全31件 (31件中 1-31件目)
1

宮宿は、東海道五十三次の41番目の宿場である。宮とは熱田の宮、すなわち熱田神宮のことで、幕府の公式文書では熱田宿である。宮宿は熱田神宮の門前町であり、東海道の脇往還である佐屋路や美濃、木曾へ通じる美濃路の分岐点である。また熱田湊は物流の拠点であり、宮宿は経済・情報・文化の中心都市的な役割を担った。11/23(土) 14:13富部神社お葉つき銀杏この木は茨城県笠間市稲田御草庵に有ります。天然記念物親鸞聖人御手植の「お葉つき銀杏」の子木で寄贈者が其の実を愛育えしとのことです境内には菊がきれいに咲いていた境内の片隅に・・・・・境内の山車蔵山車蔵には、享保12年(1727)作といわれる高砂車山車が納められている。この山車は車体が大きく三階の上に更に高く、いわゆる高砂車を象徴する大きな松の木を背景にして屋形を据え、その前に尉と姥の人形が置かれている。昭和48年(1973)名古屋市文化財に指定される。江戸時代、旧暦6月12日の例祭日には金繍の幕を巡らし、氏子が拳って曳行したが近年老朽化が著しく、十月の例祭日には蔵の中で組立られ祭の象徴となっている富部神社入口の鳥居の右側にある『金毘羅社』金毘羅社東海道「宿駅制度設定四百年記念碑」 平成13年吉日 名古屋市・呼続学区石碑には、現在は繁華な町となるも、長楽寺、富部神社、桜神明社など、名所旧跡を多く残し、今日に至るまで数々の歴史の重みに想いをはせるものであると名古屋十名所の石碑旧東海道に戻る途中左側に入り進むと、左手に境内14:23清水稲荷殿所在地:愛知県名古屋市南区呼続4丁目13清水稲荷殿は呼続公園の中に位置し、境内には無料駐車場があり多くの車清水稲荷殿は富部神社と長楽寺に押されて印象が薄いが、地元では大切にされている朱塗りの社殿、鳥居が目立つ~ ミツバチは宝物です ~養蜂の起源は、おおよそ紀元前1万5000年前の頃とされております。スペインのアラニア洞窟の古い壁には、女性が手を伸ばし高い崖で自然巣を採集しようとする姿が描かれております。日本では、縄文の頃から家の一角にくぼみを作り蜂蜜を採取していたと伝えられ、竪穴式住居の一角に40cmほどの穴を作り、蜂達とハチミツを共有していたと報告されております。当山の境内では、養蜂は行っておりませんが、縄文式の文化と同じで、ミツバチとも共存しております。また彼らの天敵はスズメバチで、その天敵から身を守る為お墓の所に巣を作る場合がありますが、静かに見守っていただきますようお願い申し上げます 稲荷山 長楽寺清水稲荷殿から出て左に折れて進む14:26左手に石像があり、動物観音の石柱と銀杏の大木長楽寺入口長楽寺は、曹洞宗の寺で、山号は稲荷山。所在地:愛知県名古屋市南区呼続4丁目13-18本尊:十一面観世音菩薩創建年:弘仁12年(821) 開基:空海右奥に長楽寺動物霊園があり、近年はいわゆる「ペット供養」の方面が有名である境内へ入り右側にある『立木観音堂』客 殿客殿から左に進むと『信者修行堂』中では多くの人がいて、愛犬、愛猫の法要が行われていた霊園特別法要法要日の日時が書かれ「??家愛犬????」「??家愛猫???」の札里親会:11月の開催日 10日・24日里親会のおしらせ毎月第2日曜日・第4日曜日開催11時より15時まで子犬、子猫、飼育放棄されてしまった子達の新しい家族を探しています。募金活動やフリーマーケットも同時開催14:35長楽寺から旧東海道へ出る旧東海道を進む14:38旧東海道は「呼続小学校前交差点」で東海通と交差、横切って斜め左方向へ進む交差点の標識より地名が解るが「呼続」⇒「よびつぎ」とは旧東海道を進み左手にある『正覚山 誓願寺』所在地:愛知県名古屋市南区15寺の石柱と東海道の石柱更に、旧東海道を進み右手にある『湯浴地蔵』所在地:愛知県名古屋市南区呼続3丁目12-1本堂の前の幟に「南無大師遍照金剛」湯浴地蔵の前にある案内板「南区史跡散策路 東海道周辺めぐり」 年魚市潟勝景跡(白?寺)へ310m ← 「湯浴地蔵」 → 黄竜寺へ40m街道を進むと小さな祠街道を進むと「東海道」「鎌倉街道」の石柱ここで合流したのか、交差したのか?旧東海道を北北西へ進む14:48熊野三社所在地:愛知県名古屋市南区6東海道「宿駅制度設定四百年記念碑」石碑には、古来、呼続一帯は四方を川と海に囲まれた、巨松の生い茂る陸の浮島として「松巨嶋(まつこしま)」と呼ばれ尾張の名所であった。ここは東海道が南北に通りこれに鎌倉街道が交差している。西側の磯浜は「あゆち潟」と呼ばれ、これが「愛知」の地名の起源になったと言われている芭蕉は「寝覚めの里よびつき」と書き記し、この地に足跡を残している。また、山崎の長坂(今より急坂であった)に?する山崎の立て場は、宮の宿への往還の地として賑わい、宮の宿より渡し船の出港を呼びついたことから「よびつき」の名があるとも言われている 平成13年吉日 名古屋市・呼続学区保存樹 エノキ一里塚に植えられている榎徳川家康の「一里塚にはええ木を植えよ」を勘違いして「エノキ(榎)」が植えられたエノキの落ち葉御由緒永禄年間山崎城主、佐久間信盛が城中の守護神として祀り、信仰殊の外厚く寛永4年(1627)山崎村並に附近一帯の住民の守神として、現在地に再建せられ今日に至るも御神徳は年々高まっている 熊野三社二の鳥居熊野三社境内左に「山﨑稲荷社」、右に「熊野三社」地元に根ざした神社で、派手さはないが秋まつりでは屋台も出て、地元の太鼓が披露され温かく盛り上がるとこじんまりした拝殿左手に、保存樹 クスノキ」松巨嶋(まつこじま)手洗 松巨嶋(まつこじま)呼続の台地一帯は昔白砂青松の景勝地で松巨嶋といわれ「尾張徇行記」に記されている。この手洗の表は「松巨嶋」裏には「明和三丙戊歳五月吉辰」願主三宅徳左衛門年定と刻まれている 明和三年(1766)14:54街道へ戻る旧東海道沿いのうなぎ店「いずたま(泉玉)」。所在地:愛知県名古屋市南区呼続2丁目13-9ひつまぶし、鰻も美味しかったが、刺身のハモも美味しかったと。いつか美味しいウナギを弥次喜多道中中に食べたいものですが!「山崎の長坂」の石柱、昔はこれ以上に急坂であったと14:57曹洞宗・龍雲山 法泉寺所在地:愛知県名古屋市南区呼続2丁目1-21法泉寺山門、扁額には「龍雲山」方向を変えて撮影山門には「東海四十九薬師霊場第三十一番札所 法泉寺」15:02山崎の長坂を下り、山崎川の山崎橋へたどり着く山崎橋からの上流、名鉄名古屋本線が走る15:03旧東海道を歩き、山崎橋を渡って左方向へ進む山崎川沿いにあった祠 鳴海宿~宮宿-続く
2020.01.31
コメント(0)

笠寺一里塚から、今日のゴール点「七里の渡し」まで後約6キロ。この辺りの旧東海道は北西から北方向へ進む。11/23(土) 13:25笠寺一里塚一里塚は、慶長9年(1604)、幕府が主要街道を整備し、江戸日本橋を起点に、道程一里(約4km)ごとに道の両側に塚を築き、榎などを植えたもので、旅人に距離を示しただけでなく、荷物その他の運賃計算の基準にもなりました。ここは、江戸から88里の所にあり、名古屋市内を通る旧東海道に残る唯一の一里塚で、東側の塚だけが現存している笠寺一里塚は江戸から88里のところにあるが、87里は「有松一里塚」。因みに、この間の一里を2時間22分要した。女子のマラソンでは、これだけの時間で10倍の42.195km走る塚の上に榎が生い茂る根元にはスイセン等が芽を出していた13:27旧東海道(県道222号線)を北西に進むめずらしく祝日で日の丸を掲揚している家庭があった13:31右前方に『天林山 笠覆寺』の石柱13:35天林山 笠覆寺前を左に入り『笠寺天満宮東光院』所在地:愛知県名古屋市南区笠寺町新町47笠寺天満宮東光院ご案内当山は真言宗智山派に属し尾張の名刹笠寺観音笠覆寺天平開創され延長8年兼平中将再建し其の宿坊として創立以後幾餘の変遷を圣て天文5年再興し今日に至る。本尊不動明王は伝教大師の作にして往昔紀州熊野新宮の本尊なり、しも縁有って慶安3年当寺に伝来し厄除満願不動として信仰多い。・・・・・中略・・・・・・・・・また、剣聖宮本武蔵は当寺に一時滞在し、天満宮に帰依し遺品数点現存す此の為武士道上達技藝上達祈願のご利益多し、他に源範頼の由緒有り。境内樹木多く四季折々に桜・梅・さつき・花菖蒲・茶花等の年中緑と花の絶え間なく緑の少ない都市化の中で憩いの場として親しまれている境内に入り、東光院本堂宮本武蔵遺品は一般公開しておりませんのでご了承ください 東光院13:38尾張四観音之一 天林山 笠覆寺(りゅうふくじ)所在地:愛知県名古屋市南区笠寺町上新町83十一面観音を本尊とする真言宗智山派の寺院で、山号は天林山。一般には笠寺観音の通称で知られる。尾張四観音の一つで、その他尾張三十三観音、名古屋二十一大師やなごや七福神などの霊場の札所である。笠寺観音山門1300年の歴史を持ち「笠寺」の地名の由来となったお寺。名古屋を鎮護する尾張四観音の一つにも数えられる名刹で、厄除けや縁結びなどの信仰を集めています。松尾芭蕉の句碑や宮本武蔵の碑の史跡も多く、竹千代(後の徳川家康)と織田信広の人質交換の場所としても有名です玉照姫堂、後方に笠覆寺本堂幟は「玉照姫・兼平公御夫妻」笠覆寺天林山と号し、真言宗。俗に笠寺観音の名で知られ、尾張四観音の一つである。天平年中(729~ )禅光上人の開基で、十一面観世音を安置する。初め小松寺と称したが、延長年中(923~ )藤原兼平が堂宇を再興し、今の寺号に改めた。のち再び荒廃したが、嘉禎4年(1238)僧阿願が朝廷に願い出て、宜陽門院庁より田畑の寄進を受け堂塔を建立した。当寺には重要文化財・県指定文化財多数がある多宝塔二重の塔で、阿弥陀如来をおまつりしています多宝塔の前に『人質交換之地』信長攻路「桶狭間の戦い 人生大逆転街道」多宝塔の裏(南側)にある『芭蕉句碑 春雨塚』 「笠寺や もらぬ崖(いわや)も 春の雨 芭蕉」西門から、左側に『白山社』『本堂』この日は土曜日で朝市?西門の左手に『六地蔵堂』地獄から天界まで、全ての生きる者たちの苦悩を救おうとされる、六種のお姿のお地蔵様がある笠寺観世音の西門来年の節分の案内 前夜祭(開運厄除 祈祷) 2月2日 20:00~24:00 節 分(豆まき 祈祷) 2月3日 9:00~17:00笠寺観世音の西門の向かい側にある『笠寺明王』笠寺明王後縁起当院明王堂に安置されている烏瑟沙摩明王は、今から800年程前木曽義仲公の母君が日頃持仏として信仰され、御子出産の折にもその功徳により安置されたと伝えられて居ります。母君の死後、奥女中いと女がお祀りしておりましたが、義仲公粟津にて戦死されたため、後を追い自害する際かたわらに仕えていた河地、今井の両名にご尊像をたくしました。両名は各地を転々とした後、美濃の小木村に永住し、ご尊像は河地家の秘仏として奥深く祀られてまいりました。河地家二十代彦太郎氏は火災にあい、家宝一切を焼失しましたが、ご尊像のみは無事に助かりました。氏は悟るところあって当院十八世政瑜和尚について得度、僧となり堂を建てご尊像を祀られましたが一夜、烏瑟沙摩明王、夢枕にたたれ、我が功徳を広く人々に授けんと告げられたため、戒師寺たる笠寺西方院にご尊像を移すことを決意。一堂を建て笠寺明王として安置し、以後多くの善男善女の厚い信仰を集めております。烏瑟沙摩明王の功徳うすさま明王様は不浄を転じて清浄にする功徳をもっていますので、不浄除の守護仏(便所の守護仏また毒蛇などの虫の害から守ってくださる仏)として、信仰されております。尚この明王様は安産、婦人病、しもの病に霊験あらたかであります。老若男女を問わずお「下」のお世話をかけないようにと祈願し、心身ともに不浄を除き和やかで幸せな生活ができるようにとご参拝下さい 天林山 西方院粕畠観音御縁起現在、粕畠貝塚のある場所は「観音塚」「元観音」と呼ばれ、享保元年(1716)加藤又兵衛勝貞氏が寄進した「南無十一面観世音大菩薩」と刻まれた碑と、千手観音さまの座像が安置してあります。・・・・・中略・・・・・・平成4年6月に、お堂が取り壊しとなり、縁ありまして西方院の明王堂に入られました。厄難を除き、所願を成就してくださる観音さまとして、皆様にご参詣されています真言宗智山派 天林寺 西方院所在地:愛知県名古屋市南区笠寺町上新町81木曽義仲の母が持ち歩いたといわれる不動明王がご本尊。泉増院、東光院とともに、旧笠覆寺十二坊の一つです。怨霊や悪魔の出入り口とされるトイレを清める烏枢沙摩(うすさま)明王を安置しています西方院本堂西方院境内から山門旧東海道に面している13:54笠覆寺の西門前にある、旧東海道沿いの「大力餅 店」旧東海道(県道222号線)から笠覆寺を振り返る13:57旧東海道(県道222号線)と環状線との「笠寺西門交差点」を渡る交差点に「笠寺の歴史」の石碑笠寺の歴史江戸時代の笠寺村は、東海道第40番目の宿場である鳴海から熱田宿を結ぶ東海道筋にあたり、農業を主な業とし、町並みには小商家、茶屋などがあった。笠寺観音は尾張四観音の一つとして人びとにも親しまれ、今も節分などには露店が並ぶにぎわいを見せている。・・・・・・・・交差点を渡り、笠寺西門を振り返る13:58旧東海道(県道222号線)沿いの、「手打ちうどん ゆたかや 本店」サービス品「みそ豚丼:580円+?鉢うどん:310円」⇒ 800円美味しそうで食べたかった―!秋葉社右隣りは「寺町 門會堂」14:01名鉄名古屋本線を通り過ぎ、この先を右方向へ進む(北方向)旧東海道は県道222号線から別れて北上14:05旧東海道の右側に、日蓮正宗 玉泉寺住宅の間に、玉泉寺本堂14:07旧東海道の前方に高木が旧東海道から左側(西方向)へ入る14:11富部神社所在地:愛知県名古屋市南区呼続4丁目13-38富部神社鳥居の左にある「末社 秋葉社」皆さんきちんとお参りしておられた富部神社当社は慶長8年(1603)津島神社の牛頭天王を勧請したもので「戸部天王」とも「蛇毒神天王」とも呼ばれていた。牛頭天王は神道だけでなく、仏教、陰陽道でも奉られる神で、神道では病魔を自在に操る神として、仏教では病魔を操り四季を掌る神として陰陽道では天体と方位を掌る神として、大切に奉られています富部神社は慶長年間に清洲城主・松平忠吉公によって創建された神社。桃山建築の姿を残す本殿は国の重要文化財 鳴海宿~宮宿-続く
2020.01.30
コメント(2)

如意寺から旧東海道(県道222号線)を進む。しばらくは主な寄道もなく旧東海道を北上する。11/23(土) 12:13旧東海道(県道222号線)の「作町交差点」の三叉路を右方向へ北上左方向は、名鉄名古屋本線を渡り国道1号線の「京田交差点」右の軒先には貝の飾り東海道鳴海宿榊原邦彦氏の「桶廻間合戦研究」「東海道鳴海宿」を、特価頒布中と、2500円/冊街道沿いにメタセコイア12:19旧東海道と県道36号線「三皿交差点」の角にある「長翁寺」所在地:愛知県名古屋市緑区鳴海町字花井町50長翁寺本堂和尚さんが元先生とか本堂扁額「???」境内には多くの菩薩がこの辺りは旧東海道(県道222号線)を北上している。汚水マンホール12:25丹下町常夜灯鳴海宿の西の入口丹下町に建てられた常夜灯である。表に「秋葉大権現」右に「寛政四年ーー」左に「新馬中」裏には「願主重因」と刻まれている寛政4年(1792)、篤志家の寄進により設置されたものである。旅人の目印や宿場内の人々及び伝馬の馬方衆の安全と火災厄除などを秋葉社に祈願した火防神として大切な存在であった。平部の常夜灯と共に、鳴海宿の西端と東端の双方に残っているのは、旧宿場町として貴重である丹下町常夜燈を右に100m程入り左側に『光明禅寺』光明禅寺所在地:愛知県名古屋市緑区鳴海町丹下26光明禅寺の山門山門の両側に仁王像?光明禅寺本堂山門の天女この後、旅友がどこか探していたが、「丹下砦」では、案内板がなかった12:37旧東海道に戻り紅葉がきれいに色ずいていた12:42街道右側に「鉾ノ木(ほこのき)貝塚」鉢ノ木貝塚は、縄文時代早期から前期にかけての貝塚で、貝層はハイガイを主としている。下部貝層や基底面からは、縄文のあるやや厚い土器や薄手の細線文土器、上部貝層からは、前期中ごろの羽状縄文、爪形文を施した平底の深鉢型土器を主体として出土しており上層土器の型式をとらえ「八ノ木式」と呼称されている。野村三郎氏により発見された道路標識100m程登った「千鳥塚」へ行くことに千句塚公園所在地:愛知県名古屋市緑区鳴海町三王山17公園入口の壁面に芭蕉の句が、 星崎の 闇を見よとや 啼く千鳥 芭蕉芭蕉 生前に立てられた唯一の碑「千鳥塚」登り切った左手です千句塚公園の小高い丘へ向かう右側前方に弥次さんが千鳥塚この碑は、鄭亮4年(1687)冬11月、寺島安信宅での歌仙「星崎の闇を見よとや啼く千鳥」の巻が、満尾した記念に建てたもので、文字は芭蕉の筆、裏面には連衆の名、側面に興行の年月が刻んであるこれは、芭蕉存命中に建てられた唯一の翁塚であり、俳文学史上稀有の遺跡といってよい。昭和52年(1977)名古屋市史跡に指定された千句塚公園内を進む天気も良く快晴で穏やか緒畑稲荷神社千句塚公園内の高台にあり、入口には狐赤く実のついたピラカンサス13:00高台からは名古屋市中心部が眺望できる。この煙突の焼却場は「名古屋市 緑環境事業所」千句塚公園から急な階段を下りる千句塚公園下の「山下交差点」旧東海道(県道222号線)は、ここより手前の三王山交差点を左折して西方向へ左が三王山交差点からの旧東海道(県道222号線)旧東海道の「山下西交差点」から、右前方は公園から見た「名古屋市 緑環境事業所」二級河川 天白川(てんぱくがわ)天白橋上からの下流右前方はJR東海道本線の「笠寺駅」辺り天白橋の塗替え塗装及び補修を行っている13:15旧東海道(県道222号線)を西方向へ進むここまでは「車線変移区間」で3車線を時間帯によって2+1に変更歩道面のタイル「松並木」歩道面のタイル「弥次喜多道中」この辺りのスピード制限は30km、弥次喜多道中の看板も街道脇に「東海道 知多郡道」の石柱に、「この先五十米南へ」と街道沿いに「東海道分間延絵図」現在地旧東海道を進む、道路を横切る弥次さん13:20旧東海道(県道222号線)を西方向へ進むと前方に一里塚の木笠寺一里塚笠寺一里塚所在地:愛知県名古屋市南区笠寺町下新町 鳴海宿~宮宿-続く
2020.01.29
コメント(0)

