして、中野の婿に世話をしたという。また、景綱の武将としての活躍も大きかった。天正13年芦名進攻で新田景綱(新田常陸)は戦死。人取橋や摺上原の戦いでは、2代新田義綱は後藤信康とともに桧原在番として政宗の仙道での活躍に寄与した。天正19年政宗は秀吉の名で岩手沢(岩出山)に移り、これに伴って2代義綱は加美郡柳沢村を賜って移住し(千2百石)、慶長4年宇多郡駒ヶ峯に移り、正保元年に采地千4百4十石を岩手県東磐井郡藤沢邑に賜って移る。6代目中村日向成義のときに元禄7年いまの岩ヶ崎を賜って移る。当初3千5百石、9代義景のとき功績で4千5百石となった。岩ヶ崎は秋田への羽後岐街道が通る要所で、歴代館主をみると、政宗5男宗綱、6男宗信、石母田大膳宗頼、定頼、永頼、2代藩主忠宗の2男田村宗良、古内主膳正重定、重興、茂庭大蔵重実、そして中村日向家と、歴々の人たちが拝領している。
2013.04.07
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今日の午後のこと、市内で市営バスの前面電光板に「閖上」と書かれ、「中野・終点」と併記されている車両を見かけた。あまり見慣れない様に感じたので、市営バスのサイトの説明を見てみた。すると、市営バス閖上線は中野バス停で折り返し運転。つまり、名取川を渡らずに折り返すようで、藤塚から閖上までは「休止区間」ということのようだ。そして、この休止区間が今月1日から変更されているそうだ。つまり、折り返し運転区間が長くなったというのだ。市営バスの説明では井土浜線(450・500系統)とされている。この路線は、運行系統図(25年4月)によれば、交通局大学病院前が起点で、たしかに終点は閖上と明記した上で、「被災により中野発着」と付記されている。昼間にバスを見かけたときには、「中野・終点」とわざわざ断った電光掲示も珍しいと感じたのではあるが、そもそも閖上行きの路線が市営バスにあったのか、というのが実は少し驚きだった。というのも、かつて仙台市域外にも結構路線を持っていた市営バスだが、仙台空港リムジンバスの撤退(アクセス鉄道開業に伴う)により、市域外の路線はなくなっていたはずと、思っていたからだ。これは誤信だったようだ。閖上線があったのだ。あれだけ市街地の集積のある閖上だから乗客も少なくなかったのだろう。閖上の街から見ると、名取駅と結ぶ路線は宮城交通がある。また、名取川を渡って六郷、若林、仙台駅前や市内に直接行くには市営バスがあるということで、通学や通勤に利用されていたのだろうと思う。閖上はそれだけ人口が集積した街だったのだ、とあらためて思うのだ。
2013.04.05
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「レンタサイクルでまわろう♪白石城下史跡処マップ」という手書き感満載のパンフレットを見ている。しばらく前にたしか白石城の売店でもらっていたもので、今頃部屋の隅から出てきた。作成(H20.9)白石市観光案内所、とある。城下町と近代の歴史を思わせるさりげない見所がたくさん書き込まれていて、大変良いマップだ。白石市観光協会サイトにも、このマップが紹介されています。(ただしよく見ると協会HPの方が若干の加筆がある。私のもらった時点の版より更新しているのでしょう。)裏には、横丁の由来が書かれている。神明横丁 --- 明治32年白石大火まで長袋神明社の神主屋敷があった電信横丁 --- 明治17年白石電信局があった。それ以前は猿曳横丁と呼ばれた。警察横丁 --- 明治18-35年に警察があった。彦助横丁 --- 豪商の阿子島彦助さんが長屋を作って人を住ませていた。妙見寺横丁--- 妙見寺への門前町生酒横丁 --- いきざき横丁。造り酒屋があり、その名が生酒屋だったから。天神横丁 --- 昔天神様があった。今は、神明社に移してある。鼠横丁 --- 今では想像できないが狭くて薄暗く鼠が出そうだったから。ほかにも(表面のマップに)桜小路、清水小路、後小路、本鍛冶小路、東小路、外北小路などの名が見える。城下町と小路。いいですね。
2013.04.03
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戦前の時点のようだ。下記文献によると、次の3つをさす。東北実業銀行五城銀行七十七銀行第七十七国立銀行が株式会社に改組し、やがて上記の銀行と合併。戦時体制では銀行合同政策は一層強化された。■吉岡一男編『宮城県謎解き散歩』新人物往来社、2011年 より
2013.02.20
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蔵王火山は100万年近く前から活動しているが、北蔵王と南蔵王は既に死火山になっている。中央蔵王は約1万年前を中心に、大爆裂火口とその中に中央火口丘の五色岳ができた。その後、五色岳西山腹に噴火が起こり、御釜が形成された。御釜はなお活動が続いている。御釜は典型的な火口湖で、直径300メートルほど、水深約25メートルの浅いすり鉢状である。かつて御釜は火山活動の休止期には、水の色は太陽光線の吸収と反射で瑠璃色や緑に近い青色をしている。だが、活動が始まると、湖底からガスが噴出し、湖底の火山灰や硫黄などの白色に近い沈殿物が水面まで持ち上げられるので、乳白色を帯びてくる。また、水の酸性度の変化によって水中の鉄分が変化し、赤褐色になったり、硫黄鉄が出来て黒色になることもある。このような現象が組み合わさって複雑な御釜の色が生じてきた。ここ100年をみても、4回の大きな活動が記録されている。明治28年、大正7年、大正12年、昭和10年である。その後、活動はかもしか温泉付近に移っている。最近では御釜の水は青く澄み、ほとんど変わらない。活動が休止状態のためである。■吉岡一男編『宮城県謎解き散歩』新人物往来社、2011年 より
2013.02.19
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多賀の里に城が築かれるとき、都から多くの者がやってきた。そのうちに悪賢い役人がいて、ため池で水を汲んでいる白萩のような美しい娘を見つけた。娘は走って逃げ出したが、役人は後を追って家までついてきて、親たちに娘を嫁に出せと言う。親が断ると役人は腹を立て、城に戻ってから、築城の人柱に娘の父親を名指しする。父親は里でも評判の正直者で、人柱を選びかねていたほかの役人達も、神様にお供えするのだから信で惜しまれる人間でないといけないとして頷いた。この知らせを聞いた娘は、こんなことになるなら私があの男に嫁ぐよう頼んでくると言って走り出そうとしたが、父は娘を止めて、自分が立たなくてもいずれ誰かが人柱になる、自分がこの役を引き受けるしかないと語った。母と娘は生きた心地もせずただ父にすがって泣き伏した。その日、あの役人は朝早くやってきて父を急き立てて連れて行った。里の者たちは一人残らず後に続いて見送った。女達はすすりなき、男達は拳を握って、細い道を黙々とのぼっていった。城の入口まで来ると役人は里のものたちの前に立ちはだかり、父は役人の後についていった。まもなく人柱の儀式を知らせる太鼓が里に鳴り響いた。それから二、三日たった日の夕方、あの役人が里にやってきた。父を葬れば母娘だけ、今度こそ娘を手に入れようと考えて、戸をたたいた。しかし家の戸は固く閉ざされ、返事をする者もない。気が付くと里人が押し黙ったままぐるりと役人を取り囲んでいる。里人たちは黙って西の方の丘を指さした。みんな怒りにふるえて鋭く指さした。役人はあたふたと丘に登っていった。行ってみると丘の登り口の大きなしだれ桜の木の下に、母娘が抱き合って立っている。樹下の大きな石の上から城の方へ体を伸ばして、手をさしのべるようにしているのが母親で、その母を抱くように立っているのが娘だった。しかし役人が近づいてもふたりとも身動きもしない。役人はさらに近づいて娘の腕をとったが、冷たくこわばっている。二人は立ったまま死んでいるのだった。父を見送って役人に追い出された後、母娘は父の姿を見るためこの丘に登ろうと走ってきたのだ。そして登り口にたどり着いたとき、父の最期を知らせる太鼓を聞いたのだった。二人は叫びながら立ちつくし、悲しみのあまり息絶えた。里の者たちが二人の遺体を抱きかかえて石から降ろそうとしたが、体は石像のように動かなかった。城に向かった父の姿を求めて、身を乗り出したまま石のようにかたくなってそこを離れることを拒んだ。その後、日が過ぎるうちに母娘の姿は朽ちていったが、母の左足と娘の右足の足あとだけは、石の上に一寸もめりこんでくっきり残った。何年経っても、苔も生えず、ぬめぬめとした不思議な光をたたえている。この石は母子石とよばれて、塩竈と多賀城をむすぶ坂の登り口に今でも残っている。■日本児童文学者協会編『県別ふるさとの民話40 宮城県の民話』偕成社、1982年 から (当ジャーナルで縮約)
2013.02.13
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ある村におみつというめんこい娘がいたと。ある時、おみつはだんだん顔色が悪くなり口数も少なくなった。心配した母親が隣の婆さまに心配事を聞くよう依頼した。婆さまが聞き出すと、おみつは好きな男ができたが、他の村の人間だという。その村では村の者どおしが結婚する決まりだが、婆さまが思い直して更に問うていくと、その男は毎晩来ては未明に帰るのだが、体が冷たいのだという。驚いた婆さまは、顔には表さずに、今夜アズキを煮て、その汁でその人の足を温めるよう洗ってやれば正体がわかると、おみつに教えてあげたと。おみつは婆さまの言うとおりアズキの煮汁を用意して男に足を洗わせた。すると男はだんだん元気がなくなり、今日は早く帰るといって出て行った。明くる朝早く、浜へ行った漁師が、それはそれは大きな鱈が波打ち際で死んでいるのを見つけた。村の人たちは大きさにすっかり肝を抜かれてしまった。一方、婆さまは、やっぱり鱈であったかと独り言を言ったと。浜の人で切った鱈の肉は馬車に積んだら、5駄分もあった。それでそれから自分の村のことを五駄鱈(ごだんだら)村と呼ぶことにしたと。おみつは急に腹病みはじめ、まもなく鱈の子を山のように生んで死んでしまった。それはかわいそうなことだったと。おみつのいた五駄鱈村は、いつの頃からか、ごんだら村とよばれるようになったと。■「宮城のむかし話」刊行委員会編『読みがたり 宮城のむかし話』日本標準、2005年
2013.02.08
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地域名としての「仙北」が、秋田ではセンボクと読まれ、仙台・宮城ではセンポクが主流であることは、以前記した。■関連する過去の記事 仙北は「せんぼく」か「せんぽく」か(2010年07月16日)また、「南北」はナンボクと読むのが日本語の標準のようだ。もっとも、これについては、仙台市民や宮城県人がどう読んでいるか私も自信がない。でも、ナンポクと読む人は確実に居るような気がする。(たとえば歴史上の南北朝時代について、私自身として、ナンポクチョウと半濁点で読みたくなります。念のため、わが子の小学生向け社会科資料集を借りて確認したら、振り仮名が「なんぼくちょう」となっていました。もちろん宮城県教委作成ではなく全国ワイドの出版物ですから。)■関連する過去の記事 南北線は Namboku Line(2012年11月22日)と言うわけで、あえて一般定式化すれば、次のようだろうか。ことば標準的よみ方仙台・宮城の人 「仙北」せんぼくせんぽく「南北」なんぼくなんぽく(?)さて、それでは「県北」はどうだろう。先日のこと栗原市内で築館から若柳まで暫定的に供用されている自動車専用道の「みやぎ県北幹線道路」を走ってきた。路上の青い案内標識には Kenpoku と明記されていた。bではなくpだった。間違いなく。これで、少なくとも宮城県土木部のオフィシャルは半濁音の「けんぽく」だとわかる。全国的にはどうだろうか。身近なところでは岩手県に「県北バス」がある。公式サイトのURLがkenpokuの語を用いている。半濁音のケンポクだ。長崎県の行政組織に県北振興局というのがあり、urlはkenhokuを用いている。しかし、福島の県北地方振興局はkenpokuになっている。茨城県にはやはり県の行政組織で県北振興室や県北県民センター(常陸太田市)があるようで、urlではkenhokuを用いているが、県北ジオパークをkenpokuと読ませているようだし、また、県北地区就職支援センターは「ジョブカフェけんぽく」と愛称を付けているなど、県民感覚では清音と半濁音がいずれも使われているのだろうかと察する。ワープロの辞書では、kenpokuとすると手紙の脇付の意味の「研北」が出るが、「県北」はkenhokuで入力しないと出てこない。(ちなみにkenbokuもダメ。)こんなことから仮説としては、全国的には「けんほく」だが、東北や茨城では半濁音の「けんぽく」が主流あるいは許容されるというところか。
2013.02.06
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日本で一番海水浴場に近い駅、でしたね。たしか。大谷海岸。はまなすステーションがあったあたりでしょうか、プレハブが置かれています。BRTの大谷海岸駅がありました。「駅舎」に入ってみると、バスが今どこを走っているか、くっきりと表示されています。ほどなく、赤いバスがやってきました。高校生たちが数人降りてきました。
2013.01.31
