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日本民族の祖型は中国の史家によって三つの名前で呼ばれています。古くヒマラヤを下り四川に出たものは【荊蠻けいばん】さらにシナ海沿岸に達したものは【東夷】または【准夷】青海から陜西に入り、前2千年紀に黄河のデルタ地帯に進出したものは【戎狄】とされます。シュメール、ハッティ、ミタンニ、フルリ、エラム などがアルメノイドに属し彩陶文化の担い手でした。前1世紀に彩陶文化の道をオルドス→山西→冀北→遼東→北朝鮮へと移動したものは【東胡】とされます。そのなかで、とくに満州、ことに東満、南満に定着したものを【扶余】といいます。この【扶余】こそが、実は弥生日本期の列島植民の主役となるのです。 タリム、アラジャン、オルドス、甘粛、陜西にとどまって、前8世紀の【前期綏遠青銅器文化】につづき、鉄器文化をその金属文化に加えたもの、所謂、前4世紀以降の【後期綏遠金属文化】を出現させたものは、イラン系トハリ=月氏でした。アルタイの西部にいたのはウスン(鳥孫)です。前2千年紀のヴォルガ川上流、ウラル西南の樹林草原綴接地帯で栄えた青銅器文化のアバシェヴォ文化、そしてウラル山脈中央西部カマ川のセイム・テュルビノ文化はともにウラル語族の白人文化でした。そして、オビ川、イルティッシュ川、イェニセイ川上流のそれぞれ、アファナシェヴォ文化現在のアチンスク市を中心とするアンドロノヴォ文化、またカラスク文化としたものはいすれもイラン・ツングース、またはイラン・チュラン系文化でした。これが後に鉄器文化につながります。それは、ずっと後、前5世紀から前4世紀以降にしぼると、カラスク文化は鉄を含めたタガルスキー文化に吸収され、アンドロノヴォ文化はアルタイ西部に新しくおこったマイエミルスカヤ金属文化に吸収されほぼ二つの大金属文化地帯を形成するにいたっています。そうなった理由として、一つには鉄鉱・銅鉱という資源の関係であり二つにはイラン民族の選択にもとづく通婚・共棲によるものでした。アルタイ西部とパミールの資源を手中におさめたイラン種は、通婚・共棲の相手として東胡系を選んでいます。このイラン種はミヌシンスクのアファナシェヴォから出たスキタイを源流とするイラン種です。彼らは・シベリア南部、ミヌシンスク盆地からエニセイ川を下りアチンスク、トムスク、ノヴォシビルスク、セミパラチンスクを経てアルタイ山脈北麓を迂回しオビ川上流イルティッシュの流域に乗り換え、こうしてアルタイ山脈の西南部にマイエミルスカヤ文化をつくって、アンドロノヴォ文化を吸収したのです。彼らは七河地方セミレチェからジュンガリア廻廊を通って東トルキスタンに入り、パミールの金属資源を掌握し、タジク、ウズベク、ソクドとの部族連合をつくりました。この支配部族を【サカ】といいます。前8世紀から前3世紀までのことです。
2012/05/23

新石器時代の後期、BC3000年紀の初めにかけて、南シベリアのイェニセイ河上流とアルタイ地方に、ユーロポイドのアフナシェバ文化が栄えアフナシェバ文化は、西シベリアのソンスク地方にBC1750年~1200年の間分布したアンドロノヴォ文化という青銅文化につながり、さらにアンドロノヴォ文化は、BC2000年紀末南シベリアのカラスク文化と中央アジア北部のダザバギャプ文化に代わりました。カラスク文化は、殷の青銅文化とつながり発達したされます。 BC1550年頃に中国大陸に成立し、BC1050年頃に滅びたとされる【殷王朝】は中央アジアにいた採鉱民族ユーロポイド(アジア)と対婚し組み入れたと考えられます。王朝といっても、【殷】は、秦帝国や漢帝国のように、一人の帝王が絶大な権力をもって支配した国家というものではなく、かなりの数の部族社会が連合し、比較的強大な一つの部族社会を連盟主として結合した部族連合でした。わたしは、【殷】は当時、バビロニアにあったイシン王国の中国大陸に進出した植民国だったと考えます。その頃は、中国という国は、未だ存在していませんでした。イシン王朝とは、メソポタミアの南海シルクロードの起点であり、ペルシャ湾に面したチグリス・ユーフラテス河の河口にあったアッカド・シュメールのイシンとカルデア人の海の国の人々と、エブス人の都市国家でした。彼らは貿易によって富みを蓄積して、このカルデア人の国家の後継者というべき国家が古代イスラエル王国でした。殷王朝は、メソポタミアの南バビロニアを支配していたイシン王朝の植民地として始まり、中国に征服国家、金属文明をもたらしました。その後、フェニキア人、カルデア人、エブス人に加えて、ソロモン王国のユダヤ人ヒッタイト人が、海のシルクロードを通って極東アジアに進出します。貴金属や真珠を求めて彼らはインドシナのクメール人(大伴氏)を伴い、マレー海域から北上、山東半島に上陸して、殷が滅びた後も、その青銅文明を継承したと考えられます。古代イラン民族について、テペ・ヒッサールの発掘によってソ連の学者は BC3000年において、アジア方面に向かって広がるカスピ海北方の草原地帯にいた牧民的ユーロポイドが、カスピ海の東側に沿って南方に移り、アラル・カスピ盆地を出てシルダリア、アムダリアの川床に沿って遡り、ヒンドゥクシュの狭路に入り、彼らはそこでヒンドゥクシュの南麓にインダス川の上流の河源とその川の上流の川床を発見しこれらをつたって最後にパンジャブ地方に達したと結論をくだしています。