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2021.07.11
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​​​​​​​ 「心情の十字架」

1972年4月30日
松濤本部で


 心情と言えば神様まで続くんだよ。我々、歴史を通じて過去、現在、未来の……そして神様まで続く。

 心情と言えば、それは地上の基準としては、国でもなければ世界でもなければ、それは我々が住んでいる家庭である。家族である。家族には父母がある。それから夫婦がある。いわゆる神を中心としてみれば創造理想の、その目的の基準がその四位基台にある。ここを中心として完成されない以上は、理想的氏族も生まれてこなければ、あるいは、国家も生まれてこなければ、世界も生まれてこない。理想的家庭より世界まで、地上にそれが生まれてこない以上は、天上、いわゆる霊界においても理想的なそういう天国というものは生まれてこない。

 だから、心情的十字架と言えば、この問題を解決するためには歴史は通過してきた。神もこの問題を解決するために苦労してきた。それで宗教をずーっと考えてみるというと、今までの宗教は一人の男のため、この男たるは、父を代表したものである。夫を代表したものであり、子供を表したものである。

 男というのは家庭を中心としてみれば、これは統一教会の原理で言えば、第三相対対象、こういうような基準に立っている。一人という男は一人ではない。それは歴史的数多くの夫があった。その夫を代表したもの、その子供があった、その子供を代表した歴史的いわゆる神の理想とすべき、あるいは人間の標準とすべき歴史的その男というものは、今まで生まれていなかった。神から言わせれば、神の願う親としてのタイプがあったに違いない。あるいは夫としての、これが永遠に標準になる神が願い出た理想として、その夫としての標準があったに違いない。その標準に一致した男というものは、今まで生まれていなかった。その男を一致させる、その一点に一致した完成したという、そのものを神は今まで求めてきた。それは、世において夫をのり超える、あるいは子供をのり越える、だれでもその標準と一致しなければならない基準を神は求めてきた。

 家庭の中で親もおればお父さんもいる。そこにはお父さんを中心として、お母さんをもいる。それから、その夫婦の子供になっている。それがただ単に我々の知ったような、夫婦、父母、子供関係ではありません。そこには深い神の背後の摂理の要求するある標準基準とそれは対象しえる、そういう相対的立場に立っているのが我々の家庭である。

 その家庭が神の願いの善なる男を中心として三代圏を兼ねた男の代表になっているかということを考えた場合には、それに合格するものは地上には未だ一人もいない。それを当てはめようとするのが神の摂理であり、その中心点の立場に送られたものがメシヤである。

 メシヤとは何か



 そういう意味において、今までのキリスト教は、反対に上がってくる。堕落したんだから、親から始まったのではなくして、子供の方から反対に上がってくるんだね。それで、子供以下の僕、僕以下のそのサタン圏に落ちたのだからその反対から上がってくる。だから旧約時代はどういう時代かというと、それは天使長復帰時代、天使世界を復帰する時代である。今のキリスト教は何の時代かというと、それは天使時代を越えて、それから養子の時代に上がってくる。

 サタンは何かというと、天使長、いわゆる僕以下の世界を主管するのがサタンである。それでサタンは僕にもならない、いわゆる神の管軸圏にかかわりあいのない、そういうような立場にあるものがサタンである。だからサタン世界にある人たちを摂理の方法を通して僕として復帰する。僕が堕落したのだから、それを蕩減復帰しなければならない。だから、旧約時代は僕の復帰時代、新約時代は養子の復帰時代、こういうように反対に上がってくる。それから実子、本当の神の子供として復帰される時代に接合されなければならない。これが、今までの宗教が求めてきた鉄則の中心の使命を果たすためにこられた人物がメシヤである。種類が違う。

 だから養子はしぶ柿みたいなもので、実子は甘柿であるんだね。ここにおいて、しぶ柿が甘柿になるには、ただではならない。接ぎ木をしなければならない。全てを切ってしまって、自分の本体を完全に切ってしまって、小さい枝をもらってきて接ぎ木されなければならない。接ぎ木させるところが、その運動をなしているのが宗教である。そういうふうにして完全に接ぎ木されて実が実るようになると、それがしぶ柿ではなくして、甘柿になる。

 しぶ柿になったものはしぶ柿をうむようになる。それは原罪のある人を生むことになる。

 我々はいくら努力しても結局、原罪をもっている。血統的汚された原罪はまだまだ脱ぎきれないでいる。原罪をはらい取ってしまわなければならない。しぶ柿自体を中心としては、いかなる苦労をなしても原罪を取ってしまうことはできない。それで原罪をなくすには、しぶ柿の畑の中に一本の甘柿が必要である。その甘柿の存在がメシヤである。だから甘柿一本をむかえた場合には、しぶ柿の畑を全部一挙に切って接ぎ木すれば、一ぺんに甘柿になれる。甘柿になったということは、罪のない子供を生む本来の、堕落圏に属しなかった、本来の理想的基準に帰った立場をいうのである。そこよりはじめて、神様として子供の立場に立ちかえることができるというのだね。

