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この季節、落葉広葉樹の木に、ひときわ目立つ茂みを見つけることがあります。「ヤドリギ(寄生木)」です。一緒の枝から生えていますが、寄生される木(寄主)とは別の種なので、寄主が葉を落としても、ヤドリギだけは、独自の枝で茂っています。寄主の枝に、くさび形の根を張り、水分と養分をもらいます。また、木の高いところに茂っているので、太陽からの光も存分に浴びることができます。この植物、どのようにして高い木の枝に、根を下ろして寄生できるのか、不思議に思われるでしょ?種がタンポポのように風に飛んでいくわけでもなく、ましてや地面に実が落ちてしまうと、高い枝には登れないし・・・ここで、繁殖のために、助けを請う相手がいます。「鳥」です。ヤドリギは鳥たちに、自分の種をおいしい果肉で包んだ実を用意します。鳥たちは、われ先にと熟した実をついばみます。普通、鳥はのべつまくなしに、どこへでもフンをしますが、ヤドリギもここはちゃーんと考えていますね。種を包んだ果肉は、粘り気が強く、鳥がフンをしても簡単には落ちません。困った鳥は、粘り気のある自分のフンを、木の枝になすりつけて取ろうとします。そのなすりつけられた木の枝に、ヤドリギの種がしっかりとまとわりつき、徐々にくさび型の根を張るのです。繁殖方法から、生きていくまでの知恵は、半端ではありませんね。何から何まで、他者のお世話になる存在ですが、寄主以上に大きくなったり、たくさんの株をつけようとはしません。寄生植物といえど、寄主に対する寄生の「ほどほどな加減」というものを、わきまえているのかもしれませんね。たくましく生きる「木の上の知恵者」は、雑木林や公園、街路樹が生えている場所に、今なら簡単に見つけられるでしょう。
January 16, 2006
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こんなに寒い日には、甘酒にしょうが汁を少したらして、フーフー言いながら飲むのは、最高においしいものですね。ここで一句・・・ 「寒い夜の 身を暖めし 甘酒や」う~ん、我ながら上出来上出来...でもこの俳句、何かがおかしいと思いませんか? (これが分かったらスゴイ!)...実は、俳句の世界では「甘酒」の季語は「夏」なのです。その昔、クーラーや扇風機、冷蔵庫の類が全くなかった頃の夏は、人々にとっては、過酷な季節で、脱水症状や熱中症で農作業中の人、または体力のないお年寄りや子供たちの中に、命を落とす人も多くいたそうです。酒を作る際に副産物としてできる酒かすは、米を麹菌が分解した栄養価の高い食品です。米のでんぷん質をえさとして活動する麹菌が出すビタミンや必須アミノ酸は、体にとって欠かすことのできない重要な栄養源でした。納豆でも同じことが言えますよね。そのまま大豆をゆがいて食べるよりも、納豆菌によって発酵がなされたほうが、より栄養素が多く含まれていて、栄養価が高くなっているという事実もあります。甘酒は今で言う「滋養強壮剤」のようなものだったらしく、たくさんの人の命を救う結果にもなりました。その頃から今に至るまで、俳句の世界では「甘酒」の季語は、冬ではなく「夏」なのです。
January 15, 2006
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ポストから取り出した新聞の広告欄にふと、目が留まりました。 「すべての過労は、倒れるまで ただの疲労でした」あっちゃ~、まさに今の自分を言い当てられたような感じです。実は、この4日間、過労で倒れて寝込んでおりました。昨年11月末から今まで、ちと思うところがあり、朝早くから夜遅くまで働き、ほとんど休みなしで働いておりました。睡眠時間も平均4時間、正月もそれほど休める状況にはなく、心身ともにいっぱいいっぱいの状態だったんですね。倒れて(というか動けなくなって)床に臥せって1日目は、寝床から手が届く場所にあるミカンを5~6コ食べて、一日をしのぎました。これじゃあ、干からびてしまうな、と思い2日目からは、何とか重い体を動かせて食事らしい食事を摂ることができました。一日ゆっくりと寝たら回復すると思っていたのですが、なかなか熱が引きません。せきやくしゃみもなく、鼻が詰まることもないので、まさに過労が原因でしょうね。こんなときは、ひたすら体を休めることに専念しないと、と思い一日24時間のうち23時間くらいは寝床に臥せっていたでしょうか。ま、これも神様がくれた休養時間だと思って、ありがたく休ませていただきました。あんまり無理をしちゃあ、いけませんね。みなさんも、あまり無理をしないように、お気を付け下さいよ。 ...あまり、説得力がない言葉ですね、ハハハ・・・ 追伸: 体調不良のため、更新できなかったこのブログも、1月10日分からまとめて 書き加えています。
January 14, 2006
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以前、大阪で会社を経営していたとき、筋向いに新しくカレー屋さんがオープンしました。経営者はインドの人で、小さな店舗には7~8人入ればいっぱいになるくらいのスペースです。大通りから見通しの良くない場所だったので、最初、それほど人は入らなかったのですが、お昼のランチに、手ごろな価格で提供したためか、お昼だけは近所のサラリーマンやOLで盛況でした。夜になると、ほとんど人通りが途絶えるので、いつも店主は暇を持て余していました。こちらとしては、ちょうどお腹がすいたときに、近くなので、ちょくちょく足を運んでは、彼の作ってくれるカレーを食べるようになり、そうしているうちに仲良くなり、カレーについても、いろいろなことを教えてもらう機会を得ました。ま、彼のカレーにヤミツキになったことも、ちょくちょく通う理由にもなりましたけど・・・「ちょうど今からカレーのルーを作るところだから、どんなものが入っているか見せてあげる」たくさんの香辛料が入ったボールの中を見せてもらうと、見たこともない、いろんな種類のものがブレンドされています。インドの彼の出身地で食べられている地方のカレーを、20種類以上の香辛料を使い、独自の配合比率で混ぜ合わせ、作っているのだそうです。「カレーというのはね、見ての通り、いろんな種類のスパイスを使ってるでしょ?これらみんな、インドの伝統医学アーユルベーダで用いられているものばかりなんだよ」と彼は説明してくれます。中国でいう「医食同源」の思想、つまりカレー自体主食であり、薬でもあるというのです。事実、風邪を引いたときなどに、このカレーを食べると、なぜかしら回復が早いのです。彼が言うことも、納得がいきます。体調が優れないときなど、カレーがなかなか効きますぞ。是非、お試しアレ!
January 13, 2006
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毎晩自宅の最寄の駅に着いたら、必ず寄る場所があります。それは「神社」です。特に信仰している宗教というものは、ないのですが、昼間の「動」の環境から、心身ともに落ち着かせる「静」の環境への切り替え場所、のように思っている所です。クールダウンする場所、とでも言えましょうか。うっすらと氷が張っている手水舎で手を洗い、口をすすぎ、神社の本殿前で賽銭を入れ、二礼二拍手して祈りをささげます。神様にお願いをするというより、自分自身に向きあう時間を持つ、といったほうが、正しいかもしれません。一礼を終えた後には、気持ちもリラックスして、昼間の出来事や通勤電車での喧騒をまったく忘れてしまいます。神社でなくても、家で寝る前に、身も心もクールダウンさせ、リラックスするために、瞑想をする人もいます。人それぞれのやり方がありますが、メリハリのついた一日を送ることが、また明日への活力ともなるし、ストレスを持ち続けない点で、心身の健康が保てますよ。
January 12, 2006
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本当に寒い日が続きますね。先日購入した目覚まし時計に、室温が計測できる機能がついていたので、温度を計ってみたら、5.1度でした。ほぼ、冷蔵庫の野菜室なみです、これは寒いわけだ。この寒さを北海道出身の同僚に言わせると、「暖かいほうですよ、だって氷点下ではないでしょ?」ハイ、そうです、氷点下ではありませんネ、スミマセン...その人は一度、マイナス18度という気温を経験したそうで、息をしたら、肺が凍結しそうで「痛い」のだそうですよ。ああ、本州に住んでいる者には、想像もできない世界です。朝の寒さは、身にこたえますけど、毎朝食べるバナナの日持ちがいいのも、この季節ならではの良さかな、とも思います。夏場だと、2~3日ですぐに傷んでしまうバナナも、1週間経ったあとでも、そのままの鮮度が保たれて、少しも痛んでいません。果物を専門的に扱っている「町の果物屋さん」といわれる店で、いつもおいしいバナナを売っているところがある、と聞いたことがあります。バナナ自体は、熱帯の国から輸入されるとき、病害虫が国内に入ってこないように、まだ青いものが入荷されます。日本の倉庫で時間を置き、黄色く熟した時点で店先に並びます。バナナについてよく熟知した果物屋さんは、この熟する時間と温度の関係を良く知っており、バナナにとって最適な時間と温度を調整しながら、地下室などの冷暗所で、その時を待ちます。バナナが「もうそろそろ一番おいしい頃だよ~」と店主に声をかけるのかどうかは知りませんが、その判断で店先に並ぶので、同じ時期に輸入されたものでも、味の違いが格段にあらわれるといいます。スーパーで買うのもいいですが、たまには町の果物屋さんでも買ってみましょう。「お、いつものよりおいしいね~」と思われるかもしれません。
January 11, 2006
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このブログを書くときに、今日はどんな記事を書こうか、いつも直前まで呻吟しています。書きたいテーマが決まると、あとはすらすらと書けるので、テーマをいくつか決めておいて、書く段階でどれかをチョイスして書けば、時間もかからず、あっという間に更新ができると思っていました。「そのためには、テーマを箇条書きにしてためておくこと」これに専念した時期がありました。部屋にホワイトボードを貼り付けて、思いついたテーマを書き連ねます。歩いている最中に思いついたら、ケータイメールで、自宅のパソコンへ送ります。電車の中だと、ポケットに忍ばせてあるミニノートとボールペンで書き留めます。これだけたくさんテーマがあれば、数日間はあっという間に更新できるぞ、と思っていました。しかし、これがうまくいかないんですねぇ~。そのテーマは、その思いついたときに「旬」であって、いざ書こうとしたときには、もう書きたいものではなくなっているのです。仕方なく、またパソコンに向かって、うんうん呻吟しながら書くことになります。旬なテーマ(= 今、何を考えているか、思っているか)しか、書けないんです。こだわりすぎでしょうかねぇ?
