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2021.01.28
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​​​​​​​​​​​​​​ ​神様の摂理と超現実的な冒険性​





​ 祈祷(Ⅰ)​
 天上に徹した恨みの垣を壊してあげなければならない使命を担った全人類のため、今日まで苦労の歴史を展開してこられたお父様! 今私たちは心から、天の恨みの垣を壊してあげるべきであることを知り、その恨みを地上で解くことによって天上と因縁が結ばれるということを、御言を通してよく知りました。

 今日の私たちをお父様が呼んでおられるということを忘れないように導いて下さい。今日を生きていく私たちを、お父様を代身した存在として、全人類の前にお父様の息子・娘として立てて下さいましたので、私たちの体からお父様の栄光だけが現れるように許諾して下さい。私たちの動きからお父様の善と義だけが現われるよう許諾して下さい。

 そうして、私たちが集まった所々ごとが、お父様の愛を中心として和動できるように、お父様に栄光をかえす勝利の歌が天地に満ちるように許諾して下さることを、愛するお父様、切にお願い申し上げます。

 天はこの時間も私たちを忘れないで呼んでおられるし、私たちに対して願われる御旨を命令しておられますので、それに応じてお父様の前に和動の祭物として出られる自体になっているかを思う時、まだそのようになっていない未熟で不完全なところにいるということを許して下さい。

 私たちが心を開けて再び悔い改め、祭物になることによって、天上に徹した恨みが私たちによって解けられるよう許諾して下さり、そのような喜びの一日を迎えることができるあなたの息子・娘になるよう許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。

 終末の最後の垣が私たちの前に遮られており、生死をかけて戦うべき路程が残っておりますので、この戦いの路程で天の恨みを抱えて倒れてしまう卑屈な者たちにならないよう許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。

 この身も心も、もう覚悟したところがあって祭物として捧げようとしますので受けとって下さい。捧げられた祭物としてすべてのことをお父様に委ね、お父様から命じられることを喜ぶ息子・娘になるよう許諾して下さい。

 お父様、この時間は尊い時間でございます。この日は尊い日でございます。お父様、この年が尊い年になるよう許諾して下さり、この民族を代表して集まったあなたの子女たち、集う所々ごとに祝福して下さい。天に隠されていた聖霊の炎を燃して、終末に約束された聖霊の役事をみせて下さい。水を注ぐように注いで下さい。お父様、恨みの垣を壊すことのできる子女が多くなるよう許諾して下さい。そうして、集まる所々が、隠れた祭壇になると同時に、現われる祭壇になって、宇宙的な戦いから勝利できるよう導いて下さい。天の直接的な命令に従って、宇宙的な戦いから勝利し、その勝利の烽火をお父様の前まで捧げることのできる私たちになるよう許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。



 戦いに疲れ果て、傷ついた子女たちがおります。お父様、彼らを勧告して下さって、この時間の恵みが彼らの生涯を主管するよう許諾して下さい。生涯路程の基準を忘れないように、生命の刺激的な力と衝動が生じるように、隠されていたお父様の愛を体恤できるように許諾して下さい。そうして、私たちが感謝し、地上の千々万聖徒たちを和動させ、彼らによって天の前に感謝を返す勝利の祭壇を築くことができるよう許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。

 現わそうとされる御旨、願われる御旨が、とるに足らない私たちを通してでも成されるよう許諾して下さることを切にお願いしつつ、すべてを委ねますので、お父様、主管して下さい。主の御名によって申し上げました。アーメン。


 祈祷(Ⅱ)
 天に代わって立ちましたが、お父様、私たちはあまりにも足りないのです。何もない私たちが、お父様の前に残されることを願っておりますので、この民族のためにためらわずに出て叫ぶことができるように許諾して下さい。今日この時間まで、人の知らない神様の心情に似ていくため、人の否認する御旨の道に従うため、いろんな面から傷ついた私たちを、お父様、かわいそうに思って下さい。

 こっそり涙ながら天を怨む時もありました。遠くない希望の一日を私たちに約束されまして、御旨の最後の実を私たちに許諾されましたけれど、今日の私たちが堪え得ることができるかが心配になり、恐れる心だけです。

 お父様、ここに集まって来たあなたの息子・娘たちを主管して下さい。身にも心にもあなたの喜びが現われるよう許諾して下さい。お父様の顕限と運行によって、私たちが持っている正しくない考えと主義と観念を取り除いて下さい。そうして、天に徹している恨みすべてが清算できる、感動の役事が発せられるように、お父様、許諾して下さい。

