全31件 (31件中 1-31件目)
1

西伊豆二日目です12/9(日) 7:33ホテルの廊下から堂ヶ島海岸朝食のバイキングこの日も堂ヶ島海岸は風が強くて「洞くつめぐり」の遊覧船が欠航のため「土肥金山」へ行く事に。9:28土肥金山の駐車場へ到着江戸時代にタイムスリップ! 金塊展示資料館「坑内めぐり・黄金館」見学は、A、B、C コースとある入場券売場十数年前に一度入場したことがあるが、リニューアルしていたので久しぶりに入る土肥金山入場料、砂金採り体験料(30分間)A、C コース入口門番人形をバックに写真は削除しました山神社祠洞土肥金山の経緯建徳、文中、天授(1370年代)の時代、足利幕府直轄の金山奉行が土肥を支配し、盛んに金を掘ったのが土肥金山の始まりと伝えられる。以下時代を追って説明①天正5年(1577)大横谷、日向洞 等五ヵ所を開発、このころより土肥の金山が本格的 に採掘される。②慶長6年(1601)徳川幕府が伊豆の金山開発に力を注ぐ。③慶長11年(1606)幕府金山奉行大久保石見守長安が伊豆の金山奉行も兼ね・・・。④慶長18年(1613)大久保石見守長安が没し、・・・・・寛永2年(1625)には休山。⑤明治39年(1906)神戸の実業家長谷川が外国人技師を招へい、採鉱を行い成功。⑥大正6年(1917)長谷川が発起人となり土肥金山㈱を設立。⑦昭和17年(1942)社名を土肥鉱業㈱に変更。⑧昭和40年(1965)鉱量枯渇のため閉山昭和47年(1972)社名を土肥マリン観光㈱に変更し、坑内の一部を観光坑道として整備し一般観光客に公開している閉山までの採掘坑道の総延長100km、最深部は海面下180mに及び、又、金銀の推定生産量は金40トン、銀400トン、現在(平成24年7月相場)の金額にして約2,045億円となる往時からの伊豆における最大の金山として知名度が高く、最盛期には全国鉱山中で第二位の金生産高をあげ、佐渡金山に次ぐ大金山として著名であった坑道入口の手前に堀があり黄金色の鯉がおよぐ鯉の餌を購入して与えると大きな口を開けて最中を9:43坑道長さ(見学路)約350mの坑内めぐりに金の採掘の様子などを等身大の人形が再現!土肥金山坑内のようす土肥金山の坑道は総延長100km、地底深度180m、面積37ヘクタールに及び、採掘が進むにつれ切羽が深くなると、噴出する温泉熱や通気が悪く酸欠で倒れる(気絶)、灯火も消えるため、各所に唐箕(送風器)を置いて空気を送って稼働した 釜の口・四ツ留の由来坑道入口を釜の口、または鋪口(シキグチ)という。釜の口とは入口が窯の口に似ているため付けられた名前である。鋪(シキ)は坑道の中で鉱夫たちがタガネを使って金鉱を掘る場所である土肥港出入の千石船土肥金山の産金が増加すると人の交流が多くなり、資材や食糧衣類などの消費物資は全国各地から千石船で土肥港に運ばれ陸揚された。また産金は御用船で駿府や江戸へ送り出されて港は活況を呈した土肥金山町屋の賑わい奉行所武家屋敷、鉱夫長屋勝場、床屋などの金山関連の建物をはじめ、商家、旅籠などの町屋が形成され、毎日商人職人、行商人等の働く姿で賑わいと活気とで町中があふれていたと薄暗い坑道内山神社(サンジンジャ)鳥居は金箔?で装飾山神社の説明板祭神 大山衹尊(オオヤマズミノミコト)古来。大山衹尊は金山守護の神であり、金穿たちは坑内の出入りには必ず礼拝して、作業の安全と黄金の幸を祈るのがしきたりで、この伝統は現在の坑夫にも引き継がれている手繰り水替え手繰り水替えの説明板切羽(坑内の採掘現場)が深くなると地下水が噴出するので、水貫(排水坑道)まで水を汲み上げます。この作業に従事する者を水替え人足といい、昼夜を問わず多数の人足が休むことなく働いていた切羽(キリハ)切羽(キリハ)の説明板坑内の採掘現場を切羽といいます。江戸時代には、女性も坑内で働くことが多く、なかには夫婦一緒に働き、男は金堀り、女は運搬の仕事をした。坑内は、地熱や温泉熱で大変暑いので、裸に近い姿で働かざるを得なかった坑内風景ところどころ低いところがあり頭を下げて歩行坑内風呂土肥の温泉は金山から湧き出したのが始まりといわれており、当時から坑内で湧出した温泉は、坑内で働く金堀たちにとって作業の疲れを癒しながら、最も楽しい一時の憩の場所であった岩肌は本物もあれば樹脂製のものもあった金子地蔵尊採掘切羽採掘切羽の説明板ここは400年前、この金山で本格的に採掘が始められた最初の鉱脈です。天井に見られる赤い岩盤の個所が金鉱脈である。この脈に沿って坑夫達が採掘を進めた坑外の風景大久保石見守長安慶長11年(1605)から同18年、69歳で没するまで7年間、金山総奉行として土肥金山を統括した江戸時代の貨幣制度徳川家康は日本で初めて貨幣制度を統一し、貨幣単位を定めて国内流通を目的とした金・銀・銭(銅)貨幣を造った。金貨は小判1枚の1両を基準に、額面金額と枚数で価値を表す計数貨幣、銀貨は匁(=3.75g)という重さの単位により価値を示す秤量貨幣、銭貨は1個が1文の計数貨幣というように別個の価値体系を持っていた。下の小判は徳川家康が、全国に通用させることを目的として、慶長6年(1601)に初めて鋳造した一両小判江戸時代貨幣の交換比:大判(十両)、小判(一両)江戸時代の大判小判千両箱重量実感体験:重量は約22kgある世界一の巨大金塊重量は250kgあり、12月6日の価格で、12億26百万円なりこちらは12.5kgの金塊だが持ち上げることができず。こちらの時価は、61百万円なり坑内観光 → 黄金館 → 広場昭和後期の設備も残る昭和37年(1962)操業停止した鉱山施設上御用金を運ぶ荷車10:25真冬に花咲く土肥桜土肥桜開花時期:12月下旬 ~ 2月上旬まで土肥金山は、2019/1/19(土) ~ 2/3(日) 土肥桜ライトアップ(入場無料) 西伊豆(2/5)へ 西伊豆の旅 続く
2019.01.31
コメント(0)

行きつけの仁科漁港で昼食後、南下して雲見海岸へ。12/8(土) 12:23昼食で仁科漁港の「漁協直売所(沖あがり食堂)」へ到着所在地:静岡県賀茂郡西伊豆町仁科980-6 ☎ 0558-52-0018味のある看板オヤジがお出迎え!!!ここは春先の河津桜を見に行った帰りに数回立ち寄っている食堂。イカで勝負! 丼で勝負! のこだわり食堂。刺身イカを乗せた「イカス丼」、漬けたイカと卵の黄身で夕陽をかたどった「夕陽丼」、刺身イカと漬けたイカを乗せた「いか様丼」など、”イカ”と”丼”にこだわるユニークな食堂で、ライダー等のリピーターが多い。タイミングがよければ「活きたイカ」もお刺身でゲットできる私は、酢飯をベースにしたスルメイカと漬けの2種類を乗せた”いか様丼” \820他に、スルメイカを乗せた”イカス丼” ¥820 漬けにしたスルメイカを乗せた”夕陽丼” ¥820 ヤリイカを乗せた”ヤリイカ丼” ¥1100 等がある。 妻は、海鮮丼いけすから取り上げた”アジの刺身定食”13:07営業時間:11:00~15:00 火曜日は定休日ですのでご注意を!13:35昼食後、国道136号線を南下して松崎町の「雲見海岸」へ所在地:静岡県賀茂郡松崎町雲見雲見海岸から、スフィンクス岩越しに富士山が見える伊豆の中でも、富士見スポットとして素晴らしい場所。遠くに「牛着岩(ウシツキイワ)」も見える松崎町では、伊豆随一!いや、それどころか、世界一!?と。また松崎町では、H24年2月23日の富士山の日に「世界でいちばん富士山がきれいに見える町」を宣言した雲見想い出岬ここの上にある、烏帽子山の山頂(雲見浅間神社)から眺める雲見海岸もきれだが、この日は風が強くあきらめる、またいつか・・・・・スフィンクス岩と富士山静岡県屈指の観光地として知られる伊豆。その中でも、西伊豆町・戸田村・土肥町松崎町一帯は西伊豆と呼ばれ、絶景の夕陽や温泉を目当てに多くの人が訪れるスフィンクス岩、牛着岩、富士山岸壁には青森ナンバーの車が駐車していて、写真撮影のおじさんが待機13:43雲間漁港、近くに”雲見クジラ館”もあり、海岸の一角には、地元の人が手作りした無料で浸かれる”渚の足湯”がある13:45国道136号線を北上、ホテルへの帰路路肩へ車を止めて撮影堂ヶ島海岸越えに富士山牛着岩(ウシツキイワ)と富士山牛着岩の大牛と子牛別名”夫婦岩”とも呼ばれていて綱で結ばれている。名前の由来は、時は文化13年(1816)、伊能忠敬が全国を測量していた頃の話。雲見に大洪水が起こり、十数軒の住居が流されたり埋まったりと大変な被害を出した。その際、家畜も流されてしまったが、牛が岩に流れ着き生きながらえていたため、この岩を「牛着岩」と呼ぶようになったとか。以前は、岩の頂上に鳥居が建っていた、またここは、ダイビングスポットでもある13:55再度車を止めて、白波の堂ヶ島海岸越えに富士山13:59国道136号線を北上して堂ヶ島、右折すると下田へ14:02西伊豆町へ入る14:22ネットで事前予約していたバースデーケーキを受け取りに ”Satouya” へ店先に、”ふるさとのうぜい” 感謝券取扱店の看板がショーケースの中には豪華なケーキが通信販売もしており、ケーキはもちろん、洋菓子、生菓子、焼菓子などを販売。店内には、カフェも常設しているネットには、西伊豆の漁師町に突如現れる、都会的で洋風なお店と14:30国道136号線「沢田交差点」へ戻る堂ヶ島海岸へ到着したが風が強い14:32風が強くて、堂ヶ島の遊覧船が欠航のためホテルへ早めに行くことにする。宿泊のホテルの ”堂ヶ島アクーユ三四郎”フロント横に堂ヶ島三四郎島の ”トンボロ現象” の写真フロントに聞くと、この時期のトンボロ現象は真夜中だとのこと。トンボロ現象とは、普段は海によって隔てられている陸地と島が、干潮時に干し上がった海底で繋がる現象である6階の貴賓室へ案内される一族7人、大部屋に宿泊夕陽を期待するが西の空には雲が多く「三四郎島」は、西伊豆町堂ヶ島の沖に浮かぶ4つの島の総称。潮の干満や見る角度で3つにも4つにも見えるユニークな島である。この島は、干潮になると海の中から道が現れて陸とつながる。この「トンボロ現象」は日本でも大変珍しいもの国道136号線、海は青々としているが風が強い15:46夕焼けを期待するがホテルのベランダからの三四郎島16:04陽がだいぶ沈むが雲が多く16:23ベランダの露天風呂に入るが風が強くて寒かった西の空に太陽が沈む16:28日の入りの時間だが折角ホテルからの日の入りを期待したが17:05空は晴れているのだが18:00夕食会場へ全員の写真は削除しました夕食海老が大好物の孫写真は削除しました19:11夕食後は部屋でバースデーパーティーローソクを8本立て19:15一気に消せるかな?この後はトランプに興じて誕生日を祝う 西伊豆(1/5)へ 西伊豆の旅 続く
2019.01.30
コメント(0)

孫が12/11に8回目の誕生日を迎えるので恒例の家族旅行で、12/8(土)、9(日)に西伊豆の堂ヶ島温泉へ一日二日の旅をしました。12/8(土) 9:22孫たちは早朝東京、横浜からもわが家へ集合して、一台の車にて西伊豆へ向かう。国道134号線を走り西湘バイパスへ大磯の西湘バイパス入口土曜日であったが道は空いており大磯漁港&海岸の高架富士山は見えず西湘バイパス、大磯ロングビーチ辺り昨年の台風による浸食でまだ一車線規制中9:30西湘バイパス橘料金所伊豆大島が見える9:40箱根新道を走り箱根峠へ右側の高架は、箱根湯本方面の国道一号線箱根新道を登る高架は、畑宿からの旧東海道。この辺りは、東海道53次で昨年の11/28(水)に旧街道を歩いたばかりだ。高架橋には「国指定史跡 箱根旧街道、石畳橋」9:56標高846mの箱根峠、ここを左折して十国峠へ10:10十国峠ケーブルカー・レストハウス伊豆半島MAP駿河湾を望む三島・沼津市街地箱根十国峠ケーブルカー箱根と伊豆を結ぶ、十国峠ドライブウェー途中の十国登り口駅から尾根上にある十国峠駅を結ぶ、西武グループ・伊豆箱根鉄道のケーブルカー。ケーブルカーで上がれば10国5島を眺めるという十国峠展望台に到着する。高低差:101m、全長:316m を3分で結ぶ。元旦には、初日の出を見るた早朝運転を実施している。昭和31年10月16、伊豆箱根鉄道前身の駿豆鉄道が開業した。この日は富士山が見えないので乗車は次回とする10:28有料道路の伊豆スカイライン熱海峠IC:亀石峠まで購入10:32標高649mの「滝知山(タキチヤマ)」展望台滝知山展望台からの眺望案内図市街地は熱海市で、遠く初島、伊豆大島が見える熱海市街地熱海港伊豆七島の「利島」と「???島」手前は真鶴半島、遠くには三浦半島、房総半島が見える10:42標高694mの西丹那展望台この辺りの下を、JR東海道線、東海道新幹線が通過している雲の合間から富士山が見える伊豆スカイラインの箱根方面「???の鐘」と孫たち10:54パーキング「スカイボード亀?」亀石峠出口10:54亀石峠ICを出て、県道19号線へここを右折して県道19号線を走り伊豆市へ10:58自転車の国「サイクルスポーツセンター」所在地:静岡県伊豆市大野1826 県道19号線沿いにある2020年東京オリンピック自転車トラック競技・MTB競技会場に決定!センター内には、展望レストランがあり富士山を眺めながら食事ができる11:16国道136号線沿いの狩野川ここは「修善寺エリア」11:19この橋を左折すると「修善寺駅」、我々は下田・天城湯ヶ島方面へ向かう11:31国道136号線の西伊豆・土肥方面へ11:47船原峠(土肥峠)、国道136号線(西伊豆バイパス)からの駿河湾11:51船原峠(土肥峠)、国道136号線(西伊豆バイパス)を下る11:56土肥港へ、ここから土肥 ⇔ 清水のフェリーが発着11:59明日の帰路に立ち寄る、伊豆市指定史跡「土肥金山」12:01伊豆市八木沢西ノ浜温泉のホテル、青空で海は青々としている12:05昼も過ぎたので、以前行ったことがある仁科漁港で昼食をとることにし国道136号線を南下する。途中、雲の上に富士山が見える12:08恋人岬は静岡県伊豆市にある岬である。観光地として多くの観光客が訪れ、グアムにも同名の岬がある。駿河湾越しに富士山を見渡せることもできる展望スポットがあり、恋人達の聖地と呼ばれ、ラブコールベルという鐘が立つ12:10安良里(アラリ)漁港12:21堂ヶ島公園:ここから、洞くつめぐりの遊覧船が出港する。仁科漁港で昼食後乗船することにしているが、風が強いので出港するかどうか?12:23仁科漁港の「漁協直売所(沖あがり食堂)」へ到着 西伊豆の旅 続く
2019.01.29
コメント(0)

目黒不動尊から歩いて戸越銀座へ行き、五反田の新年会会場へ16:11大本堂右にある「子守延命地蔵尊」サツマイモの幟が多く立ち並び目黒不動尊には「さつまいも」の栽培方法を広めた「甘藷(カンショ)先生」こと青木昆陽さんの墓がある、国指定史跡になっている青木昆陽(アオキコンヨウ)元禄11年(1698)6月19日 ~ 明和6年(1769)11月9日 享年71歳江戸時代中期の、幕臣御家人、書物奉行、儒学者、蘭学者でサツマイモの普及を図り、甘藷先生と呼ばれる。境内には、不動尊子供会のさつまいも畑がある行者倚像(ギョウジャイゾウ)銅造役の行者倚像の説明役の行者(役小角ともいう)は奈良時代の山岳修行者で、修験道の祖として崇拝されている人物。像の腹部、胸部、腕部等に刻銘があり、神田に住んでいた鋳工太田駿河守藤原正義の制作であることがわかるとこの像は寛政8年(1796)の作で、総高142.2cm、坐高92.7cm鈴懸(スズカケ)の木スズカケノキは、スズカケノキ科のスズカケノキ属の落葉広葉樹。果実が楽器の鈴に似ていることからこの和名がついた。属の学名であるプラタナスと呼ばれることが多い。昨年の台風?で倒れた樹木の養生をしている阿弥陀堂で御朱印をもらう阿弥陀堂ここでは御朱印は三枚(掲示品から撮影)観音堂と書院(右側)一段高いところに「大本堂」がある境内に咲く冬桜16:25門前町の目黒不動商店街歩いて五反田へ行くことにするが、まだ時間が早いので「戸越銀座」へ行くことに16:28天台宗 成就院(ジョウジュイン)所在地:目黒区下目黒3-11-11タコと成就院別名「蛸(多幸)薬師」 創建は慈覚大師で本尊の蓮華座を三匹の蛸が支えている。これは、大師が海に投じて薬師像が蛸に乗り漂着した故事に由来し、蛸薬師も名もここからついた天台宗 成就院天安2年(858)慈覚大師の開山で、本尊は大師の自作と伝えられ三匹の蛸にささえられる蓮華座に乗る薬師如来像です。俗に蛸薬師とよばれ疫病除の仏として人々にあがめられている。この寺の所有に浮世絵師鳥居清長(1752~1815)筆の、歌舞伎十八番の一の出し物を描いた「矢の根五郎」の額がある。国の重要美術品に認定され国立博物館に保管されている本堂前から山門を蛸薬師の提灯お静地蔵尊・由来記境内には、徳川二代将軍秀忠の側室お静の方がわが子、保科正之の栄達を祈願し、大願成就のお礼に奉納された「お静地蔵」が建てられ、また、三代将軍家光が遠州の秋葉大権現を勧請した「秋葉大権現」が併祀されている元和年間三代将軍家光公は目黒で鷹狩の際、当寺に参拝され、舜興和尚(中興第15世)とのご法談の折、保科正之公との浅からぬ縁を知り、それにより寛永8年正之公は信州高遠城主となった。お静は、大願成就のお礼として、阿弥陀如来像を納め奉った。正之公は後に山形城主、さらに正保元年会津藩23万石の城主となり、会津松平家の祖となったこの他に、江戸時代の地蔵尊や庚申塔が建っている16:32蛸薬師山門らかんさんの大寺「五百羅漢寺」の石碑16:38山手通りを歩き、道路脇に紅葉のモミジ18時からの新年会にはまだ早いので、元会社の傍を歩いて戸越銀座へ向かう。17:00首都高速2号目黒線の入口17:06荏原二丁目交差点を左折して「戸越銀座通り」へ入る「平塚地区」「お好み鯛焼き」安納いも 220円、つぶあん、贅沢カスタード17:10東急池上線の「戸越銀座駅」上下線ホームへの入口は異なる戸越銀座は、品川区豊町及び、戸越、平塚にまたがる戸越銀座通りに沿った商店街で、3つの商店街からなっている。全長約1.3kmにわたる関東有数の長さの商店街である。なおメディアなどでは、日本一長い商店であると紹介されることもあるが、実際は大阪・天神橋筋商店街の約2.6kmが最長とされる17:14国道一号線の、戸越銀座交差点国道一号線交差点を渡り「戸越地区」へ17:22途中で折り返し戻る薩摩國、薩摩川内 戸越銀座店いつだったか、誰かの散歩(じゅん散歩?)で紹介された店17:24安い大衆酒場もあったが17:26新年会の時間も近くなり、電車で「大崎広小路駅」へ向かうことに17:31山手通りの「大崎広小路交差点」17:36国道一号線と山手通りとの「西五反田1丁目交差点」この先に元会社の事務所がある17:44予定時間には少し早いが会場へ17:46いつもの中華料理店で新年会男性5人、女性2名の7人で、3時間食べ放題、飲み放題珍しい鍋料理が出てきたと豆腐の餅後から来る二名のために鍋を用意春雨の・・・・・辛めの麻婆ドーフ海老のチリソース海老のマヨソース今回も「カニあんかけ炒飯」21:153時間食べ放題、飲み放題で満足して帰路に今回は、旅友とは別行動でJR新宿ラインを利用して帰宅22:05JR戸塚駅で東海道線に乗り替える今日のウオーキングは、18,036歩でした 新年会END
2019.01.28
コメント(0)

