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中津城から国道212号(日田往還)を南下、途中から山国川沿いを走る。11月18日(木) 13:10山国川に架かる洞門橋の手前にある、青の洞門北口交差点。ここを左折して「青の洞門」へ。← 青の洞門 0.2km、羅漢寺 3.2km、青の洞門公共駐車場 0.8km→ 耶馬渓橋 0.1km青の洞門北口交差点を左折して青の洞門へ。青の洞門所在地:大分県中津市本耶馬渓町曽木駐車場は無料の公共駐車場があったが、この先の広場へ駐車して散策した。洞門入口に聳えるイチョウの黄葉。青の洞門は、禅海和尚の手彫りのトンネル江戸時代、荒瀬井堰が造られたことによって山国川の水がせき止められ、樋田・青地区では川の水位が上がりました。そのため通行人は競秀峰の高い岩壁に作られ鉄の鎖を命綱にした大変危険な道を通っていました。諸国巡礼の旅の途中に耶馬渓へ立ち寄った禅海和尚は、この危険な道で人馬が命を落とすのを見て心を痛め、享保20年(1735年)から自力で岩壁を掘り始めました。禅海和尚は托鉢勧進によって資金を集め、雇った石工たちとともにノミと鎚だけで掘り続け、30年余り経った明和元年(1764)、全長342m(うちトンネル部分は144m)の洞門を完成させました。寛延3年(1750)には第1期工事落成記念の大供養が行われ、以降は「人は4文、牛馬は8文」の通行料を徴収して工事の費用に充てており、日本初の有料道路とも言われています。現在の道路は道幅が広いので、耶馬トピア竣工時に掘られたのであろう。13:15青の洞門公共駐車場まで500メートルあるので道路脇に駐車。坂を上った先に駐車場があるようだ。道路脇に狭い歩道があり、山国川沿いに下る。山国川は、中津城へと流れる。国道212号沿いに、毛蕨(けわらび)神社の一の鳥居が建つ。禅海和尚がノミと鎚だけで掘り続け、30年余り経った明和元年(1764)に全長342m(うちトンネル部分は144m)の洞門を完成させた。このトンネルは耶馬トピア竣工時に掘られたものか、道幅が広いので普通車が対向して走れる。トンネル(隧道)は5~6個あった。山国川の上流側を望む。写真はネットから。競秀峰(きょうしゅうほう)の高い岩壁。山国川沿いの岩壁を掘って全長342m(うちトンネル部分は144m)の洞門を完成させた。競秀峰は耶馬渓を代表する名勝で、数々の巨峰や奇岩群が約1キロに渡り連なっている。山国川と右側の岩肌とは7~8メートル。トンネル間の明かり窓北側の青の洞門入口北側から一番目のトンネル入り口。トンネルとトンネルの間から上流側を望む、右側は「青の洞門対岸のネモフィラ」。シーズンには青い花が咲く。のんびりしたい空間だが、今夜は熊本空港を離陸するので。車が走るトンネルから山国川に下りた隧道。地蔵菩薩が祀られていた。地蔵菩薩像の台座に、1993年7月耶馬トピア竣工に伴い、かってこの地に僧禅海が建立していた地蔵菩薩像を同風物館に移転安置した。このためここに新しく地蔵菩薩像を建立し禅海の意志を永く伝えるとともに人々の安全を祈願する。 1994年(平成6年)2月 本耶馬溪町長 井上次男今でも残るノミ跡青の洞門は、明治39年から翌40年にかけて行われた大改修で、完成当初の原型はかなり失われてしまいました。現在の青の洞門には、トンネル内の一部や明かり採り窓などに、当時の面影を残す手掘り部分が残っています。あの角のついてゐる所が堀ちがひをした所であります。最初に明けられたあかり窓。この窓が最初に明けたあかり窓である。前方は国道212号の青の洞門北口交差点。青の洞門入口に聳える黄葉のイチョウ。銀杏は落ちていなかったようだ。黄葉したイチョウを見上げる。ズームアップするが銀杏は?トンネルの北側入口に建つ石碑。県指定史跡「青の洞門」。案内板「禅海和尚の手掘り跡」、「青の洞門の明かり窓」。北側から隧道に入り、バリアフリー対応の通路も整備されている。地蔵菩薩像階段を上がり、道路へ。青の洞門対岸のネモフィラエリア。三つのトンネルが連なる。耶馬トピア竣工時に掘られたのであろうが現在の施工の、シールドマシンで何日で完成?江戸時代に施工した禅海和尚は手掘りで30年を費やして完成。新日本三景に溶結凝灰岩により演出される奇岩怪峰の典型競秀峰と、それをくりぬき、菊池寛の『恩讐の彼方に』の舞台 ともなっている青の洞門。揃いの帽子を被った団体が。耶馬渓は日本新三景と言われている、耶馬渓の名付け親は頼山陽であることはよく知られている。1818(文政元)年、九州を歴訪した彼は、日田から中津への途次、山国川流域をたどった。岩と水、それに絡まる緑の風景に目を見張った彼は、山国谷を中国風に耶馬渓と記し、『耶馬渓図巻記』を描き、「耶馬渓山天下無」とたたえたのである。山陽が歩いたのは本耶馬渓そのもの。山国川の岸辺に競い立つ秀峰と、そこにうがたれた洞門は、彼をして驚嘆せざるを得ぬ景色であったに違いない。岩肌にはりつく蔦も紅葉。13:28わずか10数分の散策であったが日本新三景を堪能した。この辺りが、公共駐車場であろう、次の「角牟礼城」へ向かう。 ー 続く ー
2022.01.31
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中津城天守から下り、公園内にある神社に参拝。11月18日(木) 12:33中津城公園(公園地)ご案内 ① 中津城(奥平家歴史資料館) ② 黒田官兵衛資料館 ③ 独立自尊碑 ④ 城井神社(きいじんじゃ) ⑤ 扇城神社(せんじょうじんじゃ)中津城公園にはたくさんの神社がある。西南の役 中津隊 百年祭記念碑歌碑説明壮士悲秋歌並反歌 増田 太郎壮士と名に負ふ吾も 正心夫と於もへる吾もひさ形の空に向いて 野千玉の月を悲しみ白露の身にしむ夜半に 秋風の彳(たたず)み居つつ荒砂の袖しぼるべき時は来にけり反 歌照る月の影をゆゝしみ剣太刀とりてぞしぬぶ 秋の夜な夜な 楳谷安良 明治十年八月二十二日 日向国三四〇二千幾年か於も比こめにし真心を 都つしの国に今盡す南利裏面の碑文に曰く今年三月三十日、中津隊決起百年祭を仕へまつりその献詠の中に 雄々しくも健き思ひや やさしくもまた香細(かぐ)はしき 大丈夫の君が詠み歌 眼交につね顕(た)ち給ふ 大丈夫の君が面影輪と追慕景仰の思を籠め参りしが に秋季百年大祭を仕へまつるに当り、隊長増田宗太郎、副隊長梅谷安良両先生の国風を夫々自筆のまま拡大して石に刻し、挙げてわが中津隊一統の真精神を永く後毘に傳へんと志し之を建つ 昭和五十二年九月吉日 西南之役中津隊百年記念顕彰会昭和五十二年(1977) 九月吉日に建立された石碑。石碑には、隊長増田宗太郎、副隊長梅谷安良両先生が書かれた字が夫々自筆のまま拡大して石に刻まれている。以下二枚の写真は、鹿児島市の南洲墓地にあった墓碑。今回の旅で11月16日(火)に訪れた南洲墓地の左隅に、中津隊士之墓があった。中津隊士(大分県)増田宋太郎 明治10年9月4日 米倉の戦い(現鹿児島市役所附近) 28歳。増田の率いる中津隊は、薩軍の戦況不利な明治10年3月末大分県中津で挙兵し、薩軍に投じた。中津隊員は80余名が参戦、戦死者は22名にのぼった。城井神社(きいじんじゃ)扇城神社(せんじょうじんじゃ) の道案内。城井神社(きいじんじゃ)中津城で黒田官兵衛に誘殺された宇都宮鎮房は、この地に埋葬されました。宝永2年(1705年)に中津藩主・小笠原長円が「城井大権現」として祀るようになりました。石柱には、「治國安民」、「敬神尊皇」と。城井神社の扁額、「城井神社」。城井神社(きいじんじゃ)御祭神 宇都宮鎮房(しげふさ)城井谷城主宇都宮家は、信房より鎮房に至る十八代およそ四百年の間豊前国守として徳政を強いた。天正十五年(1587)七月豊臣秀吉は九州平定にあたり豊前六郡を黒田孝高に、二郡を毛利勝信に与え、鎮房には四国今治(十二万石)移封の御証判を与えたという。鎮房は累代の墳墓の地に安堵を願い、このご朱印状を返上したため、宇都宮一族は黒田孝高、長政と豊前の地で死闘を繰り返すこととなり、黒岩山合戦(峯合戦)では長政を敗退させた。そこで秀吉は孝高と謀り所領安堵を条件として長政と鎮房の息女千代姫(鶴姫)との婚を約し和睦した。天正十六年(1588)四月二十日鎮房は中津城に招かれ酒宴の席で謀殺された。宝永二年(1705)小笠原長円は小社を建て城井大権現として崇め、その後幾度かの変遷の後城井神社として改められた。 中津市城井神社の右側に鎮座する「扇城神社」。中津城で黒田官兵衛に誘殺された宇都宮鎮房の従臣が祀られています。宝永2年(1705年)に中津藩主・小笠原長円が宇都宮鎮房を「城井大権現」として祀るとともに、従臣を稲荷大明神として祀ったことがはじまりです。末社扇城神社扇城神社(せんじょうじんじゃ) 宇都宮鎮房公従臣四十五柱天正十六年(1588年) 宇都宮鎮房公従臣は、庶子空誉上人(鎮房公と静の方の間に生まれた)の、合元寺に止め置かれ、鎮房公は小姓松田小吉を伴い中津城内の館で謀殺された。異変を知った家臣軍は次々に城中に駆け入り、龍が荒れるように戦った。小姓松田小吉は十九人に手傷を負わせ京町筋で討死、野田新助・吉岡八太夫は手傷を追い広津広運寺まで切り抜け追腹、その他二士は合元寺門前に遁れ戦い遂に庫裏にて討死、その他はことごとく討死した。家老渡辺右京進は七、八人を薙ぎ伏せたという。松田小吉は小吉稲荷として京町に、野田新助・吉岡八太夫は広運寺にそれぞれ埋葬され、その他の従臣の遺体は寄せられ城内乾の上段、この地に埋葬された。宝永二年(1705) 小笠原長円公は広運寺追腹の二士を小吉稲荷大明神とともに祀った。その後変遷。城井神社再興後、大正九年(1920年)四月二十日、鎮房公従臣四十五柱を境内末社として祀ったのである。 中津市 中津の郷土史を語る会 扇城神社 御祭神四十五柱 奉納 豊前市中川底 高城 鈴恵 平成二十五年十二月吉日中津城公園の西側を流れる中津川河川敷に大きな石燈籠が建つ。一段高いところに「金刀比羅宮」。社殿内には、「金刀比羅宮 海上安全 大漁満足」 社殿内に扁額、「金刀比羅宮」が掲示されていた。また大きなタイ?の山車。芭蕉句碑右奥に、城井神社が鎮座。石碑には「蛙飛込 古池や 水の音」。芭蕉句碑貞享三年(1686) 春に深川芭蕉庵で詠まれた句宝暦三年(1753) 池大雅が自性寺を訪ねた時に揮毫したといわれる『諸国翁墳記』に、「古池塚 豊前中津ニアリ 門人等建」とある。手水舎があったがコロナ感染で閉鎖中。黒田官兵衛資料館、天守閣、大鞁櫓(だいひやぐら)、が並ぶ。大久保麑山先生記念碑大久保麑山(げいざん)先生の碑。中津藩士大久保麑山は中津藩で陣道具奉行、三百間砲台守隊長、藩校進修館助教を歴任し、廃藩置県後は片端中学校の教師となっています。晩年、文部省よりその功績が認められ、特別功労者として六国史及び硯石を賜りました。奥平神社、天守閣、大鞁櫓(だいひやぐら)、黒田官兵衛資料館が並ぶ。中津城第一駐車場の南側に建つ石造りの鳥居。中津神社中津大神宮の南西に隣接し、中津城本丸下段の松の御殿跡にご鎮座しております。 明治16年、六所神社・丸山神社(義氏社)・稲荷神社・蛭子神社・八幡大江神社のご分霊を合祀し、中津神社と称し、鎮祭された。中津神社で7月に斎行される例祭は、中津祇園と称し大分県指定無形民俗文化財となっている。御神輿と祇園車と呼ばれる漆塗りの華麗な山車7台が町々をまわり、辻々では祇園車の上で踊り等が披露され、夜は境内で勇壮な「練り込み」が行われます。中津市を代表する祭りのひとつとして氏子はもとより、市内外より多くの参拝者で賑わう。流造りの本殿、拝殿、神輿庫等がある。御祭神 素盞鳴尊 応神天皇 仁徳天皇 ほか十三柱独立自尊碑他人に頼ることなく、自らの力で事を行い、自己の人格・尊厳を保つという福沢諭吉の言で、福澤家の意志に沿って建立されたもの。慶應義塾の基本精神。独立自尊碑の下に、ネコ。 石垣の上に像が立つ。小幡英之助先生銅像小幡英之助先生は、日本歯科医師第一号。小幡英之助先生銅像小幡英之助は嘉永3年(1850)8月10日、奥平藩士小幡孫兵衛の長男として中津殿町(現:新中津市学校)に生まれました。中津市小幡記念図書館に名を残す小幡篤次郎は叔父にあたります。篤次郎は福沢諭吉を終始補佐した人物で、明治2年、英之助は篤次郎について慶応義塾に入塾しました。その後篤次郎の勧めで中津出身の医師、佐野諒元に医術を学び、明治5年、横浜の医師、近藤良薫に外科医術を学びました。英之助は技工に秀でていたため、西洋歯科医術を勧められ横浜のアメリカ歯科医師エリオットに入門を許され、明治7年には、エリオットに同行して上海に渡りました。明治8年、帰国した英之助は東京医学校(現:東大医学部)に口中科ではなく、「歯科」の試験を自ら出願し、我が国初の「歯科」での医術開業試験が行われました。日本で歯科医師免許取得者第一号となったのです。東京京橋区で開業し、多くの門下生を育て、明治42年に病没。大分県歯科医師会は日本歯科医師先覚者の業績と遺徳を継承するため、小幡門下並びに、広く全国の有志の後援を得て昭和12年この地に胸像を建立しましたが、戦時下の金属拠出に会い、現在の銅像は昭和41年に再建されたものです。 中津市教育委員会三斎池(さんさいいけ)細川忠興の号 ” 三斎 ” の名を冠して「三斎池」と名付けられた池。三斎池(さんさいいけ)慶長五年(1600)関ヶ原の戦などの功によって黒田長政は筑前五十二万石となり、如水とともに中津を去った。黒田氏の後には、細川忠興が豊前一国と豊後の国東・速見の二郡の領主として入部した。忠興は最初中津城を居城とし、弟の興元を小倉城に置いた。慶長七年忠興は、居城を小倉城に変更した。元和六年(1620)家督を忠利に譲り、忠興は三斎と号し隠居した。翌七年三斎は中津城に移り、中津城や城下町の整備を、黒田氏の後を引き継いで行った。この時、城内の用水不足を補うため、城内への水道工事を行った。工事は、山国川の大井出堰(三口)から水道を城内まで導く大工事であった。その水をたたえたのがこの池であり、鑑賞や防火用水としても使用された。忠興の号 ” 三斎 ” の名を冠して「三斎池」という。現在は、中津上水道を引いている。 中津市教育委員会 中津の郷土史を語る会 12:45豊前・豊後 周遊MAP中津城の散策を約1時間行い、次の「角牟礼城(つのむれじょう)」へ向かうことに。カーナビをセットし、国道212号を南西方向へ進む。12:53角牟礼城の途中にある「青の洞門」へ立ち寄ることに。 ー 続く ー
2022.01.30
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中津城の天守閣へ登る。現在の天守閣は、昭和39年(1964)旧藩主奥平家が中心となり、中津市民からの寄付も合わせて天守閣を建造。奥平家の歴史資料館として中津市民に愛され続けている。11月18日(木) 12:15一階のスタンプ捺印場には他の方が訪れていた。徳川家康公 没後400年 特別記念展示品左側:大水牛脇立熊毛植黒糸威具足、右側:紺糸威金溜塗仏胴具足。大水牛脇立熊毛植黒糸威具足徳川家康公着用写(レプリカ)天文11年(1542年) — 元和2年(1616年)徳川家康公が着用した具足の写(レプリカ)です。兜は水牛の角をかたどり、具足全体に熊の毛を植え付け、黒い糸で威(おど)しています。全身真黒の中に、真紅の面頬がいかにも鮮やかで、こういった奇抜な意匠は、戦国時代以降に流行した当世具足の特徴をよく示しています。神君家康公の遺品として、御三家の尾張徳川家で大切にされ、江戸時代には名古屋城小天守内に特別の場所を設けて安置してありました。 徳川美術館蔵紺糸威金溜塗仏胴具足松平元康(徳川家康)公着用写天文11年(1542年) — 元和2年(1616年)奥平忠昌公(おっくん)の曾祖父である徳川家康公(ひーじじ)が、永禄3年(1560年)、まだ19歳の若武者で「松平元康」と名乗り、今川方の傘下として織田家と刃を交えた際(桶狭間の戦いの前哨戦)に、着用したとされる甲冑のレプリカです。当時は敵の織田信長公も賞賛した、その鮮やかな戦いぶりから縁起が良いとされ、徳川家の家宝として代々伝わるものです。紺糸威金溜塗仏胴具足(こんいとおどしきんためぬりほとけどうぐそく)、通称、大高城兵糧入具足と言います。中津城歴代城主一覧。写真は「館長伯爵奥平昌恭氏」NHK 朝ドラ「花子とアン」と奥平家仲間由紀恵さん演じる葉山蓮子のモデルである柳原白蓮と伊藤右衛門(ドラマ/嘉納伝助)の離婚の仲介役をし、記者発表を行ったのは、写真の奥平家十六代当主の奥平昌恭伯爵(最後の藩主奥平昌邁公の長男)である。白蓮の兄、柳原義光伯爵(ドラマ/葉山晶貴伯爵)とは従兄弟の関係であり、二人は伊達宗城公の孫にあたる。また共に貴族院議員を務め、年齢も1歳違い。そんな関係から仲介役となったのでしょう。奥平旧伯爵家の椅子長篠合戦図六幅掛軸長篠合戦時に使用された、「火縄銃」、「自鳴の法螺貝」奥平信昌公率いる500名の将兵が長篠城に籠城中、なんと不思議な事にこの法螺貝が勝手に鳴り出したのであった。そのため兵たちが吉兆の印だとして喜び、その士気は多いに高まったと伝わる。今も長篠の戦いの時期(武田軍が長篠城を包囲した ・・・・・後略)。天守二階から東側にある「中津市民プール」。⑩ 福澤諭吉『蘭学事始』を復刻 復刻版によって明らかになった良沢の功績 福澤諭吉(1835~1901) 諭吉は、辞書も無い時代に良沢が江戸中津藩中屋敷にて大変な苦労をして翻訳 したことを踏まえ、1858年、オランダ語塾を江戸中津藩中屋敷跡に設立。 1868年、移転の際、当時の元号が慶応だったことから慶応義塾(後の慶應義塾) と改称する。 『蘭学事始』を2度復刻版に 慶応義塾設立から十数年経った後、『蘭学事始』を偶然発見したことから、復 刻・再販を行った。 1869年『蘭学事始』として復刻 玄白が耕牛に序文を依頼したと思われる文章が『蘭学事始』に記載されていた。 これにより、良沢が翻訳の盟主として携わっていたことが明らかとなった。 1890年 再復刻された『蘭学事始』 福澤諭吉は、友人の医務局長・長与専斎の依頼で、更に1890年に再復刻。 その際『蘭学事始 第二版』の序文を書いた。 福澤諭吉の序文 「我々は、之を読む毎に先人の苦心を察し、其剛勇に驚き其誠意誠心に感じ 感極まりて泣かざるはなし」⑪ 前野良沢の人柄 前野良沢の趣味『一節截(ひとよぎり)』 一節截は鎌倉時代頃から始まった竹の笛(縦笛)で、尺八の原形とも言われてい る。良沢は大森宗勲流の名人と言われ、中津の親戚の築次正に伝授。 次正は更に中津の医師達にも教えて当時の中津にも広まった。 一切截は、飛鳥、奈良、平安時代と続く尺八を原形として、鎌倉から江戸の 元禄あたりまで、様々な階層の人達によって盛んに吹き伝えられ、”中世の竹 笛” と呼んでもよい、優れた日本の民俗楽器の一つである。 前野良沢の自然思想 人間が自然界の一部を 支配したりする事ができると 非常に傲慢になって 自分 の独力でしたように思う 自分の力は 自然の力の一部という 謙譲の心が重要である 福永光司 京都大学 人文科学研究所 元所長 訳注⑫ 奥平昌高 良沢から蘭学を学ぶ 奥平昌高(1781~1855) 中津藩主4代目・昌男は、1786年24歳で天折し、後継ぎの男児がいなかったため、薩摩藩・ 島津重豪の次男、富之進(後の5代藩主・奥平昌高) 6歳を12歳と称して跡目を継がせ奥平藩 はお家断絶を免れた。薩摩藩25代藩主・島津重豪(昌高の実父)の政治教育姿勢を学び中津に 藩校「進脩館」を創立し蘭学への情熱を継承。 昌高は父親の蘭学を学ぶ姿勢からも大きな影響を受け、中津藩に着任してからも前野良沢 に蘭学を学んだ。昌高はオランダ商館長(カビタン)ヘンドリック・ドゥーフから ”フレデリ ック・ヘンドリップ” のオランダ名を貰うほどオランダ学問に熱心であった。⑬ シーボルトと昌高の交流 フィリップ・シーボルト(1796~1866) ドイツのヴュルツブルグ生まれの医師。1823年、オランダ商館付医官として出島に赴任。 1824年、鳴滝塾を設立。 美馬順三、高野長英、小関三英らの門人に医学、博物学を講義。『日本博物誌』『日本』 『日本植物誌』を出版し、日本の植物、文化、動物を世界に紹介した。 1826年、江戸参府中に中津藩主・奥平昌高と頻繁に交流。 1826年2月15日、長崎出島を出発し江戸参府後、7月7日に出島に帰着するまでの日記。 江戸では頻繁に奥平昌高と交流、日記に記された人名の内、昌高の名前が最多数の26回 登場する。医師では高良斎、二宮敬作が同行。画家は川原慶賀。 植物、動物、文化情報を収集した。 ⇒ 昌高とシーボルトの親交の深さが伺える 1828年、シーボルト事件勃発。翌年、国外追放となる。 1828年、積荷の中に日本地図などの禁制品が発見されシーボルト事件が起こった関係者 50人が逮捕処罰され、1829年、国外追放となった。⑭ シーボルトの弟子と娘 二宮敬作がシーボルトの娘・イネを養育。 二宮敬作(1804~1862) 1804年 宇和島藩磯津に出生。 1819年 吉雄塾にて蘭学を学び後にシーボルトの高弟となる。 1826年 シーボルトの江戸参府に同行、富士山を測量 1828年 シーボルト事件に連座、入獄3年。宇和島藩卯之町で開業し、シーボルトの娘・ イネを養育、高野長英を匿った。 1859年 シーボルトと30年ぶりに再会。シーボルトとイネも再会、感涙したと言われている 1862年 長崎にて死去 イネ、日本最初の産科女医となる。 産科女医となったイネを福澤諭吉が宮内省産科医に推薦。 明治天皇の第1男児を取り上げた。(シーボルト資料館蔵)。南方向の、大鞁櫓(だいひやぐら)を見下ろす。たにし祭の写真を展示長篠の戦い 武田軍 対 奥平・織田・徳川連合軍 「たにし祭」 毎年5月第3土曜日開催 お堀の田螺を食べ飢えに耐え奥平の勝利12:23天守閣の最上階に登る。いろんな眺望写真が掲示されていた。南方向の山々の絵図。南西方向の中津川、山国川を望む。下の瓦屋根は中津大神宮。後方は県道108号線の山国川に架かる山国橋。この辺りで山国川は中津川と分岐。手前の橋は中洲「小祝(こいわい)島」への「小祝橋」。南方向の、大鞁櫓、奥平神社境内と後方に駐車場。車を駐車している中津城第一駐車場、右側に、中津神社の杜。北西方向を望む、下は中津川、後方の堰堤は山国川。山国川の先の煙突は、田辺三菱製薬・吉富工場。北方向の中津川下流、海は周防灘。中津川に架かる「龍王橋」。東方向中津市民プール、中津法務総合庁舎。南東方向露出をかえてズームアップ。上記写真の方向だが最上階から4階を見下ろす。歴代藩主の甲冑が多く展示されている。手前は、第十一代昌高公、十二代昌猷(まさみち)公の甲冑。天守前から奥平神社社殿を見下ろす。北側の駐車場から、模擬天守。昭和39年(1964)、旧藩主の子孫奥平昌信氏が中心となり本丸北東隅に模擬五重天守、その南側に復興二重櫓を建てた。奥平神社奥平神社の扁額「奥平神社」。奉〇 仙千代君 明治十一年十一月 福澤諭吉 莫由生戦死酬恩。 総髻首埋黒屋村 誰識当年濺袖血。 滴余今尚潤家門生きて戦うに由莫(よしな)く、死して恩に酬(むく)ゆ。総髻(そうげい)の首は埋む黒屋邨(むら)誰か識らむ当年袖に濺(そそ)ぎし血の、滴余(てきよ)今尚を家門潤さむとは。三社宮 奥平神社御祭神 貞能霊神 智勇の神 信昌霊神 開運の神 家昌霊神 天徳除災の神 仙丸君霊神 護国の神略 記 御祭神は人皇第六十二代村上天皇の皇子具平親王(村上源氏)の後裔なり、享保二年中津城主 奥平昌成公、五穀豊穣、世の泰平を祈念し豊前一円の守護神として奉祀す。大正五年内務省 は大分縣々社に列す。御神徳 学問、開運、交通安全、無病息災、家内安全 祭典日 元旦祭 一月一日 祈年祭(春祭) 三月二十日 例大祭 五月二十日・二十一日 新嘗祭(秋祭) 十一月二十八日 除夜祭 十二月三十一日武運と戦勝 奥平神社御由来ご神体は、奥平家中興の祖 奥平貞能・信昌・家昌公三柱の御祭神をお祀り申し上げております。のちに宇都宮城(栃木)を経て宮津城(京都)から入城した七代目 奥平昌成公は中津城入城の翌年享保三年正月(1718)、城内二の丸にあった観音院を祈祷所と改称し、十一代目昌高公が天明七年(1788)、祈願所を長福寺と改名いたしました。現在の中津裁判所がその旧敷地であります。ご祭神の貞能・信昌・家昌公三公は永禄三年(1561)より元亀・天正・文禄を経て慶長十九年(1619)に至る五八年間、幾多の戦功をたてられて徳川氏に忠節を尽くしてきました。特に奥平家二代目の信昌公は関ヶ原の合戦後、初代京都所司代として綱紀を振るい凶賊から庶民を護りました。後世武士(もののふ)の鑑(かがみ)として徳川三百年の礎を築き、人々から義勇と武功を称えられました。境内の紅葉が進んでいた。12:33中津大神宮 豊前の国のお伊勢様中津大神宮由緒記 御祭神 天照皇大神・豊受大神ほか二柱明治十四年九月伊勢ノ神宮御分霊を奉迎鎮祭し、神宮豊前教会として御鎮座。明治三十二年神宮教解散、神宮奉斎会設立により、神宮奉斎会中津支部と改称、神宮大麻と神宮暦領布業務を担当、豊前の国(企救・田川・京都・仲津・築城・上毛・下毛・宇佐)総しづめの社として、また、豊前の国の「お伊勢様」としてあまねく人々の崇拝をあつめ、その後、幾多の変遷を経て昭和二十一年四月中津大神宮として今日に至る。また、奉拝殿の格天井には創建当時の崇敬者の手による天井絵216枚が奉納されている。 中津市 中津の郷土史を語る会中津大神宮の扁額「天照皇大神」。御祭神 天照大御神当神宮には天照大御神がお祀りされています。「古事記」によると、伊邪那岐命という神さまが、黄泉(よみ)の国での穢れを祓うために禊ぎをした時、多くの神々を生み、最後に天照大御神・月讀命・須佐之男命という神さまが生まれました。伊邪那岐命は「最後にとても尊い神々を生んだ」と大変喜ばれ、天照大御神に神々の国である高天原を治めるようにとおっしゃいました。これにより、天照大御神は神々の世界を治める神さまとなるのです。 ・・・・・中略・・・・・当神宮は、皇室の祖先神であり日本の最高神の天照大御神をお祀りしていることから、広く人々より慕われ、厚く崇敬されています。 中津大神宮 — 続く ー
2022.01.29
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今日最初の主目的地「NO.191 中津城」へ登城。中津城は、豊前国中津にあった日本の城。黒田孝高が築城し、細川忠興が完成させた。 大分県指定史跡。享保2年(1717)からは、奥平家が居城としていた。11月18日(木) 12:00中津城第一駐車場所在地:大分県中津市二ノ丁1273-1中津神社の前にある普通車・大型バス対応の広い駐車場で無料、トイレも併設。中津城公園(公園地)のご案内 ① 中津城(奥平家歴史資料館) ② 黒田官兵衛資料館 ③ 独立自尊碑 ④ 城井神社(きいじんじゃ) ⑤ 扇城神社(せんじょうじんじゃ) 黒田時代の典型的な穴太積みの石垣が見れます ◎ 細川・黒田の石垣中津城公園のご案内(配置図)散策コースとして、「石垣コース 徒歩 15分 900m」 「お堀コース 徒歩 7分 400m」中津城旧地図 中津城の歴史中津城旧地図城内の神社、門跡等の配置図、下は4家の家紋。中津城の歴史黒田時代 天正十五年(1587) 黒田孝高が豊前六郡(123千石)の領主となる 天正十七年(1589) 孝高隠居して如水とと号す。長政(甲斐守)が封を継ぐ。 ・・・・・ 慶長五年 (1600) 11月黒田氏、筑前52万石に封じられ福岡へ移る。細川時代 慶長五年 (1600) 12月細川忠興が豊前一国、豊後二郡32万石の領主として 中津に入る。 ・・・・・ 元和七年 (1621) 忠興は家督を忠利に譲り中津隠居城に(6万石)に移る。 寛永九年 (1632) 10月細川氏、肥後54万石に封じられ熊本に移る。小笠原時代 寛永九年 (1632) 12月小笠原長次が中津8万石の藩主として中津に入る。 ・・・・・ 正徳三年 (1713) 長邕が封を継ぐ。 正徳六年 (1716) 長邕没す(7才)後嗣なく幕府へ領地(4万石)返還。 長興(5才長邕の弟) 1万石で播州安志へ移る。奥平時代 享保二年 (1717) 奥平昌成が10万石の藩主として中津城へ入る。 ・・・・・ 天保五年 (1834) 福沢諭吉、大阪堂島の中津藩蔵屋敷で生まれる。 ・・・・・ 慶応四年 (1868) 昌邁(まさゆき)が跡を継ぐ。奥平神社、中津大神宮の鳥居が建つ。七五三のお詣り駐車場の東側に立つ「独立自尊碑」。福澤諭吉の偉業を称え、明治37年(1904) 福澤家のご遺志に沿って、中津城公園に記念碑を建立しました。当時は公園地中央にありましたが、昭和7年(1932)に現在の位置に移設された。独立自尊碑の右側に、黒御門跡の石垣。中津市指定文化財 歴史資料「独立自尊碑」 福沢諭吉が唱えた言葉 日下部鳴鶴(東作)の書中津城天守閣(奥平家歴史資料館)・黒田官兵衛資料館 →← 中津市歴史博物館大手御門跡に建つ鳥居。黒御門跡扇形の石垣本丸南東隅に位置する小さな鳥居がある入口は、「椎木門跡」です。絵図①をみると、入って西側正面は塀でふさがれ、北側に折れて門をくぐるという「枡形虎口」の構造だったことがわかります。正面をふさぐ塀は細かい線が多数書き込まれていることから、平瓦と練土を交互に積み上げた練塀だったのではないかと考えられます。また絵図①では、椎木門をくぐると扇形に弧を描く石垣が描かれていますが、これは他の絵図にも見られます。幕末の絵図②では、扇形の石垣内に2つの入口が描かれています。赤で囲んだ部分がこの説明板の正面の入口です。足元や石垣の側面に扉が取り付けられていた痕跡を⑤に見ることができます。細川時代に中津城は大改修が行われ、1620年頃に8つの門と22の櫓が完成しました。扇形の石垣は小笠原時代の1663年の絵図にも描かれており、1620~1663年の間には築かれていたと考えられます。その後さらに改修の手が加えられました。この周辺の石垣には、川沿いの黒田時代の石垣にみられる7世紀の山城の石(直方形)が使用されています。また石の中には文字が刻まれたものがいくつかあります。「田」「井」「△」などで、同様のものは他の場所でも見ることができます。いずれも改修工事が行われた部分で、同じ字体であることから、石垣改修年代の手がかりになるかもしれません。これらの文字は石工たちが記した記号と思われますが、その目的は不明です。黒御門跡から天守閣へ進む。三斎池(さんさいいけ)三斎池(さんさいいけ)慶長五年(1600)関ヶ原の戦などの功によって黒田長政は筑前五十二万石となり、如水とともに中津を去った。黒田氏の後には、細川忠興が豊前一国と豊後の国東・速見の二郡の領主として入部した。忠興は最初中津城を居城とし、弟の興元を小倉城に置いた。慶長七年忠興は、居城を小倉城に変更した。元和六年(1620)家督を忠利に譲り、忠興は三斎と号し隠居した。翌七年三斎は中津城に移り、中津城や城下町の整備を、黒田氏の後を引き継いで行った。この時、城内の用水不足を補うため、城内への水道工事を行った。工事は、山国川の大井出堰(三口)から水道を城内まで導く大工事であった。その水をたたえたのがこの池であり、鑑賞や防火用水としても使用された。忠興の号 ” 三斎 ” の名を冠して「三斎池」という。現在は、中津上水道を引いている。 中津市教育委員会 中津の郷土史を語る会 三斎池の東側にある庭園の石燈籠。見上げると紅葉。地蔵菩薩左側の社の貼り紙「大変申し訳ございません。故障の為、使用出来ません」と。高輪地蔵の由来徳川家四代将軍家綱の頃(明暦二年 1656)奥平家は東京高輪南町に下屋敷を賜った。その頃も現在と変わらず隣との地境争いは頻繁であり、奥平家下屋敷も隣藩との境界争いとなっていた。しかし裁き所で証人として出た隣藩の名も知れぬ家臣は正直に「ここまでは我が藩の屋敷だが、そこからは奥平家の土地である。」と堂々と証言したと伝えられている。これに腹を立てた上司達は即刻彼を死罪にし、奥平の屋敷内に亡骸を投げ入れたという。中津藩主四代忠昌公はこれにとても心を痛め懇ろに供養し、この家臣を地蔵菩薩として地蔵堂に納め終生お参りをした。大地の神、地蔵菩薩は屋敷神として古より尊ばれ受け継がれ、このたび新たな使命に燃えてここ中津城本丸に移る。地蔵菩薩のご利益大地を司る財宝神・慈悲の菩薩・子授け・子供の健やかな成長祈願いかなる災害をも除き延命を助ける。あらゆる分野で人々の切なる願いを満たしてくれる無上の存在です。 地蔵の縁日 七月二十四日 御日は毎月 二十四日 唱えことば 唵訶訶訶尾娑麼曳娑嚩賀(オンカカカビーサンマーエイソツカ) 平成九年四月 日本石佛協会 会長 大護八郎 イチョウの黄葉とカエデの紅葉。銀杏は落ちていなかった。正面に奥平神社、天守閣奥平神社の前に石灯籠が多数並ぶ。旧中津藩主 奥平家奥平家が歴史の表舞台に登場したのは、奥平家初代貞能と貞昌(後の信昌)父子の頃からで、天正三年五月(1575)の史上名高い「長篠の戦い」において貞能・貞昌父子が活躍しました。武田勝頼軍一万五千人によって長篠城が包囲され、長篠城主貞昌は僅か五百人で籠城、激しい攻撃に耐え続けました。落城寸前に織田信長・徳川家康連合の援軍が到着、長篠城の西方約三キロの設楽原で、織田・徳川連合軍と武田軍が激突、武田軍は織田・徳川軍が築いた馬防柵や大量の鉄砲の前に大敗北しました。この長篠城籠城の功で貞昌には新たな領地が与えられたほか、信長からは「信」の一字が偏諱され名を信昌と改め、家康の長女亀姫を正室として迎えました。信昌と亀姫の間には家康にとって孫となる四男一女が生まれ、長男家昌は奥平家を継ぎ、二男から四男は松平の姓を賜りました。四男の松平忠明は大坂城や姫路城の城主を務めています。奥平家は長篠の戦いの後、新城城(愛知県)、加納城(岐阜県)、宇都宮城(栃木県)、宮津城(京都府)などを経て享保二年(1717)奥平家第七代昌成が中津十万石の領主として中津城に入りました。第十五代昌邁(まさゆき)までの155年にわたり中津を治め、明治維新・廃藩置県を迎えました。その間、第九代昌鹿、第十一代昌高などは、蘭学史上特筆すべき功績をあげています。当地の奥平神社では、長篠城籠城中に食料がなくなり「たにし」などを食べて戦い続けたことにちなみ、毎年五月二十一日頃に「たにし祭」を行っています。現在、中津城天守閣内に資料館として「長篠合戦図」、家康から贈られた「白鳥鞘の鑓」や「歴代藩主の甲冑」など、重宝が展示・公開されています。 中 津 市 観 光 課 中津市歴史民俗資料館 中津の郷土史を語る会武運と戦勝 奥平神社御由来ご神体は、奥平家中興の祖 奥平貞能・信昌・家昌公三柱の御祭神をお祀り申し上げております。のちに宇都宮城(栃木)を経て宮津城(京都)から入城した七代目 奥平昌成公は中津城入城の翌年享保三年正月(1718)、城内二の丸にあった観音院を祈祷所と改称し、十一代目昌高公が天明七年(1788)、祈願所を長福寺と改名いたしました。現在の中津裁判所がその旧敷地であります。ご祭神の貞能・信昌・家昌公三公は永禄三年(1561)より元亀・天正・文禄を経て慶長十九年(1619)に至る五八年間、幾多の戦功をたてられて徳川氏に忠節を尽くしてきました。特に奥平家二代目の信昌公は関ヶ原の合戦後、初代京都所司代として綱紀を振るい凶賊から庶民を護りました。後世武士(もののふ)の鑑(かがみ)として徳川三百年の礎を築き、人々から義勇と武功を称えられました。天守閣、右に「大鞁櫓(だいひやぐら)」大鞁櫓(だいひやぐら)城主の馬具等を格納するところ。現在の天守閣は、昭和39年(1964)旧藩主奥平家が中心となり、中津市民からの寄付も合わせて天守閣を建造。奥平家の歴史資料館として中津市民に愛され続けている。昭和39年に旧藩主の子孫奥平昌信氏が中心になり再建した模擬五重天守。中津城(奥平家歴史資料館)水城 奥平 続日本100名城 中津城日本三水城(日本名城大図鑑)■ 中津城(大分県中津市) 中津川河口周防灘に臨む 築城者:黒田 孝高 築城年:天正16年(1588)■ 高松城(香川県高松市) 瀬戸内海に臨む 縄張 黒田孝高 築城者:生駒 親正 築城年:天正18年(1590)■ 今治城(愛媛県今治市) 海浜平城来島海峡に臨む 築城者:藤堂 高虎 築城年:慶長7年(1602) 大鞁櫓前から天守閣(奥平家歴史資料館)入口。開館時間:9:00~17:00 (入館は16:40まで)休 館 日 :年中無休入 城 料 :大人 400円、中津市民は50円引き、シルバー割引:77歳以上は無料。登城券 350円を支払ったが、中津市民と間違えられたか。1717年(享保2年)、第八代将軍徳川吉宗公から西国の抑えを期待され、徳川御連技奥平家第七代奥平昌成公が豊前中津に入府。丹後宮津から1万石加増の10万石での栄転であった。以後、1871年(明治4年)に奥平家十五代昌邁公が廃藩置県を迎えるまで、154年間に渡り中津奥平藩主居城として城下町中津の繁栄を見守り続けた。廃藩置県の際、藩士福澤諭吉の進言により城内のほとんどの建造物が破却され、御殿だけが小倉県中津市長舎として存続。しかし、1877年(明治10年)の西南戦争の際、その御殿も焼失してしまった。天守内に入りまずスタンプを。スタンプを頂きました。認定証「中津城殿」歴代藩主の甲冑戦場での扇等の展示。中津城の北側にある駐車場、左は中津川。歴代藩主の甲冑が多く展示されていた。手前は、第十一代昌高公、十二代昌猷(まさみち)公12:15第35代横綱双葉山 定次の展示コーナー。双葉山が大関時代の化粧回し。化粧回伯爵奥平昌恭公が、双葉山(中津出身)の大関時代に贈った化粧回しで、双葉山は横砂昇進後昭和十三年奥平神社に奉納。双葉山の手形に合わせる旅友のゴツイ手だが。写真は、心技とも全盛期の双葉山。露払いは羽黒山、太刀持ちは名寄岩。横砂双葉山関と父祖の地中津天下の名横砂・双葉山(本名・吉穐定次)は、明治四十五年(1912)二月、隣村の宇佐市下庄(布津部)で生まれ、生まれ育った家は、現在、双葉公民館として利用されています。双葉山の先祖は、もと中津藩の武家・内田氏で、代々刀匠・刀鍛冶を務め、苗字帯刀を許され、内田小三治淡路守と名のっていました。定次は、小学校を終えた十三歳のとき、伯父を頼って下正路の汐湯で手伝いをしていました。体格はずばぬけて大きく、力も強いうえ、誠実で実力があることから、毎日汐湯に入浴するお年寄りたちに評判の少年でした。そのうち、お年寄りの有志や角力(すもう)びいきの県の役人、警察部長、安藤氏、中野氏、横松氏などの肝いりで蔵前の東京角力に入門し、みんなの期待通りぐんぐんと成長し角界未曽有の六十九連勝(横砂二十六連勝)の大制覇をしたことは不滅の輝きです。五十余年前、少年双葉山が風呂の火をたいたり、父と共に回漕の船をこいだ所は護岸工事でなくなりましたが、横砂の化粧まわしや写真、筆をふるった扁額などが市内各地で大切に保存されています。また、国鉄、天津駅には「横砂双葉山生誕之地」の大記念塔が建てられています。中央の字は、「双葉山自筆の額」。 ー 続く ー
