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小牛田駅で改札を出て、駅舎から外に出ようとするところに、「小牛田駅の駅名由来」があった。こう書いてあった。------------ かつてこの地域は小田郡に属し「小さな小田」という意味の「小小田(こおだ)」と呼ばれていました。藩政時代になって、隣村・牛飼村の頭文字を入れて小牛田と読ませるようになったのではないかといわれています。 また、小塩村(現在の田尻町子塩)と牛飼村の間が開発され、そこにできた新しい村に双方の頭文字を採用し、江合川を挟んだ北側を北小牛田、南側を南小牛田と呼んだという説もあります。 慶長6年(1601)に書かれた伊達政宗の黒印状に「こご田」という地名が表記されていることから、室町時代末期、この地方一帯を支配していた大崎氏の時代には、すでに地名として成立していたものと推察されています。 この地名の由来を受けて、明治23年(1890)4月16日、東北本線が当地に開通した時、小牛田駅が開業しました。◆参考資料◆◆「小牛田町史」------------■関連する過去の記事 小牛田の名の由来(2016年1月27日) ゆとり~と小牛田(2015年4月15日) 東北の難読地名(2012年6月16日) 小牛田駅前 20時(08年5月10日)
2024.06.23
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東大崎駅に降り立ち、名生館遺跡などを眺めて、畑の中道を歩き、水田の中の県道を進んできたミニトリップは、いよいよ渋川を橋で渡り西古川地区に入る。最初の交差点に公共的施設がある。看板をとりあえず読んでみると、大崎市農村環境改善センター、ふるかわ西部福祉センター、西部デイサービスセンター、西部在宅介護支援センター、西部指定居宅介護支援事業所、西部ホームヘルパーステーション、大崎市社会福祉協議会。町場に入って進むと右手に西古川小学校。既に昨年春閉校したのだが、日本語学校の施設として再活用されるのだそうだ。その先に、踏切。北田街道踏切とある。今回のトリップでは3度、陸羽東線を踏切で渡ることになる。踏切を渡った先を左折して線路沿いに歩くように進むと、児童遊園などを過ぎて、西古川駅の前に出た。仙台鉄道の名残をゆっくり探す時間がなかったのだが、とりあえず説明看板があった。■今回のシリーズ(東大崎駅から西古川駅までの散策)・東大崎駅、大崎神社(2024年06月14日)・名生館官衙遺跡、名生城跡(2024年06月18日)・名生館から西古川へ(大崎市古川大崎、古川斎下)(2024年06月19日)・西古川駅(大崎市)(2024年06月22日)■関連する過去の記事 大崎市の戦中地名(2024年03月20日) 中世宮城の名族たち(その2)(2016年12月26日) 中世宮城の名族たち(その1)(2016年12月23日) 古代人の移民地名(玉造、加美、志田、色麻など)(2013年4月16日) 「西古川」小学校と「古川西」中学校(2013年1月27日) 東北の「館」を考える(2011年9月25日)(宮城の古代・中世の「館」) 葛西氏と大崎氏(10年9月22日) 丹取郡と名取(10年3月17日) 丹取郡の成立と大崎平野への移民(10年3月16日)
2024.06.22
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名生館遺跡のある民家の集積地区(名生舘、名生北舘)から、西古川駅方面に歩く。南に向かって歩くのだが、さっそく右手(西側)の畑地は昭和の小字。「戦中地名」(下記の過去記事を参照下さい)の一帯に立って気持ちが昂ぶる。(写真1)少し進んで(上の画像の先に見える)辻を過ぎるとその左手(東側)は、畑が広がるが、小字は躍進だ。しばらく進んでいくと、大字は古川斎下となり、民家の集積地に入る。なお、この集落の東側が、(大字は古川大崎)奉公だ。交差点にはマグマという名の店がインパクトある。(写真2)更に進むと陸羽東線をわたる斎下踏切。(写真3)線路を渡って進むと、写真4の止まれの赤い標識で、県道(162号、清水下狼塚線)に合流する。(写真4)その後、しばらく水田のなかを進んだ後、西古川地区に入る。(次回記事へつづく)以下は今回の探訪エリア。上記の写真撮影地点を黄色い丸で示しています。この周辺の小字には、戦中地名が随所に見えて地図好きの心を掻き立てます...■今回のシリーズ(東大崎駅から西古川駅までの散策)・東大崎駅、大崎神社(2024年06月14日)・名生館官衙遺跡、名生城跡(2024年06月18日)・名生館から西古川へ(大崎市古川大崎、古川斎下)(2024年06月19日)西古川駅(大崎市)(2024年06月22日)■関連する過去の記事 大崎市の戦中地名(2024年03月20日) 中世宮城の名族たち(その2)(2016年12月26日) 中世宮城の名族たち(その1)(2016年12月23日) 古代人の移民地名(玉造、加美、志田、色麻など)(2013年4月16日) 「西古川」小学校と「古川西」中学校(2013年1月27日) 東北の「館」を考える(2011年9月25日)(宮城の古代・中世の「館」) 葛西氏と大崎氏(10年9月22日) 丹取郡と名取(10年3月17日) 丹取郡の成立と大崎平野への移民(10年3月16日)
2024.06.19