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一般に学校名に東西南北を冠する場合、地域名+「東」+「小(中)学校」の順になると思われる。これは、東西南北の方位名が、小中学校を区別特定するための役割を持っているからであり、つまり、古川「第一」小学校、古川「第二」小学校の場合の序数と同じように、複数設置する学校を相対的に区分する指標と言って良いだろう。他方で、方位を冠する学校名には、「東」+地域名+「学校」の順も結構ある。例えば、東仙台中学校だ。この場合は、実はまず「東仙台」という定着した地域の名称があって、そこに学校呼称を続けるというケースだろう。つまり、実態は「地域名」+「学校」という自然な命名であって、方位名や序数で相対的に区分する方式ではない。「東仙台」なる地名が絶対的に存在しているから命名しただけであって、東仙台中学校はあっても西仙台中学校があるとは限らない(実際に存在しない)。「東」が地域名の後に来るか前に来るかの違いは、通常はこのような考えが原則だろう。ところで、大崎市には、「西古川」小学校と「古川西」中学校がある。まず、小学校は、古川第一小学校から第五小学校まであるほかに、西古川小学校があるわけだ。東古川小学校はない。中学校については、古川中学校のほかに、古川西、古川北、古川東、古川南の各中学校がある。想像なのだが、小学校の命名の際には、地域の総称として名付けた。東仙台のように町名や字名には明確にないようだが、鉄道の西古川駅があるように根付いた地域名だったのだろう(その点では北仙台小学校と似ているかも)。ところが中学校の設置(統合かも知れぬ)の際には、先行した古川中、古川東中との相対的区分と命名法統一のために、古川「西」としたのではないか。西古川小学校と古川西中学校は学区が重なっている。このため、該当地域の子どもたちは、西古川小を卒業すると古川西中に入る。何で学校の呼称が順番違うのかと定番の話題になっているのではないだろうか。それとも幼少から意識に定着しすぎて気にもしないか。類似の状況に、奥州市の東水沢中学校と水沢南中学校がある。東水沢は地域名、水沢南は後発設置校として区別のための標識だろう。以上から、次のように一般化し整理しておきたい。 (1)(地域名)+(方位など)+(校種名) 具体例:古川西小学校 方位などによって相対的に学校を区分識別させる (2)(方位など)+(地域名)+(校種名) --> 実は(地域名+校種名)に過ぎない 具体例:西古川中学校 方位は地域名の一部(実は方位を含めて固有の地域名というべき)ただし、ややこしいことがある。方位等を相対区分の標識として用いるのは前者(1)の語順の場合と思われるのだが、後者(2)の語順に見えて、実は相対的区分の標識として方位等を用いる場合もないとは言えないのでないか。例えば、むつ市に第三田名部小学校がある。「第三田名部」が地域名でないのは明白だから、語順は(2)に見えても、用法は相対区分指標だ。序数でなくて東西南北の方位の場合でも、このパターン(語順は(2)だが実は相対的区分)も、無いとは言い切れないのでないか。■関連する過去の記事 むつ市立第三田名部小学校(2011年8月21日)原則が常に妥当する訳ではないことを証明するには、一つだけ例外を示せばよい。そう思って、(2)の語順で実は相対区分標識として方位を用いる校名を探しているが、まだ見つからない。
2013.01.27
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岩沼の朝日山公園には久板栄二郎の文学碑がある。1898年(明治31)岩沼町生まれ、東京帝大在学中よりプロレタリア演劇運動に入り、昭和9年に新協劇団の設立に参加。「北東の風」「断層」などの戯曲。戦後は映画脚本家として優れた作品を手掛けた。黒澤明監督「わが青春に悔いなし」「悪い奴ほどよく眠る」、木下惠介監督「大曾根家の朝」など。晩年は「伊達騒動」などの小説も。1976年(昭和51)没。文学碑には小説「藤原三代記 森と黄金の川」の一節が刻まれている。■仙台歴史探見倶楽部『宮城 歴史探訪ウォーキング』メイツ出版、2010年
2013.01.20
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石巻日日新聞に出ていた記事。石巻市の外国人で昨年の大震災に際して津波を予想したのは3割に満たなかった。また、防災無線の内容も理解できないなどの課題が改めて浮かび上がった。調査は市と東北学院大学が共同で実施。市内の外国人登録者は震災前782人、本年4月は513人。ツナミの言葉は8割が知っていたが、防災無線の意味が分からなかったなどの回答がめだっているという。それでも居合わせた人などに知らされて避難できた人が多かった。避難所生活では他者との関係は大部分は良好と回答しているが、中には不快さや辛さもあったという。
2012.11.29
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朝の新聞を見てハッとした。石巻出身の彫刻家である高橋英吉のことは知っていた。その企画展が川内の県美術館で開催中というのだが、石巻文化センターに収蔵していた作品のうちで無事だったものなど20点を展示しているというのだ。石巻文化センターは南浜町で海岸に近かったから、壊滅状態だった。文化センターや市立病院の被災は何度か見ていたが、このことには何故か、気がつかなかった。高橋は美術家としての将来を嘱望されながら、南洋で戦死した。その秀逸の作品約50点が、ここに収められていて、震災に遭ったのだった。新聞記事で受けた衝撃は、この事実だ。センターの収蔵作品のうち、1階の収蔵庫にあった作品は海水に浸かり、現在修復作業中。新たな施設の再開まで美術館で保管するそうだ。企画展に展示しているのは震災の当時にセンター2階で航海中だったため被害を免れたもの。代表作である「海の三部作」や「不動明王」も含まれているようだ。いつか私も観てみたいと思っていた。仙台にあるのなら是非足を伸ばしたい。力強い美しさを表現した高橋英吉の作品は、時を越え、震災を乗り越えて、石巻に勇気と誇りをもたらしてくれるだろう。■関連する過去の記事 高橋英吉と幸子さんの父娘展(10年3月12日) 悲劇の天才彫刻家 高橋英吉(10年1月24日)
2012.11.27
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仙台市街地にほど近い陸上自衛隊霞目飛行場を民間利用させる構想や要望などについて、どのような歴史があったのか。宮城県議会の議事録を読んでみる。■関連する過去の記事 霞目飛行場(2012年11月11日)1 昭和26年10月定例会建議第十八号議案として「仙台市霞目飛行場の空港指定並びに改修について」が上程されて可決されている。------------建議一、民間航空の空港を宮城県に指定されたい。 右事件につき意見書を提出したいので別紙案を添え提出する。 昭和二十六年十月二十三日 提出議員 浅野喜代治外十名宮城県議会議長今野貞亮殿建議第十八号議案 意見書一、民間航空の空港を宮城県に指定されたい。 理由 今回再開される民間航空の計画を見るに、東京を基点として、札幌に直行し東北地方にこの民間航空の利便が何等もたらされないことは、誠に遺憾とするところであつて、若しこのままに放置せられる場合は東北の産業経済は日本の進運から取り残され愈々後退を余儀なくされることは実に寒心に堪えません。 依つて当局におかれては民間航空の空港を宮城県下にも指定されるよう特段の御配慮を要望いたします。 右地方自治法第九十九條により意見書を提出する。 昭和二十六年十月二十三日 議長名運輸大臣、大蔵大臣 +安本長官、航空庁長官 |あて衆参両員議長、同運輸委員長+------------意見書そのものには矢ノ目(岩沼)とも霞目とも具体的な表現はなく、ただ空港の指定をしてくれという内容だ。ただ、議案の名称から、県内の空港指定は霞目を前提としていたのであろう。2 昭和29年2月議会。菊地清太郎議員が次のように質問している(おだずまジャーナルで趣旨要約)。------------空港設置を岡崎仙台市長だけに任せていいのか。東京から旅客機が宮城県を素通りして青森に着陸して北海道へ行く。そして北海道の行政は成果を挙げ、本県は不便を知事以下みずから体験しておるにもかかわらず未だ一度も空港設置に発言せられたことがない。無関心か、忘れておるのか、その必要を認めないのか。今後のスピード時代における本県の不便をなくすため、空港を設置すべきである。一仙台市長に任すべきではない。知事が陣頭に立ち適当なる土地を探し、一日も早く実現すべきと考えるがどうか。------------宮城音五郎知事の回答(要約同上)。------------空港は仙台、宮城として必要であり、矢本飛行場その他あるが米軍専用で民間飛行としては使えない。県としては矢ノ目飛行場を市と一緒に接収解除を要求しているが、市長だけに任せていいかとの話はもっとも。私も一生懸命矢ノ目の解除に努力しており、上京の度に外務省や特別調達庁で解除方を話しているが、新聞に書いてあるようなそう簡単なものではない。代替地なしに矢ノ目飛行場は解除しないとのことだが、しかし大いに努力して、要する飛行機が東京から着いてここから札幌その他へ行くように持って行きたい。------------3 昭和30年9月議会で門間正寿議員(要約同上)。------------矢の目飛行場いわゆる仙台空港の問題は県と市が猛運動を展開していると新聞紙上に発表されている。矢の目飛行場が近く返還され民間と自衛隊で共同使用するとの基本方針を決定したと仄聞するが、管理が防衛庁か航空局かよって共同使用の性格も違ってくると思う。もし自衛隊管理とれば隊の運営に重点がおかれ、我々の望む親しめる空港や民間航空思想の啓蒙に資する仙台空港の実現にはならない。そこで、航空局管理による民間航空基地の実現を願いたい。また、建設資金は管理がいずれかに決定すれば、直ちに大蔵省が別枠で予算化できるはずであり、しかも民間飛行場になれば余剰土地の二万坪も解放できると聞く。------------宮城知事の答弁(要約同上)。------------かねてから矢の目を仙台市、県、両議会、仙台商工会議所とともに接収解除のお願いをしており、先般、航空局から返還してもいいとの見通しがついた旨の連絡があったところである。矢の目の現地に行き米軍の意向を打診したところ、集積してある弾薬類について以前は県で代替地と移転費用を出せと言うきつい問題があったが、今度は船岡に日本政府の金で輸送することになっているそうだ。弾薬をそこに輸送して全部なくなったら返すと聞いた。日本の自衛隊でも使いたい意向があるそうなので、最初の希望通り民間飛行場として一日も早くそれを活用したいことを当局に要望している。政府では管理について防衛庁か連輸省かの問題があるようだが、私どもはいずれでもいいから民間飛行が健全に発達ができることを願っている。------------昭和30年代前半に、返還と定期便就航が実現しているため、矢ノ目を「仙台空港」としていくことで県内の方針は一応一致していたのだろうが、それでもその後、たびたび霞目や松島(矢本)が取り上げられる。4 昭和35年2月議会で大江真志次議員は、松島空港(松島基地)の民間活用策を説いた(要約同上)。------------昭和32年、東北初の空の玄関として矢ノ目の飛行場が利用され満3を迎えた。現在全日本空輸がDC3で矢ノ目から東京と札幌の間をおのおの一往復。しかし、滑走路延長1200メートルの第二種飛行場で地上誘導装置がなく天候が悪いと着陸できず、航空自衛隊松島基地に降りたり羽田まで引き返すこともしばしば。最近全日本空輸では最新鋭機コンベア440型メロポリタンを国内線に就航させているが、これを矢ノ目に発着させるためには500メートルの滑走路の延長が必要で、仙台市商工会議所等の協力を得て滑走路延長運動を展開している。予算獲得は困難で、また滑走路の延長ができても東北本線側の山が邪魔になつて、その安全性に疑問がある。そこで、この際松島飛行場の利用を考えるべきでないか。松島飛行場は2700メートルの滑走路と完備した地上誘導装置を持ち、仙台からの距離は北海道の千歳と札幌間の距離よりは短く、今後道路整備で解決されると思う。しかも松島は塩釜、石巻、古川、気仙沼という四大都市に近く、松島、金華山、気仙沼等の海岸観光地帯の中心であり、さらに塩釜、石巻等の将来の大工場地帯に近接する。〔以下原文ママ〕矢ノ目の民間空港の開設されるまでの経過を考えて見まするに、昭和二十六年のころよりこの民間空港開設をめぐつて、仙台市と矢本町が猛烈な競り合いをいたしまして、一時は矢本側の運動が功を奏しまして、松島飛行場に民間航空の新しい事務所や、待合室が建築され、テレタイプ等も用意されたのでありますが、荒木航空局長の時代になつて、どうした関係か形勢逆転、仙台側が有利となりまして、遂に民間航空港は矢ノ目に決定、昭和三十二年四月開設されて今日に至つたものであります。〔以下再び要約〕しかしながら現況は日航はもとより全日空の最新鋭機にも素通りをされ新時代に取り残された民間空港と相なった。矢ノ目一本槍の考え方を再検討する必要があるのでないか。------------質問の中で、松島飛行場が矢ノ目と並んで宮城県の民間空港候補地であったとの経緯が興味深い。これに対して三浦義男知事は、矢本は防衛庁のジェット戦闘機基地であり、周囲に人家も相当ある、玉浦(矢ノ目)は改良の見通しがありまた国道交通も便利になるなど、総合的にみて研究したい、とかわしている。4 その後、昭和40年代に共産党の県議が自衛隊基地移転と併せて霞目地区の住宅地としての利用などを質問の中で論じているのが散見される。5 昭和40年2月議会では、門間正寿議員が質問の中で次のように述べている(おだずまジャーナル趣旨要約)。------------仙台市が検討している都市計画や輸送計画の中でも、ジェット機就航と東北開発を考えると仙台空港整備が重要である。仙台を中心に各県県庁所在地につなぐ航空ローカル線を政府も計画しており、そのためにも霞ノ目飛行場は、現在の自衛隊航空隊が他に移転する計画も聞くので、近い将来民間航空の基地に確保することも当然考えるべきである。------------山本知事から具体的な回答はなかったようだ。