2008年に旅友のKさんとスペイン旅行をしたが、その時の縁で毎年11月後半には愛知県の香嵐渓へ行ったり、年末年始には忘年会&新年会とお会いして親睦を図っている。今年も、新年早々に新年会をやるとのことで東京へ出かけた。新年会が18時からのため、その前に以前から行きたかった目黒区の「目黒不動尊」をブログ取材で訪れた。1/9(水) 14:00自宅から駅への途中にある「八王子神社」へ立ち寄り「健康祈願」本村八王子神社本殿手水舎と鐘楼手水舎には作法の手順が親切に貼りだされていた。左手を清め → 右手を清め → 左手に水を受け口をすすぎ → 再び左手を清め → 柄杓を縦に持ち、残った水で柄を洗い流す。水も自動感知で出てくる護國社と天満宮14:05これからの行事として、1月14日 「どんど焼き」、2月3日「 節分祭」15:10JR大崎駅で山手線に乗り替える。ホームゲートも一部設置済み15:16JR目黒駅JR目黒駅改札口15:23駅から目黒通りを下る立て札は「目黒区みどりの散歩道 ◎不動コース」15:24JR目黒駅から、「目黒通り」を下り「山手通り」方面へ不動道りの商店街?15:25目黒川に架かる「目黒新橋」目黒新橋上から、下流の品川方面同橋から上流の渋谷方面春には桜が咲き誇る目黒川山手通りへ15:29山手通りの、大鳥神社交差点15:30山手通りと目黒通りが立体交差に大鳥神社交差点に面した「大鳥神社」何故か母娘の像がすき家の前に本を読んで聞かせている像なのか15:34大鳥神社所在地:目黒区下目黒3-1-2区内最古の大鳥神社江戸期には目黒不動、金毘羅権現と並び ”目黒の三社様” といわれた。天保の頃から伝わる太々神楽「剣の舞」「熊手の舞」は華麗で荘厳。毎年11月には酉の市が立つ大鳥神社この神社は、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の東征にゆかりがあるといわれるこの地に、大同元年(806)創建された区内最古の神社です。江戸地図として古いものとされる「長禄江戸図」に書かれている古江戸9社の1つで、目黒村の総鎮守でもあった。祭神は日本武尊を主神として国常立尊(クニトコタチノミコト)と弟橘媛命(オトタチバナヒメノミコト)を合祀している大鳥神社のオオアカガシ都指定天然記念物「大鳥神社のオオアカガシ」指定時に樹高約16m、幹周り1.6mあった本樹は、生育環境の変化等により昭和50年代初めごろから樹勢の衰退がはじまり、数回にわたる樹勢回復事業も実施されたが平成14年枯死が確認された。また、後継樹育成のため挿し木による増殖も試みたが成功せず、平成24年に指定解除となった切支丹灯籠切支丹灯籠下目黒の大鳥神社所蔵で、昭和38年 守屋図書館に開設された郷土資料室に出品公開されて以来、中庭で展示している。もとは千代が崎(現在の東京都教職員研修センター付近)の大村邸内にあり、かってこの地にあった肥前島原藩主松平主殿守の下屋敷にまつられ、密かに信仰されていたものと伝えられている大鳥神社本殿大鳥神社御由緒御由緒と酉の市(八つ頭と熊手の由来)15:42天台宗 大聖院大鳥神社に隣接している大聖院の境内にある「切支丹灯籠」この3基の灯籠は、切支丹灯籠とか織部式灯籠と呼ばれているもと、三田千代が崎の旧島原藩主松平主殿頭の下屋敷(後の大村伯邸)林泉中の小祠内にあったが、大正15年10月大聖院に移したものです。中央の最も高い1基の棹石には変形T字クルスとキリスト像とおもわれる形状が、又左右面に、漢詩が刻まれている。この灯籠は、徳川幕府の弾圧を受けた隠れ切支丹が庭園の祠等に礼拝物として密そかに置かれていたものだといわれている15:46大聖院から、目黒通りを歩き、ここを左折して目黒不動尊(滝泉寺)へ向かう。この角に「目黒寄生虫館」がある。昭和28年、亀谷了博士が開設した、世界でただ一つの寄生虫の博物館。ここに集められている寄生虫の標本や文献は約8万点。衛生上重要なものを中心に、一般動物の寄生虫も含めて約300点の標本が展示されている15:51東京都目黒区立「不動公園」古代遺跡も眠る不動公園昭和9年にオープンしたこの公園は、碑文谷、清水池の両公園と並び、区内で最も古い公園の1つ。地下には古代遺跡が眠る、昭和55年の発掘調査では、目黒区で初めて弥生後期の竪穴式住居跡っが出土。縄文期の土器、石器類も多数見つかっている。公園裏の共同墓地には、サツマイモ栽培を奨励し「甘藷(カンショ)先生」と呼ばれた江戸の儒学者・青木昆陽の墓がある左折すると「甘藷先生(青木昆陽)」の墓16:00目黒不動尊の前にある「目黒 比翼塚(ヒヨクヅカ)」権八・小柴の悲話伝える比翼塚処刑された愛人白井権八と、彼の墓前で自害した遊女小柴。その悲話は「後追い心中」として歌舞伎などで有名だが、この比翼塚は二人の来世での幸せを祈りたてられた新東京名勝、選外十六景「目黒不動尊」仁王門昨年の大河ドラマ「せごどん」で放映されたが西郷隆盛が薩摩藩主島津齊彬の病気回復祈願で度々参拝した瀧泉寺(リュウセンジ):目黒不動尊所在地:目黒区下目黒3-20-26天台宗泰叡山瀧泉寺は、大同3年(808)に慈覚大師が開創したといわれ、不動明王を本尊とし、通称「目黒不動尊」と呼び親しまれている。江戸時代には3代将軍徳川家光の帰依により堂塔伽藍の造営が行われ、それ以後幕府の厚い保護を受けた。また、五色不動(目黒・目白・目赤・目黄・目青)の一つとして広く人々の信仰を集め、江戸近郊における有名な行楽地になり、門前町とともに大いに賑わった。さらに江戸時代後期には富くじが行われるようになり、湯島天神と谷中の感応寺と並んで「江戸の三富」と称された仁王門から境内を目黒不動尊 境内案内図正面の石段は「男坂」、左に「水かけ不動」朱色の「前不動堂」手前に「垢離堂」「水かけ不動」水かけ不動瀧泉寺は関東最古の不動霊場で四季折々の風情が輝き、善男善女の心に安らぎをもたらす。「獨鈷の瀧」は不動行者の水垢離場となり、江戸幕末には西郷南洲(隆盛)翁が薩摩藩主島津斉彬公の當病平癒を祈願したと男坂(石段)を登り「護國院」鳥居西郷隆盛もここへ来たのだと思うと・・・・・・大本堂大本堂左側にある「愛染明王」微笑観世音菩薩大本堂から男坂の上にある鳥居大本堂前大本堂から裏に廻り「大日如来」本堂裏にある「大日如来坐像」銅造大日如来坐像蓮華座に結跏趺坐(ケッカフザ)しているこの坐像は宝髪、頭部、体躯、両腕、膝等十数か所に分けて鋳造し、それを寄せて一体とした吹きよせの技法で造られている。総高385㎝、座高281.5cm、頭長は121㎝で、体躯に比べ頭部を大きく造るのは大仏像共通の特色であり、面相も体躯も衣文表現もよく整っている。刻銘から制作年の天和3年(1683)と、制作者が江戸に住む鋳物師横山半右衛門尉正重であることがわかることも貴重16:09春のしだれ桜が楽しみ 目黒不動尊(2/2)へ
2019.01.27
コメント(0)

九品仏の後半で紅葉を楽しんだ後、中目黒のライトアップ、大崎での忘年会へ12/6(木) 14:55中品堂前から上品堂本堂へ向かう天然記念物「九品仏のイチョウ」濡れ落ち葉も紅葉本堂前から中品堂来迎会(オメンカブリ)当山には、ひろく「おめんかぶり」の名で親しまれる行事がある。これは三年ごとに奉修される阿弥陀如来二十五菩薩「来迎絵(ライコウエ)」のことで、無形文化財に指定。念仏行者が臨終の夕べに、阿弥陀様が二十五の菩薩様を従えて西方浄土のご来迎になるという、浄土の教えを行事にしたもので、その日は三仏堂から??への懸橋を信者の方々が菩薩のお面をかぶって行道する尊くもまた厳粛な儀式である。このおめんかぶりは、三年に一度の行事であり、5月5日の午前11時、午後1時の1日2回おつとめする。関東においては、当山のみの行事であると本堂前から上品堂九品仏浄真寺 本堂 本尊は釈迦如来坐像。 浄真寺の地は、もともとは世田谷吉良氏系の奥沢城であった。小田原征伐後同城は廃城となったが、寛文5年(1675年)に当地の名主七左衛門が寺地として貰い受け、延宝6年(1678年)、珂碩(カセキ)が同地に浄真寺を開山した本堂前の地蔵菩薩その後方に下品阿弥陀堂が本堂には珂碩上人自作の本尊・釈迦牟尼如来坐像〔都有形文化財〕を安置。 龍護殿(リュウゴデン)とも呼ばれる本堂は、元禄11年(1698)に三仏堂とともに完成。 本堂は、浄土:彼岸(ヒガン)の世界を表す三仏堂に対し、西面して穢土(エド):現世、此岸(シガン)を表しているのだと本堂右手の枯山水庭園イチョウの木の葉はおちているが銀杏がまだ落ちずに頑張っている本堂から仁王門を本堂前の地蔵菩薩本堂前天然記念物にもなっている境内の巨大なイチョウの樹の脇に一つの歌碑が『掃きよせて 落ち葉焚く間も 銀杏の樹 やまずしこぼす 黄なるその葉を』植松壽樹歌碑(ウエマツヒサキカヒ)で、大正昭和期の歌人。歌誌『沃野(ヨクヤ)』を創刊・主宰した。墓所はここ浄真寺にある東京都天然記念物『九品仏のイチョウ』仁王門へ向かう茅葺を銅板に葺き替え工事?開山堂の前にある手水鉢サギソウの蛇口手水舎&仁王門開山堂の脇には三十三観音中央にあるのが観音堂、周りを三十三の石の観音像が取り囲んでいた。 奥沢神社(世田谷区奥沢)の前々代の本殿で、天保年間(1831~1845)から江戸時代末頃に建立され、明治時代に浄真寺に移築されたのだと。水子地蔵、浄大供養地蔵(右側)開山堂のそばに立つ水子観音菩薩像珂碩(カセキ)上人 開山堂開山堂には浄真寺開山珂碩上人のお像を安置。このご尊像は上人自彫のもので、お姿は合掌する上人御年42歳の時のものであると。この像も文化財に指定されており、万治元年(1657)上人が如来のお告げ三度により水鏡に御姿をうつし彫刻されたものであって、古来より安産・厄除・開運としてひろく信仰をあつめていると開山堂前の紅葉九品佛浄真寺東門から仁王門九品佛浄真寺東門総門から参道を通り九品寺駅へ総門にのら猫?15:22九品佛浄真寺総門15:28東急大井町線「九品寺駅」駅に着いたら旅友が愛用の傘を持っていないの気づき聞くと「九品仏の本堂前に忘れた」とのことで、しばし駅のベンチに座り待つことに。この間、時間がありスマホでネットを開くと「圏外」と表示。後から分かったが、この日は14時前ころからソフトバンクのスマホが「圏外」と表示され全く繋がらなくなってしまったのであった。 最初は理由がわからず、何故世田谷区のこの場所が『圏外』と。しかし移動しても変化がなく、旅友も16時からの約束があり盛んに操作するが繋がらず。しかも大崎広小路駅周辺で公衆電話を探すも、見つからず、公衆電話のない現実を目の当たりにした15:30駅のホームでは皆さん携帯電話を操作していたが、他の方も同じ思いをしていたのか 15:35九品仏駅にはホームドアが設置、待つこと10数分で旅友も無事傘をもって15:58大井町線「旗の台駅」にて池上線へ乗り替え15:59東急池上線の「旗の台駅」16:13東急池上線「大崎広小路駅」で下車大崎広小路交差点、ここには「ゆうぽうと大崎」があったが現在取り壊して閉業中山の手通りの、大崎広小路交差点、JR大崎駅方面。公衆電話を探すが見当たらず16:44忘年会まで時間があるので、中目黒のライトアップを見ることに。このため大崎からバスにのり、東急東横線「中目黒駅」へ到着16:46東急東横線「中目黒駅」この間公衆電話を探すがなく、ようやく中目黒駅で見つけて許可を得て中に入り電話16:49旅友も相手に電話事情を伝え、中目黒の商店街へ16:51目黒川のライトアップ、数年前に来ていたのでブルーのライトアップを期待したが本格的にはライトアップ期間 2018年12月15日(金)~12月24日(日)ライトアップ時間 16:00~21:00とのこと16:54ゴールドのイルミネーションスケールも小さく早々に引き返すことに、再度中目黒駅前からバスで大崎へ向かう。忘年会は18時過ぎからであったが、暗くなり行くところもないので早めに会場へ、早めに二人で宴を始める。それにしても携帯電話が通じなくなると、公衆電話も見当たらず緊急時はパニックになるのではないかと心配になる。 ①公衆電話のあるべきところを、日頃から決めておくべきかと。 ②外国人観光客も困るのではないか。18時過ぎから現役世代も会場の中華料理店へ集まり忘年会を始める。19:04仙台から参加された元同僚が、石巻の生ガキを宴会場に事前に送ってくれていて、 今年初めての生ガキを楽しみ、お土産としてもたくさん頂く20:22中華料理のメニュー「カニあんかけ炒飯」21時過ぎ宴会後、山の手通りで皆さんと分かれて、東急池上線の「大崎広小路駅」から旅友と乗車して私鉄を利用して帰路に。大崎広小路 → 中央林間の料金は、330円とJRに比べ半額??22:17東急「旗の台駅」で乗り換え、東急田園都市線の車内。旅友は傘をしっかりと持ち22:20東急田園都市線「中央林間駅」へ到着22:22東急田園都市線「中央林間駅」二階ホームから一階へ22:22東急田園都市線「中央林間駅」改札口22:23小田急江ノ島線の「中央林間駅」へと急ぐ23:03小田急藤沢駅からJR藤沢駅ホームへ23:07安くて美味しそうなメニューだが時間が遅く閉店かけ:280円、かき揚げ:380円、・・・・・・・23:18JR茅ヶ崎駅交通費を考えて私鉄を利用しての帰宅であったが、時間を要し乗換回数も3回と多く疲れた帰宅でした。次回はやはりJRを利用しての品川経由がBEST! 九品寺(1/2) 等々力渓谷&九品寺END
2019.01.26
コメント(1)