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館踏切を渡って歩いていくと、分かれ道があり、右に石碑、左には「国指定遺跡 名生館官衙遺跡」と書かれた黄色い誘導サインがある。まず、石碑から。古川市道館線の改修の記念碑だ。以下に記すが、苔むして読めない部分があり、私の転記(下記)も間違っている可能性がある。------------記念碑古川市道館線改修記念誌当名生舘線は東は国道石巻酒田線に連なり西は旧国道羽後■道に通じる往時よりの要路であったがその規■極めて狭■且つ紆余曲折甚しく道路としての機能を充分発揮し得ず(略)地方の住民は世の文化に浴すること少なくその進展を阻害(略)こと著しいものがあった茲に故福田卯平氏より道路改修の勧議があり部落民一同之を■とし昭和三十一年三月市当局へ請願の運びとなる市亦之を了とし来地踏査等の結果翌三十二年三月遂に失対事業として之を採択するに至る茲に於て部落民その共同■作による収益金弐拾数万円を(略)福田氏の後継者笠原常治氏当の盡力による土地買収を完了し同年七月着工越えて三十三年四月十日待望の竣工を見る今や面目一新せる当道路に立■之が将来に■す経済的■化的恩恵を思う時この事業遂行に絶大な協力援助(略)か■■部落民及び関係者並に後援者各位に対し深甚なる敬意を表する茲に概況を録しその功績を讃え永く後世に伝える昭和三十三年八月選並書 大坂敏雄名生舘部落人名大場虎造 髙城惣三郎 福田丑治 大場はる 舘野忠 笠原直治 笠原忠吉 笠原良助 笠原長右ェ門 笠原勉 笠原伊三郎 笠原吉壽 三浦昭二 門脇縫治 菅原きくの 笠原哲 大坂敏雄 髙橋盛 笠原長造 三浦新三 寺山芳■世話人笠原常治 笠原三郎 三浦義一 渡辺伊興■ 笠原良夫 佐々木文夫区長佐々木永吉岩出山町飯川石店刻------------黄色い誘導サインは次の画像。これに従い官衙遺跡の方に道を進んでいく。民家の間をすり抜けるように出ると、畑地が開けた場所に出る。ここに、官衙遺跡を示す説明板。城内地区なのだそうだ。------------国指定史跡 名生館(みょうだて)官衙遺跡 ー城内地区ー正殿跡発掘状況(西から)政庁推定復元図(南東から)政庁と同時期の竪穴住居跡(小舘地区)から出土した土器 この地域の土器とともに、関東地方や東北北部地域の特徴を持つ土器が認められます。このことから、様々な地域の人々が官衙の造営に関わっていたと考えられます。政庁の正殿に葺かれた瓦(8世紀初頭頃) 名生館官衙遺跡は、7世紀末から9世紀代に大崎地方西部を治めていた官衙(役所)の跡です。昭和55年からの発掘調査では、多数の掘立柱建物跡や竪穴住居跡などが発見されています。城内地区では、周囲に板塀をめぐらした東西53m、南北61mの規模をもつ、政庁と呼ばれる役所の中心施設がおかれ、瓦葺の正殿や、南北にならぶ2棟の脇殿などが建てられていたことが判明しています。 城内地区の政庁は、正殿に葺かれた瓦の特徴から8世紀初頭頃のものと推定されることから和銅6(713)年にこの地域に成立した丹取(にとり)郡の郡衙(郡役所)の中心施設と考えられます。昭和62年8月17年(ママ) 指定 大崎市教育委員会------------大崎市教委と記されているので、説明板は2006年合併後の設置なのだろう。説明板のある地点から更に道を先に進むと、こんな感じの風景。上の画の奥の樹木の辺りで角を左折(西に)して進んで舗装道路に出たあたりで、西方向を望んだのが次の画像。今度はその辺りから振り返って東を望む。さっきの樹木がみえる。画像の右端に上記の解説看板が小さく見える(城内地区)。道を南に進むと、また集落にもどり、辻のそばに名生城の跡の解説がある。------------名生城(みょうじょう)跡 名生城跡は標高約43mの青木原台地東端部に立地しています。文献史料での初見は14世紀中頃で、その後は4代大崎満持(みつもち)の子の持直(もちなお)が城主であったとされます。また、11代大崎義直(よしなお)が家督を相続する以前は名生城主であったといわれます。12代大崎義隆(よしたか)が本拠の中新田城から名生城に写るのは文献から16世紀後半頃と考えられ、大崎市最後の拠点となります。 大崎合戦の遠因となった際には、大崎市家臣の氏家隆継(たかつぐ)や伊場野惣八郎が名生城を占拠して籠城したといわれます。さらに葛西・大崎一揆では、蒲生氏郷の討伐軍が名生城に立て籠った一揆勢を鎮圧した後、城に数ヶ月間籠城しています。氏郷が出城した後は伊達氏家臣の高城宗綱や宮沢元実などが城番として常駐していましたが、間もなく奥州再仕置により廃城になったものと考えられ、文献にも名生城に関する記事がみられなくなります。 名生城の範囲は東西約400m、南北約850mとなります。北と東が段丘崖で下方に渋井川が貫流し、南が沢を利用した堀で、西は堀や土塁によって遮蔽されます。文献では北館、内館、大館(城内)、軍場(軍評定)、二ノ構、三ノ構が記され、小字名には小館があります。発掘調査や地表に残る堀跡や土塁などから概ね9つの曲輪(くるわ)に分かれるものと推測されます。城内地区では、内部を区画する大堀跡や総柱構造の大型建物跡と3棟の付属建物跡を発見しています。内館地区で炭化した米や麦、雑穀類が出土したことから穀物を入れた倉庫群の存在が予測されます。また、小館地区の南辺で東西方向に延びる高さ約2.5mの土塁跡を調査しています。さらに城への出入り口は、土塁の食い違いが見られる南と西に想定されています。令和元年10月 大崎市教育委員会------------さらに、名生館官衙遺跡を説明する新しめの看板も。------------国指定史跡 名生館官衙遺跡昭和62(1987)年8月17日指定 名生館官衙遺跡は奈良・平安時代に大崎地方西部を治めていた官衙(役所)の跡です。発掘調査では、政庁と呼ばれる官衙の中心となる建物が時期によりその形を変えながら建てる場所を移動するなど、官衙全体の改修が行われていることが分かっています。【城内(じょうない)地区の政庁の時期】8世紀初頭頃 政庁の大きさは東西53m、南北61mで、周囲に板塀をめぐらし、瓦葺きの正殿や、南北に2棟の脇殿が建てられています。この時期は、正殿に葺かれた瓦の特徴から8世紀初頭頃のものと推定されることから、和銅6(713)年に成立した丹取郡の郡役所であったと考えられます。【小館(こだて)地区南東部の政庁の時期】8世紀代 政庁は昭和40年代の土取り工事により構造などは不明ですが、工事で大量の瓦が出土したことから、瓦葺きの建物があったと考えられます。この時期は櫓を伴う外郭施設が造られることが特徴で、多賀城などと同様な城柵(蝦夷に対する役所)としての構造となります。出土した瓦の特徴から8世紀代のものと推定されることから、この時期は神亀5(728)年頃に丹取郡を改めて成立した玉造郡の郡役所や、天平9(737)年に多賀城とともに文献に記述される玉造柵(たまつくりのさく)と考えられます。【小館地区南西部の政庁の時期】9世紀代 政庁の大きさは東西57m、南北58mで、周囲に回廊をめぐらし、その中に正殿と2棟の脇殿が「品字型」に建てられています。この時期の遺物に、「玉厨(たまくりや)(玉造郡の厨房ー食堂ーの意味)」と墨で書かれる土器があり、櫓を伴う外郭施設が認められなくなることから、玉造郡の郡役所であったと考えられます。