鳴海宿は、品川宿より40番目の宿場町である。鳴海宿の本陣千代倉家は慶長依頼の旧家で、二代目・知足は芭蕉や井原西鶴と親交があり、また六代目・学海は池大雅や与謝蕪村と親交があり、多くの文人墨客が訪れた。文化3年(1806)建立の平部町常夜灯が宿場の東の出入り口で、寛政4年(1792)建立の丹下町常夜燈まで15町18間(約1.6km)にわたり町並みが続いていた。11/23(土) 11:45鳴海萬福寺所在地:愛知県名古屋市緑区鳴海町本町5山門を入り二つ目の門先ほど訪れた「浄泉寺」(東側に位置する)手水舎&本堂鳴海萬福寺境内から降り11:50旧東海道(県道222号線)を進み『名古屋市緑生涯学習センター』所在地:愛知県名古屋市緑区鳴海町本町54カルチャーセンターで食事もできる施設名古屋市緑生涯学習センター敷地内にあった石碑『旧愛知郡鳴海町役場跡地』御食事処「あじさい」日替わりランチの幟昼前でワンコインで食べれるメニューがあったがスルー旧東海道と県道242号線が交差する「本町交差点」本町交差点を右折して県道242号線へ11:53浄土宗 来迎山 誓願寺所在地:愛知県名古屋市緑区鳴海町根古屋16天正元年(1573)の創建で浄土宗。鳴海宿本陣・千代倉家の菩提寺。千代倉家二代目・下里知足は芭蕉や西鶴と親交があったので、境内に芭蕉供養塔、芭蕉堂がある。芭蕉堂には、芭蕉手植えの杉の古木で彫刻した芭蕉像が安置されている誓願寺は県道242号線の西側にある 誓願寺本堂境内は狭かったが、芭蕉堂は後ろ側にあった門を入って左奥、芭蕉堂の左手にある『芭蕉の供養塔』芭蕉お供養塔は高さ60センチ程の碑芭蕉最古の供養塔誓願寺の芭蕉堂南東脇に建てられた高さ60cmほどの青石の自然石で、表面に「芭蕉翁」裏面に、元禄7年(1694)甲戌10月12日」と没年月日だけが刻まれている。芭蕉が没した翌月の忌日、当地の芭蕉門下が追悼句会を営んだ折、如意寺に建てられたもので、その後、翁の門人下里知足の菩提寺である当寺に移された。芭蕉最古の供養塔で、昭和52年市の史跡に指定誓願寺の北側に隣接する『聖観世音菩薩』県道242号線の東側にある『鳴海宿高札場(復元)』東海道鳴海宿では、江戸時代、宿場の中央にあたる東海道と鳴海駅前通りの交差点東北角に大きな屋根付きの高札場が作られ、高札が掲示されていました(ここより南に約70mの場所)この高札場の図面や絵図などは残されていませんが、東海道宿村大概帳によると、高さ二間二尺、長さ三間、幅一間との記述が残されています。また、当時の高札八枚が名古屋市博物館に保管されています。宿場間の駄賃や人足賃を示した高札は、宿場町ならではのもので、当時の様子をうかがい知ることができます鳴海宿高札場の北側にある『天神社』鳴海神社創祠の地天神社 由緒右に『史蹟 鳴海城址』石柱鳴海神社(天神社)鳴海城跡根古屋城ともいい、応永年中(1394~ )安原宗範の築城といわれる。永禄3年(1560)桶狭間の戦いでは、今川方の猛将岡部元信がこの城に配され、義元が討たれた後も最後まで立てこもって奮戦した。その後、佐久間信盛、正勝らが城主となったが、天正18年(1590)廃城となったと伝えられる。『尾張志』は東西75間、南北34間で4面に堀跡、本丸と二、三之丸にも堀を残すと記している鳴海神社(天神社)12:01鳴海城跡から南方向、正面に『圓道寺』鳴海城跡の東側にある『真宗 大谷派 竹林山 圓龍寺』所在地:愛知県名古屋市緑区鳴海町本町11-1県道242号線の西側にある『曹洞宗 庚申山 圓道寺』庚申山 圓道寺当寺は、昔から盛んにおこなわれた庚申行事にもとづく曹洞宗の尼寺院です。この地は東海道五十三次鳴海宿の高札場より北へ、通称庚申坂を上った所で鳴海城址下にあります。今から400年余り前の天正年間に、仁甫良義和尚(瑞泉寺十一世)によって開創されました。はじめ猿堂寺と号し、その後宝暦7年には地蔵寺、安永3年に庚申堂と変遷し昭和17年に庚申山 圓道寺と定められました。ご本尊は青面金剛尊(庚申さま)です。本堂の屋根にはその使わしめの三猿像(見ざる・言わざる・聞かざる)が据えられています曹洞宗 庚申山 圓道寺庚申山 圓道寺 本堂ここの奥に秋葉堂、弘法堂がある県道242号線の道路脇に「庚申坂」県道242号線を下り「元町交差点」への途中にある『聖観世音菩薩』12:08旧東海道(県道222号線)に戻り進むと『鳴海宿本陣跡』。鳴海は、江戸時代東海道53次の宿駅の一つとして栄えた。宿駅には、一般の旅人用の旅籠屋とは別に、勅使・公家・大小名など身分の高い人が、公的に宿泊する本陣が置かれた鳴海宿本陣跡鳴海宿の本陣は、ここにあり幕末の頃、そのおよその規模は間口39m・奥行51m・建坪235坪・総畳数159畳であった。なお、天保14年(1843)の調査によれば、宿駅内には、家数847軒・人口3,643人・旅籠68軒(全体の8%)と記録され、当時の繁栄ぶりが推測される。また、予備の脇本陣は、二軒あった12:08旧東海道(県道222号線)沿いの『大名茶屋「善」』鳴海宿 食い呑み問屋場旧東海道の北側にある「如意寺」へ12:10如意寺山門所在地:愛知県名古屋市緑区鳴海町作町85尾張六地蔵のお寺山門の扁額『如意寶珠寺』如意寺本堂と鐘楼蛤地蔵尊地蔵第四番「蛤地蔵善薩」扁額は「遊戯三昧(ゆげざんまい)」 鳴海宿~宮宿-続く
2020.01.28
コメント(3)

有松天満社から有松の旧東海道(県道222号線)へ戻る。間の宿有松の西側。明治維新以降、東海道の往来者が大きく減ったことなどから、有松絞りは著しく衰退しました。しかしその後、新たな意匠や製法の開発、卸売販売への業態転換などによって再興し、明治後期から昭和初期にかけて最も繁栄しました10:55祇園寺の前に立つ、石碑の歌碑 あり松の 柳しぼりの 見世にこそ しはしと人の 立ちとまりけれ 梅屋鶴寿梅屋鶴壽幕末の狂歌師、享和元年(1801)江戸神田佐久間町に生まれる。姓は諸田、通称は初め佐吉、後、亦兵衛と称した、株をあきない、尾州家の御用を勤める。若い頃から狂歌を得意とし、始めは長屋姉子、又は松枝鶴壽とも号したが、後に長谷川町に待合茶亭、梅の屋を出し梅屋鶴壽と言うようになった、狂歌人物誌に「花街戯場のことをよくうがちて秀吟おほし本町測糸巻連の魁首にして其名四方に鳴る」とある、老後には号を株翁とも言うようになった。元治元年(1864)正月12日享年63歳で亡くなる街道を振り返る、右側に「神功皇后車(西町)の山車庫」長坂道 - 東海道より古い道 ー右側へ、国道1号線へ出る長坂道 - 東海道より古い道 ー「桶狭間道」「刈谷道」とも呼ばれ、江戸時代以前よりあった古道。紺屋(こうや)の染場や絞り職人さんの家々が並んでいました曹洞宗 大雄山 祇園寺境内には多くの子どもたちと父兄所在地:愛知県名古屋市緑区有松2121755年建立の曹洞宗の寺院で、江戸時代は寺子屋でした。境内には光明皇后が詠んだ歌碑や奈良薬師寺を模した仏足石があります金属表面処理・黒染メーカー高架橋は「名古屋第二環状自動車道」工場内藍染をしているのかと思ったが高架橋は「名二環:伊勢湾岸道方面」近くに国道1号線の有松インタがある10:58高架橋の下に「有松一里塚」東海道沿いには、今なお絞商の豪壮な主屋をはじめとする数多くの伝統的な建物がのこり、有松絞りによって繁栄した往時の様子を今に伝えています。ここまでの歩数は、11,500歩一里塚は、慶長9年(1604)、幕府が主要街道を整備し、江戸日本橋を起点に、道程一里(約4km)ごとに道の両側に5間四方ほど(約9.1m)の塚を築き、榎などを植えたもので、旅人に距離を示しただけでなく、荷物その他の運賃計算の基準にもなりました。この辺りに、江戸から87里を示す一里塚がありましたが、大正13年、払い下げられ民地となり無くなりました。しかし、歴史ある有松の地の発展を願う地元の強い熱意により、平成24年当地に復元されました11:00名鉄名古屋本線左奥は「有松天満社」が鎮座する山旧東海道(県道222号線)を西に向って進む。この辺りは電柱が立つ11:11石段に「この神社は、元伊勢伝承の神社です」の看板。私はここまでで参拝せず11:15平部町常夜灯東海道品川より40番目の宿場町、鳴海宿の東の入口平部町に建てられたものである。表に「秋葉大権現」右に「宿中為安全」左に「永代常夜燈」裏に「文化三丙寅正月」の文字が刻まれている。文化3年(1806)に設置されたもので、旅人の目印や宿場内並びに宿の安全と火災厄除などを秋葉社(火防神)に祈願した。大きく華麗な常夜灯であり、道中でも有数のものといわれ、往時の面影をしのぶことができる鳴海宿鳴海地方は中世末まで海に面していて、鳴海潟と呼ばれた景色のよい所だった。江戸時代に入り遠浅の海が干拓されて、新田が開かれ海は遠くなる。代わりに鳴海村は尾張藩領のなかでも石高が五千石あまりもある大きな村となった文化3年(1806)建立の平部町常夜灯が宿場の東の出入り口で、寛政4年(1792)建立の丹下町常夜燈まで15町18間(約1.6km)にわたり町並みが続いていた消火栓のデザインは名古屋城。鳴海宿は、有松で生産された絞り染め製品を「鳴海絞」のブランドで売る商家が軒を連ねていた。広重の保永堂版『東海道五拾三次鳴海』は、絞り染めを売る塗籠造りの立派な商家が並んでいる様子を描いている11:20曹洞宗 紫霊山 金剛寺所在地:愛知県名古屋市緑区鳴海町平部41宝暦10年(1760)、瑞泉寺二十世呑舟和尚が創建、本尊は行者菩薩像。そのことから行者堂と云われた昭和17年(1942)瑞泉寺三十一世道本蜜成和尚を寺号開山とし、本尊行者菩薩の金剛杖や「金剛般若経」と縁厚いところから、紫雲山金剛寺と改称した。堂前の石仏三十三観音は、明和4年(1767)に作られ、以前は街道に面して並んでいた本尊行者菩薩のほか薬師如来像なるみ焼きの十六羅漢像(明治29年 下田生素 寄贈)が寺宝としてある。町並みの中にある寺だけに、江戸時代には寺小屋として使われていた旧東海道(県道222号線)沿いに公園飛脚と旅人11:25旧東海道(県道222号線)を進み、扇川に架かる「中島橋」扇川の下流「鳴海駅」方面干潮時か? 川の水位が下がっている名鉄名古屋本線の「鳴海駅」手越川に架かる「下中橋」下中橋から扇川史跡散策路「鳴海宿コース」桶狭間古戦場跡にあったパネルでは、この辺りには城&砦があり今川軍の「鳴海城」を囲んで織田軍の「中島砦」「丹下砦」「善照寺砦」があった瑞泉寺の山門を遠望禅(曹洞宗) 大本山総持寺直末 龍蟠山 瑞泉寺所在地:愛知県名古屋市緑区鳴海町相原町4瑞泉寺は、龍蟠山と号す曹洞宗の寺院である。鳴海根古屋城主安原宗範が応永3年(1396)に創建したと伝えられ、大徹禅師を開山とする。初め瑞松寺といった。その後、兵火により焼失、文亀元年(1501、永正元年等の説も)現在地に移り、後に寺号を瑞泉寺と改めた。二十世呑舟は中興の祖とされ、鳴海の豪族下郷弥兵衛の援助により、宝暦5年(1755)堂宇を完成した。山門は、宇治市の黄檗宗万福寺総門を模した中国風の形式の門で、県の有形文化財に指定されている山門前の石段を登り県の有形文化財に指定されている山門本 堂扁額は龍蟠山山 門山門から東側瑞泉寺から旧東海道(県道222号線)を進む11/24(土) 11:40旧東海道から北側に入り『鳴海萬福寺』弥次さんは右側の坂を上る石柱は『真宗 高田派 木林山 浄泉寺』浄泉寺の山門、鐘楼所在地:愛知県名古屋市緑区鳴海町上中町9山 門扁額は「木林山」浄泉寺の本堂山門の西側にある宝庫浄泉寺の境内11:45浄泉寺から道を隔てた西側にある、萬福寺境内のイチョウ 鳴海宿~宮宿-続く
2020.01.27
コメント(0)

延べ日数24日目の弥次喜多道中記。間の宿有松の散策後半。有松めぐりマップ天明4年(1784)の大火以降に再建された耐火構造の塗籠造りに卯建(正式には梲)の上がった屋根や海鼠壁の商家が多く現存し、平成28年、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定された間の宿有松 西側方面へ進む。天明4年(1784)の大火により村のほとんどが焼失しましたが、尾張藩の援助もあり、20年程でほぼ復興したと伝えられます11/23(土) 10:27旧東海道(県道222号線)を進む竹田家住宅竹田家住宅市指定有形文化財(平成7年)主屋 一棟、書院棟 一棟、茶席 一棟、宝蔵 一棟、・・・・・・当住宅は江戸期と思われる主屋を中心に、明治から大正にかけて整備されていったとみられる。建物は、絞問屋の伝統的形態を踏襲している。とくに主屋は塗籠造、書院茶席とも建築的にたいへん優れている。竹田家は、屋号を笹加というのれんの上の屋根に「明治期のガス灯」が残る。竹田家は寛保年間(1741~1744)に絞業を営んでいた、竹田嘉七郎に始まると伝えられています。時代とともに改造されながらも、江戸末期の様式を継承した主屋、14代将軍徳川家茂が訪れたとされる茶室「裁松庵」、明治から大正にかけて整備された土蔵群や洋間、書院座敷、門、屏等が現存し、有力な絞商の屋敷構えの典型例をみることができます。店先の看板には、屋号の「笹加」が書かれている竹田家の土蔵川村小路(かわむらこうじ) - 東海道と長坂道を繋ぐ道 -国道1号線へ向かう小路川村小路(かわむらこうじ) - 東海道と長坂道を繋ぐ道 -絞商川村屋に因んだ名。天保の村絵図に見られるこの小路は、石積の水路(暗渠)を横切り、長坂道に通じています河竹小路(かわたけこうじ) - 町屋の間を抜ける趣のある道 -河竹小路(かわたけこうじ) - 町屋の間を抜ける趣のある道 -絞商河村竹次郎に因んで名付けられ、小路の両側には今もその子孫が住んでいます。映画「アイコ16歳」の撮影現場。小路の中ほどから眺める東海道は、いにしえの風情10:30左側2軒目が「岡家住宅」岡家住宅は東西に延びる有松の町並みの西側に位置しており、江戸時代末期頃の建造とみられています。当時は有松絞の問屋を営む「丸屋丈助」の店として小田切春江の錦絵にも描かれています。その後、昭和10年頃、岡家の先々代当主が取得し、絞問屋岡兼商店を営まられていました岡家住宅名古屋市指定有形文化財公開日時:土・日曜日(年末年始除く)、10:30 ~ 15:30 見学無料主屋は、平入、桟瓦葺、1階には格子をはめ、2階は重厚な塗籠造で、虫籠造となっており、江戸末期の絞商の主屋の特徴を残しています。主屋の間口は、有松の伝統的建造物の中で最大です岡家住宅内に入る梁は大きい部材を使用、部屋数も多い部屋に掲げられていた『歌川広重 東海道五拾三次 鳴海(名物有松絞)』卯建(うだつ)、塗籠造(ぬりごめづくり)、虫籠窓(むしこまど)、格子時代ごとの主屋(いずれも絞商の主屋)塗籠造:壁と軒裏を漆喰で塗り固める珍しい「天窓」の設置土間部の小屋組土間部と居室部では小屋組形式が異なります。天井張で見えない居室部の小屋組は、細かい材で簡素な形式ですが、土間部は太い材で組む豪壮な小屋組形式になっている屋根裏には裸の電気配線も走る親切に説明して頂くが先を急ぐので早々に出る。10:37街道を振り返る小塚家住宅市指定有形文化財(平成4年)主屋 一棟、表倉 一棟、南倉 一棟当住宅は重厚広壮な有松の絞問屋の形態をよくとどめている。主屋の一階は格子窓、二階は塗籠壁、隣家との境に卯建があり、塗籠造のうち最も古いものの一つと思われ、有松らしい家並みの景観上からも貴重な建物である。小塚家は屋号を山形屋として明治期まで絞問屋を営んでいた神功皇后車(じんぐうこうごうしゃ)(西町)の山車庫神功皇后車(西町)の山車庫ここ西町の山車庫には「神功皇后車」と呼ばれる山車が格納されている。かつて祭礼に曳行した山車は、祭りが終わると山車庫に解体保管していたが、現在は上山をおろした状態で収容、格納している。平成20年以前の木造の建物で町並みの景観になじんだ造りとなっている。神功皇后車は、明治6年(1873)、西町が名古屋の大工 久七に発注して造ったもので、有松に現存する三台の山車の中で最も古くから曳かれている。昭和48年(1973)、市の文化財に指定された。毎年10月第1日曜日の「有松天満社秋季大祭」に曳きだされる石柱は「文章嶺天満宮」交通整理員もいて人だかりがあったが、聴いてみると幼稚園のバザー?とか石燈籠は「文章嶺天満宮」と刻まれ、手前に道標切通し - 有松天満社への参拝道 -山上に祀られているのは、有松天満社。元々は山であったところに参道を切り開き、切通しと呼ばれるようになりました10:42名鉄名古屋本線の踏切を渡り、有松天満社へ有松天満社鳥居所在地:愛知県名古屋市緑区鳴海町米塚10有松天満社この神社は名鉄のCMでも登場したとか有松天満社 由緒菅原道真公を祀る神社。元祇園寺境内の神祠であったが、寛政10年(1791)この地に奉納せられ、当地新興特産の絞り業最盛期を迎えて、文化7年(1810)八棟造りの壮麗な社殿が建立され、以来絞り産業の町、有松の産土社と仰がれている。・・・・中略・・・・・・昭和48年名古屋市の有形民俗文化財に指定されている階段横に手水舎結構石段の数が多いようであったが、石段を登り本殿へ本殿への途中にある広場拝殿&本殿門が閉められていて中へは入れず門の合間から撮影天満社 由緒菅原道真公を祀る神祠は、元祇園寺境内にあったが、寛政の初期(1791)この地に奉納せられ、文化7年(1810)に現在の八棟造りの壮麗な神殿が建立された。この山頂は奉遷に先だって、数千人より棒げし詩歌、文章等を埋納したので文章嶺と称され歌われている。3月25日の春祭、10月第一日曜の秋祭は広く知られている。氏子の産土神として毎年厄年有志及信人の寄進に依り諸施設大いに整う筆 塚筆塚の筆納について祭神 菅原道真公は学問の神様です。学業上達のため、ご精進された古いお筆をここにお納めください拝殿への門が閉鎖され覗き込む人石段を下り振り返るまだ百数段の石段を下りる名鉄名古屋本線10:53普通電車の「東岡崎行」今夕、宮宿の「七里の渡し」まで歩いたら、神宮前駅から豊明駅まで乗車予定 鳴海宿~宮宿-続く
2020.01.26
コメント(0)

延べ日数24日目の弥次喜多道中記。間の宿有松を散策。11/23(土) 10:00間の宿有松慶長13年(1608)知多半島から竹田庄九郎ら8名が有松に移住し、茶屋集落を造ったのが間の宿有松の始まりという。有松絞は竹田庄九郎が慶長13年に名古屋城築城工事に参加した際、九州の豊後高田から来ていた人夫の絞り染めの手拭いに、目を付けたことがきっかけとされる。絹布に絞りを施した手拭いを五代将軍・綱吉へ献上し全国に知られた有松めぐりマップ有松の町は、慶長13年(1608)東海道筋に生れた町です。阿久比庄(現在、愛知県知多郡阿久比町)から移住した竹田庄九郎はじめ8名により開かれ、絞りの名産地として発展しました。以来400年以上、特色ある町並みは現在も多く残り、絞りの文化とともに日本の美しさを今日に伝えています間の宿有松旧東海道(県道222号線)を右方向(東)から左方向(西)へ進む旧東海道(県道222号線)有松の東海道沿いの町並は、平成28年(2016)7月に、重要伝統的建造物群保存地区に選定されました絞りLab愛知県絞工業組合の看板有松の町並は電柱・電線がモール化されてすっきりのれんは全て有松の絞り有松には歴史的な街並みとともに、伝統産業の有松絞り、市指定文化財の3輌の山車が今日まで継承されています令和元年5月に有松は日本遺産に認定された。「江戸時代の情緒に触れる絞りの産地 ~ 藍染が風にゆれる町 有松 ~ 」加藤呉服店有松絞りは400年前、糸でくくった木綿を藍などの草木で染めたことにはじまり、絞りの技法は100種類にも及びます。現在、製品は和装にとどまらず、様々な小物やインテリアなど多岐にわたっています。毎年6月第1土・日曜日には「有松絞りまつり」が開催され、東海道が大いに賑わいます手前:有松絞り 橋爪合資会社中央の白:有松山車会館 所在地:愛知県名古屋市緑区有松2338 有松にのこる3輌の山車は江戸期から明治期に製作されたものです。毎年10月第1 日曜日には「有松山車まつり(有松天満社秋季大祭)」が盛大に開催され、からくり 人形をのせた山車が祭囃子とともに東海道を曳き回されます毎年10月第1日曜日には「有松山車まつり(有松天満社秋季大祭)」が盛大に開催され、からくり人形をのせた山車3輌が祭囃子とともに東海道を曳き回されます右側の建物は、「手打ちめん処 寿限無茶屋」いろんなメニューがあり「忘年会」「新年会」の受付郵便受けは「カワセミ」歩道面の案内板有松・鳴海 絞会館所在地:愛知県名古屋市緑区有松30081階は数々の絞り商品の販売コーナー、2階は伝統工芸士のくくり実演と資料展示、職人さんを中心にとらえた有松の紹介映像を見学することができます。営業時間:9:30 ~ 17:00 (実演は16:30まで)休 館 日 :有松絞りまつり前後 3日間・年末年始弥次さんとともに、妻への土産を購入したが、喜んでくれるか?有松・鳴海 絞会館の場所は「旧知多郡有松町役場跡地」有松・鳴海 絞会館 前のこの石碑は?頼 山陽(らいさんよう) 1781~1832名は襄(のぼる)主著『日本外史』は幕末の尊王攘夷運動に影響を与え、日本史上のベストセラーとなった。幕末から明治にかけてもっとも多く読まれた歴史書。(外史とは民間による歴史書の意)伊藤博文、近藤勇の愛読書であったことでも知られる・・・有松・鳴海 絞会館 内の販売品代表的な有松しぼり有松・鳴海 絞会館の向かい側左に位置する案内板は左側:服部家住宅、右側:服部幸平家住宅の倉 とある。漆喰の壁が一部剥がれており手直しが必要服部幸平家住宅の倉服部幸平家は、西隣り(左側)の絞問屋・服部家から分家した家柄であり、かつて屋号を井桁一といった。明治時代中期、分家の隣に譲り受けたこの倉は、切石の土台の上に建てられた木造切妻二階建桟瓦葺で、白漆喰の塗籠造、腰を海鼠壁とし、江戸時代の様相を呈している。服部家住宅と一体をなしている点で、有松の町並み景観上、非常に重要である。昭和62年(1987)、県の有形文化財に指定された服部家住宅(井桁屋)服部家住宅服部家は、寛政2年(1790)創業の絞問屋で、屋号を井桁屋という。屋敷地は、東海道に面して広い間口を有する。中央部に店舗及び居住として利用する二階建の主屋を配し、井戸屋形、店倉、藍倉、門など合わせて11棟の建物が有力な絞問屋の屋敷遺構の典型として、昭和39年(1964)県の有形文化財に指定された。主屋の二階は黒漆喰の塗籠造、屋根両妻に卯達設ける。土蔵は漆喰の塗籠造で、腰は海鼠壁とし、防火対策を行っている。有松を代表する価値ある建築群である㈱JDDC、クリニックも、絞ののれんを出している藍染の絞珍しい看板、舞妓さん、変身祭の時期には貸衣装で変身するのか笑顔からはじまる右側の看板は診療内容:病理診断、病気のよろず相談街道を振り返る、左が「服部家住宅」山与遊歩道(やまよゆうほどう)ー 有松駅と東海道を結ぶ遊歩道 ー平成24年に整備され、西側家屋の元所有者 絞商 山与さんに因んで名づけられた道。かつて東海道にかかっていた中川橋の石柱が残り、これを境に往還と橋東という小字がついていました山予遊歩道入口にある案内柱国登録有形文化財『中濱』は藍と絞の店。所在地:愛知県名古屋市緑区有松2306主屋は明治中期頃建造。当初は絞商の山田与吉郎家の建物であり、平成16年(2004)からは中濱家(中濱商店)の建物として使われています。土蔵の軒先の瓦に「山 ヨ」の印が入っており、山田家が所有していた頃の名残りが感じられます神半家茶房、石窯パン、日本料理「やまと」、ダーシェンカ蔵間の宿 有松の西側10:20旧東海道(県道222号線)と県道237号線が交差する「有松交差点」有松交差点にあった「有松天満社 由緒」有松交差点から旧東海道を振り返る旧東海道(県道222号線)を進む、左下に「天王坂(てんのうざか)」の案内柱天王坂 - 牛頭天王おはします坂道 -かつて坂の途中に、徐疫の神・牛頭天王を祀る津島社があったことに由来します。ここには常夜燈と高札場がありました唐子車(からこしゃ)山車庫唐子車(中町)山車庫ここ中町の山車庫には「唐子車」と呼ばれる山車が格納されている。かつて祭礼に曳行した山車は、祭りが終わると山車庫に解体保管していたが、現在は上山をおろした状態で収容、格納している。平成17年、土地区画整理事業にともない、本来建っていた場所より多少東側(右側)の現在地に新築された。木造で、町並みの景観に配慮された造りとなっている。唐子車は、天保年間(1830~44)に知多内海で造られたものを、明治8年(1875)に中町が購入した。昭和48年(1973)、市の文化財に指定された。毎年10月第1日曜日の「有松天満社秋季大祭」に曳きだされる松柏苑ディサービス 松柏苑中舛竹田荘中舛竹田家は、旧東海道の歴史的な街並みを伝える貴重な建物であり、有松絞りの開祖である竹田庄九郎ゆかりの江戸時代の建物であったと伝えられています。老朽化が進み建物と町並みの存続が危ぶまれる状況の中、保存について検討がなされ所有者である竹田家と地元の方々・名古屋市・事業者・市民の協力で「有松まちなみ保存ファンド募金」を活用し、梁などの材料を活かしつつ、外観は江戸期の様式を再現しました革絞り専門店「くくる」10:26革絞り専門店「くくる」の店先に掲示された案内板【まちの成り立ち】 慶長13年(1608)有松は東海道の鳴海宿と池鯉鮒宿の間に尾張藩によって開かれ ました。東海道を往来する旅人の土産物として絞り染め(有松絞り)が考案され、 以降、有松絞りとともに有松のまちは発展しました。【町並みの特徴】 東海道約800mの区間に沿って、広い間口を持つ絞商の主屋や門・塀が数多く見 られます。また、江戸後期から昭和前期までの様々な時代の建物がみられ、全体 的にゆったりとした印象の町並みとなっています。 鳴海宿~宮宿-続く
2020.01.25
コメント(0)