January 10, 2006
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最近、とみに変わりつつあるもののひとつとして、「人の心」と感じています。ひと昔前は、社会自体が「モノ」を追いかけて、その生産効率を上げるために、会社は、やり方を統一し、その方法に人を合わせていました。上意下達、そのための人身掌握術として、アメとムチを使い分け、全員が一丸となって働いてきました。その「報い」となるもの(経済力、マイホーム、豊かな老後など、)が将来約束されていた(と思っていた)時には、機能したことが、今では、この先どうなるか予測がほとんどできない状況下で、誰かが決めた目標など、消えうせてしまいました。今ようやく、自分自身が大事なんだなと思い返して、その人独自に指針を持ち、歩み始めた人が、たくさん出てきています。「恐怖」で動かされるよりも「自発的」に動き、生きる目的を、他人に示してもらうよりも、自分の本質に尋ね、「モノ」より「心」をより大事に扱う、そんなことが当たり前のように、思えるようになってきました。一人一人の心の中のパラダイム(その時代に「常識」として考えられている基準)が、明らかに変わってきたのです。追伸またいくつか例を挙げて、今後もこの件に関することを、書いていこうと思っています。
January 9, 2006
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昨日「一日」の繰り返しである、今日「一日」にしないために、何ができるかなと考えてみました。こまめに気付いたことを「メモ」することかなと思い、朝起きて、自分をほめる所、気付いたこと、ちょっと気になったことなどを、電車に乗るまでにポケットに忍ばせていたメモに書いてみました。 ・ むちゃくちゃ眠たかったけれど、「楽天ブログ」を書いた。 ・ 朝、公園を通った時に、いつもより多くの、そして見慣れない鳥がいた。 ・ 近くで見たときの「カラスの羽」って、きれいなものだなぁ。 ・ 通りかかったお寺の庭がきれいで、凛とした雰囲気があり、1分ほど眺めた。 ・ 着物姿の女の人がプラットホームにいて、見とれた。 ・ 入線してきた電車にのドアが開いたとき、この着物の女性の知り合いが偶然出てきた。 ・ 「えー!どこ行くの?」と同時に2人が声をあわせて尋ねた。 ・ 横に立ったおじさんが広げた新聞に、いい言葉が並んでいたのを見つけた。こんなことを、朝、電車の中で書いていました。今、夜にこのような事を読み返してみると、本当~にくだらないことを書いたなぁと思ってしまいますね、ハハハハハ・・・。でも、こんな風にちょっとしたことを書くだけでも、「昨日一日」と違う「今日」になりました。毎日同じの「一日」とはちがう「今日一日」のために、みなさんは何をされていますか?
January 8, 2006
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実は私、生まれつきくせ毛で、両親も同じくくせ毛です。その関係もあって、まつ毛も軽くカールしています。面白いことに、隣り合わせて座った人や、近くによって話をした人から「まつ毛がカールしているんですね!」と必ず指摘されます。もちろん100%女性からです、男性からは一人として指摘されたことはありません。面白いものですね。普段からカールする機器を持っていて、まつ毛を手入れしている人には、すぐにわかるということです。男でそんな人はいません、だから気がつかないのです。これは一種の「カクテルパーティー効果」と言えます。パーティー会場では、たくさんの人が集まり、思い思いに近くの人と話をするので、ガヤガヤした雰囲気になります。当然、一人一人の話は聞こえません。数メートル離れた人が、仮に自分の名前を出して話をしていたら、その話だけが聞こえたりすることはありませんか?自分の関心のある言葉や話が出たときに、その言葉や話だけが聞こえたりするのが、「カクテルパーティー効果」です。新聞などを見ても、自分の関心のある記事は、サッと見つけられたり、百貨店の売り場などで、探していた洋服がパッと見つかったりするのも、自分が普段から関心を持っていて、その情報のアンテナを張っているからです。これは、意識的に利用したりすることもできます。普段からこんなものが好きだとか、こんなものに興味を持っているというものを、絶えず意識しておくと、たやすくその情報を、いろいろな所で発見できたりします。
January 7, 2006
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大阪から東京に帰ると、少々戸惑うことがあります。言葉? 食べ物? 風呂の熱さ? ハイ、そんなものもありますが、まず違うのは、エスカレータの乗り方です。東京では左に立ち止まる人が寄って、歩いて昇る人のために右を空けます。大阪ではその反対ですよね。以前、大阪にユニバーサルスタジオジャパンがオープンしたとき、JRの中継駅や最寄の駅で、少々混雑があったと聞いたことがあります。東京から来たお客さんが、左側に立ち止まり、大阪のお客さんは右に立ち止まるので、どちらもふさがり、歩いて昇る人が立ち往生する事態が発生したそうです。そもそも、エスカレーターを歩いて昇ること自体が、せっかちな人だなと思いますけどね...(...という私は関西人ですので、必ず歩いて昇りますが・・・)その昔、江戸は武士の町、刀を左に挿しているので左側を歩き、上方は商人の町、「時は金なり」とばかりに商いに励んだので、その頃の風習が今に残ったのかもしれませんね。(勝手な推論ですけれど・・・)ちなみに世界の趨勢(すうせい)を見てみると、大阪式(右に乗って、左を空ける)方が、多いそうですよ。
January 6, 2006
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ある日の早朝、ふと東の空に昇る朝日と、欠けた月を見て、心底驚きました。その日は、栃木県のとあるビジネスホテルに泊まっていて、朝も暗いうちから起きだして、朝一番の新幹線で、東京に向かいました。やがて空が白みだし、左手に見える東の空から、濃いオレンジ色の光がさしたかと思うと、山の端から明るく黄色に輝く、太陽が顔をのぞかせました。その近くの同じ東の空(太陽から30度くらいの角度)に、欠けた月が見えました。感覚からすると、太陽が山の端から昇っているから、太陽に照らされた月が半月に見えるように思うのですが、ほとんどが欠けた薄っぺらな月(月齢1か2)なのです。つまり、ほとんど月の影の部分しかみえない。それは、どんなに太陽が、月や地球から遠く離れたところにあるか、ということを示しているのです、それに気がついて驚いたのです。一秒間に30万キロメートル進む光だと、月の光は1秒強くらいで届きます。ところが、太陽からの光は8分20秒もかかるのです。太陽と月の大きさがほぼ同じに見えるのに、これだけの距離があると分かると、太陽がどれだけ大きな天体か、ということが想像できると思います。ちょっとした発見なんですけれど、ホント驚いてしまいました。東の空に月が見えるとき、早朝、起き出して日の出と共にご覧頂くと、「ホーッ!」という声が、自然と発せられますよ。「夕日と西に見える月」という組み合わせでも、OKですね。
January 5, 2006
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もうお正月気分も、とうの昔に消えてしまったか、まだ余韻が残っていらっしゃるか。皆さんは、如何でしょうか。公務員の方や一部の企業では、もう4日から仕事が始まっているのですね。24時間営業の店、その他サービス業で従事しておられる方は、年始が一番いそがしく、家でお正月気分なんて味わえなかったことでしょう。最近は、正月元旦から営業している百貨店・スーバーが増えてきており、お正月の静かな雰囲気がなくなってきていますね。昔はよく「この季節、風邪なんかひいたらあかんよ、お医者さんも休みやから」と言われたものです。スーパー・売店は1月4日くらいまで、お医者さんなどは5日くらいまで正月休みというのがザラでしたからね。中には、10日くらいまで休みというところもあったと記憶していますが...お正月のために、年末はいろいろ買い込んでおかないといけないと、たくさんのおせち料理の具や、その他いろいろものを買ってきては、冷蔵庫にいっぱい詰め込み、収納に乾物などの食品が、これでもかというほど入っていましたね。その気分の余韻が残っているからか、まだお正月用の食品がこの時期になっても食べきれずに残っています。ま、10日くらいまでには消費できるでしょうか。今年、「お正月用食品」によるお正月気分は、いつ頃まで続きそうでしょうか?