この民族はイラン的ユーロポイドでしたが、パンジャブでインド的ユーロポイドへと形成され、それがサンスクリット語民になったのでした。この民族のほかの一隊は、アラル・カスピの故地からコペット・ダーグを越え南西に進んでバビロニアの国境に達したとされます。さらにほかの一隊は、黒海のクリミア、ウクライナを経て西に移り、ダニューヴの上流、ユーゴスラビアとルーマニアの国境上に、レペンスキー・ヴィルの遺跡を遺しています。サンスクリット語にインド的なものとイラン的なものがありこのそれぞれの語族をインド・アーリアンとイラン・アーリアンと呼び、彼らの言語が今日の欧州白人諸国の言語を形成しています。この言語が印欧語系といわれ、アーリアンといえば白人種一般の総称とされています。このイラン人がバビロンにおいても、アナトリアにおいてもさらに時代が下がって、カッシート、ウラルトゥ、ミタンニの諸王国においてもヒッタイト王国においても、実は、それぞれの王国の指導階級をなしていたことが明らかになっています。そもそも彼らの源流はチグリス・ユウフラテスの両河が育てた原始農民の文化としてオリエントおよびその周辺の遺跡から出土したものが最も古いとします。わたしは、さらに遡って、パレスチナのエリコで始まったナトゥフ文化、もっと以前は、カルメル山のケバラ人が祖ではないかと推測しています。根拠は、前に書いた下記の記事によります。★ケバラン洞窟で、ネアンデルタール人の成人男子の化石が発見されています。この化石には「モシェ」という愛称がつけられましたが、この化石が発見された層ではムスティエ文化型のフリント石器が発見され、これは6万年前と測定され、このケバランの石器文化は、パレスチナのナトゥーフ文化に引き継がれます。★パレスチナのカルメル山にあるタブーン洞穴で発掘された女性の骨格はネアンデルタール人の身体の上に丸くてずっと現代人的な頭がのっているという、明らかに混成的なものであったとされます。ケバラ人の流れを汲むナトゥフ人がメソポタミアから黒曜石や自然銅などの金属を求めて中央アジアやシベリアなど東方へ移動したものと考えます。またアナトリアから北方へ移動しヨーロッパへ向かった人もいたでしょう。 治金技術の根源は現在のトルコ、チャタルフュイックにありました。ヨーロッパの銅時代をBC4500年からBC2000年まで、青銅時代をBC2000年からBC1000年までとしています。これらの時代はヨーロッパの巨石文明時代と重なっています。ヨーロッパの巨石文明でもっとも有名なのは、イギリスのストーン・ヘンジです。そのイギリスつまりブリテン島の対岸の、フランスのブルターニュ地方もまた、カルナックの巨石文明で有名です。ブリテンにしてもブルターニュにしても語幹に「ブリ」または「ブル」という言葉を含んでいる点、【ブル】は、現代の英語で【牡牛】を意味し、それはアナトリアからメソポタミアへ流れた文明の言葉では、牛を意味したと。ブルはウルにBという接頭語がついた形であり、さらに興味深いのは、イギリスに現れたもっとも古い人間はイベリア人であったと。イベリアとは、現在ではスペインとポルトガルを指しイベリアという言葉の中にも、ベリという多分ブルから変化したと考えられる語幹が潜んでいるという説があります。世界的にも、地名とそこにかつて住んでいた民族の名とは密接な関係がある場合が多い。そこで諸般の状況から、イギリスやフランスなど、ヨーロッパ北西部の巨石文明は、イベリア半島経由で、アナトリアもしくはメソポタミアからやってきた・・・すでに銅冶金を知っており、ヨーロッパに最初に銅をもたらした人々によってつくられた可能性が高い。ヨーロッパで銅や金が最初に現れるのは、BC5000年頃、場所はバルカン、現在のブルガリアとルーマニアを中心とした地域です。これらの地域は、南部のバルカン山脈、西北のトランシルバニア山脈、さらに北部のポーランドまで伸びるカルパチア山脈によって囲まれ、これらの山は、昔から銅や金を産出したことが知られています。
2012/05/22

ネアンデルタール人とクロマニヨン人との混血で中央アジアで発生したものがヨーロッパ人の骨格と似ていることから、これを【ユーロポイド】といいます。 おそらく後のアーリア族であったと考えられます。日本人のルーツにはアーリア人も関係しています。アーリア人は、どのように形成されていったのでしょう? 中央アジア(トルキスタン)は、ユーロポイドとモンゴロイドの二大人種の分布した地域の境界領域をなしていました。古くはトルキスタンの殆んど全域がユーロポイドによって占拠されていて、ユーロポイドの厚い人種的基層が存在しました。中央アジアのアジア的ユーロポイドは、新石器時代の直前にはすでにインド的ユーロポイドとイラン的ユーロポイドに分化しています。イラン的ユーロポイドは、パミールの西方、アラル海の東方という中央アジアにいました。