 悔い改めの役事が私たちの心から生じるよう導いて下さい。能力の役事で私たちの体を打って、悪の要素は除かれ、善の要素だけが、永遠に実存されるお父様の前に現われるよう許諾して下さい。そうして、私たちが本質、本性でお父様の善へ答えることができ、お父様の愛と和動することができて、このような美がお父様から楽しまれると同時に、天の聖徒たちまでも私たちと和動して、栄光の歌をお父様の前に返すことができるよう祝福して下さい。お父様、切にお願い申し上げます。

 この時間も、罪悪の暗闇が私たちを侵犯しようとしますので、力と能力を許諾して下さい。集まった子女たちが多ければ多いほど、その中にカインとアベル的な存在がいるということがわかり、私たちがカイン的な立場にならないよう許諾して下さい。

 アベル的な祭物になって、自ら実体祭物としての責任を果たすよう許諾して下さり、アベルを代身としてカイン的存在をお父様の前に屈伏させることができるよう許諾して下さい。お父様の能力と権能の役事が、この時間全体の前に現われるように許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。

 お父様、今日私たちに与えられた使命が、私一人の救援と解放のため与えられたものではないということを忘れないように許諾して下さい。今日の私たちにこの民族の運命がかけられているということがわかるよう許諾して下さい。今日の私たちによって、全世界24億人類が、天地へ訴えの条件を立てることができるよう許諾して下さい。

 お父様、荘厳で深刻な生死の道に立っている私たちが、右手は天を握って左手はサタンを打って、勝利してホザナの栄光をお父様の前に返すことができる時まで、お父様、守って下さい。

 ここに集まった子女たちを主管して下さい。この中に、まだ悪の根を抱えて悔い改めることをためらう者がないように許諾して下さい。能力として現われて、心に抱えているすべての罪悪の根を除き、爆発させて下さい。



 寂しいあなたの子女たち、新しい福音の御言をもって地方に散らばっているあなたの子女たち、天の前に祭物の道を代身することが難しいということをわかっておりますので、お父様、共になさって下さい。

 時ならぬ時に、時の御旨をやるあなたの寂しい子女たち、サタンとの戦いで疲れることのないように許諾して下さい。今まで守って下さったお父様、この時間以後も守って下さる恵みを願っておりますので、どこへいてもあなたの御旨を代身し、あなたの徹した恨みを解くことができるよう許諾して下さい。私たちみんなが、私たちの生命を祭物として捧げても、お父様の恨みの心情を抱えて、天の前に感謝できるように、お父様から喜ばれる美の自体になって一日でも早く天の御旨を成就することができるように許諾して下さることを、愛なるお父様、切にお願い申し上げます。

 今日、民族の代身としてお父様の前に集まった祭壇が多いのですが、彼らが御旨を知らないで悪の祭壇を築くことがないように、お父様、共になさって下さい。一人一人の心を合わせ各教団を合わせて、世界的な一つの勝利の祭壇としてお父様の前に捧げられるように、天のお父様の感動の役事を許諾して下さい。

 この時間、すべてを主管して下さい。喜びの御旨だけが運行できるように導いて下さい。喜びの御旨だけを現わして下さい。切にお願いしつつ、主の御名によってお祈り致しました。アーメン。


 祈祷(Ⅲ)
 お父様、この御言は再創造の御言です。お父様がエデンの園で、「善であろう、善であろう」と言われた、善の御言実体が地上にはないので、それを嘆いておられるということを知るものでございます。失われた善の御言をとり戻すべき条件が残っている限り、善の実体も探すことができないということも知っております。  お父様、善の御言を現わして下さい。とり戻された善の御言で再命令なさって、善の実体をなしておくことのできる、特別な再創造の歴史が私たちの中で行なわれるように導いて下さることを、お父様、切にお願い申しあげます。



 その時は、多くの御言が必要ではありません。今まで私たちは、多くの御言を聞いて知っておりますが、お父様、自分の心が生まれ変わることのできる力が必要でありますので、力で役事して下さり、権能で役事して下さい。

 悪のすべての観念を取り除いて復活できる生命を御言を現わして下さり、再創造の復活の歴史をつくって下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。

 何よりも、体恤的な心、体恤的な感じ、体恤的な観念、体恤的な悔い改めを通して、この時間、一つの美の完成を見たがっておられるお父様の心がわかることのできる者になるように導いて下さい。一つの祭物として捧げられる時間になるように許諾して下さることを切にお願いしつつ、すべてのことを主の御名によってお祈り致しました。アーメン。


