2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全8件 (8件中 1-8件目)
1

******************************************************************************★『図らずも実現した世界一周「文明の十字路ツアー」の思い出』 《第18回(全19回連載予定)》 ※同人誌『群』第四号 (1990年7月30日発行)寄稿文「旅友M君への手紙(オリエントの旅を終えて)」 を、14年後の今、即ち2004年10月26日に偶々再読。大幅遅れの楽天公開日記の埋め草にと着目、 推敲と読後感を加え斯く連載することにした。 今以上に構文の稚拙さが気になる作品だが、要は此処に書き残すような旅のハプニングも、時には 有るんだなあと言った軽い話題として、読み流して戴けたらと思う。 天井一面に飾られた硝子器具のインテリアが忘れられない ルクソール・ナイル河岸ホテルのロビー(一昔前の筆者と妻)****************************************************************************** ☆第18回(全19回) 【前文】…初回11月1日のみの掲載記事 ※第二回目以降から読まれる方々は、本文記事をヨリ理解いただきたい為、 11月1日だけ掲出した【前文】だけでも、出来るだけ目を通されてから、 続く本文を読み始めるよう、お薦めします。 勿論、お気が向く限り、初回から順次全文を通読される事こそが、この 程度の拙文しか綴れない筆者の望むところ…。 まあ如何様に触れて戴くにせよ、読み難きを耐え、物足りなさを忍んで、 何卒ヨロシクご判読の程を…。 『 旅 友 M 君 へ の 手 紙 』 …オリエントの旅を終えて… その18(全19回分載予定)※前文「1990年3月・筆者註記」とエジプト土産のイラスト挿絵転載は省略 ☆ ☆ ☆ ♪帰路(カイロ⇒ローマ⇒ニューデリー⇒成田⇒名古屋)♪§6.予想外の世界一周に思い交々の帰路《アリタリア航空南周り便で一路故国へ》明日、大晦日の日付で書く予定の記事は、14年後の今読み返し、之をコノ楽天日記用に改めて書き改め終えての所感と決めているので、実質的な旅の記録としては今回が大ラスである。それで、昨日と同じように私は以下のようなサブタイトルを用意しておいた。だが、やはり連載記事を読み返してみると、大筋は既に紹介済みであった。そんな訳で、年内日付の連載記事として出来れば完結してしまいたいとの思いを遂げるための一助として、今日もまた、そのバックナンバー記事を引用して駒を進めることとした。最初からご愛読下さった方々には些か恐縮だが、図らずも結果的に世界を一周させてもらったという話の核心をなす帰路の足取りを断片として読まれる読者にも判っていただく必要を感じての事。何卒足取りを再確認するようなつもりでお付き合い願えればと思う。♯快適だったローマ経由、ニューデリーまでの旅約二週間ぶりに祖国へ戻るカイロ出発の朝は、夜明け前から賑やかにリズムを刻むアラブの太鼓の音で目覚めた。四つ星ホテルであったが、喧しいといった文句は誰一人として出ない様子。まさに「郷に入りては郷に従え」というものらしい。でも、それは騒音といったものではなく、じっと耳を傾けていれば何か心和む割りに規則的なもの。ソウ、音の感じは大違いだが、どこかアノだんだん良くなる法華の太鼓に似た心地良さと相似たところもある宗教音楽といった響きであった。それで今かんがえると、もしかしたらアレはホテルの直ぐ傍に回教の寺院でもあって、それがホテル内の何処かから聞こえてくるものと私が勘違いしたのかも…。そんな風にも思えてきた。何れにせよ、そんなアラブ音楽の伴奏に乗って私達は目覚め、宿を後にした。まあ、こんな歓送のされかたも、記憶に残り悪くなかったなぁと今は思う。さて、そんな具合に一路帰国の途に就いた私達は、以後も偏西風ならぬ偏東風(?)に流されるようにして、グルリ世界を一周してしまったのだから、これは生来旅好きで、時間を気にせずに何とか暮らせる立場となっていた私としては、実にニンマリものだった。カイロ空港に着き、添乗員から一旦ローマまで戻ると聞かされ、アリタリア便のクーポンらしいし、今度こそ最短コースのモスクワ経由便に乗り換えるのだろうと家内と話しながら、文字通り快晴に恵まれた地中海を北西に向かう。朝早い便だったためか、乗客は疎らで添乗員も親切そのもの。愛煙席もチャンと確保されていたし、右に左に席を替え下界の眺めも存分に堪能する事が出来た事も幸いだった。途中の島々の美しさも絵の様だったが、中でも南イタリアの俯瞰は格別だった。冬場の為か空気が実に澄み切っていて、今なら真にハイビジョンの画面を見る楽しさだった。特に初の欧州旅行で訪れたベスビオス山麓の、ナポリやポンペイや名も知れぬ入り江や小島が紺碧の海に縁取られクッキリと色濃く視認され、正にオーソレミヨ♪の楽園と思えたものである。この辺の地形は何処か富士山を背後にした我が故郷に似た所があるなぁと思いながら、それから暫くで無事ローマ空港に着陸した。♯ローマから乗り換えた南回り便で一喜一憂さて、ローマでは3時間半程も待たされ、やっと確保できた乗換便は、南回りでニューデリー経由成田行きの貨客混載アリタリア便だった。その為、ジャンボ機ながら座席数が普通の半分でソノ殆どが禁煙席。添乗員が、「乗ってから訳を話して出きるだけ程々に吸ってもらえるよう交渉してみます」との事であった。まあソノ当時は、まだまだ喫煙の習慣に大らかだった頃の事。余り気にもせず、「ヨロシク頼みまっせ」と暢気にボーディングしたものであった。しかし、これは正に誤算。『旅友M君への手紙』原文でも、この辺の事情を次の如く記しているので、以下は原文を転用して、旅の終わりを締め括る事にしよう。♯『旅友M君への手紙』補足転載完結雑感 ※以下は、本「世界一周シリーズ」の第1回)記事の一部を抜粋引用font size="3">┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ 今回の目的地は文明の十字路トルコから、ギリシャを経て、エジプトに至る地中海 文明発祥後を巡るツアーでした。 先年の欧州周遊の時と同じ午後3時発のモスクワ経由のアリタリア 航空便で、恐らく西周りで最初の目的地トルコのイスタンブールを目指すもの…。 そう思っていた。 ところが蓋を開けて見たら、何と出発直前にオーバーブッキングが判明。夜8時発 のイベリア航空便に急遽変更され、逆方向の東へ向かい日本を飛び出す事となりま した。 又、更には帰国便もアリタリア航空の都合でカイロから一旦ローマへ戻り、同社の ニューデリー経由便で帰国。結果的に思わぬ世界一周となる稀有な旅になった次第。 勿論、乗物好きで時間も気にしないで済む今の私だけに、この変更は寧ろ願っても 得られない幸運…。そう思えたものでした。 * * * まず、流氷打ち寄せるアンカレッジの美しい夜明けに始まり、カナダ極北の氷原に 連続する不思議な氷紋。 ハドソン湾から大西洋は夜の闇の中に越えたとは言え、僅かに数時間で再び迎えた 早春のイベリア半島の夜明け。 頑なな女性ガイドでマドリッド空港に釘付けにされ無為に過した5時間は余りにも 長く惜しまれたが、バルセロナ経由で越えた穏やかな日和に恵まれた地中海横断の 旅の眺めは格別だった。 温暖優美な地中海式気候の素晴らしさを実感しつつ、アテネ経由で同夕無事目的地 イスタンブール着。 又、「文明の十字路」と言われるトルコ・ギリシャ・エジプト三国の観光を終えて、 西欧文明の源流に感銘新たなるものを覚えながらの帰路の旅も、予想したモスクワ 経由ではなく、冒頭でも述べたとおりニューデリー経由の南周りのアリタリア便を 利用。自分としては未知のコースとあってマサに興味深々で帰路に就いた。 特にローマからニューデリーまでは、親切なクルーに恵まれたため、愛煙家の私も 特に不自由を感じさせられる事もなく、ひたすら下界の移り行く風景に酔い痴れて、 過せた。 ソノ上、アドリア海からバルカン半島を横切りトルコ上空を通過した際には、数日 前にバスで揺られた思い出多いアナトリア高原の旅の跡が、雲一つない青空の下に 拡がっていた。 あれから以後に降り積もったらしい雪景色が、夕映えの中を飛ぶ機上から再び神々 しいまでの美観として俯瞰でき、一入感動 !! これでニューデリー空港で買物中に交替していたクルーが、禁煙に固執し全く融通 の利かぬ口喧しさでなかったら、どんなにか良かったか…。(トホホ) 空いていた窓際の補助席に移って暫時下界を眺める自由も奪われてのヒマラヤ越え。 更に昆明から思い出の珠江沿いに広州・香港に至る俯瞰も、全て叶わぬままだった。 せめて月明かりの中なりと、こうした区間の風景も垣間見る自由を与えられていた ならば、まず最高の旅と思われたのですが…。生憎とソコ迄は幸運の女神は微笑み 続けてくれず、ニューデリーから成田迄はソノ怖~い年増のパーサー女史の石頭と 薄情さを恨みながら過す事となった事だけが、些か残念至極。┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ※以下、「今・誠」のシリーズ完結所感は明31日付として後日記載予定。 それでは皆さん、良いお年を !!******************************************************************************
2004年12月30日
