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予定外の大船(おおふね)遺跡を見学、世界文化遺産候補であることを知る。10月20日(火) 9:24約30分の見学で、大船遺跡を後にする。早期に世界文化遺産に登録されたニュースを聞きたいものです太平洋側の国道278号を南下して恵山岬へ旅友が助手席で撮影国道278号の海岸線の岩場を抜け9:44尾札部漁港所在地:北海道函館市尾札部町私は釣りはしないが、この辺りはチカ釣りが盛んな漁場であるとこの辺りの国道278号の海岸線は山肌に近いのでカルバートが続くまだ新しいカルバート9:50漁港の近くで漁網を圧力水で洗浄していたので立ち寄る。クレーンで釣り上げ圧力水トンネルに入り9:57トンネルを出ると「銚子サーフビーチ」所在地:北海道函館市銚子町31国道278号を走っていると前方に恵山の噴煙が見えたので道路脇の海岸へ降りる。振り返り看板を見ると「とどほっけ」「銚子サーフビーチ」の標示、このビーチでは釣りもできサーフィンを楽しめる。シャワー、トイレもあり、秋にはシャケ釣りの釣り人が多いと。因みに、とどほっけは漢字では「椴法華」。ビーチの北側には、銚子岬南の方向には、活火山の恵山が見える。恵山は、北海道函館市にある標高618mの気象庁による常時観測対象の活火山である。ビーチには太平洋のうねりが集い、絶好のウェーブが連なる道南屈指のサーフィンスポットでサーファーが札幌辺りからも訪れている恵山の山肌からの噴煙をズームアップ。このあと恵山岬灯台へ行くが、引き返して立ち寄ることにしているサーファーもいたが、沖には定置網のブイが見える。今日は穏やかで太平洋からの波が静か再度銚子岬を望む、夏には海水浴場になるビーチ10:00国道278号を進むと道路標識。恵山岬灯台へはここを左折する、岬は通り抜けできないので再度引き返してくる必要がある。道路脇には水無海浜温泉・灯台ファミリー博物館の案内表示ここを左折して、道道231号線の椴法華港方面へ。椴法華村(とどほっけむら)は、北海道渡島支庁南東端にあった村。2004年(平成16年)12月1日に戸井町、恵山町、南茅部町とともに函館市に編入された。太平洋に面した漁村であり、編入までは長らく道内で最小の面積の自治体であった。椴法華の名は、アイヌ語のトトポケ(岬の影)に由来する(諸説あり)道道231号線(椴法華港線)を右折、恵山岬まで4.0km恵山道立自然公園 ● 恵山岬灯台、● 水無海浜温泉、● 函館市灯台資料館、● 函館市恵山岬灯台公園、 ● 函館市ホテル恵風、● 日帰り温泉とどぽっくる 4.0km10:08道道231号線(椴法華港線)を走り、前方に恵山の山肌が見えてきたので路肩に車を止め撮影道路脇のアザミに群がるチョウ山肌をズームアップするが、噴煙はないようだ10:11さらに、道道231号線を進み恵山岬灯台、ホテル恵風前を通り抜け、水無海浜温泉へ水無海浜温泉所在地:北海道函館市恵山岬町近くの無料駐車場に車を止め、海浜温泉を見下ろす。「とるのは写真だけ、残すのは足跡だけ」と、マナーを呼びかけ。温泉の営業期間は、通年で、入浴料金も無料ようこそ水無海浜温泉へ【 幻の温泉 】 水無海浜温泉は、活火山恵山(618m)の裾野に広がる恵山岬の入り江から湧き出す、全国で も非常に珍しい渚の温泉です。 お湯に浸かり太平洋を望むと、水平線や目の前で砕け散る白波、湯船の周りに戯れている磯 ガニが疲れをいやし、普段の生活では体験できない「開放的空間」の世界に導いてくれる野 趣満点の海浜露天風呂として、地元住民を中心に利用されています。 湯加減は自然任せであるため、潮の満ち引きによって調整されますが、満潮時には海中に没 してしまい、干潮時には現れるものの残ったお湯だけでは熱すぎて入れなくなったりするの で、入浴時間が限られる「幻の温泉」と呼ばれています。【 産まれたままが最高 】 太平洋を望み「産まれたままの姿で入浴する気分は最高」、海を独り占めした贅沢さと入浴 された方だけにしか解らない不思議な爽快感が心に残ります。テレ屋さんは、水着でもOK。【 エピソード 】 海浜露天風呂は満潮時には海の中に没してしまうことから、時々、イワシの大群やタコなど が迷い込み、干潮になるに従って湯船に取り残されることがあります。【 むかしむかしの伝説 】 鎌倉時代、日蓮宗の開祖日蓮大聖人のお弟子で六老僧の一人、日持聖人(1250~?)という 偉いお坊さんがおりました。伝説では、日持聖人は今から約700年前、海外布教を志し奥州 から北海道に渡り、海岸づたいに椴法華に入り、水無海岸に湧き出ている不思議な湯で旅の 疲れをいやしたと言われています。しばらく滞在した後、この地(水無海岸)より永仁7年(12 99)唐に渡ったことから「唐渡法華」といわれるようになったと言い伝えがあります。水無海浜温泉ご案内の看板干潮前後は、〇 入浴可、満潮前後は、× 入浴不可トイレかと思ったが脱衣場のみ全国でも珍しい海辺にある天然の露天風呂として、海水浴を楽しむ人々にも人気。恵山火山の熱源による温泉が海岸に湧き出して、海の中に湯船があるダイナミックさがユニークな温泉です。潮の干満により、入浴可能な時間が日ごとに変わるのが特徴。満潮時は水没し、干潮時のみ入浴できます。足元が滑るので要注意と!この構造物は何か?コンクリートブロックの上に岩があるが穏やかな太平洋を望む山の左方向に恵山岬灯台の頭部が見える恵山岬灯台をズームアップ密漁禁止ウニ・コンブ等の魚貝藻類は、漁業者が育てた大切な資源です。無断で採ると密業者として厳しく罰せられます。 函館市・函館中央警察署今回は入らなかったが、またいつか・・・・・・10:25水無海浜温泉を後にする。夏には泳ぎながら休憩がてら入るのも最高であろう10:32恵山岬灯台公園所在地:北海道函館市恵山岬町天気が良いと太平洋から上る朝暘が秀逸であると右手前のモニュメント『バンザイ』両手を高々と挙げ「バンザイ」をしているイメージ(材質:青森ヒバ) 作者 彫刻家「向井 勝實」 1946年生まれ 青森県大間町出身 毎日現代美術展、アーティストユニオンシンポジウム、インターナショナルアートキャ ンプなど、多岐にわたって活動を繰り広げる行動派芸術家。この彫刻は、青森県風間浦村文化と芸術の会実行委員会より椴法華村・青森県風間浦村友好村締結10周年を記念して2基寄贈されたものです。 平成13年11月3日 設置太平洋をバックに恵山岬灯台灯台カードのダウンロード。恵山岬灯台塔 高:18.85m(地上ー塔頂)灯火標高:44.00m(平均海面ー灯火)初 点 灯 :1890年(明治23年)11月1日恵山をバックに恵山岬灯台 新型コロナウイルスの関係で塔頂出来ず遊歩道には北海道内の灯台のイラストが描かれたタイル。松前大島灯台松前郡松前町に属する無人島に建つ灯台。ニュープロド社製の繊維強化プラスチック(FRP)製灯台である。この灯台は無人島にあるので海上からのみの撮影先程行った、水無海浜温泉方向ちょうど木の影になっているが、水無海浜温泉。遠くには下北半島が見える白神岬灯台昨日訪れた、松前郡松前町の白神岬に建つ灯台で、北海道最南端に位置する。灯台表の一番最初に載っている灯台ナンバー 0001 であると襟裳岬灯台幌泉郡えりも町襟裳岬に建つ、白亜の大型灯台で「日本の灯台50選」にも選ばれている。襟裳岬は森進一も言っているように「何もない」が一度は行ってみたいところである納沙布岬灯台根室市にある納沙布岬の突端に建つ白亜塔形の中型灯台。北方領土や南鳥島を除いた日本の最東部の地に位置する。「日本の灯台50選」にも選ばれている。もう数回訪れている灯台であるが、北方領土がすぐそこに見える、早期返還を!地球岬灯台室蘭市の太平洋に面するチキウ岬に建つ灯台。いつか機会があれば訪れたい神威岬灯台積丹郡積丹町の積丹半島の西側、神威岬の先端に建つ灯台で、明治25年8月25日初点灯、北海道の灯台では5番目の歴史を誇っている。現在の灯台は昭和35年に改築された2代目である。ここも処女地で積丹ブルーに映える岬、灯台を撮影してみたいと思っておりますが日和山灯台小樽市祝津の高島岬にある中型灯台で、赤白のツートンカラー。明治16年に北海道では納沙布岬灯台に次いで2番目に初点灯された。ここも処女地である宗谷岬灯台稚内市の宗谷岬に建つ灯台で「日本の灯台50選」にも選ばれている。日本最北端の地にあり、晴れた日にはサハリンが遠望できる。ここも既に数回訪れているが灯台には・・・・・10:40太平洋をバックに恵山岬灯台。前に太平洋、後ろに恵山を望む風光明媚な地に建っている白亜の大型灯台 - 続く -
2020.12.03
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早朝の大沼を散策後、亀田半島の太平洋側の沿岸を走り恵山岬を目指す。10月20日(火) 8:08道道43号(大沼公園鹿部線)からの駒ケ岳8:16外気温は12℃に上昇国道278号のバイパスを通り過ぎ、この先の交差点を右折8:17この交差点を右折して、道道43号線へ。道の駅「しかべ間歇泉公園」まで 2.3km海岸線へ車を止め太平洋を望む太平洋の対岸には室蘭市の地球岬(チキウ岬)ズームアップ地球岬は、高さ100m前後の断崖絶壁が約14km続く岬である。渡り鳥のルート上にあり、それを狙ったハヤブサの営巣地としても知られている8:30道道43号線沿いにある、道の駅 しかべ間歇泉公園所在地:北海道茅部郡鹿部町鹿部18番地1営業時間:(月~木) 9:00 ~ 17:00、(金~日) 8:30 ~ 18:00今日は火曜日で開店は9時のため閉館中。噴火湾の、タラコが名産品で食堂の定食でも食べれると道道43号(旧国道278号)沿いにある「道の駅しかべ間歇泉公園」道の駅 しかべ間歇泉公園国道278号(道道43号線)と国道278号バイパスに挟まれた施設道の駅から道を挟んだ海側にあるモニュメント。作詞家・星野哲郎氏が、町おこしグループの熱い誘いに乗り、初めて鹿部町を訪れたのは昭和62年のこと。以来、毎夏2~3日現代漁業の勉強を兼ね、地元を訪れ交流を深めた。そんな背景から生まれた「北斗船」は1988年(昭和63年)全国的なヒット作となった。詞は星野先生直筆による。スイッチを押すと鳥羽一郎の「北斗船」が耳元から流れ聞き入る旅友道の駅の隅に、温泉蒸し処温泉の取入れ設備温泉の蒸気を利用した蒸し釜蒸し釜セットの作り方 ① 食材を準備し「蒸し釜セット」の耐熱用手袋をはめます。 ② 蒸籠(せいろ)のふたを手前に引いて開けます。 ③ 中に食材を入れ、蓋をします。 ・ 金属製の容器 → ザルのみ入れる。 ・ 木製の容器 → 木製ザルのみ入れる。 ④ タイマーをセットし、蒸し上がるのを待ちます。 ※ 蒸し時間の目安を守りましょう。道の駅内、物産館にて食材販売中!係員が準備していたが、営業時間前で食べれず8:35道の駅 しかべ間歇泉公園を後にする左に太平洋を見ながら国道278号を南下する沿岸には定置網この辺りは車の量も少なく信号もないので快調に走る8:45恵山岬ははるか先8:54国道278号を走っていると「大船遺跡(おおふねいせき)」の看板を見つけ急遽立ち寄る。国指定史跡 大船遺跡所 在 地 :北海道函館市大船町575−1大船遺跡は、北海道函館市に所在する縄文時代の遺跡である。 縄文時代前期後半から中期後半頃に至るまでの大規模な集落遺跡であり、盛土遺構や竪穴住居、フラスコ状土坑などが発見されている。 2001年8月13日、国の史跡に指定された国指定史跡 大船遺跡内 容:縄文時代中期(約5 ~ 4,000年前)の集落跡指定面積:71,832.03㎡指定年月:平成13年8月13日 文部科学省告示第138号指定理由:大船遺跡は大規模集落で、中心には推定600軒を越える竪穴住居と盛土遺構、山側に は貯蔵穴、北側の沢にはシカの落とし穴などが広がっています。この遺跡は、深く掘 り込んだ大型の竪穴住居が特徴です。日常用具のほか、クジラやオットセイの骨、炭 化したクリなど、当時の食生活を知る貴重な遺物が出土しています遺跡の片隅ではハマナスが咲き太平洋に面した海岸段丘上に立地している竪穴住居の骨格を復元した「縄文のにわ」。大船遺跡の特長は、竪穴住居の規模が非常に大きく、かつ密集していること。 現在、100棟あまりの竪穴住居の跡が確認されていますが、地中にはさらに多くの(推定では1500棟以上)住居跡があると推測されています竪穴住居の骨格を復元竪穴住居竪穴住居は、縄文時代につくられた住居の形態です。地面を円形や方形に掘って床とし、柱を立て骨組みを作り、その上に土やヨシなどで屋根をふいた建物で、床には炉が設けられています。大船遺跡の竪穴住居は規模が大きく、長さ 8~11m、深さ 2m以上の住居が見つかっています。炉は、床そのものを火床としたものから土器を埋めたもの、石で囲んだ炉へと変化が見られます。この復元住居では、発掘調査の成果をもとに、クリの木を使い、竪穴住居の骨組みを再現しています大船遺跡は世界文化遺産の登録を目指す「北海道・北東北の縄文遺跡群」の構成要素のひとつ。 近くにはやはり構成資産になっている垣ノ島遺跡(国内最大級の盛土遺構)もあるので、時間が許せばあわせて見学をと盛土遺構盛土遺構盛土遺構は、長い期間にわたり大量の土器や石器などが捨てられ、周囲より高く盛り上がった場所です。火をたいた跡や人骨が発見されることがあることから、単なるゴミ捨て場ではなく、道具や食べ物の魂を送る場所ではないかと考えられています。大船遺跡の盛土遺構からは、マグロ・サケなどの魚類やクジラ・イルカ・シカなどのほ乳類の骨、クリ・クルミなど植物の残りが見つかっており、当時の人々の食生活がうかがえます地元の人が3名立ち話、このあと我々も入り話が弾む。 ・ここの南側には大船川がありシャケが遡上すると、また、この上にはヒグマも出ると。 ・駒ケ岳の北側にある森町から見る駒ケ岳も良いので是非見てほしいと。 ・大沼公園のだんごは是非食べてほしいと。 ・土方歳三は森町に上陸して南下し函館に入ったと。 ・もともとここは畑であったと。 等々。いろいろと話をしていて、明日も天気が良いので日の出を見に鹿部に来ることに決める。また、北上して駒ケ岳を北側から見ることに世界文化遺産への登録準備中できれいに整備されている重なり合う住居大船遺跡の特徴として、遺跡内の竪穴住居の密度が非常に高いことがあげられます。大船遺跡では、発掘調査の結果、縄文時代中期(約4,500年前)を中心とした竪穴住居跡が120軒以上発見されています。この平面表示は、多くの竪穴住居跡が重なっている状態を示しています。これは、数百年にわたり定住生活をしていた証であり、その背景にはこの地域が海や山野の豊かな食糧資源に恵まれていたためと考えられています地面から掘り下げているのは寒さ対策9:19開館時間9時を過ぎたので「史跡 大船遺跡管理棟」へ。大船遺跡埋蔵文化財展示館開館期間:4月20日 ~ 11月12日、 開館時間:午前9時 ~ 午後5時、 入館料:無料入口で新型コロナウイルス対策の消毒をして入館大船遺跡には「縄文遺跡群を世界遺産に」の旗が立つ壁面は竪穴住居の土層断面手前は土器類発掘調査状況の模型。手前が海側臼尻(うすじり)B遺跡 臼尻町地内につくられた縄文中期の大集落跡です。 これまでの調査で330軒の住居跡、国内唯一のシカの絵画土器やヒエの炭化種子など貴重 な発見があり、全国的にも注目されています。磨光(まこう)B遺跡 尾札部町地内につくられた縄文後期の遺跡です。 国内初の「アスファルト工房址」をはじめ、住居構造を解明する上で貴重な焼失住居など の発見は、当時の文化や技術を知る大きな手がかりとなっています。北海道・北東北の縄文遺跡群「 世界遺産に必要な顕著な普遍的価値を示す17遺跡 」北海道・北東北の縄文遺跡群は、長期間継続した先史文化の内容を示す学術的価値の高い史跡、特別史跡となっている集落や環状列石などの遺跡で構成されています。これらの遺跡は多様な場所に立地するとともに、文化の移り変わりを具体的に示しています。北海道・北東北の縄文遺跡群は、 ・北海道:6か所 ・青森県:8か所 ・岩手県:1か所 ・秋田県:2か所 計 17か所発掘調査状況南茅部と縄文の道南茅部をはじめとする噴火湾沿岸の遺跡と、津軽海峡を越えた、三内丸山などの遺跡群は、「縄文の道」で結ばれています。各地域の縄文人たちは数千年にわたって、丸木舟で海峡を往来しながら、地域性豊かな縄文文化をつくってきました。南茅部の遺跡からも新潟産のヒスイや秋田県のアスファルトが多量に出土しており、海峡を越えて交流した縄文人たちのようすがうかがえます9:25出土した「石皿」木の実や肉をすりつぶす道具大船遺跡の世界文化遺産登録は新型コロナウイルスの関係で、伸びていると。早期登録を願う!予定外の場所で、30分間の大船遺跡の見学でした。駐車場横で咲くハマナスハマナスの実 - 続く -
2020.12.02
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紅葉の始まった大沼公園の「島巡りの路」を続ける。10月20日(火) 7:02湖月橋からレストラン「ターブル・ドゥ・リバージュ」方向を望むレストラン「ターブル・ドゥ・リバージュ」の湖上テラス湖面には球形のブイがあり定置網がある。大沼に仕掛けられている網は川エビを獲るためのもので、10月中旬から12月下旬にはワカサギ漁の小定置網も張られ、これらは大沼名産の佃煮に加工されると袴腰橋(はかまごしばし)駒ケ岳は、江戸時代(1640年)の駒ケ岳大噴火で山頂付近の岩が崩れ落ちたと湖面には、駒ケ岳の大噴火で崩れ落ちてきた岩が小島となり、その上に木々が育ち景観を造り上げている。また、この辺りは水の動きがあり氷結しないので、毎年冬にはオオハクチョウの群れが飛来する場所でもある波静か!東宮殿下(のちの昭和天皇)御展望之地。後方には「日の出橋」東宮殿下御展望之地 大正11年7月10日日の出橋を渡りアイヌ島へアイヌ島から東方向の湖面。小さな浮島が箱庭の如く浮かび木々が育っている野鳥のヤマガラが飛び回る動きが早くうまく撮れませんでした西方向の湖面に映える景観空を見上げるとカエデの紅葉青空に映える紅葉東方向の湖面。水辺で暮らすカモが泳ぎまわる西方向の湖月橋を遠望湖月橋をズームアップ湖月橋撮り飽きない景勝である島のあちこちにある岩は、江戸時代(1640年)の駒ヶ岳大噴火で山頂部分が崩壊して流れ下ってきて堆積したもの。岩に付着している緑色のものは、キノコのような菌類と海藻のような微細なもの同士が共生している生命体の地衣類です。また、島の中央には白い肌の木、コシアブラの木があると遠くに駐車場がある公園広場公魚島からの「公魚橋(わかさぎばし)」7:20ほかの散策コース「大島の路」「森の小径」もあるが今回はスルー凹凸樹皮のミズナラ、別名オオナラ。太くて大きな木で、たくさんの葉を茂らせており、まろやかな葉の茂みで北国の美しい景観を創出しています。この付近では、姿がよく似たコナラも見られますと公魚橋(わかさぎばし)7:26湖月橋、左にはレストラン「ターブル・ドゥ・リバージュ」絵になる、湖月橋、駒ケ岳、金波橋のコラボ最初に渡った「湖月橋」へ戻る7:31大沼の小定置網で獲られた川エビ、ワカサギは大沼名産の佃煮に加工されているが時間が早くこれも開店前で土産には購入できなかった7:32時間が早く観光客がいない大沼公園を堪能した。より早く訪れればより幻想的な光景に出会ったのではと思いながら、約50分の散策で大沼公園を後にした。またいつか別の時期に来たいものです7:35大沼公園の駐車場から出て、道道338号(大沼公園線)を北上して次のポイントへ進む。道道338号沿いを走る函館本線、下りの貨物列車。大沼からの小沼、ジュンサイ沼へと7:44大沼の周りを走る道道338号(大沼公園線)を進み「霊泉洞」へ。旅友が事前に訪れる所をチェックしていた「霊泉洞」、看板が小さいので見落としそうで行きすぎて戻る。駐車場がないので路肩に車を止めて「霊泉洞」へ。大沼国定公園の中で、最大の沼である大沼の北側で湧出しています。大沼の水源の一つです。パワースポットとして有名だそうで、敷地内には鳥居と小さな祠があります細い道を歩いて行くと祠の手前に木の鳥居。以前は手前にも鳥居があったようだが朽ちてしまったのか見当たらずこの下は崖になっており危険 !旅友は湧き出る「霊泉洞」を追っていたが湧水の出口への鉄製の梯子があったが危険行為になるのでネットから「霊泉洞」高所恐怖症の私には、ほどほどに引き返す8:02北緯42度の標所在地:北海道亀田郡七飯町大沼町道道338号(大沼公園線)沿いに7台ほどの駐車スペースがある。車を止め湖畔に出ると右手に” 北緯42度の標 ” があるが説明板は何もない過去の、はまなすの浜に立っていた標(ネットから)。アメリカのシカゴ、ヨーロッパでは、ローマ、バルセロナなど、同緯度上の主要都市までの距離が表示されていた。何故か現在は上記のものに代わっていると(旅友より)。せめて、主要都市までの距離を説明してほしいものです湖畔への途中にはまなすの浜からの駒ケ岳(1131m)8:08湖畔の「北緯42度の標」を後にし、道道43号(大沼公園鹿部線)を東へ進み鹿部町へ。道道からの駒ケ岳の形も変わってくる。駒ケ岳は、主峰の剣ケ峯(1,131メート ル)、砂原岳(1,113メートル)、隅田盛(892メートル)、稜線の駒ノ背(約900メートル)、馬ノ背(約850メートル)で形成されている - 続く -
2020.12.01
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今年も明日から師走になるが、新型コロナウイルス感染はいまだ治まらず。今日から再度、函館の旅 三日目をアップしますのでよろしくお願いします。函館の旅三日日は、亀田半島を時計回りに約200kmのドライブ(赤色線)を予定。昨日は松前半島 を時計回りに250kmのドライブ(黄色線)でした。10月20日(火) 6:01今日も朝から天気が良く、ホテルの5階から函館山を望む。ビニールハウスが多いが、何を栽培しているのか?函館北斗駅から北海道新幹線、函館本線の函館駅への高架橋高さ98メートルの五稜郭タワー展望台の高さは1階 86m、2階 90m手前は、北海道新幹線の高架橋函館山の展望台をズームアップ6:12東の山から太陽が昇り始める朝日も山からより、海上から上る日の出も見たいものだ。カメラの構造から日の出が4つに6:142階のフロントにカギを預け出発フロントに置かれていた「マルメロ」マルメロ:バラ科マルメロ属の1種である落葉高木。マルメロはカリンに似た外見で黄色く熟す果実。中央アジア原産で、江戸時代に長崎に入ってきたとされる。リンゴにもメロンにも似た甘い香りが特徴で、部屋に1個置くだけで部屋全体が芳香に包まれるほど、固くて酸味と渋みがあるため生食には適さないとされてきたが、北斗市(旧大野町)では明治初期に農家の庭先等に植えられ、昭和60年代の一村一品運動の特産品とするために栽培を開始。以来、官民挙げて様々な加工品への活用を模索している。北斗市で栽培されているマルメロは3品種。固くて食用に適さず、果実酒の原料や芳香を楽しむのに向いている「在来種」、芳香は落ちるが水分が多く、加工に適した「スミルナ」、芳香と柔らかさの両方を備えた「かおり」。適性に合った使い方をすると、良さが十分に発揮される。近年ではお菓子への利用が研究され、地元洋菓子店によってマルメロを用いたパウンドケーキやパイ等が開発されている。なお、家庭ではジャムやはちみつ漬けなどにするのがお勧め。6:23新函館北斗駅前のホテルからカーナビを大沼公園へセットすると、11kmで20分と。宿泊ホテルから大沼公園が近かったのだと気づく。外気温は、4℃道道1176号線(新函館北斗停車場七飯線)を北上6:30道道1176号線は国道5号に突当り交差点を左折。国道5号(函館新道・赤松街道)を北上。道路沿いには鮮やかな赤いサルビアが咲いていた。赤松街道とは、江戸末期の安政5年(1858)に当時の箱館奉行組頭、栗本瀬兵衛が佐渡から赤松の種子を取り寄せ大きくなった苗は五稜郭周辺に植樹されました。その後、明治9年(1876)に明治天皇が七重勧業課試験場に行幸されたのを記念して、相当数が札幌本道(国道5号)沿いに移植されました。これが赤松並木の始まりです。 昭和61年(1986)に「日本の道百選」に選ばれ、平成2年(1990)には道の日の愛称募集で「赤松街道」と名付けられています。 平成8年(1996)には、歴史上重要な幹線道路として利用され、歴史的・文化的価値を持つ道路であることを示す「歴史国道」にも併せて選定されました。赤松街道は函館市桔梗町~七飯町字峠下までの14.3キロメートルです。6:33大沼トンネルを出て直ぐに西大沼交差点があり、右折して道道338号線(大沼公園線)へ。正面に標高 1,131mの駒ケ岳6:40大沼公園駅近くにある「元祖大沼だんご 沼の家(ぬまのいえ)」所在地:北海道亀田郡七飯町大沼町145明治38年の創業以来、変わらぬうまさ。大沼名物の名にふさわしいだんご。駅売りから始めた大沼だんごは、一口サイズの食べやすさと、上質の材料を使った餡、胡麻、正油の3つの風味でプルンと柔らかく、いつ食べても美味しく飽きのこない味。シンプルだからこそ、手をかけ時間をかけ、こだわり抜いているという。人情味溢れる温かい接客なども、この店の名物。遠くに住む人も、地元の人も大沼に行ったら大沼だんごを、という根強いファンが多い。確かにこの後訪れた、恵山の手前の「大船遺跡」でも地元の方から薦められた。残念ながら、営業時間が 8:30~18:00で開店前、定休日は無前回訪れたときは土産に購入した6:44大沼公園駅近くの以前訪れたことがある駐車場ヘ停め散策。リパージュの祠(仮)所在地:北海道亀田郡七飯町大沼町141近くにレストラン「ターブル・ドゥ・リバージュ」がある。この場所は、大沼と駒ケ岳が入りビューポイントである既に先着の人が大沼と駒ケ岳の写真撮影。風がなく湖面に波がないので駒ケ岳の映り込みが最高今年はまだ駒ケ岳の頂上に雪が積もっていないかつての駒ケ岳。かつては富士山のような円錐形の1,700メートルほどの火山だったといわれています。たび重なる噴火活動を経て、寛永17年(1640)の大噴火によって山頂部が崩壊し、火口原を取り巻く外輪山として、主峰の剣ケ峯(1,131メート ル)、砂原岳(1,113メートル)、隅田盛(892メートル)、稜線の駒ノ背(約900メートル)、馬ノ背(約850メートル)が形成されました。その後、安政年間の大噴火、昭和4年の大噴火、昭和17年に中噴火を起しています。最近では、平成8年と10年の小噴火が記憶に新しいです。 道南きっての景勝地大沼公園も、この駒ヶ岳の噴火によってできたものです。この写真はネットから引用です函館本線の上り電車が来る数両編成と思ったが一両編成紅葉には少し早かったようだが、湖面への映り込みが最高後一週間もすれば紅葉が見事では駒ケ岳の麓の湖面早朝で観光客が少ない中、湖面への映り込みを追う水がきれいなため鏡の如く映える駒ケ岳の山頂部分は、江戸時代(1640年)の駒ケ岳大噴火で岩が崩れ落ちたとレストラン「ターブル・ドゥ・リバージュ」前の広場レストラン「ターブル・ドゥ・リバージュ」所 在 地 :北海道亀田郡七飯町大沼町141営業時間:11:00 ~ 16:00 定休日 火曜日大沼湖畔「湖月橋」傍らに建つ、木の温もりが心地よく、ゆとりある空間のカフェレストラン。大沼牛ビーフシチューが美味しいと!レストランの窓からのまるで絵画のような四季折々の景色を眺めつつ、ゆったりと旬の地元素材を使った食事や手製ケーキ、コーヒーブレークを楽しめるとレストラン「ターブル・ドゥ・リバージュ」の裏大沼公園散策マップ湖面への映り込みがきれいなため、青の「島巡りの路 所要約50分」を巡ることにする。島巡りの路は、太鼓橋などでつながる7つの島を巡るコース湖面からの湯気外気温は4℃ぐらいだが後方にはこれから渡る、公魚橋(わかさぎばし)」レストラン裏からの湖月橋駒ケ岳をバックに湖月橋の上に立つ旅友ジュンサイ ?大沼の西方面にジュンサイ沼がある湖月橋昭和45年10月 竣工で古いがペンキを塗り補修しているのか真新しい。また、一段低いところにもハンドレール、しかし車いす対応は未施工であった湖月橋の上から道道338号線(大沼公園線)の赤い橋。この赤い橋を地元ではセバットといい「狭まった場所」という意味だそう。また、このあたりは水の動きがあり冬場でも氷結せず、毎年冬になるとオオハクチョウの群れが飛来する金波橋(きんぱばし)一部紅葉も進み水辺にはカモ、また野鳥も飛来するポイントエサを求め泳ぎまわるカモ大沼には小さな島が多々あり、そこに木が育ちまるで庭の池の如くに。駒ケ岳の大噴火で崩れ落ちてきた岩の上に木々が育ったと7:01まるで絵に描いたような景色であった - 続く -
2020.11.30
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続日本100名城の「上ノ国勝山館」のスタンプを捺印後、今日最後の訪問地開陽丸へ向かう。旧松前駅にも立ち寄ったので、急遽旧江差線の終着駅「旧江差駅」へ行くことに。この地図は、昭和44年(1969)3月 文部省検定済地図。地図には松前線、江差線がある。赤色の線は私が今までに乗車した線、走った道路です江差は、日本海に面し江戸の頃からニシン漁と北前船貿易で栄えた港町です。 独特の音調をもつ江差追分(えさしおいわけ)は北海道の民謡でも有名ですが、追分と言うのは、道が左右に分かれている所という意味です。すなわち、日本海から北上してきた北前船が、蝦夷に到着して、ここ江差から陸路左右に分かれて物資が運ばれたという事。10月19日(月) 15:58旧江差駅資料展示館・地域交流館所 在 地 :北海道檜山郡江差町陣屋町165営業時間:9:00 ~ 18:00休 館 日 :毎週月曜日(月曜日が祝祭日の場合はその翌日)、年末年始(12/29 ~ 1/6)入 館 料 :無料JR江差線は昭和11年(1936)11月10日に全線開通しました。昭和43年からは急行「えさし」が運行するようになるなど多くの方々に利用され賑わってきましたが、人口の減少とともに利用者も減少し、惜しまれつつも平成26年(2014)5月12日に江差・木古内間が廃線となりました。町では江差駅があったことを記憶にとどめるため。また地域の方々が気軽に立ち寄り交流できるスペースを設けるため、江差駅前の空き店舗を利用し、平成30年(2018)3月26日「旧江差駅資料展示館・地域交流館」をオープンさせました。訪れた日は月曜日で休館日でした江差駅跡に「ありがとう 江差駅」の駅長の帽子をかぶった木柱敷設されていたレールの一部と駅案内板終着駅、えさし(江差)、上りは、かみのくに江差駅は、湯ノ岱・江差間が昭和11年(1936)11月10日に開業し全線が開業となりました。檜山の人と物との輸送で活況を呈し、昭和36年(1961)には準急が定期列車化となり、昭和43年(1968)には準急が急行へ昇格しました。その後自動車の普及に加え人口も減少し始めたことなどから、鉄道の利用者も少なくなっていき、昭和55年(1980)には急行が廃止され、北海道新幹線が開通すると同時に、江差線(五稜郭・木古内間)が第三セクターに移行するため、木古内・江差間がいわば飛び地となることもあり平成26年(2014)5月11日の最終営業をもって江差線(木古内・江差間)が廃線となりました。最後の江差駅となった駅舎は昭和50年(1975)にコンクリート造に改築されたものですが、江差線の廃線に伴い、平成28年(2016)にレールとともに解体・撤去されました。跡地には町営住宅とともに公園を整備しましたが、江差線があったことを偲ぶため、公園内に実際に江差線で使用されていたレールや枕木などを利用したモニュメントを整備しました。上記案内板から最終便を見送るまちの人々16:01江差線開通時の江差駅大魚旗を掲げたニシン魚の舟であろうか。JR江差線が全線開通した昭和11年(1936)11月10日であろう16:07えさし 海の駅「開陽丸」所在地:北海道檜山郡江差町姥神町1-10この場所も、平成28年(2016)10月28日(金)に訪れており二度目。海に臨む憩いの場開陽丸管理棟の「えさし海の駅 開陽丸」には、江差町の様々な特産品や農家から直送された農産物・海産物などを一堂に揃えたお土産店「アンテナショップぷらっと江差」があり、開陽丸見学後の立ち寄りスポットとして便利です。軽食・休憩コーナーもあり、窓が大きく開放的で港の風景がよく見えます。また、江差町観光情報総合案内所が設置されておりますので、たくさん集まった観光情報も要チェックです。また、開陽丸青少年センターでもある大型バス専用の駐車場には、修学旅行のバスが多く駐車していた。駐車場の向こう側には江差港があり、奥尻島の奥尻港と江差港の航路(ハートランドフェリー)があり、2時間10分で結んでいる。なお、奥尻島へは函館空港からの空路もある(30分)日本遺産のまち 江差町のご案内海の駅の資料館に入らず外回りを見学し開陽丸へ。右側:9インチダルグレン砲 全長 3m33cm、口径 22.5cm、重量 4,200kg、装薬 4.0kg 射角 4.0度で射程 1,400m、施条無、アメリカ製中央:16サンチクルップ砲 全長 3m35cm、口径 15.8cm、重量 2,855kg、装薬 2.5kg 射角 4.5度で射程 3,983m、施条有、ドイツ製左側:12ポンドカノン砲 全長 2m13cm、口径 11.6cm、重量 1,000kg、装薬 1.2kg 射角 32.5度で射程 4,700m、施条有修学旅行の中学生が多く訪れていた。スクリューシャフトと上下装置スクリューシャフトと上下装置開陽丸のシャフトの最後部。長さ重量とも出土遺物のなかでも最大級のもの。全長 680cm、最大径 88cm、推定重量 6.0t、右手前は上下装置。帆走時には波の抵抗を避けるため、スクリューを上昇させる装置。帆船から蒸気船に移行する過渡期の特徴である。船体(一部)復元された開陽丸(開陽丸記念館)昭和50年(1975)から昭和59年にかけて、水中での発掘調査が行われ、約3万3千点の遺物を引き揚げました。平成2年(1990)実際の開陽丸と同じ大きさで復元した資料館で、大砲・砲弾・船具などの遺物を展示しています。今回も時間がなく館内へは入らなかった開陽丸記念館開館時間:午前9時 ~ 午後5時(発券終了 午後4時30分)休 館 日 :4月 ~ 10月まで無休営業 11月 ~ 3月は月曜日と祝日の翌日、年末年始(12/31 ~ 1/5)入 館 料 :大人 500円、小中高生 250円、小学生未満は無料開陽丸は江戸幕府が諸外国の海軍に対抗するため、江戸時代末にオランダで造られた軍艦です。開陽丸は、江戸幕府に引き渡された後に起こった戊辰戦争で、榎本武揚らを乗せ活躍したが、明治元年(1868)に江差沖で座礁・沈没しました。船首に陽が沈む江差沿岸は年間を通じて良風が吹く絶好のクルージングスポットです。マリンレジャーの基地として、またヨットハーバーとしては最新設備を整え国内外のヨットマンが立ち寄る有数のマリーナです。船体はさびが発生しているが船内の状況は?練習帆船のように全帆を掲げる時もあるのか砂浜に近くいかにも座礁しているように見えるのが残念16:16鷗島(かもめじま)かもめ島は、周囲約2.6km、海抜およそ20mの小島で、防波堤によりつながっています。檜山道立自然公園の特別地域に指定されており、景観が美しく、江差のシンボルとして愛されています。鷗島にはいろんなスポットがある。① 馬岩(うまいわ)、② 瓶子岩(へいしいわ )、③ 千畳敷、④ 江差追分記念碑、⑤ 厳島神社⑥ 浪切鳥居、⑦ 北前船係留跡&北前船飲用井戸、⑧ 徳川幕府砲台跡 等北海道立自然公園「かもめ島」夕日の展望灯台 島上16時過ぎで陽が沈むので、この奥へ行きたかったが 瓶子岩(へいしいわ)今から 500年もの昔、様々な予言をするひとりの姥がおりました。あるとき、姥はかもめ島で翁から小さな瓶を渡され、教えられたとおり瓶を海に投げたところ、江差にニシンが群来るようになったのです。この瓶が石と化して海上に現われ、瓶子岩になったと伝えられ、姥は人々から折居様と呼ばれ神のようにうやまわれていました。毎年7月の第一土日に開催される「かもめ島まつり」では、町内の若者たちによって全長 30mにおよぶ〆縄がかけられます。馬岩(うまいわ)ズームアップビュースポット ① 馬岩(うまいわ)伝説では、源義経は衣川(岩手県)で死んでおらず、江差に渡ってきました。鷗島の断崖にある白い岩は、義経がさらに北へ逃れる時に、残された義経の愛馬が石になったものと伝えられています。夕日に映える開陽丸16:27夕陽が鷗島へと沈む開陽丸記念館は、海底引揚遺物 3,000点を展示している。150年前、開陽丸と共に夢と沈んだ「幕末ロマン」、その歴史に触れては海の駅店内に飾られている「開陽丸 1/50」近代国家として海防強化を目指す幕府にとり、1866年オランダのヒップス父子社で建造した開陽丸は最強の旗艦となった。木造艦とはいえ、各所に鉄材を使い、主なロープにワイアを用いている。大砲も当初よりも増備している可能性が大きく、アメリカ南北戦争で活躍したダルグレン砲をも装備していた。なお、帆走時には煙突をちぢめスクリューを引き揚げる方式をとっている。 ■ 諸 元:L 72.80m、W 13.04m、Ⅾ 5.70m(前)・6.40m(後) トン数 2,590排水トン、エンジン 2気筒400馬力、大砲 26門 ■ スケール:1:50 ■ 乗 員 数 : 350 ~ 500人 ■ 起 工:文久3年8月(1863年9月16日)、■ 進水式:慶応元年9月(1865年11月2日)明治元年旧幕府軍進行図開陽丸の現在の紋章開陽丸紋章・舟印(建造当時の紋章・実物大複製)この船の紋章は徳川家の家紋(三葉葵)をデザイン化したものと言われ、船に取り付けられていた。海底から引き揚げられた実物は北海道江差町の開陽丸記念館に保存されている。駐車場横に咲いていた、ハマナスの花香りが辺りに漂っていた実も付き16:37” よみがえる幕末ロマン ”海の駅での滞在時間は、30分間であった。16:45日本海へ沈む夕日を撮影するために国道228号を北上、この先から国道227号になる。この辺りは江差町中歌で「江差山車会館・江差追分会館」が左手に、ほかにもニシン御殿が16:50道の駅「江差」繁次郎浜所在地:北海道檜山郡江差町字尾山町1番地江差町の国道227号沿いにある日本海に面した道の駅である。「日本一小さい道の駅」とか。夕日が沈んでいるので急いで日本海に沈む太陽を撮影夕日が日本海に沈み、はじめて見る「だるま夕日」だるま夕日をズームアップもう数分早く着けばまた別な写真が初めて見るだるま夕日に感動した瞬間であった。今までほかの方の写真を見ていたが自分の目で見るのははじめて西の空が茜色に染まり繁次郎浜の木の看板わずか2分程のショーであったが、風もなく穏やかであった。夕日に、今日一日を感謝することを忘れたが西の空には残影が残る日の入りを見たあと、道の駅を改めてみる。江差民話の主人公「繁次郎」の像。今も愛される江差の頓知名人!「江差の五月は江戸にもない」と言われたほど、活気と華やかさに満ちていた江戸時代に実在したと言われる繁次郎。大変とんちに長けていて、町中に笑いを振りまいていたとか。パンフレットでは、鳥居の下に木彫りの魚がぶら下がっていたが風で落ちたのか、像の前に道の駅「江差」〈 町の紹介 〉江差町は北海道の南西部に位置し、北海道文化発祥の地といわれています。江戸末期から明治後期まで続いたニシン漁最盛期には「江差の五月は江戸にもない」と言われたほどで、「江差姥神大神宮渡御祭」や数々の文化財が残されております。また、江差追分発祥の地としても有名で、全国から選抜された追分の歌い手が集い、日本一ののどを競い合う「江差追分全国大会」が行われます。これらは、海上安全と大漁を祈願して行われる「かもめ島まつり」とあわせて ” 江差三大まつり ” とされております。〈 道の駅について 〉「道の駅」は、一般道路で安心して利用できる道路利用者のための休憩施設で、休憩・情報発信・地域連携の3つの機能を併せ持つ、個性豊かなにぎわいの場として、快適で質の高いサービスを提供するものです。「道の駅 江差」は江戸時代に実在したといわれる繁次郎の名をとった観光物産館『繁次郎笑店』があり、地元の特産品販売・地域情報・観光案内を行っています。また、附近には鰊御殿をはじめに、江差の歴史あふれる名所が数多くあります。営業時間は、9:00 ~ 17:0016:55EV充電スタンド。夕日を見た後、国道227号を走り新函館北斗駅前のホテルへと向かった。道の駅「江差」からの国道227号は渋滞もなく順調に走り、約60kmを1時間で北斗市内へ。ホテルへの途中、ガソリンスタンドへ立ち寄り満タンにする(117円/ℓ)、店員から明日から値上げするとのこと。また、店員に近くにスーパーがあるかどうか尋ね、紹介されたスーパーで今夜の酒のつまみと刺身等を購入、明日もまた来るので店を旅友がiPhoneに登録。19:41今日は食事前に2階の大浴場へ入浴後、部屋で宴会を開く。つまみは、イカ刺し、アジフライ、塩辛と豪華に!醤油&ソースも購入、明日の晩もこのコースか? 質素な旅です食事は道の駅「上ノ国もんじゅ」で購入した、平目帆立ご飯20:43食後はこれも道の駅「しりうち」で購入したブドウを食べる。330円と安かった!ワイン用ブドウ品種の、ナイアガラと巨峰であったが美味しかった。今日の走行距離は、松前半島を一周した250km、歩行数は 12,500歩でした。旅友が事前にチェックしていたポイントを滞在時間約5~60分の欲張ったブログ取材でした。明日は渡島半島の東側の亀田半島一周のドライブ。起床が5時半と早いので早々にベッドに入りいびきも関係なく爆睡。なお、ブログは明日から4日間「函館の旅」を離れてアップします。 - 続く -