【市指定文化財 伏見廃寺跡】 遺跡の南約1kmには、付属寺院と考えられる伏見廃寺跡があります。①名生館官衙遺跡全体図②城内地区政庁模式図③小館地区南西部政庁模式図④墨書土師器坏「玉造」(東北歴史博物館提供)------------上の画像のうち、地図部分を拡大してみる。この地図でいうと、青い文字の「小館地区南西政庁」とされた地区の踏切から道を進んで、「城内地区説明版(ママ)」の赤い地点に出て、さらに北に進んで、左折(西へ)、また左折(南へ)と長方形を描くように歩いたのだった。画像の撮影地点などは次のとおり。より広域の地図が次の画像。ここには、銃初稔、弥栄、躍進、昭和、交合、信念などの「戦中地名」が見えて(下記の関連過去記事を参照下さい)、地図好きの心が躍る。■今回のシリーズ(東大崎駅から西古川駅までの散策)・東大崎駅、大崎神社(2024年06月14日)・名生館官衙遺跡、名生城跡(2024年06月18日)・名生館から西古川へ(大崎市古川大崎、古川斎下)(2024年06月19日)・西古川駅(大崎市)(2024年06月22日)■関連する過去の記事 大崎市の戦中地名(2024年03月20日) 中世宮城の名族たち(その2)(2016年12月26日) 中世宮城の名族たち(その1)(2016年12月23日) 古代人の移民地名(玉造、加美、志田、色麻など)(2013年4月16日) 「西古川」小学校と「古川西」中学校(2013年1月27日) 東北の「館」を考える(2011年9月25日)(宮城の古代・中世の「館」) 葛西氏と大崎氏(10年9月22日) 丹取郡と名取(10年3月17日) 丹取郡の成立と大崎平野への移民(10年3月16日)
2024.06.18
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過日のこと、陸羽東線に乗り東大崎駅で降りてみた。無人駅なので運転士さんに下車証明を書いてもらうのだった。東大崎驛開設記念碑がある。画像の奥に左右に伸びる線路がある。宅地が集積するエリア。大きな給水塔の角を曲がって進むと、名生城への道を示す標識。「名生館官衙遺跡 国指定遺跡」はこの道を左折だ。ちょっと進むと、大崎神社。お参りした。名生館遺跡に向かって道を進むと、何とも風情のある踏切が出迎えてくれた。その名も館踏切。■今回のシリーズ(東大崎駅から西古川駅までの散策)・東大崎駅、大崎神社(2024年06月14日)・名生館官衙遺跡、名生城跡(2024年06月18日)・名生館から西古川へ(大崎市古川大崎、古川斎下)(2024年06月19日)・西古川駅(大崎市)(2024年06月22日)■関連する過去の記事 大崎市の戦中地名(2024年03月20日) 中世宮城の名族たち(その2)(2016年12月26日) 中世宮城の名族たち(その1)(2016年12月23日) 古代人の移民地名(玉造、加美、志田、色麻など)(2013年4月16日) 「西古川」小学校と「古川西」中学校(2013年1月27日) 東北の「館」を考える(2011年9月25日)(宮城の古代・中世の「館」) 葛西氏と大崎氏(10年9月22日) 丹取郡と名取(10年3月17日) 丹取郡の成立と大崎平野への移民(10年3月16日)
2024.06.14
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国道346号は何度も通っているのに、じつは品井沼駅前や元禄潜穴の穴頭などのある幡谷地区の中心部は、今回はじめて訪れた。根廻の旧山線鉄道橋跡(元禄潜穴穴尻)から、ずり出し穴、旧山線の根廻トンネル、大菅踏切を経て、穴頭の位置に品井沼干拓資料館。交番、第五小学校(どんぐりころころの碑)、くぬぎ台団地などをみて回って、集落を抜けて県道大和竹谷線に沿って東北本線を渡り(第二上竹谷踏切)、吉田川沿いに下って二子屋橋で渡河し鹿島台に出たのだった。最初の写真は、根廻児童公園(おまん地蔵)付近の標識。ずり出し穴から町道を北上してすぐの場所。車を寄せて撮ってみた。悲話の伝わるおまん地蔵を、次回はお参りしたい。根廻トンネルや大菅踏切を経て、幡谷の住宅集積地に入る手前に、品井沼開拓資料館。元禄潜穴の穴頭(入口)の直上部の丘にあたる。普段閉まっていて事前に連絡して見学する方式のようだった。■関連する記事 品井沼開拓資料館、元禄潜穴入口、品井沼駅(2024年06月12日) 元禄潜穴第6ずり出し穴(松島町根廻)(2024年06月11日) 明治潜穴公園(松島町幡谷)(2024年06月10日) ふれあい広場(明治潜穴出口、松島町根廻)(2024年06月09日) 元禄潜穴の穴尻、一分間停車の碑(松島町根廻)(2024年06月05日) 東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その12)愛宕駅、高城川架橋(2024年06月03日) 青木存義(松島第五小学校の碑)(2024年05月25日)(品井沼干拓、鳴瀬川吉田川問題などについては、当ジャーナルの一大課題です。近日中に記事にいたします。編集長)■関連する過去の記事(宮城県内の河川改修など。これらの他、貞山堀などの記事もあります) 川村重吉(2024年01月22日) 川村孫兵衛重吉(2012年6月21日) 船で脇谷閘門を通過する(2010年11月14日) 仙台・宮城人怠け者論を考える(09年11月11日)=皇太子の一分停車について記載あり 北上川改修の歴史と流路の変遷(08年2月17日) 北上川流域の「水山」(08年2月11日) 高城川を考える(06年8月26日) 七北田川を考える(07年10月3日)(寛文の流路変更)
2024.06.12