コメント(0)

****************************************************************************** ★『図らずも実現した世界一周「文明の十字路ツアー」の思い出』 《第17回(全19回連載予定)》 ※同人誌『群』第四号 (1990年7月30日発行)寄稿文「旅友M君への手紙(オリエントの旅を終えて)」 を、14年後の今、即ち2004年10月26日に偶々再読。大幅遅れの楽天公開日記の埋め草にと着目、 推敲と読後感を加え斯く連載することにした。 今以上に構文の稚拙さが気になる作品だが、要は此処に書き残すような旅のハプニングも、時には 有るんだなあと言った軽い話題として、読み流して戴けたらと思う。 天井一面に飾られた硝子器具のインテリアが忘れられない ルクソール・ナイル河岸ホテルのロビー(一昔前の筆者と妻)****************************************************************************** 『 旅 友 M 君 へ の 手 紙 』 …オリエントの旅を終えて… その17(全19回分載予定)※前文「1990年3月・筆者註記」とエジプト土産のイラスト挿絵転載は省略 ☆ ☆ ☆ ♪エジプト …帰国前のカイロで()♪§5.帰国前のカイロ観光《『旅友M君への手紙』に残る「カイロよサラバ」の旅情雑感》さて、このM君への旅便りという形を借りた「文明の十字路トルコとギリシャ・エジプトの旅」と銘打つ1990年初春のオリエント13日間格安周遊ツアー記録も、総仕上げの一日となった。そこで、これを私は以下のようなサブタイトルを付して紹介しようと考えた訳だが、連載記事を始めから読み返したところ、大分はしょって書かれてはいるが、大筋は既に紹介済みであった。又そんな重複感と共に、年内日付の連載記事として出来れば完結してしまいたいとの思いも芽生えた。それで、そのバックナンバー記事の一部も抜粋することにして、一応インターネットの記事も覗いて見た所、今日の内容と密接に関わりある最近の旅行者の所感がインターネットの旅行記として目に留まった。それで、ご参考までに同記事のサワリの部分も一部を抜粋紹介しながら、今日の記事を以下書き進める事とした。♯カイロ考古学博物館の印象★『旅友M君への手紙』原文 こうして最後の一日を空路カイロに戻って過ごした我々は、ツタンカーメンの遺品等で有名な、国立エジプト考古学博物館を見学。古代エジプト王朝が残した目を瞠(ミハ)らせる遺品の数々に接し往時を偲びながら、慌しいオリエント史跡ツアーの総ざらいをさせてもらいました。 唯これら古代エジプト王朝の支配者たちが、何故このような巨大で豪華絢爛たる遺跡を残したかの説明で、「そうする事が当時の失業救済策として王の善政を評価する物差しとされていたのです」と、聞かされたのが些か鵜呑みにしかねました。 まあ、それが仮に事実そうだったとしても、やはりこれは当時の権力者や金持ちが言い出した大いなる詭弁(キベン)が定着した結果ではなかったかとの思いがしてなりませんでした。 今選挙で揺れる日本の現状にしても、政治家がサモ尤もらしく説明する消費税や利狂徒(リクルート)疑獄に対する抗弁などが、どうも比喩的に思い出されてくるのです。 つまり、こうした詭弁が形を変えた歴史の輪廻(リンネ)となって人類の歴史の中を正義面(ヅラ)して、延々と罷(マカ)り通ってきているといった考え方です。 そして、洋の東西を問わない人間が行う政治というものの限界を、この圧倒的な古代エジプト王朝の権勢を示す館(ヤカタ)を見て回りながら感じたものでした。【参考】┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓★エジプト考古学博物館(インターネットの中で読んだ某氏の旅日記抜粋) 宝の山のこの博物館を2時間で見るとなれば、ツタンカーメンしかない。 上野の 博物館で長蛇の列をなして拝んだあの黄金のマスクが、目の前に燦然と 輝いている!上野では記憶に残っていないが、この他も黄金製のまばゆい副葬品 が沢山あったのだ。文句なしにすばらしい!部屋の外にも古代エジプト美術の粋 とされる黄金の王座や、王のミイラを包んでいた三重の金箔の大箱など、ツタン カーメンゆかりの美術品をゆっくり見ることができた。至福の2時間であった。 今回の旅は、膨大な古代エジプト史は捨てて、その舞台の雰囲気を味わうことに した。前年、大英博物館でもエジプト部だけを駆け足で見学したが、運良く本物 のロゼッタストーンが見られた。考古博物館やアブシンベル、ルクソール、カル ナックなどの神殿群は、エジプト史を勉強して、じっくり時間をかけて見ないと、 とても頭に入らない。 ピラミッドや、こうしたは古代エジプト王朝の大規模建造物は、奴隷労働ではなく 失業対策事業であったという考えが、最近の学会の定説になりつつあるとガイド は説明していた。 だが、多くの墳墓から出土した豪華な副葬品等を見ると、ファラオ、神官といっ た支配層と一般民衆が、必ずしも不平不満なく円満な関係を保てたとは到底思え ない。 所詮、歴史は権力者に都合が悪い出来事は闇に隠され易い。 古代エジプト王朝の長い時の流れの中では、記録に残された表面的な権力争いの 他に、反骨的な民衆との血なまぐさい対規模抗争も、コレだけの民衆には全く無 縁な目的の大工事を次々と遂行しようとした以上、起こらないなんて不合理では …と思いながらバスで一旦宿舎へ戻る。┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛※「今・誠」所感 往時、書き残した自分の記述を先ず読み返し、「こんな印象を持った自分は、 余程の捻くれ者?」といった何か自己嫌悪みたいな思いも感じたものだったが、 参考とした某氏の旅日記を読み、自分と同じ様に紙背を読むような見方をする 見学者が他にも居た事を知り、何か心強くさせられたものであった。 ♯雀の舌(??)料理が話題の昼食昼食は、ナイル川沿いの眺めの良いレストランへ連れて行かれた。確か川魚料理だったように思うが、今は既に朧(オボロ)だ。唯、そこで出された料理の事で忘れられないのが、小題として掲げた雀の舌(??)料理の事である。それはメインディシュの前菜として出されたもので、形は押麦を小さくした様な白い粒々で、独特なスパイスの味がするマヨネーズサラダだった。それが結構シコシコと舌触りが良く美味しかったとあって、同じテーブルを囲む奥様方が材料を知りたがってウエーターを呼び止めて尋ねたのだが、言葉の壁に遮(サエギ)られて双方とも要領を得なかった。すると奥から目のクリクリしたヒョウキンなコック長が出てきて筆談となった。その結果、此方の質問の意味は直ぐ通じたのだが、描いてよこしたのが雀の絵。でもどう見ても雀の肉とは思えない粒々とあって、「ウソ、ウソ」と皆が言う。すると、そのコック長が口八丁手八丁の愉快な男で、雀のゼスチャーをしながら、「ピーチクパーチク」言いながら自分の舌を頻りに指差して見せ大笑い。つまり彼は、「この粒々は雀の舌を一匹一匹抜いたもの。だから物凄く手間が掛かって高価な 料理なんだ」そう言っていたのだ。尤も、ソレを真に受けるほど間抜けな奥様方ではなかった。「嘘、仰(オッシャ)い。 からかわないで教えてくださいよ。 とても美味しいんで、出来たら頒けて欲しいんだから…」。そう口説いたところ、これは商売になると思ってか、奥から取り出して来たのはなんと文字通り押麦を小型にしたようなマカロニの一種と判った。今では日本でもソコソコの専門店なら取り揃えているだろうが、当時は何としても珍しい代物。それで、皆このコック長から袋入りの商品を大分頒けて貰い良い土産物が出来たとホクホク顔だった。ソンナコンナで私の脳裏に焼きついたコノ一幕。