パミールの東のタリム、アラシャン、ゴビ、オルドス、中央アジアは砂漠化しましたが彼らは新石器時代に入って、農耕、家畜の飼育と銅器文化やがて、青銅器文化を開花させ始めました。さて、中央アジア以前には、彼らは、どこにいたのでしょう。これは私の推測です。 氷期の終わりの約1万2千年前頃に温暖化していくなかで急激な戻り寒冷期がありました。ヤンガー・ドライアスと呼ばれている現象です。中近東ではこの時の寒冷化によって採取できる食物が減りそれを補うために農業技術が進歩したと考えられています。 最初に農業が開始されたのは、12500~10200年前に存在した地中海東部のナトゥフ文化といわれるパレスチナのエリコでした。 さらにエリコの人々はアナトリアのチャタルフュィックで自然銅を発見しその銅を加工する高温技術を発明したとされます。アナトリアではエリコの人々のチャタルフィックと北部のヴァン湖付近に高地農耕が進みます。ヴァン湖の人々は、気候の激変により北方(ヨーロッパ)から南下してきたと考えられます。 やがて彼らは農耕に最適な環境のメソポタミアに進出し一方、銅を求めて移動していった人々との間に交易が始まりそれは、めざましい成長を遂げるのです。メソポタミア北方の山地を廻る肥沃なる三角州を極めて早期に占領したのはナトゥフ文化の流れを汲む地中海人種ののエリコの人々でした。 長頭型の地中海人種はさらにスーサに於ける早期の住民を形成しインダス文明に先行する時期に北部インドを占領しました。アナトリア北部ヴァン湖付近にいたアルメノイドは地中海人種にやや遅れてスーサやインドへ進入しました。シュメール、ハッティ、ミタンニ、フルリ、エラムなどがアルメノイドに属し、彩陶文化の担い手でした。したがって肥沃なる三角州文明は早期から長頭型の地中海人種と高短頭型のアルメノイドの混血された人種によって形成されスーサでは最古のスメリア文明でした。アルメノイドのフルリ人は、後のアーリア=印欧語族になったと考えられます。エラムには数多くのフルリ人が関与していた記録が残されており、 ヒッタイト帝国と交流があった事が分かっています。フルリ人は、メソポタミアのシュメールとアッカドからアナトリアとヒッタイト王国までの間の広いエリアを支配していました。フルリが、アーリア人かインド・ヨーロッパ語族起源であったと考えられます。エラム各地にフルリ人が移住しており、エラムの諸都市にはフルリ人の王を頂く都市が多数出ていて彼らの王たちはインド・ヨーロッパ語族の名前をもっていました。そして、彼らの軍隊と騎兵用語は、インド・ヨーロッパ語族から生じています。フルリ人は、文化的、宗教的にヒッタイト人に影響を与え、ヒッタイトの神話が、フルリに由来することも解ってきました。紀元前1300年、大規模な移住と侵略の圧力の中で、フルリは自らの王国の北東の部分へ退き、バン湖の近くで彼らの新しい首都を創出して、彼らの王国をウルアルトゥ(アララト)と呼びました。スキタイ・サカ族とは、約6000年前、今のトルクメニア地方に興ったナマヅカ文化という彩文土器文化の担い手で、牧畜と農耕を営む遊牧民のルーツともいうべき複合民族でした。ナマヅカ彩文土器文化が熟成期を迎えた頃、アムダリヤ上流のバタフシャン産ラピスラズリを商い、羊トーテムのサカ族と牛トーテムの月氏の隊商が、馬や船などによって旅を続けバビロンの【スサ】から【ウル】に入りました。彼らは後に、壇君教団グループと番韓(海の国交易商人・マカン人)の主力となりました。彼らはユーロポイドと考えられます。 やがて、ナマヅカの彩文土器文化は、サカ族によって東西に運ばれ、イラン高原に於ける【プロト・エラム文化】に大きな影響を与えました。ラピスラズリが、ハラッパ文化以前のコト・デイジ遺跡から発見されていることからサカ族がインダス文明の原形をつくっていたことが分かっています。またイラン高原文化を受容したナマヅカ文化が黄河流域のヤンシャオ文化あるいはカラスク文化となりました。約5100年前には、イエニセイ河上流とアルタイ地方にアフナシェヴァ文化と呼ばれる青銅器文明が起こりました。この文化の担い手はクルガン人でしたが、その高塚墳墓の板石には、カラスク文化と中国のトーテツ文様に似た【鷹と人面像】が刻まれていて、クルガン人は、すでに車輪付き馬車を使用していました。 彼らはコーカサス地方に侵入して黒海に進み、インド・ゲルマン的特徴の混合文化が生まれ、このアーリア人こそ、後にインド・ヨーロッパ語族となった人々 とおもわれます。同じ頃、小麦が、ドナウ河流域とライン河流域、および黒海の西海岸一帯と南ロシア全域に広がり、5000年前頃には、小麦からパンを作る文化が、ヨーロッパ全域を覆いました。クルガンとは、日本列島や朝鮮半島に見られる古墳と同種と考えられます。この古墳文化は、アジアからアナトリア、東ヨーロッパ~スカンジナビア半島までユーラシア大陸全体にありました。同様にインド・ヨーロッパ言語もユーラシアからヨーロッパにかけて広がっています。即ち、クルガンを建設し、人々がインド・ヨーロッパ語族のルーツであると考えられます。
2012/05/20