等々力渓谷、等々力不動尊の後、歩いて九品仏へ向かう12/6(木) 14:25東急大井町線「溝の口行き」14:31浄真寺参道と刻まれた大きな石碑。所在地:東京都世田谷区奥沢七丁目にある、浄土宗の寺。 山号は「九品山」、「九品仏(クホンブツ)」とは、一義的には、同寺に安置されている9体の阿弥陀如来像のことであるが、一般には同寺の通称となっている九品仏はNHKの旅ラン(NHK-BS)で、お笑いタレントの虻川美穂子が訪れて紹介していたのでいつか訪れたいと思っていたところである「禁銃猟 警視廳」の石碑 「この辺りでは銃を使っての猟は禁ずる」という警視庁が出した明治時代の告知であるとのこと2014~2034年 浄真寺「平成九品佛大修繕事業」大勧進九品仏の駅名にもなって親しまれる浄真寺は、上品上生仏より下品下生仏の九品阿弥佛が奉納されている。この度、元禄以来の大修繕を行うことになった・・・・・・・・東急九品仏駅方面正面に見えてきたのが総門雨も上がり紅葉も綺麗浄真寺『総門』 九品山唯在念佛院浄真寺(クホンサンユイザイネンブツインジョウシンジ)は浄土宗寺院扁額には「般舟場(ハンジュジョウ)」と書かれていた。般舟場とは念仏修行をする道場という意味であり、当山二世珂憶上人の高弟珂慶上人の筆とのこと総門から境内を創建の由来当山は広く「九品仏」の名で親しまれているが、正式には「九品山唯在念佛院浄真寺」といい、浄土宗に属し境内約12万㎡(3万6千坪)は往古の面影を保存する都内有数の風致地区である。開山は江戸時代初期の高僧「珂碩(カセキ)上人」で、四代将軍家綱公の治世延宝6年(1678)に、奥沢城跡であったこの地を賜り、浄土宗所依の経典である感無量寿経の説相によって堂塔を配置し、この寺を創建された。「江戸名所絵図」に描かれている堂塔の配置と現状とはほとんど変わりはないが、昭和40年に本堂・仁王門とも茅葺を銅板葺に改修された「ラジオ体操」に対するお願いと左は工事中の???紅葉の下で地蔵様たちの赤い涎掛けが映えていた雨上がりの紅葉閻魔堂の中央には閻魔様が怖い顔で総門方向総門石仏群「紫雲楼」と呼ばれている仁王門(楼門) 建立は寛政5年(1793)で屋根以外は大掛かりな修理の痕跡がないということから、 当時そのままの構えのようだ仁王門前の見事な紅葉浄真寺の駐車場イチョウの大木「紫雲楼」と呼ばれている仁王門(楼門)。楼門ということで、二層に分かれ、下層は通路の両側に金剛力士像を据えている。 上層は中央に須弥壇が設けられていて、お面かぶりで有名な阿弥陀如来像および二十五菩薩像が参拝者を迎えるように安置されているそうだ。 当山の伝統相続行事である「二十五菩薩来迎会(ライゴウエ)」(お面かぶり)は、無形文化財に指定せられ、この楼上の二十五菩薩は、来迎の真髄を示現していることになると二十五菩薩来迎会(ライゴウエ)(お面かぶり)石灯籠仁王門から境内を仁王門を潜ると左手にあるのが鐘楼(Bell Tower) 鐘は、宝永5年(1793)世田谷領の深沢、谷岡又左衛門の寄進で、作は、神田鍛冶町の河合兵部郷藤原周徳である紅葉の間に「仁王門」一対の仁王像、楼上に阿弥陀如来と二十五菩薩像が安置されているほか、風神・雷神の像もあって、寺域全体の安全が意図されていると紅葉の合間から本堂二本のイチョウの木サギソウ(鷺草)が咲く庭園サギソウ(鷺草)都天然記念物「九品仏のイチョウ」銀杏を拾う叔母ちゃん二人「御利益があるから拾ったら」と言われたが、電車内での匂いを考えると辞退九品仏浄真寺 中央の三仏堂(阿弥陀堂) 本堂の対面に3つの阿弥陀堂があり、それぞれに3体合計9体の阿弥陀如来像が安置されています。3つの御堂の9体はそれぞれ、上品上生(ジョウボンジョウショウ)、上品中生、上品下生、 中品上生、中品中生、中品下生、下品上生、下品中生、下品下生を表し、これをあわせて九品(あるいは九品往生)といい、この九品の仏から通称「九品仏」と呼ばれている。このような九体阿弥陀如来像は、他に京都の九躯寺(浄瑠璃寺)にしかない。まずは左の堂から、下品阿弥陀堂(ゲボンアミダドウ)左から下品下生、下品上生、下品中生と書かれたそれぞれの扁額が下品仏(ゲボンブツ) 三体左から下品下生、下品上生、下品中生三仏堂修覆元禄11〜12年に建立された三仏堂は、安政・大正の地震で被害を受け、その都度修復をしたが、昭和58年10月7日珂碩(カセキ)上人の第290年忌の勝縁に際し、大修覆工事を行ない、創建当時の偉容を再現した九品仏と三仏堂珂碩上人(1617~1694)は、念仏行者として一代の高僧であるとともに、また非常に彫刻に秀でられ、その彫刻された仏像も多数におよんだ。なかでも、18歳で発願、51歳の時完成した九躰の阿弥陀如来像(九品仏)は上人畢生の結晶といわれる代表作で、末代衆生化益の尊い御仏像である。九躰とも文化財の指定を受け、上品堂(中央)・中品堂(右)・下品堂(左)の三っのお堂(三仏堂)にそれぞれ三躰ずつ安置してある次に中央にある堂、上品阿弥陀堂(ジョウボンアミダドウ)へ本堂前からの上品堂左から上品下生、上品上生、上品中生と書かれたそれぞれの扁額が上品仏(ジョウボンブツ)左から上品下生、上品上生、上品中生上品堂前からの本堂阿育(アショカ)王塔阿育王は、紀元前三世紀のインドの王で、仏教を国教とし慈悲の教により国民に臨みその恩徳国内に満ちたといわれる。インド各地に今も残る釈尊の遺跡に多くの石柱を建立して顕彰の誠を示された。現今のインドの国旗は、この石柱の頭部の法輪である。当山の王塔は、日本様式であり天保年間のものである本堂から見て右側にある堂、中品阿弥陀堂(チュウボンアミダドウ)左から中品下生、中品上生、中品中生と書かれたそれぞれの扁額が中品仏(チュウボンブツ) 三体左から、修復中の中品下生、大修繕完了の中品上生、中品中生左から中品下生、中品上生、中品中生中品堂前から、上品堂、下品堂14:54九品仏の奥の墓地 等々力不動尊(2/2)へ 九品寺(2/2)へ
2019.01.25
コメント(0)

等々力渓谷から、谷沢川の下流の「日本庭園」へ立ち寄り、隣接する等々力不動尊の紅葉を堪能した。12/6(木) 13:24稚児大師御影堂弘法大師御誕生 1200年記念 慶讃大法要 昭和50年4月6日 奉修稚児大師御影堂周りの紅葉雨も上がり陽を浴びると利剣(リケン)の橋真っ赤なカエデ利剣の橋を渡り、不動の滝へ木橋を渡ると「不動の滝」800年ほど前に満願寺別院(等々力不動尊)が開創されたときに湧出したと伝えられ、 滝の水は「霊水」として信仰されているという13:30等々力渓谷「日本庭園」石灯籠と築山。崖を巻き込むように上へ上へと庭園が延びていた万両に水滴が渓谷の崖地や自然環境を巧みに活かした庭園寒椿も咲き等々力渓谷谷沢川の下流部、等々力不動尊の対岸に、昭和36年に建築された書院建物とそれをとりまく日本庭園。池、流れ、石畳の階段園路などがある庭は、昭和48年に著名な造園家により作庭されたもので、当時のままの姿で保存されていた。 園内には陽当たりのよい芝生広場があり、併せて、渓谷散歩の休憩に利用できる書院の飾り書院から案内図竹林の先には『かぶき門』13:46日本庭園入口「かぶき門」公園内の茶屋前回8月に訪れた時は暑くて休憩したがこの日は休み神変大菩薩の提灯等々力不動尊本堂への階段を登る途中、左への小さな石段を入ると役の行者の神変窟があった。洞窟の内部は石でしっかり構築されて線香の煙がただよっていた。奥に鎮座されているのは、役の行者(エキノギョウシャ)等々力不動尊境内へと坂道を登る境内から谷沢川へ境内入り口からの紅葉見事な紅葉に境内の紅葉は今が盛りか?13:50等々力不動尊の社務所境内のイチョウの木は落葉等々力不動尊の本殿正面。写真は拝殿で裏に本殿がある。 等々力不動尊は満願寺(マンガンジ)の別院。 関東三十六不動尊霊場の第17番で正式名称は滝轟山(リョウゴウザン)明王院。 本尊は不動明王、寺に残る言い伝えによれば不動像は1300年前の作で、そして800年前に興教大師が夢を見て、武蔵国に不動明王像を安置する場所を探し続け、当時の豊富な水量を流す当地の滝を見て、霊地と悟り、この地に不動堂を創建したのが始まりであると 崖や斜面にへばりつくように建てられた寺院建築を、懸造り(カケヅクリ)もしくは懸崖造り(ケンガイヅクリ)というのだと山門からの本堂前回8月10(金)に訪れているが、この紅葉を見たかった。前回のブログは、8月12日に「等々力渓谷ー後編」にリンクしておりますドウダンツヅジも紅葉イチョウの大木と、境内には紅白の吹き流しが何本も立っていた龍の手水ここのイチョウの木には銀杏はなし旅友が等々力不動尊の御朱印を頂く香炉と山門方向等々力不動尊山門前回8月に訪れた時は工事中であったが等々力渓谷この渓谷は、谷沢川によってできた谷で、今でも多くの動植物がみられ、四季折々の表情を見せてくれる14:04歩いて九品仏(クホンブツ)へ向かう 等々力渓谷(1/2) 九品寺へ
2019.01.24
コメント(2)

’18年12月6日(木) この日の夜、元会社の仲間との忘年会を五反田でするとのことでその前に旅友のKさんとかねてから行こうと言っていた、世田谷区の紅葉を見に行くことに。朝から雨が降っていたので計画は中止かと思っていたが、Kさんから雨雲が通り過ぎるとのことで急遽決行することに。自宅からの経路が解らないのでネットで調べて11:30に出かける12/6(木) 12:13茅ヶ崎から一つ前の電車に乗りJR横浜駅で乗り換え、東急東横線の地下ホームへ若い時よく菊名まで行ったが当時は地上駅であった、現在の東急東横線は地下駅に12:15流石新しいだけにホームは広く、ホームドアーも設置12:41自由が丘に到着東急東横線から東急大井町線へ12:42東急大井町線の「溝の口」方面へ乗り替える12:48東急大井町線「等々力駅」に到着東急の路線図だが久しぶりに訪れ方向が解らず。Kさんも遅れるとのことでしばし思い浮かべる12:51雨も小雨になり、待ち合わせまで時間があるので駅周りを散策駅舎は上下線の間にあり危険!この方向は、自由が丘?12:56等々力渓谷と周辺のご案内この先の路地を右に回ると等々力渓谷入口へスーパーマーケット「成城石井」等々力駅前の「中国料理ざいもく家」店先の紅葉カイドウ?店内には Lunch客が多く13:00旅友のKさんと合流13:05等々力渓谷の入口、ゴルフ橋等々力渓谷には、8月10日(金)にも訪れており、その時紅葉時期にも来ようと計画。その時のブログは、8月11、12日に「等々力渓谷の前後編」でアップしておりますのでリンク願います等々力渓谷は10数メートル下るが、気温差を表示。前回は夏場に訪れたため温度差があったが東京都指定名勝「等々力渓谷」所在地:世田谷区等々力2丁目外この渓谷は、国分寺崖線(ハケ)の最南端に位置する約1kmの都区内唯一の渓谷である等々力渓谷公園入口旅友は、昨年(’17年)行った郡上八幡で購入した傘を愛用等々力渓谷は谷沢川によってできた谷で、今でも多くの動植物がみられ、四季折々には咲き乱れる桜、常緑の木立、秋の紅葉も不動滝(竜頭滝)に映え、深山の趣があるゴルフ橋昭和36年(1961)に架けられたアーチ鋼製で、それ以前は木橋であったゴルフ橋の説明昭和の初め頃、旧下野毛に東急電鉄が開発した約8ヘクタールの広大なゴルフ場があったことに由来している台地と谷との標高差は約10mある谷沢川に沿って下る雨も小雨になるが紅葉には少し早かったか?環状八号線の玉沢橋この辺りは常緑樹が多いのか、紅葉は見られず環状八号線の玉沢橋下遊歩道には落ち葉が多く、滑らないように谷沢川の下流には「等々力不動尊」がある「日本庭園・書院」もある「等々力渓谷公園」の説明「等々力」の地名は、渓谷内の「不動の滝」の音が響き辺り「轟いた」ところからついた、との言い伝えがある。滝の上部には、平安時代に役の行者の霊場とされた等々力不動尊があり、かってはこの滝にうたれて行をする修行僧が各地から訪れたといいます渓谷内には「等々力渓谷第3号横穴古墳」がある、これは谷沢川の東斜面の崖に群集している横穴の一つで、古墳時代末期から奈良時代のものと推定されている等々力渓谷第3号横穴渓谷の東側崖面では、古墳時代末期から奈良時代にかけて構築された横穴墓が6基以上発見されている。中でも昭和48年(1973)に発見された3号横穴は、典型的な横穴墓の形態を留めていて、埋葬人骨や副埋葬品も良好であったことから保存処置が講じられた古墳群へ都史跡「等々力渓谷3号横穴」渓谷の周辺では野毛大塚(玉川野毛町公園内)、御岳山、狐塚などの古墳群が造られた後、古墳時代末から奈良時代(7~8世紀)にかけて横穴群が造られるようになった完全な状態で残っている「3号横穴」横穴墓は奥行き約13mで、内部は徳利を半分に割ったような形をしているこの辺りは紅葉が13:23谷沢川を下り、日本庭園、等々力不動尊へ向かう 等々力渓谷(2/2)
2019.01.23
コメント(1)

今回の三枚橋までの道中記で、11/28(水)に三枚橋から箱根宿まで歩いているので箱根関所までつながることになる12/4(火) 14:45小田原の道祖神&東海道風祭の一里塚国道一号線から分かれて旧東海道、この辺りから小雨が降り出す東海道風祭の一里塚ここは、旧東海道に設置された江戸から21番目の一里塚があった場所。風祭の一里塚については、天保年中の相模国風土記稿に「東海道側に双堠あり、高各一丈、塚上に榎樹あり、囲各八九尺、東方小田原宿、西方湯本茶屋の里堠に続けり」とある14:47人通りの少ない旧東海道14:48永禄山 宝泉寺山門所在地:小田原市風祭918宝泉寺は、永禄元年(1558)北条時長(宝泉寺大年用公)によって創建された臨済宗大徳寺派の古刹である。寺は創建間もない、天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原合戦の兵火に罹って堂宇は焼失し、その際数多くの寺宝が焼失してしまった。その後三世の僧菊経によって再建されたが、のちに衰徴し十二世僧仁渓によって、安政元年(1854)再建された宝泉寺本堂本尊は、釈迦如来像15:00「長興山紹太寺(チョウコウザンショウタイジ)」、春日局ゆかりの禅寺所在地:小田原市入生田470この辺りの長興山・紹太寺は「太閤一夜城と長興山史跡巡りコース」である長興山・紹太寺紹太寺は、江戸時代初期の寛永9年(1632)から貞享2年(1685)小田原藩主であった稲葉氏一族の菩提寺で黄檗宗(オウバクシュウ)大本山萬福寺の末寺である。はじめ小田原城下山角町(現・南町)の建立された臨済宗の寺院であったが、寛文9年(1669)稲葉正則は寺を入生田牛臥山のこの地に移し、黄檗宗長興山紹太寺と号して、父母及び祖母春日局(徳川三代将軍家光の乳母)の霊を弔った。往時は寺城方10町(1092m四方)に及ぶ広大な地に七堂伽藍の整った大寺院であった。元禄4年(1691)この地を通過したオランダ商館医師ドイツ人ケンペルの紀行文にも、その壮麗な姿が描かれている。しかし、幕末と明治初年の火災で焼失してしまった旧東海道に面してあった、長興山紹太寺総門(大門)跡元禄4年(1691)ドイツ人博物学者ケンペルは、江戸に向かう途中この総門を見て彼の著書「江戸参府紀行」に次のように記している。「入生田村は小さな村で、その左手の四角の石を敷き詰めたところに紹太寺という立派な寺がある。・・・・・・・」と長興山紹太寺現在の市指定文化財は●稲葉一族の墓所と鉄牛(テツギュウ)和尚の寿塔 ●長興山開発供養塔 ●長興山紹太寺の境内絵図 ●開山鉄牛和尚の画像 ●鉄牛和尚の血書●長興山のしだれ桜 ●長興山鉄牛和尚寿塔付近の樹叢子院・清雲院(現・長興山紹太寺)清雲院は、長興山紹太寺の参道沿いにある子院の一つです。紹太寺の七堂伽藍は、弘化4年(1847)安政年間(1854~1859)、さらに明治の火災で焼失したがこの清雲院は難を逃れ、本寺である紹太寺の法灯を守り現在に至っている長興山の扁額は、黄蘖宗の開祖隠元禅師の書き下ろしたもので現在子院清雲院(現・長興山紹太寺)の本堂正面に掲げられている。なお、現在道路の左側に積み上げられている加工された石は、総門に使われていたと考えられると長興山の扁額この積み上げられている加工された石は、総門に使われていたものか?黄檗宗 長興山紹太寺(禅宗)本寺は、江戸時代初期の小田原藩主だった稲葉氏一族の菩提寺。当初は、小田原城下山角町にあったが、第二代稲葉美濃守正則が寛文9年(1669)幽邃境として知られた現在地に移建し、山号も「長興山紹太寺」と称し、父母と祖母 春日局の霊を弔った市指定文化財になっている「長興山のしだれ桜」天然記念物でもあるこのしだれ桜は、寿塔のすぐ近くで「春を忘れぬ形見に」と稲葉正則が植えたもので、樹齢ざっと320年。樹高約13m。四月初旬には、巨大な花笠を広げたように開花し、多数の見物客で賑わう15:05長興山「母の里石段公苑」三代将軍徳川家光の乳母春日局と小田原藩主(城主)稲葉一族が眠る幽邃の地、母の里石段公苑がある。これより360段の石段を登るとそこには奥津城が静かに佇み、・・・・・・・・と15:07旧東海道に戻り15:10箱根登山鉄道「入生田(イリウダ)駅」小雨の中、入生田踏切を越え、小田原方面旧東海道の入生田踏切を越え、湯本方面駒ノ爪橋跡天保年間に書かれた『新編相模国風土記稿』の入生田村(小田原市)の項には、「駒留橋 東海道中湯本村界の清水に架す。石橋なり、長3尺(90cm)、幅2間(3.6m)、両村の持。橋上に頼朝郷馬蹄の跡と伝あり。旅人此橋に足痛の立願す」と載っているこれには、往時源頼朝が富士の巻き狩りから帰る際、この橋まで来ると馬が暴れてしまい、その際に橋の上に馬のひずめの跡が残ってしまったという逸話が残っている15:13この先で国道一号線に合流、右側には皇帝ダリア15:14日本初の有料道路明治8年(1875)9月、小田原の板橋から湯本まで全長4.1km幅員平均5メートルの我が国初の有料道路が開通した。江戸時代の東海道を拡げ、2ヵ所の急坂を人力車が通れる勾配の緩い道に付け替えた。碑が建っている道は、その時に付け替えた道。開通した日から5年間、道銭(通行料)をとったをとった、人力車は1銭、大八車7厘、小車は3厘でした。この道路の開通で、人力車はもちろん、間もなく乗合馬車も入ってきた。かの福沢諭吉から「箱根山に人力車の通れる道を造れ」と提言され、二宮尊徳の高弟として知られる福住正兄が建設の先頭に立った15:15旧東海道(国道一号線)に立つ、傘をさした旅友旧東海道はこの先を左折15:16交通安全之碑車のきれるまで、待ちます、止まります15:18右側が旧東海道15:19牛頭天王神社(ゴズテンノウジンジャ)入り口所在地:神奈川県足柄下郡箱根町湯本石段の数が118段あるとのことで、雨が降っているので参拝はやめる。天王社の紋章は五ッ木爪(イツツモツコウ)でキュウリを輪切りにすると、同じような紋様になるためか、祭礼には必ずキュウリをあげる。このため山崎では、キュウリを切る時は輪切りにしないで、必ず斜めに切ると云う風習があったようです(古老が語る箱根山崎の歴史より)15:22旧東海道(国道一号線)沿いの「山崎の古戦場」を探して15:27山崎の古戦場江戸末期、勤皇派と佐幕派に分かれ、当初小田原藩は勤皇派であったが途中で意見が分かれ、上総からの遊撃隊によって佐幕派になった。しかし藩主の決断により再び勤皇派になり、小田原を出た遊撃隊と湯本の山崎において、激しい戦いが行われた。結局、小田原藩と官軍が勝ち、遊撃隊は敗れて敗走した。この戦いを箱根戊辰の役といいます(1868年)山崎ノ古戦場の石碑15:28旧東海道(国道一号線)沿い、小田原宿方面15:29湯本方面15:30街道沿いで咲く「ノウゼンカズラ」15:32雨の中、旧東海道(国道一号線)を歩き、三枚橋へ15:33三枚橋交差点へ到着JR国府津駅から 28,900歩、6時間半を要した。これで箱根関所まで完歩した15:34三枚橋交差点、小田原宿方面、ここを右折して畑宿へ三枚橋からの湯本駅15:36雨の早川に沿って湯本駅へ。私もリュックに傘をいれたつもりだったので、手を入れて探したが無く、仕方なく雨に濡れながら歩いた。帰宅後、リュックを開けるとそこには傘があり、もう少しよく調べるべきだったと自己反省したが。雨に濡たが風邪もひかなくてよかった!15:39三枚橋を振り返る15:40箱根湯本のバス停から箱根湯本からのバス発車時間をチェック15:43箱根登山鉄道の湯本駅への歩道橋から、いつも渋滞する湯本の土産物店街湯本駅舎と小田原宿方面15:44箱根登山鉄道「湯本駅」湯本駅からJR小田原駅経由帰宅することに箱根登山鉄道の強羅行き電車箱根登山鉄道は、スイスでアルプスの絶景を走る赤い列車で知られる『レーティッシュ鉄道』と姉妹鉄道を結んでいる湯本駅の売店15:48小田原行きの列車に乗車16:06約15分で小田急小田原駅に到着ここから新宿方面へ小田急線で、一時間強を要する小田急の2F駅舎小田急の改札を出てJR小田原駅へ16:09JR小田原駅のコンコースには大きな小田原提灯がぶら下がり小田原駅:16:12 発、茅ヶ崎駅:16:37 到着なお、本日の歩行数は、31,078歩でした。今回の箱根湯本三枚橋までの弥次喜多道中で、東坂は既に登っているので箱根関所までは制覇、次回は箱根関所から三島宿へ挑戦予定です。 小田原宿-5 小田原宿END
2019.01.22
コメント(0)