今もコノ好人物が演じて見せたユーモアのセンスと見事なパントマイムが目に浮かび、心楽しいカイロの思い出の一つとなっている。♯ナイル川ディナークルーズとベリーダンスダンサーの傷こうして楽しい昼食を終えた私達一行は、明朝の帰国を前に一旦宿に戻り旅装を整え、この旅を締め括る夜の観光に備えた。以下は再び、その夜の思い出を綴った旅友M君への手紙その侭を書き写し、今日の日記を締め括ろう。★『旅友M君への手紙』原文 その夜は「さよならパーティー」ということで、街の灯が美しく川面に揺れるナイル川のナイトクルーズに乗せてもらうことになりました。 船上レストランでのバイキング料理は、エーゲ海一日クルーズで出される申し訳程度の昼食とは比較にならない豪華さでしたが、各自負担の飲み物の高さには不平を漏らしていた人も目立ちました。 尤も私だけはアラーの神様にお許しいただき、飲み物の注文取りには勇気をもって「ラー」と伝え、アテネからの機中で手に入れたギリシャの銘酒「ウゾ」を呑むことにしました。 その代わり「氷」をくれと持参した消毒薬をコップに入れ差し出したところ、これも有料ではありましたが、ミネラル・ウォーターを注文した人たち以上に僅かな金額で事足りました。 このあと美人のベリーダンスを見せてもらい、『千夜一夜物語』もカクヤと酒池肉林の夢が脳裏にモヤモヤしはじめた頃。惜しむらくはその美人のダンサーの背中にウゾの酔眼にも明らかな程の、何かクル病のような引きつった跡が認められ、どうも気になって仕方なくなりました。 でも、ご安心あれ。 良家の子女らしき彼女は、その肌を人前に曝さぬようシームレスの薄い肌色のタイツを着けていたものの、サイズが大きすぎたようで、弛(タル)みを皺(シワ)寄せ、後ろで留めていた為だったのです。 やはり此処はエジプト。今回めぐった三国の中で一番宗教的戒律が厳しい回教国であることを、以前アテネのタベルナで見せてもらったものと比較して実感しました。 以上、まあ旅行記の下敷きにでもなればと思わぬ長話を又々ご披露してしまいましたが、何時もながら駄文に付き合せてしまいゴメンナサイ。 ※(以下、本文は明日以降の日記に続く)******************************************************************************
2004年12月29日
コメント(1)

******************************************************************************★『図らずも実現した世界一周「文明の十字路ツアー」の思い出』 《第16回(全19回連載予定)》 ※同人誌『群』第四号 (1990年7月30日発行)寄稿文「旅友M君への手紙(オリエントの旅を終えて)」 を、14年後の今、即ち2004年10月26日に偶々再読。大幅遅れの楽天公開日記の埋め草にと着目、 推敲と読後感を加え斯く連載することにした。 今以上に構文の稚拙さが気になる作品だが、要は此処に書き残すような旅のハプニングも、時には 有るんだなあと言った軽い話題として、読み流して戴けたらと思う。 天井一面に飾られた硝子器具のインテリアが忘れられない ルクソール・ナイル河岸ホテルのロビー(一昔前の筆者と妻)****************************************************************************** ☆第16回(全19回) 【前文】…初回11月1日のみの掲載記事 ※第二回目以降から読まれる方々は、本文記事をヨリ理解いただきたい為、 11月1日だけ掲出した【前文】だけでも、出来るだけ目を通されてから、 続く本文を読み始めるよう、お薦めします。 勿論、お気が向く限り、初回から順次全文を通読される事こそが、この 程度の拙文しか綴れない筆者の望むところ…。 まあ如何様に触れて戴くにせよ、読み難きを耐え、物足りなさを忍んで、 何卒ヨロシクご判読の程を…。 『 旅 友 M 君 へ の 手 紙 』 …オリエントの旅を終えて… その16(全19回分載予定)※前文「1990年3月・筆者註記」とエジプト土産のイラスト挿絵転載は省略 ☆ ☆ ☆ ♪エジプト …カイロ ⇒ルクソール⇒カイロ/(?分割中の10〕)♪§4.ルクソールでの思い出と帰路(その7〔全?分割〕)《カイロへ戻る前夜から帰着までの写真回想》♯暮れなずむナイル河岸と夜のルクソール下町瞥見西岸の観光から東岸の渡し場近くに位置していた宿舎に戻って夕食を済ます。その食後に撮ったのか、暮れなずむナイル河岸にズラリと係留された観光船の灯影が、うっすらと立ち込めた薄紅色の夕靄の中に点々と浮かぶ。それが、画面右下を斜めに区切るように延びる河岸堤の黒い影と境で融合…。何か俳画のようなムードを醸して見える。しかし、これに続く宿近くらしい街角や車が往来する夕暮れの町並み風景は、残照がルクソール博物館の茂みの向こうに落ちかかってはいるものの、未だ道行く車はヘッドライトも点けずに行き交っていて、未だ明るかった。そして、この夜私は再び、あのカメラ用の電池を探してもらった土産物店を訪ね、割れないよう荷造りを頼んであった水タバコのパイプを受け取った。その時の店主父子のスナップや、店の外に座り水タバコを吸う近所の店の親父さんたちの姿などの写真が残っている。ともあれコンナ風にして一人夜の街へ出かけて用事を済ませると、街路灯等は余り見かけない裏町を早足に抜け、宿に戻った時は既に辺りは闇。ホッとしながら部屋で荷物を纏め、明日早朝の出発に備えて夢路に入った。♯宿を発ちルクソール空港へ些か湯冷まし気味だったがポットの蓋を緩めてシャーイ(紅茶)を一飲みし、バルコニーから早朝のナイル川風景を我が目に焼きつける。対岸のネフェルポリスに朝日が当たり、赤く荒々しい山肌が明るい褐色に近い赤に輝いていた。「じゃ、ソロソロ食堂へ行くとするか」と部屋を後にしてチェックアウト。朝食を済ませて、混み合うといけないからと早めに宿舎を発ち空港へ向かった。ルクソールの空港までは、確か半時間程の距離だった。砂漠との境界ギリギリの場所に作られていたような気がした。飛行場の向こうは裁くらしく遙か彼方の地平線上に目を凝らさねば気付かぬほどに低い山らしい稜線が見えるだけといった写真が残っている。だから、この辺りのナイルのグリンベルトの幅は、橋が架かり車があれば一時間足らずで軽く横断できる狭さだと思われる。♯「エジプトはナイルの賜」このサブ・タイトルはヘロドトスの言葉として余りに有名だが、それをこの自分の目で確かめたい。この帰路は昼間の定期航空便とあって、機上からのナイル川沿岸風景を俯瞰出来る筈と、私は内心で期待していた。そして、その朝は天候も快晴だったし、正にそのとおりの眺めが機窓に展開した訳だが、生憎と割り当てられた席が悪かった上、空席もなく。機上からの写真は一枚もなし。そこで仕方なく、又々インターネット上に公開された皆さんの旅行写真を眺め、以下、話を進めることにした。その幅は15~20kmの細長いグリーンベルトで、アスワンから此処ルクソールを経て延々とカイロまで1000km余りも続く景観なのだ。これを飛行機から見ると真に一目瞭然で、ナイル川の両岸だけが緑に彩られ、勿論その外側は荒涼たる砂漠のみ。しかもソノ境界が実に際立って見えるし、グリーベルトの内側は実に緑したたる美しさだ。しかし忘れてならないのは、この国の殆どが砂漠であるということである。そう思うと、この僅かな緑の貴重さを一入感じさせられるのものも、この機上からの風景だった筈。その美観を十分堪能できなかった事は実に残念至極だったと改めて思いながら、更に筆を進めよう。尤も、離着陸の前後だけは、機がグンと旋回したので、空港近辺の緑目に染みるグリンベルトの光景はチラチラと垣間見え今も記憶には残っている。それに、負け惜しみで言うわけではないが空路の殆どは砂漠の上。だからその細長いグリーンベルトは、インターネットの画面で見るような美しい光景が連続的に展開して見える筈がない。つまり、その見渡す限りの灰色の海の中にチラチラ見え隠れする程度で、常に真下に広がって見える訳でもあるまい。まあソンナ事は兎も角、大切なのはコノか細い緑の線の中で全エジプトの人口7500万人の殆どが、農産物を主とする食料を頼っているという事をば念頭において、周辺諸国との難しい問題もあるコノ国の過去・現在・未来を展望。これから如何にしたら、このナイルの沃野を平和に保って行けるのだろうかといった事だろう。♯フト思い出された中学時代の恩師ホラさんの事ところで「例年雨季になると、このグリンベルトの多くは上流から肥沃な土壌を一杯流れに乗せて氾濫を始めるのが常」。そう聞かされている私だ。「勿論これは、遥か昔の学生時代に地理の教師のホラさんから学んだ事。