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後漢書の高句麗伝に、涓奴部、絶奴部、順奴部、灌奴部、桂婁部の五部族があったとあります。本来は涓奴部から王を出したが、徐々に微弱となり、後に桂婁部がこれに代わったとあります。 扶余伝にも、【六畜の名を官名にしており、馬加,牛加,豬加,狗加の諸加とその下に位置する大使,大使者,使者の諸使がある。】と書いてあります。どちらも、カースト的な部族連合です。カッシートは、月氏の先祖ですが、後に扶余の羊加、高句麗始の涓奴部になってシャーマン部族、牧羊民族で羊、鶏をトーテムとする壇国・番韓の王、後の物部氏になります。月氏の対婚族が牛加のウラルトゥで、ウガヤ王朝です。カッシート人というのは、BC3000年期から西トルクメニア特産の宝石ラピスラズリを持ってオリエントに行商していた人々です。シルクロードの西にいた彼らカッシートやアルメニア高原にいたウラルトゥの人々が、シルクロードを支配した後に中国史に於ける趙になり、後、さらに月氏になりました。その後、扶余になり、高句麗になって、そこから百済が分かれたのです。扶余は二派あって、このウガヤ王朝系のほかに、インドから入った製鉄部族ニギハヤヒ系があり、満州へ逃れて穢国をたてました。高句麗は黒海北岸の草原地帯にいた遊牧民族であるスキタイや匈奴の製鉄部族の高令でチュルク族が中心でした。この辺が私たちのルーツに関係します。ウガヤ王朝の戦士団は、オリエント史に初めて登場するシュメール人、言い換えるとエラモ・ドラヴィダ語族がダゴン・バアルの神話、即ち桓因-桓雄神話を持っていたらしい。ウンマ・ウルク・ウルというのはバビロンの第二王朝、海の国をたてたカルデア人で、エラモ・ドラヴィダ系の海人でした。そこにアーリア人が混同し、シルクロードを支配してカッシート、ウラルトゥ、ペルシャ、バクトリアなどの戦士団ができました。この人々が檀君朝鮮または辰韓になっていますが、その終わり頃、中国を支配しました。【史記】では、これが趙になっています。扶余族は、唐の時代にバクトリア東部のクスターナにホータンという国があって、月氏によって支配されていました。また馬韓にしても辰王は月支国の人となっています。趙の王家もこの月氏系で、それがギリシア系バクトリア人の秦に伐たれて満州に移って扶余になりました。 次に、ニギハヤヒ族というのは、オリエントのウルという海商国家が初めで、インド十六王朝の時代にウルのカルデア人やマラ族などの古代の海人たちがガンジス流域でカーシ国という海商国家をたてました。それがマレー半島を経て河南省の宛に入ってきて【宛の徐】氏といわれていました。宛というのは戦国時代の魏の製鉄基地ですが、この人々も扶余、高句麗の涓奴部なのでニギハヤヒ族(サカ族)と月氏とは同族ということでしょう。この人々は、戦国時代の魏(三国時代ではない)と同盟した製鉄部族ですが、魏が秦に伐たれたため、満州に逃れて穢国をたてました。穢国の王姓は、アグリ【余】というのですが、扶余、百済もそうです。したがって、天皇家もそういうことになります。天皇家のルーツ、扶余→百済→邪馬壱国のいわば本家である中馬韓を建国した【卓】という一族はフェニキア系でした。バビロニアのイシン王朝の末裔=箕子朝鮮が滅びた後、その将の卓が穢国の領地を引き受けて馬韓を建てたのです。そして穢国は扶余に合体しました。
2012/03/16