 <御言>
 今日の御言の中には、イエス様が最後の十字架を前において、大変冒険的な覚悟なさった御言があります。それで、今日皆さんと考えてみたい御言の題目は、「神様の摂理と超現実的な冒険性」です。  今日、信じている私たちは審判の日を前にして、絶えず戦いの路程を経ていきます。この路程は坦々たる路程ではありません。故に、皆さんが冒険的な中心を立てたおいて、残された宇宙の怨恨の審判を押し出すことのできる勝利的な中心を持てないと、皆さんは歴史路程の敗北者になり、生涯路程の敗北者になるのです。


 最後の宇宙的な審判と自己認識

 それゆえ、神様の摂理歴史は、冒険的に出発して冒険的な終結を予告する摂理歴史であるということを皆さんは忘れてはいけません。

 今日、私たちが自由に信仰生活ができるいろんな条件と環境は、皆さん自身が成したものではありません。私がこのように自由な立場で神様を呼び、自由な立場で信仰生活をすることができるようになったのは、先祖たちが数多い冒険の峠を越えてきたからです。皆さんはそれを知らなければなりません。そして、皆さんが生活や信仰路程からこれを胸深く感じることができなければ、最後の宇宙的な審判の峠を越えられないということをわかるべきです。

 それよりまず、皆さんは、天が今日の私を呼んで立てられたのは何のためかというのをわかるべきであり、6千年の歴史的な恨みの峠を越えている私自体はいかなる存在であるかを自ら解明することができなければなりません。

 さらに、今日の私は、サタンによって遮られた宇宙的な怨恨の峠を越えることのできる自由の中心をつくっておいたか、未来に残された怨恨の審判台を充分に越えることのできる勝利的な中心を持っているか等の問題を考えてみるべきです。今日の皆さんの信仰はどの段階に留まっていますか?

 皆さんは、歴史的な、現実的な、未来的な過程を通して、全体的な天の摂理が完結されるまでが、天と結ばれている私としての過去、現在、未来のいろんな問題を考えなければなりません。  天が私を立てて、終末の全体的な使命を与え、私を立てて勝利の栄光を現わそうとされる御旨があるならば、その御旨は6千年の摂理の御旨に代わった御旨であるでしょう。そして、天の私を通して立てようとされる基準は、最後の審判の峠を越えることです。即ち、新天地の新しい基準です。

 それゆえ、万一皆さんが永遠に生きていける新天地の基準と、勝利的な自由の環境を備えることができないと、歴史過程を経えてこられた神様の摂理の前に、皆さんは勝利者として立つことができないということです。

 過去を振り返ってみる時、今日天が私を立てられたのは、私一人だけを救うために立てられたわけではありません。歴史的な恨みを解くための結実体として立てられたわけです。これを皆さんは忘れないで、アダムからの堕落の怨みを解いてあげるべきです。また、ノアの冒険的な恨みの心情とその生涯も解いてあげるべきです。

 それ以来、アブラハムからイサク、ヤコブ、モーセなどの先知先烈が歩んでいった冒険的な生涯、その方たちが残して偉業を皆さんが引き受けて、それを一つの土台として未来に残された審判台を充分に越えることのできる中心を備えるべきです。そうしないと、サタンとの歴史的な戦いから販れるようになるということを忘れてはいけません。


 冒険の道を歩んだノア

 これから、過去の私たちの先祖をふり返ってみましょう。まず、ノアの一生をみれば、それは平坦な生活ではありませんでした。神様から「120年後、世を水で審判するので、アララテの山の頂に箱舟をつくりなさい」と命令された時のノアの心情はどうだったでしょうか。12日間でもなく、12年間でもなく、120年間だったのだから………。アララテ山の頂に箱舟をつくれという御言は、その当時の現実とは合わない御言でした。  神様からそう命令されて、それを実行していくノアは、当時の状況からみると、気違いみたいな人であり、その時代には到底合わない人でした。神様からべらぼうなことを命じられたノアは、心から堅い覚悟と決心をするようになりました。そして、一日でもない120年という期間を、ある一日に向かって生活したわけです。そのようなノアこそ、1600年の歴史路程になかった、1600年歴史に代わって天の前にたてられた冒険的な先頭者であったということを知らなければなりません。 そうして、堅い決心を抱いて、下された命令を変わらない約束の御旨として信じていくノアには、世の人たちから何と言われても、神様の主管がどうなっても、そのあらゆる条件は問題にならなかったのです。すでに、御旨のために出発した基準、死を覚悟して始めた彼の足取りの前では、そのすべてのことが何の問題でもなかったわけです。それでノアは、120年という長い期間の苦難の路程を黙々と歩んでいかれたのです。