2022.01.28
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豊後高田昭和の町の散策を続ける。昭和を代表する女優の一人「浪花千栄子」。朝ドラ『おちょやん』のモデルにもなった浪花千栄子。11月18日(木) 10:53新町通り商店街にある、「ウエガキ薬局」所在地:大分県豊後高田市新町954懐かしい「浪花千栄子」の看板。昭和のお母さんと言えば浪花千栄子では。49 壺焼き芋 ふくいも所在地:大分県豊後高田市新町949-1「ふくいも」 人気メニュー 第一位 焼き芋シェイク \ 300 第二位 冷やし焼き芋 \ 300 第三位 焼き芋アイス \ 300 いずれも税込み価格10:55新町通り商店街と駅通りの角にある、「中野鮮魚店」。味付けされたものがありこのまま食べれる様であった。店先で見ているとおばさんが現れ、勧められたのでたので旅友が、手前の、「甲イカ塩焼 700円」を購入。他にも乾物類も販売。塩炒りピーナツ 500円/1袋、カエリイリコ(食べるイリコ) 500円/1袋。 豊後高田 昭和の町 ご案内豊後高田市の商店街は、江戸時代から明治・大正・昭和30年代にかけ国東半島一の賑やかな町として栄えていました。しかし高度経済成長を境に徐々に元気を失い、現在を迎えています。豊後高田「昭和の町」は、そんな商店街に再び賑わいと元気をよみがえらせようと、平成13年9月に始まったまちづくりです。懐かしさが、ここにはまだ大切に残っています。貧しく不便でも生きる手ごたえがあったあの時代に一瞬でも思いを馳せていただければ、これに過ぎる喜びはありません。 町内商工案内図11:05昭和ロマン蔵大分県きっての大金持ちといわれた ”野村財閥” が昭和10年前後に米蔵として建てた旧高田農業倉庫を改修して作った施設「昭和ロマン蔵」。昭和ロマン蔵には、「昭和の夢町三丁目館」、「駄菓子屋の夢博物館」、「チームラボギャラリー昭和の町」の3つのミュージアムが入っています。昭和ロマン蔵北蔵、東蔵、南蔵に3つのミュージアムがある。● 駄菓子屋の夢博物館・チームラボギャラリー昭和の町・昭和の夢町三丁目館 営業時間 9:00 ~ 17:00 休 館 日 12月30・31日● レストラン 旬彩「南蔵」 営業時間 11:00 ~ 16:00 定 休 日 不定休 駄菓子屋の夢博物館駄菓子屋のおもちゃ 約六万点を展示した懐かしさあふれる博物館。館長 小宮裕宜(こみやひろのぶ)氏 昭和23年福岡県生まれ。” 昭和の町づくり ” メンバーの強い要望を受け、平成14年より 豊後高田へ移り込み「駄菓子屋の夢博物館」を開館。” 懐かし屋 ” の店長も兼任。駄菓子屋のおもちゃの所蔵では日本一の館長、小宮裕宜氏の30万点を超える収蔵品の中から、選りすぐりの6万点を展示した懐かしさあふれる博物館。チームラボギャラリー昭和の町 自分で描いた絵がスクリーンのなかで踊りだす。昭和の夢町三丁目館 昭和を体感! 目と耳と体で感じる 昭和の暮らし。● 昭和の商店ゾーン 懐かしの商店を眺めて、実際のお買い物もお楽しみください。 【懐かし屋】駄菓子屋、買い物できます 【昭和の町のおみやげ屋】豊後高田のおみやげを集めました 【夢町射的場】懐かしい射的が楽しめます● 昭和の教室ゾーン 昭和の頃の木製の机・椅子・黒板などを再現しました。 ● 教室レンタル料:3,100円/時間● 昭和の民家ゾーン(有料) 昭和30年代の民家を再現。朝・昼・夕・夜と入れ替わる空の景色を眺めながら、懐か しいあのころへタイムスリップしてください。旬彩 南蔵(しゅんさい みなみぐち) くにさき半島の旬の食材を味わえる和食レストラン。 ● 営業時間:11:00 ~ 16:00 ● 全 120席(テーブル) ● 喫茶のみの御休憩や特別な席にも是非ご利用ください。昭和ロマン蔵 入館料のご案内 営業時間 9:00 ~ 17:00 入 館 料 全館共通券 850円 駄菓子屋の夢博物館+夢町三丁目民家ゾーン 640円 チームラボギャラリー『昭和の町』 420円 いずれも大人料金行き先表示は、「ボンネットバス 日野BA14」、日野はいすゞでは?ナンバープレートは「福山230 さ・9 23」福山といえば広島県福山市だが。後方から、行き先表示には、「尾行歓迎 追突注意」福山自動車時計博物館現存最古の日野ボンネットバスBA14(昭和33年製)。北蔵の軒下に勢ぞろいしたクラッシックカー。左側は充電中の、EV車、ナンバーの付いたクラッシックカーも。昭和の町の顔になっているのが、昭和32年式のボンネットバス「昭和ロマン号」。レトロなデザインのバスに乗って「昭和の町ミニ周遊コース」でつかの間の時間旅行を、車掌さんのガイド付きで楽しむことができます。乗るだけでもワクワクする「昭和ロマン号」はなんと無料で乗車できます!。週末の土・日に15分程度運行している。昭和ロマン号はこうして出来上がりました。部品の一つひとつが手作りです。信じられますか?35年以上眠っていたボンネットバス。穴と傷だらけのボディが痛々しいですね。■ いすゞボンネットバス 型 式 BX141 年 代 1957年式(昭和32年) 全 長 8.310m 全 幅 2.430m 全 高 2.960m 再 生 福山自動車時計博物館(2009年)■ いすゞ BX141 の来歴 昭和32年 いすゞ自動車株式会社において車台が製造される 車台番号「57ーBX140ー411617」 株式会社北村製作所(新潟市)において車体が製造される 羽後交通株式会社(秋田県横手市)が購入、登録番号「秋2あ0155」 昭和44年 抹消登録 平成18年まで 秋田県大仙市内に保存 平成19年 福山自動車時計博物館が譲り受ける 平成21年 7月18日 昭和の町に復活復活!! 昭和32年式ボンネットバス 昭和ロマン号 職人のこだわりで完成した『いすゞ BX141 』型 いろんな部品を手作りで再生している。懐かしい、ダイハツのミゼットミゼット(Midget)は、ダイハツ工業が昭和32年(1957)から昭和47年(1972)まで生産・販売していた軽自動車規格の三輪自動車である。Midgetは英語で「超小型のもの」という意味の単語で、小型な車という想いを込めて名付けられた。私が小学校頃に始めてみた時はドアーがなくハンドルもバーハンドルであったような。綺麗に整備されているので運行しているのか?北 蔵北蔵の「昭和の夢町三丁目館」入口。館内では、大分県豊後高田特産品 地域の味自慢・技自慢 山・里・海の特産品販売南蔵にあるレストラン旬彩。昼時であったが、先を急ぐので今回もスルー。 11:15昭和の町は見るべきところは多々あったが、後の工程を考え45分程度の散策で後にした。この日の平日で観光客は少なかったが昼頃には多くなるのか。次の目的地をセット、中津城までは、26km、所要時間44分で、到着予定12時と。県道23号線(中津高田線)を北西方面へ進む。県道23号線(中津高田線)を進み、国東半島から宇佐市内へ。宇佐市は、大分県の北部、国東半島の付け根に位置する市。 全国4万社余りの八幡宮の総本宮・宇佐神宮があり、正月には全国からの参拝客でにぎわう。また本願寺別院も規模が大きく門前町を形成している。市内には他にも観光名所があり、県内有数の観光都市となっている。また、第35代横綱双葉山 定次は、宇佐郡天津村布津部出身である。人口は、 5.553万 (2017年3月1日)。11:40ダイハツ九州(株)所在地:大分県中津市昭和新田1番地ネットで調べるとモラハラが絶えないとの書き込みが多いが。中津日田道路 1⃣ 定留インタ入口。車中で先程旅友が購入した、「甲イカ塩焼」を食したが塩が効いていて美味しかった!ありがとうございました。更に県道23号線(中津高田線)を進むが、この辺りの海岸線(右側)には新しい工場群。11:48左側に道路標識、この先を斜め左方向へ進む。「福沢諭吉旧居 ← 3.7km」、「中津城 ← 3.8km」。中津市は、大分県の北西端に位置する市で、人口 8.47万 (2017年3月31日)。 ー 続く ー
2022.01.27
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熊野磨崖仏から今日の目的地の一つ「続日本100名城 中津城」の途中にある、かねてから行きたかった豊後高田にある、「昭和の町」をカーナビにセット。11月18日(木) 10:00熊野磨崖仏から県道655号線(新城山香線)を北上。国東半島は安山岩と凝灰岩が採れる石材の場所だけに浸食で奇抜な岩肌が。10:03熊野磨崖仏からしばらく県道655号線(新城山香線)を北上すると、左側にお出迎えの人の列!思わず車を止め停車。「ようこそ田染の郷へ 真木大堂へようこそ」と表示された多数のカカシが飾ってある。誰かおられるのかと思い探すが、どのカカシとも目が合わず。仕方がなく私が入り記念写真。傍では天高く花もお迎え。皇帝ダリアの大輪とつぼみ。奥に小さな社殿。県道655号線脇の標高:118.3m にある「隨願寺(ずいがんじ)」。隨願寺所在地:大分県豊後高田市田染真木境内の建物は地蔵堂1宇のみである。安置されている地蔵菩薩像はかなりの古仏とみられるとのことだが閉ざされ中は見えず。地蔵堂前にも石塔・石仏などがみられる 。隨願寺 縁起六郷満山分末寺の一なり。 養老年間(717-724)、馬城山傳乗寺三十六坊の一坊として創始。一時寺観壮麗を極めたりと言うも、今は唯九尺四面の堂宇を存ずるのみ。 断礎塔碑累々として往時の盛観を偲ばしむ。 ものふりたる堂内には、厨子に下御門本尊地蔵仏を安置す。「隨願寺」と墨書した扁額、その裏に残る墨筆。六郷満山峰入行者祈祷墨書柱・二柱(文化十四年(1817)・天保八年(1837)) 格子戸に墨書・彫刻された欄間・長押に唐草模様を遺す。老朽化にともない平成十五年二月 小畑通治の遺志をつぎ妻京子これを再建す。 落慶にあたり之の碑を建立し後世に遺す。 小畑光則。隨願寺前から県道655号線(新城山香線)沿いに立つカカシ。皇帝ダリアと・・・が咲く。広場があり地元の方々が植えられた花壇。10:09後でよく見るとこの先数百メートルのところに「真木大堂」があったのだが。カーナビも「真木大堂」を示す。目的地までは、12km、到着予定 10:34 と、目的地だけを考えていたので残念。走りだすと前方に「真木大堂 P → 」の標識が目に入ったが。真木大堂は直ぐ左側にあったようだ。真木大堂(馬城山伝乗寺)(まきさんでんじょうじ)所在地:大分県豊後高田市田染真木1796真木大堂は、かつて隆盛しながらも火災で焼失した「幻の大寺」とされる馬城山伝乗寺の堂宇の一つと伝えられています。国指定の重要文化財である仏像9体を有しており、特に日本一の大きさを誇る水牛にまたがった木造大威徳明王像や藤原時代の作である阿弥陀如来座像など、仏像ファン必見の名所です。この地域散在していた石塔・石仏を損壊や紛失から守るために、これらを一堂に集めた古代公園が大堂裏手に整備されました。この公園内には、かって伝乗寺が田染盆地に36坊もの伽藍を擁して隆盛を誇っていた頃の名残が、随所にあり散策を楽しむことができますと。10:12この先の交差点を左折、県道34号線(豊後高田安岐線)を西方向へ。真中交差点に建つ、田染郵便局。直進すると「国宝・富貴寺(ふきじ)大堂」へ。10:20この先を右折して、豊後高田市街へ。10:26豊後高田昭和の町手前の並木道も紅葉。10:27豊後高田昭和の町、「新町通り商店街」へ入り、駐車場を探す。10:30豊後高田商工会議所横の「昭和の町駐車場」。所在地:大分県豊後高田市新町96430分までは無料の有料駐車場、この日は平日で空いていたが休祭日は混んでいると。ここへ駐車して「昭和の町」を散策に。昭和の町 散策ご案内昭和の町とは、総延長550mの通りは普通に歩けば15分もかかりませんが、その通り沿いに点々と立ち並ぶ ” 昭和の店 ” の一軒一軒を訪ねてみましょう。昭和の思い出をさがして、昭和の建物に足をとめ、一店一宝に目をとめ、一店一品を手にとり、そして笑顔でお客様と語らう昭和の商人に心をとめていただければ、いつの間にかやさしく懐かしい昭和の時期が流れ過ぎているかもしれません。駐車場横に、「ようこそ昭和の町へ、ここ ⇐ 近道」の看板があり進む。前方に「おみやげ、ギャラリー、お食事処」。豊後高田市のマンホール蓋。出会いの里右側に「ベルハウス」。昔ながらの手押し井戸ポンプ、石祠。出会いの里の中に水路があり、「木工作品」を販売。黒毛和牛 メンチカツここを訪れた多くの芸能人の写真が掲示されていた。10:35新町通り商店街の東方向を望む。豊後高田市の中心商店街は、江戸時代から明治、大正、昭和30年代にかけて、国東半島でもっとも栄えた町でした。江戸時代から海上運輸で栄え、昭和初期にも京阪神に行き来した運搬船が多数停泊していました。五本の幹線が集まり、半島奥地や海岸部・宇佐方面への要衝になっていたのです。しかし、だんだんと時代の波に取り残され、多くの商店街と同じく寂しい町になっていました商店街が元気だった最後の時代、あの昭和30年代の活気を蘇らせようと平成13年(2001)に立ち上げたのが「昭和の町」の取組みである。当初7店舗からスタートした昭和の町認定店は現在53店舗に増え、いまでは、年間約40万人の来訪者を迎える商店街になりましたと。商店街には懐かしい照明灯も。旧共同野村銀行社屋無料で見学できるようであったがスルー。旧共同野村銀行社屋その昔、当地は優れた仏教文化の宝庫として知られていた。その後、江戸時代から、肥後の国・島原藩の飛地として独自の発展を遂げた。地理的には交通の要衝であり、桂川は天然の良港で国東半島の産物の集積地として栄え、農業・塩田・製竹・養蚕・和蝋等の産業により、明治に入っても大いに繁栄していた。日清戦争(明治27~28年)の後、経済界は空前の好景気となり、当地にも富豪「野村財閥」が生まれた。この野村財閥の開祖、野村礼次郎氏は明治45年(1912年)に共同野村銀行を設立した。昭和8年(1933年)に本社事務所を建設。これが現在の建物である。共同野村銀行は第2次世界大戦(昭和16~20年)による戦時金融統制の一環として、大分合同銀行(現在の大分銀行)に合併された。戦後昭和23年(1948年)2月、西日本無尽㈱(その後、西日本銀行から西日本シティー銀行へ)が当建物を買収し、同社高田支店となった。平成5年(1993年)西日本銀行が移転し、大分市の投資家が購入したが、利用されず廃墟同然の姿となっていた。平成16年(2004年)10月、大分石油㈱・ホテル清照がこれを買収し、補修の上、保存・活用する事となった。店舗の内部は、一階の道路に面した部屋は吹き抜けで自然の光あふれる大きな空間になっており、キャットウオークを巡らし優雅さを表現し、外部は、正面壁のタイル張り、中央に銅製模様欄間付きの出入口、その上壁に3本の装飾円柱、高い軒蛇腹には上部の唐草模様と彫刻装飾を施してあり、古典主義的な様式をデザインした優れた姿形を持っている。 大分石油㈱・ホテル清照登録有形文化財 第44-0165号この建造物は貴重な国民的財産です 文化庁商店街には、チキンカレー、ハンバーガーの幟が立つ。また、商店街には紅白の垂れ幕が下がるが今日は平日で観光客も少ない。古い建物の壁面に「コーヒーハウス ブラジル 伯刺西爾珈琲舎」。マスターが優しく、カレーはもちろん美味しいコーヒーソフトクリームがオススメ!と。街角の座る「カエル」。カエルには古来より 金カエル 福カエル 無事カエルなどの語呂合わせから お金が還ってくる 幸運が還ってくる 人が帰ってくるというように非常に縁起がいい生き物として愛されてきました。また、 迎えるとの意味もあり、市外県外より多くのお客様を迎えられるようにという願いも込められます。そしてカエルは前にしか飛ばないため、仕事運が向上する象徴にもなっています。さらには、 変えるという意味もあり、様々な状況を良い方向へ変えてくれると言われています。 60周年記念品 豊後高田商工会議所青年部10:38出会いの里お食事処もあり昼時には多くに来客があるのか。和牛肉 金岡店先に、「14 肉のかなおか」 パンフレットに「14」。 創業:昭和26年 建築:昭和26年一店一宝 初代手回しの肉切り機お店での人気商品は初代おかみが家族のおかずに作っていたコロッケ。懐かしいコロッケの味はB級グルメと呼ぶにはあまりにももったいなく、安くて美味しい極上のテイクアウト商品。お店自慢のあつあつコロッケを頬張りながら商店街を散策ください。 店内に入り、ケースの中にいろんなミンチ、コロッケを陳列。朝食をとっていなかったので、コロッケを食べることに。店内の隅に置かれていた、 一店一宝 初代手回しの肉切り機店の前に道を挟んでテント小屋。コロッケを2個オーダーするが、「これから揚げるので前のテントで」と。テントの前に「コロッケの食べ歩きもまた楽しいですよ」 昭和の町のお肉屋さん 肉のかなおかいろんなコロッケ10:51待つこと5~10分で、今日の朝食+昼食?のコロッケ2個、丁寧に袋にコロッケの名が書かれていた。揚げたてで熱かったが、空いたお腹には最高であった。 ー 続く ー
2022.01.26
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昔、鬼が築いたと伝えられている、鳥居から熊野磨崖仏まで続く100段もの石段を登る。11月18日(木) 9:25ここでは、無線LANを活用したシステムで、手元のスマートフォンやタブレット等でwi-fiに接続することで、無料で各施設を紹介した音声を聴くことができます。4か国語の多言語(日本語・英語・中国語・韓国語)対応している。熊野磨崖仏(くまのまがいぶつ)一、所 在 地 豊後高田市大字平野字登尺一、国史跡指定 昭和三十年二月十五日一、国重要文化財指定 昭和三十九年五月二十六日一、解 説 大岩に刻まれた仏は向かって右が大日如来、左が不動明王で、熊野磨崖仏と呼ばれている。 大日如来は、6.8米、如来にふさわしい端正な顔形で、頭部上方には三面の種子曼茶羅が 刻まれている。 不動明王は、8米、憤怒相でなく柔和な慈悲相であるのは他の石仏にみられない珍しい例 である。 六郷満山諸勤行注進目録や華頂要略などに、より磨崖仏は藤原時代末期(約900年前)の 作と推定されている。 厚肉彫りの雄大、荘厳な磨崖仏であるため国指定史跡でありながら美術工芸品としての 価値が高いものとして国の重要文化財指定を併せ受けたものである。 伝説では、磨崖仏は養老2年(718年)仁聞菩薩が設立したと伝えられ、近くの山中には、 「御所帯場」とよばれる作業時の宿泊跡がある。また参道の自然石の乱積石段は鬼が一夜 で築いたと伝えられる。 熊野磨崖仏管理委員会 宗教法人熊野社熊野磨崖仏は、平安時代末期の作と言われおり左側に「不動明王(約8m)」、右側に「大日如来(約6.7m)」があり国指定の重要文化財となっており、国内最古にして最大級の磨崖仏。1000年近く風雨にさらされて佇む磨崖仏。左側の高さ約8mの不動明王像。また、約10年に一度行われる六郷満山の伝統行事である峰入りの荒行は、この不動明王の前を出発点とし、護摩をたいて行程150km、約10日間の行に入ります。眼球が飛び出し、牙をむき出しにして唇をかんでいるが、怒った顔が一般的な不動明王と比べてどことなく微笑むような優しい顔立ちの、人間味を感じさせる表情をしている。不動明王の頭上の岩肌は養生されているのであろう。右側が大日如来像で、約6.8mの高さがあります。こちらの仏様は不動明王よりも精巧に掘られていることがうかがえます。一説によると大日如来は磨崖仏を掘る技術を持った僧とその弟子たちが掘ったともいわれています。穏やかな表情の「大日如来」。頭部上方には三面の種子曼荼羅が刻まれています。伝説では、磨崖仏は養老2年(718年)仁聞菩薩が造立したと伝えられ、近くの山中には「御所帯場」と呼ばれる作業時の宿泊所跡があります。もともとどれだけ凹凸がありメリハリの石仏だったのかわからないが、横から見ると長年風雨にさらされかなり平坦になっているのでは。横顔をズームアップ不動明王と大日如来の間にも磨崖仏が彫られているが、風化が激しく確認が難しい。熊野磨崖仏からおよそ50メートルの険しい石段を登ると、奥之院の熊野神社がある。9:30薄暗い中に、熊野神社が佇む。熊野権現を祀る、瓦葺きの入母屋造り。まさに神仏習合を物語る神社であると。急な石段を登りしんどい思いをしたが、境内は綺麗な紅葉。拝殿の扁額、「熊野神社」。本殿は岩肌ギリギリに組み込まれている。本殿は銅板葺で、一間社流造り。崖崩れの恐れがあり立入禁止に!岩肌を切り込んで小さな石祠、石灯籠。下には、古代古墳のような小石の山が数基。古びて趣のある木造本堂の裏手には小さな石仏が安置され、不思議な雰囲気が漂っている。宇佐神宮の八幡神の化身が磨崖仏を作ったと伝わるように、国東半島が神と仏の共存する神仏習合が発展した地だということを改めて感じる場所である。拝殿横から紅葉を見上げる。静かな佇まいで心が洗われるが早々に・・・・・。紅葉を振り返る。拝殿は瓦葺。9:35熊野神社に別れを告げ手摺を持ち石段を下りることに。右側に、磨崖仏前の広場。石段で転ぶと下まで下ることに。手摺をしっかりと持ち下る。9:41下りは楽に下ったが、安全に注意。「熊野社境内を通過する皆様にご案内」拝観料大人一人 300円納めてくださいと!緩い坂を下り振り返る。熊野磨崖仏案内所、200M。この看板には、国東一のパワースポット ここが不思議の寺 胎蔵寺です。開運、金運(宝くじ)、良縁、子宝、健康、長寿、合格運幸福の道に続くうわさの胎蔵寺 右です 👉貴方に何かが起きる!運命の別れ道です七福神や不動明王に金のシールを貼って下さい! お願いシール熊野磨崖仏案内所、100M。胎蔵寺の屋根。9:47熊野磨崖仏から下り、胎蔵寺(たいぞうじ)。右側に石碑には、「今熊野山祈願所 胎蔵寺」幟には、「六郷満山開山1300年」 大分県 国東半島・宇佐地域胎蔵寺は馬城山伝乗寺の末寺として開かれ、巨大な磨崖仏で有名な「熊野磨崖仏」の入り口に構えるお寺です。天台宗現行峯入りの出発点で、昔は明王院の徒八坊があり、熊野権現を管理していた。神仏分離で分かれ、熊野権現のご正体は寺内に祀られている。胎蔵寺の門前に苔むした石仏、仁王像が建つ。苔むした仁王様。この日は何故か境内へは入れず、門前から。正面に「護摩堂」お参りの方々へ1200余年の歴史を持った胎蔵寺にようお参り下さいました。初めて来られた方はさぞやびっくりされたと思います。 近年、宝くじが当たると評判になりました。このキンピカ様が国東(半島)が誇る「貼り七福神様」「貼り不動様」です。お願いシールを貼って御利益をお貼り下さい。 第65世 住職「胎蔵寺」の名前に“胎”の字がある様に、このお寺は子授けにもご利益があり、境内中央にある「熊野羊水」の龍を撫でると子宝に恵まれるといわれています。この金ぴかのもとになっているのが「おねがいシール」。おみくじに5枚付いており、このシールを境内にある像に願い事を託してペタペタ貼っていくのです。このお願いシールを貼ることでなんと宝くじの高額当選が続出すると密かなブームを呼んでいる、お寺でもあるのです。宝くじ以外にも、病気治癒、幸運、受験などにもご利益があるのでお願いシールを貼って祈願しましょう。胎蔵寺前から、熊野磨崖仏案内所、無料休憩所を見下ろす。土産物店もようやく開店こんな所で「宝くじ」の販売、1億円当選の看板はなかったが!石垣にイワマツ。熊野磨崖仏案内所の駐車場から胎蔵寺を見上げる。紅葉のモミジ。9:51駐車場に小型車のキャンピングカー駐車。車のナンバーは「相模 ○○○○」であった。これで全国行脚したいものです。9:54次の「昭和の町」をカーナビにセットして熊野磨崖仏を後にし出発。9:56道路脇に小さな石仏。 ー 続く ー
2022.01.25
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杵築城は時間が早すぎ開門前で天守へは入れず、仕方がなく東側の八坂川の河口へ。11月18日(木) 8:24八坂川の河口の守江湾から西方向に聳える杵築城を見上げる。台山の天守台跡には昭和45年(1970)に資料館と展望所を兼ねた3層の模擬天守が建てられた。杵築(木付)城は、北は高山川、南を八坂川にはさまれた河口付近にあり、最大標高 30m弱の独立丘陵である台山部分と、台山北麓の藩主御殿部分の2つに大きく分けることができる。8:28今回は台山北麓の藩主御殿部分の散策はしなかった。この後、中津城への途中にある「熊野磨崖仏」をカーナビにセット。カーナビの案内は杵築城から熊野磨崖仏へは、20km、所要時間29分と。右下から西へ進み、国道10号を北上。杵築城から県道644号線を進み、前方に大分空港道路(無料区間)の高架橋。大分空港は右方向へ約16kmに位置する。カーナビは県道644号線と国道10号がこの先の赤松交差点で合流右折、中津方面へと案内。8:40赤松交差点に建つ、赤松山願成就寺の山門。赤松山 願成就寺(がんじょうじゅじ)所在地:大分県速見郡日出町藤原6599-1願成就寺(日出妙見尊)は、養老年間(717~724)、六郷満山の創建者・仁聞(にんもん)が建立したと伝えられる由緒ある寺で、天徳4年(960)空也上人が建立したともいわれています。速見郡に多くの寺院建立の願をたて、最後にこの寺を建立し、願いが成就したことから願成就寺と呼ばれたといわれています。地元の人々からは「赤松の妙見様」と呼ばれ親しまれています。山門に続く石段の途中には、県の有形文化財に指定されている高さ3メートルを超える石造宝塔(国東塔)がそびえ立ち、応長元年(1311)の銘が刻まれています。また、本堂にある木造薬師三尊像(薬師如来座像、脇侍日光菩薩立像、月光菩薩立像)は鎌倉時代後期の作で、町有形文化財に指定されています。毎年2月10日・11日に開催される春の大祭では「火渡り」なども行われ、多くの参拝客でにぎわいます。カーナビは、到着予想 9:05、残距離 12km、国道10号を進み7.7km先を右折。8:46日豊本線に沿って国道10号を北上、大井手橋北交差点を直進。カーナビの案内で下市北交差点を右折して県道655号線(新城山香線)へ。8:55県道655号線(新城山香線)を進み前方に道路標識、「ここは豊後高田市熊野です」と。富貴寺 12km、真木大堂 3km、右折すると、熊野磨崖仏 0.5km。8:57右折するべきところを直進し右側にあった鳥居下へ停車、苔むした古い石鳥居の扁額は、「熊野社」。ここからは歩道で、磨崖仏の駐車場は県道を戻るとの案内標示。鳥居脇にあった、庚申塔。鳥居脇にあった道案内。鳥居から戻りここを左折、国指定史跡重要文化財「熊野磨崖仏」入口。直進すると、別府温泉、宇佐神宮。9:03大型バス専用の駐車場へ停車。千年ロマン 豊後高田市 観光案内。豊後高田市は、大分県北部に位置する市で人口 2.306万 (2017年3月31日)。国東半島の西側に位置し、昭和時代までは海運の要衝として商業が発達していた。当時の町並・遺産昭和の町を活用した商店街活性化政策が著名。 また、移住者に対する細やかな施策から、移住の町として知られ、新宝島社の住みたい田舎ベストランキングの上位常連である。① 国宝・富貴寺(ふきじ)大堂 天台宗の古刹で大堂は日本三阿弥陀堂の一つ。現存する木造建築物として九州最古で国宝に 指定。本尊の阿弥陀如来坐像は重要文化財。③ 熊野磨崖仏(くまのまがいぶつ) 古来より山岳信仰の地として栄えた国東半島。 国東半島は安山岩と凝灰岩が採れる石材の宝庫で、そのためビックリするほどたくさんの 石造物が残されています。石仏をはじめ、国東塔、五輪塔などなど。 その中で特に有名なのが熊野磨崖仏である。海岸線もよさそうだが、「恋叶ロード」。 ⑧ 豊後高田 昭和の町、⑨ 真玉海岸の夕陽、⑩ 花の岬 長崎鼻。大分県観光MAP主要地点間の距離を表示。国東半島にはいろんな見どころがあるようだが。赤鬼のきずいた九十九の石段の話 10むかしむかしのお話です。この田染(たしぶ)の里に毛むくじゃらの赤鬼がやってきて、人間を食べるというのです。それを聞いた熊野の権現さまは、何かよい方法はないかと考えました。そして、いち夜のうちに百の石段をこしらえたら許してやろうと約束したのです。権現さまは、とうていできるはずはないと思っていたのですが、なんと赤鬼は、ひょいひょいと石を担いで、あっという間に五十段こしらえました。その早いこと早いこと、みるみるうちに九十九段築いたのです。おどろいた権現さまは、百段目の石を担いだ赤鬼の足が山かげに見えたとき、「コケコッコー」とにわとりの鳴き声をまねしたのです。赤鬼は、「負けたあ」と最後の石を担いだまま逃げ出していったそうです。熊野山たいぞう寺から、磨崖仏を通って熊野権現さままで続いている石段は、この赤鬼が築いた石段だといわれ、今でも多くの人々に親しまれています。石を担いで石段を築く赤鬼。大型バス専用の駐車場から再度車に乗り、熊野磨窟仏入口へ。9:07熊野磨窟仏案内所所 在 地 :大分県豊後高田市田染平野2546-3拝 観 料 : 一般・高校生300円/小・中学生150円。営業時間:5月 ~ 10月 8:30 ~ 17:30 11月 ~ 4月 8:30 ~ 17:00受付横に杖が置かれており、無料で貸し出してくれる。大人拝観券 300円受付横の駐車場の紅葉。熊野磨崖仏入口、熊野権現の道。入口に土産物店があったが時間が早く開店前であった。熊野磨崖仏入口から振り返ると、胎蔵寺(たいぞうじ)がある。熊野磨崖仏への入口は、豊後高田市田染の田原山の山麓にあります。ここから磨崖仏に会いに行くには、緩やかな坂道から始まってスタート地点から磨崖仏まではおよそ20分かかる。旅友も杖を持ち。沢の対岸に、国東唯一の尼寺 くまの地蔵尊献穀田跡同級生だという高齢の男女とすれ違い、「杖は二本の方がよいよ」と言われ二本使用する旅友。道路標識には、 「熊野磨崖仏 200M 熊野磨崖仏管理委員会 宗教法人 熊野社」日本全国の磨崖仏のうち、約7割は大分県に現存すると言われている。約90カ所に点在し400体もの磨崖仏が大分県で見られると。地図を見るとこの辺りにも多くの磨崖仏がある。ここまでは緩い坂道であったが、この先からは急な石段に。登ってきた山道を振り返る。周りは杉林。右側の石碑には、「よう来たと 汗をねぎらう 磨崖佛 凡柳」 熊野磨崖仏 100M石碑には「信心を 石段で見る 磨崖仏 凡柳」 内藤凡柳(本名 喬木) 別府市不老町出身 十五才大阪井上剣花坊に師事 大正八年頃大阪で岸本水府のもとで川村誌番○○○○ 大正十三年帰郷大分に本格川柳を普及平成元年没 八十八才ここから急勾配に、鳥居の前に立つ旅友。杖の威力を発揮するのが、出発地点から300mほど進んだこの場所からで、鳥居の奥に見える石段は自然石を乱積みにしただけの急勾配になっている。鳥居の扁額は破損しており「三社大権現」と。鳥居手前の石碑には、 一金五萬円也 豊田利鴻 大太鼓壱張 北野嘉雄 昭和三十三年一月一日 一金貮萬五千圓 豊田亀吉 立石町 豊田要右エ門長男 昭和丗一年四月 同 マツ鳥居の右側に、岸原清行の句碑、「磨崖仏 千年が過ぎ 蝶が過ぐ」。私も記念写真。この先は両側に手摺があるので、杖を鳥居横に置いて登ることに。鬼が築いたという石段は自然の石を組み上げ百の石段で作られている。一気に登り、登り口を見下ろす。乱積みされた石段を登るが、手摺がないと滑りやすいので要注意だ!下る時は杖より手摺の方が安全ではと思うが。ご夫婦はゆっくりと下っておられた。乱積みされた石段。乱積みの石段を半分ほど上ると左側に開けた場所があり、そこに現れるのが岩肌に掘られた大日如来と不動明王です。平安時代の末期(1100年代)の作といわれています。また養老2年(718年)宇佐神宮の祭神「八幡神」の化身である仁聞菩薩が造立したという伝説も残り、いずれにしても国内最古にして最大級の磨崖仏であると。9:24熊野磨崖仏ここでは、無線LANを活用したシステムで、手元のスマートフォンやタブレット等でwi-fiに接続することで、無料で各施設を紹介した音声を聴くことができ、4か国語の多言語(日本語・英語・中国語・韓国語)対応している。ベンチの親父さんも操作して聴取していた。国東半島峯道ロングトレイル Tー1 11.5km 熊野磨崖仏 → 高山寺。 ー 続く ー
2022.01.24
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四泊五日の九州旅行も今日が最終日の五日目。今日の行程は続日本100名城の、中津城と角牟礼城(つのむれじょう)へ登城後、熊本空港へ。その他移動中の史跡を訪れることに。11月18日(木) 6:40部屋から大分市内を見下ろす。6:42ホテル日航大分オアシスタワー所在地:大分県大分市高砂町2丁目48朝食はついていないので、キーをカウンターに置いて退室。二階から一階ロビーを見下ろす。朝食は有料で、2階のレストランだがスルー。朝食代金は1,000円であったか?。国道の上に架かる通路を東に向い、ガレリア竹町。ホテル日航大分オアシスタワーを振り返る。大分市のマンホール蓋。平成8年度に行われたデザイ ン蓋の一般公募作品の優秀賞作品を元に作成したものです。水辺の生き物たちが生き生きと活動しています。メダカ・ウナギ・カニ・フナ、そし て、岩かげにはもっと小さなヤゴとかの小動物が隠れているに違いありません。市の花サザンカが6個描かれている汚水管マンホール蓋。6:48ホテル紹介の駐車場「NPC」。駐車料金は、500円。中津城への途中、杵築市にある「杵築城(きつきじょう)」へ立ち寄ることに。カーナビの案内で、一般道走行を走り、35km、所要時間50分と。7:05国道10号を別府方面へ走り、東生石交差点。7:09国道10号は大分市街地から海岸線へ、右に別府湾、左に日豊本線が走る。この辺りは毎年、別府大分毎日マラソン大会(通称、別大マラソン)が開催されるコースで、毎年2月の第1日曜日に開催される。今年も2月6日(日)に第70回大会が開催される。日豊本線を二両編成の列車。7:13大分マリーンパレス水族館「うみたまご」から「高崎山自然動物園」への歩道橋。歩道橋に、11月20日は高崎山無料の日。別大マラソンは、大分県大分市の大分マリーンパレス水族館「うみたまご」をスタート、大分市営陸上競技場をゴール、別府市の亀川バイパスを折り返し地点として42.195kmを走破するフルマラソン大会である。7:15右前方に別府の市街地が広がる、よく見ると温泉の湯けむりがのぼる。7:17別府市内に入り車の量が多くなる。7:18この先の北浜交差点を左折すると別府駅。国道10号の前方に「別府タワー」所在地:大分県別府市北浜3丁目10-2高さ:90m(展望台は55m)、建設当初は100m。開業:1957年5月10日。別府タワーは観光塔で、旧名、観光センターテレビ塔。名古屋テレビ塔、通天閣に次ぎ、日本で3番目に建てられた高層タワーで、別府観光のシンボルとして親しまれる。登録有形文化財。運営は開世通商株式会社、管理はカイセイ・プロパティーズ株式会社。7:22国道10号新境川橋北交差点。7:31この辺りは、公設市場前交差点辺り。国道10号 門司まで120km。カーナビは「公設市場前交差点」杵築城の到着予定は、8:07、残り距離17km。カーナビの案内は6.5km先の国道10号堀交差点を右方向へと。堀交差点近くに「日出(ひじ)城跡」があり、火野正平も「トウチャコ」で立ち寄っていた。7:48国道10号堀交差点から国道213号を走り、会下(えが)交差点を右方向へ。左方向は、大分空港道路(無料区間)。8:04杵築城(きつきじょう)所在地:大分県杵築市杵築16-1杵築城は、城跡のうち麓の藩主御殿跡は大分県の史跡に指定されている。また、城郭があった台山地区と藩主御殿地区は、国の史跡に指定されている。杵築城は、室町時代初期に木付氏によって八坂川の河口にある台山(だいやま)の上に築かれた。台山は、北は高山川、東は守江湾に囲まれた天然の要害である。連郭式の平山城で、台山を空堀により4区画に区切られていた。戦国時代には大友氏と島津氏の戦いの舞台となり、江戸時代には杵築藩の藩庁が置かれた。杵築城跡のうち台山上の部分は公園として整備され、天守台跡に資料館と展望所を兼ねた3層の模擬天守が昭和45年(1970)に建てられている。八坂川に架かる杵築大橋。天守閣からは守江湾の美しい景色が広がると。八坂川の上流側を望む。八坂川(やさかがわ)は、大分県杵築市を流れ、伊予灘の守江湾に注ぐ二級水系の本流。杵築市は、大分県の北東部に位置する市で、人口 2.966万 (2017年3月1日)。駐車場は、台山の上にあり無料、野鳥が飛来していた。国指定史跡 杵築城跡 指定日:令和二年三月十日指定理由豊臣政権から江戸幕府の成立、安定へと向かう社会・政治情勢の変化に応じて、その構造を大きく変えることが確認された城跡。「一国一城令」による破却以前の城の建物構成や構造が分かるなど、江戸時代初期の城郭の実態を知る上でも重要。(守江湾に面する丘陵に位置し、その変遷は戦国から江戸時代の社会・政治情勢の変化によく対応している。)杵築城の概要杵築(木付)城の成立は、応永元年(1394)に、木付頼直(豊後国守護大友氏一族)が、この場所から北西へ2km程の内陸の竹ノ尾城より、この場所周辺に本拠を移したのがはじまりです。文禄二年(1593)の大友氏豊後(今の大分県の大半)没収に伴ない、豊後(約41万8,000石)には、豊臣秀吉の腹心・縁者等の家臣が1~12万石で配され、豊後国は細切れに領有されることになります。慶長五年(1600)九月の関ヶ原の戦いを経て、豊前小倉~豊後木付にかけての39万9,000石は細川忠興が領有することになり、同六年に木付城代には家臣中でも別格の松井康之を2万5,000石で配置することになります。配置の年、台山に三層の天守が造られますが、慶長十三年(1608)の落雷により天守が焼失します。その後再建されますが、元和元年(1615)の一国一城令により台山の城郭は壊され、その後、杵築城の中心は台山北麓に移動します(後の藩主御殿)。寛永七年(1630)までには、その移動が完了すると思われます。その後、寛永九年(1632)に、細川氏の肥後(熊本県)への領地替えに伴い、小笠原忠知が4万石で城主となります。正保二年(1645)には、忠知の三河吉田(愛知県豊橋市)への領地替えに伴い、甥の松平英親が、豊後高田より 3万7,000石で配されます。以後、途中 5,000石を分地し、3万2,000石になるものの、幕末まで能見松平氏が杵築藩主として続きます。最大東西約 650m×最大南北 約290m杵築城の立地と構造杵築(木付)城は、北は高山川、南を八坂川にはさまれた河口付近、最大標高 30m弱の独立丘陵である台山部分と、台山北麓の藩主御殿部分の2つに大きく分けることができます。前者は、木付氏時代に中世城館として築かれ大友氏の豊後没収後、豊臣系の領主らにより石垣をもつ近世城郭に改修されました。元和元年(1615)に一国一城令で壊されるまで、城の中心部でした。後者は、台山北麓に築かれた中世居館を経て、一国一城令後に御殿(藩主御殿跡)などが建てられました。前者が壊された後、城の中心機能を担いました。この両者を含めた範囲が杵築城の中心部です。城を含めた城下町全体には大きく起伏があり、その自然地形を巧みに利用して、堀や土塁と同様の防御の役目を持たせています。杵築城の歴史と杵築城(台山部分)の調査成果。駐車場から城内へ。城内の木々も紅葉が始まる、建物はトイレ。城下町きつき歴史の散歩道。杵築城跡のうち台山上の部分は公園として整備されており、石碑等が建っていた。紅葉の木に囲まれて大きな「日露戦争の忠魂碑」。本丸への城門。営業時間:10:00 ~ 17:00登城料金:一般 400円 休館日は年末を除いて営業時間が早く開門前で、隙間を探すが見つからず諦める。城門に「営業時間 10:00~17:00」と。天守廻りの白塀。善隣友好日中平和友好條約締結記念 1978年10月23日 大分県日中友好協会杵築支部「善隣」とはいい言葉だが、いつまでもこうであってほしいが!八坂善一郎翁之像 明治28年(1895) ~ 昭和55年(1980)杵築野田に生れ、38歳の若さで別杵自動車社長に就任し、青年実業家となる。昭和14年(1939)に県議会議員、昭和21年(1946)には衆議院議員に当選。昭和30年(1955)、合併による杵築市誕生で初代市長となり、5期20年にわたり全国的にも稀な特色のある市政の推進・産業の発展に尽力した。杵築市名誉市民。法政大学創立者顕彰碑伊藤 修(いとう おさむ)、1855年(安政2年)ー1920年(大正9年)東京法学社(現・法政大学)の創立者の一人では日本の弁護士。1855年(安政2年)、豊後国杵築藩士の子として生まれ、1877年(明治10年)に代言人試験に合格し、法学塾の「法律学舎」を開いていた元田直の下で、訴訟業務に従事する。1879年(明治12年)に金丸鉄、薩埵正邦らとともに東京法学社を設立する。1920年(大正9年)に死去。墓は大分県杵築市の養徳寺にある。金丸 鉄(かなまる まがね)、1852年(嘉永5年)ー1910年(明治43年)は、日本の法学者。フランス法の流れを汲む法律家で、法政大学創立者の一人。豊後国杵築藩出身。法政大学の前身である東京法学社を設立した。金丸のほかに、同じ豊後国出身の伊藤修や薩埵正邦も設立に尽力した。19歳の時に上京。東京法学社設立以前には、独力で出版社「時習社」を設立し、1877年8月11日、時習社の社長兼編集長として日本最初の法律専門雑誌『法律雑誌』を創刊した。この頃、郷里の先輩で浅草に法律学舎を開いていた元田直と親交を結び、薩埵正邦とも知り合った。元田の助力を得て、元田のもとにいた代言人である伊藤修らとともに東京法学社を設立することになる。その後、大阪府で弁護士を開業、1886年(明治19年)に大阪府会議員に当選し、府会に『箕面公園新設の議』を提出し、箕面公園開設に尽力する。また、平民主義を持論とし、華族廃止論を唱道していた。法政大学創立者顕彰碑 杵築藩士 金丸 鐵 平成五年四月十日建立こちらの面にも、法政大学創立者顕彰碑 杵築藩士 伊藤 修元杵築藩士金丸鐵・同伊藤修両先生によって、明治十三年(1880)四月、フランス法学系の東京法学社が神田駿河台に創立された。これが、わが国近代法学の普及と発展に大きく寄与した法政大学の淵源である。金丸先生二十八歳、伊藤先生二十三歳のことであった。この功績を讃え、学恩を謝してここに銘記する。 法政大学台山の東にある守江湾。8:17時間が早くて天守へ登れず残念であったが、次の中津城へ向かうことに。 ー 続く ー