小田原城周りから三枚橋へ小田原宿は、元禄16年(1703)の大地震や、4年後の宝永の富士山噴火など度重なる災害が続き宿は疲弊した。さらに近隣の畑宿村や湯本村、箱根七湯では温泉の湯治客が増え、また格式高い小田原藩による飯盛女の厳しい制限もあり、小田原宿は宿泊場として魅力を次第に失った。12/4(火) 13:41旧東海道(国道一号線)、JR東海道線13:42御組長屋(オクミナガヤ)の石柱江戸時代前期、小田原城下の山王口、板橋口と井細田口の三つの出入口の沿道には、先手筒(先鋒の鉄砲隊)や先手弓(先鋒の弓組)などの組の者が住む御組長屋(新宿町組・山角町組・竹花組)が設けられていた。その中で地名となって残ったのは、ここ、山角町組だけである13:44旧東海道沿いにある、日蓮宗 大久寺(ダイキュウジ)所在地:小田原市城山4-24-7小田原藩主大久保家菩提寺13:45居神神社(イガミジンジャ)所在地:小田原市城山4-23-29ここ居神神社にて誕生の童謡、北原白秋作詞「里ごころ」の立て札が左側に13:46浄土真宗本願寺派 光圓寺(お西)光圓寺本堂浄土真宗本願寺派寺院の光圓寺は、釋浄山と号す。光圓寺は、覚圓が実相寺と号して慶安4年(1651)創建、明暦元年(1655)現寺号に改めた。本尊は、阿弥陀如来像13:47板橋(上方)口旧東海道はここから国道一号線と分かれる旧東海道(国道一号線)の江戸方面13:48東海道新幹線のガード下を通り三枚橋方面へ13:50寺院前のアロエの花13:51掃雲台(ソウウンダイ)入口跡益田孝(純翁)小田原別邸:別邸の施設や建物は現存していない13:51旧東海道沿いにある、畳屋畳替えキャンペーンの幟を立て一級技能士の「廣瀬畳店」畳替料金(一般家庭用):裏返し/4000、表替え/7000、新畳/13000円より13:53旧東海道の古民家?13:54とうふ工房:下田とうふ店創作がんも揚のメニュー13:58旧内野醤油店:国登録有形文化財内野邸この建物は、板橋の地で3代100年近くに渡って、醤油醸造業を営んでいた内野家の店舗兼住宅として明治36年(1903)に建てられた。当時流行していた土蔵造り風の町家で「なまこ壁」や「石造アーチ」など、和洋折衷的な特徴ある意匠が取り入れられた貴重な歴史的建造物である公開日は、第2,4日曜日とその前日、入館料金 大人150円14:01秋葉大権現 量覚院1590年小田原城主大久保忠世が、徳川家康に秋葉山の管理を命じられ、現在浜松市の秋葉権現を勧請。修験宗の寺院で京都聖護院の末寺秋葉山縁起本尊空葉大権現は、養老元年(717)奉澄大師の開創で遠州秋葉山上に、防火の神として祀られた秋葉山の扁額紅葉の境内秋祭りの準備で落ち葉を燃やし12月6日に火渡り!!(訪れた2日後に祭り)鳥居をくぐり本殿へ秋葉大権現本殿境内の紅葉がきれい焼き芋が最高だが、境内には「クレヨンの森保育園」14:06秋葉山火防祭の幟:12月6日に開催14:08板橋地蔵尊所在地:小田原市板橋566ここまでの歩数は、22,000歩でJR国府津駅から5時間板橋の地蔵尊この地蔵尊は「板橋のお地蔵さま」と呼ばれ、古くからこの地方に名高く知られわたっている。永禄12年(1569)、香林寺九世の丈察和尚は、身丈一丈(約330センチ)の大坐像を造り、箱根湯本の宿古堂に祭られていた弘法大師彫造の御真体を胎内に安置したといわれている宋福院地蔵堂宋福院地蔵堂3.6mの大黒天は関東大震災直後に「復興大黒天」として造立された14:14旧東海道沿いに位置する14:15旧東海道から、箱根登山鉄道の高架をくぐり国道一号線と合流上板橋交差点左が旧東海道、直進が国道一号線で小田原方面旧東海道(国道一号線)を歩いて三枚橋へ14:17小田原用水取入口14:18上板橋交差点を振り返る14:20箱根ターンパイク、空が怪しくなる14:24旧東海道(国道一号線)から、西湘バイパス、小田原厚木道路箱根湯本方面は空が怪しくなる14:26小田原厚木道路高架下、箱根登山鉄道に乗り入れしている小田急特急旧東海道はこの踏切を渡る14:27日蓮聖人霊跡文永11年(1274)、日蓮聖人が鎌倉から身延山に赴く途中5月13日当所を通り巨石象鼻(石の形が象の鼻に似ている処からそう呼んでいた)の上に登られ遠く房総の諸岳を望んで故郷忘れ難く・・・・・・・と日蓮聖人と同じように登るが荒れ果てていてこの建物は?房総半島が見えたのか箱根湯本方面スイセンがきれいに咲いていたが岩肌にきれいな紅葉が14:38日蓮聖人思親の地 小田原宿-4 小田原宿続く
2019.01.21
コメント(0)

昼食を終え、松原神社へ立ち寄り、小田原城経由三枚橋へ向かう。小田原宿は、江戸から20里、箱根越えと関所を控え、上りは二泊目(足の弱い人は三泊目)の宿として、下りは箱根越えのあとの泊まり客が多かった。そのため本陣4軒、脇本陣4軒、旅籠95軒と宿泊施設が多いのが特徴である12/4(火) 13:03旧東海道の宮前町小田原宿 脇本陣古清水旅館 2F資料館「8月15日の小田原空襲」まさに敗戦当日、深夜1時か2時頃、小田原市は米軍の戦略爆撃機B-29、一機による焼夷弾空襲を受けた。小田原空襲の直前には、埼玉県熊谷市と群馬県伊勢崎市が空襲を受けており、その二都市を攻撃した編隊の内の一機が、マリアナ諸島の米軍基地へ帰還する途中に小田原を空襲したものと考えられる。米軍のその日の作戦任務報告書には、小田原空襲の記載は一切なく、計画されたものではなかったと小田原宿 清水金左ヱ門本陣跡天保年間(1830~1844)当時、小田原宿には4軒の本陣、4軒の脇本陣、95軒の旅籠があった。このうち、清水金左ヱ門本陣跡と片岡永左ヱ門本陣跡は、明治天皇が全国巡幸のおり宿泊していたことから、それぞれ「宮ノ前行在所」「本町行在所」として小田原市の指定史跡となっている明治天皇宮ノ前行在所跡明治天皇宮ノ前行在所跡この場所は、明治天皇が宿泊した清水金左ヱ門本陣のあった場所。本陣の敷地面積はおよそ240坪で、大名、宮家などの宿泊にあてられた。明治天皇が宿泊したのは、明治元年(1868)10月8日の御東行の際を初めとして5回を数える13:05昼カラオケ(12:00~16:00)、1000円で歌い放題13:06旧東海道からそれて、小田原宿総鎮守の松原神社へ松原神社鳥居所在地:小田原市本町2-10-16神輿を納めている「神庫」祭り時の写真松原神社社誌吉兆の大亀天文14年(1545)3月、小田原の海岸に現れた大亀を土地の者が当社の池に持参したところ、小田原北条三代当主氏康は、これを聞き、吉兆なりとて参詣し舞を奉納した。果たして翌天文15年、関東管領上杉軍八万の兵を、わずか八千の兵で見事に破り【河越夜戦】念願の関八州の平定に成功した松原神社の鳥居と本殿13:11松原神社から旧東海道への参道13:13小田原宿は、東海道起点の江戸日本橋からおよそ80kmの距離にあり、第一宿の品川宿から数えて九番目の宿場で、通常は途中一泊してここに到着した。東は徒歩(カタチ)渡り(10月から3月の間は橋が架けられた)の酒匂川、西は東海道一の難所箱根越えが控えていたので、小田原で宿泊する人が多く、常時90軒前後の旅籠が軒を連ねていた小田原宿なりわい交流館本町交差点、石柱は「宮前町」小田原宿は宿泊者が多かったため、土産物や旅の必需品を売る店も多く、蒲鉾・梅干ういろう・小田原提灯などが小田原の名物として広く知れ渡るようになった本町交差点石柱は「宮前町」、正面方向は国道一号線で小田原駅へ、右折は旧東海道宮前町小田原北条氏時代、この町は上町、下町に分かれていたとの伝え。江戸時代には、町の中央に城主専用の出入口である浜手門と高札場があり、同時代末期町内には本陣1、脇本陣2に旅籠が23軒ほどあって隣の本町とともに小田原宿の中心であった片岡本陣跡小田原宿には4軒の本陣があり、片岡本陣もその一つです。伊予(愛媛県)松山の松平家などの大名家が定宿としていた。幕末の当主片岡永左ヱ門は明治時代には小田原町の要職を歴任し、当時の貴重な記録を数多く残している13:16明治天皇本町行在所跡明治天皇がこの場所に宿泊したのは、明治11年北陸・東海御巡幸の際、11月7日の事本町の石柱小田原北条氏時代、この町は通小路といわれていた。江戸時代前期にこの町を基準にして、城下の町人町を左右に町割りしたとき、本町と改められた。隣の宮前町とともに小田原宿の中心で江戸時代末期には本陣2、脇本陣2に旅籠が26軒ほどあった13:17久保田本陣跡小田原宿には4軒の本陣があり、久保田本陣はその一つ。紀州徳川家や九州の黒田家鍋島家、中国地方の毛利家といった大名家が久保田本陣を定宿としていた。なお、久保田氏は、江戸時代の前期から町年寄や名主役も務めていた旧東海道(国道一号線)、御幸の浜交差点御幸の浜(ミユキノハマ)は、明治6年(1873)明治天皇と皇后がおそろいで、当海浜において漁夫の地曳網をご覧になり、以来「御幸の浜」と呼ばれるようになった13:19中宿町この町には、上の問屋場が置かれ、高梨町の下の問屋場と十日交代で勤めていた。町内には御用商人の小西家があり、江戸時代末期には脇本陣1、旅籠が11軒ほどあった13:20清水彦十郎本陣跡小田原宿には4軒の本陣があり、清水彦十郎本陣もその一つ。出雲松江の松平家や美濃大垣の戸田家などの大名家が定宿としていた旧東海道(国道一号線)沿いの「ういろう本店」所在地:小田原市本町1-13-1713:21欄千橋町ういろう(外郎)本店創業600年、日本最古の薬屋。先祖は中国「元」の官僚で、中国での官職名「礼部員外郎」から「外」の字を唐音で「うい」と読んで「外郎(ウイロウ)」と名乗った。江戸時代中期の歌舞伎役者二代目・市川團十郎は持病が「ういろう」で治ったことから、歌舞伎に「外郎売」の台詞を創作して取り入れ宣伝した13:23旧東海道(国道一号線)から小田原城へそれる三の丸小学校の脇にある「箱根口門跡」町並みに合わせた小学校デザインが「都市景観大賞受賞」三の丸小学校の正門13:26国指定史跡 小田原城日本百名城の一つである。15世紀後半に西相模一帯を支配していた大森氏の小さな山城だった小田原城は、明応4年(1495)、後の北条早雲が大森氏を攻め滅ぼしてから、北条氏の居城となった。以降、城下町全体を総構と呼ぶ9kmに及ぶ土塁や堀で囲み、堅牢な城郭を築いて難攻不落を誇った小田原城の石垣小田原城 馬出門小田原城南曲輪西南二重櫓13:27報徳二宮神社二宮金次郎こと二宮尊徳を御祭神とする神社。学問の神として親しまれ、ブロンズの金次郎像がある13:28報徳博物館二宮尊徳の実績と思想・方法論を紹介している博物館13:28木の合間からの天守閣13:30清閑亭(セイカンテイ)の正門だが、本日は休館日と清閑亭(セイカンテイ)(黒田長成別邸)黒田長成侯爵の別邸だった邸園(邸宅と庭園を合わせた造語)。明治39年(1906)黒田家が別荘を造営、その後、平成17年(2005)に建物が国登録有形文化財となり、翌年には敷地が国の史跡に指定された。清閑亭の特徴は、格式ばらない近代数寄屋建築の建物と、その座敷から見ることのできる相模湾の大らかな眺望にある13:31小田原城の西方向の天神山からの天守閣13:32天神山の石柱地名の由来は、この地に南側中腹に天神社が祀られていたので、この名があると。この社には室町時代の天神画像が伝えられており、この地名の古いことがわかる。なお、天神山には社の背後に小田原北条氏時代の三の丸の空堀が東西に延びていた13:34八角(ヤマカク)天神社の菅原道真画像芭蕉の句碑有米家可耳 乃都登 日能伝る 山路閑難(ウメガカニ ノツト ヒノデル ヤマジカナ)山角天神社地元の人々から「天神さん」と親しまれている山角天神社は、菅原道真を祭神とする神社で、毎年1、5、9月に例大祭が開かれる山角天神社「天満宮」鳥居瓜生外吉海軍大将之像日露戦争で活躍し、1912年に海軍大将に昇進した。ここから西に200m程の高台に別荘を設けた。海を眺めての小田原の生活をこよなく愛した13:37対潮閣(山下亀三郎別邸)跡、秋山直之終焉の地明治時代から小田原には、伊藤博文、山縣有朋、益田孝(純翁)、田中光顕、北原白秋など多くの政財界人や文人が居を構えたり訪れていた。山下汽船(現・商船三井)の創業者山下亀三郎の別邸「対潮閣」の正面入口がこの辺りにあった。対潮閣には、山下と愛媛の同郷であった海軍中将秋山直之がたびたび訪れ、山縣の別邸「古稀庵」を訪ね「国防論」について相談していたが、患っていた盲腸炎が悪化し、大正7年(1918)2月4日未明に対潮閣内で亡くなった(享年49歳) 小田原宿-3 小田原宿続く
2019.01.20
コメント(0)