January 4, 2006
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お正月3日は毎年、母が使っているパソコンのメンテナンス日です。機械類に弱い母に代わり、そのまま更新されていないインターネットのセキュリティーチェック&更新や、周辺機器の購入に付き合ったりします。今年は、メールができるケータイが欲しいということで、買いに出かけました。今まではPHSを使っていたのですが、操作性がよくなく、使いづらいものでした。今のケータイは簡単機能がついているので、操作がしやすいということです。...が、やっぱり難しいですね。確かに少ないボタンで、いろいろな機能を使えるようにするため、あれを押し、これを押しということで、かえって混乱してしまうようです。 「おっ、それ買ったの?」 「そうなんだよ、娘が持て持てって言うからねぇ~」 「簡単そうじゃない!」 「簡単なんだよ~!」とCMでやっている表示画面なしのケータイは、「あれはむっちゃ年寄りが使うもんや」とそっけなく、ちゃんと一通りの機能がついていて、大画面&大きな文字で表示されるものを購入しました。(ちなみに、近視なので、老眼がまだ出ていないようです)しっかし、パソコンのときもそうでしたが、それからが質問の嵐です。ま、仕方がないとはいえ、毎度毎度同じ事を聞かれるのも、気がめいってしまいます。「しゃーないやん、覚えられへんねんもん!」ま、確かに、、、ねぇ・・・こうして、母のケータイとの格闘は、深夜まで続くのでした。
January 3, 2006
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「バービー」というアメリカの人形を知ってますか?日本で言うと、「リカちゃん」ですけど...この季節、毎年恒例となっている行事として、元旦の昼から翌日の昼まで、重度の身体障害を持った友人の、生活介護(泊まり介護)があります。その友人とは、学生時代からの長い付きあいです。毎年お正月は、介護者の大学生やセンター職員が里帰りするため、人がおらず、急遽呼び出されたのが縁で、そのまま何年も(10年以上かな?)正月介護に入っています。今年も、例年通り行ってきました。彼は、グループホームというところで共同生活をしており、3階建てのホームに3人の方が入居されていて、24時間体制で、誰かが介護に入る体制になっています。近くにも別のグループホームがあるので、年始のあいさつ回りに一緒に行きました。ここのところ寒い日が続いていたので、なかなか外に出られず、家の中に閉じこもりきりになっていた人もおり、突然の訪問に喜んでおられました。(夏ごろに、このブログで書いた「障害者との交流キャンプ」の参加者です)話が海外旅行という話題になったとき、ハワイに行ったときのお土産の人形を、家に飾ってあるというので、見せてもらうことにしました。それが、バービーのお友達「ベッキー」です。そのベッキーは、車椅子に乗っています。設定では、バービーと同級生で、学校での行事などの写真を撮る係として、学園内で活躍している女の子です。おおよそこんなところが、ハンディキャップを持った人を受け入れようとするアメリカでのひとつの考え方で、子供の玩具にも取り入れていこうとする姿勢ですね。(アメリカ社会にも、様々な差別はあろうけど、、、です)日本のリカちゃんのお友達に、障害者という設定での登場人物を見たことがないですね。多民族国家であることも配慮されており、黒人のお友達もいるそうですよ。正月元旦に「へぇ~」と思った、小さな発見でした。
January 2, 2006
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新年明けましておめでとうございます。年末から大阪の実家へ帰っており、穏やかな天気でお正月の元旦を迎えました。大阪で一人で住んでいたころ、年末年始は、四国の高知県にあるお寺のユースホステルで過ごすのが、通年の年中行事でした。大晦日は除夜の鐘を撞き、一年の煩悩を払い(それでも煩悩だらけでしたが^_^;)元旦の朝には、早朝から寒い本堂で、宿泊した人たちが気軽に参加できる、住職主宰の「座ろう会」で座禅を組みました。凛とした雰囲気に、吐く白い息、寒さも忘れて、澄み切った静寂の時間を過ごしたことを覚えています。「座ろう会」が終わると、住職さんがお話をしてくださいます。住職曰く、この正月元旦には、ぜひ願を掛けていただきたいと。一年の決意でもいいし、こうなりたい、こんなことがしたいと、一年の始まりに、祈りとともに、自分に言い聞かせると、きっとその願いはかないますから、とおっしゃいました。このお話を聞いて、願を掛けたら本当にかなった年がありました。その年、英語がしゃべることができますように、と願を掛けたら、その年の春に海外からグループ企業の研修生がきて、一年間、彼らの生活面でのお世話係りに任命されるということがあり、たどたどしくも日常会話くらいなら話せるようになりました。ぜひ、年初に当たって、こうなりたい、こんなことがしてみたいなど、願を掛けられて、その願いが今年、かないますように。今年もどうぞ、宜しくお付き合いをいただけますよう、お願いいたします。
January 1, 2006
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長いようで短かった2005年も、終わりを迎えようとしています。今、改めてこのブログをごらんいただいていた方に、飽きもせず(少々飽きました?)訪問いただきましたこと、嬉しく思っており、感謝しております。皆さんにとって、2005年はどんな年でしたか?新聞やテレビなどでは、この一年を振り返ってという特集が、多く組まれていたと思いますが、できるだけ暗いニュースには気持ちの焦点を当てず、来たる年に向けて、いいことがいっぱい起こった一年だった、と思える年であってほしいと思います。また、来たるべき2006年も、2005年に起こったいいこと、楽しいこと、嬉しいことが、何倍にも膨れ上がって、皆さんのもとに届きますように。年の終わりに際して、私からの感謝と、皆さんにはよき年が訪れるように、祈りを込めて...
December 31, 2005
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大阪への帰省は、新幹線を使いました。年内はチケットをとりにいく暇もなく、その日の「のぞみ号」にのぞみを託し、自由席に乗り込むことにしたのです。「のぞみ号」が大幅に増便され、自由席もできたということで、便利になったなぁと思っていたら、16量編成のうち、自由席は3両だけ。しかも、禁煙席(私はたばこを吸わないので)は1号車と2号車の2両のみ。自由席の乗車位置に並ぶ人は、長蛇の列をなしています。「これは、ひょっとして東京から新大阪まで座れないかもしれない」という一抹の不安がよぎりました。もうあきらめて、乗り込むしかありません。どよどよと乗り込んだ末に、ちょうど一席だけ空いていました。「ああ、なんてついているんだろう!」自分の運の良さに、うれしくなり、神様仏様に感謝の言葉を言わずには居れませんでした。「ありがとうございます、一席残しておいてくださって!」こうして、ラッキーでハッピーな気分のうちに、新大阪までたどり着くことができたのでした。新大阪駅の構内売店では、いつも京都のお土産が売っているところがあります。そこで、「新製品、新発売!」と売り子さんが、声を大にして紹介しているコーナーがありました。八ッ橋の「黒ゴマバージョン」でした。黒ゴマと食用の墨が練りこんであるものとか・・・買いそびれてしまったのですが、今度機会があれば買ってみようと思っています。もう、食された方はいますか?お味はいかがなものでしょう?
December 30, 2005
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今年は、早々に納会が終わって、一足早く休みに入った企業も多くあったと聞きました。長い連休を利用して、海外旅行へすでに飛行機で出発した人たちも、少なからずおられるようですね。大体の会社では、29日が最終日で、お昼までに仕事を終え、後はシャンシャンシャンと終わるところがほとんどではないでしょうか。また数日後には、同じメンバーが集まっていつものように仕事をするのに、なぜか何もかもが終わって、「いや~、本当にご苦労サンでした!」と意気込む方がおられるのは、ちゃんとその一年、仕事をやり遂げたという思いが強い人だからでしょうか。会社の年度末とは関係なく、この一年、自分はどんな働きをしてきたのかを、見直せる日でもあるのかもしれませんね。家に帰って家族とともに一年を振り返る人、そのまま同僚たちと赤提灯へ直行して、がんばった自分にご褒美をあげ、そして友人たちと楽しいひと時を過ごして、一年のストレス発散をされる人、いろんな人が、街をいい顔をして歩いています。この頃の、年末のあわただしさと仕事が終わった後のほっとした気持ちが、入り混じった空気が流れる街の雰囲気は、いいものですね。
December 29, 2005
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ちと疲れてきたなぁと思ったときのために、いつもチョコレートを常備しています。特に、脳に栄養が行き届かなくて、スムーズに話ができなくなってきたぞ、と思ったときには、すぐに2~3個、口の中にほうり込みます。あの甘さと香りがなんともいえず、つい顔を思わずほころばせてしまいますね。最近は「機能チョコ」なるものもお目見えして、お店で売り出されています。そのひとつに、「ギャバ」の含有率の高いチョコレートがあります。「ギャバ」というのは、「ガンマ-アミノ酪酸」の英語表示の頭文字をとったもので、主に、神経伝達系の物質として、体内では使用されているそうです。この物質の摂取が少ないと、イライラしたり、不安感にさいなまれたりするそうで、充分に摂っていると、気持ちも安定するようですよ。特に多く含まれる食品として、「発芽玄米」があるそうで、白米はもちろん、胚芽米や玄米よりも、多く含まれているそうです。米が発芽する時に、大量に作られる物質だそうで、玄米を30度くらいのお湯に漬けて24時間くらいたったときに、0.5~1.0mmくらい芽が伸びた頃が、ちょうど良いそうなのですが、なかなかタイミングが難しいですよね。「発芽玄米」は市販されているものも出回っているそうなので、それを買って利用するのが一番いいかもしれませんね。私は、「機能チョコ」で摂取していますので、「チョコ」っとではなく、ギャバッと摂れていますよ。・・・またまた、おあとがよろしいようで... チャカ チャンリン チャンリン チャンリン . . .