2022.01.23
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九州の旅四日目も陽が沈む。臼杵公園内には、文学碑・顕彰碑・歌碑・句碑等が多く建っていた。11月17日(水) 16:59二の丸居館庭園跡臼杵護国神社境内は、延宝3年(1675)に城主居館が移された場所です。 現在、地上遺構は全く見当たりませんが、わずかにその庭園の一部が、残されています。臼杵護国神社御祭神は稲葉良通ならびに歴代藩主と國家公共につくした人の神霊をお祀りしています。明治10年西南の役で戦死した臼杵藩士43名の御霊をお祀りするため、明治11年6月に招魂社が創建されました。後に事変や戦争で亡くなった御柱が祭神として祀られています。稲葉神社は稲葉家の祖、稲葉良通公(一鉄)を祭神として明治12年11月に創建された以後、歴代の15藩主も祀られています。昭和35年4月には、稲葉神社と招魂社を合併して社名を臼杵護国神社と改称され、御祭神は2000柱になります。臼杵護国神社は区切りがなくどこまでが境内なのか、よくわからない。右手前に、海軍中將軍医総監 河村豊州が奉納した砲弾がある。砲 弾 記 念 明治二十八年九月十七日 敬献 海軍中將軍医総監 河村豊州臼杵藩士として代々医業を業とする。河村三達(太順)と白須豊子の二男として、嘉永二年(1849)一月二十六日生まる。荘田氏及び白須両氏更に日田咸宜園等の塾にて漢籍を学ぶ。明治初年藩命により鹿児島にて同藩の学校に入り洋学を修め次で医学校に移り、英人教師ウィリス氏に就き医学を研究した。 明治八年 海軍中軍医となる 明治十年 西南戦役に功あり、海軍大軍医となり勲五等を受く 明治十五年 朝鮮事変に旗艦「金剛」に乗り同地に派遣さる 明治二十七年 軍医長として旗艦「松島」に乗り黄海海戦にて名誉の重傷を受く 明治二十八年 功四級金鵄勲章を賜わり九月十七日招魂社に砲弾と台座を奉納する (現在の砲弾は実物大レプリカ) 明治三十五年 従四位一等に叙せられ、予備役となる 退役後 貴族院議員 宮内省の要職を断り 北海道開拓に尽力する 昭和八年(1933) 十一月八日 八十五歳にて永眠 青山墓園に眠る 河村 豊 献納 神楽殿に掲げられていた扁額「稲葉神社」。左側には、陸軍歩兵中尉 平井富蔵が奉納した模造品の砲弾。顕彰 砲弾記念碑 明治二十九年四月奉納 陸軍歩兵中尉 平井富蔵 清國威海衛戦利品 威海衛の要塞砲 口径 二十三・四糎 弾の長さ 八十四糎 黄海海戦 明治二十七年九月十七日 威海衛占領 明治二十八年二月十二日 講和条約(下関条約) 明治二十八年四月 砲弾は昭和二十年終戦後地下に埋没されたが現在その場所不明 現砲弾は模造品 岡部鉄夫稲葉神社神楽殿臼杵市指定有形文化財 臼杵護国神社神楽殿 右を臼杵市指定有形文化財に指定する 平成二十年六月三十日 臼杵市教育委員会 明治四十二年十月 稲葉神社神楽殿及び神門を増築する臼杵護国神社の西方向だが、区切りがなくどこまでが境内なのか?。奉納された石灯籠が建ち並ぶ。大東亜戦争全般作戦図臼杵護国神社には、稲葉氏のほか後に事変や戦争で亡くなった御柱が祭神として祀られているので境内には、大東亜戦争関係の戦死者の名前も。大東亜戦争(第二次世界大戦) 硫黄島の玉砕 臼杵の人で死亡場所硫黄島と確認された人昭和二十年三月十七日、栗林中将は大本営に決別電を発した後みずから先頭に立っての攻撃にあたり、次の訓示を述べた。「いま日本は戦いに敗れたといえども、日本の国民は諸君の忠君愛国の精神に燃え諸君の霊に対し涙し黙祷を捧げる日がいつか来るであろう。安じて諸君は国に殉ずべし」硫黄島にて戦死せられた二万一千の英霊に対し後世の日本人が涙して感謝の誠を捧げることを固く信じていたのである。大本営に決別電 国の為重き勤めを果たし得て矢弾尽き果て散るぞ悲しき 仇討たで野辺には朽ちじ吾は又七度生まれて矛を執らむぞ 醜草(しろくさ)の島に蔓るその時の皇国の行く手を一途に思ふ平成六年二月初めて硫黄島の土を踏んだ天皇はこう詠った 精魂込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき 「散るぞ悲しき」梯久美子より大東亜戦争(第二次世界大戦)馬締安正命馬締安正命は、大正十五年一月十九日馬締兵市、チョの三男として臼杵市大字戸室に出生。市浜尋常小学校臼杵高等小学校を卒えて昭和十七年四月東京陸軍航空学校に入学。引続き熊谷陸軍飛行学校第十四期少年飛行兵として修学、昭和十九年七月同校卒業。台湾第八飛行師団所属誠百十四飛行隊特別攻撃隊員として訓練を受く。昭和二十年四月二日沖縄慶良間列島西側海域において未艦船群に体当り攻撃敢行戦死を遂げる。同日陸軍少尉に昇進正八位勲六等功四級を賜る。 遺 書実父 馬締兵市様 皇国危難の時新任務が下りました。報国の秋来る嬉しく任務に服す国のため何か惜しからん。 死して甲斐ある命なりせば家の内ご一同様増産にお励み下さい。 ご健康をお祈りします。実兄 馬締中尉殿 弟も栄ある任務が下りました。報国の秋来る嬉しく任務に服す。兄上弟はお先に失礼いたし ます。兄上には初志を貫徹して下さい。初志貫徹せば満足に感じます。先に弟は亡母のとこ ろに行きます。 臼杵市久保馬締家にある「石碑文」より武功抜群木梨鷹一(たかいち)海軍少将の戦死鷹一は、明治35年3月7日 臼杵町野田753番地で生誕した。大正9年臼杵中学から、当時受験競争率最高30倍に達したと言われる海軍兵学校に進学(海兵51期生)、大正12年卒業。昭和5年航海学校航海学生(大尉)となり同6年に卒業後、潜水艦航海長になったが、同12年11月海軍少佐となり、同15年3月潜水学校甲種学生を命ぜられた。卒業時には、成績優秀により恩賜の銀時計(各種学校首席卒業者に天皇が与える銀製の時計)を拝受している。太平洋戦争勃発するや、潜水艦長として各海洋に進出し転戦偉功を奏す。伊号19潜水艦長として、昭和17年9月15日ソロモン海峡で敵機動部隊を捕捉し、魚雷6本を発射うち5本命中で敵空母ワスプを撃沈、戦艦ノースカロライナ、駆逐艦オブライエンを大破させた。昭和18年11月には、重大な使命を負いドイツへ向かった。インド洋上で補給船から補給を受け、昭和19年3月11日フランスのロリアンに入港。そこで、新兵器操作技術の習得のほか、ジェット機の設計図等新世代兵器設計資料を受取った。その時の軍服には、ヒトラーから贈られた二級鉄十字勲章が輝いていた。87日を経て、7月12日シンガポールに入港。空輸可能な設計資料は、巌谷技術中佐が取りまとめ空路帰国。7月26日にバシー海峡で米潜水艦と遭遇、鷹一の乗った艦は魚雷を受けて沈没した。この旨が上聞に達し、生前の殊勲を嘉せられ二階級特進海軍少将に任ぜられた。行年43歳。 「近代臼杵人物辞典」より木梨鷹一さんは、戦記の中にもよく出てくる、有名な潜水艦長である。会所櫓跡の石垣会所櫓跡会所櫓跡から陽の沈んだ西の山を望む。海添(かいぞえ)地区会所櫓跡から東側にある、臼杵護国神社を振り返る。東の空を見上げると、満月前の月がのぼる。大門櫓を出て正面に畳櫓二の丸西側下に、時鐘櫓跡(ときかねやぐらあと)があり、鐘楼が建つ。時鐘櫓跡稲葉氏入城後に造られた時報施設です。元禄14年(1701)に時鐘櫓が二王座に移されるまで鐘が置かれ、臼杵城下に鐘で時を報せていました。この櫓を造る直前の整地層からは、十字架を刻む軒瓦が出土しています。この時報櫓の鐘は「原山時鐘(はらやまときかね)」といいます。鐘に刻まれた銘によると、元禄十三年(1700)に鋳造されたとあります。その後、寛政二年(1790)に改鋳され、江戸末期までは原山時鐘堂(二王座)で時を告げていたものと記録に残っています。明治六年(1873年頃)の臼杵城廃城後、この「原山時鐘」が臼杵城跡畳櫓横へ移され、その後も昭和末期まで、鐘の音を聞くことができました。しかし、いつの頃からか鐘の撞き手がなくなり、「鐘の音」は途絶えたままとなっていました。平成二十年(2008)臼杵城跡西ノ丸鐙坂の土塀復元に際し、この鐘は畳櫓横から約百四十年ぶりに、ここ時鐘櫓跡に置かれたが、鐘の音が復活することはありませんでした。そこで、平成二十二年(2010)六月、臼杵ロータリークラブは、創立五〇周年記念事業として、鐘の音を復活するため、「時報楼」の整備を行いました。遠い元禄の昔から、うすき市民の思い出に刻まれつづけた鐘の音を感じていただければ幸いです。時鐘櫓跡から、南側にある「畳櫓」を望む。陽が沈み点灯された、臼杵市観光交流プラザを見下ろす。夕闇生えるピンクの花。明日の天気もよさそうだ。鐙坂を下り、壁面には穴跡があり石で塞いでいたが、防空壕跡か?古橋から内堀、カモの巣箱。内堀にカモが泳ぎまわる。うすき市のおすいマンホール蓋西暦1600年に臼杵湾に漂着したオランダ船リーフデ号と市の木 カボスのデザイン。下縁右に「うすい3」の文字が入っており、汚水用も含め「1」~「3」の数字や「B」等の文字が用途を示す文字の後に付加されている。臼杵城跡の西側にある、大手門公園。17:16大手門公園前の交差点から畳櫓、大門櫓を見上げる。畳櫓、大門櫓をズームアップ。臼杵市観光協会前の交差点。吉丸一昌像大手門公園に立つこの像は、「早春賦」を作詞した吉丸一昌。畳櫓、大門櫓をバックに吉丸一昌は明治六年(1873年) 大分県北海部郡海添村(臼杵市海添)の下級士族の家に生まれた。小学校尋常科から小学校高等科卒業までの成績は非常に優秀で、1889年大分中学(現大分県立大分上野丘高等学校)に入学、1894年に卒業した。臼杵学校、大分中学校(上野丘高校)を卒業後、第五高等学校(熊本大学)へ進学。ここで教授夏目漱石と出会う。その後、東京帝国大学(東京大学)国文科へ進む。修養塾、下谷中等夜学校(東京都台東区)を開設し、貧しい青少年の生活支援と教育活動を終生行う。卒業後、東京府立第三中学校(両国高校)の教諭を務め、芥川龍之介を教える。明治41年東京音楽学校(現京芸大)教授に招かれ、文部省から唱歌の編さん委員に任命される。 明治45年新作唱歌全10集を発表。この中に吉丸の作詞した「早春賦」(作曲 中田章)「故郷を離るゝ歌」が収録されている。1916年(大正5年)42歳の若さで他界した。 没後100年を記念して 2016年記。夫人の実家に吉丸一昌記念館があり、当時の遺品や楽譜などゆかりの品々が展示されている。吉丸一昌先生の生いたち 出生 明治六年九月十五日 臼杵市海添(現在) 学業 臼杵尋常高等小学校 ~ 大分中学校 ~ 第五高等学校 ~ 東京帝国大学国文科 明治三十四年七月卒業 職歴 東京府立第三中学校教諭 東京音楽学校(現東京芸大)教授 大正五年三月七日逝去(四十二才)先生は、性質極めて磊落、常に故郷を愛し、苦しい生活の中にも向学の志を抱いた苦学生の為に、修養塾を作り修学の便を与えられ、又「成功の華は墓前に咲く」を信条とし、日常の訓戒とされていた。文部省唱歌の編集委員でもあったが、自らも編集し、新作唱歌十冊を刊行した。我が国音楽教育に大いなる貢献をされ、童謡運動の暁鐘を鳴らされた。 「早春賦」は春を待ちわびる心であり「故郷を離るる歌」と双璧をなす傑作で、広く愛唱されている歌である。先生が、こよなく故郷を愛されたように、我々もとこしえに先生の功績を称え、郷土の限りない誇りとして顕彰するものである。 昭和五十五年四月二十日 臼杵ロータリークラブ。早春賦 吉丸一昌 作詞 中田章 作曲 春は名のみの 風の寒さや 谷のうぐいす 歌は思えど 時にあらずと 声も立てず 時にあらずと 声も立てずこの歌は、倍賞千恵子、由紀さおり姉妹、三輪明宏、芹洋子、さだまさしをはじめ、最近の若手では三山ひろし等多くの歌手が唄っている。17:26畳櫓の上に月が載る。カメラの設定を変更して撮影。17:30臼杵城を後にし、カーナビを今夜の宿泊ホテル「ホテル日航大分オアシスタワー」にセット。18:11カーナビはホテルの到着予定は、18:33、残り距離 11kmと。18:18道路は退社時間帯で渋滞。18:44途中ホテルの到着予定は、18:33 であったが渋滞が激しく遅れる。19:50ホテルへ到着後、ホテル紹介の駐車場を探すが一方通行が多く時間を要した。ホテル日航大分オアシスタワー所在地:大分県大分市高砂町2丁目48受付では検温、消毒とコロナ感染対策を徹底していた。大分県と言えば別府だが・・・・・。部屋はツインルーム温泉もなく部屋の風呂に入り、宴会も部屋食で。途中ローソンでつまみを追加で購入、旧友からいただいた昨夜の残りの鶏をつまみに最後の夜を楽しんだ。今日は、宮崎から大分まで一般道を走り北上したが走行距離は 216kmであった。歩行数は延岡城、佐伯城、臼杵城と歩きまわったので 17,000歩。 4日目END ー 5日目へ続く ー
2022.01.22
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臼杵城跡(臼杵公園)の黄色(丸部分)の散策を続ける。城跡は現在臼杵公園として整備されており、春には約1,000本の桜が咲き誇る県南有数の花見スポットとなっています。11月17日(水) 16:38二の丸跡の東側にある、「大友宗麟公碑」大友宗麟のレリーフ大友宗麟公大友宗麟(義鎮)(1530~1587)は、九州六ヶ国の守護職から九州探題職となり九州随一の覇者として、内外にその名を高め1562年には丹生島に城を築き臼杵から天下に号令を下しました。このときから臼杵は、名実ともに政治経済の重要地として注目をあつめました。また宗麟は、キリスト教を信じポルトガル、イスパニアなどとの交易を開き、当時臼杵は往来する外国船や城下町につどう外国人などでにぎわい、異色の国際都市として発展しました。その宗麟の偉業を偲んで、1937年郷土出身の彫刻家日名子實三氏によりブロンズのレリーフが製作され、城跡に建設されておりましたが、第二次世界大戦(1944)での軍事資材として政府に献納され、その雄大な人物像も姿を消しておりましたものを、1982年京都嵯峨美術短期大学の辻浩氏の手によってここに復元製作されたものであります。 昭和五十七年十二月 建立 臼 杵 市稲葉良通(一鉄)公一鉄の祖父・稲葉塩塵(通貞)は伊予国の名族越智河野氏の一族で、美濃に流れ国主土岐成瀬に仕えて土豪になったとされている。永正12年(1515)、一鉄は稲葉通則の六男彦六(良通)として、美濃国に生まれる。幼少時に僧侶となり学んでいたが、大永5年(1525)に父と五人の兄たちが全て牧田の戦いで浅井亮政と戦って戦死したため、還俗して家督と曽根城を継いだ。はじめ土岐成瀬の子土岐頼芸に、次にそれを追い出し継承した斎藤利政(道三)に仕え、西美濃三人衆の一人として活躍する。永禄10年(1567)に三人衆は道三の娘婿でもある織田信長へ内応し、道三の孫龍典が稲葉山城の戦いで美濃からの敗走を決定的にした以後、信長に従う。・・・・・中略・・・・・天正16年(1588)11月19日、美濃清水城にて死去。享年74。後を子の稲葉貞通が継いだ。一鉄は敬神崇祖の心も厚く伊勢神宮への寄進や寺の建立保護に努めた。又歌道や茶道のみならず、医道においても造詣が深く、覚書きを伝えている。頑固な一面がありそのことから号の「一鉄」にかけられて、「頑固一徹」の言葉が生まれたとされている。文武両道、智勇兼備の名将と言われる由縁である。臼杵では廃藩にあっても、なお一鉄の威徳を仰ぎ稲葉神社を設立した。稲葉歴代藩主とその時代村瀬庄兵衛政績碑村瀬庄兵衛政績碑この石碑は、天保二年(1831)臼杵藩の藩政改革の総元締に抜てきされ、藩財政の建直しを成功させた村瀬庄兵衛の功績を永く讃えるために建てられたものです。この碑には、藩が多額の借金を抱え、赤字財政で困窮し、その建直しを迫られていた時、担当責任者として抜てきされた庄兵衛が、「量人制出」の制度を採り入れ、無駄を省き、殖産にも力を注ぎ財政再建に努めたこと。さらに学古館及び講武場を設け、学問や武技を習わせ、人材育成に努めたことなどが記されています。臼杵公園内にはいろんな像、句碑等があった。「廃墟」の像ズームアップ。「廃墟」の像臼杵市出身の彫刻家・日名子実三(ひなごじつぞう)(1893~1945)の手によるこの「廃墟」は、実三自身が大正九(1920)年発行の「美術写真画報第一巻第十号」で述べているように俊寛という平安時代の僧侶がモデルです。俊寛(しゅんかん)は同士とともに平家打倒を目指していましたが、安元三年(1177)この密議(鹿ケ谷の陰謀)が平家に見つかり、俊寛は同士とともに薩摩国(鹿児島県)喜界島(硫黄島)に流され、そこで不運の生涯を送りました。実三は俊寛への思いと、自らの中にある頽廃的な気分をこの彫刻で表しました。実三は旧制臼杵中学校(現・臼杵高等学校)から東京美術学校彫刻科(現・東京芸術大学)に進み、朝倉文夫に師事するなどして次々と作品を発表しますが、創作活動の後期においては、スポーツに関心を強く持ちはつらつとした健康的な作品も製作しています。 臼杵市教育委員会二の丸跡から東方向に進み、空 堀(南側)本丸と二の丸を隔てる空堀で、大友時代からの北側堀と、17世紀初頭に造られた南側堀があります。南側堀は稲葉氏入城まで、大手門から本丸に至る登城路としても使われていました。空堀(北側)に石垣が残る。本丸跡に植えられたサクラ。本 丸(ほんまる)江戸時代、空堀から東側の一帯を「本丸」と呼んでいました。この一帯が大友氏時代にどのような姿だったのかはっきりしていません。ただ、江戸時代の二之丸よりも標高が低いところにあるため、大友氏の時代には、こちらが二之丸だった可能性があります。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、稲葉氏が城主となりましたが、初代藩主・稲葉貞通と典通(のちの2代目藩主)は本丸防衛のため、空堀を整備し、二之丸方面から本丸の入口に渡る土橋を設けました。土橋を渡るとすぐのところに鉄門という櫓門をもうけ、本丸の出入口を固めました。空堀は、天守櫓から見おろす位置とし、二之丸からの進入に備えたのです。明治維新後、公園として整備され、今のような姿となりました。 臼杵市教育委員会本丸の建物江戸時代に入り平和が続くと、藩主が政務を執行する空間(「表」)と、藩主の生活空間(「奥」)としての機能を持つ「本丸御殿」が中心的な役割を担いました。「表」も「奥」も「書院造り」を基本としていました。現在残されている絵図(指図)によると、「表」(茶色部分)には「御広間」「大書院」等、政務遂行や儀礼に使われた部屋が見られます。「御広間」等からは「御舞台」が見える構造になっています。舞台は主に能に使われていたと考えられます。一方、「奥」(青色部分)には、「御座間」と呼ばれる藩主の部屋があります。本丸北側の崖ぎわには「御湯殿」が設けられ、現在で言う展望風呂のような状態になっています。本丸御殿は、城下町や三之丸(現在の祇園洲地区など)から離れ、不便だったこともあり、延宝4年(1676)、主な機能を二之丸(西の丸)御殿に移転しました。臼杵城の石垣 ー 鉄門枡形石垣(くろがねもんますがたいしがき) 大分県史跡 臼杵城跡 臼杵市大字臼杵九三番地一正面に見える石垣は、臼杵城本丸の入り口にあたる鉄門の枡形石垣で、枡形北側部分の石垣は大正時代に撤去されました。城の心臓部に当たり、防衛的にも格式的にも高さが求められたこの石垣は、臼杵城のほかの石垣より大きな築石(石垣を構成する石材)が用いられています。ひときわ大きな「鏡石」を中央に置くという技法は、角石が長さの長短を規則的にそろえる算木積みの技法とあわせ、十七世紀初頭から主流になった積み方で、稲葉氏が城主となった直後の改修で築かれた石垣とみられます。 臼杵市教育委員会鉄門枡形石垣(くろがねもんますがたいしがき)算木積み角の部分に長方形に加工された石が長短交互に積まれています。鏡石石の表面が鏡のように平らなことからつけられたようです。卯寅(うとの)稲荷神社大友宗麟公が築城の際、卯寅口に建立した。石柱に「これより北 卯寅口」と。卯寅稲荷神社の由来永禄五年(1562)大友宗麟公は丹生島に築城、卯寅口は城中の鬼門にあたるため外郭崖上に・・・字が消えていて残念ながら判読できず。 大祭日 四月・十一月 昭和六十年十一月吉日 卯寅稲荷神社奉賛会卯寅稲荷神社拝殿、狛犬。朱色の鳥居が並ぶ、遠く、臼杵湾に津久見島が浮かぶ。卯寅稲荷神社の東側下に、卯寅口門脇櫓が建つ。津久見島は臼杵湾の沖合い約7kmにぽっかりと浮かぶ島。「おにぎり島」と呼ぶ人もいるほど市民に愛されている島である。古くは、臼杵七島の一つ「竹生島、竹島」と呼ばれていた。卯寅口門脇櫓(うとのくちもんわきやぐら)寛永年間に再築された櫓で、鉄砲薬櫓とも呼ばれ、火薬庫としても使われていたようです。1階と2階の床面積が同じ「重箱造り」という古式の構造で半地下式となっています。天守櫓跡天守櫓(てんしゅやぐら)この場所にはかつて、3層4重(外観3層、内部4階)の天守櫓がありました。細菌の発掘調査によって、はじめて天守櫓が造られたのが豊臣秀吉配下の福原直高が臼杵城主であった、文禄3年~慶長2年(1594~1597)ごろである可能性が高くなっています。その後、稲葉氏により天守櫓が何度か修理された記録があります。このうち明暦元年(1655)の修理は大規模なものであったようで、天守櫓本体だけでなく、本丸の北西隅部の付櫓(天守櫓に付属するやや小規模な櫓)がそれぞれ独立的に建てられていたものを、すべて櫓でつなぐように改築されたことが江戸時代の臼杵城絵図と発掘調査の成果から判明しました。天守櫓がどのような形状であったかは、正確な図面が残っていないためわかりませんが1階の平面が6間四方(約11.7m)、土台部分から最上階(4階)までの高さが6間1尺(約12.0m)であったことが記録されています。ここでは発掘調査で判明した天守櫓と付櫓の位置を、一段高くして表示しています。臼杵城絵図 天守部拡大(幕末頃) 本丸指図の天守櫓・付櫓部分=延宝4年(1676)頃天守台石垣天守台石垣の角石(石垣の角部の石)、築石(角石以外の石)は、その表面を特に加工せず、ほぼ石山で割った状態のまま積み上げる、野面積みと呼ばれる工法をとっています。一見、乱雑な積み方にも見えますが、この築石の奥行き(胴長)は表面の長さの1.5倍以上もあり、表面から見えないこの奥の部分で石どうしがしっかりとかみ合っているため、非常に頑丈な造りとなっています。これに対して臼杵城内に現在も残る石垣の大半は、天守台が造られたあとの江戸時代に積まれたものですが、これらのほとんどが天守台石垣の積み方と違い、築石の表面だけでかみ合わせる積み方になっています。見た目は整っていますが、天守台石垣ほど強度がないと考えられています。 臼杵市教育委員会本丸跡の南側から、卯寅口門脇櫓を見下ろす。卯寅口門脇櫓の下にある、「井戸丸」本丸跡の石垣、亀首櫓(かめくびやぐら)方向の東側。本丸跡から階段を下り「井戸丸」。井戸丸の奥に、地蔵と祠。井戸丸この井戸は、寛永年間に掘られた井戸で、深さが10メートル以上あり、昭和25年頃までは大きな木製の滑車をつけて水を汲んでいたが、今は使われていません。またこの井戸は、水量も豊富で海が近いにもかかわらず真水がでていました。井戸前から卯寅口門脇櫓を見上げる。卯寅口(うとのぐち)いわゆる「搦手口」と呼ばれる城の裏門にあたるところで、井戸が設けられていたことから「井戸丸」とも呼ばれていました。本丸・二之丸があった場所は、かつて「丹生島(にうじま)」と呼ばれ、周囲を海に囲まれていました。卯寅口には海へ通じる「卯寅口門」や階段が設けられていました。緊急時はここから船を出して、海へ脱出することを考えていたようです。「卯寅口」の名前の由来は、大友宗麟が築城時に「卯寅」の方角(ほぼ東北東)に向けて門を造ったからであると記録には書かれていますが、なぜ「うとのぐち」という読み方なのかは定かではありません。なお、港町側から現在の卯寅口明神への参道は、明治以降に新たに開削された道です。卯寅口門脇櫓(うとのぐちもんわきやぐら)卯寅口門脇櫓の外観は二層、内部は三重、外壁は漆喰下見坂張り、屋根は切妻屋根の櫓です。現在の櫓は、棟札から嘉永7年(1854)に建てられたことがわかりましたが、17世紀前半の城絵図には既にその姿が描かれていることから、江戸時代の間に何度か建て替えられたと考えられます。延宝4年(1676)ごろの本丸御殿指図(当時の平面図)を見ると、「御鉄炮薬櫓」と記されており、その機能も時期によって変わっていったようです。 臼杵市教育委員会未公開の、卯寅口門脇櫓臼杵城の石垣 ー 武具櫓台石垣(ぶぐやぐらだいいしがき) 大分県史跡 臼杵城跡 臼杵市大字臼杵九三番地一この石垣は、臼杵城本丸の西南隅に築かれた、武具櫓の櫓台石垣です。西面は空堀底から立ち上がるおよそ七メートルの高さを持ちます。現在はこの櫓台石垣の南面が壊されて道路となっていますが、江戸時代は絵図のように堀の東面を仕切るような形状をしていました。しかし、壊されているおかげで、当時の石垣がどのように積まれているのか、断面を観察することができます。稲葉氏の臼杵城改修期である1600年代初頭に、空堀が造られたのに伴って築かれ、その後に何度か修理されているようです。 臼杵市教育委員会空堀の南側から北方向を見る16:54夕日が沈む。本丸跡から二の丸跡へと進みその北側にいろんな文学碑・顕彰碑・歌碑・句碑等々が建っていた。野上弥生子文学碑。左の石碑には彼女の作品「迷路の」一節が刻まれている。野上 弥生子は、日本の小説家。大分県臼杵市生まれ。夏目漱石の紹介で『縁』を発表して以来、写実主義に根差す作風と、理知的リアリズムとで市民的良識を描き続け、明治から昭和末期まで80年余の作家活動を行った。芸術院会員。文化勲章受章。河崎義教先生剣道記念壽表 明治三十五年八月有志建之河崎先生は剣道の先生であったようだが。文学碑・顕彰碑・歌碑・句碑等々が建ち並ぶ。勤皇臼杵隊之碑碑の台座に、明治十年六月一日薩軍三千臼杵ニ迫ル 舊臼杵藩士八百之ヲ撃退シテ利アラス 死スル者四十三當時薩将西郷ノ勢望天下ヲ壓シ 人皆歸趣ニ迷フノ時 臼杵藩士ハ克ク順逆ヲ誤ラズ 必死ヲ期シテ寡以テ衆ニ敵ス 其ノ勤皇ノ精神ト悲壮ノ決意トハ 灼乎鬼神ヲ哭カシム 郷黨ノ有志時勢ニ鑑ル所アリ 茲ニ碑ヲ建テ以テ其ノ忠烈ヲ後昆ニ貽サントス 昭和十七年六月 臼杵隊義戦顕彰會 戦死者 片切八三郎 遺 腹 中根貞彦撰竝書 個々の説明板が建っていた、勤皇臼杵隊之碑この碑は、明治十年(1877)に起きた西南戦争において、順逆を誤らず大義のために郷土を守り、東上してきた薩軍と戦い、その進撃をはばみ敗走させたものの、この臼杵における戦いにおいて、尊い命を落した臼杵隊隊士四十三名の功績を永く伝えるために建てられたものです。当時、臼杵に侵攻してきた薩軍の数は約三千人、これを迎え撃った臼杵隊は七百八十五人、来援の警視隊百人と薩軍の三分の一にも満たない人数であったと記されています。16:56中根貞彦歌碑歌碑には、「父のみの父は吾をみず ははそばの母はわが知らず 恋しき父母」。説明看板の字は薄くなり、中根貞彦歌碑この碑には、次のような歌が刻まれています。 父のみの父は吾をみず ははそばの母はわが知らず 恋しき父母中根貞彦氏は明治11年(1878)二王座の片切家に生まれました。早く父母を亡くしたため、父母の顔を知らずに育ち、十五歳で佐伯の中根家の養子に入り、昭和八年(1933)には三和銀行の初代頭取に就任しました。また、アララギ派の歌人としても知られ、早くして亡くした父母に対する深い○○の〇を歌に詠んでいます。佐伯城の佐伯文化会館の前庭にも、中根貞彦の歌碑が建っていた。16:56この碑は、松尾芭蕉の句碑であろう、「稲妻や 闇の方行く 五位の聲」。この説明板も字が薄くなり判読できず、松尾芭蕉の歌集から、「五位」は五位鷺(ごいさぎ)のこと。夜行性があり、夕方、不気味な声を出して飛ぶ。稲妻が発している方角は黒雲が立ち上り、そこが無気味に光っている。その反対側の空は闇の暗さだ。その中を飛んでいるのであろう五位鷺が不気味な声を張り上げなら渡っていく。この五位鷺の姿は見えないと。夕日が沈み旅友は急いで丘へと急ぐ。16:58露出をかえて撮影。 ー 続く ー
2022.01.21
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臼杵城のスタンプを頂き城内散策へ。臼杵城はキリシタン大名大友宗麟により、臼杵湾に浮かぶ丹生島に永禄5年(1562年)に築かれ、江戸時代は稲葉家が治める臼杵藩五万石の城として幾多の歴史を積み重ねてきました。当時は海に囲まれた城でしたが、現在は埋立により陸続きになっています。その城跡は現在臼杵公園として整備されており、春には約1,000の桜が咲き誇る県南有数の花見スポットとなっています。11月17日(水) 16:20臼杵市観光交流プラザ前から、臼杵城を見上げる。中央に復原された「大門櫓(だいもんやぐら)」、右に現存する「畳櫓(たたみやぐら)」。臼杵城正面(空撮)手前の橋は現存する石橋の古橋。古橋口から白い土塀が続く。鐙坂を登って右端奥の畳櫓(現存)の前を通って左に曲がり、中央奥の大門をくぐると二の丸へ出る。観光交流プラザ前に立つ像、臼杵っ子の足元にフグ。台座に、「臼杵っ子と 福呼ぶ一番魚(ふぐ)」。臼杵城散策マップ左下の黄色の矢印から城内へ登城。古橋口から、大門櫓、畳櫓を見上げる。内堀に架かる、古橋(ふるはし)。古橋口と鐙坂(あぶみさか)大友時代から登城路として使われていた道で、外敵を防ぐため岩を掘り切って造った狭い道です。馬の鐙に似ていることから、「鐙坂」と呼ばれました。太田氏時代には内堀をまたぐ橋が掛けられ、稲葉氏時代に「古橋」と呼ばれていました。古橋口から北側。古橋口に立つ石灯籠。左側に、「臼杵護国神社境内地」、鳥居には、「奉納 平成十年十月吉日」。大分県指定史跡 臼杵城跡臼杵城は弘治2年(1556)、大友義鎮(宗麟)によって建てられた城です。臼杵城が築かれた丹生島は、文字通り元々は臼杵湾に浮かぶ島でした。守りの堅いその地の利を生かして、この地を城郭にしたと考えられます。大友氏改易後は、福原直高、太田一吉と城主が替わり、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、稲葉氏が臼杵藩5万石余の主として、臼杵城に入ります。以後、明治維新まで臼杵藩は稲葉氏によって支配されました。その後、明治新政府の廃城決定により、卯寅口(うとのくち)門脇櫓、畳櫓以外の建物はすべて破壊され、公園化されました。現在は臼杵の歴史のシンボルとして、皆さんに親しまれています。 臼杵市教育委員会臼杵城下絵図 寛永13年 ~ 万治3年頃(1636 ~ 1660) 上が北側臼杵城下絵図(幕末)当初は海に囲まれた城でったが、三之丸の東側が埋立てされたようだ。明治初期の臼杵城大手口現在の臼杵市街地地図 築城当時は海に囲まれた城であったが、現在は埋め立てられて陸続きになっている。 古橋口から鳥居をくぐると、二の丸へはここから左に折れ狭い坂へと。卯寅(うとの)稲荷神社の案内。鐙 坂外敵を防ぐため岩を掘り切って造った狭い道で、馬の鐙に似ていることから「鐙坂」と呼ばれた。坂道の幅は1メートルそこそこであったか。岩を掘り切って造った狭い坂道を振り返る。波打つ白塀と畳櫓。岩を掘り切って造った狭い道を抜けると広い道に。鳥居が建っている場所は「中門櫓跡」、建物は現存する「畳櫓」。左には「中門跡」の石柱、中門の礎石。畳櫓(たたみやぐら)天保年間に再建された櫓で、1階と2階の床面積が同じ「重箱造り」という古式の構造をしています。解体修理の際に、下見坂で隠された銃眼「隠し狭間」のあることがわかりました。畳櫓の左側の石垣は、井楼櫓台石垣(せいろうやぐらだいいしがき)。左側:井楼櫓台石垣、正面:畳櫓井楼櫓台石垣の西面の高さは約四メートルと高い。臼杵城の石垣 ー 井楼櫓台石垣 大分県史跡 臼杵城跡 臼杵市大字臼杵九三番地一正面に見える石垣は、臼杵城二の丸西南端に築かれた、他の櫓に比べかなり規模が大きかった井楼櫓の櫓台石垣です。西面石垣の高さは約四メートル、東面石垣の高さは約二メートルです。この石垣の西南隅は鞘石垣(さやいしがき)という、二重の角を持つもので、臼杵城ではここだけにみられる特徴です。この石垣の角に積まれた角石は、本丸の天守台石垣と同じように、大きさや積み方が不揃いで、第二十二代当主 大友義統(宗麟の長男)が改易された後に入城した、福原直高か太田一吉の頃である、1590年代に築造されたと考えられます。ここは臼杵城下を一望できる絶好の位置なので、奥まった位置にある天守の代わりとして比較的早い時期に櫓が置かれたと思われます。 臼杵市教育委員会稲葉氏の城郭改修帯曲輪(おびぐるわ)大友氏時代から太田時代(1556~1600)にかけて、臼杵城二之丸、本丸に入るには、城下町に面した入口から鐙坂を通り現在の弓道場の横を抜けて城の東部にある空堀にたどりつき、そこから上がるという大変遠回りをするコースをたどっていました。稲葉氏の入城直後、町場に近い位置に登城口があるのは防衛上不安があったためか、新たに三之丸のやや奥まった部分に登城口を設け二之丸へと上がる間に中之門、上之門と呼ばれる門と枡形を造るという守りの堅い城内通路が整備されました。これによって旧来の道は上之門を境に2つに分断され、畳櫓から上之門に至る空間は帯のように細長いものであることから帯曲輪と呼ばれるようになりました。また、この新しい登城口を今橋口、それ以前の鐙坂の登城口は古橋口と呼ぶようになったのもこの頃からです。 畳櫓(たたみやぐら)畳櫓は、桁行4間(7.92m)、梁行3間(4.44m)の2階建て、入母屋造りの屋根を持つ櫓です。この櫓は正保年間(1644~1648)頃に建てられたのが始まりのようです。宝暦13年(1763)の大火で焼失しましたが、その再建は明和年間(1764~1772)頃ではないかと推定されます。「畳櫓」という名称については、祇園社(現在の八坂神社)から見た方角(たつみ)が由来とする説や、中に畳が敷かれていたからという説等がありますが、はっきりした由来は不明です。 臼杵市教育委員会 臼杵城絵図(延宝4年=1676年)。大門櫓(だいもんやぐら)17世紀初頭に城内通行の利便を高めるために造られたと思われる櫓門で、17世紀後半に二の丸居館ができると玄関口のような存在になりました。平成12年に模擬復原建物が整備されました。両脇の石垣は18世紀後半とみられる「亀甲積(きっこうづみ)」です。石段下から大門櫓を見上げる。両脇の石垣は18世紀後半とみられる「亀甲積(きっこうづみ)」です。亀甲積とは、石材を六角形に加工して積み上げる切込み接ぎの石垣の一種である。亀の甲羅の模様に見えるためこう呼ばれる。力が均等に分散するため、崩れにくいが、江戸後期に低い石垣に用いられた例のみである。沖縄のグスクでは、相方積みともいわれる。大門櫓前から振り返る。県指定史跡臼杵城跡 大門櫓大門櫓は、稲葉氏入城直後の十七世紀初頭に建てられたもので、宝暦十三年(1763)の大火で焼失した後、明和五年(1768)に再建され、明治初年の廃城に際して取り壊されるまで、その威容を誇っていました。