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元禄潜穴のずり出し穴(竪穴)10か所のうち、第6ずり出し穴が町指定文化財として保存されている。東北本線の貨物列車が過ぎていく。画像の左手に、後に紹介する説明版2つが並ぶ。国道346号を根廻交差点北から分岐して、旧山線橋梁跡から東北本線と並走する町道(旧山線跡)が、根廻トンネル、大菅踏切(新線と旧山線の分岐)を経て松島第五小学校や品井沼駅に向かっていくが、この町道沿い東側にある。(下の画像は、後出の現地説明版から地図部分)説明板がある。(なお、地図部分は拡大して上に掲示。想像図は読み出しメモの後に拡大掲示しました。)------------町指定文化財「品井沼潜穴」元禄排水路とずり出し穴 品井沼はかつて東西5.6km、南北3km、面積にして80km2におよぶ大きな沼でした。この水を松島湾に流すために掘られたのが「品井沼潜穴」です。 江戸時代、元禄6年(1693)から5年間にわたって工事が行われました。当時はトンネルをまっすぐに掘るのは難しく、「ずり出し穴」という竪穴をいくつも掘って、その間を繋げる形をとりました。 ずり出し穴をどのように掘ったのかは、くわしく分かっていませんが当時の技術を考えると、下の図のようだったのではないでしょうか。「のみ」と「かなづち」で堀り進めた土を背負って運び、ずり出し穴の下からはクレーンのような「神楽算」(かぐらさん)という道具で引き上げたと考えられます。 機械もない時代の苦労がしのばれます。穴頭(あながしら)など他の遺構もぜひご覧ください。北部平堀(ひらぼり)(品井沼から穴頭まで) 長さ1,754m元禄潜穴 長さ2,578m南部平堀(穴尻から松島湾まで) 長さ3,065m松島町教育委員会お問い合わせ 022-354-5714------------もう一つの看板は、おそらく上記の町教委の説明板より少し新しいと思われるもの。------------③元禄潜穴 -ずりだし穴(現在地)- 元禄潜穴は、品井沼の排水を目的として元禄年間に多くの人々の力で掘られたトンネルです。工事の方法や使われた道具、その費用について記録は残っていませんが、縦穴(ずりだし穴)10箇所、横穴21箇所の工事をおこなった記録があります。品井沼と松島湾の高低差が1メートルくらいしかなく、トンネルの長さが2578メートルあるため、まず縦穴を掘り、縦穴と縦穴の間に横穴(潜穴)を掘る方法が考えられています。元禄年間の工事や後の改修工事では現在のような安全な作業ができなかったので、多くの犠牲者があったようです。(元禄潜穴工事内容)①北部平堀(品井沼から穴頭まで) 長さ1754m、幅27m、深さ2m②潜穴(穴頭から穴尻まで) 長さ2578m、幅3.6m、高さ2.4m(2連)③南部平堀(穴尻から松島湾まで) 長さ3065m、幅18m、深さ2m④縦穴(ずり出し穴) 10箇所設置者 元禄潜穴地区県営地域用水環境整備事業推進委員会/宮城県仙台地方振興事務所/松島町【この看板は、平成18年度地域産業振興事務所(体験観光支援事業)により設置されました。】(水土里ネットのイラストと説明)------------(関連サイト)・地域用水整備事業「元禄潜穴」(宮城県)・江戸時代の偉業「元禄潜穴第6ずり出し穴」(松島観光ナビ)・品井沼干拓の歴史(松島町)■関連する記事 品井沼開拓資料館、元禄潜穴入口、品井沼駅(2024年06月12日) 元禄潜穴第6ずり出し穴(松島町根廻)(2024年06月11日) 明治潜穴公園(松島町幡谷)(2024年06月10日) ふれあい広場(明治潜穴出口、松島町根廻)(2024年06月09日) 元禄潜穴の穴尻、一分間停車の碑(松島町根廻)(2024年06月05日) 東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その12)愛宕駅、高城川架橋(2024年06月03日) 青木存義(松島第五小学校の碑)(2024年05月25日)(品井沼干拓、鳴瀬川吉田川問題などについては、当ジャーナルの一大課題です。近日中に記事にいたします。編集長)■関連する過去の記事(宮城県内の河川改修など。これらの他、貞山堀などの記事もあります) 川村重吉(2024年01月22日) 川村孫兵衛重吉(2012年6月21日) 船で脇谷閘門を通過する(2010年11月14日) 仙台・宮城人怠け者論を考える(09年11月11日)=皇太子の一分停車について記載あり 北上川改修の歴史と流路の変遷(08年2月17日) 北上川流域の「水山」(08年2月11日) 高城川を考える(06年8月26日) 七北田川を考える(07年10月3日)(寛文の流路変更)
2024.06.11
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国道346号沿い、お馴染み。よく駐車して休息するが、思い立って写真を撮ってみた。(関連サイト)・明治潜穴公園(松島観光協会)・品井沼干拓を後世に伝える「明治潜穴公園」(松島観光ナビ)■関連する記事 品井沼開拓資料館、元禄潜穴入口、品井沼駅(2024年06月12日) 元禄潜穴第6ずり出し穴(松島町根廻)(2024年06月11日) 明治潜穴公園(松島町幡谷)(2024年06月10日) ふれあい広場(明治潜穴出口、松島町根廻)(2024年06月09日) 元禄潜穴の穴尻、一分間停車の碑(松島町根廻)(2024年06月05日) 東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その12)愛宕駅、高城川架橋(2024年06月03日) 青木存義(松島第五小学校の碑)(2024年05月25日)(品井沼干拓、鳴瀬川吉田川問題などについては、当ジャーナルの一大課題です。近日中に記事にいたします。編集長)■関連する過去の記事(宮城県内の河川改修など。これらの他、貞山堀などの記事もあります) 川村重吉(2024年01月22日) 川村孫兵衛重吉(2012年6月21日) 船で脇谷閘門を通過する(2010年11月14日) 仙台・宮城人怠け者論を考える(09年11月11日)=皇太子の一分停車について記載あり 北上川改修の歴史と流路の変遷(08年2月17日) 北上川流域の「水山」(08年2月11日) 高城川を考える(06年8月26日) 七北田川を考える(07年10月3日)(寛文の流路変更)
2024.06.10