入試の問題にも良く出されるナイル・グリンベルトの特徴で、時々大きな被害も出す反面、農民は洪水に慣れっこに成っているから結構要領よく身を交わす術も心得ている。だから大きな心配は無用。何しろソレダケ次の年の実りは豊かさが期待されるとあって、逆に喜ぶ人も多いとか…。そんなホラさんの世界地理の授業を思い出したが、全くコノ川沿いの土壌は肥沃そうな色をしていて、農民のソンナ気持ちが判る様な気がした。ホラさんだからとて決してホラは教えない同先生の温厚実直で優しい姿を、こうして旅に出ると折々懐かしく回顧させられる。何しろ教科書も教材もロクになかった敗戦間もない中学校での授業の中で、国外の旅など思いもよらぬ時代の世界地理の話だ。遠い異国の夢物語とも思えたが、それゆえにこそ一番楽しめた授業だったと今更のように思う。♯宿舎発後、空路カイロ着まで、殆んど休憩時間なしに怨嗟の声「そんな、川幅をグンと増したコーヒー色のナイルも又壮観だろうなぁ !」…てな事を考える間に、機は僅か一時間程でカイロ空港に着いた。往路は、十時間余りの夜の闇を直(ヒタ)走って遡ったルクソールへのナイル河岸だったが、帰りの旅の実時間は実にアッという間でカイロに戻った。そして、空港の外に出ると例の無神経な添乗員はトイレタイムも設けず、そのままバスの所へ引率して行き発車させようとした。でも帰りの機内は満席だったし、トイレへ行く間もなく慌しくボーディングさせられた女性客の中には、水平飛行に入った機上のトイレも空きがない侭カイロまで我慢させられ、顔面蒼白になっていた人も数人いた。だから、此処で大人しい年配の奥様方も揃って不満の音を上げた。「もう少し、トイレタイムを十分とってくれないと困りま~す。 これでは何処に行っても、用を足せず年配の者は体を壊してしまいます。 ちょっとマイペース過ぎませなんか?」てな具合となり、仕方なさそうに出発を少し延ばさざるを得なくなった。でも、トイレは先程の遠いターミナルビルにしかなく、長旅の疲れが嵩むご婦人方は、全く気が利かないと言いたげに降りていった姿が忘れられない。そんな事もあって私は何時か、新たな旅に出かける時、出来れば男の添乗員だといいなぁと心中思ってしまうようになった。勿論これについては人様々。思いを異にする方々も多いものとは思う。ただ我が家では、家内の幸も同意見だ。勿論、素晴らしいなぁと心底思える女性添乗員も相当数出会っている。でも、どういう訳か私達の場合、やはり確率的に言って男性添乗員との相性が良く、快い旅が期待できそうに思ってしまうというのが本音だ。 ※(以下、本文は明日以降の日記に続く)******************************************************************************
2004年12月28日
コメント(0)

********************************************************************** ★『図らずも実現した世界一周「文明の十字路ツアー」の思い出』 《第15回(全19回連載予定)》 ※同人誌『群』第四号 (1990年7月30日発行)寄稿文「旅友M君への手紙(オリエントの旅を終えて)」 を、14年後の今、即ち2004年10月26日に偶々再読。大幅遅れの楽天公開日記の埋め草にと着目、 推敲と読後感を加え斯く連載することにした。 今以上に構文の稚拙さが気になる作品だが、要は此処に書き残すような旅のハプニングも、時には 有るんだなあと言った軽い話題として、読み流して戴けたらと思う。 天井一面に飾られた硝子器具のインテリアが忘れられない ルクソール・ナイル河岸ホテルのロビー(一昔前の筆者と妻)**********************************************************************☆第15回(全19回) 【前文】…初回11月1日のみの掲載記事 ※第二回目以降から読まれる方々は、本文記事をヨリ理解いただきたい為、 11月1日だけ掲出した【前文】だけでも、出来るだけ目を通されてから、 続く本文を読み始めるよう、お薦めします。 勿論、お気が向く限り、初回から順次全文を通読される事こそが、この 程度の拙文しか綴れない筆者の望むところ…。 まあ如何様に触れて戴くにせよ、読み難きを耐え、物足りなさを忍んで、 何卒ヨロシクご判読の程を…。 『 旅 友 M 君 へ の 手 紙 』 …オリエントの旅を終えて… その15(全19回分載予定)※前文「1990年3月・筆者註記」とエジプト土産のイラスト挿絵転載は省略 ☆ ☆ ☆ ♪エジプト …カイロ ⇒ルクソール⇒カイロ/(?分割中の9〕)♪§4.ルクソールでの思い出(その6〔全?分割〕)《「ルクソール西岸観光…後半」》♯墓の盗掘人の子孫の村・クルナ村。かねてより墓の盗掘人の子孫の村として聞いていたクルナ村を私達が訪れたのは、ハトシェプスト女王葬祭殿からの帰りだったと思う。そこは見るからに貧しそうな小さく粗末な家々が数十軒ほど建ち並ぶ集落の一角だった。その中の道に面して建つヤヤ大きめで豊かそうな家の壁に、子供の落書きのようにも見える稚拙なペンキ絵がデカデカと描かれていて、その家に立ち寄った。これはメッカ巡礼を済ませた回教徒の家である事の目印なのだそうだ。絵柄は派手派手しい空飛ぶジャンボ機や駱駝や汽船等の絵が、壁一面に塗られた黄色い下地の中にゴデゴテと並んで描かれていた事が今も脳裏にクッキリと焼き付いている。「墓の盗掘人の子孫も、今は神の存在を信じる強い宗教心に支えられた暮らし方をしているのか…」なんて思いながら中に入ったものだった。一説によると、この辺には数千を超える墓があるというが、昔からソノ墓の副葬品を少しずつ売りさばいて生活していたというのである。だから、もしかすると、そんな発掘品の幾つかがコノ家の地下あたりに密かに隠されているかも…なんて良からぬ妄想も、正直に言うと脳裏を過ぎった。(ニヤニヤ、ウフフ)でも今では、みやげ物用のアラバスター製の容器を作って訪れる観光客に売って生活を立てていると聞いた。アラバスターは此処で採れる石の一種らしい。仕事場で撮った写真には、削り取って散らばった白い粉に塗(マミ)れた様々な鉄の道具が並び、これを使いこなす事で、光が透過するほど非常に薄い容器として仕上げられて行く。白い民族服と白布を頭に巻いた褐色の肌の主人の脇には、息子らしい幼い少年が父の技を学び取ろうとするごとく土間に屈み込んで細工に励む主人の手元を一心に見つめている様子が記録されている。又その仕事場の隣は土間にソノママ鍋や薬缶を置いた台所であった。褐色の肌をした母子が、やはり白一色の民族服姿で並び、母親は丁度何かを調理中だった。二人とも目がクリッとしていて中々の美人だ。特に5~6歳程の女の子は中々に人懐っこそうで、手に持った帳面に何か絵でも書いて私達に「見て見て」とでも言いたげに示している様子。又その背後には、そんな娘の姿を横向きに振り返るソックリさんの母親の眼差しも母性愛を感じさせる。その母親の服装だが、写真をしげしげと見直すと、そんな質素さの中にも色気があった。顔には赤と黒の大きな横縞のストールを真知子巻きにしていたし、屈んで見えにくかった白い民族服の裾にはオレンジ色した百合のような花が緑の茎や葉をあしらって描かれている事が見て取れた。それを若妻らしい色気と感じた私だが、この程度の彩色品を色気とした表現は少し捉え方が大袈裟だったかしら?また個人的に西岸を訪れる観光客のガイドの仕事も生活の糧となっているようだ。尤も、なかなかに駆け引きに長けている連中もいるようで、親切そうな案内に気を良くしてチップを弾んだのに、別れ際に様々な名目の追加料金を要求されて、支払わなくては一歩も引かない態度で迫られた例もある様子。そんなトサカに来て書いたような旅日記も、この記事を書く為に調べたインターネット上で見た。まあ人それぞれだろうが、クルナの村民のガイドの中には、そうした先祖の稼業を髣髴(ホウフツ)とさせるオニイサンも居るらしいから個人旅行の方々は記憶に留めておいたほうがヨロシそうだ。♯メムノンの巨像西岸最後の見学先は、船着場に近い遺跡のメムノンの巨像だった。バスの車高程もあるかないかの丸みを帯びた潅木が点々とするだけで、唯々ダダッ広い休耕地の向こうに、その2体の巨像だけがポツンと鎮座ましましているのが、遥か遠くからも車窓に見えた。それもその筈、高さ18mもあるという座像だったが、そんなに高かったかなぁと今になると思う。だって18mといえば私の背の十倍以上もあったわけである。だが今振り返って脳裏に残る実感は、精々五倍位の印象である。間近に比べる物とて無かったからだろう。側に立って記念撮影をしておけば良かったと残念がる今の私だが、良く見ると像の周囲は膝の高さぐらいの杭とバラ線で囲まれていた様子。