復元にあたっては、現存する二基の櫓、宝暦大火以降の古絵図、明治初年の写真、発掘調査の写真などを参考にし、櫓門形式、二枚開、開戸、・・・・・中略・・・・・この大門櫓復元を契機に、ここを訪れる方々が往時の臼杵城の雄姿をしのびつつ、この城郭史跡の保護と城下町景観の保全についてなお一層の理解と関心を寄せていただくことを願ってやみません。 臼杵市教育委員会二の丸跡に建つ鳥居の扁額は、「臼杵護国神社」。二の丸跡の南西隅にある、「井楼櫓跡(せいろうやぐらあと)」こちら側の東面石垣の高さは約二メートルだが、登り口の西面の高さは約四メートルと高い。井楼櫓跡にある、城下町(西方向)の眺望写真左から、海添(かいぞえ)地区、二王座地区、平清水地区、町八町地区、祇園洲地区。井楼櫓跡の上から北方向にある「大門櫓」。同場所から、車を駐車している西側下の「臼杵市観光交流プラザ」を見下ろす。南方向の山の中腹を走る東九州自動車道。臼杵城の歴史(室町時代、安土・桃山時代、江戸時代)弘治2年(1556) この頃までに大友義鎮(よししげ)が丹生島に城を築く。永禄6年(1563) 大友義鎮が出家し宗麟と名乗る。天正6年(1578) 日向に出兵するが高城川の戦いで大敗。宗麟、キリスト教の洗礼を受ける。天正8年(1580) この頃、イエズス会修練院・聖堂が臼杵城下に建立される。天正10年(1582) 宗麟、キリシタン大名大村純忠、有馬晴信らと共に少年遣欧使節をローマに 派遣する。天正14年(1586) 島津軍が臼杵に侵入。宗麟は、臼杵住民を臼杵城に避難させる。天正15年(1587) 宗麟、津久見で没する(58歳)。天正16年(1588) 臼杵城及び城下が全焼する。宗麟死後、臼杵城は府内城(長男義統が城主)の 支城となる。文禄3年(1594) 福原直高、臼杵城主となる。はじめて天守櫓建てられる。慶長2年(1597) 太田一吉、臼杵城主となる。また、城郭の大改修を行う。この時期に祇園洲 「三の丸」となる。慶長5年(1600) 稲葉貞通(さだみち)、美濃国郡上八幡城主から臼杵城主となる。臼杵城の歴史(江戸時代)慶長8年(1603) 稲葉典通(のりみち)、二代臼杵城主となる。寛永4年(1627) 一通(かずみち)、三代臼杵城主となる。寛永18年(1641) 信通(のぶみち)、四代臼杵城主となる。延宝元年(1673) 景通(かげみち)、五代臼杵城主となる。元禄7年(1694) 知通(ともみち)、六代臼杵城主となる。宝永3年(1706) 恒通(つねみち)、七代臼杵城主となる。享保5年(1720) 董通(まさみち)、八代臼杵城主となる。元文2年(1737) 泰通(やすみち)、九代臼杵城主となる。臼杵城の歴史(江戸時代末期から明治時代)明和5年(1768) 弘通(ひろみち)、 十代臼杵城主となる。寛政12年(1800) 雍通(てるみち)、十一代臼杵城主となる。文政3年(1820) 尊通(たかみち)、十二代臼杵城主となる。 文政4年(1821) 幾通(ちかみち)、十三代臼杵城主となる。弘化元年(1844) 観通(あきみち)、十四代臼杵城主となる。文久2年(1862) 久通(ひさみち)、十五代臼杵城主となる。明治2年(1869) 各藩、版籍奉還を行う。明治4年(1871) 廃藩置県により、臼杵藩が臼杵県となる。夕日に映えるピンクのこの花は?。二之丸(にのまる)江戸時代、空堀から西側一帯を「二之丸」あるいは西の丸と呼んでいました。臼杵城は、大友宗麟によって建設されましたが、その当時の「二之丸」の姿は明らかではありません。しかし、近年の発掘調査では、弘治3年(1557)、天正16年(1588)の火災で焼けた土層が確認されましたが、天正の火災層からは瓦が一点も出土していないことから、瓦葺きではなかったこと、壁土に漆喰を用いていたこと等が判明しました。また、その層からは景徳鎮(中国)製の青花磁器や赤絵金襴手椀など、多くの高級陶磁器出土していることから、大友時代の城主居館が存在していたことが伺えます。大友氏改易後、豊後国は豊臣政権恩顧の大名である福原直高、太田一吉が相次いで入城します。これ以降臼杵城は「織豊系城郭」と呼ばれる、石垣や天守櫓等の豪壮な造りを重んじるスタイルへと変化していったと考えられます。その後、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦直後、美濃国郡上八幡から転封してきた稲葉氏によって、さらなる改修が実施されます。大門櫓(復元)、帯曲輪や今橋口などもこの時に整備されました。その後、延宝4年(1676)、当時の藩主・稲葉景通(5代目)が本丸から二之丸に御殿を移してからは、こちらが城の中心的機能を担い、明治維新まで使用されました。 臼杵市教育委員会二之丸御殿「指図」(西暦1750年頃)二之丸御殿は、「書院造」を基本とした棟をつなげた構造をしていたことが、残されている絵図から分かります。そして、その空間は「表」と「奥」に分けられていました。表空間は「大書院」「小書院」「御居間」等の大部屋が見えます。これらは政務遂行や年中行事などの儀礼に使われた空間と考えられます。「御居間」に近づくほど、より限られた身分の者しか出入りできなかったと考えられます。奥空間には「御内所」と呼ばれる藩主らの部屋があります。藩主とその家族の日常生活の場です。「湯殿(風呂)」、「御仏間」等、藩主のプライベートな部屋も見えます。御殿の奥には、池と築山、石の輪橋などを配した庭がありました。また、北側には「凌雲亭」と呼ばれる茶室が造られた時期もありました。二の丸跡の南面から東方向にある臼杵造船所。16:36佛狼機砲碑(ふらんきほうひ)大友氏がポルトガルから入手した。島津軍撃退に威力を示したといわれ(複製)。佛狼機砲(国崩)(くにくずし)天正四年(1576) ポルトガル副王より大友宗麟公に大砲が贈られました。これは日本人がはじめて手に入れた大砲といわれています。宗麟公はその大砲を「国崩」と名付けてそれをもとにした大砲を量産し、臼杵城に備えつけていました。この大砲は複製品であり、原型は16世紀に大友氏が所有したのち薩摩藩主島津氏の手にわたり、明治維新後に靖国神社に献納されたと伝えられています。 1986(昭和61)年9月 大分県臼杵市 — 続く ー
2022.01.20
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佐伯城の標高 144mの城山(八幡山)から下り、スタンプを取得。11月17日(水) 15:04城山への登り口に建つ、「城山還元之碑」。石碑に「城山還元之碑」。城山は明治2年(1869)版籍奉還により、明治政府の国有林となる。その後、佐伯県執事係、山中盛太郎氏の陳情により、明治34年、毛利家に還元され、明治44年、記念碑が建立された。城山還元之碑から下り、「毛利神社の鳥居」。旧佐伯文化会館の駐車場から、三の丸櫓門。右奥に「野村先生像」が建つ。野村先生像野村先生像昭和三十五年一月再建。野村越三(1884.6~1925.4.29) 佐伯市山際出身佐伯小学校の教師だった野村越三は、大変優秀で人柄も素晴らしいのみならず、スポーツの重要性を認識し、スポーツ教育指導にも力を注ぎ、スポーツ振興にも力を注いだ方です。当時、佐伯小学校は優秀校として文部省から表彰されるほどの実績をあげています。文武両道、人間性も素晴らしい野村先生は、生徒にも父兄にも教師にも尊敬されていました。すばらしい先生、師との出会いは、人生をも大きく変えてくれます。佐伯市の方々に今でも尊敬し続けられている野村先生は、本当に素晴らしい方だったのだと思います。そして、その恩義を忘れず、語り続けている佐伯市の方も素敵です。珍しい横書きの説明。野村越三先生は1884年6月佐伯町山際(当時)に生れ、幼いときから秀才の誉が高く、その人柄は○○誠実で聖者の風格をそなえ、すべての人にしたわれるまれにみる立派な人であった。若くして佐伯小学校の教師となったが、そのすぐれたひとがらは生徒の心をつよくとらえわずかのあいだに全校生徒の尊敬の中心となった。当時わが国の体育、スポーツは翠明期であり、当地方ではまだほとんど行われていなかったが、先生はいちはやくその重要性をみとめ身心鍛錬の手段としてこれを奨励した、かずすくない先覚者であった。・・・・・後略 1970年4月29日 教え子有志三の丸櫓門寛永14年(1637)三代藩主・毛利高尚は、三の丸御殿を創建し、藩政の場を山頂から麓の三の丸に移して櫓門を設けた。藩政時代に2度建て直しされ、現在の櫓門は天保3年(1832)に建てられたものである(県指定有形文化財)。県指定有形文化財 佐伯城三ノ丸櫓門 指定年月日 昭和五十一年三月三十日 所 在 地 佐伯市鶴谷七九番地一この櫓門は、三代藩主毛利高尚の時に、藩主の居館を山頂から三の丸に移した寛永十四年(1637)に藩庁の正門として創建された。佐伯城の城郭建築物として唯一現存する遺構として城下町佐伯の面影を伝えている。 佐伯市教育委員会三の丸櫓門の下に、三の丸跡の標柱。「平成塔」とは?。城下町さいき散歩マップ。いろんな史跡があり散策すると時間を要するので今回はスルーしたが機会があれば・・・・・。城山(佐伯城・鶴屋城)の想像図。毛利二万石の城下町。〇 初代毛利高政 慶長六年(1601)日田より佐伯へ移された高政は、番匠川の河口・塩屋村のは八幡山に新城 を築き、塩屋の浜を埋立て城下町を建設しました。〇 三代高直(たかなお)とあるが、高尚では! 寛永十四年(1637)三の丸御殿を創建して藩政の場を山頂から三の丸へ移し、櫓門を設けた。〇 六代高慶(たかやす) 宝永四年(1707)の津波被害を受けて、中村外に大土手を、城下の外周に長堤を築きました。 宝永六年(1709)より鶴屋城の修築にかかり天守を除いて創建当時の姿を再現、大手門・搦手 門を整備しました。 元文元年(1736)の大火を受けて町割を再編し士民の居住区を設定。〇 七代高丘 家中及び町家に瓦屋根を奨励しました。〇 八代高標(たかすえ) 安永八年(1779) 藩校「四教堂(しこうどう)」を創立、天明元年(1781) 城中に「佐伯文庫( 蔵書八万巻)」をつくる。 このころ飢饉が続き、御典医・今泉元甫は藩に米150石を献上し、城山の麓に三つの井戸を 掘って窮民を救った。〇 十二代高謙(たかあき) 文久三年(1863)三の丸下に南御殿(天祐館)を造営、明治四年(1871)七月廃藩置県によって 佐伯県が発足したが同年十一月には大分県に統合された。〇 明治のマルチ人間・矢野龍渓 藩校「四教堂」で学んだ龍渓(文雄)は、明治6年に福沢諭吉の慶応義塾を卒業しました。 教 職:慶応義塾教師、錦城中学校長 小説家:「経国美談(けいごくびだん)」「浮城物語」 政党人:立憲改進党、太政官書記、宮内省式部官、駐清特命全権大使 新聞人:郵便報知新聞社長、大阪毎日新聞副社長〇 明治の文豪・国木田独歩 「佐伯の春まづ城山に来たり・・・・・」 明治26年、英語の教師としてやって来た独歩は、城山の下の坂本家に下宿して、わずか 一年たらずのあいだに、城山をはじめ佐伯の山野を歩きまわり、後に佐伯を舞台にした 「春の鳥」「鹿狩」「源おぢ」などの作品を残しました。三ノ丸櫓門の後方には、閉館された「旧佐伯文化会館」。旧佐伯文化会館前にはいろんな石碑があり、課外教育か中学生がガイドの方から説明受け。石碑をズームアップ、中根貞彦の歌碑。中根貞彦は臼杵の片切家に産まれたが15歳で佐伯の中根家の養子となった。歌碑は、「ふるさとの移ろう もうしふる里の かはらふも宇し はしき布る里」佐伯文化会館の駐車場へ戻り、続百名城のスタンプが置かれている佐伯市歴史資料館へ移動。15:14佐伯市歴史資料館所在地:大分県佐伯市大手町1丁目2-25開館時間:午前9時 〜 午後5時(入館は午後4時30分まで)休 館 日 :月曜日(月曜が国民の休日の場合は翌日)・年末年始(12月29日〜1月3日)観 覧 料 :個人 一般300円 小・中・高校生100円旧佐伯文化会館の下にある広い駐車場へ車を止めスタンプを頂きに。佐伯市歴史資料館は「城と城下町のフィールドミュージアム」をコンセプトに、周辺の城山や「歴史と文学のみち」を含む「歴史体験ゾーン」の中心施設として、訪れる人が楽しみ、学べるミュージアムです。館内では、現在の佐伯市の礎を築いた江戸時代を中心に、平安時代末期から明治時代初頭にかけての歴史を中心に展示・解説を行っています。江戸時代、佐伯藩主であった毛利家からの寄託資料のほか、市がこれまで収蔵してきた藩政史料や、貴重な中国書のコレクション『佐伯文庫』などの資料を常設展示しています。また、屋外には、明治期に建てられた毛利邸の一部である「毛利家御居間」、江戸時代に設置された「三府御門(薬医門)」、旧日本海軍の将校クラブ「水交社」の防空壕などを展示している。佐伯市歴史資料館に隣接して、毛利邸の一部である「毛利家御居間」。昭和時代初期、歴史資料館の敷地には料亭があり、佐伯海軍航空隊の士官の社交場として利用されました。左側のこの防空壕は士官たちのために太平洋戦争末期に築かれたと考えられる。佐伯市歴史資料館に入り。続日本100名城スタンプ「NO.194 佐伯城」。認定証も展示されていた。一枚 三百円 の御朱印。毛利家御居間(もうりけおいま) 明治時代中期に建てられた毛利家の屋敷の一部で、のちに料亭としても利用された。佐伯の歴史を伝える貴重な建築物で、佐伯市指定有形文化財に指定されている。毛利家御居間 佐伯市指定有形文化財佐伯城内であったこの場所は、江戸時代後期には佐伯藩の役所が置かれ、明治時代に入ると旧藩主毛利家の屋敷地となりました。毛利家御居間は、13代当主・毛利高範子爵の一家が、明治26年(1893)から明治40年(1907)まで暮らした屋敷の一部で、発見された棟札から明治23年(1890)に建築されたと考えられています。建物は昭和初期から料亭として利用され、しばらくは明治時代の姿を留めていましたが、昭和50年(1975)に御居間と次の間のみを残して建て替えられました。佐伯市は、歴史資料館を整備するにあたり、建物を保存・公開するため修理を行い、当初の姿に復原しました。修理は、建物の柱や梁などを残して一旦解体し、可能な限り古い部材を残しつつ、傷んだ部材は補強・交換して組み直すという方法で行いました。各部屋は、次の間(6帖)・御居間(8帖)・御化粧の間(6帖)の順に配置されています。御化粧の間は、現代の改修によって失われていましたが、今回の修理で復原しました。この地、基礎工事の前に行った発掘調査で、建物の北西にのびる石列(地福石)、風呂桶の土台と思われる半円形の叩き土及び便所跡のような丸い穴が見つかりました。古写真をみると同じ位置に小規模な建物が写っており、ここが風呂や便所であったことが推測されます。佐伯市歴史資料館の駐車場から城山本丸、二の丸を見上げる。左側の二の丸から本丸をズームアップ。この佐伯文化会館は1971年に開館され2020年10月31日をもって、49年間堂々たる歴史の閉幕となった。積年の使用による老朽化が主な理由。佐伯藩主だった毛利家の家紋の一つ「鶴丸」が外壁に描かれ、無形民俗文化財の「堅田踊り」を舞う女性の姿が描かれていることが特徴的であり、由緒ある歴史を感じさせてくれます。15:20佐伯市歴史資料館の駐車場から次の目的地「臼杵市観光交流プラザ」にセットして出発。目的地まで所要時間は44分、距離数は29km。15:28大手前交差点から、国道217号を進む。15:37一般道優先で東九州自動車道佐伯インター入口を北上、県道36号線(佐伯津久見線)を臼杵・津久見に向けて進む。左折すると国道10号だが直進して、臼杵・津久見へ。15:41右上を東九州自動車道が走る。15:52山間部を走り県道36号線(佐伯津久見線)を津久見市街地へと進む。津久見市は、大分県の東海岸に位置する市である。大分県の市の中では、最も人口が少ないが、人口密度は、大分市、別府市に次いで3番目に高い。人口は、1.834万人(2017年3月31日)。15:55津久見市街地に入り県道36号線(佐伯津久見線)の右側に、赤八幡社(あかはちまんしゃ)所在地:大分県津久見市宮本町21-11参道入口と一の鳥居、鳥居の扁額は「赤八幡宮」。奥に二の鳥居、神門。赤八幡社は建久元(1190)年に石清水八幡宮の分霊を勧請されたと伝えられる。キリシタンとなった大友宗麟に焼かれたが、慶長6(1601)年に佐伯藩主毛利高政が再建し、赤・青両郷の総鎮守に定めたとされる。15:56カーナビは県道36号線(佐伯津久見線)の、津久見第二中学校入口交差点。目的地到着予定は、16:13、残距離は 8.4km。16:00東九州自動車道 津久見インタ入口。臼杵市内(空撮)16:10臼杵市は、大分県の東海岸に位置する市。国宝の臼杵石仏や醤油の製造で有名。近年では城下町の町並みでも知られるようになった。人口は、4.101万人(2012年1月1日)。前方の家並みの上に臼杵城の現存する畳櫓。16:11続日本100名城のスタンプが置かれている「臼杵市観光交流プラザ」へ。所在地:大分県臼杵市臼杵100-2「臼杵を訪れる観光客が最初に立ち寄る場、市民も集い交流できる中心市街地のにぎわいの場」を基本コンセプトに定め、中心市街地整備の集大成として整備を進めてきた「臼杵市観光交流プラザ」が完成した。スタンプを受領後、ここの駐車場に車を止めて城内を散策。臼杵市観光交流プラザ開館時間:9:00~18:00休 館 日 :なし館内では、いろんなグッズを販売。観光用で無料自転車もあると、9時 ~ 18時。NO.193 臼杵城スタンプ。臼杵城跡 秋限定御城印も4種類。臼杵城跡戦国大名大友宗麟が築城した臼杵城は、文禄二年(1593)以降、福原直高、太田一吉が相次いで城主を務めたのち、慶長五年(1600)からは、美濃から入封した稲葉氏が廃藩置県まで十五代にわたってこの城を居城とし、臼杵藩の支配にあたってきました。この城は丹生島に築城されたこと、また、島の形が亀の姿に似ていたところから別名、丹生島城とも亀城とも呼ばれていました。廃藩置県後、明治六年(1873)明治政府は臼杵城の廃城を決定し、取り壊され公園地に指定され、現在は臼杵公園として市民の憩いの場となっているとともに、春は桜の名所として市内をはじめ県の内外から訪れる花見客でたいへんな賑わいを見せます。臼杵城下まちあるきマップ① 臼杵城跡 ② 稲葉家下屋敷 ③ 旧平井家住宅 ④ 久家の大蔵⑤ サーラ・デ・うすき ⑥ ニ王座歴史の道 ⑦ 旧真光寺 ⑧ 三重塔(龍原寺)。④ 臼杵石仏(うすきせきぶつ) 「国宝」 見学時間:6:00 ~ 18:00(4月 ~ 9月 19:00まで) 臼杵市観光交流プラザからの距離:約6km (国宝指定 4群61体) 磨崖仏では全国で唯一指定されている国宝。切り立った岩肌に刻まれている4群60余体か らなり、平安時代後期から鎌倉時代にかけて刻まれたといわれ、その規模と数量、彫刻の 質の高さにおいて、日本を代表する石仏群です。臼杵石仏は50年前に一度訪れているが、その時は頭部部分は胴体から離れていたが現在は修復。① 黒 島 慶長5年(1600年)春、一隻のオランダ船が、臼杵市佐志生の黒島に漂着した。 船の名前は「リーフデ号」、航海長はイギリス人「ウイリアム・アダムス(日本名・三浦 按針)」、水先案内人はオランダ人の「ヤン・ヨーステン」でした。2人はその後、大砲 などの武器を操作する技術や西洋の新しい技術を買われ、徳川家康の外交顧問として活躍 した。リーフデ号の漂着は、日本の大きな転機となった事件のひとつでした。 島内の公園には三浦按針上陸記念碑が昭和41年に建立されている。 ④ 臼杵石仏稲葉氏の統治 15代270年最後の臼杵藩主 廃藩置県のため、臼杵城は廃城となり、代々臼杵を統治してきた稲葉氏は東京に住むことに なりました。その15代藩主稲葉久通の長男・順通の里帰りの屋敷として建てられたのが「稲 葉家下屋敷」です。大友宗麟の築城 大友宗麟の築城により幕を開け、稲葉氏によって広がり、発展した城下町臼杵。情緒あふ れる町並みは今も守り継がれています。理想郷を夢見た宗麟 キリシタンとして洗礼を受けた宗麟は、キリシタンの楽園を夢見た理想郷「ムジカ」(現: 宮崎県延岡市)の建国に着手します。ところが薩摩の島津氏と衝突し、この戦いに敗れ、衰 退の一途を辿っていきます。その後、島津軍の侵攻に対し、臼杵城に籠城する際、宗麟は キリシタンにかかわらず数千の領民を避難させ食糧を分け与えたといわれています。『天然の要塞』 宗麟が築城したのは四方を海に囲まれた丹生嶋でした。日本国内で初めて大砲を使用したのは宗麟といわれています。 ー 続く ー
2022.01.19
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標高 144mの山城の佐伯城を散策。11月17日(水) 14:41西の丸跡(西出丸)、城山(八幡山)の標高は144m。登城口から急峻なつづら折りを13分で一気に登ったので辛かった。西の丸跡(西出丸)にはベンチがあり多くの人が散策。城山(八幡山)144m の表示。西の丸跡(西出丸)から南東方向の佐伯市街地を見下ろす。番匠川に架かる新佐伯大橋。手前の川は中江川。西の丸跡(西出丸)に残る礎石。西の丸跡の石碑西の丸からの眺望写真山並みの名前が書かれていた。灘山、元越山、色利山新佐伯大橋、番匠体育館。佐伯大橋、番匠川左:新佐伯大橋、右:佐伯大橋佐伯城跡山頂測量図西の丸跡(西出丸)の、城山(八幡山)の標高は144m。西出丸から狭い尾根を北側へ進み二の丸へ。右側が登城の道からの登り口。西の丸跡(西出丸)を振り返る。既に別の方がベンチに座り佐伯市街地を見下ろしていた。二の丸虎口(渡櫓跡)の礎石。二の丸虎口(渡櫓跡)の礎石が残る。虎口とは城郭における出入り口のことで、二の丸では敵の侵入を阻むために通路を屈曲させ、幅を狭めている。当時は渡櫓と門があり、現在も門の礎石をみることができる。通路を屈曲させ、幅を狭めている二の丸虎口(渡櫓跡)を振り返る。礎石の上には歴史を感じさせる木が生い茂る。二の丸跡の石碑。二の丸跡から、西方向の番匠川、市街地を見下ろす。番匠川の上流に、手前から稲垣橋、東九州自動車道、日豊本線が走る。山々の名前も記載されている。二の丸跡に「独歩文学碑」。裏面に、佐伯 国木田独歩文豪国木田独歩は、矢野竜渓、徳富蘇峰の推挙で毛利高範旧藩主が創建した鶴谷学館の教師として赴任した。佐伯在任はわずか1年足らずであったが、彼ほど佐伯の山野を深く愛し、遍く歩き、広く天下に紹介した作家は他にない。源おぢ、春の鳥、鹿狩、小春、忘れ得ぬ人々、豊後の国佐伯、欺かざる記などの名作は湖畔詩人ワーズワースの詩境と佐伯の自然とを結んだからこそ生まれた独歩独特の文学作品である。傑作春の鳥ゆかりの城山に此の碑を建てて独歩文学発祥の記念とする。 佐伯史談会 佐伯独歩会設計主旨私にとって、作家独歩は、「自然」への求道者と銘している。求道の意は、自然への愛着や没入が、自己表現に於て、自然への憎悪や拒否と相克し ― 限りなく矛盾的自己同一的に昇華した、この作家の生きざまを看る故である。その故に作家独歩のイメージが、形態として焦点を結像するのは、楕円 ― 決して一つではなく、二つの点を結んで軌跡の合理する楕円形である。私は、その終焉の日まで、■れむことなく続けられたあの相克を ― 独歩の世界の全てを、その軌跡の中に封じこんでいると考える。 清田文永 基金協力者 安藤 賢 外265名 撰文■書 東階狩■熊義 刻石 (株)大洋石材 ■川 洋 昭和57年8月二の丸から本丸へ、本丸石垣が残る。高さ6メートルの石垣である。本丸外曲輪から本丸へ登る大階段は、毛利神社創建後のもので、両側の曲線を描く石垣もこの時積み直された。絵図によると、本来は隅(すみ)があったと考えられる。本丸への入口に廊下橋。本来、本丸に入るには二の丸を通って廊下橋を渡り、幅の狭い階段を登らなくてはならなかった。有事の際には廊下橋を落として敵の侵入を防ぐといわれ、堅固で実践的と評される佐伯城を象徴する施設である。廊下橋を渡り、幅の狭い階段を登り本丸へ。本丸廻りの石垣が残る。二の丸方向を振り返る、下は廊下橋。天守台の祠と鳥居。毛利神社の社殿跡?毛利神社の社殿は太平洋戦争中の昭和20年4月26日の空襲で破壊されたとあったが。こちらの祠は?北出丸方向、紅葉シーズンにはもっと絶景になるのであろう。本丸跡の木標本丸・天守台跡佐伯城には三重三階で南向きの天守があったと伝わっている。しかし、築城後程なく失われ、再建されることもなかったため詳細は不明。現在は古文書の中に伝承として記されるのみである。本丸から本丸外曲輪側(東方向)の紅葉が進む。本丸外曲輪への階段紅葉を見上げる。本丸跡から本丸外曲輪へ下り、佐伯市街を見下ろす。左側の看板は・・・・・。映画 釣りバカ日誌19 ロケ地 佐伯市 佐伯市 城山 佐伯市街地と佐伯湾を望むシーン 以下三枚はネットから。 「ようこそ! 鈴木建設御一行様」ロケ地解説大分空港に到着した鈴木建設御一行様、大分ホーバークラフトに乗って市内へ向かう。別府地獄巡りを楽しむ社員たちを置いて、酔っぱらったハマちゃんはバスに残る。そして国立公園高崎山自然動物園でサルたちと戯れる。翌日、ハマちゃんは波子の故郷佐伯市で釣り三昧。鈴木建設一行は飯田高原長者原でバーベキューを楽しむ。ラスト、ハマちゃんとスーさんが釣りをするのは、佐伯市公設水産市場前。大分の名所が全編に渡って登場する。第21作 2008年10月25日釣りバカ日誌19 ようこそ! 鈴木建設御一行様ゲスト出演の、常盤貴子、山本太郎(現・衆議院議員、れいわ新選組代表)本丸跡の石垣を見上げる。独歩碑明治26年(1893年)、鶴谷学館に教師として招かれた国木田独歩は僅か10ヶ月の滞在であったが、後年、佐伯を舞台とした作品を多く残した。独歩碑この独歩碑は、「春の鳥」「源おぢ」の舞台である城山山頂に、佐伯独歩会によって昭和31年によって建立された。本丸石垣の下から北出丸方向への道。豊後佐伯城址の木標毛利神社創建時に本丸へ登る階段が改修され大階段に。本丸外曲輪下から石垣を見上げる。14:53佐伯市街地、佐伯湾を望むクレーンは佐伯重工業㈱ 佐伯造船所。城山から下ることに、下りは独歩碑の道を下る。独歩碑の道の紅葉。登りの「登城の道」より道幅も広く坂も緩やかで歩きやすい。いつも先行の旅友である。15:04独歩碑の道入口へ約10分で下り立つ。独歩碑の道入口にある「善意の杖」これは市民の方から善意で寄贈された杖です。お持ち帰りはくれぐれもご遠慮ください。石柱に「頂上まで 810メートル」と。 ー 続く ー
2022.01.18
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大分県に入り今日二番目の目的地、佐伯城へ向かう。11月17日(水) 13:35左折すると「宇目振興局」、国道10号を進み大分・臼杵へ。佐伯市の読みは「さいきし」で、「さえきし」ではないと。佐伯藩の城下町として栄えた江戸時代から「佐伯の殿様、浦でもつ」と言われており、豊富な海の幸と山の幸に恵まれ、「世界一、佐伯寿司」をキャッチフレーズとして、観光客の誘致にも力を入れている。2005年3月3日に佐伯市と南海部郡5町3村が合併して新たに佐伯市となり、九州の市町村の中で最大の面積を持つことになった。人口、7.355万人(2017年3月31日)。国道沿いのイチョウの黄葉が綺麗だ!右側を日豊本線が走り、直川駅の手前国道10号を北上、走る車は高齢者が運転する農作業用軽トラックの専用道路?。こちらも高齢者だが。道路脇の看板は、「かぶとむしの湯」。13:45国道10号の赤木交差点に建つ、カブト虫モニュメント。所在地:大分県佐伯市直川大字赤木ここを右折すると、「かぶとむしの湯 4km」。昆虫の里「憩の森公園キャンプ場」。キャンプ場内には「かぶとむしふれあい館」「農業歴史資料館」「昆虫館」などの付帯施設、「ローラーすべり台」「河川プール」などの遊具がある。13:57この先の番匠交差点を直進して国道217号を佐伯市街へ。13:59国道217号と日豊本線が交差。14:00ローソン佐伯鶴岡町一丁目店所在地:大分県佐伯市鶴岡町1丁目1903-4いつものように昼食をとっていなかったのでおにぎりを購入車内で。佐伯市街地(空撮)佐伯城は中央の山の上にあり、山城である。右上の赤丸が日豊本線の佐伯駅。14:13旧佐伯文化会館の駐車場へ到着。所在地:大分県佐伯市大手町1丁目1-1佐伯文化会館は2020年10月31日をもって閉館しており、49年の堂々たる歴史の閉幕となった。積年の使用による老朽化が主な理由のようで、当館の開館は1971年。佐伯城三の丸御殿跡地に開館した市営施設で、佐伯藩主だった毛利家の家紋の一つ「鶴丸」が外壁に描かれ、無形民俗文化財の「堅田踊り」を舞う女性の姿が描かれていることが特徴的であり、由緒ある歴史を感じさせてくれますと。佐伯文化会館があっただけに、会館の前の広場にはいろんな像、石碑が立つ。三の丸公園内には元自由民主党衆議院議員村上勇像と佐伯小学校の教師だった野村越三の銅像と矢野龍渓顕彰碑がある。村上勇先生の像村上勇(むらかみいさむ)1902.4.7~1991.1.28 佐伯市出身(旧・南海部郡大入島村)。元自由民主党衆議院議員、第三次鳩山内閣で郵政大臣、第二次岸内閣改造内閣で建設大臣、三木内閣でも郵政大臣を務めました。初期の村上派には、稲村左近四郎(石川県羽咋市出身)、大野明(岐阜県出身・出生地は東京都)、神田博(新潟県東蒲原郡阿賀町)、佐藤文生(大分県別府市出身)、田村元(三重県松阪市出身)、徳安実蔵(鳥取県出身)、原田憲(大阪市出身)、福田篤泰(東京都出身)、三原朝雄(福岡県遠賀郡遠賀町)がいました。1983年に引退し、衛藤征士郎(大分県玖珠郡玖珠町出身)が地盤を引き継いだ。句碑、歌碑には、「母ようどんそなへてわたくしもいただきます 種田山頭火」「いま一度この世に生きよと同じ名を おのが娘につけにけるかも 工藤好美」種田山頭火句碑工藤好美歌碑放浪の俳人山頭火は親友工藤好美の故郷佐伯を生涯で二度訪れている。それはいずれも好美の妹千代の菩提を弔う旅であった。山頭火の佐伯訪問についてはこれまで謎とされてきたが、平成二十一年古川敬氏が著した「山頭火の恋」によってその全貌が明らかとなった。山頭火の人生は東京で大正九年から好美、千代と過ごした時期が最も穏やかであったと言われている。その小春日和の如き日々は千代の死で終止符を打たれるが、山頭火と工藤好美との友情は千代の死を経てより深いものとなった。それは、山頭火の母への思い、好美の妹千代への思いを投影した絆ともいえる。ここに、山頭火の句と工藤好美の歌を石に刻みその心情を後世に伝える。 母ようどんそなへてわたくしもいただきます 種田山頭火 いま一度この世に生きよと同じ名を おのが娘につけにけるかも 工藤好美平成二十六年十一月一日 全国山頭火フォーラム in 佐伯 会長(佐伯市長) 西嶋 康義 石碑設計 山城紀久夫 石碑材協力 山部五月生 石碑製作 梶川 仁英種田山頭火、工藤好美、工藤千代矢野龍渓顕彰碑龍渓 矢野文雄について(1850年~1931年)嘉永3年山手区に生まれる。佐伯藩校四教堂に学び、常に成績抜群であった。上京して慶応義塾に入学、福澤諭吉の薫陶を受け、大隈重信の知遇を得て国会開設に力を注いだ。郵便報知新聞を主宰し、藤田茂吉(佐伯市出身)、箕浦勝人、犬養毅、尾崎行雄など三田派の気鋭を集め政府系新聞 東京日日に対し自由民権の論陣を張った病中口述した政治小説「経国美談」は当時の政治的自由を求める全国の青年に愛読され多大の影響を与えた他に浮城物語、新社会等の著書がある。後年大阪毎日新聞副社長となり社の発展に尽力した。鶴谷中学への国木田独歩招聘は龍渓の依頼を受けた徳富蘇峰の人選によるものである。碑文の詩は佐伯中学開校に帰郷の際、佐伯湾を望み尺間彦岳を仰いで佐伯の風土を歌ったものである。 結成十五周年記念事業 佐伯ライオンズクラブ 昭和五十年十月二十六日御下櫓(お手洗) 平成二年三月建立汚水マンホール蓋旧佐伯市、亀甲地模様、旧佐伯市章の下に「汚水」の文字。城山登山道案内図佐伯城は、慶長6年(1601) 日田から佐伯へ入部した佐伯藩初代藩主・毛利高政が新たな居城の建設を考え、番匠川沿いの水上交通に便利で、守り易く攻め難い地形を良しとした周囲約3km、高さ約140mの八幡山に4年の歳月をかけて築いた山城。山頂城郭は本丸を中心に、西南に二の丸・西出丸、東北に北出丸と、鶴が翼を広げた姿を連想させ「鶴屋城」とも呼ばれた。今も残る石垣は、当時の威容を偲ぶことが出来る。城山登山道コース城山登山道コース独歩碑の道緩やかで登りやすい、散策に適したコース。山頂付近には捨曲輪(すてぐるわ)の一つが見られる。登城の道藩政時代より続く、当時に実際使用されたままの勾配のあるコース。中腹からは昔ながらの景観を見られる。翠明の道かなりの急勾配で階段の段差もあるため、足元に十分気を付け休憩しながら散策を。尾根の上には、藩主の涼み場と伝わる翠明台の跡がある。若宮の道若宮八幡宮へと続く雄池・雌池のある裏手のコース。雄池への道は非常に細いため注意して通行を。山頂までの所要時間は各コースおおむね20~30分程度。落ち葉等で滑りやすい箇所もあるため、運動靴・動きやすい服装での登山を推奨します。山頂拡大図14:21城山麓の鳥居。毛利神社の社殿は、太平洋戦争中の昭和20年4月26日の空襲で破壊されたが鳥居は現存する。モミジの紅葉には少し早かった。史跡 豊後佐伯城址城山山頂の城址は海抜140メートル、遠く近く南豊の山々をめぐらし、番匠川はまがりくねって佐伯湾にそそぎ、はるかに豊後水道をへだてて四国の島山が霞んで見える。眼下には、県南の政治・経済・産業・文教の中心都市、人口五万の佐伯市街がひろがり、展望絶佳、歩いて十五分で登れる景勝の地である。慶長六年(1601)四月、日田より入封の初代毛利高政は、この地を相して佐伯荘二万石の本拠地と定め、まず山頂に築城の工を起こし、城下町の建設にかかった。三層の天守閣をもつ本丸を中心に、二の丸・西の丸を西南にのばし、北の丸を東北にひろげ、あたかも舞鶴の翼を張った姿に自と鶴屋城と名付けられ、また鶴城と呼ばれた。城は四年後の慶長十一年に完成したが、程なく失火により本丸・二の丸を失い、その復興をあえて行なわず寛永十四年(1637)山麓に三の丸を開き、大いに殿館を営んで以来二百数十年、佐伯藩政は専らここで執られた。それは山城の不便さを避けてのことである。そして明治初年の版籍奉還、廃藩置県によって廃城となった。今は城郭の遺構としては僅かに三の丸櫓門を残すだけであるが、なお城跡を示す石垣は殆んど完全に残り、城址公園として市民に親しまれている。 慶長 六年(1601) 毛利高政 日田より佐伯荘に入封する。 慶長 七年(1602) 近江の人 市田祐定に命じて築城を始める。 慶長十一年(1606) 築城完工 鶴屋城と呼ぶ。 元和 元年(1615) 高政 大坂夏の陣に参加する。 元和 三年(1617) 鶴屋城二の丸より出火、本丸天守閣焼失する。 寛永十四年(1637) 山ろくに三の丸をつくり藩政を執る。 宝永 四年(1707) 地震津波のため四八六戸倒壊する。 享保十四年(1729) 鶴屋城修復する。但し天守閣を設けず。 安永 六年(1777) 八代藩主高標 藩校「四教堂」をつくる。 天明 元年(1781) 高標城中に佐伯文庫(蔵書八万巻)をつくる。 文化 九年(1812) 直川ほか七ヶ村の農民が一揆を起こす。 明治 二年(1869) 十二代藩主高謙 版籍を奉還する。 明治 四年(1871) 廃藩置県 七月佐伯県、のち大分県となる。 佐伯市教育委員会城山還元之碑城山は明治2年(1869)版籍奉還により、明治政府の国有林となる。その後、佐伯県執事係、山中盛太郎氏の陳情により、明治34年、毛利家に還元され、明治44年、記念碑が建立された。正面に、「← 翠明の道 登り口」城山還元之碑の左側に、石碑。城山佐伯の春先の城山に来たり 夏先づ城山に来たり 秋また早く城山に来たり 冬はうと寒き風の音を先づ城山の林にきくなり城山寂たる時佐伯寂たり城山鳴る時 佐伯鳴る佐伯は城山のものなればなり 「○○○○○○」より城山還元之碑を後方から。登山コースの案内、「登城の道 登り ↑」、右側に「独歩碑の道 登り →」独歩碑の道の登り口に「善意の杖」14:26直進して ”登城の道” を登ることに。藩政時代のままの登城の道を振り返る。林の中を登るが結構辛い。この日は天気が良く足元がよかったが雨天時は大変であろう。尾根を見上げる。つづら折りの登城の道を上る。この辺りは石垣はないが、登城の道は石畳。前方に大きな石垣が見えてくる。石垣の間に木が生える。紅葉の木を見上げるが、最盛期の紅葉は最高であろう!14:37登城の道も緩やかになり、西の丸跡(西出丸)も近い。西の丸跡(西出丸)下から佐伯市街地を見下ろす。辛い思いをして登ってきたが素晴らしい眺望で満足!番匠川に架かる新佐伯大橋。手前の川は中江川。番匠川は、大分県南部を流れる一級河川番匠川水系の本流。九州屈指の清流として知られる。紅葉の合間からの佐伯市街地。西の丸跡(西出丸)の石垣。14:41西の丸跡(西出丸)へ登りきる。ここ城山(八幡山)の標高は144m。登城口から急峻なつづら折りを13分で登るが一気に登ったので辛かった。 ー 続く ー
2022.01.17
