全3件 (3件中 1-3件目)
1
若い人は腕時計というのは全く必要性のないものと思うんだろう。肌身離さずスマホを携帯していてスマホで時間の確認ができる。(若くない人であってもそうか。。。)自分も携帯を持ち始めた時はそうだった(もちろんネットができない通話のみのもの)。でも、外出する時に腕時計がないとなんとなく不安で、していると落ち着くのである。やはり、スマホをいちいち出すより手首をさっと見る方が早いしアナログの文字盤の方が時間感覚が掴みやすい(何時まであと何分とか)。それからアクセサリーをつけている感覚だろう。どんな時計をしているかによって優越感を感じられる。(ロレックスとか)自分は優越感を持つための先立つ物はないので(正確にはあるがそれに使う気はしない)、あまり高いものは使っていない。今日、使っている2本のうちの1本がオーバーホールが完了したので受け取りに行ってきた。腕時計には自動巻とクォーツと2種類ある。自動巻は(今回オーバーホールにだしたもの)腕を動かすことでゼンマイが巻かれて針を動かす。クォーツは電池駆動だ。私は1本づつ持っていて、平日は自動巻、休日はクォーツを使っている。自動巻は放っておくと1日ぐらいで止まってしまう。なので、平日使い続けて土日はウォッチワインダー(時計を動かして止まらないようにする機械)に保管する。クォーツは放っておいても電池だから動き続けるのでウォッチワインダーに保管する必要はない。平日も土日も自動巻を使い続けてもいいのだけれど、オンとオフは気分を切り替えたいのでそうしている。巷で売ってる高級腕時計はほぼ自動巻である。(ロレックスとかオメガとかブライトリングとか)値段はピンからキリだが数十万か。私がもっているTISSOT(ティソ)という腕時計は自動巻の腕時計では最安の部類だろう。でも、10年使っているがなんの故障もないので品質は悪くないと思う。金の価値を銀の価格でというスローガンがあるようだ。人は皆自動巻の時計に心惹かれる。3〜4年ごとにオーバーホールをすれば40年でも50年でも使い続けることができる。スマホなら2〜3年、長くても4年もしたら新しいものに買い替える。40年といったら10回になる。(そこまでスマホが存在するかどうかはわからないが。。。)自動巻の時計は機械式の時計とも言うけれど、そのシンプルさと永遠に時を刻み続けるというロマンがある。進化するスマホなどを追いかけ続けているのもいいけれど、お気に入りのブランドの機械式腕時計を手に入れて一生愛でるのも悪くないと思う。
Jan 26, 2019
コメント(0)
2019年になって19日が経過した。肉体的にも精神的にも衰えを感じる。うつの傾向として易疲労性というのがある。健常者と違って精神的な緊張状態におかれると疲れてしまう。それが加齢とともに一層著しくなる。 これはなかなか健常者には分かってもらえない。いや、別に分かってもらいたくもない。障害者雇用ということで漠然と配慮さえしてくれればどうだっていい。問題はそんな障害者にとっては過酷な環境でいかに細く長く会社に居続けられるかということだ。 そろそろ限界に近づいているという感がなくはない。でも、毎年同じことを感じながらなんだかんだで年を重ねている感がなくもない。 双極性障害になっても寛解して元気に健常者と遜色なく働いて趣味も楽しんでいる人もいる。僕のように障害者手帳を持ち障害者雇用で低収入で働いている人もいれば、一般企業では働けず年金や生活保護に頼っている人もいる。十人十色だ。 初めは抑うつということで精神疾患になったのは2001年だから18年が経った。それからそれがはっきりと双極性障害だと分かったのが2006年だから13年の月日が経った。2006年から2009年まで休職して明らかに健常者と比べて気力体力とも差がついた。 それから10年が経ち、益々経年劣化は激しくなり、とうとうバイクに乗るのもしんどくなって昨年に手放してしまった。