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ふれあい広場から潜穴の出口を見下ろす。高城川の上を走るのは国道346号だ。この画像の中央あたりに小さく明治潜穴復旧記念碑が見える。その先(右手、松島方面)で、川沿いに下りていくように国道の旧道が分岐していく。現在位置は、Bのふれあい広場。歩道から穴尻を眺める。画像の上の方に、ふれあい広場。国道は画像の右方に走る。■関連する記事 品井沼開拓資料館、元禄潜穴入口、品井沼駅(2024年06月12日) 元禄潜穴第6ずり出し穴(松島町根廻)(2024年06月11日) 明治潜穴公園(松島町幡谷)(2024年06月10日) ふれあい広場(明治潜穴出口、松島町根廻)(2024年06月09日) 元禄潜穴の穴尻、一分間停車の碑(松島町根廻)(2024年06月05日) 東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その12)愛宕駅、高城川架橋(2024年06月03日) 青木存義(松島第五小学校の碑)(2024年05月25日)(品井沼干拓、鳴瀬川吉田川問題などについては、当ジャーナルの一大課題です。近日中に記事にいたします。編集長)■関連する過去の記事(宮城県内の河川改修など。これらの他、貞山堀などの記事もあります) 川村重吉(2024年01月22日) 川村孫兵衛重吉(2012年6月21日) 船で脇谷閘門を通過する(2010年11月14日) 仙台・宮城人怠け者論を考える(09年11月11日)=皇太子の一分停車について記載あり 北上川改修の歴史と流路の変遷(08年2月17日) 北上川流域の「水山」(08年2月11日) 高城川を考える(06年8月26日) 七北田川を考える(07年10月3日)(寛文の流路変更)
2024.06.09
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国道346号(佐沼街道)が松島町根廻(仙台北ICの付近)で国道45号から別れて鹿島台、涌谷に向かっていく。この根廻交差点から500m進むと国道左側に狭い道が分岐する。この道に入って250mほど先の左手に小さな広場。その下には高城川が流れる。元禄潜穴の穴尻の場所だ。広場の奥には、穴尻を示す標識(上の画像でも奥に写っている)。穴尻のようすは崖を降りないと観察できないようなので控えた。広場の(道からみて)左手に立派な高い石碑がある(最初の画の中心やや左)。東宮殿下一分間停車記念の碑だ。その内容を紹介したのだろう比較的最近の看板(画像の中央)があるので、読む(一部、数字をアラビアに)。------------東宮殿下一分間停車記念の碑明治潜穴工事施工にあたっては、工事続行派と工事中止派との対立の中、中止派の感情が根強く残っていた。 明治41年10月に東宮殿下(後の大正天皇)が、奥州地方を行啓なされるということを知り、鹿島台村長鎌田三之助氏は、東宮侍従に願い出て殿下の代理人の方の視察を切望した。 ところが、東宮殿下自らご台覧との報告を受け、鎌田村長はじめ工事続行派は大喜び、明治41年10月13日午後3時40分、根廻上山王地内の鉄橋上にお召し列車が一分間停車し、ご台覧の栄を得たのである。当時お召し列車が停車場以外に停車することは絶対にあり得ないことであった。 東宮殿下よりのお言葉 「天下の大工事である。中途挫折のことなく竣工せしめよ」 これ以後工事関係者に動揺はなくなり無事に工事が完了している。 この石碑は、東宮殿下がご台覧された記念として昭和8年9月、品井沼水害予防組合により建立された。 平成21年11月 農村景観・自然環境保全再生パイロット事業 特定非営利活動法人あぐりねっと21 ねまわりコミュニティ推進委員会写真 行啓品井沼工事(明治41年10月3日)「宮城県の百年」より写真(おだずま注:記念碑の前に立ち並ぶ人たち)「松島町史」より写真(同:穴尻の工事の様子か)松島町幡谷戸石家所蔵------------この広場のある場所から道をさらに進むと、道は東北本線に突き当たって直角に右折(北へ)し、本線をオーバーパスする国道高架橋をくぐって、本線と並走して伸びていく。これは旧東北本線(山線。利府ー品井沼)のルートだ。また、高架橋ができる前は、ここまで来た町道がそのまま踏切で本線を渡ったのだろう。線路の奥にはやはり寸断された町道が見え、この道は明治潜穴ふれあい広場に近い辺りで国道346現道に合流するのだ。思えばここは、藩政時代、明治、そして昭和と、時空を超えて先人が残してくれた壮大なプロジェクトの集結点だ。■関連する記事 品井沼開拓資料館、元禄潜穴入口、品井沼駅(2024年06月12日) 元禄潜穴第6ずり出し穴(松島町根廻)(2024年06月11日) 明治潜穴公園(松島町幡谷)(2024年06月10日) ふれあい広場(明治潜穴出口、松島町根廻)(2024年06月09日) 元禄潜穴の穴尻、一分間停車の碑(松島町根廻)(2024年06月05日) 東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その12)愛宕駅、高城川架橋(2024年06月03日) 青木存義(松島第五小学校の碑)(2024年05月25日)(品井沼干拓、鳴瀬川吉田川問題などについては、当ジャーナルの一大課題です。近日中に記事にいたします。編集長)■関連する過去の記事(宮城県内の河川改修など。これらの他、貞山堀などの記事もあります) 川村重吉(2024年01月22日) 川村孫兵衛重吉(2012年6月21日) 船で脇谷閘門を通過する(2010年11月14日) 仙台・宮城人怠け者論を考える(09年11月11日)=皇太子の一分停車について記載あり 北上川改修の歴史と流路の変遷(08年2月17日) 北上川流域の「水山」(08年2月11日) 高城川を考える(06年8月26日) 七北田川を考える(07年10月3日)(寛文の流路変更)
2024.06.05