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延岡城の天守台から三ノ丸経由駐車場へ、この後国道10号を北上大分県へ向かう。11月17日(水) 12:25天守台から南方向の延岡市街地。大瀬川の南側にある旭化成のベンベルグ工場煙突。遠く鞍掛鼻であろうか。天守台の西側に聳える木片隅に記念碑が建つが天守台から下ることにこの後、天守台から三階櫓へと進む通路には夜の照明灯三階櫓跡地延岡城の天守とみなされた本城を代表する建築物で、城内で一番大きな建物だった。三階櫓は、関東周辺の譜代大名を中心に造られた「天守代用三階櫓」と同様、延岡城の天守とみなされた本城を代表する建築物で、城内で一番大きな建物でした。櫓の一階部分は、東西5間(約10m)、南北6間(約12m)の広さで、高さは、土台下から7間5尺9寸(約15.6m)ありました。明暦元年(1655)有馬康純公の修築により完成しましたが、天和3年(1683)(一説に天和2年)に武家屋敷からの出火で焼失し、以後再建されることはなく、現在は、櫓台の石垣が当時の姿のまま残っています。三階櫓跡に建つ、「後藤勇吉之碑」この後藤勇吉之碑は1934(昭和9)年に建立されたもので、太平洋に輝く太陽と、勇吉が果たすことのできなかった太平洋横断無着陸飛行の姿を彫刻したレリーフがはめ込まれている。碑は1934(昭和9)年に建立されたもので古い。また漢字とカタカナで鋳だされているので解りずらいためネットから抜粋。後藤勇吉は、明治29年11月12日延岡市南町に生まれ、延岡中学校を卒業後上京、飛行士として修練を重ねた。大正9年(25歳)競技飛行大会に参加、高等競技で1位、同年空中文明博にも参加、郵便宣伝飛行を行った。この年、郷土訪問飛行を実施、県民に驚異の感銘を与えた。以来、航空会の寵児(ちょうじ)となり日本一周飛行、郵便飛行、輸送飛行など多くの輝かしい足跡を残した。昭和2年太平洋横断飛行が企画されるやその責任者に選ばれ猛訓練が開始された。翌3年2月29日午前8時大村海軍航空隊を出発、霞ヶ浦に向かう途中 佐賀県・・・(岳)上空で墜落、死亡した。33歳の壮年であった。旅友は昨夜の宴会中に旧友へ電話、その時通じず相手から電話があり ”ながら電話”。紅葉には少し早かったようだ。後方の石垣は、三階櫓跡。吹上坂(ふきあげざか) Fukiageーzaka Slope吹上坂は、三ノ丸から本丸へと続くつづら折れの通路で、有馬氏時代に描かれた「有馬家中延岡城下屋敷付絵図」(明治大学博物館所蔵)に、この吹上坂は描かれています。以降、三浦氏、牧野氏、内藤氏時代に描かれた絵図でも吹上坂は確認することができます。この場所は、延岡城の天守とみなされた三階櫓跡の西側直下にあたり、三階櫓跡の岩盤掘削面と石垣面とを上手く組み合わせて通路の壁面を構成しています。石垣は、見栄えを重視したと考えられ、一定の大きさに揃えた割石を用い、横目地の通る「布積み」で積まれています。また石面は、ノミによる「ハツリ」が施され平面的に整えられています。吹上坂の石垣は、城内の他の石垣とは違った美しさが見られ、有馬家により大改修されたと考えられます。つづら折りの吹上坂を三ノ丸へ下る。吹上坂を下り、三ノ丸跡三ノ丸に庭園があったのか。三ノ丸跡地明治大学所蔵の内藤家文書「元禄絵図・・・・・よると、この位置が三の丸となっている。三ノ丸跡地を振り返る、旅友は珍しく私の後から。紅葉はじめの木を見上げる旅友。園路脇に「牧水歌碑」と。石垣の間に大きな樹の切断跡廻りに、黄色いツワブキが咲く。歌碑前広場歌碑前広場に建つ歌碑。中央が牧水の歌碑歌碑には、「なつかしき 城山の鐘鳴りいでぬ をさなかりし日 聞きしごとくに」 牧水。若山牧水(1885 ~ 1928)若山牧水(本名 繁)は、明治十八年八月二十四日、現在の宮崎県日向市東郷町坪谷に生まれました。尋常小学校を終えると、延岡市の高等小学校に入り、新設された県立延岡中学校(現・県立延岡高等学校)を卒業して、早稲田大学英文科に進みました。延岡での八年間の青春は、山紫水明の自然と良き師友に恵まれ、歌人としての素養を培いました。そして、若山繫が雅号を「牧水」としたまちが延岡です。この歌は、昭和二年七月二十四日、台雲寺(北小路)で詠んだもので、昭和十年春、全国三番目の牧水歌碑として建てられました。毎年、三月春分の日に歌碑まつりが行われます。 延岡市観光戦略課牧水の歌碑は、現在は全国で300基を超えているものと思われ、その数は他の歌人を圧倒、断然トップを誇り、そのうち3分の1は宮崎県に集中している。右隣に立つ古くから門下だった谷自路(次郎)の歌碑「石の面に 樹々に冬日の 照り沁みて 凪ぎはてし庭に 山茶花の散る」 昭和27年(1952年)3月17日、建立。左隣に立つ古くから門下だった越智渓水(通規)の歌碑。「家にゐて ものおもふことの 愚かさよ やまに来たれば 良き日なりけり」 昭和43年(1968年)7月21日、建立。広場の隅にツワブキが咲く。内藤家墓地を塀の上から覗き見る。延岡市のおすいマンホール蓋。市章の両脇に宮崎県伝統工芸品である江戸時代から続く郷土玩具の「のぼり猿」が描かれている。のぼり猿は、延岡藩の武士の妻たちが手内職として作り始めたとされ、 ハナショウブを描いた幟が風を受けると張り子の猿が上り下りする仕組みで、5月の節句に子どもの健やかな成長と五穀豊穣を願って、 鯉のぼりと一緒に庭先に立てるそうです。12:50北城山街区公園の北駐車場へ下り立つ。約1時間の延岡城散策であった。次の目的地はいよいよ今回最後の大分県下の城制覇だ。この後今日明日で、佐伯城、臼杵城、中津城、角牟礼(つのむれ)城の四城。駐車料金は、「駐車券無料処理機」で受付をしたので無料!12:55城山公園から、五ヶ瀬川を渡り国道218号(神話街道)を東へ進む。カーナビは一般道優先で走る。国道10号と合流するこの昭和町交差点を左折して北上。道路標識は大分まで 112km、宮崎まで 87km。この後は、延岡駅前を通り一路国道10号を北上して佐伯市へ。国道10号は北川、日豊本線に沿って山間部へと北上、日向越隧道。左は日豊本線、国道10号の交通量は少なく、制限速度50km+15kmで北上。前方に赤い看板「延岡学園高等学校」。13:06前方の道路標識は「道の駅 北川はゆま 1km」、国道10号、326号。道の駅 北川はゆまは、東九州自動車道北川インタ出口にある。所在地:宮崎県延岡市北川町長井5751-113:09北川に架かる「川〇大橋」橋の親柱に、天狗?。13:24国道10号は山間部へと進み、前方に日豊本線の陸橋。もう50年前に大分へ長期出張時に、この日豊本線を利用して日南へ旅をしたことを思い出す。その頃はまだ未電化で蒸気機関車であった。13:24国道10号を独り舞台で走り、いよいよ今回最後の訪問地大分県へ入る。ようこそ 大分へ Welcom to OITA ♨写真は「佐伯市 鶴御崎灯台」。対向車もなく、後方からも無く、一人旅。このブログ作成時にわかったが、この辺りの東九州自動車道は無料区間になっている。13:25国道10号と併行して日豊本線が走る、以前は重連の蒸気機関車が牽引。この辺りの日豊本線は、大分県側の重岡駅から宗太郎駅を経て宮崎県側の市棚駅までの区間が、一般に「宗太郎越え」と呼ばれる。急峻な山地の中を1000分の20の急勾配の鉄路が、合計37のトンネルを抜けて続いている。13:27カーナビは佐伯城への到着予定は、14:29、残り 31kmと。残り31kmで所要時間1時間と予測。道路が空いているのでまだ早く着くであろうと思いながら。13:30宗太郎隧道坂道の上り下りとカーブが続く厳しい山越えの道路である。標高266 m。近年、西側を走る国道326号が整備されて、実質的に国道10号のバイパスとして機能しているため、この区間の交通量は少なくなっている。また、東九州自動車道のこの区間は、ずっと東側の海沿いに建設されており、宗太郎峠付近は経由しない。宗太郎隧道を抜けてからは下り坂に。国道10号に入ってから対向車もなくスピード違反に注意しながら運転。昨年10月末に一時停止を怠り税金を納めているので追徴金もしたくなく、また3カ月無違反だと減点2が1になるので。13:33国道10号と日豊本線が交差カメラをもった高齢者が撮影に訪れていたが。 ー 続く ー
2022.01.16
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今日の目的地の一番目、続日本100名城の延岡城へ登城。11月17日(水) 12:00平成4年度(1992)に復元された「北大手門」。右側の門は、内藤家墓所。 北大手門北大手門は、延岡城本城に入る登城口の1つで、城の表門にあたります。北大手門の周辺は、石垣だけが残る状態でしたが、昭和63年(1988)に都市景観形成モデル都市に指定されたことを受け公園整備がスタートし北大手門の復元整備を行うため、平成4年(1992)に発掘調査を行いました。調査の結果、多くの絵図に描かれているとおり、門礎石を置く根固め基礎や、番所跡が確認されました。また、絵図にはありませんが平瓦を敷いた排水溝が確認されました。北大手門は、発掘調査で確認された門礎石を置く根固め基礎から四脚門と判断しました。門の袖塀は、東側の石垣に残るホゾ穴や、屋根型の彫り込みが確認されたことから位置を決めています。また、文化13年(1816)の「日向国延岡御本城要害絵図」、明治維新前後(1868年前後)の「延岡藩士族屋敷図」等の絵図も参考に復元しています。北大手門を挟み南北に走る排水溝や、本城内へ上る階段も発掘調査を基に同じ位置に復元しています。事業年度 平成4年度事 業 費 1億6千万円(北大手門、石段等)門 形 式 木造平屋建いぶし瓦本葺き、四脚門建築面積 30.01㎡門 幅 5.4m門 高 7.2m材 質 ヒノキ(一部スギ)基 礎 自然石北大手門前に、「延岡城 続日本100名城 平成29年4月6日」城内配置図内藤家墓碑及び供養塔 平成十二年四月二十八日 延岡市文化財指定ここは、旧藩主内藤家の墓所です。以前は三福寺にありましたが、五ヶ瀬川の河川改修に伴い、明治四十二年九月にこの地に移されました。内藤家は三河国(愛知県)出身で、代々徳川家に仕えた三河以来の譜代で、元和八(1622)年、四代政長が磐城平藩(福島県いわき市)七万石の領主となり、延享四(1747)年、九代政樹のときに日向国延岡藩に転封となりました。墓所内には藩主の墓碑五基、一族の墓碑十九基、供養塔二十一基があります。藩主の墓碑は、磐城平藩初代であった四代政長、六代義泰、八代義稠と延岡藩の十一代政脩、十二代政韶のもので、十四代政順の妻で優れた道中記を残した充真院の墓碑もあります。墓碑の形式は、宝篋印塔七基、五輪塔五基、笠塔婆十一基、角碑一基となっています。このうち宝篋印塔は神奈川県鎌倉市・光明寺の内藤家墓所(昭和三十七年文化財指定)にも見られ、江戸時代の大名家の墓碑を特徴付ける貴重な文化財です。 平成十二年 延岡市教育委員会鎌倉の内藤家墓地に比べきれいに整備されているが、鎌倉市・光明寺の内藤家墓所にも延岡藩の末代までの墓碑があり定期的に清掃していると。「鎌倉の内藤家墓所」👈 をクリック願います。北大手門東側石垣本城の玄関口である大手門の東面石垣は、大小不揃いの割石を用い、横目地が通らない「乱積み」で積まれています。出角は、長辺と短辺が交互になるよう積み上げ、角石と角脇石からなる「算木積み」で積まれており、上部は緩やかな反りをもっています。また、この石面には、400個以上の「刻印」が残っています。これらは有馬家が携わった、元和6年(1620)から寛永5年(1628)の徳川大坂城天下普請の有馬家普請丁場周辺でみられる刻印に類似品が多く、大坂城築城に関わった技術者が延岡城の北大手門周辺石垣の構築を行った可能性が考えられます。この時期は有馬家が延岡城の大改修を行ったとされる時期(承応2年(1653)から明暦元年(1655))よりも古く、有馬家が延岡へ入封したすぐ後に、北大手門周辺を改修したことが想像されます。石に「文字のような刻印」がある黄色丸の中に見られる北大手門から石段を登ると正面に「千人殺しの石垣」千人殺しこの石垣は千人殺しと呼ばれ、敵が攻め入った時に石垣の一部をはずすと崩れ落ち、一度に千人を殺すと言い伝えられています。北大手門を見下ろす市指定史跡 延岡城跡 別 名 県(あがた)城・亀井城 指定年月日 平成十年三月三十日延岡城跡は、県(延岡)藩主・高橋元種によって慶長六~八(1601~1603)年にかけて築かれました。元種は、松尾城(市内松山町)を拠点としていましたが、鉄砲の普及による戦法の変化に対応するため、五ヶ瀬川と大瀬川に囲まれた丘陵に県内最大の近世城郭を築きました。当時は県城と呼ばれ、二つの河川を外堀とし、城内に内堀がつくられました。城は、天守台、本丸、二ノ丸、三ノ丸からなる本城(城山公園)と、藩主の居宅である西ノ丸(内藤記念館・亀井神社)の二郭で構成され、門・櫓などが整備されました。なかでも、二ノ丸にそびえる高さ約十九メートル・総延長約七十メートルの石垣は「千人殺し」と呼ばれ、本城郭を代表する石垣となっています。慶長十八(1613)年、元種は改易され、肥前国日之江(長崎県南島原市)の有馬直純が五万三千石で入封しました。・・・・・後略延岡城の藩主の変遷高橋時代 1587 ~ 1613年 <石高> 5万3千石(外様大名)有馬時代 1614 ~ 1691年 <石高> 5万3千石 → 5万石(外様大名)三浦時代 1692 ~ 1712年 <石高> 2万3千石(譜代大名)牧野時代 1712 ~ 1747年 <石高> 8万石(譜代大名)内藤時代 1747 ~ 1871年 <石高> 7万石(譜代大名)延岡城の年表慶長 6年(1601) 高橋元種が縣(あがた)城(後の延岡城)の築城に着手慶長 8年(1603) 高橋元種が松尾城から縣城に移る慶長19年(1614) 高橋元種が改易され、有馬家が縣(延岡)に入封明暦元年 (1655) 城郭の補修・整備が終わり、二階櫓・三階櫓が完成明暦 2年(1656) 有馬康純が梵鐘(後の初代城山の鐘 ※)を今山八幡宮に寄進天和 2年(1682) 家臣宅より出火、城域にも延焼し、三階櫓などが焼失(天和3年説もあり)明治 4年(1871) 延岡城が廃城明治10年(1877) 西南戦争により城山の太鼓櫓が焼失明治11年(1878) 太鼓櫓跡に今山八幡宮の梵鐘を移設昭和 9年(1934) 内藤家より公園用地として延岡市に城山が寄贈される昭和10年(1935) 昭和天皇行幸 城山公園視察平成 5年(1993) 北大手門を復元 平成10年(1998) 延岡城跡が市史跡に指定される ※ 梵鐘には、「日州延岡城主 有馬左衛門佐」の銘が刻まれており、これが現在確認でき る「延岡」の文字の初見史料となります。北大手門を上り、西側にある二の丸広場の奥に管理事務所。二の丸広場から北側を見下ろす、奥にある左から、「十一代政脩」「四代政長」「六代義泰」「六代義泰後室」の墓碑。内藤家墓所配置図下側が入り口で、北大手門前。中央にある「位牌堂」は、平成15年、東京天徳寺に移設と。墓地の全景、右方向が北大手門二の丸広場にある管理事務所。続日本100名城のスタンプはここに置かれており、終日捺印ができる。入口に「駐車券無料処理機」の大きな看板。スタンプ台延岡城 御城符 配布案内続日本100名城のスタンプを捺印後、内藤記念館へお越し下さい。御城符をお渡しします。内藤記念館(現 延岡市役所南別館内) 開館時間:9:00 ~ 17:00 休 館 日 :毎週月曜日スタンプを頂きました。デザインはやはり「千人殺しの石垣」。管理事務所前から、「千人殺しの石垣」。千人殺しの石垣この石垣は、一番下の根石を外すと石垣全体が一度に崩れ、「千人の敵兵を殲滅する」と言われ、通称「千人殺しの石垣」と呼ばれています。石垣は法長約22m、高さ約19mあり、熊本城宇土櫓台、小倉城天守台に次ぐ九州屈指の規模を誇り、宮崎県唯一の高石垣です。石垣の積み方は、自然の石をそのまま使用する「野面積み」を主体とし、隅角部は細長い長方体の石を長辺・短辺が互い違いになるよう積み上げ強度を高める「算木積み」、石垣上部は、当時の最先端技術である石垣に勾配をつける「反り」の技法が用いられています。石垣に用いられている築石には、矢穴や刻印がありますので、じっくりと観察してください。隅角部にあるコンクリートは、昭和10年の昭和天皇行幸の際に補強されたものです。城山ヤブツバキ群についてここ城山公園には数多くのヤブツバキが育っています。花は毎年十二月から三月にかけて咲きます。ヤブツバキといえば、紅色の花がふつうですが、ここでは白色から桃色、濃紅色までの色の変化があるだけでなく、白地に紅の斑入り、絞りあるいは覆輪などの複色の花もたくさん見られます。花の大きさも形もいろいろで叉、一本の樹に枝によって違う色の花をつける咲き分けもあり、なおかつ園芸価値の高い素晴らしい花もあります。どの樹もそれぞれ異った特徴をもち、同じものがみられないことから、この『城山ヤブツバキ群』は自生であろうと考えられ、自生でこんなに多彩な変異をみるにつけ今後も新しい変異の発現が期待されます。この『城山ヤブツバキ群』のように、せまい範囲に集中して多彩な変異が発現している例は、他に島根県松江城の椿谷と千葉県大原町伊能滝があるくらいで、日本三大ヤブツバキ群の自生地の一つとして『城山ヤブツバキ群』は全国に誇り得る貴重な存在であります。 平成元年十一月作成 寄贈 延岡ロータリークラブ城山のヤブツバキ(写真はパンフレットから)竹柵の中は「井戸跡」内藤家文書の「日向国延岡御本城御要害絵図」によると、ここに二ヶ所の井戸が描かれており、発掘調査によって絵図資料と合致して確認された。ここは、元来丘陵の谷筋にあたることから湧水を想定したと思われる。さらに、斜面裾から井戸の間を通って北大手門階段方向に延びる暗渠(排水路)も確認されており、井戸を確保しつつ地盤強化を図るなど、当時の技術水準の高さが窺える。二ノ丸と本丸の間に築かれた石垣は高さ約19メートルを誇る。前方に、二階門櫓跡地園路面にある四角い石は二階門櫓の根石跡の場所二階門(櫓門)跡二階門(櫓門)は、千人殺し石垣西側の長坂門から本丸までの経路を護る「内枡形門」で、二階部分が櫓、下部が開閉式の門になっていました。門の大きさは、南北3間(約6m)、東西8間半(約17m)あり、城内では三階櫓に次ぐ規模の建物でした。突入して来る敵兵をここで迎え討つために設けられ、背後の本丸を守護する堅固な防御施設でした。1998年(平成10年)に発掘調査を行った結果、櫓門の柱を載せる根石跡が検出されました。現在、園路面にある四角い石は、その根石跡の場所になります。右側に、二階門櫓門の根石跡本丸へ上り二階門櫓を見下ろす本丸跡地本丸跡に立つ、内藤政挙公像、殉国慰霊塔。城山公園には、昭和55年(1980)に延岡市と姉妹都市を締結したアメリカ合衆国マサチューセッツ州メドフォード市より寄贈された桜をはじめ約250本の桜(ソメイヨシノ)が植えられている。3月下旬から4月中旬にかけては夜桜電飾が行われる。殉国慰霊塔内藤政挙公像延岡藩最後の藩主・内藤政挙(まさたか)公は、幕末から昭和にかけて教育や産業を振興し、延岡の近代化に貢献しました。特に教育に力を入れ、亮天社や女児教舎を設立して、延岡の文化と教育の発展に尽力しました。また、内藤家が所有する日平銅山(北方町)の余剰電気を安い料金で町民に供給するなど、「延岡の父」と呼ばれています。像の台座に「内藤政挙公」天守台跡延岡城は宮崎県を代表する近世城郭で、高橋元種により、慶長6年(1601)から慶長8年(1603)にかけて築城されました。天然の要害を利用し、本市の中心部を流れる五ヶ瀬川、大瀬川を南北の外堀とし、その中洲に所在する標高約53メートルの独立丘陵に本城を築いています。本城(城山公園)は、本丸、二ノ丸、三ノ丸の三区画で構成されている。天守台跡に立つ、内藤家文書の「有馬家中延岡城下屋敷付絵図」によると、○○○○○あるが天守閣はみられない。これは、天守閣がない南九州の○○○○○色にもなっている。また、明治初年頃の絵図には鐘つき堂の前身○○○鼓櫓があったとされるが、同十年の西南の役で焼失した。天守台に建つこの建物は?。毎日定刻に鐘を撞く鐘守の方の住宅か?天守台ここは有馬氏時代に製作された「有馬家中延岡城下屋敷付絵図」(明治大学博物館所蔵)では、「天主台」と記されていますが、天守閣は描かれていません。しかし、慶長年間の「日向国絵図」(臼杵市教育委員会所蔵)には、望楼型の三重天守が描かれています。このことから天守閣が存在したという可能性も否定できませんが、平成6・7(1994・1995)年に発掘調査を行った結果では、天守閣の存在を示す資料は得られませんでした。明治初年頃の絵図には鐘撞堂の前身となる太鼓櫓があったとされますが、同10(1877)年に西南の役で焼失。翌11(1878)年、有馬氏時代に今山八幡宮に寄進された梵鐘が天守台に移設され、以後、現在も鐘守の手によって時を告げる鐘の音が鳴り続けています。なお、現在の鐘は二代目にあたり、昭和38(1963)年の市制施行30周年記念事業で鋳造・設置されたものです。初代の鐘は、教育委員会に保存されています。鐘楼堂城山の鐘は明治11年(1878)から昭和38年(1963)まで時報鐘として市民に親しまれてきた初代・城山の鐘は、江戸時代の明暦2年(1656)に当時の延岡藩主・有馬康純が今山八幡宮に寄進したもので、現在は内藤記念館で展示されています。昭和38年に造られた2代目となる現在の鐘は、今でも1日6回(6時・8時・10時・12時・15時・17時)、鐘守の手によって市民に時を知らせています。延岡城にはちょうど12時に着いたが鐘の音がしたのか?このため無断で鐘を撞かないで下さいと!石柱には「延岡城 続日本100名城 平成29年4月6日認定」と郷土の生んだ歌人若山牧水の歌 共に全国に知られている城山の鐘は延岡地方に○○○古の有銘鐘でその銘文に・・・・・・(判読できず) 昭和三十八年二月十一日 市政三十周年記念日 延岡城山の鐘をつくる會天守台跡から東方面の延岡市街地。㈱NTT西日本ー九州越しに「五ヶ瀬川」、「大瀬川」、遠く日向灘方面を見る。大瀬川、遠く日向灘。手前に延岡市クリーンセンターの煙突。紅白の煙突は旭化成のベンベルグ工場。延岡と言えば旭化成が全国的に名を知らせている企業城下町である。宗兄弟のマラソン、駅伝と陸上で名を売っている。北方向にある延岡市役所12:25北方向の山を切り崩しているようだが — 続く ー
2022.01.15
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四日目は宮崎市内から国道10号を大分市内へ北上。今日の目的地は、宮崎県の延岡城、大分県の佐伯城、臼杵城の三城登城だが途中にあった日向の大御神社(おおみじんじゃ)へ急遽立ち寄り参拝した。11月17日(水) 10:40鵜戸神社への途中に東屋風の休憩所。大御神社境内東奥に位置する鵜戸神社には、洞窟があり、奥から外を眺めると洞窟入口付近の形が「昇り龍」のような姿に見えることから、龍神信仰の痕跡ではないかと考えられている。日知屋城跡 西の曲輪日知屋城は西側だけが陸とつながっていて、故に攻められやすい弱点をもっています。そこで本丸を守るため尾根の西側に城兵のこもる曲輪をつくりました。ここでは城兵たちが野営の際に利用した石組の囲炉裏跡が発見されています。日知屋城跡の西の曲輪?この方向に亀岩があると海岸線を見下ろすと確かに「亀岩」。三代の亀の「子亀」であろうか鵜戸神社への案内幼稚園児が多く訪れていた大御神社境内社鵜戸神社御由緒と御祭神 千古の神秘を湛える洞窟に鎮座まします鵜戸神社は鵜葺草葺不合命(ウガヤフキアヘズノミコト)彦火瓊々杵命(ヒコホノニニギノミコト)彦火々出見命(ヒコホホデミノミコト)豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)塩筒々大神(シオツツノオオカミ) 五柱を御祭神として奉祀し、奉祀の年代は詳らかではないが、古くより鵜戸さま鵜戸さまと 御威徳を慕われ、安産、航海安全、交通安全、厄難削除、事業繁栄の御霊験灼かとして、御 霊域をたずねる奉賽の人は、いよいよ多くなってきた。 例祭日 旧暦 正月十六日 旧暦 三月十六日 旧暦 十一月十六日急な狭い坂を子供たちが下りていた。木の柵があるが子供たちには何ら効果がない高さであったが。4才から6才の子らであった急な坂を下りたち、鵜戸神社の入り口龍宮(鵜戸神社)5,000年前、縄文時代の人々が龍神信仰をしていたと思われる岩窟であることが解りました。奥にある御社の前に立ち、入口の方を振り返ると天に昇る白龍がご覧いただけます。岩窟は、高さ20m、幅8m、奥行40m。上部の石の隅々が尖っていることから人の手により掘り進められたものと見られ、洞窟奥に御社が鎮座する。洞窟の中に入り振り返る幼稚園児たちも説明を聞いていたが???では。御社の前に、「ここから入口を振り返って下さい。」と御社の前に立ち、入口を眺めると左右の岩の間が「天に昇る白龍」となっている。俳優の三宅裕司が ”ふるさと探訪” でここを訪れ、宮司から説明を受け2019年10月に放送していたことを思い出す。少し左右にずれるだけで見える光景が違う。御社の前に「ここから入口を振り返って下さい」とあったが足形がないので。子供たちは早々に鵜戸神社の前から日向灘を望むこの日は波静かであったが子供たちより先に坂を上り、鵜戸神社入口へ。鵜戸と聞き宮崎県日南市の「鵜戸神宮」と勘違いした。北側の展望台にある休憩所から南方向にある大御神社を見下ろす。満潮時にはまた違った光景に。大御神社の境内社殿をズームアップ西側の櫛ノ山の山頂に日向仏舎利塔が建つ。仏舎利塔をズームアップこの日向仏舎利塔は日向市日知屋の櫛ノ山に所在する。仏舎利塔のデザインのモチーフになっているのは大岡實の仏舎利塔作品で最も多いルアンウェリーの小ストゥーパ(スリランカ/セイロン)となっているようだと。日知屋城への?門日知屋城趾と由来記碑日知屋城由来日知屋城は、鎌倉時代末期から室町時代の半ばごろまでの間にこの地方の地頭職であった伊東氏(工藤祐経の後裔)によって築かれ天正年間まで同氏の居城であった。当初、塩見城に在って富高、塩見荘一円を支配していた土持氏に対向するための重要な砦であったから、天然の地形を利用して、かなり堅固に築かれていたらしい。後に土持氏を駆逐して塩見城が伊東氏の領するところとなってからも、北方の一大勢力であった大友氏に対する戦力的拠点として、門川塩見城とともにその存在価値は薄れなかった。伊東氏は祐国、伊佑の時代から飫肥城の攻防をめぐって島津氏との確執が続いた。その戦いで祐国が戦死したとき弟の日知屋城主祐邑は、大友と結んで伊東家の安泰をはかり島津氏に当たるべく画策し、かえって一族の誤解を受け、この城内で暗殺された。智勇兼備の名将として人々に慕われた祐邑の死を惜しんで、いまこの地方には、日知屋城にまつわる多くの伝説が語りつがれている。日向岬MAP日向市は、細島港という天然の良港に恵まれ、古くから県のゲートウエイとしての役割を担ってきた。また、俳優の三宅裕司がTV番組の ”ふるさと探訪” で視聴者からの手紙で日向市を訪れ、2019年10月に放送していた。この時の訪問先は、 ① 日向市の馬ケ背、 ② 道の駅 ほそしまで「ごんぐり」を食する、 ③ 大御神社の登り龍、 ④ 美々津の「お船出だんご」をバンコで食べる。バンコとはポルトガル語で長椅子と。11:05伊勢ヶ浜門前まち観光案内所駐車場から、大御神社鳥居。コロナの感染が落ち着き駐車場には高校生が乗ってきた観光バスが一台。急遽立ち寄った大御神社を後にし、延岡城へ向かうことに。11:12駐車場から西へ向かい、県道23号線(細島港線)江良4丁目交差点を右折11:16県道23号線を進み、曽根4丁目交差点を左折して県道15号線(日知屋財光寺線)の並木道。11:16新開橋交差点を右折、県道15号線を進み国道10号へ。11:16信号待ちで右側を見れば細島港。11:30仙ケ崎交差点で国道10号と合流して右折、交差点から北上して延岡方面へ。並行して走る日豊本線。この列車は特別急行列車の「にちりん」。ネットで調べると列車は、日向駅発11:21、にちりん8号(&ソニック)、大分(博多)行き。道路標識には、「800m先を左折 県道49号線を進むと、土々呂駅」。11:33左側を日豊本線が並行して走る。11:39国道10号を北上、ここ平原町交差点を左方向へ進み延岡市街へ、前方に旭化成の煙突が聳える。宮崎市は、宮崎県北部に位置する市である。中心地域は宮崎県北部の中心都市としての性格を有する。 戦前より宮崎県内屈指の工業都市で、旧北方町、旧北浦町、旧北川町との2007年の合併前の延岡市地域は旭化成の創業地工場群があるいわゆる企業城下町である。人口は、12.52万人(2015年)。延岡市街に入り、カーナビの到着予定は、11:49、残り距離 2.7kmと。11:46県道16号線(稲葉崎平原線)の県病院入口交差点前を進む。11:50車窓から山の上に延岡城。11:57北城山街区公園の北駐車場へ到着。所在地:宮崎県延岡市本小路駐車場横の公園には黄葉したイチョウの木が聳える。入庫時に駐車券を取る、有料だと。駐車場は、「城山公園北駐車場」及び「城山公園南駐車場」の2ヶ所があると。※ 利用時間は午後6時から午前9時までは入庫できません。夜の駐車は出来ないと!駐車場にあった、延岡城(城山公園)案内図。延岡城の概要延岡城は宮崎県を代表する近世城郭で、高橋元種により、慶長6年(1601)から慶長8年(1603)にかけて築城されました。天然の要害を利用し、本市の中心部を流れる五ヶ瀬川、大瀬川を南北の外堀とし、その中洲に所在する標高約53メートルの独立丘陵に本城を築いています。本城(城山公園)は、本丸、二ノ丸、三ノ丸の三区画で構成され、本丸と二ノ丸の間に築かれた石垣は高さ約19メートルを誇り、通称「千人殺し」と呼ばれています。「千人殺し」とはその規模、構造から石垣の隅石を外すことで、千人の敵を倒すことができるとの伝承からこの名称がつけられたと言われています。延岡城は、(公財)日本城郭協会により、平成29年(2017)4月6日に続日本100名城に認定されました。案内図は下側が「北方向」城山公園管理事務所 お知らせ● 駐車券をお持ちの方はこちらの駐車券処理機で磁気処理(3時間無料)を行って下さい。● 「続日本100名城スタンプ」はここで押印できます。● 石垣マップ・パンフレットはご自由にお取りください。【注意】官舎(鐘守住宅)には立ち入らないで下さい。うれしいことに駐車料金は無料と。11:59北大手門への石畳を登る。右側の木柱には、「市指定史跡 延岡城内堀跡」。 ー 続く ー
2022.01.14
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引き続き、日向市美々津重要伝統的建造物群保存地区の立磐神社を散策。11月17日(水) 10:04拝殿の左側から廻りこみ、本殿(切破風造)2.7坪。屋根の銅板葺き替え工事が令和二年度拝殿、令和三年度本殿改修工事が行われたようだ。社殿の左側に、「磐座」松吉稲荷神社地元有志により祀られた松吉稲荷神社耳川に架かる国道10号の美々津大橋。耳川は、宮崎県東臼杵郡椎葉村大字不土野の九州山地三方山に源を発し東へ流れる。宮崎平野を流れ、日向市大字幸脇と氷河市美々津町の境界から日向灘に流れる二級水系の本流である。美々津川とも呼ばれ、耳川の戦いの古戦場で有名。美々津大橋の上流側に日豊本線の耳川橋梁が架かる。拝殿前から東方向の参道苔むした岩に黄色のツワブキ御神木のくすの木の根元にツワブキが咲く境内を振り返る燈籠の後方に、「神武天皇御腰掛磐」の碑立磐神社を後にする保存地区の入口に、高札場(まちなみ広場)がある。駐車場は別の所にあるがトイレがある。日向市美々津伝統的建造物群保存地区案内図① 立磐神社 ② 正覚寺 ③ 愛宕神社 ④ 美々津県庁跡⑤ 美々津公民館 ⑥ まちなみセンター ⑦ 美々津軒 ⑨ 日向市歴史民俗資料館⑩ 漁業生産組合倉庫(ちりめん加工工場) ⑪海軍発祥の地・記念碑 ⑫ 日向市美々津まちなみ防災センター ⑬ 高札場(まちなみ広場)港から南に延びる三本の主道路や、それらに直交するツキヌケ(防火地)は江戸時代に設けられたものと伝えられており、旧い敷地割や石畳などとともに美々津の歴史的景観を構成する重要な要素になっている。上記案内図の色の説明ツキヌケは江戸時代につくられた防火地高札場跡景観整備について高札は、立札ともいう。木の板に法令・禁令等を墨書したものである。江戸時代は幕府や藩が民衆に対し直接的に伝達する手段でした。都市や農村の交通の多い市場や辻等の要衝の地の高札場に掲げた。高札の規格は、伝達文の内容により大小様々である。奈良時代にはじまり、鎌倉時代は禁制・制札とも呼称される。高札場は、政治的権利の主張する場であり、民衆は立札と呼ばれる自らの札を立て一揆を呼びかけることもあった。高札・高札場は、支配の象徴であり、民衆の自治と情報伝達の場でもあった。明治六年(1873)廃止される。本事業では、高鍋藩支配の美々津において、この場所が高札場であった旨伝えられていることから修景事業として整備した。なお、藩政時代の高札・高札場の状況は明らかではないが、私本「立縫抄」(渡辺綱男著)に昭和初期地元古老より聞き取り調査した地図が掲載してあり、高札場・札の辻の記載がある。現在、宮崎県においては、唯一、明治初期の太政官布告の高札(145×55、山型)が県立博物館に所蔵されている。 平成十一年三月 日向市教育委員会高札場(まちなみ広場)に立つ道案内暖簾に「お休み処 伝統的建造物 旧 近藤家」、「美々津軒」10:10高札場(まちなみ広場)に立つバス停「立縫の里」。神武天皇の衣服が破れたが、立ったまま縫ったので、立ち縫いの里と呼ばれるようになった、と伝わると。急遽立ち寄った日向市美々津の保存地区から、国道10号を北上延岡へ向かうことに。美々津の保存地区から坂道を上り、国道10号美々津交差点。この交差点を右折、国道10号の美々津大橋を渡り北上。日豊本線に平行して国道10号は北上。国道を一路北上するが目的地は私の頭の中にはなく。10:22カーナビはここ国道10号お倉ヶ浜交差点を右折指示。道路の左側に、「大御神社 3km」の案内板。カーナビの目的地到着時間は、10:29、残り 3.1kmと。美々津(矢印)から国道10号を北上、大御神社(丸)へ10:30伊勢ヶ浜門前まち観光案内所駐車場(無料)へ到着。大御神社(おおみじんじゃ)所在地:宮崎県日向市日知屋1番大御神社は、日向のお伊勢さまと呼ばれ親しまれている。日向のお伊勢さま大御神社(おおみじんじゃ)御祭神 天照皇大御神 国登録有形文化財日本最大規模「さざれ石」群 大御神社周辺点在図駐車場脇のトイレ前に幼稚園の園児が座り込み園児はマスクを着けていないようだが日向市のおすいマンホール蓋市章の周りに市の花ヒマワリの花が三つ描かれています。「ひゅうがし おすい」と表記。駐車場脇に「日知屋城趾」碑日知屋城跡は、伊勢ケ浜南岸の岬に築かれた城で、伊東氏と係わりが深く、塩見城・門川城とともに三城と呼ばれ重要視された。文明18年(1486)には、伊東氏5代祐国の弟祐邑が当城で暗殺されており、また伊東氏の飫肥侵攻をはじめとする宿敵島津氏との合戦に際しては城番の福永氏や日知屋衆が軍勢催促を受けて、入郷地域の諸将とともに出陣していた。したがって日知屋城の歴史は伊東氏の歴史とも言える。伊勢ヶ浜海浜公園 日知屋城址案内図城内に入ると不整形に削平された6ヶ所ほどの曲輪があり、要所には土塁や空堀、それに櫓台等の防御施設も付設されている。全体的な縄張りは地形や岩盤に制約されているためか、まとまりに欠けるきらいもあるが、こうした状況が中世城郭に見られる特徴であることは言うまでもない。海岸に建つ、「大御神社」大海原を見渡す絶景の柱状岩上に建つ大御神社は、古くは天照皇太神宮と言われ、皇孫瓊々杵尊が皇祖天照大御神を奉祀して、平安を祈念されたと云われています。また、神武天皇御東征の砌、天皇は当神社にご参拝になり武運長久と航海安全を祈願されたと伝えられています。日向のお伊勢さま大御神社御由緒並に沿革 御祭神 天照皇大御神大御神社は、皇祖天照大御神を御祭神とする古社で、創建の年月は詳らかではないが当社に伝わる「神明記」その他の古文書によれば往古皇大御神・日向の国高千穂に皇孫瓊々杵尊を天降し給うた節、尊は当地を御通過遊ばされ、千畳敷の磐石にて、これより絶景の大海原を眺望され、皇祖天照大御神をお祭りして平安を祈念されたと伝えられ、後世、此の御殿の霊石の在りし所にに一宇を建て皇大御神を勧請し村中の鎮守と崇敬し奉ると言う。また、神武天皇御東遷の砌、大鯨を退治された御鉾を建てられたことから、鉾島が細島に転じたと伝えられているが、天皇はこの時、伊勢ヶ浜(脇の浜)から港に入られ、皇大御神を奉斎する御殿(現在の大御神社)に武運長久と航海安全を御祈願されたと伝えられ、大御神社の西に横たわる櫛の山(槵の山)と、東に隆起する米の山(久米の山)は、神武天皇の先鋒の天櫛津大久米命の名に因むものであると言う。その後、当社は日知屋城主伊東氏ら歴代城主はもちろん、延岡城主、幕領代官等に尊崇され、地方の民も「日向のお伊勢さま」と呼んで崇敬し、且つ親しんできたのである。最近ことに、御神徳を慕って県内外の参拝者が激増している。大御神社の社名は天照皇大御神の大御をいただいて社名としたと伝えられている。現在の御社殿の改築は昭和十三年に完成し、資材は高千穂地方の神社の境内木が使用されている。 例祭日 十一月十五日 十六日社務所、手水舎が海に向って建つ社務所の前に、御社殿屋根葺替銅板 御奉献のお願い当大御神社の御社殿は、平成十一年に国登録有形文化財の指定をうけておりますが、銅板屋根が長年の風雨、特に台風・塩害による損傷が著しくなってまいりました。そこで御社殿の屋根葺替等の整備を行い、御神威の発揚とともに貴重な文化財として後世に守り伝えて行かねばならないと存ずる次第でございます。つきましてはご参拝の皆様方の真心からなるご協賛を賜りたく屋根葺替用銅板の御奉献をお願い申し上げます。 銅板 一枚 2,000円 お申し込み受付は お守り授与所にてお願い致します。因みに、先程参拝した立磐神社では「銅板 一枚 3,000円」でした。大御神社の社殿大御神社は、天照大御神をご祭神とする古社で、「日向のお伊勢さま」として知られ、国内では珍しく絶景の大海原を見渡す柱状岩を背に立つ神社です。拝殿の扁額「大御神社」登録有形文化財 第45ー0008 ~ 0009号 この建造物は貴重な国民的財産です 文化庁南方向の、お倉ケ浜海水浴場境内の南方向にある、日本最大級「さざれ石」群 !!。平成15年の秋、境内地拡張の際に発見された「さざれ石」群は、国内最大規模であるとみられています。今から約2千万年前に、大御神社付近は大きな川の流れる浅い海岸平野でした。その河口付近には大量の礫(石ころ)が堆積し、粘土や砂などと混じり長い年月の間に凝固して「さざれ石」となりました(写真はパンフレットから)。神座(かみくら)(さざれ石)天孫瓊々杵尊(ににぎのみこと)がお立ちになり絶景の大海原を眺望されたと伝えられる。(周囲30m 高さ4m)日向灘を望む海岸線は柱状節理南側からの大御神社社殿境内の北方向に社務所、入口龍宮(鵜戸神社)参道入口龍宮(鵜戸神社) ここから歩いて三分の所にあります。5,000年前、縄文時代の人々が龍神信仰をしていたと思われる岩窟であることが解りました。奥にある御社の前に立ち、入口の方を振り返ると天に昇る白龍がご覧いただけます。北方向に廻り、大御神社社殿。満潮時になると砂浜まで水位が上がるのであろうか。左手前に「親亀」現在の社殿は、昭和13年(1938)10月に全面改築されたものであり、建物全体が直線形の木造銅板葺で切妻屋根を支える力柱を持ち、棟の両端にV字型に千木を突き出す神明造りが特徴。本殿裏の波打つ柱状岩と相まって独特の雰囲気を醸し出し、特に海岸より観る姿は実に美しい。設計施工は当時全国的に活躍していた宮大工・谷山武義(四国出身)で、建築資材は高千穂地方の神社の境内木(杉材)が使われている。その後は改築もほとんどされていない。三代の亀(親・子・孫)今から約1500万年前のこと。神社の沖にある海底火山の活動により、この海岸一帯は多量の火砕流が押寄せ堆積しました。そして長い年月をかけて固まったのが柱状節理(溶結凝灰岩)です。長寿を象徴するめでたい亀。悠久の時を経て、大自然がもたらすこの三匹の亀岩の見事な芸術をご覧下さい。 大御神社社務所沖側に「孫亀」、手前に「子亀」10:40西の曲輪、堀切日知屋城跡 堀切岬の城である日知屋城跡を陸地から攻められにくくするために掘られたU字形の溝が「堀切」です。ただこの場所は岩場であるため深い溝を掘るのは大変な作業だったと思われます。 ー 続く ー