 そのようなノアには、家庭的な非難があったはずです。社会的な非難も大きかったと思います。しかし、人の知らなこ、人の行かなこ、1600年歴史過程の中で誰も行ってみないその道を、天の道を打開するため歩き出したノアだったので、誰もそれを止めることはできなかったわけです。ノアは、当時の社会環境や世の人たちから何といわれても、それに対して堂々と勝つことのできる冒険的な人であったということを皆さんは忘れてはいけません。

 そうしてノアは、自分の前のいかなる苦難も必ず乗り越えて、120年後にはアダム家庭が失った復帰された一つの家庭を立てたわけです。ノアには、このような歴史的な事情がありました。

 アブラハムもやはり同じです。神様からハランから離れるように命令されたアブラハムは、それが簡単な問題ではなかったのです。住みなれた故郷から離れることを命令された時、アブラハムの心情は実に複雑でした。人間的に思うと有りえないことだったのです。  しかし、神様から命令されたアブラハムはそのすべてを超越しました。家庭を超越して、今までの暮しすべてを放棄して命令に従いました。このようなアブラハムの歩みこそ、当時の現実では有りえないことでした。御旨を感じる人、御旨を知っている人があったとしても、誰がアブラハムの側になって、「正しいです。あなたがいく道は正しいから私を導いて下さい」と言えるでしょうか?

 アブラハムは、世の中からどう思われ、御旨に対する一片丹心で、永遠にハランを離れる心情で出発したわけです、そうして、天の導き通りにいく時、いかなる冒険が待っていたとしても、死の峠が遮っていたとしても、忍耐しつつそれらを乗り越えていきました。

アブラハムの超現実的な信仰

 神様は偶像商であるテラから、その長子アブラハムを奪い出して、そのような立場に立たせたのです。そのように立てられたアブラハムは「これから私が行く道を、私の愛する父母が、友達が、兄弟が、その誰がひきとめても,私の中心は変わってはいけない」と確固な覚悟をしました。それだけではなく、アブラハムは祝福を成すため、100才にやっと得たイサクまで燔祭として捧げることを命ぜられた時にも服従しました。その命令は歴史上になかった、一つの冒険的な条件になる命令でした。それは、天と地に代わって、天上のことや地上のことなど、すべてを左右する条件であったが、これを知らなかったのにもかかわらず、アブラハムはイサクを祭物に捧げようとしたわけです。

 愛する息子を祭物にして、刃をもって刺そうとしたアブラハムを、皆さん、考えてみなさい。これは実に、超現実的な意識でした。その当時の誰が、そのようなアブラハムの信仰を認めてくれることができたでしょうか。アブラハムが提示したこの冒険的な行動は、即ち、アブラハムとその家族が天のものであるので、アブラハムは勿論であり、彼の家族とすべての所有物までも神様の命令に従わないといけないということを現わす行動でした。このような事実をアブラハムは、一人しかいない息子を燔祭として捧げる過程から悟りました。

 それでアブラハムは、「この息子は私が産んだんだけれど、あなたのものですので、あなたに捧げます」という心でイサクを燔祭し、現実的な環境を打開したわけです。このような先祖たちの信仰の中心を皆さんは悟るべきです。

 ヤコブもやはりそうだったし、モーセも同じでした。神様は彼らを立てる時、平坦な道を歩むようにはしなかったわけです。

 ヤコブは生まれた後、エソウから長子の嗣業を奪う争いをしなければならなかったし、モーセも生まれながら戦いの条件にかかっていました。


 冒険と革命の道を歩んだモーセ

 モーセは、イスラエル民族が、エジプトで400年間の苦役を経ている時、天から立てられました。そして、パロの押政下で3カ月間は母の保護を受けた後、パロの娘に引きつれられ宮中に入り、40年を送りました。皆さんは、モーセのパロ宮中での生活が贅沢でいい環境であっただろうと思うかもしれません。

 しかし、御旨を知るモーセは、エジプト宮中にいながらもエジプトの民族ではありませんでした。イスラエルを代表した、神様の選民であるということが、日に日に彼の胸に徹したのです。そうして、40年間をイスラエルの志操を抱いて暮らしたモーセが宮中から出た時、イスラエル人がエジプト人からやられるのを見て、どうしても我慢できない義憤心が爆発されてエジプト人を殺したわけです。

 その後、パロ宮中から出て、残されたイスラエルの祝福の御旨を抱いて、ミデヤンで牧者生活を始めました。それは楽な生活ではなかったのです。その時のある一人も、それほど楽なパロ宮中を捨てて牧者生活をするモーセを理解してくれなかったのです。しかしモーセは失望しないで、天のための人知らない祭壇、イスラエルのための祭壇を築いてきました。このようなモーセだったので、80才になった年、神様は彼を選んで、民族の恨みを解くことのできる主人公として立てたわけです。  その後、モーセが歩んだ道はすべてが冒険的でした。現実を超越した神様の摂理の中心を抱いたが故、彼の生全体が超現実的だったし、望むことも、出て戦ったことも超現実的でした。