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左右に住宅の立ち並ぶ旧線ルートを進み、健康館デイサービスセンター(前回記事)を過ぎて再び田中川を架橋で渡ると、大字初原から大字高城に入る。(写真1)旧線ルートは画像の先に伸びていく。この先道狭し、車幅1.5m以上の車は通り抜けできません、と立て看板がある。(写真2)もう少し進むと、画像右手の県道(利府街道)が迫ってくる。県道の信号のある丁字路のちょっと先で合流する形だ。さらに少し先に、松島第二小学校のための歩道橋がある。その上から撮影すると(写真3)、コンビニの裏手が旧線ルートの名残だろう。(写真3)画像の手前から奥(愛宕駅下トンネル)に向けて、敷地境界が緩やかに左カーブしていく。おそらく、このコンビニ敷地の塀に沿って立ち並ぶ戸建て住宅の列が、旧線の路盤だったろう。(写真4)住宅の列の北側(コンビニと逆側)の道から愛宕駅下トンネル方向を撮影。右手前の住宅(列の最後)の先が更地(駐車場)で、一軒の平屋があり、その先にトンネル。こんなルートで山線が走ったのだろう。(写真5)トンネルをくぐった先には宅地が集積するが、クランクのようにルートが続いていく。おそらく、道の左側の住宅の列が旧線の路盤でないか。愛宕駅東側の住宅の集積地を抜け出て、仙台松島道路(三陸道)の高架下を過ぎるあたりで、クランクをするが(路盤跡が住宅の列と化した区間から路盤自体が道路になった区間に戻るからだろう)、その後は、現在の東北本線と人工河川高城川に挟まれる形で、旧ルートの道は北進する。品井沼駅まで海線と山線が並行して走っていたという名残で、じっさいに歩いていると感激する。愛宕駅下トンネルから約1kmで、旧ルートは現東北本線と一緒に高城川を越河する(写真6)。この小さな橋は、山線時代の橋脚を使っているようだ(写真7)。近くには、元禄潜穴の穴尻と東宮殿下一分間停車の記念碑がある。(写真6)高城川をわたる小さい橋。画の奥にR346跨線橋が見える。(写真7)橋を渡った後に仙台方をふりかえる。画像の奥は仙台方。旧山線の橋脚が残る。東北本線の下り貨物列車が通過する。橋の下は高城川で、この画像の左方向(下流)すぐ近くに、元禄潜穴の穴尻と一分間停車記念の碑。(写真8)この撮影地点は、おそらく国道346号の旧道が東北本線を踏切で渡る地点だったのだろう。北の方角を望むと、現在の国道346号の跨線橋をくぐって、本線と寄り添うように山線ルートが生活道路として品井沼方面に伸びていく。■関連する記事 品井沼開拓資料館、元禄潜穴入口、品井沼駅(2024年06月12日) 元禄潜穴第6ずり出し穴(松島町根廻)(2024年06月11日) 明治潜穴公園(松島町幡谷)(2024年06月10日) ふれあい広場(明治潜穴出口、松島町根廻)(2024年06月09日) 元禄潜穴の穴尻、一分間停車の碑(松島町根廻)(2024年06月05日) 東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その12)愛宕駅、高城川架橋(2024年06月03日) 青木存義(松島第五小学校の碑)(2024年05月25日)■シリーズの一覧・利府線(山線)の跡を訪ねて(その1)(2024年05月08日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その2)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その3)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その4)(2024年05月11日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その5)(2024年05月12日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その6)(2024年05月15日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その7)(2024年05月17日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その8)旧赤沼信号場(2024年05月18日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その9)用地界標(2024年05月26日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その10)松島町桜渡戸、初原(2024年06月01日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その11)松島町初原、旧松島駅(2024年06月02日)・今回 東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その12)愛宕駅、高城川架橋(2024年06月03日)■関連する過去の記事(東北本線のルートについて。なお記事リスト鉄道敷設史をご覧ください) 仙台以北の東北本線・仙石線ルートと「松島電車」(2016年2月11日) 宮城県北部の東北本線ルート(何度目でしょうか)(2012年1月1日) やっぱり当初は角田か 東北本線ルート(2011年9月15日) 東北本線ルート 白石か角田か(2011年9月5日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2024.06.03
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初原浄水場を過ぎ、県道9号(大和松島線)を交差してさらに進むと、大字初原の田園地帯を進む生活道路になり、車も通っている。(写真1)画像の右側は県道8号(仙台松島線)沿いの住宅。この画像のほぼ中央、わかりにくいが仙台松島道路の高架があり走るトラックが見える。(写真2)この先で田中川を渡ると、道の両側に住宅が建ち並ぶ地区に入る。進んでいくと住宅の玄関はみな道路側にあるので、1962年の山線廃線の跡に宅地化されたのだろうか、などと思い巡らしながら歩く。しばらく進むと、旧松島駅舎を活用した(現)松島町健康館デイサービスセンターがある。建物の正面と駐車場は県道8号側だが(写真3)、旧線側(写真4)にはかつてのホーム跡が残っている。(写真3)松島町健康館デイサービスセンター(写真4)その建物の裏手は、かつては松島駅ホームの名残り(ほかの方のブログなどから)。じつは、この健康館にお邪魔した。旧駅舎の跡や解説コーナーがないかと思ったのだが、ちょうど朝のデイサービスの集合時間だった。訳を話すと、たまにそういう人が見えるのですよ、時間によっては施設の中を案内できるので改めて連絡ください、とスタッフの方から話をいただいたが、まったく利用者の皆さんの感染予防が一番で、大事な時間に連絡もなく訪問する方が悪い。申し訳なく思ったが、御配慮に従い、体温測定と記帳を済ませ、館内には立ち入らず、入口すぐに掲示されたワープロ打ち2枚の説明書き(写真5)と関係記事が載った河北新報(現物、写真6)を読ませてもらった(感謝)。