2020.11.25
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続日本100名城の上ノ国勝山館を続けて散策。10月19日(月) 14:40搦手門を入り、館神八幡宮跡勝山館は南側から北側に向って下る斜面に築かれている館神八幡宮跡1473年松前氏初代武田信広は館の上に八幡神を祀り館神と称しました。この頃までに勝山館も出来上がったと思われます。高い部分を削り下げ、西から南を囲む土塁を造って柵を立て、正面に搦手門を設け堀を渡る橋を架けています。土塁の内側で堀立柱の建物跡と礎石立の建物跡が見つかりました。堀立柱は創建当初の社跡で、礎石は1770年に修理した本殿覆屋の跡と思われます。北東部分の土塁はこの頃に築かれたもののようです。現在の上ノ國八幡宮本殿は1699年に造り替えられたもので、1875年に現在地に遷された北海道最古の建造物です。勝山館空撮北東上空からの空撮。主郭部の中央を突っ切るように通路が造られていた様子がわかる。写真はパンフレットから引用上ノ国勝山館(かみのくにかつやまだて)勝山館は武田(蠣崎)信広の本拠地で、文明5年(1473)頃の築城と推定される。信広の子の蠣崎(かきざき)光広が永正11年(1514)に松前へ本拠を移すと支城の位置づけとなったが、慶長年間(1596~1615)初頭に廃城となるまで、蠣崎氏の北方日本海ルートの軍事・交易の中心的施設として栄えた。夷王山中腹の丘陵を利用して築かれ、尾根続きの南後方を堀切で切断し、本曲輪や北曲輪を構えた。復元整備された主郭部の建物跡や通路、二重の堀切などからは、日本最北の地に構えられた戦国期の城館の縄張を体感できる。堀立柱建物跡柵列跡発掘調査後、石と砂利で保存上ノ国町、江差町方面の内郷浜を見下ろす東の厳重な守り — 帯郭と物見櫓 ー勝山館跡の中央には幅3.6mの通路が通っています。道の両側に、広さ100~140㎡ほどの土地を階段状に造って住居などを建て、土地全体を柵で囲んでいます。中央の道の南東側は、宮ノ沢に向かって切り下げられ、沢のすぐ上の三段目は細い帯のようになっています(帯郭)。堀の上や郭の東隅、帯郭の上には物見櫓があり、帯郭に沿って小さな建物が並んでいます。館を守る兵が集まる小屋かと思われます。勝山館の東側は厳重に守られていたことが分かります。勝山館跡の中央には幅3.6mの通路が通っています。大手門側から搦手門方向を見上げる天気が良く、江差町方向の眺望がすばらしい右下は上ノ国町右は「住居の跡」中央の通りと櫓門勝山館跡中心部の中央を幅約3.6mの道が通っています。道の両端には、板と杭で土留めをした幅45cmほどの溝があり、両側の住居から流れ出る雨水などを流す工夫がされています。正面の橋を渡って40mほど中に入った所に、通りをまたぐように立つ、とても大きな四本一組の柱跡が見つかりました。遠くまで見渡す櫓門という高い門があったと思われます。四本一組の柱跡城代の住居あと城代の住居あとこの建物は城代(城主に代わって城を守る人)または重臣の住居と思われるもので、勝山館の中では客殿の次に大きく、立派な建物です。正面を中央の通りに向けた長方形の建物です。内部は客間、居間、寝室、台所などの部屋に分かれていたと思われます。柵のあと勝山館の中心部(主郭)は柵で囲まれています。溝を掘り、その中に丸太を立て並べ、柵を作ります。急な斜面や深い堀、櫓などとあわせ、敵からの攻撃を防ぎました。客殿のあとこの建物は勝山館跡の中ではもっとも大きな、中心になる建物で、館の主が使っていたと思われます。板塀で囲まれた約2,000㎡の敷地の中にあります。客殿は広さ約30㎡の正方形(三間九間)の部屋が二室続いています。南側の部屋は客人をもてなすための部屋(客殿)で、畳が敷かれ掛け軸などが飾られていたと思われます。その隣は居間(常居)、奥の部屋は寝室・書院(御座の間)などと考えられています。また客殿のまわりには別棟の玄関や台所と思われる建物や、庭、専用の井戸などもありました。発掘調査ではルソン壺と呼ばれる高級な茶壷などのお茶道具、紅を溶いた皿(紅皿)などが見つかっています。茶碗や皿などの食器も中国製のものが多く使われています。ルソン:現在のフィリピンのことですが、ルソン壺自体は中国製のものでした。庭のあと(左)庭のあと客殿の北西部に直径5mmほどの小砂利が一面に敷かれ、中央には直径12cm前後の平らな小石が立て並べてありました。石が抜けてしまった部分もありますが「平庭」のようなものだったようです。客殿の主は、北隅の書院(御座の間)からこの庭を眺めていたと思われます。寺ノ沢にある石積みの「鶴の池」の周りにも庭があったようです。鍛冶工房のあと鍛冶工房のあと — 鎧修理・作業場のあと —板塀で囲まれた敷地の西隅に、4×5mの範囲で小砂利が敷き詰めてありました。純度99%の銅の地金や銅を溶かす皿、炉に風を送り火力を高める鞴(ふいご)の羽口などの鍛冶作業に必要な道具や、釘317本、鎧を作る鉄の板(小札)149枚、鎧の銅製飾り金具37点などが見つかりました。館主の鎧を修理したりする作業場だったと思われます。井戸と板塀のあと井戸と板塀のあと客殿や城代の住居がある敷地は、南西部を一段高くして板塀を立て、ほかの地区とはっきり区別しています。客殿には広場に面した板塀の南端の門から出入します。板塀の近くには深さ5.2mの客殿専用の井戸がありました。客殿専用の井戸14:52大手空堀の東側大手空堀の西側大手空堀に架かる橋。ここで折り返してガイダンス施設の駐車場へ戻る中央の通りと櫓門の四本一組の柱跡北側から南側へと上る町割りの図中央の通りを上り、石碑には「搦手門」橋を渡り搦手門跡を振り返る夷王山墳墓群15:04上ノ国勝山館の散策は約30数分であったが、発掘調査後の説明が明確に書かれていた。夷王山山頂はスルーし、勝山館跡ガイダンス施設を後にし坂を下る15:18続日本100名城のスタンプをもらうため、カーナビをセット。訪れたところは、上ノ国町立上ノ国小学校でそれらしきところがなく、旅友がTELをして確認。上ノ国のおすいマンホール蓋デザインは、町の花 エゾヤマツツジ15:28電話をして確認したところへ移動。上ノ國町庁舎所在地:北海道檜山郡上ノ国町大留100目的地は、上ノ國町庁舎駐車場の右手にある「上ノ国町総合福祉センター ジョイじょぐら」の中にあった。電話では「鳥居のあるところ」と説明され探すが鳥居は無く、燈籠であった玄関先左の壁面に「 ジョイじょぐら」開館時間:9:00 ~ 21:00休 館 日 :毎週月曜日、12月31日 ~ 1月5日部屋が貸館になっており申請して借りれる、併設して町民図書館もあるようやくスタンプ置き場がわかる。旅友が続日本100名城の認定証を探すが見つからず上ノ国勝山館のスタンプ、これで、25/100 を制覇15:37スタンプ捺印後、海の駅 開陽丸へ向かう。庁舎を出て国道228号の前方の交差点に、日本では珍しいラウンドアバウト。右方向は道道5号線で木古内へ向かう、正面に江差線上ノ国駅跡。15:41国道228号から左に入ると石鳥居上之国館(洲崎館)跡所在地:北海道檜山郡上ノ国町北村92長禄元年に起こったコシャマインとの戦いで、功績を挙げた武田信廣が季繁の養女である安藤政季の娘を妻とし、同年築いた館とされています。平成18年国指定史跡石鳥居の手前に「上ノ国小学校発祥之地」 砂館小学校跡史跡 洲崎館跡長禄元年(1457)の戦いで功を挙げた武田信廣が上ノ国守護であった蛎崎季繁の養女である安藤政季の娘を妻とし同年築いた館である。またこの時信廣は「建国の大礼」を行なったとされている。その後信廣は地の利と景勝を誇る夷王山のふもとに勝山館を築き松前藩300年の基を作った。近年中国銭2,500枚、中国製青磁、白磁、国産の珠洲系陶器や人骨が発見されている。館の内部構造については未調査の為不明なところが多い。この館は武田・蛎崎氏が道南和人社会の中で支配者として成長する基礎を固めたところであり、更に和人勢力の移り変わりを知ることのできるところとして大変重要な遺跡である。又この館は北海道の館の中でただ一つ成立年代が明らかである。館の保存に御協力をお願いします。尚近くで工事等を行なう時には事前に連絡して下さい。 1991年8月 上ノ国町教育委員会鳥居の手前の石柱には「史跡 上之国館跡のうち洲崎館跡」石鳥居を潜り参道砂館神社の拝殿と狛犬砂館神社は、館を築いた際に守り神として毘沙門天を祀ったお堂や館が無くなった後も、そのまま残され明治4年に「砂館神社」とされ、現在でも参拝者が多い神社です 拝殿の扁額「砂館神社」15:45上ノ国小学校発祥之地 砂館小学校跡車はレンタカーの、トヨタ ROOMY5分の滞在で後にする15:49国道228号を北上開陽丸が見えてきたのでビュースポットに車を止める鷗島(かもめじま)開陽丸をズームアップ - 続く -
2020.11.24
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松前城(福山城)を後にし、今日の目的の一つ「続日本100名城の上ノ国勝山館」へ向かう。10月19日(月) 13:05途中、JR松前線の終着駅である、松前駅へ立ち寄る。北海道最南端の町「松前駅」所在地:北海道松前郡松前町博多北海道最南端の町松前駅 記念碑建立者 浄土宗 正行寺 住職 葛西辰瑞高さ:2.1メートル、奥行:1.65メートル、台座:1.8メートル土台には、レールと動輪をかたどったみかげ石造りです 昭和53年6月24日 除幕式 松前線のあゆみ大正元年 松前鉄道期成同盟会を結成大正12年 政府が松前線を敷設予定鉄道路線に加えた昭和12年10月 福山線(現・松前線)木古内 ー 渡島知内間開通 森越停車場開業昭和13年10月 福山線(現・松前線)渡島知内 ー 碁盤坂(現・千軒)間開通、湯ノ里停車場開業昭和17年11月 福山線(現・松前線)碁盤坂 ー 渡島吉岡間開通、渡島福島停車場開業昭和21年12月 福山線(現・松前線)渡島吉岡 ー 渡島大沢間開通昭和28年11月 福山線を松前線に改称。渡島大沢 ー 松前間開通、木古内 ー 松前間全通昭和31年9月 ディーゼルカー登場、客車と貨車が分離された昭和32年1月 松前線、白荷・及部停車場開業昭和36年11月 渡島大沢を旅客駅とする昭和38年6月 松前線にレールバス導入昭和38年12月 準急「松前」登場昭和45年12月 森越・渡島大沢を駅員無配置駅とする昭和46年4月 碁盤坂(現・千軒)を旅客駅とする昭和47年3月 碁盤坂を千軒と改称昭和57年11月 松前を旅客駅とする、松前線貨物営業を廃止昭和59年2月 松前線荷物取扱い廃止昭和59年9月 松前線特定地方交通線対策協議会開始昭和63年1月 松前駅廃止 松前線のあゆみを見てみると、旧国鉄のビジョンが良く見えない。何の目的で工事を進めたのか?花には蛾?駅前にあったであろう、観光案内所。案内図もあったのであろう木古内方向の線路は道路に改修反対方向も直線道路になっており、現在は桜並木になっている。約5分の滞在で後にする13:11国道228号(日本海追分ソーランライン)に戻り北上。道路脇には風力発電の風車が林立13:15折戸浜キャンプ場前駐車帯所在地:北海道松前郡松前町館浜ビュースポットの看板があり立ち寄り撮影。駐車帯になっていたがトイレはなかった。松前駅跡より北になるが橋桁のようなものがあったが何用?日本海には、松前小島が浮かぶ。国指定天然記念物の松前小島(上陸には文化庁の許可が必要)折戸浜海岸岩礁の上に灯台前回(平成28年10月)にもこの道を走っているが、風力発電の風車があったのか?13:47車で走っていると、木の先が白くなっており花が咲いているのかと思ったが停車してよく見ると、木の葉の裏が白く輝いていたようだ13:57再度、ビュースポットの看板があり車を止め撮影。天気が良く海の色が真っ青だが、冬はしけり前方の山は雪景色 風力発電が多くなっている14:06道の駅 上ノ国もんじゅ所在地:北海道檜山郡上ノ国町原歌3平成8年(1996)8月に道内34番目に登録された道の駅である。ポケモンのマンホール「ポケふた」が北海道に登場、アローラロコン中心のデザインで道内の15市町へ順次設置されている新日本 歩く道紀行 100選認定文化の道〈終点〉 天の川と戦国の山城を訪ねるみち 上ノ国町。下に降りると、伝説の場所 ” 神(かん)の道 ”上ノ国町観光マップ ようこそ上ノ国町へ観光案内図勝山館跡ガイダンス施設 ⑤北海道の日本海側における政治・軍事・北方交易の拠点として栄えた勝山館を200分の1スケールの模型や映像などでご案内しています。建物直下にある墓のうち、火葬墓、土葬墓の計7基の墓が発掘された。そのままに型取りされ、元の位置に復元されています。また、発掘調査での出土遺物も多数展示されています。史跡 上之国館跡 勝山館跡 ⑥松前藩祖の武田信廣が1470年頃に標高100mの丘陵に築いた山城で、16世紀末頃まで政治・軍事・北方交易の拠点として機能していました。発掘調査では、建物跡や中国・朝鮮・沖縄・本州産の出土遺物のほか、アイヌが使用した骨角器やアイヌ墓が見つかったことなどから、和人とアイヌの混住説が唱えられています。また、勝山館・花沢館・洲崎館の3館が上之国館跡と総称され国の史跡に指定されています。道の駅 上ノ国もんじゅ ⑧国道228号沿いの岸壁に建ち、日本海を見渡す絶景のロケーションと新鮮な地場産食材を提供するレストランや特産品販売所があります。裏手には伝説の場所 ” 神(かん)の道 ” があり、窓岩に差し込む夕日が神秘的です。また、四季折々の様々なイベントや観光案内所等も併設しており、まちの観光拠点施設となっています。道の駅の下は、伝説の場所 ” 神(かん)の道 ”道の駅名「もんじゅ」は駅から20メートル離れたところに立つ、知恵の仏・文殊菩薩に似た「文殊岩」から名付けられた入口に立つ、ゆるキャラ『カミゴン』店内の売店野菜、海産物、いけすで魚、土産物を販売館内からの江差方面道の駅にはドッグランもある知恵の仏・文殊菩薩に似た「文殊岩」館内の窓際に貼られていたせたな町から八雲町、乙部町、江差町と日本海で繋がる町を一望できます。奥尻島が見えるかも?もんじゅ岩の奥には奥尻島を見ることができます。夏には奥尻島に沈む夕日を見ることができます。” 景色がきれいだと感じた「道の駅」ランキング ” で2年連続TOP3に! オレンジ色の屋根の正体鷗島(かもめじま)のそばで目立つオレンジ色の屋根は江差町のえさし海の駅開陽丸隣には復元された開陽丸が見える・・・かもしれません。よく見ると、オレンジ色の屋根の「えさし海の駅開陽丸」が見えるズームアップこの後立ち寄ることにしている営業時間 4月~10月 9:00~17:00 11月~3月 10:00~17:00夜食用に、「カニ飯」「平目帆立ご飯」を各一個購入 @¥50014:30勝山館跡ガイダンス施設駐車場ヘ、後方は夷王山(いおうざん)。麓からの登山ルートもあるが、車であったので道の駅 もんじゅから坂道を上る。夷王山159mの頂上には夷王山神社がある石柱には「史跡上之国館跡のうち勝山館跡」 昭和52年4月12日 指定勝山館跡では、昭和54年~平成22年度にわたり実施された発掘調査によって多くの建物跡、中国・朝鮮・沖縄・本州産の出土品がみつかり、徐々に館の構造や当時の生活の様子が明らかになっています。現在、館の内部は柵・空堀・橋の立体復元、建物・井戸跡などの平面表示が進められ、勝山館の構造や人々の暮らしぶりを確かめながら散策ができます勝山館跡ガイダンス施設所在地:北海道檜山郡上ノ国町勝山427本来はここで続日本100名城のスタンプをもらうのだが、臨時休業中。このため上ノ国町教育委員会でもらう勝山館跡ガイダンス施設の入り口には「準備中」開館 午前10時よりの案内があったがインフォメーション開設期間:毎年4月第四土曜日 ~ 11月第二日曜日休 館 日 :毎週月曜日(ただし国民の祝日を除く)、国民の祝日の翌日開館時間:午前10時 ~ 午後4時夷王山墳墓群勝山館跡の背後から夷王山の麓のあたりに6地区に分かれて600基あまりの墓があります。2×1.8m、高さ40cmほどの土饅頭で、径が7mほどのものもあります。火葬した骨を箱などに納めて埋めたり、遺体を曲げて長方形の棺に納め北枕に土葬し、土や石を高く積んで墓を作っています。床銭や明銭、漆塗りの椀や盃が納められることが多いのですが、大きな墓には硯、玉なども副えられていました。いずれも仏教様式の墓と思われますが、シロシのついた漆器も副葬した墓やアイヌの流儀で葬られた墓もあります。また火葬の跡も見つかりました。これらの墳墓群には勝山館を築いた武田信広とその一族、さらには勝山館を中心に中世の上ノ国を支えた多くの人たちが眠っていると思われます。山の斜面にある、夷王山墳墓群。発掘調査されたのか白い標柱が潮風の中に沢山立っている熊 出没注意!!あわてて熊よけの鈴をリュックから取り出してつける旅友が立ち止まり撮影していたが ???この顔は、たぬき?夷王山墳墓群のアイヌ墓仏教様式の墓と隣り合って、頭を東に向け身体を伸ばして埋葬した墓が見つかりました。身体の脇や上に太刀を置き、漆器や小刀などをそえた男性の墓です。一人は錫製の耳飾りをつけています。江戸時代のアイヌの墓の様子と同じなので、勝山館の中にアイヌの人達がいたと思われます。このすぐ北は斜面を削って砂利を敷いた墓所で、小屋根をかけた墓や、アイヌの子供のものと思われる墓もあります。勝山館跡ガイダンス施設から森の中を下っていくが、熊の出没が気になる勝山館の後ろの守り — 神仏に守られて —1470年頃、夷王山の東に勝山館が造られました。館の中心部は二つの沢に挟まれた丘の上で、周りの柵や、前と後ろの空堀(水のない堀)などで守ります。堀に架かる橋から続く道が館の中央を通り、道の両側には住居などが建っていました。一番高いところに館の守護神、館神八幡宮があり、夷王山(医王山)には薬師如来などが祀られました。山の麓には勝山館跡の後ろを取り囲むように650あまりの墓があります。勝山館の後方は神仏や祖先に守られていたことが分かります。この近くからは、ゴミ捨て場や井戸、池、倉庫の跡なども見つかっています。寺ノ沢の空堀跡Ⅰ搦手の守り空堀に架かる橋を渡ると搦手門がある搦手の構え城の正面を大手といい、背後を搦手といいます。勝山館の両側は寺ノ沢と宮ノ沢に深く刻まれ、天然の要害になっています。後ろ側の尾根が細くなったところを掘り切って空堀を作り、内側に土塁を高く築いてその上に柵をめぐらせ、厳重に守りを固めています。土塁の中央には門を構え、空堀Ⅲは断面がV字型の「薬研堀」となっていました。空堀は15世紀後半から16世紀の間にⅠからⅢの順に造り替えられていますが、ⅡとⅢは一緒に使われた時期であったとも考えられます。14:40勝山館の後方から搦手門跡を入る - 続く -
2020.11.23
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松前町郷土資料館の見学を続ける。10月19日(月) 12:17正確になった北海道の地図、本州に移封された松前氏正確になった北海道の地図松前藩は、現在の北海道、千島及び樺太南部の広大な土地を領地とし、面積では日本最大の藩でしたが、その大部分がアイヌ民族の居住地であったために、藩領の地図も江戸中期頃までは、不正確なものでした。ところが、18世紀末に入って、幕府が北方への関心を示し、蝦夷地の調 査を行なうようになってから、次第に正確な地図がつくられるようになりました。左:元禄御国絵図(写) 元禄13年松前藩が幕府に提出した地図。中:蝦夷興地全図(写) 天明5年山口鉄五郎 外幕府の調査隊が作成したもの。右:蝦夷国測量図(写) 寛政―文化年間、伊能忠敬・間宮林蔵の調査隊にもとずいて作成したもの本州に移封された松前氏寛政11(1799)年、幕府は松前藩から東蝦夷地をとりあげて仮直轄し、さらに享和3(1803)年には、永久直轄しました。その後、文化4(1807)年には松前氏を福島県の梁川(やながわ)に移封し、全蝦夷地を直轄してしまいました。これより、以後14年間、松前氏は、梁川藩9,000石の領主になり ” 松前藩 ” は消えてしまいます。左:福山館と福山城 安政元(1854)年の新城完成までの福山城は、正式には館または陣屋と称されました。 嘉永2(1849)年、松前氏は城主となったため、この時から正式に福山城となりました。左下:福山城の築城 幕末になって諸外国船の津軽海峡往来がはげしくなると、幕府は、北方警備のため嘉永2 (1849)年、松前崇広に築城を命じました。安政元(1854)年に落成したこの城は、日本最 後の旧式の城です。右:3万石の大名 安政2(1855)年、箱館を含む大部分の領地が、幕府の直轄となり、代って、東北地方に、 領地をもらったため、この時から松前氏は、3万石の大名になりました。 左の領地:文政5(1822)年 ~ 安政元(1854)年 右の領地:安政2(1855)年 ~ 明治4(1871)年箱館戦争松前は、明治元年11月、榎本武揚の率いる旧幕府軍の攻撃を受け、館城も落城し、藩主以下津軽へのがれました。翌年、官軍によって松前は、奪還されましたが2度にわたる兵火のために城下の大半が焼失してしまいました。城下の人々にとって、戦争は物心両面に大きな傷あとを残しました。町内出土の砲弾・弾丸左:洋式銃の弾丸、右:火縄銃の弾丸錦切(きんぎれ)官軍側の兵士が目印のため肩につけたもの陣羽織松前藩家臣 駒木根家着用のもの12:21《 現在の松前 》国道が敷設され、護岸工事が行われたことで、往時の海岸線をしのばせるのは小松前川河口付近のみとなりました。丘の上には次に訪れる日本100名城の「松前城(福山城)」。郷土資料館も足早に見学、約20数分の滞在で後にしたが、アイヌの一部を知ることができた。12:33松前城の無料駐車場へ駐車。桜の木の手前には、コスモスがきれいに咲いていた松前町内指定文化財松前城の多門櫓跡松前城所在地:北海道松前郡松前町松城144松前城は、西蝦夷地福山にあった日本の城。江戸時代、公式には福山城と記されたが、当時から備後福山城との混同を避けるため松前城とも呼ばれていた。松前城(福山城 ― 国指定史跡)今から約700年以前の鎌倉時代から和人が移住し、戦国時代の終り頃には和人政権の拠点となり、その後、武田信広(松前家始祖)がコシャマインの戦(1457)を平定し、蛎崎家を継ぎ、その子光広(松前家二世)以降代々福山館ができるまで大館に城を築いていた。五世慶広の時、松前氏に改め、幕府より蝦夷地における支配権を認められ松前藩が成立。十七世崇広が徳川幕府から北辺警備の命を受け、高崎藩の市川一学の設計により安政元年(1854)に日本最後の旧式築城として完成したもので、約76,000平方メートルを有する堂々たる城郭であった。特に城内に砲台を構え、一見簡素に見える天守閣も、火器戦争には最もがん丈な意匠構造で、従来の日本式に西洋式が加味されている点は、全国的にも特異な城である。その背景には、ロシアの南下など外国船の日本侵略を防ぐ目的があって、松前城は北辺警備の重大な役割を果たしていた。現在の天守閣は、昭和36年に再建されたものである。 松前町松前城資料館展示案内 3階(展望室) 福山城(松前城)古写真パネル 2階 松本家・アイヌ民族関係資料 1階 松前藩・松前神楽関係資料 地下 (北海道命名150年記念) 福山城縄張図・松前奉行所図入館料 大人 360円 小人 240円前回、資料館に入っているので今回はスルーした。松前城は、日本100名城で、平成28年(2016)10月28日(金)に登城捺印している武田氏略系源 頼義 八幡太郎義家、新羅三郎義光=三世孫信義(甲斐武田氏祖)— 信光(安芸武田氏祖)六世孫信繁(若狭武田氏祖)甲斐武田は晴信(信玄)より勝頼に及び、安芸武田は光和より光廣に及び、若狭武田は元明に至りいずれも滅亡せり。松前城天守閣国宝だった天守は昭和24年に焼失したため、昭和35年に鉄筋コンクリート造で外観を復元したものを再建。緑色凝灰岩で造られた切込接の低い石垣が見事。石垣には戊辰戦争のときの弾痕が今も残っている。重要文化財 福山城(松前城) 本丸御門本丸脇にある櫓門で、安政元年(1854)に建立。築城時から現存する門は国の重要文化財。扉に鉄筋を張ってあり、この石垣も本丸同様に美しい。本丸御門と天守閣重要文化財福山城(松前城) 本丸御門修理概要等福山城(松前城)は、松前町福山の台地に築かれた平山城で、近世に築城された北海道唯一の城郭である。松前家五世慶広が、天正17(1589)年徳山(大館)の居館焼失を機に、慶長5(1600)年福山の地で築城に着手し、同11(1606)年完成した。蝦夷地の中心として威容を誇ったこの城は、嘉永3(1850)年幕府の命により取り壊され、高崎藩士市川一学の縄張りにより、直ちに全面的な改築に着手し、安政元(1854)年完成をみた。その後十数年を経ずして、明治維新の戦乱により廃墟と化し、さらに明治8(1875)年には、天守(三重櫓)・本丸御門・同東塀等を残して取り壊された。昭和16年これら三棟は、国宝に指定されたが、同24年本丸御門を残して他の建物は焼失し指定を解除された。同25年文化財保護法の施工により、本丸御門は重要文化財に指定された。本丸御門は、昭和24年屋根葺替部分修理を行っているが、修理後35年を経て、屋根銅板が摩耗し雨漏りが生じるようになり、また昭和58年の日本海中部地震により、柱の傾斜等が生じたため屋根葺替部分修理を実施した。実施に当たっては松前町の直轄工事として、設計管理を松前町教育委員会文化財課が担当した。石碑には「長尾山椒」の漢文長尾山椒(秋水) 松前城下作詞海城寒柝月生潮 かいじょうのかんたくつきうしおよりしょうじ波際連檣影動揺 はさいのれんしょうかげどうようす従比五千三百里 これよりごせんさんびゃくり北辰直下建銅標 ほくしんちょっかどうひょうをたてむ漢文の解説松前城下には、寒い夜、夜回りの拍子木の音が響いている。今上がってきた月は、まるで潮の中から生まれて来たようだ。(松前の港のにぎやかなようす)波打ち際にたくさんつながれている船のたちならぶ帆柱の影が、しきりと揺れ動いている。(城内や津軽海峡のようす)ところで、この松前の地から五千三百里の彼方にある北極星の真下(つまり北極点)にここまで我が国だという国境の標を建てたいものだ。北海道指定有形文化財「旧福山城本丸表御殿玄関」旧福山城本丸表御殿玄関慶長11(1606)年に完成した城は当時これを福山館と称していた。しかし、寛永14(1637)年城中より出火し、多くの建物を焼失、同16年これを修築した。その際、表御殿には京都伏見城の一部が移されたと伝えられている。明治8年、北海道開拓使の命令により福山城は取り壊されたが、天守と本丸御門、表御殿は残った。表御殿は松城小学校として充用され、明治33年新校舎が完成した後もこの玄関だけは小学校正面玄関として、昭和57年まで利用されてきた。 昭和38年7月26日 指定城内には、松前藩時代に植えられた桜の古木本州から渡って来た人々が、遠く離れた江戸や都をなつかんだりして木を植えたことがきっかけで、多くの桜がある津軽海峡を見下ろす遠く竜飛崎が見え、右側の海上にはうっすらと山がズームアップ、白神岬ではうっすらと岩木山見えていたが、より鮮明にカメラを左に振ると、下北半島方面松前城前にある、青木郭公の顕彰碑と桜前線本道上陸標準木(ソメイヨシノ)の標柱松前公園には約250種1万本を数える桜が植栽されており、早咲きから遅咲きまで約1ヵ月にわたり順に咲き誇り多くの観光客が訪れる青木郭公の顕彰碑北海道暁雲社の主宰で大正年間より昭和初期にかけて、活躍した本道俳句の代表的先生で、「高潮や城門を吹く花の雲」と刻まれております。鎌倉翁の顕彰碑鎌倉翁の顕彰碑松前桜の育ての親、鎌倉翁の顕彰碑。鎌倉翁は大正10年頃より約50年間松前の桜を育て、多くの品種を造りあげた方でございます。昭和43年91歳で亡くなられました。この辺りの史跡さくらまつりが開催されるエリア。松前桜、三大名木の、龍雲院「蝦夷霞桜」、光善寺「血脈桜」、天神坂門「夫婦桜」がある。他に、桜見本園、新桜見本園、第二公園天守の手前に蓮池隅櫓(すみやぐら)跡と、右に、搦手二ノ門隅櫓(すみやぐら)この櫓は、東郭にあり、主に東方から侵入する敵を監視する位置にあります。東郭は、内堀を挟み本丸へ通じる重要な郭で、搦手升形・北郭とともに東方の備えであり、その要となる建物がこの隅櫓でした。櫓の規模は、絵図『福山城見分図』から、一階の柱芯間が桁行四間(7.272m)、梁間三間(5.454m)であったことが判ります。また、発掘調査を行った結果、出土した土台石の規模が、絵図寸法と一致することが判明しました。櫓の構造は、屋根は銅板葺で、壁は大壁(柱を外部に出さない壁)の二重櫓であったことが、慶応3(1867)年に撮影された古写真から判ります。搦手二ノ門搦手二ノ門下から三ノ丸中央奥に天神坂門外堀と砲座外堀は二ノ丸と三ノ丸の間にあり、三ノ丸には7基の大砲がすえつけられていた。三ノ丸の左奥にある砲台の台座左手の馬坂搦手二ノ門搦手二ノ門を入り二重太鼓櫓(にじゅうだいこやぐら)跡二重太鼓櫓この櫓は、二ノ丸南東隅にあり、城内三ケ所ある二重櫓のうち、敵の侵入を監視するうえでも最も重要な位置にあって、海上はもとより海岸線、市街地、三ノ丸と、広範囲を見渡すことが出来ました。また、平常時にはその名のとおり、太鼓を打ち、時を知らせる役割をし、櫓の西に接して『太鼓番居小屋』があり、その管理をしていました。櫓の規模は、絵図『福山城見分図』から、一階の柱芯間が四間(7.272m)四面であったことが判ります。また、土台石は発見されませんでしたが、発掘調査で出土した土台下の地業(地下構造)の規模が、絵図寸法と一致することが判明しました。櫓の構造は、屋根は銅板葺で、壁は大壁(柱を外部に出さない壁)であったことが、慶応3(1867)年に撮影された古写真から判ります。二重太鼓櫓跡から、搦手二ノ門下を望む12:57同場所から、天守を望む桜の木がたくさん植えられており、4月下旬から5月中旬まで桜祭りが開催される。北海道新幹線の開通で、木古内から訪れる人も多くなったのでは?日本100名城の松前城(福山城)を約30分の散策で後にする。 - 続く -
2020.11.22
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北海道最南端の白神岬から国道228号を北上し松前町へ。10月19日(月) 11:39白神岬展望広場9月から12月は渡り鳥の探鳥ポイントである。北海道から津軽海峡を越えて本州へ向かう渡り鳥が300種以上も数えられ、日本屈指の渡り鳥の休息地になっている。トイレも完備していて、ちょっとした観光スポットです。松前矢越道立自然公園追分ソーランラインの看板はネットでは上についているのだが、下に取り付けられていた。国道228号の前方に陣屋覆道伊藤整 生誕の地「伊藤整 生誕の地」碑伊藤 整(いとう せい、1905 ~ 1969 64才没)本名は伊藤 整(いとう ひとし)1905年(明治38年)、北海道松前郡炭焼沢村に生まれ、その後、塩谷村(現小樽市)に移住し、北海道庁立小樽中学校(現潮陵高校)を経て、小樽高等商業高校(現小樽商科大学)を卒業し、小樽市中学校(長橋中学校)の英語教師に就任。2年後に教師を退職して上京。詩人として出発するが、小説家・評論家に転じる。ジェイムス・ジョイスの「ユリシーズ」、D.H.ローレンスの「チャタレイ夫人の恋人」を翻訳紹介。小説「鳴海仙吉」「火の鳥」「若い詩人の肖像」「氾濫」「変容」など、評論「小説の方法」「日本文壇史」など。1967年、日本芸術院賞を受賞、翌年、日本芸術院会員に選定される。生誕地の炭焼沢村とは、現在の松前町字白神であり、生まれた場所からは離れていますが、白神地区としてこの地に生誕の碑を設置しました白神岬展望広場からの松前市街地方面。美しい海岸景勝と野生鳥獣の生息地である白神岬は、新たなサンクチュアリ(聖域)として注目されています。また、南に津軽海峡、東に太平洋、西に日本海と三方を海に囲まれていることからヒヨドリ、ハヤブサ、ムクドリなど、多くの野鳥を目にすることができる。1,000羽ちかいヒヨドリの群れも右側にひょっこり立っているのが「キノコ岩」栄養たっぷりなカラス11:51国道228号沿いの旧松前線の橋桁荒谷と大沢の間を流れている「ヒジノ下川」にある松前線の橋桁松前線は、木古内駅で江差線から分岐し、松前郡松前町の松前駅までを結んでいたが、昭和63年(1988)2月1日に全線廃止となった12:01日本百名城の松前城へ行く前に、旅友のKさんが事前に調べていた郷土資料館へ立ち寄る。松前町 郷土資料館所在地:北海道松前郡松前町神明30図書館などと併設した公共施設内にあり、無料で見学することができる。松前の歴史が解説されている。特に近世以降、力点を置いて解説しているが、松前氏のみならず、北前船、アイヌの先史時代、そして松前神楽や松前の自然についても展示を交えながら解説している。資料館の壁面には「祝 平成30年3月8日 国の重要無形民俗文化財指定 松前神楽」松前町町民憲章私たちは天守閣のそびえる北海道の古都松前町の町民です。新生松前町発足二十周年にあたり、先人の業績をたたえるとともに、町永遠の発展と町民のしあわせをねがい、みんなが力を合わせてその実現をはかるため、私たちの生活のめあてとしてこの憲章を定めます。 一、力を合わせて産業をおこし、豊かな町にしましょう。 一、自然を愛し、美しい町にしましょう。 一、若い力を育て、明るい町にしましょう。 一、先人の遺産をだいじにし、文化のかおり高い町にしましょう。 一、互に仲よく助け合い、平和な町にしましょう。昭和49年9月19日制定 金子 鷗亭 書金子 鷗亭(かねこおうてい)松前町出身の金子鷗亭(1906~2001年)は、近代詩文書の父と呼ばれた書の大家。玄関のドアーに本日、公民館・図書館の休館日です。なお、郷土資料館のみ開館しております。郷土資料館を見学するので館内へ入る。 開館時間:9時 ~ 17時(16時30分までに入館) 開館期間:4月10日 ~ 12月10日・期間中無休/入館料 無料施設利用の皆様へ「新しい生活様式」の実施をお願いします。一階での、新型コロナウイルス対策入口で機器の前に立ち検温検温で異状なしで靴を脱ぎ、足でペダルを踏みアルコール消毒。郷土資料館は二階にアルコール噴霧スタンド使用方法2階の松前町郷土資料館入口2階のロビーには「北前船渡航〇」松前屛風〈 道指定有形文化財 〉江戸中期ごろに活躍した松前の画家、小玉貞良の手による宝暦年間の松前城下の半双屏風の全景です。蝦夷地の交易に活躍した近江商人のひとり、恵比須屋岡田弥三右衛門が描かせたものといわれています。高さ約1.6m、横約3.7mの屏風に、当時の風俗や盛んな交易の様子などが克明に描かれています。郷土資料館内に入る先史時代からの松前の歴史、暮らしに関する資料を展示。町内各地で発掘された縄文土器等も紹介している。大津のむら(想像図)大津のむら(想像図)大津遺跡(松前町・江良)は、縄文時代後期(約4,000年前)の遺跡です。豊かな海と山の幸に恵まれた自然の中で数軒がまとまって村をつくり、人々は、共同で生活していました。発見された土器などから、青森県や秋田県と深いつながりのあったことがわかります。竪穴住居住居内にはシャケを干し縄文から続縄文縄文から続縄文数千年間つづいた縄文時代は、さらにいくつかの時期に分けられ、地域によって、多様な文化を生み出していきました。やがて本州では、米作を土台にした弥生文化へとうつっていきましたが、北海道では、米がつくれなかったため、依然として、狩猟生活をつづけていました。このころの文化を続縄文文化と呼びます。正面のブース「擦文(さつもん)文化とアイヌ民族」手前左のブースは「アイヌ民族・社会」 アイヌ民族は、依然として狩猟・漁労による生活を続けていましたが、もう土器は使わず 生産用具も本州から手に入れたものを、多く用いるようになっていました。 しかし和人の勢力はまだ及ばず、民族独自の世界をつくっていました。擦文文化とアイヌ民族続縄文文化のあと北海道の文化は、擦文文化へと移っていきました。この文化は、鉄器を用いるなど本州の新しい文化の影響を強く受けた文化です。この人々は、アイヌ民族の祖先とも考えられていますが、まだ明確な答はでていません。甲 冑駕 籠この駕籠は華遊山龍雲院から寄贈を受けたもので、僧侶か身分の高い侍の使用したもので4人で担ぎました。近江商人の出身地江戸時代に活躍した近江商人は、全国的には、八幡・五個荘・日野の出身者が非常に多かった のですが、松前で活躍した近江商人の大部分は、近江八幡及び薩摩と柳川の出身者でした。近江商人の交易ルート図松前交易で活躍した近江商人は、主に、福井県敦賀・小浜の海産問屋と取引をしていたため、松前産物の多くは、両地へ集められ、琵琶湖経由で京都・大坂などの市場へ送られました。沖の口役所の絵沖の口役所松前藩は、松前・江差・箱館の3港に沖の口役所を置いて、出入りの商品や船・人馬をきびしくとりしまりました。この絵は、松前沖の口役所で、上陸したばかりの人たちがきびしい取調べを受けているところです。北海道指定有形民俗文化財『 求福山山車 胴幕 』北海道指定有形民俗文化財「求福山山車の人形その他付属品」求福山山車 胴 幕松前城下を代表する山車の一つが求福山高砂山であった。城下の七社祭礼には、このような豪華な山車が各町内から引き出されたいへんなにぎわいであったという。側面に張られた幕が胴幕で、孔雀の雌雄をデザインした幕である。オランダ製の赤の羅紗地に金糸・銀系をふんだんに用いた刺しゅうで、往時の松前の繁栄を象徴するものであり、製作は京都と考えられている。近年、傷みが激しいため、昭和63年度には道費の補助を得て修復をしている。 唐津町内会所蔵城下のにぎわい江戸時代の松前は、北海道唯一の城下町として、また本州交易の中心地として、発展し、繁栄しました。数多くの武士とともに、蝦夷地の富を求めてやってきた商人や船のりたちのむれ・・・・・・・。そこには、松前特有の文化が花ひらきました。北前船とは北前船とは通称 ” 弁財船 ” と呼ばれ、おもに、日本海を舞台に大坂から下関を経由して、松前交易にたずさわった一枚帆の和船のことです。また経営のしかたが、荷主などに依頼されて商品を運ぶ運賃船とちがい、船頭が即商人であり、船頭の意志で、各寄港地で商売をする買積船であったところに大きな特徴がありました。北前船と、沖口役所の標柱(右側)《 沖口役所の標柱 》沖口役所とは、現在の税関のような機能を備えた役所であり、松前、江差、箱館の三港におかれた。この標柱は松前藩の復領後建てられ、地下から偶然発見されたものである。 銘 文政癸未歳次建立(文政六年(1823)建立)正月船北前船の船主や船頭たちは正月には一年の航海安全、商売繁盛を祈って持ち船の模型を飾った。この船もそうしたものの一つである。 今 美奈子氏所蔵奉納船 荒谷稲荷神社蔵北前船の航路北前船の船主には、加賀の大乗寺、橋立、越前の河野、敦賀など、富山、石川、福井、沿岸諸港の人たちが多く、彼等は、日本海を舞台に、活躍しました。道指定民俗文化財 求福山の人形とその附属品扁額は「求福山」アイヌ民族のたたかい封建制社会のなかにおかれたアイヌ民族はたえきれない抑圧に、命をかけて戦いました。そのうち最も大きな戦いは、康正2年(1456) ~ 長禄元年(1457)の道南地方を舞台にしたコシャマインの戦い、寛文9年(1669)日高から石狩までの広い範囲のアイヌ民族がたちあがったシャクシャインの戦い、さらに寛政元年(1789)、クナシリ、根室地方を舞台にした戦いです。 ・コシャマインのたたかい ・シャクシャインのたたかい ・クナシリ・メナシのたたかい 高利をもたらしたアイヌ交易漁場年間賃金:アイヌ(1 ~ 2両)、和人漁夫(7 ~ 8両)交易価格:買価格、売価格アイヌ人口の減少蝦夷地の開発がすすむにつれ、アイヌの人口は著しく減少していきました。中でも、道南地方はじめニシンやシャケ漁が発達した西海岸及び根室、国後地方が、最もはなはだしく、ニシン漁場で有名な小樽、歌棄(うたすつ)、磯谷、寿都(すっつ)などは、明治初年頃には、全滅ないしは、わずか数人という状態になっていました。アイヌ人口の推移(北海道:千島・樺太) 文政5(1822)年 24,339人 安政元(1854)年 18,805人 明治6(1873)年 18,644人 12:16北方に目をむける幕府江戸時代の終わりころになると、幕府は、産物の豊かな蝦夷地に、特別な関心をよせました。ロシアが、蝦夷地周辺に南下したのを機会に、松前氏から領地をとりあげ、蝦夷地を、直轄してしまいました。 - 続く -