 神様の命令を受けて、モーセがパロ宮中へ入る時、神様が命令した道を行くモーセを、祝福し守って下さるべきなのに、神様はかえって、モーセの行く道を遮って殺そうとされました。どうして神様は、御自身の命令を受けて行くモーセを遮って殺そうとされたのか? 現実的では有り得ないことでした。ここに、私たち人間が知るすべもない内容があるわけです。

 現実的に思うと、とても越えられない峠でした。しかしモーセは、すでに覚悟したので、生死はどうであれ、ひたすら御旨だけがなされることを願う心情で、神様とサタンが妨げる試練の条件を越えたわけです。そうして、パロ宮中で超現実的な神様の実存を確信し、10回以上の奇跡を行なったモーセは、4千年歴史上になかった宇宙的な冒険の革命家であったということを、皆さんは知らねばなりません。このようにモーセは、どんな人の反対にも屈しないで、御旨に対する超現実的な信仰をもって60万イスラエル民族を導きました。これを見る時、モーセの全生涯は超現実的な冒険の行程であったということがわかります。


 冒険の歴史を覚悟されたイエス

 民族復帰の代表者であるモーセの後、世界復帰の使命者としてこられた方がイエス様です。イエス様は、過去4千年の歴史の中で、数多い先知先烈たちが神様の御旨をなすために、超現実的な生活をやってきたということをわかりました。そして、先知先烈たちが成し遂げられなかった御旨を完成すべき責任が自分にあるということを切実に感じました。 歴史をふり返ってみたイエス様は、多くの先知先烈たちの恨みが残されており、未だに復帰摂理が終結されていないということを悟って、その終結を覚悟したわけです。

 家に、4千年の路程を開拓するための、超現実的な冒険の路程を歩む覚悟でした。多くの先知先烈たちの冒険的な歴史を総合したことよりも、もっと歩むことを覚悟したイエス様であったわけです。

 イエス様は、宇宙的な冒険の歴史を清算すべき使命を担った故、彼は生まれながら冒険の道を歩まれました。彼の生活はやはり超現実的な冒険の生活でした。そして最後には、十字架にかかる死の道までも超現実的な冒険の道であったわけです。

 それでは、イエスの生涯は何を根にした生涯だったのか。4千年歴史を総決算する生涯であって、その時まで天の恨みに徹した冒険的な路程を総決する生涯、新しい勝利の土台を成すための、地上にない超現実的な勝利の生涯でした。


 マリヤとヨセフの従順心

 皆さんがわかるべきことは、イエス様が処女マリヤの身から生まれたということです。冒険的な生涯をもって来られるイエス様の前に、聖母マリヤのような人がいなかったら、神様の御旨はどうなったかわかりません。聖母マリヤのような処女マリヤが、即ち、天の女性がなかったならばイエス・キリストは生まれることができなかったわけです。地上にマリヤのような冒険的な祭物の土台がなかったとすれば、冒険的な路程を経て、新しい生命をもって生まれるべきだったイエスの誕生はあり得なかったということです。

 マリヤに天使が現われて、「あなたは身篭って男の子を産むであろう」と言った時、マリヤは、「私が男を知らないのに、どういうことでしょうか」と聞きました。天使は再び、「万能の神様があなたを選んだ」と言いました。その時マリヤは、「主よ、私は僕でありますので、御意通りにして下さい」と答えました。この一言が宇宙的な冒険を表わす言葉でした。

 その当時、処女で妊娠すると、モーセを通して立てておいた律法によって、直ちに石を投げられ死ぬことになっていました。それを知りながらも、マリヤは現実の環境を越えて、「主よ、御意通りにして下さい。女僕であります。私は死んでものあなたのものであり、滅びてもあなたのものでありますので、御意通りにして下さい」と言ったわけです。天はこのように、地上に、生きた実体的な祭物のマリヤがあったからこそ、イエス様を誕生させたわけです。

 それだけではありません。皆さんが今日信じていく信仰生活の中でも、皆さんが知らない冒険の道がたくさんあります。自分の婚約者が身重になったことを、夢を通して予告されたヨセフは、人間的ないろんな悩みのためマリヤと離縁しようとしました。自分と婚約した処女が身重になったという事実は、ヨセフにいろんな人間的な悩みを与えたわけです。しかしヨセフは、すべてのことを自分が責任をもって、マリヤを助けようとしました。それは、易しいことではありませんでした。超現実的なことだったのです。