延べ日数24日目の弥次喜多道中記。桶狭間古戦場から、間の宿の「有松」へ向かう。11/23(土) 9:09ボランティアの人が数人おられ幟を立てて準備をしていた。ガイドの方から弥次さんに「説明しましょうか」と、弥次さん「お願いします」と年配のガイドの方は、今川方から見た桶狭間について説明弔古碑文化6年(1809)5月津島の神官、氷室豊長が建てたもの、碑の表面は「桶狭間の戦い」を回顧する文と往時を偲ぶ詩、裏面には建碑の趣旨が彫られているこの石碑の前で、字を読みながら内容について丁寧に説明される弔古碑文章は尾張藩の儒学者泰賢(号は滄浪、字は士鉉)碑面の文字は尾張藩の大坂用達役(文中「天満邸令」)中西融の筆跡。石工河内屋孫右衛門の手により刻まれたものであるまた、いろんなチラシ&パネルで説明。チラシから上記チラシの上図尾張名所図会「桶狭間陣中 今川義元酒宴の図」国指定史跡 桶狭間古戦場伝説地『戦人塚』上記チラシの下図、旧東海道の途中にあったが、今回は立寄っていない。戦人塚は、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いとの関連から、桶狭間古戦場伝説地と共に昭和12年12月21日に国の指定史跡にされています。今川軍の戦死者2,500余人を曹源寺二世快翁龍喜和尚が供養した塚といわれ、また一説には、織田信長が部下に今川軍の死者を検分させ、その遺骸を集めさせた塚であるとも伝えられています。塚の上には高さ1.05mの石碑があり、南面に「戦人塚」、東面に「永禄3年庚申5月19日」、西面に、「南無阿弥陀仏佛」と記されています。天文4年(1739)、この塚で180回忌の供養が営まれた際に建碑されたといわれています。この度、平成30年10月より進めていました戦人塚整備工事が平成31年3月8日をもって完了しました。前面に芝が張られ、高台に位置する塚の上からは桶狭間古戦場伝説地方面を広く見渡すことができますパネルも立て、過去の「桶狭間山」の写真今川 義元 公 生誕五百年 記念パネルボランティアの方が丁寧に説明されたが、我々は先を急ぐので途中で弥次さんも逃げ去り、私のみが残り断って早々に後にする9:25道路を挟んだ、桶狭間古戦場の西側の斜面、北方向は「中京競馬場前駅」左:高徳院初代住職の墓、右:おばけ地蔵斜面の一番手前に「今川義元 仏式の墓」今川義元仏式の墓碑桶狭間長福寺が義元300回忌法要をここで行っていて、その翌年の万延元年(1860)に建てられた。正面には戒名がある。方形の石柱に笠と蓮花弁を模した台座がつく墓塔型式であり、そのため「仏式の墓」と呼ばれているおばけ地蔵古戦場に戦死者の亡霊が現われる噂があって、嘉永6年(1853)に尾張藩士が建立した。この地蔵尊により、以後亡霊は現われなくなったという9:27高徳院(こうとくいん)所在地:愛知県豊明市栄町南舘3-2桶狭間古戦場の南側の高台に位置する高徳院の絵図高徳院 永代供養塔『瑜祇塔(ゆぎとう)』 香華山 高徳院の石柱明治27年(1894)に高野山から桶狭間古戦場隣地へ移転。敷地内には、今川義元の仏式墓所や本陣跡の石碑、今川軍の重臣・松井宗信の墓碑が残っています。毎年7月の「土用の丑の日」には、高徳院きゅうり祭りが開かれます。身代わりのきゅうりに名前と住所を書き奉納することで、1年間の「無病息災」「家内安全」を願います。事務所で販売されているきゅうりのお守りも人気!山門の扁額「金剛生門」山門の仁王像:右山門の仁王像:左山門を入ると正面にタブの木本堂へ向かう本堂前の右の松は「三笠宮殿下 御手植」、他にも皇族の御手植の木があった高徳院本堂右手前に「芭蕉句碑」 「あかあかと 日はつれなくも 秋の風」山県有朋 来訪地 の石柱も本堂内本堂南側の竹林他にも多くの皇族の御手植の木があった鐘 楼 明治39年10月 皇太子殿下(大正天皇)ご来山の折、奥保陸軍大将が記念植樹された大木。本堂横に下馬記念の建碑がなされた。資料館には山縣有朋他の記念の揮毫が展示されている山門を入り右側へ進み、永代供養塔『瑜祇塔』の方向にある、「松井宗信の墓」。遠州二俣城主松井宗信の墓で、明治9年山口正義によって建てられた。 正面 松井兵部少輔宗信墓 桶狭間七石表二号碑明和8年(1771)、尾張藩士の人見弥右衛門黍・赤林孫七郎信之が建立した。この場所は、今川義元の重臣松井宗信の戦死の地と伝えられる瑜祇塔塀に囲まれて中には入れず竹林の下に「桶狭間古戦場」がある本堂前に戻り桶狭間古戦場「跡とへは昔の時のこゑたてて 松にこたふる かせの悲しき」 文政元年2月23日 香川景樹 9:42高徳院から降り立ち、桶狭間古戦場入口9:45国道1号線に戻り、名鉄「中京競馬場前駅」構内。大正12年までこの場所に松があり、信長が桶狭間の戦いの後休むために鎧を掛けたという「よろいかけ松の旧地」9:46国道1号線から南方向の「桶狭間古戦場」、右上は「高徳院墓地」9:50国道1号線の南側の旧東海道を数百メートル歩き国道1号線に合流旧東海道(国道1号線)を歩く。この夜18時過ぎに、豊明駅から桑名に向けて走ったが渋滞!9:55旧東海道は、国道1号線の「大将ヶ根交差点」を横切り斜め右へ進む交差点角に地蔵所在地:愛知県名古屋市緑区境松1丁目いつの間にか豊明市から名古屋市に入っていた。中京競馬場は豊明市国道1号線の「大将ヶ根交差点」を振り返る国道1号線を左に見ながら旧東海道を進む旧東海道の北側(Le・abbollire)の軒先に石碑。 たちならぶ 花にしきと家ごとに かけ渡したる くくり深いかな 離屋鈴木朖旧東海道の別れ道9:59左方向へ進むが車は一方通行で入れず橋の名前は「まつのねはし」豊明駅から桑名に向けて走ったが、渋滞のため国道1号線を右折して入りここを左方向へ進んだ名古屋のマンホールこのデザインは ? 鳴海宿~宮宿-続く
2020.01.24
コメント(1)

延べ日数24日目の弥次喜多道中記。阿野一里塚から旧東海道(けやき通り)を進む。11/23(土) 8:09国指定史跡「阿野一里塚」の碑8:13豊明市立「豊明小学校」豊明小学校の校門近くに掲げられていた『豊明市民憲章』1,郷土を愛し、住みよい緑のまちをつくりましょう1,勤労を尊び、健康で豊かなまちをつくりましょう1,教養を高め、スポーツに親しみ、明るいまちをつくりましょう1,きまりを守り、秩序ある平和なまちをつくりましょう1,健全な若い力のそだつ、伸びゆくまちをつくりましょう 市の木「けやき」 市の花「ひまわり」旧東海道(けやき通り)の「天野畳店」旧東海道を歩いていると畳店が多い8:17坂部善光寺、右に坂部区公民館坂部善光寺は、地元の三田家十一世医師三田柳庵氏が明治5年に善光寺別当大勧進より一光三尊弥陀尊像をお受けし、開眼供養したことから始まる坂部善光寺の由来明治28年には三田柳庵氏から同寺建設用地を提供され、地元有志によりお堂を完成させ、併せて善光寺別当大勧進に寄進された。それとともに地元信徒の賛同を得て、善光寺講を結成し、戦後の混乱期まで法燈を守ってきた。昭和22年、本堂の痛みも激しく、一旦本堂を取り壊し、仮建物内に弥陀尊像を仮安置した状態が続いていたが、昭和61年、本堂跡に建てられていた坂部公民館改築、同時に老人憩いの家建設の計画を機に、仮安置のままであった坂部善光寺本堂の再建とともに坂部善光寺の再組織が図られた8:19民家の庭先にあった「これは何ですか」と家の前にいたおばさんに聞くと「ネコ除けです」と8:21真宗大谷派 上宮山 西雲寺所在地:愛知県豊明市前後町善江1649山門から本堂鐘楼と本堂8:22旧東海道の「前後駅前交差点」8:23旧東海道から、前後駅北口の像駅前から北側を望む「朝」 名鉄「前後駅」きのっぴい8:31旧東海道(けやき通り)を進む。電柱に「国指定史跡 戦人塚」の看板。戦人塚には桶狭間の戦いで敗れた今川軍の兵士が葬られていると石碑は「野村平吉君殉職之碑」とあるが、どんな人か?ネットで調べると「熱田の踏切事故で責任をとって川に身を投げた」人とか8:33常夜燈と神明社の石柱神明社へ向かうため右の路地へ国道1号線の向こうに「前後神明社」所在地:愛知県豊明市前後町宮前前後神明社境内境内にある手水舎末社の「山神社」「秋葉社」「津島社」末社は金の柵で囲まれていた厄年会とは?840国道1号線の「螺貝(ほらがい)交差点」8:43旧東海道(けやき通り)に戻り進むカフェ、モーニングコーヒーが飲みたかったがいつも先を急ぐのでスルーズームアップ旧東海道に平行して南側を走る名鉄名古屋本線8:50旧東海道から国道1号線に合流「競馬場入口交差点」馬のひずめの上に馬の像。中京競馬場所在地:愛知県豊明市間米町敷田1225大きな馬の像日本橋から348km地点8:53ガードを潜り「桶狭間古戦場」の案内板ここの交差点を左折して100m桶狭間の戦い・日本三大古戦場「桶狭間古戦場まつり」 6月第1 土・日曜日開催緩い坂を南下8:54史跡 桶狭間古戦場所在地:愛知県豊明市栄町南舘11古戦場この地は、永禄3年(1560)5月19日、今川義元が織田信長に襲われ戦死した所と伝えられ、田楽狭間、あるいは館狭間と呼ばれた。今川義元・松井宗信・無名の人々の塚があり、明和8年(1771)七石表が建てられた。文化6年(1809)には、桶狭間弔古碑が建立された。また、戦死者を弔って建てられたおばけ地蔵・徳本行者念仏碑などがある七石表(一号碑)桶狭間の戦いで今川義元の戦死した場所を示す、最も古いものである。明和8年(1771)、尾張藩士人見弥右衛門黍、赤林孫七郎信之により建てられた。北面「今川上総介義元戦死所」、東面「桶狭七石表之一」、南面「明和八年辛卯十二月十八日造」と刻まれている桶狭七石表一、戦後68年後の1628年に斎藤徳元が書いた『関東下向道記』に江戸へ向かう道中、 「有松を出て道より馬手(南)にあたりて小高き古塚有・・・(中略)・・・義基(義元) たたかひまけて此所にて果給ひし古墳なり」とある。二、1705年天野信景が書いた『塩尻』の中に描かれている。「桶狭間古戦場之図」( 下図)の中央付近に七つの塚が描かれている。三、1771年人見弥右衛門沗が書いた『遊桶狭記』に「その頃の田楽狭間の古戦場は 暗く寂しい所で、帰名後友人と相談し、古戦場にある塚(下図)の上に、石柱(七石 表)を作らせた」とある今川治部大輔義元の墓今川治部大輔義元の墓駿河・遠江・三河の国主、今川義元は西上の途次、永禄3年(1560)5月19日に織田信長の奇襲に遭い、ここで倒れた。ここには、その霊が祭られている。以前、ここは塚であったが有松の住人山口正義が主唱し明治9年5月にこの墓を建てた桶狭間古戦場 石碑配置図現在の地面は約3m地上げされているとのこと石碑には、景樹の歌碑あと問えば昔のときのこゑたてて 松に答ふる風のかなしさ 景樹桂園派の巨匠。香川景樹が己の歌風を江戸にも広めようと意気込んで出府したが、迎えられず失意を抱いての帰途、桶狭間を通り、永禄3年(1560)5月19日、信長のためにこの地に没した義元の気持ちをくみ、自身の心に引き当てて詠んだ一首で「尾張名所図会」に載っている進軍ルートボランティアの方に説明して頂く赤:織田方、緑:今川方赤:織田方の城・砦、緑:今川方の城・砦城・砦の配置は、大高城、鳴海城の今川方のお城を、織田方の砦が取り囲んでいる9:06桶狭間といえば山間の場所かと思っていたが、意外と山は丘程度であった。説明を聞くと当時よりは3m程地上げをしている様であったが。西側にある高徳院方向 鳴海宿~宮宿-続く
2020.01.23
コメント(1)

昨夜は旧東海道の伝馬通りのホテルへ宿泊、予定ではホテルに愛車を夕刻まで止め名鉄で豊明駅へ移動する予定であった。酒を飲み早く寝たので早くから頭がさえ、ベッドの中で考え豊明駅前の駐車場料金が一日でも500円であることを確認、車で豊明駅前まで行った方が後の工程を考えるとこの方がベターと考え予定を変更、車で豊明駅へ行くことに。'19/11/23(土) 6:17朝食は6時半から、ホテル前の伝馬通り「伝馬交差点」昨夜来の雨も上がり霧に包まれた伝馬通りホテル前の伝馬通り「伝馬交差点」ホテルの朝食7:216時50分にホテルを出発。前回10月16日(水)に訪れたが、未確認の墓があったので再度立ち寄る。曹洞宗 今岡山 洞隣寺(とうりんじ)所在地:愛知県刈谷市今岡町日向14曹洞宗の寺で、天正8年(1580)の開山といわれ、開基は刈谷城主水野忠重とされる。本堂の隣に地蔵堂・行者堂・秋葉堂が並んでいる。前回確認できなかった墓所には、何度直しても反対側に傾くといわれる「豊前国(大分県)中津藩士の墓」がある。またその隣には刈谷の昔話ではよく聞かれる「めったいくやしいの墓」がある洞隣寺右側は、本堂で再建中ご案内『中津藩士の墓』と『めったいくやしいの墓』前回これを見落としていた境内の東側の墓地その一角にあるのが『豊前国(大分県)中津藩士の墓』豊前国(大分県)中津藩士の墓何度直しても反対側に傾くといわれる墓である7:36名城パーキング 豊明駅前入庫後24時間「500円」と割安豊明駅北口から近い駐車場、高架橋は伊勢湾岸自動車の阿野跨線橋ご利用方法の看板7:37駐車場から宮宿に向けてスタート。今日は延べ日数24日目の弥次喜多道中。旧東海道(国道1号線)の豊明駅東交差点駐車場を振り返る、夕刻に帰って来る豊明駅舎今夕は何時ごろ降り立つのか土曜日で時間も早く人通りも少ない7:42国道1号線の「豊明駅前交差点」7:44旧東海道北側に位置する「むつみ保育園」むつみ保育園の北側に隣接する「西蓮寺」所在地:愛知県豊明市阿野町林ノ内21時間も早く門は閉められたままで中に入れず真宗大谷派 西蓮寺、真宗 怡雲山7:51弥次さんが旧東海道(国道1号線)から北側に道を逸れ進むネットは「ジョイランドゴルフ豊明」早朝から練習で訪れオープンを待っている人が何人もいた旧東海道(国道1号線)を振り返るシラサギが飛ぶ7:55琵琶ケ池水辺公園石碑には東屋治平の歌碑水島の友呼つれておもしろや 松が琴弾ひわか池かな 東屋琵琶に合せて松が琴弾く風情のおもしろさに水鳥も仲間入り。嘉永元年(1848)画工小田切春江によって刊行された。「名区小景」に載る。詠み手は知多半田、東屋治平である桜の紅葉工場は、フジパン 豊明工場琵琶ケ池水辺公園この広場は大雨の時、阿野川の異常洪水を取り込むように計画されています8:00旧東海道へ戻るこの先は国道1号線の「池下交差点」、高架は県道57号線旧東海道はこの先を右折旧東海道(けやき通り)を進むとよあけしの「おすいマンホール」デザインは、二頭の騎馬と一人の兵士8:06旧東海道沿いに木立が見える木立が旧東海道の両側に阿野一里塚植えられている木は、榎、桜国指定史跡「阿野一里塚」徳川家康は慶長9年(1604)、すでに整備した東海道の宿駅・伝馬制に加えて道の両側へ塚を築かせ、一里ごとの目印とした。県内の東海道には、十八の一里塚があったが、現存するのは四か所。そのうち、道の左右とも残っているのはこの塚と、知立市のみである。昭和11年12月に指定を受けた石碑には森市雪の歌碑春風や 坂をのぼりに 馬の鈴 市雪東海道の阿野一里塚から「前後」に向って坂を登りつめると、名医のほまれ高い三田邸があり、「春風に馬の鈴が蘇えるようにひびき、道には山桜が点在して旅人の心を慰めてくれる」の意である。この句は、愛知郡下之一色の森市雪の作で、嘉永元年(1848)刊の「名区小景」に載る8:08石柱には「阿野一里塚」 鳴海宿~宮宿-続く
2020.01.22
コメント(0)