2020.11.21
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松前郡福島町は、「青函トンネル記念館」「横綱の里 ふくしま」で知られている。10月19日(月) 10:44福島町 青函トンネル記念館所在地:北海道松前郡福島町字三岳32-3開館期間:3月17日 ~ 11月30日 期間中無休 9:00 ~ 17:00入館料:大人 400円 横綱千代の山・千代の富士記念館共通入場券 700円くろしお Ⅱ号くろしお Ⅱ号青函トンネルの海底地質調査では、海底のようすをじかに観察する豆潜水艇が活躍しました。1960(昭和35)年に導入された「くろしお Ⅱ号」は、200mの深さまで潜ることができました。また、海底の岩石を採取したり備え付けのボーリング機械で岩石の試料を採取することもできたので、貴重な調査データが数多く得られましたトンネルの形状をした、青函トンネル記念館広い無料の駐車場がある2016年3月の北海道新幹線の開業で、再び脚光を浴びた青函トンネル。その工事は工期20年以上、延べ1,400万人が携わった一大国家プロジェクトで、福島町は北海道側の基地でした。トンネルの姿を模したこの記念館は、日本が世界に誇る「世紀の遺産」が誕生するまでのすべてを体感できる、トンネルミュージアム。世界初の水平ボーリングに代表される高度な技術情報、工事記録などをパネルや大型映像を通して紹介しているほか、ここでしか見ることができない貴重な設備重機も展示している屋外に展示されている機器排水ポンプトンネル内の湧水を地下300mのためますに集めた後、一気に地上まで排出するポンプです。トンネル内には常にわずかな湧水があるため、この排水ポンプはトンネル機能を維持するための重要な設備のひとつです。青函トンネル記念館内に展示されたボーリングマシン * 展示しているTBMは、カッターヘッドとドラム部分です先を急ぐので館内の見学はスルーして屋外の展示品コーナーへトンネル ボーリングマシン TBM836型3.6mの大きさでトンネルを掘り進むことができる器械です。前面のドラムについたカッターヘッドが回転して岩盤を切り削って進みます。青函トンネル工事では、先進導坑及び作業坑で改良を加えながらめざましい活躍をし、総延長3,500m掘削の実績をあげました試すい機用送水ポンプ試すい機用送水ポンプトンネル工事では、掘り進む前に孔をあけて前方の岩石を取り、地質を調査する試すいを行います。このポンプは、試すいで掘っていく孔の先端へ水を送り、切り削られた岩石(切り粉)を孔の外へ流し出す役目をします屋外には多くの展示品緊急用排水ポンプ台車緊急用排水ポンプ台車昭和51年5月、北海道側吉岡作業坑で発生した異状出水により、固定ポンプが完全に水没して使用できなかったため、緊急に導入されました。排水に大きな力を発揮してトンネル水没をまぬがれ、青函トンネル工事史上最大の危機を乗りこえることができました。アジテーターカーアジテーターカー混合した生コンクリートを運搬する車です。コンクリートを使用する場所に着くと、ドラムを回転させ、混合しながら生コンクリートを供給します。陸上で使われているミキサー車と同じ役目をします。試すい機試すい機トンネルを掘り進む前に、前方の地質を調べる試すいを行う機械です。最先端にダイヤモンドまたは・・・・・・・・・・・・・・回転させながら岩石の中を切り込み、鉄管の中に・・・・・・ 解読できず福島町青函トンネル記念館記念館入口にある、軸流送風機軸流送風機トンネル工事中、トンネルの中の温度、湿度がともに高く、作業のために空気が汚れます。常に、作業現場に新鮮な空気を大量に送り、仕事がしやすい環境を保つため、この送風機を補助として使用し、斜坑口から採り入れた新しい空気を切羽(トンネル・・・・)・・・した。座り込んで銘板をチェックする旅友ふくしま歴史名所双六いろんな史跡を双六で尋ねるのも面白い試みである10:54約10分の急ぎ足の見学で福島町トンネル記念館を後にした。屋外の展示品の説明板が疲れていたのでメンテしてほしいものです。10:57道の駅 横綱の里 ふくしま所在地:北海道松前郡福島町福島143-1営業時間 9:00 ~ 17:00 日曜定休国道228号に沿ってあり、「横綱千代の山・千代の富士記念館」の手前にある新鮮な海産物を活かした加工品を中心に販売。特に日本トップクラスの生産量を誇るスルメや昆布、乾物は種類豊富に揃っている道の駅の先にある、「横綱千代の山・千代の富士記念館」所在地:北海道松前郡福島町福島190営業時間 9:00 ~ 17:00 開館期間:3/17 ~ 11/30 期間中無休入館料 大人 500円第41代横綱千代の山、第58代横綱千代の富士生誕の地である福島町。この二大横綱の偉業を讃えたミュージアムです。貴重な所蔵品の展示や、両横綱の手形と自分の手形を合わせた記念手形を発行できる体験は人気館内には、千代の富士が断髪した際の大銀杏、千代の山が絞めた雲竜型の綱、優勝トロフィー(複製)など、展示の大半は二大横綱から寄贈されたもの。1階には、九重部屋の稽古場と土俵を再現。毎年夏、同部屋の合宿が行われ、朝稽古の様子は一般公開されています10:59この前を通るのは、平成28年(2016)10月28日以来二度目。千軒そばが食べれなかったので、記念館前にあるセイコーマート福島でおにぎりを購入11:12国道228号を進むと新しい像が目に入り立ち寄る。伊能忠敬北海道測量開始記念公園所在地:北海道松前郡福島町豊浜68-3我が国初の実測日本地図を作った伊能忠敬が、北海道の測量をスタートさせた地点である吉岡に、伊能忠敬没後200年を記念して2018年4月27日に完成した記念公園の横を国道228号が走る道路標識には函館まで 78km、知内まで 30km何か疲れたような姿の「伊能忠敬翁銅像」当時55歳であったので当然な姿か伊能忠敬の北海道測量開始地点は福島町吉岡55歳の伊能忠敬は寛政12年(1800)閏4月19日(新暦6月11日)江戸深川の冨岡八幡宮に参拝後、師匠の幕府天文方高橋至時に挨拶し、蝦夷地といわれた北海道に向って測量の旅に出発した。年内に測量を終わり、地図を作成提出する計画だったので、大急ぎで奥州街道を北上し5月10日に津軽の三厩(青森県外ヶ浜町)に到着する。津軽藩の役船で函館に渡ろうとしたが、風が悪く八泊も風待ちし、5月19日漸く出航。しかし途中で風が変わり、やむなく福島町吉岡に着船。一泊して風を待ったが変わらなかった。(注)幕府折衝に手間取った為であるが、北海道まで往復して地図を作るのに、新暦6月11日の出発では大変遅すぎた。時間が限られていたので、決断して吉岡から函館に向って測量をはじめる。一日一日が非常に貴重だったから、測量しながら歩いたに違いない。吉岡は伊能測量隊の北海道測量開始地点となった。函館でも諸手続きのため七泊しているが、函館山に登って本州の目標との方位を計ることができた。6月1日北斗市市ノ渡に先輩村上島之丞を訪問、従者だった間宮林蔵に出会い御縁が結ばれた。北海道東南岸を厚岸の近くまで歩測し、さらに別海で天測したあと引き返す。福島で天測し、吉岡を経て、松前まで測って役船で三厩に戻る。江戸帰着後は内妻お栄も動員してデータ整理と地図の製作にあたった。提出は12月21日、年内ぎりぎりだった。(注)5月19日「松前領吉岡という所へ昼九ツ後に着。暫時見合候ても同風に付吉岡に泊」(国宝・伊能忠敬測量日記より) 2018年3月吉日 伊能忠敬研究会名誉代表 渡辺 一郎天気が良く海の色も真っ青だが冬は暗いイメージにズームアップ記念公園の駐車場から津軽海峡を振り返るJR海峡線、青函トンネルはこの辺りの下を通っている11:26白神岬(しらかみみさき)北海道松前郡松前町に位置する北海道最南端の岬。北緯41度23分 東経140度12分石碑には「白神岬」海底下の 列車のひびき 聞こえて来て 白神岬は さざ波の列 清一あなたは今北海道最南端(北緯41度 東経140度)に立っております。石碑の裏に作者 村上清一は白神生まれ、教師として20年白神小学校、大沢中学校に努め歌集(岬みち)等を残してふるさとを深く愛しました。 村上清一歌碑建立協賛会 発起人 白神小学校 大沢中学校 同窓会一同 一般賛同者一同 昭和63(1988)年11月23日 建立 平成25(2013)年11月23日 改修白神岬から東方向を望む国道228号(日本海追分ソーランライン)の海岸線を走ってきた天気が良く本州側の津軽半島が良く見えるのでしばし撮影に対岸の津軽半島、竜飛崎が良く見える。津軽半島の竜飛崎までは 19.2キロメートル 対岸の津軽半島の竜飛崎の右後方にうっすらと山が見えるよく見ると岩木山がうっすらと見えるがこの辺りの地図下北半島方向も11:34白神岬灯台北海道松前郡松前町の白神岬に建つ、北海道最南端の灯台灯 高:17m(地上ー塔頂)、灯火標高:37m(平均海面—灯火)初点灯:明治21年(1888)9月15日白神岬灯台の後方の山にはレーダー左は渡り鳥の群れか - 続く -
2020.11.20
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鶴岡農村公園から南下して国道228号へ向かう。10月19日(月) 8:59道道5号線(江差木古内線)を南下、前方に北海道新幹線の高架道路の左側に「北海道新幹線 ビュースポット → 」の標識が目に入り右折9:02北海道新幹線ビュースポットと書いた展望台。高さ約4メートルの展望台から、新幹線の線路を見下ろします。木古内駅から約3キロの場所で新幹線を真正面から見ることができる貴重なポイント展望台登り口に北海道新幹線ビュースポット通過時刻表・町内観光見どころ掲示板 ~秋ver.~現在時間 9:04、次の通過時間は、上り 9:48、下り 9:48 で通過まで40分上りの青森方向青森方向をズームアップよく見るとレールが三本あり、新幹線と在来線の共用区間。ネットで調べると、北海道新幹線の新中小国信号場~木古内駅間は、鉄道レール幅が在来線と新幹線で異なるため、共用する区間のレールが3本になっている三線軌条区間になっている。新中小国信号場:青森県東津軽郡外ヶ浜町蟹田山本小谷。 ・JR北海道とJR東日本の接続する信号場、やや北寄りに新幹線との分岐がある下りの函館方向(木古内、新函館北斗駅)下り方向をズームアップ、右方向に津軽海峡木古内駅辺りをズームアップ通過時間までまだ40分あるのであきらめることに9:21国道228号を走っていると「高台からの眺望が美しい場所」の道路標識を見つけ、急遽交差点を右折して道道698号線を真っすぐに進むと鳥居の右手に駐車場9:24重内神社(おもないじんじゃ)所在地:北海道上磯郡知内町字重内知内町の穀倉地帯、重内(おもない)平野の奥にある重内神社。その神社本殿の裏手には200段もの長い階段がまっすぐに伸びており、登りきった所にある社殿からは、頑張って登ってきた階段からその先の道路が一直線に海まで延びる風景を見ることができます。また、山頂の社殿に隣接して展望台もあり、こちらからは重内平野はもちろん津軽海峡など大パノラマを一望できます。そして海沿いの国道228号から重内神社に至る真っ直ぐな道路には桜が植えられています。春には桜色の真っ直ぐな道路が見れるかも!鋼製の鳥居と拝殿重内神社拝殿拝殿の扁額「奉納 重内神社 東出組」重内神社御由緒 例祭日 9月15日古老の言によると、明治18年福井県大野郡出身の林七郎兵衛他十数戸のものと重内に入植した折、自分達入植者の守り神として信仰の中心にしようと、明治25年頃、祠を建て祭ったのが始まりと聞く。その後、本格的な部落の開拓が始まり、人家も漸次増加し、重内部落を形成するに及んで不動明尊を部落の守り神とし名称も重内神社と改め、部落全体で祭り事をとり行うようになった。明治、大正、昭和、そして平成と年代は移り変り、昭和24年に神社の境内、敷地神社山も当時の所有者知内農場より四町六反七畝余の寄贈を受ける。これを機に宗教法人重内神社の登記も完了し、主祭神不動明神、雷公神社分祀、別雷神加茂御祖神、宇迦魂神を合祀する。昭和51年神社の本社殿を神社山頂上に再建遷宮し、同53年に拝殿も再建、境内を氏子総出の奉仕により、記念の植樹、更に神社一帯を神社公園化に向けて努力し頂上には展望台、遊歩道も設置し、今ここに名実共に神社としての姿を整えるに至ったものであります。 平成元年9月吉日 重内神社 願主氏子一同 建立神社拝殿の裏手に廻ると200段もの長い階段がまっすぐに伸びていた登りきった所に社殿があるのだが、旅も長いので車で登ることに重内神社拝殿前の駐車場横に立っていた像(林雅雄理事長之像)その横に、階段で上る時間がない場合は、車で登ることもできますと。神社拝殿の右脇から細い車道が伸びており、山頂にある社殿の裏手まで走行することができます。ただし、車幅が狭いため、速度の出し過ぎや路面凍結にはご注意くださいとの注意書き一方通行の坂道を上り頂上へ、狭い駐車場に車を止め階段上から津軽海峡を望む。神社からのこの直線の道は道道698号線で「重内さくらロード」と呼ばれており、国道228号に突き当たる振り返ると社殿が建つ昭和51年に神社山頂上に再建遷宮された社殿社殿の左方向に展望台展望台には「平成9年建設寄贈 構口建設株式会社」展望台の上からの眺望知内町の穀倉地帯、重内平野が広がる桜の時期の、重内さくらロード(パンフレットから)右遠方には、北海道電力㈱ 知内火力発電所展望台から北方向9:35展望台から社殿前へ社殿下で車中泊をしながら星を撮影する方と雑談、明日行く恵山のスポットを聴く。予定外の重内神社の参拝を終え、約10数分の滞在で後にした。重内神社から国道228号を南下、知内川を渡り西方向へ進むがその辺りが、北島三郎氏の実家。北島三郎氏の実家から国道228号の南に「知内公園」がある。訪れなかったが、その公園にある「北島三郎氏芸道55周年記念碑」所在地:北海道上磯郡知内町字元町2016年に芸道55周年を迎えた北島三郎氏の功績をたたえ、2017年に記念碑を建立。碑面には、郷土・知内町やご両親に対する想いが刻まれています。また、この記念碑の建立と合わせ、北島三郎氏と縁の深い知内公園をこのほど「北島三郎ふるさと公園」として整備した。 季節は移り、世は変わり 生まれ育った この郷に いまも眠りし 父母がいる 未来永劫 いつの日も ああ・・・ ありがたき ふる里よ 知内よ 平成29年 北島三郎10:04国道228号の右側に、道の駅 しりうち知内町へようこそ! 湯ノ里地区案内マップ青函トンネル出入口のまち 知内町町のエポックを物語る、4つのスポットの一つ。『土中から発掘された日本最古の墓(モニュメント)』知内町湯ノ里地区では、旧石器時代の墓と考えられるものが1983年の遺跡発掘調査で発見されました。同時に出土したコハクや石製の小玉、垂飾、石刃、石刃核、細石刃など14点は国の重要文化財に指定されています悠久の眠りからさめて1983年10月発掘調査が行われていたこの台地で、琥珀とカンラン岩で作られた垂職2点・小玉3点の装飾具と石刃核・細石刃などの石器9点をともなった旧石器時代(約2万年前)の墓が、国内で最初に発見された。装飾具や石器などの副葬品は、当時の人々の生活や文化を知るための貴重な資料であり、わが国の墓制の起源を縄文時代から旧石器時代にさかのぼらせるなど、学術的にもきわめて価値が高いことから、1991年6月国の重要文化財に指定された。また、自然石を外環径が約6m、内環経が約2.5mの二重環状にめぐらした。道内ではまれな形態である縄文時代後期のストーンサークルも発見されている。このモニュメントは、過去から現在までの時の流れをモチーフとして、中央の石柱が知内の大地に最初に根をおろした人々と時空を、円形に敷きつめられた石がストーンサークルをあらわしている。 1996年3月 知内町道の駅 しりうち所在地:北海道上磯郡知内町字湯の里48-13道の駅 しりうち町の紹介「定住と交流の、元気ある町」知内町は渡島半島の南西部に位置し、東側は津軽海峡に面して約21kmの海岸線が形成されている。町の中央部を千軒岳を源とする知内川が流れ、その流域には農地が広がり、集落はこの流域や津軽海峡に注ぐ小河川の周囲に分布する総面積196.66k㎡の町です。町名の由来は、アイヌ語の「チリ・〇〇」(鳥のいるところ)とされています。昭和63年にはJR津軽海峡線が開通し、世紀の大プロジェクトと言われた青函トンネルの北海道側出入口となっています。基幹産業は農林漁業で、農業は日本農業章を受賞したニラは品質・生産量とも北海道一を誇っており、漁業では津軽海峡の荒波にもまれて育つカキは他の有名産地にも負けない味と評判です。また、知内町は「北島三郎」さんの出身地で、毎〇〇月に行われるイベントでは大いに町が盛り上がります。知内町は、豊かな自然が育んだ恵みにより「健康・快適」な「定住と交流」をキーワードにした『笑顔かがやく躍動の舞台』です。道の駅に隣接して建つ「新幹線展望塔」新幹線展望塔では、高さ12.3mから全国的にも珍しい新幹線と貨物列車がすれ違う瞬間を楽しむことができ、三線軌条という全国で4ヶ所しか見ることができない光景を見ることができます。新幹線展望塔スタンプ用紙 < 施設の概要 >構造種別:鉄骨造2階建、最高高さ 13.85m工 期:平成28年5月25日 ~ 11月8日総事業費:123,768千円 < 見学可能時間 >4月 ~ 10月 8時30分 ~ 18時00分 休館日 無休11月 ~ 3月 9時00分 ~ 17時00分 休館日 毎週月曜日展望塔からの函館方向パンフレットの写真全国的にも珍しい新幹線と貨物列車がすれ違う瞬間を楽しむことができ、三線軌条という全国で4ヶ所しか見ることができない光景を見ることができる。残念ながらこのような写真は撮れず青森方面この先で青函トンネルから出る国道228号からの新幹線(パンフレットから)青函トンネル出入口(湯ノ里トンネル)新幹線が青函トンネルを出て最初に北海道が見える場所であるエレベーターを 降りたらまっすぐ 物産館 知内町夜のデザートで、ブドウを購入10:17前の道は、国道228号(福山街道)約15分間の滞在で「道の駅 しりうち」を後にする10:29旅友が以前食べたという国道228号沿いの蕎麦屋「千軒そば店」千軒地区産のソバ粉のみを使った十割そばが味わえる「千軒そば店」。千軒地区の農家らがつくる「千軒そば生産会」(佐藤孝男会長)が2005年から運営している。メニューは、もりそば(700円)、山菜そば(800円)など。各メニューには町名物の黒米を混ぜて炊いたご飯と漬物がつく。同会は、地元のそば打ち愛好者でつくる「千軒そばの会」(澤田雄一会長)とともに、昨年から石臼製粉の研究を重ねてきた。製粉は店裏手にある旧千軒小学校体育館で行っており、収穫したソバを水分15%未満になるまで乾燥させた後、石臼2台で粉にしている。ソバは熱風などに当てず自然乾燥させており、石臼は1分間10 ~ 12回転の低速でじっくりと回していることから「ソバ粉が熱を持ちにくく、豊かな風味が残る」という。石臼挽き十割そばの 福島「千軒そば店」所在地:北海道松前郡福島町千軒283営業のご案内営業日:水、木、土、日曜日 営業時間:午前11時30分~午後2時30分 * 1月~3月は冬季休業になります昼前で食べたかったが、残念でした!千軒そば店の駐車場から、国道228号を振り返る海峡と横綱の里「福島町」福島町では、歴史豊かな約7kmの区間で、季節の高山植物やブナ林を楽しみ、史跡を巡る『殿様街道探訪ウォーク」を企画しています。殿様街道とは、江戸時代松前と箱館(函館)を結ぶ街道は約27里あり、蝦夷地の幹線道路でした。その一部、大千軒岳麓から福島町千軒地区までの約3.6kmは、藩主矩広をはじめとする殿様が通ったことから「殿様街道」と呼ばれています。千軒そば店の隣にある「福島町立 千軒小・中学校」所在地:北海道松前郡福島町千軒左は、福島町立千軒中学校、右は、福島町立千軒小学校の門碑。坂を上ると左奥に、体育館が物置として残されている。千軒小学校は平成15年(2003)に閉校となり、平成26年(2014)には校舎が取り壊され、体育館は物置として残された定休日でソバが食べれず、国道228号を進み、左前方に、福島町 青函トンネル記念館10:45福島町 青函トンネル記念館所在地:北海道松前郡福島町字三岳32-3 - 続く -
2020.11.19
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茂辺地川のシャケの遡上を見た後、松前・木古内へ向けて走る。10月19日(月) 7:33国道228号(日本海追分ソーランライン)を進むこの先を右折すると道道29号線、茂辺地市街、函館江差道の北斗茂辺地ICへ7:40国道を進みトラピスト修道院の案内板を発見、右折して直ぐに道南いさりび鉄道の踏切を渡る。修道院への坂道、直線の杉並木トラピスト修道院は、明治29年(1896)に創設された日本最初のカトリック男子修道院。最寄りの渡島当別駅までは函館駅から列車で約40分 7:44トラピスト修道院駐車場所在地:北海道北斗市三ツ石392北海道まちづくり100選『トラピスト男子修道院付近(上磯町)』 平成元年1月27日 北 海 道 北 海 道 新 聞 社 NHK札幌放送局 人間道路会議賞 町道 トラピスト通線 平成8年2月29日緑の牧草畑が広がるなかを一直線にのびる道。ポプラ並木が風に吹かれて葉の裏を返すとき、その奥に静かなたたずまいをみせる赤レンガの尖塔 —美しい自然との調和。その見事な景観は、見る人の心を感動へといざなう。いま、「北海道まちづくり100選」「人間道路会議賞」に輝く —駐車場から坂を上り修道院へトラピスト修道院の正式名称は、厳律シート会燈台の聖母トラピスト修道院。明治29年(1896)、フランス、オランダ、イタリア、カナダから総勢9人の修道士たちがこの地を訪れ、日本最初の男子トラピスト修道院を創設。翌年、フランスからジェラール・プーリエ(のちに帰化し、岡田普理衛と名乗る)が創立修道院長として迎えられました。修道院では創建当初から開墾・農耕・牧畜が盛んに行われ、現在に至ります。ここで作られるトラピストバターやクッキー、バター飴、ジャムは、北海道を代表する観光みやげ品として人気です。修道院に続く道や周辺の散策路は四季それぞれに美しい風景を見せて、歩く人を楽しませてくれます。春には鮮やかなピンク色の桜が満開に。秋には奥にそびえる丸山の美しい紅葉が見られるほか、敷地裏側の壁面や裏手の山麓で聖母マリア像を祀るルルドに伸びるツタが赤く染まります。3月15日から11月第2日曜日までのあいだ、修道院の駐車場にある直売店でソフトクリームが販売されていて、とびきりの味を求めて多くの人が訪れます。トラピスト修道院の正門時間が早く締まったままの鉄扉 灯台の聖母 トラピスト修道院現在の建物は最初の修道院が明治36年(1903)に焼失したため、明治41年(1908)に建てられたものである。この時に使われたレンガは野幌で作られて運ばれていたが、輸送が間に合わなくなった。そのため現地生産となり、現在の石別中学校が建っているところから良質の粘土がとれたため、煉瓦を作ったと伝えられている正門の左側の部屋には過去の写真が展示されていたトラピスト修道院の沿革明治29年(1896)にフランスから数名の修道士が来日して、津軽海峡を眼下に臨む当地にトラピスト修道院を設立しましたが、トラピストの歴史は古く、その起源は11世紀にまでさかのぼります。聖ロベルト(1018~1111年)は、現在のフランス・シトーの地に新修道院を創設し(1098年)、ここからシトー修道会が生まれました。そして、1664年シトー修道会に属するトラップ修道院(フランス)で、より厳格な生活を望む改革運動が起こり、この流れを汲むものをトラピストと呼ぶようになりました。トラピスト修道院はカトリック教会に属し、日本国内には七つの修道院(その内五つは女子でトラピスチヌとして知られています)を持ち、国外には137の修道院(その内、50は女子)があります。聖書の教えと、聖ベネディクト(480~547)の修道戒律に従い、「祈り・労働・聖なる読書」を中心とした観想生活を送っています整備された修道院内正門から見下ろす紅葉も始まる津軽海峡への杉並木三木露風の詩碑「赤とんぼ」の詩人三木露風の詩碑左側には「三木露風の略歴」が刻み込まれていたが判読できず。以下二枚の写真は、我が地元の茅ヶ崎中央公園にある「赤トンボの楽譜」の石碑。三木露風の詩に、作曲家山田耕作が茅ヶ崎に移り住んでいた1927年(昭和2年)に作曲した石碑には「赤トンボの楽譜」があり、三木露風の名前が刻まれている(黄色内)三木露風明治22年(1889)6月23日、兵庫県龍野市龍野町上霞城101番地に生まれる。幼名 操。後早稲田大学、慶応大学に学ぶ。詩集「廃園」(明治42年9月刊行)によって日本詩壇で注目され、「白き手の猟人」(大正2年9月刊行)で象徴詩界の頂点に立ちました。大正9年5月から同13年6月までトラピスト修道院の文学講師として4年間居住し、その間大正11年キリストの復活祭に夫人と受洗しました。昭和39年12月21日、東京三鷹市で交通事故に遭い、同29日死去、カトリック吉祥寺教会で葬儀。享年75歳、法名穐雲院赤蛉露風士。昭和40年1月16日、勲四等瑞宝章を追贈。* 童謡「赤とんぼ」は修道院の文学講師時に作詞されました。 平成23年3月厳律シトー会 灯台の聖母大修道院明治29年(1896)、「祈祷と労働とをもって直接、神に奉仕し、自己の成聖と社会の幸福」を目的とし、日本で最初の男子修道院である この修道院が建てられた。最初の建物は白ペンキ塗り細長い木造建築であった。修道院からは日に何度も鐘の音が流れてくることから、村民たちは修道院のことを「ガンガン寺」と呼んでいた。当初の修道士はフランス人5名、オランダ人2名、イタリア人とカナダ人1名の9名であった。創立当時は荒地であったこの地を開拓し、農耕・牧畜・酪農に力を入れた。明治35年(1902)にオランダからホルスタインの種牛を輸入し、増殖した乳牛はのちに南北海道一帯に広がっていった。南北海道の酪農の原点ともいえる岡田普理衛(D.ジュラール・プゥイエ)初代修院長。安政6年(1859)にフランスのノルマンディー県にて出生し、哲学・物理・科学を学んだ後、大神学校で神学を修めた。その後、自ら志願して明治30年(1897)に日本に渡来した。明治33年(1900)日本人信者であった大工の岡田初太郎の養子となり、岡田普理衛に改名する。性格は喜怒哀楽を表に出さないが豪快であり、質実剛健で行動力が盛んで、トラピスト修道院での労働も頑丈な体で二人分の仕事をこなしたと言われている。地元の人々は「見慣れない外国人が重罪人ではないか」と最初は噂し修道院の作物を荒らしたりしたが、岡田普理衛は病人の介護方法を教えたり相談に乗ったりと徐々に地元の人々からの信頼を得て、親しまれるようになった。大正14年(1925)には福岡県にトラピスト分院を設立するため、現地に出向し、昭和20年(1945)この修道院に帰ってきた。そして昭和22年(1947)7月1日に87歳で死去した。カトリック当別リタ教会フランスで中世に制作された十二使徒の貴重なステンドグラスがあります。修道院敷地内売店横の当別教会では、毎日曜日午前 8:45 からミサが行われています。 どなたでも参加できます。司式は修道院の神父によって行われ、修道院内で修道士が 行っているミサと同じ雰囲気です。トラピストの伝統に則った祭儀を味わうことが出来ます。 カトリックの洗礼を希望される方は、ミサ終了後、神父にご相談くださいと7:56 駐車場横に売店があったが時間が早く開店前のため、ソフトクリームは食べれず。約20分の滞在でトラピスト修道院を後にした。8:16道を間違え早めに右折、前方は木古内駅で左は、道南いさりび鉄道、右は北海道新幹線8:23JR木古内駅 南口所在地:北海道上磯郡木古内町木古内北海道新幹線で青函トンネルを抜けて直ぐの場所にある新幹線が停車する木古内駅。道南いさりび鉄道の終着駅で、かつてはここから江差線が出ていた。駅前からは、江差、松前行きのバスが発着しており、江差町や松前町の観光の拠点である。また、駅前には、レンタカーの、タイムズカーレンタル、駅レンタカー北海道の2社がある。駅舎内には江差線等の鉄道関係の品物が展示されていたようだが道南いさりび鉄道道の駅 みそぎの郷 きこない所在地:北海道上磯郡木古内町本町338-14木古内駅前に位置する「道の駅『みそぎの郷 きこない』」。古くから函館・松前・江差を行き交う人々にとって交通の要衝だった木古内町が、道の駅と北海道新幹線の開業により、現代の交通拠点としての役割を新たにします。 当館の役割は、木古内町を拠点とする道南の西部9町(渡島西部4町・檜山南部5町)広域の魅力を発信することです。そのための代表的な機能として3点をご用意しました。 ① 道南西部9町ならではの特産品を集めたショッピングエリア。 ② 世界的に活躍する料理人の奥田政行シェフが監修するイタリアンレストラン「どうなんde’s Ocuda Spirits」。 ③ 道南西部9町のディープな情報に詳しい「観光コンシェルジュ」常駐。建物は、地域の特産材である「道南杉」を内外装に多用しています。無垢の杉材が放つ芳香や手触りを感じ取ることができるなど、落ち着いた空間となっています。北海道じゃらん 2020年4月号掲載道の駅満足度 ランキング2020 総合1位 3年連続‼自転車は、レンタサイクル「きこりん」道の駅の営業は、休 館 日 :年末年始(12/31~1/1) レストラン 不定休開館時間:9:00 ~ 18:00これ以降、このような案内をよく見かけた。みなみ北海道 最後の武士達の物語馬上から指揮する大鳥圭介 此処が木古内口の戦場地跡陸軍奉行 大鳥圭介(おおとりけいすけ) 1832~1911天保3年(1832)、現在の兵庫県に生まれる。慶応3年(1867)、幕府の歩兵奉行となり伝習隊を結成する。翌年4月、旧幕府軍が市川(千葉県)に集結すると総督となり各地を転戦する。木古内口の戦いでは、薬師山の頂で白馬に跨り全軍を指揮したと伝えられている郵便ポスト(キーコのポスト)キーコは木古内のマスコットである。道の駅が開店前のため早々に次の場所へ移動することに8:35木古内駅から道道5号線(江差木古内線)を北上、木古内町郷土資料館の左奥にある、道南トロッコ鉄道 鶴岡公園駅所在地:北海道上磯郡木古内町鶴岡73木古内駅から北上し、旧江差線渡島鶴岡駅跡にある。建物は旧江差線が営業していた当時のまま木古内町郷土資料館 周辺マップ ・木古内町郷土資料館「いかりん館」 ・禅燈寺木古内町郷土資料館「いかりん館」当館は、平成23年3月に廃校となった鶴岡小学校の校舎を利用して平成27年3月に開設しました。館内は、縄文土器などを展示する「大むかしの木古内」、民俗資料を展示する「マチの歴史と発展」、農機具や漁具などを展示する「木古内の産業」、昔の家庭で使われていた日用道具などを展示する「人々の生活と文化」、JR松前線・江差線などの鉄道資料などを展示する「木古内と鉄道」の5つのカテゴリーに分けて、約2,000点を展示しています。特に幕末から明治維新にかけて活躍した「威臨丸」のものとされているイカリは、天井に届きそうなくらいの大きさと歴史の1ページが刻み込まれた本体にロマンを感じさせます道南トロッコ鉄道 旧江差線渡島鶴岡駅のホーム。旧江差線は、平成26年(2014)5月11日に廃線となった現在は旧江差線のホーム&レールを有効利用してトロッコ鉄道営業は土日のみ料金は、鶴岡公園 ⇔ キーコの郷(江差方面)間 往復約18分 一般席 700円道道5号線沿いの、郷土資料館「いかりん館」に隣接する鶴岡農村公園の駐車場へ駐車場横にある「山形荘内藩士上陸之地」石碑北門の警備と蝦夷地開拓、自立自営の大使命を帯び、明治18年から同19年にかけて山形県鶴岡を出発、酒田港より御用船にて此の地に上陸し、荘内藩士 佐藤洋孝と共に105戸が帯刀を鍬にかえ、土地墾闢を志向す。所謂、士魂を農魂にと皆をあげ決然轉身の勇を揮い、大谷地棚部岱、爪谷、吉堀、中野、建川に移住し、・・・・・の辛苦と苦難の農耕を続け歴代に受け継がれ、此処に87年の今日、水田酪農郷鶴岡地域を築く。改めて先人の労苦と偉業を偲び永遠に傳えん 酒井忠明 書 碑の来歴この碑「山形庄内藩士百五戸開拓者上陸地之標」は昭和40年鶴岡地区開基八十・・・・」として鶴岡農村公園にある記念碑鶴岡市・木古内町 姉妹都市盟約宣言十五周年朝暘第一小学校・鶴岡小学校 姉妹校交流四十周年明治18年より旧庄内藩士開拓団百五戸がここ鶴岡地区に入植したことを縁に、昭和39年5月12日、鶴岡市立朝暘第一小学校と木古内町立鶴岡小学校は姉妹校の契りを交わし、今年で四十周年を迎えました。また、平成元年4月27日、鶴岡市と木古内町は姉妹都市盟約宣言を行い、今年で十五周年を迎えました。両都市は、教育・文化・経済の交流を深め、相互の信頼と友愛の絆を一層強くすることを誓うと共に、互いの限りない繁栄を祈願し、記念碑と致します。 平成16年8月6日 山形県鶴岡市 北海道木古内町鶴岡農村公園に隣接してある、禅燈寺の山門所在地:北海道上磯郡木古内町鶴岡103山門の扁額「忠魂樓」 陸軍中將林大一郎禅燈寺と仁王門明治18年(1885)から19年にかけて山形鶴岡藩士105戸が北門の警備と蝦夷地開拓の大使命を帯び入植したが、故郷山形善寳寺に懇請し、三世岱静和尚が北海道・千島・樺太などの漁場を巡錫して明治35年(1902)本堂を建立した。文安3年(1446)龍神様を祀られているお寺として建立され、北海道・東北6県をはじめ、関東・関西方面に多くの信者を有する山形県龍澤山善寳寺39番目の末寺。大正7年(1918)に仁王門を建立。仏法守護のため寺門の左に立つ密迹金剛と右に立つ那羅延金剛は、明治から大正年間に函館市に在住した〇〇風間壮慶師の作。 平成13年〇〇〇 木古内町観光協会山門から本堂右に立つ那羅延金剛左に立つ密迹金剛仁王門の右奥に鎮座開拓使判官松本十郎之書石碑の字は風化して読み取れず、隣に説明板が立つ天保10年(1839)山形県鶴岡市生まれ。文久3年(1863)父親に従って蝦夷地の庄内藩警備地区浜益・苫前等に勤務。慶応3年(1867)江戸市中取締の任に当たる。翌4年、戊辰戦争では大隊の幕僚として活躍した。庄内藩降伏後、新政府首脳との接渉に当たり、明治2年(1869)黒田清隆の推挙により北海道開拓判官に任ぜられ、根室地区の責任者として、漁業振興や北方領土の警備などに尽力し、根室市の基礎を築いた。明治6年開拓大判官となり、北海道開発の責任者として財政の確立、農業の振興などに尽力し、北海道開拓に偉大な功績を残した。奥羽地方最初の勅任官になった人。 平成13年11月 木古内町観光協会境内の山門と本堂の間をJR江差線が通る珍しいスポットだった禅燈寺。江差線の木古内駅~江差駅間は惜しまれながら2014年5月に運行を終了しましたが、境内を通る線路と踏切はそのまま残されています。現在は土日祝にトロッコ鉄道が走っている線路上から本堂を望む禅燈寺本堂本堂の扁額「禅燈寺」本堂から山門本堂と山門の間を鉄道が走るユニークなお寺である8:54鶴岡農村公園の駐車場へ戻る建物は、鶴岡多目的集会施設「農村ふれあいセンター」 - 続く -
2020.11.18
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函館の旅二日目は、松前半島を時計回りにドライブ予定。このルートは、4年前の平成28年(2016)10月28日(金)に走っている。地図は昭和44年(1969)3月 文部省検定済地図。この地図には既に廃線となっている松前線、江差線が記載されている、赤色の線は私が今までに乗車した路線、また走った道路です。ちなみに、松前線は、木古内駅で江差線から分岐し松前駅まで結んでいたが、昭和63年(1988)2月1日に全線廃線。江差線は、平成26年(2014)5月11日に廃線となった10月19日(月) 6:01新函館北斗駅に隣接するホテルから北西方向を望むズームアップ、函館本線の大沼・札幌方面。北海道新幹線は未完成新函館北斗駅南口の朝もや幻想的である6:06東の空は日の出前前方には駐車している無料駐車場があり、手前は観光バス用エリア東の山に日が登る高架橋は、北海道新幹線、函館本線の函館方面函館山の朝焼け6:12日の出6:15ホテルを出て駐車場へ。北斗市には3種類のデザインマンホールが取り付けられています市内当別にある「トラピスト修道院」と、「北海道新幹線」をデザインしたマンホールです。新幹線の車両が決まる前のデザインであるため、鼻が短めになっています北斗市無形民俗文化財の「上磯奴」と、「黒松」、「波」をデザインしたマンホールです。旧上磯町のデザインマンホール蓋となります6:27カーナビを松前城にセット、到着予定は8:16、残り93.9kmと。外気温は、6℃6:40道道96号(上磯峠下線)を南下して、国道228号の上磯新橋交差点を右折。正面に函館山を望む国道228号(日本海追分ソーランライン)を西へ向かう6:50国道を走っていると、海の中に腰下まで水につかって多くの釣り人がシャケを釣っているのであろうか?6:53見晴らしがよいのでパーキングがあり停車パーキングから国道228号(日本海追分ソーランライン)を振り返る道路標識に函館まで16km函館山もパーキングで水着を着替えている人がおられ、先程の釣り人は何を釣っているのか尋ねると、「禁漁区の外でシャケを釣っている」「禁漁区は海の中にポールが立っている」と。この先の交差点を右折し、茂辺地(もへじ)鮭卵ふ化場跡へ行くことに7:00茂辺地(もへじ)鮭卵ふ化場跡明治11年(1878)に茂辺地川の鮭から採卵したものを七重勧業試験場で試験的に実施され、翌年稚魚がふ化しました。その翌年には北海道初の民間(酒井宮次郎等)による鮭卵ふ化社が設立されました。当初は北海道開拓使の煉瓦石製造所跡の払い下げを受けふ化場として使用しました。明治20年以降は100万粒台の採卵になり、発眼卵は東北地方や利根川流域・島根・広島県にまで広がりました。昭和22年(1947)から本格的にふ化事業に取り組み、24年には建物は水源地下に人工ふ化場を開き、昭和50年頃にふ化施設建物と稚魚の養魚池を完成しました。水産庁の助成を受け、捕獲・採卵・ふ化の一切を漁業共同組合に委託、実施さていました。現在は、北海道より直接業務委託を受けた社団法人渡島さけ・ます増殖事業協会が捕獲・採卵からふ化・放流までの事業を実施しています。 平成21年12月 北斗市教育委員会茂辺地川を渡り未舗装の道路脇にあった7:03茂辺地鮭卵ふ化場跡から、山道を上り「矢不来天満宮 海抜 32m」矢不来天満宮所在地:北海道北斗市矢不来138石鳥居の手前に、2つの石碑「史跡 茂別館跡」「矢不来天満宮」史跡 茂別館跡参道には多数の桜の木がありその時期にはきれいだと国指定史跡 茂別館跡(もべつだてあと)茂別館は、嘉吉3年(1443)津軽十三湊城主・安東太郎盛季が館を造ったのに始まるといわれ、南の大館と北の小館から成っている。大館は、西は茂辺地川岸に面し、南と北は自然の沢で切られ、東は空濠を巡らしている。また、小館は、西は茂辺地川左岸の崖地で、他の三方は、自然の沢を利用し、更に土塁を設けている。北海道の室町時代の和人の館跡のうち志苔館跡・大館跡上之国勝山館及び上之国花沢館の四件は既に指定されているが今回これに茂別館を加え、蝦夷島中世史の解明に資そうとするものである志苔館跡、上之国勝山館は、続日本100名城に認定されており今回の旅で訪れる予定。鳥居を潜り参道の左側に「鮭之碑」人がいなく熊が出るのではと思いながら神社へ向かう。函館戦争にゆかりのある地のひとつであると矢不来天満宮鳥居の前には狛犬、境内にはたくさんの桜の木7:14矢不来天満宮から下ると「北斗星の眠る里 茂辺地北斗星広場」の看板茂辺地北斗星広場所在地:北海道北斗市茂辺地3丁目3-14この広場は、旧茂辺地中学校グランド跡地を茂辺地地区創生会議が「茂辺地北斗星広場」としてレストランや公園を整備し、この地域を訪れる方々と地域が交流を深める広場を目指しています。広場や周辺では、地域の魅力と寝台特急北斗星がコラボし、皆さんをお迎えしています。 贈 上磯ライオンズクラブ行き先表示「特急 北斗星 札幌」昔、上野から洞爺湖まで乗車したことがある寝台列車「北斗星」塗装の剥げや錆が目立ついつもは内部を公開しているのだが。ネットによると内部の保存状態は良いとのことだが、外面は廃墟化している、早期対策を!北斗星車両内部公開について例年、内部公開をしておりますが、新型コロナウイルス感染症の拡大防止と、御来場者や地域住民の皆様の安全保護の観点から、今年度は実施しないことといたしました。ご来場いただきましたのに、大変申し訳ございません。ご理解のほど、よろしくお願い致します。 2020年7月23日 北斗の星に願いをプロジェクト 澤田北斗星のヘッドマークがなかったのが残念だが、廃墟化する前に塗装を!北斗星のマーク7:24茂辺地北斗星広場近くにある「鮭のそ上観察ポイント」排水機場7:28河川敷に車を止めシャケの遡上を見る。茂辺地川の下流方向には、国道228号に架かる野辺地大橋野辺地川のシャケの遡上を見る。北海道知床ではヒグマがシャケを捕えていたのを見たシャケはオス同士が争うと産卵後のシャケは海へと数匹が泳ぐ河川敷に転がっていたシャケ、誰がこのような食べ方をしたのか、頭部がない熊ははらわたから食べるのだが?かみいそ おすいマンホール蓋市内茂辺地にある「葛登支岬灯台」と「鮭」をデザインしたマンホール蓋です。茂辺地川ではシャケの遡上が見られますなお、上磯町・大野町は2006年に合併し「北斗市」の市制を施行している。従って、「かみいそ」の地名は旧町名です。 - 続く -