これでは恐らく、直下での写真どころか、直接手で石の感触を確かめる訳にも行かなかったのであろう。左後方から夕日を浴びて、自らの影を右下の足元に長々と伸ばす、逆光気味な一対の巨像の姿の背後には、潅木の疎林の遥か後に先ほど通り抜けてきた王家の谷の方向と思しき辺りの山並みが、巨像の肩の高さヤヤ低く連なる。 又、向こう側の座像のスネ辺りの遥か右後方には、山裾に住宅地らしき家並みも虫眼鏡で確かめてみたら在った様子。あの、泥棒村かもしれないが、かなり纏まった集落の様に見える。現代のルクソールでは「ネクロポリス(死の街)」と言われようと、必ずしも住宅地として敬遠されてばかりはいないのかも…と思った。ところで、往時ここはアメンホテプ3世が葬儀を行うために建てた葬祭神殿の跡だったと言う。そしてこの像は、そのアメンホテプ王がネメスと言う頭巾を被り、顎付髭(アゴツケヒゲ)を付け、両手を膝の上に置いて玉座に座っている姿を刻んだもの。…なのに、どうして「メムノンの巨像」と言われるようになったかと、インターネットで確かめようと思った。「《メムノンの巨像》の呼び名はギリシアの伝説、メムノン王に由来します。 メムノン王はトロイ戦争でアキレスに敗れ、メムノンの母エオスは嘆き悲しみ ました。 1日1回の生き返りをゼウスに頼んだところ、朝日が昇るときメムノンは物悲しい 声をあげたといいます。 巨像の石が朝日が昇ると夜との温度差で振動し、泣き声のような音をたてていた ところからきていますが、1999年修復後はその音を聞く事はなくなりました」。という説明が、私としては一番信頼できそうだが、中にはメムノンをエチオピア王とし、こんな一文もあった。「エチオピア王でトロイ戦争の英雄だったメムノン将軍が、内乱で負けてルクソール 西岸まで来たが、この石像の前で捕まり殺された。 メムノンの母親がここまでやって来て泣き悲しんだ。 その時、地震があり像に亀裂ができ、強い風が吹くと像が軋んで音が出る様になった。 その悲しい音を聞いていた現地の人が、お母さんが泣いている声だと思い『メムノ ンの巨像』と呼ばれるようになった。 珍しさのあまりローマ皇帝まで見物に来たといった話もあり、その後、ローマ支配 時代にローマ皇帝の命令で復元したが、その時から不思議な音は発生しなくなった そうだ」。まことに諸説マチマチで何とも判りにくい点が多いこの巨像だが。次の点は共通していて、まず事実に間違いないと思えた。その一つは、修復以前のこの石像は良く軋(キシ)むような音をたてたという事。それが「メムノンが母親である曙の女神エオスに挨拶をしている」とか、「この地で殺された武将メムノンの悲業の死を諦めきれぬ母の泣き声」と考えられたりした様子。但し、修復され音がしなくなったと特定されている1999年がADだとすれば、ローマ時代の修復後に、何時か再び軋むようになっていて、つい最近また修復されたのか?…てな事を思ったりした。だってBC1999年と言えば、未だローマ建国以前の事ではなかったか…。そんな疑問から、この石像は二度に亘って修復されたものの、何れの場合も何時か復活。しかも軋む時と音が異なっていた。即ち、前者はギリシャ神話的な物語が伝える「朝日が昇る時、メムノンは物悲しい声を…」と書いている。そして後者は「地震があり像に亀裂ができ、強い風が吹く時に像が軋み、メムノンの母が泣いている声の様だ…」といった具合。 尤も、神殿自体は2030年前の地震で完全に崩壊した。又、その瓦解した夥しい石材などは、河岸に近いこともあって他の建築物の材料として再利用されたらしく、今残るのは神殿前の両脇に在った、この2体の巨像のみと言う経過を辿ったもののようだ。 それにしても、この一対の巨像に心あらば、今、交々足下に来たりて群れをなす世界各地からの観光客や、五千年もの時を経ても殺戮を繰り返して止まない人間達を如何なる思いで見下ろしているものやら…。 ※(以下、本文は明日以降の日記に続く)******************************************************************************
2004年12月27日
コメント(0)

********************************************************************** ★『図らずも実現した世界一周「文明の十字路ツアー」の思い出』 《第14回(全1?回連載予定)》 ※同人誌『群』第四号 (1990年7月30日発行)寄稿文「旅友M君への手紙(オリエントの旅を終えて)」 を、14年後の今、即ち2004年10月26日に偶々再読。大幅遅れの楽天公開日記の埋め草にと着目、 推敲と読後感を加え斯く連載することにした。 今以上に構文の稚拙さが気になる作品だが、要は此処に書き残すような旅のハプニングも、時には 有るんだなあと言った軽い話題として、読み流して戴けたらと思う。 天井一面に飾られた硝子器具のインテリアが忘れられない ルクソール・ナイル河岸ホテルのロビー(一昔前の筆者と妻)**********************************************************************♪お詫び&お知らせ♪ 残り数回で完結と予告しながら、急な雑事が次々発生し何と一ヶ月ものご無沙汰。拙文にも関わらず毎度お付き合い下さった方々に深くお詫びし、以下、残りの執筆を再開したい。実は、この今日のタイトル部分は、写真アルバムでは十枚ほどの写真として残ってはいるものの、旅の直後に書いた「旅友M君への手紙(オリエントの旅を終えて)」と題する『群』第四号の原文では、殆ど触れられていないので、写真を見ながらアレコレ思い出そうと努めたが何分にも15年近い昔の話。資料を再確認し事実に即して肉付けしている間に体調を崩し、更に年末の繁忙期に重なってしまったという訳だった。だが漸く元日配達確約期限ギリギリだったが年賀状の発信も完了し気分的にもホッと一息できたので、今こそ執筆続行の節目と捉え、何とか本シリーズを書き上げて年を越そうと、久々に筆を進める事にした次第。まあ、そんな事情で些か内容に物足りなさを感じるかもしれないが、以下、また暫時お付き合いいただければと思う。☆第14回 【前文】…初回11月1日のみの掲載記事 ※第二回目以降から読まれる方々は、本文記事をヨリ理解いただきたい為、 11月1日だけ掲出した【前文】だけでも、出来るだけ目を通されてから、 続く本文を読み始めるよう、お薦めします。 勿論、お気が向く限り、初回から順次全文を通読される事こそが、この 程度の拙文しか綴れない筆者の望むところ…。 まあ如何様に触れて戴くにせよ、読み難きを耐え、物足りなさを忍んで、 何卒ヨロシクご判読の程を…。 『 旅 友 M 君 へ の 手 紙 』 …オリエントの旅を終えて… その14(全1?回分載予定)※前文「1990年3月・筆者註記」とエジプト土産のイラスト挿絵転載は省略 ☆ ☆ ☆ ♪エジプト …カイロ ⇒ルクソール⇒カイロ/(?分割中の8〕)♪§4.ルクソールでの思い出(その5〔全?分割〕)《「ルクソール西岸観光…前半」》♯王家の谷西岸の船着場は、我々が泊まった「ホテル・メルキュール(通称エタップ)」の、丁度真向かい辺りに位置していたように思う。その西岸に降り立っての第一印象は、「生者の街」とされる東岸のとは文字通り対照的な、「死者の街」というより「死霊眠る荒野」とでも言いたくなる雰囲気だった。東岸から見た山々は少し赤みがかって見えたが、バスがその山中に吸い込まれ「死者の谷」に降り立つと、そこはヨリ色彩に乏しく隔絶感を覚えたものであった。ちなみに以下は、インターネット上で紹介されている数多い印象記を参考までに拾い読みして目に付いた一観光客の文の一節である。┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓王家の谷は新王国時代のファラオの墓が中心である。すべて岩窟墳墓で石灰質頁岩の岩盤に掘り込まれた横穴墓である。ツタンカーメンの墓は、大規模なラムセス6世の墓に隠れ、ほとんど掠奪されずに、H.カーターによる1922年の発見。副葬品と遺品はエジプト考古学博物館で展示。緑の全く無い砂と岩だけの山を見ながら、5分ほどで墓のある場所に到着する。といっても一見山しかなく、盗掘対策として神殿などの建物は一切無い。墓のある場所は、シンプルなコンクリートの入り口がぽっかり口を開けているだけである。┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛と、まあザッとこんな具合の説明を聞き、同様な印象を覚えて見学を終えたものであった。