山王神社から小田原宿の一里塚跡へ。小田原宿は16世紀に、後北条氏の城下町として栄えた町。江戸を発って初めての城下町の宿場で、宿の町並み長さは山王口の江戸方見附から板橋の上方見附まで20町6間(約2.2km)であった。12/4(火) 11:46曹洞宗 宗福寺(ソウフクジ)所在地:小田原市浜町4-30-10宗福寺本堂山王大権現は宋福寺の鎮守にて永禄年間に草創勧請すと往昔は隣地の山王川側に在しが政府の神佛分離令により、明治4年御身躰のみ奉持し仮本堂内に安置して壱百五年茲今堂宇を建立し奉祠す別社白山妙理大権現稲荷大明神も合祀す。天正18年四百年前小田原城征討の徳川家康公日参して戦勝祈願なされしと云う以って如何に霊験あらたかであるかを知るべし、此の堂宇は一間社流造と謂うなり11:49旧東海道(国道一号線)沿いを歩き11:50東海道 小田原宿おだわら まちしるべ「山王口(サンノウグチ)」山王口は「江戸口見附」とも呼ばれ、小田原城から江戸に向かう出入り口であるとされている。また、ここは東海道小田原宿の入口でもあり、江戸日本橋から山王口までは、約83キロの距離となっている11:51小田原城址江戸口見附周辺案内図江戸口見附跡小田原北条氏は、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めに対し、総構といわれる周囲約9kmの堀や土塁を構築し、城のみならず城下町までを取り込んだ戦国期最大級の城郭を築いた。この付近は、その総構の最も南部分に当たり、小田原合戦のときには徳川家康隊が山王川の対岸に陣取っていた上の写真から「大正時代初期の江戸口見附」両側に、後北条時代の総構の土塁跡が確認できる11:55旧東海道(国道一号線)の歩道橋上から、京方面同場所からの江戸方面歩道橋の南側にある「江戸口見附 並 一里塚址」江戸口見附並びに一里塚江戸初期にこの構造を壊して東海道を通す際に、枡形が作られた。小田原城から江戸に向かう出口であったため、江戸口見附と名づけられた。また、ここは江戸から20番目の一里塚があった場所である11:56「江戸口見附 並 一里塚址」石碑12:01真宗大谷派 善照寺(ゼンショウジ)所在地:小田原市浜町2-4-1412:05蓮上院土塁この土塁は、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めに対し、小田原北条氏が築いた総構の一部である。この土塁の東側は水堀が設けられ、その対岸には徳川家康軍が対峙していた漣上院土塁の説明板12:06太平洋戦争の爆弾着弾跡戦争終結直前の8月13日の午前8時30分ごろ、小型機による空襲があり30名の犠牲者を出した。このとき、新玉小学校(当時新玉国民学校)も攻撃を受け、若い教員1名と用務員2名が犠牲になった。この空襲で投下された爆弾の一つが、ここ蓮上院土塁に着弾し、土塁が大きく損壊した戦国時代に小田原北条氏が築いた土塁に、昭和時代の太平洋戦争の傷跡が残る大変貴重な場所である12:12新玉小学校バス停、七枚橋(シチマイバシ)しちまいばしの石碑には七枚の切石を並べて作った石橋があり「七枚橋」といわれていた小田原市内にはこのような石柱12:13七枚橋交差点12:15じゅうおうちょう、まっこうちょう12:16国道一号線、新宿交差点新宿交差点に立つ案内板12:17国道一号線の新宿交差点を左折して旧東海道へ「鍋町」石柱には、小田原北条氏時代から町には鍋などを作る鋳物師が多く住んでいたので、この名がついたといわれているこの通りは「かまぼこ通り」12:18旧東海道のかまぼこ通り小田原名物は、外郎(ウイロウ=薬と菓子)、小田原下駄、小田原提灯、梅漬、蒲鉾(幕末以降)である12:19旧東海道のかまぼこ通り「万町(ヨロッチョウ)」石柱には、町名は古くから「よろっちょう」とよばれた。町内には七里役所という紀州(和歌山)藩の飛脚継立所(ヒキャクツギタテジョ)があった。江戸時代末期には、旅籠が五軒ほどあり小田原提灯づくりの家もあった12:25街道沿いの「おでん屋」12:27下の問屋場跡(シモノトイヤバアト)宿の主要な機能は、公用の旅行者や物資の輸送、通信、これに伴う休憩や宿泊施設の提供であった。その中心的な機能を担う施設が問屋場で、定められた量の人足や伝馬を備えていた。小田原宿では、高梨町の下の問屋場のほか、中宿町に上の問屋場が置かれていた青物町交差点に近い、高梨町石柱には、東海道から北へ向かう甲州道の起点に当たり、古くから商家、旅籠が並んでいた。町の中央南寄りには下の問屋場が置かれ中宿町の上の問屋場と十日交代で勤めていた旧東海道の青物町交差点JR小田原駅方面の商店街だがシャッター街?12:29青物町交差点近くの、安くて美味しい看板の「あきら」へ立ち寄る老夫婦が出前も受けながら営業している、懐かしい感じの店内本日の日替わり定食(500~1100円)から、ラーメン、定食と幅が広いトンカツ定食(税込み、1000円)をオーダー12:44 トンカツ定食を食べて馬力を得、湯本の三枚橋へ向かう 小田原宿ー2へ 小田原宿続く
2019.01.19
コメント(0)

JR鴨宮駅の南側にある旧東海道(国道一号線)辺りから小田原の市街地へ向かう。寺町なのかお寺の多い街道筋であった12/4(火) 10:24旧東海道(国道一号線)沿いにある「社会福祉法人 ゆりかご園」古民家の扉に掲示された「社会福祉法人 ゆりかご園」「地域育児センター」創設者が自らの所有する土地・建物を用いて、戦後間もない昭和25年に同胞援護会「第二中心学園」として開設した10:26旧東海道(国道一号線)に面した古民家10:28日本橋から81km10:28日蓮宗神力山 法善寺所在地:小田原市酒匂2-38-33 JR鴨宮駅から1.1km法善寺山門法善寺本堂10:29浄行菩薩(ジョウギョウボサツ)さま六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)を清め、心身の「ケガレ」を除き病を癒して下さいます。お水をかけて合掌し「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えてお祈りして下さい10:36日蓮宗 本典寺10:37日蓮宗宝船寺(ホウセンジ)所在地:小田原市酒匂2-35宝船寺本堂山号は済度山、日蓮が一泊した霊跡の一つとして、信徒の巡拝コースに入っている宝船寺五重塔この塔は平成元年7月に計画され平成5年6月に完成した総桧造り、本瓦葺の本格的五重塔であるミニ五重塔・鐘楼・本堂10:41日蓮宗宝船寺石碑10:44酒匂橋東側酒匂橋の欄干に箱根の画が酒匂川に架かる酒匂橋から小田原方面酒匂橋からの富士山富士の頂上は雲をかぶり西湘バイパス、欄干には小田原城の画が10:51酒匂橋を渡り江戸方面を望む10:54日本橋から82km、小田原市東町10:58新田義貞の首塚旧東海道(国道一号線)から海側の小道に入り、今はこの看板だけだが。建武の中興の柱石であった新田義貞は、北陸を転戦中、延元3年(1338)、越前国(福井県)藤島で討死し、足利尊氏によってその首級を晒されていた。この首を家臣・宇都宮泰藤が奪うが、酒匂川手前の地で病死。主従ともども、この地に埋葬されたという11:03首塚近くの、西湘バイパス11:14日蓮宗 常顕寺(ジョウケンジ)所在地:小田原市東町3-12-2311:16旧東海道(国道一号線)の常剱寺入口交差点11:18臨済宗 大徳寺派(京都) 稲荷山 呑海寺(ドンカイジ)所在地:小田原市東町3-12-38ぼけない五ケ条 1,仲間がいて気持ちの若い人 2,世話好きで感謝のできる人 3,本( → ブログ)をよく読みよく書く人 4,よく笑い感動を忘れない人 5,趣味をもち旅の好きな人 稲荷山 呑海寺稲荷山 呑海寺11:19呑海寺 本尊:南無釈迦如来(ナムシャカニョライ)11:21小田原市立 山王小学校入口11:22日蓮宗 弘経寺所在地:小田原市東町3-9-32 JR鴨宮駅から1.6km弘経寺弘経寺本堂11:24この辺りの旧東海道(国道一号線)沿いにはお寺が多い11:25臨済宗 大徳寺派 昌福禅院昌福禅院本堂11:27山門前の六地蔵11:30浄土宗月窓山 心光寺境内に大きな松が心光寺の掲示板本堂前の松薬師堂11:34鐘楼と松の古木11:38浄土宗松原山 道場院道場院の掲示板11:41道場院本堂11:43山王川に架かる旧東海道(国道一号線)の山王橋交差点山王川11:44星月夜の社「山王神社」山王神社の由緒明応4年(1495)2月北條早雲は、小田原城主大森藤頼をを破り、小田原城を手中に治め相模の国を平定したこの間の旧東海道(国道一号線)沿いには、寺院が多かった。網元川辺家、酒匂川の徒渡し、上杉神社・上杉龍若丸の墓は確認できず 小田原宿-1へ 小田原宿続く
2019.01.18
コメント(5)

三枚橋から箱根宿へは、昨年の11/28(水)に終わっているので、今回は12/4(火)に旅友Kさんとの、JR国府津駅から箱根湯本の三枚橋への弥次喜多道中をアップします。12/4(火) 9:00JR国府津駅下りホームこの駅に降り立つのは、現役時代に乗り過ごしで数回降り立ったことがある。今回は9時に駅前に合流9:04駅前の国道一号線の交差点、左奥は国府津駅舎、駅前のベーカリー国道一号線沿いの立杭「国府津・曽我の里散策コース」右方向(京 方面)に、真樂寺・菅原神社。電線はモール化されてすっきりした光景9:06国道一号線から相模湾を望む。海には漁船が操業9:07国府津駅の南側にある民家に沿った「御勧堂(オススメドウ)」石碑には「親鸞聖人 御草庵之旧蹟 勧堂」近くの魚民を集めて説法された草庵である御勧堂から南側の相模湾9:10小田原市のマンホール9:12国道一号線沿いの「真宗大谷派 真樂寺」所在地:小田原市国府津3-2-22真樂寺の掲示板浄土真宗親鸞聖人の教えは阿弥陀如来は親様であり「そのまま信じて来いよ」のご催促ですと真樂寺境内親鸞聖人ゆかりのこの寺は、勧山と号する真言宗大谷派の寺院であるが、往古は聖徳太子の所縁によって創建された天台宗の寺院であった。のち親鸞聖人が関東の教化を終え、帰路の際に当地に立ち寄られた時、当時の住僧性順がその教法に導かれ、真宗の教えに帰依して一字を建てたのが、この寺のはじまりとされている寺号もその時、聖人に「真樂寺」と命名してもらったといわれている。寺内の帰命堂には、帰命石と呼ばれる2メートルほどの石があるが、これは聖人が石に指頭で名号を書かれたといわれるので ”帰命石” と呼ばれている鐘楼と本堂真樂寺本堂山門の国道をはさんで南側、袖が蒲の海岸に勧堂がある。これは親鸞聖人草庵の旧跡で、ここで聖人が7年間、民衆を教化されたと言伝えられている真樂寺のボダイジュこの木は、寺の本堂西側、JRの線路を背にした所に立つ古木で、周囲は一段高く石垣で囲まれている9:16この木が親鸞上人(1173 ~ 1262)の植えたものかどうか、はっきり断言できないが、樹齢370年位と推定できるのではと9:24劔持山 法秀寺所在地:小田原市国府津2-9-4国道一号線沿いの南側にある法秀寺は、1564年開創の日蓮宗寺院で本尊は曼荼羅日蓮上人像9:28二級河川「もりと川」親木橋を渡り歩道橋の上から山側の東海道本線南側の西湘バイパス「国府津インタ」歩道橋の床面に魚の「絵タイル」9:34旧東海道(国道一号線)の、日本橋から79km地点9:38東海道小八幡の一里塚この辺りは、旧東海道に設置された江戸から19番目の一里塚があった場所バス停の名前も「一里塚」9:42石碑には、弘法大師筆跡「利劔名號」八幡山神明院 三寶寺浄土宗、芝増上寺の末寺で嘉慶年間(1387~1388)に廣譽如海の草創したものと伝えられているが・・・・・銀杏の木と六地蔵三寶寺と鐘楼本堂(御影堂)は平成大改築勧募により、平成2年3月より平成6年11月落慶まで、3年8ヵ月要し完成した9:46三寶寺梵鐘(ボンショウ) 黄鐘の鐘(オオジキノカネ)9:52旧東海道(国道一号線)、日本橋から80km地点9:54前方は「酒匂歩道橋」、箱根まで11km9:56この石碑は「道祖神」10:04時宗 上輩寺(ジョウハイジ)所在地:小田原市酒匂2-44-27 最寄り駅鴨宮駅から1.2km上輩寺境内上輩寺の乳イチョウ小田原市指定天然記念物。勝福寺、光円寺のイチョウと共に小田原市内における三大イチョウのひとつであって、乳柱の多いところが特色このプレートには、かながわの名木100選「上輩寺の乳イチョウ」樹齢約600年(推定)と書かれているが主幹は地上約5mの所で2大枝幹となり、さらに北側支幹は3枝に分かれ、それぞれ斜め上に枝分かれして幹冠を形成している。樹形は逆三角形状となっていて、独特な姿をしているこの立派なお墓は「六郷家愛犬チョップの墓」と10:14本堂への両側には墓地が10:19浄土宗光明山 大見寺所在地:小田原市酒匂2-41-37 最寄り駅鴨宮駅から1.2km大見寺本堂小嶋家の宝篋印塔(ホウキョウイントウ)・五輪塔小嶋家は、鎌倉時代から家名が現れた酒匂の旧家で、北条時代には酒匂郷の小代官を務め、江戸時代に入っても名主・組頭役を務めた小嶋家の墓地は、二箇所に区画されていますが、こちらの墓地にある二基の宝篋印塔のうち、右側にあるやや小振りのものが徳治3年(1308)銘の墓石で、同年6月に没した小嶋家の祖先の左衛門入道の墓。左側にある宝篋印塔が天文21年(1552)銘の墓石で、小嶋家の中興の祖、小嶋行西(ユキニシ)の墓です小嶋家の由来狭い墓地に集結されている10:23何の像???国府津から小田原宿に向かう途中の鴨宮辺りまではお寺が多かった 小田原宿続く
2019.01.17
コメント(0)

『ozin0523さんのブログ』にアクセス、ありがとうございます。このブログは『わたしの旅行:国内&海外』 ①日々の出来事 ②ヒロ散歩 ③国内旅行 ④海外旅行 等を中心とした備忘録を兼ねた、今年二年目になる毎日のブログです。感想等を書き込んでいただける方は、写真下の『コメントを書く』から気楽に、ご感想、ご意見、ご質問等を書き込み頂ければ幸いです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・11/27(火) ~ 29(木)までの箱根の旅を終えて帰路に着く11/29(木) 10:27園内の案内は既に'18/12/6にブログ「紅葉と苔庭の箱根美術館」で公開しておりますので、あわせて訪問願えれば幸いです強羅駅と早雲山駅を結ぶ箱根登山鉄道のケーブルカー(鋼索鉄道)このケーブルカーは駅が6駅あり生活路線になっている強羅駅からのケーブルカーで約5分「公園上駅」で下車して美術館へ早雲山駅へ、ケーブルカーの沿線は紅葉真っ盛り10:30約一時間の鑑賞で箱根美術館を出る。箱根美術館の庭園は決して広くはないが、手入れが行き届き四季折々が楽しめるのでまた来たいものです10:56昨日ここから登った、旧街道入り口の三枚橋県道732号線を畑宿方面へ10:58国道一号線を帰るが、この先を右折すると「一夜城歴史公園」この先を左折すると、西湘バイパス、小田原厚木道路平日で時間も早いので渋滞もなく11:00有料道路に入らず「鈴廣かまぼこの里」へ向かう11:10国道一号線を挟んで、小田原宿お食事処「千世倭樓」、茶房「しゃぎ」箱根駅伝の小田原中継所鈴廣かまぼこの里の前には「箱根百年水」かまぼこづくりに欠かすことのできない「水」は、箱根山系に降った雨が100年以上もの歳月を掛け、自然によってろ過された清冽な伏流水であると鈴車(スズグルマ)と水舟(ミズフネ)水舟は、岐阜県郡上八幡の暮らしの景色として広く知られているが、その郡上八幡で船大工を営む田尻浩さんに依頼して造った。材は、油分を多く含むために舟に使われてきた槙です。水口から流れる水を飲用とし、上段の水は口をすすぎ、下段の水で手などを洗う水舟の水口からペットポトルに水をもらう11:22鈴廣かまぼこの里の店内いつも試食して、お土産を買う11:30箱根登山鉄道との立体交差「上板橋」旧東海道は、ここを左折して小田原城方面へ11:50国道一号線を走り国府津駅前を過ぎ、ちょうど昼時になり昼食をとることに駐車場に車を止め「のんき亭」に入るのんき亭の昨年度の人気5位「アジフライ定食」をオーダー12:20昼食を終え12:25右折して西湘バイパス「橘インタ」へここからだと無料区間になる一路茅ヶ崎方面へ12:27二宮・秦野方面出口12:30大磯東、大磯港出口12:36国道134号線を走り、江の島・茅ヶ崎方面へこの先から箱根駅伝のコースになる12:37新湘南バイパス、東名高速道路の渋滞情報12:37トラスコ湘南大橋へ12:39昨年オープンした「柳島スポーツ公園」サッカー、陸上競技が行えるグラウンド12:43正月には沿道に多くの駅伝ファンが詰めかける国道134号線の「第一中学校入口」交差点12:45国道134号線の「菱沼海岸」交差点を左折してラチエン通りへ12:47狭い「ラチエン通り」を北上してKさんとお別れ12:53JR東海道線「異人館踏切」このあと私を送って頂き、Nさん宅経由で運転のNさんの自宅へNさん、車と運転ありがとうございました。次回もよろしくお願いします 二泊三日の箱根の旅-END
2019.01.16
コメント(0)