本興寺散策の後、愛知県新城市にある続日本百名城の『NO.150.古宮城』へ。11/22(金) 13:30国重要文化財の『本堂』建物は桁行五間・梁間五間の茅葺きで、大仏様・禅宗様の二様式と、伝統様式である和様を巧みに取り入れ、三様式を折衷した室町時代の特徴をよく遺しています本堂内本尊に本仏釈迦牟尼世尊及び十界勧請の諸尊を祀っています本堂の濡縁に本堂からの『三十番神堂』前舎・後舎とも桟瓦葺きでしたが、平成25年度の保存修理工事により瓦葺き型鋼板葺きに変更されました。改修前の屋根は、中央に二つの峰を持つ特殊な瓦を配置し、左右逆方向に瓦を葺くという特徴的なものでした三十番神堂番神堂は、日替わりの守護神である三十番神を祀る建物で、文明4年(1472)五世日暹の代の創建。現在の建物は文政4年(1821)二十九世日壇の代に再建されたものです。建物は前舎・後舎にわかれ、前舎は桁行三間・梁間三間の入母屋造りで、前方に一間の向拝があります。前舎の背面に接続する後舎は切妻造りで、三十番神を安置した客殿があります本堂からの『鐘楼』延宝2年(1674)十七世日観の代、上総国佐貫藩主松平山城守重治夫人の発願により建立されました。入母屋造り袴腰付き鐘楼で、組物など細部の意匠に技巧的な特徴が見られます鐘 楼文政5年(1822)二十九世日壇の代に再建、大正4年(1915)三十八世日受の代に修復されました。昭和17年(1942)、太平洋戦争に伴い梵鐘は供出されましたが、昭和34年(1959)四十三世日猷の代に口径二尺七寸の大梵鐘が再鋳され落慶法要が営まれました弁天堂元禄13年(1700)十九世日芳の代に大檀那渡辺越中守方綱(正綱)夫人の寄進により建立されました。音楽・弁財・財福・智慧の徳がある弁財天女が祀られています嘉永3年(1850)三十二世日宗の代に再建され、京都の岩倉実相院義賢大僧正の扁額があります。 縁日 毎月十五日本堂前から樹齢600年余の開山杉本 堂石柱には「國寶本堂」と千仏堂と右に客殿千仏堂は、元禄13年(1700)十九世日芳の代、渡辺越中守方綱(正綱)夫人の発願により建立、天保13年(1842)三十一世日融の代に再建されました渡辺方綱は、寛文8年(1668)武蔵国野本藩主となり、延宝8年(1680)没。方綱夫人が娘で方綱の養子基綱夫人の息災延命を願って千体仏とともに寄進したものです。構造は桁行・梁間ともに三間、屋根は宝珠造で単層の桟瓦葺きで、細部の手法から禅宗様の建築様式を備えています千仏堂前から『鐘楼』『本堂』お墓の奥にある『西郡局供養塔』西郡局は、三河国西郡(蒲郡市)の城主鵜殿長忠の娘。長忠の父鵜殿長持は、天文21年(1552)本堂建立に尽力した人物です。西郡局は永禄7年(1564)徳川家康の側室となり、翌年、岡崎において家康の二女督姫を生みました。慶長11年(1606)伏見城において没し、京都本禅寺に葬られました。法号は蓮葉院殿日浄尊儀。当山十世日梅は、西郡局の舎弟に当たることから遺品を納めて供養塔を建立しました左:客殿、奥に『大書院』まだ雨が降る中「大黒堂」へ。貞亨元年(1684)十七世日観の代の建立で、延亨元年(1744)二十二世日禅の代に再建されました。現世安穏、後世善処を願い招福、開運、学問増進の神である大黒天が祀られています建物は、桁行三間・梁間三間の入母屋造りで、外陣の外側には扉や板壁などがなく、吹き抜けになっているのが特徴です。 祭礼日 正月11日・甲子日 御礼・御守の授与あり方角を変えて「大黒堂」客殿の前は駐車場13:41雨も小降りになり散策を終え、参道から山門へ向かう13:51国道301号線の「太田交差点」13:45に本興寺の駐車場を出発して、続日本百名城の『古宮城』へ向かう14:05浜名湖沿いに国道301号線(オレンジロード)を北上、三ヶ日方面へ。天竜浜名湖鉄道の「三ヶ日駅」近くの「西天王町交差点」を左折14:06左折してから数百メートルの「高橋交差点」を右折して国道301号線を新城方面へ14:29カーナビに従って進むこの先の「稲木交差点」を右折して国道151号線へ古宮城まで、17kmで到着予定は15:0514:30県道392号線から、この「稲木交差点」を右折して国道151号線を走る14:33雨が激しくなる国道151号線の「杉山北交差点」、再度国道301号線を走る14:55新東名高速道路も越え、国道301号線を進んで到着。『作手歴史民俗資料館』所在地:愛知県新城市作手高里縄手上35スタンプが15時のため急いできたのでどうにか閉館5分前像の右には「ポットホール」「力石」歴史民俗資料館営業時間:10:00~15:00 休館日:火曜日15時ギリギリにスタンプを頂いたが、係員の方に尋ねると不在時のスタンプ置き場は『国道301号線へ左折した200mほどの、Y ショップ(コンビニ 7:00~20:00)にておすことができます』とのこと。本には書かれていないので慌てて来たがスタンプを押し、閉館前の館内を見学。館内には自然のジオラマが作手町並みのジオラマ亀山城址、古宮城址、文珠山城址、塞之神城址、川尻城址と城跡が多い認定証『古宮城』平成29年(2017)4月6日の城の日に、日本を代表する歴史的名城として認定されたNO.150.古宮城(ふるみやじょう)のスタンプ15:09愛知東農協Aコープ作手店所在地:愛知県新城市作手高里縄手下54-1JAでガソリンを、10リットル補給この日は11月22日でオロナミンⅭをもらえる「勤労感謝の日」。本来は1台1本のところであったが、1本もらった後別の店員が持参都合3本頂く15:13古宮城址と白鳥神社当城址は、甲斐の武田信玄が三河進出の拠点とするため、宿将馬場美濃守信春に命じ願亀2年(1571)に築城したと伝えられている。城址は、南北約200m、東西約250mの独立した小山全体からなっている。当時は、南・東・北の三方が湿地で地続きは西側のみで、防御の主眼は西側に置かれている。一歩城址に踏み入ると土塁と壕が縦横に入り組み複雑な曲輪配置が見られ、中央部が南北の竪堀状の大堀切で東西の二城に分けられた一城別郭式の城であった東は守備の中心で主将の居る所、西は前衛として敵の攻撃を少しでも永く拒むための工夫が施された要害堅固な城であった。西城の本丸は、ほぼ正方形で、その東に二の丸が並び境として両端を空けた土塁があり、二の丸の東南隅と北側には虎口が設けられている。また、北側には五重の濠を擁して西側からの攻撃に備えている。東城は、頂部において土橋で西城と繋がり、本丸に並んで二つの曲輪があり、その北部には多数の曲輪が見られる古宮城縄張図本丸南側の両袖桝型虎口(内桝型)は、武田氏縄張りの特徴をよく伝えている。一部が社地等になっているが中世の城郭がほぼ完全に保存されているのは珍しい。全山余すところ無く塁郭を配置したこの城も天正元年(1573)8月、奥平・徳川の連合軍の手によって落城した。古宮城の下にある「白鳥神社」右の石段から土塁へ登ろうとしたが雨でぬかるんでおり途中で止める続100名城「古宮城」のスタンプは『作手歴史民俗資料館』と『Y ショップつくで店』に設置しています。作手歴史民俗資料館の休館日・閉館後はコンビニ店舗に押せると15:18亀山城址迄、1.5kmとあり、南方面へ進む15:29亀山城址車で昇って行ったが雨で登城道がぬかるんでいるので引き返す。亀山城(平山城)は、応永31年(1424)8月、奥平貞俊が川尻城から移り、その後貞久・貞昌・貞勝・貞能・貞昌の五代が居城した。天正元年(1573)8月貞能・貞昌親子は、古宮城に本拠を持つ武田製の攻撃を受けたが石堂ヶ根・田原坂等に転戦してこれを敗走させた。天正3年(1575)この戦功によって貞昌は織田信長から長篠城主を命ぜられた。同年5月長篠・設楽ヶ原の戦が勃発、長篠城は武田勢一万五千の猛攻を受けたが貞昌はよく籠城に耐え織田・徳川連合軍の援軍を受け大勝した。戦後、貞昌は信長の一字を貰い信昌と改名、新城に築城してこれに入り、家康の長女亀姫を嫁に迎えた。慶長7年(1602)信昌の第四子松平忠明が父祖の旧領である亀山城へ作手藩一万七千石の藩主として入城し八年間居城し、同15年(1610)伊勢亀山藩五万石の藩主として転じた。その後は元和5年(1619)頃の数年間三河代官として小川又左衛門氏綱が居城、それ以後は廃城となり現在に至っている15:31国道301号線沿いにある『道の駅 つくで手作り村』所在地:愛知県新城市作手清岳ナガラミ10-2字向かい側の『臨済宗 慈昌院』雨も降っているので、一路東岡崎の岡﨑サンホテルへ向かう。17:00宿泊ホテルの「岡崎サンホテル」前にある石像『旅籠屋』伝馬通りは「伝馬歴史プロムナード」となっており、20基の石彫が並ぶ天保年間(1830~1843)の記録によれば岡﨑宿には伝馬町を中心に本陣三軒、脇本陣三軒、旅籠屋(現在の旅館)が百十二軒あったとされ、東海道五十三次中三番目の規模を誇る宿場であった。旅籠屋はその規模によって大宿、中宿、小宿と区分され、その他に庶民が泊まる木賃宿、休息をする茶屋もあった。正保・慶安の頃(1644~51)からは飯盛女という遊女を置く旅篭も現われ(以降岡崎は岡﨑女郎衆で有名な宿場ともなった)。庶民の旅行が増え始めた江戸中期ごろになると各旅篭とも競争が激しかった17:45この夜は雨も降っており、隣のコンビニで酒&夕食を購入して部屋で宴会明日は、東岡崎から名鉄で豊明駅まで行き、そこから七里の渡しまで歩き熱田神宮から東岡崎へ戻り、ホテルから車で桑名のホテルへ向かう事を確認して寝る。今回も、部屋はシングルルーム。移動日は前回も天気がよくなかったが、明日は天気が良いことを祈る。今日一日の歩数は、10,000歩でした。 東海道53次で岡崎へーEND
2020.01.21
コメント(0)

雨の中続いて本興寺境内を散策。常霊山 本興寺(じょうれいざん ほんこうじ)境内26,000坪の中心に国重要文化財建造物本堂をはじめ客殿、千佛堂、鐘楼、番神堂など伽藍を配し、大書院には有名な谷文晁の晩年の傑作、県指定水墨四季山水障壁画十五面を公開し、庭園は小堀遠州作と伝えられる池泉観賞式林泉がある。奥書院は江戸初期の書院造りで県指定となっている。寺宝には国重文の法華経絵曼荼羅や紺紙金字法華経他岸良の絵も多く遺している。春は桜、みやまつつじを賞で、秋は紅葉を楽しむ人が絶えない。市の花クチナシも初夏に匂やかである。11/22(金) 13:01参道の西側にある四坊の塔頭寺院のひとつ「長勝院」長勝院山門長勝院境内の藤棚と本堂参道に戻り13:03参道の西側に「方丈(寺務所)」「奥書院」「大書院」案内板には谷 文晁四季山水壁画及襖絵小堀遠州庭園本興寺拝観受付:9時 ~ 17時 拝観料:300円大書院は、二十九世日壇の代の文政10年(1827)、上段・下段の間取りを持つ公式対面の場所として建立されました。完成の記念として上段の間には、壁面七面、襖四本の両面の計十五面に、谷文晁によって「紙本水墨四季山水障壁画」が描かれ、このことから当寺は「文晁寺」とも言われています。また、下段の間には岸良の「双竜争珠の図」や杉戸絵が描かれています奥書院もと三河国吉田城内にあった建物で、延宝2年(1674)十六世日穏の代、山門とともに当山に寄進されたものです。構造は、木造平屋建てで、桁行八間・梁間五間の寄棟造りの茅葺き、桟瓦葺きの縁側をつけた住宅風書院建築です。創建当初からのものではありませんが、使用されている材料や技法は江戸時代初期の建物様式を遺す建物です。平成24年度から25年度に行われた保存修理工事に伴い、本茅葺きから茅葺き型鋼板葺きに変更されました遠州流庭園裏山の自然林を借景に大書院と奥書院に面して配置された庭園で、当地方の作庭に大きな影響を残した小堀遠江守政一が関わったといわれています。広さは約300坪に及び。池中に鶴島、亀島の二島を浮かべ、山畔には枯滝口が築かれその左手に三尊石、さらにその左手に須弥山石が配され、手前には礼拝石が据えられています。庭園の起源は不明ですが、永禄6年(1563)5月の今川氏真判物に「寺中園林」とあることから、古くから池泉があったことが想像されます。 水の音 ただにひとつぞ きこえける そのほかはなにも 申すことなし (昭和7年) 北原 白秋紙本水墨四季山水障壁画大書院上段の間には、壁画七面、襖四本の両面の計十五面に、谷文晁によって描かれた四季の山水画があります。文晁は江戸時代後期の画家で、四条派、土佐派、洋風画からも影響を受け、さまざまな様式の作品を残しています。また、田原の渡辺崋山ら門人たちとの人脈の広さは、当時の絵師の中でも際立つものがありました。所蔵の絵は、文政10年(1827)二十九世日壇の代、大書院を建築した際に文晁に依頼して製作してもらったものです山門には谷文晁「四季山水」壁画襖絵小堀遠江守一作「遠州流庭園」山門を入った左手に方丈玄関左:大書院の受付、右:方丈拝観料を支払い大書院へ、いろんな賞状が右壁面には、寺宝 国指定重要文化財「法華経曼荼羅図」大書院の縁側からの遠州流庭園奥書院へ奥書院からの遠州流庭園慶長の頃、伝小堀遠江守政一の作。この庭園は大書院から奥書院に面し楕円形の池泉をかかえ背後の自然の山林を借景に深山幽谷の趣を呈し木石の配置も巧妙で、いずれの方角から見ても美しい。蓬莱式池泉観賞式庭園である。その閑静なたたずまいは、歌人北原白秋の歌にも詠まれている御朱印籠幕府より受けた御朱印状を入れる箱と、これを運ぶ籠である。当山は十万石の格式を与えられていたので籠につける標示に「御判物」と書かれている奥書院正面は、「徳川将軍家御霊屋」徳川家康公以来歴代の位牌が祀られている。最下段の両脇には当山の護持に功績があった家康の側室西ノ郡局、小田原城主大久保忠世及び鵜殿休庵の位牌が祀られている家康判物白秋と本興寺昭和7、8両年鷲津を訪れた北原白秋は当寺にて「本興寺林泉」「続本興寺林泉」と題して二十首余を遺す大書院からの「奥書院」奥書院(県指定文化財)は、延宝2年(1674)惣門と同時に吉田城内から移築、県内では数少ない江戸初期書院建築の遺構谷 文晁(たにぶんちょう)文晁は、江戸後期の画家で江戸末期を花鳥山水で飾った。「文晁の間」もある国指定重要文化財:絹本著色大書院:文政10年(1827)建立、上段の間、中之間、岸良の間から成る。大書院の一部は撮影禁止エリア遠州流庭園大書院から客殿への渡り廊下渡り廊下から大書院方向を振り返る客殿内(市指定文化財)寛永14年(1637)建立、安水2年(1773)再建された本興寺の宗紋:6本桜いつものように旅友が本興寺の御朱印を頂く - 定 -静岡縣濱名郡鷲津町 法華宗 本興寺13:24本堂への道から山門を振り返る(北方面)客 殿平成23年度から24年度に行われた保存修理工事に伴い、本茅葺きから茅葺き型鋼板葺きに変更されました寛永14年(1637)、十三世日渕の代に建立され、安永2年(1773)二十五世日義の代に再建されました。桁行十間・梁間八間の寄棟造りで、前面に桟瓦葺きの向拝がつき、側面に濡縁が巡らされています。比較的古式な客殿ですが、江戸時代の特徴をよく示しています工事中の「中門」大書院の本玄関に通ずる中門は、朱塗りの門であることから別名朱門とも言われています貞亨3年(1686)十七世日観の代の建立とされ、本柱と控柱の直上に切妻屋根を載せた薬医門といわれる門です。薬医門は、元来桃山時代創始の城門の一種でしたが、江戸時代には寺院の門として多く用いられました。当初は、客殿正面に建てられていました本堂と開山杉開山杉樹齢600年余と推定されるこの老杉は、永徳3年(1383)門祖日陣聖人の東海巡化の折、改宗した当山の開山杉として植えられたものと伝えられています。京都本山本禅寺を建立された日陣聖人は、応永13年(1406)越後への帰路に再び当山を訪れ、寺門の隆盛をよろこばれ、開山記念として杉樹をお手植えされたと伝えられています北原白秋 歌碑 - 詠 - 北原白秋水の音 ただにひとつぞ きこえける そのほかはなにも 申すことなし国重要文化財の『本堂』本 堂当寺はもと真言宗の寺院で、永徳3年(1383)に開山日乗聖人により法華宗に改宗したといわれています。戦国期には今川氏や徳川氏から寺領を安堵され、天文21年(1552)九世日礼の代に再建されました。建物は桁行五間・梁間五間の茅葺きで、大仏様・禅宗様の二様式と、伝統様式である和様を巧みに取り入れ、三様式を折衷した室町時代の特徴をよく遺しています。本尊に本仏釈迦牟尼世尊及び十界勧請の諸尊を祀っています 東海道53次で岡崎へ ー続く
2020.01.20
コメント(3)

東海道53次も昨年の10/16(水)に、池鯉鮒宿の先の名鉄豊明駅までたどり着いている。この弥次喜多道中の後、10/24(木)から31日(木)まで旅友と「ルーマニア・ブルガリアの旅」を行いこのブログをアップした。このため、11/22(金)から25日(月)の弥次喜多道中記のアップが遅れました。宿泊ホテルの岡崎への途中、前回行けなかった湖西市の本興寺を雨の中参拝した。いつものように弥次さんがわが家へ車で、わが愛車に乗り換え7時に出発。11/22(金) 9:15雨の中、国道139号線を走り静岡方面へ向かう、右側の高架は国道1号線のバイパス9:20国道139号線のJR吉原駅入口9:21国道1号線の高架橋下を通過、本来上を走りたいのだが入り口を間違え国道139号線を進む10:10新幹線の新富士駅横を南下して、国道1号線(富士由比バイパス)と合流今回も天気が悪くて薩埵峠へは行かず。10:42国道1号線(藤枝バイパス)の「薮田東インタ」11:32国道1号線(袋井バイパス)の国本交差点11:44国道1号線の天竜川橋11:47国道1号線を進む、豊橋まで44kmの標示11:52国道1号線(浜松バイパス)の「下飯田交差点」11:59国道1号線(浜松バイパス)の「中田島砂丘入口交差点」目的地の湖西まで24km12:14国道1号線(浜松バイパス)の「篠原交差点」から国道301号線へ分かれ湖西市方面へ。国道301号線の「坪井町交差点」12:18旧東海道と斜めに交差する「新町交差点」右前方は「旧東海道 舞坂宿 松並木公園」で、手前に旧東海道松並木がある国道301号線の「新町交差点」旧東海道はこの交差点を左前方へ進む12:20浜名湖手前の「協働センター前交差点」右側は、JR東海道本線、東海道新幹線12:21国道1号線(浜名バイパス)の「浜名大橋」帰路はこの橋を渡る自動車専用道路国道301号線(旧国道1号線)、日本橋から271.5km地点12:22旧東海道(国道301号線)を走り湖西市へ入るこの辺りは、昨年の’19年5月24日(金)にJR浜松駅からJR新居町駅まで歩いた12:26雨が激しいJR新居町駅前JR新居町駅前先の交差点を直進して新居関所方面へ12:28右側に『新居関所』正式には「今切関所」といい、慶長5年(1600)に設置されて元禄15年(1702)からは、 吉田藩が運営した。新居関所は「入り鉄砲」と「出女」は無論、「入女」も厳しく取り締まり、箱根と同様、改め女(人見女)がいた。改め女による厳しい検査と船渡しの危険を避け、さらに「今切」の言葉に縁起を担いで、多くの女性は浜名湖の北岸を迂 回する脇街道の「本坂道」を利用した。そのため本坂道を「姫街道」とも呼んだ。 明治2年(1869)関所は廃止された復元された「大御門」 大御門は、明六ツ(午前六時頃)に開き、暮六ツ(午後六時頃)に閉じました。大御門の前には、高札を置く枡形広場があり、東海道へつながります。 大御門の大きさは、高さ5.8m、幅4.6mです。 城門と同じ屋根付きの堂々とした高麗門です。礎石建ちではなく、地表より2.7m下に礎石をすえ、柱を埋めた堀立柱の門です前回のブログへのリンクをお願いします『新居宿の寺社巡り』12:30あと引煎餅の『あと引製菓』所在地:静岡県湖西市新居町新居1264-3試食品もあり、お土産に2袋購入した2019年6月25日に、BS日テレ『ふるさと探訪』にて放送された店舗。三宅裕司が訪れた老舗で是非訪問したいと、我がノートの「行きたいところ」に記載今日は作業が終了したとのこと12:33この先の「泉町交差点」を右折して国道301号線をJR鷲津駅、本興寺方面へ12:39国道301号線をJR鷲津駅方面へ12:45法華宗別院 本興寺所在地:静岡県湖西市鷲津384自宅からここまで、224km常霊山 本興寺(じょうれいざん ほんこうじ)当山は今からおよそ630年前、永徳3年(1383)、法華宗越後本成寺の日陣聖人が東海地方巡化の途次、この地にあった法華堂の住持を教化して真言宗から法華宗に改めた寺である。時の住職は大慈悲院日乗聖人でご開山と仰いでいる雨が強くなったが本興寺の散策へ本興寺 境内地図パンフレットから:上が「南側」聖跡「鷲津弘通所(ぐづうしょ)」当法華宗陣門流の祖、南無日陣尊聖人東海巡化の御聖跡「鷲津弘通所」とは室町時代すなわち永徳3年(北朝)弘和3年(南朝)(1383)この地を巡地され、法華宗に改宗された聖跡である。門祖聖人の御消息の中に布教の重要拠点として「鷲津弘通所」と命名されたところ。この度、門祖第六百御遠忌に当りその記念としてここに顕彰する石碑である平成30年5月21日 法華宗本山 常霊山 本興寺山門(惣門)もと三河国吉田城の城門であったものを、延宝2年(1674)十六世日穏の代に吉田城より移築したもので、高麗門といわれる形式の門です。山門をくぐると参道が本堂へと続く山門の扁額の「常霊山」改築される前は、上端が薄く下端が厚い板を段状に葺いた段葺き技法の特徴を備えた風格のある門でしたが、移築時に杮葺(こけら)きに改修されました。その後、享保10年(1725)に現在のような本瓦葺きに改修されました。なお、創建時の段葺き屋根の特徴は、現在も瓦葺きの下に保存されています山門を入ると、両側に四坊の塔頭寺院が配されている参 道浜名湖辺から正面の本堂に向かう全長300mに及ぶ参道には、山門に続き四坊の塔頭寺院が両側に配され(江戸末期には八坊)、本堂手前右側に方丈があります。文化14年(1817)、二十九世日壇の代に山門から本堂にかけて石垣普請が行われ、天保9年(1838)三十一世日融の代に再整備されました。平成の大修理事業の一環として、平成28年に幅員6m、全長140mにわたり完全舗装整備を行いました参道の東側にある四坊の塔頭寺院のひとつ「東光院」東光院の山門と本堂山門手前の石碑は「門祖御旧跡碑」東光院山門山門(惣門)を振り返る雨に濡れた紅葉参道の西側にある四坊の塔頭寺院のひとつ「光明院」光明院本堂本堂内参道の東側にある四坊の塔頭寺院のひとつ「玉葉院」玉葉院山門玉葉院本堂13:00光明院を振り返る 東海道53次で岡崎へー続く
2020.01.19
コメント(0)