2020.11.17
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陽の入りも迫り陽の入りを見るために西側へ移動することに。10月18日(日) 16:55元町公園から基坂を振り返る元町公園下の道路から、ペリー広場に建つ「ペリー提督来航記念碑」を見下ろすペリー広場に建つ「ペリー提督来航記念碑」ペリー提督もこの光景を見たのか五稜郭タワー、右に青函連絡船記念館摩周丸17:04函館漁港の防波堤へ山の名前が解らず、右奥は、大千軒岳(1072m)?既に日の入りは終了、残影を追う右は、松前半島明日は松前方面へのドライブだ陽の入りを見たかった明日も天気が良いのであろうタンカーも停泊17:06駒ケ岳も夕闇に浮かぶ、釣り人も多く、日曜日の夜を楽しんでいた17:33函館山へ登るため駐車場を探すが、明日からしばらくロープウェイも休止、また日曜日の夜でロープウェイ乗り場の周りの駐車場は満車状態。仕方がなく、少し離れた駐車場の「リパーク函館元町八幡坂P」へ留める。所在地:北海道函館市元町31-44ここの駐車場は、入庫後24時間以内400円と安い、今後利用することにする。 最大料金:入庫後24時間以内 400円 通常料金:0:00~24:00 20分/200円以前の看板は、0:00~24:00 20分/200円と高価であったが値下げしたのか?駐車場から、歩いてロープウェイ乗り場へ向かうが途中には、カトリック元町教会洒落たカフェも前方にロープウェイ乗り場観光バス用駐車場17:43ロープウェイ乗り場のチケット売り場入口で検温を受け、往復券 1,500円を購入大勢の観光客がロープウェイ乗り場へ、三密は大丈夫なのかと皆さんマスクをつけていたが完全に三密状態の乗り場17:53頂上駅に到着するが、下山する大勢の観光客が並んで待っていた。ロープウェイは5分間隔で運転中17:55展望台に立つが、聞こえてくる言葉は日本語だけ!北海道函館市が誇る「100万ドルの夜景」と言われる函館駅方向函館湾の夜景中央の緑の島も街頭が灯り島の輪郭を明確にロープウェイ頂上駅観光名所「函館山」の眼下には両側を海に挟まれた扇型の市街地が広がり、街に明かりがともり始めると海岸線に伸びる道路には車のヘッドライトがあふれる。漆黒の海とのコントラストが際立つその姿は「100万ドルの夜景」、香港やナポリと並ぶ世界三大夜景とも称され、国内外から多くの人が訪れる私自身も、訪れたのはもう何回目になるか、片手?摩周丸&五稜郭タワーをズームアップ最近の夜景は、相対的に見て以前より暗くなったとの指摘。主に「人口減少」と「街路灯のLED化」だと。市内には約3万7,000の街路灯が設置されているが、半数以上がLED化された湯の川温泉、函館空港方面最上部の展望台から前回(2016年10月27日)に訪れたときは、21時過ぎであったので車で登頂した。下の展望台には日本人函館駅から真っすぐに伸びる道路の先に五稜郭タワー最後に、青函連絡船記念館摩周丸を見納める18:24函館山この日は風もなく助かるロープウェイも5分間隔で運転中待ち時間15分程で乗車できる18:43下のロープウェイ乗り場駐車場へ歩いて移動函館カール・レイモン レイモンハウス元町店所在地:北海道函館市元町30-3店先にある「カール・レイモンの胸像」新函館北斗駅前に説明板があった、カール・レイモンの店窓ガラスには「ドイツ生まれのマイスター レイモンの技術と函館の風土で作り上げた本格派」ハム・ソーセージ18:51駐車場へたどり着く途中コンビニ・ローソンに立ち寄り、今夜のお酒とつまみ、主食を購入。新函館北斗駅に隣接するホテルへ到着。ホテル近くの無料駐車場へ駐車して正面のホテルへ向かう19:52ホテル・ラ・ジェント・プラザ函館北斗所在地:北海道北斗市市渡1丁目1-7受付で新型コロナウイルス関係で体温を測定され「平熱です」と。今日から3連休するホテルルームナンバーは「523」で私の誕生日。部屋へ入るが、ツインルームで奥に畳敷きの場所がある珍しい間取りまだ新しいホテルであるが、畳敷きの部屋へ座るとテレビが見ずらいのが設計ミスか コンビニで購入したビール&つまみと缶詰でこの日の打上げ。焼酎は三日分でカップ麺が主食今日一日の歩行数は13,200歩で、車の走行距離は50kmでした。恐れ入りますが明日から3日間は「茅ケ崎市自転車貸出事業-3、平塚の花菜ガーデン」をアップします。 - 続く -
2020.11.13
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基坂を車で移動しながら散策。10月18日(日) 16:27函館市電 本線、右が基坂。正面の建物は函館市元町観光駐車場。左に、函館市文学館 150m、北方民族資料館 ここです函館市電 函館どっく前行きはこだて観光案内「基坂」函館山の麓から函館湾・市街地に向かって18の主な坂がある基坂の交差点にある「函館市北方民族資料館」所在地:北海道函館市末広町21-7北方民族の衣装や道具、楽器などを展示し、その生活や文化を紹介した資料館です。旧日本銀行函館支店の建物を利用して作られており、こちらも珍しい擬洋風建築物群函館は、安政6年(1859)6月、横浜、長崎とともに日本で最初の貿易港として開港したことにより、西欧文化の影響を直接受けた。このため、建物や街並みに今もその面影をとどめており、とくに、山の手にある元町周辺は、各国の様式を備えた洋風の建物が多く見られる。その代表的な建物は、旧函館区公会堂(重要 文化財)、旧北海道庁函館支庁庁舎(北海道指定有形文化財)や相場株式会社社屋(函館市伝統的建造物)などであり、また、洋風の窓など一部洋式を取り入れた和風建築としては、太刀川家住宅店舗(重要文化財)や旧金森洋物店(北海道指定有形文化財)などがある。最も函館らしく建物は和洋折衷型の擬洋風建築物で、この辺りに多く見られる。これらの擬洋風建築物は1階が和風で2階が洋風、またその逆の場合や左右に分けられているほか、装飾をした縦長の窓や1階と2階の間の胴蛇腹、それにひさしの下にある装飾用コンソールが共通して見られる。当時、函館の大工が領事館や教会など外国の建築様式を見て、独特のスタイルを生んだものと言われている折角の景観だが自動販売機が邪魔では明治天皇上陸記念碑を見上げる。赤御影石の地球儀の上に、青銅の鳳凰が羽を広げた碑同基坂の交差点にある、相場株式会社社屋(函館市伝統的建造物)函館市元町末広町伝統的建造物群保存地区保存地区は、弥生町、大町、末広町、元町および豊川町の各一部で、面積約14.5ヘクタールの範囲です。函館は、安政6年(1859)に長崎・横浜とともに、我が国最初の開港場として開かれ、以来、外国貿易や北洋漁業の基地として、また、北海道の玄関口として繁栄してきたまちです。この保存地区は、その中心的な役割を果たしてきたところであり、現在でも、旧外国公館や各宗教施設、洋風の公共施設や煉瓦造の倉庫群、掘割りなどのほか函館独特の上下和洋折衷様式の町家や洋風・和風の住宅等が混在して、異国情緒豊かな町並みを形成しています。函館市では、こうした町並みを、末長く後世に伝え残すため、昭和63年12月に函館市西部地区歴史的景観条例により「伝統的建造物群保存地区」を定めました。平成元年4月には北海道で初めて、国の「重要伝統的建造物群保存地区」として選定を受け、貴重な町並みの保護保存に努めています旧イギリス領事館、旧函館区公会堂、元町公園も近い諸術調所跡(しょじゅつしらべしょあと)諸術調所とは、箱館奉行所の研究教育施設で、蝦夷地の開拓と警備に必要な人材育成を目指して、安政3年(1856)に設立された。教授は五稜郭設計で有名な武田斐三郎で、蘭学はもとより、測量・航海・造船・砲術・築城・化学などを教え、亀田丸でロシアまで操縦航海するなど実践を重んじた教育を行った。元治元年(1864)、斐三郎が江戸開成所(現・東京大学の前身)の教授に転出するまで、門人多くを教育、前島密(郵便制度創始者)、井上勝(鉄道制度創始者)など明治日本の動脈を作った優秀な門下生を輩出した。同志社の創設者「新島襄」が箱館からアメリカへ密航したのも、諸術調所に入るために箱館にやってきたのに、斐三郎が江戸へ出てしまっていたための行動であったとも言われている。内外共に多難な幕末期、開明的で進取果敢の精神に満ちた人々と学舎があって、その成果を全国に及ぼした事実は、市民の誇りとするところであり、その魂は常に新しい時代の開拓のために生き続けるだろう基坂の右側歩道には花壇とブロンズ像が並ぶブロンズ像は「ハイカラさん」 岡本銕二(てつじ) 作街角をブロンズ像などで飾る函館市の「パブリックアート」として、2007年3月12日に設置された。西洋風のドレスをまとった明治期の貴婦人がモデルで高さは約1.5メートル。作品のベンチには、貴婦人の横に大人1人が座れるスペースがある「旅を続ける男」 峯田義郎 作函館・基坂にあるパブリックアート3点目 台座にあたる部分に「人間(ヒト)は、何故 旅を続けるのだろうか」と刻まれていると。左膝の上に小鳥が乗っている宇須岸河野館跡(うすけしこうのたてあと)亮徳3年(1454)津軽の豪族安東政季に従って、武田信広(松前氏の始祖)、河野政通らが蝦夷地に渡来したと言う。政通は、当時「宇須岸」と呼ばれていたこの地に「館」を築いた。これが「宇須岸河野館」で、その大きさは東西35間(約63m)、南北28間(約50m)と伝えられ、四方に土塁を築き、乾壕をめぐらしていたといわれる。この「河野館」に由来して「箱館」という地名が生まれたと伝えられている(明治2年「函館」と改称された)。永正9年(1512)アイヌとの抗争で、河野季通(政通の子)ら一族が敗れたため、箱館は以後百余年にわたって衰微したとの伝承が生まれた。箱館は18世紀初頭(元禄時代末)から亀田川下流域からの住民の移住が増加、これに伴い相次いで寺院も移転し、箱館港の繁栄が顕著になって行った。次いで、寛保元年(1741)には松前藩のこの地域の行政庁「亀田番所」が「河野館」跡地に移されて、繁栄への基礎が築かれた。寛正11年(1799)幕府は東蝦夷地を直轄地とし、享和2年(1802)箱館奉行が置かれ、この地に箱館奉行庁舎も築かれ、箱館に拠点を据えた高田屋嘉兵衛の活躍などもあって大きく発展した。この「河野館」跡は、箱館奉行庁舎が開かれた後も、明治に入ってからは開拓使庁舎、その後も北海道庁函館支庁庁舎が置かれるなど、函館の行政の中心地であった基坂を振り返る。坂を下った左側に観光バス用の広い駐車場があるペリー広場に建つ「ペリー提督来航記念碑」日本と和親条約を締結したアメリカ海軍提督M.C.ペリーは、安政元年(1854)5月17日、開港される箱館港を下検分するため、5隻の艦船を率いて来航した。滞在中には、箱館湾の海図を作成したほか、銀板写真術(ダゲレオタイプ)の初公開、西洋音楽の吹奏などを行い、当時の人々の驚きの様子が記録として残っている。このペリー来航が契機となり、蝦夷地(北海道)を統治する箱館奉行所の移転先として五稜郭が築造されることになったほか、開港場として欧米文化の影響を受け、本市が国際観光都市として発展する礎となった。 函館市函館市黒船来航150周年(2004)を目前に、日米和親の意を後世に伝え、ペリー提督を末永く顕彰するため、ここ函館の由緒ある地に「ペリー提督来航記念碑」を建立する。 2002年(平成14年)5月17日 ペリー提督来航記念碑建立協議会ペリー提督来航記念碑ペリー提督 来航時の足跡絵図ペリー提督像の背後にある「???」は、日本名を「黒船つつじ」といい、アジア東北部が原産で、日本へは1668年に渡来したものです。ここに植えた「黒船つつじ」は、1854年5月17日、箱館港に来航した5隻の黒船(函館山に向って右からマセドニアン号・バンダリア号・ポーハタン号(旗艦)・ミシシッピ号・サウザンプトン号)に因んで植栽したものです。 2002年5月17日 函館市 ペリー提督来航記念碑建立協議会ペリー広場から函館港基坂を横切り左側へ『旧イギリス領事館』所在地:北海道函館市元町33-14歴史ある領事館。展示物、英国式庭園、伝統的なアフタヌーンティーも楽しめる。領事館内の喫茶と売店は入場料無しで入ることができるので、アフタヌーンティーを楽しみながら窓から素敵なお庭を眺められると函館市旧イギリス領事館〈開港記念館〉ご 案 内 :1913(大正2)年建築のイギリス領事館を復元し、函館開港の歴史を紹介。営業時間:午前9:00~午後7:00(4/1~10/31)、午前9:00~午後5:00(11/1~3/31)。休 館 日 :12月31日、1月1日料 金:展示室入場料金 大人 300円ティールームや記念品ショップ、トイレは無料であったが旧イギリス領事館(開港記念館)箱館にイギリス領事館が置かれたのは、安政6年(1859)日本最初の貿易港として開港した時のことで、箱館ではアメリカ、ロシアに次いで3番目の領事館として、初代領事ホジソンが称名寺に開設した。文久3年(1863)に現在の元町のハリストス正教会の西隣に領事館を新築したが、数度の火災にあった。この建物は、イギリス政府工務省上海工事局の設計により、大正2年(1913)に竣工したものであり、昭和9年(1934)の閉鎖まで領事館として使用されていた。平成4年(1992)8月からは、開港記念ホール、開港の歴史を伝える展示室、旧外国公館の雰囲気の中でお茶やお菓子を楽しめるカフェを設け、一般公開している基坂の左側歩道に建つ、「異国の夢」 佐藤正和 作函館の観光地、元町の基坂に設置された3基のパブリックアートのうちの二つ目 基坂の途中から、相場株式会社社屋(函館市伝統的建造物)を見下ろす16:45元町公園案内道路脇に車を駐車しKさんと交代で公園内へ元町公園所在地:北海道函館市元町12-18江戸幕府が箱館奉行所を設置した場所にある西洋風の公園。函館の発展に寄与した4人の銅像を設置。高台から函館港を一望できる。後方にシートで囲まれた工事中の「旧函館区公会堂」階段を上ると左手に「箱館奉行所跡」江戸幕府が設置した箱館奉行所跡で、五稜郭ができるまではここが奉行所であった。港に近すぎて敵軍の格好の的とされるため、完成とほぼ同時に場所を五稜郭へと移した同右手に「明治天皇行幸記念碑」元町公園内急いで撮影したので写真がボケました旧開拓使函館支庁書籍庫北海道指定の有形文化財・函館市指定の伝統的建造物です。明治13年(1880)に建てられた開拓使の建物です。煉瓦造りの建物は、当時の面影を伝えています。この煉瓦は北斗市茂辺地で製造されたもの。煉瓦には、製造された年が刻印されている旧北海道庁函館支庁庁舎こんな洒落た歴史的建造物が観光案内所になっている二階のベランダ旧北海道庁函館支庁庁舎は、明治42年(1909)に建てられ、公園造成と合わせて昭和57年(1982)に修復整備されたもの。特徴のひとつは柱廊玄関があり、2階に張り出した屋根が、柱頭飾り(コリント式)と中央部に膨らみのある(エンタシス風)巨大な4本の柱で支えられている。明治末期の函館を伝えるこの洋風建築物は、北海道開拓の歴史上価値が高いことから、昭和60年北海道有形文化財に指定されている。なお、江戸時代、ここ元町公園には松前藩の亀田番所が置かれ、19世紀初めの幕府直轄時には箱館奉行所が置かれた。安政元年(1854)に日米和親条約で箱館の開港が決まると、当時松前藩が復領していたこの地は再び幕府の直轄となり、箱館奉行所が再建されたが、港湾から近く防備上不利であったことなどから、元治元年(1864)に亀田の地(五稜郭)に移転した外装のペンキも塗られ保存状態が良い公園内の路面のタイル四天王像函館四天王像 市民精神の源流明治の函館は本州の都市のように、旧藩の遺産も恩恵もなく従ってその束縛もなく市民は自主的に市民精神を養い、経済の発展を計り進んだ都市造りをした。造船所、器械製作所等の重要産業を興すと共に日刊新聞の刊行、学校、病院、水道、公園をはじめ、恵まれない人々のための教育、医療施設にいたるまで力を尽くした。明治、大正には東京の文化は東北を素通りして北海道へ渡ったと言われたが、その北海道とは函館のことである。その繁栄は、平田文右衛門はじめ四天王と言われた人々の合議によって昔の泉州の堺港とくらべて明治の自由都市の函館と称する人もある。人口は終戦前まで常に全国十位前後であった四天王とは次の四人である、像の向かって左より、今井市右衛門 天保7~明治20年(1836~1887)石川県能登の生まれ、若くして当地に来たり西洋雑貨の店舗を開く、また、北海道最初の新聞社の北溟社を創立した。医師と共同で福祉事業の育児会社や恵まれぬ人のための鶴岡学校を創立する等多くの私財を投じて少しも惜しまなかった。平田文右衛門 嘉永2~明治34年(1849~1901)函館生まれ、呉服太物商。函館繁栄のため造船所、器械製作所、学校、病院、新聞社の設立等四天王の功績は多くこの人が主唱し計画、実行に誤りがなかった。区の財産造成にも大功があった。没後、区会の決議により肖像を議事堂に高く掲げてその徳を顕彰した。渡邉熊四郎 天保11~明治40年(1840~1907)大分県竹田の生まれ、明治2年金森洋物店を開きて世界各国の商品を普及、書店を開きて文化に尽くし海運業を計りて貿易に貢献、また巨費を投じて函館病院を再建、二代三代にわたり私財にて育英的な人材を養成したボーニ森屋デパート金森商船は遺業の一部である。平塚時蔵 天保7~大正11年(1836~1922)青森県田名部の生まれ、函館の平塚家の養子、呉服太物、西洋雑貨の販売を業とした四天王の一人として公共事業に尽くし、私財を投じては慈善事業に貢献、四天王のうち最も長命、後輩の指導に尽くした。この四人は当時の区長常野正義と共に明治14年制定の藍綬褒章第3号から第7号まで受けた。 建設期成会 昭和57年10月9日元町公園「大地と海と僕たちと」 安藤 泉 作 2008.3.10設置ケガのないよう十分に注意しながら、作品に触れ、楽しんでください。樹に登ったり、作品のあいだを走り回るのは危険です。 函館市元町公園から、赤く染まる駒ケ岳を望む上空には、AIR DO機羽田空港へか? 搭乗率がどうなのか気になる、満席であることを願うが16:54青函連絡船記念館摩周丸を望む。後方を横切る高架橋は、ともえ大橋 - 続く -
2020.11.12
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函館駅前の駐車場から赤レンガ倉庫群近くの駐車場へ移動。10月18日(日) 15:40赤レンガ倉庫群入口の駐車場へ、駐車料金が30分400円と高いので急いで。街路樹も紅葉を始める、左は「函館西波止場のショッピングモール」駐車場周りの観光地北海道にも、コメダ珈琲店が進出、函館 ベイエリア店所在地:北海道函館市豊川町27-8コメダを利用すると駐車場が2時間無料になると、後の祭りだ!函館ベイエリア ~ 西部地区周辺マップベイエリアにも人力車函館の歴史を伝える『金森赤レンガ倉庫』所在地:北海道函館市末広町14-121869年頃の倉庫群の中にあるユニークなショッピングモールである金森赤レンガ倉庫営業倉庫として函館で初めて倉庫業を行った。初代・渡邉熊四郎は、1863年、24歳の時に長崎からここ函館にやってきました。その後、1869年旧金森洋物店(現市立郷土資料館)・旧金森船具店で輸入雑貨や船具の販売等、数々の業績を残しました。特に社会、文化事業に果たした役割は大きく、学校の建設、公園や水道施設の整備など、多くの公共事業に私財を投じました。その熊四郎がこの地に倉庫業を始めたのは1887年。当時の倉庫は、1907年の大火で焼け落ち、その後すぐに再建工事を行いました。現在の倉庫は1909年に完成した建物です金森赤レンガ倉庫群の間を抜ける。倉庫内にはレストラン、食料品店、土産物店があったが、今回は時間の制約もありスルー古い建物であったが、説明板がなく開港通り沿いにある「茶房旧茶屋邸」大正ロマンの「茶房旧茶屋邸」抹茶セット(他各種) おしるこ、あんみつ、くずきり箱館高田屋嘉兵衛資料館所在地:北海道函館市末広町13-22残念ながら臨時休業中であったお知らせ都合によりしばらくの間休館させていただきます(開館日未定) 箱館高田屋嘉兵衛資料館高田屋嘉兵衛江戸時代末期の豪商、回漕業者、高田屋嘉兵衛は明和6年(1769)淡路島に生れた。28才のとき、北前船「辰悦丸」で箱館(函館)に来航、以後、箱館を本拠地として北洋漁業の開拓、本州各地との交易の発展に尽力した。幕府はその功績を認め寛政12年(1800)嘉兵衛に苗字帯刀を許した。当時の寒村箱館が港として発展できたのは嘉兵衛の力によるところが大きい。更に嘉兵衛は、いわゆるゴローニン事件解決の立役者であった。1818年ロシアの海軍将官ゴローニンが北方領土侵犯の疑いにより捕えられたとき、ロシアは報復としてエトロフ島回航中の嘉兵衛を捕え投獄した。嘉兵衛は少しも臆せず、国土刧掠の非を難じ、両国融和の道を説いた。ロシアは嘉兵衛の勇気に感服し謝罪した。嘉兵衛は箱館奉行に懇請ゴローニンを釈放させ、以後両国の平和友好が促進された。幕府は円満解決の功績を称え賞詞を与えた。文政10年(1827)波乱とロマンにみちた59才の生涯を閉じた後方に赤レンガ倉庫群開港通りの交差点に立つ案内表示。ハリストス正教会 470m新島襄海外渡航の地碑 650m 北海道第一歩の地碑同交差点近くにある「日本最古のコンクリート電柱」日本最古のコンクリート電柱この電柱は、大正12年(1923)10月、当時の函館水電会社(現北海道電力)が建てたもので、日本最古のコンクリート電柱である。高さ10メートルのこの電柱は、現場打ち工法で、底辺が47センチメートル四方、上辺が19.5センチメートル四方の鉄筋コンクリート造りで、角錐形という珍しいものである。火災が頻繁に発生した当時の函館では、この頃から耐火建築が増えはじめたが、この電柱もそのあらわれであり、木柱が普通であった当時から今日まで、耐用年数を越えてもなお現役として街の移り変わりを見守っている。また、後に同形の電柱(昭和46年に撤去し、平成8年に再建)が建物をはさんで建てられたため、「夫婦電柱」と呼ばれて市民の話題となった15:53南方向に「二十間坂」函館朝市から函館山を目指して「開港通り」をまっすぐ進むとこの坂にたどり着く。さらにのぼると函館山ロープウェイの駐車場入口道路標識新島襄海外渡航の地碑 500m日本最古のコンクリート電柱 100m太刀川家住宅店舗 900m 見所がいっぱいだ!ハセガワストア ベイエリア店コンビニエンスストア函館名物、ふるさと函館の味「やきとり弁当」の幟が気になったが壁面の蔦も紅葉赤い靴の少女像「きみちゃんの像」所在地:北海道函館市末広町23横浜の山下公園にもあったが函館にも・・・・・。後方は緑の島童謡の「赤い靴」 野口雨情 作詞、本居長世 作曲 赤い靴はいてた女の子、異人(いじん)さんにつれられて行っちゃった 横浜の埠頭(はとば)から船に乗って、異人さんにつれられて行っちゃった 今では青い目になっちゃって、異人さんのお国にいるんだろう 赤い靴見るたび考へる、異人さんに逢うたび考へる青森につながる国道279号(海峡道)の片隅に立つ、赤い靴の少女像。旅友も熱心に撮影、このあと横に立ちパチリ赤い靴の少女像横から、南方向の八幡坂を望む函館山を見上げる16:02駐車場に戻り、赤レンガ倉庫群。約30分の散策で駐車場から車を出し移動16:11新島襄海外渡航の地碑所在地:北海道函館市大町11後方に、函館港に浮かぶ人工島の緑の島。この島は当初は遊園地やウオーターフロントを活かした施設を計画していたが、結局現在の通り、広い芝生公園(運動場)、駐車場、ヨットハーバーで構成されている車を乗り入れ駐車して撮影。新島襄海外渡航の地碑新島襄は、新知識を海外に求め、吉田松陰の海外渡航の失敗を考慮し、渡航地を箱館に選んだ。元治元年(1864)江戸から来て、ニコライ主教(ハリストス正教会2代主教)に日本語を教えたりなどして脱出の機会を待っていたが、同年6月14日(新暦7月17日)深夜、福士成豊(日本最初の官立気候測量所開設者)の助力により、この地から国禁を犯して海外渡航に成功した。上海経由で渡米した新島襄は、修学10年の後、明治7年(1874)に帰国し、翌8年京都において同志社大学の前身である同志社英学校を創立した新島襄海外渡航の地碑から函館駅方向を望む。この碑にある「男児志を決して千里を馳す 自ら苦辛を嘗む豈(あに)家を思わんや 却って笑う春風雨を吹く夜 枕頭尚夢む故園の花」の漢詩は、新島襄の自作自筆によるもので、元治2年(1865)香港での作である。渡航前の名前は新島七五三太(しめた)であったが、渡航中に船長から「ジョセフ」の名をもらい、略して「襄(じょー)」の字をあてた。明治23年(1890)48歳で没カメラを南に振り、赤レンガ倉庫群ズームアップ16:18道路脇に車を止めて撮影。基坂の下に立つ「明治天皇上陸記念碑」花壇は花で飾られ、南方向に函館山を望む。坂の上には元町公園がある明治天皇上陸記念碑赤御影石の地球儀の上に、青銅の鳳凰が羽を広げた碑は、明治天皇が明治9年(1876)、東北・北海道巡幸で来函の際の、旧税関桟橋への上陸を記したものである。同14年(1881)に再び来道の際、小樽から陸路函館へ巡幸し、ここから乗船して青森へ向かった。明治9年の下船・乗船と同14年の乗船で、計3回となることから三蹴碑(さんしゅうひ)とも呼ばれている。この碑は、函館出身の彫刻家・梁川剛一の作で、昭和10年(1935)9月7日に除幕された。同16年に7月20日を「海の記念日」と定めたのは、明治天皇の明治9年の巡幸の際、7月18日に離函し、20日に横浜に帰着したことを記念したものである。平成8年(1996)から国民の祝日「海の日」となった赤御影石の地球儀の上に、青銅の鳳凰が羽を広げた碑後方の北側には、海上自衛隊 函館警務分遣隊函館市電 本線沿いに建つ、相場㈱所在地:北海道函館市大町9-1相場家の住宅は元町に残っている。案内板は、旧イギリス領事館 ← 150m 旧函館区公会堂 ← 300m 元町公園 ← 200m伝統的建造物この建造物は、伝統的建造物として保存する重要な建物であります 函館市教育委員会入口の上に「相場株式会社」相場株式会社から北側へ進むと海上自衛隊の基地へ振り返り、函館市電 本線の向こう側の坂は「基坂」海上自衛隊函館警務分遣隊の前に立つ「護衛艦 はまゆき 主錨」就役 昭和58年11月18日退役 平成21年 3月14日箱館運上所跡欧米5か国との通商条約に基づき、安政6年(1859)、箱館は横浜、長崎とともに開港し国際貿易港となった。これにともない、税関の前身である運上所が設けられた。開港翌年の入港外国船は商船30隻、捕鯨船21隻、軍艦13隻の計64隻であった。貿易では、輸入はほとんどなく、輸出は中国向けの昆布が4分の1を占め、そのほか、いりこ、するめ、干あわびなど海産物が上位をしめていた。明治5年(1872)、運上所は税関と改称された。昭和43年、海岸町中央埠頭に港湾合司庁舎が完成し、税関も同庁舎に移転した。なお、明治44年(1911)に築された庁舎は、木造ルネサンス風の洋風建築であったが、昭和47年(1972)に取り壊された16:23車を道路脇に路上駐車しているので戻る。約5分の撮影タイムであった - 続く -
2020.11.11
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青函トンネルの通過は2度目であったが、新幹線では初めて。新函館北斗駅前でレンタカーを借り、いよいよ函館市内観光へ。10月18日(日) 13:38新函館北斗駅南口。駅舎からレンタカーの「駅レンタカー(北海道)」へ移動新函館北斗駅の青森側を望む。天気は快晴で最高JR 新函館北斗駅、駅舎の右側は「北斗市観光交流センター」。右側の建物は今夜から三連泊する「ホテル・ラ・ジェント・プラザ函館北斗」カール・レイモンゆかりの地~ 1930年代の新函館北斗駅前には、当時日本最大のハムソーセージ工場がありました ~本物のハムソーセージづくり昭和10年の頃、後に新函館北斗となる本郷の駅前に、当時としては日本最大規模のハムソーセージ工場があった。その主こそ、ドイツからやってきた食肉加工技師カール・レイモンである。1919年に初めて日本を訪れたレイモン。その動機はサムライの国を見てみたいという素直なものであった。食肉加工や缶詰の技術を見込まれ、仕事で函館~カムチャッカ間を往復するようになったレイモンは、ステーキの美味しい勝田旅館の娘、勝田コウと恋に落ちる。海外へ駆け落ちしてまで一緒になった情熱家のレイモンは、許されて函館へもどると、1925年に本場のマイスターの技で本物のハムソーセージづくりを始める1930年代の写真「工場や豚舎、事務所などが立ち並ぶ」函館駅前の若松町、五稜郭と規模を大きくしながら場所をうつし、昭和8年、本郷駅前に3千坪の土地を買い、牛35頭、豚310頭、羊30匹を飼い、畜産施設や食肉処理工場を構えた。近隣農家にも畜産技術を伝えたため、地元産業は大いに振興した。それはレイモンが幾たびも北海道に提唱した、畜産中心に循環型の自給自足を実現する産業構造「北海道開発プラン」を、ミニチュア版として実践してみせたものである13:41レンタカーの「駅レンタカー(北海道)、新函館北斗営業所」所在地:北海道北斗市市渡1丁目3-20営業所内は内地からの新型コロナウイルス対策!検温も。受付で「函館市内では駐車違反の取り締まりが厳しいので注意してください」と14:10函館市内までは、新函館北斗駅から約16kmもある。外気温は19℃と気温も上がり暖かいカーナビはいつものようにKさんが事前に調査した「土方歳三最期の地」函館駅方面へ進むレンタカーは、トヨタ車のSクラス「ルーミー 1000CC」14:35土方歳三最期の地所在地:北海道函館市若松町33-6若松緑地公園の片隅にあり、駐車場もないので隣接する施設へ一時駐車させていただく。入口に「猿田彦塚の碑」一本木関門石碑は「土方歳三最期之地」崇拝者が多いのかたくさんの花が献花されていた新撰組副長として京都の街に勇名をはせた土方歳三は鳥羽伏見の戦いの後、新選組を率いて各地を転戦して北上し仙台で旧幕府海軍副総裁榎本武揚が指揮する脱走艦隊と合流した。明治元年(1868)10月、蝦夷地に上陸した榎本軍は、箱館を占拠して新政権を樹立、土方はその陸軍奉行並の要職についた。翌2年4月、新政府軍の総攻撃に榎本軍は各地で敗退したが、土方が守った二股口(現・北斗市)だけは最後まで落ちなかった。しかし、同年5月11日、ついに箱館も新政府の手に落ちた。土方は箱館奪回を目指し、50名の兵を率いて一本木(現・若松町)の関門を出て箱館の市中に向い、敢然と切り込んでいったが銃弾に当たって倒れ波乱に満ちた生涯を閉じた。時に35歳であったこのような円柱をこれからよく見かける。土方歳三の経歴等が記載されている箱館戦争の様子旧幕府軍陸軍奉行並・箱館市中取締裁判局頭取「土方歳三」1835(天保6)年、武州多摩郡石田村生まれ。1863(文久3)年、幕府兵募集に参加し上京。同郷の近藤勇と新選組を結成し副長を務めた。戊辰戦争時には鳥羽・伏見の戦い、東北戦争で各地を転戦し、仙台で旧幕府軍に合流して蝦夷地へ渡り、箱館戦争へ参戦した。蝦夷地上陸直後の1868(明治元)年10月22日、箱館進攻へ出撃。鷲ノ木から砂原、鹿部、川汲峠、湯川村経由の間道部隊を率いて箱館へ進軍した。引き続き11月には、松前・江差の攻略部隊を率いて進軍して、蝦夷地平定に大きく貢献した。蝦夷地仮政権の陸軍奉行並および箱館市中取締裁判局頭取に就任して、1869(明治2)年3月の宮古湾奇襲攻撃や大野二股口での戦闘に奮戦した。同年5月11日(旧暦)、箱館や弁天台場を奪回・救出のため、一本木関門の突破をはかり、箱館市中へ向う途中で銃弾を受けて戦死した。享年35歳。一本木関門と石碑14:40猿田彦塚の碑昔、この辺りは一本木と呼ばれ、箱館村と亀田村との境になっていた。猿田彦塚は、文化14年(1817)、一本木付近に建立され「天保9年御巡見要用録」という記録書には箱館村と亀田村との境界標であったと記されている。この塚は以前、旧若松小学校西側の鶴若稲荷神社の境内にあったが、鶴若稲荷は昭和20年に疎開のため移転し、取り壊された跡には家屋が建ち、塚は無くなり見つからなかった。しばらくして、昭和31年に付近の民家の庭から字を刻んだ猿田彦塚の破片の一部が発見された。ここに在る二つの碑は、発見した石の破片を使用して昭和33年に猿田彦塚を復元したものである。「土方歳三最期之地」は急ぎ足の5分間の滞在であった。献花の数からいつまでも人気の土方歳三であることを感じた!14:53土方歳三最期之地から近い、函館駅前の駐車場へ車を預ける。駅前に建つホテル ルートインJR函館駅函館駅前広場の赤いモニュメント。函館駅から新幹線の新函館北斗駅までは電車で約20分を要する。また札幌駅までの特急北斗が約一時間ごとに運行しているはこだて観光案内函館朝市北海道は午後3時になると太陽も低くなる函館市民憲章(昭和52年5月3日 制定) 一、真心あふれる函館市民、あたたかいまち 一、健康で働く函館市民、にぎわうまち 一、文化を誇る函館市民、はぐくむまち 一、自然を生かす函館市民、きれいなまち 一、郷土を愛する函館市民、のびゆくまち 安全都市宣言(昭和36年3月6日 制定) 核兵器廃絶平和都市宣言(昭和59年8月6日 制定) 国際観光都市宣言(平成元年8月1日 制定) スポーツ健康都市宣言(平成4年10月10日 制定) いきいき長寿都市宣言(平成6年12月10日 制定)国道5号の起点である函館駅前交差点。左前方のビルには「はこだて みらい館」函館駅前交差点にある函館市電 函館駅函館駅前交差点の角にある「国道元標函館市」所在地:北海道函館市若松町12北海道の玄関函館市は、また、北海道における国道の起点にもなっている。前方交差点中央にある国道元標より、北方向へは、一般国道5号が長万部町、小樽市を経由して札幌に至り、東方向へは、一般国道278号が恵山町を経由して森町で5号に合流する。さらに、南方向へは、一般国道279号が1.8km先の函館市末広町から津軽海峡を渡り青森県の野辺地町へと向かっている。いずれの国道も歴史と伝統を誇る幹線道路であり、函館近郊の代表する区間は、5号「赤松街道」278号「漁火通」、279号「海峡通」の愛称で呼ばれ多くの人びとに親しまれている。 平成5年12月 北海道開発局国道元標から函館駅、JR INN函館駅前交差点角に立つ像「陽」と旅友函館市の、HAKODATE うすいマンホール蓋デザインはイカ函館駅西口、中央口函館朝市へようこそ!北海道産カニ・食堂・青果なんでもある「食」のワンダーランド!!15:05朝市仲通り左側に「どんぶり横丁市場」、この時間になると人通りも少ないが食堂の営業はしていた朝市 函館の朝は早い。函館の朝は、ここ朝市から始まるといわれるように、朝市の人々の朝は早い。まだ夜も明けぬ午前3時半ば、昔ながらの裸電球に日が灯り、商いの準備が始まって行く。ここ函館朝市は、戦後の物不足の時代から、函館市民の食生活を支え続け市民の台所として親しまれてきました。その昔朝市は、現在の函館市役所裏手に近隣農家のおばさんたちが農作物を持ち寄り、野菜を中心とした露店の集まりが始まりました。やがて段々とその規模は大きくなり、昭和32年(1957)、現在の場所へと移り、野菜ばかりではなく陸揚げされたばかりの海産物を地元の漁師達が持ち寄った乾物屋や花屋、やがては衣料品・雑貨などを扱う商人達までもが集いはじめ、今では北海道一と呼ばれる「函館朝市」が誕生したのです。・・・・・後略・・・・・ホタテの貝殻青函連絡船記念館「摩周丸」、ふれあい『イカ広場』1988(昭和63)年3月13日の青函連絡船最後の日まで運航していた摩周丸を実際の乗り場であった旧函館第二岸壁に係留・保存して公開しています。所在地:北海道函館市若松町12番地先開館時間:8:30~18:00(4月~10月末日)、9:00~17:00(11月~3月末日)休 館 日 :年中無休2代目摩周丸の船尾摩周丸は、八甲田丸・大雪丸・羊蹄丸・十和田丸・空知丸・檜山丸・石狩丸とともに青函連絡船の最後になる航海を飾った一艘です。船内には、船長が指揮を執った操舵室・無線室を現役そのままに再現した「操舵室・無線室」や青函連絡船の就航時に使用され、長い歴史を伝える珍しい資料などが展示された「青函連絡船のあゆみコーナー」のほか、大きな船の構造が模型や映像で手に取るようにわかる「船のしくみ展示室」や函館港と函館山を一望できる「シーサイドサロン」などが設けられています。船内には無料の休憩所(サロン)もあったようだが船首からの摩周丸。2代目摩周丸は、高速自動化船として登場した津軽丸型連絡船の5番目の船として、初代摩周丸が引退した翌年の1965(昭和40)年に建造され、同年6月30日の12時25分函館発青森行きの20便から青函航路に就きました。 大きさは8328総トン(新造時の規定による)、全長132メートル、幅17.9メートル、深さ7.2メートル、旅客定員1200名、搭載車両48両。主機関1万2800馬力のディーゼルエンジン、航海速力18.2ノット(時速33キロメートル)で、青森-函館間を3時間50分で結びました南方向に函館山今夜の夜景は良さそうだが函館山の夜景は一般車は進入禁止で、ロープウェイは明日から点検で休止になるとの情報ここの桟橋にはクルーズ船がやって来る。函館駅方向北の方向に駒ケ岳が見えるこの方向から見ると駒ケ岳は尖っているがイカ広場にある「改造型」青函連絡船ゆかりの錨イカ広場の片隅にある像「乙女?」イカ広場から函館山左側の高架橋は、ともえ大橋HAKODATE おすいマンホール蓋デザインは、旧函館区公会堂15:25海光房(かいこうぼう)所在地:北海道函館市若松町11-8大小さまざまな個室を備えるカジュアルな店内では、水槽から出して調理するカニやイカ刺しを提供してくれる。寿司や定食もあるが、現在は昼の営業はしていなかい。海鮮炭火焼水槽でイカが泳ぐビックリ!!巨大ダコ クイズ:何キロあるでしょう?? - 続く -
2020.11.10