2012.11.11
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1 3有力紙と河北新報明治30年正月一力健治郎が河北新報を創立した当時、仙台には3つの有力な新聞があった。○ 奥羽日々新聞(須田平左衛門、怡土信吉、友部鉄軒の流れをくむ)○ 東北毎日新聞(松田常吉)○ 仙台新聞(沢来太郎)沢来太郎は栗原郡沢辺の出身。臥牛と号し僊台(せんだい)新聞を創刊。原抱一庵、佐藤東華らを記者に抱えた。31年10月に廃刊し11月黒沢十太経営の明治新聞が創刊されたがあまり振るわなかった。沢はこの後衆議院議員を5回。仙台米穀取引所理事長、産馬組合長、政友会宮城支部長。松田常吉は牡鹿郡渡波生まれ。魚の行商から刻苦勉学し維新後戸長に推され、明治11年県会議員。改進党に属したが、第1回衆議院選(登米桃生牡鹿)で遠藤温に敗れ、補欠選挙では改進党の首藤陸三をおし、犬養毅、尾崎行雄が応援に来たが、佐藤運宜に1票差で負けた。松田と首藤は改進党の機関誌仙台新聞をゆずりうけ、東北毎日新聞と改名して是々非々を旗印とした。野村古梅、富沢大一郎、桜田孝治郎など健筆青年を集め、日清戦争で紙面を増し奥羽日々新聞を圧するに至る。明治36年東北毎日の社長松田常吉は61歳で没す。奥羽日々は仙台藩士須田平左衛門が明治6年に創業した東北新聞が前身。東北新聞は、仙台新聞、仙台日々新聞と次々改題され、主筆に福岡の人怡土(いど)信吉を迎えて日刊となり、当時台頭した自由民政思想をひろめた。明治11年5月に三面記事で某商家の嫁を揶揄したので仙台日々は訴えられ、社長は出張中と偽って出頭しなかったことから投獄されて自殺。須田の没後は怡土が社長兼主筆。漢詩人国分青崖、斎藤美雄(桐陰)、高瀬真之助(真郷)ら文筆家を集め社業大いに発展、福島、山形にも支局を置いたので、明治16年陸羽日々新聞と改題した。怡土は明治18年警視総監三島通庸から求められ、新聞の検閲係として内務官僚となり36年東京で53歳で没す。明治19年に元水戸藩士の友部鉄軒が編輯長に迎えられる。友部は明治14年天皇巡幸の歳に松平県令にたのまれて奉呈分を作り有名になった人物だが、編輯長として自ら筆をとり東北文化高揚に努め、記事正確の評から奥羽日々は東北一の新聞となった。日清戦争で紙面は多くなったが東北毎日新聞の回に立つに至った。従軍記者2人を派遣して郷土兵の活躍を報じたのが東北毎日の読者を増やした原因だったらしい。明治30年原敬が大阪毎日新聞の社長に就任。原と旧知である陸羽日々の主筆友部鉄幹(おだずま注:ママ)は招かれて大阪に去る。一力健治郎は仙台大町の小間物屋に生まれ一力家の養子となり、第二高等中学校(旧制二高の前身)に入学。明治24年書店を開業、市会議員、植林会社社長、県会議員などを経て、明治30年35歳で名誉職を辞して河北新報の経営にあたる。旧制二高の土井晩翠、佐々醒雪、東北学院の島崎藤村、藤沢幾之輔などが筆をとって親しまれた。一力は藤沢幾之輔と行動を共にした元改新党員であったが、新聞創刊にあたって党を離れたと聞く。2 その他の新聞の興廃なお、これより先には仙台に種々の新聞が興廃し、またこの後も数多く生まれては消えた。明治10年代には仙台童蒙新聞、宮城日報、東北新報、東北毎日、(旧)河北新報(一力とは別人の経営)、東北自由新聞など。20年代には、東北朝日、仙台日報、東華新聞、河北旬報、東北日報、実業絵入新聞、仙台商業日報、僊台新聞、仙台毎日などがあったが、30年までつづいたものは少ない。明治29年にできた仙台毎日新聞は34年仙台週刊新聞となり、やがて夕刊平民となり、35年廃刊。この頃、五城日々、五城新聞などもあった。日露戦争の従軍記事は読者を増し、挿絵が写真に替わる。戦後、河北新報と奥羽毎日が仙台の二大新聞となるが、河北は大阪毎日、大阪朝日と共に日本の三大地方新聞と自称していた。明治41年、仙台日日新聞が創刊された。創始者は初等教育の元老で政友会の小原保固で、その子の保が経営にあたった。大正4年には県会議長まで務めた小野平一郎が東華新聞を発刊。3 大正以降大正初年は新聞攻撃で桂内閣が倒れ、次の大隈内閣が新聞人に勲章を授与するなど、自由主義と新聞の伸張期であった。このためか各地で新聞が発刊。石巻では小牛田から鉄道が通じるころで、湊生まれの小川清により東北日報ができた。河北新報から古活字と印刷機を譲り受けて始めたと石巻市史はいうが、石巻の商況振るわず休刊し、大正2年石巻日日新聞と改題して再刊。大正4年には佐藤露紅らとの共同経営となり、第一次大戦後の好況期に社勢を伸張。この間、石巻には日刊宮城という新聞もあった。仙南では、明治42年角田に笹森倉吉の仙南新聞があった。大正8年に仙南新聞を引き継いで大河原に仙南論評という小型新聞が発刊。11年には岩沼に庄司重太の名亘新聞、白石に大岡直人の東北タイムスができた。この3社は合同して11年5月に仙南日々新聞となった。仙南の農業振興、郷土文化の培養、商工振興を掲げ、以来20年間続刊された。庄司猛太郎が編輯発行印刷を担当し、蔵王登山、マラソン、青年雄弁大会、仙南振興会設立などにも努力。庄司一郎はよく筆をとり代議士にもなった。仙台では大正14年松浦天外を社主とする東北事業日報、昭和3年創刊の井上啓次の大仙台などもできたが、第一次大戦後の不況のためか紙数はたやすくは伸びなかったようだ。大正11年小野平一郎(70歳)、12年小原保(43)、昭和4年小原保固(70)、一力健治郎(67)が没すると、各社とも後継者により経営が続けられたが、発行部数は河北新報が断然頭角を抜いていた。満州事変、日華事変から戦争長期化で物資不足による統制傾向によってやがて一県一新聞だけ継続を認める政府方針が発表され、昭和15年に実施される。石巻日日の例では、昭和15年以来廃刊の交渉を受けたが敢えて続刊。しかし紙の配給を止められ涙をのんで15年10月末に8684号を最後に何の補償もなく廃刊。仙南日日新聞も昭和17年1月で廃刊。1月25日7010号には「本県に於ては、一昨年仙台日日、東北産業、石巻日日、仙台朝日等八新聞は廃刊せられ終んぬ。然るに本社丈は用紙配給の漸減の苦痛と戦い乍ら先輩同業河北と僅々二社のみとなり、健斗したが、新聞統制令の公布あり、又一面県を通じて政府の要請もあり、権益の一切を国家に奉還し、大東亜戦争の要請に応え一月末を以て廃刊に決せり」とある。かくして河北新報のみが県内の一紙として残る。戦災により廃刊を余儀なくされた新聞社の旧社屋も大方焼失。河北新報社屋は辛うじて焼失を免れ、空襲の翌日から小型新聞を配布した。■佐々久『近代みやぎの歩み』宝文堂、1979年
2012.11.10
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雄勝に味噌作なる地名がある。石巻市民だった私はもちろん知っている(雄勝に住んだわけではないが)。釜谷トンネルから雄勝の町に入ると、中学校付近のT字路を左に折れて中心部や役場、病院方面に至るが、T字路を右に行けばやや山側に向かって住宅地がある。そのあたりが、「味噌作」だったと思う。海の幸、雄勝硯、こじんまりした商店街路。旅館に投宿したこともある。美しいリアスの入江に佇む印象的な町、だった。津波が街を消し去った。宮城県地名研究会「地名 第30号」(2009年11月)に、「石巻市雄勝町の「味噌作・ミソサク」地名について」という論考があった。千葉昌子先生(石巻市桃生町)の寄稿である。素晴らしい雄勝の町を思い出しながら、勉強させてもらった。ミソサクの地名、その背景として桃生郡と牡鹿郡の勢力地図、そもそも雄勝は一貫して桃生郡だったのかなど、大変興味深い。------------10年ほど前(odazuma注:原文の表現)に町の文化財保護委員は、延徳2年(1490)の古文書に大崎今泉の高橋記六という者がこの地を拓き、坊の入(坊の沢)の熊野権現を祀る年四度の精進味噌を煮たことから部落名に転用された、と説明されていた。頼朝は平泉を討って奥州を支配したとき、奥州総奉行葛西清重に5郡2保(磐井、胆沢、江刺、気仙、牡鹿。2保は黄海、興田)を与え、牡鹿と境を接する桃生郡は山内首藤経俊に与えられた。これが300年後の永正合戦(1511-15)につながるのである。中世の恩賞は大掴みで近世のように村名がしっかり記されていないこともあるという。桃生郡雄勝町がその例で、首藤氏の領地に含まれるかどうかはっきりわからない。首藤氏の領地は、旧桃生町全部、旧河北町全部(大森地区は微妙)、旧北上町のほぼ全域(一部は本吉郡)で、旧河南町広渕と旧矢本町、旧鳴瀬町は深谷保になるし、旧河南町和渕は遠田(小田)郡に入る。和渕は後に葛西領になったとも思われるが。雄勝が首藤氏の領地と見られない理由は、首藤氏に関する古文書等に旧雄勝町の記載が全くみられないことによる。むしろ牡鹿郡の浜方に雄勝(十五浜)が含まれた方が自然にも思える。しかし疑問は、雄勝には延喜式内社桃生六座の一つ石神社が鎮座する。延喜から延長年中に編纂された延喜式の神名帳にある桃生郡石神社が雄勝の石神社であるならば、平安時代には雄勝は桃生郡であった。これはどう解釈すべきなのか。平成6年の佐藤雄一氏『雄勝町の板碑』は、 ■中世期の雄勝町の姿はわからない ■鎌倉時代には牡鹿郡は葛西氏、桃生郡の内深谷保は長江氏、残る桃生郡が山内首藤氏によって支配されていたことは文献で確認できる ■従って現雄勝町地域は山内首藤氏の支配下にあったように見えるが、確たる文献がみあたらず、現在ではおそらく葛西氏支配下であったろうと推定されているようだと記している。葛西氏と首藤氏が争った永正合戦で首藤氏が敗れた結果、桃生郡北方は葛西氏領地となるが、それ以前については正確にわからない。服部英雄『景観にさぐる中世 -変貌する村の姿と荘園史研究-』によると、ミソサクは御正作で、「御さうさく」が「御そさく」となったと思われるとする。御正作は、中世における領家、荘官、地頭などの直営田であり一等田。みそざくは御正作故地を示す地名である。従って、みそざく地名を調査することによて中世水田や灌漑用水のあり方、在地領主の館である堀の内や村落との関わりがわかるはずである、と。では、雄勝の「味噌作」は御正作になりうるか。延徳2年文書の「坊の沢の熊野権現」が現存するかについては、熊野神社は8百年前に坊の沢から下雄勝の山上に祀られたという。坊の沢から味噌作に至る途中に地元の人がトーバと呼ぶ小地点があるが、何だかわからない。新山神社には合祀されていないという。雄勝に検地帳などの古文書がないのは度々の津波で家ごと流されたためとのことだ。旧雄勝町の要覧では、「奈良時代は牡鹿郡に属し、のち桃正(odazuma注:原文ママ)郡に属した。大浜の石峰神社は延喜式内社石神社と推定されている。平安末期は平泉藤原氏の所領となり山崎氏や熊野氏がいたという。中世は遠島と呼ばれた荘園公領の一部。鎌倉時代は初め北条得宗家のち葛西氏の所領となった...」とある。つまり、奈良時代雄勝は牡鹿郡であった。桃生郡が建てられたのは、続日本紀の天平宝字元年(757)に陸奥国桃生が見えるのでその何年か前と言われる。石峰神社は延喜式内社で800年代には既に祀られていたと考えられ、もしかしたら桃生建郡の頃まで遡るかも知れない。平安末期の藤原氏の所領はうなずけるが、この頃の熊野氏が熊野権現と何らかの関わりがないだろうか。そして、雄勝の味噌作は古代より修験の地とされた紀伊熊野神社の荘園だったのではないか。ところで、旧河北町と旧北上町にかけて流れる皿貝川があるが、地区の奥が深いことはまさに「更なる峡(かい)」であり、そこにも「味噌作」と「熊野堂」の地名がある。このあたりの地頭職は山内首藤氏、後に葛西氏であるが、御正作の荘園領主は熊野堂主だったのではないか。県内にはミソサク、ソウサク地名がたくさん残っていると思う。調査すれば平安、鎌倉時代の荘園歴史が見えるかも知れない。------------
2012.10.27
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仙台空港の行き帰りは仙台空港線(アクセス鉄道)を利用する。早くて快適だからだ。つい先日のこと。国内の仕事帰りで夜8時代に仙台空港に着いて、空港駅から電車が発車するまで多少の時間があった。この時間帯は以前にもそんな経験があるのだが、ほかに仕方もないので、仙台駅での乗換えに便利な先頭車両に乗って発車を待つ。疲れているからボーッと様々のことを考えるのだが、この鉄道、さっき同便で降りた飛行機のお客さんの何割かは乗っているだろう。それにしては乗客は少ないかな。仙台空港ビルで仕事する何百人の人たちはどうやって帰るのか。鉄道を利用しては居ないのか。そういえばエアラインの関係者、例えば客室乗務員は乗らないのか、などなど思いを巡らしていた。すると、さきほど乗ってきた飛行機のCAさんのひとりが、私服姿で車両に乗り込んできたではないか。おそらく空港ビル内の事務所で業務報告を済ませて、今日は仕事が終わったのだろう。私と同じボックスに座り、さきほどはどうもお世話になりました。そこで私も、機内で飲み物をいただいたお返しですと言って飲みかけの爽健美茶をペットボトルごと渡すと、意外にもゴクゴクと飲み干してくれた。(注:この段落だけは全く創作です。実際は同じ車両の隣のボックスに座ったようでした。大変失礼しました。仕事を終えたCAさんに話しかけるのはやめましょう。編集長謹白)ああ、昔なら客室乗務員はハイヤーで送り迎えしたと良く聞いたが(都市伝説か)、今でも一緒に鉄道には乗らないものと根拠レスながら思っていた。しかし、現実に空港線に乗っているのだ。そうか、やっぱりこの鉄道は便利なのだな。エアラインの人たちも、空港ビルの従業員の方々も、もちろん飛行機の客も、みんなで乗りましょう。乗って乗って活気づけよう、我らの仙台空港線。まもなく電車は発車した。スルスルと加速する。美田園駅。この時間は乗降客はほとんどないようだが、住宅が増えたことで反対の上り線(仙台からくる電車)から降りる客は増えているだろう。そう、みなさん利用しましょう。次の杜せきのした駅で乗り込んだ若い人たちは商業施設の従業員か。いいぞ。やっぱり便利でしょう。みんなで利用しよう。さて、あのCAさんだが、仙台駅で降りて航空会社ブランドのホテルにでも行くのかと思いきや、途中の意外な駅で降りたのだった。アレッと思ったが、自宅が近いのかも知れないし、いずれにしても仙台空港線を利用している事実が、私には嬉しいことだった。改めて思う。震災のあと関係者の努力で早期に再開した空の玄関口が、仙台空港だ。そして空港と仙台都心を結ぶ仙台空港線も、復興をめざすわが東北の活動と交流を支える不可欠の大動脈と言って良い。みんなで利用し、みんなで支えよう。がんばろう仙台、がんばろう東北。