2022.01.13
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日向市美々津重要伝統的建造物群保存地区の散策を続ける。高鍋秋月藩の港町として栄えた美々津は、風光明媚な町並みが印象的。特に立縫地区は、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されており、廻船問屋が軒を連ねた江戸末期頃の面影が今も色濃く残っています。11月17日(水) 9:34レトロな雰囲気が漂う町並みには、古民家を改築したカフェやゲストハウスなどがあり、当時を偲ばせるさまざまなアイテムが訪れる人々の郷愁を誘います。また、この地はのちに初代天皇となるカムヤマトイワレヒコノミコト(神武天皇)が東へ向けてお舟出したという伝承が残っており、日向神話の舞台でもある。神武東征御船出の地として広く知られている美々津の町には、おきよ祭りなど、お舟出の地にふさわしい多くの伝承行事が残されている。その美々津の河口に注ぐ、約70キロの耳川は、九州山脈を東西に蛇行する深い渓谷に育まれながら、四季の香りにつつまれたすばらしい景観と、その流域に生きる奥日向の人々のおりなす風物詩とともに、古戦場として今なお秘められた足跡を残しています。各町筋には共同井戸があるショッピングセンター かわの所在地:宮崎県日向市美々津町3346八女養蜂場 はちみつ 1本 550円 1000g安いと思い土産に一本購入したが、シロップ入りのハチミツであった。美々津海岸北方向を望む、山の中腹に「道の駅 日向」がある。道の駅 日向から見た灯台ここにも共同井戸がある旧中町共同井戸井戸の後方に、「猿田彦御命」の石碑、小さな社が建つ水の関係の水神であろうか美々津町並 保存地区 歴史民俗資料館 の案内標示旧東海道散策時によく見かけた蹴上式の縁側?通りから東側の美々津海岸手前に、共同井戸の屋根石畳の通りを北側へ向かう「石畳道路について」現在の石畳路面は平成四年度地域個性形成事業により景観に併せて修景したものであり、復元したものではありません。本来の石敷は、自宅玄関前の一部に自然石を敷き詰めて施されていました。実際に敷かれていた石は露路の突き抜け部分に移転復元しております。 平成五年三月 日向市教育委員会中町にある、「旧回船問屋、元河内屋」。昭和55年日向市に寄贈された市指定文化財(伝統的建造物)「旧廻船問屋、元河内屋」は、昭和57年、国県の補助を受け、総工費約6,000万円をかけて安政2年(1855年)の商家「河内屋」に復元されたもので、日向市歴史民俗資料館として開館し、全国的に珍しい河口に面した港のある江戸時代の町家をしのぶことができる。通りを車で走り左によせて駐車。日向市歴史民俗資料館おばさんから「是非よって」と言われたが「先を急ぐので」と市指定文化財 廻船問屋 河内屋敷区 分 有形文化財(建造物)指定年月 昭和五十六(1981)年一月二十日所 在 地 日向市美々津町三二四四番地面 積 三一三、六三平方メートル監理所有者 日 向 市 沿 革美々津は、江戸時代から高鍋藩の商業港として栄えた町です。当時の美々津には数多くの商家が軒を並べていました。なかでも河内屋は、有力な廻船問屋のひとつに数えられていました。河内屋は安政二(1855)年に建てられたもので、広い間口と奥行きをもち構造上は平入造りに属し、一階南側に通り庭を築き、正面には出格子や格子戸を設け、二階の正面には虫籠窓を設けるなど典型的な商家造りの意匠を残しています。また、江戸時代末期から明治時代にかけての商取引関係の古文書も残されています。昭和五十五(1980)年に土地・建物が所有者(黒木久衛子氏)から日向市に寄贈されました。昭和五十七(1982)年に日向市が国・県の補助を受けて修理復元を行い、日向市歴史民俗資料館として活用しているものです。 日向市教育委員会開館中日向市歴史民俗資料館ご案内一、開館時間 午前9時 ~ 午後4時30分一、休 館 日 毎週月曜日 年末年始(12月29日 ~ 1月3日)一、入 館 料 大人 220円 子供 110円 日向市教育委員会門前に、立磐神社改修費用御奉納のお願い【 令和元年、立磐神社の改修工事がはじまります。】今般、氏子会を始め行政等のご支援をも頂き、立磐神社改修工事を3か年計画で行う予定です。つきましては、今年度の屋根銅板葺き工事にあたり、新しく使用する銅板を次の要領で御奉納頂ければ有難く存じます。 銅板1枚 3,000円保存修理中の古民家もまちなみ防災センター日向市消防団第七分団第二十二部 駐車禁止ここは、災害時の緊急車両が出入りするため一般車両は、駐車厳禁です。ご協力お願いします。 日向市消防本部 日向市教育委員会9:56美々津保存地区の北側へ車を駐車。立磐神社の前に観光案内板、正面に立磐神社の鳥居。国選定 日向市美々津重要伝統的建造物群保存地区所 在 地 日向市美々津町字上町・中町・下町・上別府の一部選定年月日 昭和六十一年十二月八日面 積 七・二ヘクタール 概 要美々津は、古い歴史を持つ港町で、中世には集落が営まれていたと考えられており、江戸時代に入ると高鍋藩の商業港として重要視され、藩主秋月氏もこの港を参勤交代に利用していた。保存地区に選定された上町・中町・下町は耳川河口に築かれた港の隣接地に当り、江戸時代から明治時代の平入・妻入建物が数多く残されている。また港から南に延びる三本の主道路や、それらに直交するツキヌケ(防火地)は江戸時代に設けられたものと伝えられており、旧い敷地割や石畳などとともに美々津の歴史的景観を構成する重要な要素になっている。 平成元年二月 日向市教育委員会 設置 平成五年二月 高齢者福祉システム開発実践協議会修復● 上町:江戸時代の豊後街道にあたる道筋です。明治時代の平入・大壁作りの町家が 多く、寺院も建てられててられています。● 中町:上町に次ぐ繁華街で、江戸時代に建てられた妻入・平入の大壁作りの町家が あり、商人町として栄えました。● 下町:度重なる津波によって南部の道路や町家は流失しています。現在の町並みは 明治時代以後に成立したものです。現在地は、黄色の矢印後方は、耳川、広場に建つ、「美々津渡し場・高瀬舟終着場之跡」石柱大きな、「日本海軍発祥之地」碑神武天皇御親率の東征水軍御進発の聖地「日本海軍発祥之地」碑建立・昭和17年(紀元二千六百二年)9月10日 復元・昭和44年(紀元二千六百二十九年)9月12日 建立・復元の経緯と碑文の由来日本海軍は、天皇が統帥された海軍でありました。このことから国が、神武天皇御親率の水軍がはじめて構成され、進発した美々津の地を「日本海軍発祥之地」と定め、紀元二千六百年記念事業の一環として建立されました。碑文の文字は、時の内閣総理大臣海軍大将米内光政閣下の揮毫により、碑面に刻記されたものです。この碑は、大東亜戦争の終戦直後進駐米軍によって碑文が破壊されましたが、昭和44年に至り地元有志の強い要望により、防衛庁(海上自衛隊)などの協力を得て、現在の通り復元されたものです。 平成4年9月12日 「日本海軍発祥の地」碑顕彰保存会 平成30年6月1日 日向広域自衛艦艇協力会海軍両爪錨海軍両爪錨展示碑文当地は、神武天皇が大水軍を編成され、御親率されて御東行の御船出をされた日本海軍発祥の地と伝えられている。昭和十五年(1940)には、皇紀2600年記念を祝い、日本海軍協会、大日本海洋少年団、大阪毎日新聞社主催により、軍船「おきよ丸」を造船し、この美々津港から大阪中ノ島まで神武天皇東行の聖蹟を巡航し橿原神宮に神楯を奉献した。この日を記念して企画された「日本海軍発祥の碑」の建立と「両爪錨」の製造が昭和十七年(1942)に実現したのである。爾来、この錨は、太平洋戦争から戦後の混乱期を経て昭和二十七年(1952)に創設された海上自衛隊に移管されていたものである。そして、その錨が半世紀余を経た今、海上自衛隊のご厚意により、生誕地である日本海軍発祥の地に帰還したことは、日本海軍史の象徴といえるこの錨と神武天皇御船出の地の奇しき因縁を感じるものである。私たちはここに、わが国の平和と安全を希求し、国民の財産と生命を守るため日夜、刻苦精励されている海上自衛隊の一層のご発展を祈りながら、この錨を恒久の平和のシンボルとして世界中に発信して行くことを誓うものである。 平成十四年十一月吉日立磐神社(たていわじんじゃ)所在地:宮崎県日向市美々津町3419立磐神社は、その昔、神武天皇御東遷の際、美々津港より御船出するにあたり、航海の安全を御祈念され、海上の守護神であられる底筒男命、中筒男命、表筒男命の三神を奉斎したことに因んで、第十二代景行天皇の御代に創祀された。立磐神社の由緒当社は神武天皇御東遷の際、美々津港より御船出し給うに当り、御航海の安全を御祈念せられて、この埠頭に住吉大神とも申し奉る、底筒男命、中筒男命、表筒男命の三柱の大神を奉斎し給うたとて、第十二代景行天皇の御代に創祀されたものである。其後多くの変遷隆替を経ましたが、貴き伝説と特異の行事等は、今も尚連綿として継承されています。かくて永禄の頃より地頭の崇敬あり、祭礼行事も殷盛となっていました。然るに天正六年(約四百四十年前)大友氏と島津氏との戦火にかかり、宝物文献記録等皆烏有に帰したのであります。其後元和九年に再興し、寛文宝永の頃完く旧観に復して、領主より神領を供されて社殿増築をなし、又神事ある毎に寄進あり。かくて明治初年まで歴代藩主の崇敬せられた神社であります。 更に境内には「神武天皇御腰掛岩」があり、玉垣を巡らして岩そのものを御神体として崇拝しています。明治4年郷社に列格、やがて、昭和九年は恰も神武天皇が御船出せられて丁度二千六百年に相当するので、之を記念して国家的大祭典を挙行せらるるよう県当局へ申出し処承諾され、終に秩父宮殿下を総裁に仰ぎ、松平頼寿伯を会長に酒井忠正伯と君島知事を副会長として全国的な御東遷二千六百年祭典が斎行されました。当社記念事業としては(1)境内を更に拡張整備した。(2)竜神バエの岩上に住吉灯籠を摸したる神のみあかし灯台が設置された。(3)日本海軍発祥の地の記念碑が建立された。(4)おきよ丸御東行巡路漕舟大航軍を挙行された。これは日向国の青年百五十名が漕舟して 美々津港を船出し途中天皇がその昔寄港せられたという由緒あるところに寄港しつつ、 其月浪波に上陸御楯を奉持陸路橿原神宮に奉納した末曽有の大行事であった。 御東遷 二千六百五十四年 皇 紀 二千六百四十八年 まとめ 宮司 橋口朝典一の鳥居、石畳の参道を進む鳥居をくぐると左側に手水舎参道の右側に「神武天皇 御腰掛之磐」神武天皇 御腰掛之磐これが神武天皇がお船出の際、座ったとされる有名な「御腰掛岩」である。歌碑には、神武天皇御舟出の歌伝説 「日の草の赤が美栄えてとこわに瑞穂の国は栄えまつらむ」 日本おもと愛好者建之 歌碑の台座におもとの彫刻神武天皇が大和の国御討征のため美々津港舟出の際の歌 日の草の赤が美栄えてとこわに 瑞穂の国は栄えまつらむ神武天皇自ら「おもと」を観賞され、おもとの雄大な葉緑素の強い葉姿のおもとが大地にへばりついた根元に赤い実栄え横には数限りない繁殖したおもとの姿を観て我が瑞穂の国をおもとに託された歌と思われます。その後江戸時代以降も現在に至るまで、新築、移転、誕生祝などに○○のもつ生命力にあやかって飾ったり贈られたりしています。社殿前の二の鳥居と浪花狛犬。狛犬は、文政13年(1830) 庚寅4月吉日建立。立磐神社は耳川が日向灘へと流れ込むところに位置しており、右後方に美々津大橋。境内の隅に「百度石」社殿前に御神木のクス、根元にツワブキが咲く乱れる。また、根元の幹の空洞に小さな鳥居がある保存樹この樹木は「日向市民の環境と自然を守る条例」により指定された保存樹です。この貴重な財産を市民みんなで大切に守ってゆきましょう。 樹 種 くす 指 定 番 号 18 指定年月日 昭和50年8月25日 日向市立磐神社の拝殿御祭神 表筒男命(うわつつのおのみこと) 中筒男命(なかつつのおのみこと) 底筒男命(そこつつのおのみこと) 神武天皇(じんむてんのう)社 殿 本殿(切破風造)2.7坪 拝殿(入母屋向拝唐破風造)23坪。令和二年度に拝殿の屋根の銅板葺き替え工事が行われた。拝殿の扁額、「立磐神社」拝殿前から二の鳥居、一の鳥居。参道の石畳もくすの木の成長で盛り上がる。 ー 続く ー
2022.01.12
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九州4日目は宮崎市内から大分市内へと北上、途中にあった高鍋大師、持田古墳群へ立ち寄った。11月17日(水) 8:33高鍋大師、持田古墳群の駐車場所在地:宮崎県児湯郡高鍋町大字持田西側の高鍋市街地を流れる小丸川を見下ろす。高鍋大師、持田古墳群下にあった色鮮やかなコスモス畑道路脇に停車して撮影。いろんな色のコスモスが満開。8:41高鍋大師、持田古墳群がある花守山から下り、国道10号(高鍋バイパス)を北上。この先の高鍋町俵橋交差点を左折すると東九州道の高鍋I.Cだが、一般道優先でこのまま直進。国道10号(高鍋バイパス)を北上。8:42国道10号の川南町川南交差点、ここを右折すると川南港へ。川南町漁協 直売所通浜所在地:宮崎県児湯郡川南町平田5053-98:55道路標識、「道の駅 つの 500m」所在地:宮崎県児湯郡都農町川北5129先を急ぐので通り抜けたが、宮崎県15番目に登録された当駅は、宮崎市と延岡市の真ん中に位置し、西に「尾鈴連山(おすずれんざん)」、東に「日向灘(ひゅうがなだ)」、また隣接する「日向国一之宮都農神社(ひゅうがのくに いちのみや つのじんじゃ)」と豊かな自然と由緒ある歴史に囲まれた都農町の道の駅である。9:10道の駅 つの を過ぎ国道10号を北上。道の駅 日向所在地:宮崎県日向市幸脇道の駅・日向物産館の奥にあり、駐車場から階段を登った海沿いの丘の上にある日向サンパーク遊具広場。水平線や海に浮かぶ島も眺められるロケーションで、思い切り楽しめる遊具がいっぱい。海賊船をモチーフにした大型コンビネーション遊具や、展望スライダー、草そり場の他、小さな子ども向けのブランコや遊具もあります。また、奥のキャンプ場には電車が見える小さな公園があります。日向市(ひゅうがし) 神奈川県伊勢原市では「ひなた」と読む。宮崎県の北東部に位置する市で、日向灘に面し温暖で降水量が多い一方で日照時間は、全国トップクラスである。宮崎県の他の市と同様台風の影響を受けやすく、しばしば大きな被害を受ける。また細島港という天然の良港に恵まれ、古くから県のゲートウエイとしての役割を担ってきた。県内有数の工業地帯としても知られる。人口は、約6万人(2019)。駐車場には、EV充電設備もある。海の道しるべ日向灘の安全を守る宮崎の灯台(登録有形文化財)【細島灯台】(宮崎県日向市) 初 点:明治43年5月10日 構 造:鉄筋コンクリート造 灯 質:単せん白縁互光(毎10秒に白1せん光、緑1せん光) 光達距離:約36km 灯台の敷地は、展望公園となっており、展望台からは日向灘の雄大な景色が楽しめます。 また、日豊海岸国定公園の観光名所となっており、近くには馬ヶ瀬もあります。 平成29年に「恋する灯台」に認定され、平成31年には有形文化財に登録されました。【鞍埼灯台】(宮崎県日南市) 初 点:明治17年8月15日 構 造:無筋コンクリート造 灯 質:群せん白光(毎20秒に2せん光) 光達距離:約40km 宮崎県日南市の沖合いに位置する大島の南端に設置されている灯台です。日本初の無筋コン クリート造の明治期灯台で、平成21年に経済産業省の近代化産業遺産に認定されています。 平成31年には有形文化財に登録されました。【都井岬灯台】(宮崎県串間市) 初 点:昭和4年12月22日 構 造:無筋コンクリート造 灯 質:単せん白光(毎15秒に1せん光) 光達距離:約44km 宮崎県の最南端に位置する灯台で、周辺には天然記念物の御崎馬が生息しています。 平成10年に「日本の灯台50選」に選ばれ、平成31年には有形文化財に登録されました。 九州で唯一の参観できる灯台として観光名所となっており、晴れた日には、遠く水平線上 に種子島や屋久島を望むことができます。道の駅から海を望むと、岩礁の上に灯台。日向市美々津沖の岩礁「七ッ碆(ななつばえ)」に建つ「美々津港灯台」。神話の地「美々津」にちなんでデザインされた石灯籠型の灯台。塔の高さ:約17m 海面から灯火までの高さ:約24m で、祠もある。駐車場の下を日豊本線が走る朝の漁を終え漁船が戻る。9:14ここの手前約2キロに、美々津重要伝統的建造物群保存地区があるので立ち寄ることに。9:20道の駅 日向から国道10号を戻り、保存地区の駐車場へ。日向市美々津重要伝統的建造物群保存地区所在地:宮崎県日向市美々津町3328江戸、明治時代の白壁土蔵の町並みが残る。 昔から海の交易の拠点として歴史を刻み、関西との交流の主役となった廻船問屋の活躍がしのばれ、往時の文化的な遺産を大切にした町づくりが行われています。三宅裕司が ”ふるさと探訪” でここ美々津を訪れ、2019年10月に放送していた。橋口氏庭園、立磐神社社務所の看板。ネットでも路地にこの車が駐車していたが。● 新 町 京都醍醐寺の三宝院庭園を模倣した県指定名勝「橋口氏庭園」があります。右側に、立磐神社の社務所?県指定名勝 橋口氏庭園 一、文化財保護委員会指定年月日 昭和三十二年十二月十五日県指定 (昭和十一年十一月文部大臣指定) 二、様式 池泉鑑賞式 三、指定地面積 五七〇平方メートル 四、所有者 橋口朝典 沿 革この庭園は、橋口氏初代が天文年間(約490年前室町時代末期)日向国の要衝であった美々津の愛宕神社祠官として移住した頃より作庭されたものと伝えられています。橋口家「永代日誌」には、寛文二年(1662) ~ 宝暦八年(1758)には、松の植栽が行われたと記されています。愛宕山南側の岩盤を自然のまま利用し、その西側に池石組、樹木を配し、中心部を築いています。岩肌から湧き出る清水は、瓢箪形の池に湛えられさらに弓なりの岩裾に沿って東の池に続き「心」字池をも想像させます。池畔には、石橋を架け陰陽の石組、書院との間には飛び石を置き、沓ぬぎ石、平石を配し、岩桧葉、縞笹、つつじ、くちなし、山茶花、椿、また浜桧榊、銀杏、榎の古木も副景となり小規模ながら風雅な景観をもっています。橋口氏庭園所在地:宮崎県日向市美々津町3008庭先で咲くツワブキ(石蕗)主屋であろうか庭園の中に「名勝 橋口氏庭園」の石柱石柱の、「名勝 橋口氏庭園」9:26最盛期には「美々津千軒」ともいわれ賑わいを見せた美々津の町並み。今は静かな佇まいをみせるが、江戸末期~明治時代に建てられた町家が続く様子が往時をしのばせる。通りの南側から北側を望む。旧美々津郵便局舎の前に赤いポスト旧美々津郵便局舎の北側から、南側を見るところどころに洋館が建っていた。通り沿いにお寺の山門正覚寺山門所在地:宮崎県日向市美々津町3385山門を入ると鐘楼が建つ手水舎、本堂ビニールシートがあり補修中?本堂裏の墓地への石段本堂前から、境内は整備されておらず廃寺かと思ったが、鐘楼に梵鐘があったので立縫公民館立縫(たちぬい)公民館立縫公民館の北側にあるヒサシ電器前から南側を望む。昭和を感じさせるレトロな看板各町筋には共同井戸がある共同井戸脇に建つ案内板。国選定 日向市美々津重要伝統的建造物群保存地区概 要美々津の伝統的建造物群保存地区は、耳川河口から南向かって延びる上町・中町・下町の道筋と町を見下ろす台地上の別府、それに新町の一部によって構成されています。上町 江戸時代の豊後街道にあたる道筋です。 明治時代の平入・大壁作りの町家が多く寺院も建てられています。中町 上町に次ぐ繁華街で、江戸時代に建てられた妻入・平入の大壁造りの町家があり、商人 町として栄えました。下町 度重なる津波によって南部の道や町家は流失しています。現在の町並は明治時代以後に 成立したものです。上別府 標高三十メートルの高台にあり、藩主の仮屋跡や緑地帯があり、異国船警護の役割を担 った台場跡も残っています。新町 京都醍醐寺の三宝院庭園を模倣した県指定名勝「橋口氏庭園」があります。現在地と、町並み記念碑とあったが町には今も、江戸時代から明治、大正時代に建てられた木造の古い家屋、平入り、妻入りの趣ある建物が多く軒を連ねており、往時の雰囲気を今に伝えている。国の重要伝統的建造物群保存地区にも選定されており、白壁土蔵、京町屋風の出格子(京格子)、虫籠窓、通り庭風の土間など、京都や大阪から強く影響を受けたであろう装飾、意匠がそこかしこに見られ、かつてのにぎわいを容易に想像することができる。9:33天気が良いと日向ぼっこができる縁側である。 ー 続く ー
2022.01.11
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九州4日目は宮崎市内から大分市内へと北上。今日の目的地は、NO.195 延岡城、NO.194 佐伯城、NO.193 臼杵城の3城の制覇。11月17日(水) 6:26昨夜は部屋で宴会、お互いのいびきも気にならず疲れから二人とも爆睡。今日は朝食があるので、6時半前に朝食場所へ。食堂は6時半ちょうどにオープン。たっぷりいただきました。ホテル近くの駐車場(ドン・キホーテ宮崎橘通店)から。南方向に宿泊ホテルの「コンフォートホテル宮崎」。同場所から南西の方向に広い駐車場。西方向の、国道10号沿いにある、東横イン宮崎中央通。7:06行き先をカーナビにセットして出発。駐車場から国道10号に出、西方向へ進み右折。東横イン宮崎中央通。カーナビの目的地への到着予定は、8:06、距離は、29kmと国道10号を北上国道10号のヤシの木並木。このあと宮崎神宮前を通過国道10号を北上、通勤時間になり車の量も多くなる。目的地への到着予定は、8:07、距離は、22kmと。国道10号島之内交差点この交差点を右折すると、「フェニックス動物園」「市民の森」「フローランテ宮崎」。フローランテ宮崎は四季折々に花と緑のある生活が楽しむことができ、潤いと安らぎの ある空間を提供する、「花のまちづくりの推進拠点」としての植物公園。7:35国道10号の佐土原町原口交差点を通り抜け北上。高鍋町の歴史高鍋町は宮崎県の中央沿岸部に位置する、宮崎県内で最も小さな町です。海と山に囲まれた自然豊かな環境の下で、旧石器時代から人々が生活し、現在にいたるまで深い歴史が刻まれてきました。藩政時代には、高鍋三万石の城下町として栄え、学問と教育の盛んなところとして有名でした。なかでも7代藩主の秋月種茂公が設立した藩校「明倫堂」は、法曹界の重鎮と呼ばれた三好退蔵や、オーストリア大使で後に読売新聞社長となった秋月佐都夫、住友を大財閥に育て上げた鈴木馬左也、3,000人もの孤児の父となった石井十次など、多くの優秀な人材を世に輩出したことから、「文教の町」とも呼ばれます。現在でも地名や街並みに城下町の名残があり、秋月種茂公が残した明倫の精神や先賢の教えは、学校教育や政(まつりごと)に取り入れられ、脈々と受け継がれています。8:10国道10号から左折、道路脇に、持田古墳群の概要 昭和三十六年二月二十五日文化財保護法によって国指定史跡に指定される。この地は、海抜四〇~五〇メートルの洪積世の台地にあり、東に太平洋を望み、西方はるかに高千穂峰を見、北に尾鈴山を仰ぎ、高鍋町の市街地を眼下に見下ろす景勝雄大な地であります。縄文時代から弥生時代に至る長い間、繁栄した遺蹟上に更に西暦五世紀前後から六世紀頃までの大小さまざまな様式を持った、八十五基の古墳が二〇ヘクタールの地域に所在して往時を物語っております。実に朝日の直射する所であり、夕日の照り映える丘であります。古墳の種類 一、円墳 二、前方後円墳 三、方墳 等に大別されます。この中には次のように通俗的な名称のあるものがあります。 一、計塚(はかりづか) 粘土槨を持っています。 二、石舟塚 石棺を持っています。 三、山の神 四、亀塚 木棺を持っています。 亀塚のみは、沖積世の低地にあります。 計塚は、この古墳群の中で最大のもので、後円部の高さ一二メートル、周囲約三〇〇メートル の大古墳であります。この古墳群の特色 全国各地には、大古墳群がまれにありますが、比較的小範囲に、このように多数の古墳が所在 し、その出土品がいずれも優秀なものであったことはあまり類例がありません。 高鍋町教育委員会狭い山道を上り頂上へ、8:13高鍋大師所在地:宮崎県児湯郡高鍋町大字持田この地は海抜40~50メートルの洪積世の台地にあり、東に太平洋を望み、西方はるかに高千穂峰を見、北に尾鈴山を仰ぎ、高鍋町の市街地を眼下に見下ろす景勝雄大な地である。高鍋町は、宮崎県の中央にある町で、児湯郡に属する。 江戸時代に秋月氏の治める高鍋藩の城下町として栄え、全寮制の藩校・明倫堂で人材育成に力を注いだ教育の藩であった。古くは「財部」と呼び、江戸時代に「高鍋」と改称された。西側の市街地を流れる小丸川高鍋大師は、持田古墳群の霊を慰めるために故岩岡保吉翁が開山。八十八ヶ所札仏と岩岡氏自身が刻んだ石像が700体以上あり、なかには6メートルを超える巨大なものもあります。町北部の丘陵地に位置し、日向灘も一望できる絶景地で、見学は自由である。高鍋大師にある石像は、1932年ごろ、今から約90年前に作られ始め、1976年まで作られていました。製作者は87歳になるまで作り続けたと。87歳まで石像を作り続けたスーパーおじいちゃんの名前は“岩岡保吉”さんといい、もともとは精米・米販売をおこなっていた。29歳のときに四国八十八ヶ所を訪れ、高鍋に作ることを決意します。43歳のときに大分県から石工仏師(仏像を専門に作る彫刻家)を招き、彫刻技術を学び、八十八ヶ所の石像を制作。その後、岩岡保吉さんは持田古墳に眠る人を供養するために生涯をかけて700体以上の石像を作り上げます。宮崎県高鍋町の観光地はどこ?と聞かれたら十中八九名前が挙がるのが「高鍋大師」。そもそも高鍋町自体が観光地があまりなく、この高鍋大師はひときわインパクトがすごい!700体以上の石像が立ち並び、その中には四国八十八ヶ所を模した石像や6メートルを超える石像もある。そんなインパクト大の観光スポット「高鍋大師」である。高鍋大師には大きい石像だけでなく小さいものもあります。四国八十八ヶ所を模した石像や水戸黄門の石像などさまざまあるが、オススメは「いわぬ人、みらぬ人、きかぬ人」であると。高鍋の街を見下ろす6メートルを超える石像群が立ち並ぶ。丘の上に建つ大師堂大師堂の扁額、「高鍋大師」大師堂内木魚、いろんな彫り物が並んでいた高鍋大師高鍋大師は、岩岡保吉(いわおかやすきち)氏(1889~1977)が私財を投じ、地元の方々と共に半世紀をかけて造りあげました。氏は香川県出身、七才時に高鍋に移住しました。小学校卒業後、文具の行商などを経た後、十九才の時に米穀販売業として独立、成功を収めます。1918年(二十九才)、四国八十八ヶ所の巡礼に出かけ、これをきっかけとして高鍋に八十八ヶ所を造る構想を抱く事となりました。十年後、石像用の石材調達を開始。土地を取得・整備し、石像の制作に着手。その際、大分より招いた石工に石像彫刻を学び、共に制作に励みました。1933年(四十四才)八十八体の石像が完成。後に高野山で得度、大師堂を一般に開放しました。当時周辺の持田古墳の盗掘に心を痛め、古墳に眠る古代の人々の霊を鎮めるとともに人々の幸せを願い、八十八ヶ所完成の後も石像の制作を続け、弘法大師空海修行像、アマテラスオオミカミ、かぜのかみ、といった巨大なものから、みとこモン等のユニークな像なども造りあげました。生涯をかけ大小様々な石像を造りつづけ、その総制作数は七百余体に及びました。素朴で奔放なこれらの石像を残し1977年、八十七才で永眠。人々の幸せを神に仏に、そして皆の心の中に願ったその魂は、未だここにあるかのように人々の癒しの場となっています。平成二十一年三月、宮崎県より観光遺産の指定を受けました。 たかなべ明倫観光ボランティアガイドの会大師堂の前に建つ石像は高鍋の街を見下ろす南方向の田園地帯高鍋大師に行って最初に目に入ったのが、高鍋町と海の景色です。高鍋大師は花守山の山頂からふもとにかけて石像が並んでおり、駐車場は山頂にあり無料。そのため、高鍋町が一望できるんです!これがまた気持ちいい!この景色だけでもまた来たいなと思わせてくれると。山の向こうには日向灘右側に石碑には、顕彰之碑高鍋大師 石像五百五十体開山主 岩岡保吉翁彫刻奉 献 百 寿 会 ユニークなお顔石像の背後に、「昭和四一年五月」亀の像が三体ユニークな像が並ぶ「火よけ みまも○○○」と刻まれているこちらの像には「岩岡山 七十・五才のサく」と中央の像には、「昭和三十八年十一月 七十五才 サく」持田古墳の上に建つ石像群茶碑 ○○○ 宗城先生胸像が並ぶ大師堂を望む左側は坂を上ってくる、駐車場は右側から石碑には、古墳ヲ敬工弘法大師千百年記念事業日向東都ヶ原 四國八十八ヶ所祝人岩岡保吉四十六才昭和九年三月二十一日建神武天皇御東遷二千六百年記念 ? 昭和九年五十九番 コクブン寺椿のそばに、色塗りされた石像が建つ木柱には、「国指定史跡 持田古墳群四十八号墳」持田古墳群は、5世紀から6世紀にかけて築造された古墳が、大小合わせて85基点在。石棺が露出している石舟塚、長径120メートルで県内屈指の壮大さを誇る計塚、帆立貝塚式古墳である亀塚など珍しい古墳がある。昭和のはじめに盗掘にあい、重要文化財に指定されている持田古墳群出土といわれる画文帯神獣鏡は少なくとも3面以上存在するはずというものの、全国に散逸した状況にある。小丸川左岸台地の田園の中に古墳が点在する独特の風景も楽しめる。国指定史跡 持田古墳群 指定年月日 昭和三十六年二月二十五日古墳が散在するこの地は標高約50メートルの洪積台地で、東に日向灘、西に霧島山、北に尾鈴山が望まれる景勝雄大の地である。五世紀から六世紀頃にかけて築造されたといわれる古墳のうち、大小種々様式をもつ85基(前方後円墳10基、円墳75基)が国の史跡として指定されており、周辺には縄文、弥生時代の遺跡も多い。前方後円墳の中には全長100メートルを越すものもあり、次の古墳が著名である。古墳の種類 計 塚(舟形木棺) 全長約110メートル 石舟塚(石 棺) 全長約40メートル 山の神塚 全長約46メートル 亀 塚(木 棺) 全長約50メートル 昭和六十二年十月 高鍋町教育委員会 国指定史跡 持田古墳群四十八号墳高鍋大師の駐車場。秋月種茂公名君として讃えられる「秋月種茂公」は、1743年に6代藩主の種美公の長男として生まれました。7代藩主となった後は、慣例にとらわれない施策を次々と実施し、財政の再建と、高鍋藩の発展に力を尽くしました。代表的なものは「児童手当制度」です。農家の子ども3人目から、1日につき、米2合または麦3合を与えるという制度を作り上げ、福祉文化的土壌を整えました。高鍋藩から上杉家の養子となり、米沢藩の財政を建て直した「上杉鷹山公」の実の兄にあたります。8:31高鍋平野を流れる小丸川を見下ろす8:33国指定史跡 持田古墳群四十七号墳 ー 続く ー
2022.01.10
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今年も早中旬に。昨年末、新型コロナウイルスも落ち着きを戻していたが、新春早々からオミクロン株での感染が急拡大。今後の感染が気になるところですが。九州の続日本100名城のブログも三日目を終え宮崎へ到着。後二日間となり小休止で今日一日今年の三が日をアップします。1月1日(土) 6:43今年も早朝6時前に起床して愛車のリンちゃんで湘南海岸へ。ラチエン通りを海岸へ来たが多くの人が歩いて海岸へ。6:43海岸には多くの人がサイクリングロードに。6:46茅ヶ崎の一中前ヘッドランドにも多くの人が。6:50三浦半島の空が茜色に。6:52令和4年度初日の出6:53天気が穏やかで。6:54房総半島の山に陽がのぼる。今年は、コロナも落ち着き旅行が出来ることを祈る。6:55皆さんは何をお願いしているのか。7:01サーファーも既に海の中。7:01江の島の南側から日がのぼる。7:02波も穏やか。7:03烏帽子岩、伊豆大島。烏帽子岩をズームアップ。岩礁にはまだ釣り人はいないようだ。7:05富士山、金時山もクッキリと。7:13ヘッドランド前の海岸から、辻堂海岸方向を望む。正月早々、携帯コンロでカップヌードルを作り食する人も。ヘッドランドからのサザンビーチ方向。7:25「関東の富士見100景」からの富士山。ヘッドランドは「関東の富士見100景」7:30国道134号の第一中学校歩道橋からの富士山。明日は、第98回東京箱根間往復大学駅伝競走が開催される。この区間は第三・八区で戸塚中継所から、平塚中継所までの21.4km、どのようなドラマが展開。1月2日(日) 10:30国道1号にある「交通規制看板」。今日も天気が穏やかで風もなく、選手にとって好コンディション。第98回東京箱根間往復大学駅伝競走今日も愛車のリンちゃんで国道134号の湘南海岸へ。旅友は、藤沢橋から400mほど平塚寄りの「南仲通り」交差点の手前で取材。10:13国道134号の菱沼海岸交差点には関係者が集まり説明を受けていた。今年は手旗はなく、沿道からは拍手での応援と。10:40沿道で場所取りをししばし待機。20分程まち、「規」と書かれたプレートをつけたパトカーが近づく。規制開始のサインとなる「規」の文字。10:441位から3位の選手が接戦、駒沢大学 安原 太陽選手(2年)、東京国際大学 丹所 健選手(3年)、青山学院大学 太田 蒼生選手(1年)。藤沢橋では、1位の駒沢大学との差は約30秒差あったが追い上げて接戦に。10:454位 帝京大学 遠藤 大地選手(4年)。伴走車が追い越し車線を。10:455位 国学院大学 山本 歩夢選手(1年)。10:466位 法政大学 小泉 樹選手(1年)、7位から6位に。7位 中央大学 三浦 拓朗選手(4年)、11位から7位に追い上げているようだ。 後方に、8位 国士舘大学、9位 東洋大学とつづく。10:46テレビ オートバイの中継。8位 国士舘大学 荻原 陸斗選手(4年)、6位から8位に。後方に、9位 東洋大学。10:469位 東洋大学 佐藤 真優選手(2年)、順位をキープ。10:4610位 山梨学院大学 高田 尚暉選手(1年)、8位から10位に順位を下げている。10:4611位 創価大学 桑田 大輔選手(2年)、東洋大学と接戦していたが10位から11位に。10:4712位 関東学生連合(立教大学) 斎藤 俊輔選手(4年)、健闘して12位をキープ。10:4713位 順天堂大学 伊豫田 達弥選手(3年)、15位から順位を上げ13位に。10:4714位 早稲田大学 太田 直希選手(4年)、藤沢の順位をキープ。後方に、順位を下げた15位の神奈川大学。10:4815位 神奈川大学 宇津野 篤選手(2年)、13位から順位を下げ15位。10:4816位 日本体育大学 大畑 怜士選手(4年)、18位から順位を上げ16位に。17位 明治大学 児玉 真輝選手(2年)、16位から順位を下げる。10:4818位 東海大学 神薗 竜馬選手(2年)、17位から順位を下げる。腕時計で時間を確認する余裕?。10:5119位 駿河台大学 町田 康誠選手(3年)、20位から順位を上げる。10:5120位 専修大学 キサイサ選手(1年)、19位から順位を下げているが来年が楽しみな1年生。10:5221位 中央学院大学 武川 流以名選手(3年)。10:52トップが通過してから8分で、規制解除「C」のパトカー。11:08選手を見送った後、サイクリングロードを江の島方面へ。国道134号の浜須賀交差点の歩道橋上から、雲の上に富士山が顔を出す。今頃も選手たちは箱根の山に向って走っているのだ。富士山をズームアップ。国道134号と県道30号線(戸塚茅ヶ崎線)の合流点、浜須賀交差点。東京箱根間往復大学駅伝のコースは、左前方の県道30号線(戸塚茅ヶ崎線)を走り戸塚中継所へ。11:15汐見台ウッドデッキから江の島をのぞむ。海岸に下り、雲の上に富士山。11:36サザンビーチにある茅ヶ崎シンボルマークの「C」。マークの中から江の島をのぞむ。この後、自宅に戻りテレビ観戦。13:22 箱根芦ノ湖ゴール。区間3位の1:10:46で往路優勝のゴールをする青山学院大学・若林 宏樹選手(1年)。往路総合タイムは 5:22:06。写真は、テレビの画面から撮影。翌日の新聞から。青学大が2年ぶり5度目の往路優勝。青学大は一年生が2名で見事な優勝を遂げた。区間最高選手。往路成績トップの青学大はゼロ、外国人選手の名もなく。1月3日(月) 9:55復路の応援に今日もラチエン通りを海岸へ。応援に向かう人、サーフボードを持ち海へ向かう人。烏帽子岩が隙間から大きく見える。海面が輝く相模湾。10:16茅ヶ崎のサザンビーチ上空にヘリコプター。トップの選手が近づいているようだ。10:26国道134号の菱沼海岸交差点にテレビ中継車。沿道には多くの応援者が、手旗はなく静かに拍手で応援。10:271位 青山学院大学 佐藤 一世選手(2年)10:31二人の選手が並走して。トップから5分遅れで、2位 順天堂大学 津田 将希選手(4年)、3位 駒沢大学 鈴木 芽吹選手(2年)。10:34三人の選手が僅差で競っているようだ。10:34テレビ オートバイの後方に選手、その後方に2選手が迫る。10:344位 創価大学 吉田 凌選手(1年)、藤沢のポイントでは順位を2つ下げ6位に。10:345位 東京国際大学 村松 敬哲選手(2年)、藤沢のポイントでは順位を1つ上げ4位に。10:346位 帝京大学 橋本 尚斗選手(4年)、藤沢のポイントでは順位を1つ下げ7位に。10:347位 中央大学 中澤 雄大選手(3年)、この後追い上げ藤沢のポイントでは、2つ上げ5位に。10:358位 東海大学 入田 優希選手(2年)。 これ以降の順位は藤沢のポイントでも同じ順位をキープ。10:369位 東洋大学 蝦夷森 章太選手(4年)、10位 国学院大学 石川 航平選手(4年)。10:3611位 法政大学 稲毛 崇斗選手(2年)。10:3712位 早稲田大学 千明 龍之佑選手(4年)。10:3713位 神奈川大学 大泉 真尋選手(2年)。10:3814位、15位の選手。10:3814位 明治大学 櫛田 佳希選手(3年)。10:3915位 国士舘大学 山本 龍神選手(2年)。10:4016位から18位の選手が集団で競う。10:4016位 中央学院大学 馬場 竜之介選手(4年)、17位 関東学生連合(大東文化大学)大野 陽人選手(3年)。18位 駿河台大学 出仙 龍之介選手(3年)、後方に19位の選手。10:4019位 専修大学 岩間 暁選手(4年)。10:4120位 山梨学院大学 橘田 大河選手(3年)。10:4421位 日本体育大学 九嶋 大雅選手(3年)。10:45トップが通過してから18分で、規制解除「C」のパトカー。往路はトップとの差は、8分であったが。10:57選手を見送った後、海岸へ。今日も天気が穏やかで波静かであった。10:58ヘッドランドの先に烏帽子岩。伊豆大島もうっすらと。11:01サイクリングロードの茅ヶ崎駅入口。富士山には雲がかかる。この後自宅に帰りテレビ観戦。東京大手町ゴール。最終ランナー中倉 啓敦選手(3年)。ゴール写真は、テレビの画面から撮影。総合成績青学の優勝は大会記録で、2年ぶり6度目の総合優勝。来年のシード権は10位まで。往路成績は青学大が大会新。近年の大会6年間18回で、8回の優勝と青学時代が続いている。今年の優勝を見ているとしばらくは青学時代か。最優秀選手(金栗四三杯)には、ともに区間新を出した1区の吉居大和(中大)、9区の中村唯翔(青学大)が選ばれた。原監督の胴上げ原監督はマスコミに出て情報発信していると。翌日も主将とテレビ出演、1時間近くトークしていた。写真は、テレビの画面から撮影。 END