December 28, 2005
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仕事で栃木県は宇都宮に宿泊しました。ご存知でしょうか、日本で一番「ぎょうざ」の消費量が、日本一という市だというのを。駅を降りたらいきなり、駅の食堂街で「ぎょうざ通り」があり、その場所だけでいろいろな店のぎょうざが、食べられるようになっています。市内でも、有名店が何店舗かあり、それぞれにオリジナルぎょうざを提供しており、お客さんはぎょうざの食べ歩きができるとあって、駅前でぎょうざの協同組合(?)なるところが発行している「ぎょうざ食べ歩きマップ」で、食べあるく人も少なからずいます。私も、時間があったので、いろいろ食べ比べをしてみました。変り種は、パン粉をまぶして揚げた「フライぎょうざ」。これは、特性のソースをつけながら、マヨネーズが好きな人(マヨラー)はマヨネーズをたっぷりかけて、食べます。これは、なかなかいける味でしたよ。小籠包(ショウロンポウ)のように、ジュワッと肉汁が出てくるものもあり、なかなかぎょうざ店周りも楽しいものです。もしも宇都宮に行かれる機会があれば、市内を回ってみられると良いですよ。美味しいお店は、口コミで伝わってくるので、ぜひお立ち寄りを・・・
December 27, 2005
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今、「まったく狂わない時計」が、簡単に手に入れることができますね。いつも使っている目覚まし時計が、電池を換えてもとうとう動かなくなったので、買い換えることにしました。電器店の時計売り場で、いろいろ探してみると、今はいろんな機能がついたものが売っていますね。腕時計では、太陽電池内臓で光に当てるだけで動くもの、充電式のものもあり、腕時計が懐中電灯のようになって、暗闇を照らすもの、本当にさまざまです。私が気に入って購入したのは、「電波時計」です。セシウム原子時計という、10万年に1秒しか狂わない時計で計測された時報を九州と福島にある標準電波送信所から電波で発信され、それを受信できる時計です。この時計は、随時受信して時刻を修正するので、ほぼ間違いなく1秒単位の正確さで時間が表示されます。次回、時刻を修正するときは、10万年後ですからね。(って、その時まで生きているかい!って?)
December 26, 2005
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押入れの中と、精神状態は密接な関係にある。そんな話を、つい先日聞きました。部屋の中が片付いていないと、それらを見えないところへ押し込んでしまおうとするそんな何気ない無意識の考えが、如実に心の状態を示すそうです。何か表現したい、何かこんなことをやってみたいという願望を、分かっていても気付かなかったことにして、無理やり閉じ込めてしまう、その状態が似ているのだそうな。精神的な健康を保つには、どんな小さなことでも「これはやってみたい」と思ったことを、自分で規制してしまうことなく、存分にさせてあげることです。他人の目を気にすることはありませんよ。大切な自分の人生は、他人が生きることはできないですからね。100%責任を持って生きられるのは、自分の人生だけです。ちょっと恥ずかしいな、と思うようなことでも、この際思い切ってやっちゃいましょう。内なる自分が求めるものを満たしてやると、すっと気持ちが晴れて行きますよ。年末の大掃除、まずは、押入れの整理からですかね...
December 25, 2005
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「クリスマス」の季節、この独特の雰囲気っていいですね。2000年もの前のこと、イエス・キリストが生誕された聖なる夜、末世で人々はまったく希望の見えない暗い世の中に生きている。そこに一筋の光明が差し、救世主が現れるという予兆がふっと感じられる、とても静かな夜。そんなイメージを頭の中に思い描くと、なんだかこの一日だけでも、心を穏やかに過ごしたいし、当時の世に生きた人々が感じた、明るい未来への心の中の小さなともし火を、今に生きる自分たちも、一緒に感じたいという気がしてきます。その救世主をたたえる歌「賛美歌」というのも、いいですね。皆で協調して賛美する歌を歌うという点では、キリスト教もいいなぁ、と思いますね。 (実際、私はクリスチャンとして、洗礼を受けたわけではないのですが・・・)キリスト教の人も、そうでない人も、ご自分の宗教観や独自の価値観の壁を取りはらって、この日は、皆さん一緒にイエス・キリストの生誕をお祝いしましょう。12月25日、凛と澄んだ空気が支配する冬の「聖なる夜」、外は本当に寒いのですが、 なんだか優しい、暖かい気持ちになれるような気がしますね。
December 24, 2005
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クリスマスが近づいてきましたが、12月に入った頃から、あちこちで電飾が施されたクリスマスツリーが、あちこちで見かけられるようになりましたね。毎晩、仕事の帰りに通るカフェテラスが隣接する通りには、きらびやかな電飾が何本もの木全体に巻かれていて、幻想的な雰囲気が漂っています。一昔前と違っているのは、数年前から青色のLED(発光ダイオード)が出回るようになってからのことです。ご存知の通り、青色のLEDはノーベル賞クラスの発明品だといわれています。この青色が開発されたために、光の三原色全てがそろい、LEDのみで大画面テレビのような、画像の表現ができるようになりました。また、CDやDVDなどのデータ読み込みに使われていたLEDも、赤色に比べて波長が短いので、より細かなディスクの情報を読むことができるので、同じ面積で3倍くらい集積率が高まったともいわれます。色は少し違いますが、信号機も今後ものすごい勢いで、このLED型に変わっていきます。白熱球よりも省電力で、寿命も電球の5~10倍はあるし、輝度も非常に高いからです。(車で夜走っていたら、信号機がまぶしいくらいですものね・・・)この小さい部品の発明が、生活のシーンを変え、街並みの雰囲気(特にクリスマスツリーイルミネーション)を変え、いろんなシーンで活用されるようになりました。本当に小さな小さな、米粒二つくらいの大きさのものなのですが、その利用されるシーンは、まだまだあらゆるところに広がっていきそうです。 (余談) この青色LEDは明るいし、割り合い視覚に対する刺激が強く、 目が冴えてしまうので、夜寝る前などには、あまり見ないようにし、 できれば寝室などでは、隠しておやすみになった方がいいそうですよ。
December 23, 2005
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ベーゴマなど昔はやった遊びが、何年、何十年かした後に、また流行するというそんなサイクルで、また子供たちに受け入れられていきます。専用のこま回し機にセットして、キリキリと巻いて、ポンとボタンを押すと離れて回転しながら下に落ちるそうな。私が小学校の頃も、ベーゴマが一時はやりました。ベーゴマというのは、普通の独楽(こま)とは違って、芯がないので、まわすためのヒモが巻きつけられません。そこでヒモをベーゴマに十字にひっかけ、端をくくりった部分を芯にして、巻きつけていきます。その後は普通の独楽と一緒です。ゴミ箱のような大きな筒状の入れ物に、ジャンパーなどをかぶせて、すり鉢状になったところへ、いっせいにベーゴマを回します。カチン、カチンと音を立ててぶつかり、そのまま外へ出された方が負けです。ルールによっては、その負けたベーゴマを買った人がもらうことにもなっています。このベーゴマを作っているところは、町の小さな鋳物屋で、日本でもほぼ数えるほどしかない、と聞いたことがありました。それもベーゴマという文化をなくしたくないという一心だけで、製造されているとも聞きました。その鋳物工場自体も、少なくなっていってますね。それにしても、本当に単純な遊びなのですが、熱中してしまうものなんですよ。特に男の子は、勝負事が好きなものですから。
December 22, 2005
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タタタタタタタタタタ、チン!学生の頃、授業でタイプライターの科目がありました。卒業後は、商社に入社したので、英文タイプは必須だったのです。本物のタイプライターから練習していたので、ワープロやパソコンのローマ字入力は全く問題にならなかったですね。商社では、海外バイヤーに取引開始依頼のレターを送るのですが、全て英文タイプで打ち、決済に使われる為替手形(バイヤーに対する支払い依頼手形)も、タイプライターで打つようなフォームになっていました。タイプライターは、キーを深く押すことによって、バーが振り出され、インクリボンをはさんで紙に打ち込みます。使ったことのある人なら、「ああ、そんなこともあったなぁ」となつかしく思い出されることでしょうけれど、その際、間違ってキーを複数押してしまって、バーが絡まってしまうことが度々ありました。それを、手で引っ張ってほどき、また元の位置に直します。このように、絡まってしまうことを避けるために、キーの配列が決められたといわれています。その配列が、そのままワープロや、パソコンに引き継がれているのです。「この配列なら打ちやすい」というパターンから出発したものではないので、本当は、このパソコンのキーボード配列は、使いにくいんですよね。キーボード入力に苦労されている皆さん、そういうわけなので、難しいのは、当然なんですよ、気になさらないで下さいね。
December 21, 2005
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「エキナカ」という言葉、最近よく耳にしますね。エキナカとは「駅の中」のことです。 (そのままやんか~!って?)駅の構内にあって、情報や流行の発信地として、電車を乗り継ぐ経由地に、たくさんの人が集えるように提供された場所や大型商業施設を指します。最近は、電車でどこかへ行くというよりも、その「エキナカ」へ行くこと自体が目的となっている場合も、少なくありません。(特に、私のいる首都圏ではね・・・)昔は駅にあるものといえば、売店や立ち食いそば屋さんくらいでした。今では、カフェからレストラン、ブティック、高級スーパー、理髪店など様々な業種の企業が、広い駅構内に店を構えています。自然と、人が集まり、情報が飛び交い、ひとつのアミューズメント施設のような様相を呈しているところもあります。電鉄会社が、運賃収入以外に収益を上げるために考えた方法として、今ある空間を生かして、乗客の往来が確実に期待できる場所を企業に提供しました。駅の構内なのに、様々なお店のサービスが受けられて、本当に楽しい空間ですよ。これらは、江戸時代でいう、人の往来で栄えた宿場町の「現代版」なのでしょうか。いろんな地方から来た多数の人が、往来する交差点「エキナカ」、そこにはヒト・モノ・サービスが集中する、楽しい空間の雰囲気が演出されています。
December 20, 2005
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こんなに冷え込む日の夜は、毛布に包まって身も心も暖かにして寝るのが、一番ですね。ところで、私も最近知った事なのですが、みなさん毛布はどうやって敷いて寝ていますか?私は、敷き毛布は絵柄を下に、掛け毛布は絵柄を上にして、はさまって寝ていました。これ、間違いなのだそうです。敷き毛布も、掛け毛布も、絵柄のある方を自分側に向けて寝るのが、正しい使い方なのだそうです。例えば掛け毛布。絵柄のあるほうだと、その上に敷いた布団がすべってしまい、動きによっては、布団がない状態で朝を迎えることにもなってしまいます。敷き毛布もしかりで、ずれてしまいます。裏側の方が、毛布表面の抵抗があって、布団がずれることも少ないのです。何よりも、絵柄の方はさわった感触もやわらかく、肌にあたるときに気持ちがよいのです。みなさんは、間違って使ってはいませんか?(ひょっとして、私だけ...ですか?)