2012.10.24
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南三陸と登米市米谷を結ぶ国道389が水界峠をトンネルで抜ける。私が初めて通ったのは、10年以上前だと思うが、用事で入谷から旧東和町に抜けた時だ。震災後はもう何十回と通っただろう。いまは三陸縦貫自動車道のトンネル工事が始まり、沿岸部の大動脈の完成が待たれる。このトンネルだが、出入口上部のイラストがドライバーをなごませてくれる。私はスイカイトンネルと呼んでいたが、みずさかい、と読むのが本来のようだ。そして、現在通っているのは「新水界トンネル」(1981年)であり、明治時代につくられた歴史ある旧トンネルがそれまで使われていた。一部では心霊スポットとして人気(?)が高いようだが、さらに、もともと米谷道(古水界峠)は重要な交易路だったことから、現在新旧3本の峠道があり、三陸道が通れば、狭い地域に新旧4本の道が存在することになるのだという。■南三陸町観光協会の解説(米谷道・古水界峠)1 米谷町(古水界峠)山内甚之丞によって宝暦年間に開かれた峠道。入谷の生糸や志津川の海産物を米谷に運び、米谷方面からは米が運ばれた交易路。路沿いには古い金掘り跡も。米谷道は現水界峠よりひとつ南の鞍部、烏帽子山の北の肩を越えて米谷側に抜けていた。峠の登り口(入谷側)は長畑と呼び最近まで人が住んでいた。現在でも畑が耕され炭焼きが行われている。(上記サイトに地図があります)2 水界隧道(旧トンネル)米谷道は峠口から鞍部まで800mほどの距離で140mも高度を上げるため、車道には厳しい勾配であった。明治19年に完成した水界峠は、八幡川本流から北に迂回して高度を稼ぎ、古峠から300mほど北側の鞍部にトンネルを掘って分水嶺を越える。入谷の生糸を北上水運に結び付けるため、政府肝煎りで計画された馬車道。トンネル設計は政府お抱えフランス人技師とされたが、該当する外国人技師の記録はなく、フランスで土木技術を学んだ日本人技師の設計と推測される。県内初の近代トンネルとされるが、このことは、当時の入谷・志津川が県勢振興の上で産業流通面から重視されていたことを示していると思う。3 新水界トンネル(R398)昭和56年(1981)の竣工。古道と旧道のほぼ中間に位置。4 三陸縦貫自動車道古峠とは逆に烏帽子山の南をトンネルでくぐり抜ける。■関連する過去の記事(入谷、米谷など) 南三陸キラキラ丼シリーズ(10年3月30日) 船で脇谷閘門を通過する(2010年11月14日) 華足寺(2010年11月12日) 海無沢の三経塚(2010年11月11日) カトリック米川教会(2010年11月9日) 気仙沼誘導ルートの話(10年7月29日) 登米東和ICが開通(2010年3月22日) 登米の「みそアイス」(10年3月14日) 登米市と「はっと」(08年11月30日) 南三陸時間旅行(08年9月17日)
2012.10.20
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今朝の河北新報トップはこれだった。仙石線の一部区間を東北線に乗り入れる方向でJR東と宮城県が最終調整に入ったという。松島の並行区間で接続し一部車両を乗り入れ。仙台石巻駅直通運転は、震災前の仙石線で最速1時間3分、現在の直通列車(小牛田駅回りで本線と石巻線)約1時間10分だが、現在から20分近く短縮だそうだ。仙石線全線復旧の2015年完了をめざす。これまでも何度となく仙石線と本線の接続案は出ていた。主に石巻方面からの通勤通学者のニーズとして、距離の割に時間の掛かる仙石線のスピードアップだ。単線区間が長いため、速達列車を可能とする複線化の要望。また、女川への延伸などもあった。さらに、今回報道された松島連結案も何度となく要望されていたと思う。直流と交流の違いや、ホームの高さなどが良く指摘されるが、今回の報道にあるように気動車を使う方法も確かにあるだろう。要するに、やる気になればできることではないのだ。震災復興が追い風となって一気に動き出すような気配だが、歓迎すべき事だと思う。コストは新たに軌道を結ぶために20億円だそうだ(車両費除く)。大事なインフラの復旧に、関係者の英知を集めていただきたい。■関連する過去の記事 阿武隈急行の輝かしい「日本初」(2012年10月7日) 石巻発仙台行の直通列車(2011年12月1日) 昭和47年の仙石線事故(2011年9月8日) 仙石線と松島を考える(2011年5月29日) 浜田駅付近の立体交差(10年9月28日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 仙石線多賀城地区連続立体交差事業(10年5月5日) 仙石線のダイヤと石巻仙台間の交通を考える(09年12月20日)
2012.10.16
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『延喜式』神名帳には宮城郡に「多賀神社」があり、『和名類聚抄』(元和古活字本)では国府所在郡を宮城郡として、その宮城郡の郷名に「多賀郷」「科上郷」がみえる。宮城郡の文献史料上での初見は『続日本紀』天平神護2年11月己未条である。ところで2008年利府町硯沢窯跡の発掘調査で多賀城創建期8世紀後半の須恵器窯跡が検出され、須恵器に「宮城郡」「宮木」などとヘラ書きされていた。すなわち、宮城郡が多賀城創建期には成立していた事実が初めて判明した。この宮城(天皇の居る所)という郡名は、古代国家においては尋常ではなく、遠の朝廷としての「多賀城」設置に因むものであることは明白であろう。ただし、「宮城」を天皇の居所「キュウジョウ」と読むことを避け、「宮木」という別表記でも明らかなように「ミヤキ」としたのである。古代の「城」の読みは次の通りである。 漢音 - セイ 呉音 - ジョウ 高句麗 - xor(ホル、またはコル) 百済 - kï(キ) 新羅 - cas(ツァス)天智3年(664)大宰府防衛のために築かれた水城(ミズキ)をはじめ、古代日本の城郭としての「城」は一般的に百済音「キ」で読まれている。一方、都の「宮城」については、『続日本紀』養老2年(718)11月葵丑条「始めて畿内の兵士を差し、宮城を守衛せしむ」、同書天平14年(742)8月乙酉条「宮城より南の大路の西頭と...」などとあり、呉音「ジョウ」と読んでいるのである。城の漢音「セイ」は、「平城京(ヘイゼイキョウ)」「平城天皇」など比較的用例は少ない。いずれにせよ、「多賀城」から「宮城」郡が生まれたことこそ、古代において「多賀城」が特別な機関であったことを何より証明しているのである。古代国家は7世紀後半から8世紀前半にかけて正史・法令においては、西日本の「城」と東日本の「柵」を意図的に使い分けたが、それ以外の史料(墓誌銘、木簡など)では、8世紀前半の東日本の城柵を「城」と表記していた。この点を勘案するならば、8世紀前半において「多賀柵」ではなく「多賀城」という表記が一般に行われていたとみてよいであろう。むしろ、表記にとどまらず行政上の位置づけや構造の上でも「多賀城」そのものであったとみなすべきではないか。8世紀前半の「宮城郡」の成立及び郡名は、あくまで「多賀城」創建が前提として可能となるものと理解できるのである。■平川南『東北「海道」の古代史』岩波書店、2012年 から■関連する過去の記事 多賀城 命名の由来(2012年10月9日)
2012.10.09
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多賀城柵は、大宰府と同様に東北の行政軍事全般を統括し、さらに蝦夷対策の拠点となった機関である。多賀城は中華思想にもとづき蝦夷対策の中核として設置されたことから、その城柵名も特別の命名であったと考えられる。その場合、「多賀」の名は、西海道を統括し古代中国朝鮮の使節を接待する機関である大宰府(大宰は、中国古代の官名であり、王を佐けて国家を治めることを掌る意味。和名は、おおみこともちのつかさ。)と同様に中国に典拠を求めるべきであろう。古代中国の鏡に頻出する銘文にみられる文言から、古代中国では「四夷」なるものは中華の天子の徳を慕って来貢すべきものとの観念が成立していたと言って良い。多賀城は、この中華思想にもとづき、蝦夷(四夷)を服属させ国家に安寧をもたらすことを目的として設置されたゆえに、「四夷服、多賀国家人民息」(中国出土の鏡の銘文)を典拠として多賀城(柵)と命名されたと理解できるのではないだろうか。従来の説に常陸国の多賀郡に由来するという見解がある。常陸国中央部にある地域は「仲」とされ、仲国造が支配している。それにたいして多珂郡は、本来「高国造」の「高」という常陸北部の山地に基づく表記と考えられる。和銅6年の「諸国の郡郷の名は好き字を着けしむ」との制度によって字義のよい漢字二次をもって表記するようになった。「高」も「多珂」(珂は玉の名、たくさんの宝石の意)と表記し、8世紀以降はあらゆる資料に「多珂郡」とある。音からも「高」「多珂」は清音「タカ」であり、一方「多賀」は濁音「タガ」である。それが中世以降になると常陸国「多賀郡」に変わる。従って、常陸国の郡名「多賀郡」に由来するという説は、多賀城の呼称に直接結びつかない。■平川南『東北「海道」の古代史』岩波書店、2012年 からこの本は東日本大震災を受けて、氏が関わった気仙地方、多賀城、相馬など東北沿岸部の古代史研究の成果をまとめている。そして、犠牲になった研究者の方々の熱意にこたえるためもあり、壊滅的な被害を受けたこの地の再生の基盤として、歴史文化の原像を描き出して我々に提示しようとするものだ。
2012.10.09
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鉄道の教科書を読んでみた。(昭和鉄道高等学校編『図解 鉄道のしくみと走らせ方』かんき出版、2007年)電気のところでは、電路設備のしくみ(BTやATなど)、交流直流の違い、また交直セクションの所在地一覧などが面白かった。直流電化の場合、例えば車両のモーターが1500Vとすると、30万Wの電力を送るには200Aの大きな電流を流さなければならない(電力=電圧×電流)。そのためトロリ線だけでは容量が不足するため「き電線」を並架し、また短い距離ごとに変電所をおく必要がある。これに対して交流電化は電車の側で自由に電圧を下げられるので、2万Vの交流電化区間の場合、30万Wを送るのに15Aの電流で済むことになる。国鉄が戦後列車本数の比較的少ない地方幹線の電化を交流方式で進めたのは、この経済性を高く評価したからである。しかし、問題もあった。まず、(1)通信線への誘導障害。だが、トロリ線と帰線を接近させれば影響を小さくできることから、レールを帰線とする直接き電方式の交流電化は日本では採用されなかった。トロリ線に平行して「負き電線」(帰線)を架設して約4kmごとに設ける吸上変圧器(BT)でレールから電気を吸い上げる方式(BTき電方式)やその改良の単巻変圧器(AT)を用いたATき電方式が主流となったからである。交流電化が進むと、(2)電気車のコスト高が問題視された。変圧器・整流器を搭載する上に、隣接する直流電化区間に乗り入れるために、高価な交直両用車を多数つくらねばならなくなり、変電所が少数で済むなどの経済メリットすら打ち消してしまった。従って、現在では新規の交流電化はほとんどない。むしろ、北陸本線敦賀以南のように既存の交流電化区間を直流化する例さえある。教科書の解説を整理すると以上の通りなのだが、ここで思い出すのが、わが宮城県自慢のひとつ、仙山線の交流電化(1955年落合-熊ヶ根で試験開始)だ。なるほどこんなメリットで始まったのだが、全国制覇はできなかった。いや、新幹線は交流方式だから、やっぱり未来を先取りしたと言って良いのか。作並駅(交直地上切り替え設備があった)にある交流電化発祥の地の碑は、仙台・宮城の自慢なのですが...そんな田舎県民の全国初願望にもとづく論議はともかくとして、実は私鉄で初めて交流電化を実現したのもわが宮城県なのだそうだ。阿武隈急行線である。旧国鉄丸森線を受け継いだ第三セクター路線として、1988年7月1日に福島駅までの全線を交流電化で開業した経緯からそうなのだが、紛れもない日本初だ。それに、従来の私鉄がすべて直流のなか、あぶ急のほかに交流電化区間を持つ私鉄は、近年開業した「つくばエクスプレス」と仙台空港鉄道(仙台空港アクセス線)ぐらいなのだそうだ。(ちなみに仙石線は東北地域では例外的に直流電化です。)とすると、仙山線、あぶ急、アクセス鉄道を持つわが宮城県は堂々と、交流電化王国ではないか。自慢できるかどうかわからんが。(ついでに仙石線が日本初の地下鉄道だったことも、自慢しましょう。東七番丁駅のことです。参考:仙石線のダイヤと石巻仙台間の交通を考える(09年12月20日))■関連する過去の記事(阿武隈急行、仙山線) 堺すすむと仙山線(2012年9月23日) 納涼列車 ほろにが号(10年6月26日)(福島市-丸森町)