まず掲示の説明書きは次の通り(おだずま一部着色、また数字をアラビアに。なお、2か所の塩「竃」は原文ママ)。------------松島町の鉄道施設と概略明治16年7月 日本鉄道株式会社設立 東北地方の鉄道が順次開設 20年12月 塩竃線が開設 20~22年 松島村の鉄道施設が着工・完成 23年4月 東北本線 仙台~石越まで開通、松島駅が営業開始 11月 東北本線 仙台~一関間開通 39年9月 鉄道国有法が施行 全国の鉄道が国有鉄道になった 9月10日 根廻鉄橋が高城川開削によって架替工事着工 40年4月14日 根廻鉄橋が完成。工事費1万円(鉄道負担5千円、品井沼水害予防組合5千円負担) 41年10月3日 大正天皇根廻鉄橋上に1分間停車、明治潜穴工事を視察し激励大正13年2月 松島電車株式会社設立。旧松島駅から五大堂間営業(初原~松島海岸)昭和2年4月18日 宮城電気鉄道会社本塩竃~松島間開通。松島海岸公園駅が開業 3年11月23日 仙石線。仙台~石巻間開通 7年7月16日 東北本線 幡谷信号所として開所 12月26日 幡谷信号所が品井沼駅になり営業開始 13年2月 松島電車 初原~松島間の営業停止 19年 宮城電気鉄道が国有化され松島海岸駅に改称(仙石線) 東北本線(海線)が輸送力増強で複線化工事施工。(敗戦で工事中止) 28年9月 東北本線の複線化工事再開〔2枚目〕 29年 品井沼~小牛田間の吉田川・鳴瀬川橋梁工事開始 11月 東北本線 岩切駅から分岐し陸前山王~品井沼駅間開通(海線) 32年10月22日 東北本線 品井沼~鹿島台間の複線開通 37年 東北本線に愛宕駅新設、山線が廃止。山線の旧松島駅と町内の鉄道敷地が松島町に譲渡され町の基幹道路として整備された。 38年4月 旧松島駅舎に松島町国民健康保険診療所を開設 8月10日 品井沼~一関間の複線化完成 43年8月1日 東北本線の複線化・電化の全通化が青森で挙行 61年8月 阿部医師の逝去で診療所閉院 62年4月 国有鉄道が分割・民営化され現在のJRが発足平成2年6月 初原診療所の廃止(おだずま注:昭和38年4月の診療所開設では「初原」の語はない。) 5年6月10日 旧初原診療所が健康館になった〔1行空け〕平成23年3月11日 東日本大震災発生。鉄道施設も大津波で大被害、交通機関が寸断され東北本線・仙石線も地震直後に全面運休になった。 4月5日 東北本線 仙台~松島間運行再開 4月21日 東北本線 仙台~一関間運行再開 5月28日 仙石線 仙台~高城駅(おだずま注:原文ママ)間運行開始------------そして、河北新報夕刊(2021年9月6日)の現物が配架されている。------------いぎなり仙台まちかどブラ昭和健康館デイサービスセンター(宮城県松島町)東北線の旧駅舎内部を改装三角屋根 人集まる拠点〔写真 上 松島駅舎の面影を残す町健康館デイサービスセンター 下 施設の裏側にある線路跡の道路〕 宮城県松島町の初原地区にある町健康館デイサービスセンターは、JR東北線の旧松島駅舎だ。木造平屋で膨らみのある三角屋根が当時の姿をしのばせる。 かつて東北線の利府ー品井沼間は山側を抜けるルートだった。旧駅舎には商店や映画館、ホテルが立ち並んでいたという。 近くの会社員(おだずま注:氏名略)さん(78)は「列車に乗るのが小さな頃の楽しみだった。記者は急な坂を苦労して上って行った」と振り返る。 海沿いを走る現在のルートは、急勾配を避けて輸送力を増強するため194(昭和19)年に開業。山側ルートは62年、現在の松島駅の誕生を機に廃止された。 旧駅舎は町国民保険診療所などとして使われた後、町が内部を改装し、健康館とした。施設の裏にあった線路の跡地は道路として使われている。 運営管理者の(おだずま注:同上)さん(58)は「センター利用者は70~90代で駅舎を使っていた人も多い。年に何人かの鉄道ファンが写真を撮影しに来る」と話す。駅は廃止後もかつてのように人が集まる拠点となっている。(高橋公彦)メモ JR東北線の山側ルートは1890年に開業した。旧松島駅舎は明治初期ごろに建設されたとされる。松島町健康館デイサービスセンターは新型コロナウイルス感染拡大を受け、施設内部の見学を受け入れていない。松島町初原石清水1の1。------------(写真5)(写真6)松島第二小学校の公式サイトには、地域の自慢として、旧駅舎を活用した健康館の内部の様子が紹介されています(記事)。最後に今回の探訪マップです。■シリーズの一覧・利府線(山線)の跡を訪ねて(その1)(2024年05月08日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その2)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その3)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その4)(2024年05月11日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その5)(2024年05月12日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その6)(2024年05月15日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その7)(2024年05月17日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その8)旧赤沼信号場(2024年05月18日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その9)用地界標(2024年05月26日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その10)松島町桜渡戸、初原(2024年06月01日)・今回 東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その11)松島町初原、旧松島駅(2024年06月02日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その12)愛宕駅、高城川架橋(2024年06月03日)■関連する過去の記事(松島町桜渡戸、初原あたり) 松島町の隠れた名所散策(07年4月5日)■関連する過去の記事(東北本線のルートについて。なお記事リスト鉄道敷設史をご覧ください) 仙台以北の東北本線・仙石線ルートと「松島電車」(2016年2月11日) 宮城県北部の東北本線ルート(何度目でしょうか)(2012年1月1日) やっぱり当初は角田か 東北本線ルート(2011年9月15日) 東北本線ルート 白石か角田か(2011年9月5日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2024.06.02