ミトコンドリアDNAは、母親からのみ伝えられY染色体は、父親からのみ伝えられるといいます。この二種の遺伝子は、混ざり合うことなく次世代へと変化することなく受け継がれるため私たちの祖先を遡り、最初の哺乳類、それ以前のものにまで辿っていけるのだといいます。このようにして一つは父方、一つは母方の遺伝子の二つの系統樹をつくることができます。すると、この男系、女系の遺伝子系統樹は、それぞれ、ただ一つの系統がアフリカからやってきたことを示しているといいます。私たちにつながる出アフリカは、たった一度しか成功しなかったということです。その前に、アフリカを出て行った先人類たちは、死に絶えてしまったといわれています。 男系、女系とも、ただ一つの共通の遺伝子上の祖先をもち、それぞれ世界すべての父となり、母となったのだといいます。 女系のミトコンドリアから調べると、この成功した南ルートの少数をイヴ一族としています。イヴはやがて二人の娘からそれぞれ女系一族をつくりました。一つはM、もう一つをN、Nは、ヨーロッパ人の唯一の母になりました。Mはアジア人のなかだけにみられます。南アラビアとパルチスタン沿岸にMとNの根源と早期の分枝がみつかっていてただ一度の出アフリカ移動が、まず南アジアへ進んで行ったことの証になっています。イヴ一族は、インド洋沿岸を周って東南アジアやオーストラリアへ突き進んでいきました。彼らはヨーロッパが殖民されるよりずっと以前の6万年以上前にはオーストラリアへ到着していました。オーストラリアの母系各族とマレー半島の先住民の遺伝子を調べるとMとNのDNAに属しているといいます。Nの子孫は温暖期に入った5万1000年以上前、インド湾岸からザグロス山脈の中腹に沿って中央アジア~肥沃な三日月地帯~トルコを通って、最初の南からの最古のヨーロッパ進出を行いました。一方、イブの連れ合い男系の遺伝子標識名をM168と呼びます。ユーラシアのアダム、今日生きているすべての非アフリカ系男性の父になります。M168の集団の一部がユーラシア南部からオーストラリアへの旅に出発した後に、まだアフリカに留まっていた集団の中に、45,000年前頃、M89という遺伝子の変異を持つ男系が出現します。このM89の子孫が現生人類で初めて中東方面に入植した痕跡を残します。東へと移動を始めたM89の系統に、40,000年前ごろ、イランか中央アジア南部の平原の辺りで、もうひとつの遺伝子マーカーが出現し、M9と名づけられ、このM9の子孫は、以後3万年間に亘って地球の果てまでその領域を拡大することになる現生人類の主要な系統です。このM9というマーカーを持っている人々をユーラシア族と呼びます。このユーラシア族が、さらに東へ、内陸部に進もうとしたとき、これまでの移動で初めての、最も深刻な障壁に遭遇します。それは中央アジア南部の山岳地帯でした。天山山脈やヒマラヤ山脈は標高7千メートルにもなって立ちはだかり、彼らは二つの集団に分かれるはめになったようです。 タジキスタンあたりで南に向かったM20マーカーの一族と(インド定住派) ヒンズークシ山脈の北へと移動し、中央アジアへ向かった集団です。 35,000年前頃になると中央アジアで、ユーラシア族にもう一つの突然変異が起こりました。 M45の出現です。ポーロと名付けられた、このM45こそ東と西にT字型に分かれて、広大なステップを移動した人々です。東はシベリアのバイカル湖、そしてずっと後にはアメリカまで、西はヨーロッパへ。男系M45の連れ合いはヨーロッパの母系Nの子孫エウロペの五番目の娘U5。彼らは、パレオ・ユーロペオイド的(白人)だったと考えられます。彼らは、新石器時代の後期、BC3000年紀の初めにかけて、南シベリアのイェニセイ河上流とアルタイ地方に、アフナシェバ文化を起こし、西シベリアのソンスク地方にBC1750年~1200年の間分布したアンドロノヴォ文化という青銅文化につながり、さらにBC2000年紀末南シベリアのカラスク文化 と中央アジア北部のダザバギャプ文化につながります。 カラスク文化は、殷の青銅文化と同様に、西アジアに発達した金属文化の東方流入によって発達したといわれます。 中国北部で【丁零】と呼ばれた人々が、殷の住民から借用した様々な文化的要素とくに青銅鋳造の技術を南シベリアに持ち込んだとおもわれます。カラスク人につづくタガール人は(マイエミール人とともに)西シベリアの古いユーロペオイド(白人)に属し、中国史の丁零です。【丁零】は、チュルク族の一派ですが、カラスク文化の担い手が【丁零】ならば、その祖型にあたるアンドロノヴォ文化、さらに、その祖型にあたるアナシェヴァ文化も、同じくチュルク族の文化と考えられます。学者の今岡十一郎氏は、シベリアにいた丁零と、西はトルコ人と広大な範囲を包括するチュルク族はウラル・アルタイ語族=ツラン族といいこの内、ツングース、蒙古、サモエード、フィノウグリア、チュルクの五族があるといいます。彼らはシルクロード全域に亘って分布し、アレキサンダー大王が洛陽に侵入するまで中原の支配者だったのです。そして、高句麗・百済・天皇家につながります。この人々は後に分裂して【丁零】、【殷庶の高令】、【匈奴高令部】、【高句麗】などになりました。 さて、M45が派生したと同じ頃、テンシャン山脈の北側に沿って移動しジュンガル盆地を利用して現在の中国にたどり着いたグループがいました。大半のユーラシア族が侵入をあきらめたルートです。このジュンガル盆地は、後にジンギス・カンが中央アジアを侵略するのに利用したルートで、この盆地は、中国やモンゴルから中央アジアへの抜け道になっているのでしょう。このグループは、西アジアとヨーロッパには全く見られないY染色体マーカーM175の子孫を残しました。M175の系統は、その後ヒンズークシ山脈とヒマラヤ山脈より東に住むアジア人の大多数を占めるほど大いに繁栄し、東アジア族と定義されます。しかもこのM175の分岐時期、35,000年前という時期は、まさに日本列島に【最初の日本人】が出現した時期と一致しているのです。