私が今目にしている家内・幸の写真は、その洞穴墳墓の一つから出てきた脇で撮影したもので、確か此処はソノ「ツタンカーメンの墓」前だったと思う。文頭に掲げた宿舎ロビーでの旅姿に真っ赤なウインドブレーカーを羽織った幸が、少し右向き加減でニッコリこちらを向いた半身像だが、背景の真っ白い岩肌が薄い横縞をクッキリと見せ、あたかも石灰質頁岩とはコンナ感じの石質だったかと素人の私は今改めて勉強させていただいた。尤も、こんな事を書くと私の日記の愛読者中の一人として毎日「*.ocn.ne.jp」の足跡を残してくれてる地質学者の某君などは、私の無知ぶりに些か呆れて何か一言電話でも架かってきそうでもある。♯ハトシェプスト女王葬祭殿。王家の谷を後にした私たちは、確かこの岩山の裏手と聞いた次なる観光ポイント「ハトシェプスト女王葬祭殿」へ急いだ。この豪華広壮な白亜の石造建築を最初に遠くから目にした時は、まるで総天然色シネマスコープ用のオープンセットのようにも見えた。 それは、まっ青な空の下に、赤茶けた背後の断崖と見事なコントラストを見せ、私の予想を遥かに絶する広がりと端正な白い姿で目前にグングン近付いてきた。 その感慨は、この旅で一番鮮烈な印象だった。本当に遥々と来た甲斐があったと実感。遥か昔、トテツもなく大きな歴史のロマンが此処で演じられた舞台に直に立ち、目にし手で触れ得た喜びのようなものが一入こみ上げてきたものだった。ソノ名を詳述すれば、「第18王朝、ハトシェプスト女王葬祭殿」。女王ハトシェプストは、トトメス1世の娘で、トトメス2世の王妃だった。夫・トトメス2世の死後、未だ幼かったトトメス3世の摂政となり、エジプトで唯一の女性ファラオになった。だが、やがて成長したトトメス3世にとっては、目の上のたんこぶの様な存在になっていったもののようだ…。彼女の死後、やっと王位に付いたトトメス3世は、葬祭殿に描かれた実の母であるハトシェプスト女王のレリーフの顔を、悉く削り取ってしまったという。正に骨肉の争いも此処に極まれりって訳だ。だが、そんな古代のロマンに惹かれ世界中からコノ地を目指した観光客を標的にしたテロ事件が1997年に発生。新たな一大悲劇が、此処を舞台として現実に演じられてしまった。以来、エジプト中の観光地では必ず荷物検査をされ、自動小銃をかまえたツーリストポリスと私服警官の目が光る、何とも夢覚める旅を余儀なくされているらしい。思えば良い時に、行って来れたものだと今改めて思う。 ※(以下、本文は明日以降の日記に続く) ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ 【余談】※全シリーズを通じ以下同文☆文頭写真挿絵を後日挿入する事とした経緯 この「文明の十字路ツアー」シリーズも、あと数回で完結の予定だ。 そんな残り僅かとなったコノ9日、第9回の文末部分のホテル内の描写が、私の筆力では何とも持て余し気味…。 その行き詰まり感から、「エ~イ面倒な…。百聞は一見に如(シ)かず。部屋やインテリアの概観は、 現場写真で示し、見え憎い細部を文章で補おう」。そんな考えが浮かんだ。 でも困った事にソノ写真は、自分達夫婦の滞在記念として撮ったもの…。 ソノ上、話の主題である左右のロビーの天井まで埋め尽くた問題の小物迄判別出来る様にするには、可能な限り大きく紹介しなければ無意味だ。、まあ、そういう訳で二者択一を余儀なくされ、これ迄になくデカデカと、しかもコンナ旅姿を敢えて晒す結果となった次第である。 な~んちゃって勿体つけたところで、本来が開けっぴろげで仮装舞踏会といった秘め事には不向きな小生だし、齢(ヨワイ)だって早コノ歳だ…。 今更、頬冠してみたって何の影響があろうかとも思うがね…。(ハハハ) 尤も、以前から知己の間柄の読者には先刻ご承知の筈ながら、このアラビアン・スタイルには些か苦笑されちゃうかもしれないけどね。 ともあれ、一層の事この際共々ご紹介をと思う写真も数多(アマタ)なれど、ロハ・ホムペの楽天ゆえ、文末でも触れる世知辛い画像の枚数制限があって、これこそが以上総代の一枚でもある。 まあ、そんな切ない事情も何卒ご了解の上、老いさらばえ行く吾等二人、お目ざわりかも知れないがトクと御覧を…。(フフフ) さて、ロビーの天井を満天の星屑の如く飾る見慣れぬ硝子器具は、一体「ナンジャラホイ !?」。 酒場などで良く見る洋酒の瓶とは些か違う様子。大きさは同じくらいだが、口先を下にして並ぶ瓢箪型の品の多くは大分煤けた感じ…。 一見、電灯が使われる前の照明器具だった石油ランプだろうかとも思ったものだが、後日このルクソールの諸所で見かけた「シーシャ」とか言う名の様々な水煙草の吸煙具の事を思い出した。 もしかしたらアノ天井の代物も、ご当地とあってコレをインテリアとして活用したものか…とも思えてくる。 写真では余りハッキリしないけど、左右の部屋の天井も同様である事が、虫眼鏡でも使ってみてもらえれば判る筈。 合計1000本以上もありそうだったコノ硝子瓶(?)のコレクション 。まあソレ程ご大層な品でもないとは思うけど、この旅のアルバムを開く度に、今も私の目を引いて正体や如何に…とナゾナゾ遊びのように話しかけてくるという訳だ。 それゆえ、もし同地ご訪問の方で「ああ何だ、アレはね…」とご存知の方がおられたら、何卒ご教示いただけたら幸甚である。 ともあれ、シリーズも終わりに近くなってしまった今ではあるが、これでも既に満杯の「画像の倉庫」を何とか遣り繰りして、話の種や判断材料にと掲出させていただけたもの。 博学な誰方からか良きご返事をと期待し、画像事後掲出の挨拶としたい。**********************************************************************
2004年12月25日
コメント(0)
***************************************************************************** 『手 前 味 噌』 ※同日付、非公開日記『わか星霜』一部転載記事*****************************************************************************副題「初めて知った手前味噌の語源」☆「手前味噌」問答昼下がりに一菜が、末っ子の通称「ペコちゃん」こと明日香を連れて来訪。到来物の味噌を持参してくれる。W家(婚家)では自家製以外は食べないし、使ってくれとの事。それで夕食の時、何かと会話に乏しい老いぼれ二人向き合った食卓の話題として、、「如何にW家だって、時には違った味噌も味わいたいなんて思わないのか なぁ…?」と話してみた。すると幸(サチ)が、「そんな事も判らないの…?」とでも言いたそうに、「昔から、《手前味噌》って言うじゃないの。 一寸した古い農家なら、何処もそんなものよ。 それぞれ先祖代々秘伝としてきた自家製味噌があって、よく自分の家の お味噌こそ最高だと自慢しあう事に因んで、《手前味噌》って言われる 様になったといった話、何かで読んだことがあるわ。 変な意味ではなく、自家製味噌に拘る人たちって、とかくソウいうもの らしいわよ。 W家の人たちの気持も多分、ウチの味噌を食べたら他所の家の味噌では 物足りないって思っているんじゃないかしら…」。と笑いながら教えてくれた。そんな話を受け、自分もカミさんに微笑み返しながらコウ会話を続けた。「なるほどね。その語源は実に単純明快で納得しやすいなぁ。 意味は私も判ってはいたが、そんなリアルな面白い謂れが在ったんだ。 幸の御蔭で今日は一つ利口になったよ…」と、ココゾと力を入れてヨイショして更に続けた。「そう聞くと、何だか急にW家の自家製味噌を味わってみたくなったなぁ。 まあ、今までにも知らぬ間に何度も御馳走になっていたのだろうけど…。 もしかすると、無農薬に拘った味噌かも知れないよね。 機会があったら、今度は心して味わってみよう」。☆W家の金山寺味噌の評判こうしてW家の味噌の味が話題となった弾みから、同じ味噌でも一味違い以前から逸品として我々夫婦お気に入りとなっている、同じW家の金山寺味噌の味に関する思い出も次のように話された。「そう言えば一菜が結婚して間もなくの頃、W家ご自慢の自家製金山寺を 譲って貰い、東大阪市に済む大学時代の先輩IKさん宅訪問の手土産に 持参したことがあったよね。 幸には話さなかったと思うが、そのIKさんの奥さんがソノ金山寺味噌 をアノ時ベタ褒めしてくれてね、何だか自分の事のように嬉しかったよ なぁ」。今は既に故人となられたIK先輩だが、当時は家業だった歯ブラシ工場の社長職を継がれて数年後で、何不自由ない暮らしぶりと推察されたので、ソレなりに訳アリで逆に鄙びた品物の方がと選んだつもり。