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新型コロナウイルスが収まらない中、いつもの旅友Kさんと【Go To トラベルキャンペーン適用】を利用して、今年3月の旧東海道以来の宿泊旅行へ出かける。9月6日(日)ネットで下記、【Go To トラベルキャンペーン適用】往復北海道新幹線利用(東京 ⇔ 新函館北斗駅)函館国際ホテル フリープラン4日間を知る出発日、10月18日(日)で、二人一室 37,000円新函館北斗駅前のホテルへ3連泊、二人一室 37,000円。続日本100名城が道南に2城あるので旅友Kさんを誘う9月7日(月)Kさんから合意を頂き、Kさんがネットで早速申し込み、ツアー料金(2名1室) 但し、食事なし 一名 37,000円 74,000円 レンタカー 一台 19,000円GoTo キャンペーン -35% -32,550円 二名計 60,450円 よって、一名 30,225円 と割安。10月14日(水)阪急交通社から、チケットが届く。往復新幹線の乗車券、チケットは「ハコダテ様一行」地域共通クーポンが二人で、1,000円 × 14枚有効期間は旅行期間中の、20-10-18 ~ 20-10-21 限定。利用エリアは、北海道&青森県何故かクーポン券の支給に差別があるが?出発の日は日曜日の早朝で人が少ない。10月18日(日) 7:15茅ヶ崎駅北口天気が悪い予想であったが雨が降っておらず自転車で茅ヶ崎駅へ茅ヶ崎駅北口2階通路から、国道1号の茅ヶ崎駅前交差点茅ヶ崎駅北口雲が多いがどうにか天気も持ち久しぶりに、茅ヶ崎駅から東海道本線に乗車予定では8時9分に乗車する予定であったが、7:32 上野行きに乗車日曜日のため乗客が少ない。皆さんマスク8:34東京駅9時15分に集合予定であったが、旅友Kさんも既に到着しているとメール受け旅友Kさんとの待合場所:東北新幹線 北乗り換え口北海道新幹線改札口へ北海道新幹線の改札口を確認。Kさんは喫茶にいるとのことで探すことに8:55メールの場所を探すが見つからず、予定の時間に集合することに。時間があるので地下街を散策、1F中央通路に立つ像「仲間」はやぶさ 13号 9:36 新函館北斗行き 23番ホームB1にある「銀の鈴」昔から東京駅の待ち合わせ場所で以前はもう少し広かったような気がするが、現在は新しい店がオープンして狭くなっている。またケースに入ってなかったのでは。「銀の鈴」 宮田亮平 作 東京藝術大学 学長 2007年10月25日散策しながらKさんがいる店を探すが見つからず、当初予定の時間に待ち合わせ場所へ。前方に大きな荷物を持つKさんを見つける改札を入る新幹線ホーム9:23乗車予定の、はやぶさ 13号が入線パンタグラフ新幹線への乗車も久しぶりだ全車指定席のはやぶさ 13号 2号車9:55定刻の9時36分に出発するが2号車は満席。新函館北斗駅まで約4時間の列車旅。到着後運転があるが早速ビールを購入して乾杯乗車券10:10車窓からの筑波山11:06仙台駅盛岡駅手前11:45盛岡駅手前東北新幹線の東側を流れる北上川はやぶさは10車両連結。10号車:Gran Class、9号車:グリーン車。車内販売で地場の弁当を購入することを考えていたが、パン以外なく残念12:33新青森駅手前盛岡以降は初めての乗車であったがトンネルが多い。新しい路線だけに揺れも少ない感がした斜張橋は「青森ベイブリッジ」斜張橋をズームアップ12:35新青森駅新青森駅から北海道新幹線になる2号車車内は満席で、皆さん新函館北斗駅まで乗車12:55はやぶさは、青函トンネルへ。総延長53.85kmを約20分で通過すると青函トンネルは、津軽海峡を横断し本州と北海道を結ぶ延長53.85kmの長大海底鉄道トンネルです。昭和29(1954)年、台風による青函連絡船洞爺丸沈没という世界的にも大きな海難事故を契機として建設が促進されました。海底部の掘削では4度の大出水事故による水没の危機を初めとした難工事の連続でしたが、様々な技術開発や工事関係者の努力と奮闘の末、昭和58年(1983)に先進導坑、昭和60年には本坑が貫通し、昭和63年(1988)に津軽海峡線として開業しました。開業後28年を経た平成28年(2016)3月には、北海道新幹線(新青森・新函館北斗間)が開業し、青函トンネルはその一部となりました。日本の国土を一体化させた意義は大きく、日本の20世紀遺産20選にも選ばれております13:18北海道の知内町13:30進行方向右手に函館山が見えてくる13:35新函館北斗駅へ定刻に到着Go Toキャンペーンで多くの観光客が降りるレンタカー店へ向かう13:37駅前には多くのレンタカー店があり事前にKさんがチェック ー 続く ー
2020.11.09
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三日目は、那覇市内観光後那覇空港へ。この日は参加者は有給休暇を取得していた。2月8日(月) 9:35世界遺産の首里城へ所在地:沖縄県那覇市首里寒川町ちょうど団体さんが来たのか多くの観光客が訪れていた。守礼門守礼門は鮮やかに再現された門で、首里城の玄関口首里城内郭へ瑞泉門めでたい泉という意味を持つ門。門の手前に龍樋と呼ばれる導管があったことが名前の由来城内より市街を、ようやく青空が見えてくる。復元された城壁昨年10月に焼失した首里城の正殿この写真は8年前の平成14年(2002)2月に、旧オジンクラブで初めて沖縄へ旅行した時のものです城壁内にて城壁と歓会門城内から下り振り返る城壁と歓会門世界遺産『琉球王国のグスク及び関連遺産群』平成12年(2000)12月に日本で11番目の世界遺産として文化遺産に登録された。遺産群は9ヵ所で、①首里城跡 ②園比屋武御嶽石門 ③玉陵 ④識名園 ⑤今帰仁城跡 ⑥勝連城跡⑦座喜味城跡 ⑧中城城跡 ⑨斎場御嶽。なお、復元された建物や城壁は世界遺産に含まれていない歓会門尚真王の代に創建されたとされる正門で、石造りのアーチ門の上に櫓をのせた形式守礼門前多くの観光客が次から次と訪れていた守礼門前で記念写真「首里城 めんそーれ 守礼門 2010年2月8日」レイを掛けてもらい沖縄衣装のきれいどころと記念撮影我々は男同士で記念写真10:30約1時間の観光で首里城を後にし国際通りの土産物店へ首里城は、昨年の2019年10月31日午前2時40分ごろ正殿付近で出火して焼失したが、早く復興再建されることを祈ります11:17土産物店にて沖縄名物の「海ぶどう(クビレズタ)」。クビレズタとはイワズタ科イワズタ属に属する海藻。沖縄県や鹿児島県では海ぶどうやグリーンキャビアと呼ばれている。和名はもと、くびれのあるツタの意味で「クビレヅタ」であったが、2000年に改定された日本産海藻目録より「クビレズタ」に改められた花も終わりの寒緋桜13:50昼食後、ガソリンを満タンにしてレンタカーを返却。14:00レンタカーの送迎バスで那覇空港へ、道路脇を走るモノレールの「ゆいレール」ゆいレール那覇空港駅那覇市街地方向那覇空港滑走路14:08送迎バスを降り出発ターミナルへ14:37出発ロビーで、既にワンカップが手に座り込み乾杯胡蝶蘭が綺麗に南国の花胡蝶蘭このあと、15:20発のJAL914便に乗り羽田空港へ17:07機内でくつろぐ中野氏は今は亡き人に17:10羽田空港上空へ搭乗機は房総半島沖へ17:12羽田空港へ17:35に到着、駐車場で解散して帰宅この遠征は私がテレビを見て企画、会計もつとめました。10年遅れでようやくブログを完成アップできました。 END
2020.06.16
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沖縄二日目は、13時から糸満市の西崎球場で交流試合の予定。天気は予報どうり昨夜来雨。2月7日(日) 10:54試合が13時からで時間があるので、準備をして那覇市内の国際通りへ野球仲間の奥さんの実家が沖縄でその親族と会う11:47レンタカー4台に分乗して交流試合会場の『糸満市西崎球場』へ。所在地:沖縄県糸満市字西崎町3-1立派な球場であったが昨夜来の雨でグランドはぬかるんでいたナイター照明もあり両 翼:97.6m、中 堅:122m、収容能力:12,000人本来ならここで交流試合を2試合の予定であったが、グランドコンディションが悪く中止に。夜の懇親会のみとなる14:05懇親会が18時からのため、それまで近郊の観光に。近くにある『ひめゆりの塔』へ所在地:沖縄県糸満市字字伊原671-1第二次世界大戦の沖縄戦で亡くなったひめゆり学徒隊の女学生たちにささげる慰霊碑。慰霊碑には名前が刻まれ、前には洞窟沖縄陸軍病院第三外科棟跡博物館があり、館内には女学生の写真が貼り出されていた博物館の中庭には花壇があり綺麗に飾られていたがこの桜も寒緋桜あの頃はみんな若かった14:30ひめゆりの塔前のレストランで昼食沖縄そばを食べるうみぶどうと定食平和祈念公園所在地:沖縄県糸満市字摩文仁444第二次世界大戦時の沖縄戦を戦った人々に祈りを捧げる公園。慰霊碑や広場がある平和の式典がこの広場で行われる沖縄平和祈念堂平和の丘沖縄県平和祈念資料館平和の礎(いしじ)地区別に亡くなった人の名が刻まれている米軍との戦いがあった太平洋側沖縄県平和祈念資料館、修学旅行生?も来ていた平和の丘にある大きなモニュメント広場の先の小高い丘に建つ『沖縄平和祈念堂』平和の丘に立つ先輩沖縄平和祈念堂芝生は綺麗に整備されていたこのあと、宿泊ホテルへ帰りタクシーに分乗して懇親会会場へ向かう。18:30西崎球場隣の「スポーツロッジ」で懇親会相手チームの紹介この女性は相手チームのマネージャーだったか?この人はひょうきんであった相手チームが壇上にあがりチーム紹介。交流試合をやっておれば珍プレーで盛り上がったのであろうが我々のチームも紹介19:55両チームで記念写真をみなさん60歳前後全員で記念写真21:05懇親会を終え、金城監督、現地担当の川端氏と記念写真。今回交流試合ができなかったが、この秋千葉県印西市へ遠征するのでその時の再会を誓う21:30懇親会の後は近くのスナックで二次会。ここの費用は御馳走になりました。今の時期このような濃厚接触は出来ないが23:30時が過ぎるのも忘れ、カラオケを楽しみこの後、タクシーに分乗して宿泊ホテルへ帰る。 続く
2020.06.15
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旧東海道の弥次喜多道中記も終わり、新型コロナウイルスの関係で外出自粛、自宅待機のためブログのネタもなくなり新規写真もないため、テレビと同じように以前の写真を引き出し今回アップとしました。過去の自分のブログを見ると、平成22年(2010)2月6日 ~ 8日に沖縄遠征したブログを平成22年3月2日、6日にアップしていたが、まだブログのかけだしの時期で操作に不慣れで挨拶のみで中途半端に終わり、その上撮影した写真も未公開だった。この遠征の企画は、遠征した前年の5月6日に『NHK にっぽん紀行』で、『野球オヤジが燃える日』と題して『糸満中学40歳以上OB野球大会』が放映され、その後このチームへ連絡を取り交流試合をすることになり、二泊三日のツアー (33,600円) を計画してチーム13名で遠征したものです。この時期はプロ野球も数チームが沖縄でキャンプイン中。平成22年2月6日(土) 8:03チームに参加を募り、車に分乗して羽田空港の駐車場へ。野球道具の大きなもの(捕手関係)、バットは事前に宅急便で送る。8:15 JAL903便で羽田空港から沖縄那覇空港へ到着地の天気は、15℃ ☂マークもう10年前になるので若いが、参加者13名の平均年齢は63歳であった。相手チームも、『糸中OB40歳以上野球同好会』が中心でチーム名は『マリンズ28 28期生』あれから10年、昨年亡くなった人もいるが・・・・・10:47那覇への機内にて11:38那覇空港到着ロビー到着ロビーには「歓迎 2010 プロ野球春季沖縄キャンプ」の垂れ幕11:54事前のメールでは横断幕とあったが、こんな大きな横断幕でナインはビックリ。他の観光客はどんなチームかと興味津々15:30試合は明日のため、レンタカー4台を借り沖縄観光へ。日本で一番早く桜が咲く「八重岳の寒緋桜」への途中、名護の海岸海はコバルトブルーだが、天気が良ければこれ以上に鮮やかであったろ―。八重岳の方向16:10八重岳桜の森公園所在地:沖縄県国頭郡本部町字並里921番地もとぶ八重岳桜まつり、”ひとあしお咲きに” をキャッチフレーズに開催される ”日本一早咲き” の桜まつりで、今年は2020年1月18日(土) ~ 2月2日(日)に開催されたが、外出自粛前で無事開催標高453mの八重岳一帯に約7,000本のピンク色の琉球寒緋桜が鮮やかに彩る小雨が降り少し肌寒かった一部、葉も出て露天商も多く出店駐車場もあり入場料は無料だが途中の道が狭い寒緋桜はいろんな桜と交配され新しい品種を、今年花見に行った、河津桜(オオシマ桜と)、おかめ桜(豆桜と、根府川)もピンク色が鮮やか16:20現在監督の、Oさん、当時は宴会部長?小雨も降っており、わずか10分程で山を下ることに16:50八重岳からの帰路、名護市内の「日本ハム」キャンプ地、「名護市営球場(タピックスタジアム名護)」所在地:沖縄県名護市宮里2丁目119:30夜は夕食を兼ね、「ホテルルートイン那覇」近くの居酒屋『夢風亭』へ所在地:沖縄県那覇市西2丁目21-16あれから10年、今でも営業しているのか骨付き・・・70歳の左腕のエースは一人で。現在でも現役で投げている先輩である本場泡盛を飲みご機嫌に沖縄のビールは「オリオンビール」このビヤー樽はわが社で作ったと店の子と店長と「沖縄料理美味しかったよ!」21:45店先でも盛り上がり、明日の交流試合のためこの後は自由行動になり、ホテル組、二次会組と別れる。明日の天気予報は雨、晴れることを祈るがこの時期の沖縄は降雨率が高い。参考までに、この遠征より8年前の平成14年(2002)2月に、旧オジンクラブで初めて沖縄へ旅行しているが、その時のまとめ資料です。その時は首里城へも行っておりますが、残念ながら映像が無く・・・・・ 続く
2020.06.14
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今日から5月、いつまでこの新型コロナウイルス騒動が続くのか・・・・・。本来ならゴールデンウイークのまっただな中、テレビの報道は渋滞、混雑の報道であろう。しかし今年は初めての『外出自粛要請』から、『STAY HOME』と、新幹線も自由席の乗車率が0.0%と。弥次喜多道中は関宿の会津屋で念願の「おこわ・そばセット」を食べ、鈴鹿峠を越え水口宿へ。やはり車での移動は楽だ。 3/20(金) 15:52会津屋前から関宿の『西の追分』方向。この方向は観光客が少ない16:03国道1号線を走り『市瀬一里塚跡』右側の小高い所が一里塚で関宿方面。前回(2/21)に見落とした場所、木もなく石柱のみ16:04国道1号線を走り鈴鹿峠へ、この先の沓掛交差点から上下線が別ルートになる。鈴鹿峠は両側の山の鞍部分になる16:17鈴鹿峠を越え国道1号線を下ると左側に『山中城址』の石柱。前回は、右側の『山神』の石碑には気が付いたが『山中城址』の石柱山中城に係わる話として、天文11年(1542)9月、伊勢の国司北畠具教は甲賀に侵入しようとして、彼の武将神戸丹後守および飯高三河守に命じ、鈴鹿の間道を越えて山中城を攻めさせた。当時の山中城主は、山中丹後守秀国であり、秀国は直ちに防戦体制を整え、北畠軍を敗走させた。こうして北畠軍はひとまず後退したが、直ちに軍勢を盛りかえし、さらに北伊勢の軍勢を加えて再度侵入し、一挙に山中城を攻略しようとした。このため秀国は、守護六角定頼の許へ援軍を乞い、六角氏は早速高島越中守高賢に命じて、軍勢五千を率いさせ、山中城に援軍を送った。一方、北畠軍も兵一万二千を率い、蟹坂周辺で秀国勢と合戦した。この戦いは、秀国勢が勝利を収め、北畠勢の甲賀への侵入を阻止することができた16:43水口宿へ入り、前回(2/22)は雨で写真を撮り忘れていたので再度訪問。作坂町にある『水口宿 本陣跡』この地は江戸時代水口宿の本陣が置かれていたところです。本陣とは大名・旗本・宮家・公家・幕府役人などが休泊するための施設で、これを補助するものとしては脇本陣があり、水口宿ではその両方が宿の東部の作坂町にありました。本陣は規模が大きく、一般の旅籠屋には許されない門・玄関・書院などがあって格式を示し、その経営には宿の有力者があたりました。この本陣は代々鵜飼氏が経営にあたり、間口も一般の三軒分に相当する広大なものでしたが、明治2年に行われた明治天皇の宿泊をもって、その歴史を閉じ、その後建物は撤去されました本陣の跡地の中央に『明治天皇聖蹟』、左奥に『明治天皇行在所御旧跡』の石柱三筋の道入口には『高札場跡』がある、前回は雨の中左方向へ進んだ16:54龍王山 大岡寺(だいこうじ)所在地:滋賀県甲賀市水口町京町1-30前回(2/22)雨で訪れなかったので、今回車で立寄る。狭い道を進み境内へ入る龍王山 大岡寺の由緒寺伝によれば、白鳳14年(686)僧行基が諸国行脚に際し、大岡山の山頂に自彫の十一面千手観世音像を安置し創建したという。その後寺勢盛大を極め、十六の坊舎を擁していたと伝えられるが天正2年(1574)の兵火で、堂宇はことごとく焼失し、東之坊(本坊)を残すのみとなった。天正13年(1585)に、中村一氏が岡山城の築城にあたり、東之坊を地頭に移転し、大岡山山頂に城郭を構築したが、落城後享保元年(1716)に至り、時の住職寂堂法院が再び現在の地に堂宇を再建した。以後、水口藩主加藤氏歴代の祈願所となった山門と鐘楼山門から「三筋の道」方向(南側)を望む境内から山門を下り、本来の入口へ山門には「龍王山 大岡寺」山門を入ると正面に本堂、左に行者堂本堂の扁額「大岡寺」、近い将来本堂の屋根裏も修復が必要であろう本尊十一面千手観世音菩薩は、家内安全・商売繁盛・進学・就職・厄除等諸願成就の守護佛で、近江西国三十三か所第二十六番霊場として多数の参詣者がある。また、恵心僧都の作で、阿弥陀如来立像は、ともに国の重要文化財に指定されている境内の史跡を探してカメラを片手に動き回る弥次さん当寺には、史跡が多く、鴨長明発心之所であり、巌谷一六の記念碑や、芭蕉の「命二つ 中に活きたる 桜かな」の句碑等がある。この句に詠まれた桜は「大岡寺の桜」として水口八景の一つに数えられている芭蕉の句碑「命二ツの 中に生きたる 桜哉」行者堂行者堂前の右側に「鉛筆供養・進学祈願法要」鐘楼、山門境内の西側に石碑があり字が刻まれていたが判読できず17:15水口神社所在地:滋賀県甲賀市水口町宮の前3旧東海道から離れているので今回の道中では訪れないので車で訪れる水口神社の石の太鼓橋この太鼓橋は急で渡れず飾りなのか当社の主祭神大水口宿禰命は饒速日命六世の孫出石心大臣命の子であり、祖母淡海川枯姫の縁により当地に移住されたと思われる土地開拓の祖神である。配祀は大己貴命、素盞鳴尊、稲田姫命である。当社は、三代実録貞観元年(859)正月甲申の条に「従5位下水口神に従5位上を授く」とあり、延喜式内の旧社で神明帳にある近江国155座、甲賀郡八座の一つとされる。明治元年(1868)九月明治天皇御東幸の?、勅使を差遣せられた。・・・・・・・・・滋賀県指定無形民俗文化財『水口曳山まつり』のポスター。令和2年 宵宮祭:4月19日(日)、例大祭:4月20日(月) とあったが今年は開催されたか?手水舎、明神鳥居、拝殿水口神社拝殿拝殿裏の顕馬水口神社の神門延喜式内の古社で水口宿の産土神である。4月19・20日の水口神社の水口曳山祭りは有名。享保20年(1735)に9基から始まったといわれ、次第に盛んになり最盛期には約30基が巡行した。祭礼を引き立てる「水口ばやし」は江戸神田囃子の流れを組むという還暦記念植樹左近の桜と右近の橘水口神社(北側から)扁額「式内 水口神社」水口神社(南側から)水口神社神門から拝殿を望む夕焼け沈む東側を望む境内の隅に建つ「滋賀県指定無形民俗文化財『水口曳山祭』〈4月19・20日〉」。水口を代表する水口祭に巡行する曳山は祭礼の顔であり「二層露天式人形屋台」の構造を持ち、下層には囃子方が乗り、上には趣向をこらした「ダシ」が飾られます。祭礼に曳山が登場したのは享保20年(1735)とされており、その後変遷を経て、今日16基が伝存しており県下最多の数を誇ります。江戸時代の近江では、曳山は都市のシンボルとしてその豪華さが競われ、ここ水口でも町人の経済力と心意気によって建造されてきました。曳山の中で演奏される囃子は「水口ばやし」として、その勇壮な調べが人々の心を躍らせ、現在は郷土芸能として、祭礼以外にも盛んに演奏され好評を博しています17:22水口神社境内を振り返る水口神社前の民家の庭先に咲く『リナリア』リナリアとして園芸的に親しまれるのは、一年草のヒメキンギョソウと宿根性のリナリアで、パステルカラーの花色とすらりとした花穂の風にゆれる姿が優しい印象ですホテルへの途中スーパーにより、いつものように今夜の買い出し。18:00宿泊ホテル『グリーンヒルサントピア』所在地:滋賀県甲賀市水口町北内貴1-1前回に続いての宿泊、朝食付きで5,000円とリーズナブル今回は洋室であった年寄にはやはり洋室が良い大風呂に入った後、部屋で明日のスケジュールを確認しながら宴会。明日からいよいよ最後の道中記である。 最後の弥次喜多移動日ーEND
2020.05.01
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日本武尊を祀る能褒野(のぼの)神社を散策。3/20(金) 13:53県道639号線の北方向。道路脇に案内板の『日本武尊御墓』この辺りの桜の蕾は硬い参道入口の石柱は『縣社 能褒野神社』能褒野王塚古墳(景行天皇皇子日本武尊能褒野墓)御幣川と安楽川の合流点に近接する、標高45m程度の段丘端部に所在する前方後円墳である。全長90m、後円部径54m、同高9m、前方部幅40m、同高6.5mで、北勢地域最大規模の古墳である。この古墳から採取されたという鰭付朝顔形円筒埴輪や器材埴輪から4世紀末頃の築造と考えられる。これらの埴輪は、奈良県北部地域や京都府西南地域との関係がうかがえ、畿内周辺地域の勢力が、濃尾地方へ伸展するルート上にある地理的条件によってもたされたものであると考えられよう。日本武尊(倭建命)が東征の帰路に伊勢国能褒野(能煩野)で薨じたとの『記紀』記述により、明治12年(1879)内務省によって「景行天皇皇子日本武尊能褒野墓」に定められ、墳丘の修復に併せて、畿内の王陵墓に倣い周庭帯が設けられた。しかしながら、近世においてはこの古墳が日本武尊の墓という認識はほとんどなかったものと見られる。周囲に十数基の円墳が所在し「培塚」とされているが、これらは後期古墳と考えられる参道を登り石鳥居。能褒野神社の一の鳥居は、JR亀山駅前にあり、二の鳥居は亀山宿の手前にあった静かな参道を進む、宮内庁管理の敷地常夜燈が建ち左側の石柱には「日本武尊御墓参道」能褒野神社境内入り口能褒野神社能褒野神社鳥居と拝殿めずらしく記帳する弥次さん、私も記帳した拝殿の扁額「御祭神日本武尊 能褒野神社」拝殿から参道を振り返る拝殿、社務所石柱には「能褒野墓 飛地ほ号 宮内庁」14:07駐車場で鳥のさえずりが聞こえてくるズームアップすると14:10能褒野神社の東側にある『奈具志理神社跡』の石柱。所在地:三重県亀山市田村町水乃神の碑【倭建命(ヤマトタケルノミコト)之碑】 倭建命は、今からおよそ1600年前に活躍された人で、当時の天皇(父親)の命令で日本の各地 へ遠征し、国内の戦乱を平定されたとされる古代の英雄であり、その神話は今でも人々に永く 伝えられています。東北地方の戦乱を平定された後で、故郷を偲んで和歌を詠まれ、能褒野の 地でその短い生涯を閉じられました。 尚、倭建命が東北の地に遠征した時、その地に子孫を残されて、その子孫が何年かの後、天狗 の姿に身を変えられ亡き父(倭建命)のお墓がある能褒野に辿り着き、その後此の地に住み着か れ原家の御先祖様になられたとのことです。【水乃神の碑】 此の碑は、倭建命の妻であった弟橘比売命(オトタチバナヒメノミコト)をお祀りしています。 弟橘比売命は夫の倭建命が遠征の時、荒れ狂う海に自ら飛びこまれて、荒海を鎮め夫を助けら れたとされる神話が永く伝えられています。この神話が水にまつわるとのことで、水乃神様と して倭建命の側にお祀りしました14:13奈具志理神社跡を後に、交差点の右側角に石柱があるが14:20伊勢国府政庁跡所在地:三重県鈴鹿市広瀬町政庁は、中央政府から派遣された国司を中心に、儀式や饗宴などが行われていた国府の中でも最も格式の高い施設です。伊勢国府の政庁は、正殿・後殿・脇殿・軒廊などからなり、周囲には東西約80メートル・南北110メートルの築地塀を巡らしています。政庁の建物はすべて瓦葺礎石建物でその配置や大きさは近江国庁によく似ています。正殿・後殿・脇殿の基壇は、今も森の中に1メートルほどの高まりとして残っており、全国的にも貴重な遺構として保存されています畑の中に林として残っている廻りは畑伊勢国府政庁跡を振り返る14:26国道1号線へ戻ると、もう何度も見たプロペラ機。中古建設機械販売店の社長が組立てたと日本橋から411.8km機体には日本国。機体の重量はどのくらいあるのか14:40亀山の『樋口本陣跡』を探しに亀山市街地へ旧東海道(県道565号線)の路肩へ車を止め、前方は江ケ室交番前旧街道を振り返る、商店街はこの日もシャッター街亀山のアーケード街にある『樋口本陣跡』公園には『旧佐川邸跡』の石柱この木は榎?、木の下に石柱『旧佐川邸跡』立札に何か書いてあったのか14:54前回(1/21)見落とした『浄土宗 終南山光明院 善導寺』所在地:三重県亀山市西町327左の石灯籠寄進は『板倉勝澄公』山門からの本堂元は亀山城本丸付近にあり、岡本宗憲が築城するにあたって現在地に移転したと伝えられる古刹です。境内には亀山城本丸から出土した石造物が安置されているほか、墓地内には江戸時代初期の亀山城主三宅康信室である清光院墓塔や藩校明倫舎学頭の柴田右仲墓(市史跡)があります15:15水口宿へ行く途中遅い昼食をとるために関宿へ立ち寄るが、時間が中途半端で「支度中」と。目的地はここ『山石』であったのだが!所在地:三重県亀山市関町中町521 百五銀行関支店前かんばんには「亀山 みそ焼きうどん」、和洋レストラン上記食堂の軒先には『山石 岩間家』幕末に建った建築で山石は、明治・大正にかけての料亭であった。また廂の屋根の隅に唐獅子の置物が取り付けられているのは、厄除けの一種と思われる江戸後期・明治・大正・昭和のレトロな雰囲気の中でお食事はいかがですか 山石この看板を見て来たのだが、残念ながら支度中、またいつの日か訪れたい山石を振り返る。今日は三連休の初日で観光客も散策していた関宿の京方面観光客が散策、弥次さんもレストランを探しに地蔵院近くへ移動、街道裏に車を止める15:21弥次さんが地蔵院横の『会津屋』前で立ち止まり所在地:三重県亀山市関町新所1771-1メニューおこわが人気の店、今回の道中で数回店先に来たが、時間が遅かったり早かったりで食べれずようやく念願叶う店内に入り「山菜おこわ・そば」1,180円をオーダーそば・おこわとも美味しかった。おこわに南天の葉がなんとも風情がある店内では孫を連れて来店女の子で10カ月?15:51既に、ひな祭りは終わっていたが『会津屋』の札。『会津屋 森元氏宅』会津屋は鶴屋、玉屋とともに関宿で有数の大旅籠であった。明和から天明にかけて会津屋の前身山田屋で育った小万が女の身で亡き父の仇を討った烈女「関の小万の物語」は有名である 最後の弥次喜多移動日-続く
2020.04.30
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東海道五十三次の最後の弥次喜多道中の、延べ日数30~32日目の挑戦へ。今回は京都三条大橋のゴールを目指すので、3泊4日の旅を弥次さんに計画願った。天気が良いとのことで、3月20日(金)の朝弥次さんに我が家へ来ていただき出発。いつものよ うに今までで見落とした所、尋ねたいところはとのことで日本武尊を祀る『能褒野(のぼの)神社』をリクエスト。カーナビを『能褒野神社』にセットし、いつものように一般道路優先で出発。3/20(金) 6:11 春分の日今日も朝から天気が良く富士山がくっきりと見える西湘バイパスからの箱根の山並み、正面は二子山、右に駒ケ岳6:24西湘バイパスの酒匂川辺りからの富士山6:46標高846メートルの箱根峠へ。三連休の初日だが新型コロナウイルスの影響か渋滞もなく順調にここまでくる6:53山中城の裏側を走るバイパスからの富士山国道1号線からの函南辺り6:55食堂 富士見平所在地:静岡県三島市谷田2304-7食堂は時間が早く開店前。食堂の外観は営業しているのか?の感だがネットで調べると、ボリュームたっぷりの定食が自慢で、お刺身、麺類、おつまみなどメニュー数が豊富であると店の裏を箱根峠からの新国道1号線が走り、旧国道はこの上を右へ入る左側は旧国道1号線、右へ上ると旧東海道の『山中城址跡』「食堂 富士見平」横の旧東海道最近バイパスが完成し、この旧東海道も完成していた。山中城辺りからまっすぐ下りて来る完成した旧東海道からの富士山箱根旧街道:浅間平地区の石畳復元・整備慶長9年(1604)江戸幕府が整備した東海道の中で、小田原宿と三島宿を結ぶ、標高845mの箱根峠を越える箱根八里(約32km)の区間に当たる。この旧街道には、通行の人馬を保護する松や杉の並木が作られ、道のりを正確にするための一里塚が築かれ、またローム層の上で大変滑りやすい道なので、延宝8年(1680)頃には石畳の道に改修された静岡県下の「夢舞台東海道」登り口に芭蕉の句碑「霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き 芭蕉」7:05国道1号線を下るこの先の「三島塚原I.C」から伊豆循環自動車道へ入る、前方は、三島・沼津市街地伊豆循環自動車道からの富士山宝永山噴火口をズームアップ7:41国道1号線の「東田子の浦」辺りからの富士山、西からの風が強いようで雪が舞う7:54由比バイパスから三保の松原、日本平を望む。薩埵峠からの富士山も綺麗であろうが、既に撮影しているので今回は先を急ぐ8:48掛川の粟ヶ岳の「茶文字」、以前は松を植えていたが現在の木は、『ヒノキ』とのこと。旅友から「幼少のころ遠足で行った」とのコメント、あれから40年記憶がいいですね!9:48国道1号線(浜名バイパス)の浜名大橋今回の弥次喜多道中で何度目の通行になるか?11:05国道23号線(岡崎バイパス)の『道の駅 筆柿の里・幸田』。所在地:愛知県額田郡幸田町大字須美東山17-5筆柿が気になり、トイレ休憩で立ち寄る幸田町観光案内所道の駅 筆柿の里・幸田パーキング。道の駅にはレストランもあり、メニューで「筆柿味噌カツ丼」980円、丼ご飯の上に千切りキャベツ、その上に揚げ茄子と豚カツ、胡麻ダレをかけ、その上に柿ペーストがある筆柿ようかん、筆柿極上ゼリー特産物の「筆柿(通称:珍宝柿)」形が筆の穂先に似ていることから「筆柿」とよばれ、幸田町が生産量日本一を誇ります。富有柿や次郎柿より約一カ月早く収穫でき、一足早い秋の味覚として親しまれていますとろーり食感「たま麩」どのようにして食べるのか、安いので買えばよかった!12:23国道23号線を走り木曽川に架かる「木曽川大橋」12:25揖斐川に架かる「揖斐長良大橋」12:48国道23号線を走り四日市市街地に入ると渋滞。裏道を走ることに、この先を右折して山側へ12:53国道1号線を横切り、県道64号線を西方向へ進む13:08久保田橋北詰交差点を左折して三滝川を渡る13:12久保田橋を渡り南詰交差点を右折して国道477号線を三滝川の上流方面へ進む。この先の、新尾平橋南詰交差点を左折して県道8号線を南下する引き続き県道8号線を南下13:49能褒野(のぼの)神社駐車場所在地:三重県亀山市田村町1409のぼのの森公園古代より伝えられる「日本書紀」や「古事記」によると、景行天皇の皇子日本武尊は東征の帰路に、この地「能褒野」で亡くなり墓が営まれたとされています。その日本武尊御墓周辺の良好な自然環境と四季折々の木々が広がる、のぼのの森公園での散策をお楽しみくださいヤマトタケルの能褒野御墓(亀山市田村)「能褒野王塚古墳」 能褒野王塚古墳は、全長90m、高さ9mの規模を持ち、4世紀後半の築造とみられる北勢 地域最大の前方後円墳です。平安時代以降、ヤマトタケルの墓の所在地は不明となってい ましたが、明治12年(1879)に内務省によって能褒野王塚古墳がヤマトタケルの墓と定め られました。「能褒野神社」 能褒野御墓が定められると、墓に隣接してヤマトタケルを祀る神社創設の機運が高まり、明 治18年(1885)に能褒野神社が創社されました。ヤマトタケルのほか、オトタチバナヒメ(弟 橘媛)タケカイコノミコ(建貝児王)が祀られています。また、明治41年(1911)には、式内社 の県主神社や那久志里神社などが合祀されています駐車場の前は県道639号線の南方向設備の銘板をズームアップ『亀山市井田川・能褒野汚水第一中継ポンプ場』 最後の弥次喜多移動日-続く
2020.04.29
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佐屋街道の佐屋代官所跡址から今夜のホテルがある亀山宿へ向かう。2/20(木) 14:41道標「左 さや舟場道」舟場への道を示すものである。この道標は、佐屋町故山田秀信氏の屋敷内にあったが、同氏の好意により寄付を受け、昭和54年此処に建てた江戸時代このあたりは佐屋宿舟番所前で旅籠(近江屋)があった。現在このブロック塀上に見える「きこくの生垣」は、尾張藩士小田切春江によって天保年間に発刊された「尾張名所図会」にも描かれており、当時の姿を今に伝える貴重なものである佐屋駅 渡口背の高い木が「キコク(枳殻)」カラタチの別名。中国原産のミカン科の植物で、揚子江沿岸地域に自生しており、わが国への渡来は今から1000年前といわれる。果実の香りがよい所から庭木として鑑賞され、また生垣用として利用された14:56佐屋舟場道を出発し、カーナビを亀山の宿泊ホテルにセット。県道458号線(一宮弥冨線)を南下して国道1号線と合流して右折。手前はJR関西本線、近鉄名古屋線の高架カーナビは国道1号線の「尾張大橋東交差点」国道1号線との合流で渋滞15:02木曽川を渡る国道1号線の尾張大橋尾張大橋は愛知・三重の県境の橋であり、昔は橋の上から釣り人が多くいてカメジャコで大ウナギが釣れたが現在は釣り禁止になっている15:10木曽川を渡り国道1号線の「伊勢大橋東詰交差点」この交差点を左折すると、400mで「なばなの里」、7kmで「長島温泉」。なばなの里は、最近ライトアップ等で人気のスポットである長良川を渡る、伊勢大橋下流側に「長良川河口堰」長良川河口堰は、水害の危機に脅かされている長良川沿岸の住民を洪水の被害から守るとともに、新たな水資源を開発するための施設で、1988年着工、1995年に紆余曲折を経て完工。施設諸元/型式は、可動堰(調節ゲート 10門、閘門ゲート 1門、ロック式魚道 1門) 堰総延長は661m、固定部分106m)。施設を見学できる昨年11月24日(日)に、桑名の渡し(住吉神社前)からみた長良川河口堰伊勢大橋からの上流側山は伊吹山か? 夏は高山植物が咲き乱れる所でいつか行きたい場所であるズームアップ、雪が積もっているのか白い山肌渋滞の伊勢大橋を進む15:15長良川河口堰を見学に行きたかったが・・・・・・・。道が遠回りになるので今回はあきらめる15:32国道1号線を進む16:14亀山への途中、国道1号線の采女一里塚近くの「血塚社」へ立ち寄る。今年1月20日(月)に立ち寄っているが、弥次さんの要望で再度訪問した日本武尊御血塚の石柱 16:25石薬師宿の石薬師寺山門ここも今年1月20日(月)に立ち寄っているが、境内の花が咲いているだろうとのことで今回、再度訪問した境内へ入り枝垂れ梅が咲いていた石薬師寺本堂へ紅梅のしだれ梅境内からの鈴鹿市街地16:40石薬師寺の鐘楼16:53国道1号線を進むと右前方に、プロペラ機が離陸?中古建設機械販売店の展示飛行機であった17:06亀山のホテル近くのコンビに到着今夜の夕食を買いホテルへ行くが、チェックインは19時からとのことで再度時間つぶしで関宿観光へ行くことに。17:32まずJR亀山駅へ駅前の観光案内板通常案内板は上側が北であるが、ここは逆で下側が北で、亀山宿は駅から下側に。従って関宿は右方向の西へJR亀山駅前の『能褒野(のぼの)神社一の鳥居』旧東海道筋に、二の鳥居がある亀山駅舎内17:49関宿へ到着前回1月21日(火)に訪れているが、今回は車で旧東海道を移動。一方通行であるので『小萬のもたれ松』から京方面へ進む明日(2月21日)もJR関駅から土山宿へ向けて歩くのだが、早朝であるので夕闇の関宿を散策前回1月21日は雛祭りの準備をしていたが、今回は室内に飾ってあった民家の前にも「ひなまつり」の幟東海道のおひなさま「おひなさま展示中」とあったが閉め切ってあったので外から格子のすき間から覗く車を止め街道を歩く立派な段飾り2020年4月8日(水) 14:30東京オリンピック聖火リレーが店前を通過 『菓子処 いちみ』。折角の予定も延期になるのか?関宿まちかど博物館こちらでは、2020年 東京オリンピック聖火リレー店頭の通過時刻決定!! 4月8日(水) 午後2:30ひなまつりのポスターは「10周年記念 東海道のおひなさま」 開催期間:令和2年2/15(土) ~ 3/7(土)17:54コーヒーの店とあるが既に閉店旧東海道を振り返る18:00西の追分方向明朝はここから西方向の土山宿へ向かう旧東海道を振り返る、こちらからは一方通行のため車は侵入できない関宿の『地蔵院』前回1月21日(火)はここまで歩いてきたが、その時の歩数は、39,100歩であった18:08関宿の『地蔵院』からホテルの駐車場へ戻る夕焼けの鈴鹿の山明日の天気がよいことを祈り、ホテルへチェックイン夕食は、コンビニで買いだした酒&つまみで宴会。 関宿への移動日ーEND
2020.04.05