December 19, 2005
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本当に寒い日が続きますね。全国的に寒波に襲われて、年に一度か二度降雪があるところでも、大雪に見舞われているとか・・・雪があたりの音を吸収するからか、静かでいいよという知人のメールもなるほどと、うなずけます。こんな寒い夜には、キュッといっぱい熱燗で...といっても、私は下戸なので、晩酌をすることはありません。ああ、おいしく飲めたらいいのになぁと思いながら、友人たちと飲みに行った時は、もっぱらおいしい料理を食べる方が、いそがしくなります。そんな私でも、「うん、これはおいしい」と思った店がありました。まだ大阪にいた時の頃、一人旅をしていたときに、北海道のユースホステルで知り合った人に、大阪駅近くの「全国のうまい酒」を出してくれる小料理屋に連れて行ってもらったときのことです。その知人とその店の主人は、時間があれば一緒に全国の酒蔵を訪れて、おいしい酒をさがし歩き、これぞといったお酒を自分の店で、売ることにするのだそうです。本当にうまい酒というのは、フルーティーで香りが何とも言えない芳醇なのです。ちょっと飲みすぎたかな、と思って水を頼んだら、その水も日本酒を作るための水を一升瓶に入れて取り寄せたものでした。一口飲んだら、水がのどから直接体全体に、しみ込んでいくような、そんな不思議な感覚のする「いい水」でした。日本酒は「水」が命なんですね。飲めない私にもおいしいといわせる何かがありました。そうそう、その旅先で知り合った知人は、当時はサラリーマンだったのですが、今では、おいしい日本酒を飲ませる店を経営するようになったそうです。本当に、日本酒を心から愛している人なんですね。
December 18, 2005
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本当に寒い日が続きますね。全国的に寒波に襲われて、年に一度か二度降雪があるところでも、大雪に見舞われているとか・・・雪があたりの音を吸収するからか、静かでいいよという知人のメールもなるほどと、うなずけます。こんな寒い夜には、キュッといっぱい熱燗で...といっても、私は下戸なので、晩酌をすることはありません。ああ、おいしく飲めたらいいのになぁと思いながら、友人たちと飲みに行った時は、もっぱらおいしい料理を食べる方が、いそがしくなります。そんな私でも、「うん、これはおいしい」と思った店がありました。まだ大阪にいた時の頃、一人旅をしていたときに、北海道のユースホステルで知り合った人に、大阪駅近くの「全国のうまい酒」を出してくれる小料理屋に連れて行ってもらったときのことです。その知人とその店の主人は、時間があれば一緒に全国の酒蔵を訪れて、おいしい酒をさがし歩き、これぞといったお酒を自分の店で、売ることにするのだそうです。本当にうまい酒というのは、フルーティーで香りが何とも言えない芳醇なのです。ちょっと飲みすぎたかな、と思って水を頼んだら、その水も日本酒を作るための水を一升瓶に入れて取り寄せたものでした。一口飲んだら、水がのどから直接体全体に、しみ込んでいくような、そんな不思議な感覚のする「いい水」でした。日本酒は「水」が命なんですね。飲めない私にもおいしいといわせる何かがありました。そうそう、その旅先で知り合った知人は、当時はサラリーマンだったのですが、今では、おいしい日本酒を飲ませる店を経営するようになったそうです。本当に、日本酒を心から愛している人なんですね。
December 17, 2005
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最近は、親も子もそれぞれいそがしく、食卓をみんなで囲む時間も取れないで、各自が各々食事を摂る「個食」が進んでいると聞きます。各々が干渉しない生活を送るという、時代の流れがあるとはいえ、少々さびしい気もしますね。学生時代に、青少年活動のボランティアリーダーをしていた頃、よく先輩リーダーに長期のキャンプに行ったとき、こう言われました。 「食事の時間は、ピンチであり、チャンスである」お互いに見ず知らずの子供たちどうしが、バスに揺られて、夏は海へ行ったり、冬にはスキーのキャンプに参加します。行きのバスでは、リーダーたちが盛り上げて、歌を歌ったり、ゲームをしたりと、打ち解けて楽しい雰囲気で過ごせます。現地について、荷物をまとめて一息ついた後に、夕食の時間がきます。このときに、ベテランリーダーの班は、とても楽しく「天国」のような食事時間となり、慣れない新米リーダーの班は、悲惨で「地獄」のような状態となります。何が起こるのかといえば、食事のとき、ご飯を食べたり、飲み物を飲んだりして、食道に食べ物が通るとき、パッと心の窓が開きます。そのときに、ベテランリーダーは、面白く楽しい話を、一人一人に話しかけるように心を配ります。開いた心の窓には、リーダーの楽しい話題が入ってくるので、ものすごく楽しい気持ちになり、「ああ、来てよかったなぁ、楽しいなぁ」と思うのです。反対に、慣れないリーダーだと、しゃべらず黙々と食事を摂ります。子供の心の窓が開いたときに、班のみんながそんな雰囲気でいると、お母さんのことを思い出してしまい、ホームシックにかかるのです。泣き出す子もいれば、熱を出して、体調を崩してしまう子もいます。これが「食事時間がピンチであり、チャンスである」理由です。ちょっと集まった人たちで打ち解けたい、と思ったら、必ず飲み物と、食べ物を用意することをお薦めします。仕事のミーティングであっても、ちょっとビスケットやお茶を出すだけでも、雰囲気が和らぎ、いいアイデアも生まれてきます。食事のときの「楽しさ」は、本当に大事なことなんですよ。
December 17, 2005
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よくこんな話を聞いたことはありませんか?コップに半分の水が入っています。 ある人は「え~、水がコップ半分しか入っていない!」 またある人は「おお、水がコップに半分も入っている!」同じモノを見るときにも、悲観的に見る人と楽観的に見る人がいます。同じ見るのなら、楽観的に見よう、いいところを見よう、という心がけひとつで人生、幸せに楽しく生きられるものです。いやなことが起こっても、違った方面から見たら、自分に忍耐力をつけるために起こったのだととらえると、「これもまた良し」と思えるでしょう。ひとつのことには、2つ以上のとらえ方が存在します。実は、目で物理的に「見る」という行為自体にも、そんな面があるのです。普段、私たちが見ている「目(眼球)」というのは、50~100ヘルツ(一秒間に50~100回動くということ)の振動数で左右に動いています。特殊な麻酔を使って、眼球の動きを止めてみた実験があったそうです。動きの止まった眼球で「見た」ものは、明るさだけが感じられて、ほとんど見る対象の物体の形を、とらえることができなかったそうです。振動によって動く分、ちょっと右、ちょっと左から見ることで、本体(本質)がはっきりと見えるというのは、面白いことですね。実際に物理的に「見る」ことや、観念的に「観る」ことは、いくつかのとらえ方があって、自分はどのようにとらえて「見る・観る」のかを判断します。同じ「見る・観る」のなら、明るい方、積極的な方、楽しい方、いい面をとらえる方で見てみると、そういうとらえ方を、楽しんで見ていることができる自分を「観る」ことができるかもしれませんよ。さあ今日も一日、明るい方を見ながら、楽しいこと、嬉しいことをたくさん探してみましょう。
December 16, 2005
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子供の頃のいつもの遊び場は、田んぼでした。稲刈りを終え、わらを積み上げた山に、飛び乗って取っ組み合いのプロレスをしたり、凧揚げをするときには、ごろりと寝そべって、大きな空に吸い込まれて、段々小さくなっていく凧を糸でぐいぐい引いて、どんどんと高く上げていきました。ときどきお百姓さんに怒られては逃げて、いなくなるとまたわらの山に登り、ふかふかの感触を楽しみながら、倒れ込みます。家に帰るときには、セーターについた稲わらのクズを取るのに、大変でした。いっぱいついてしまって、家に上がるときによく母に怒られたものです。近くの空き地には、積み上げた土管が置いてあって「基地」として、ビー玉を隠したり、自分の「宝物」を持ち寄ったり、よく年齢の違う友人たちと遊んだものです。カン蹴り、鬼ごっこ、かくれんぼ...考えられるだけの遊びをすべてやったように思います。今、このような田んぼや空き地など、思いっきり走り回って暴れまわれる場所がありませんね。外で走り回ると、車にぶつかるから危ない、家では暴れられないし、TVゲームなどの頭を使う遊びしかない。街づくりも、何もかも合理的に無駄のないつくりになっています。今一度、これからの子供の情操教育を考えるのなら、「遊び場」「無駄な場所」がある街づくりから始めるといいのではないかな、と思います。体を動かすから、五感を通じて神経の刺激が体中を駆け巡り、その結果、頭も発達するわけで、頭のみ理知的に発達させるだけでは、心が豊かに発達しません。大人が自分たちの子供の頃、育った環境というものを、今に少しでも多く残して置くべきだと思いますね。いつの年代にも、子供は好奇心がいっぱいの、疲れを知らない、遊びの天才である「子供」なんですから...