2012.10.07
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昨日TVで高校生クイズの県予選をみていて、出題から、全国の市で「け」で始まるのは気仙沼だけだということが、私は初めて知った。(出題は、「け」で始まるのは気仙沼市だが「げ」で始まる都市を答えさせるもので、正解は下呂市だった。)確認のため、全国市長会の都市情報で50音順をみる。やはりそうだ。こんなシンプルで判りやすいオンリーワンがあったとは、東北人として胸のすく(?)思いだ。さて、ほかに事例がないか...「て」が天童市と天理市の2つだけ。「り」は陸前高田のほか、竜ヶ崎市、栗東市。なお、該当市が唯一の例では、「め」の目黒区と「る」の留萌市。ということでやっぱり気仙沼はピカリとあてはまるケース。政治的にはモンロー主義、名前でも孤高の都市だったのだ。
2012.08.26
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江戸時代、馬に乗った武士などが城や寺社に入るとき、馬から下りなければならない場所が決められていて、そこを「下馬」といった。主人は中に入るが供回りの者たちは、下馬で主人の帰りを待つのが定めだった。暇を持て余した供の者たちは、世間の噂話や他人の批評などをして時間を潰すしかない。単なる時間つぶしなので、噂の真偽などお構いなしにあることないことを話題にした。そんなところから、第三者による無責任な噂話や興味本位の批評・評価を「下馬評」と呼ぶようになった。■三上文明著(野口元大監修)『みんなの語源 知って得する!日常語の由来184』山海堂、2007年さて、多賀城市に「下馬」がある。仙石線の駅名だし、古く明治時代には村の名前だった。『多賀城町誌』(佐々久監修、多賀城町誌編纂委員会編纂、昭和42年)によると(p.397)、次のように説明されている。------------ 下馬は、多賀城、塩釜(ママ)市と境を接している。塩釜神社に参詣する者はここで下馬して塩釜膳部に入ったので、この名ができたと言われる。神社までの距離が長すぎるし、其の外下馬する必要のある対象もなく、疑問の点が多い。佐々久氏は下馬はもともと急な坂であったから、下馬せねば通れなかったのでこの名ができたのであろうといっている。 一体塩釜と仙台方面との通路は大体二通りあって、一本の道は奏社宮(odazuma注1)-大日向の線と、もう一本は八幡-留ヶ谷-安部の待橋(odazuma注2)-向山(odazuma注3)と通って、今の坂病院の後に出て病院の北側を通って、膳部に出て塩釜に入り南町を抜けて神社という道もあった。 膳部で下馬し、あそこから歩いて神社に向かったものだろう。そうすると、この八幡を通る通路は神社に向かう本道ということになるだろう。本道だから下馬があって、奏社宮は脇道にすぎなかったのでこのような禁制区域があってもよい様に思われる。神社から見れば八幡街道は正面であって、南方に位しているので、この道を本道としたのもうなずけると思う。随って、神社への正使は勿論この八幡街道をとったと思われる。前述と相反する考え方であるが、参考のために書いておく。------------注1:奏社宮 陸奥総社宮。多賀城市サイトの説明参照。注2:安部の待橋 おもわくの橋の別名。多賀城市サイトの説明には、阿倍松橋と呼ばれていたとある。注3:向山 伝上山2丁目に「向山集会所」や「向山公園」があり、また行政区名「向山」として名が残る。従兄弟が東京から一時多賀城に住み着いたとき、シモウマと読むのではないのか、と言っていた。こちらはゲバなのです。なお、町誌の説明に出てくる「膳部」だが、塩竈市ホームページ「塩竈の水道の歴史」の中に、「膳部清水」として出ているのが関係するのだろう。地点としては、それこそ坂病院の北のあたりなのだろう。
2012.08.14
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高校野球(硬式)の県大会が東北各県で進んでいるが、13日の新聞記事に、第57回全国高校軟式野球選手権宮城大会が熱戦を繰り広げるとあった。14日から19日までの日程で松島、利府、七ヶ浜で開催されるとのことだ。出場は16校。春季覇者の気仙沼と昨秋の県大会を制した東北学院が軸。仙台青陵、仙台育英も力がある。新加盟の尚絅学院も楽しみ。優勝校は南東北大会に進み、さらに優勝すると、8月25日からの全国大会(明石公園球場など)に出場する。こんな内容の記事だった。出場校は、気仙沼(第1シード)、東北学院(2)、仙台育英(3)、東北(4)、仙台工、仙台二、泉、石巻商、塩釜、仙台青陵、女川、尚絅学院、明成、仙台商、仙台一、仙台。■関連する過去の記事 高校軟式野球と東北(2012年6月23日)
2012.07.13
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昨日の記事名取市長選挙 衝撃の低投票率(2012年7月8日)に、名取市長選挙の投票率40.00%は(低くて)衝撃的だと書いた。ひょっとすると、仙台や宮城県の人たちは、それで普通じゃないかと思っているのかも知れない。仙台市長選挙だって3割をやっと越えたくらいだ。仙台近郊の名取市で4割も投票していればソコソコじゃないか、と。ああ、宮城は都会だからね...とか変に得心しているかも。でも、そんなことはない。もしそう感じているとすれば、やはり宮城のレベルが全国的にも低いことに気がついていないのではないか。当ジャーナルでも何度か指摘しているが、政治的無関心の度合いは他県より相当ハッキリしている。そもそも県内の首長選挙で投票率が低いところをみると、仙台市が最低記録である31.97(平成9)のほか、3割台が2回(平成4、平成5)。多賀城市も低い方で、平成14が47.16で、直近の平成18は48.29だ。おそらく、今回の名取市以前には、5割を割り込んだ記録を持つのは、この2市と利府町(平成22の48.48)くらいではないだろうか(未確認)。塩竈市は平成23で56.82%。だいたい平均的には市で6割台、町村だと7割台以上だろう。市ではないが都市化(住民の帰属意識の低さ)が著しいと思われる富谷町でも、5割を切っていないはず。実は、首長選挙は(意外と)投票率は低くないのだ。しかも、全体的に低い宮城の中でこうなのであって、他県では(都市近郊部でも)結構(宮城より)高いのだ。例えば、都市化の有る意味代表である滝沢村は平成18で55.78%だ。しかし、盛岡市は前回無投票、その前の平成19が30.94と随分低い(平成15は53.67で、その前平成11が34.67と低い)。郡山市平成21で51.54、福島市が平成21で38.18(これは低すぎる。なお前回が53.86)、いわき市平成21で56.02、秋田市平成21で62.22、青森市平成21で56.63、山形市平成23で47.60など。宮城は低いと断言した当ジャーナルとしては、盛岡市や福島市の低投票率をどう説明するのだという批判を受けそうだが、現職優勢で盛り上がらなかったから、と言い訳をしておく。当ジャーナルが憂えるのは、今回の名取が特に沿岸部で震災後最初の首長選だったこと。みんな大変な思いで復興を目指している。選挙どころではないという気持もあるかも知れないが、復興のような大きなテーマこそ政治が突き動かすようであって欲しい。民意を今こそすくい上げて欲しい。そして、こんなときこそ光を当てるのが政治だろうに、という思いは、はかなくも砕かれたのだろうか。■関連する過去の記事 名取市長選挙 衝撃の低投票率(2012年7月8日) 首長選挙の投票率を考える(2011年2月21日)(県内市長選との比較)■関連する過去の記事(宮城県の投票率。他にも有ると思いますが。) 宮城県議選 高点順得票で激戦を分析(2011年11月15日) 低かった投票率 宮城県議選(2011年11月14日) 石巻市の有権者にイエローカードだっ!(10年7月14日)(全国最低レベルの投票率) 参院選 宮城が全国トップクラス!(10年7月13日)(低い投票率) 村井氏が引き上げた投票率(09年10月26日) 宮城知事選挙の投票率を予測する(09年10月25日) 総選挙の投票率 都道府県別増減はバラツキ顕著(09年9月2日)(宮城は上昇) 前代未聞の総選挙 宮城と近県の投票率はどうか(09年8月30日) 宮城県知事選挙開票結果について(05年10月23日) 宮城県知事選 投票率中間発表(05年10月23日) 宮城県知事選挙 投票率を予想(05年10月23日) 今回の総選挙、宮城県の投票率の低さを考える(05年9月13日)
2012.07.09
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本日(8日)が投開票日だ。投票率は、現職が辛くも2選を果たした前回が51.93%で過去最低。04年 65.9200年 63.5296年 70.41NHKニュースによれば推定投票率は午前11時で11.33とかなり低い出足。前回より3.98低いようだ。震災で被害を受けた宮城県の沿岸部市町で、震災後初の首長選挙(昨年秋の女川町は無投票だった)。復興まちづくりが大きなテーマで、普段から投票率向上を願ってきた当ジャーナルとしては、なおさら投票に市民が足を向けるよう願っているが、どうだろうか。かなり低下しそうだとの予測もあった。さて、選挙結果だが現職が圧勝(15,616票。新人6,381票)。そして投票率は40.00%である。おそらく宮城県の首長選挙でも指折りの低い結果に属するだろう。■関連する過去の記事 首長選挙の投票率を考える(2011年2月21日)(県内市長選との比較)
2012.07.08
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バスの旅のパンフ。東北復興特集で、松島散策、大観荘のフレンチランチと温泉入浴、三井アウトレット、キリンビール工場見学などで仙台発着6,480円。キリンビールは見学なので生ビールをガンガン飲めるのではないだろうが、目に留まる商品だった。この行程で、松島で十二支記念館が組み込まれている。知らなかったが、松島海岸にできた施設のようだ。松島町公式サイトにも説明がある。観光物産館のそばのようだ。
2012.07.04
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なかなか面白い本だ。岸本雄次郎『大岡裁きの法律学』(日本評論社、2011年)。内容についても書きたいところだが、途中で大きなショック。解説の中に、忘れていたあれが出てきてしまった。大岡裁きの案件で登場する市兵衛の所業について、現代の詐欺罪を構成するかなどの論評の中で、こう説明されている。「私たちの記憶に新しい"旧石器捏造事件"では、あらかじめ遺跡に石を仕込んだNPO副理事長を偽計業務妨害の疑いで告発した考古学者がいたようですが、仙台地方検察庁は証拠不十分としてこれを不起訴処分にしました。(中略)"ゴッドハンド"と呼ばれていたこのNPO副理事長による捏造行為を現行法で罪に問うのが難しいのであれば、与えた影響の大きさに鑑みますと、市兵衛の所業も犯罪とすることは難しそうに見えます。」と、長屋の市兵衛と対比して、あの副理事長が登場している。我々東北人には辛いところだ。思い出すのだが、あの年、弁護士と話題にしたことがあるが、やはり罪にはならないということだった。想定されていない現代型の「犯罪」かナ、と。刑事責任が問えないのは、もちろん実定法規の断片性からして仕方がないが、社会的には大罪だ。それにしても、「与えた影響の大きさに鑑みますと」副理事長が不起訴処分なら、市兵衛も罪には問えない... こんな論法でアチコチにあの副理事長が登場するようにならないことを、切に祈ります。■関連する過去の記事(遺跡捏造事件関係。リストアップするのも気がひけますが...) また引き合いにされた希代の愚挙(2012年3月17日) 再び旧石器捏造を考える(2011年8月15日) 旧石器捏造 学界はどう見ていたのか(09年12月12日) 旧石器捏造事件を考える(09年12月11日) 壮大なニセ歴史ロマン(07年5月27日)(旧石器捏造事件関係)
2012.06.27
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石巻市さん、また間違っていますよ。ご存じ石巻の大恩人の生没年。石巻市産業部商工観光課発行2012.3の観光ガイドブック。読み進んでいたが、最後のページで、アレッ。川開き祭りの説明。北上川を開削し石巻繁栄の礎を築いた川村孫兵衛重吉への報恩感謝の祭として... は良いのですが、孫兵衛の生没年が「1575-1684」となっている。これだと100歳以上の超長寿。実際には1575年生まれ(1574年とも)で1648年没。没年は慶安元年で三代家光の治世。関係ないが1648年は、近代欧州の骨格をつくるウェストフャリア条約で有名な年だ。中国では清朝が起こり、ムガールではシャージャハンがタージマハルを造っていた頃だろう。孫兵衛の業績はとにかく偉大だ。河川改修や水路造成で、港町石巻と仙台藩の勇躍の基礎をなした大恩人だ。そういえば、日和山に立像があった。あの津波を、どう見ていたのだろうか。
2012.06.21
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先日、気仙沼を訪れた際に昼食に立ち寄りました。仮設の商店街です。1000円の福幸ずしをお願いして、いただきました。美味かったですね。出た後にも次から次へとお客さんでした。