まだ50歳にもならないのにバイクに乗るのがつらくなってしまうなんて健常者には想像もつかないだろう。 人は多かれ少なかれそれなりに苦しみや恨み妬みはある。僕は恨みはあまり無いのだが、苦しみや妬みはある。特に妬みは障害者雇用の人であればそれなりにあるのではないかと思う。会社にいれば同期で明らかに差がつくのは50代だろう。障害者雇用となると収入は同期の1/3ぐらいになる。 ただでさえ疲労でつらいのに、自分の3倍の収入の同期が部長という肩書きで偉そうに闊歩しているのを見ると憎たらしい。そんな環境の50代をこれから過ごすとなると、会社に居続けられるのかどうか微妙な気もする。 ただただ明日を無事に過ごすことを考えて18年歩み続けてきたがふと顔を上げると見えている風景は地獄絵図である。
Jan 19, 2019
コメント(0)
どこのテレビ局でも平成の30年間を振り返るテーマが多い。今年は同じ年齢の友人への年賀状には、「今年は平成最後で50歳とメモリアルな年ですね」と一言添えた。昔は人生50年と言われたぐらいなので人生終盤といったところか、片や人生百年時代とも言われているので折り返し地点なのか。 平成元年というのも自分にとっては節目の年で、一浪して大学受験に受かった年だった。昭和天皇崩御の報は予備校で知った。高校受験の頃からおぼろげに目標としていた、レベルの高い大学に入り、一流企業に就職するという路線を外れることなく進んでいた。そして、まだバブルの余韻のある中、目標は達成された。 人生は確実に右肩上がりの上昇カーブを描いていた。しかし、平成13年に奈落の底に突き落とされた。うつ病である。今となっては双極性障害のうつ症状というべきか。それから約18年、人生を迷走してきてあっという間に50歳になる年になってしまった。 病気になってしまった原因は仕事での行き詰まりと同じ会社だった嫁からの精神的パワハラにあるので、結局は目標としていたことが違っていたら回避できたのかもしれない。 無理に高みなんて目指さず、自分の身の丈にあったレベルの路線で人生を過ごしていけたらよかったのではないかなと思ったりする。 ここで心機一転、時代が変わるし挽回と言いたいところだが、悲しいかな精神障害者なので気力体力コミュ力がない。どうやら時代が変わっても迷走は続きそうである。 やはり人との出会いが人生に化学変化を起こすと思う。それを考えるにコミュ力が低いのは人生を打開するには致命傷だと思う。 平成から新しい時代に変わるが、迷走している人生の単なる通過点であるような気がする。もしくは精神崩壊して無職になるというメモリアルな年となるのか。 もしそうなら、もう人生が右肩上がりすることはないと思われるのでいっそ損切りしたい。例えば、これから少子化で高齢者を支える余裕もなくなってくるのだし、医療費も膨らむばかりで、独居老人の孤独死も増えるだろうから安楽死を合法化するべきであると思う。 人生何が起こるか分からないとも言うが、一般論であって、コミュ障の精神障害者には当てはまらないと思う。18年という年月がそれを証明している。 これをプラス思考の人が読んだらマイナスに考えすぎだと思うのだろうが、僕だってもともとは目標を持って達成してきたどちらかといえばプラス思考の人間である。しかしそんな人間でも道を踏み外すと泥沼人生の生ける屍となってしまうのである。 年末年始の休暇も9日目となるとろくなことを考えない。だからこんな鬱屈したブログを書いてしまうのだろう。明日からは会社である。なんだかんだで色々と余裕がなくなると余計なことを考えないで時が過ぎて行く。苦しいが鬱屈した考えに染まらずに済む。 自分で自分を不幸に貶めていると思われるんだろうし、自分でも薄々自覚してはいる。事態を打開できない時点で人生は50年で十分だと思う。
Jan 6, 2019
コメント(0)
全3件 (3件中 1-3件目)
1