 それゆえ、今日の皆さんには、ヤコブが歩んだ道、ヨセフが歩んだ道に従うべき使命があります。イエス様が歩んだ道、マリヤが歩んだ道に従うべき使命が残っているのです。したがって、このような超現実的な場面が、超現実的にしか通じない冒険的な峠が皆さんの前に立ちふさがっているということを、私たちはわからなければなりません。


 誕生から超現実的な冒険の道を歩まれたイエス

 4千年歴史の悲しみを抱えて、死んでも生きても、専ら御旨のために祭物として捧げられることを覚悟して出たイエス様を、人たちは知りませんでした。彼が万民の救い主メシヤであることを知らなかったわけです。こんなことをみると、イエス様は誕生から超現実的であって、新しい理想的な冒険の生涯を送りました。今日これが、未完成のまま、再臨の時に要求される御旨として残されているということを、皆さんはわからねばなりません。

 イエス様の生涯をみると、ヨセフとマリヤの家庭で育っていた時から、御旨に対する憂いと心配がありました。弟たちから非難も受けました。イエスの30年生活は、ヨセフがイエス様に対して持った、最初の心通りにならなかったのです。ヨセフが、イエス様より自分の実の息子をもっと愛したわけです。それゆえ、イエス様はやはり当時の社会形態に合う家庭環境ではなかったということをわかるべきです。

 そうして、連れ子のように生き、十字架でなくなられるようになったイエス様のすべての生活は、超現実的な生活でした。そのような環境で、あらゆる家庭的な不和にぶつかりながらも、イエス様は黙々とそれを乗り越えました。ついには、御旨をもって現われて、万民のメシヤであることを証しするのもやはり、現実的ではありませんでした。

 永い歴史を通して、ユダヤ教の信条として立てておいた律法の次元を越えて、新しい天の福音をもって現われたイエス様であったので、至る所々から歓迎されたことがなかったわけです。そうしてイエスは、家庭から、洗礼ヨハネから、ユダヤ教から否定され頼るところのない立場になりました。しかし、そのような立場でありながらも、御自身を慰めてくれるところを求めたイエス様ではありませんでした。

 神様の御旨を知っているイエス様は、新しい新約の福音を宣布されました。初めて洗礼ヨハネがイエス様を証しした時は、ユダヤ教の祭司長たち、あるいは書記官たちから認められる環境だったのです。ところが、3年公生涯路程を経ながら、イエス様の位置はだんだん下がって、結局は漁夫や婦女者たちだけがついてくる立場に置かれたわけです。

 神様の理念を立てるべきイエス様の前に、約束としては永遠な約束が、御旨としては永遠な御旨があるべきだったのに、現実からそれを、いくら探そうとしてもだめだったのです。荒野に5千名の群れを集めておいて、彼らのために天に向かって祝詞なさったイエス様の心情、ラザロの墓の前で切実に祈られたイエス様の心情は、地上の誰にも比べられない悲しい心情でありました。

 4千年歴史上の数多い先知先烈たちが、神様の御旨のために冒険的な生活をし、悲壮な覚悟と内的な悲しみを抱いて戦ったが、イエス様の内的悲しみには比べることができません。イエス様は、4千年歴史のすべての恨みの心情を解いて、神様の内的悲しみの心情を慰めてあげるべきだったわけです。

 イエス様に従った人たちは、ユダヤ人が歓迎する人たちではありませんでした。ユダヤ聖徒たちが認める人たちではなかったのです。

 イエス様は、社会からも教会からも歓迎されなこを歩まれました。どこへ行っても、自由な環境ではない立場に置かれたイエス様だったわけです。

 イエス様の悲痛な心情

 モーセが、60万イスラエル民族をつれて出る時、彼の前には紅海が立ちふさがって、後にはパロの兵士が押し寄せてきました。モーセは、死を恐れる60万民族を代身して、そのような死の試練から充分に勝つことのできる一つの信条をもって戦いました。それは、60万民族を生かせる道であったわけです。

 イエスが、5〇2〇で5千名の群れを腹一杯食べさせたのも同様です。日暮れ野に散らばっている群れを見ておられたイエス様の心情こそ、現実的では地上のどんな人からもみられない心情でした。イエス様は、このような心情をもって、お父様の前に訴えたので、冒険的な創造歴史をつくったわけです。