2022.01.09
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九州三日目の最終目的地「佐土原城」を散策。11月16日(火) 16:07宮崎市城の駅 佐土原いろは館の向かい側にある「宮崎市佐土原歴史資料館 鶴松館」へ。所在地:宮崎県宮崎市佐土原町上田島8227-1佐土原歴史資料館は、出土文化財管理センター・鶴松館・商家資料館の総称です。出土文化財管理センターは、佐土原城跡の御普請所跡地に位置し、佐土原に関する歴史・民俗資料等の整理、調査、保存、展示を行っています。鶴松館は佐土原城・二の丸跡に館を再現し、歴史資料、佐土原人形等を展示しています。商家資料館「旧阪本家」は、味噌醤油醸造販売の老舗で江戸町屋の重厚さを残す旧商家です。国道219号沿いに、佐土原城跡”佐土原城” 続日本100名城(平成29年認定)宮崎市佐土原歴史資料館【鶴松館・商家資料館(旧阪本家)】 ❖ 開館日:土・日曜日・祝日及び特別開館期間(5月15日~6月14日) ❖ 時 間:午前9時 ~ 午後4時30分 ❖ 休館日:平日(月~金)・12月29日~1月3日(年末年始期間) 入館無料佐土原城の空撮だが古いものである。現在地は、黄色の星マーク。国道219号沿いにある、宮崎市城の駅 佐土原いろは館は建設前(赤丸内)であるようだ。左右に走る道路が国道219号、中央下から左へ県道44号線(宮崎高鍋線)で、交差点は今坂。鶴松館 史跡 佐土原城址公園 駐車場佐土原城は、戦国大名の伊東氏・島津氏によって山城の要害としての整備がおこなわれたようです。その後、寛永二年に二代藩主島津忠興が、山城の本丸から山の下に居館を移し、佐土原島津藩三万石(元禄三年以後二万七千石)として明治二年の広瀬転城まで、この地で藩を統治していました。鶴松館 休館日 平日 (※祝日・特別開館期間 5/15~6/14 を除く) 12月29日から翌年1月3日まで 開館時間 午前9時から午後4時半まで 入館料 無料この、駐車場は流量調整地となっており、豪雨時には水が溜まることもありますので、下記の点に留意してご利用ください。 1. 鶴丸館の閉館後及び休館日には利用できません。 2. 豪雨時には係員の指示に従い車を駐車場外に移動してください。 宮 崎 市 宮崎市教育委員会鶴松館 史跡 佐土原城址公園 駐車場この日は平日で休館日であったが駐車場には、数台の車が駐車していた。時間がなく佐土原城の散策ができないので、パンフレットから、佐土原城の配置図大手門両側にそびえたガケの下を延々とのぼる大手道(城の最も主要な道)。尾根を縦に断ち割ってつくられた非常に珍しい構造。⑩ 中の道 ■ 城の中央部にある登城路。谷の奥に造られた虎口の崖面には、門を建てたほぞ穴が残る。⑪ 鶴松館(かくしょうかん) ■ 現在鶴松館の建っている場所が山城破却後の佐土原城。 ■ 佐土原城の解説や出土遺物が展示されている。⑫ 高月院(こうげついん) ■ 慶長17年(1612)に2代藩主忠興によって創建。藩主の菩提寺として保護を受け、初代藩 主島津以久以後の藩主や正室、側室などの墓が立ち並んでいる。佐土原城散策マップ佐土原城は、丘陵を削って多くの曲輪を造り、尾根や谷に道を設けた山城です。曲輪の中でも、本丸や南の城は特に広いため、城主や重臣の屋敷があったと考えられます。鶴松館(かくしょうかん)入口東方向から。廃藩置県後、一時は佐土原県となりますが、明治9年(1876)には鹿児島県となりました。明治10年(1877)に起こった西南戦争には佐土原第10代藩主の三男である島津啓次郎のほか佐土原からも多くの若者が参加しました。また、西郷札が作られたのも佐土原でした。【開館日変更のおしらせ】佐土原歴史資料館(鶴松館、商家資料館)は、平成29年4月より開館日が変更になりました。開 館 日:土曜、日曜、祝日 ※ 12/29 ~ 1/3は閉館です。特別開館期:5/15 ~ 6/14(この期間、休館日なしです)閉館日の続100名城スタンプ押印は道を挟んで向かいの城の駅 佐土原いろは館でお願いします。中に入れないため写真はパンフレットから、又館内は写真撮影禁止エリア。鶴松館(かくしょうかん)明治2年(1869)佐土原藩主島津家は居城を広瀬に移し、佐土原城は廃城となりました。城跡は田畑になっていましたが、それから120年後の平成元年(1989)に発掘調査が行われ、柱穴・根石や石組・木組の暗渠などの遺構が見つかりました。これらの遺構に基づいて、二の丸跡に大広間・書院・数寄屋が復元され、平成5年6月に鶴松館が開館しました。 ※ 館内は飲食・写真撮影禁止(お殿様の席のみ写真撮影可)鶴松館配置【書 院】 藩主が日常政務をとる書院の外観を復元しています。 古代から近代にかけての佐土原の歴史をご覧いただける展示になっており、巨田神社棟札・ 西郷札などが展示してあります。【数寄屋】 茶室などで使用された数寄屋の外観を復元しています。 佐土原島津家や皇室関係に関する調度品が展示してあります。大広間①藩主が他藩の使節等と対面する際に使用した大広間を復元しています。佐土原島津家に伝わる鎧、金屏風など展示してあります。お殿様の席に座って写真を撮ることが出来ます。門前から白塀を折角訪れても、休館日とは寂しい限り山城の全体説明(佐土原城) 文・八巻孝夫 絵・すがや みつる佐土原城は、山城と平地の居館がセットになった城で、戦国大名の伊東氏そして島津氏によって約二百年にわたり使われました。現在の山城の遺構は、寛永二年(1625)に山城が廃止された時のものと考えられます。それは山城の遺構の中に桝形虎口(防御を強化した出入り口)など新しい技術がみられるので、天正十五年(1587)の秀吉の九州征圧以降の改修と考えられるからです。この山には全山に曲輪(山を切り開いて平坦にして建物を建てられるようにした平地のことで本丸や南の城をいう)や堀切(尾根を切りさいて、敵が尾根上を進行するのを防ぐ役割を果たす)、土塁(土を盛って線状に高くしたもの)、虎口(曲輪の出入り口で、防御をほどこしたもの)などがいたる所に見られます。建物こそ残っていませんが、これらの遺構は自然の山に手を加えて作り上げたものです。城は本来建物だけをさすことばではありません。むしろ城にとって最も重要な要素は、建物よりもこのような土木工事によって作られた堀や土塁であると考えられていました。これらの遺構がほとんど無傷で山の中に残っている佐土原城は、南九州の城を考える上で、極めて重要な価値を占めるものです。(この山城には、いろいろなポイントでまんがによる説明がしてあります。しかし、その建物などはいずれも全くの想像によったもので、実際のありさまとは違います。)佐土原城は標高75mの山を主郭とする平山城で現在は国指定史跡となり、麓の御殿が復元されている。山上部分も遊歩道が整備されているが、近年の大雨の影響か通行止め区間も多くなっている。最寄り駅は日豊本線佐土原駅ゴルフ場が多い宮崎市佐土原歴史資料館 周辺地図駐車場にはトイレも駐車場にあった観光案内。ひむか神話街道ひむか神話街道は、日本の宮崎県にある広域観光ルート。西臼杵郡高千穂町の天岩戸神社を起点に宮崎県内各地を通過し、西諸県郡高原町の皇子原公園で終点となる。総延長はおよそ300キロメートル。指定路線の関係上、一部熊本県を通過する区間がある。宮崎市汚水マンホール蓋 「WELCOM TO MIYAZAKI」。宮崎市市章を中心に4分割し、市の花ハナショウブと市の花木ツバキを対角に入れたデザイン。16:22宮崎市城の駅 佐土原いろは館を後にし、宮崎市内のホテルへ向かうことに。旧国道219号を南下。16:37宮崎のホテルへ戻る途中、ガソリンを満タンに。JA那珂給油所 JA宮崎中央所在地:宮崎県宮崎市佐土原町東上那珂14830-1燃費は、ここまで 640km/35.4ℓ≒18km/ℓと流石に燃費がいい。ガソリンスタンド前の国道219号那珂交差点を右折、県道44号線(宮崎高鍋線)へ。17:01国道10号のキロポスト、「門司から333.3km」国道10号を南下、南国を感じさせるヤシの木の並木道。宮崎市は、宮崎県の南東部にある市。宮崎県の県庁所在地で、中核市に指定されている。 フェニックス・シーガイア・リゾート、青島、プロ野球・プロサッカーキャンプといった数多くの観光資源を持つ観光都市でもあり、九州・沖縄地方では大分市に次いで6番目に人口が多い。1998年から中核市となる。人口は、40.11万人(2015)。17:05国道10号を左折し、夕食時のビール、つまみを追加で購入。セブン・イレブン宮崎江平中町店17:20国道10号を更に南下ホテルルートイン宮崎橋通この先の橘通3丁目交差点を右折してホテルへ。17:25コンフォートホテル宮崎所在地:宮崎県宮崎市中央通3-49シンプルな客室を備えた簡素なホテルで、くつろげるカフェで作りたての朝食を無料で提供。ツインルームテレビで放映していた、今朝走った「都城志布志道路」。この日に開通したと。今夜の夕食は、部屋で知人からいただいた地鶏のお土産をつまみにして宴会。地鶏は5パック、追加で購入したささかま、キムチをつまみにビール、焼酎。鶏のささみの刺し身赤鶏タタキ、コリコリして美味しかったセセリ(小肉)塩焼き、スタミナ焼き赤鶏タタキもも身、むね身ニンニクの香りがしていたがたくさんの鶏の刺し身等を食べ明日への活力を頂きました!!!二人では多すぎ、残りは明日の晩食べることに。今日一日の走行距離は 242km、歩行数は 7,400歩であった。 3日目END ー 4日目へ続く ー
2022.01.08
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国道10号(薩摩街道)沿いにあった「去川の大イチョウ」へ立ち寄る。11月16日(火) 14:40国道10号沿いにたついろんな案内。10月31日(日)に衆議院選挙が行われたが「たけい俊輔」氏はどうなったか。ネットで調べると「比例 九州ブロックで当選した」と、小選挙区では落選なのか?国道10号(薩摩街道)の観光案内板。バス停「去川」バス停から下りたつが説明板の前は草が伸び、足の踏み場もない状態。県指定史跡 去川の関跡二見家の伝記によると、伊勢国の国守であった佐々木義秀の家臣、伊勢二見ヶ浦の城主二見岩見守久信は、今から約450年前の永禄年間(1558~1570年)に、織田信長に攻められて、薩摩の蒲生郷に逃れ移ったと伝えられています。天正年間(1573~1591年)の中頃には、島津氏の勢いが大変強く、第17代島津義久は近隣諸国をことごとく○○○していました。・・・・判読しずらく後略14:42国道10号(薩摩街道)の西下にある「去川の関跡」を後にする。次に訪れる「佐土原歴史資料館」までは、一般道を走り32km、所要時間42分と。14:45国道10号を進み、大淀川を渡る14:51道路標識は左:国道268号 小林、右:国道10号 宮崎市街・延岡。ここを右折して、国道10号(えびのスカイライン)を宮崎市街へ。カーナビでも、ここ国道10号高岡町赤谷交差点を右折。佐土原歴史資料館への到着予定 15:37、残り23km。14:53国道10号の、えびのスカイライン(高岡バイパス)を進む渋滞もなく順調に進む14:55国道10号の高岡町浜子交差点を直進。高岡町浜子交差点で停止中に、観光案内板を見つける。14:58天ヶ城の看板を見つけ急遽立ち寄ることにし、国道10号(えびのスカイライン)から下りる。交差点に、「 → 天ヶ城公園」の案内標示。この交差点を右折して国道10号を戻り直ぐに右折して、天ヶ城公園への坂道へ。15:03天ヶ城公園にある「宮崎市天ヶ城歴史民俗資料館」所在地:宮崎県宮崎市高岡町内山3003-56国道10号から桜並木の山道を上り、歴史民俗資料館前の駐車場へ(無料)城門に貼られていた貼り紙、開 館 日 :土・日・祝日 特別開館期間:3月15日~4月14日(この期間は休館日はありません。) 開館時間:9:00 ~ 16:30(入館は16:00、まで) エレベーターが設置されておりません。公益財団法人 宮崎文化振興協会宮崎市天ヶ城歴史民俗資料館 1階 大淀川(ガイダンス) 3階 川と営み(民俗) 1階 帆掛け舟(模型) 3階 中二階の家 2階 川が培ったもの(歴史) 4階 川が生み出したもの(展望) 2階 島津義弘公(人形) 4階 展望台から大淀川を望むインフォメーション ● 入 館 料 無 料 ● 開館時間 9:00 ~ 16:30 ● 休 館 日 平日、年末年始(12/29 ~ 1/3) ※ 特別開館期間(3/15~4/14)は休館日なし※ エレベーターがありません※ 写真撮影・飲食禁止※ ペットの持ち込み禁止この日は休館日で残念ながら外から、平成5年(1993)に桜の名所である「天ヶ城公園」の中に誕生した当資料館は、標高121mの高台に城郭23m、4階建ての近世城郭型の資料館となっています。1~3階の展示室には、大淀川とともに生きてきた旧高岡町の人々の暮らしぶりや、中近世の武家屋敷の様子などを紹介しています。4階展望台からの眺めは絶景ですと。天ヶ城の歴史天ヶ城は薩摩島津家17代島津義弘が慶長5年(1600)、日向伊東氏に備えるために築城した城。島津義弘は慶長5年(1600)天下分け目の関ケ原の合戦では石田三成方の西軍につき、合戦の様子を眺めていたところ、東軍の徳川家康が大勝したため、敵陣突破を強行して命からがら日向細島を経て帰国途中、八代村に宿泊した。徳川家康の勝利が全国に知れ渡ると、島津氏と長年にわたって戦ってきた日向伊東氏の重臣たちは「島津氏を滅ぼし、伊東氏の旧領を取り戻すのはこの時ばかり」と考え、即座に兵を率いて島津義弘が宿泊している八代村に向かって進軍。これに対して島津領内の武将たちが取るものも取りあえず八代村に兵を進め、ようやくのこと伊東側の兵を食い止め、島津義弘は兵数十名を引き連れて八代村を脱出。かろうじて鹿児島城にたどり着くことができた。島津義弘はこの事件から国境警備の必要性を痛感し、北方の伊東氏に備えるため、久津良名(現在の高岡町)に城を築き、「天ヶ城」と命名。比志島国貞を初代城主とし、島津氏との関係が深い武士多数を強制移住させた。やがて、徳川幕府の時代となり、元和元年(1615)の一国一城令によって天ヶ城は廃城となった。天ヶ城は7ヶ所の曲輪からなる山城であった。現在は天ヶ城運動公園として整備され、三層の模擬天守と城門が本丸跡に建っている。入館は無料であったようだが、登城できず残念。広いスペースではイベントが開催されているのであろうがこの日は人が少なかった。旅友が城門の下から覗き込んでいたが。4階建ての近世城郭と城門標高120mの丘陵上からの眺望は抜群で、眼下に大淀川、西に霧島連山、東に日向灘が望める。公園には樹齢40年のソメイヨシノが東斜面を中心に約1300本植えられ、3月下旬から4月上旬にかけては高岡町内はもちろん、県外からも花見客が訪れる。つつじ5万本も植えられ、桜に続いて見事な紅の花を咲かせる。大淀川の下流方向で河口は宮崎市。眼下には旧街道の薩摩街道高岡筋があり、橋は県道28号線の大の丸橋。大淀川に架かる、大の丸橋をズームアップ。西方向を見下ろす。天気がよければ、霧島連山が眺望できる。15:10天ヶ城が休館であったのが残念であったが、予定外のお城に登城できた。15:22天ヶ城公園から下り、国道10号(えびのスカイライン)を東へ進む。道の駅 高岡 1km15:26佐土原城は宿泊ホテルがある宮崎市内より北側に位置している。15:30道路脇に、「福岡ソフトバンクホークス 宮崎キャンプ」駐車場の案内。国道10号の浮田ランプを左折県道9号線へ浮田ランプを左折して左前方に、福岡ソフトバンクホークス宮崎キャンプ地がある。宮崎市生目の杜運動公園所在地:宮崎県宮崎市跡江4461-115:51県道9号線から国道219号を北上15:54国道219号沿いにある、宮崎市城の駅 佐土原いろは館所在地:宮崎県宮崎市佐土原町上田島1387-1城の駅に隣接する、宮崎市佐土原地区交流センター続日本百名城のスタンプが置かれている、平日のみ:宮崎市城の駅 佐土原いろは館土日祝日:宮崎市佐土原歴史資料館 鶴松館 城の駅の向かい側にある館内に入りまず、続日本百名城のスタンプを頂く。NO.196 佐土原城続日本百名城の、NO.195 延岡城 NO.196 佐土原城因みに、日本百名城は、NO.96 飫肥城 宮崎県には両方で3城認定されている。館内の売店では、地場のいろんなものを販売しており、イートインコーナーもある。昼食を食べていなかったので、おにぎりを各一個とミカンを購入。館内の隅に、根井三郎(1902 ~ 1992)外務省からの命令に「面白からず」と異を唱えたサムライ外交官。宮崎市佐土原出身の外交官が繋いだ 命のバトンリレー命のバトンリレーとは、人類史上最大の戦争となった第二次世界大戦下で、ロシア・ウラジオストクに外交官として赴任した「根井三郎」は、ナチス・ドイツの迫害を逃れ、リトアニアで杉原千畝からビザの発給を受けたユダヤ人難民などが日本に渡れるよう、外務省からの命令に異を唱えつつ抵抗した。最近の研究では、ビザを持たないユダヤ人難民などには、独断でビザや渡航証明書を発給していたことも明らかとなった。「根井三郎」が杉原千畝から受けた”命のビザ”は、日本国内でユダヤ人難民などへの救済を行っていた小辻節三へと繋がれており、まさに”命のバトンリレー”が行われていた。戦後、外交官の職から離れてからも、この出来事を誰にも語らぬまま平成4年に亡くなっている。命のバトンリレー杉原千畝(1900 ~ 1986) ー 命のバトンを送る ー 岐阜県出身。第2次世界大戦開戦の直前となる 1939年8月にリトアニア・カウナス日本領事 館に副領事として着任。1940年7月、カウナス日本領事館前に多くのユダヤ人難民などがビ ザを求めて集まってきた。外務省の回答に反して”命のビザ”を発給した。ソビエト連邦通過(カウナス ー モスクワ ー ウラジオストク)根井三郎(1902 ~ 1992) ー 命のバトンを繋ぐ ー 宮崎県宮崎市佐土原町出身。1940年8月に4度目となるウラジオストクの日本領事館に赴任。 同12月にはウラジオストク総領事代理(副領事)となる。外務省からの「杉浦千畝が発給した ビザを持つユダヤ人難民などを日本行きの船に乗せるな、・・・」の指示に反して独断で、 渡航証明書をを発給し船に載せた。小辻節三(1899 ~ 1973) ー 命のバトンを受ける ー 京都府出身。ユダヤ教研究者。1940年11月、鎌倉の自宅へ神戸ユダヤ協会から一通の封書 が届く。文面には、ヨーロッパを追われ日本・神戸に辿り着いたユダヤ人難民たちを助けて 欲しいと、記されていた。すぐに神戸に向かった「小辻節三」は、彼らの持つ”命のビザ”が 通過ビザであり、10日間ほどしか日本滞在が許されていないことを知った。外務省、自治体 と奔走し滞在延長を可能にし、また、ユダヤ人難民が安全な国へ渡航できるよう船便の確保 にも尽力した。しかしこの行為が戦時中迫害を受け、満州へ逃れた。その後ユダヤ教へ改宗、 死後遺言によりエルサレムへ眠る。杉原千畝関係では、バルト三国の旅でリトアニアにある、カウナスの日本領事館を訪れた、また、帰国後、岐阜県加茂郡八百津にある「杉原千畝記念館」も訪れた。 ユダヤ人難民の動線16:02スタンプを頂き、向かい側の「宮崎市佐土原歴史資料館 鶴松館」へ ー 続く ー
2022.01.07
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志布志城のスタンプをもらった後、電話で連絡した都城の知人宅を目指すことに。住所を聞いたのでカーナビを知人宅にセット、交通違反にならぬよう注意しながら運転。11月16日(火) 12:12昼食時になったが、いつものように先を急ぐので昼食抜きか・・・・・。たまには地場のものをと思いながらハンドルを握る。志布志市埋蔵文化財センターから北上、カーナビはこの先を左折して県道63号線を案を案内。交差点左角に、ファミリーマート志布志みかえり店。所在地:鹿児島県志布志市志布志町志布志918-1同じような字が並ぶ住所である。高速道路の案内板は、「東九州道 都城志布志道 志布志インタ 無料区間」。左折して、志布志インタへ12:13県道63号線の志布志I.C入口から都城志布志道路(無料区間)へ入る。開通したばかりの自動車専用道路の都城志布志道路を北上。有明東 3km 伊崎田 5km都城志布志道路は、宮崎県都城市の宮崎自動車道と接続する都城インターチェンジから鹿児島県志布志市の志布志港に至る総延長約40キロメートルの地域高規格道路である。開通したばかりのルートでカーナビでは道なき道を進む。地域高規格道路とは、九州縦貫自動車道や東九州自動車道などの高規格幹線道路と一体となって地域相互の交流促進を図るとともに、空港・港湾などを結び、物流の効率化などに寄与する自動車専用道路である。将来は片側2車線に、交通量が少なく、税金を納めないようスピード違反に注意!ところどころに譲り合い車線があり片側2車線になっている。金御岳 5km 梅北 8km12:36交通量が少ない都城志布志道路を北上、平塚 出口 500mこの先で、日豊本線を越える。カーナビ標示到着予定は、13時4分、残り14km と都城志布志道路の完成区間はそろそろ終了宮崎のホテルへ到着時に放送していた映像。「都城志布志道路」3年後に都城市内の5.7キロ開通へ。今年度開通区間:「横市I.C ~ 乙房I.C(仮称)」次の画面で、「都城志布志道路」3年後に都城市内の5.7キロ開通へ。令和6年度に開通見通し:「乙房I.C(仮称)~ 都城I.C」次の画面ハ、「都城志布志道路」3年後に都城市内の5.7キロ開通へ。令和6年度に、都城I.C ~ 乙房I.C(仮称)区間が完成して「全体の9割が開通へ」と。12:39都城志布志道路(無料区間)は、都城市の横市I.C で終了して一般道へ。都城市は、宮崎県の南西端に位置する市でかつては薩摩藩領。人口は、16.5万人(2015)。宮崎市に次ぎ、県内第2の人口を擁する主要都市である12:50知人宅への途中、前方に高千穂連峰がくっきりと。道路脇に駐車して撮影。高千穂峰は、宮崎県と鹿児島県の県境に位置する標高1574 mの霧島連山の第二峰。西部に活火山である御鉢(おはち)、東部に二ツ石の寄生火山をもつ成層火山であり、その美しい山体は霧島錦江湾国立公園に指定されている。13:10知人宅の庭先に到着、十数年ぶりに再会した。友から「地元の鶏を食べないか」と言われお薦めの店へ出向くが「本日休業 地どりの日高」と。所在地:宮崎県都城市山田町山田2309-7宮崎の地鶏「地頭鶏(じとっこ)」をはじめ、親鳥・若鶏の名物「焼鳥」「タタキ」「鳥刺し」などの卸直販をしている。休業の「地どりの日高」から県道42号線(都城野尻線)を引き返し道路沿いにある、竹林鶏(ちくりんけい)所在地:宮崎県都城市山田町山田2186-7当店では朝引きの新鮮な赤鶏のタタキを取り扱っております。最高の鮮度と噛むほどに増していく鶏本来のうま味が癖になりますと。宅急便で地方発送もしているようだ。地どり にわとり牧場 竹林鶏OPEN ーーーー 11:00 CLOSE ーーーー 19:00定休日 ーーーー 月・水店内に入り、芸能人?の色紙煮物 人気商品! ¥400知人から、鳥の刺し身、焼鳥等を手土産に頂く。旧山田町(やまだちょう)の農集マンホール蓋豊かに実った田んぼの中に立つ「ゆたかちゃん」のデザイン。ゆたかちゃんの胸には「YAMADA TOWN」と入っています。 「山田町」「集排」の文字入り。再び知人宅へ戻る13:45知人宅の傍の家は平屋建ての家が多かった。 ① この辺りは風が強い、② 土地が広い、③ 平屋の方が建築費が安い 等々からでは。約30分間滞在して昔話で盛り上がり、先を急ぐので別れ、今日最後の目的地「佐土原城」へ。今夜の酒のつまみとなる地鶏の刺し身等を頂き、カーナビの案内で宮崎市内へと向かう。13:53ひむか神話街道を東へ向かい、国道221号との志和池小入口交差点を通り抜ける。13:56県道420号線を更に東方向へ進む13:59国道10号に突き当りこの交差点を左折し北上。14:04国道10号(薩摩街道高岡筋)の星原入口交差点。この交差点を右折すると「郵便局 有水」14:20国道10号を更に進み宮崎市に入り「去川の大イチョウ」「去川の関所」の案内板が目に入る。急遽右折し立ち寄ることにしたが、旅友はリストアップしていたのか。国道10号から入り直ぐにある無料の駐車場へ車を止め歩いて向かう。近くに、「二見家」があったが立入禁止。薩摩街道の里 和石(よれし) 案内図 ~ 旧街道 ~ 岩屋が野 ~ 去川 約10km 3時間いろんな史跡があるようだが道路脇に地蔵国指定天然記念物「去川の大イチョウ」所在地:宮崎県宮崎市高岡町内山3704-1入口から緩い坂を上ると正面に聳える一本の大イチョウ国指定天然記念物 去川のイチョウ 指定年月日 昭和10年12月24日このイチョウは、島津家初代当主忠久公(1179年~1227年)が当時、薩摩街道であったこの地に植えたものと伝えられています。幹の周囲約10m、高さ41m、枝張りは東に約6m、西に約7m、南に9m、北に約15mあります。幹は、空に向って大きく伸びており、太い枝が少ないのが、このイチョウの特徴で、秋には多くの実をつけます。去川には、薩摩藩の街道の要衝として関所(境目番所)が設けられ、関跡やその関守(御定番)を勤めた二見家の住宅など、多くの文化遺産が残されています。 宮崎市教育委員会島津忠久とは、源頼朝より、元暦2年(1185)忠久はわずか6才で当時日本最大の荘園・島津荘地頭職に任命されて以降、薩摩・大隅・日向の守護職、ほどなくして越前の守護職も追加された、島津家初代当主。なお、鎌倉に島津忠久の墓がある。関連ブログとして「頼朝の墓から」👈をクリック願います。毎年大イチョウの見頃には、大イチョウ広場で「去川大イチョウフェスティバル」が開催される。大イチョウの下に石碑が立つ、樹齢八○○年「去川の大イチョウ」 平成十五年 二見家献納建立みやざきの巨樹百選 樹木名・イチョウ 樹 齢・八○○ 年 幹 周・一〇・○ m 樹 高・四一・○ m 所有者・二見家 平成四年三月認定 宮崎県九州の大イチョウとしては、他に下城の大イチョウ(熊本県阿蘇郡小国町)、下田のイチョウ(熊本県熊本市)、有田のイチョウ(佐賀県西松浦郡有田町)などがある。二見家個人の所有になっている大イチョウ雌株のイチョウで秋には多くの実をつけてくれると。収穫量も多いのでレシピは。広場から、大イチョウを見下ろす。平成5(1993)年の台風13号の襲来により、太枝の大部分が折れるという被害を受けたが、平成6(1994)年に樹木蘇生治療を行い、現在は元気よく枝葉を伸ばして毎年素晴らしい黄葉を見せてくれていると。休憩室には部屋もあり何かイベントを開催しているのか。11月中旬から下旬の間、日没から20時までライトアップが行われている。幹の周囲が約10mは、大人何人が手を繋いで。樹高 41m もある大イチョウが聳える14:35大イチョウを見上げる ー 続く ー
2022.01.06
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今日は九州の旅三日目。初日は西南の役の激戦地である田原坂を散策、三日目の今日は薩軍の墓地がある南洲公園を散策と ”せごどん” 三昧という感。本来の目的である志布志城への途中、急遽立ち寄った「道の駅おおすみ弥五郎伝説の里」。11月16日(火) 10:20道の駅 おおすみ弥五郎伝説の里所在地:鹿児島県曽於(そお)市大隅町岩川6134-1この道の駅は大隅半島曽於郡を縦断する国道269号沿い、岩川市街地近くに位置し、町に入ると高さ15メートルの弥五郎どんの銅像が目に飛び込んでくる。銅像広場の案内標示。曽於(そお)市は、鹿児島県本土の東部、大隅半島の北部に位置する市。2005年7月1日、曽於郡の末吉町・財部町・大隅町が合併し成立した。 畜産や畑作を中心とした農業が盛んな地域。旧末吉町・財部町を中心に隣接する宮崎県都城市と日常生活や文化面でのつながりが深く、都城都市圏の範囲内となる。人口は、37,040人 (2017年4月1日)。健康ふれあい館の横を抜けると銅像広場に、高さ15メートルの弥五郎どんの銅像公園内に建つ石碑碑には、Spanisb Commemorative Monument碑 文弥五郎どんスペイン遠征(史実) 弥五郎どんは1992年7月、スペインのマタデペラで行われた「AMICS DELS GEGANTS(巨 人博)」に出展を果たした。しかし、商工会青年部がこの事業を実現するにあたって、資金 の目処がつかず、一時断念をせざる得なかった。だが、地元メディアに取り上げられた事に より、県内外からの多数の人々に多額の支援金を受け、出展することができた。この記念碑 は、その県内外多数の人々からいただいた浄財を財源とし、皆さんの「心」を「形」として、 また、郷土の誇りである弥五郎どんが海を渡った事実を広く後世に伝える為に、ここ「弥五 郎伝説の里」に建立するものである。 1996年(平成8年)11月吉日 大隅町商工会青年部 大理石施工 西村石材店弥五郎どんスペイン遠征記念 遠征に際して協力して下さったすべての方々に感謝致します遠征スタッフ 20名の氏名大隅町商工会青年部 27名の氏名 大隅町商工会青年部 創 立 30 周 年 記 念 1996年11月大型芝刈り機ゴルフ場でも使用されているような機械である銅像広場に建つ弥五郎どん弥五郎どんの左上空を飛行機が飛ぶ弥五郎どんを正面から。両袖幅 8m、長い刀 9m、短い刀 7mの大きさがある。弥五郎どんって何者?一説には、300歳の長寿を誇り、6代の天皇に仕えた竹内宿弥か、隼人族の首領ではないかと言われています。この銅像は、地域おこしのシンボルとして弥五郎どんを永く後世に伝え、祭りと弥五郎どんの伝説を多くの人々に広く知ってもらおうと建立いたしました。 銅像は、高さ15m 重さ39t 大刀9m、小刀7mです。 1996年 2月 建立 町花 ツツジ 町木 ウメ平成8年3月建立 鋳造 富山県高岡市 株式会社 竹中製作所下から見上げる。避雷針がないが対策はどうなっているのか。弥五郎どんをズームアップ銅像の眉幅 80cm、目玉の幅 50cm、ひげ 1m、口幅 1m30cm銅像広場廻りには平成31年3月17日に寄贈された、サクラ。 弥五郎どんの銅像前から市街地を見下ろす。健康ふれあい館を見下ろす。左の建物は「弥五郎の湯」。健康ふれあい館道の駅の約20ヘクタールの広大なスペースには、遊具施設、温泉、物産館、レストランなどがあり、休日をゆっくりと過ごせる。健康ふれあい館内にある「弥五郎の湯」には、大・小浴場や岩風呂を完備している。館内へは消毒、検温をして入場とコロナ対策。弥五郎銅像模型これは、銅像広場に威風堂々とそびえ立つ弥五郎銅像の1/10の模型です。実物は、高さ15m重さは39tもある巨大な銅像です。約480日間かけて鋳造されました。 銅像の眉幅 80cm、目玉の幅 50cm、ひげ 1m、口幅 1m30cm、両袖幅 8m、 長い刀 9m、短い刀 7mの大きさがあります。寄贈された「藁草履」弥五郎どんが生きていた頃は、わらじを履いている時代でした。巨人であったということで、足の大きさはこれくらいだったでしょうか。想像が膨らみます。 寄贈 太良木 学 様道の駅に植栽された約1,500本の桜が見ごろを迎えると、県内外から多くの人で賑わう。鹿児島県下の三大祭りの一つである「弥五郎どん祭り」。曽於市大隅の岩川八幡神社の例祭が今年も11月3日に始まり、澄み切った秋空の下、子どもたちに引かれた身の丈 4.85メートルの弥五郎どんが近くの岩川小学校まで往復したと。写真はネットから。10:36旧同僚が退職して都城に帰郷しており、連絡が取れ急遽立ち寄ることに。同僚の場所を確認、位置的に先に志布志城へ登城し、その後宮崎への途中立ち寄ることにする。カーナビを志布志城にして出発。10:50カーナビは弥五郎の里から志布志城まで20数キロと標示。11:29カーナビはこの先の関屋口交差点を左折と11:34志布志城駐車場所在地:鹿児島県志布志市志布志町帖6380駐車場(無料)には、「日本遺産 志布志麓」の幟が立ち並びトイレも併設されていた。駐車場から志布志城跡への道若い女性グループが向っていたので追うと右側に看板。ウラカフェ所在地:鹿児島県志布志市志布志町帖4371カフェだがいろんな定食が食べれるようで、休日のランチは混んでいると。志布志市志布志町と変換すると、同じような字が並び間違っているような錯覚になる!駐車場脇にあった「国指定史跡 志布志城跡」志布志は、万寿3年(平安時代中期 1026年)に平季基によって開かれた日向国の大荘園島津荘(現在の宮崎県都城市)の港として発達した。志布志湾に面した前川の河口付近に、河川で浸食・分断された標高50m程のシラス台地の東端に内城・松尾城・高城・新城があり、この4城をあわせて「志布志城」と呼ぶ。いずれも石垣や天守閣はなく、地形を利用した戦いのための砦のような「山城」である。志布志城の築城者と築城年代は正確には不明だが、文献で初めて記載があるのは、建武3年(室町時代 1336年)で、「志布志城の肝付氏が重久氏に攻められた」という記録が残っている。志布志城の領主は、港の所有をめぐって幾度も交代しており、記録に残る領主を大きく分けると、肝付氏 ー 楡井氏 ー 新納氏 ー 豊州家島津氏 ー 肝付氏 ー 島津氏の流れとなる。その後、徳川幕府の一国一城令によって廃城となり現在に至っている。「志布志城」の中心である内城の規模は、山城部分だけでも南北500m、東西250mになる。志布志にこのような広大な山城が築かれたのは、この地が海上交通の要所であり、国内のみならずアジアの各地とつながった国際的な貿易港であったからと考えられる。 志布志みなとロータリークラブ志布志城は、4つの山城(内城・松尾城・高城・新城)で構成されている。全体規模は東西約1,000メートル、南北約900メートルと、戦国時代の山城としては巨大。一般的な見学スポットは内城のみですが、内城だけでも走りまわれるほどの広さ。最低でも1時間は予定しておくといいでしょうと。航空写真志布志城は4つの城があり散策には時間を要するので駐車場で引返すことに。従ってこれからの3枚の写真はネットから。本丸上段東側の切岸と空堀今まで北条氏の空堀をよく見たが、このようにざっくりと削られた切岸は圧巻の城である。「南九州型城郭」と称され、鹿児島県や宮崎県にみられる城の特徴で、志布志城はその代表例であると。中尾久尾から大野久尾へと続く長大な空堀本丸に至る空堀で正面が本丸11:40後のスケジュールを考え、続百名城のスタンプが置かれている「志布志市埋蔵文化財センター」へ向かうことに。11:46先程の関屋口交差点へ戻り国道448号を直進。志布志市は、鹿児島県の東部に位置する市である。市の南部は志布志湾に面し、国の中核国際港湾である志布志港が整備されている。志布志港からは国内外へ複数の航路が設けられており、南九州地域での重要な役割を担っている。人口は、33,720人 (2013年2月1日)国道448号を進み、左に志布志駅 200m志布志駅はJR九州日南線の起点で、宮崎県宮崎市の南宮崎駅を結ぶ。11:50志布志市埋蔵文化財センター所在地:鹿児島県志布志市志布志町安楽41-6開館時間:午前9時 ~ 午後5時(入館は午後4時30分まで)休 館 日 :月曜日(国民の祝日の時は翌日)、12月29日~1月3日入 館 料 :無料 駐車料金 無料入口に続日本百名城のスタンプが置かれていた。NO.197 志布志城デザインは山城の象徴、空堀であろうか志布志のお殿様館内には国の指定史跡である志布志城の内の、「内城」のジオラマが展示されている。志布志城跡の中心的山城である「内城」を実物の200分の1のスケールで復元している館内には、旧石器時代の発掘物から、土器などの埋蔵文化財が展示されている。続日本百名城認定証「志布志城」殿 平成二十九年四月六日日本遺産の認定証「薩摩の武士が生きた町 ~ 武家屋敷群「麓」を歩く ~」12:00いろいろとパネルの説明書きがあったが。 ー 続く ー
2022.01.05