2012/05/17
1万千年前頃、日本人の祖型はアルタイ山脈の西部と天山山脈北鹿の間の故地からヒマラヤの照葉樹林に辿り着く。1800メートル下はジャングルで、3000メートル上は高原でした。ここには現在、中国系のチベット人がいます。日本人の先祖はチベット人におされ、シガッツエから南の山地に棲むことを余儀なくされました。こうしてネパール、シッキム、ブータンの国々に、私たちの祖型の一族が連綿としていまもあることになります。そしてほかの日本人の祖型はヒマラヤの北側東端からチャムドに登り、四川等に下ったようです。そして山頂降臨の伝説を神話として残し、山岳信仰をいまももちつづけているのです。私たちの先祖は、そこで、どのような習性を身につけたのでしょうか。そこには、クリ・カシの実の類がありました。樹林の下に畑を開いて根栽ができました。また樹林帯には兎や狸や狐などだけがいてライオンや虎などの猛獣はいませんでした。鹿の皮をとってそのゼラチンを接着剤とし、堅木と竹を接着し蔓でしばって水に浸しておけば弓ができました。鹿の皮は装着用具にはなくてはならないものでした。また鹿は祭祀、神社には、今もつきものです。鹿は遊牧民サカ族のシンボルになりました。さて、日本人の祖型は2~3家族の小集団生活で移動していたようですが次第に氏族組織をもつようになり血縁のない小集団であってもその組織に加入させ社会、族外婚、シャーマン信仰とをもって、部族連合を固めていったという痕跡があります。多くの宿営地の間の地域に長期滞留するにしたがって、焼畑栽培を開始したようです。やがて、彼らはヒマラヤを越えて揚子江にでるのですが、実は黄河文明より早く長江文明(河姆渡)が開けていたことはあまり知られていません。また中国雲南省あたりを中心として,西はインドのアッサム地方から,ヒマラヤ山脈の南斜面~インドシナ半島の山岳地域~揚子江流域~東は縄文時代の後期~晩期の日本までヒエやアワなどの雑穀を主穀として(イネは陸稲として畑地で)伝わった照葉樹林文化は彼らの移動経路であったと考えられます。
2012/05/13

何年か前、NHKで放映されたシルクロードの番組【楼蘭の美女】の発掘は、記憶に新しい。ミイラとして保存が完全で、卵型の顔かたち、まっすぐ伸びた鼻、濃い眉、薄く引き締まった唇は、4000年間、楼蘭の砂埃に埋もれながらも原形をとどめていたのでした。長い睫毛が印象的な美女、彼女が白人だったことが発掘した人々に衝撃をあたえました。新疆地区に白人種がいたことの証となりました。彼女は、南シベリア、カザフスタン、ボルガ河原草原およびアラル海沿岸地帯の青銅器時代のアンドロノヴォ文化タイプの住民の特徴とほぼ同じと判明しました。新疆地区とは、人類の歴史に於いて実に興味深く、絶え間ない変化と発展のなかにありました。地図を広げてみると一目瞭然なのですが、新疆の北、西、西南側を取り囲んでいるのはロシア、カザフスタン、キルギスタン、ウズベクスタン、タジキスタン、パキスタン、インドです。ヨーロッパ大陸、西域、西アジア、南アジア、アジア東部地区との交通を結ぶ拠り所として民族の大移動の波を何回も経験し、白色人種も黄色人種も居て、お互いに同居し溶け合い、共同で開発していったと考えられます。新石器時代の後期、BC3000年紀の初めにかけて、南シベリアのイェニセイ河上流とアルタイ地方に、アフナシェバ文化が栄えました。この文化の担い手は周囲のモンゴロイドと異なり、パレオ・ユーロポイド的(白人)でした。このアフナシェバ文化が、西シベリアのソンスク地方にBC1750年~1200年の間分布したアンドロノヴォ文化の青銅文化につながります。さらにアンドロノヴォ文化は、BC2000年紀末南シベリアのカラスク文化と中央アジア北部のダザバギャプ文化に代わりました。カラスク文化は、殷の青銅文化と同様に、西アジアに発達した金属文化の東方流入によって発達したといわれます。カラスク人に続くタガール人は西シベリアの古いユーロペオイド(白人)に属し中国史の丁零です。 この中国北部で【丁零】と呼ばれた人々が、殷の住民から借用した様々な文化的要素、とくに青銅鋳造の技術を南シベリアに持ち込んだとおもわれます。 【丁零】は、チュルク族の一派ですが、カラスク文化の担い手が【丁零】ならば、その祖型にあたるアンドロノヴォ文化、さらに、その祖型にあたるアナシェヴァ文化も、同じくチュルク族の文化と考えられます。