2012.06.09
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東北放送のニュースだが、金曜日(8日)の午前9時半頃、石巻西高の職員の通報を受けて駆けつけた警察官が、野球場にいるニホンカモシカがいるのを確認したが、学校の北側から石巻市方面に逃走。石巻市教委では、周辺の学校児童の集団下校措置をとったという。クマに次いで、今度はカモシカさん。ところで、私はよく知らなかったが、ニホンカモシカとニホンジカは別ものだ。宮城県ホームページに写真入りの説明があって、ニホンジカの生息地域把握のために目撃情報を求めている。今回のニホンカモシカについては、例えば南三陸町ホームページに、「国の特別天然記念物に指定されており、殺したり捕獲したりしてはいけません。」と出ていた。東北放送の報道は、現着した警察官が野球場にいるのを確認したが逃げていったということで、どんな対応をしたのかは触れられていない。身柄確保を試みたが逃げられた、のではなくて、もともと捕獲はできないものとして扱った、のだろうか。これは考え過ぎか。今頃、石巻のどこかで夜を明かそうとしているのだろう。
2012.06.08
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宇野量介『続 戦後の宮城教育を語る』宝文堂、1970年 から。(前回赤字に悩む宮城の教育(その1)(2012年5月19日)から続く)3 昭和29年1月の報道では赤字14億円、県財政は危機に直面。明29年度分から繰上充用で穴埋めするより仕方がない。新年度予算編成は、新規事業は大なたを振るわれ、県教委の要求も大削減となった。教員増の要求は、小中児童生徒1万3千名の増加に対して、小学校200名、中学校100名の増員を要求したのだが、逆に現在1万700名から480名を整理せよとの査定であった。教員比率が現在児童生徒50名に対して教員が、小1.8名、中1.5名を引き下げて、小1.7中1.4とするというのである。到底我慢できるものではないが、一方県庁職員も120ないし130名削減と伝えられる。特殊教育や犯罪少年対策も暗礁に乗り上げた形となった。やっと折衝の結果教員増105名の復活を見たが、教員平均給の引き下げ、事務費3割減などとなった。教職員200名の整理のため、高給の老齢者に勇退を求め全体の給与総額を節約せねばならない。全く苦しい年度末の人事やりくりとなった。東北各県とも赤字財政に悩むことは同様であった。秋田、岩手は昇給停止、山形は新採見込み立たず山形大の新卒は悲鳴、福島は老齢高給者の整理のため教員男50歳女45歳に線を引く(共稼ぎはどちらか辞める)方針という。宮城県としては合議熟考の末、(1)年齢該当者に強く退職勧告、(2)共稼ぎ教員の片方に退職勧告、の2本建てで行くこととした。(2)は福島のように一本調子ではなく、夫婦合わせて4万円以上で一方が2.8万円以上の場合片方に勧告し、片方が2.8万円以下でも片方が恩給受給資格有れば講師に任用替を行うこととした。この方針で強行突破するより他にないとして年度末人事を実行した。他県では人事委員会に提訴したり処分取り消しの民事訴訟を提起する例が多いが、本県の場合そんなこともなく潔く県や県教委に協力してくれた。(おだずま注:著者の宇野先生はこの時、県教委学務課長で、身を切られる思いであったと記しておられる。)難産人事を終えて一息すると、7月の昇給期になって早坂副知事から県職員教職員とも7月の昇給はストップするとの言明。既に岩手県などで条例改正を行っているが、その波が波及してきたのだ。12億円の赤字のため昇給停止で2千万円を浮かすのはやむを得ないと副知事はいうが、組合は納得できないと言い、県教委としてもだまってはいられない。教職員の志気に影響すると知事に善処を求めるが、県としては人員整理方針をまとめ実出血60名を出すと決定した際でもあり、色よい返事は得られなかった。やむを得ず、1年間昇給の調整により予算の2割、1200万円の節約を図ることとなった。8月末には、自治庁から県財政運営について勧告。(1)職員配置合理化、(2)物件費節減、(3)補助金交付金の縮減、(4)単独事業と投資的経費の抑制、の4項目。そして、29年予算で地方交付税45億75百万円を計上しているが約13億円の空財源をアテにしている、と指摘した。既に実績赤字は12.3億円に達しており、歳入財源の過大見積もりと放漫な支出を改めよとの勧告である。教育についてみれば、勧告(1)は、教職員は小中とも全国平均を上回って採用してあるから、小250名中109名の整理が出来るとされたのは驚く外なかった。とにかく、県教委としては毎年教員不足である、全国平均は古い数字である、明年春の入学児童は15000名増加するので400名の増員が必要である、百歩譲って今200人整理するとすれば退職手当は1億円を下らぬし、浮く給与は3千万円にしかならぬ、むしろ年度末の自然淘汰を待って新規採用で調整すべきと結論した。副知事の上京折衝によって、練直し節減案8億7百余万円となり、教員整理問題は明年3月まで延期となり一安心した。結局議会に提案された整理額は6億3千万円であった。教育予算の削減は1億2千万円で、内訳は昇給昇格停止23百万円、欠員不補充で27百万円、教員旅費、高校需用費で29百万円ほか。昇給昇格停止は県教委として賛成しかねるし、需用費削減は高校PTA会長からも猛反撃があった。高校の必要経費の65%はPTA負担の現状において、父兄負担の激増は絶対反対とのことで、教委は板挟みとなった。10月の県議会では、新たな財源措置の努力などの条件付きで、財政整備案は与野党の妥協点に達した。11月始め県人事委員会は引き上げ勧告を留保し、せめて昇格昇給の停止だけは撤廃するよう示唆するにとどめた。やがて右社県連も人員整理反対を申し入れ、ついで両社、県労評などが県政に不満を示し、反省なければ純野党に踏み切ることを示唆する一幕もあった。春に財政悪化に協力した人々の退職金が11月になっても300人が未支給となっていた。12月の追加予算でやっと2千万円計上できたが、150人分にしかならなかった。昭和30年早々の決定は、懸案の昇給昇格問題を10月該当者について1月付きで実施することであった。物件費、行政費を更に2割節約して1千万円を浮かし、残りは内部操作で。ちなみに所要経費は教委11百万円、県5百万円、警察5百万円と、多数を要する県教委としては難問であった。やっと予算化されると、総額15百万円余、教職員分1030万円、県300万円、警察200万円の内訳であった。県職員の整理については、(1)3月まで50歳、(2)配置転換困難の者、(3)夫婦共稼ぎの者、(4)両親親族に相当の収入資産あるもの、を対象として実施する基本線を示したが、教職員の勇退折衝は波乱含みで、すでに昨年の強行策の後で名案はない。東北各県とも児童増加に見合う教職員増員は認められず、昇給分の予算もなく、高齢高給者の整理、と難問を抱えた。ただ、宮城県の場合、他県のように最高年齢男52女45とかに引き下げて一線を引くことまではしないで済ませたことについて今なおいくらかの安らぎを覚える。
2012.05.19
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昭和27年から3年間ほどの宮城県の教育について、赤字財政との関連部分を振り返ってみた。2回続き。宇野量介『続 戦後の宮城教育を語る』宝文堂、1970年 から。1 昭和27年10月の知事選挙で宮城音五郎教育長が当選。地方財政困難の時代で、消費県から生産県をめざして向上の方途を探るのが県政の最大緊要事であった。11月上旬の人事委員会勧告では、5月に遡って9,451円を12,290円にベースアップする改訂。財源難の県は悲鳴。教員組合は16,000円を要求して集会を試みるが、宮城知事擁立の経緯もあり、闘争には限界があった。(記事 昭和27年発足の地方教委の諸問題(2012年5月13日)を参照)2 昭和28年義務教育教職員の給与問題。歴史的な問題だが、国庫負担法が制定されており、学校は市町村立でも給与は県が負担することとなっていた。時に定員定額制などの問題が絡んでいるが、概略2分の1を国庫から支出し、残り半分を県が負担する。しかし、昭和25年のシャウプ勧告で税制改革が行われ、地方税法が改正され、いわゆる平衡交付金制度がはじまり、義務教育費負担法は廃止された。その結果、教育費については従来の如き直接的保障はなくなり、教育費も地方財政平衡交付金に含まれるに止まった。もちろんこれでは教育界に不安極まりなく、特に財政窮迫が教育費にシワ寄せされる恐れが出るに及んでは、何とか打開の道を考えざるを得なかった。そこで、義務教育費は全額国庫負担制を明示すべし、最低保障を国が行うべし、などの議論が出るがまとまらない。地方制度調査会や税制調査会で検討した結果、やっと、義務教育費国庫負担法が28年に成立した。ところが、更に一歩前進して、全額国庫負担を含みとした義務教育学校職員法案の構想が生まれた。教員を国家公務員とし、給与は県教委を通して支給するので、そのための指揮権を文部大臣が持つというものであり、議論がなされた。教育界内部でも、教委側は給与は東京並みを標準としなければならないと評し、定員制となると郡部には小規模校が多いので不利にならないかと案じられ、一方教員組合からは、国家公務員として活動を制限する自由党の選挙対策だとして反対を表明し、賛否こもごもであった。2月の宮教組大会は、この法案粉砕を運動方針の第一に掲げた。独立1年を経て青少年の不良化傾向。赤字に悩む県当局が国体用に作った自転車競技場を競輪場に転用して利益を得ようと考えたことは、識者を憤激させた。このような青少年の情況の中で、法案は議論された。河北新報社説2月28日は、こう述べた。給与確保の点や平衡交付金の別枠とするのは東北地方にはプラスにもなろうが、然し定員定額制を前提としているのは地方の実情に合わないのではないか、また、教委を骨抜きにしたり全国一律化にならないか、国立学校(附属小中)に県が給与支払いをするのは不合理ではないか、いずれにしても日教組の政治活動禁止を狙っており政治問題化したところに問題があろう。国会の論議はまとまらず、バカヤロー解散の中断を経て、総選挙後の第5次吉田内閣でも見送られ、結局先に成立した国庫負担法が実施されることとなった。給与費の半額は確実に国庫負担となったが、実支出の半額のため、財政事情から富裕県と困窮県との格差は年々増大した。宮城県は27年暮れの年末手当増額分0.25月分は年を越して2月になってから貸付金の形で4千万円を支出せざるを得なかった程である。三本建て給与問題。主として高等学校長協会から提起されたもので、学歴の高い高校教員の給与は小中に比して不利なので、別枠で改善すべきである、そのため、大学、高校、小中と三本建ての体系を主張したものである。総選挙後の第16特別国会で成立し、宮城県では12月議会で条例改正を行った。初任給から差を付けたため、新制大学新卒者は高校志望が増えることとなり、全国中学校長会は三本立給与法の改定を要望した。県立高校の営繕計画では仙台一高改築。10月に起工式を挙げるときは、日本一のモデル校舎をめざし、教員室も研究室制度、設計は東京新建創の山崎忠雄技師。もっとも、財政難から進捗は遅々たるものとなり、落成式は昭和37年秋と、9年を要した。(赤字に悩む宮城の教育(その2)(2012年5月19日)に続く)
2012.05.19
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前回記事の箟岳分校。気になってもう少し調べてみた。■前回の記事定時制箆岳分校の充実ぶり(2012年5月14日)(注)下記文献や現在の表記法に従い「箟」の文字を使用。前の記事では宇野量介先生の記述どおり「箆」の字を用いた。まず、涌谷高校要覧から沿革を振り返る。○ 昭和23年7月15日 定時制課程を設置(中心校、箟岳分校、中埣分校)○ 昭和26年3月31日 中埣分校廃止○ 昭和28年4月1日 定時制夜間部設置○ 昭和36年2月3日 定時制中心校 募集停止○ 昭和39年1月3日 定時制箟岳分校 募集停止以下は『涌谷町史 下』(昭和43年)による。なお、涌谷町、箟岳村の合併により涌谷町が誕生したのは、昭和30年7月15日である。昭和23年4月、新制高校発足により涌谷高等女学校が共学の涌谷高校になる。同年7月、定時制が本校(夜間)と 箟岳(昼間)に設置される。箟岳分校は、昭和23年の箟岳中学校新設に伴い、7月にその一部を借りて発足した。校舎独立を要望する声に応じて、旧青年学校舎を移転使用することに決し、狭隘かつ設備不十分の中で授業が行われる。昭和26年に2教室、27年に2教室の増築。初代分校主任に五島幸雄。第1回卒業生から全日制本校をしのぐ好成績で大学進学が多かった。この事態から視察来校に忙殺される始末。父兄の熱心な協力も見逃せない。教育内容は日を追って高められたが、亘理正彦県会議員の働きにより家庭科教育が一挙に整備され、生徒の学習意欲を燃やさせた。和裁、洋裁、料理、手芸、茶華道と当時最高水準で、モデル教室として文部省から資料を求められた。地域住民に影響が大きく、婦人の啓発と食生活の改善に大きな役割を果たした。かくして、子弟の進学に非常な苦難をなめてきた住民は、分校設置によって一挙に教育熱の燃え上がりを見せ、延いて全日制高校に進学するものが年を経るに従って増加するに至り、昭和42年3月をもって閉校した。
2012.05.15