アルギッパイオイ人は、サカ族(スキタイ)であり、アッカドの末裔です。ポンティコンの実を食用とする根の国(ウラルトゥ)一族といわれます。この民族は神聖視されているので彼らに危害を加える者は誰もなく武器の類は一切所有しない。近隣の住民の争いを調停するのも彼らであるし、彼らを頼って避難してきたものは何人によっても危害を加えられることはない。と、ヘロドトスも記しました。彼らニギハヤヒの軍団は、アラビア海の時代はシュメール人の一派のヤードゥやマラ族で、インドでシャカ族になって雲南へやって来ました。そしてワ族やナーガ族を引き連れて満州でウラルトゥ+月氏の扶余前期王朝と合体し、その庶子 が王位を奪って扶余後期王朝をたて東明王と称し日本に来てニギハヤヒになったということです。扶余は前期も後期も共に製鉄部族で同盟していたのでした。中国史料【通典】扶余伝には扶余王の埋葬には金鏤玉衣を用いている。中略・・扶余人の性質は勇敢にして慎み深く人情に厚い。ほかの種族の地への侵略などはしない。・・・と、記します。扶余国家は、初め【伯族(ウラルトゥ)】によって建国され後に【穢国(ニギハヤヒ)】と合体しましたが、ともにその一部は九州に渡来して【ウラルトゥ】から【ウガヤ王朝】、【穢国】からニギハヤヒ王朝が成立したのです。やがてウガヤ王朝後裔の神武はニギハヤヒ一族を破って吸収し邪馬壱国をたて最後まで神武と戦った狗奴国のナガスネ彦も東北に逃れ、荒吐族、後の阿部一族の祖になります。【三国史記】によれば新羅の朴氏の祖はナガスネ彦の祖と一致しています。それはアッサム高地からマレー海峡に散在するシナ・チベット語族のナーガ族です。そのナーガ族を率いてきたのが、ニギハヤヒです。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー最後に日本にやって来たニギハヤヒの一族は青い目の人々もいたらしい。平安時代から村はずれに天部、余部という部落があって、後の被差別部落のルーツといわれますが、元来は天の王朝の人々の部落でした。新羅人の奈良王朝を破って百済人が平安王朝を建てた時、その圧制のもとで家を捨てた人々がこの地に次々と入っていったといいます。山形県の余目も最果ての余部と考えられ、ここには青い目の人が多いそうです。あらゆる文化が辺境にと逃れるように、天部の純粋の形態は東北地方に残ったのではないか。天の王朝一族は、ニギハヤヒ族の他、東表国・金官国の中臣族、公孫氏邪馬壱国の大伴氏などもありますが、このなかにも青い目の人々がいたと考えられます。10世紀中期、突如として、律令制を揺るがすような大騒動が持ち上がります。クシャトリアであった平将門の一族が下総北部を地盤として935年以来、同じクシャトリアのマラ族である平国香・平貞盛・平良兼・平良正らと領土を奪い合う合戦を繰り返していましたが、自ら【親皇】と称し新しい国家を造るべく関東地方独立を図り武力による【関東国家】の建設を目指したといいます。また時を同じくして、瀬戸内海でクシャトリアのヤードゥ族、藤原純友が1000艘を越える蛋民水軍を率いて反乱を起こしました。この2つの反乱は貴族たちに大きな衝撃を与え平安朝の天皇制も危うくしました。結局、将門勢力はクシャトリア・マラ族(アーリア人とドラヴィダ人の混血)の平貞盛と結んだツングース北倭武士団(アイヌ人)の藤原秀郷によって滅び、そのため純友は京都に突入する寸前で兵を引き返しました。敗戦の結果、将門に従っていたカッシート人らは関東平野や近畿地方に逃れて散居し、純友に従っていたヤードゥ族は蛋民(水上生活者)となって瀬戸内海一帯に散居し、各地に津(港)を作りました。やがて、鎌倉時代にこの武士たちの群れから足利氏の勢力が成長し、南北時代になると執権北条氏の鎌倉幕府を滅ぼすことになります。後醍醐天皇による【建武の中興】のとき足利尊氏は、南朝方の百済武士団の後裔・楠正成・新田義貞を滅ぼして北朝系の室町幕府を樹立するのです。
2012/03/16