 こうみると、今まで歴史が摂理上から神が望んできた一点は何かというと、甘柿を迎えるための犠牲の運動だ、こういうようになっている。だから、しぶ柿が実れば実るほど、それはよくないというんだね。その木が弱くなっている。だから今まで堕落人間には相対関係を結ぶことができなかった。高級な宗教は、いわゆる独身生活を強調してきた。そういう背後にこと一点を中心としてみんなひっかかっているから、これを解決させる神の摂理があるとすれば、もし神がいたとすれば、こういう歴史過程を通過せざるを得ない結果になっている。だから甘柿の一本の中心者として来られたのがメシヤである。そのメシヤは将来どうなるか。子供として、世界的子供だよ。歴史上において、今まで数多くの親考行するものがあったであろう。それは人間を中心としての親考行であって、神を中心として歴史以来、神の御心にかなうような親孝行者、そういう者が生まれてこなかった。そのものを代表した一人が生まれてこない。一人が生まれてこないと、真の婿さんというものが生まれてくゆはずがない。一ぺんに生まれたとたんに、それは婿さんになるのではない。子供、神の子供として、神の実子として、神の血統を受け継いで善の神の心情の内容を通して生まれた子供でなければ、神の願う婿という新郎という男は生まれてこない。これは原理がそうなっている。だから、神の子供として生まれて、完全に神の心情の全てを愛によって、愛されたそういう子供が今までに生まれてこなかった。

 イエス様の立場

 イエス様を中心として見ても、イエス様を本当に神様は愛したか?本当に愛したかったけれど、本当に愛することができない。

 原理から言えば、エデンの園においてはサタンの讒訴を受けていない。サタンと闘う闘争の相対というものは、エデンの園ではいらなかった。しかし、イエス様はユダヤ教、あるいはイスラエルと民族が反対する立場に立っている以上は、サタンと闘う立場にある。その基準は神から見た場合には、本来堕落しない前において、サタンという存在がいないという所において、神の心情にあふれる愛をもって子供を愛される立場とまるきり違う。こう見れば、イエス様もこの時代に来られて、神の本当の理想的子供として愛されたかったのだから、愛の理想の願いの子供として立つことができない。だから、神も又理想に一致した子供として愛することができなかった。それがまだまだなされていない。

 だから、イエス様が死んで行かれる立場から見ても、また再び来なければならない。それから子供として、歴史的あるいはその当時、人類を代表して、神の前に立って完全に愛される子供として立つとしても、それで全てがなされたのではない。その以後に果たさなければならないのは、完全なる神の愛を中心とては婿としての使命を完成させなければならない。それが再臨である。世界的である。

 数多くの旦那さんがいるね。それはもう、家庭において、部落において、国においてたたえるような者がいたであろう。それが問題ではない。歴史的数多くの夫婦を中心として、夫として代表的立場である。神の願いに一致した基準に立たなければならない。そういうような神の立場に立った婿という使命を、イエス様は果たさなければならない。それを果たそうとされるイエス様にもかかわらず、十字架にかけられてその使命を果すことができなかった。それでイエス様の願いはそれがやるべきイエス様の第一の使命であったのだから、十字架にかけられて地上を去る時において、再び来るときには新郎として来られる。なぜ新郎という話が生まれてきたかは、今まで宗教は考えてもみなかった。新郎という問題は、その基準において生まれてきた。その新郎として完全なる立場に立って、それからその以後には完全なる夫婦一体となり、神の愛を中心として生まれた子供をもつことになり、はじめて真なる親に立つことができる。これは神御理想に一致した親である。

 世界中に数多くの親がいるけれども、それは比べものにならない。全ての親あろうとも、全ての夫婦あろうとも、全ての子供あろうとも、再びそれは神の理想の願いに一致させなければならない運命に立ったのが、堕落圏内にいる人類である。

 これが生まれてこないというと、全ての男性、いわゆる四位基台理想圏というものが生まれてこない。こう考えてみる時に、イエス様の行かれる道は、子供としての十字架の道を行かなければならない。子供としての十字架の道を蕩減して、勝利して、地上にその基台をつくっていかなければならないとが、イエス様の使命である。