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南洲墓地から北側に位置する竹公園へ。11月16日(火) 8:15竹公園入口石段を登り竹公園へ島津吉貴公ゆかりの竹公園日本にはじめて孟宗竹が植えられたのは、1736年薩摩藩の磯別邸であるといわれます。島津21代吉貴公は、琉球(沖縄)から孟宗竹を2株とりよせ、磯の別邸に植栽されました。これをもとに、現在では日本全国に繁殖しています。この竹公園は、吉貴公の業績をたたえるために、公の墓所であるこの地に作られました。ここに植栽されている竹は、孟宗竹をはじめ、県内に繁殖している竹(14種・1643株)を集めたものです。竹公園の中央に立つ石碑石碑には、「浄國院殿鑑阿天漬道照大居士」竹公園内は雑草を刈取り綺麗に整備されていた竹公園内を一周8:18石碑の裏には「建立 昭和四十六年十一月浄光明寺」と8:21竹公園から西郷南洲顕彰館前へもどる。垂れ幕は、 「西郷南洲翁の肖像画とその画家たち」 「西郷南洲翁の物語に出会う」いつまでも人気のある西郷隆盛であるのだ。西郷南洲顕彰館前に、「太宰府天満宮の梅」が植えられていた。太宰府天満宮の梅 白梅(バラ科ウメ属 品種 田子の月 太宰大弐) 紅梅(バラ科ウメ属 品種 桜 鏡 鹿児島紅)この紅白の梅は、西郷隆盛が1865年(慶応元年)、福岡の太宰府で五卿を守護中、菅原道真公の命日に手灯明を点し供養した逸話を語り継ぐため、大宰府天満宮から特別に寄贈されました。大宰府・鹿児島両市民の一層の友好と、古人への思いが梅の香とともに○空を超えて通うことを祈念し、植樹しました。 古都大宰府保存協会 (財)西郷南洲顕彰会西郷南洲顕彰館 開館 9時 ~ 5時・月曜日休館 夜もやるのかと・・・・・南洲公園の駐車場前方の山は城山公園城山公園にある標高107メートルの展望台を望む8:30駐車場にはまだ他の観光客の車はなく、桜島を望む。南洲公園の約45分の散策を終える。旅友の鹿児島市内における史跡のリストアップは他になく次の目的地である「志布志城」をカーナビにセットし出発。8:38南洲公園を出発、国道10号(磯街道)の柳町交差点と合流。この辺りにはいろんな史跡があったようだが。国道10号を北東方向に進む、右側に日豊本線(にっぽうほんせん)。日豊本線は、福岡県北九州市小倉北区の小倉駅から大分駅、延岡駅、宮崎駅および都城駅を経由して、鹿児島市の鹿児島駅までを結ぶ九州旅客鉄道の鉄道路線で462.6kmの営業線である。電化されている路線?鹿児島市内方向は渋滞していたが我々の方向はスムーズに走る海岸線沿いを北上、右側後方に桜島左上を日豊本線が走る8:52鹿児島市内から姶良(あいら)市へ。姶良市は、鹿児島県中央部に位置する人口約7万7000人の市で、鹿児島湾の奥側に位置する。鹿児島市のベッドタウンとして発展している。この先左方向は旧道で姶良市街へ、国道10号を進む8:57重富郵便局前交差点道路標識に「日本一の巨樹」と。立寄ろうかと左折するが旅友が助手席でチェック片道10キロあるので諦める。日本一の巨樹 蒲生の大クス所在地:鹿児島県姶良市蒲生町上久徳2259-1高さ約30m、推定樹齢1500年の大クス。 国指定の特別天然記念物で昭和63年に当時の環境庁が実施した巨樹・巨木林調査で日本一に認定されている。9:04俵原団地入口交差点右折すると、日豊本線の姶良駅がある国道10号の姶良バイパスを北上宮島北交差点右折すると姶良市役所へ前方の山は?知覧へ行くとき見た、加治木JCT、加治木インタ近くの奇形の山、蔵王岳であろうか。9:06三つの盛り上がった山9:10直進すると、九州道・東九州道の加治木JCT、加治木I.Cへ。志布志城はこの先を右方向へ進み、霧島・都城方面へ。タイヨー西加治木店所在地:鹿児島県姶良市加治木町木田159-2国道10号進み、九州道・東九州道 2km、今日の宿泊地宮崎までは105km。9:17国道10号を進み霧島市へ入る。霧島市は、鹿児島県本土の中央部に位置する市。2005年11月7日、国分市と姶良郡溝辺町・横川町・牧園町・霧島町・隼人町・福山町の1市6町が合併して誕生した。鹿児島県では、鹿児島市に次いで2番目の人口規模を有する市である。2015年現在、12.59万人。9:18国道10号の隼人小浜交差点。左折すると県道471号線を進み、東九州道 隼人西I.C入口 9:24国道223入口交差点左折:九州道 鹿児島空港 霧島温泉郷 国道504、223号 坂本龍馬が新婚旅行で約2週間滞在した塩浸温泉(龍馬公園)がある。右折:東九州道9:37ファミリーマート 国分広瀬店所在地:鹿児島県霧島市国分広瀬1丁目21-25ホテルでの朝食がなかったため、おにぎりお茶を購入。桜島の北側に位置するファミリーマート前から桜島を望む。手前の道路は、東九州自動車道9:41国分IC入口交差点9:53国道10号牧之原交差点右折:鹿屋(かのや) 国道504号9:55国道10号は県道478号線と交差左折:比曽木野(ひそきの)、右折:鹿屋・福山9:56国道10号から、ここを右折して県道63号線へ進み、志布志・大隅方面へ。10:07道路標識は、東九州道 曽於弥五郎 10km 無料区間 末吉財部 ~ 志布志 10:16県道63号線を進み、前方の丘の上に像を見つける。300m先で、国道269号と交差丘の上をズームアップ丘の上の像を見ることにし急遽ここを右折。道の駅 おおすみ、東九州道 曽於弥五郎 無料区間 末吉財部 ~ 志布志 10:20道の駅 おおすみ弥五郎伝説の里所在地:鹿児島県曽於(そお)市大隅町岩川6134-1この道の駅は大隅半島曽於郡を縦断する国道269号沿い、岩川市街地近くに位置し、町に入ると高さ15メートルの弥五郎どんの銅像が目に飛び込んでくる。小高い山もあり斜面にはサクラの木が植えられているので、春先には多くの市民が訪れる。この日は駐車している車が少なかった。道の駅の約20ヘクタールの広大なスペースには、遊具施設、温泉、物産館、レストランなどがあり、休日をゆっくりと過ごせる場所である。この建物の後方に、高さ15メートルの弥五郎どんの銅像が建つ。 ー 続く ー
2022.01.04
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はじめて訪れた南洲墓地の墓碑の多さにびっくり。11月16日(火) 7:57上の段の墓地へ、墓地の最も目立つ中央にあるのが西郷隆盛の墓、その左右には桐野利秋と篠原国幹の墓がある。その他にも従軍した幹部をはじめ、数々の逸話を残す人物の墓が並んでいる。中央にあるのが西郷隆盛の墓で花が供えられていた。墓には「西郷隆盛」、墓の台座の前に、「岩崎谷のおくつきは 煙の香にて絶間なく 上野の山の銅像は 百千の人に仰がるる」西郷隆盛の墓の前から南方向に建つ鳥居西郷隆盛の墓の左側に、桐野利秋の墓。桐野 利秋薩軍総指揮官。四番大隊長で無類の豪胆。勤皇の志士として活躍し、”中村半次郎”の名で有名。戊辰の役に功あり。陸軍少将、熊本鎮台司令長官、薩軍裁判所長を歴任。享年40歳、誕生日は12月2日で、その日は華やかな薔薇が飾られている。西郷隆盛の墓の右側に進み、篠原国幹、村田新八の墓が並ぶ。篠原 国幹知略あり、桐野と並び立つ猛将。明治5年陸軍少将、近衛兵司令官。明治6年辞職し、帰鹿。私学校銃隊の監督。西南の役では、薩軍一番大隊長。明治10年3月4日吉次峠の激戦に陣頭指揮。42歳で戦死。村田 新八明治4年宮内大丞となり、岩倉具視一行に加わり欧米を視察。7年帰国し辞職、帰鹿。私学校砲隊の監督。西南の役では、薩軍2番大隊長。城山最後の日、西郷の死を見届けて自刃。享年42歳。左側に、淵辺高照墓、中央に、別府景長墓、右側に、桂久武墓渕辺 高照(群平)鹿児島市高麗町生まれ。近衛少佐。当初陸軍本営付護衛隊長。明治10年3月に帰鹿し、辺見、別府諸将と新募兵1500人により9番大隊を編成。八代の奪回を策したが失敗に終わる。6月1日鵬翼隊大隊長として人吉作戦を指揮中に戦死。38才。別府 晋介景長明治10年9月24日城山で戦死31歳。明治6年近衛少佐を辞し帰郷、加治木区長となる。西南の役では6番7番連合大隊長として出陣。9月24日早朝、岩崎谷口に向い突進中、銃弾を受けた西郷の命によりその介錯をつとめた。桂久武墓桂 久武日置島津家の出身。藩の大目付役の後、在藩家老として維新の変革に尽す。西郷とは終生心の通じ合った人。都城県令。西南の役では大小荷駄本部長。城山で戦死。48歳。墓地の東側にある南洲神社へ進む。南洲神社の黄葉が朝日を浴びて綺麗だ。小倉知周墓墓の側面に、年齢三十有立墓の左奥に立つ説明板、「小倉 壮九郎知周」明治10年9月24日城山で自刃 35歳。日露戦争に輝かしい功績をたてた連合艦隊司令長官東郷平八郎の実兄。明治6年陸軍大尉を辞任、帰郷して種子島区長となる。西南の役では3番大隊9番小隊長として出陣した。南洲神社所在地:鹿児島県鹿児島市上竜尾町2-1上の写真の左側の塔か?登録有形文化財 第46ー0033この建造物は貴重な国民的財産です 文化庁南洲神社電燈大正2年に建設されたこの電燈は、高さ4.4メートル、鋳鉄製で、六角形の柱脚や六方に開いた花弁状の柱頭飾り、各接合部の繰形などの装飾をもつ。近代日本の礎となった旧集成館が製造した数少ない遺構である。文化保護法、第57条第1項の規定により、平成18年10月18日付けをもって文化財登録原簿に登録された。南洲神社 御祭神 西郷隆盛命配 祀 桐野利秋命以下薩軍戦歿者の六千八百柱 沿革明治十三年一月一日 参拝所建立大正二年十月二十四日 南洲祠堂建立大正十一年六月二十八日 南洲神社創建昭和二年九月二十四日 桐野利秋命以下諸将士○○○社建立昭和二年十月二十四日 五十年祭盛大に行わる昭和二十年七月三十一日 ○○○社と○戦災○○炎上昭和二十五年九月二十四日 仮殿建立昭和三十二年九月二十四日 本殿再建昭和四十五年十二月三十一日 拝殿再建 昭和五十二年九月二十四日 百年祭・玉垣完工 例 祭 九月二十四日 祈年祭 二月二十八日 夏 祭 七月十七日・十八日猫の首輪も、「島津藩」の家紋神社から見下ろし、参道脇に軽食店があったが開店前店先にあった、「西郷隆盛 漢詩」偶 成(ぐうせい) 偶 成(ぐうせい)我家松籟洗塵縁 我が家の松籟塵縁(しょうらいぢんえん)を洗い、満耳清風身欲僊 満耳(まんじ)の清風に見僊(みせん)ならむと欲す。謬作京華名利客 謬(あやま)って京華名利(けいくわめいり)の客と作(な)り、斯声不聴巳三年 斯の声聴かざること已に三年。 解 説自分の家の松風の音が塵のうき世の縁を洗ひ去り、清らかな風が耳一ぱいに吹き入ってすがすがしい気持ちになり、何時の間にか仙人になってしまひさうな気がする。思へば、自分は今まであやまって都に出て、名誉利益を追ふ旅の客となり、此の松風の声を耳傾けて聞かない事が三年になる。(註)明治六年韓国問題で政府を辞して帰郷された十一月十日当日の作である。 平成十四年一月 贈 結成四十周年記念 鹿児島南洲ライオンズクラブ社殿手前右側に、西南之役戦歿者慰霊塔薩軍戦歿者名碑配列表 6765名 (出身地別 五十音順)中央に建つ「招魂」 西南之役戦歿者慰霊塔台座には、「趣 意」明治十年(1877)九月の西南之役終熄より百二十余年、平成十一年度遺族会総会は慰霊塔建立を決議、戦域より遺砂を格納し、就中無名の戦士に光を当て顕彰の誠を捧げるべく企画、同時に南洲翁や戦跡より「縁の石」を集め、翁の足跡や苦難の跡を偲ぶよすがとした。今般建立に当り賛同、募金に協力された有志諸賢に深く感謝の念を捧げるものである。 平成十三年九月十六日 西南之役戦歿者慰霊塔建立期成会南洲神社社殿明治13年には、西郷の墓地に訪れる者が増えたため隣接する土地に参拝所が設けられ、それが大正11年(1922年)に西郷隆盛を祭神とする南洲神社となった。また西郷隆盛没後100周年を記念して南洲記念館も建てられている。南洲神社から再度南洲墓地へ下の段の墓地を見下ろす左から二番目、桐野利秋墓、西郷隆盛墓と並ぶ上の段を西方向へ進む、全ての墓に説明板はない永山 盛弘(弥一郎)(ながやま もりひろ(やいちろう))人柄温和にして義に富む。明治4年陸軍中佐、北海道屯田兵の長。明治8年には辞職して帰国。西南の役では、薩軍三番大隊長。明治10年4月熊本県御船において奮戦したが、四面楚歌という状況に陥り、民家を買い取って中に入り、自ら火を放って自刃。享年40歳。辺見 十郎太近衛陸軍大尉のとき西郷とともに下野。明治10年の西南の役では、薩軍三番大隊一番小隊長。可愛嶽(えのたけ)突破には先鋒となり、頭部に負傷したが屈せず。明治10年9月24日別府晋介と共に西郷に従って岩崎谷に進み、奮戦して死す。享年29歳。池上 貞固(いけのうえ さだかた)戊辰の役に功あり。明治4年陸軍少佐。征韓論が起ると同5年命により満州地方を視察。同6年職を辞して帰国。同10年9月24日城山岩崎谷に死す。享年36歳。手前の墓「平野正介墓」平野 正介(ひらの しょうすけ)(鹿児島市滑川)近衛陸軍少佐のとき下野。吉野開墾社監督。西南の役では、常山隊隊長。明治10年9月24日城山で長兄の郷田七郎(38歳)、次兄の郷田八兵衛(36歳)、郷田七郎の子、吉之助少年(17歳)とともに戦死。享年32歳。正介は三男であった。なお正介の弟、郷田猪之助(27歳)は延岡で戦死。平野・郷田4兄弟も、兒玉5兄弟に劣らぬ奮戦、兄弟の墓はそれぞれ別にあったのか。下の墓地に下り、福岡隊士手前に、川庄喜徳墓福岡隊士 戦没日 戦死地 享年川越庸太郎 明治10年9月24日 城山にて戦死 26歳 川庄 喜徳 明治10年9月 4日 米倉の戦(現鹿児島市役所附近) 26歳福岡隊は薩軍に呼応して決起したが、薩軍と合流できないまま全滅した。戦死者104名。奥に、庄内藩士の墓庄内藩士(山形県) 戦没日 戦死地 享年伴兼之 明治10年3月20日 肥後植木 20歳榊原政治 5月10日 延岡病院 18歳明治8年他藩士ながら特に私学校入学を許された。西南の役が起こると帰国するよう説得されたが、敢えて従軍した。南洲墓地の西側から南洲墓地越しに南洲神社社殿を望む。一段高い左中央に、西郷隆盛墓。南洲墓地から西側にある、西郷南洲顕彰館8:11西郷南洲顕彰館所在地:鹿児島県鹿児島市上竜尾町2-1当館は、西郷南洲没後百年を記念し、皆さんの募金で作られ、鹿児島市教育委員会が主管しています。 主な展示品は、 1、西郷隆盛の生涯の10景のジオラマ 2、西郷隆盛の遺品・肖像画 3、西郷隆盛直筆の書幅 4、西南戦争関係資料◆ 入 館 料 :一般 200円 小・中学生 100円◆ 開館時間:午前9時 ~ 午後5時◆ 休 館 日 :月曜日(祝日の場合翌日) 12/29 ~ 1/1まだ時間が早く、開館前であった。西郷南洲顕彰館は1978年7月に開館、南洲公園内の南洲神社西郷隆盛墓所の隣に建っている。西郷隆盛を中心に大久保利通や明治維新について展示しており、近隣には西南戦争で西郷軍が決起した私学校址の石垣、最後の戦いが行われた城山、西郷洞窟、西郷隆盛終焉の地などがある。西郷南洲顕彰館前から桜島を望む噴煙がのぼる桜島燈籠には、「西南之役官軍薩軍恩讐を越えて」と西南之役官軍薩軍恩讐を越えて西南之役は、明治の近代国家建設途上における国内最後の最大の内戦である。明治六年十月、いわゆる遣韓論に破れた西郷隆盛の下野により、その端緒を開き明治十年二月十五日に出軍、同十年九月二十四日をもって終焉した。参戦した兵力は官軍六万人薩軍三万人。両軍合わせて一万四千余人の戦死者を出した。熊本城の攻防戦、高瀬の大会戦、田原坂の大激戦などが、つとに有名である。日本人同士が、親子が、兄弟が、竹馬の友が、血涙山河を濡らす悲劇的戦いに数多有為の人材を失ったこと今もなお惜しみてあまりある。「回向には 我と人とを 隔つなよ 看経はよし してもせずとも」島津家中興の祖と仰がれる日新公(島津忠良)の「いろは歌」である。日新公の加世田別府城の戦い、島津義弘の木崎原や島津義久の耳川の戦いに続き、島津義弘、忠恒(のちの家久)親子は和歌山の高野山に”朝鮮之役”など、それぞれに敵味方の別なく「高麗陣敵味方戦死者供養碑」を建立し戦没者を懇ろに供養した。両軍相対峙した必死の戦いも、互いの奮闘をたたえ戦没者を敵味方の別なく供養する「博愛慈悲の精神」は武士道の精華として感銘を与えている。ここに西南之役百四十年、明治維新百五十年を奇貨として国の安寧と世界の平和を希求し、先人の労苦に思いを馳せ、もってその遺風を後世に伝えるものである。 平成二十九年九月二十三日(西南之役百四十年)竹公園 島津吉貴公碑 50m8:14南洲墓地の裏手に当る北側の遊歩道 ー 続く ー
2022.01.03
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九州三日目は鹿児島から宮崎市まで北上予定。城山公園の展望台から日の出を観賞した後、南洲墓地へ向かうことに。11月16日(火) 7:24城山公園からくねくねと坂を降りる途中、目の前に大きな銅像を発見し駐車。おみやげセンター「せごどん本店」所在地:鹿児島県鹿児島市城山町19時間が早く店は開店前で、駐車場に車を止める。数メートルのせごどんが立つ鹿児島市内には、せごどんの像は何像たっているのかズームアップ銅像の左側に洞窟。「目で見る 西南戦争始末記」三十六景展示場この洞窟の中にあります。ご自由にお入り下さい。せごどんみんなさー おやっとさ ごはした。ゆくさ しろやめ おさいじゃったもした。ほんのこて あいがと ごわす。あたいも きゅは さしかぶい 狩いっもしたや すったい だれもしていま こけ たっちょいかた ごわす。ここん店は あたいが 名をくれた「せごどん」ちゅ 店ごわす。なけななだけ やっすっやら がごっまん 土産がずるっ ならべっあんで 遠慮せじ なけ はいっ 茶でん いっぺ飲ん行っきゃんせ。見っだけで よかとごはんで どうか たのん みやげもんでなー。「お客せーな 安す しっあげよ」ちゆっ ごはんで あたいと いっしょき写真でん とっいっきゃはんか。よかにせ やっで うつろごっ ごはす。せごどんの銅像から少し下り、「西郷隆盛洞窟」石碑には「南洲翁洞窟記念碑」鹿児島市指定記念物(史跡) 史跡 西郷隆盛洞窟石柵で囲まれた、西郷隆盛洞窟西郷隆盛洞窟「おはんらにやった命」 MY LIFE IS IN YOUR HANDS ー 西南戦争 最後の司令部 ー西郷隆盛洞窟「おはんらにやった命」 MY LIFE IS IN YOUR HANDS ー 西南戦争 最後の司令部 ー1877年(明治10)9月14日、午前4時政府軍の城山総攻撃が始まりました。城山に立てこもる薩軍兵士は、わずか300余。これを囲む政府軍は、何重もの柵をめぐらし、その数4万。死を決した西郷は、夜明けを待って、5日間すごしたこの洞窟を出ました。桐野利秋、別府晋介、村田新八、池上四郎といった私学校の幹部たちも一緒です。この日の西郷の出立ちは妻のイトが縫った縞の単衣に白い兵児帯。ゆっくりと岩崎谷を下ります。その時流弾が西郷の腰に命中。別府の介錯をあおいで49歳の生涯を閉じたのです。西南戦争というのは、不平士族の反乱のあいつぐ中、西郷を慕う私学校の生徒たちが、政府の挑発によって引き起こした暴動が始まりです。首謀者の引き渡しか全面戦争か、その結論を出したのは「おはんらにやった命」という西郷の一言でした。2月15日、ついに挙兵。熊本で政府軍と激しい攻防をくりかえすも、近代兵器の前に敗退。7ヶ月にわたる大乱の最後を、西郷は故山城山で迎えたのです。桐野利秋、西郷隆盛、別府晋介 ぬれぎぬを 干そうともせず 子供らが なすがままに 果てし君かな 勝海 舟城山の薩軍陣地跡(薩軍は強固な堡塁をめぐらせた)西郷隆盛洞窟の上には竹林7:35西郷隆盛洞窟の向かい側にある、「地鶏炭火焼き一」所在地:鹿児島県鹿児島市城山町20-1店の右側に「西郷隆盛没百年記念座像」7:41城山公園、西郷隆盛洞窟から降り立ち、「南洲墓地 顕彰館(駐車場) 500m」の標識。7:45南洲公園からの桜島南洲公園日本における最後の内戦である西南戦争は、官軍・薩軍とも約7,000人の戦死者を出している。その薩軍のうち約2,000名が葬られているのが、南洲墓地である。西南戦争は明治10年(1877年)に城山で西郷隆盛が自刃、薩軍全滅を以て終結する。直後に鹿児島県令であった岩村通俊が許可を得て隆盛らの遺骸を埋葬、明治12年に有志によって鹿児島市内にあった薩軍兵の墓を一箇所に集め、さらに他県で亡くなった者の墓も改葬した。これが現在の南洲墓地である。南洲公園の案内南洲墓地1877年(明治10)の西南戦争で戦死した西郷隆盛をはじめ、2,023名の将士が眠っています。西郷南洲顕彰館当館は、西郷南洲没後百年を記念し、皆さんの募金で作られ、鹿児島市教育委員会が主管しています。 主な展示品は、 1、西郷隆盛の生涯の10景のジオラマ 2、西郷隆盛の遺品・肖像画 3、西郷隆盛直筆の書幅 4、西南戦争関係資料◆ 入 館 料 :一般 200円 小・中学生 100円◆ 開館時間:午前9時 ~ 午後5時◆ 休 館 日 :月曜日(祝日の場合翌日) 12/29 ~ 1/1松峰山浄光明寺南洲墓地の南側に建つお寺。門の左側の石碑には、与謝野晶子の唄が刻まれている、「御仏の 浄光明がとこしえに まもるならまし 南洲の夢」松峰山浄光明寺 沿革この寺は約八百年前の鎌倉時代中頃、時宗の開祖一遍上人の鹿児島遊行を契機として、島津家三代久経(道忍)公の命によりこの地に建てられました。島津家初代忠久(得仏)公・二代忠時(道仏)公・三代久経公・四代忠宗(道義)公・五代貞久(道鑑)公の位牌が置かれ(現在は焼失してしまいございません)、また二十一代吉貴公の菩提所として崇拝された由緒正しい寺です。建治三年(1277)一遍上人が大隅正八幡(現在の鹿児島神宮)に参籠して。「とことはに南無阿弥陀仏と唱ふれば、なもあみだぶに生まれこそすれ」の悟りを開かれ、その因縁もあってこの寺は江戸時代末まで薩隅日時宗五十九か寺の本山でした。また大乗院(真言宗)福昌寺(曹洞宗)と共に浄光明寺は鹿児島三大寺と呼ばれていました。文久三年(1863)薩英戦争の時、城と見間違えられてイギリス艦隊の集中砲撃を受けて焼失、明治二年(1869)の廃仏毀釈の追い打ちを受けて空き地になっていた境内に明治十年(1877)西郷隆盛以下薩軍将兵が埋葬され、七五五基・三○三三名(氏名の解るもの1910名)の墓地となりました。廃仏毀釈のあと、明治十六年現在地に復活、昭和二十年アメリカ軍の空襲で焼失。四十世住職の復員で再興、平成元年元堂舎を再建、今では鹿児島県唯一の時宗寺院となりました。非常な歴史の中で鎌倉時代以来の法統を受け継いでいます。 薩英戦争で浄光明寺はイギリス艦隊に狙い撃ちされ焼け落ちた。続く廃仏毀釈で空き地に なっていた。県令岩村通俊の指示で西郷隆盛以下四十名が本堂跡に埋葬されたのが浄光明 寺墓地(南洲墓地)の始まりになる。昭和四年頃に与謝野晶子が訪れ、次の唄を詠まれたそうです。「御仏の 浄光明がとこしえに まもるならまし 南洲の夢」本堂は向かって左の階段を上った所に御座います。どうぞご自由に御参拝ください。境内を望み、入口で引返す旅友は既に南洲墓地へ南洲墓地入口の鳥居鳥居をくぐると左側に建つ、「岩村県令記念碑」。記念碑の横には、荘内柿が聳える。奥に墓地があり、二段に別れている。岩村県令記念碑岩村通俊(みちとし)は天保11年(1840)、土佐藩(高知県)で生まれた。幼少のころから漢学を修め、剣を学んだといわれる。明治元年(1868)の戊辰戦争には、軍監として従軍、越後に転戦した。維新後、新政府に仕え、明治10年(1877)5月、鹿児島県令(県知事)となり西南戦争の処理を務めた。城山の戦いで西南戦争が終わると、旧浄光明寺(現在の南洲墓地)に送られた西郷隆盛・桐野利秋以下西郷軍の戦死者の遺体をていねいに埋葬した。そして、自ら戦死者の墓碑を書いて建てた。岩村県令は「西郷隆盛らの考えは、後の世に必ずわかってもらえる。」と信じ、政府への気がねや世間のわずらわしい噂をしりぞけたといわれる。岩村は、のちに北海道長官や農商務大臣になった。荘内柿この荘内柿は、庄内の偉人 菅臥牛(すげがぎゅう)翁と西郷南洲翁との徳の交わりを機縁として、山形県鶴岡市と鹿児島市が兄弟都市盟約を締結した、昭和四十四年十一月七日に、鶴岡市から寄贈されました。 庄内柿は庄内地方の特産品で、糖度が高くてみずみずしく、庄内の秋を代表する果物 の一つとして知られています。 鹿児島市 所管課:国際交流課盟約書鹿児島市と鶴岡市は、日本の夜明け明治維新を契機に西郷南洲翁の敬愛の教えをもとに、親しく交わってまいりました。これからも、両市民はもとより、青少年の中にこの敬愛の精神をはぐくみ、ますます友好親善を深め、交流を図り、両市の限りない発展を願ってここに兄弟都市盟約を結びます。 昭和四十四年十一月七日 鹿児島市長 末吉利雄 鶴岡市長 足遠兼一郎石碑等が立ち並ぶ、「招魂碑」招魂碑明治十年西南の役の事に由り 宮城県仙台をはじめ全國各地に幽囚中 死歿された人がすくなくない 本年恰かも南洲神社八十五年祭にあたり その記念事業の一として これら諸氏の招魂碑を同士の英魂眠る南洲墓地境〇に建て もつて慰霊のまことを盡さんとするものである 昭和三十七年九月二十四日 南洲神社八十五年祭奉賛会鳥居をくぐり墓地は二段になっていたが一段低い墓地を廻る。島津 啓次郎之墓島津 啓次郎佐土原藩主島津忠寛の三男。明治9年、7年間の米国留学を終え帰国早々、佐土原隊500名を率いて従軍。自由民権を唱えた。従者の三島貢之(38才)、中村道晴(26才)、有村武英(20才)とともに明治10年9月24日城山で戦死。21才。墓地の左隅に、中津隊士之墓中津隊士(大分県)増田宋太郎 明治10年9月4日 米倉の戦い(現鹿児島市役所附近) 28歳増田の率いる中津隊は、薩軍の戦況不利な明治10年3月末大分県中津で挙兵し、薩軍に投じた。中津隊員は80余名。戦死者は22名にのぼった。南洲墓地 「命もいらず名もいらず」 ー 信義を貢いた巨星と群れ星ここに眠る ー1877年(明治10)9月24日、城山で西郷隆盛が自刃して、ついに7ヶ月にわたった西南戦争が終わりました。熊本城の攻防、田原坂の激戦に敗れた薩軍は、多くの死傷者を出しながらも九州を南下して、故郷の城山を最期の決戦の場に選んだのです。南洲墓地には西南戦争に敗れた薩軍2023名もの将兵が眠っています。1877年(明治10)岩崎谷で戦死した西郷以下40名を仮埋葬したこの地に、その2年後、市内各所に埋葬されていた遺骨を移し、さらに6年後には、宮崎・熊本・大分の各県からも集められました。墓石は正面に西郷隆盛、左手に最後まで奮戦した桐野利秋、右手には篠原国幹、他には村田新八、辺見十郎太、別府晋介、桂久武など幹部が並び、鹿児島県令(知事)として西郷を支援し処刑された大山綱良や、わずか14歳にして戦場に消えた伊地知・池田両少年、兄弟5人が討ち死にした児玉兄弟、県外出身者の名も見られます。また1879年(明治12)に設けられた参拝所は、1922年(大正11)西郷隆盛を祀る南洲神社となりました。桐野利秋、西郷隆盛、篠原国幹 御仏の 浄光明がとこしへに 護るならまし 南洲の夢 与謝野 晶子薩軍に参加した主な県外出身者伴 兼之 庄内藩士(山形県)1877年(明治10)3月20日 肥後植木で戦死。(20歳)榊原 政治 庄内藩士(山形県)肥後御船で負傷 1877年(明治10)5月10日 延岡病院で戦死。 (18歳) 両名は明治8年、特別に他の藩ながら私学校への入学が許された。西南戦争が始まると庄内 へ戻るよう説得されたが、敢えて従軍した。川越 康太郎 福岡藩士 1877年(明治10)9月24日 城山で戦死。(26歳)川庄 喜徳 福岡藩士 1877年(明治10)9月4日 米倉の戦いで戦死。(26歳) 福岡隊は薩軍に呼応して決起したが、合流できないまま全滅。戦死者104名。増田 宋太郎 中津隊(大分県) 1877年(明治10)9月4日 米倉の戦いで戦死。(28歳) 中津隊は、薩軍の戦況不利な明治10年3月末大分県中津で挙兵し、薩軍に投じた。中津隊 は80余名、戦死者は22名にのぼった。森川 政一 山梨県出身 1877年(明治10)6月23日 豊後方面で戦死。(34歳) 2番大隊3番小隊付属として従軍。鳥居の右側に廻る、常夜燈常夜燈この常夜燈は、西郷隆盛と勝海舟との会談により、江戸城が無血開城され、江戸100万市民が兵火を免れたことへの感謝のため、昭和14年5月当時の東京市によって寄贈建立されたもので、花棚石でできています。江戸城の無血開城には、薩摩藩から第13代将軍徳川家定の御台所となった天璋院(篤姫)も西郷隆盛に徳川家存続の嘆願書を送るなど、大きな役割を果たしたとされています。勝海舟歌碑 ぬれぎぬを 干そうともせず 子供らが なすがままに 果てし君かな 勝海 舟勝海舟歌碑明治6年(1873)、朝鮮への使節派遣の問題で新政府を去った西郷隆盛は、鹿児島にもどり、青年の教育のため私学校を設立しました。ところが明治10年この私学校の生徒が、西郷の意思に反して暴走。ついには西南戦争を引き起こしたのです。この歌は、幕末以来西郷と親交の深かった勝海舟が、愛する私学校生徒に身を委ね生涯を閉じた亡友のために詠んだものです。隣に立つ常夜燈は、西郷と勝海舟との会談により江戸城が無血開城され、江戸100万市民が兵火を免れたことへの感謝のため、昭和14年5月当時の東京市によって建立されたものです。歌碑はこの常夜燈と同じ花棚石(けだないし)でできています。花棚石(けだないし)とは、 鹿児島市内で採掘されている凝灰岩で、黒っぽい動物など彫るときに良さそうな石です。 市内にある有名建築物にも豊富に使用されていると。黄興先生南洲墓地参詣之碑碑の台座に、黄興先生略歴孫文と共に中国辛亥革命の代表的志士であった黄興先生は、1874年、湖南省長沙市の学者の家に生まれた。性格は寡黙で沈着豪胆、体格も偉大で英雄の風格があり、名文家、能筆家としても有名であった。1902年、選ばれて日本に留学し、東京の弘文学院に入学したが、早くから民族主義に目ざめ「華興会」の会長に推挙されるや、孫文の「興中会」と日本で統合を図り、1905年「中国同盟会」を結成して、清朝を打倒し、中国の民主化を目ざす革命運動の推進力となった。1909年(明治42年)、友人の宮崎滔天の案内で鹿児島を訪れ、ここ南洲墓地を参詣した際、次の詩を賦した。 八千子弟甘同塚 世事維爭一局棋 悔鑄当年九州錯 勤王師不撲王師黄興先生は1916年、志半ばにして上海でその波乱に満ちた生涯を閉じ、後に故山の長沙市岳麓山に国葬を以って埋葬されたが、終生、中国の西郷南洲を自認し、南洲翁の人格と思想に傾倒した。黄興先生の憂国の至情を追慕すると共に、その出身地、長沙市と鹿児島市との友好都市盟約締結二十五周年に当り、両市の交流が更に深まることを切望して巳まない次第である。中国語で書かれた説明版 ・・・・・略・・・・・ 2007年9月 鹿児島市日中友好協会 西郷南洲顕彰会少年烈士 戦没日 戦死地 享年伊地知 末吉 明治10年3月30日 肥後松橋 14歳池田 孝太郎 明治10年9月24日 城山 14歳新納 宗次郎 明治10年3月21日 肥後鏡 14歳 墓碑の側面には、「齢十四年十月」と。中村 恕助(秋田県)京都にて勤皇志士と交流。明治3年、反政府運動に連座、終身禁獄の刑。西南の役時、鹿児島の獄に在ったが、大山県令に従軍を出願して釈放。明治10年3月に戦列に加わる。4月20日、熊本城の東、保田窪の激戦で戦死。34才。墓碑には、名前、出身地、年齢が刻まれており、正面に、「秋田縣 中村恕助墓」側面に、「齢三十有四歳」と。森川政一墓墓碑には大きく、「森川政一墓」と。全ての墓碑には説明板は立ててないが遺族が希望し立てているのか。森川 政一旧姓茂手木。山梨県出身。明治10年6月23日 豊後方面で戦死。34歳。京都遊学中戊辰の役で官軍に加わり功をたてた。薩摩藩士森川の養子となり、西南の役では2番大隊3番小隊附属として従軍した。7:56兒玉兄弟之墓が五基並ぶ。墓碑の正面に氏名、側面に、戦死した日と場所が刻まれている。兒玉兄弟 戦没日 戦死地 享年実直(八之進) 明治10年3月26日 肥後小川 35歳実清(矢八郎) 明治10年6月15日 武村 32歳実休(十郎) 明治10年3月 5日 肥後木留 28歳実健(八郎) 明治10年3月11日 肥後田原 23歳彦吉 明治10年9月24日 城山 17歳兒玉兄弟は何人兄弟であったのか、少なくても十人? ー 続く ー
2022.01.02
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明けましておめでとうございます。本年も昨年同様よろしくお願い申し上げます。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・九州三日目は鹿児島から宿泊地の宮崎市まで北上する。今日の続日本百名城登城は鹿児島県のNO.197 志布志城、宮崎県のNO.196 佐土原城の2城。ホテルでの朝食がないため、朝日を見るために6時半にホテルを出発、近くの城山公園へ。11月16日(火) 6:43城山公園展望台駐車場所在地:鹿児島県鹿児島市城山町22ホテルから 2.3km、7分で到着。土産物店が立ち並ぶが時間が早く開店前、急いで展望台へ。城山公園周辺城山公園明治23年、鹿児島市最初の公園として開設されました。公園面積は、展望台(高さ107メートル)から東側傾斜を含む 15.6haです。緑豊かな遊歩道や雄大な桜島、美しい錦江湾、市街地を眺める展望台、林間で遊べるドン広場、鶴丸城の二の丸庭園であった探勝園などがあります。この「城山」は、14世紀(南北朝時代)豪族上山氏の山城の跡で、明治10年西南戦争の最後の激戦地となったところです。また、樹齢約400年にもなるクスの大木など常緑広葉樹やシロヤマシダ、シロヤマゼンマイなどのシダ類等、約600種余りの植物が密生しています。市街地にあって南九州特有の照葉樹林を保ち、数多くの野鳥や昆虫が生息する自然の宝庫です。このため、約10.9haが昭和6年6月「史跡・天然記念物」として国の文化財指定を受けています。私たちの「心のふるさと」城山の史跡や貴重な自然を次代へ伝えるため次のことを守りましょう。● 自然とのふれあい、語らいを大切に● 緑のオアシスをよごさない、壊さない● 他人へ迷惑をおよぼす行為をしない城山周辺MAP展望台から 探勝園入口 約1,500m 薩摩義士碑入口 約 800m 城山団地入口 約 400m6:47日の出が近いので急いで、駐車場から歩いて数百メートルに位置する展望台へ。途中6時半からのラジオ体操を終えた人とすれ違う。左は桜島で標高 1,117m。桜島の東側が赤みを帯びている。右側は大隅半島の山並み。櫻島も噴火するとどのようになるのか、今日の噴煙は?桜島の頂上に雲の如く少し噴煙6:54大隅半島の山並みが赤く染まる城山の東下の、鹿児島港廻りの市街地。展望台からは桜島をはじめ錦江湾や鹿児島市街地を一望できる。また、夜景が美しいことでも有名である。城山は西南戦争の最後の激戦地となったため、西郷洞窟や西郷終焉の地など、西南戦争にまつわる史跡が多く存在し、昭和6年に国の天然記念物及び史跡の指定を受けた。 桜島フェリーで海の旅!● 桜島フェリー 24時間運航・日中は通常15~20分毎。運賃:大人 200円 小児:100円。 市街地からわずか4kmの距離にそびえる桜島まで、錦江湾を約15分で渡ります。● よりみちクルーズ船 錦江湾を約50分かけてクルージング。運賃:大人 600円 小児:300円。 1日1便運航(鹿児島港発 11:10)→(桜島港着 12:00) 市街地をズームアップ中央のこのお寺は?鹿児島港には大型フェリーが停泊。奄美大島等へのターミナル?。大隅半島の山並み6:58ようやく大隅半島から日の出鹿児島湾(錦江湾)への日の出の光線を待つが、期待したようにはならず。ズームアップ6:59日の出1分で大隅半島の山をズームアップ7:00茅ヶ崎と比べ日の出の時間差は15分ズームアップ7:01太陽の全体が顔を出す7:01展望台が朝日を浴び赤みを帯びる城山展望台視点場 鹿児島の風景をいつまでも 鹿児島市 平成20年6月1日旅友もベンチに座り撮影に夢中、後方の石碑は「行幸記念碑」。7:03錦江湾は穏やか7:04 展望台の標高は高さ107メートル。右の木はスダジイ(ブナ科)7:05左:行幸記念碑 公爵島津忠重謹書右:良子女王殿下御手植公孫樹 大正十二年五月十八日石碑には「皇太子殿下御手植〇 明治四十年十月二十二日」 後の大正天皇の御訪問による御手植え。柵で囲まれた木が多くあり皇族も訪れているポイントであるようだ。桜 島歴史 桜島の歴史は噴火の歴史とも言われ、これまで幾度も大規模な噴火を繰り返してきています。 中でも、大正3年(1914)の大噴火では、大量の熔岩の流出により、もともと島だった桜島と 大隅半島とが陸続きになりました。桜島は鹿児島市街地の沖合い約4kmにあり、現在も活動 をしている活火山ですが、約5,000人の市民が火山と共生しています。成立ち 桜島が噴火する前、鹿児島湾(錦江湾)には巨大な穴があいていました。この穴は姶良カルデ ラと呼ばれ、約29,000年前の巨大噴火によってできたものです。このときの噴火で大量の マグマが流出し、南九州全域を埋め尽くしました。その後、約26,000年前にカルデラの南 部で起きた噴火でできたのが桜島です。サクラジマ アイランドビュー 桜島港を発着点に、烏島展望所、赤水展望広場、湯之平展望所までを循環し、桜島の自然と 観光スポットを満喫しながら周遊できます。(一周55分) ● 一日乗車券(乗り降り自由) 大人:500円 小児:250円 ● 運 賃(乗車区間による) 大人:120~440円 小児:60~220円桜島・錦江湾ジオパーク巨大噴火がつくった鹿児島城 山まちの向こうに錦江湾と桜島。火山と都市とが共生する桜島・錦江湾ジオパークならではの景色です。あなたの立っているこの場所は、火山がつくった「シラス台地」。約3万年前、現在の錦江湾奥で巨大噴火が発生し、火山灰(火砕流)は南九州を覆いつくしました。この火山灰は「シラス」と呼ばれ、鹿児島県本土に平均約60mもの厚さで積もりました。シラス台地の上は、水はけがよいため稲作には向かず、サツマイモなどの畑作や畜産が盛んに行われました。城山はかつての城の跡。古くからシラス台地の地形を利用した山城が県内各地に建てられました。鹿児島の文化を育んだ大地は、巨大噴火がつくったといってもいいかもしれません。展望台にはスダジイの巨木が聳える双眼鏡も設置されている展望台この日は天気が穏やかであったが城山展望台 → 30m15m ← 城山遊歩道城山ドン広場 ↓ 160mシティビューのりば ↓ 220m展望台を後にし駐車場へ下る。城山遊歩道での散策も楽しめ、市民の憩いの場ともなっているので散歩の高齢者が多い。大久保利通銅像(説明板の写真から)。西郷隆盛の銅像はよく見かけるが、大久保利通像は少ないのでは。城山ドン広場城山ドン広場 お昼だ「ドーン!」 ー 城山に舞い散る紙吹雪 ー「ドンが鳴った、ヒイ(昼)がなった、メス(飯)食ぶろ」と大正時代を鹿児島で生きた人は囃すそうです。「ドン」とは明治30年以来、正午の時報がわりに撃たれた空砲の音のこと。当時は市役所の職員が、時計とにらめっこをしながら、正午キッカリに点火、その瞬間「ドーン」という轟音とともに、紙の弾が破裂、あたり一面に紙吹雪が舞い散りました。ドンが撃たれたことから「城山ドン広場」と呼ばれました。この一帯は、島津氏入府以前の豪族、上山氏の城(砦)のあった場所で、周辺の土塁が、今もその名残をとどめています。さて午砲ドンは、昭和12年、市役所のサイレン時報にその役目を奪われましたが、終戦後「サイレンを聞く度に空襲警報を思い出してゾッとする。やめてほしい」という声が相次ぎ、サイレン時報の中止が決まると、今度はお午にドンの復活を望む声が殺到したということです。城山公園展望台駐車場へ戻る。駐車場は広く無料。時間が早く駐車場にはまだ車がない。スダジイの大樹が聳える7:17SHIROYAMA HOTEL kagoshima所在地:鹿児島県鹿児島市新照院町41-1この後、ホテルの前を通り城山公園から下り、次の「南洲墓地」へ向かう。 ー 続く ー
2022.01.01
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