日本書記は、残念なことに偽書であることは疑いないようです。しかし100%偽りかというと必ずしもそうとは言えず、このテキストは百済史の訳文を中心に新羅史、安羅史を合成して大和に存在したように著した文書のようです。この百済という国家のルーツは壇君朝鮮で、後に扶余になり高句麗になってそこから百済が分かれたと考えられます。単一民族ではなく、カースト的な部族連合です。この人々のルーツは原シュメール人=エラモ・ドラヴィダ語族の人々が始まりでダゴン即ち壇君神話をもっていました。そこにカッシート以下のアーリア人が混同したようです。天皇家のルーツにあたる扶余という国家は壇君朝鮮系と穢国系の二つの勢力が合体した双分制になっています。1.壇君朝鮮というのは、シルクロードの西、オリエントのウンマ、 カッシートや現在のアルメニアからグルジア高原を制覇していた 周辺の騎馬民族を統一したウラルトゥ王朝の人々がバビロンの ナボポラッセル王朝に参加した後、アケメネス・ペルシアの時代に シルクロードによってバクトリアから中国に入って趙という国を建て ていましたが、その後さらに、月氏になり、満州に逃れました。 この王朝がウガヤフキアエズ王朝です。 2.ニギハヤヒ系は、インドの釈迦を輩出したシャカ族の製鉄部族で 宛(古代中国の製鉄地)の徐氏といい中国史では魏国になっています。 扶余前期王朝の皇子は高句麗に養子に行き、九州に侵入した後の神武天皇になります。 高句麗はチュルク人(トルコ族)で、当初は匈奴などのシルクロード諸族に所属していたのですが、後にバクトリアが衰えてからシルクロード全域で強力になり、その中から高句麗が出てきたのです。 文明は定着農業とともに始まりました。文明発生の地は、中東です。 約1万5000年前、ベーリング・アレレード温暖期という地球の温暖化が始まり、その影響を受けて、不毛の砂漠だったシリアの北部に草原や森林が広がりました。このシリアの環境は、木ノ実や小動物など、豊富な食糧を得て、狩猟採取民族はハルーラという場所で定着生活に入りました。ところが、気温上昇のために、ある時、水の通路を塞いでいた氷の壁が融けて崩壊し 巨大な湖に蓄えられていた、膨大なる低温の淡水が一挙に大西洋に流れ込み、 広大なる海域に広がりました。 この地球的規模の大異変は、世界的な気候に重大なる影響を与えました。温暖化の傾向を受けて、それまで約25万年間も北米大陸の北部を覆っていた、厚さ3000メートルの氷河が溶け出し、しかし大西洋への捌け口は、まだ氷で閉ざされていましたから、北米大陸の中心には巨大な湖、天然のダムが形成されたのです。しかし、約1万1000年前に、ヤンガードリアス期と呼ばれる地球的規模の寒冷化の揺り戻しがありました。温暖化の傾向に一時的なブレーキがかけられ 気温は約10℃低くなり、温暖化が始まる前の元の水準になったのです。大異変の前の気温に戻るのに1000年かかりました。寒冷期が約1000年続いたのです。突然の寒冷化の理由も分からないまま狩猟採取民族の生活は突如重大な影響を受けました。シリア北部の自然環境は、もはや、かっての生産性豊かなものではなくなって、その時には定住生活により人口の増加をもたらしていたと想像できるので、この突如襲った環境の激変と、それに伴う食糧の減少は、村落の住人を窮地に追い込んだに違いありません。正に晴天の霹靂です。しかし彼らは、未曾有の困難に敢然と立ち向かったらしい。この時代の地層の考古学的発掘が興味深い事実を発見しました。約150種類の植物の種が発見されたのです。中には、クローバーの種など、とうてい食用に耐えない植物の種も含まれていました。明かに彼らは、危機に直面して、ありとあらゆる可能性を探ったのです。彼らにとって幸いだったのは、その中に小麦が含まれていたことです。小麦は比較的寒さに強い。