「長女の婚家の自家製だが、粋人で酒豪との印象が強い先輩に、一度味見 して貰いたくて…」。そんな親バカの理由付けをして持参したものだった。「若水さん、これホント最高 !!」な~んて奥さんに繰り返されて、お世辞半分と思いつつも、美味しい酒の良いと相まってスッカリ良い気分にさせてもらったもの…。そんな他愛ない事が、この「手前勝手」問答を契機として懐かしく思い出された。☆我家の味噌汁寸感ところで味噌と言えば先ず味噌汁だ。我家の幸が作る味噌汁の特徴は、具の多さ多彩さにあると言って良かろう。ベースにしている味噌は、それほど上物を使っている訳でもないようだが、長らく親しんで来た為か、最近ヤケに目立ってきたインスタント物が続くと、何となく物足りない感じがする。勿論、インスタントとは言え、乾燥野菜もミニデジタルVTRテープ程の固まりが入った上物なのだが、やはり一寸パサパサした感じが補えず、生の具が一杯入った幸ちゃん印の味噌汁が恋しくさせられる。尤もコンナ事を書いたのがバレると、如何に物は言い様と筆の走り方に気を配ったつもりでも、「その手は桑名の焼蛤よ。時には手を抜かさせてよ。 全くウチの旦那ときたら、人使いが荒いんだから…」な~んて、誰かさんから苦情が出そうでもある。日々欠かさず書き続けている非公開のワープロ日記「わが星霜」の記事をネタに、久々に抜粋脚色して書き出した今日の楽天日記だが、余りボロを出さぬ間に、この先は省略として今日の日記はピリオドを打っておこう。******************************************************************************
2004年12月18日
コメント(1)

***************************************************************************** 『 松 も 昔 の 友 な ら な く に ♪』 ※同日付、非公開日記『わか星霜』一部転載記事*****************************************************************************副題「小倉百人一首を商いに結びつけた長岡京・小倉山荘主人の智恵」☆贈り主の暖かく細やかな心遣いが滲む宅急便を手にして 千葉県の御宿町にある高齢者用豪華マンションで一人暮らすKKさんより、贈り主の暖かく細やかな心遣いを染々と滲む銘菓一箱が、昼前に宅急便で届く。KKさん夫妻は、古希を過ぎた頃に住み慣れた当地沼津を離れ、ゆったりとした老後の暮らしをと同地へ移り住まれた羨ましい先輩の一人だった。しかし好事魔多しで、確か移転半年ほどで最愛の奥さんを失われた。その意味ではお気の毒とも思われた人生の先輩であった。でも今では、そのショックを見事に克服され、内外の旅やスポーツやパソコン等、実に意欲的に悠々と人生をエンジョイされている様子だ。この京銘菓もその悠々自適の旅先で目に入り贈って下さったものであろう。同氏から先日突然の電話があり、何か粗品を送ってくださったと伺ってはいたが、まさかコンナ素敵な品だとは思っても見なかった。 ж ж ж 戴いた品物は京都府長岡京市にある老舗「小倉山荘本店」の「だんらん・三室山」と名付けられたお煎餅の詰め合わせセットで、大きな四角い銀色の化粧缶に色とりどりな品が計十種入っていた。大分前に郵送させていただいた私のムービー記録から静止画とした写真のお礼との事。久々にお会いしたご家族のスナップを、懐かしさの余り自分自身の想い出の為にと記録していたところ、お嫁に行かれたお嬢さん方共々に、記念として撮ってもらいたいと頼まれての事であった。しかし、元が小型ムービーカメラからの動画だし、写真の出来具合も芳しからず、要した費用も微々たるもの。とても御礼などいただける代物ではない。だから御芳志に感謝しながらも、何にせよ反って御迷惑を掛けてしまったものと、恐縮していたところだった。☆銘菓の美味しさと共に知った小倉百人一首の面白さと奥深さ その京風な雅(ミヤビ)を感じさせる包装を開くと、ギッシリと詰められた中身の上に、「誰をかも 知る人にせむ 高砂の 松も昔の 友ならなくに♪」と、小倉歌留多(カルタ)で耳慣れた藤原興風作の一首に始まる丁重にして教養溢れる店主の舌代等、数種の付箋が先ず目に入り、ジックリ読ませてもらった。これにより、私達の楽しかった遥かなる青春の思い出に相通じる忘れ得ぬ遊戯、「小倉百人一首」の故郷がコノ長岡京市であって、その選定に当たった館「小倉山荘」の名に肖(アヤカ)って、この煎餅屋さんも自分の店の屋号を「小倉山荘本店」と名付けた事を知った。その中には、「百人一首は歌織物・秘められた水無瀬絵図」と題した選者藤原定家の秘められた意中を謎解きした、美しい挿絵と図表と説明文からなる一葉も添えられていた。下に掲げた絵図がそれで、コレを説明した本文がこの絵図の上部にあるのだが、形状が掲載に適さないため省略し、以下の文中で簡単に文意を伝えるに留めた。関心のある方は、以下に記載した参考書か、この「小倉山荘本店」のお煎餅を入手され、良く出来た栞を御覧いただければと思う。 小倉山荘煎餅添書中の百人一首に秘められた 「水無瀬絵図」復元推定画(上)と図表(下) その一文によれば、百人一首は定家が当地での選定に当たり、歌をクロスワードパズル状に配列。鎌倉幕府妥当のクーデター挫折により隠岐に配流された恩人・後鳥羽上皇を礼賛しようと綿密な構想に基づき、歌の質以上に詠み込まれた情景を重視して選定し織り上げた一首の隔し絵だとの事。この文章は大阪経済法科大学の林直道教授の著書三冊、『百人一首の秘密』(青木書店)、『百人一首の世界』(青木書店)、『芸術新潮』第38巻3号(新潮社)〕から抜粋して書かれたものとあるが、それは十分な説得力を持つ内容で、己の教養の盲点を開かれる思いをも味わいながら読んだ。 ж ж ж 勿論その中身にしても又、味にせよ個々の包装にせよ、説明書きに負けず劣らずの逸品揃いだったが、京都に在りながら「おかき」と言わず「煎餅」と関東風に呼んでいる事も珍しく、何か面白いなぁ等とアレコレ考えさせられた。実は未だ『をぐら山春秋(あられ六菓撰)」と「想いそめし(チョコあられ)」の二種類しか賞味させてもらっていない段階ながら、その小袋やトレーにも「天つ風 雲のかよひ路 吹きとぢよ 乙女の姿 しばしとどめん♪」「恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり ひとしれずこそ おもいそめしか♪」 (壬生只見) ※ひそかに想いをよせているのに、いつのまにか噂されてしまう恋心の もどかしさを歌った一首を、ベルギー産チョコで包んだ小粒のあられ に託しました「立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば 今帰り来む♪」 ※百人一首に歌われた日本の四季に因んでお造りした、あられ六菓撰 です。8種類の味のハーモニーをおたのしみください。等と、サリ気なく三首の歌が刷りこまれているのに気付き、味わいながら知らず知らず口ずさんでいた。その他、こうした数々の歌のあしらい方も巧みで、例えば細かな各種煎餅は薄く透明な歌留多風の長方形をした樹脂トレーに収められている訳だが、その一つ一つに刷り込まれた百人一首の歌詞も一首ずつ目立たぬよう遠慮がちな白インクの草書体で、繊細で優れた心配りに感服。又ソレを密封してある和紙袋の絵柄も、何となく花札の絵柄を思いださせて面白い。ともあれ、斯く凝りに凝った商品づくりに少なからず心酔させられた私は、これから残る八種を開き、その「はんなり」した独特な風雅を味合うのが一段と楽しみになってきた。 ☆心こもる贈り物で又々甦る良き日の思い出そして、私は更に思った。「これは単に木村さんが形式ばった虚礼に拘り贈ってくれた品ではない」。そういった想いが染々と込み上げて来て心温められ、更に遥かな想い出が私の胸を揺すった。脳裏には、木村さんが親友NG君の姉さんNTさんと結婚して、未だ新婚ホヤホヤだった頃。正月になると休みが終るまで毎日のように出かけては、歓声を上げて鎬(シノギ)を削っていた歌留多会や花札会の情景が甦った。特に、この新春歌留多会での読み手は木村さん夫婦が交互に読み手になり、弟のN君や妹のTRちゃん共々、我々悪戯っ子達の良き遊び相手になってもらったものである。その若々しく仲睦まじい詠唱ぶりが、仄々(ホノボノ)とした新春の気配に包まれ、声凛々と今また懐かしく脳裏に響く思いだ。今宵は、この良き人生の先輩・KKさんの温情に満ちた思いがけない贈物の御蔭で、交々深い知慮と味覚を快く堪能させていただけた。合掌 !!******************************************************************************
2004年12月12日