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昭和28年の出来事で特筆されることのひとつに、定時制の箆岳分校の充実ぶりだ。青少年の不良化の傾向など頭を悩ます際に喜ばしいことだった。大学受験はみなパスし、就職希望者もみなできたとか。村の人々大喜びで自発的に三教室を増築して、この春落成したという。卒業生32名中、8名大学進学、就職20名、あと4名は家事従事。この好成績は専ら、五島教諭と千田教諭の2人の端正の結果だという。教育の力の偉大さと、それを支える教師に人を得ることの重要さをしみじみと考えさせられることである。■出典:宇野量介『続 戦後の宮城教育を語る』宝文堂、1970年
2012.05.14
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(前回記事「昭和27年宮城の教育委員選挙」(2012年5月12日)に続く)妙な経過で成立した市町村の教育委員会だが、選挙直前まで公選ではなく任命制にすべきの声が出たくらいで、発足に当たっては貧弱陣容で期待できないとされ、教育長にその人を得るのは困難で、予算編成が試金石と言われた。11月1日発足当時の新聞は、前途多難な地方教委の題で次のように報じた。教育長の確保は難しく、専任職員を置くことすら塩竈石巻古川の3市を除けば2、3の町村に過ぎない。従来の学事係が兼務するのが精一杯で教委は無力化するしかない状況。選ばれた委員諸公にしても、資質は期待ほどではなく人事権をたてに暴言を吐くものも伝えられ、庁舎に至っては独立の庁舎をもつものは一つもない有様。委員報酬については成算もなく、町村当局の悩みの種である。教育施設の不完全をいかにすべきか、不十分な教員組織の充実はどうすべきか、教員異動について県教委との調整をいかにすべきか、そもそも予算捻出はどうか、など、行く手の困難は多かった。県教委はこの間、あれこれ指導助言を加えてみるものの、裏付けの財源は国の措置に待つより他なかった。伝えられるところによると、文部省要求の地方教委分の平衡交付金は39.8億円だったが、大蔵省査定で10.8億円と削減され、委員報酬単価は市4,500円、町村800円、教育長が14,000円では優秀な人物を得ることは困難である。助役の片手間で教育長を兼ねるのでは所期の目的達成にはほど遠い。11月末に第4次吉田内閣の重要施策が発表される。文教刷新の一項があったが、肝腎の内閣が不安定で、池田通産大臣が不信任され、広川農林大臣の非協力事件があったり、独立初年の国会は安泰ではなかった。28年予算審議の最中、吉田首相のバカヤロー事件から3月14日解散となる。4月総選挙で第5次吉田内閣が成立するが、自由党は第1党ながら過半数に足りず政局はなお混迷を続けるのである。とにかく独立第一年は騒然たる中に進んだ。与野党対立は講和条約と安保条約に絡んで妥協のない抗争を募らせるのみで、独立後の対内諸施策については、逆コースの名において野党はことごとく反対。総選挙を重ねても革新の側に国民の多数は目を向けようとしない。国会の状況と異なり、宮城県では革新系に擁立された宮城新知事となったが、赤字財政から新知事の行く手は苦難が予想された。11月上旬には県人事委員会が現在9,451円を12,290円にアップの勧告。財源難の県は悲鳴を上げ、教員組合は16,000円ベースを要求したが、結局ない袖は振れず、宮城知事擁立の組合関係者としても闘争の限界があった。昭和28年は学制頒布80周年の年でもあったが、地方教委制度については、中教審答申を見ても、六三制堅持とともに、教委制度は民主的改革の一要項であり教育の中立性自律性の樹立を意図するもので、その長所を発揮させたいとして、地方教委の改変する積極的根拠はないと断じ、委員選挙方法に検討を要するとした。もっとも地教委1周年を迎える秋になっても、問題点は依然として残り、廃止論も根強かった。■出典:宇野量介『続 戦後の宮城教育を語る』宝文堂、1970年
2012.05.13
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昭和27年は独立の年、また第1回の高校体育連盟総合体育大会が5月下旬仙台で開催された。この年、全国的な教育問題として浮かび上がったのが教育委員会法改正の動き。昭和23年に制定され、半数改選の規定により当年秋に選挙実施の予定であったが、さらに市町村教委の選挙は大体が当年まで延期されていた。秋には、各都道府県、5大市、全ての市町村1万あまりに教委を設置しなければならなかったのである。しかし、もともとこの制度は占領中の米国の指導で始められたもので、我が国の実情に合致とは言えぬ面もあって、全部の市町村に教委を設置するのはなお検討を要するとの声もあった。事実、26年7月の政令改正諮問委員会からの答申でも、教委は都道府県と人口15万以上の市に設置すれば足りるとするくらいであった。文部科学省としてはさらに1年延長して十分研究検討したいとの改正案を用意したが、これには、各県教委は賛意を表し、各市町村に教委を設置すれば教員の異動も困難になると理由を挙げた。一方、町村長は、教育行政の混乱は避けたい、二重行政は自治警察で実験済みであるとして改正案を支持した。更に、教員組合は、各市町村に設置すればボスの発生必至として、改正案賛成の態度に出た。しかるに国会では参院で可決された改正案が衆院で否決され、結局従来の教委法の示すとおり、今秋選挙実施、各市町村に教委設置と決まったのである。政府提案を与党たる自由党が主となって否決したのであるが、これには次のような理由がある。率直に言って、日教組対策と言われた。自由党が改正案に反対する理由は、町や村に教委を設置するのは教育の民主化を進めるもので1年延ばすことは出来ないというのが表向きの理由で、実は、日教組の分断政策というのが一般の見方である。今まで5大市のほか57町村、東北では仙台市にしか教委がなかったため、日教組の交渉相手は都道府県の教委というのが特例的に認められていたのだが、今秋各市町村にも交渉相手が出来ることになる。都道府県単位に組合を作るという特例が5月10日で認められなくなっていた。この機会に日教組を各市町村単位に切り替えて勢力を弱め、また、選挙では地方の名士を選んで日教組を抑えようということらしいのである。この結果に文部省は大いにあわてて善後策を練る。宮城県教委は、この間、7月16日定例委員会で次のように決議した。教委法一部改正案が衆院では世論に反して否決されようとしていることは遺憾であり憂慮に堪えない。本委員会としては、未設置市町村の教委設置を1年延期して教委法根本改正に検討の余地を残そうとする本法案を、地方教育界の実情から見てあくまで支持するが、万が一法案が通過しないときは、少なくとも地方教委を任意設置とする規定を設け、もって不要な混乱を避け不安を解消されんことを切望する。7月下旬、改正案は不成立となり、各市町村に新たに4人の教育委員(他に議会から1人)が生まれることとなり、既設教委の半数改選が行われることとなった。県内の日程は次のようである。県教委 告示9月15日 選挙10月5日市教委 告示9月20日 選挙10月5日町村教委 告示9月25日 選挙10月5日全県下くまなく教委制度の啓蒙運動も行わなければならないが、町村長側からすれば、主として財政上の理由から不要論もあったほど妙なものだった。しかも8月28日に衆議院の解散(抜き打ち解散)がなされ、追放解除者が政界復帰を狙い、野党は抜き打ちの非を鳴らし、与党の抗争も激しかった。県では、佐々木嘉寿治知事が明年2月まで任期を残しながら、予算編成の常道からとの理由で再出馬のため早期辞任説が出て、10月早々、国会、知事、教育委員の選挙が重なって行われることとなった。10月1日衆院選は、自由党が過半を制し第4次吉田内閣が成立するが、復活した鳩山氏を抱えて政権は混沌を続けるのであった。一方宮城県知事選挙では、佐々木氏の対抗馬として擁立された教育委員長の宮城音五郎博士が、政治に素人ながら清新と清潔を買われて僅差で当選した。かくして、県教委には、庄司ヒサヨ、八島炳三、野口秀敏、相沢庸治の4氏が当選。仙台市では2名改選で石川謙吾、今野幸治郎の両氏が当選。ほか県内全市町村に4名の教育委員(議会から1人を加えて5名)が誕生した。はじめ仙台市以外では不振が伝えられたが、石巻で5名、塩竈8名、古川7名の立候補者があった。県教委委員長には野口秀敏氏、副委員長には議会選出の全先清水氏が選ばれた。■出典:宇野量介『続 戦後の宮城教育を語る』宝文堂、1970年
2012.05.12
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(前回中世の郡、保、荘と宮城郡の特殊性(その1)から続く)4 山村と八幡荘の場合鎌倉時代の山村(やまむら)の地頭は関東御家人の大河戸氏で、文治奥州合戦の功により、在地領主を廃して任命されたものと考えられる。八幡荘は国府の在庁官人中の有力者であった陸奥介(むつのすけ)氏が鎌倉時代の地頭で、藤原時代に陸奥介氏の私領であった。関東御家人以外に、平安以来の在地領主が地頭になることは大変少ない。それは奥州藤原氏の従者として組織されていて、その所領は謀反人跡として没収されたからである。陸奥介氏は、数少ない例外である。ではなぜ陸奥介氏は生き残ることが出来たのか。それはこの荘が関東御領であったためと思われる。関東御領と推定する根拠は、この荘が鎌倉幕府の政所(家政機関)に召米(めしまい)を負担していたことにある。陸奥国内の関東御領としては好嶋(よしま)荘(いわき市平)が有名だが、この荘でも平安時代以来の在地領主岩城氏が地頭になっている。関東御領になったのは文治奥州合戦の3年前の文治2年(1186)。おそらく頼朝が藤原支配を切り崩すために、奥羽の要衝の地に関東御領を設定し在地領主を地頭に安堵したのだろう。5 在地領主の立場鎌倉時代には地頭がほとんど関東御家人で占められた中で、陸奥介氏や柴田氏は例外だった。しかし、その所領支配は苦闘の連続と推定される。正治2年(1200)8月柴田次郎が追討され、9月工藤行光とその郎従藤五郎・藤三郎兄弟の協力を得た宮城四郎家業の手で、館が攻め落とされた。幕府からの召還命令に病と称して応じなかったのが理由であるが、真の理由は不明である。陸奥介氏の八幡荘は、一部が婚姻関係を通じて関東御家人那須氏に移り、陸奥介氏、那須氏、留守一族の宮城広成(ひろなり)の後家と那須氏、関東御家人千葉氏一族の飯高氏と那須氏との間で、荘内の地の領有をめぐる相論が、幕府法廷を舞台に度々行われている。この中で陸奥介氏は勢力を失っていったのであろう。南北朝内乱期までには、家は下野国の保田景家を祖とし、八幡介(やわたのすけ)と名乗る一族に乗っ取られてしまう。こうして平安時代以来の在地領主であった陸奥介氏と柴田氏は、結局、関東御家人の前に鎌倉時代を生きぬくことができなかった。6 北条氏所領の展開関東御家人の地頭も、かならずしも順風ではなかった。鎌倉時代の後期には、かなりの部分(12のうち6つの所領。大谷保、名取郡、亘理郡、刈田郡、伊具荘、金原保)が北条氏の所領となっている。中には、名取郡の三浦氏のように、北条氏に仕掛けられて反乱を起こして敗れ所領を奪い取られたもの(宝治合戦、宝治元年(1247))もいた。こうして鎌倉末期は関東御家人、なかでも北条氏の勢力が強く及ぶことになるが、次の南北朝内乱はその反発を一つのエネルギーとして展開するのである。■難波、大石編『街道の日本史8 仙台・松島と陸前諸街道』吉川弘文館、2004年から(大石直正執筆部分)
2012.05.06
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1 中世の郡、保、荘宮城県南部の中世は、黒川、宮城、名取、亘理、柴田、刈田の諸郡に、大谷、高城、深谷、金原の「保」、八幡荘、伊具荘の「荘」から成っていた。これら郡、保、荘は、それぞれ独立した所領単位であり、例えば八幡荘は陸奥国八幡荘であり、宮城郡八幡荘と呼ばれることはない。地頭も宮城郡とは独立して任命されている。このほか、南宮荘、田子荘(塩竈神社の日御供米を負担)の荘園も文書に見えるが、寺社のための免田のごときもので独立した所領ではない。また、根白石を中心とした地域は山村(やまむら)と呼ばれ、荘園と推定されるが、宮城郡山村とされて、郡内の半公半荘のようだったろう。(地頭名 南宮荘:留守(伊沢)氏)黒川以下6郡はどれも『延喜式』『倭名類聚抄』に見え、9、10世紀以来の郡である。陸奥国では古代から中世の間に新しい郡が出来ることが多いが、この地域ではなかったのである。(地頭名 黒川:東氏?、宮城:国分氏、名取:和田氏、亘理:千葉氏、柴田:柴田氏?、刈田:中条氏?)大谷、高城、深谷の「保」は、12世紀前半の水田開発でできた公領の単位。多賀城の東と北を取り巻く形なので、低湿地開拓には国府関係者すなわち在庁官人が関わった可能性がある。(地頭名 大谷保:菅原氏、高城保:千葉氏、深谷保:長江氏)荘園(荘)では、伊具荘は後宇多院領。八幡荘は、鎌倉殿を本所とする関東御領と推定される。伊具荘は古代の伊具郡がそのまま荘園化したもので、成立は保よりやや遅く12世紀中頃以降と推定。これに対し山村と八幡荘は、国府所在の宮城郡のなかにできた荘園で規模も小さい。(地頭名 八幡荘:陸奥介氏、山村:大河戸氏)鎌倉時代には、陸奥国全体がそうであったように、関東御家人が、(八幡荘など宮城郡内の地と柴田郡を除いて)これら郡、保、荘の地頭に任命された。2 宮城郡の特殊性郡、保、荘を単位に地頭が任命されるのが普通だが、国府所在地の宮城郡内は複数の地頭による所領で構成されていた。宮城郡の公領の中心は高用名(こうゆうみょう)という「名」で、その中に幾つも村を含む広大な領域だったが、鎌倉時代は陸奥国留守職を世襲する留守(もと伊沢)氏の所領だった。国府は一般に「こう」と訓ずるから、高用とは、「国府用」の宛て字と考えられる。すなわち、国府直属の土地であった。なお、留守職とは、国府の在庁官人を指揮する留守所の長官の地位。奥羽両国に平安時代以来この職が置かれ、他の国にはない。文治奥州合戦の時、留守職は大河兼任に与同して所職を没収され、建久元年(1190)、その後に関東御家人の伊沢家景が補任された。中世の国府は、古代の多賀城正庁よりは西の岩切付近と考えられ、陸奥国の縦貫道たる奥大道が冠川(七北田川)と交差するあたりで、鎌倉時代には河原宿五日市庭(いちば)、冠屋市庭の2つの市場が開かれていた。中世の宮城郡には、留守氏と陸奥介(むつのすけ)氏のほか、属(さつか)・税所(さいしょ)を名乗る在庁官人がいた。税所の所領は荒井七郷で、郡内が有力な在庁官人で分割領有されていたと想定される。郷には、このほかに宮城本郷と国分寺郷が史料に見える。宮城本郷は留守氏一族の宮城氏の所領、国分寺郷は国分氏の所領。宮城郡の公領は、高用名などを除くと原則として郷によって構成され、それが所領単位になっていたようである。3 塩竈津と湊浜宮城郡には以上の他に、塩竈津があり、ここに陸奥国一宮の塩竈神社があった。一般に国の一宮は12世紀頃に、新しく再編された国府の守護神として祀られたものであるが、塩竈神社も多賀国府と深い関わりが推定され、塩竈津には留守氏の譜代の家臣筆頭の佐藤氏が居城を構えていた。港としては七ヶ浜の1つ湊浜もある。多賀国府近くを流れる冠川は中世まで湊浜に注いでおり、塩竈津と並ぶ国府の外港であった。また、七ヶ浜の1つ花淵(鼻節)浜にある式内社の鼻節神社には、国府厨印(りゃいん)という印文をもつ古代の銅印が伝えられていた。七ヶ浜は国府直属の漁業や海運に従事する人々の集住地として宮城郡内の独立した領域だったと考えられる。以上のとおり、宮城郡は内部がいくつもの所領に分割され、何人かの領主に分割領有された。他の、郡、保、荘がほぼ1人の地頭で知行されたことと異なるのは、国府所在郡であったためだろう。(以下、中世の郡、保、荘と宮城郡の特殊性(その2)に続く)■難波、大石編『街道の日本史8 仙台・松島と陸前諸街道』吉川弘文館、2004年から(大石直正執筆部分)