さらにラッキーなことは、野性の小麦の性質は、たった10年程度の繰返し栽培でも、その性質をみるみる変え、粒が大きくなり殻は柔らかくなって、食用に適したものになったのです。この小麦の変幻自在の性質が、その後の文明の発展に決定的な影響を与えました。死海の北、ヨルダン川沿いのオアシスの町、エリコは、世界最古の町として知られています。その起源は古い。本格的な考古学的発掘が行なわれたのは、20世紀に入ってからです。当初、エリコ発掘は、ユダヤ人たちのエジプト脱出との関連で興味が持たれ、エジプトを脱出したユダヤ人たちが、パレスティナに侵入、占拠する時代の考古学的確認が目的でした。ところが、エリコの起源は遥か古代に遡ることになってしまったのです。放射性炭素年代測定法によれば BC 9250年まで遡るといいます。エリコは、元々は人々が定期的に立ち寄る水呑み場でしたが、だんだんと人が住み着くようになり、最古の建物は、信仰の対象を奉るためのものだったと考えられています。エリコは、現在のイスラエル北部に広く住んでいた、中石器時代のナトゥフ人の文化圏から継続的に発展してきたと考えられています。エリコの農業はナトゥフ人によって始められました。エリコは元々大麦の野性種やエンメル小麦の先祖の生育地に属し、最初はそれらの野性種が食用として試みられ、だんだんと栽培されるようになり、地元のエンメル小麦や大麦ばかりでなく、遥か遠くアナトリアからザグロス山脈にかけての地域を野性地とするエイコン小麦も栽培されるようになりました。エリコは城壁を造った点に特徴があります。つまり何者かに備える必要が生じていたわけでアナトリア産の黒曜石は、矢尻など武器に欠かすことができなかったと考えられます。エリコの人々は黒曜石を得るためアナトリアへ出掛けて行き、そこでエイコン小麦に出合ったのだと思われます。エリコは、10エーカー以上の面積を持った城壁に囲まれた町に変身し興味深いのは、この時代の城壁の下から、さらに古い住居跡が発掘されていることです。それ故、城壁がつくられる直前のエリコの町は、すでに、かなり大きな規模に成長していたと考えられます。農村は外敵に襲われやすく幼児死亡率が高い。その問題解決させたのが城壁と考えますが、それには、城壁を造るためにはかなりの人数、城壁の前に、それ築造を可能とする数の人間社会が成立していなければならない。その頃中東に、数多く叢生したと考えられる多くの農民社会の中で、なぜエリコだけがその条件を満たすことができたのでしょう。それは、エリコがより広いナトゥフ人の文化圏の中で誕生し、ナトゥフ人の共同管理によって平和秩序を形成・維持されていたからと考えられます。エリコだけは、ある規模の町に成長するまで、直接外敵と接触する機会が少なかった。それ故、いざ外敵に襲われ始めた時には、その村落は城壁を造るために必要な人数を十分動員できる規模にまで成長していたのです。
2012/03/15

BC3000年~BC2000年の始めにかけて南シベリアのイェニセイ河上流とアルタイ地方にアフナシェバ文化が栄えました。この文化の担い手は周囲のモンゴロイドとは異なり、パレオ・ユーロペオイド(白人)でクルガン人(アーリア人)でした。アフナシェバ文化は西シベリアのソンスク地方にBC1750年~1200年の間、分布したアンドロノヴォ文化という青銅文化につながり、さらにアンドロノヴォ文化はBC2000年、南シベリアのカラスク文化と中央アジア北部のダザバギャブ文化に代わりました。クルガン人は、BC3500年からBC2300年頃、南ロシアからドニエプル川流域に住んでいた半農半遊牧民族です。 彼等は、最初のインド・ヨーロッパ族であり、最初のギリシャ人だと考えられています。 多数のカラスクの遺物が中国の殷の遺跡から出土し、バイカル湖沿岸では殷の山足土器が発見されています。