『ozin0523さんのブログ』にアクセス、ありがとうございます。このブログは『わたしの旅行:国内&海外』 ①日々の出来事 ②ヒロ散歩 ③国内旅行 ④海外旅行 等を中心とした備忘録を兼ねた、今年二年目になる毎日のブログです。感想等を書き込んでいただける方は、写真下の『コメントを書く』から気楽に、ご感想、ご意見、ご質問等を書き込み頂ければ幸いです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・三枚橋から箱根関所へ約6時間で到着11/28(水) 14:07権現坂小田原から箱根路を登る旅人が、いくつかの急所難所をあえいでたどりつき、一息つくのがこの場所。目前に芦ノ湖を展望し、箱根山へ来たという旅の実感が、体に伝わってくるところです旧街道の片側に「権現坂」の石碑権現坂は、芦ノ湖が見えてくる一番景色の良い下り坂。坂の長さが八町(約870m)あるので、八町坂ともいわれる14:10小田原へ向かうご夫婦とすれ違い14:11史跡 箱根旧街道、甘酒茶屋への登り口14:12箱根旧街道案内図現在地は、旧街道を下り終え芦ノ湖畔の左側14:13箱根旧街道:元箱根・箱根峠を経て三島に至るここから35分で甘酒茶屋へ14:14ケッペル・バーニーの碑およそ三百年前に来日したドイツ人医師・博物学者であるケンペルは「日本誌」を記し、日本の山々や自然の美しさなどを世界に紹介した。その後、イギリス人貿易商バーニーはケンペルの書いた「日本誌」に感激し、箱根の自然保護を訴えた芦ノ湖畔へ下る14:16振り返ると紅葉が残り14:17「天下の険」の石碑曹洞宗 瑞龍山 興福院の山門所在地:神奈川県足柄下郡箱根町元箱根26芦ノ湖畔へ下ってきた街道脇にある「興福院」箱根七福神のひとつで、布袋尊がある芦ノ湖畔方面へ、駒ケ岳が見える14:18箱根関所まで1200m、右折すると箱根神社へ14:21街道沿いの土産物店箱根神社 第一鳥居14:22成川美術館1988年に開館した、、個人美術館で日本画家の作品4000点余りを保有している元箱根の芦ノ湖を見下ろす丘の上に建っており、ひととおり日本画を見た後は1階の展望室で、芦ノ湖とそれを囲む山並み、その彼方に姿をのぞかせる富士の峰など、これもまた自然の描いた一幅の美しい絵画を堪能できる。料金は大人1300円で、年中無休、9:00~17:0014:23身替わり地蔵宇治川の先陣争いで名高い梶原景季(カゲスエ)は、ある年箱根を通りかかった時、何者かに襲われました。当時弁舌巧みで、たびたび人をおとしいれた平景時と間違えられたらしいです。幸いにも、かたわらにあった地蔵が身代わりになってようやく命が助かりました。それ以来この地蔵を景季の身替わり地蔵と呼んだとのことですと身替わり地蔵14:25芦ノ湖、木の向こうに富士が見える14:27(箱根)一里塚葭原久保(ヨシワラクボ)の一里塚:この塚は、日本橋から二十四番目にあたる14:28汚れた標識:箱根関所跡へ14:29箱根旧街道「杉並木」この杉並木は、徳川幕府が旅人に木陰を与えようと道の両側に植えたもので、東海道では唯一のものです第二次世界大戦中、伐採されそうになったこともありましたが、現在では国指定史跡として保護されている芦ノ湖畔周辺の四地区に、約420本の杉が残されている杉並木の右側を国道一号線が走る14:35樹齢約300年の古木紅葉も残り14:38「箱根旧街道杉並木の保護」杉並木入口の石碑14:39国道一号線と杉並木14:40右側は恩賜箱根公園入口14:41箱根関所入口箱根関所周辺散策図14:42杉並木「新谷町地区」14:43箱根関所の「江戸口御門」へ到着三枚橋から箱根関所まで、30,000歩、6時間の箱根越へでした左上の丘は「遠見番所」芦ノ湖越へに富士が顔を出しズームアップして14:56箱根関所(国指定史跡 箱根関跡)箱根関所が、江戸幕府によって、山と湖に挟まれた交通の要衝であるこの地に設置されたのは、元和5年(1619)のことと伝えられている。箱根関所は、江戸幕府が江戸防衛のために、全国に設置した53ヶ所の関所のうち、東海道の新居(静岡県)、中山道の碓氷(群馬県)、木曽福島(長野県)と並んで規模も大きく、特に重要な関所と考えられていたようです。塗装工事中の「江戸口御門」を入り「京口御門」へ「京口御門」へ、両側は有料で見学できるこの関所の配置は、箱根山中の東海道の中で、屏風山と芦ノ湖に挟まれた要害の地形を利用して、山の中腹から湖の中まで柵で厳重に区画し、江戸口・京口両御門を構え大番所と足軽番所が向き合うものとなっている京口御門京口御門前にて京口御門から、京方面(国道一号線)へ野球仲間の Mr.N.お疲れさまでした、四人とも無事完歩京口御門のチケット売り場国道一号線から箱根関所の京口御門へ15:06箱根関所近くの「旅物語館」箱根湯本駅・小田原駅行きバス15:10箱根関所から仙石原方面へのアクセス(バス)がないためタクシーを予約。四人で乗り、仙石原の保養所へ向かう。約30分間TAX運転手と雑談16時前に保養所へ到着後、温泉に入り箱根越えの汗を流す17:5118時前から夕食をとるが、メインディッシュは肉と魚料理を依頼メインディッシュの肉料理3人は連泊で楽しんだ夕食の宴は、箱根越えの話で盛り上がった。また、夕食後は、4人でカラオケを堪能した一日でした 箱根越へ-5 箱根越へEND
2019.01.15
コメント(0)

『ozin0523さんのブログ』にアクセス、ありがとうございます。このブログは『わたしの旅行:国内&海外』 ①日々の出来事 ②ヒロ散歩 ③国内旅行 ④海外旅行 等を中心とした備忘録を兼ねた、今年二年目になる毎日のブログです。感想等を書き込んでいただける方は、写真下の『コメントを書く』から気楽に、ご感想、ご意見、ご質問等を書き込み頂ければ幸いです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・箱根越えの「追込坂」から甘酒茶屋へ向かう。11/28(水) 12:57追込坂(オイコミザカ)「新編相模国風土記稿」のふりがな(万葉がな)をみると、フッコミ坂といったのかもしれません。甘酒茶屋までのゆるい坂道の名ですと追込坂の石碑親鸞上人と笈ノ平(オイノタイラ)東国の教化を終えての帰路、四人の弟子と上人が険しい箱根路を登ってこの地に来たとき、上人は弟子の性信房と蓮位坊に向かい「師弟打ちつれて上洛した後は、たれが東国の門徒を導くのか心配であるから、御房がこれから立ち戻って教化してもらいたい」と頼み、師弟の悲しい別れをした場所と伝えられている甘酒茶屋の手前にある「笈ノ平の親鸞の石碑」畑宿、元箱根の道標旧街道は、県道732号線から登る13:00左は、県道732号線この辺りは「箱根二子山の風衝低木植物群落」ハコネコメツツジを主体にしたオノエラン・ハコネコメツツジ群集と呼ばれる植物群落がみられ、神奈川県指定天然記念物に指定されている13:02旧街道休憩所箱根旧街道の面影を偲んで訪れる人々や広く一般の方のための休憩所である。茅葺屋根の内部は、土間や囲炉裏が設けられている。無料ですので、ご自由にお休みくださいと無料 休けい所内部当時の光景が描かれ江戸時代の家具類が展示大名がのる駕籠葵の紋の長持囲炉裏県道732号線の「甘酒茶屋」バス停13:05甘酒茶屋へ到着ここまで三枚橋から24,100歩、所要時間4時間15分箱根山峠甘酒茶屋の画と、大正時代の甘酒茶屋参覲交代諸大名休息処甘酒茶屋甘酒を出す茶屋は箱根八里の間に十三軒ほどあったが、この場所は間の宿の畑宿と箱根宿との中間に位置し、四軒の甘酒茶屋が並び立場としてにぎわった。現在は江戸時代から300年続く甘酒茶屋が一軒のみ残る赤穂浪士の一人、神崎与五郎の詫状文伝説を伝えるこの茶屋は、畑宿と箱根宿のちょうど中ほどにあり、旅人が一休みするには、適当な場所であった。当時この茶屋は箱根八里間で十三軒あり、甘酒を求める旅人でにぎわった薄暗い店内に入り甘酒を飲むことに甘酒(400円)甘酒、力餅、ところてん、みそおでん等を販売13:25甘酒を飲みながら休憩して関所へ向かう13:28旧街道の石畳を登る13:32甘酒茶屋から下りと思ったがまだ石畳を登る13:35於王坂の石碑於王坂 登り2町(2×109m≒218m)13:37右は県道732号線、甘酒茶屋から400m/10分地点箱根旧街道(新設歩道)、県道を横切る、元箱根まで1200米最後の坂、箱根旧街道へ13:37史跡 箱根旧街道石碑文久2年(1862)に改修工事をした石畳が、この地点から元箱根に至る約1.0kmに現存している江戸幕府は元和4年(1618)十六夜日記でも知られる旧来の湯本から・・・・・芦ノ湯を経て、元箱根に至る湯坂道(現ハイキングコース)を廃し、湯本の三枚橋から須雲川に沿い畑宿を通り二子山の南側を経て、元箱根に至る古い山路をひろげ世に箱根の八里越えと伝えられる街道を作った白水坂 この街道は、寛永12年(1635)参勤交代の制度ができての、一層交通が盛んとなり、そのありさまは、詩歌、物語等にも多く歌われた13:41延宝8年(1680)幕府の手により、はじめてこの街道に石が敷かれたが、この石畳の道は現在も所々に存し、国の史跡に指定されている。現在残っている石畳は、文久3年(1863)2月、孝明天皇の妹、和宮内親王が十四代将軍徳川家茂のもとに降嫁されるにあたり、幕府が時の代官に命じ文久2年(1862)に改修工事を完成させたものと平均約3.6mの道幅の中央に約1.8m幅に石が敷きつめられていた13:47途中「箱根の森展望広場」13:49箱根の森案内図芦ノ湖が見えるかと登ったが見れず13:50登ってきた道を見下ろす石だたみについて江戸時代の初め、それまで尾根伝いを通っていた湯坂路に替わり、須雲川に沿った谷間の道が東海道として整備された。整備した当初は箱根に群生するハコネダケという細竹を毎年敷き詰めていた。しかし、大変な費用と労力がかかることから、延宝8年(1680)石を敷いた石だたみの道になった13:55ようやく平らになる13:56下り坂になる大きな石碑に「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」14:00二子山について二子山は、駒ヶ岳、神山、台ヶ岳などとともに中央火口丘の一つで箱根の火山活動のうち一番最後にできたもの。頂上付近にはハコネコメツツジと呼ばれる富士火山帯特有のツツジ類を始めサンショウバラやコイワザクラ、ヒメイワカガミなどが育成していて自然状態がよく残されている。現在は、保護のため入山は禁止されている山の合間から芦ノ湖方面駒ヶ岳14:04旧東海道この付近は江戸時代の東海道が鎌倉時代の東海道にかわると考えられている。鎌倉時代の東海道は湯坂路と呼ばれ、それまで箱根を避けて通っていた足柄道に替わり整備された道で、この付近から箱根峠を経て三島方面と、鷹ノ巣山、湯坂山を経て湯本、小田原方面へと続いていた箱根旧街道を芦ノ湖方面へ下り、元箱根まで十五分14:05最後の急な石畳を下る14:06芦ノ湖が見えてきた 箱根越へ-4 箱根越へ続く
2019.01.14
コメント(0)

『ozin0523さんのブログ』にアクセス、ありがとうございます。このブログは『わたしの旅行:国内&海外』 ①日々の出来事 ②ヒロ散歩 ③国内旅行 ④海外旅行 等を中心とした備忘録を兼ねた、今年二年目になる毎日のブログです。感想等を書き込んでいただける方は、写真下の『コメントを書く』から気楽に、ご感想、ご意見、ご質問等を書き込み頂ければ幸いです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 旧街道の畑宿から甘酒茶屋へ11/28(水) 11:45旧街道の県道732号線の「これより1.2kmの間七曲がり」上り勾配10.1%先行して歩く野球仲間日光のいろは坂並みの七曲り、この先の石段を登る道路は七曲りになっているが、旧街道はストレートに登る急坂11:46石段から見返ると江戸時代の、馬、駕籠はどのように移動したのか興味津々である11:48箱根新道の下をくぐる県道732号線11:51上の高架は箱根新道で、この辺りは日光のいろは坂の如し何の花後?山茶花も咲き11:58小田原の町は霞んで11:59県道732号線の「橿の木坂(カシノキザカ)」バス停元箱根港行きのバス橿木坂「新編相模国風土記稿」に、「峭崖(高く険しい崖)に橿樹あり、故に名を得」とある。「東海道名所日記」には、けわしきこと、道中一番の難所なり・・・・・・12:00橿木坂の石碑、登り五町・・・県道732号線12:03急坂が続く県道732号線12:04県道732号線と旧街道がところどころ重なる箱根旧街道石畳への石段12:05急な坂が続き、一気に標高をあげる七曲り12:07急な坂が続くが、流石野球で鍛えているので皆さん元気三枚橋から箱根宿までを東坂というが、標高差は約700m12:08紅葉がきれいになる12:09「旧街道 見晴橋」元箱根まで3.0km紅葉も終盤だが箱根旧街道(新設歩道)甘酒茶屋まで1,300m、元箱根まで3,000m12:10雲助とよばれた人たち「箱根の雲助」というと知らない人はいませんと。ところが雲助と呼ばれた人たちは、実は、この小田原の問屋場で働く人足たちだった。しかし雲助というとなにか悪者のように考えますが、それは一部の人で、問屋場では人足を登録させ仕事を割当てていたので、悪さをした人などはいなかったと日本交通史論という資料によると、雲助になるのは次の三つにパスしなければならなかったと。その内容を見ると①力が非常に強いこと②荷物の荷造りがすぐれていること③歌をうたうのが上手でないと、一流の雲助とは言われなかった12:20この辺りで休憩がてら持参したおにぎりを食べ昼食をとる。三枚橋から、21,000歩、所要時間3時間20分12:22左上に行くと県道732号線の「見晴し茶屋」がある12:25旧街道 山根橋須雲川 自然探勝歩道についてこの歩道は、須雲川沿いに畑宿より元箱根に至る旧東海道(江戸時代1680年頃)に沿った歴史的なたたずまいを持つ自然歩道です。途中には、旧東海道そのままの石畳が残され当時の面影をしのばせている。元箱根までは、甘酒茶屋を経て杉並木に至る約3キロメートルの道のりとなっている急な坂をのぼり平地に12:26遠く小田原の町と相模湾が見える12:28若いアベックが追い越したがどこまで歩くのか12:30さらに石畳を登っていくと紅葉も進み真っ赤なもみじが色ずきここは黄葉するのか12:33「旧街道 甘酒橋」元箱根まで、2.7km12:34まだ緩やかな坂をのぼり12:45ひたすら甘酒茶屋へ12:45猿滑坂(サルスベリザカ)猿滑坂「新編相模国風土記稿」には、「殊に危険、猿猴といえども、たやすく登り得ず、よりて名とす」と、難所らしい坂の名の由来が書かれている。県道の横断歩道橋がかかっている辺りが、当時の坂であったと猿滑坂の石碑、登り一町余?石畳歩道についてこの石畳は旧東海道(江戸時代西暦1680年頃)の歴史的な街道に沿った歩道です。旧東海道は、関東大震災(1923年)及び北伊豆地震(1930年)等たびかさなる災害により大半が崩壊、埋没したが残された一部の石を再現し、自然歩道として神奈川県が整備したものです12:47須雲川自然探勝歩道甘酒茶屋まであとわずかとなり右下から昇ってきて、県道732号線のこの歩道を渡る12:49左側の手すり内を歩いて甘酒茶屋へ向かう。路面にハンドルを切ったタイヤの跡があるが事故? 箱根越へ-3 箱根越へ続く
2019.01.13
コメント(2)

旧街道の石畳を歩き、畑宿を目指して4人で登る11/28(水) 10:46畑宿まで1.2km地点の標識で急な坂道が始まる10:49”須雲川増水時のご注意”この先約500mの須雲川を渡るところは、大雨のときや、川の水が増えている間は通れませんので県道を利用してくださいと10:50畑宿まで1000米の「割石坂(ワリイシザカ)」曽我五郎が、富士の裾野に仇討ちに向かう時、腰の刀の切れ味を試そうと、路傍の巨石を真二っに切り割ったところと伝えられている10:51これより江戸時代の石畳割石坂の手前に「女転し坂」があったが見落とす10:55標高も上がり紅葉が進んでいた10:56旧街道に沿って、左側に県道732号線。三枚橋から箱根宿の先の箱根峠までを東坂、箱根峠から三島宿までを西坂と呼んだ。東坂は標高差約700m、平均斜度は20度、最大斜度は40度といわれる東海道随一の難所だったので、湯本・畑宿・甘酒茶屋に立場があった『立場(タテバ)』旅人の休憩所のこと。江戸時代に「杖を立てかけて休む場」という意味から立場と呼ばれていた。立場は宿と宿の間にあって、数軒の掛茶屋(葦簾ばりの簡単な茶屋)が並ぶ茶屋を立場茶屋と呼んだ。『箱根路のうつりかわり』箱根路は、古来より東西交通の難所であり、文化の流通に大きな障壁となってきた。この壁を通過する交通路は、地形の制約を受けながら常に箱根山を対象に設けられてきた。箱根路のうつりかわりは、日本の歴史にも深いつながりを持ち、各時代のうつり変りと共に箱根越えの路も変わってきたと10:57山の上から導水路、東京電力の三枚橋発電所へ?紅葉がきれいに色ずき10:58接待茶屋江戸時代後期、箱根権現の別当如実は、箱根八里を往還する旅人や馬に、湯茶や飼葉を施し大変喜ばれていたが、資金が続かず行き詰まってしまった。如実は、江戸呉服町加勢屋与兵衛らの協力を得て、施行の継続を幕府に願い出、文政7年(1824)、ようやく許可がおりた。再開にあたって新しく設置する施工所を畑宿と須雲川に希望していたが、2か所とも立場であるため許可されず、東坂は割石坂のこの辺り、西坂は施行平に設置された県道732号線、畑宿まで、後700米、元箱根4430米11:04急な石畳を登り県道732号線へ登ってきた石畳を振り返る11:08石畳の構造この付近の石畳は、江戸時代初期、石畳施行当時の構造を今に伝えている。石畳は、小石と石とを突き固めた地面の上に、石と石とを組み合わせて並べており、さらに石畳の横に、縦の排水路を持っている。また並木が植っていた土手も、人工的に造られたものである大澤坂(オオサワザカ)の石碑大澤川を渡った所で、幕末の下田奉行小笠原長保の「甲申旅日記」に「大沢坂へは坐頭転ばしともいうとぞ、このあたり、つつじ盛んにて趣殊によし」と書かれている。当時の石畳に道が、一番よく残っている坂で苔むした石畳は、往時をしのばせている11:13斜めの排水路この辺りは、石畳の上を流れてきた雨水を、石畳の外へ追い出すための、斜めの排水路がある11:15急な石畳を登り県道732号線へ、ようやく畑宿だ登ってきた旧街道11:18本陣跡のバス停に座り、三枚橋方面の下り坂三枚橋から、ここまで18,800歩、2時間半を要した本陣跡にある二つの説明板本陣跡ここ畑宿の本陣は、屋号を茗荷屋と呼ばれた旧名主の本屋敷跡。家屋は大正元年全村火災の折、焼失したが庭園は昔を忍ぶそのままの姿で残された旧茗荷屋庭園畑宿の名主茗荷屋畑右衛門の庭は、山間から流れる水を利用して滝を落とし、池にはたくさんの鯉を遊ばせた立派な庭園で、当時街道の旅人たちの評判になった。ハリスやヒュースケンなど幕末外交の使者たちもこの庭を見て感嘆したと本陣跡の向かい側にある、見える工場の箱根寄木細工「浜松屋」乗り合いタクシーで訪れた観光客が店内に入る浜松屋の店先にある「桂神代(カツラジンダイ)」この大木の根は桂神代で、火山の噴火とか大地震で土砂が崩れ何百年何千年も地の中に入っていた埋もれ木である。樹齢約三百年の桂神代(新潟県産)は全国的に珍しい。当社は、ほかに四十種類の天然木を使用して寄木細工と木象嵌を製造していると11:20駒形神社駒形神社は箱根関にもあるが11:26トイレの中の貼り紙禁止行為だが、釣りはどういうこと?11:27畑 宿郷土の伝統工芸箱根細工が生まれ育ったところ。畑宿で、木地細工が作られた記録はかなり古く、小田原北條氏時代までさかのぼる。江戸時代畑宿は、箱根旧街道の間の村(アイノムラ)として栄え、たくさんの茶屋が並び名物のそば、鮎の塩焼き、箱根細工が旅人の足をとめたと畑宿バス停9時から19時ごろまでは一時間に2本運行三枚橋をスタートしたときは、この辺りからバスに乗ろうかと言っていたが路線案内11:28元箱根港行きのバスが丁度到着箱根路 東海道の碑この先30mが「箱根旧街道一里塚」バスに乗ることもなく甘酒茶屋を目指すことに11:30名物「とろろそば」、そば処桔梗屋11:31箱根旧街道「畑宿一里塚」東海道の一里塚は、後に二代将軍となる徳川秀忠の命により、慶長9年(1604)2月につくり始められ、全てが完成したのは慶長17年(1612)であったと。畑宿の一里塚は、江戸日本橋から23里目にあたる11:33紅葉の進んだ石畳を登り始める11:34歩くのも大変な石畳であるが、馬、駕籠はいかに11:35国道1号線(箱根新道)の上を横切る横断歩道橋の旧街道11:37徐々に紅葉がきれいに11:38斜めの排水路の説明板看板の前から手前に大きな石が石畳を横切っている排水路11:40畑宿からは石畳はより急なこう配に11:43「西海子坂 登り二町許」の石碑箱根旧街道江戸幕府は延宝8年(1680)箱根道を石畳道に改修した。それ以前のこの道は、雨や雪のあとは大変な悪路になり、旅人はひざまで没する泥道を歩かねばならないため、竹を敷いていましたが毎年、竹を調達するのに大変な労力と費用がかかっていたと旧街道の石畳から県道732号線へ11:44箱根旧街道の立杭、ここから右に下って江戸方面へ 箱根越へ-2 箱根越へ続く
2019.01.12
コメント(0)