2020年のNHKの大河ドラマは『麒麟がくる』。1月4日(土)にNHK BSで放送された、「日本最強の城 光秀スペシャル」。この放送を見て、私は以下6つのお城は全て登城しておりその記憶をたどるためにこのブログをアップします。日本では全国に約30,000のお城があり、今回は明智光秀に関連したお城であると。1,福知山城:続日本百名城 No.158 ①登城日:'19年8月12日(月) ②所在地:京都府福知山市字内記1 ③築城年:天正7年(1579)頃 ④築城者:明智光秀福知山城は、丹波の土豪横山氏の築いた横山城が前身とされ、天正7年(1579)に丹波を平定した明智光秀が、新たに福知山と命名して跡地に築城を開始した。織豊系城郭として石垣と天守が築かれた。天正10年(1582)に光秀が討たれると豊臣秀吉臣下が城主となり、江戸時代には福知山藩の藩庁となった銅門番所(あかがねもんばんしょ)この建物は、福知山城の銅門の脇(市役所の東)にあった番所で、城内の建築物として当時の面影をしのばせるものです。大正時代のはじめに天守台(小天守台)に移築され、更に昭和59年天守閣再建に伴いこの場所に移築されたものです福知山城天守閣復元鯱瓦高さ:150cm、基部たて:80cm、よこ:45cm石 垣天守台から本丸にかけての石垣は野面積という積み方で、400年以上の歳月を耐えてきたものです。また多くの五輪塔や宝篋印塔などの石造物が転用石として使われているのも特徴である駐車場周りにはためく、「2020年 大河ドラマ 麒麟がくる」の幟。幟には「明智光秀が築いた城下町 福知山」と昭和に入り市のシンボルとしての城再建の機運が高まり、市民による「瓦一枚運動」で昭和61年に、三層四階の天守閣が再建されたスタンプ設置所:福知山市郷土資料館(福知山城)入口受付と、福知山観光案内所(JR 福知山駅北口)の2ヵ所 ブログのアップは、'19年9月10日2,安土城:日本百名城 No.51 ①登城日:'14年10月11日(土) ②所在地:滋賀県近江八幡市安土町下豊浦 ③築城年:天正4年(1576) ④築城者:織田信長鯱瓦が最初に設けられた城で、鯱((しゃちほこ)は『火よけの守り神」で口から水を出して火を消すと。JR東海道本線安土駅前にある「安土城郭資料館」在りし日の安土城資料館内にある城模型スタンプ設置所:安土城天守信長の館、安土城郭資料館、安土城跡受付安土城は、スタンプの捺印のみであったのでまたいつか行きたいと思っております。3,一乗谷城:日本百名城 No.37 ①登城日:'14年7月5日(土) ②所在地:福井県福井市城戸ノ内町 ③築城年:15世紀後半 ④築城者:朝倉孝景 若き光秀が朝倉氏に身を寄せた。朝倉氏の栄華を伝える城下町と山城朝倉氏は一乗谷の南北に、二つの城戸(城門)を設けて城下町を守り、館の背後の山には夥しい数の畝状空堀群(竪堀)で守られた山城を築いた唐門:朝倉館の西正門跡に建つ、5代義景の菩提寺の門で、豊臣秀吉が寄進したと伝 わる。朝倉氏の時代にここにあった門ではない立体復原された町屋スタンプ設置所:「復原町並」入口(南・北)4,黒井城:続日本百名城 No.163 ①登城日:'19年8月12日(月) ②所在地:兵庫県丹波市春日町多田 ③築城年:建武2年(1335) ④築城者:築城者:赤松貞範明智光秀が4年をかけて攻め落とした城である。 国道176号線沿いの『道の駅 丹波おばあちゃんの里』から 標高356mの山城黒井城も、2020年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」に登場する。第一回の黒井城攻略で、赤井・波多野勢の奇襲を受け敗北した明智光秀は、再度の攻略の策として鐘ガ坂に金山城を築き、黒井城と八上城を分断。ここを拠点にして八上城を落城させた。天正7年(1579)、孤立した黒井城も間もなく落城。明智光秀の丹波平定は、ここに終わりを告げた。城下には明智光秀が陣城とした茶臼山遺跡、水色桔梗の旗をなびかせて「幟立て」、軍兵が勢ぞろいした「太刀野」などの地名が残り、明智勢黒井城攻めの名残りをとどめています赤松貞範による築城後、16世紀前半に荻野氏の城となり、その養子荻野(赤井)直正が天文23年(1554)に養父を暗殺して城を奪う。直正は織田信長に服属したが後に離反し天正3年(1575)からの明智光秀の丹波平定では抵抗するも落城。天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いに際し、赤井氏残党が家康方として立て籠るが戦後廃城となった。猪ノ口山の山頂部に本丸を中心とした主要部を置いて石垣と土塁で固め、三方にのびる尾根伝いと山麓にも曲輪群を配した。本丸などの野面積の石垣は一見の価値がある保月城趾登山口から下り「興禅寺(こうぜんじ)」所在地:兵庫県丹波市春日町黒井2263七間堀と石垣と白壁はまるで城か、陣屋のようなお寺です。楼門下に「春日局出生地の碑」があり、お福の来歴が刻んであるスタンプ設置所:春日住民センターブログのアップは、'19年9月11日5,岐阜城:日本百名城 NO.39 ①登城日:'16年11月18日(金) ②所在地:岐阜県岐阜市18 ③築城年:建仁年間(1201~04)、天文年間(1532~55)、永禄年間(1558~70) ④築城者:二階堂行政?、斎藤道三、織田信長岐阜城登城で日本百名城を制覇し『登録番号 1,292番目』で認定された金華山ロープウェーからの岐阜市街地と長良川。この方向に京があり、信長は京都へ昇ろうと決意したと。城の下は長良川が流れる現在はロープウェイで山頂へ登れる。スタンプ設置場所:岐阜城資料館(山頂にある)6,岩村城:日本百名城 No.38 ①登城日:'14年11月22日(土)、'16年11月19日(土) ②所在地:岐阜県恵那市岩村町字城山 ③築城年:文治元年(1185)、永正年間(1504~21)、 天正3年~慶長年間(1575~1615) ④築城者:加藤景廉、遠山氏、河尻秀隆、各務兵庫、松平家乗 標高717mの日本一高い地に築かれた城である。高取城、備中松山城とともに日本三山城といわれている6段に積み上げられた見事な石垣、岐阜のマチュピチュと書かれていた登城した時は小雨で日本三山城からの風景は見れなかった岩村城麓の町並み在りし日の岩村城一回目の登城は、'14/11/22(土) この時はスタンプ捺印のみ太鼓櫓と表御門山麓の藩主邸跡に平成2年に再建された太鼓櫓(左)と表御門(中)右端は移築された藩校知新館正門スタンプ設置所:岩村歴史資料館受付窓口(月曜日休館)ゲストが選んだこの日の最も魅力的なお城は『一乗谷城』【おまけ】’17年11月23日(木) AMに訪れた「明智城址』。今年のNHKの大河ドラマで放送されることになり、最近観光客が増えていると!岐阜県可児市にある『明智城址』明智城本丸跡明智光秀公生誕地の旗 可児市この地は康永元年(1342)から2?年間明智氏の居城のあったところ。それは城といっても、天守閣等の派手な建物はなく周囲に土塁や??を廻らした中世の典型的な山塞であったこの城は弘治2年(1556)斎藤義竜に攻略され城兵諸兵壊滅したが、歴史上有名な明智光秀は一門の再起を期してここから脱出、諸国流浪の後、織田信長に仕えて天賦の才を発揮、日ならずして近江丹波54万石の大守となる。然しながら、直情径行武断一辺倒の信長とは本質的に相容れぬものがあり、遂に逆臣の汚名を着て非業の最後を遂ぐ御党の英雄の末路痛恨の極みという外なし END
2020.01.18
コメント(0)

ここ数年義兄に漬物用の大根をもらい暮れに漬けてきたが、今年も大根を干したとのことでもらいに。大根は干してから10日 ~ 2週間で漬ける。暮れも押し迫った12/29(日) 午後に漬けた。子どもの頃、オヤジがよく漬けており手伝ったものだ!'19/12/29(日)大根の天日干しは義兄がやってくれた近い将来自分でやるか漬物の樽、大根を用意材料、大根25本、ぬか、ザラメ砂糖、塩、沢庵の素(色素込み)ボールに、ぬか+塩+ザラメ砂糖+沢庵の素+色素 を混ぜ合わせる。大根も葉部分を切り落とす樽の底に上記混合したぬかをばらまくその上に一段目の大根を、すき間に大根の葉部分を入れるこの上にぬかをばらまき二段目も、すき間なく積め、ぬかを撒く三段目も同じように四段目残った二本をのせ、残りのぬかをばらまく重石を2個(約20kg?)のせ、蓋をして保存。食べごろは、浅漬けで2~3週間後か?'20/1/5(日)水が浮いてくる1/9(木)漬けてから10日もたつと重石の一段目の上まで水が浮いてきた畑が広がる生産調整区域へ朝焼け、夕焼けも最高のビューポイント1/10 (金)庭に来たいつもの「ジョウビタキの♀」人に慣れているのかわが家によく来る、嫁が名を付けた「ジョウビちゃん」 1/15(水)2週間も過ぎるとそろそろ浅漬けで食べれるかな?1/24(金)一回目は1/20(月)に食べる。美味しく食べれたので、追加で出す1/25(土)重石を二個入れているが、浸かりすぎるので一個出すことに。 END
2020.01.17
コメント(0)

新港ふ頭客船ターミナルから汽車道を歩きJR桜木町駅へ。13:22新港ふ頭客船ターミナルからJR桜木町駅へ。国際大通りのサークルウォーク横浜みなとみらい新港サークルウォーク横浜みなとみらいにある赤レンガとワールドポーターズを行き交う円形の歩道橋で、斬新なデザインと群を抜く美しさが魅力です。夜間には、独特のイルミネーションで新たな魅力が浮き出ています・平成11年(1999)土木学会田中賞(作品賞)受賞・型 式:4径間連続ループトラス・橋 長:225.5m余談ですが、静岡県掛川市の『潮騒橋』もこの田中賞を受賞していました!新港サークルウォークの上から、国際大通り沿いの「よこはまコスモワールド」歩道橋の外側に鉄骨がないので周りの景色が見やすい新港サークルウォークの直径は約70m万国橋交差点から「ナビオス横浜」を潜り運河パークへ。ナビオス横浜:3つ星ホテル汽車道の入口にあるナビオス横浜、日の出のタイミングがよければ、ナビオス横浜の間から昇って来る朝日を撮ることができる汽車道の運河パーク13:30正面に、高さ296.33mの「横浜ランドマークタワー」港三号橋梁汽車道の途中にある第三号の鋼ワーレントラス橋汽車道は、桜木町駅から横浜新港を結ぶ鉄道廃線を、遊歩道にした眺めの良い場所「TAKAMI BRIDAL アニヴェルセル」と「よこはまコスモワールド」結婚式場の「TAKAMI BRIDAL アニヴェルセル」13:34港二号橋梁橋の銘板は「AMERICAN BRIDGE COMPANY、OF NEW YORK、U.S.A. 1907」港二号橋梁この橋は、明治40年(1907)にアメリカン・ブリッジ・カンパニーで製作され、明治42年(1909)に架設された100フィートの複線トラス橋です。重量機関車の出現によりそれまでのイギリス系トラス橋にとってかわり、明治30年代から主流となったアメリカ系トラス橋の遺構として貴重なものです。大きさは、長さ×幅×高さ=31.623×8,002×8,049mm日本丸のマストが見える紅葉がきれいであったよこはまコスモワールド、夜景も綺麗だと港一号橋梁この橋は、明治42年(1909)に鉄道院によって架設されました。2連の30フィート飯桁橋と100フィートの鋼プラット・トラス橋(クーパー型トラス橋)からなっています。100フィートのトラス橋は、明治40年(1907)にアメリカン・ブリッジ・カンパニーで製作され、港二号橋梁と同形のものです。大きさは、長さ×幅×高さ=(9,638+9,638+31.623)×8,002×8,049mm13:40港三号橋梁 → 港二号橋梁 → 港一号橋梁の橋を渡り「日本丸メモリアルパーク」へ日本丸メモリアルパーク日本丸と右に横浜ランドマークタワー汽車道の奥に「港二号橋梁」と右側に「港一号橋梁」先程潜った「ナビオス横浜」と「港二号橋梁」をズームアップ旧横浜船渠株式会社第一号船渠(ドック)に展示されている日本丸帆船日本丸は、全国の商船学校の練習船として、昭和5年(1930)に建造されました。外航商船の船長を目指す若者の訓練に、太平洋を中心に航海してきました。昭和59年(1984)、新日本丸の建造を機に現役を退くまでの54年間に、地球を45.4周する距離(野べ183万km)を航海し、約11,500人の実習生を育てました。練習船としての使命を終えた日本丸は横浜市が管理することになり、昭和60年(1985)4月から旧横浜船渠第一号ドック(国重要文化財)で現役当時のまま保存されています。現在は、水平区域の練習帆船として整備・維持されながら、船内公開をはじめ、帆船の訓練・生活を体験する海洋教室やボランティアの協力で、29枚すべての帆を広げる総帆展帆などを行っています。平成29年(2017)に国の重要文化財に指定されました日本丸は昭和2年3月、練習帆船霧島丸 999総トンが千葉県銚子沖で暴風のため沈没、乗組員及び学生全員が船と運命を共にしました。この惨事をきっかけに昭和3年の国の予算において、大型練習帆船2隻の建造費182万円、1隻当たり91万円が認められました。当時我が国の一般会計予算は、軍事費、国債費を除くと8億7千万円程度に過ぎず、2隻の建造費のしめる割合は2/1000に及ぶ巨費でした。建造は神戸の川崎造船所が当たりました。昭和5年、田中隆三文部大臣は日本の海の王者にふさわしい船にしたいとの期待から1月27日に進水した第一船を「日本丸」、2月14日に進水した第二船を「海王丸」と命名しました。日本丸は昭和5年3月31日竣工し、同年横浜からカロリン諸島のポナペ島へ初の遠洋航海に出帆しました国指定重要文化財『旧横浜船渠株式会社第一号船渠(ドック)・所在地:横浜市西区みなとみらい2丁目7-10・構造及び形式:石造 煉瓦造及びコンクリート造乾船渠(ドライドック)、左右翼壁 附属 附・旧排水ポンプカバー 二基第一号ドックは、隣接する第二号ドック(現ドックヤードガーデン)と同様、安政6年(1859)の横浜開港以来進められていた港湾施設の拡充整備に伴い、横浜船渠株式会社が船の修繕用に建設したものです。横浜港修築第一期工事計画を構想した英国人技師H.S.パーマーが、明治22年(1889)に作成した計画案に基づき、海軍技師恒川柳作が設計し、明治31年12月に竣工しました。建設当初は総長約168mでしたが、横浜港に入港する船舶の大型化に伴い、大正6年(1917)5月から7年8月にかけて、ドックの渠頭部を内陸方向に延長し、総長約204mとなりました。横浜船渠㈱は昭和10年(1935)三菱重工㈱と合併し、三菱重工横浜船渠(後、同横浜造船所)となりました日本丸は塗装工事中『海鳥達の風』 峯玉義郎 作みなとみらい21彫刻展ヨコハマ・ビエンアーレ ’86 協賛賞・㈱横浜高島屋賞・市民賞の受賞作『海鳥達の風』 峯玉義郎 作この旧横浜船渠株式会社第一号ドックは、建設当時、最大規模を有した明治期の代表的乾船渠(ドライドック)の一つで、大正期に建造された躯体延長部分も土木技術の時代的特徴をよく示し、ドライドック築造技術の変遷を知るうえで価値が高く、また、官民の協調により実現した横浜港修築第一期工事の最後を飾る土木構造物で、近代横浜の都市形成史上も重要です現在は全面改修中で見学平成29年(2017)1月27日 の夜景13:52旧横浜船渠株式会社 エアー・コンプレッサー旧横浜船渠株式会社 エアー・コンプレッサー1918年 ニューマチック・ツール社(アメリカ)製このエアー・コンプレッサーは(空気圧縮機)は、横浜船渠(後の三菱重工業㈱横浜造船所)が造船事業に進出する際にアメリカから購入したものです。造船所構内のほぼ中央にあった動力室に4基設置され、昭和58年(1983)に造船所がここから移転するまでの約65年間使われました。リベット・ハンマーをはじめ、所内各工場のさまざまな機械の動力となる圧縮空気をこのコンプレッサーから送りました。横浜船渠の造船部門を象徴する設備として保存・展示しますみなとみら大通りにある13:54桜木町駅への動く歩道からの日本丸13:59JR桜木町駅へJR桜木町駅前バス乗り場旅友は、JR桜木町駅で「しゅうまい弁当」を購入駅ホームから12/6(金)は横浜駅から、バスで三渓園へ、再度バスで山下公園へ戻り、赤レンガ倉庫、桜木町駅と歩いたが今日一日の歩行数は、17,700歩でした。16:00地元に帰り、時間が早かったがいつもの居酒屋に立ちよる。いつもオーダーする「明太子とジャガイモ炒め」おちょこは昨年ウズベキスタンで購入したマイオチョコ18:35若い女の子が来るとのことでサラダを作っていたがわが口には入らず 山下公園からJR桜木町駅ーEND
2020.01.16
コメント(0)

山下公園から赤レンガ倉庫へ歩いて進む。12:00日本大通りの奥に横浜公園の「横浜スタジアム」横浜スタジアムの照明塔右側は神奈川県庁象の鼻地区の波止場右上の写真は「開港当初の象の鼻地区の波止場」象の鼻地区の波止場は、時代とともにさまざまな愛称で親しまれてきました。開港当初の波止場は東西2本の直線状の突堤で、東側の突堤は「東波止場」と呼ばれ、主に外国からの輸出入貨物の積卸しに使用されました。西側の突堤は「西波止場」と呼ばれ、国内貨物の積卸しに使用されました。元治元年(1864)貿易量の増大に伴い、現在の山下公園中央付近に新たに「東波止場」が造られると、象の鼻地区の2つの突堤を総称して「西波止場」と呼ぶようになった開港波止場エリアポールの内側の透明板の下に『鉄軌道と転車台』開港波止場エリアにある『鉄軌道と転車台』明治33年(1900)に発行された「横浜税関一覧」の付図には、横浜税関の上屋や倉庫の背後に、縦横に走る鉄軌道(線路)やその交差部に設置された転車台(ターンテーブル)が描かれています。右図に示されているのが象の鼻パークの整備工事中に発見された4連の転車台です象の鼻パーク象の鼻パークは横浜港発祥の地であり、横浜の歴史と未来を結ぶ象徴的な空間として、開港150周年を記念して整備されました象の鼻防波堤象の鼻防波堤は明治中期の姿に復元しています。当時のガス灯を模した照明灯が設置されているほか、工事中に発見された関東大震災で沈んだと考えられる防波堤の一部を、そのままの形で保存・展示しています象の鼻防波堤象の鼻パークには、象の鼻防波堤から象の鼻パーク全体を包み込むようにスクリーンパネル(照明)が整備されており、港の夜景を彩ります赤レンガ倉庫12:08赤レンガ倉庫への途中の左側に「開港の丘」があり、小学生が遠足で訪れ寒い中、弁当を食べていた国際通りから、高さ296mの「横浜ランドマークタワー」ネームプレートには、横浜市認定歴史的建造物「新港橋梁」建造年:1912(大正元)年、設計者:大蔵省臨時建築部新港橋梁から「赤レンガ倉庫」赤レンガ倉庫海外の飲料品、土産物店が出店していたクリスマスツリーも飾られていたロシアのマトリョーシカ綺麗に並べてレストラン内にはワイングラスを積み上げていた左:横浜ランドマークタワー右:ヨコハマ グランド インターコンチネンタル ホテル海上保安資料館横浜館(北朝鮮工作船展示)入館は無料、館内は撮影禁止。館内には、北朝鮮の不審船の実物が展示されており、没収した装備(無線機、北朝鮮のバッジなど)、武器等が展示されていた旧横浜港駅プラットホーム(旅客昇降場)「横浜港駅」は、明治44年(1911)横浜税関構内の荷扱所としてつくられ、大正9年(1920)7月23日、「横浜港駅」となり、東京駅から初の汽船連絡列車が乗り入れました。列車はその後、「岸壁列車」などと呼ばれて親しまれました。関東大震災の復興期、昭和3年(1928)当時の花形外航ターミナルにそって旧「横浜港駅」の「プラットホーム」が設けられ、華やかな海外航路時代の最盛期を迎えました。「赤れんがパーク」の休憩所として保存再利用にあたり、傷んでいた上屋は新材料で復元していますプラットホームから赤レンガ倉庫12:31右は「横浜海上防災基地」左の碑:第2次世界大戦後の多くの日本人を救った「ララ」物資右の碑:香淳皇后 御歌 「ララの品つまれたる見て とっ国のあつき心に 涙こほしつ あたたかきとつ国人の 心つくし ゆめなわすれそ時 へぬとも」上記歌は、昭和24年10月19日に昭和天皇と香淳皇后が横浜の「ララ」倉庫に行幸になられた時に詠まれたものである『第2次世界大戦後の多くの日本人を救った「ララ」物資』第2次世界大戦終戦直後の混乱期、日本は衣食住すべてに不自由していた。こうした中、全米の各宗教団体を中心とする海外事業運営篤志団アメリカ協議会は、特に日本をはじめアジア諸国の救済事業を行うために『アジア救援公認団体』を設置し、ミルク類、穀物、缶詰類、油類等の食料をはじめ、衣類、医薬品、靴、石鹸、裁縫材料などの消費物質のほか、乳牛や山羊などを送り、多くの日本人を救った。この物資の送り出しにあたっては、当時の在米邦人組織の方々の多大な尽力もあったと伝えられる。昭和21年11月30日に「ララ」を積んだ第1船が、横浜新港埠頭に着岸し、以後昭和27年6月までの6年間送られ続けた着岸している「青雲丸(SEIUN MARU)」青雲丸は、独立行政法人海技教育機構が保有する航海練習船。進水:1997年3月4日、全長:116m、トン数:1,767トン(純トン)船種:フェリー、建造所:住友重機械工業 横須賀造船所(1220番船)新港埠頭8番バースと「新港埠頭 ハンマーヘッドクレーン」横浜海上防災基地の青雲丸横浜海上防災基地には他の船も着岸手前は「新港ふ頭客船ターミナル」12:36新港ふ頭客船ターミナルのSHOP&RESTAURANT所在地:神奈川県横浜市中区新港2-5-1複合施設「横浜ハンマーヘッド」内に開設された『新港ふ頭客船ターミナル』レストラン麺 麺 麺 麺 麺 麺 麺 麺 麺 麺 麺 麺 の看板いろんなラーメン店があるJAPAN RAMEN FOOD HALL12時も過ぎお腹が空いたので、ラーメンを食べることにメニューとチケット販売機左にチケット販売機があるが、新しいターミナルだけに日本語、英語、中国語で対応。この新しい販売機には、田舎者で高齢者の私には対応できなく店員に尋ねるが、この人も外国人であったが日本語で対応してくれたのであった醤油ラーメンをオーダー。スープにこくがあり美味しかった!昼食を終え、ターミナルの2階へ上がる横浜ハンマーヘッドまだ工事をしているが?新港ふ頭客船ターミナルの2階デッキ垂れ幕は、2020年 OPEN 『HAMMER HEAD PARK』とある臨港パーク方面横浜海上防災基地、後方に横浜ベイブリッジ横浜ランドマークタワー、右:ヨコハマ グランド インターコンチネンタル ホテルクルーズ船の乗客用通路2019年11月4日には第1号入港船として、カーニバル・コーポレーションの「ダイヤモンド・プリンセス」が入港した。ダイヤモンド・プリンセスは、今後ファンネル(煙突)を変更しベイブリッジ下部を通るのが困難となるため、2020年より橋外側の大黒埠頭に停泊するという情報もあり、第1号入港がこのターミナルにおいて最初で最後の貴重な停泊となった可能性もあるここから見える夜景もビューポイントヨコハマ グランド インターコンチネンタル ホテルヨットの帆をイメージした外観の、港を一望する洗練されたシティホテル。クラブフロアの客室や和室のスイートなども揃える。全室禁煙の五つ星ホテル再度一階に降りレストランエリア店内に設備があったが地ビール?13:20新港ふ頭客船ターミナルを後にして、JR桜木町方面へ向かう 山下公園からJR桜木町駅ー続く
2020.01.15
コメント(0)