2012.05.06
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バスに乗っていたらチラシが目に入った。宮交観光サービス(株)さんの「復興応援企画 みやぎ歩け歩け大会 気仙沼」なるもの。2つのコースがある。(1)安波山ウオーク4月1日(日) 旅行代金は3,850円(ミヤコー)昼食は代金に含まないが、ウォーキングのゴールである「お魚市場」で自由昼食、とある。安波山の解説がある。------------港まち・気仙沼のシンボルの山で、航海の安全と大漁を祈願するという由来から名付けられました。東日本大震災では多くの住人が避難した場所としても知られ、犠牲者慰霊のために「鎮魂の森」として植樹が行われることが決定しております。------------なるほど、「安波山」の名の由来はそういうことだったのか。(2)ツツジの名所、真っ赤に染まる徳仙丈山5月29日(火) 旅行代金は6,000円昼食付きで、気仙沼プラザホテルにて。2つのコースとも、乗車ポイントとしては、仙台市内のほか、白石、角田、岩沼、塩竈、石巻、古川、登米など県内各地が設定されている。仙台市内では、泉署7:15-台原7:25-北仙台7:30-広瀬7:45南仙台7:05-長町7:20-西多賀7:30高砂6:10-多賀城6:20などの時刻設定がされている。4月1日なら日曜日だから、仕事はないかも知れない。下の子どもと一緒に出かけてみようかとも思うが実現できるかどうか。皆さんも、復興応援と健康のため、参加してみませんか。
2012.03.05
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昭和43年11月をもって本吉町教育委員会は町立津谷小学校の山田分校を廃止することとした。ところが分校学区内の住民(当初は6名)が分校存置対策委員会を結成し、44年9月に仙台地裁に行政訴訟を提起した。保護者の子女を小学校に就学させる権利を侵害するとして、(1)分校廃止処分の不存在確認、(2)同処分の無効確認、(3)同処分の取消を求めたものである。仙台地裁昭和45年4月8日判決。対策委員会は団体としての組織の主要な点を具備しているとみることはできないとして、原告適格を否定し訴えを却下した。仙台高裁昭和46年3月24日判決。控訴棄却。その骨子は以下。------------保護者はその保護する子女を就学させる義務とともに、特定の小学校に子女を就学させるため当該営造物(小学校)を利用する法的利益を有していると解される。従って分校廃止処分のために子女の通学が著しく困難若しくは危険であって、就学が事実上不可能となるような状態が招来される場合には、当該処分が特定の相手方のない処分であるとしても、保護者は法的利益の侵害を理由として、処分の効力を争うについて法的利益を有するものと解するのが相当。本件の委員会は住民から選出された4名によって構成されている団体であるが、学齢期間にある子女を有する住民ではなく、右法的利益享受の主体たり得ないことが明らか。しかも、構成員が法的利益を有するとしても、委員会が各個人の前記法的利益について法律上管理処分権を有するとか構成員個人のなすべき本件処分の効力を争う訴訟につき任意的訴訟担当が認められるとする法律上の根拠はみあたらない。してみると、委員会は(処分の不存在、無効もしくは取消を求めるにつき)団体固有の法律上の利益を有しないものであり、原告適格を欠く。------------最高裁昭和48年10月12日判決。上告棄却。結局この裁判は、原告である対策委員会(控訴審では4名、上告審1名)の原告適格が焦点であり、法人格のない社団(民事訴訟法)と言えるか、法律上の利益(行政事件訴訟法)の有無、が争点であったようだ。(参考 官邸ホームページ資料、石川繁『宮城県の教育裁判』(宝文堂、2003年))
2012.03.01
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ニュースで鶯沢小学校の閉校式が伝えられた。栗原市は小中学校の再編を進めており、鶯沢小と文字小が今春から統合されるようだ。新校名は鶯沢小学校、施設は現在の鶯沢小を活用する。新校名の募集もしたところ、66点が集まった。鶯沢、文字、鶯沢文字、文字鶯沢、などのほか、文鶯、鶯文、栗駒中央、栗原中央、栗駒西、栗原北西、などの提案もあったという(市サイトの「再編だより」から)。それでは他の地区ではどうだろう。尾松・宝来地区(小学校統合。尾松小校舎を活用)・・・栗駒南小学校一迫・花山地区(中学校統合。一迫中校舎を活用)・・・栗原西中学校以降は、2013年4月と一年先だが名前は決まったようだ。金成地区(小中学校の統合)・・・金成小学校。小中一貫の愛称は金成小中学校岩ケ崎・栗駒・鳥矢崎地区(小学校統合。岩ケ崎小校舎を活用)・・・栗駒小学校栗駒・鶯沢地区(中学校統合。栗駒中校舎を活用)・・・栗駒中学校一迫地区(小学校統合)・・・一迫小学校若柳地区(小学校統合)・・・まだか
2012.02.26
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文部科学省の発表によると、12月末現在で全国80.4%と対前年2.5p上昇。東北をみる。------------青森県74.8%(県内64.1県外89.8)(対前年2.2ポイント増)岩手県88.6(85.6 92.9)(3.8増)宮城県80.4(77.2 90.9)(14.0増)秋田県88.6(85.1 94.4)(4.3増)山形県85.7(84.3 90.5)(2.8増)福島県84.2(81.6 90.5)(6.7増)岩手は5位、秋田は6位だ。宮城は数字の上では大躍進だ。宮城は卒業予定約2万人のうち、就職希望者4,709人で内定者3,787人。県内2,784人、県外1,003人。内定率14ポイントの大幅増の内訳は、県内14.2県外7.8だ。宮城を男女別で見ると、男は内定者2209人(県内1533県外676)。内定率83.0%で12.4ポイント増(県内12.6県外7.1)。女子は、内定者1578人(県内1251県外327)。内定率77.1%で16.0ポイント増(県内15.9県外9.5)。以上は文部科学省の集計で12月末現在。宮城県教委の発表は1月末現在までのものがなされており、86.4%にまで上がっている。前年比14.5pの上昇だ。■関連する過去の記事 高卒者の就職の「厳しさ」 宮城の実情を考える(2010年1月29日) 宮城県の高卒内定率 1月末は80.8%に(09年2月19日)
2012.02.19
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先日は福島大の倍率アップのことを記したが(福島大の人気を考える(201年2月11日))、気になっているのは宮城県の3国公立大学の動向。東北大は医歯薬以外は軒並み倍率減少(募集の少ない後期日程は除いて)。宮城教育もやや減少。県立の宮城大もかなり減っている。岩手日報に詳しい解説があったので、先ほどまで見ていた。全国では倍率は横ばいとのことで、また、特に心配された福島大学が増加したこととの対比で、在仙3大学の退潮が際だつように思う。東北大は前期日程で前年比92%だそうで、難関10大学では数字の上で最低だ(河合塾)。もともと全国から学生が集まるが、関西方面からの志望が減る、あるいは東北他県の受験層がどうせ居を移すのなら仙台よりもいっそ首都圏や関西圏を選考したのかも知れない。いずれにしても、地域に着目した選考行動がみられたと思う。さほど気にすることではないと考えているが、福島大学の場合は大学側の努力も評価されたと言われていることから、大学や地元の努力が今後重要かも知れない。
2012.02.13
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仙台では午前6時50分に今季最低記録の-7.0度。古川で-15.1(午前4時41分)、亘理で-10.6(午前2時7分)などと随分下がっている。亘理でマイナス10度を割るのは珍しいだろう。最低記録はマイナス13.0度で、何と去年の1月30日のことだ。仙台より低いのだから意外な気がする。■関連する過去の記事 冬将軍頑張る(2011年1月30日)古川の記録は-15.9で、これは1980年2月17日だ。今日の古川も過去最低クラスの異常低温。駒ノ湯よりもずっと低いのだ。
2012.01.29
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昨日に続き、別の雑誌を見た。警備スタッフ 時給9千円から(夜勤)、7千円から(日勤)鉄道列車監視及び交通誘導2級以上 日給9千円から復興作業員 日給7千円から18千円(これは昨日見た登米市の企業と同じようだ。)などなど。
2012.01.24
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求人情報誌で県沿岸部などの土木系の求人を見てみた。例えば、登米市の会社。土木解体が日給7千円から1.5万円。災害復旧スタッフとして日給6千4百円から9千円。土木解体は重機オペなどなので高いようだ。復旧の方は、瓦礫の回収撤去その他雑工などとされている。また、仙台市内の警備会社(けっこう有名)。交通誘導や災害復旧の警備員アルバイト。日給7千円から9千円。夜勤は日給1.1万円まで。震災復興を銘打っているのは、このくらいだった。意外と少ない。
2012.01.23
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今朝の新聞では、仙台市の推計人口が昨年11月に初めて105万人を突破。住民票を移さない転入者や原発事故避難者などもおり、実際の人口はさらに上回るという。宮城県公式サイトの資料では、推計人口は12月まで示されている。さらに仙台市分だけは1月の推計人口も発表されたようで、今朝の新聞記事では1,052,476人となっている。県全体では、昨年3月1日(震災直前)が2,346,853人に対して12月1日が2,326,698人で、2万人以上の減少だ。仙台市は、3月1日が1,046,737人に対して上記の通りで、推計人口だけでも5,700人以上が増加したことになる。新聞は仙台の「独り勝ち」と評している。市町村別の推移を見るには、上記の県公式サイト資料に市町村別増減(昨年3月と12月)がある。石巻市の-10,090人が最大の減少数。全県-20,155の実に半分を占める。ほかには、気仙沼市-4,190 東松島市-2,485 山元町-2,185 女川町-1,699など。南三陸町は震災後のデータ更新がない。
2012.01.15
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昼のニュースで報じていた。2500年間に5回の大きな津波があることから、約600年に一度ということになる、というような趣旨だった。一緒に昼ご飯を食べていた小学生の子が、計算がおかしいじゃないか、と抗議。2500年に5回だったら、500年だろう、と。私はとっさに「植木算」を思い出したが、紙に書いて説明。2500年の期間の最初と最後にそれぞれ津波があって5回と数えるから、割り算は4で割るのだよ、と解説。一応納得したようだが、「あっそれで何世紀というのも合わないのか...」などと、以前から抱いていたらしい疑問をふと口にしていた。たぶん、1200年代を13世紀と呼ぶことに違和感があったのだろう。最初のセンチュリーを「ゼロ」世紀と呼ばないから仕方ないことなのだが、子どもなりに理解をしたようではあった。そして、今度はさっそく計算して、625年だよ、と再び主張。まあ、そこは厳密ではないので「約」600年と言ったのだろう、などと解説。
2012.01.07
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