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東北本線の旧線(山線、利府-品井沼)の跡を訪ねる編集長の散策。利府町の赤沼信号場跡(松島海岸IC付近)まで記しました。続編として、同IC以北を順次記していきます。なお、タイトルを「利府線」から「東北本線旧線」といたしました。順序はこれまで同様、利府方から松島(品井沼)方に向けて進んでいきます。旧線ルートは松島海岸IC西側にあるが、正確な位置は、高速道やインター進入路で新たに側道となっている部分もあると思われる。(写真1、2、3)(写真1)旧線ルート(付け替えた可能性あり)は県道144号(赤沼松島線、松島海岸に降りる道)を横切って仙台松島道路(三陸道)の西側堤下を進む。(写真2)この先で県道8号(仙台松島線、利府街道)をくぐる。昔は踏切だったのだろうか。細い道だがセンターラインの痕跡があるのは、自転車道として位置付けていたからか。(写真3)道路と水路を一体として通すカルバート橋。珍しいと思う。カルバート橋のちょっと先、路傍左手の川の堰に、なにやら標識が建っている。(写真4)上流端 高城川水系 二級河川 田中川 と書いているようだ。旧線ルートはこの先愛宕まで、この田中川と付き合いながら進んでいくのだ。さて、この先は長い区間にわたり、県道8号(利府街道)の西側を並行して松島町初原へ伸びていく。利府街道を車で走っていてもよくわかるお馴染みの道(写真5、6、7)。(写真5)ハッキリと残る旧道ルート。画像の奥の高架は仙台松島道路。(写真6)ゴルフ場入口の標識は利府街道の車中から認識できるランドマーク。(写真7)旧線ルートの長くて気持ち良い里の小径も、この先で一度途切れる。左(西)から迫ってくる仙台松島道路(三陸道)の堤で消されているのだ。旧線の本来のルートはいったん仙台松島道路(三陸道)で消されるので県道仙台松島線(利府街道)を歩かねばならないが、ほどなくして小径は復活し、細い道となって初原浄水場の西を回るように進む(写真8、9、10、11)。私(編集長)は単に小径を歩いて想像するだけなのだが、詳しい方のブログなどでは、渡河する際の橋台跡や銘板から鉄道橋の跡であることを確認されている。写真11撮影地点付近で田中川を渡る橋もそうだ。(写真8)仙台松島道路(画像の左)が県道仙台松島線(右)に迫った区間が過ぎると旧線ルートと思われる道が復活する。車はブロックされている。(写真9)こんな感じで道が続く。画像の右側奥(北)に浄水場施設。(写真10)この画像だけは振り返って撮影(品井沼方の進行方向に対して右後方。東の方角)。初原浄水場。小高い場所(画像の奥、県道仙台松島線に近い方)には、お馴染みの鉄さびた給水塔。(写真11)浄水場を過ぎると、右手(東)に田中川が流れる。この先で宮城県道9号(大和松島線)と交差する。■シリーズの一覧・利府線(山線)の跡を訪ねて(その1)(2024年05月08日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その2)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その3)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その4)(2024年05月11日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その5)(2024年05月12日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その6)(2024年05月15日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その7)(2024年05月17日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その8)旧赤沼信号場(2024年05月18日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その9)用地界標(2024年05月26日)・今回 東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その10)松島町桜渡戸、初原(2024年06月01日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その11)松島町初原、旧松島駅(2024年06月02日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その12)愛宕駅、高城川架橋(2024年06月03日)■関連する過去の記事(松島町桜渡戸、初原あたり) 松島町の隠れた名所散策(07年4月5日)■関連する過去の記事(東北本線のルートについて。なお記事リスト鉄道敷設史をご覧ください) 仙台以北の東北本線・仙石線ルートと「松島電車」(2016年2月11日) 宮城県北部の東北本線ルート(何度目でしょうか)(2012年1月1日) やっぱり当初は角田か 東北本線ルート(2011年9月15日) 東北本線ルート 白石か角田か(2011年9月5日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2024.06.01
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