三枚橋から歩き始めて約50分で箱根石畳入口へ11/28(水) 9:37県道732号線から分かれて、旧街道の石たたみへ県道732号線の三枚橋方面石畳入口箱根旧街道入口江戸幕府は、延宝8年(1680)に箱根旧街道に石を敷き舗装をした。この先から約255mはその面影を残しており、国の史跡に指定されている。この道は、県道に通じ元箱根方面への近道となる国の史跡に指定されている「石畳」9:38歩きずらい、雨に濡れると滑りやすいのでは9:40県道から下り上の橋は県道732号線9:42石畳を登る9:43箱根観音 曹堂宗福壽院9:49県道732号線から、左は「ホテル南風荘」ホテル南風荘箱根新道(国道一号線)の高架9:53天山湯治郷箱根登山バスの「天山入口(奥湯本入口)」旅館送迎有料バス(100円)、一時間に二本運行9:54箱根湯本 早雲通り温泉郷10:02雉子亭 豊栄荘(ホウエイソウ)10:04旧街道の県道732号線を歩く10:05葛原坂(クズハラザカ)『新編相模国風土記稿』には「海道(東海道)中、須雲川村境にあり、登り一町ばかり」としか書かれていない。地名が葛原で、この辺りは今もクズの葉が生い茂っている10:09旧街道の県道732号線を登っていると、金ぴかの寺院が箱根大天狗山神社 別院天聖院中は撮影禁止とのことで門前で引返す10:15 箱根新道入口の「須雲川インタ」と、小田急ホテル「はつはな」天気も穏やかで最高、芦ノ湖で富士山が見えるか楽しみ10:20初花ノ瀑布の石碑があるが字が読めず10:25霊泉山 鎖雲禅寺鎖雲寺(サウンジ)江戸時代の初め、当時早雲寺の山内にあった一庵を引いて建立された臨済宗大徳寺派の禅寺です。この寺には「箱根霊験記」で有名な勝五郎と初花の墓がある狭い敷地にある鎖雲寺本堂と初花堂勝五郎、妻・初花の仇討の説明が箱根霊験いざりの仇討「勝五郎、妻・初花」の墓本堂裏にある、勝五郎・初花の墓歌舞伎「箱根霊験躄仇討(ハコネレイゲンイザリノアダウチ)」で有名初花堂10:29旧街道の県道732号線の三枚橋方向10:31 ここから旧街道の県道732号線から、須雲川自然探勝歩道へ入る。畑宿まで1700米、元箱根まで6200米須雲川自然探勝歩道の案内板この辺りまではまだ急な坂は無かったが、これからが厳しくなる畑宿手前から急な坂になる箱根ジオパーク10:33右下は須雲川10:41街道の紅葉がきれい10:42東京電力 三枚橋発電所「沈砂池」川が増水しているときは危険! 上流の吊り橋をお渡り下さいと。先に行っている三人が、右折して丸太橋へ行ったので続く東京電力 三枚橋発電所「沈砂池」この上流に吊り橋があるこの不安定な丸太橋を渡る。Kさんが転んだが怪我もなく一安心注意!10:45丸太橋を渡り、坂を上って畑宿へ 箱根越へ-1 箱根越へ続く
2019.01.11
コメント(0)

旅友のKさんとの弥次喜多道中は、Kさんが既にこの三枚橋から箱根関所を制覇しているので、前日にゴルフをやり仙石原に宿泊したので、野球仲間の4人で箱根越えをしました。ブログは国府津まで既にアップしており、国府津から三枚橋は12/4(火)に歩いておりますが、歩いた日を優先してこちらを先にアップします。11/28(水) 7:24朝ぶろを浴び、7時半からの朝食をとる8:108:15のバスに乗るために坂を下って「小塚山入口」バス停へバス停近くの橋の上から8:44小田原行きのバスで箱根湯本駅前に到着、茅ヶ崎からのKさんと無事合流4人で三枚橋へ向かう小田原行きの箱根登山鉄道8:50三枚橋から、旧東海道を歩き箱根の関所へ向かう。三枚橋は湯本の早川に架かる橋で東海道はここで左折し、橋を越えて山道へ行く。また、箱根の温泉場へと向かう「七湯(シチトウ)道」との分岐点でもある。七湯とは、湯本・塔之沢・宮ノ下・堂ヵ島・底倉・木賀・芦之湯のこと箱根八里小田原宿から箱根宿(4里8町:16.6km)、箱根宿から三島宿(3里28町:14.8km)の合計8里(31.4km)を箱根八里と呼んだ。江戸時代の旅では通常、小田原宿から三島(または沼津)宿までを一気に歩いた。しかし現代の我々は、二日に分けて挑戦した。途中コンビニに立ち寄り昼食用のおにぎり等を購入9:00県道732号線を歩き、旧東海道沿いの「箱根・ルッカの森」小田原や箱根湯本にある『菜の花』の系列店江戸幕府は元和4年(1618)十六夜日記でも知られる旧来の湯本から湯坂山-浅間山-鷹ノ巣山-芦ノ湯を経て、元箱根に至る湯坂道(現ハイキングコース)を廃し、湯本の三枚橋から須雲川に沿い畑宿を通り二子山の南側を経て、元箱根に至る古い山路をひろげ世に箱根の八里越えと伝えられる街道を作った9:05箱根町立湯本小学校小学校の校庭のイチョウの木9:07白山神社バス停は「早雲公園前」白山神社は、旧街道を挟んで早雲寺の反対側にあり、江戸時代までは白山権現と呼ばれ、湯元温泉の鎮守である県道732号線の旧街道沿いの温泉旅館、道が狭いので要注意!9:08早雲寺の山門、工事中で裏口から入る早雲寺は、大永元年(1521)北條早雲の遺命により、その子氏綱によって建立された寺であり、以来北條氏一門の香火所としてその盛衰をともにし現在に至っている。この寺には、北條文化の香りを伝える数多くの文化財が残されており北條文化を語るのに欠くことのできない寺であるヒメハルゼミとその棲息地このセミは、東洋系の昆虫で、その分布の中心は台湾である。この付近一帯は名刹早雲寺境内であって古来「不入」の地として自然景観が保護されてきたと早雲寺山門は工事中で入れず。早雲寺は臨済宗大徳寺派の寺院で、山号は金湯山。道案内の掲示板早雲寺鐘楼早雲寺本堂、本尊は釈迦如来木々に覆われた境内は500年の歴史を物語るように静かな空気に包まれていたこの奥に北条五代の墓(供養塔)があるが今回は参拝せず9:14本堂裏の大銀杏が見事に黄葉天正18年(1590)小田原攻めの豊臣秀吉は箱根を越えた場所の早雲寺を本陣としたが、石垣山一夜城の完成後に火を放ち本陣を石垣山に移した9:19湯本小学校跡明治5年(1872)、明治政府により学制が発布された翌年、箱根に有禎館五支校の内の第一支校として、湯本学校が早雲寺に設立され湯本地区の教育が始まった湯本小学校跡地の旅館9:21県道732号線沿いの「弥坂湯」地元民向けの共同湯的な温泉銭湯で、洗い場が2席と定員が少ない。女湯は近所のおばちゃんで混雑、40℃弱の湯温は長く浸かるのに最適と9:22礎生塾?9:23正眼寺(ショウゲンジ)正眼寺入口正眼寺の史跡正眼寺は、鎌倉時代に箱根山に広まっていった地蔵信仰の中で生まれた寺。創建年代は定かでないが、この寺の前身である湯本地蔵堂の別当寺として鎌倉前期には存在しその頃は勝源寺と呼ばれていた。大地蔵正眼寺この寺は曽我兄弟の伝説を伝える古刹である。この寺の創建は明らかではないが、鎌倉時代、箱根地方に広がった地蔵信仰の中から生まれた寺であることは確かと正眼寺は、鎌倉初期に創建され、湯本地蔵堂としても有名。慶応4年(1868)戊辰戦争の「山崎の戦い」の際、放火され焼失。。現在の本堂は昭和7年(1932)、明治期に建立の別荘を移築したもの。境内に曽我五郎の鏃突き石、曽我兄弟供養塔があり、裏山には曽我堂がある、曽我兄弟ゆかりの寺である9:27曽我兄弟供養塔9:28湯本茶屋案内図現在地は右側の黄色部分道祖神9:31茶屋の道祖神(左側)どちらも道祖神だが、右側は石祠(神を祀ってある小さなやしろ)、左側は男女の双体像の道祖神で男女が手をつなぎ、よりそう姿から「仲睦ましい道祖神」として親しまれているOnsen Hostel「K's House」外人観光客も多くなりこのような、Hostel が営業「K's House」の前に貼られた9:33白川洗石生家跡江戸末期に湯本茶屋に移り住んでいた、浜松市出身の指物師白川三代吉は、同じ湯本茶屋の勝俣儀兵衛の姉アキと結婚した。そして、明治4年(1871)8月7日には長男の鶴之助(後に洗石と号する)が誕生した。鶴之助は明治17年(1884)湯本小学校卒業と同時に父について、指物の指導を受けながら寄木細工の技法を学んだ。作品の制作中、父が細かい線や曲線に苦労していたのを見て、洗石は象嵌細工の技法にミシンを応用することを考え、繊細な作品を作ることに成功し、新しい木象嵌技法の普及に努めた9:34一里塚この塚は日本橋より二十二番目にある。一里(60間=1町・36町=一里・約3952米)石碑は「旧箱根街道一里塚跡の碑」9:36温泉旅館「近江屋」昨日のゴルフで三人は、約20,000歩近く歩いており心配したが元気にここまで到着 箱根越へ続く
2019.01.10
コメント(4)

湖東三山&香嵐渓の二泊三日の旅を11/25(日)に終えた直後、続いて野球仲間に誘われ元会社の箱根の保養所を利用して、久しぶりに11/27(火)ゴルフを行った。当初は11/28(水)に、東海道53次で箱根湯本の三枚橋から箱根の関所へ行きその夜、保養所へ宿泊する予定であったが、ゴルフをやりたいとの要望から急遽前日にゴルフをしての二泊三日に変更した旅行でした。11/27(火) 6:43朝6時に迎えに来ていただき、三人でゴルフ場へ6:51東名高速道路の足柄サービスエリア前東名高速道路の上り線愛鷹山連峰6:58新東名高速道路の御殿場JCT工事現場東名高速道路の裾野インタへ7:01裾野インタ出口、ここを右折して「南富士カントリークラブ」へ7:06久しぶりに富士山がきれいに見える静岡県道24号線からの富士山8:49南富士カントリークラブからの富士山。所在地:静岡県富士市大淵11702-3野球仲間がメンバーで3人で予約してもらう風もなく良い天気であったがメタセコイアも紅葉して10:00私は今年二度目のゴルフ、このプレーは私ではありません(笑)10:30グリーン周りでミスが重なりメンバーのMr.N.平日の火曜日で待つこともなくプレーができ快適であったが10:45スコアは最悪11:19昼食はバイキングで、カレーが美味しかった12:36両サイドは林が多く曲がると大変14:4314時過ぎにはプレーも終わり、風呂へ入らず保養所の温泉へ急ぐ。富士山の麓を走り今夜の宿泊地仙石原へ15:15乙女峠を過ぎ仙石原へ入る15:20仙石原にある曹洞宗の古刹「長安寺」所在地:神奈川県足柄下郡箱根町仙石原82最近TVで境内の五百羅漢と紅葉を紹介され人気上昇中の古刹である紅葉とともに境内に置かれた五百羅紅葉は少々過ぎた感があったこの山肌に五百羅漢が置かれている静かな境内には数百の羅漢像が置かれ、苔むした小路にたたずむそのどれもが人間味の溢れる豊かな表情をたたえているその羅漢像を包む色鮮やかな紅葉は、独特の厳かさと静けさを織りなす混雑に紛れずゆっくり紅葉を眺めたい人にお勧めのスポットだと鐘楼と紅葉15:27短時間の散策で保養所へ向かう15:33明日の朝は、箱根湯本までバス移動であるため、バスの出発時間を確認する箱根湯本のバス停に9時集合としているので、小塚入口発、8:15を確認した風呂から上がった後、18時から夕食をとる20:00夕食後は、無料のカラオケルームで、今夜の宿泊者3組でカラオケ合戦。23時頃まで楽しみ、明日を考えて寝ることに明日はバスで箱根湯本へ下り、もう一人のKさんと合流して東海道53次の箱根湯本の三枚橋から箱根関所へ挑戦する 東海道53次へ続く
2019.01.09
コメント(0)

箱根駅伝の応援の後、茅ヶ崎海岸を散策1/3(木) 11:00茅ヶ崎ヘッドランド江の島砂浜で遊ぶ子供烏帽子岩をバックにサーファー11:05今日は富士山が見えるが生憎雲がかかりこの辺りから江の島の鵠沼海岸にかけて多くのサーファーが茅ヶ崎サザンビーチ方向風も弱く穏やかな天気11:21朝焼けする富士も素晴らしい昨年は数回の台風襲来で砂防柵も壊れ一中前ステージ、朝はラジオ体操11:27関東の富士見100景地点名「茅ヶ崎市からの富士」江の島では冬のチューリップが咲いていると新聞で11:29太陽の陽に輝き烏帽子岩の後方に伊豆大島が薄く見える11:31茅ヶ崎海岸しおさいの森 散歩道案内図第一中学校入口交差点の歩道橋から、江の島方面交通規制も解除されて同歩道橋から富士山を望むズームアップして第一中学校入口交差点の歩道橋箱根駅伝時の歩道橋からの写真は禁止されており、通行禁止になる菱沼海岸交差点から、砂防網の間から烏帽子岩を海岸から撮影するより、目の錯覚で大きく見えると11:39ラチエン通り元旦の初日の出、駅伝後は人人であふれていた通り今年最初の買い物をした後、天気が良く富士も見え夕陽で西の空が染まっていたので海岸へドライブ。箱根駅伝結果総合成績:1位 東海大 2位 青学大 3位 東洋大 4位 駒大 5位 帝京大復路成績:1位 青学大 2位 東海大 3位 帝京大 4位 駒大 5位 東洋大東海大学が悲願の初V16:50 東海道53次の「南湖の左富士」茅ヶ崎浜見平の「いきなりステーキ」16:57関東富士見100景南湖院の病棟富士をズームアップ17:11国道134号線の浜須賀歩道橋から浜須賀歩道橋から伊豆大島同場所から伊豆半島方面17:12浜須賀交差点 箱根駅伝(1/2) 箱根駅伝END
2019.01.08
コメント(0)

今年の箱根駅伝は、青山大学の5連覇なるか?前日の往路は、1位:東洋大学 2位:東海大学 3位:國學院大学 4位:駒澤大学 5位:法政大学 6位青山学院大学1/3(木) 10:03菱沼海岸交差点:既に交通規制で海側へ行けず交通規制立て札:第一中学校入口交差点の歩道橋10:08撮影ポイントを求め国道134号線を江の島方面へ箱根駅伝の広報カーが来る10:16平塚方面、沿道には多くの応援者が旗を持ち10:18交通整理のパトカーが沿道で配られた旗(一人二本)10:25空には報道ヘリコプター10:27菱沼海岸交差点方向にテレビ中継車が10:281,2位の、東海大学、東洋大学10:313分以上遅れてテレビ中継車が10:31往路6位から追い抜いて、5連覇を狙う3位の青山学院大学青学の伴走車10:324位の駒澤大学10:34パトカーに先導されて、5、6位の選手が10:35二人重なって、法政大学、國學院大學10:35法政大学、國學院大學10:377位の帝京大学10:388位の順天堂大学順天堂大学10:399位の拓殖大学拓殖大学10位の中央学院大学中央学院大学:ここまでが来年のシード権確保10:4011位の明治大学明治大学10:4212位グループの集団10:44何位?、国士舘大学何位?、山梨学院大学山梨学院大学10:46何位?、城西大学10:46最終ランナーの、上武大学10:47規制解除のパトカーが走り10:53規制解除で海側へ行け、江の島を望む菱沼海岸は一昨年の台風で被害を受けていたが、竹製の砂防柵から鋼製の手すりに10:54茅ヶ崎ヘッドランド海には多くのサーファーと、駅伝応援後の人たちが10:57江の島 箱根駅伝続く
2019.01.07
コメント(2)