三渓園の散策後、山下公園前のイチョウ並木がきれいとのことでバスで移動。12/6(金) 11:18横浜市「中部水再生センター」前を通過11:27バスを下車して、山下橋東交差点へ高架橋は「首都高速神奈川3号狩場線」、いつもここを走っている山下橋東交差点から、山下公園通りへ道路標識私にとって久しぶりの山下公園へ元町・中華街駅(みなとみらい線) 250m 方面上の高架橋は、「首都高速神奈川3号狩場線」11:31山下公園通りのイチョウ並木大阪の御堂筋線もよく見たがここも素晴らしい横浜マリンタワー。横浜開港100周年の記念事業として、昭和36年(1961)に建設された横浜のシンボル。当時は日本で一番高い灯台として、長く横浜の港を見守ってきた。高さ106m、2層の展望フロア、360度の大パノラマから見える夜景は必見としかし現在は、2019年3月31日から改修工事に伴う工事で全館一時休館。営業再開は2022年4月以降を予定と山下ポンプ場この公園の下には、山下ポンプ場があります。山下ポンプ場は関内地区、山下地区などの浸水防止を目的とした雨水排水ポンプ場で、1987年に建設され、毎秒11.7m3の排水能力を持っております山下公園通りのイチョウ並木山下公園所在地:神奈川県横浜市中区山下町279開 園:昭和5年(1930)3月15日 駐車場:有料(500台)面積は、74,121㎡関東大震災のがれきを埋め立てて造られました世界の広場のメタセコイア世界の広場からの山下公園世界の広場を見上げる横浜市の散水車横浜マリンタワー横浜港観光船のマリンシャフトシーバス乗り場日本郵船氷川丸氷川丸は「北太平洋の女王」と呼ばれたかつての大型客船。昭和5年から30年間就航し、チャップリンも乗船した日米友好ガールスカウトの像未来のバラ園2016年の再整備により、約190種・2,650株のバラ園となったアンブリッジ ローズ1990年 イギリス、いい香りがしていたかもめの水兵さんの歌碑山下公園内水の守護神水の守護神サンディエゴ市民より横濱市民に寄贈 1960年5月左側のマークは両市の姉妹市としての友好関係を表徴する後方に「HOTEL NEW GRAND」開業は昭和2年で、横浜・山下公園前に立つ日本のホテル史と共に歩んできた由緒あるホテル。本館にある「レイボーボールルーム」「フェニックスルーム」は開業当時の趣を残す日本でも有数のクラシカルな会場。近辺には中華街、元町等があり、観光やショッピングの拠点としても便利日本郵船氷川丸アールデコ様式の一等食堂や、一等喫煙室、一等特別室など客室を見学できるほか、プロムナードデッキからは、横浜港の風景を楽しめる。2003年に横浜市指定有形文化財に指定された桜木町方向と横浜港大さん橋右は横浜港大さん橋の税関?赤い靴はいていた女の子像横浜といえば「赤い靴」を連想する方が多い。現に横浜土産にも赤い靴をデザインしたものが多い。野口雨情の詩になる童謡「赤い靴」をはいていた女の子にはモデルが存在した。明治37年(1904)に静岡市清水区に生まれた「岩崎きみ」・・・・・・。・・・・・、現在この「きみ」にゆかりの地にあわせて4つの像が建えられている。 ①静岡市の「日本平」 ②北海道虻田郡留寿都村 ③北海道小樽市 ④東京都麻布十番 ⑤山下公園叶わなかったアメリカでの暮らしを夢みて遠く海を見つめるように銅像が昭和54年(1979)に建てられた潮位標尺について海面の変動を身近に感じられるように、標尺(ものさし)を設置している潮位標尺と横浜ベイブリッジインド水塔インド水塔関東大震災の際に、横浜市がインド商人をはじめとする外国商人の救済措置を積極的に講じた返礼として、インド商組合から寄贈されたものです。華麗なモザイク模様のドームのイスラーム建築をはじめ、その意匠は様々な要素がたくさん組み合わされています11:53山下公園通りへ出る産業貿易センター前山下公園通りの歩道のタイル9種類のタイルが貼られている右に入ると「大さん橋」 300m直進すると「赤レンガ倉庫」 700mバスは「あかいくつ」開港広場前交差点から「大桟橋通り」11:58右の高架は「山下臨港線プロムナード」この後、赤レンガ倉庫から日本丸、JR桜木町駅へ向かう。 山下公園からJR桜木町駅へー続く
2020.01.14
コメント(0)

三渓園の外苑エリアを散策。10:33旧矢箆原家住宅(きゅうやのはらけじゅうたく)この建物はもと岐阜県大野郡荘川村岩瀬(白川郷)にありました。江戸時代宝暦年間(1751~1764)飛騨三長者の一人といわれた岩瀬の矢箆原佐助の家として飛騨高山の大工によって建てられたと伝えられています。御母衣ダムの建設によって湖底に沈む運命になりましたので、所有者矢箆原家から三渓園に寄贈され、昭和35年(1960)移築されましたこの建物の特徴は、左半分が式台付玄関をもつ書院造り、右半分が普通農家の造りで、左右で全く異なる形式構造をもっていることです。これは上流農家の平面を示しています。屋根は入母屋造りで、火灯窓が珍らしく、この家の格式の高さを物語っていますー 三渓園 昔むかし ー六角堂(ろっかくどう)正式には ”望仙亭” と称されたあずまやで、海や庭園内が見渡せるよう、この付近の高台に建てられていた。その形状と崖上に立つ姿は、中国の山水画を思わせる風情である。当時園内には、このほか2ヵ所に同様の建物があったが、いずれも現存していない旧東慶寺仏殿(きゅうとうけいじぶつでん)建築年:江戸時代 寛永11年(1634)、移築年:明治40年(1907)縁切寺の名で知られる鎌倉・東慶寺にあった禅宗様の仏堂旧東慶寺仏殿(重要文化財)この建物は、室町時代永正6年(1509)直後に再建された鎌倉東慶寺の仏殿です。明治40年(1907)三渓園に移築されました。東慶寺は弘安8年(1285)北条時宗の妻覚山尼が創建した寺院で駆込寺あるいは縁切寺として有名でした正面からの『旧東慶寺仏殿』寒霞橋と横笛庵横笛庵(よこぶえあん)建築年:明治41年(1908)、田舎家風草庵奈良・法華寺からの移築ともいわれるが、詳細は不明振り返り紅葉の木々の中に『旧東慶寺仏殿』モデルさんか撮影会?10:37前撮り写真か?、花嫁と花婿が見つめ合いカメラマンにポーズを言われて。結婚指輪を渡すシーンか、それとも・・・・・集中豪雨になるとこの『寒霞橋』もどうなるのか寒霞橋をズームアップ10:39お休み処の『待春軒』待春軒のメニュー三渓園創始者の原三渓が考案した『三渓麺(さんけいそば)』 850円が美味しそうだった三渓そば とは三渓園の創設者、原三渓が考案した伝統の味で「おつゆ」のない麺になっていると黄色のツワブキとのコラボズームアップ10:41旧燈明寺本堂(きゅうとうみょうじほんどう)建築年:室町時代 康正3年(1457)、移築年:昭和62年(1987)三重塔と同じ、京都・燈明寺から移築した旧燈明寺本堂(重要文化財)燈明寺は現在廃寺となっていますが、近年まで京都府相楽郡加茂町に所在した日蓮宗の寺院です。寺伝によりますと聖武天皇の勅願によって天平7年(735)に開創されたといわれています。この建物は、様式上、室町時代初期に建てられたものと推定されます。昭和22年の台風で被害を受けた後、解体し保存されていましたが、昭和62年(1987)に三渓園に移築されました方向を変えて大池の観心橋淡墨桜散りぎわに淡い墨色を帯びることから、淡墨桜といわれる。国指定天然記念物である岐阜県根尾村淡墨桜の種子から育てた苗木を植樹した。写真は、継體天皇のお手植えともいわれる10:43旧燈明寺三重塔サクラの時期には、桜とのコラボも良いのでは三渓園天満宮この天満宮はもと間門天神といい、三渓園にほど近い間門の旧家高梨家の先祖が本牧の丘の中腹に建てたものです。昭和52年(1977)三渓園に移されました10:45大池の観心橋の上でも前撮り。カメラマンが花嫁の衣装を整えていた花嫁&花婿にスタッフが数名ー 三渓園 昔むかし ー楠公社と観心橋楠公とは、南北朝時代の武将・楠木 正成のこと。社殿の建物は、もと大阪・観心寺にあったもので、楠木正成が建武元年(1334)に建立、自らの守護神・牛頭明王を祀ったと伝えられた。三渓園へ移築後は、高村光雲門下の彫刻家・米原雲海作の楠公の木彫像が安置されていたが、空襲の爆撃により社殿と楠公像はともに失われた。現在の天満宮の鳥居脇にある首の欠け落ちた狛犬は、楠公社があった頃からのもので空襲による破壊の痕が生々しく残されている。手前にかかる橋は観心橋で、その名は楠公社の由緒(観心寺)による観心橋を渡り『旧燈明寺三重塔』観心橋の上での前撮り、後方に『三渓園天満宮』10:48正門へ向かうがまた別のカップルが。少々肌寒い感があったが正門近くの藤棚藤棚の下に入り、三渓記念館方向今日は前撮り写真で何組と出会ったか、5組はいたであろうか。前撮りは受付でチェックし、首から札をぶら下げていた撮影を終えたのか10:55三渓園正門門柱の建築年は明治39年(1906)で、開園時には三渓自筆による「遊覧御随意三渓園」の表札が掲げられました。9時前に入ったので丁度2時間の散策で、6,000歩であった。この時間になると多くの観光客が。三渓園は四季折々楽しめるので、次回は天気がよい時に訪れたいものですみなと横浜回廊マップこの時間になると土産物店もオープン。朝下車したバス停へ向かう10:59バス停への途中にある『亀の子石』亀の子石の由来は大昔のこと、漁師の網にかかった大亀がそのまま石に化したのだと伝えられている。いつの頃からかこの亀の子石はのどを守る神、特に百日咳に効験ありとして信仰され、百日咳などを患うと、この神様からたわしを借りてのどをこすり、また小児の食した茶碗をこのたわしで洗うと不思議に咳が治るといわれている。三七の結願で治ると亀の子たわしを倍にして返礼する習わしがある道路側からの『亀の子石』横浜駅・桜木町駅方面バスのりば11:03バス便も多く便利三渓園の散策を終へ山下公園前のイチョウ並木へ行くことに。 三渓園ーEND
2020.01.13
コメント(0)

三渓園の内苑エリアから外苑エリアへ散策を継続。外苑エリア:明治39年(1906)、一般に向けて公開されたエリア。京都・燈明寺から移された室町時代の建築・三重塔がランドマークと配され、ウメ・サクラ・ハナショウブ・ハスなど、四季折々の花を中心に楽しめる。9:49蓮華院(れんげいん)建築年:大正6年(1917)三渓の構想による茶室蓮華院この建物は、原三渓が大正6年(1917)に建てたもので、六畳と二畳中板の茶室があります。土間と壁には宇治平等院鳳凰堂に使われていた太い円柱と格子があります旧天瑞寺寿塔覆堂竹林、春先には竹の子9:52海岸門(かいがんもん)を出る。建築年:江戸時代、移築年:大正時代御門と同じ、京都・西方寺にあったもの。ここから外が外苑エリアになる松風閣(展望台)・三重塔へ坂を登る坂道を登り展望台へ。 ー 三渓園 昔むかし ー左:御谷館(おやつかん)御谷館は、もと鎌倉・鶴岡八幡宮境内に併存していた神宮寺の僧房であったといわれる建物。明治41年(1908)に移築され、来園者の休憩用に当てられたようであるが、詳しくは不明。大正4年(1915)に焼失した。右:造成中の内苑(大正10年頃)当時一般に公開されていたのは、現在の外苑部分で、内苑は原家のプライベート・エリアであった。写真では公開部分との境に仮設の塀が設けられ、その向こうに資材置場であろうか、簡易な建物が見える。土塁を経て中央の臨春閣から上方にのびる瓦屋根は、源頼朝の木像(現在は東京国立博物館所蔵・重要文化財)を安置した源公堂と、月華殿までの石段上に設けられた回廊の姿である。いずれも戦時中に取り払われ、現存しない 9:57緩い坂を上り終えると、建物の残骸が。松風閣跡地ー 三渓園 昔むかし ー松風閣(しょうふうかく)初代・善三郎が別荘として明治20年頃に築造した建物で、その名称は伊藤博文によるものである。写真はレンガ造の玄関部分で、窓などに中国風の意匠が見られる。断崖に立ち東京湾の絶景を望むことができる松風閣は、三渓の代となり本邸・鶴翔閣が建てられると、重要な客をもてなす、いわゆるゲストハウスとして増築がなされた。大正5年(1916)には、アジア人初のノーベル賞受賞者であったインドの詩人・思想家のラビンドラナート・タゴールがアメリカへの講演旅行の途中、ここに数か月間滞在し、詩「さまよえる鳥」をのこしている。またその一室 ”観山の間” には三渓が支援した中で最も好んだ日本画家・下村観山が描いた「四季草花図」の障壁画があったが大正12年(1923)の関東大震災により建物とともに消失した9:58松風閣展望台へ登る。遠く富士山が顔を出していた石油タンクは『JXTGエネルギー 根岸製油所』ズームアップ雲の合間に雪を被った富士山が見えた東方向の、JXTGエネルギー 根岸製油所10:00再度西方向の富士山を望む10:04旧燈明寺三重塔(きゅうとうみょうじさんじゅうのとう)建築年:室町時代 康正3年(1457)、移築年:大正3年(1914)京都・木津川市の燈明寺(廃寺)にあった建物。現在、関東地方にある木造の塔では最古三渓園の海に面した高台にあり三重塔の高木が台風15号の被害で折れたりしていた旧燈明寺三重塔(重要文化財)この建物は、もと京都府相楽郡加茂町の燈明寺にあったものを大正3年(1914)三渓園に移築したものです。寺伝によりますと燈明寺は天平7年(735)聖武天皇の勅願によって建てられた寺院とされています。建物の様式などから、室町時代に建てられたものと推定されます旧燈明寺三重塔への途中に『出世観音』旧燈明寺三重塔から、大池、正門方向旧燈明寺三重塔からの下り坂の途中の木も倒木していた旧燈明寺本堂10:11ー 三渓園 昔むかし ー初音茶屋(はつねじゃや)開園当時、三渓園には誰もが自由に出入りできたばかりでなく、無料の湯茶サービスもあった。その場所の一つがこの初音茶屋である。中央の炉に煤竹の自在かぎで吊るされた真っ黒な鉄瓶には絶えず湯がたぎり、白湯に米・小麦粉を煎って香ばしくした香煎をいれたものや温かい麦茶がふるまわれたという。大正4年(1915)に三渓園を訪れた芥川龍之介は、友人であった三渓の長男への手紙にこの湯茶接待の印象を書き、”ひとはかり 浮く香煎や 白湯の秋” という句を詠んで締めくくっている。また、別の記録では、屋根を葛が一面に這いまわりその葛の端が六方の軒に垂れ下がっていたとあるが、写真はまさにその風情である現在の『初音茶屋』かつて三渓園を訪れたインドのノーベル賞文学者タゴールや芥川龍之介らによって書き記された茶屋。当時はいつでも麦茶がふるまわれたという林洞庵(りんどうあん)建築年:昭和45年(1970)宗徧流林洞会から寄贈された茶室林洞庵この書院は、昭和45年(1970)に宗徧流林洞会から寄贈された茶室です。屋内には流祖山田宗徧筆 ”林洞” の板額があります紅葉の外苑エリアを進む案内板は『寒月庵(かんげつあん)』だが建物は『林洞庵』奥に『横笛庵(よこぶえあん)』建築年:明治41年(1908)、田舎家風草庵奈良・法華寺からの移築ともいわれるが、詳細は不明10:13正面に『待春軒』道案内紅葉の中に『寒霞橋』ー 三渓園 昔むかし ー待春軒(たいしゅんけん)寒月庵と同じく、もと江戸の豪商 川村伝左衛門(迂叟)が所有していたもので、栃木県大嶹製糸場内から移された建物。場内にあった明治12年(1879)には、アメリカ合衆国第18代大統領を務めたユリシーズ・S・グラント(1822-1885)が日光滞在中のある日ここに遊び、昼食をとったという。三渓園に移築後、この建物には ”御やすみ、御茶御随意、待春軒” という案内書きがつけられ、初音茶屋と同じ湯茶の接待を行っていたほか、さらには句会・歌会や茶会などの席としても場所を提供していたようである奥に『旧矢箆原家住宅(きゅうやのはらけじゅうたく)』『旧矢箆原家住宅』(重要文化財)ー 三渓園 昔むかし ー月影の茶屋屋根は杉皮葺きであろうか、隣接した田舎家の風情にあわせた簡素な建物である。詳細は不明であるが、園遊会などの際に茶の接待などに用いられたものと考えられる。明治41(1908)の新聞(横浜貿易新報)記事によれば障子に "白露の里 月影の茶屋” と記されているとある。今ではこの月影の茶屋も田舎家もその姿はなくなってしまったが周辺の山里の風情は変わらずに漂っている旧矢箆原家住宅(合掌造り)建築年:江戸時代後期、移築年:昭和35年(1960)飛騨・白川郷にあった建物旧矢箆原家住宅の庭の隅に『茶筅塚(ちゃせんづか)』皆様は「茶筅」という道具を御存じでしょうか?茶道でお抹茶を点てるための茶道具なのですが、文京区にある大本山護国寺では、この茶筅を供養する行事が、毎年12月に開催されている。針供養や人形供養などは聴いたことがあるかも知れませんが、茶筅も供養されてきたことは、中々知られていないのでは?そういえば三渓園には、茶室が多く移築されておりそのゆえんか?10:16旧矢箆原家住宅外からは内部は見えないが、室内からは外が見える格子戸住居内は見学可能になっている。内部見学は、9:00 ~ 16:30囲炉裏別の間の囲炉裏は火をつけ煙を出していた昔のいろんな台所用品が保存されていたミズフネ(水舟)現在、旧矢箆原家住宅内部に展示している民具は、昭和35年の建物移築にあわせて、矢箆原家の資料とともに飛騨地方から収集されたものです。この水舟は、ブナの大木を二つ割りにして中をくりぬいた大型のもので、明治から大正時代にかけて、岐阜県大野郡朝日村(現・高山市)の工場でワラビ粉製造の際のデンプン沈殿用の水槽として使用されていたといわれている室内から外苑エリア旧矢箆原家住宅(接客空間)各部屋の説明欄間の木彫り一枚板から造り、釘は使用していないとボランティアの方から「この格子戸は外からは内側の部屋は見えません」と昔の杵・臼二階への階段から一階を見下ろすおばさんが床・手すりを拭いていたカイコの棚もあったまた、床・手すりが黒光りしていたおばさんの話では、一階の囲炉裏の煙が二階に立ち込め、これを拭くことにより黒光りしていると大きな木の屋根部分10:32軒先に柿の干し柿あと10日ぐらいで美味しくなるのであろう 三渓園ー続く
2020.01.12
コメント(0)