 国家基準を越える

 しかし、子供としてのその基準を示すという基準は、どの基準においてそれを果されるかというと、それは国家基準を越えることにおいてそれができる。それは限界線がある。それをはっきり知らなければならない。神の主権がなければならない。その主権たるものは、サタン主権の悪主権に負けるような主権ではない。それをのり越えるような立場に立つ主権が必要である。その基準に立たなければ、神の子供としての権威を立てることができない。いくら権威を保とうとしても、サタン圏以下であったら、国家以下であったら、いつでもやられる。勝利した神の子供として立つべき基準というのは、国家基準を凌駕しなければならない。それから夫婦の基準もその限界線をどこにおいたか。同じである。国家の基準をのり越えてこそ、神の願いである真なる夫婦の基準を横的に立たせる基台ができるのであって、その基準が出来ない以上は全てがくずれる。

 それを目標として、メシヤをよこすために、四〇〇〇年の歴史を通じて、何をしたかというと、国家基準を立たせた。サタンを凌駕し得る有利なる立場に立つ国家という問題を中心として、神はそのイスラエル民族を立たせた。そして国を立たせ、それから宗教、神によるそういう分野の中心的基準を広めさせて、イスラエル民族の精神的思想的位置に立たせたのがユダヤ教であった。それが一つになって、絶対的国、永遠に滅びない国、神が願って今まで闘ってきた、その求めた完成される国、その国の上に立つ子供、その国の上に立つ夫婦、その国の上に立つ親となったならば、イエス様には十字架はありません。子供としていかれる十字架ものり越えた、夫婦としていかれる十字架ものり越えた、それから親としての十字架ものり越えられる。しかしサタン圏内において、その基準をのり越えなかったならば、いつまでもサタン国家基準以下にあるのだからこれはやられる。だから、これを果さない以上は、個人ならば個人、あるいは氏族ならば氏族、民族を編成したとしても、その民族はやられる。民族がやられるその基準であったら、氏族はもちろんである。家族はもちろんである。個人はもちろんである。だから、国家基準をのり越えた辻成された神の子供、完成されたその神を中心としたその婿、真なる父という立場を完成させないというと、歴史的男として神と一つになって勝利した基台を地上におくことができない。


 それをクリスチャンは、イエス様を信じて立とうとするところは一体どこかというと、婿の立場、父の立場、こういうふうに復帰していかなければならない。

 真の父母の使命

 こういう観点から見た場合に、我々統一教会において、誇るべき基準は何かというと、真の父母を願う。真の父母という基準を願うとうのは、それは子女の使命を果した基準であり、それから婿の基準を果たした基準であり、その基準を通過してはじめて生まれてくるのが真の親である。これが歴史的においてはじめてこういうような基準を我々が迎えられた。だから最後の地点に向かって我々は召されたものである。それにともなって女もそうである。堕落した以後において堕落をなした結果、いままでその一瞬間にも神の前にただして誇るべきその女の子が生まれてきたか?生まれてこないよ。それは男が生まれない以上は、女というものは思いもかけることができない。神は原理の神だから、原理の中心である男を、完成された男へのそういう基準を出さない以上は、女という存在をもとかえす道はありません。それで今までの全ての宗教の教祖というものは女はいませんよ。全ては男だ。この男たるものでも、それは天使長としての使命をやれるものは多いのだけれども、子供として使命をやれるものは多くはいませんよ。しかし、たった一人、イエス様は神を中心として自分は神の一人子である、こういうような歴史的宣布をなしたというのは、これは、我々男としては最高の望みの一線をこの地上に教えられた。第一の使命である、その次には自分は花婿である。これまさに原理の観点から見た場合には、本筋の主流の本質に立って、第二段階のその位置を解決しようと思った男に違いない。それは歴史において初めてである。その婿になったならば、必然的に親になる、真の父になれる道が生まれる。生まれてくるにもかかわらず、子供として迎えるそういう家庭において、これをもたなかったのだから、サタンに追われて十字架に死んでいった。これがイエス様の心情の十字架であった。

 これを地上において、そういうような条件にひっかかってしまったのだから、地上においてこれを蕩減復帰しなければならない。これを世界的に基台を広めてきたのが、天使長教文化圏である。こういうふうにして、再び神の完成された心情を受け継いだ子供として立つべく、その基台を国家基準以上基準をなそうとしたのが、なされなかった。

 だから統一教会においても、そういう基準が初めから得られた場合には、我々統一教会は、周囲において、あるいは世界において、あるいは国において迫害という道はない。絶対に勝利基準において平面的に直進すべきそういう道が、それに反して今まで闘いの道として、再び蕩減復帰の道を通過して二十四年間の道を再びもとがえしてきたのが、我々教会の歴史である。そういうふうにして、最後に願うのは何かというと、真の父母の基準までいかにして上るか、これを願っている。だから、真の父母が生まれた以上は、真の子供も地上に生まれることもできれば、真の娘も生まれることができる。だから、真の娘が生まれるには、真の子供が生まれてきて、いわゆるアダムが完全に創造されて、アダムを標準としてエバをつくったのと同じように、真の娘は女によって生まれるのではないんですよ。男がいなければ女は女は生まれてくる道はありません。