December 15, 2005
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学生時代、大病院の小児病棟に慰問に通ったことがあります。小児病棟で入院している子供たちは、何年も病院暮らしで、ほとんど外に出ることはなく、同じ年頃の子供たちの入室も禁止されている、いわば外の世界から閉じた空間でもあります。月に一回、土曜日に紙芝居や絵本、一緒に歌えるようにギターを持っていったり、クリスマスのある12月には、サンタクロースの格好で、人形劇の大きな人形をたずさえて訪問します。子供たちは、ちょっとした事でも、本当に大喜びしてくれます。手品をすると、目を輝かせて「え~、10円玉はどこに消えた~ん!」絵本を読むと、「それで、それで、その後どうなったん!」ギターを弾こうとすると「あわてんぼうのサンタクロースを歌って~!」慰問に行ったはずなのですが、行った方が感動して帰ってくることになります。「こ~んなに子供たちに喜んでもらえるなんて、なんて幸せなんだー!!」って。中には、その魅力に取りつかれて、毎週毎週通った後輩もいました。今、病院では子供たちに喜んでもらうための「クリニクラウン」という、子供達を喜ばせることを目的に、訓練された人たちが注目を集めつつあります。「クリニック(病院)」と「クラウン(道化師)」をあわせた造語で、長い闘病生活を送る子供たちに、楽しんでもらうということを使命とします。映画「パッチ・アダムス」では、ドクタークラウン(医師+道化師)が子供たちを喜ばせる存在(実在の人物)として、有名になりましたね。「クリニクラウン」近い将来、どこの病院にもいるようになると思います。子供たちにこんなに喜んでもらえるのか、と知ったときの感動は何事にもかえられないものがあるからです。人が喜んでくれた時の喜びは、体験して初めて味わえる「至上の喜び」なのです。
December 14, 2005
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デジタル・オーディオ・プレーヤーが今、人気を誇っていますね。アップルコンピュータが仕掛けた「iPod」シリーズは、洗練されたデザインで、自分の好きな音楽が、手軽にインターネット上から入手できることもあり、爆発的な人気です。かく言う私も、親指2本くらいの大きさのプレーヤーを持っており、携帯性に優れていて、大変気に入っています。これらのプレーヤーは、デジタル信号化した音データが、内部の集積回路に蓄積されており、再生したときに、電気信号としてヘッドフォンのスピーカーを震わせ、音として聴こえるようになっています。製品が出だした当初は、この集積回路の容量が小さかったこともあり、本来の音や音楽を加工してデータを小さくする必要がありました。音や音楽を加工するというのは、人間が聞こえない「超音波」や、「低周波」を省くということです。今もその方法が標準規格として生かされているため、小さなプレーヤーにも、何千曲もの音楽が入るようになったのです。今、デジタル音源の研究開発をしているところで一部、本当の音源を再現しようという試みがなされています。この省かれた「超音波」や「低周波」には人間の情感に影響するものがあるのではないか、という仮定の下で、開発が行われているのです。自然の中にある川の流れるせせらぎ音、雨音、風が木の枝を通り抜ける、木枯らしの音、鳥の鳴き声などの中には、聞こえる音以外にもたくさんの「音」が混ざりあっています。科学的に正確に実証された例は、それほどないのですが、きっと自然の音の中には、まだ人間の知らない「情感に影響する音」が存在するのだと思います。
December 13, 2005
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「アファーメーション」っていう言葉を聞いたことがありますか?自分で自分を勇気付ける方法で、「自己説得」とか「自己宣言」とも訳され、肯定的な言葉を使い、なりたい自分に変えていくことができます。自分の望んでいる願望を「~になりますように」や「~であったらなぁ」ではなく、断定する言い方にすると、効果があります。結婚式など、人前に出てスピーチをしなければならないときには、「私は、いつでも落ち着いて人の前で話ができる」とか、まとまったお金を貯めたいときには、期限をつけていうのがいいでしょう。「私は○○才までに、○○○万円を貯める」感謝の気持ちを添えると、なおいいと思います。「私は、いつも元気で健康で陽気な毎日を送らせて頂いて感謝します、ありがとう」落ち着いてリラックスできる場所と時間にすると、効果は上がります。就寝前の布団の中で、声を出してやるといいでしょう。特に、これといって決まった願望がない場合、万能の言葉があります。これは自己暗示法の創始者、フランス人のエミール・クーエが提唱したアファーメーションの言葉です。「私は日々、あらゆる面でよくなりつつある」ワクワクしながら、そういった未来が来るのをイメージしながらすると、本当にそんなふうになって行きますよ。関心のある方はどうぞ、習慣づけてやってみてください。
December 12, 2005
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私の住んでいる東京の郊外でも、都心のビル街でも、ハトはどこでもいますね。山間部や林を、主な住みかとするキジバトも時々見かけられますが、ほとんどがドバトといわれるハトです。もともとはユーラシア大陸の南方に生息していたものを、日本に持ち込み、家禽として飼われていたものが逃げ出し、野生化したものといわれています。ひと昔と比べて、徐々にその姿が変化していると指摘する人が、増えてきました。白色に近い灰色の羽のものが、少なくなり、反対に黒色のものが増えてきたのです。もともと家禽であった頃のハトは、品種改良が行われ、茶色などの色も混じって様々なものもあり、今までは明るい灰色の羽のものが、多数を占めていました。最近では、ハトの種の全体から見てみると、黒色が主流となりつつあります。これは、都会にすむハトには、都会にいる天敵として、カラスやネコなどの肉食の動物から身を守るために、都会に多いアスファルトなどの色と、同化する必要があったからなのかもしれません。襲われるハトに灰色のものが多いと、ハトの「種」もしくは「DNA」が気付くと、種全体が種の保存のために、黒色を主流にするように、変化させたのでしょうか。ガラパゴス諸島のイグアナや鳥のフィンチのように、ダーウィンの「進化論」で発見された「種の保存」が、まさにこの大都会で、始まっているのかもしれませんね。(ひとりごと)...それにしても、最近のハトは近寄りすぎても、逃げないですね。 時々、踏んづけそうになります。 人間を「脅威」とみなしていない証拠ですね。 なめられているのかな?
December 11, 2005
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ここのところ、急に寒くなってきましたね。西日本では、みぞれや雪が降ったとか...急激な温度の変化で、体調を崩す人が多くなり、友人のメールで「風邪を引きましたー!」という元気な(?)メールを送ってくる人もいます。風邪やインフルエンザにかかると、周りの人に多大な迷惑をかけることになります。まずは外から戻ったら、うがいをするのが一番の予防になりますが、インフルエンザのウィルスには、「紅茶でうがいをする」というのがいいそうですよ。紅茶の中に含まれる苦味の成分「カテキン」が、ウィルスの細胞に取り付こうとする触手の部分を利かなくするようで、非常に効果的な予防法なのだそうです。「紅茶を飲む」のは、のどの奥を洗浄しないため、有効ではなく、やはりガラガラと、うがいするのがいいんですよ。といっても、風邪の予防は、なによりもまずは、規則正しい食生活、バランスの取れた栄養と充分な睡眠、正しい生活習慣を励行することですよね。...と反省と自戒の念を込めて、書きました。 ハハハハハ...