他のブログ公開で遅れましたが、遅ればせながら明けましておめでとうございます本年も昨年同様よろしくお願い申し上げますブログアップも連続投稿が一年を過ぎ、今年も旅友とブログ取材に行き作成したいと思っておりますので、続いての訪問をよろしくお願いします。なお、今年は私の何回目?かの干支です。平成31年 元旦玄関飾り平成31年1月1日(火) 朝6:15に自宅から自転車で、ラチエン通りを湘南海岸へ6:35海岸には既に多くの人たちが6:36日の出予想は6:50過ぎ、江の島の南から茅ヶ崎ヘッドランド6:37沖合には、烏帽子岩と伊豆大島6:39日の出近くなり人出も多くなる6:43三浦半島の山が明るくなる6:44空には雲があるが、どうにか日の出が見えそうだサーフアーも日の出を待つ6:45サーファーは日の出を見てから6:46海面も赤くなる伊豆大島も赤みを帯びる、富士山は雲の中6:476:49三浦半島をズームアップ6:51もうそろそろ日の出6:52空には雲が多く6:53三浦半島に太陽が頭を出す今年一年が太平であることを初日の出に祈る多くの人たちは何を祈ったのか?太陽の光線がわが身に6:54雲の合間から見事に見れた波は穏やかで6:566:56茅ヶ崎ヘッドランド前の砂浜にも多くの人たちが残念ながら富士山の方向は雲が多く6:57今年も初日の出が見れ烏帽子岩6:58サーファーも初日の出に祈願して太陽は雲の中に消える7:00初日の出を見て帰路に7:07国道134号線の菱沼海岸交差点からラチエン通りへ狭い通りだが人出でいっぱい途中のサーフィンの店では甘酒&コーヒーの販売7:08国道134号線の菱沼海岸交差点明日は箱根駅伝の往路7:09明日も多くの駅伝ファンがこの辺りに箱根駅伝に対する交通規制1月2日 10:30 ~ 11:10頃 右折禁止1月3日 9:50 ~ 10:50頃 右左禁止 正月元旦ーEND
2019.01.06
コメント(0)

滋賀県の湖東三山・長浜市から香嵐渓・川見&小原の四季桜の旅の最終版です。11/25(日) 13:49川見地区の四季桜を見て樟茶屋(クスノキチャヤ)へ戻るシャトルバスのボンネットバスが走るメタセコイアの木の前を早々と歩く旅友Kさん。この木が映える濠が左側にあるのだが・・・・・メタセコイアの下で彩るカエデ色鮮やか今年の紅葉は最高であった散歩のワンちゃん豊田市市長も視察に訪れていた、旅友が「私は岡崎市民ですが」と言いながら記念写真をパチリ14:09樟茶屋のおやじさんに、小原のビューポイントを紹介されて樟茶屋を後にする14:28浄土宗亀寿山西運寺(サイウンジ)当寺は、市場城主鱸(スズキ)越中の守の奥方の菩提所として、天正8年(1580)に生誉岌天上人(ショウヨジョウテンショウニン)を開山として創建された山門は、市場城の城門を元禄7年(1693)に移築したものと伝えられている。境内には樹高約15m、樹齢約200年の枝垂桜があり、明治13年には信濃の善光寺如来の分身を鋳造、開眼して全銅造一光三尊阿弥陀如来像を奉安している本尊は、恵心僧都御作(エシンソウズオンサク)の木造金箔押阿弥陀如来像を奉安している枝垂桜と本堂境内の紅葉も素晴らしい境内から下を望むと四季桜が満開ズームアップすると境内からの下り坂境内から下るエコカー、流石豊田市内だ!14:44市場城(イチバジョウ)(大草城)市場城は、標高380mの山頂にある室町時代の山城である。文亀2年(1502)に初代鱸(鈴木)紀伊守親信が築いてから、文禄元年(1592)に退去するまで90年間、鱸氏の居城でした。第二代:肥後守長重、第三代:伊賀守直重、第四代:越中守重愛市場城への道だが、以前に登城しているので今回はやめる14:49曹洞宗陽抱山廣圓寺(コウエンジ)廣圓寺の駐車場から四季桜を楠茶屋のおやじに薦められただけに、ここの境内の紅葉も最高本堂へ本堂前の紅葉廣圓寺本堂当寺の濫鰑(ハジマリ)は何年であるか詳でない。後柏原天皇 永正5年(1508)足利義澄の時代、足助香積寺三世笑華(ショウゲ)和尚の弟子器山周璵(キゼンショウヨ)和尚当寺に住すと扁額の「陽抱山」廣圓寺沿革文禄元年(1592):太閤秀吉の改易に会い、落城後衰退の一路を辿る。八世古倫鉞錐(コリンエッスイ)和尚、宝永5年(1708)仏殿一宇を建立、諸堂を修復し禅風の昂揚に努む。十六世大應義仙(ダイオウギセン)和尚、安政6年(1856)十方の檀信徒の浄財を募め現在の本堂を建立すと山門と本堂本尊は阿弥陀如来像で、秋には境内にある四季桜やモミジ・イチョウなどの色とりどりの樹木がお寺を美しく彩る真っ赤なドウダンツツジ四季桜も14:55短時間の滞在であったが小原のビューポイトであった。この後、旅友のKさんを送るために岡崎城へ立ち寄り、東名高速道路の岡崎インタから神奈川へ帰る。途中眠くなり、Kさんに新東名高速道路の浜名湖サービスエリアから駿河沼津サービスエリアまで運転願う。御殿場から厚木辺りが事故渋滞との情報から、長泉沼津インタを出て箱根越えで湘南バイパス経由で茅ヶ崎へ帰る。20:36茅ヶ崎のすき家で「卵二つ付きのすき焼き定食」を食べ帰宅した滋賀県の湖東三山から長浜の鶏足寺と紅葉を満喫し、もう11回目になる香嵐渓の紅葉も満喫し、最後は川見&小原の四季桜を楽しみ二泊三日の旅を終えた。総走行距離は1,150kmであったが無事、無事故無違反で帰宅できた。デジブックにて『香嵐渓と川見四季桜』で公開しておりますので、あわせて訪問して頂ければ幸いです 川見&小原四季桜(1/2)へ 湖東三山・香嵐渓&四季桜END
2019.01.05
コメント(0)

香嵐渓の紅葉鑑賞の後、いつも行く川見&小原の四季桜へ。車の渋滞を予想して裏道から川見地区の四季桜会場へ行く11/25(日) 12:36愛知県道19号土岐足助線を利用して川見四季桜の里へ向かう。 途中、道路脇の桜とモミジの美しい場所で車を止めて四季桜を撮影四季桜はバラ目バラ科サクラ属の植物。 桜の園芸品種で狂い咲きでない状態で、年に二度開花するマメザクラとエドヒガンの種間雑種と考えられている青空に映えて、花は一重5弁で小さい花を咲かせる紅葉を背景に12:45豊田市小原北部生活改善センターの前にある、楠茶屋(クスノキチヤヤ)に駐車場へ到着。ここは駐車料金が無料でいつも止めている。楠茶屋 所在地:愛知県豊田市雑敷町家ノ本22-3 tel:0565-65-3621『小原四季桜まつり』の今年のポスター。11月1日(木) 〜 30日(金)開催。 四季桜で有名な小原地区内には、いたるところに約8000本もの四季桜が植栽されている昼食代わりに、五平餅を1本食べる 250円。地元のお母さんたちが作る焼きたてのひょうたん型五平餅が人気の店。味噌と醤油をベースにゴマ、くるみ、ピーナッツを加えた香ばしいタレがかかっている紅葉とのコラボが今年の紅葉は見事楠茶屋前の駐車場、左側は豊田市小原北部生活改善センター山茶花がきれいに咲き国道419号線沿いにある「川見四季桜の里」田代川の清流の近くには真っ赤な紅葉が四季桜に負けじと存在感を主張している四季桜は花が小さいので、手振れしないように撮影だが「四季桜の由来」小原の四季桜は、豊田市小原北町の藤本玄碩という医師が文政年間内の始めに名古屋方面から苗を求めて、植えたのが親木となって広まったものと言われている花は一重5弁で小さい花を咲かせる四季桜も年々古木になり豊田市小原地区で最も多い約1200本が山肌を覆う『川見(センミ)四季桜の里』この山の上にも上れるがエコカーに見入る旅友駐車場も整備され観光バスも多く駐車田代川の下流『川見四季桜の里』案内図13:33川見薬師寺(センミヤクシジ)「川見の薬師さん」と呼ばれ親しまれている。以前に本堂へ昇っているので、今回は石段が急なため登らず真言宗高野山派の古刹。本堂に安置されている室町時代後期に作られた寄木造りの薬師如来像と、境内にたたずむ江戸時代の灯籠2基は、市指定文化財である山の中腹にある本堂柿の実と13:45国道419号線を楠茶屋へ帰るデジブックにて『香嵐渓と川見四季桜』で公開しておりますので、あわせて訪問して頂ければ幸いです 香嵐渓の紅葉(4/4)へ 川見&小原四季桜(2/2)へ続く
2019.01.04
コメント(0)

香嵐渓の香積寺からいつも登城する足助城へ11/25(日) 10:43香積寺の山門人が途絶えることがないので早朝撮影の方がベターか山門の向こうに見える紅葉が最高香積寺本堂へ本堂前から山門を10:48山門の向こうの石段から陽を浴びて鮮やかに10:56紅葉の間からつり橋の香嵐橋11:00つり橋を渡る観光客11:19足助城へ、登城券300円を支払い足助城の遺構は、15世紀以降に鈴木氏が築城した跡と考えられる。鈴木氏は三河の松平清康(家康の祖父)の侵攻を受け、一旦は松平氏に下るが以後何度か離反帰服を繰り返した。最終的には家康の頃に松平氏の軍門に下り、家康が関東移封となるとそれに付き従ったため、足助城は廃城となったと。真弓山の頂上に立つ足助城ハナユ(花柚)ミカン科の常緑低木。やや紫がかった白色の花をつける。別名小柚。鑑賞用のほか、風味づけの食用としても使われる飯盛山(標高254m)を眼下に見る西の丸の西物見台この物見台は、大きな岩盤の上にあります。2.7×5.4mの矢倉は、掘っ建て柱の建物。2層にしたのは、間近まで他の建物が建てられたためであろうと前方は西物見台左上の「南物見台」と下の「南の丸」南の丸この曲輪は、角ばった扇形につくられている。台所の役割を持つ曲輪はねあげ戸西の丸や南の丸の門についているこのような扉を「はねあげ戸」という。鎌倉時代から室町時代の生活が描かれている「一遍上人絵巻」などに、数多くみうけられるいつものシンボルツリー本丸曲輪にそびえたつ11:29本丸とシンボルツリー真弓山には、南北朝時代まで足助地方に勢力をもっていた足助氏の本城があったと伝えられ、山頂の本丸には「日月の碑」で知られる真弓山城跡碑や足助重春の歌碑などが建てられていた。ところが、昭和10年代に研究が進み、足助氏の本城は、真弓山から西南西の飯盛山にあったことがわかった。ここにある碑は、今回の足助城の復元にあたり、本丸から移したものであると本丸前から下は南の丸本丸腰曲輪側からの展望。この道を進むと長野県飯田市方面に。 遠くホテル百年草の建物も見えた。来年の宿泊候補地かと毎年思っているのだが本丸から西物見台西物見台・飯盛山・足助街並み足助街並み11:38中央は足助八幡宮と豊田市足助支所、右に足助バイパス本丸を後にするウメモドキの実11:44足助城を後にして、川見&小原の四季桜へ11:54香嵐渓、昼時で多くのお客さんが「うなぎ」を食べに11:57陽も辺りきれいな待月橋辺り香嵐渓と足助城の紅葉を楽しみ、川見&小原の四季桜を見に移動する。デジブックにて『香嵐渓と川見四季桜』で公開しておりますので、あわせて訪問して頂ければ幸いです 香嵐渓の紅葉(3/4)へ 川見&小原四季桜へ続く
2019.01.03
コメント(0)

続いての香嵐渓です11/25(日) 9:44香嵐渓広場から待月橋へと下る、まだ陽が当たらず逆光で色は今一黄葉、紅葉と川の流れをバックに9:50待月橋の上には多くの観光客が待月橋から上流側をイチョウの木は既に落葉9:53名も無い滝には虹が現れる派手な衣装に身を包み、子供?と記念撮影しているオジサンオジサンとしばし雑談。オジサンは各地に出現しているとのこと10:05今年も多くの露天商で賑わう商品の下には各国語で「美味しいよ」と説明して国際色豊か。いろんな国の人が来るのでネットで調べて書いているとのこと韓国で大流行の「コリアンドック」とはどんなもの。ネットで調べると、東京の新大久保へ日本初上陸!! 人気のアリランホットドック。チーズドックで上野のアメ横でも販売いつものおばあちゃんが売る『味噌おでん屋』へおばあちゃんが売り、おじいちゃんは傍でコンニャクを用意1本50円を二本購入して食べる10:16「十王寺」の説明寛永年間に鈴木正三和尚が創建した寺である。正三は天正7年(1579)足助郷則定城主忠兵衛重次の長男として生まれ、徳川家の旗本として仕え大阪夏の陣に戦功をあげた武将であったが、42歳のとき家を弟に譲り出家した風飡無宿の禅僧、宗教自由人として正しい仏教を庶民が日常生活の中で体得するように、仮名草紙本(二人比丘尼・因果物語)を書き、近世文学の基となったことでも郷土の誉れ高い人物である神宮山十王堂10:19 国道420号線(飯田街道)に架かる「巴橋」からの待月橋まだ陽が当たっていないので紅葉の映りは今一10:21国道420号線(飯田街道)の香嵐渓交差点。駐車場は満車、駐車料金は、1000円香嵐渓の石碑この辺りから上流側へ向かって坂を上る10:24飯盛山入口の六角堂と呼ばれる『太子堂』に、聖徳太子像が祀られていた。この辺りは、春先にカタクリが咲き誇る名所でもある「香嵐渓のもみじ」の由来が石碑に刻まれ10:27紅葉のバックに水面陽が当たりだし色が鮮やかに10:29もみじの合間から待月橋が五色もみじ夜のライトアップはどうなのか緑のもみじも鮮やかに10:31陽が出て青空に映えてくる緑のもみじもみじのトンネルの下を香積寺方向へ10:38色が鮮やかに黄葉が陽を浴びていろんな色のコラボが最高香積寺への急な石段を登り10:43観光客が多く人の流れが切れることがない、香積寺の山門デジブックにて『香嵐渓と川見四季桜』で公開しておりますので、あわせて訪問して頂ければ幸いです 香嵐渓の紅葉(2/4)へ 香嵐渓の紅葉(4/4)ー続く
2019.01.02
コメント(0)

明けましておめでとうございます本年も昨年同様よろしくお願い申し上げますブログアップも連続投稿が一年を過ぎ、今年も旅友とブログ取材に行き作成したいと思っておりますので、続いての訪問をよろしくお願いします。なお、今年は私の何回目?かの干支です。平成31年 元旦昨年に続いて、2018/11/25(日)に訪れた香嵐渓をアップします。11/25(日) 8:23老舗和菓子屋の『日月もなか總本舗 川村屋』に立ち寄る。 創業は大正5年。南北朝時代の足助の大忠臣、足助重範公の旗印「日月」にちなんで名付けられた「日月もなか」であるとまだ時間が早かったが既に営業店内には、鶴瓶の家族に乾杯の撮影で近藤正臣・笑福亭鶴瓶が来た写真が。放送予定は、??年9月11日火野正平がNHKの「こころ旅」で訪れた写真も木の枝に餅をつけた飾り御茶を頂きながら一個「白あん」を購入して食べる。オーダーを受けてから、もなかに餡を詰めるのだとお土産に一箱購入店内に飾られていた写真「モミジと月」昭和期の「川村屋での結婚式の写真」総本舗「日月もなか」の看板8:38老舗和食処「井筒亀」の前にある猪の皮に並んで旅とも二人の皮がぶら下がる香嵐渓名物「シシコロッケ」の幟店内には入れたが、まだコロッケはできておらず、食べるのはあきらめる8:47掲示板に、こっち、あっち、そっち9:00落部駐車場に戻り、お土産の「もなか」を車に置き香嵐渓の散策開始。今年はもう「第63回香嵐渓もみじまつり」になる。今年の散策も、陽が当たってくるので下記地図の右から左へと巴川沿いを下り待月橋を渡り、再度、香積寺経由で戻ってくることに香嵐渓は、愛知高原国定公園の一角に当たり、愛知県豊田市足助町にある矢作川支流の巴川がつくる渓谷である。 寛永11年(1634)頃に、香積寺第11世住職三栄和尚が巴川から香積寺に至る参道にスギやモミジを植えたのが始まりとされ、大正末期から昭和初期には住民のボランティアでモミジの大植樹が施された。イロハモミジ、オオモミジなど11種のカエデが約4000本あると言われており、赤や黄色に色づく景色は壮観。今年の11月1日(木) ~ 30日(金)まで開催される香嵐渓もみじまつり期間中は21:00までライトアップされ、夜の幻想的な景色も楽しめるのだが、今年も午前中のみの散策で帰ることに9:09 一ノ谷のテラスから巴川の下流方面陽を浴びて真っ赤に赤いつり橋の香嵐橋赤味を帯びた黄葉も赤に染まる紅葉巴川に紅葉庵一ノ谷のテラス9:13いつもの場所で今年もシンセサイザーの演奏がされていた世界で唯一人の「山頂音楽家」の、IZANAGIさん巴川の上流にある「一ノ谷」赤いつり橋の香嵐橋9:22国際色豊かな多くの観光客が訪れていた最近は、中国人以外の、インドネシア、タイ、ベトナム、ミヤンマーからも。豊田市の企業に働く研修生が休日を利用して来ているのかこの人はイスラム系9:29上を見上げると三州屋敷のイチョウの木は今年も落葉9:32三州足助屋敷から香嵐渓広場へ。近年人気の中国菜館「刀削麺(トウショウメン)」には長い列が、肉まん、水餃子も販売刀削麺(トウショウメン)中国 山西省発祥の麺の一種で「とうさくめん」と呼ぶ人もいる。私はまだ食べたことがないので、一度味わいたいものです足助の五平餅 300円、あゆ塩焼き 600円鮎の焼おにぎり、炭焼きフランクフルト 300円/本京やきぐりの販売大きな音を立て出来上がり9:35広場には人だかりがありその中では、スマホに映る猿恒例の猿回しが3m位の竹馬にのぼり、掛け声とともに動き回る9:40しばし楽しんで紅葉の散策にデジブックにて『香嵐渓と川見四季桜』で公開しておりますので、あわせて訪問して頂ければ幸いです 香嵐渓の紅葉(1/4)へ 香嵐渓の紅葉(3/4)ー続く
2019.01.01
コメント(0)
全31件 (31件中 1-31件目)
1