学者の今岡十一郎氏は、シベリアにいた丁零と、西はトルコ人と広大な範囲を包括するチュルク族は、ウラル・アルタイ語族=ツラン族といいこの内、ツングース、蒙古、サモエード、フィノウグリア、チュルクの五族があるといいます。また「ツラン族は、BC8000年頃、シュメールの地にいたが、BC3000年以降アフリカ民族がセム族を滅ぼして自らセム族となり、BC2200~2000年頃シュメール帝国を滅ぼしてしまった。この状況のもとで、ツラン族はBC3000年頃からインド、中央アジア、東アジア方面に移動した」と述べて、そしてチュルク族については、「往昔その原郷のアルタイ山脈から出発し、ほぼ北東と西に広がって、主としてアジアに限局する地域を占めた。・・・西に進んだ一部はイデル・ウラルとクリミア地方からバルカン南東隅まで・・・また他の一部はドナウ盆地にまで進出した。彼らの支配は、名目的にはメソポタミア、シリア、パレスチナ、北アラビアに及び、またかつて一時的に、イラン、アフガニスタ、インドまで伸張し、さらにアルジェリア、全バルカン半島全ハンガリー平野を領有していた時代があった」と述べています。彼らはシルクロード全域に亘って分布し、アレキサンダー大王が洛陽に侵入するまで中原の支配者だったのです。のちの高句麗・百済・天皇家につながります。この人々は後に分裂して【丁零】、【殷庶の高令】、【匈奴高令部】、【高句麗】などになりました。
2012/05/10

黄色人種と呼ばれるのは、体の表面がケラチン (角質)の薄い皮膜で覆われているからだそうです。ケラチンは硬タンパク質であり、髪の毛や爪や動物ではツノ、ヒヅメなどになる物質です。どうして、ケラチンが全身にまで被覆したのでしょう。それは、日本人の先祖が中央アジアのアルタイ山脈南部に起源をもつからです。現世黄色人種の祖先が形成される時期は、少なくとも4万5千年前から4万年前という、ネアンデルタール人からホモ・サピエンスが出現する以前の時期まで遡ります。そして、数万年という時間をかけての、この時期での環境適応の結果がケラチンの全身皮膜なのでした。人類の皮膚の色まで変化させる壮絶な環境とはいったい何だったのでしょう。4万年といえば氷河期です。人類が等しくこの試練を受けたとはいえ白人種と黄色人種の祖型では、その影響の受け方がちがっていたようです。氷河の近くに住んでいた、とくに北欧人などは、太陽の紫外線を吸収しようとして皮膚に太陽光遮断の役目をもつ色素などもたない体質に、白人とは色素が白いのではなく、無色人種なのだそうです。黒人は紫外線の強かった地中海地域に住んでいたため遮断するために色素、メラニンを全身にはり巡らし黄色人種は、わたしたちの先祖は黄砂を避けるために山岳の樹林地帯に逃げ込むより道がなく、その原生林の中でもそう楽ではなく、樹皮の刺傷や虫害を防ぐためにも黄砂の嵐のなかと同様に角質でもって全身を覆うよりほかなかったといいます。こうしてユーラシアの大陸、なかでもアジア大陸の内陸と呼ばれる広大な地域にあって日本人の先祖は自然の猛威から逃げに逃げ、移動に移動を重ねるうち皮膚の色まで変色していったのだといいます。そして、またこの移動という側面が、日本民族の形成に大きく関係してくるのです。日本民族の祖型も漢民族の祖型も、新石器時代に入る前まではうっそうとしたシベリア原生林の中で狩猟一本槍の生活だったと認められます。もっとも樹海を貫いて流れる大河のほとりとか、点々とする湖水のほとりでは漁撈もしていたでしょうし、獣肉や魚肉のほかに野生植物、果実、根なども食していたでしょう。また彼らはトナカイを飼育し移動の際の運搬に牽かせたり乗り物にし、また乳を飲用に、肉を食用に、しかもトナカイは草を食べずに森林地に生えるコケ類を食用とするので願ってもない家畜でした。ところが氷河期が終わったところで、いよいよ原住地のほかの仲間が新石器時代文化をつくろうとするとき、一部の人類が、この故地を捨てて移動に踏み切ります。これが日本人の祖型と漢民族の祖型になります。間氷期において、タリムとアラシャンとゴビとオルドスという広大な湖水群が氷河湖となり、ほかの地域の表土がこの氷河湖の底に堆積し、氷河湖が乾燥して干上がって砂漠化してくると、その黄土がシベリアの寒冷型移動性高気圧に巻き上げられて、東ばかりでなく北に飛散してくると、彼らはどうにも防ぎきれなかったので移動を始めたのです。また移動せずに原生地に残された日本民族の祖型は、一部はモンゴル的モンゴロイドの中に編入され、一部はトルコ的モンゴロイドと混血し、さらに他の一部はイラン的ユーロポイドで、後に大月氏のまたは禹氏の祖であるトハリ族と部族連合をなしたという痕跡を残します。日本人の祖型の主流は樹林帯の棲息した狩猟民族の姿のままで、よりよい樹林帯をつたって南下したしたと考えられます。アルタイ山脈の西部と天山山脈北鹿の間の故地からジュンガリア廻廊を南下し天山の南麓をつたわって西方に進み、さらにパミール高原の東麓にそってタリム盆地の西辺をぐるりと迂回し、パミール高原がおわるところで一部はカラコルムからヒマラヤに入ったと考えられています。ほかにも行き方は何通りかあったようですが、彼らはヒマラヤに登り、崑崙の常緑広葉樹林帯に移動したのでした。