 誕生から冒険的だったイエス様、生きながら冒険の道を歩んだイエス様、最後、十字架にかかるまでも冒険的な基準としてなくなられたイエス様であったことを、私たちは感じなければなりません。こんなことをみると、イエスの生活は、ただの微々たる生活ではなかったということがわかります。上品で格好いい、そのような生活ではなかったのです。 これから皆さんは、信じている自身を分析して、イエス様の生涯路程に合わせてみなければなりません。皆さんに、イエス・キリストの新婦になりたがる心があるならば、皆さんはイエス様の一生の冒険的な生活、ゴルゴダ山頂、蔑視と苦難の生活から十字架にかかるまでの運命の道、冒険的な死の道を行かれたその生涯をわからなければなりません。

 実に、イエス様の生涯は冒険から出発して冒険で終わった生涯でした。新郎として来られましたが、寂しく死の道を行かれたイエス様、私のために亡くなられたイエス様、私を救うために亡くなられたイエス様の悲痛な心情を、常に私たちは心から感じなければなりません。

 今日のこの終末に、皆さんがイエス様に捧げるものがあるとするならば、それは何であろうか。生涯を冒険的に送ったイエス・キリストのはがゆい心を胸に抱いて、全世界に対して、天地に対して、誰よりも立派な祭物、天地どこからも探すことのできない唯一の宇宙的な冒険の祭物になることです。

 それゆえ、これから皆さんは、歴史過程を経てこられた神様の恨みの心情を悟って、僕のところから上がっていくべきです。楽なところから何かをしようとしてはいけません。御旨のため死ぬことができる心情をもって生活しなければなりません。考えてみなさい。地のために死んだイエス・キリストが、地に対して怨んだら、彼以上に怨むことができる人はいないわけです。

 しかし、イエス様は御自身のために来られたわけではありませんでした。まずは、歴史のために来られ、イスラエル教団のため、イエスラエル民族ために来られました。従う弟子たちのために、民族と国家、世界、そして天宙のために来られたわけです。彼の一生は、民族と国家、世界、そして天宙のための一生であって、死までも自分のための死ではなかったのです。

 ところが、このようなイエスの歩みを、誰も正しいと言わなかったのです。死にいたっては愛する弟子たちからも裏切られ、一人になってすべてに責任を持たざるを得なかったイエス様を考えてみなさい。万一人間に対して悲しんだり怨もうとしたら、地を叩きながら泣いても30年生涯の恨みが解けきれないし、受けた苦難を補償されるすべがないわけです。しかしイエス様は、当時の人類がサタンの主管の中で苦しむことを心配され、哀れみの心情で、十字架の死の立場からも、裏切った民族、裏切った弟子、裏切った全人類のために祈られた方でした。悲しみのイエス様だったゆえ、その方は、この地上の先祖たちが4千年歴史を訴えても、その当時の全人類をあげて訴えても、彼らの友になることができたし、反対した民族のため、怨讐たちのために祈られることができたわけです。これは4千年の人類歴史上になかったことでした。さらに、これは天上と地上に徹した罪悪の垣を壊すための、宇宙的な行事でした。 イエス様が万民の王であるならば、皆さんは、その王の王妃になるため、彼の約束を信じ、すべてを御旨の前に捧げて生活しなければなりません。

 イエス様は、そのような道を歩みました。イエス様の生涯は、そのような生涯でした。イエス様の所望は、御旨のために生き、御旨のために死ぬことでした。


 先祖たちとイエスを見習って、冒険の道を歩むべき私たち

 それでは、今日の私たちがすべきことは何で、私たちがわかるべきことは何であろうか。死の立場に立ってでも人類のために祈られ、恨みの心情ですべての悲しみを担っていかれたイエス様を知ることです。地上に一つの御旨を立てておいて、冒険の道をいかれたイエス様の心を、私たちの心にし、イエス様の死を悟った今日の私たちが、宇宙的な冒険の道を通してイエス様の恨みを解いてあげなければなりません。

 イエス様を信ずる人の中には、「お父様、福を下さい」と祈る人が多いのです。ところが、福をくれと祈る前、イエス様の悲しみを悟らないといけません。それだけではなく、イエスの生涯と十字架の路程までがわからないとだめです。人間がわからない、イエス様と神様だけが知っている、冒険的な行程の悲しみがあったということを、イエス様が話しきれなかった内的悲しみの心情を悟るべきです。

 そうして、「主よ、あなたの恨みと歴史的なすべての恨みを私たちが解いてあげます。私たちを励まして下さい。歴史的な民族を通して成就されたかったその御旨をなすことができるように役事して下さい。私たちが、宇宙的な歴史を代身し、数多い先知先烈たちが残した恨みを解いてあげる冒険的な祭物として立つことができるよう役事して下さい」と言えるようにならねばなりません。