コメント(2)
*********************************************************************************** 随想『時 な ら ぬ 嵐』 ※(個人日記「わが星霜《2004年12月5日♂72♀69》」抜粋) *********************************************************************************** ☆夜明けの電話で早起きした嵐の朝 夜明け前に一菜(カズナ)から電話。「あ、お父さん? 私、一菜。 こちらは大荒れで大変。 停電しちゃってるけど、そちらは大丈夫?」 との事。 それで、「ああ、こちらも同様だよ。先刻まで半時間ほど停電してたよ。 今一寸前に点いたので、テレビで天気予報を聞いていたところさ」 と話した。 だが何と、電話が終ると間もなく、そのテレビの映像が砂嵐状態に…。 ともあれソンナ具合で、今朝は最近珍しく6時起き。 こんな嵐だし、多分配達は風が弱まってからになろうと思っていた新聞が 既に配達されていたのは意外だった。アノ激しい風雨の中を配って回って いた新聞屋さんの姿が瞼に浮かぶ。 感謝の念を憶えながら玄関を開け外に出ると、前庭は一面に松葉の絨毯を 敷いた様。 その中には、点々と1~2m程ある相当大きな松の枝も、ポキポキと折れて 落下しているのも目に入った。 未だ風もヒューヒューザワザワと凄まじい松籟(ショウライ)を掻き鳴らす ように唸っていたし、直ぐソコの門扉脇の塀に埋め込まれたポストなのに、 怪我でもしてはと頭を手で覆うようにして取りに行って来る。 そこへ幸(サチ)も起き出して来て何時もの如く朝食の支度を始めたが、中庭 への掃きだし窓から身を乗り出すようにして、「お父さん大変、アンテナが倒れちゃってるわ !!」 と、声を張り上げる。 見ると、和室棟の大屋根に電気屋が頑丈に作り付けてくれてあったのに、 裏庭方向に廊下上の下屋近くまで斜めに垂れ下がるように倒れていた。 幸いアンテナの枝のアルミ棒は殆んど折れていない様子。 道理で、ザラザラ画面ながら画像が消えなかった筈だ。 「まあ、この嵐の後だし当分修理を頼んでも来ては貰えないだろう。その内 に有線の特割広告でもあったら、頼むように決めようか…」 なんて、どちらが言うとなく話し合いながら、何時もよりも一寸早い朝食 を済ませた。☆「ああ、ややこし…」。早まったか、プロバイダー変更。 「それにしても忌々しいのは、このアンテナ倒壊で、買ったばかりのTV付 ノートパソコンのセットが出来そうもない事だ」。な~んて思う。 又、ヤフー+日本テレコムの「お得ライン」とかを勧められ、アクロス+ NTTからプロバイダーを変えたばかりで、インターネットの接続が不調 の侭なのも気になった。 で、その調整に来てくれるよう、大元のヤフーから、下請けのネクシーズ、 更に孫受けのネクサス。そして、そのネクサスの契約サポートスタッフと 名乗る地元のパソコン技術者と電話を掛けてみる事にした。「トラブルの相談は休日でもOK」と受付の挨拶状に書いてあり、手っ取り 早い方が良かろうと地元の曾孫受けから順次電話を入れてみたが、何れも お話中ばかり…。 こうして、何だかヤヤコシ過ぎる現代社会の縮図みたいな不便さを味合わ されながら、漸くにして繋がった先は、出張サービスの可能性が一番困難 そうな、ご本家・ヤフー。 応対してくれたのは、その相談担当者として偶々日曜出勤していたらしい AN君という若々しい声の持主。 予想した通り出張サービスの要請には応じて貰えなかったが、実に親身に なって心配し、こちらがもう仕方がないかと思いかけてもコウしてみては アアしてみてはと、アレコレ不調克服に努力してくれる親切さだった。 同じヤフーの相談窓口社員でも、一昨夜応対してくれた中年の男性社員は 実に横柄だった。此方にはロクに喋らせず自分の言いたいことを一方的に 捲くし立てるばかり…。こんな相手では何の役にも立ちそうもないと、話 半分だが「もう結構」と、此方から電話を切りたくなったものだった。 だから、この仕事熱心な若者らしいAN君に応対してもらえた事は、結局、 その努力と粘りの甲斐もなかったとは言え、「フレッシュな大企業と思いプロバイダーを変える事に踏みきったヤフーも、 何だ、こんな殿様商売を始めているのか…」 と思いかけたイメージを保って余りあるものだった。 ともあれ、今回のトラブルは如何とも成し難く、午前中の2時間程を空費 したのみに終り、いささかガックリ。 ☆時ならぬ嵐の被害と、可愛さ余る厚顔オバン娘の口害にカックン。 戦災住宅を転用し「故郷の廃家♪」を連想させる程に朽ちた裏庭の物置も、 夜どうし吹き荒れた師走台風29号崩れの低気圧で、遂に屋根が半分剥がれ そうになり、棟近くがパックリ口を開けてしまっていた。 TVアンテナの倒壊に気を取られ朝食時には夫婦して気付かぬ侭だったが、 ヤフーと私との電話が思いがけず長引いている間に庭を一巡してきた幸が、 コレを見つけたと言う訳である。 後で聴いた話では、今回の時ならぬ嵐による近隣の被害は予想以上とか…。 一本一本お経を唱えながら、この千本松原に松を植えたとされる増譽上人 の銅像も台座から転げ落ちてしまったというし、築後三年という海岸端の 家の屋根が半分飛ばされてしまったとも言うから、築後半世紀以上になる 我家の戦災住宅の屋根が壊れても当然…。 敗戦記念物としての意義も考え、朽ちるに任せていたのだが遂にご臨終? そうも思った。 ところが、私のそんな感傷も何のその、知らぬ間に来ていた長女の一菜が 何時までも終らぬ私の長電話に腹を立て、未だ電話も終らぬうちにガナリ 出した。「お父さん、何時までソンナ電話してるのよ !! お母さんばかり、嵐の後始末をさせていて、自分はパソコン三昧なんて…」 と、コンナ剣幕を並べて大ムクレ。「でも私は、このところ酷い腰痛続きで庭仕事なんて到底無理。 それに大事な用事があるからこそ、相手と長々話しているんだ。 第一、父親に向かって何て態度だ」。 そう言い返したら、怒って帰って行ってしまった。「まあ事の善悪はともくとしても、未だ風も強く、誰が行うにせよ庭作業は 松籟(ショウライ)が止んでからしたほうが、安全だし二度手間にならない。 相変わらず立場も弁(ワキマ)えぬ、父娘逆転お構いなしの身勝手娘め…」。 そう幸に言い聞かせるように、腹立たしく呟いた私でもあった。 ☆ ☆ ☆ ところでソンナコンナの一騒動を一菜から漏れ聞き心配してくれたらしく、 娘婿の健さんが夕刻やってきて、知り合いの工務店に物置の取壊しを見積もらせ てくれるとの事。 この戦災住宅は当初6坪だったが、物置として建て増した下屋部分を加え 計7坪半の建物である。 戦災直後は、これと同じ形の建物が全国津々浦々の戦災都市に雨後の筍の ように立ち並んでいたものだが、今は殆んど目にしなくなった。 言わば我家の戦災記念物で、それゆえ貴重な思い出も一杯で愛着がある。 実家の物置として使っていたものだけに相続問題の微妙さもあったが、 問題解決の後も何か壊すに忍びなく躊躇われたのは、そんな私の思い入れ もあっての事だった。 中には、今は珍しい頑固な大八車とか、大木の根を加工して作った大火鉢 等、些かなりと骨董的な価値がありそうな工芸品もある筈。 何だ、こんなオンボロ屋と言われそうだが、機械で「ガツン、メリメリ」 と壊すのは惜しまれてならないのだ。 しかし止む無く壊すとなれば一層の事、娘達の部屋等に使っていた同じ 7坪半のプレハブ棟も一緒に…との思いもあった。 でもソウなると、中の荷物の移動や場所の確保もヨリ大変となってくる ので、先ずはこの戦災住宅だけにして裏庭の眺めをスッキリさせるだけに しておく。 何れにせよ今年は、嵐が吹く度にアレコレ被害が出て造作事を余儀なく された。すると、娘まで口を揃えてアレコレ言いたい放題の注文が殺到 した。 このパソコンにしても、元はと言えば妻子に勧められて始めたもの…。 なのに、今では、妻子口を揃えて「止めろ止めろ」の大合唱である。 古希路に入った私にパソコンがソンナ簡単に使いこなせるとでも思って 勧めたのか…と、腹立たしくもなる。 まあ、そんな訳で今日も又々「あ~のねオッサンわしゃ敵わんよ!!」と 呟きたくなった、一寸トホホな一日に終った。 ***********************************************************************************
2004年12月05日
コメント(4)
全8件 (8件中 1-8件目)
1


