仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2012.10.09
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カテゴリ: 宮城
『延喜式』神名帳には宮城郡に「多賀神社」があり、『和名類聚抄』(元和古活字本)では国府所在郡を宮城郡として、その宮城郡の郷名に「多賀郷」「科上郷」がみえる。宮城郡の文献史料上での初見は『続日本紀』天平神護2年11月己未条である。

ところで2008年利府町硯沢窯跡の発掘調査で多賀城創建期8世紀後半の須恵器窯跡が検出され、須恵器に「宮城郡」「宮木」などとヘラ書きされていた。すなわち、宮城郡が多賀城創建期には成立していた事実が初めて判明した。この宮城(天皇の居る所)という郡名は、古代国家においては尋常ではなく、遠の朝廷としての「多賀城」設置に因むものであることは明白であろう。ただし、「宮城」を天皇の居所「キュウジョウ」と読むことを避け、「宮木」という別表記でも明らかなように「ミヤキ」としたのである。

古代の「城」の読みは次の通りである。
 漢音 - セイ
 呉音 - ジョウ
 高句麗 - xor(ホル、またはコル)
 百済 - kï(キ)
 新羅 - cas(ツァス)

天智3年(664)大宰府防衛のために築かれた水城(ミズキ)をはじめ、古代日本の城郭としての「城」は一般的に百済音「キ」で読まれている。



いずれにせよ、「多賀城」から「宮城」郡が生まれたことこそ、古代において「多賀城」が特別な機関であったことを何より証明しているのである。

古代国家は7世紀後半から8世紀前半にかけて正史・法令においては、西日本の「城」と東日本の「柵」を意図的に使い分けたが、それ以外の史料(墓誌銘、木簡など)では、8世紀前半の東日本の城柵を「城」と表記していた。この点を勘案するならば、8世紀前半において「多賀柵」ではなく「多賀城」という表記が一般に行われていたとみてよいであろう。むしろ、表記にとどまらず行政上の位置づけや構造の上でも「多賀城」そのものであったとみなすべきではないか。8世紀前半の「宮城郡」の成立及び郡名は、あくまで「多賀城」創建が前提として可能となるものと理解できるのである。


■平川南『東北「海道」の古代史』岩波書店、2012年 から

■関連する過去の記事
多賀城 命名の由来 (2012年10月9日)





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最終更新日  2012.10.09 21:53:10
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