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異端がなぜ異端なのか?ここでいくつかの聖句を挙げてはアウグスティヌスの「三位一体説」を主張しているようですが、「三位一体”説”」といっても 所詮は「諸説の一つ」 に過ぎません。
聖書解釈において「議論の余地がある、相手の言うことも一理ある」という程度の違いであれば分派だと言えるが 、明らかに聖書の書いてあることと違える主張をするのであればそれはもはや異端である。
それ故、統一教会及びその残滓も異端と言えよう。
異端は三位一体説及びイエスキリストの神性を否定する。
統一教会教祖である文鮮明は再臨のメシアを自称しているが神ではない。
故に、イエスキリストも神様であっては都合が悪いのだ。
だからイエス様を単なる人間に貶め、その神性を否定する。
我々クリスチャンはイエス様は人間として我々の前に現れてくださったが、同時に神であるという認識である。
聖書にそう書いてあるからだ。
そしてイエス様は受肉前においてはこの世の創造に携われている。
コロサイ人への手紙1章15~17節
御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。
なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。
他にも次の聖書箇所を読めばイエス様は子なる神でありこの世の創造に携われたことが分かります。
ヨハネの福音書1章1~18節
へブル人の手紙1章1~4節
ピリピ人への手紙2章5~11節
つまり、単なる人間である文鮮明氏はメシアではありません。
偽メシアです。
イエスは創造目的を完成した人間として、神と一体であられるので、彼の神性から見て彼を神ともいえる。 しかし、彼はあくまでも神御自身となることはできないのである。神とイエスとの関係は、心と体との関係に例えて考えられる。体は心に似た実体対象として、心と一体をなしているので、第二の心といえるが、体は心それ自体ではない。これと同じく、 イエスも神と一体をなしているので、第二の神とはいえるが、神御自身になることはできない。 そういうわけで、ヨハネ福音書一四章9節から10節のみ言どおり、彼を見たのは、すなわち、神を見たことになるのも事実であるが、このみ言は、イエスが正に、神そのものであるという意味で言われたのではない。家庭連合を異端視する理由として「」を挙げていましたが、「三位一体”説”」は諸説であって聖書に書かれたものではありませんでしたし、また、イエス様の神性を否定しているわけではありません。異端視される根拠が一つ二つと消えました。
一休さんのような機知(トンチ)ではありません。
奇知=人とは異なる知恵
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世界平和を願う 奇知の外の凡人
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