かつて中国北部に住んでいた丁零が殷の住民から借用した様々な文化的要素特に青銅鋳造の技術を南シベリアに持ち込んだらしい。カラスク人につづくタガール人は西シベリアの古いユーロペオイド(白人・コーカソイド)に属し、中国史の丁零である・・・と、いわれます。丁零とは、チュルク族の一派です。丁零は、高令、後の高句麗とともにチュルク族の一派でシルクロード全域にわたって分布していました。匈奴のなかに高令または丁零というチュルク人がいたことは知られていますが秦始皇帝以前の中国を支配していたのは、この人々でした。匈奴には二系あって、一つはBC4000年頃から中国大陸に侵入したチュルク人であり他の一つはBC700年頃から侵入したキンメリ人でありました。両者はともに先秦期の中国内陸の支配者だったのです。古代シルクロードの諸族はすべて部族連合でした。チュルク人とキンメリ人の連合を基本として、後の日本天皇のルーツ、ウラルトゥの扶余伯族、月氏、鮮卑などを外戚とした部族連合でありました。南シベリア、山地アルタイのボリショイ・ウラガン河岸にある古墳群でBC6~3世紀のスキタイ時代の凍結クルガン(盛土大墓)が発掘され調査の結果、この文化の担い手がスキタイ人と同じ生活様式であったことが証明されました。出土した遺物から見ると、西アジアの西方のスキタイや中国との関係を保っていたユーロペオイド(白人・コーカソイド)であることが確認されました。このパズィルィク古墳群がスキタイの古墳と違うところは、骨角器、金属製品に留まらずあらゆる遺物をいまに伝えたその永久凍結にあります。織物・羊毛・皮革製品・木製品・馬のみならず被葬者の遺体も残され、遺骸の側にはチーズも発見され、その味はまだ失われていなかったそうです。諸墳墓からは、遠隔地域からもたらされた種々の贅沢品を含む財宝が発見されました。中国産の刺繍のある絹布、BC4世紀の中国青銅鏡BC550~330年のアケメネス朝ペルシアのコブラン織り、豹の皮革青銅鏡入れ西アジア産のコエンドロの種子、さらにはインド洋産の貝殻また背の低いモンゴル馬、オリエント産の栗毛のアーリア馬が陪葬されていました。興味深いのは被葬者に文身(刺青)がほどこされていて、衣服・装身具のなかには容器そのほかの貴金属製品に描かれたスキタイ・アケメネス朝ペルシアの浮き彫りに見られるサカ人などのそれと一致するものが多いということです。これはこの頃にアルタイ地方に勢力をおよぼしてきた匈奴によって移動させられた月氏の残したものという説があります。チュルク族は月氏を主とするウラルトゥと同盟し、後にキンメリと合体して匈奴になりました。山地アルタイ出土のスフィンクス像とエルミタージュ博物館のウラルトゥ出土の「青銅グリフィン」の類似は歴然と明らかで、この類似はパズィルィク古墳の人々が【匈奴に合したチュルク族とウラルトゥ人の末裔】であった可能性が高い。パズィルィク古墳出土の動物像の表現法にはひとつの特殊な様式があってこれらはアケメネスペルシアの芸術によく似ているといいます。BC5~6世紀になるとウラルトゥ王国は、匈奴に連合するものとペルシャに従属するものに二分します。BC4~5世紀の中央アジアにペルシャ風の文化が波及したことがアムダリア流域から出土したオクサス遺宝から解かってきました。その中には鞘の身の部分には騎射によるライオン狩りの図を打ち出したアケメケス型の金製鉄鞘のデザインがオリエントそれもアケメネス・ペルシア風とスキタイ風文様のみごとな融合を示しているといわれます。これらの文化は、匈奴の一部族となって身につけたスキタイ(キンメリ)風とバクトリアに亡命したウラルトゥ人の文化であったと考えられます。
2012/03/13
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