December 10, 2005
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「エレファント症候群」という名前を、聞いたことがありますか?インドでは、象の調教師が捕獲してきた象を、飼いならすために使う効果的な方法があります。捕獲後、首輪をはめらて、くいにつながれた鎖でつながれます。その時象はくいを引き抜こうとして、懸命に引っ張り、暴れまわります。その状態で幾日もおいておくと、象はやがてあきらめておとなしくなります。その後は、くさびが抜かれても逃げ回ったりしなくなるのです。象は、ここから逃げるのは無理だと悟り、あきらめてしまうからです。このたとえから、自分自身の自己イメージを小さく考えてしまい、可能性が大いにあるにもかかわらず、あきらめてしまうことを「エレファント症候群」といいます。「私は、○○だから~」と小さな自己イメージに、自分を閉じ込めていませんか?このセリフの中に入る○○は、いろんな状態、人、職業、性格、環境、その他いろいろなものが、当てはまります。もともと調教される前の象は、森や草原、オアシスなどどこへでも自由に往来し、好きな場所で過ごし、好きな食べ物を食べ、自分の思ったことは、なんでも自由にできたんですよ。
December 9, 2005
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先日、とある街角で「ハンディング」をやりました。ハンディングというのは、道行く人にパンフレットやティッシュなどを、直接手渡して、お店や会社のサービスなどを、宣伝する方法です。50部ほどの小冊子を、時間にして20分くらいで配る簡単なものでしたが、面白い発見がありました。その小冊子をできるだけいろんな人に、読んでいただきたいという思いを込めて配る予定でした。(会社の宣伝のための、いろんな物語やコラムなどを載せた小冊子です)すぐに終わるだろうと思いながら、いざ始めてみると、なかなか受け取ってくれる人がいません。歩いている人は、明らかに目をあわさないように、進路もこちらから遠ざかるように歩いていくのがよく分かります。早く配り終えたい気持ちがはやって、あちらこちらへ配るのですが、そう思えばそう思うほど、受け取ってくれなくなり、余裕を持っていた気持ちが焦りに変わります。その時、はっと気がついたことがありました。「あ、小冊子の内容を知ってもらうために、ではなくただ「紙」を配っている!」それから1分ほど深呼吸をして、気持ちも新たに配り始めました。すると、あれよあれよという間に、手元の小冊子がなくなっていきます。面白いものですね、「配る」という目的にすりかわってしまったものを「内容を読んでいただくため」に気持ちを切り替えると、状況も変わってくるなんて。もうこのような体験をすることは、めったにないと思いますが、自分のため(早く小冊子を配り終える)という目的の時には、遅々として進まず、人に読んでいただきたい(他を思う気持ちを込める)と、無意識のレベルで感応する人が現れるという事実、本当に面白い体験でした。それ以来、ティッシュであろうが、パンフレットであろうが、どんなものでもハンディングしているバイトの若い人たちから、笑顔で受け取ることにしています。「ありがとう」という言葉も添えて...たったそれだけで、配っている人も、嬉しくなるものなんですから。
December 8, 2005
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私の好きな詩に、「山のあなた」というものがあります。 山のあなたの 空遠く 「幸」住むと 人のいう 噫(ああ)、我、人と尋(と)めゆきて 涙さしぐみ かえりきぬ 山のあなたの なお遠く 「幸」住むと 人のいう 「山のあなた」 作:カール・ブッセ 訳:上田敏 中学校の教科書にも載っていた詩で、覚えやすくて、また生き方の深い意味まで含蓄した、いい詩だと思います。どこか遠い世界、山のかなた(=あなた)に、幸せなことがあって、そこに行けば必ず幸せになれると、人々は言う。伴侶と一緒に、その遠くにある幸せを探し求めていくけれど、幸せになれず、涙ながらに泣く泣く帰ってきたら、人々は、そのまた山の向こうの、遠い遠い世界に行けば、幸せになれると言う。幸せは、「お金持ちになれば」「一生懸命努力すれば将来いつか」手に入れられるというものではなくて、今、この場でやるべきことをしていることこそが「幸」なんだ、ということを、表している詩ですね。確かに仕事を含めた日常生活が、毎日大変だと思えるシーンも多々あることでしょうけれど、その中に見つける「キラリと光る小さな幸せ」を、意識的に見つけようとする心の状態こそが、朝倉山椒的「幸」の境地だと、思っています。
December 7, 2005
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「僕、文章を書くのは苦手なんです、うまく書ける人は、うらやましいなぁ~」つい先日も聞いた、いろんなところで発せられる言葉です。私がよく読んでいた本の著者のお話を、直接聞く機会がありました。この作家(私のプロフィールにも掲載しております、最近読んでいませんけど・・・)、文章の表現力が、ずば抜けています。(・・・と私が感じているんですけど)よくこれだけの心象風景を緻密に、かつ大胆に描き出すことができるなんて、本当にすごいなぁ、と感心しておりました。彼が言うには、小説家になるためには、人の何倍も何十倍も本を読むことが必要であると。もうひとつ、上質の文章を書くためには、書いて書いて書きまくること。つまり、「量のない質はない」ということだそうです。ただ漠然と「量」を稼ぐだけというのは、何の進歩もないと思いますが、必ずテーマを持って、繰り返しやり続ける飽くなき「量」の向こう側に、新境地が待っているものだと思います。今の現状に甘んじることなく、絶えず創意工夫が伴う「量」をやり続けると、今、もがいていても、いつかその世界を突き抜けるときが、やってくると信じています。上質を極めるには、まずは「量」。なにもかもこの「量」からスタートですね。
December 6, 2005
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「私は、この新技術を『自然』から教わりました」そう言って、元技術者である講演者は、語り出しました。ある講演会に参加したときのことです。その講演者は、新型新幹線の開発に携わった方で、「500系ひかり」と言われる、流線型の、先がとがった形の車両を設計した方でした。時速250キロ以上で走る新幹線は、走行時にはものすごく強い風を受けます。パンタグラフに受ける風が起こす音は、中にいる人はもとより、周辺住民の方々への騒音として、無視できないほどのレベルで出るそうです。これを消すことができないだろうか?いろんな実験で試しても、この問題だけは克服できなかったそうです。そんなある日、ひょんなことから画期的な解決策が見つかります。誰かから聞いた話に、「ふくろうは音もなく飛ぶ」というものがありました。「ひょっとしてこれが問題の突破口になるかもしれない!」そう直感した技術者は、いろいろとふくろうの研究に没頭します。そしてなぜ、ふくろうは音もなく飛べるのかが分かったそうです。風を受ける羽の先端には、細かな羽の流れに逆に生えている小さな「針」があるそうで、この部分が風を切り、音を出なくしているのです。これを応用して、ほとんど音がでないパンタグラフが完成しました。本当に、「ふくろう」って飛ぶときに音がしないんですよ。ま、ワサワサと飛ぶ音が聞こえたら、獲物も捕まえられないでしょうけどね・・・ちなみに、車両先端の細長い流線型の形は、「かわせみ」のくちばしを模したものだそうで、餌の小魚をとるときに川面に飛びこむ衝撃が、いちばん小さいのが、あのくちばしの形なのだそうです。 追伸 いつも、ご覧頂いている方々の皆様、ありがとうございます。 あと最低3ヶ月はコメントや、みなさんの日記の閲覧・コメント記入が できない状況下にいます。 大変申し訳ありませんが、ご容赦下さい。 本ブログは、毎日書き続けますので・・・
December 5, 2005
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朝の公園で、子犬を連れた人が、ポーンとボールを投げます。それを追いかけて、弾丸のごとく懸命に走って行き、くわえたら一目散にご主人様に持っていきます。今朝のように時々遭遇するこの光景をみて、「犬のようになれたらなぁ」と思うときがあります。この犬には「今」しかないからです。集中して、何かに没頭しているとき、人間は持っている能力を、最大限出し切ることができるようで、疲れをまったく感じない状態になります。みなさん「今」集中していますか?この瞬間に集中していると思っても、ほぼ5%しか「今」にいないそうで、30%は未来への心配、50%は過去へのこだわり、人によりますが5%の他人の目、残り10%は、「異性」に気がそがれている、と先日ある方から教えて頂きました。この数字の根拠について、定かではありませんが、雑念がいろいろ起こってくることは、確かにあります。パソコンでこのブログでを書き込んでいるときも、「あ、ちょっとお腹がすいたな」とか「明日、何を買い物するんだっけ?」など。その点、犬はえらいですね。過去を振り返って「ボクは犬としてまっとうした生き方をしてきただろうか」とか、未来に対して「老後の過ごし方、健康面、年金問題はどうなるんだろう」と神妙な顔をして考えている犬を、いまだかつて見たことがありません。(そんな犬がいたら、こわいね)「今、この瞬間」だけに生きる犬を見て、「よし、今日は犬のように生きるぞ」と心に決め、歩き方も軽やかに、毎朝駅に向かうのでした。
December 4, 2005
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この先どうしていいのか分からなくなる場面が、少なからず起こることがあります。特に非常に困ったとき、心に迷いが生じたとき、みなさんはどうされていますか?私の場合、その状況下で、ちょっとでも心が軽くなるように、まずは自分を勇気付ける言葉をさがします。そのような言葉がいっぱい載った本を、ぱらぱらとめくり、さっとあけたところの言葉を見ます。先ほど、試しにやってみました。そしたらこんな言葉が書いてありました。 最善を期待しなさい。 問題をチャンスに変えなさい。 現状に不満を持ちなさい。 過去にとらわれず、 自分が進みたい所に 焦点を合わせなさい。 そして、最も重要なことは、 幸せになると決めることです。 そして、それは、 日々の練習から得られる心の持ち方、習慣であって、 結果でも見返りでもないことを知りなさい。 --------------デニス・ウェイトレイ 出典:「聖なる知恵の言葉 ~魂のためのガイドブック~」 スーザン・ヘイワード[編] 山川紘矢・亜希子[訳] PHP文庫 (薄っぺらくて、小さな文庫本です) まずは、はやりたつ気持ちを落ちつけて、「言葉の栄養」を心に与えます。しかる後に、やるべき身近なことから、ひとつひとつ手をつけていきます。気持ちがなえた状態だと、何をやっても進まないし、いい結果も得られないですからね。