 今日、私たちが願うところは、イエス様が地上に残した御旨を成就することです。最低のところまで落ちたイエス様の御旨を成し遂げるべき運命が、私たちの運命であるわけです。歴史は、個体の冒険的な路程を経て、家庭、社会、国家、世界を通して流れてきました。それゆえ、クリスチャンが個人の御旨を成そうとする時は、その個人も行程に冒険的な路程が与えられました。家庭もやはりそうだったし、社会も、国家も、世界も同様でした。今日、このような冒険的な関門が皆さんの前に置かれているということを知らねばなりません。ゆえに、今日の皆さんは、冒険的な生死の岐路、宇宙的な審判台の前に立たされている自分一身の冒険、自分一身の生命や民族の生命、世界人類を代身して冒険的な祭物として捧げられなければなりません。

 そして、先知先烈たちが歩んだ生涯路程とイエス様が歩んだ生涯路程を、今日の私たちが、どんな時代や環境からも見習って歩むことができなければなりません。さらに、いつ誰からいかなる条件を提示されても、超現実的な自分を立てて、宇宙万象の前に訴えることができ、天上の御旨を代身した者として出ることのできる覚悟と自信を持たなければなりません。


 冒険的な祭物として捧げられるべき私たち

 再臨の日が近い今日において、皆さんは6千年歴史の最後に残された、一つの宇宙的で冒険的な責任を遂行しなければなりません。その責任が宇宙的であるならば、皆さんも相対的に宇宙的な存在にならないといけません。ここで、冒険的な内的覚悟を持って出るときこそ、その責任が遂行できるというわけです。

 神様の御旨が、私たちの信仰生活とは違うように成されるとしたら、どうなるでしょうか? 今まで、超現実的な冒険の路程を通して神様の歴史は進んできました。

 このような、宇宙的な関門を経てこそ、最後に勝利の旗をあげて、お父様の前でホザナの凱歌を歌うことができ、宇宙的な新婦の立場を代身できる存在になるわけです。また、そうできれば、いかなる条件にもかからないで、いかなる迫害と非難があっても、超現実的な冒険の基準を立てる天の王子になることができます。

 そのような王子になる覚悟を持った者こそ、神様の摂理の御旨に対して最終的に責任を持ち、その栄光を現わすことのできる、キリストの新婦になるということを皆さんはわからなければなりません。お祈り致しましょう。


 祈祷
 歴史の曙の時、私たちが悲嘆の中にいても、その一筋の光りは、私たちの心と体に照らされているので、生命の跡を持っている者、生命の力を持っている者に、お父様、共にして下さい。

 残された宇宙的な冒険の道を、今日のクリスチャンたちが歩むことができるように、お父様の役事を一日でも早く現わして下さい。

 お父様、私たちの今までの信仰生活は、自己中心のものでした。いつ私たちが、イエス様のために、天のために冒険的な生涯を送ることを覚悟したましたか? いつお父様の前で、「冒険的な祭物になります」と祈ったのでしょうか? 今日ここに集まったあなたの息子・娘の中に、そのような者がいなかったら、お父様、悔い改めることができるよう許諾して下さい。天の摂理の前で恐れることを知らない存在にならないように許諾して下さい。そうして、宇宙に代わって冒険の道を歩もうとするお父様の前で、切に祈ることのできる私たちになるよう許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。

 お父様、ここに集まってきたあなたの子女たち、超現実的な生涯を求めてきました。彼らの生活は、正常的な生活ではありませんでした。狂的な生活であるとすれば、それ以上に狂的な生活はないはずです。しかし、過去と現在と未来を通して見れば、それは狂的な生活ではないということがわかります。

 このような、宇宙的な苦痛の道、宇宙的な冒険の道で、お父様の裏切る者にならないように導いて下さい。お父様、能力の御手を伸ばして下さい。イエス様が歩んでいかれた生涯は、私たちが見習って行くべき路程であることを知って、復活と蘇生の歴史を経て、新しい生涯の中心を持つように許諾して下さい。新しい生活の基盤を築き、新しい力で一つになって、天地から認められる路程を歩むことができるよう許諾して下さい。お父様、切にお願い致します。

 今日伝えた御言が、集まった子女たちに生命の御言になるよう許諾して下さり、永遠なる勝利の祭物として捧げられるよう導いて下さい。彼らが訴えの条件を備えて、天上の恨みを解くことができる息子・娘になるよう許諾して下さい。切にお願いしつつ、主の御名によってお祈り致しました。アーメン。





一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
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Last updated  2021.01.28 19:35:58
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