 だから真の子供が地上に来てやるべきことは何かというと、真のエバを創造しなければならない。再創造の道を我々は行っている。



 イエス様は地上に来て娘を奪う、女はいくらでもあった。いくらでもあったとしても、いくらでもあるその女の中で、誰でも選んで神の願うその娘とさせることはできない。それは、完全にアダムと同じ運命の路程に立ったその娘のタイプを選ばなければならない。そうするには、歴史的イエス様の来られる因縁の背後関係を結んだ女を選ばなければならない。そこには氏族が問題になる。血統が問題になる。それは過去ばかりでなく、現在も問題になる。いわゆる過去において神の摂理に一致し、現在においても神の摂理に一致しわ未来においても一致されるような先祖、あるいは現在の親戚関係をもったその基台で選び出さなければ、真の女を送び出すことはできない。それを選び出して、女は女の自分の気のままにやるような女では、真の夫婦になれません。エバがアダムを主管したのが堕落だから、完全に主管されなければならない。一から十まで、完全に主管されない以上は、女の価値というものはない。

 これほど為そうとしていたにもかかわらず、イエス様がこの地上において、聖書を見ればどういうような女を中心として語りかけたとは、聖書にはない。それが成されなかった。それはマリアがしなければならない。三十以上にもなっている自分の子供に対して、結婚させなければならないのが親の立場であるにもかかわらず、話リア自全には、そういうものを夢にも思わなかった。それで、親戚の結婚式に、イエス様も家を出てその親戚の結婚式に参席した。自分の母のところにおられた。そうして、その酒がないということをイエス様に言われた。それでイエス様が言うには、「女よ、君と我となんのかかわりありや」と、こういうようなことを言ったのも、他人の、親戚の結婚式が問題ではない。内心のうらみの一点を表わした立場であった。親戚の結妃式に関心があるんだけれど、自分の結婚に対しては全然考えていない、こういうような反発をした。こういうような背後関係を我々はわかった。

 だから、本当の娘というのは、それはイエス様によらなければ、真なる子件を通してでなければ、生まれる道はない。それが完全に一つになったならば、そうして国の基台の上に立ったならば、それは自然と夫婦になれる。夫婦になった場合には、自然と真の親となる。そういう関係を国を基台として成そうとしたのが神の摂理であるにもかかわらず、イスラエル民族とユダヤ教が一致した立場に立たないから、十字架につけられた。こういうふうに考えてみるというと、イスラエル民族の犯した罪というものは、これは歴史的罪を犯している。真なる神の子供として立つべき基台をなくしてしまっている。真なる夫婦の基準を完全に崩壊してしまった。真なる父母の基準を地上に永遠に立たすべきその基台を完全に崩壊してしまったというような立場に立ったのが、イスラエル民族である。だから、このものが再びかえって来ない以上は、それは蕩減を負わなければいけない。それ故に、イスラエル民族は、イエス様が逝かれた後に二〇〇〇年の歴史は各国に散らばって犠牲の道をたどっていくようになった。それで、子供を愛そうとしても自由に愛する立場ではない。夫婦共に平安に住もうとする立場を許さない。親子共に生活をする環境にイスラエル民族は関係をもたすことができない。それを蕩減しなければならないから、数多くの民族に追い追われて、数多くの犠牲の代価を払って蕩減の道をたどってきた。それは正しく一九四八年において独立できたというのは、再臨時代が来たということを証ししている。こういう原理的観点かや、我々は知ることができる。十字架の道は、子供として立たれない以上は、子供として立つべき、その道を開墳すべき十字架の道が残っている。

 これが心情の十字架の道であり、子供として行かなければならない十字架の道である。それから夫婦としてその道が立たれない以上は、まだまだ、それから行かなければならない夫婦としての十字架の道が残っている。それから真の父母の基準が立たない以上は、その父母がいかれる三十代十字架の道がまだまだ残っている。これがもしも完成されたとしても、サタン圏内ににおいて、それを望みあう、それを求めて出るものがいなかった場合には、たいへんなことになるから水、数多くの宗教ヵ出てきて、その世界的環境をつくろうとするのが、宗教の使命である。あるいは中心的基準を中心として相対圏を広めておこうというのが、今まで各民族あるいは地域におい立たされた宗教の使命である。そういうふうにして、世界的連結圏をなそうとしてきたのが、神の摂理であった。そうして一挙に世界を一つにまとめさせようというのが、数多くの宗教の使命であった。

 だから、これを果さない以上は、神の心情にも十字架が残り、あるいは来られるべきメシヤの路程にも十字架はいつでも残っている。それを果さない以上は、十字架はなくなりません。三代歴史十字架が残っている。




一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

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Last updated  2021.07.11 04:24:06
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