紅葉の三渓園の内苑エリアの散策に。内苑エリア 原家が私邸として使用したエリア。江戸時代初期に建てられた、雁行形に3棟が 連なる外観の臨春閣を中心に、古建築で構成された微細なつくりの庭が広がる。12/6(金) 9:22亭榭を渡り亭榭から特別公開の『聴秋閣(ちょうしゅうかく)』紅葉に囲まれた聴秋閣臨春閣(りんしゅんかく)建築年:江戸時代 慶安2年(1649)、移築年:大正6年(1917)紀州徳川家初代藩主の頼宣が、和歌山・紀ノ川沿いに建てた数寄屋風書院造りの別荘建築内部には、狩野派などの絵師による障壁画の複製(オリジナルは三渓記念館で保存・展示)や洗練されたデザインが各所にみられます上に上がれたのか?、庭先から見学天楽の間(TENGAKU-NO-MA)臨春閣の庭先から『亭榭』『旧天瑞寺寿塔覆堂』亭榭臨春閣から石段を登り『月華殿(げっかでん)』へ月華殿から『天授院(てんじゅいん)』天授院(重要文化財)建築年:江戸時代 慶安4年(1651)、移築年:大正5年(1916)鎌倉・建長寺近くの心平寺跡にあった禅宗様の地蔵堂の建物天授院この建物は、もと鎌倉心平寺(建長寺塔頭)の地蔵堂といわれています。大正5年(1916)に三渓園に移築され、原家ではこれを持仏堂として使っていました。昭和39年に解体修理を行い、その際慶安4年(1651)の墨書きが発見され、建立の年が明らかとなりました月華殿(重要文化財)建築年:江戸時代 慶長8年(1603)、移築年:大正7年(1918)京都・伏見城にあった、大名来城の際の控え所として使われたといわれる建物この建物は、徳川家康が慶長8年(1603)京都伏見城内に建て、諸大名伺候の際の控室に当てたものと伝えられています。その後、京都本山修験宗の三室戸寺金蔵院に移され、大正7年(1918)に三渓園に移築されました月華殿と金毛窟(きんもうくつ)金毛窟は、原三渓が大正7年(1918)に建てた一畳台目(1.8畳ほど)の茶室です。千利休が修造した京都大徳寺三門(金毛閣)の高欄の手すりを、この茶室の床柱に使っています。扁額は明治の数寄者・三井の益田純翁の書です9:30月華殿・天授院前からの見事な紅葉石段を下りながら見事な紅葉をズームアップ天授院を振り返る左に天授院、右に月華殿谷間にある天授院、月華殿9:32特別公開の古建築(重要文化財2棟)。いずれも江戸時代初期の建造物で、デザイン性に富み、色づく紅葉のなかでは一層の情趣を楽しめる。聴秋閣(ちょうしゅうかく)。建築年:江戸時代 元和9年(1623)、移築年:大正11年(1922)京都・二条城内にあったといわれる、徳川家光・春日局ゆかりの楼閣建築この建物は、元和9年(1623)徳川家光が将軍職受任のため上洛した折、京都二条城内に建てられ、のちに乳母の春日局が所持したといわれる建物ですが、江戸城にあったとの伝えもあり、確かな来歴は不明です。しかし、最近この建物が写されている、明治時代初期の稲葉家江戸屋敷の写真が発見されました。稲葉家は春日局の嫁ぎ先であることからも、聴秋閣の来歴の一部には信憑性がありそうです。三渓園には、大正11年(1922)に移築されました聴秋閣内部三つの屋根がバランスよくまとめられた外観の形状から、かつては "三笠閣” の名で呼ばれたこの建物は、内部にも変化に富んだデザインが見られます。特に注目されるのは正面入口の部分で、奥の畳の間より一段低くしたその床面には正方形の木製タイルをL字状に敷きつめ、天上の形もそれと呼応する意匠となっていますこのスペースは、池や川沿いの水辺から直接舟で乗りつける ”舟入の間” の趣向を採ったものともいわれ、この建物が庭園の一郭を飾るために建てられたものであったことがうかがえます聴秋閣の前を沢が流れるが最近の集中豪雨での被害は?聴秋閣の奥は遊歩道になっている特別公開で遊歩道(季節公開)へ遊歩道を登る遊歩道の最上部より『聴秋閣』を望む赤・黄色の紅葉に囲まれた聴秋閣紅葉とのコラボを楽しむ9:38聴秋閣越しに『旧燈明寺三重塔』三重塔をズームアップ逆光で晴天だとまた違う写真に遊歩道から降りる正面からの聴秋閣9:42聴秋閣前からの亭榭ススキが映える聴秋閣を振り返るズームアップ旧天瑞寺寿塔覆堂9:46特別公開の古建築(重要文化財2棟)の一つ『春草蘆(しゅんそうろ)』建築年:江戸時代 (小間)、広間部分は三渓園移築後に増設、移築年:大正11年(1922)。三畳台目(3.8畳ほど)の小間は織田信長の弟・有楽(うらく)の作といわれる茶室。右側にイチョウの木があるが先の台風15号で一部折れていた春草蘆と右にトイレ(使用加?)いずれも江戸時代初期の建造物で、デザイン性に富み、色づく紅葉のなかでは一層の情趣を楽しめる。春草蘆(しゅんそうろ)四畳に満たない小さな空間ながら、九つもの窓がリズミカルに配されているのがこの茶室のみどころ。窓から差し込む淡い光が、幾何学的な障子の桟のシルエットを際立たせ、モダンデザインのような印象さえ感じさせますまた、躙口の脇には刀掛けが設えられ、この春草蘆が武家にゆかりの茶室であったことを物語っていますトイレ?旧天瑞寺寿塔覆堂9:49古くは ”九窓亭” と呼ばれ、京都宇治の三室戸寺金蔵院にあったこの茶室は、桃山時代のものと推定される建築です。織田信長の弟・有楽の作ともいわれていますが、確証はありません。三室戸寺にあった当時は、伏見城の遺構と伝えられる客殿(園内の月華殿)に付属する茶室でしたが、原三渓は移築に際しこれを切り離し、あらたに広間を付け加えました。露地には、京都天竜寺旧蔵で南北朝時代の禅僧・夢窓疎石使用と伝えられる蹲(奥の蹲)や、東大寺旧蔵といわれる伽藍石(礎石)も配されています 三渓園ー続く
2020.01.11
コメント(0)

横浜で古都の風情の紅葉を愛でる『三渓園』。昨年の12月6日(金) 旅友Kさんと私にとって初めての『横浜の三渓園』を訪れた。11/23(土) ~ 12/8(日)まで『聴秋閣(ちょうしゅうかく)』『春草蘆(しゅんそうろ)』の2棟が特別公開されているとの情報もあり、紅葉とのコラボを楽しみにした。8:05朝7時過ぎに自宅を出て横浜駅へ。三渓園へのアクセスは ・横浜駅東口2番乗り場(市バス8・148系)35分、三渓園下車・徒歩5分 ・土・日・祝は、ぶらり三渓園BUSで45分、三渓園下車(駐車場内)徒歩すぐ横浜駅東口、横浜シティ・エアターミナル(YCAT)のバス案内所でもらった印刷物。窓口でバス乗り場を聞いたら即座に頂いた、皆さん尋ねるのだろう指定の乗り場へ乗車賃は前乗りで、一律220円。ぶらり三渓園BUSの案内も8:10通勤時間帯で通勤客が多く乗り降り。我々は最後部に乗車してしばしバスの車窓を楽しむ8:20JR桜木町駅近くのバス停よこはまコスモワールドの大観覧車8:22JR桜木町駅8:28文化遺産の『開港記念横浜開館』所在地:神奈川県横浜市中区本町1-68:31市街地の紅葉並木国道133号線を走り、ビルに映えるイチョウ並木8:32元町・中華街入口『中華街東門』8:49横浜本牧当たり8:52次は『三渓園入口』バスを降り、バス停の案内図三渓園まで300m住宅街を歩き横浜市のマンホール8:57予定の時間に『三渓園正門』へ到着。三渓園は東京ドーム約4個分(約17万5000平方メートル)の広さに三重塔など京都や鎌倉などから集められた17棟の歴史的建造物が点在する日本庭園。この時期、あざやかな紅葉と調和した景観は、横浜でありながら古都の風情を満喫させてくれるとチケット売り場の左側に駐車場があった。三渓園は、明治時代末から大正時代にかけて製糸・生糸貿易で財をなした横浜の実業家・原三渓(本名 富太郎)が、東京湾に面した”三之谷”と呼ばれる谷あいの地に造りあげた日本庭園である。明治39年(1906)に一般公開された外苑と、三渓が私邸としていた内苑の2つの庭園からなり、京都や鎌倉などから集められた17棟の歴史的建造物と四季折々の自然とがみごとに調和した景観が見どころとなっている入場料金、禁止事項、特別公開の案内。三渓は、芸術家や文学者などの文化人たちと広く交流したことでも知られ、三渓園は美術・文学・茶の湯など近代日本文化の一端を育んだ場所でもある。美術上・芸術上そして観賞上優れていることから、平成19年(2007)には国の名勝に指定され、庭園全域も文化財として位置づけられた園内の茶店の案内料金表一般:700円、シニア料金はなく少々割高。横浜市民は200円だが。交通費を払ってくる人を割引して歓迎してほしいものですネ!9:00チケットを見せて園内へ入る。所在地:神奈川県横浜市中区本牧三之谷58-1三渓園の案内図右回りに回り、2時間コースを歩くことに。三渓園の歴史。明治初年 ・原 善三郎(原家初代、三渓の義祖父)、後に三渓園となる一帯の土地を購入明治20年代 ・善三郎、山上に別荘 松風閣を建てる明治35年頃(1902) ・善三郎が死去し(明治32年)、この頃から三渓は庭園の造園に着手。住まいとして 鶴翔閣(かくしょうかく)を建て、三渓園の地を本宅とした。昭和14年(1939) ・三渓、死去昭和28年(1953) ・原家から財団法人三渓園保障勝会の管理となる園内案内図内苑エリア:原家が私邸として使用したエリア。江戸時代初期に建てられた、雁行形 に3棟が連なる外観の臨春閣を中心に、古建築で構成された微細なつくりの庭 が広がる。外苑エリア:明治39年(1906)、一般に向けて公開されたエリア。京都・燈明寺から 移された室町時代の建築・三重塔がランドマークと配され、ウメ・サクラ・ ハナショウブ・ハスなど、四季折々の花を中心に楽しめる大池と旧燈明寺三重塔蓮池と奥に睡蓮池が連なる手入れされた松曇天で写真が今一だが大池に鴨が泳ぐ小高い丘に『旧燈明寺三重塔』をズームアップ ー 三渓園 昔むかし ー明治末頃の園内現在では園のシンボルとなっている三重塔も、まだ移築される前の珍しい写真。園内には当初2,000本もの梅の木が東京・蒲田、川崎・小向(御幸)、横浜・杉田の梅林から移植されたが、数年後には暴風により破壊的な被害を受けた。次いで植えられたのが花菖蒲である。その数は、96種10万株であったといわれるが、これも海からの塩害により長くは定着しなかった ー 三渓園 昔むかし ー大正初期頃の園内現在と比較すると、もの足りないほどすっきりとした園内の景観である。主園路沿いに松の木が植えられたのは近年のことで、今では雑木となっている三重塔の山は往時黒松ばかりであった。『鶴翔閣(かくしょうかく)』(旧原家住宅・横浜市指定有形文化財)鶴翔閣(旧原家住宅)は原富太郎(三渓)が明治30年代に自宅として建てた住宅9:06鶴翔閣前の紅葉茅葺の鶴翔閣鶴翔閣内建築年:明治35年(1902)、平成12年(2000)修復。三渓が住まいとして建てた、延床面積950㎡の規模を誇る建築。三渓と交流のあった文化人や政財界人らが多く出入りした場所としても知られている。第二次世界大戦中に改築されたが、近年の復旧整備により創建当初の姿にもどされた。現在では、さまざまな利用に対応可能な貸出施設として活用されています紅葉の古建築公開重要文化財2棟 春草蘆・聴秋閣期間:11/23~12/8内苑エリアへ向かう ー 三渓園 昔むかし ー大正はじめ頃の御門内苑は、戦後に初めて一般公開されたエリアで、それまでは原家の私邸として、一般には立ち入れなかった。よって当時三渓園のみやげ物として売り出された絵はがきにも内苑の写真はほとんど見られない。御門は、当時 ”桃山御殿門” あるいは ”桃山御門” と呼ばれ、これは奥の臨春閣が豊臣秀吉築造の桃山建築・聚楽第の遺構とされていたことによる呼称であった。戦後、臨春閣は江戸初期に建てられた紀州徳川家の別荘 ”巌出御殿” と判明したため、”桃山御門” は ”御門” となった。写真には、現在ある脇のくぐり戸が見られず、また左に受付所のような建物が付設されている現在の『御門』御門(横浜市指定有形文化財)この門は、京都の西方寺に宝永5年(1708)頃造営され、大正初期に三渓園に移築されたものです。規模の大きい薬医門(本柱の後方に控室を建て、前へ桁を持ち出し、棟は本柱寄りにある門)の遺構として貴重なものです御門越しの紅葉白壁と紅葉9:13三渓記念館建築年:平成元年(1989)建築家・大江宏(1913~1989)の設計による展示施設。若き芸術家の支援や大震災後の横浜の復興など多方面にわたって尽力した三渓の業績やゆかりの資料・美術品などを紹介。茶席 ”望塔亭” 、ミュージアムショップも併設している茶席『望塔亭(ぼうとうてい)』三渓記念館ロビーにある茶席。気軽に本格的なお点前(立札スタイル)での抹茶が楽しめる(10:00~16:00)時間が早くオープン前の茶席右に『臨春閣』、最奥に『聴秋閣』『亭榭』と『聴秋閣』をズームアップ臨春閣(りんしゅんかく)建築年:江戸時代 慶安2年(1649)、移築年:大正6年(1917)紀州徳川家初代藩主の頼宣が和歌山・紀ノ川沿いに建てた数寄屋風書院造りの別荘建築。内部には、狩野派などの絵師による障壁画の複製(オリジナルは三渓記念館で保存・展示)や洗練されたデザインが各所にみられます池には大きな鯉が旧天瑞寺寿塔覆堂(きゅうてんずいじじゅとうおおいどう)建築年:桃山時代 天正19年(1591)、移築年:明治38年(1905)旧天瑞寺寿塔覆堂(重要文化財)寿塔とは長寿を祝って生存中に建てる墓のことです。豊臣秀吉は、その母大政所が大病にかかったとき、その平癒祈願のため京都大徳寺内に天瑞寺を建てました。功験あって平癒したのを喜び、母の長寿を祝って天正20年(1592)石造の寿塔を建てました。この建物はその寿塔の覆堂で、明治38年(1905)三渓園に移築されたものです。なお寿塔は現在大徳寺内、龍翔寺にあります9:22旧天瑞寺寿塔覆堂を振り返る 三渓園ー続く
2020.01.10
コメント(0)

復路の12位以下をアップします。往路ゴールでのトップとの時間差が10分以上のチームは一斉スタートになる。今年の一斉スタートは9チームであったので、これ以降の順位は通過順位である。1/3(金) 10:39白バイと運営管理車の間に選手が12位 拓殖大学拓殖大学 佐々木 虎太郎 選手(1年)往路成績は10位であったが12位に10:4013位 神奈川大学13位 神奈川大学 安田 響 選手(2年)運営管理車が数台現われる10:4114位 日本大学 若山 岳 選手(1年)この後、遊行寺では17位に後退10:413人の集団が15、16、17位先頭に、順天堂大学 西澤 侑真 選手(1年)16、17位中央大学:矢野 郁人 選手(3年)、国士舘大学:清水 悠雅 選手(1年)10:4118位 法政大学法政大学 中園 慎太朗 選手(1年)10:42二人の並走19位、OP日本体育大学:嶋野 太海 選手(3年)関東学生連合:大東文化大 吉井 龍太郎 選手(3年)20位 筑波大学10:44筑波大学 伊藤 太貴 選手(2年)首位が通過してから17分10:44「C」のパトカーが走り規制解除に10:46箱根方向の「菱沼海岸交差点」には多くの人が海岸or帰路に規制解除され交差点には上り方面の車が10:46バイクが猛スピードで10:49朝来る時、富士山が見えていたので海岸へ、江の島10:53昨年の台風19号で浸食された、菱沼海岸の遊歩道砂浜から江の島を烏帽子岩の廻りには釣り船烏帽子岩まで約1.4kmあるが近くに見える10:57砂浜を茅ヶ崎ヘッドランドへ向かう。正面は箱根の山、富士山は右方向に見えるがまだ水際には水鳥が砂浜から餌を11:00烏帽子岩の手前をパドルボートに乗る男性意外と早く進むパドルボート浸食被害を受けた遊歩道台風時には毎回浸食されて被害がでているので、抜本的な対策が望まれるのでは11:07茅ヶ崎海岸からの見事な富士山夕焼け、ダイヤモンド富士も遠く、茅ヶ崎漁港の「サザンビーチ」犬を連れての散歩の人が多い投げ釣りの人が多くいる場所江の島を望む遊歩道からの富士山11:19茅ヶ崎ヘッドランドにも多くの釣り人が11:23第一中学校入口交差点の歩道橋上からの箱根方面。先程この方向から選手が来た、この場所は撮影ポイントとして最高だが、撮影禁止になり利用できない夕焼け時も最高な場所である11:31ラチエン通りを帰る11:42JR東海道本線からの富士山異人館踏切東京駅から、57K061M 地点国道1号線の「松林中学校入口交差点」方向午後は自宅でテレビ観戦1/3(金) 復路の5区間109.6キロがあり、青山学院大学が10時間45分23秒の大会新記録で2年ぶり5度目の総合優勝を果たした。最終10区の湯原 慶吾 選手がゴールのテープ総合成績 上記時間はトップとの差です。 - 学生連合 11時間12分34秒19位 国士大 11時間13分33秒20位 筑波大 11時間16分13秒 トップとの差は、30分50秒でゴール。コンディションが良く、7区間で区間新記録が出た。最優秀選手(金栗四三杯)には、2区で区間新記録をマークした相沢 晃 選手(東洋大)来年もまた応援に来ることに。 箱根駅伝復路-END
2020.01.09
コメント(2)

復路は、1/3(金) 8:00 に芦ノ湖を東京大手町へ向けてスタート、青山学院大学が2年ぶりの総合優勝を目指す。今年は9チームが一斉スタート。今日も昨日に続いて自宅から自転車で海岸線のコースへ向かった。1/3(金) 9:45既に「東京国際大学」の応援団が沿道に集結菱沼海岸交差点から東側へ移動向かい側の下り線には応援者はなく茅ヶ崎のポイントからの茅ヶ崎ヘッドランド、江の島。下の歩道橋は「野球場前」。私のポイントは、ここから直進して左に曲がって進んだあたり9:54上り線は9:50から交通規制になり今日もらった応援用の旗10:07青は「技術総務車」何をするのか?10時を過ぎ交通規制で上り線は車はストップ。沿道には多くの応援者が菱沼海岸交差点をズームアップ10:10選手が近ずいていると『箱根駅伝』広報車が通過前の人が邪魔になるのでカーブ点を探したが10:18東方向の「小和田浜公園東側交差点」にも多くの人が。箱根駅伝のコースは、この交差点の先「浜須賀交差点」を斜め左に国道134号線から分かれて県道30号線を走り、旅友が待つ遊行寺の坂へ進む10:19赤い「広報車」10:22西の上空では報道ヘリコプター江の島上空辺りからの茅ヶ崎、富士山。茅ヶ崎ゴルフ俱楽部:9ホールのゴルフクラブであるパトカーが現われいよいよ先頭チームか?10:23パトカーから「後3分で選手が来ます」と10:26菱沼海岸交差点に車の集団日テレ「テレビ中継車」パトカーの後ろに選手が10:271位 青山学院大学 岩見 秀哉 選手(3年)4年生が頑張った青山学院大学運営管理車②には原監督が乗車車中の原監督を撮影したが、自分の姿が窓ガラスに映り原監督は撮れずラジオ放送車10:29テレビオートバイ 2台に囲まれ、2位 東海大学2位 東海大学 小松 陽平 選手(4年) 首位とのタイム差は約2分だが。小松選手は、昨年の最優秀選手(金栗四三杯)に選ばれたテレビ中継車を先頭に次のチームが10:31テレビ中継車の後方に3位 國學院大學 河東 寛大 選手(3年)國學院大學の運営管理車⑦が選手の後を追う10:334位 明治大学明治大学 櫛田 佳希 選手(1年)10:345位 東京国際大学 芳賀 宏太郎 選手(2年)2チームが現われる10:356位 駒澤大学 加藤 淳 選手(3年)7位 東洋大学10:35東洋大学 前田 義弘 選手(1年)運営管理車、目の前の通過が速いので助手席が撮影できず10:368位 帝京大学帝京大学 鳥飼 悠生 選手(3年)10:379位 早稲田大学10:379位 早稲田大学 太田 直希 選手(2年)10:38旗に隠れて、10位 中央学院大学10位 中央学院大学 藤井 雄大 選手(4年)10:3811位 創価大学創価大学 鈴木 大海 選手(3年) 箱根駅伝復路ー続く
2020.01.08
コメント(0)

往路の15位以下をアップします。1/2(木) 10:4915位 順天堂大学 橋本 龍一 選手(4年)テレビオートバイが2台で報道、順天堂大学の後方に16位のチーム藤沢橋では、順天堂大学と中央大学が並走していたが16位 中央大学 三浦 拓朗 選手(2年)いつの間にか、ワンちゃんも応援していた10:5017位 国士舘大学 長谷川 潤 選手(2年)ワンちゃんも身をのりだして応援左側の車は、ラジオ放送車18位 筑波大学 猿橋 拓己 選手(3年)26年ぶりに出場の筑波大10:51OP 関東学生連合 城西大学 菅原 伊織 選手(3年)昨年は、城西大学も出場していたがシード権がとれず10:5219位 神奈川大学 越川 堅太 選手(4年)左の車は「最後尾」とあるが神奈川大学は過去には完全優勝したことがあるが。この時は知り合いの息子さんがこの区間を走るとのことで初めて応援で沿道に立った10:5220位 法政大学 岡原 仁志 選手(4年)先頭が通過してから8分遅れであった。芦ノ湖のゴールでの時間差は、13分38秒になっていた10:53最後尾のパトカー10:55応援を終え海岸へ出る江の島を望む鵠沼海岸、江の島方向江の島、葉山方向烏帽子岩伊豆大島も見える茅ヶ崎ヘッドランド、今日も富士山は見えず昨年の台風19号で浸食された菱沼海岸遊歩道11:00「砂防柵を設置しています」天気は穏やかで風もなく砂浜では、孫 or 息子と遊ぶ砂浜には応援を終えた人が多く辻堂方向の浸食された現場11:22国道134号線の菱沼海岸交差点から烏帽子岩を11:26ラチエン通りにある「開高健記念館」「茅ヶ崎ゆかりの人物館」所在地:神奈川県茅ケ崎市東海岸南6-6-64開高健記念館開館日:毎週、金・土・日曜日の3日間と祝祭日、10時から17~18時観覧料:200円、駐車場有開高健記念館へのリンクは「開高健記念館」をクリック願います。11:40国道1号線(旧東海道)の「松林中学校入口交差点」の歩道橋上から京都方面松並木が残る正面松の上に富士山が見えるズームアップ旧東海道の松並木国道1号線(旧東海道)の「松林中学校入口交差点」ここから日本橋まで、約57km帰宅後テレビの放送を見たが、往路の結果は(テレビ画面より)。スタート前から今日はコンデションが良く新記録が出るであろうとの予想をしていたが、上位4位までが往路新記録。13位以降は一斉スタート区間賞東洋大学は区間賞を2名が取ったが順位は11位と低迷12:00自宅へ帰り庭に咲く花を撮影パンジービオラアロエの花 箱根駅伝往路ーEND
2020.01.07
コメント(0)