ちなみに漢人の祖型はカラコルムから南へ移動し、黄河上流のデルタをめざしたようです。また一部は揚子江にくだって野生の稲をみつけるという幸運な恵まれています。日本民族の祖型にも四川から揚子江へと漢人と同じ道をくだった一隊もあり、二民族の交錯もあったとおもわれますが、ただ日本民族の祖型は、トナカイの代わりにカモシカを伴侶としながら照葉樹林対の山岳地帯の緑辺を辿って大巴山脈から山東の泰山山系に行きついたことが漢人の祖型とちがっていました。そして中国大陸にあって、日本人の祖型は漢人から【夷族(異民族)】とされたのです。こうした移動は1回や2回ではなく何回も何回も数家族単位で連続して居住地を移行していったようです。7千年~8千年前頃、旧石器時代の終わり頃に始まったとされ、その頃の人口はそれほど多くなく、人口の増加は新石器時代の農耕文化が定着集落をつくりだして以後のことでした。
2012/05/09

人類は後期石器時代になって大躍進を遂げたといいます。★人類の使う道具が格段に多様化し、石やその他の素材を 効果的に使うようになったこと。★芸術が初めて登場したこと。思考的にも大きな進歩があったと考えられる。★人類が食糧資源を以前よりはるかに効率的に活用し始めたということ。このような変化の理由に、人類学者はDNAをあげています。後期旧石器時代の初めに生じた類の変化が起きるには、人類がより効果的にコミュニケーションをとり合えるようになることが必須だったといいます。 後期石器時代の初めこそ、豊かな統語法と多くの意思表示の方法をもつ 現代の言語が発生した時期ではないかというのです。 複雑な社会的ネットワークの発達が、人類の脳の構造に変化が起こし 進化をもたらしたといいます。それが、どのような変化だったのかは、現代の赤ちゃん をみれば理解できます。まず物体を認識することから徐々に物体同士の関係に対する 複雑な理解へ進む過程、また喃語を発することから次第に単語になり統語法を理解し 複雑な伝達を可能にする・・・といったように人類は言語を発達させていったようです。 それによって脳を大きく発達させていったのが旧石器時代だったと考えられます。 脳の発達には栄養的に肉食も大いに関係しているかもしれません。 また、ほかの肉食動物の目を逃れる必要性も脳の発達を促したでしょう。 動植物は環境が安定しているときは、単調に過ぎていきますが、問題が起きて 環境が変化すると大きく進化するそうです。身体の色や形さえ変えて環境に適応させていく生物がいるなかで人類は脳を活性化して適応させていったようです。 ヒトのミトコンドリアDNAの配列間に見られる遺伝的突然変異が起きたのが5万年前 旧石器時代の初期だといいます。人類の大躍進はDNAに遺伝学的な痕跡を残しているのだそうです。
2012/05/06

★ケバラン洞窟で、ネアンデルタール人の成人男子の化石が発見されています。この化石には「モシェ」という愛称がつけられましたが、この化石が発見された層ではムスティエ文化型のフリント石器が発見され、これは6万年前と測定され、このケバランの石器文化は、パレスチナのナトゥーフ文化に引き継がれます。★パレスチナのカルメル山にあるタブーン洞穴で発掘された女性の骨格はネアンデルタール人の身体の上に丸くてずっと現代人的な頭がのっているという、明らかに混成的なものであったとされます。★北部イラク山岳地帯のシャニダール洞穴では4万5千~4万4千年前の顔の上部全体が現代人的風貌をもつネアンデルタール変種が見つかっています。その近くのスリフル共同墓地から出土したものはネアンデルタール人よりもクロマニヨン人の近接し、また現生人誕生の前夜といえるまで進化したものであったそうです。★中央アジア周辺でも西アジアにあたるアームッド洞穴では頭はネアンデルタール人でありながら、顔はホモ・サピエンスという古いネアンデルタール人と現代人とのつながりを示すものが発見されています。しかもその年代は、4万年より前であるとされています。★クリミヤ半島の突端、スタロセリエ洞窟でも1~2才の子供が埋葬されているのが発見されました。この子供の骨格を研究した結果、現代人の【人間】型に属するが依然として歯の大きなこと、頬骨が太いことなど、多分にネアンデルタール人の特質を残しており、ネアンデルタール人とクロマニヨン人(ホモ・サピエンスの一種)との中間的位置をしめるものとしています。このようにして確かめられた現生人類の祖先はほとんど現在のヨーロッパ人的なものであるから、学者は【ユーロポイド】と名付けました。ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの過渡的な遺骨が見いだされたタブーン洞穴やアームッド洞窟は西アジアで、子供の遺骨を見出した西トルキスタンは中央アジアです。ヨーロッパ人的であるユーロポイドでありながら、過渡期的人骨が発見されたのは、ことごとく中央アジアと西アジアからであって、ヨーロッパからではありませんでした。なぜ、このように、西アジア、中央アジア地域でのみヒトの進化がありえたのでしょうか。