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佐屋街道は、寛永3年(1626)と11年(1634)の三代将軍徳川家光の通行を契機として整備が進められた。寛文6年(1666)には幕府の道中奉行が管理する官道に指定された。この街道は、熱田(宮)宿と桑名宿を結ぶ七里の渡しの風雨による欠航や、船酔いを嫌う多くの旅人が行き交い、東海道の脇往還として非常に賑わっていた。商用や社寺参りの人々、参勤交代の大名行列、さらにはオランダ商館のシーボルトや十四代将軍家茂、明治天皇もこの道を通行している。永年にわたり日本の幹線道路網の一部を担ってきたこの街道も、明治5年(1872)の熱田と前ヶ須新田(現弥富町)を結ぶ新道の開通により、その役目を終え、現在では地域の幹線道路として親しまれている。2/20(木) 13:35佐屋街道沿いに大きな常夜燈、右側の角に万場宿の高札場があった光圓寺へ真宗大谷派 光圓寺所在地:愛知県名古屋市中川区万場2丁目1003山門の扁額「臥龍山」山門からの本堂山門を入り、鐘楼、三重塔、本堂本堂の扁額「我聞如是」鐘楼と三重塔、右奥に本堂が並ぶ境内に蓮如上人御巡化の像新しい三重塔三重塔の扁額境内からの山門山門の木組み光圓寺から佐屋街道を歩き覚王院へ戻る13:43国玉神社の拝殿 13:47万場交差点、上の高架橋は名古屋高速5号万場線万場交差点を通り抜け狭い道を進む13:49佐屋街道を進む佐屋街道の高札場跡(大治町)13:53西條平ヶ野交差点14:01佐屋街道は県道68号線を進む14:05神守の一里塚所在地:愛知県津島市神守町下町神守の一里塚江戸時代、佐屋街道の一里塚の一つとして造られた。一里塚は、街道の両側に一里(約4キロメートル)ごとに設けられ、その上にエノキを植えて旅人の目印にしたものである。昔は北側の塚が東西7.3メートル南北6.7メートル、高さ1.5メートルの小山でムクが植えられ、南側の塚は長径5.5メートル、短径4メートル、高さ1.4メートルの小山にエノキが植えられていたという。佐屋街道の一里塚の中で、最後まで街道の両側の塚が残っていたのはここの一里塚であったが、今は北側の塚が残っているだけである塚には灯籠が県道68号線一里塚の全景つしましのおすいマンホールデザインは、尾張津島天王まつりのまきわら舟と市の花フジ神守ふるさと散歩道江戸時代、東海道「七里の渡し」に代わる脇街道として利用された佐屋街道。正保4年(1647)万場と佐屋の距離が長いので、中間点の神守に宿がおかれた。ひなびた風情の町並みや、一里塚が残る神守の路。あなたも江戸時代にタイムスリップしてみませんか・・・・・・・・14:11佐屋街道を進む14:17道標の石柱右:つしま・・・、左:さやみち道路の両側に常夜燈津島街道埋田追分埋田町のここには津島神社(天王様)の一の鳥居(昭和34年の伊勢湾台風で倒れて台石のみ)と常夜燈(夜どおしあかりをともすとうろう)一対追分(別れ道)をあらわす道標が残っている。江戸時代ここから右は津島神社への道、左は「佐屋の渡し」への佐屋街道と分かれる所で江戸時代の終わりごろには茶店などもあって通る人々でにぎわい、大正時代ごろまでは松並木が続いていたまた熱田から津島までの道を「下街道」と呼んでいたが、今は耕地整理や新しい町づくりで道すじもかわり、ほとんどがすたれてしまっている。佐屋街道は熱田から岩塚万場(共に名古屋市)砂子(大治町)、神守の宿(宿場)を経て津島追分から佐屋にいたり佐屋川を船で下って桑名へと続き、東海道の脇街道として熱田から桑名までの「海上七里の渡し船」をきらった人達に広く利用されていた。徳川三代将軍家光や、明治天皇の通られた跡や記録が街道各地に残されている14:26県道68号線を進み、名鉄尾西線、名鉄津島線の踏切14:27内佐屋交差点を左折して県道458号線(一宮弥富線)へ14:30佐屋海道址史跡 佐屋海道址かつて東海道の脇往還として多くの往来がみられた佐屋路。往時の栄華を後世に語り継ぐため、昭和54年(1979)11月に碑が建てられました県道458号線(一宮弥富線)沿いに立つ石碑14:31佐屋街道を南下13:38佐屋代官所址所在地:愛知県愛西市佐屋町宅地佐屋代官所址佐屋路が名実ともに天下の往来となったのは、三代将軍徳川家光が上洛の折、道中の宿泊に使う「御殿」を佐屋に建てたことからといわれています。佐屋路の隆盛にともない、尾張藩は藩の海東・海西の109村を治める代官所を佐屋に設けました。街道の治安と、三里の渡しを監督する海の関所的な仕事も手がけていたようです愛西市の歴史にふれて散策しよう!佐屋路江戸時代、幕府は東海道はじめとする街道を整備するとともに、宿駅制度も整備しました。東海道は宮(熱田)から七里の渡しで桑名へ渡るルートをとりました。七里の渡しは、通行の際支障をきたすことが多く、幕府は佐屋宿を創設し、桑名への三里の渡しでもって渡るようにしました。それに伴い、宮と熱田を結ぶ脇往還佐屋路が整備され、多くの通行人で賑わいました。宮宿から桑名宿への距離は? ・宮宿から海路での桑名宿への距離は、七里。 ・佐屋街道の陸路は佐屋宿まで、六里。桑名宿への海路が三里で、計九里。よって、佐屋街道の陸路+海路は、二里の遠回りとなる佐屋宿その昔、あらいの渡しと呼ばれていました。交通上の要衝であったことから元和年間佐屋奉行が設置され、寛永年間佐屋宿が創設されました。徳川家光の上洛をはじめ、多くの大名、文人らが往来しました。大名らが宿泊する本陣のほか旅籠も建ち並び、多くの商家も営業していました。本陣は岩間権右衛門家と加藤五左衛門家が勤め、加藤家は問屋も兼務しました。陸上交通と水上交通の結節点として、また他国との境界として佐屋宿は重要な位置を占めていたことは、天明元年(1781)代官駐在制採用の際、水野(瀬戸市)・北方(一宮市)とともに佐屋代官所が設置されたことからもうかがえます史跡 東海道佐屋路佐屋三里の渡址佐屋と桑名を結ぶ海路三里の船旅は当時多くの旅人が利用したといわれています。明治の中頃に佐屋川が廃止され、農地転用されるまで大いに賑わいました佐屋駅 渡口その昔は、ここまで佐屋街道を歩きここから舟に乗り、三里の渡しで桑名宿へ行ったと。現在は、道路脇に「佐屋三里之渡址」の石碑のみが残るが、今回は訪問しなかった佐屋宿を通った人々懐恩碑と加藤高明内閣総理大臣の碑加藤高明内閣総理大臣の碑加藤高明は、万延元年(1860)正月3日 父 服部重文(佐屋代官所手代)・母 久子の次男として佐屋で誕生、幼名は総吉 7歳で祖父と共に名古屋に移住し14歳で加藤家を継ぎ高明と改名。東京大学卒業後、三菱会社・船舶会社を経て官界に転じ、特命全権駐英大使・外務大臣等を歴任憲政会総裁に推され、大正13年(1924)内閣総理大臣に就任 大正15年1月国会で演説中に倒れ同月28日逝去 享年67歳 伯爵正二位大勲位菊花大綬章を授かる。由緒あるこの地(生誕地はここより南方約百米)に直筆の碑を柚木から移し建立した故郷を遠く離れて暮らし、故郷を懐かしく思うと共に、感謝とお礼の意を込めて加藤高明伯が揮毫したもの 関宿への移動日ー続く
2020.04.04
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東海道五十三次の弥次喜多道中も終盤に入り今回累計28、29回目の道中記です。弥次さんに我が家へ来ていただき、6時半に自宅を出発して今夜の宿泊地三重県の亀山へ向かう。今回も関宿への移動日に、宮宿から桑名宿への七里の渡しに代わる陸路である「佐屋街道」を車で走ることを計画した。2/20(木) 6:44国道134号線を走り、相模川のトラスト湘南大橋上からの富士山、手前の山は湘南平6:51大磯漁港、陽も上がり西湘バイパス小田原辺りからの相模湾7:26箱根峠を越え三島向けに向けて下る。工事が終了したばかりの国道1号線の「食堂 富士見平」辺り、前方は旧東海道の下り坂7:35国道1号線沿いの「錦田一里塚」7:37国道1号線の谷田東小山交差点を右折して県道22号線へ。カーナビは国道1号線が渋滞しているので三嶋大社前を案内9:33掛川市の山肌に「茶」文字10:06国道1号線を走り天竜川へ、前方に「アクトシティ浜松」10:44国道1号線(浜名バイパス)の浜名大橋手前浜名大橋を渡る今切新居堤(今切口西堤)の西側の砂浜11:15カーナビは、国道23号線(豊橋バイパス)を下り、蒲郡街道(国道23号線)を案内豊橋バイパスを下り、豊川橋北交差点を斜め左方向へ進み、国道23号線(蒲郡街道)へ。カーナビのセットは熱田神宮11:30この先を斜め左方向への国道23号線へ11:41国道247号線の水竹町一反田交差点を右折県道73号線(三河湾オレンジロード)を北上11:48県道73号線の上大内東交差点を右折して、蒲郡ICを入り国道23号線へ交差点の角に「えびせん工房一色屋」無料試食や無料ドリンクのサービスがあり、次回は立ち寄りたいものです。エビせんべいの種類が豊富で、海老煎餅、イカの姿焼きもあるとのこと11:51国道23号線(名豊道路)の蒲郡バイパスから、三河湾を望む12:34名古屋市内へ入り、県道59号線を左折12:38県道59号線の名和北交差点を右折して国道247号線へ前方は名鉄常滑線の高架12:41国道247号線は天白川を渡り柴田本通3交差点12:54国道247号線を北上し、内田橋で左下に「宮の渡し公園(七里の渡し)」を見る。橋を渡り終えると左手に『あつた蓬莱軒 本店』昼時でもあり観光バスも来ていた国道247号線は国道1号線との交差点「熱田神宮南」。ここから国道19号線で佐屋街道へ向かう熱田神宮南交差点を過ぎ、右手に熱田神宮12:58熱田神宮を過ぎ、新尾頭二丁目交差点13:00国道19号線の金山新橋南交差点、ここを左折する。直進すると名古屋城へ行ける交差点の角に大きな石碑、『佐屋街道(さやかいどう)』へ道標は、文政4年(1821)佐屋街道の旅籠仲間が、伏見通りから尾頭橋へ抜ける佐屋街道の分岐点に当たるこの地に建てたもの。戦災に遭い破損したが、その後修理された。道標には「東 右 なこや 木曽海道」七里の渡しを渡る船が苦手な人向けに「姫街道」と呼ばれる陸路もあったとのこと。その陸路というのが『佐屋街道』と呼ばれた道であり、「宮宿(七里の渡し)→ 佐屋宿 →桑名宿」というルートも整備されたようです。ただし、佐屋街道はすべてが陸路ではなく、さすがに濃尾平野最大の川幅を誇る木曽川には橋を架けることはできなかったようで、木曽川まで来たところで船着場が設けられることになります。その木曽川のほとりに築かれた船着場を「佐屋宿」と言い、ちょうど佐渡宿から約3里(約12km)下った先が桑名宿だったというワケです。このことから七里の渡しに倣い、別名で「三里の渡し」とも呼ばれていました。また、佐屋路の随所には宿駅が置かれ「佐屋」「神守」「万場」「岩塚」と言う4宿が存在した。特に犯罪や乗船中のトイレを懸念して、乗船を拒んだのが女性や子供であったことから、この迂回路は佐屋街道と呼ばれた以外にも「姫街道」とも呼ばれていた。 画像引用先:ウィキペディア13:01金山新橋南交差点を左折し県道115号線を西方向へ進む尾頭橋東交差点前方は堀川に架かる尾頭橋13:03名古屋高速4号東海線の高架、県道115号線を進む13:05東海道新幹線の高架県道115号線を進む13:08明治天皇御駐蹕之所の石柱明治天皇も行幸の時、ここを歩いたのであろうか13:09長良町3交差点、県道115号線はここを右折するが、佐屋街道は直進佐屋街道は西へ直進前方にJR関西本線の高架13:12松葉町一交差点を直進、前方はJR関西本線、近鉄名古屋線の高架13:18佐屋街道は庄内川の土手に突き当たり、左に折れ堤防に上がり右折して県道106号線へ13:20カーナビは、弥次さんのiPhoneで誘導県道106号線(鳥ヶ地名古屋線)、前方は名古屋高速5号万場線の高架。この先の万場大橋東交差点を左折、万場大橋を渡りきり左折して佐屋街道へ13:23佐屋街道を進む13:30真言宗 医王山 覚王院所在地:愛知県名古屋市中川区万場2丁目705覚王院本堂本堂の扁額「観世音」覚王院の隣に「国玉神社・八劔社相殿」国玉神社・八劔社相殿創建は古く「尾張志」によれば、尾張大国霊神社(現在の稲沢市国府宮)より勘請したという。「延喜式神名帳」に国玉神社、「本国神名帳」に従二位国玉名神と記載されている式内社である。明治元年(1868) 八劔社を合祀。同年明治天皇が東幸の際、勅使より奉幣を享ける。・・・・・。当社前の道は佐屋街道(東海道の脇往還)で、南西曲がり角は万場宿の高札場となっていた国玉神社拝殿拝殿の扁額「國玉神社 八劔社 合殿」国玉神社前から佐屋街道を振り返る。前方は庄内川の堤 関宿への移動日ー続く
2020.04.03
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初めての熱田神宮参拝を続ける。1/19(日) 15:14織田信長が桶狭間の戦いで大勝しその御礼で奉納した『信長塀』飲み友達(後輩)のよく似た人がいるが永禄3年(1560)織田信長が桶狭間出陣の際、当神宮に願文を奉し大勝したので、その御礼として奉納した塀である。土と石灰を油で練り固め、瓦を厚く積み重ねている。三十三間堂の太閤塀、西宮神宮の大練塀と並び日本三大土塀の一つとして名高い参道東側の高床の「六末社」第二鳥居を出て参道の東側に立つ『佐久間燈籠』尾張国御器所の城主、佐久間盛次の四男大膳亮勝之が海上で台風に遭った際、当神宮に守護を祈り難を免れたので寛永7年(1630)その御礼として寄進された。京都南禅寺東京上野東照宮の大燈籠と共に日本三大燈籠として名高い日本三大燈籠だけに大きい二十五丁橋参道の西側にある尾張名所図会や名古屋甚句で名高く、板石が25枚並んでいることから二十五丁橋といわれる甚句には「宮の熱田の二十五丁橋で西行法師が腰を掛け、東西南北見渡してこれ程涼しい此の宮をたれば熱田と名を付けた」とある名古屋甚句二十五丁橋を西側から見る参道西側の休憩所、近くに西門がある15:24第一鳥居を振り返る。鳥居の右側に無料駐車場があったが満車で駐車待ちの車が多く待機15:28熱田神宮 正門(南門)から、「秋葉山 圓通寺」に戻る。所在地:愛知県名古屋市熱田区神宮2丁目3-15手前右奥に「奥之院毘沙門天並びに降魔不動尊」。秋葉山 圓通寺日本最古の秋葉大権現出現の霊地秋葉大権現(火の神様)今より1800年程前日本武尊を火難よりお救いになった秋葉大権現は「火防守護・諸難消滅・心願成就」の大誓願をもって日本で始めてこの地に「秋葉神社」として尾張氏により祀られる(後の圓通寺)・・・・・・・・・・境内には多くの車が駐車、我々もそうであったが弥次さんが御朱印を頂く子持石この石は通称「子持石」という、この石に祈願すれば子宝が授かります三波石:天然記念物 群馬県鬼石特産奉 納:群馬県藤岡市 黒沢義広補陀山 圓通寺本堂の扁額補陀山 圓通寺 十一面観世音菩薩創 立:弘法大師空海、弘仁年間(810年頃)開 山:勅徳賜大???誓海義本、明徳2年(1391)開 基:尾張氏 現在田島氏毘沙門天王境内の南側隅にある『紅流』三波石:日本三大銘石の一つ、天然記念物 学 名:秩父?層、水成岩産 地:群馬県鬼石奉 納:群馬県藤岡市 黒沢義広15:35秋葉山圓通寺を後にし、カーナビを「四日市アーバンホテル」一般道優先でセット15:44国道1号線の白鳥橋西交差点を左折して国道154号線へカーナビは、目的地まで33kmで到着予定は16:48と標示15:54港陽I.C で国道23号線と合流、四日市方面へ進む。渋滞でカーナビが迂回路を紹介したが直進する16:17途中昼食を摂っていなかったので、国道23号線沿いの「かつや 弥冨店」へ立ち寄る。かつ丼 539円をオーダー、値段の割に美味しかった!16:52久しぶりにかつ丼を食べ満足国道23号線を走り三重県に入る鈴鹿山脈に夕陽も沈み、明日は天気がよいのであろう17:04国道1号線の金場町交差点17:25ホテルでの駐車が24時間1,100円を要するので、ホテル廻りの駐車場を探すが、全て同金額であったのでホテルへ。宿泊ホテルの「四日市アーバンホテル」へ到着。17:46近鉄四日市駅前のライトアップ右側は近鉄百貨店 四日市店駅前広場ビルのウインドーに映える四日市市内の名所案内末広橋梁:国の重要文化財である、現役最古の鉄道可動橋。 最新情報では、昨年の2019年に停止している中央通りJR四日市駅方面中央通りの広場像は「躍進」祝 東京 2020 オリンピック出場!!男子マラソン:中村匠吾 選手 女子レスリング53kg級:向田真優 選手日本各地でこのような垂れ幕が近鉄四日市駅入口四日市市のマンホールデザインは、港の船と、コアラ&パンダ18:10こちらのデザインは、歌川広重の「東海道五十三次 四日市」夕食は近くのコンビニで買い出し、いつものように部屋で明日のための英気を養う。今日の歩数は、6,014歩。 四日市宿への移動日-END
2020.03.05
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無量寿寺の散策を続ける。1/19(日) 13:27杜若姫供養塔(中央)、祖風翁之墓(右)花崗岩で作られた宝篋印塔で、全高は約1m。全体に風化が著しいが基壇は矢作川流域にみられるれ蓮華を省略した形式のものである。笠は五段であるが四隅の耳を欠き、相輪も途中で折れており塔身の四仏の梵字もはっきりしない当地の伝説によると、杜若姫は小野中納言篁の娘とされ、東下りの在原業平を恋い慕って、ようやくこの八橋で追いついたが、業平の心を得ることができず悲しんで池に身を投げて果てたとされる。この塔は、姫をあわれみ建てたものと思われる祖風翁の句碑 遺章 かきつばた 夏も むかしの なつならず井村祖風は池鯉鮒の旅宿山吹屋の主人で俳人です。延享元年(1744)江戸向島に生れ、芭蕉に私淑して俳諧の道に励み、多くの文人墨客らとも交わりました。岡﨑藩主家の本多忠寛(俳人三秀亭李喬)と親交があり、その縁で山吹屋の跡を継ぎました。山吹屋には蜀山人、太田南畝も訪れ、八橋の方巖売茶とも交わるなど風雅の生活を送り、池鯉鮒を代表する文化人でした。現在知立神社にある芭蕉の句碑「不断たつ 池鯉鮒の宿の 木綿市」は祖風が同好の士とともに建てたものです。この墓と書かれた祖風の句碑は、祖風没後2年の文化8年(1811)に、門人らによって経巻型式で建てられました伝説羽田玄喜二児の墓昔、野呂宿(八橋)に羽田玄喜という医者がいた。妻はこの地の荘司の娘で二人の男児があった。夫は早くに死に、女手一つで二児を育てていた。ある日妻が生活の糧にと浦で海藻をとっていると、母を慕って来た二児が、誤って水に落ち溺れて死んでしまった。妻は、悲しさのあまり当寺に入り、尼となって子の墓を建て菩提を弔った。またお告げにより、浦に流れ着いた材木で橋を八つかけた。以後、この地を八橋と名付けたと伝えている在原業平と万葉椿八橋の街道沿いには、珍種といわれる”万葉椿”が多く見られる。文献によると、椿は日本古来よりの花木で、万葉の頃から、椿をよみこんだ歌もみられる。在原業平も東国への旅に出て八橋に至り、この里にて金魚の尾に似た椿の葉を見つけ”万葉椿”とよんだところ、その後村人達は、業平万葉椿と呼ぶようになったと言い伝えられている神社西側にある、かきつばた池土を入れ替えて整備していた無量寿寺本堂13:33日𠮷神社拝殿約40分程の参拝で無量寿寺を後にした。今日は日曜日にもかかわらず観光の人は少なかったが、杜若の咲く4月~5月頃は、多くの人々で賑わうのであろう。13:53熱田神宮へ向かう途中、知立市と豊明市の境にある『境橋』へ立ち寄る。国道1号線から右斜めに入るが右折禁止のため左折してUターンして「境橋」へ橋を渡り境橋を振り返る。境川に架かり三河国と尾張国の境である。当初は東側(三河側)が土橋、西側(尾張側)が板橋の継ぎ橋だった。京都の公家・烏丸光廣が詠んだ狂歌が有名。「うち渡す 尾張の国の境橋 これやにかわの 継目なるらん 光廣」橋のたもとに石が置かれ、狂歌が刻まれていた説明板には、狂歌集、古今夷曲集が刊行された寛文6年(1666)当時の境橋は、尾張側は木橋三州側は土橋の所謂継橋として有名であった。詠み手は、京都烏丸に邸宅のあった権大納言正二位、藤原朝臣光広卿で俗に烏丸と称された13:56尾張側から江戸側を望む14:15カーナビを「熱田神宮」にして走る。国道1号線を走り、桶狭間古戦場近くを走り過ぎる14:35国道1号線を走り、伝馬町東交差点。この先の交差点を右折するのだが、日曜日で熱田神宮への参拝者の車で渋滞この先の、伝馬町交差点を右折14:40ここ伝馬町交差点を右折するが、向こう側からも多くの車が伝馬町交差点内14:55伝馬町交差点を右折しても熱田神宮への車で渋滞。このため手前にある「秋葉山 圓通寺」境内へ駐車する。所在地:愛知県名古屋市熱田区神宮2丁目3-1514:59熱田神宮 正門(南門)からの第一鳥居。私にとって初めての参拝である熱田神宮である。所在地:愛知県名古屋市熱田区神宮1丁目1-1境内案内図天照大神、日本武尊、素戔男尊、宮簀姫命などの五神を祀る。天皇の皇位継承の「三種の神器」のひとつ、草薙剣が御神体。源頼朝が大宮司舘で生まれたといわれ、天皇家、源氏一族、織田、豊臣、徳川と武家の尊崇が篤く、代々尾張氏一族が祀官を世襲した。織田信長が、桶狭間の戦いでの戦勝報賛のため寄進した「信長塀」は日本三大練塀の一つ第一鳥居の手前を左に入り「上知我麻神社(かみちかまじんじゃ)」御祭神は「乎止興命(おとよのみこと)」で尾張氏の祖先とされており、尾張国造でもあります。商売繁盛や家内安全、そして知恵の文殊の神様です。1月5日の「初えびす」はとても盛大なお祭りだそうです上知我麻神社の北側にある「別宮 八剣宮」別宮 八剣宮は熱田神宮の本宮に次ぐ社格で、御祭神も本宮と同じ神様が祀られています。和同元年(708)に鎮座されています。延喜式内社です。八剣宮の「八」は「弥々」と読み、「ながし」「ひさし」の意味で永遠の剣の宮という意であるとのこと別宮 八剣宮からの上知我麻神社木製の第一鳥居第一鳥居を入り参道を北へ向かう。参道に「初えびす」の垂れ幕があるが第二鳥居を過ぎ、参道左手に樹齢千年の「大楠」。境内には多くの楠の木が茂生している。その内、特に大きなものが七本あったので、俗に七本楠と称している。この楠は弘法大師お手植えとも伝えられ、樹齢は千年以上といわれている桜も満開第三鳥居信長塀織田信長が桶狭間の戦いでの戦勝報賛のため寄進した「信長塀」は日本三大練塀の一つ第三鳥居を入り右手に「神楽殿・授与所」熱田神宮・本宮本宮前には多くの参拝者が列をなしていた杉の木立に囲まれた風格のある神社本宮前の参拝者授与所の前にも多くの参拝者神楽殿ならずの梅この梅は、享禄の古図(1529年頃)にも描かれている奇木で毎年2月上旬頃から、薄桃色の清らかな八重の花が咲き始める。一度も実をつけたことがないので「不実梅(ならずのうめ)」と名付けられ古くから有名である15:14西楽所(にしがくしょ)貞享3年(1686)五代将軍綱吉の再建による。毎年5月1日の舞楽神事には、この楽所前に特設舞台を組み伶人がここで楽を奉する。もとはこの西楽所(右楽所)に相向いあって東楽所(左楽所)もあった 熱田神宮ー続く
2020.03.04
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東海道五十三次で四日市宿への途中、弥次喜多道中で行けなかった知立市の無量寿寺へ立ち寄った。無量寿寺は、名勝八橋の中心となるお寺で、杜若の名所で知られた臨済宗妙心寺派の寺院。昔の八橋のあたりは、湿地帯で多くの小川が流れ、八つの橋を架けたことからその名前が付いた。杜若が咲く水郷のような景色の良いところだった。八橋の無量寿寺の杜若は在原業平の和歌で有名になり、古くから文人墨客が訪れた。業平は都から東に下る途中、八橋の美しい杜若を見て都に残した妻を偲び「かきつばた」の五文字を句頭に入れた。1/19(日) 8:57午前中の薩埵峠からの富士山11:15薩埵峠で富士山を見た後国道1号線を走り、浜名バイパスの浜名大橋からの西方面浜名バイパスから、『元白須賀一里塚跡』辺り浜名湖カントリークラブの風力発電11:24潮見バイパス(国道1号線)の「道の駅 潮見坂」所在地:静岡県湖西市白須賀1896-2道の駅に立ち寄る足湯があったが、この足湯は太陽熱を利用していると利用時間:10時 ~ 16時まで11:54東名高速道路を使用せず一般道を走る場合、カーナビはこのルートを案内する。豊橋東I.Cで、国道1号線から国道23号線(豊橋東バイパス・名豊道路)に入いる。自動車専用道路でスピードを上げる。豊川橋を渡り前芝ICを直進する11:58国道23号線(豊橋バイパス)はここで終了、この先は延伸工事中。豊川為当(Toyokawatameto)I.Cを降り一般道(県道31号線)へ、ここを右折12:00県道31号線を300mほど北上、森5丁目交差点を左折。500~600m西へ走り、この森1丁目交差点を右折して北上左のネットは、愛知県立国府高等学校所在地:愛知県豊川市国府町下坊入10-112:03国道1号線の白鳥町交差点を左折12:24しばし国道1号線を走るが、弥次喜多で歩いた旧東海道の一部を走る。国道1号線沿いの「道の駅 藤川宿」所在地:愛知県岡崎市藤川町東沖田44番地12:58国道1号線を走り安城市に入り、この「今本町西交差点」を右折して北上 13:09無量寿寺所在地:愛知県知立市八橋町寺内61-1旧東海道から北側へ約1km入る。昨年10月16日(水)に旧東海道を歩いていたが、その時既に23,600歩歩いていたので参拝を見送ったので、今回訪れた日𠮷神社車は境内に駐車八橋 日𠮷山王社由緒御祭神:大山咋尊創 立:慶雲元年(704) 無量寿寺の開祖、密圓法師が同寺の創建に際し守護神として境内に勧請安置され たと云われている。以来、無量寿寺の住職が累代奉仕してきた。明治4年神仏分 離令により境内に境界を設け町内の氏子が氏神としてお詣りしてきた文化の道「東海道宿場散歩みち」知立市 観光めぐり八橋かきつばた園ご案内 無量寿寺 八橋史跡保存館 かきつばた園左に「芭蕉連句碑」、右に「八橋古碑」芭蕉連句碑「かきつばた 我に発句の おもひあり」 芭蕉「麦穂なみよる 潤ひの里」 知足 松尾芭蕉が「野ざらし紀行」を終えた翌年の貞享2年(1685)4月に、鳴海の俳人下里知足の家を訪れ、そのとき開かれた俳席での作といわれる。芭蕉は知足の案内でこの八橋に遊び、古に思いを巡らしたのであろうか。碑を建てたのは知足の子孫である下郷学海(下里から改姓)で、「安永6年丁酉夏6月」(1777)とある。三河にのこる芭蕉句碑の代表的なものである八橋古碑八橋は古来より和歌の名所として著名であり、多くの文人墨客が訪れた。この碑は、岡﨑藩に仕えた儒者 秋本嵎夷、その門人国分伯機・由良不淰により、寛保2年(1742)に建てられた。撰文は秋本、書は国分である。碑文は「八橋紀事井王孫歌」と題され、八橋と在原業平の故事、それについての感慨が漢文で書かれるが、難解なことで有名である。亀形の碑の台を亀趺といい、一説には中国の伝説上の神獣とされる。地元では、「亀甲碑」とも呼ばれる無量寿寺本堂無量寿寺 臨済宗妙心寺派慶雲年間(704~8)に創建された慶雲寺が、弘仁3年(821)八橋のこの地移され、無量寿寺となったと伝えられているひともとすすき謡曲「井筒」の故事にならって植えられたと伝えられてる。「八橋の一もとす々き穂にいでて はるばる来ぬる人まねくらん」と「三河名勝図絵」にあります。このすすきの葉を片手で結ぶと願い事がかなえられるという言い伝えから、縁結びのすすきと言われている本堂右側の廊下下を潜り「杜若池(心字池)」へ。右側の竹は「業平竹」植えられた時期は不明だが、江戸時代の文献には、当寺の堂前に「業平竹」があったとの記述がみられる。一説には竹(男竹)であるが、笹(女竹)のように一節から多くの枝を出すため、色男と言われる在原業平に見立てたともいわれる。男女竹を称え縁結びの竹として俗に信仰される裏庭に入り、水が干された「杜若池(心字池)」この庭園は、寺の再興者であった方厳売茶翁が、以前からあった池や庭を煎茶式に改造したものといわれています。回遊式、刈込式、借景式の様相が特色です。庫裡前の杜若池(心字池)を中心とし、庭全体の高低の落差を四段に分け、段毎の境を生け垣で区切った回遊式となっています。手前の心字池には全体の要となる中の島があり、築山となった中腹には三尊石が設置されています。造られた当時は正面遠景として岡崎の村積山がみえ、近景に逢妻川の清流が流れ借景として取り入れられていました。この杜若池のほか、境内には昭和になって新しく作られた杜若池があり、毎年5月には合せて約三万本の杜若が咲き乱れ、多くの人々で賑わっています心字池にある中の島築山となった中腹には三尊石が設置されています。中腹に三尊石の説明板この庭の中心、観音菩薩・阿弥陀如来・勢至菩薩茶 室茶室の裏にある竹林茶室前からかきつばたの再生に取り組んでいます 知立市業平池の石柱八橋の一つか?左が「辻灯籠」右の石「玉川卓」奥に「業平の井」左の灯籠は、文政年間に当時の無量寿寺客僧八橋売茶方巌禅師のために、紀州大納言治宝公から贈られた一対の灯籠である。右の長方形の石は、煎茶式庭園玉川庭の玉川卓である。この石の上に茶道具をのせ、青空の下で煎茶を楽しんだのである業平の井業平公の水を御くみの井戸方巌(売茶)井戸のいわれ杜若池と茶室無量寿寺の北側の杜若池知立市の花である「かきつばた」が咲き誇るこの池に導かれた水は、先人たちの壮大な計画により、明治13年(1880)に開削され、碧海大地の農業地帯を創りあげた明治用水の水を利用しています。中央アルプスを源にし、矢作川を経た後この地域までやってきます。この機会に、水の尊さや地域環境について考えてみてはいかがでしょう藤 棚伊勢物語の伝説地八橋ここ八橋は平安時代につくられた「伊勢物語・東下り」の旧跡として、愛知県の史跡に指定されています。特に在原業平が詠んだ「かきつばた」の和歌は、多くの人の心を惹き付けてきました。平安時代の昔から千年余の間、東海道や鎌倉街道を行き来する人々が、業平を偲んでこの地を訪れ、数多くの紀行文や和歌俳句を残しました。また、能や謡曲にも取り入られており、郷土の誇る大切な文化遺産です。当地の旧跡保存会は「県の花・市の花」であるかきつばたの手入れを続け、また「業平毎歳忌」を営んでいます在原業平 像ズームアップ八橋の蜘蛛手に流れる沢のほとりにかきつばたが美しく咲いているのを見て、かきつばたの五文字を句の上にすえて、都に残してきた妻や子を偲び、「から衣きつつなれにしつましあれば はるばるきぬるたびをしぞおもう」と詠まれました。この和歌は平安時代前期の代表的な歌人、在原業平作として勅撰和歌集の古今集に撰ばれています。また、伊勢物語の九段東下りにも採り入れられ、八橋の地が永く語り継がれ親しまれてきました敷地13,000㎡の庭園内には、3万本が生息し5,000㎡の池一面に咲きそろう4月~5月が見どころで、多くの人々を魅了します3月末からは桜も咲く、かきつばた園 無量寿寺ー続く
2020.03.03
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小原の四季桜、香嵐渓の紅葉を散策した後、13時に落部駐車場を出発帰路に着いた。車中の写真は、助手席の旅友に依頼。11/25(月) 13:20カーナビを一般道優先にセット、落部駐車場から県道362号線を走る途中から国道473、257号線を走り、新城方面へ向かう月曜日で道路は空いていた13:41豊川沿いにあるここ「田峯交差点」を右折して県道389号線を浜松方面へ13:44県道32号線を、浜松、豊橋、豊川方面へ進む13:52玖老勢(くろぜ)交差点を左折して、県道32号線を鳳来寺山方面へ県道32号線(富栄設楽線)を浜松方面へ鳳来寺小学校前13:55この先を左折すると「鳳来寺山」、直進して浜松方面へこの先を右折して、県道32号線(長篠東栄線)を長篠方面へ走る13:56この先を右折して、県道32号線の浜松、引佐(いなさ)方面へ14:02この先で国道151号線と合流、左折して浜松、引佐(いなさ)方面へ国道151号線の長篠交差点を左折近くにJR飯田線の「本長篠駅」があり、日本百名城の『長篠城跡』もある長篠交差点を左折してすぐに右方向の国道257号線へ。数年前「長篠城跡」へ来た時走った道と思い出す、直進すると飯田市へJR飯田線の下をくぐる14:03県道439号線との「乗本交差点」を直進して、浜松、引佐(いなさ)方面へ国道257号線沿いの、道の駅「鳳来三河三石」の標識前方に新東名高速道路が見える14:10国道257号線沿いの、道の駅「鳳来三河三石」所在地:愛知県新城市吉田田中106-1国道257号線を浜松へ27km。新東名「浜松いなさインタ」へは4km。先を急がないので一般道を進む新東名高速道路の高架下浜松市街・細江方面へ14:17新東名「浜松いなさ」インタ入口道路案内「ここは奥浜名湖エリア」「龍潭寺」「竜ヶ岩洞」「気賀関所」気賀関所は昨年の10月14日(月)に、稲葉山からの帰りに立ち寄ったが、東海道の姫街道の関所である国道257号線の「井伊谷上交差点」14:28数年前にNHKの大河ドラマ「おんな城主 直虎」の舞台となった。ここも数年前に弥次さんと訪れた14:30この先を左折して国道257号線を走り、浜松市街方面へこの先を右折して国道257号線を三方原方面へ国道257号線(金指街道)の「根洗交差点」国道257号線(金指街道)の「三方原町交差点」三方原古戦場を右手に見ながら進んできた14:45国道257号線(金指街道)の「北星中学入口交差点」14:51東名高速道路を越え国道257号線の「元追分交差点」を斜め左方向へ進み、県道261号線の姫街道へ進む、前方は一里塚橋交差点県道261号線の姫街道、豊隆団地交差点斜め左方向へ進む14:55カーナビは、県道261号線の姫街道五枚橋交差点この辺りの姫街道は県道261号線と分かれている14:57国道152号線と交差する、馬込大橋北交差点道路脇には「姫街道」県道261号線15:00小池一里塚この一里塚は、織田信長が一里を36町と定め街道の一里ごとに塚を築き、その上に、えのき または、松を植えて目じるしとしたのに始まり、その後、徳川時代に至ってさらに整備して旅行者の便としたものである。この小池一里塚は東海道の脇道として本坂通(俗に姫街道)のもので、日本橋よりの距離65里、約260kmに位置している。この集落が、小池村一里山と呼ばれてきたのはこの史跡の故である県道261号線の姫街道15:05与進北(よしんきた)小南交差点15:06この先の交差点を左折、すぐ右折して県道261号線へ15:09県道261号線(姫街道)の市野町交差点市野町交差点の手前に『市野宿』市野宿は江戸時代中頃まで大名や旗本の往来も多く、本坂通(姫街道)の宿場町として栄えた。宿場の名残は「東宿」「中宿」「新丁」などの小字名が残る。東西の桝形区画が見られ、現在も西と東の桝形が残っている。市野宿には本陣(斎藤本陣)が一箇所置かれていたが、現存しない15:14県道314号線(姫街道)の柏木橋交差点、ここから県道65号線へ自宅までまだ188kmで到着予定は20:07柏木橋交差点から県道65号線15:16安間川公園東交差点先で国道1号線と合流天竜川に向って幹線道路が集まる天竜川橋へ15:18天竜川橋、右は下り線天竜川を渡り磐田市へ天竜川橋は4車線であったが、ここから国道1号線は2車線に15:22自動車専用道路で高速道路並みのスピード15:3015:33エコパアリーナ所在地:静岡県袋井市愛野2300-115:35国道1号線もここから1車線になる左方向は掛川市街15:45道の駅「掛川」まで2km今日はまだ昼食をとっていないので、立ち寄ることに15:54とんかつ定食を、720円と安いわが家へは、19:45に到着、三泊四日での走行距離は780kmでした。今日の一日の歩行数は、11,170歩。因みに今回の三泊四日の、『東海道五十三次(鳴海から四日市宿)と香嵐渓の旅』の総費用は約35,000円でした。内訳は、交通費:5,580、宿泊費:17,700、食費:10,600円、その他:土産 END
2020.02.24
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香嵐渓の巴橋まで下り、落部駐車場へ戻る散策です。11/25(月) 12:11巴橋から、待月橋を望むライトアップされると巴川に紅葉が映えるポイント太陽の陽が出ていると最高なのだが生憎曇り空でしばし待っても陽は出ず西町駐車場にある大きな石碑「香嵐渓」もみじの開祖「参栄禅師供養塔」と「太子堂」太子堂をズームアップ飯盛山への道があるが、今回はスルー。この辺りはカタクリの群生地で、毎年早春の3月下旬頃から4月上旬にかけて見頃重要伝統的建造物群保存地区『豊田市足助』足助は、尾張・三河と信州を結ぶ伊奈街道の道筋にあたり、古くから海と山を結ぶ物資運搬の要所として栄えました。重要な交易品の一つが塩です。三河湾等でとれた塩は、足助まで船と馬で運ばれ、ここで配合され、包み直されて、険しい山道を運ばれました。このような塩は、”足助塩” や ”足助直し” などと呼ばれました巴川に映えるもみじもみじトンネルの緩い坂を上る飯盛山の斜面カタクリの群生地である陽が射し鮮やかになる待月橋への下り道五色もみじエリア巴川対岸の遊歩道には多くの観光客香嵐渓広場ズームアップすると多くの観光客が五平餅、刀削麺、フランクフルトを食べているのであろう香積寺急な石段を登り山門を潜り参道へ香積寺山門しばし人の途絶えるのを待つが山門前からの紅葉香積寺本堂前から山門を望む香積寺本堂この裏からも飯盛山へ登れるが道が険しい本堂の扁額「飯盛山」僧堂(坐禅堂)本堂に向って左側にある『僧堂(坐禅堂)』曹洞宗は道元禅師に始まり、瑩山禅師によって広まり坐禅を宗旨とします。当坐禅堂は江戸後期の様式、この地方では唯一つ昔のままで残っています。幕末二十五世風外禅師、二十六世俊龍禅師と共に高邁な人格で、随身より多くの俊英が輩出し香積寺の名を天下に伝えました夜は荘厳で静寂な香積寺への参道を竹灯りで導いてくれる山門から山門には人が絶えない飯盛山 香積寺杉木立ともみじの香積寺は曹洞宗の古刹である。応永34年(1427)足助氏の居館跡に創建されたもので開基は関白二条良基と成瀬三吉丸(尾張犬山城主成瀬家の祖)、開山は白峯祥瑞禅師である。かつては学林として栄え、時には100名もの雲水が参禅したという。もみじの開祖十一世参栄禅師、画技にも卓越した二十五世風外禅師はあまりにも有名で、風外禅師の絵を多数蔵している色鮮やかでしばし見とれる山門前の石段から巴川の流れつり橋(香嵐橋)香嵐渓へ来て約2時間散策してこの場所へ戻って来る更に進み、巴川の上流を朝早いと靄にも囲まれる12:57落合駐車場へ戻る。約二時間の散策でした。数年前からこの店の経営者も年をとり閉店状態になっている13:00カーナビを一般道優先で帰路に着く。【おまけ】昨年’18年11月25日(月)に訪れた時の足助城。今年は時間の関係上立寄らなかったが、落部駐車場の裏山にある『足助城』。この辺りには戦国時代には、このような出城がたくさんあった足助城のシンボルツリー足助城からの南方面足助村 香嵐渓ー完
2020.02.23
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引き続き香嵐渓を散策。11/25(月) 11:34三州足助屋敷の土産物売り場、広場には多くの観光客が食事を楽しんでいた猿回しは、香嵐渓広場で11月1日(金)から12月1日(日)まで随時開演している今年も広場では猿君が、猿回しのショー待機中主人とハグする猿君店先に「もみあげまん」の提灯そして紅葉(もみじ)葉の合間から朱の待月橋(たいげつきょう)が下方に見えて来た巴川に架かる、香嵐渓のシンボル的存在の「待月橋」橋の上には今日は平日で人が少ないがこの辺りは、『五色のもみじ』と呼ばれるもみじがあり、緑・黄緑・黄・橙・赤とその名の通り、五色のグラデーションで紅葉していくのが楽しめる五色のもみじ側からの待月橋もみじのトンネルから太陽の光で色が変わる待月橋へ待月橋からの巴川上流銀杏の木は落葉飯盛山側の『五色のもみじ』光の関係でもみじの色も待月橋も何年か前に鉄筋コンクリート製に巴川沿いの遊歩道の店頭に並ぶ新しいメニュー大きなサツマイモが並んで展示されていた大きなサツマイモをスライスして油で揚げる新メニュー。帰宅後、妻に作ってもらうために撮影。ワンカップの値段はワンコイン?巴川沿いの遊歩道を左折すると多くの露天商が並ぶ。昨年10月に行ったルーマニアでも露店でトウモロコシを150円で売っていたが、日本では一本500円、物価の差か。我々はいつもおばあさんが売っている『味噌田楽』を食べており、今回も100円/2本を購入して食べたが、今回はおじいさんが売っていた香嵐渓観光センター前からの、飯盛山(標高 254m)大きなスーツケースを持った観光客もいたが、ツアー客なのか宮町駐車場には多くの観光バスそして国道153号線沿いにある『足助八幡宮』を訪ねた市指定文化財(天然記念物)『足助八幡宮のスギ』拝殿の正面にあるスギは、幹周6.8m、樹高は45.5m、根回り25.3mです。スギとしては、足助地区で4番目の幹周を持つ巨樹です。根元が膨らんで安定感があり、杉皮が荒々しく厚さ5cmもあり見事です。スギはもっとも寿命の長い樹木で、このスギは樹齢が500年以上と推定されています。残念ながら撮影を忘れました!市指定文化財(天然記念物)『足助八幡宮のイチョウ』市指定文化財(天然記念物)『足助八幡宮のイチョウ』足助八幡宮社務所前にあるイチョウは、幹周4.5m、樹高20.8m、根回り21.1mです。幹周の規模では、足助地区で2番目の大きさになります。イチョウは、強健で抵抗力が強く、土地を選ばず生育します。成長は早く、病虫害が少ないという特徴を持っています樹形は地上1.5mで幹が二本に分かれています。北側の太い方は16.5m、南側のやや細い方は13mで先がなくなっています足助八幡宮拝殿前の『神馬』こっこでも弥次さんが御朱印を頂きました紅葉の香嵐渓だけに色付き足助神社元弘の変(元弘元年ー1331)に、後醍醐天皇に味方して、笠置山(京都)篭城軍三千人の総大将となった足助次郎重範公をまつっている。重範は飯盛山城を本城とした足助氏の惣領で、弓の名手として名高く、笠置で強弓を以って奮戦する様子が「大平記」に名文で書かれている拝殿の扁額には「足助神社」落城の際、捕われて、翌年京都六条河原で斬首されたが、明治天皇より贈位もあり、足助神社として祀るようになった豊田市役所 足助支所横に駐車していたレトロなバス 祭の期間中、香嵐渓 ⇔ 小原の四季桜 間を運行している豊田市役所 足助支所前のイチョウイチョウの葉の絨毯12:09見事な黄葉 香嵐渓ー続く
2020.02.22