今年の『第96回東京箱根間往復大学駅伝競走』は令和最初の大会。2連覇を狙う東海大は戦力が充実し、優勝候補の本命。前回5連覇を逃した青学大、11年連続3位以内の東洋大も安定感が光る。10月の出雲を制した国学院大や大型ルーキーを擁する駒大も勢いがあり。この「五強」を中心に激戦が予想されるとの新聞情報。10:30頃から交通規制になるので、自宅を10時前に出て自転車で海岸へ向かう。2020/1/2(木) 10:15国道134号線の菱沼海岸交差点交差点では係員が応援用の旗を配っていたので二本もらう国道134号線の交通規制:1月2日・3日湘南海岸の茅ヶ崎辺りは、往路は3区、復路は8区の区間で、戸塚中継所から平塚中継所までの、21.4kmを走る海岸から、江の島を望む昨年の台風19号で「菱沼海岸」は浸食され、またまた通行止めになっていた沿道には既に、創価大学の応援団ののぼり10:30国道134号線の下り線は既に通行止めに、白バイが確認のために通過パトカーが見えてきた。上空には報道用のヘリコプターが飛び下り線は通行止めに先導の白バイ今年は風もなくコンデションが良いので記録が出るのではとテレビで放送10:39パトカーの運転手は婦警であったが、「規」の銘板がはられていたが豊田ナンバーの「広報車」とあるが「大会会長車」茅ヶ崎市白浜町の上り線側の歩道。この辺りは応援者も少なく撮影しやすかった、明日の復路もこの辺りで撮影予定パトカーを先頭に、次いでテレブ中継車10:44先頭チームが現われる1位 東京国際大学 留学生のY.ヴィンセント 選手(1年)藤沢橋辺りでは6位であったが1位に。数十メートル後を2位チームが追う驚異の区間新で快走を見せたY.ヴィンセント 選手10:442位 青山学院大学 鈴木 塁人 選手(4年)東京国際大学に抜かれて2位に東京国際大学のヴィンセント選手に先頭を譲ったが安定した走りで2位をキープ10:453位 國學院大學 青木 祐人 選手(4年)3位をキープカメラの前を一瞬に走り去る10:452チームが並走してくる4位、5位 東海大学、帝京大学東海大学:西川 雄一朗 選手(4年)、帝京大学:遠藤 大地 選手(2年)10:456位 早稲田大学 井川 龍人 選手(1年)藤沢橋での2位から6位に順位を下げていた脚も上がり快走しているが10:46上空には中継用のヘリコプター10:46テレビ中継車10:46二人の選手が並走してくる7位、8位 創価大学:原富 慶季 選手(3年)、東洋大学:吉川 洋次 選手(3年)二人を追う次のチームは10:469位 駒澤大学 田澤 廉 選手(1年)藤沢橋の12位から9位に押し上げていた10:47また二人の選手が現われる10位、11位 拓殖大学:赤﨑 暁 選手(4年)、明治大学:手嶋 杏丞 選手(2年)藤沢橋から並走している運営管理車⑭「明治大学」助手席には監督が乗車してマイクで激励10:4712位 中央学院大学9位から12位に順位を下げ10:4813位 日本体育大学 亀田 優太朗 選手(3年)13位をキープ10:4814位 日本大学 樋口 翔太 選手(1年)14位をキープ 箱根駅伝往路-続く
2020.01.06
コメント(3)

正月元旦の天気は良いとの天気予報で、初日の出を期待して海岸へ。6時15分に家を出、ラチエン通りを自転車で南下、多くの人が向かっていたが東の空は厚い雲が。6:37国道134号線の「菱沼海岸交差点」多くの人が初日の出を期待して交差点手前には明日からの交通規制が茅ヶ崎市東海岸茅ヶ崎ヘッドランド東側の遊歩道(ゴルフ場入口)には、既に多くの人が6:40江の島、三浦半島を見るが雲が多く初日の出は駄目か?茅ヶ崎ヘッドランド茅ヶ崎海岸と茅ヶ崎ヘッドランドは、茅ヶ崎港の東側に位置する砂浜の釣り場です。ここの釣り場では、投げ釣りでのシロギス釣りがメインですが、茅ヶ崎ヘッドランドの先端からはサバやソウダガツオといった青物やクロダイ、アオリイカを釣ることも出来ると。夏場には海水浴もできる遊歩道から海岸へ下りる6:42伊豆大島、茅ヶ崎市のシンボル烏帽子岩6:43富士山も少し見えるが雲茅ヶ崎ヘッドランドにも多くの人が、釣り人もサーファーも海の中から初日の出にお祈りか6:45辻堂海岸方向日の出の時間は6:54頃?6:47日の出の時間が近くなるが今日は駄目!風がなく穏やかな海6:52房総半島の鋸山(海抜329m)6:55富士山は色ずいているが6:58烏帽子岩:正式名称は「姥島(うばじま)」茅ヶ崎海岸の沖合約1.4kmにあり、烏帽子岩の高さは14.615mで、東西約600m、南北約400mにわたる複数の岩からなり、高低の岩が海中にも存在する。凝灰質砂岩を主とする新第三紀の池子層からなり最大の岩礁は烏帽子の形をしているため、一般に烏帽子岩(えぼしいわ)とも呼ばれている。茅ヶ崎漁港から釣り人用に渡し船が出ている日の出が出ると烏帽子岩の先が赤くなるのだが。その様はスイスのマッターホルンに似ているが。加山雄三も少年の頃泳いで渡ったと6:58日の出の時間になり多くの市民が毎年数千人の市民が初日の出を見に来ると7:00サーファーも海の中で待つが真鶴半島方向の空も雲が厚い7:04既に太陽は昇っているのであろう波に乗り7:05雲の上が明るくなる既に太陽は雲の中に上がっているが7:07雲のすき間から光が三浦半島7:08房総半島でも初日の出は駄目?旅友も鵠沼海岸へ出かけているが「ダメ」とのメールが届く(7:09)7:10雲のすき間から後光多くのサーファーも海の中から7:14富士山も見えずあきらめて遊歩道へ上がる若い女の子が砂浜でカップヌードルのそばをおいしそうに食べていたが、お湯は持参したのか7:15海岸から遊歩道へ上がり既に太陽は7:16茅ヶ崎ヘッドランドにはまだ多くの人が風もなく穏やかであったのが救い7:18昨年の台風19号被害で立入禁止に、この辺りはたびたび被害を受けている7:20菱沼海岸交差点から、ラチエン通り菱沼海岸交差点か辺りは、茅ヶ崎市東海岸砂防ネットの間から「烏帽子岩」近くに見えるが、約1.4kmもあるのだ7:21国道134号線の江の島方向明日は、第96回箱根駅伝がある明日も箱根駅伝の取材で再度来ることに。 END
2020.01.05
コメント(0)

八日目:10/31(木)ルーマニアのブカレスト空港から、カタールのドーハ空港へ向かう。利用便は、23:30発 カタール航空 QR0220便。予定通り、23:30にブカレスト空港を離陸。10/31(木) 0:50利用便の機種はエアバス A-320。離陸し、1時間を過ぎて機内食がでる2:08トルコ上空だが市街地の照明がくっきりと飛行ルート2:12飛行ルートは、ルーマニア・ブカレスト ➡ 黒海 ➡ トルコ ➡ イラン ➡ カタールシリアの、Aleppo(アレッポ)2:23イラン上空へ 2:41イラン上空2:55イラン上空2:57イランの、Shiraz(シーラーズ)2:59イランの海岸線か3:37ドーハ上空へ3:46ドーハの街灯かり3:51ブタペストからドーハまで約4.5時間の飛行で、早朝のドーハ空港へ到着4:36ドーハ国際空港ではトランジットゲートに向かう。空港ターミナル内には人気者の巨大な黄色のクマ。もう何回目の出合いか案内板には『LampBear by Urs Fischer』と書かれていた。『LampBear 』は頭にLamp の如きものを被っているから?このクマは、ニューヨークを拠点とするアーティスト、ウルフ・フィッシャー氏の「無題(ランプ/クマ)」という作品とラウンジの中央近くでは新車が2台販売展示されていたポルシェ・Panamera Turbo SE-Hybrid Exective。8気筒、4000ccで3000万円以上の高級車一度は乗ってみたい高級車『ポルシェ』ASTON MARTIN(アストンマーティン社)DB11 COUPE値段は、2,363万円からASTON MARTIN社 の 『DB11 COUPE』赤いバイクは、DUCATIのスポーツバイク。ASTON MARTINイギリスの自動車メーカードーハ国際空港は世界でも有数のハブ空港でもあり、この日の早朝も多くの利用客で混み合っていた。搭乗ゲートBゾーンに向かって進む4:45B8 ゲートに向かって進む4:52搭乗ゲート搭乗ゲートB8でボーディング開始を待つ4:54定刻の7:00に飛び立つが、席を通路側に求めたのでしばし休養。往路は成田空港からであったが復路は羽田空港へ到着で、この様なケースは初めて。使用機材は、A350-10007:24(日本時間14:24)最初の食事の朝食が出る、ライスがあったが朝食メニュー朝食後は通路側を希望したので、睡眠剤を飲みしばし寝る20:09(日本時間)時間を7時間進め日本時間に変更。羽田空港まで後2時間42分20:11飛行ルートでは北京上空20:25二度目の食事。羽田空港からの運転があるのでビールは飲めずジュースをメインミール21:15韓国上空へ21:18韓国仁川空港辺りから羽田空港まで後、1時間34分。到着予定は、22時55分21:19ソウル上空22:22到着まで後29分22:32相模湾上空へ22:32画面には、Hiratsuka、Chigasaki、Fujisawa22:38伊豆大島上空から房総半島上空へ22:45カタールドーハ空港から9時間半で到着。飛行は予定通りであったが羽田空港での手荷物の出が遅くなり、ツアー仲間、添乗員と別れを告げ、早々に羽田空港到着ロビーへ。旅友女性二人とはここで別れる。23:59我々は車を預けている『サンパーキング』へ連絡、迎えのマイクロバスへ乗る夜も遅く迎えのマイクロバスには我々二人だけ0:00マイクロバス車内には、『回送サービス』成田 ⇔ 羽田間のマイカー回送なら実績豊富なサンパーキングにお任せ!!通常価格は、13,000円。今だけ特別価格 9,900円。今回我々は、マイカーを羽田に預けリムジンバス利用で、3,200円だったので正解11/1(金) 0:15サンパーキング浮島から帰路に着く駐車場からのコンビナート夜景この後、いつものように湾岸道路、横浜新道を走り旅友宅へ立ち寄り自宅へ帰る。深夜のため渋滞もなく順調に走り我が家には、1:13に到着。今回の旅を終え、ブルガリアの旅は天気も快晴で最高であった。ルーマニアの旅は、天気も曇天で首都であるブカレストの観光は雨で夕刻であったので心残りとなった。今回訪れた二国は、今まで国の名前は知ってはいたが世界史の不勉強で知らなかったことが多く知識を広げた感大であった。世界遺産は、ブルガリア4+ルーマニア1の5ヶ所訪問。カタールでのトランジットの旅は移動が長く大変だ!されど年3回を目指す海外旅行のツアー金額の安さは魅力だ! ルーマニア・ブルガリアの旅-END
2020.01.04
コメント(0)

七日目:10/30(水)ペレシュ城の散策後は昼食会場へ。レストランには阪急トラピックスの別のグループが先に昼食。13:37昼食のレストランへ予約時間が決まっており、しばし小雨の中待機13:43インテリアがモミの木で作られたというレストランで昼食。小学生たちも食事。今回がツアーで出る最後の食事サラダには塩気の多いチーズがかかっていたブルガリア、ルーマニア共に食事時のパンが美味しかった阪急トラピックスからサービスでワインが一杯出る。旅友のUちゃんのワインもご馳走になったメインの「魚のフライとポテト」14:25デザートのケーキ15:00昼食を終え、バスの待つ場所まで徒歩で下る。 正面に四ツ星のホテル『Vilele Lucia』15:01観光バス待機エリア。バスに乗り込み約126km先のルーマニアの首都ブカレストに向かう15:131号線に合流し南下する15:47田園風景の1号線(E60)を一路ブカレストへ向けて走る発泡ゴム製造業者「MICHELIN」15:491号線(E60)沿いに建つ、小さな正教会「Maicii Domnului」15:50車窓の右手に見えたのが原油を採掘する油井であろうか。 ポンプジャック、ビームポンプであろうか? ルーマニアは、石油産出国であり、石油採掘の歴史も深い。早くも1691年にはこの場所から15km程のモレニ油田で最初の原油の採掘が始まったのだと ネット情報から16:00DN1号線(E60)を進みトイレ休憩でガソリンスタンドへガソリンスタンド内のコンビニへガソリンスタンド新規オープンしたばかりなのか、コンビニ店内は綺麗お土産に蜂蜜、コーヒーを追加で購入16:35ここからカメラは、CANON から SONY に換えて撮影。田園風景の中のパイプライン16:36火力発電車窓右手に、石油精製所『OMV Petrom S.A.』が現れた。『OMV Petrom S.A.』は、オーストリアのOMVが管理するルーマニアの総合石油会社。ルーマニア最大の企業の1つであり、南東ヨーロッパ最大の石油およびガス生産会社。2004年以来、OMVの子会社となっている。このあと陽も落ち疲れから熟睡、他の仲間も17:22雨のブカレスト市内へ入り渋滞がはじまる高さ137mでブカレストで一番高いビル17:23ビルには「vodafone」「HUAWEI」のネオンサイン17:46道路標記ここまでの渋滞がひどかった18:17雨がかなり激しく降っている中『勝利広場 Victoria Palace』付近18:17ピアツァ勝利広場(Piața Victoriei square)』。ピアツァ勝利広場はブカレスト中心部にある「大通り」が交差する、主要な高層オフィスビルと政府ビルディングが建つ主要な交差点の一つ。1989年のニコラエ・チャウシェスクの独裁政権が「ルーマニア革命」によって打倒された際には、ニコラエ・チャウシェスク夫妻以外の共産党幹部が処刑された場所との説明が添乗員から18:22雨がかなり激しくなり車窓からの写真もピントが合わず18:26雨がかなり激しい18:3618:38バスを下車して撮影タイムだが雨が降り。革命広場の記念碑、その後ろに政府機関・旧共産党の建物が。革命広場の記念碑は、共産主義を打倒した1989年のルーマニア革命の闘争と犠牲者を記念するルーマニア、ブカレストの記念碑。記念館は2005年8月に革命広場に建設されたが、1989年12月にルーマニアの共産主義時代の独裁者ニコラエ・チャウシェスクが公開処刑された場所アレクサンドルー・ギルドゥシュによって設計された記念碑は、金属製の「王冠」が置かれた高さ25mの大理石の柱が中心にあることが特徴。 この柱は、大理石と花崗岩で覆われた600㎡の広場に囲まれていたインフォユーロパセンター Centrul Infoeuropa。Centrul Infoeuropaは、欧州連合への加盟に向けたルーマニアの準備に関する必要な情報をルーマニア国民に促進するために、ルーマニアの欧州委員会代表団によって1999年に開設された。2007年に欧州連合に加盟したことにより、インフォユーロパセンターはルーマニア政府の欧州問題部に引き継がれた。2013年2月1日以降、『Centrul Infoeuropa』はルーマニア・外務省に所属する組織になっていると革命広場前の東方正教会。旧王宮の隣の革命広場の角に立つ東方正教会。1720年から1722年の間に建てられ、ブロンコベヌ時代の遺産に関する限り、ブカレストで最も保存状態が良く最も代表的な正教会の1つ。教会は、Iordache Kretzulescuと彼の妻、Safta(コンスタンティンブランコヴェアヌの娘)の命令により建設された18:41数分間の下車で雨の中写真を撮り再度バスへ乗車再度、インフォユーロパセンター Centrul Infoeuropa18:42ルーマニア国立美術館中世から現代までのルーマニア美術、ヨーロッパ美術、装飾美術、東洋美術のコレクションを国内で最も豊富に所蔵している。 カレアビクトリー地区にあり、ナショナルギャラリー(オールド・ルーマニアン・アートギャラリーとモダン・ルーマニアン・アートギャラリーを含む)とヨーロッパギャラリーがあるとブカレストの中心にあり、革命広場に面した共和国宮殿の一部が美術館として使用されていると。カロル1世の騎馬像とその後ろに『Centrul Infoeuropa』18:58そして『Piaţa Constituţiei』でバスを降り、『国民の館(Casa Poporului)』で雨の中しばしの撮影タイム。ルーマニアの首都ブカレストにある、ルーマニア議会の議事堂および観光施設国民の館は1980年代に、当時のルーマニア共産党書記長だったニコラエ・チャウシェスクが「宮殿」として造成した。 建築物としては、ペンタゴン(延床面積616,540m²)に次ぐ世界で第2位の大きさを誇る。共産主義時代の独裁者チャウシェスク大統領が1,500億円もの巨額の資金を投じて建設したこの宮殿、「国民の館」であったが。ワシントンにあるペンタゴンに次いで世界で2番目に巨大な建物で、3,000を超える部屋を持っているのであったが、到着も遅れ雨も降りライトアップが殆どされていなかったのであった。このため、撮影時間も短く19:26寒い中での散策でトイレも近くなり、デパート内のトイレを借りるデパートでもすぐにトイレが解らず19:35デパートの前でバスを待つ20:35ブカレスト・アンリ・コアンダ国際空港へ到着。ブカレスト中心部から空港へ向かう途中には、アウレル・ヴライク空港(通称バネアサ空港)という別の空港もある。到着後、途中のコンビニで購入した蜂蜜類を急いでトランクへ詰め込み、搭乗手続きカウンターへ進むカウンター前で並んで待っているとルーマニア警備員が近寄ってきて、この場所で写真撮影した同じツアーの人が、撮影内容をチェックされ削除させらたこのあと、セキュリティー検査、出国審査も無事通過。22:30利用便は、23:30発 カタール航空 QR0220便 カタール・ドーハ行き夜も遅くなり利用客も少なくなっている中、ルーマニアの通貨が1,000円強残っていたので、パン&ヨーグルトを食べて時間を潰す出発ゲートへ進む23:20ボーディングブリッジで機内へ外はまだ雨が降り、ルーマニアともお別れだが、首都のブカレストを散策できなかったのが心残りであるが ルーマニア・ブルガリアの旅-続く
2020.01.03
コメント(0)

七日目:10/30(水)シナイア僧院を散策後、小雨の中緩い坂を上り「ペレシュ城」へ。12:47シナイア僧院の大教会大教会壁面のフレスコ画白壁の上に出窓やベランダが並ぶ建物中庭に咲いていたバラ霧雨の中、秋バラがきれいに露のついたバラは最高トイレ表示の「TOALETA」トイレ内の照明これで完成なのか、日本では手抜き工事だ!手洗い場も汚れ12:53鐘楼を見ながら入口門へシナイア僧院からペレシュ城へ向かう。すれちがった若者がハロイン用の面を頭にかぶり古い教会越しのシナイア僧院の大教会シナイア僧院を見納める13:00坂道を登ると何か飛び回っていたブーメランを販売土産物店が立ち並び、店先には木々の落ち葉がいろんな店が出店絨毯も販売トウモロコシを販売、地元の子達もおばさんもトウモロコシを販売一本5Lei(約150円)で日本価格の半額、食べてみたかったが味は?13:06美しい自然に囲まれた『ペレシュ城』ペレシュ城は、1875年にカロル1世がルーマニア王室の夏の離宮として、8年の歳月をかけて建てた宮殿。ルーマニアで最も壮麗な城とたたえられるほど美しい。そしてカロル1世は、この城が完成して数カ月後に亡くなったのだと今回の観光パンフレットに記載されていた写真ペレシュ城はドイツ・ルネサンス様式で建てられており、数多くの彫刻、噴水が配された庭園からは、シナイアの渓谷が一望できる。宮殿内の部屋数は160はあるといわれ、各部屋にはカロル1世の集めた絵画、彫刻などの美術品、陶磁器、金銀、装飾品や中世の武器などが飾られている尖塔の先が折れ曲がっていた坂道の反対側の『Valea Peleșului川』の白き流れ落ち葉も流れペレシュ城の下の坂を進む空が青空だとまた違った写真であっただろうペレシュ城手前の左手にあったレストラン『Bar Regal』&『La Tunuri』『Castelul Peleș(ペレシュ城)』見学案内板ペレシュ城への、アクセスルート&付近案内板。ペレシュ城へ向かう左奥に『ペリショール城』があったが、残念ながら今回のツアーのコースには含まれていなかったペリショール城。ペレシュ城と同じ敷地内の左奥にある、カロル1世の狩猟用の城。1902年の完成。中世ドイツ風の質素な外観だが、内部は豪華なシャンデリア、カーペット敷きで、来客用の寝室まである。城から茂みの中の小道をさらに100mほど歩いていくと、木々の合間からフォイショール城の屋根が見えてくる。これは、チャウシェスク大統領が使っていた豪華な別荘レストラン『Bar Regal』&『La Tunuri』を望むペレシュ城の庭先に進む噴水が設置された城の前の庭園、そこには数々の彫刻が見事な姿で並んでいたペレシュ城前からシナイアの渓谷が一望できるこの城を建設したカロル1世の像。1839.4.20. ジークマリンゲンに生まれ、1914.10.10. シナイヤにて没す。ルーマニア王国初代の王 (在位1881~1914) カロル1世は、ドイツのホーエンツォレルン=ジークマリンゲン家の出身。プロシア軍に任官。従兄のナポレオン3世の仲介で、1866年ルーマニア公となり、1881年ルーマニア王国の成立に伴い初代国王に即位、内政改革、軍備拡張、産業振興に努力。しかし農民問題の解決を怠り、1907年の大反乱を招いた。初め親ドイツ的傾向のため不人気であったが、ルーマニアの国際的地位の向上、特にオスマン帝国からの独立に外交的手腕を発揮して支持を集めた。自由党と保守党に交互に政権を担当させ、巧みに内政を操縦したが、結果として責任内閣制の成立を遅らせることになった裸婦像、いや女神の姿であろうか?先ほど来た土産物店方向城内は現在は博物館として公開され、各部屋に、カロル1世が集めた美術品や金銀、 中世の武器などを展示している。 クルミの木に彫刻を施したらせん階段や、黄金の漆喰装飾が美しい壁など、精巧な装飾はため息がでるほどの美しさであるとガイドブックにあったが、我々のツアーに城内の観光は含まれていなかったのであった城の前庭には多くの彫刻があったが、自由時間が短くゆっくり見れず急いで散策ペレシュ城右奥の擁壁ここにも多くの彫刻ペレシュ城前には城内見学者が多く待機ペレシュ城前にも大砲とその下にライオン像が13:30集合時間になり急いで集合。右は『ペリショール城』方向ペレシュ城手前にあったレストラン『Bar Regal』&『La Tunuri』。店の前には大砲が飾られていたレストラン前の菊も咲き宿泊施設『Vila Economat』レストラン『Bar Regal』の建物を振り返る。レストランの下の通路を潜り、急いで昼食レストラン会場への坂道を上る13:36地元の小学生も遠足? ルーマニア・ブルガリアの旅-続く
2020.01.02
コメント(0)

明けましておめでとうございます本年も昨年同様よろしくお願い申し上げますブログアップも連続投稿が二年を過ぎ、今年も旅友とブログ取材に行き作成したいと思っておりますので、続いてのアクセスをよろしくお願いします。令和2年 元旦写真は昨年行ったブルガリアの世界遺産『リラの修道院』です昨年は台風15、19号で関東地方にも甚大な被害がありましたが、今年は平穏であることを祈るばかりです。個人的には、今年は東海道53次も京都三条大橋へたどり着き完歩したいと!また海外旅行も、2月12日(水)中国南部へ7日間の旅を予定。6月頃にはギリシアを計画しておりますが。そのためにもいつまでも元気でありたいものです。店先で販売していた、葉ボタンの寄せ植え昨年12月に我が家の庭に咲いていたバラです今朝は天気予報が良いので、6時前に起床して湘南海岸へ初日の出を見に行きます。昨夜の日の入り後です'19/12/31(火) 17:30 END
2020.01.01
コメント(0)
全31件 (31件中 1-31件目)
1

![]()
![]()