December 3, 2005
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さくさく、さくさく、さくさく・・・近くの公園を毎朝歩くときに、ふかふかに積もった落ち葉を、踏みしめます。この一年で、この季節にしか楽しめない「ちょっとした喜び」でもありますね。遠い記憶をたどれば、里山かどこかの落ち葉が積もったところで、「雪合戦」ならぬ、「落ち葉合戦」をしたようなことを、覚えています。両手に、抱えきれないほどの落ち葉をかき集めて、相手に頭からどっさり振りかけたり、投げたりして、遊んだような・・・・そんな遠い記憶です。東京都庁の裏にある「新宿中央公園」には、落葉樹が数多く植えられています。空を、カッターで切り取ったようにそびえる高層ビル街に、ビジネスマンたちが集う、唯一自然の癒しが感じられる、オアシスのような存在です。その公園の道に、かき集められた落ち葉を、まいている都の職員の人がいました。近くの立て看板に、「この道は落ち葉を敷き詰めております。どうぞ、踏みしめてお歩き下さい」と書いてありました。人工的に作られた巨大なビジネス街にも、人の心を癒す落ち葉の道。どんなに自然から遠ざかっても、人の心は、この季節にしか感じられない喜びを、求めるものなんですね。
December 2, 2005
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今回は、ちょっと早い「クリスマス」の話題をご紹介しましょう。時は100年以上も前のこと、アメリカに住む8歳の少女バージニアは、お父さんに「サンタクロースはいるの?」と尋ねました。お父さんは「それなら何でも知っている新聞記者に聞いてみたら?」とアドバイスします。そこでバージニアは、新聞会社「ニューヨーク・サン」誌に手紙を書きます。その返事として、編集委員の一人が返事として「社説」にその答えを掲載したという、本当にあったお話です。~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~■少女バージニアからの手紙きしゃ さまあたしは、八つです。あたしの友達に、「サンタクロースなんていないんだ。」って言っている子がいます。パパに聞いてみたら、「サン新聞に問い合わせてごらん。新聞社でサンタクロースがいるというのなら、そりゃもう確かにいるんだろうよ。」と言いました。ですからお願いです、教えてください。サンタクロースって本当にいるんでしょうか?■ニューヨーク・サンの「社説」バージニア、お答えします。サンタクロースなんていないんだというあなたのお友達は、間違っています。きっとその子の心には、今はやりの、何でも疑ってかかる「疑り屋根性」というものが染み込んでいるのでしょう。疑り屋は、目に見えるものしか信じません。彼らは、心の狭い人たちです。心がせまいために、よくわからないことが、たくさんあるのです。それなのに、自分のわからないことはみんな嘘だと決めているのです。けれども人間の心というものは、大人でも子供でも、もともとたいそうちっぽけなものなんですよ。私達の住んでいる、この限りなく広い宇宙では、人間の知恵は一匹の虫のように、そう、それこそ蟻のように小さいのです。その広く、また深い世界を推し量るには、世の中のこと全てを理解し、全てを知ることのできるような、大きな深い知恵が必要なのです。そうですバージニア、サンタクロースがいるというのは、決して嘘ではありません。この世の中に、愛や人への思いやりや、まごころがあるのと同じように、サンタクロースも確かにいるのです。あなたにも、わかっているでしょう。世界に満ち溢れている愛やまごころこそ、あなたの毎日の生活を美しく、楽しくしているものなのだということを。もしもサンタクロースがいなかったら、この世の中はどんなに暗く、寂しいことでしょう!あなたのようなかわいらしい子供のいない世界が考えられないのと同じように、サンタクロースのいない世界なんて、想像もできません。サンタクロースがいなければ、人生の苦しみをやわらげてくれる、子供らしい信頼も詩もロマンスもなくなってしまうでしょうし、わたしたち人間の味わう喜びはただ目に見えるもの、手で触るもの、感じるものだけになってしまうでしょう。また、子供時代に世界に満ち溢れている光も、消えてしまうことでしょう。サンタクロースが信じられないというのは、妖精が信じられないというのと同じです。試しに、クリスマス・イブに、パパに頼んで探偵を雇って、ニューヨーク中の煙突を見張ってもらったらどうでしょうか?ひょっとすると、サンタクロースを捕まえることができるかもしれませんよ。しかし、たとえ煙突から降りてくるサンタクロースの姿が見えないとしても、それが何の証拠になるのです?サンタクロースを見た人はいません。けれども、それはサンタクロースがいないという証明にはならないのです。この世界で一番確かなこと、それは、子供の目にも大人の目にも見えないものなのですから。あなたは、妖精が芝生で踊っているのを見たことがありますか?もちろん、ないでしょう。だからといって、妖精なんてありもしないでたらめだなんてことにはなりません。この世の中にある見えないもの、見ることが出来ないものが、何から何まで、人が頭の中で作り出し、想像したものだなどということは、決してないのです。赤ちゃんのがらがらを分解して、どうして音が出るのか中の仕組みを調べてみることはできます。けれども、目に見えない世界を覆い隠している膜は、どんな力の強い人にも、いいえ、世界中の力持ちが寄ってたかっても引き裂くことはできません。ただ、信頼と想像力と詩と愛とロマンスだけが、そのカーテンを一時引きのけて、膜の向こうの、たとえようもなく美しく輝かしいものを見せてくれるのです。そのように美しく輝かしいもの、それは人間の作ったでたらめでしょうか?いいえバージニア、それほど確かな、それほど変わらない物は、この世には他にないのですよ。サンタクロースがいない、ですって?とんでもない!嬉しいことに、サンタクロースはちゃんといます。それどころか、いつまでも死なないでしょう。 一千年のちまでも、百万年のちまでも、サンタクロースは子供達の心を、今と変わらず喜ばせてくれることでしょう。~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~今回は、ちょっと早いですが、「クリスマス特別編」としてご紹介しました。
December 1, 2005
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今春、台湾駐在員として台北に住む友人を、たずねて行ったときのことです。夜は、友人の家に泊まらせてもらい、昼間は、その友人は仕事なので、一人で、いろんなところを回ってみました。仕事も兼ねての旅行だったので、海外バイヤーの引き合い情報を調べようと、台北市内にある国際貿易センターへ行った時のことです。広いスペースが確保してある展示場に、見本市のような雰囲気のイベントが開催されていました。よく見ると、台湾全土の美術・技術・工学の大学、専門学校の生徒たちが、一堂に会し、自分たちの作品を展示する、エキシビションの会期中だったのです。早速、入場料を払って、中に入ってみることにしました。学生たちの熱気あふれる情熱に、ただただ圧倒されましたが、中にはコンピュータグラフィックスの技術を生かしたアニメーションなど、プロ顔負けの作品もありました。中には、「ん?」と首をかしげるような「前衛的な?」作品もちらほら...子供の知能を発達させる「玩具」であったり、駅に設置可能なコインシャワールーム(日本では導入は、考えられないだろうなぁ~)や、本のパラパラマンガなど、好奇心をくすぐる作品が、たくさんありました。いろいろと作品について、詳しく聞いてみようとしたら、英語能力もほぼ日本と同じなので、ジェスチャーを加えながらコミュニケーションをしました。ゆくゆくは、日本へも行って発表したいとのこと、是非、日本に行ったときには、いろいろ紹介してくださいね、といわれ「よっしゃ!」と安請負してしまいました。「夢」と「才能」を持った台湾の若い人たちが、世界を舞台に活躍するのは、そう遠くない未来でしょうね、本当に楽しみです。 追伸 日本にもこんな企画はないのかな? あれば、もっと学生同士、切磋琢磨できるし、才能のある学生が 「夢」をかなえるチャンスもたくさんできるのに、と思いました。
November 30, 2005
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この季節、多くの渡り鳥が、日本を行き来します。「冬鳥」と分類されるマガモや白鳥などは、シベリアなど北方から飛来し、日本で越冬します。「夏鳥」と分類されるコアジサシやツバメなどは、この季節、遠くマレーシア、インドネシアの暖かい場所で、冬を越します。近年の科学技術の発達によって、渡り鳥の飛行に、負担にならないくらいの大きさのGPS(全地球測位システム)が開発され、今まで分からなかった飛行ルートが明らかになってきました。驚くべきは、毎回ルートや経由する場所を間違うことなく、きちんと目的の場所に、行くことができていることでした。数千キロメートルにわたる、長距離の飛行ルート。途中、あるものは、嵐や天敵に襲われたり、またあるものは、力尽きて海に落ちてしまうものもいるでしょう。でも、彼らが内に秘めた「羅針盤」にしたがって、「渡りという宿命」に抗うこともせず、何か大いなるものに従い、生きていく姿は、心震える感動すらおぼえます。池や湖沼に飛来し、行き来する鳥たちを目にするとき、その存在の後ろに隠された、「宿命を生きてきた偉大さ」を感じてみるのも、自分の感性を磨くのにいいかもしれませんね。
November 29, 2005
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