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豊田市にある小原の四季桜から香嵐渓へ移動。国道419号線を豊田方面へ戻り、途中で左方面の県道485号線(沢田禍作線)を走る。11/25(月) 10:27県道485号線を走り「御作日沢交差点」で左からの県道33号線(瀬戸設楽線)と合流10:27県道33号線の「御作浜井場交差点」「水勝橋」ここを直進したか、左折したか?10:38国道153号線(=国道420号線)の「中金町平古交差点」右側から県道345号線10:38国道153号線を進み足助へ8km、飯田へ92km10:45国道153号線を進むが車の量が多くなる、先の信号は追分交差点国道153号線(飯田街道)の「追分交差点」カーナビは香嵐渓まで、後 3.2km、到着予定 10:55 の標示。国道153号線の「追分交差点」で、岡崎方面からの県道39号線と合流岡崎方面からの道と合流して車の量が多くなり、途中で右折して巴川を渡り左折して対岸の県道77号線を進む。10:58再度、足助大橋の東側で国道153号線と合流して右折、香嵐渓を流れる巴川に架かる「巴橋」を渡る。この橋の手前右側に大きな駐車場がある香嵐渓駐車場入り口の「香嵐渓交差点」11:05香嵐渓の巴川の上流にある「落部駐車場」所在地:愛知県豊田市足助町一ノ谷今日は平日でスムーズに駐車場へ入れたが、祝祭日はいつも行列を成している。昨年も、’18年11月25日(月)に訪れた。駐車料金1,000円を支払い散策へ今年のパンフレットをもらう。今年は「第64回 香嵐渓もみじまつり」期間:11月1日(金) ~ 30日(土)紅葉みどころマップ香嵐渓へは平成20年(2008)以来恒例行事として訪問しているが、今回が延べ11回目香嵐渓は、愛知県豊田市足助町にある矢作川支流巴川がつくる渓谷にあり、愛知高原国定公園の一角に当たる。一の谷の駐車場も空いていた寛永11年(1634)頃に香積寺第11世住職三栄和尚が、巴川から香積寺に至る参道に スギやモミジを植えたのが始まりとされ、大正末期から昭和初期には住民のボランティアでモミジの大植樹が施された。イロハモミジ、オオモミジなど11種のカエデが約4000本あると言われており、赤や黄色に色づく景色は壮観。 香嵐渓もみじまつりが開催される期間中は21:00までライトアップされ、夜の幻想的な景色も楽しめるが、私は時間的にまだ見たことがない待月橋に向って緩い坂を下る一の谷エリアの紅葉午前中は朝日がよく当たるので、照らされたモミジが色鮮やかになるとこの辺りは香嵐渓でも比較的早めに色づき始める毎年、勤労感謝の日を挟んで訪れているが、今年の紅葉は良い方だ来た道を振り返る藁ぶき屋根の小屋も紅葉の下で存在感いつもこの手前で、名物のおじさんがシンセサイザーを演奏していたがモミジの絨毯は清掃したのか無く茅葺屋根とのコラボ食事処の店の前には綿の実がはじけて、純白のコットンがのぞく巴川上流の一の谷和風料亭・一の谷をズームアップ朱色のつり橋(香嵐橋)には既に多くの観光客露天商の小屋があったが今日は平日で閉店平日にもかかわらず多くの観光客外国人(中国・タイ・・・・)も多く来ていたが、ツアーではないので研修生?太陽に照らされたもみじ紅葉&黄葉のコラボがいいコーヒーを飲みながらのんびりしたいものだが巴川に沿って下ると左手に三州足助屋敷大きな銀杏の木があるが今年もすでに大半は落葉台風の被害で一部通行止めになっていた11:31落葉した銀杏の葉 香嵐渓ー続く
2020.02.21
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小原の四季桜、川見地区にある「川見薬師寺境内」へ急な石段を登る。11/25(月) 9:00真言宗高野山派『瑠璃光山薬師寺』 本寺の開山は不明であるが、二冊の中興建立記によると、寛文5年(1665)本尊開帳以後本堂改修を始め、次々と伽藍が建立され整備された。その地は、山麓田代川右岸の今の畑地である。 現在の伽藍は、江戸末期から明治初期にかけて建立された。鐘楼門には、十二支の彫刻と、京都東寺管長の山号木額は立派である。本堂向拝には、龍の彫刻された蝦虹梁(えびこうりょう))は精巧である。本尊薬師如来像は室町末期の作といわれ、日光・月光初め仏像十三体は、岩村城内の薬師寺より迎えられた。村文化財指定は本尊仏と石燈籠である本堂向拝 蝦虹梁 日本一の龍 欅一木彫り川見薬師寺本堂本堂向拝には欅一木彫りの見事な精細な蝦虹梁(えびこうりょう)を見ることが出来た本堂の扁額「???」豊田市指定文化財(建造物)『薬師寺本堂・鐘楼門』。本堂は、明治3年(1870年)に建てられたもので、宝形造(ほうぎょうづくり)(屋根面の頂上を一点に集める)の前面を入母屋造とした、一見すると神社のような変わった形式が用いられています。間口は3間(5.4m)、奥行は2間(3.6m)で、龍の透かし彫りが施された蝦虹梁(えびこうりょう)は見事なものです。 鐘楼門は明治15年に建てられたもので、形もよく、虹梁の彫りや回廊欄間(2階部分)には、十二支の彫刻が配されていて、装飾的に価値が高いものです市指定有形文化財『木造薬師如来坐像』。 この坐像は、高さ40.5cm、台座総高33.5cmです。銘文に天平3年5月8日とあるのは疑わしいですが、弘治とみえることから、弘治年間(1555~1558)頃のものと思われます。なお、蓮華銘文に于時(ときに)元禄2年(1689)11月26日奉彩色臺座とあるのは、この時期に台座部分の彩色を行った記録だと思われます。 寄木造の漆塗で、作風もよく工芸的に優れています市指定文化財(有形文化財)『燈籠』。 指定 昭和57年7月23日 高さ 香縄(こうつな)燈籠(本堂に向かって右)218cm 内方(うちかた)燈籠(本堂に向かって左)215cm 建立 両燈籠ともに元禄16年(1703年) 10月8日 石材 地元産の花崗岩 香縄は上仁木村春日部庄大夫香縄であり、乙ヶ林城主春日部佐渡守の末裔で、その子孫は現在の上仁木の春日井氏です。内方は庄大夫香縄の妻です手水舎鐘楼門(山門)境内には『南無瑠璃光薬師如来』の幟が林立弥次さんが御朱印を頂く川見薬師寺の東側にある「川見さくら山」へ行きたかったが脇道が無いので境内からまた急な石段を下りることに再度石段下から鐘楼門(山門)を見上げる途中から、見事な紅葉を見ながら九十九折の坂道を下ることに見事な光景を振り返る、絵心があれば絵になるのだが途中から石段下を見下ろす逆光でのモミジもズームアップして皇帝ダリアも咲き椿も咲き急な坂道を登り、川見さくら山へ銀杏、紅葉のモミジ、四季桜の競演だが四季桜は控えめ、まるで・・・・・・四季桜も咲いているのだがモミジをバックにズームアップ矢張紅葉は目立つが一本の銀杏も存在感を四季桜をズームアップ登ってきた反対側へ下りる四季桜は可憐な花である柏ヶ洞の郷紅葉が池に映る場所で 撮影スポット朝焼けや 映る紅葉や この姿た 夢を追いつつ 老を知ても 詠み人知らず隠れたビューポイントである池の水面に映り込むメタセコイア、銀杏、モミジ柏ヶ洞の郷を振り返る。後方は、川見さくら山。樟茶屋のおやじさんが数年前に造ったエリアでログハウスもあるが、今は閉店状態田代川の流れに四季桜前洞の四季桜国道419号線へ戻る樟茶屋前の小原北部生活改善センター中庭には多くのテントが張られ、地元名産品を販売していた。私は、白菜 200円を購入つっみ寿司が生産する、味自慢!いなごの佃煮付!『へぼ箱寿司』 700円。 へぼというのは、特にクロスズメバチの子のことで、秋が近づくと山に蜂の巣を取りに行き、養殖用の箱で蜂の子を育てます。へぼは値段もかなり高価。ここ豊田市小原で秋に作られるのがこの『へぼ箱寿司』いつも立ち寄る「樟茶屋」で五平餅をオーダーここ樟茶屋の五平餅はユニークなひょうたん型。当茶屋の御主人が食べやすく、他にはない変わった形の物を提供しようとこの形になったのだと以前に。 長野県から取り寄せた赤味噌にくるみ、ゴマ、ピーナッツ、醤油、砂糖を調合し、煮詰めて作った特製味噌はちょっと甘めで香ばしい五平餅を食べていると、樟茶屋を切り盛りするオバちゃんが我々の席に来て、東京に勤めるお孫さんが結婚式前の挨拶回りにそろそろ来ると嬉しそうに。式前の記念撮影も兼ねての訪問とのことで、撮影許可をもらう記念写真をバチリ店を手伝うおばちゃん達、そしていつの間にか現れた赤いセーターに青のジャケットのおじいちゃん(柏ヶ洞の郷を造った)も入り記念写真。我々もおじいちゃんでした駐車場の紅葉四季桜も見納め10:15撮影会後、香嵐渓へ向けて出発 小原の四季桜ー完
2020.02.20
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東海道五十三次で、鳴海宿 ⇒ 宮宿 を歩き車で桑名へ移動、翌日桑名宿 ⇒ 四日市宿を歩いた後、岡崎へ戻った。この夜、岡崎の旅友と10月に行った『ルーマニア・ブルガリアの旅』の反省をしながらの宴会。翌日、小原の四季桜、香嵐渓へ立ち寄った。11/25(月) 6:02ホテルの部屋から東の空には月6:28ホテルの部屋からの東の空、今日の天気はよさそうだ!6:36香嵐渓へ行く時は、駐車場の渋滞を考えいつも6時前に出発するので朝食はとっていなかったが、今回はゆっくり朝食を取り出発した7:37カーナビを小原の四季桜の「樟茶屋(くすのきちゃや)」にセットして進む。いつもは先に香嵐渓へ行っていたが、今回は小原の四季桜へ。国道419号線の「梅坪町9丁目交差点」国道419号線を進むがトヨタの工場があり通勤者の車で渋滞。藤岡飯野:12km、小原:20km7:42豊田北郵便局国道419号線は左方向へ進むが、小原へはここを直進して足助方面へ進む7:53県道349号線の「加納町向井山交差点」8:04途中で再度国道419号線と合流国道419号線(豊田多治見線)左側に「飛び出し坊や ?」国道419号線の「迫八反田(Hasamahattanda)交差点」8:07国道419号線(=県道350号線、豊田多治見線)を進む左は「藤岡郵便局」、先の交差点は「藤岡飯野町交差点」8:15国道419号線を進み、国道363号線へ8:23国道419号線の「上仁木白山交差点」小原地区に入ると道端、山の斜面には四季桜が咲き誇る8:25カーナビでセットした「樟茶屋」所在地:愛知県豊田市雑敷町23-2国道419号線(=県道354号線、平畑土岐線)沿いにある樟茶屋。昨年も、’18年11月25日(月)に訪れた小原四季桜まつりのポスター。 今年2019年の開催は、2019年11月1日(金)から2019年11月30日(土)まで向かい側に「小原北部生活改善センター」がある。ここへ車を止め(駐車料金が無料)、田代川沿いに下り会場へ向かう四季桜も満開、ズームアップ国道419号線(県道354号線)沿いの、メタセコイアメタセコイア、銀杏、モミジの競演朝の気温は低かったのか川見(せんみ)四季桜の里川見さくら山は散策路になっており山頂は440mあり急な坂を上る銀杏の黄色も交じって川見四季桜の里小原の四季桜へは、平成21年(2009)以来香嵐渓と共に訪問している。四季桜の会場は他にもあり数カ所あり、ここが一番上流にあるいつもは香嵐渓の後、昼前に訪問しているが今回は午前中に田代川沿いの紅葉、桜のコラボを楽しめる四季桜は小ぶりでズームアップ季桜の由来は、その昔豊田市小原北のひとりの医師が小原に苗を植えたのが最初と言われている。四季桜は春とこの11月の二回花を咲かせ、11中旬から12月上旬に見頃となるのです今年は天気もよく見事に咲き誇る小原地区内の四季桜は約1万本に達していると。これほど多くの四季桜を鑑賞できる場所は他になく、秋は全国で随一の絶景が広がっているのだと四季桜と紅葉を配置しているのかマメザクラとエドヒガンの種間雑種と考えられ、花は一重の白又は淡紅色 夏の間に充実した花芽が秋から冬にかけて順次咲き、小さい花芽は冬を越して3月中旬頃から咲き始める。このため、春より秋の方がよく花を咲かせると(旅友より)川見四季桜の里所在地:愛知県豊田市川見町田代川に映える紅葉多くのカメラマンが三脚を構えていた川見薬師寺下の売店最初に訪れた時は登ったが、その後は石段が急で段数が多いのでいつもは下で引返していた。今回は天気もよく紅葉がきれいであったので登ることに。石段下の石柱には「瑠璃光薬師如来」「薬師観世音菩薩」途中の見事な紅葉。立札には「是より三十三段、女子三十三歳厄除け階段です」と弥次さんも頑張って石段の上に、鐘楼門(山門)が見えてくる四季桜と紅葉を眺めながら登る急な階段途中の右側にあった石仏群石仏群横から駐車場を見下ろす石仏群横から、鐘楼門(山門)を見上げる「是より四十二段、男子四十二歳厄除け階段です」と階段の上にある鐘楼門(山門)。どうみても地震には弱い構造に見えるが9:00川見薬師寺本堂へ。 地元の人から「川見の薬師さん」と呼ばれ親しまれている真言宗高野山派古刹。 本堂に安置されている寄木造りの薬師如来像は、室町時代後期に作られたもので、市指定の文化財。 本堂へは階段を88段、33段、42段、最後に12段のぼった上にあります。本堂までの階段は四国八十八ヶ所にちなんで88段の石段になっていると。次は33段、女性33歳の厄除け石段。その次は42段、男性42歳の厄除け石段。 最後は12段、十二支にちなんだ石段である 小原四季桜ー続く
2020.02.19
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今年初めての東海道五十三次の弥次喜多道中記で、四日市宿への移動日の令和2年1月19日(日)朝、弥次さんとわが家を愛車で出発した。途中、道中で立ち寄れなかった知立市の無量寿寺、熱田神宮へ立ち寄ることを計画。令和2年1月19日(日) 7:05圏央道寒川南インタ。いつもの弥次喜多道中は一般道優先で箱根越えをするが、昨日の雪で凍結の恐れがあり危険な為ため、富士インタ辺りまで高速道路を利用することにした。富士山がきれいなため、車中からの写真は助手席の弥次さんに依頼。圏央道から相模川越えの富士山がきれいに見えていた。昨日の雪で積雪位置が下がっていた。最近開通した、新東名高速道路を伊勢原JCTまで利用。正面に富士山、右の大山(標高1252m)にも雪。大山をズームアップ。この先の新東名高速道路は、伊勢原JCTから御殿場JCT区間まで工期が遅れ未開通のため、左方面へ進み東名高速道路へ合流。東京方面へは行けない。東名高速道路を進み正面に富士山。大井松田インタ辺りからの富士山。ここは富士山のビューポイントである。山の木には樹氷?。足柄サービスエリア手前。富士山がきれいに見えていたので、東名高速道路の「富士川サービスエリア」からの雄大な富士山を見ることに、また薩埵峠からの富士山も!東名高速道路の上り線架橋。8:15富士川サービスエリアからの雄大な富士の裾野、右側に連山があるが、越前岳(1504m)、愛鷹山(1188m)とあるが?赤い橋は、東名高速道路の富士川橋。多くの人がカメラを持ち。雄大な富士山が見え、宝永山も。富士山&宝永山(標高2693m)をズームアップ。更に富士山をズームアップ。宝永山は、江戸時代中期の宝永4年(1707)10月4日の宝永大地震(M8.4)では、伊豆下田、紀州の尾鷲などを大津波が襲い、市街地の家屋がほぼすべて流出した。また、三保半島を襲った津波の高さは3.9mという記録がある(磯田道史)。それから一か月半後、宝永噴火は、宝永4年11月23日(新暦:12月16日)の午前10時頃から爆発的な噴火活動が始まった。16日間続いた噴火活動は翌年の1月1日にドーンという噴火音がして終わったと。東屋も設けられ。富士市の製紙会社。富士川サービスエリアのスターバックス。珈琲を飲みながらの富士山も絵になるのでは。スターバックスの南側。石碑には「富士川サービスエリア」。皆さん、この穴にカメラを入れ撮影に。石碑の中からの富士山。左方向には南アルプス、富士川に沿ってJR身延線も走り甲府へ。8:38国道1号の富士由比バイパスからの駿河湾正面に薩埵山。薩埵峠からの富士山を期待。由比海岸の国道1号を走り、正面に薩埵山。この先を左方向へ進み薩埵峠へ。8:52薩埵峠駐車場。前回は、昨年(2019年)の3月8日(金)に峠下の「西倉沢一里塚」から歩いて登ったがこの時は既に3万歩いており辛かった。今回は狭い道を車で登ったが矢張楽だ!天気がよくカメラマンで混んでいると思ったがどうにかスムーズに駐車できた。矢張絶景、しばし「!!!」下には、JR東海道本線、東名高速道路、国道1号が走る。いつもこの光景を期待していた。登ってきた旧東海道は現在は農道。急な斜面にはミカン畑。右は富士市方面。富士市内、愛鷹連山をズームアップ。下の右側は、東名高速道路の「由比パーキングエリア」。由比市街地、桜えびの由比漁港。駐車場の南側にある展望台から。夕陽の撮影ポイントでもある。前回の道中は昨年(2019年)の3月8日(金)で、JR富士駅から興津駅まで歩き4万歩と一日で最高の歩数であった。交通情報で映し出される画面であるが。見納めて薩埵峠を下りることに。東海道五十三次の弥次喜多道中で、今までこの下の国道1号線を数回走ったが、ようやく富士の全景が見れ堪能した時間でした。このあと、峠にあった無人販売店でミカンを二袋購入して興津宿へ下山、四日市宿への途中熱田神宮へ立ち寄った。 END
2020.02.03
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本興寺散策の後、愛知県新城市にある続日本百名城の『NO.150.古宮城』へ。11/22(金) 13:30国重要文化財の『本堂』建物は桁行五間・梁間五間の茅葺きで、大仏様・禅宗様の二様式と、伝統様式である和様を巧みに取り入れ、三様式を折衷した室町時代の特徴をよく遺しています本堂内本尊に本仏釈迦牟尼世尊及び十界勧請の諸尊を祀っています本堂の濡縁に本堂からの『三十番神堂』前舎・後舎とも桟瓦葺きでしたが、平成25年度の保存修理工事により瓦葺き型鋼板葺きに変更されました。改修前の屋根は、中央に二つの峰を持つ特殊な瓦を配置し、左右逆方向に瓦を葺くという特徴的なものでした三十番神堂番神堂は、日替わりの守護神である三十番神を祀る建物で、文明4年(1472)五世日暹の代の創建。現在の建物は文政4年(1821)二十九世日壇の代に再建されたものです。建物は前舎・後舎にわかれ、前舎は桁行三間・梁間三間の入母屋造りで、前方に一間の向拝があります。前舎の背面に接続する後舎は切妻造りで、三十番神を安置した客殿があります本堂からの『鐘楼』延宝2年(1674)十七世日観の代、上総国佐貫藩主松平山城守重治夫人の発願により建立されました。入母屋造り袴腰付き鐘楼で、組物など細部の意匠に技巧的な特徴が見られます鐘 楼文政5年(1822)二十九世日壇の代に再建、大正4年(1915)三十八世日受の代に修復されました。昭和17年(1942)、太平洋戦争に伴い梵鐘は供出されましたが、昭和34年(1959)四十三世日猷の代に口径二尺七寸の大梵鐘が再鋳され落慶法要が営まれました弁天堂元禄13年(1700)十九世日芳の代に大檀那渡辺越中守方綱(正綱)夫人の寄進により建立されました。音楽・弁財・財福・智慧の徳がある弁財天女が祀られています嘉永3年(1850)三十二世日宗の代に再建され、京都の岩倉実相院義賢大僧正の扁額があります。 縁日 毎月十五日本堂前から樹齢600年余の開山杉本 堂石柱には「國寶本堂」と千仏堂と右に客殿千仏堂は、元禄13年(1700)十九世日芳の代、渡辺越中守方綱(正綱)夫人の発願により建立、天保13年(1842)三十一世日融の代に再建されました渡辺方綱は、寛文8年(1668)武蔵国野本藩主となり、延宝8年(1680)没。方綱夫人が娘で方綱の養子基綱夫人の息災延命を願って千体仏とともに寄進したものです。構造は桁行・梁間ともに三間、屋根は宝珠造で単層の桟瓦葺きで、細部の手法から禅宗様の建築様式を備えています千仏堂前から『鐘楼』『本堂』お墓の奥にある『西郡局供養塔』西郡局は、三河国西郡(蒲郡市)の城主鵜殿長忠の娘。長忠の父鵜殿長持は、天文21年(1552)本堂建立に尽力した人物です。西郡局は永禄7年(1564)徳川家康の側室となり、翌年、岡崎において家康の二女督姫を生みました。慶長11年(1606)伏見城において没し、京都本禅寺に葬られました。法号は蓮葉院殿日浄尊儀。当山十世日梅は、西郡局の舎弟に当たることから遺品を納めて供養塔を建立しました左:客殿、奥に『大書院』まだ雨が降る中「大黒堂」へ。貞亨元年(1684)十七世日観の代の建立で、延亨元年(1744)二十二世日禅の代に再建されました。現世安穏、後世善処を願い招福、開運、学問増進の神である大黒天が祀られています建物は、桁行三間・梁間三間の入母屋造りで、外陣の外側には扉や板壁などがなく、吹き抜けになっているのが特徴です。 祭礼日 正月11日・甲子日 御礼・御守の授与あり方角を変えて「大黒堂」客殿の前は駐車場13:41雨も小降りになり散策を終え、参道から山門へ向かう13:51国道301号線の「太田交差点」13:45に本興寺の駐車場を出発して、続日本百名城の『古宮城』へ向かう14:05浜名湖沿いに国道301号線(オレンジロード)を北上、三ヶ日方面へ。天竜浜名湖鉄道の「三ヶ日駅」近くの「西天王町交差点」を左折14:06左折してから数百メートルの「高橋交差点」を右折して国道301号線を新城方面へ14:29カーナビに従って進むこの先の「稲木交差点」を右折して国道151号線へ古宮城まで、17kmで到着予定は15:0514:30県道392号線から、この「稲木交差点」を右折して国道151号線を走る14:33雨が激しくなる国道151号線の「杉山北交差点」、再度国道301号線を走る14:55新東名高速道路も越え、国道301号線を進んで到着。『作手歴史民俗資料館』所在地:愛知県新城市作手高里縄手上35スタンプが15時のため急いできたのでどうにか閉館5分前像の右には「ポットホール」「力石」歴史民俗資料館営業時間:10:00~15:00 休館日:火曜日15時ギリギリにスタンプを頂いたが、係員の方に尋ねると不在時のスタンプ置き場は『国道301号線へ左折した200mほどの、Y ショップ(コンビニ 7:00~20:00)にておすことができます』とのこと。本には書かれていないので慌てて来たがスタンプを押し、閉館前の館内を見学。館内には自然のジオラマが作手町並みのジオラマ亀山城址、古宮城址、文珠山城址、塞之神城址、川尻城址と城跡が多い認定証『古宮城』平成29年(2017)4月6日の城の日に、日本を代表する歴史的名城として認定されたNO.150.古宮城(ふるみやじょう)のスタンプ15:09愛知東農協Aコープ作手店所在地:愛知県新城市作手高里縄手下54-1JAでガソリンを、10リットル補給この日は11月22日でオロナミンⅭをもらえる「勤労感謝の日」。本来は1台1本のところであったが、1本もらった後別の店員が持参都合3本頂く15:13古宮城址と白鳥神社当城址は、甲斐の武田信玄が三河進出の拠点とするため、宿将馬場美濃守信春に命じ願亀2年(1571)に築城したと伝えられている。城址は、南北約200m、東西約250mの独立した小山全体からなっている。当時は、南・東・北の三方が湿地で地続きは西側のみで、防御の主眼は西側に置かれている。一歩城址に踏み入ると土塁と壕が縦横に入り組み複雑な曲輪配置が見られ、中央部が南北の竪堀状の大堀切で東西の二城に分けられた一城別郭式の城であった東は守備の中心で主将の居る所、西は前衛として敵の攻撃を少しでも永く拒むための工夫が施された要害堅固な城であった。西城の本丸は、ほぼ正方形で、その東に二の丸が並び境として両端を空けた土塁があり、二の丸の東南隅と北側には虎口が設けられている。また、北側には五重の濠を擁して西側からの攻撃に備えている。東城は、頂部において土橋で西城と繋がり、本丸に並んで二つの曲輪があり、その北部には多数の曲輪が見られる古宮城縄張図本丸南側の両袖桝型虎口(内桝型)は、武田氏縄張りの特徴をよく伝えている。一部が社地等になっているが中世の城郭がほぼ完全に保存されているのは珍しい。全山余すところ無く塁郭を配置したこの城も天正元年(1573)8月、奥平・徳川の連合軍の手によって落城した。古宮城の下にある「白鳥神社」右の石段から土塁へ登ろうとしたが雨でぬかるんでおり途中で止める続100名城「古宮城」のスタンプは『作手歴史民俗資料館』と『Y ショップつくで店』に設置しています。作手歴史民俗資料館の休館日・閉館後はコンビニ店舗に押せると15:18亀山城址迄、1.5kmとあり、南方面へ進む15:29亀山城址車で昇って行ったが雨で登城道がぬかるんでいるので引き返す。亀山城(平山城)は、応永31年(1424)8月、奥平貞俊が川尻城から移り、その後貞久・貞昌・貞勝・貞能・貞昌の五代が居城した。天正元年(1573)8月貞能・貞昌親子は、古宮城に本拠を持つ武田製の攻撃を受けたが石堂ヶ根・田原坂等に転戦してこれを敗走させた。天正3年(1575)この戦功によって貞昌は織田信長から長篠城主を命ぜられた。同年5月長篠・設楽ヶ原の戦が勃発、長篠城は武田勢一万五千の猛攻を受けたが貞昌はよく籠城に耐え織田・徳川連合軍の援軍を受け大勝した。戦後、貞昌は信長の一字を貰い信昌と改名、新城に築城してこれに入り、家康の長女亀姫を嫁に迎えた。慶長7年(1602)信昌の第四子松平忠明が父祖の旧領である亀山城へ作手藩一万七千石の藩主として入城し八年間居城し、同15年(1610)伊勢亀山藩五万石の藩主として転じた。その後は元和5年(1619)頃の数年間三河代官として小川又左衛門氏綱が居城、それ以後は廃城となり現在に至っている15:31国道301号線沿いにある『道の駅 つくで手作り村』所在地:愛知県新城市作手清岳ナガラミ10-2字向かい側の『臨済宗 慈昌院』雨も降っているので、一路東岡崎の岡﨑サンホテルへ向かう。17:00宿泊ホテルの「岡崎サンホテル」前にある石像『旅籠屋』伝馬通りは「伝馬歴史プロムナード」となっており、20基の石彫が並ぶ天保年間(1830~1843)の記録によれば岡﨑宿には伝馬町を中心に本陣三軒、脇本陣三軒、旅籠屋(現在の旅館)が百十二軒あったとされ、東海道五十三次中三番目の規模を誇る宿場であった。旅籠屋はその規模によって大宿、中宿、小宿と区分され、その他に庶民が泊まる木賃宿、休息をする茶屋もあった。正保・慶安の頃(1644~51)からは飯盛女という遊女を置く旅篭も現われ(以降岡崎は岡﨑女郎衆で有名な宿場ともなった)。庶民の旅行が増え始めた江戸中期ごろになると各旅篭とも競争が激しかった17:45この夜は雨も降っており、隣のコンビニで酒&夕食を購入して部屋で宴会明日は、東岡崎から名鉄で豊明駅まで行き、そこから七里の渡しまで歩き熱田神宮から東岡崎へ戻り、ホテルから車で桑名のホテルへ向かう事を確認して寝る。今回も、部屋はシングルルーム。移動日は前回も天気がよくなかったが、明日は天気が良いことを祈る。今日一日の歩数は、10,000歩でした。 東海道53次で岡崎へーEND
2020.01.21
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雨の中続いて本興寺境内を散策。常霊山 本興寺(じょうれいざん ほんこうじ)境内26,000坪の中心に国重要文化財建造物本堂をはじめ客殿、千佛堂、鐘楼、番神堂など伽藍を配し、大書院には有名な谷文晁の晩年の傑作、県指定水墨四季山水障壁画十五面を公開し、庭園は小堀遠州作と伝えられる池泉観賞式林泉がある。奥書院は江戸初期の書院造りで県指定となっている。寺宝には国重文の法華経絵曼荼羅や紺紙金字法華経他岸良の絵も多く遺している。春は桜、みやまつつじを賞で、秋は紅葉を楽しむ人が絶えない。市の花クチナシも初夏に匂やかである。11/22(金) 13:01参道の西側にある四坊の塔頭寺院のひとつ「長勝院」長勝院山門長勝院境内の藤棚と本堂参道に戻り13:03参道の西側に「方丈(寺務所)」「奥書院」「大書院」案内板には谷 文晁四季山水壁画及襖絵小堀遠州庭園本興寺拝観受付:9時 ~ 17時 拝観料:300円大書院は、二十九世日壇の代の文政10年(1827)、上段・下段の間取りを持つ公式対面の場所として建立されました。完成の記念として上段の間には、壁面七面、襖四本の両面の計十五面に、谷文晁によって「紙本水墨四季山水障壁画」が描かれ、このことから当寺は「文晁寺」とも言われています。また、下段の間には岸良の「双竜争珠の図」や杉戸絵が描かれています奥書院もと三河国吉田城内にあった建物で、延宝2年(1674)十六世日穏の代、山門とともに当山に寄進されたものです。構造は、木造平屋建てで、桁行八間・梁間五間の寄棟造りの茅葺き、桟瓦葺きの縁側をつけた住宅風書院建築です。創建当初からのものではありませんが、使用されている材料や技法は江戸時代初期の建物様式を遺す建物です。平成24年度から25年度に行われた保存修理工事に伴い、本茅葺きから茅葺き型鋼板葺きに変更されました遠州流庭園裏山の自然林を借景に大書院と奥書院に面して配置された庭園で、当地方の作庭に大きな影響を残した小堀遠江守政一が関わったといわれています。広さは約300坪に及び。池中に鶴島、亀島の二島を浮かべ、山畔には枯滝口が築かれその左手に三尊石、さらにその左手に須弥山石が配され、手前には礼拝石が据えられています。庭園の起源は不明ですが、永禄6年(1563)5月の今川氏真判物に「寺中園林」とあることから、古くから池泉があったことが想像されます。 水の音 ただにひとつぞ きこえける そのほかはなにも 申すことなし (昭和7年) 北原 白秋紙本水墨四季山水障壁画大書院上段の間には、壁画七面、襖四本の両面の計十五面に、谷文晁によって描かれた四季の山水画があります。文晁は江戸時代後期の画家で、四条派、土佐派、洋風画からも影響を受け、さまざまな様式の作品を残しています。また、田原の渡辺崋山ら門人たちとの人脈の広さは、当時の絵師の中でも際立つものがありました。所蔵の絵は、文政10年(1827)二十九世日壇の代、大書院を建築した際に文晁に依頼して製作してもらったものです山門には谷文晁「四季山水」壁画襖絵小堀遠江守一作「遠州流庭園」山門を入った左手に方丈玄関左:大書院の受付、右:方丈拝観料を支払い大書院へ、いろんな賞状が右壁面には、寺宝 国指定重要文化財「法華経曼荼羅図」大書院の縁側からの遠州流庭園奥書院へ奥書院からの遠州流庭園慶長の頃、伝小堀遠江守政一の作。この庭園は大書院から奥書院に面し楕円形の池泉をかかえ背後の自然の山林を借景に深山幽谷の趣を呈し木石の配置も巧妙で、いずれの方角から見ても美しい。蓬莱式池泉観賞式庭園である。その閑静なたたずまいは、歌人北原白秋の歌にも詠まれている御朱印籠幕府より受けた御朱印状を入れる箱と、これを運ぶ籠である。当山は十万石の格式を与えられていたので籠につける標示に「御判物」と書かれている奥書院正面は、「徳川将軍家御霊屋」徳川家康公以来歴代の位牌が祀られている。最下段の両脇には当山の護持に功績があった家康の側室西ノ郡局、小田原城主大久保忠世及び鵜殿休庵の位牌が祀られている家康判物白秋と本興寺昭和7、8両年鷲津を訪れた北原白秋は当寺にて「本興寺林泉」「続本興寺林泉」と題して二十首余を遺す大書院からの「奥書院」奥書院(県指定文化財)は、延宝2年(1674)惣門と同時に吉田城内から移築、県内では数少ない江戸初期書院建築の遺構谷 文晁(たにぶんちょう)文晁は、江戸後期の画家で江戸末期を花鳥山水で飾った。「文晁の間」もある国指定重要文化財:絹本著色大書院:文政10年(1827)建立、上段の間、中之間、岸良の間から成る。大書院の一部は撮影禁止エリア遠州流庭園大書院から客殿への渡り廊下渡り廊下から大書院方向を振り返る客殿内(市指定文化財)寛永14年(1637)建立、安水2年(1773)再建された本興寺の宗紋:6本桜いつものように旅友が本興寺の御朱印を頂く - 定 -静岡縣濱名郡鷲津町 法華宗 本興寺13:24本堂への道から山門を振り返る(北方面)客 殿平成23年度から24年度に行われた保存修理工事に伴い、本茅葺きから茅葺き型鋼板葺きに変更されました寛永14年(1637)、十三世日渕の代に建立され、安永2年(1773)二十五世日義の代に再建されました。桁行十間・梁間八間の寄棟造りで、前面に桟瓦葺きの向拝がつき、側面に濡縁が巡らされています。比較的古式な客殿ですが、江戸時代の特徴をよく示しています工事中の「中門」大書院の本玄関に通ずる中門は、朱塗りの門であることから別名朱門とも言われています貞亨3年(1686)十七世日観の代の建立とされ、本柱と控柱の直上に切妻屋根を載せた薬医門といわれる門です。薬医門は、元来桃山時代創始の城門の一種でしたが、江戸時代には寺院の門として多く用いられました。当初は、客殿正面に建てられていました本堂と開山杉開山杉樹齢600年余と推定されるこの老杉は、永徳3年(1383)門祖日陣聖人の東海巡化の折、改宗した当山の開山杉として植えられたものと伝えられています。京都本山本禅寺を建立された日陣聖人は、応永13年(1406)越後への帰路に再び当山を訪れ、寺門の隆盛をよろこばれ、開山記念として杉樹をお手植えされたと伝えられています北原白秋 歌碑 - 詠 - 北原白秋水の音 ただにひとつぞ きこえける そのほかはなにも 申すことなし国重要文化財の『本堂』本 堂当寺はもと真言宗の寺院で、永徳3年(1383)に開山日乗聖人により法華宗に改宗したといわれています。戦国期には今川氏や徳川氏から寺領を安堵され、天文21年(1552)九世日礼の代に再建されました。建物は桁行五間・梁間五間の茅葺きで、大仏様・禅宗様の二様式と、伝統様式である和様を巧みに取り入れ、三様式を折衷した室町時代の特徴をよく遺しています。本尊に本仏釈迦牟尼世尊及び十界勧請の諸尊を祀っています 東海道53次で岡崎へ ー続く
2020.01.20
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東海道53次も昨年の10/16(水)に、池鯉鮒宿の先の名鉄豊明駅までたどり着いている。この弥次喜多道中の後、10/24(木)から31日(木)まで旅友と「ルーマニア・ブルガリアの旅」を行いこのブログをアップした。このため、11/22(金)から25日(月)の弥次喜多道中記のアップが遅れました。宿泊ホテルの岡崎への途中、前回行けなかった湖西市の本興寺を雨の中参拝した。いつものように弥次さんがわが家へ車で、わが愛車に乗り換え7時に出発。11/22(金) 9:15雨の中、国道139号線を走り静岡方面へ向かう、右側の高架は国道1号線のバイパス9:20国道139号線のJR吉原駅入口9:21国道1号線の高架橋下を通過、本来上を走りたいのだが入り口を間違え国道139号線を進む10:10新幹線の新富士駅横を南下して、国道1号線(富士由比バイパス)と合流今回も天気が悪くて薩埵峠へは行かず。10:42国道1号線(藤枝バイパス)の「薮田東インタ」11:32国道1号線(袋井バイパス)の国本交差点11:44国道1号線の天竜川橋11:47国道1号線を進む、豊橋まで44kmの標示11:52国道1号線(浜松バイパス)の「下飯田交差点」11:59国道1号線(浜松バイパス)の「中田島砂丘入口交差点」目的地の湖西まで24km12:14国道1号線(浜松バイパス)の「篠原交差点」から国道301号線へ分かれ湖西市方面へ。国道301号線の「坪井町交差点」12:18旧東海道と斜めに交差する「新町交差点」右前方は「旧東海道 舞坂宿 松並木公園」で、手前に旧東海道松並木がある国道301号線の「新町交差点」旧東海道はこの交差点を左前方へ進む12:20浜名湖手前の「協働センター前交差点」右側は、JR東海道本線、東海道新幹線12:21国道1号線(浜名バイパス)の「浜名大橋」帰路はこの橋を渡る自動車専用道路国道301号線(旧国道1号線)、日本橋から271.5km地点12:22旧東海道(国道301号線)を走り湖西市へ入るこの辺りは、昨年の’19年5月24日(金)にJR浜松駅からJR新居町駅まで歩いた12:26雨が激しいJR新居町駅前JR新居町駅前先の交差点を直進して新居関所方面へ12:28右側に『新居関所』正式には「今切関所」といい、慶長5年(1600)に設置されて元禄15年(1702)からは、 吉田藩が運営した。新居関所は「入り鉄砲」と「出女」は無論、「入女」も厳しく取り締まり、箱根と同様、改め女(人見女)がいた。改め女による厳しい検査と船渡しの危険を避け、さらに「今切」の言葉に縁起を担いで、多くの女性は浜名湖の北岸を迂 回する脇街道の「本坂道」を利用した。そのため本坂道を「姫街道」とも呼んだ。 明治2年(1869)関所は廃止された復元された「大御門」 大御門は、明六ツ(午前六時頃)に開き、暮六ツ(午後六時頃)に閉じました。大御門の前には、高札を置く枡形広場があり、東海道へつながります。 大御門の大きさは、高さ5.8m、幅4.6mです。 城門と同じ屋根付きの堂々とした高麗門です。礎石建ちではなく、地表より2.7m下に礎石をすえ、柱を埋めた堀立柱の門です前回のブログへのリンクをお願いします『新居宿の寺社巡り』12:30あと引煎餅の『あと引製菓』所在地:静岡県湖西市新居町新居1264-3試食品もあり、お土産に2袋購入した2019年6月25日に、BS日テレ『ふるさと探訪』にて放送された店舗。三宅裕司が訪れた老舗で是非訪問したいと、我がノートの「行きたいところ」に記載今日は作業が終了したとのこと12:33この先の「泉町交差点」を右折して国道301号線をJR鷲津駅、本興寺方面へ12:39国道301号線をJR鷲津駅方面へ12:45法華宗別院 本興寺所在地:静岡県湖西市鷲津384自宅からここまで、224km常霊山 本興寺(じょうれいざん ほんこうじ)当山は今からおよそ630年前、永徳3年(1383)、法華宗越後本成寺の日陣聖人が東海地方巡化の途次、この地にあった法華堂の住持を教化して真言宗から法華宗に改めた寺である。時の住職は大慈悲院日乗聖人でご開山と仰いでいる雨が強くなったが本興寺の散策へ本興寺 境内地図パンフレットから:上が「南側」聖跡「鷲津弘通所(ぐづうしょ)」当法華宗陣門流の祖、南無日陣尊聖人東海巡化の御聖跡「鷲津弘通所」とは室町時代すなわち永徳3年(北朝)弘和3年(南朝)(1383)この地を巡地され、法華宗に改宗された聖跡である。門祖聖人の御消息の中に布教の重要拠点として「鷲津弘通所」と命名されたところ。この度、門祖第六百御遠忌に当りその記念としてここに顕彰する石碑である平成30年5月21日 法華宗本山 常霊山 本興寺山門(惣門)もと三河国吉田城の城門であったものを、延宝2年(1674)十六世日穏の代に吉田城より移築したもので、高麗門といわれる形式の門です。山門をくぐると参道が本堂へと続く山門の扁額の「常霊山」改築される前は、上端が薄く下端が厚い板を段状に葺いた段葺き技法の特徴を備えた風格のある門でしたが、移築時に杮葺(こけら)きに改修されました。その後、享保10年(1725)に現在のような本瓦葺きに改修されました。なお、創建時の段葺き屋根の特徴は、現在も瓦葺きの下に保存されています山門を入ると、両側に四坊の塔頭寺院が配されている参 道浜名湖辺から正面の本堂に向かう全長300mに及ぶ参道には、山門に続き四坊の塔頭寺院が両側に配され(江戸末期には八坊)、本堂手前右側に方丈があります。文化14年(1817)、二十九世日壇の代に山門から本堂にかけて石垣普請が行われ、天保9年(1838)三十一世日融の代に再整備されました。平成の大修理事業の一環として、平成28年に幅員6m、全長140mにわたり完全舗装整備を行いました参道の東側にある四坊の塔頭寺院のひとつ「東光院」東光院の山門と本堂山門手前の石碑は「門祖御旧跡碑」東光院山門山門(惣門)を振り返る雨に濡れた紅葉参道の西側にある四坊の塔頭寺院のひとつ「光明院」光明院本堂本堂内参道の東側にある四坊の塔頭寺院のひとつ「玉葉院」玉葉院山門玉葉院本堂13:00光明院を振り返る 東海道53次で岡崎へー続く
2020.01.19
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秩父宮記念公園から、とらや工房に立ち寄り、道の駅経由帰宅。9/13(金) 11:22とらや工房へ向かう11:24秩父宮記念公園から数分の所にある、東山旧岸邸・とらや工房。無料の駐車場に車を停めて東山旧岸邸概要所在地:静岡県御殿場市東山1022-1東山旧岸邸(1969年竣工)は、第56・57代内閣総理大臣を務めた岸信介(1896~1987)が晩年を過ごした邸宅です。岸信介は、昭和45年(1970)1月から亡くなる前年の昭和61年(1986)まで、この自邸で暮らしました。建物の設計は近代数寄屋建築の創始者として知られる建築家吉田五十八(いそや)によるもので、伝統的な数寄屋建築の美しさと洋式の機能性の両立をめざした吉田五十八の完成度の高い建築空間をご覧いただけます茅葺門(Thatched Gate)営業時間:4月~9月 10:00~18:00、10月~3月 10:00~17:00 * 売切れ次第終了定休日:毎週火曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始とらや工房手前から、喫茶席、テラス席、販売所、厨房とらや工房・東山旧岸邸 ご案内茅葺門(山門)からの敷地内の紹介 テラス席に座り、まんじゅう・大福・どら焼きなど、つくりたての味を楽しめる少々高いが「栗まんじゅうとお茶セット」約\600最中とお茶セットお茶はお代わり自由30分程、お茶をしながらのんびりと過ごすテラス席の前には梅林、池があり癒しの空間である厨房では、どら焼きを焼いている梅林でとれた梅はお菓子に使われている12:04観光バスで訪れるツアー客も訪れている東山旧岸邸へ名木「太郎冠者」植樹記念の碑この椿は、太郎冠者(京都では別名 有楽)と呼ばれる園芸椿の古典品種である。鑑定では国内で現存する同種の中でも最大級の樹冠を備え、樹齢400年近い古木とのこと。・・・中略・・・、元首相が生前にこの椿をご覧になられ、その素晴らしさに感心し所望された木でもあることから、生前の想いを叶えるため、岸信介元首相生誕120年を記念して、御殿場財産区の協力により東山旧岸邸に移植、景観重要樹木として指定し後世に継承するものである 平成28年3月22日 御殿場市長 若林洋平 記念植樹第12期・15期 御殿場財産区議員 平成28年3月22日覆われた「太郎冠者」太郎冠者は樹勢回復に向け強い陽射しを防ぐため囲いで覆っています名木「太郎冠者」東山旧岸邸 利用案内本館入館料:300円平成21年(2009)からは、和菓子の虎屋のグループ会社である㈱虎玄が指定管理者として管理運営を行っている第5回 静岡県景観賞 優秀賞「東山旧岸邸」以下二枚の写真はネットから左は受付秋の東山旧岸邸12:14竹林を歩き茅葺門から駐車場へ12:32二年前にも立ち寄った小山町にある「道の駅 ふじおやま」ヘ所在地:静岡県駿東郡小山町用沢72-2小山町・道の駅案内小山町は、昔話にある足柄山の金太郎の生誕地でる。金太郎は長じた後、京に上り坂田金時という武将になり、四天王の一人として源頼光に仕えた金太郎生誕の地小山町富士からの伏流水が・・・・・・道の駅ふじおやま店内店内で販売のかぼちゃ @\680ここでもブドウを販売シャインマスカット:1,680円山梨県産藤稔:1,280円13:00昼食を食べることに「金太郎パワーうどん」をオーダー自動販売機でチケットを購入するとナンバーが厨房へ届き調理。席に座り、出来上がりを待つ自分のナンバーが出、セルフで引き取る金太郎パワーうどんのお召し上がり方町の木:ふじ桜、町の花:菜の花、町の鳥:うぐいすまさかりをかついだ金太郎。生誕地については神奈川県の南足柄市と争っているが13:29食事も終え国道246号線を走り自宅へ13:35国道246号線を走り、厚木・松田方面へ13:40新東名高速道路の工事現場当初予定では来年度開通の予定であったが遅れるとの報道13:42前方に東名高速道路13:47国道246号線の上を東名高速道路の高架橋東名高速道路の下り線東名高速道路の上り線13:53洒水(しゃすい)の滝:日本の滝百選前回はここから、アサヒビール神奈川工場へ行き工場見学後ビールを試飲したが13:59農産物直販加工所「とれたて 山ちゃん」所在地:神奈川県足柄上郡山北町向原1823-1営業時間は9時?から14:04国道246号線、この先を右折して湘南海岸へ14:06東名高速道路へは入らず直進して西湘バイパスへ東名高速道路、大井松田インタ入口、ここを直進して西湘バイパスへ14:27国道一号線を走りこの先を右折して橘インタへ。ここから入ると高速料金は無料西湘バイパス、平塚・横浜方面へ14:31西湘二宮インタ出口を直進して平塚へ14:37西湘バイパスを出て国道134号線(平塚市)へ14:44国道134号線を走り、相模川の「トラスコ湘南大橋」を渡る14:52鶴嶺八幡宮大鳥居国道一号線鳥井戸橋交差点鳥井戸橋交差点にある「東海道南湖左富士之碑」途中買い物をし、自宅へは15:50に到着した。累計走行距離は181kmでYさんに運転をお願い、私は助手席でカーナビ担当。運転ありがとうございました。また次回の計画を! 三島・箱根の旅ーEND自宅の玄関先で咲く「ノボタン」色鮮やかに咲いている END
2019.09.30
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秩父宮記念公園を引き続き散策。9/13(金) 10:41アメリカ芙蓉?酔芙蓉は、八重で白からピンクに変わる。芙蓉は、花が一重で花の色が咲き始めと同じで変わらない 芙蓉とアメリカ芙蓉の違いは?どちらも、アオイ科フヨウ属芙蓉:樹木で、別名モクフヨウと云う。葉の形が、先がとがり切り込んでいる。芙蓉 はよく枝分かれして、横にも張りこんもりと茂る。原産地は、日本、台湾、中国アメリカ芙蓉:草花で冬を越して咲く宿根草、別名クサフヨウと云い大型の草花。 北アメリカ原産で、葉は切れ込みがなく、卵形で先がとがっているクロアゲハオッ家内は「シュクサ」と言っていたが咲き始めのため色が濃いソリダコ正式には「ソリダゴタラ」別名「ゴールデンロッド」と言われている、キク科の多年草の花です。宿根草で年3回花が咲く、とても強い品種である雑草で、河原などでよく目にする「セイタカアワダチソウ」などととても似ているここよりロックガーデンに咲いていた花。ジャコウソウシソ科ジャコウソウ属の多年草花言葉:活気・勇気ある行動・潔癖症・活発・あなたの姿に感動する・清潔感キレンゲショウマアジサイ科キレンゲショウマ属の多年生の植物。レンゲショウマに似ていることからこの名があるが、レンゲショウマはキンポウゲ科である。日本の紀伊半島、四国山地、九州山地にブナ林などに自生するオタカラコウ(雄宝香)キク科メタカラコウ属の多年草花言葉:私に触れないでオタカラコウ(雄宝香)同属でメタカラコウ(雌宝香)があり、オタカラコウより小さいシュウカイドウボランティアの方に尋ねたら「スズムシソウ(鈴虫草)」と言われたがスズムシソウはラン科だがこの花は?10:48左:うぐいす亭、右:記念館入口から母屋へ行けるうぐいす亭秩父宮殿下の和歌より名付けられたカフェです。月替わりでオリジナルケーキや和菓子、宮邸限定コーヒーや軽食もあり、散策の疲れを癒せるシュウカイドウの群生地竹林の中に「秩父宮同妃両殿下防空壕」当園内には、この他に将校の防空壕、民間人用防空壕(未公開)の三つの防空壕がある。当時、皇位継承順位第三位であった殿下の防空壕は特殊掩体壕というかまぼこ型で、遮弾層として石を1.5メートルほど積み上げ、その後さらに土を盛った構造で強度があるものでした病気療養中であった殿下を、別邸から担架に乗せたまま防空壕の奥まで入れる、カタツムリのような構造になっている秩父宮同妃両殿下防空壕内部。奥には煙突のような脱出口もついている防空壕周りに咲く彼岸花ハギ(萩)マメ科ハギ属で、秋の七草の一つ花の色はピンク、白で、ハギの花にミツバチが花言葉:思案・内気・柔らかな心・柔らかな精神ほおずき&シュウカイドウ公園内を散策敷地面積は約18,000坪(東京ドームの1.5倍)で、標高約500mに位置する庭園秩父宮記念公園の一番奥に位置する「つばき園」平成17年に、新たにヤブツバキを中心とした「つばき園」開園されたヤブツバキツバキ科ツバキ属の常緑樹花言葉:わが運命は君の手にありツバキの実がリンゴに近い大きさ種子からは椿油を採取する母屋の前に立つ秩父宮殿下の登山姿の像クロアゲハズームアップソリダコ薔薇園には黄色の薔薇も咲きクロアゲハが飛び回るこの花の名前は?ズームアップ柿も実り山野草の売店で「大文字草」ダイモンジソウは、ユキノシタ科ユキノシタ属の多年草ピンク色色鮮やかな大文字草ヤマアジサイ出入口の中門へ高齢女性グループが訪れていた11:16森のエントランスから駐車場へ約一時間の散策でした近くにある「とらや工房」へ向かう。 三島・箱根の旅-続く
2019.09.29
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長安寺の散策後、国道138号線(紫陽花通り)を走り、乙女トンネルを通り抜け、御殿場市にある、「秩父宮記念公園」へ向かう。9/13(金) 9:53ふじみ茶屋所在地:静岡県御殿場市深沢11813長安寺から国道138号線を走り乙女トンネルを出た左側にある天気がよいとここから富士山の全景が見れるビューポイントである。売店前では山梨県下のモモ、ブドウ、ナシ、野菜を販売しているふじみ茶屋お店は少し古風な感じだが、飲食もできる場所で、一本150円の団子が美味しいと甘味メニューシャインマスカット:一房 \1,200名札は「富士柿」とあったがので、おばさんに「柿?」と聞くと「間違っていました」と、どう見ても「梨」ですね!ふじみ茶屋の横には名水が湧き出ていた、ペットポトルに入れたかったが。マイカーには焼酎を入れていた2リットルのペットポトルがあるのだが箱根山、伏流水『ふじみの水』この水は地下380メートルから汲み上げている軟水です。飲料水・お茶・珈琲や炊飯にも適しております 店主ヤマアジサイ10:03風流に、石臼の中には一円硬貨が。店内で10数分間お土産を見て、御殿場市の秩父宮記念公園へ向かう10:09ふじみ茶屋から国道138号線を下り深沢東交差点、ここを直進。ここまでの下り坂の両脇にはアジサイが植えられていて、5月から7月頃には目を楽しませてくれる紫陽花通りである10:12東山湖入口交差点を左折して、秩父宮記念公園へ直進すると東名の御殿場インタへ、右前方は東山湖で釣り客が多く10:15秩父宮記念公園の正門所在地:静岡県御殿場市東田中1507-7有料駐車場(¥200/回)へ車を留め、「森のエントランス」へ。心癒される御殿場のビューポイントである苑内の見頃の花情報①シュウカイドウ ②カクトラノオ ③ソリダコ④コスモス ⑤キレンゲショウマ ⑥シュウメイギク⑦ヒガンバナ ⑧ケイトウ ⑨ルドベキア⑩ワレモコウ ⑪椿の実祭16回静岡県都市景観賞 優秀賞「??空間 秩父」のプレート森のエントランスを歩き中門へ「受付・案内所」故三笠宮寛仁(ともひと)親王殿下がお書きになられた園名板と、爽やかなヒノキ林がお客様を歓迎します。5月頃にはシャガ、7月頃はヤマユリが咲き乱れるヤマユリの球根場所を示している2年前の平成29年7月19日(水)に訪れた時の開花状況。ヒノキ林にヤマユリが咲いており、周りにはヤマユリの香りが漂っていた.。『平成29年7月19日の秩父宮記念公園』をリンク願います。四季折々の花が楽しめるので是非訪ねてみてくださいシュウカイドウ(秋海棠)ショウカイドウ科ショウカイドウ属に分類される多年生草本球根植物である。和名は中国名「秋海棠」の音読み。ヨウラクソウ、相思草、断腸花、八月春とも呼ばれる10:21中門の「受付・案内所」入場券:高齢者優遇はなく300円を払い入園開園時間:9:00~16:30(時期により変更) 入園料:300円 休園日:毎月第3月曜日全体案内図秩父宮記念公園は、昭和16年9月から約10年間、秩父宮両殿下が実際にお住まいになられたご別邸です。秩父宮妃勢津子殿下が、平成7年8月にお亡くなりになられた際の遺言により御殿場市に御遺贈いただき、園内を整備し平成15年4月に開園した公園です 檜林に囲まれた本公園は箱根山麓の風光明媚な地域にあり、敷地面積は約18,000坪(東京ドームの1.5倍)で、標高約500mに位置する庭園は豊かな自然と両殿下が愛された山野草をはじめ四季折々の花々を楽しむことができる何かの花の実シュウメイギク(秋明菊)が咲き誇り花茎を長くのばして菊に似た淡紅色や白花を咲かせ、楚々として和風のイメージを醸すシュウメイギクシュウメイギク(秋明菊)の花言葉は、「薄れゆく愛」「忍耐」ズームアップミズヒキホトトギス(杜鵑草)花後の実が付き茅葺の邸宅(母屋)昭和二年に移築したとのことで、現在の金額では2億円とか、廻りには樹齢120年の枝垂れ桜がある、4月中旬が見頃とのこと。今の時期は、白色のサルスベリ(百日紅)が満開、右下には黄色の彼岸花。ここで6人で集合写真を撮影記念館(母屋)木造茅葺平屋建てで、、元蔵相の井上準之助の別荘だったものを宮家が購入し、秩父宮御殿場御別邸とされたものです。もともと享保8年(1723)に建築された御殿場市深沢の小宮山家が所有する家屋でしたが、昭和2年に現在の場所に移築された。土間だった東向きの33畳間が洋間に改造され、応接間・食堂・書斎を兼ねて使用されました。南西側の床下には、御別邸内で栽培された野菜類を乾燥するために、殿下の御発想で作られたトロッコ風の重ね箱が収納されており、また軒下には、妃殿下が愛された「紫のスミレ」が育っています赤い百日紅も咲きこの花後は、何の花樹齢120年の枝垂桜の下では黄色の彼岸花が満開黄色い彼岸花:ショウキラン黒いアゲハが飛び回っていた彼岸花には蜜が多いのか彼岸花には、赤、白、黄色の三色母屋付近に咲く、シュウカイドウ(秋海棠)奥に東屋富士を望む登山姿の秩父宮殿下昭和天皇より贈られた登山服姿の殿下の銅像は、彫刻家の朝倉文夫氏が制作したもので富士山に向けて設置されている。今回も富士山は見れず母屋の屋根母屋の茅葺の屋根には松の芽が育ち白のシュウメイギクピンクのシュウメイギク黄色の彼岸花も鮮やかに咲き三色の彼岸花苑内には梅の木等の古木キアゲハが飛び回りしばし飛び回るキアゲハを追いかける10:41ワレモコウ(吾亦紅)バラ科・ワレモコウ属の植物。日本列島、朝鮮半島、中国大陸、シベリアなどに分布しており、アラスカでは帰化植物として自生している 三島・箱根の旅-続く
2019.09.28
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三島・箱根の旅、昨夕は小雨であったが二日目はどうにか雨も上がっていた。9/13(金) 7:12温泉は大涌谷から引いており、朝食前に入る秋の紅葉シーズンは最高のロケーションである朝食は7:30からで二階食堂へ、地酒、焼酎、ワイン朝食はおかゆを頂く我が夫婦は洋室に宿泊朝食後、出発前に軽散歩。ポーラ美術館までは坂を登り歩いて5分バス停から急な坂道を登って来る岩の上にコケが生えズームアップ鍋フェアで『癒しの秋』の看板。通常夕食に500円プラスで煮物をお鍋に変更できる。2種類のお鍋から選べる、はりはり鍋 or きのこ鍋。秋の飲み比べ:箱根地酒の飲み比べセット 800円。大人くじ:1回 500円でハズレなし。期間:2019年9月1日~11月末日まで通常夕食の一例9時に保養所を出て、近くにある五百羅漢の長安寺へ小塚山から下り県道57号線へ国道138号線の仙石原交差点を直進して長安寺へ左方向:乙女峠、御殿場 右方向:小田原9:13曹洞宗龍虎山 長安寺所在地:神奈川県足柄下郡箱根町仙石原82長安寺入口に立つ、常夜燈と石柱。車はこの間を通り右側に駐車場がある石柱の下にシュウメイギクの蕾白色のシュウメイギクか?駐車場脇に咲いていた、シュウメイギク。キンポウゲ科アネモネ属。別名、キブネギク・ジャパニーズアネモネ名前にキクが付くが、キクの仲間ではなくアネモネの仲間である。原産地は中国で、多年草オミナエシオミナエシは秋の七草のひとつ手水舎と山門弁天池この亀は作り物ナマズにのった五百羅漢五百羅漢が池に長安寺は古くは姥子にあったが、万治元年(1658)現在地の仙石原に創建された名刹である。山門には「東国花の寺百ヶ寺」の看板本堂前からの山門黄蓮華しょうま、みずひきキレンゲショウマは、アジサイ科キレンゲショウマ属の多年生の植物境内および裏山の林の中には五百羅漢が点在し、小京都のたたずまいが感じられる。新緑、紅葉が美しく「東国花の寺百ヶ寺」としても知られているお寺である五百羅漢とは、仏教の開祖であるブッタに仕えた500人を超える弟子たちのこといろんな表情の五百羅漢長安寺の五百羅漢像は現在も制作が続いているそうです個性豊かな五百羅漢山の斜面に鎮座しいている五百羅漢岩の上にコケシュウカイドウシュウカイドウは、シュウカイドウ科シュウカイドウ属(ベゴニア属)に分類される多年生草本球根植物である。和名は中国名「秋海棠」の音読み淡いピンク色ズームアップイワシャジンキキョウ科ツリガネニンジン属秋に紫色の釣り鐘型の花が、岩場から垂れ下がるように開くさまはとても風情があり、人気の高い山野草の一つですイワシャジンの花が一輪筆塚の石碑岩たばこ黄蓮華しょうまお気持ちをお願いします何を思案しているのかシュウメイギクはこれから満開に他に白色等、いろんな色があるようだキキョウ構えているのか優しい表情の五百羅漢長安寺は、四季折々楽しませてくれる古刹である9:45 このあと、国道138号線を御殿場へ行く。 三島・箱根の旅-続く
2019.09.27
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源兵衛川を上流へ向かって散策後、箱根神社へ向かう。9/12(木) 14:35源兵衛川この辺りは湧水が数ヵ所からあり水量が多い14:36この界隈の案内、方位もあり親切源兵衛川の上流へ向かって木道があるがこの辺りで引返すことに。ユリが一輪咲いていたズームアップ岩場にはベゴニアところどころ飛び石があり年配者には危険!ボランティアの方が流れてきた木の枝を除去していた14:41伊豆箱根鉄道駿豆線三島市内は歩いての散策が中心の為このような案内板がいたるところに立っている14:43源兵衛川 →← 雷井戸(Kaminari-Ido Well)井戸からこんこんと湧き出す透明できれいな水が、ミシマバイカモを左右になびかせる姿を見ることができる。かつてこの井戸は田町水道といわれ、地域住民の飲料水を供給する簡易水道の水源でしたが、現在では市民の有志が井戸の土地を買い上げ、市民の手により大切に管理されている歩道面にもこのようなタイルが14:49県道51号線に戻り「お菓子の雅心苑 三島店」駐車させてもらったお礼に、女性軍が今夜のお菓子を購入していた明日13日(金)は中秋の満月だが、果たしてお月さんは出るか?14:50雅心苑前はバス停で三島駅行バス、三島梅花藻の里を後にして箱根へ向かう14:53国道一号線に戻り箱根方面へ向かうが、箱根の山は雲が厚くなっていた国道一号線の箱根路を登る前方に「錦田一里塚」の案内板15:05工事中の国道一号線15:07左側に、三島スカイウオークを見ながら登る15:20道の駅「箱根峠」所在地:神奈川県足柄下郡箱根町箱根381-22道の駅の脇に「箱根峠の境木」箱根宿のはずれから、向坂・赤石坂・釜石坂・風越坂・挟石坂と呼ばれる坂道を登ると箱根峠に至る。この峠の付近に「伊豆相模両国境」と標示した標示杭が立てられていた。標示杭は、道の反対側にももう一つあって、小田原藩領と三島代官の支配する幕府領との境を示していた。この辺りの地名は、「境木」、往時の様子が偲ばれるまだ紫陽花が咲いていた道の駅から芦ノ湖を望む15:23道の駅で売っていた「バターナッツ・スクワッシュ」。アメリカで人気のカボチャ。なんといってもポタージユに向いており、ソテーやフライにしても美味しいですと。小田原産で800円15:32国道一号線の「箱根町バス停」小雨が降っていた、小学生の遠足か?15:34元箱根の「箱根神社 第一鳥居」ここを直進して、箱根神社へ。外国人観光客が多く歩いていたが、この辺りでも韓国人は減少しているのか15:39箱根神社の駐車場へ到着、お札所。女性軍は石段があるので車の中で待機することに、男性三人で参拝第四鳥居と手水舎石段を登ると第五鳥居箱根神社には、第一から第五までの鳥居がある15:42箱根神社箱根神社拝殿前新装された「九頭龍神社 新宮」九頭龍神社 新宮奥に儀式殿の内玄関、右に拝殿九頭龍神社 新宮前にある、「成就水盤」「龍神水」皆さんペットポトルに水を汲み珈琲を沸かして飲むとか安産杉この大杉は、古代山岳信仰の名残りをとどめる幸運の栄木です。遠い神代の昔、高天原から降臨された皇孫・・・・・・・。箱根神社はこの皇祖三神をおまつりしていますが、この木は古代祭祀の象徴たる栄木として崇めてきたものです15:54箱根神社境内15:57宝物殿前にある獅子箱根七福神池の奥に「弁財天社」と「芦ノ湖のけけら木」芦ノ湖の「けけら木」芦ノ湖の「けけら木」の保存神輿庫内の神輿16:03箱根神社を後にし、仙石原の保養所へ向かう。16:06この先を右折して県道75号線へ登る左側は、芦ノ湖畔 蛸川温泉 龍宮殿、直進すると箱根園16:16桃源台の箱根ロープウェイ乗り場16:21県道75号線を進む仙石原すすき草原16:30保養所へ到着、部屋でビールを飲み夕食前に温泉へ入る。18:05夕食の献立表「早秋の箱根路」メインは肉を依頼。ビール&焼酎(ちょうちょ夫人)を水割りで飲む20:0519時半ごろからカラオケを行い、4曲歌わせていただきましたカラオケを21時頃まで行い部屋へ戻り、今日の反省を行い明日のスケジュールを!今日一日の歩行数は、約7,000歩でした。 三島・箱根の旅-続く
2019.09.26
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伊豆フルーツパークがいっぱいで昼食ができなかったため三島市内へ向かう。9/12(木) 12:44国道一号線を下り三島市内へ12:46国道一号線の三島玉川交差点を右折12:49県道51号線を走りJR三島駅方面へ向かう、前方緑の林は「楽寿園」前回訪問していなかったので駐車場があるレストランを探すが13:00この先を左折してJR三島駅へ来るが駐車場がなく13:09先ほどの県道51号線に戻り古い食堂を探す店先に「お昼のサービスランチ」、各800円店内に入りうなぎかつ丼 1,000円があるが、ロースかつ定食をオーダー 800円ロースかつ定食 \800値段も安く大衆的で美味しかった!13:56食事を終え、県道51号線を歩き三島梅花藻の里へ。店の方から老舗和菓子屋の裏に駐車場があると聞き、近いので私は歩いて進む。伊豆箱根鉄道駿豆線「製氷前踏切」伊豆箱根鉄道駿豆線の修善寺行き電車修善寺方向、この先にすぐに三島田町駅14:00お菓子の雅心苑 三島店所在地:静岡県三島市南本町7-20店内にテーブルがあり購入した和菓子とお茶を店内で食べれる。また夏にはかき氷も美味しいですと。コロッケ饅頭も美味しい。帰りに土産を買うことにし、右奥の駐車場へ入る店の南側に「三島梅花藻の里」三島の宝物・ミシマバイカモ(三島梅花藻)とはかつて三島市内の川のいたる所で見られたミシマバイカモは、昭和30年代の湧水減少とともに三島から姿を消してしまいました。平成8年(1996)、市民が中心となりミシマバイカモを復活させようと隣町の柿田川から譲り受け「三島梅花藻の里」を整備しました。土地は、(財)佐野美術館の湧水池を無償で借りている県道51号線を挟んだ東側に「佐野美術館」佐野美術館の指定文化財三島市名誉市民の故佐野隆一氏は、明治22年(1889)三島市に生まれた。氏は鉄興社をおこし、実業界において成功を収めた。その多忙な中美術への造詣を深め、幅広い美術品を収集した。そして郷土の人達の鑑賞と、創意工夫の心を啓発するため、昭和41年財団法人を設立し、土地・建物・美術品・基金を寄贈して、佐野美術館を開館した残念ながらこの日は木曜日で休館日。創立者の佐野隆一が収集した約2,500点の美術品を収蔵・展示している。庭園内には国の登録有形文化財に指定された隆泉苑がある。隆泉苑は、富士の湧水を取り入れた回遊式の日本庭園で、四季折々の表情を楽しむことができる「三島梅花藻の里」界隈の案内この辺りから湧き水が「三島梅花藻の里」この水は飲めませんと!ミシマバイカモは清流に育つキンポウゲ科の多年草で、楽寿園の小浜池で発見され、ミシマバイカモ(三島梅花藻)と名付けられました梅の花に似た白い花をほぼ1年中咲かせ、手のひら形の「浮き葉」をつけるのが特徴です。バイカモの多くは、高地や寒地で育つので、三島のように温暖な低地で育つのは珍しいことです直径が10mmぐらいと小さい花ズームアップするが緑の環境デザイン賞、国土交通大臣賞 受賞今後もさまざまな緑化プランを実現させ、未来を担う子どもたちに緑豊かな環境を伝えていきたいと願っております富士からの湧水がお菓子の雅心苑 三島店土地は、(財)佐野美術館の湧水池を無償で借りている湧水を噴水で放水三島ではいたるところで富士からの湧水が出ている水車で雰囲気を14:19お菓子の雅心苑 三島店から西へ120mに位置する「水の苑緑地」水の苑緑地 案内図源兵衛川に沿った散歩道が整備されている「水の苑緑地」界隈の案内この水の苑緑地は、源兵衛川中流部にあたり、周辺では高木類が最も多く野鳥類が豊富で自然が多く残っている場所である。苑内には、湧泉が数ヵ所あり、旧来より、中郷地区玉川用水の水源地となっている。整備は、現在の生態系を生かし湧水を活用した水と緑に親しまれる親水公園とした苑面積:約3,200㎡源兵衛川は清流で、カワセミがくるとのことでカメラマンがが待機していた。高木類に囲まれた源兵衛川の上流源兵衛川の下流源兵衛川の清流に鴨が梅花藻の間から餌を水中の中の足を器用に動かして移動していたファミリーなのか鴨が集団で梅花藻の花が水の中に。バイカモは、日当たりが良く冷たい清流でしか育たないので、水質のバロメーターといわれています。ミシマバイカモは常時手入れをしないと枯れてしまうので、現在、ボランティアの協力により地道な作業が進められていますミシマバイカモのかわいい花がいつまでも見られるよう、大切に育てていきましょう。皆様の保護活動へのご理解とご参加をお待ちしておりますと。NPO法人 グランドワーク三島 三島ゆうすい会 遊水匠の会ハグロトンボも飛び神様トンボ(精霊トンボ)、オハグロトンボ 等、いろいろと呼ばれている14:29酔芙蓉も咲きピンクに染まり酔いが回って来たのか14:34川沿いに咲いていた、ジンジャ―の花ショウガ科シュクシャ属和名:花縮砂(ハナシュクシャ)、別名:ジンジャー花言葉:豊かな心、無駄なことこの花を国花とする国は「キューバ」 三島・箱根の旅-続く
2019.09.25
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神奈川県立「生命の星・地球博物館」の続編。9/12(木) 11:22アンモナイトの壁海は生命を生み、はぐくみました。海の中では、強い紫外線やはげしい温度変化から身を守ることができ、しかも、食べ物が豊かです。このような恵まれた環境のもとで生物は栄えることができました。アンモナイトも大繁栄した生物の一種です壁面に大きな「アンモナイトの壁」アンモナイトをズームアップウインタクリヌス・ソキアリスウミユリの仲間で、棘皮植物。古生代から現在まで生息しているグループ。海底に生えたユリのような形をしているところから名づけられた私にはクラゲのような「ウインタクリヌス・ソキアリス」大きさが1メートル以上もある「シイラ」リュウグウノツカイこの標本は長さが5メートルぐらいもあり、1990年7月17日に小田原市御幸の浜に漂着したもの地球生命の営みを展示している身体の割には小さな恐竜の頭部恐竜の胴体部分哺乳類の剥製トドのオス(立っている)、右にトドのメス北海道沿岸からカリファオルニア沿岸に分布しているゴマフアザラシベーリング海、オホーツク海、北海道近海に分布しているセイウチカナダ東部、グリーンランド、ユーラシア北部やアラスカ西部の海岸に分布ゴンフォテリウム(複製)時代:2000万年前、産地:アメリカ合衆国 ネブラスカ州アメリカマストドン(複製)時代:1万1000年前、産地:アメリカ合衆国 オハイオ州アケボノゾウ(複製)時代:100万年前、産地:兵庫県明石市コロンビアマンモス(複製)時代:1万年前、産地:アメリカ合衆国 ユタ州一階展示場三階展示場へエスカレーターで上がり神奈川の大地と生物を陳列左:アケボノゾウ、中央:ナウマンゾウ、左:ヤベオオツノシカアケボノゾウ(レプリカ)ヤベオオツノシカ(レプリカ)中央の「ナウマンゾウ」ナウマンゾウ(レプリカ)ヘラジカのオス現在まで地球に現れたシカのなかでもっとも大きなシカです。大きいシカでは、肩の高さまでが2.4m、体重は820kgにもなります。メスにはツノがないエントランスにある大きなシロクマエントランスホールの天上ドーム11:45昼も近くなり約一時間の鑑賞で後にする11:51国道一号線を走りこの先を左折して箱根新道へ国道一号線の箱根新道へ11:58この先の橋は「旧東海道箱根石畳」畑宿からの箱根越えの石畳箱根新道の上を旧東海道が越える12:07箱根峠(標高 846m)、静岡県下に入り函南町へ箱根峠から下り、三島まで17km昨年の12月18日(火)に右側の旧東海道をJR三島駅まで一人で歩いた12:13この先を左折すると、日本百名城の「山中城跡」へ600m山中城バイパスを下り下側の山中城跡入口500m12:16正面に人道の吊橋としては日本で一番長い「三島スカイウォーク」箱根越えの三島側の国道一号線は工事中12:18 三島、沼津、駿河湾が見えていたが、今日も富士山は見えず道路脇の旗は、レストランの「釜揚げしらす丼」「かき揚げうどん」12:25左側に目的地の「伊豆フルーツパーク」12:28伊豆フルーツパーク所在地:静岡県三島市塚原新田181-1 tel;055-971-1151営業時間:8:30~18:30 で年中無休当初の予定どうり昼食で立ち寄るが、バスエリアには多くの観光バスが駐車三島市内の散策ルート案内昨年の12月18日(火)と今年1月16日(水)に旧東海道を歩いた散策ルートである源兵衛川(Genbe-Gawa River):ここから車で14分「水の都・三島」のシンボル。「せせらぎ散歩」を満喫、初夏にはホタルが舞う清流で心癒されますと一階には土産物店があり多くの老々男女がにぎわっていた土産物を購入エスカレーターで二階のレストランへ行くが、「本日のお食事はご予約の為 満席 となっております」の立て札が二階レストランは多くのバスツアー客が食事中。1,000人近く入るレストランだが、仕方がなくここでの昼食はあきらて他の場所へ行くことに変更。バスツアーで行く山梨県甲州市の「信玄館」も同様マスクメロンも一個 \1,800 で販売最近はやりの「シャインマスカット」、一房 \1,480と高価。我が家のブドウとは見た目が大だが12:37売店を出ると駐車場には多くの観光バスが止まっていた。日帰りバスツアーのコースに入っているのであろう伊豆フルーツパークは事前に予約すれば、フルーツ狩りもできる。昼食がとれず三島市内へ向かう。 三島・箱根の旅-続く
2019.09.22
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9/12(木)、13(金)と近所の御夫婦と6名で、会社の保養所を利用し一泊二日の温泉旅行を行った。9/12(木) 10:11朝10時に自宅へ迎えに来ていただき、6名乗車して国道134号線を箱根方面へ。今回の運転は車所有のYさんにお願いする10:19渋滞していたので何事かと、白バイが追い越し線に停車トラックと軽自動車の事故か?車内では、川中美幸の曲が流れ、彼女のTALKで盛り上がる昨日購入したCD10:23平塚市へ入り「湘南大橋」へ、この橋の愛称は、トラスコ湘南大橋国道134号線の湘南大橋、天気が悪く富士山は見えず10:27平塚市南部の海岸線を走る、袖ヶ浜大磯 1km、小田原 19km10:29直進して西湘バイパスへ国道134号線は左方向へ、有料道路の西湘バイパスへ進む大磯海岸辺りの高架橋10:33大磯西インタ手前、箱根の山は曇り空だが。一般道路を走るには、ここのインタを出て国道一号線へ大磯ロングビーチのホテルこの辺りの西湘バイパスは、昨年?の台風被害でまだ一車線規制10:38西湘バイパスの橘料金所ここから普通車 \260小田原方面今日は木曜日で道路は空いていた10:42伊豆フルーツパークへ行く前に、前回休館日で入れなかった「神奈川県立の生命の星地球博物館」へ行くことにする10:45右に真鶴半島、左には初島、台風15号の被害があった大島も見えていた小田原厚木道路方面へ向かう右前方の山には、続日本百名城の「石垣山城」が10:47箱根新道方面へ進みこの先を一般道へ国道一号線を進む地球博物館前の交差点を左折10:50地球博物館の駐車場へ、右側を昇ると石垣山城へ10:57神奈川県立「生命の星・地球博物館」所在地:神奈川県小田原市入生田499 tel;0465-21-1515開館時間:9:00~16:30 休館日:月曜日・祝日の翌日観覧料:65歳以上 100円 共通券200円地下の駐車場(無料)から、一階のエントランスホールへ。私は二度目の訪問であるが、館内には小学生が校外活動で訪れていたチケット売り場特別展/共通券(特別展+常設展)のチケットを65歳以上で購入 \2002019年特別展「アオバトのふしぎ」7/20(土) ~ 11/10(日)開催11:03まず特別展へ入る世界のハト左:オウギバト(剥製)、右:ドードー(レプリカ)日本のハト日本ではこれまでに在来種に加え、野外で繁殖が確認されている外来種2種を含む5属12種、神奈川県ではこれらのうち3属5種と、一時的な逸出とみられる1属1種が記録されている。オガサワラカラスバトとリュウキュウカラスバトは絶滅したと考えられているアオバトとは?アオバトの特徴は全長約33cm、上面は暗緑色、頭から胸にかけては若草色、腹からの下面にかけては淡い黄白色で、下尾筒は長く幅広い緑灰色の軸班があります。オスの雨覆はブドウ色でよく目立ちます丹沢から近い海の岩場、照ヶ崎は水飲みにベストな地形照ヶ崎をつくる地層(大磯層)以前、大磯海岸近くのここ照ヶ崎海岸へ鳥撮りで撮影に行ったことがあるアオバトを待ち受ける捕食者平和に見えるアオバトの暮らしですが、自然の中では様々な捕食者がアオバトを待ち受けています。照ヶ崎海岸ではハヤブサによる捕食がこまたんにより観察されている。・・・・・・・・・・アオバトの卵卵は二個産み、こまたんの観察により、孵化するまでの約2週間はオスとメスが交代で卵を温めます。生まれたヒナにはピジョンミルクを与え、ヒナは約2週間で巣立つことがわかっている。大きさは32.5×26.5mm、10.7g4羽の剥製は、左から、キレンジャク、ヒレンジャク、カケス、ヒヨドリキレンジャク(剥製)ヒレンジャク(剥製)11:12アオバトのふしぎ、~ 森のハト、海へ行く ~11:13常設展へ入口に大きないん石「マンドラビラいん石」1911年、オーストラリア西部に広がるナラーバー平原で発見されたもの表面の小さな穴は、鉱物が溶け出したあとで、重さはおよそ2.5トンあります地殻の形成トラバーチンアフリカのジブチには、針のようなトラバーチンの山が無数にあります。ジブチは、大陸が割れはじめるところ(大地溝帯)にあたります。大地溝帯は、火山や熱水の活動がさかんな熱放出の現場であるトラバーチンは、熱水の噴き出すところにできる石灰質の岩石右は、柱状節理火山活動によってできる代表的な景観の一つです。マグマが冷えて固まる時、体積がちぢむため六角柱状の割れ目ができます。このような柱状の規則正しい割れ目を柱状節理といいます柱状節理(玄武岩)孔雀石同心円状の模様は、孔雀石の微細な結晶が成長してできたものですオパール(たんぱく石)溶岩層にケイ酸分をふくむ地下水がしみこんでできたものです11:21コハク岩手県久慈市、リトアニア共和国 バルト海沿岸地域。六月に行った中国大連では石炭の露天掘りからも産出されると 三島・箱根の旅ー続く
2019.09.21
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帰路は時間があるので高速道路は使用せず、カーナビを一般道路優先にセット。8/12(月) 14:58県道38号線から国道162号線「安掛交差点」と合流。ここを右折して京都方面へ国道162号線を一路京都へ向けて走る。途中、嵐山ー高雄パークウエイ。16:00国道162号線から府道187号線(丸太町通り)」京都市内へ入り、右は山陰本線、花園駅付近16:08府道187号線(丸太町通り)堀川丸太町交差点16:11府道187号線(丸太町通り)烏丸丸太町交差点左の緑は、京都御所、見学したかったが16:13河原町丸太町交差点16:15鴨川を越え、府道187号線(丸太町通り)を直進丸太町通りと川端通りの交差点16:18更に丸田町通りを進むと、右方向に岡﨑公園、平安神宮へ、0.7kmの道路標識16:19テントを張り人だかり16:21山科駅近くを通り、府道143号線を大津方面へ左側は、琵琶湖疎水煉瓦工場跡16:22府道143号線大津方面へ進む、大津まで11km。途中、いつの日か歩くであろう旧東海道を走る16:44山科を過ぎると滋賀県へ17:01近江大橋を渡る17:51国道一号線を走る、四日市まで64km国道一号線のバイパス18:13国道一号線、土山町大野四日市まで50km18:19国道一号線、日本橋から442km18:29鈴鹿峠の看板。旧東海道はこの辺りを歩くのであろうか18:33国道一号線、四日市まで33km、名古屋まで77km18:37鈴鹿峠を下り、関宿の西の追分へ関宿周辺案内図慶長6年(1601)に徳川幕府が宿駅の制度を定めた際、宿駅は東海道五十三次で四十七番目の宿場となり、問屋場や陣屋などが整えられました旧東海道関宿 おすいマンホール18:41国道一号線、大津・甲賀方面、「関町 新所」西追分休憩施設がある西の追分関が歴史に登場するのは、7世紀この地に「鈴鹿関」が設けられたのがはじめてで、これが地名の由来ともなっています。ここ西の追分は大和街道との分岐点にあたり、東海道、京都方への次の宿は坂下宿で鈴鹿峠を越えて京都へは19里半(78キロメートル)あります。また大和街道は加太越えをして伊賀から奈良に至りますこの石柱は?18:45道の駅「関宿」19:03鈴鹿フラワーパーク皆さんがよくデジブックで公開される公園四日市、桑名、名古屋は、国道23号線を走り伊良湖方面へ進む。湖西市から国道一号線の浜名バイパスを走り新居宿で見た「浜名大橋」を渡る。途中、もう一泊を考えていたが、台風10号がちかずいているとのことでそのまま帰宅。8/13(火) 2:55無事自宅へ到着した。今回の総走行数は、1,902kmでした。今日一日の走行は、出石城から667kmでした。 広島への旅ーEND
2019.09.13
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続日本100名城の福知山城、黒井城でスタンプを捺印後、帰郷前に来たかった「美山かやぶきの里」をカーナビでセットしてハンドルを切った。ここは、以前からデジブック仲間の方が公開されていて一度は来たかった場所。場所は、京都府中部に位置する南丹市にある美山かやぶきの里8/12(月) 13:58カーブを曲がると昔話の世界が広がる「美山かやぶきの里」。所在地:京都府南丹市美山町北県道38号線沿いに無料駐車場があったが、満車でしばらく待ち駐車。外の気温は30数度と暑かった県道38号線沿いにある「かやぶきの里」県道沿いを美山川(由良川)が流れアユが有名。民宿 またべ(かやぶき民宿・食事)(又兵衛)、カフェもある重要伝統的建造物群保存地区保存地区内の民家の約四割は、江戸時代に建築されたものであり、この伝統的な様式は、萱葺屋根で入母屋造、周囲に下屋を巡らし、棟をほぼ東西に揃えており(川の流れの方向)、棟飾りの千木や破風の意匠にも特徴がある。このほかに、伝統的な様式をもつ納屋、土蔵、社寺建築等と屋敷構えの重要な要素となる石垣、石造物等を伝統的建造物又は環境物件として保存をはかっている保存地区には建築物が六十八棟あり、内、茅葺主屋が三十棟ある真新しい「曹洞宗 異月山 普明禅寺」の石柱昔懐かしい赤いポスト緩い坂を上り、かやぶきの集落へ世界遺産の「白川郷・五箇山の合掌造り集落」とは違う集落お地蔵さんと鯖街道向日葵がきれいに咲きかやぶき屋根に草が生えていたが、どの段階で葺き替えになるのか軒先には古い農機具を陳列みやま おすいマンホールデザインは、アユ?民家萱を葺き替えていたが、費用は?曹洞宗 異月山 普明禅寺から集落を望む異月山普明寺由緒建立の時期は不明であるが、大原良忍の開基と伝えられている。天台宗から臨済宗に変わるのは、この地一帯の荘園を1300年前後に、光厳天皇が天竜寺寄進してから曹洞宗 異月山 普明禅寺普明禅寺境内から、県道38号線沿いの土産物店県道38号線沿いの駐車場と美山川(由良川)の下流方向雪割りと千木(ちぎ)雪割りと千木をズームアップ北山型の特徴フウセンカズラか?夜はイノシシ、シカが出るのか畑には防護柵暑いので観光客は小川に足を入れて涼んでいた。集落を横切るこの水路は、防火用としても年中通じて大切な用水であると向日葵がきれいに咲いてお地蔵さん傾いているのではありません、撮影がまずかったお地蔵さんと、かやぶきの里地蔵前の通りは「鯖街道」暑い中多くの観光客が訪れていた消火用の散水栓かやぶきの里 一斉放水開催日:2019年5月20日、12月2日 開催時間:13:30 ~重要伝統的建造物群保存地区のかやぶきの里「北」では、毎年春と秋に地域住民の火災予防講習と放水銃の一斉点検を行っているこの光景を見るために大勢の観光客が農道に(空撮)冬の雪の花火以上3枚の写真はネットから。春夏秋冬と四季折々の光景を見せてくれる里で、カメラマンに人気14:37約一時間の散策で「美山かやぶきの里」を後にする今回の帰省での目的地を巡り終え、台風10号が来ているので一路自宅へ。 広島からの帰路ー続く
2019.09.12
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