それは、この時期、リス氷河期には、この地方では気候が湿潤化し、 広葉樹林、落葉樹林そして多くの湖や河川、多種多様の食糧源に恵まれ、人類の進化に最も適した地域だからでした。中央アジア(トルキスタン)は、ユーロポイド(ヨーロッパ人種)とモンゴロイド(モンゴル人種)の二大種が分布した境界領域をなしていますが、古くはトルキスタンの殆んど全域がユーロポイドによって占拠されていて、ユーロポイドの厚い人種的基層が存在しました。そのなかで、シベリアでもネアンデルタール人とホモ・サピエンスの過渡期の型からホモ・サピエンスにまで進化したものが、バイカル湖にそそぐアンガラ川沿岸のマルタで発見されました。これは、現生シノ・モンゴルの骨格に似ていることから、学者は【モンゴロイド】と名付けました。その他、ウラルの東、天山の北にもモンゴロイドを見出し、これは現生トルコ人の骨格に似ていることから、【ツングース的モンゴロイド】と名付けられました。これと区別するためにマルタの人骨を【シノ・シベリア的モンゴロイド】としました。何故にここにも人類のこのような進化が行われたのでしょうか。その時期にあっては、アルタイ山脈、サヤン山脈、ヤブロイ山脈の北面には、未だ氷原がまだらに残って寒気は厳しかったのですが、その南面には樹林が茂り、その下草が萌え温暖であり、その南には湖沼を連ね緑に囲まれた東トルキスタンという盆地があったからでした。したがって、この時期では、東トルキスタンの北壁と東トルキスタン、中央アジア、西アジアは人類進化に絶好な環境に共通する一つの世界をなしていたのでした。この辺りは、後に日本人のルーツにあたる月氏、チュルク、スキタイ・サカなどが躍動した地域でもありました。では、なぜ、他の地域の人類が、この進化に立ち遅れたのでしょうか。シベリアの中央高原が東西を隔離しているオビ河流域は氷原で、これも隔壁になりました。ドン河とドニェプル河の線には未だ氷河が残っていて、それはアルプスに連なる欧州の山脈におよんでいました。その環境がホモ・サピエンスの出現をシベリアの南側・東パキスタン中央アジア・西アジアの広地に限ってしまったのでした。日本列島には、旧石器文化の3万年前から1万4千年前頃に、鋭い黒曜石やサヌカイトの刃物に柄をつけた文化的な工具をもって彼らが渡来しています。この時代の石器はヨーロッパの旧石器文化と共通であって隣国の中国大陸の文化とは似てないといいます。ヨーロッパからやってきて日本列島で誕生した旧石器文化と考えられています。漢民族の祖型と、日本民族の祖型は、途中から別々の道を選択したのです。
2012/05/05

縄文時代前期(約7000年前)頃から、常陸・下総などには、オロッコ人系縄文人が居住していました。約3500年前、フェニキア人、エブス人、ヒッタイト人らが タルシシ船で渡来し国東半島へ製鉄基地を築いて『殷文化圏』に鉄製品を供給し始めました。続いて3100年前、国東半島重藤の製鉄基地が発展して殷の東表国となり彼らフェニキア人らは宇佐八幡を都とし、タルシシ船の船長エビス王家のクルタシロス1世を初代王として東表国(豊日国)を建てました。日本書紀上、日本初の天皇とされる神武天皇の前に既に1000年間も続いていた天の王朝でした。やがて、弥生時代前期(約3000年前頃)になると、最初に出雲の簸川・日野川辺りから【タタラ製鉄】文化を持つヒッタイト人たちがやってきました。彼らは利根川支流・日川に沈殿し、川底に黒い帯となっていた砂鉄を採取してタタラ製鉄を行い、鍛鉄によって初代の神器となった宝剣を製作現存する鹿島神宮の【奥宮】後方にある石磐(要石)の上に安置しました。後代の神宮に祭られた鉄剣は2代目で、現在も神宝として大切に保存されています。因みに、鹿島神宮の要石は表面が凹型で、棒状の石柱が地中深く埋まっています。かつて水戸藩主の徳川光圀公が近習に掘らせたが、掘っても掘っても底に達しないで遂にあきらめたと伝えられています。要石は一対ということで、もう一つを探すと、隣接する香取神宮奥宮の要石がこれに対比すると判明し、こちらは凸型の石柱でやはり地中深く埋まっていました。 こうしたことから霞ヶ浦の神栖地域(鹿嶋トライアングル)は超古代から開発された縄文人の聖地だったと考えられます。こうして約3000年前頃、ヒッタイト人たちが金属文化をもたらしましたが、同時に彼らとともに移住してきた農耕民の苗族たちは、常陸・下総をはじめ関東・東北地方の先住民(縄文人)を征服・教化し、水田稲作農業の弥生文化を根付かせ拡散していったものと思われます。BC50年頃、ユダヤ人ガド族300名が対馬中央部の小船越のアマテル(天照)神社)領域より渡来しました。彼らは、鹿島灘にある明石海岸の大鳥居近くに上陸して椿神社(祭神は猿田彦命)を建て、猿田などにコロニーをつくりました。そうして、この地を常陸国の高天原と称し、はるばるシルクロードを東遷してきた天孫族(ウガヤ王朝族)が天降った(上陸地の砂浜に船を接岸し、浅い海に下り立ったことを【海(あま)降った】と表現した)聖地として【常陸の高天原】と呼称するようになったのです。記紀にいう【天孫降臨】説話は、これより始まったものと思われます。天照大神は、BC1060年頃、建国された【ウラルトゥ王国】の初代王アマテル(天照)神【アマテルノカミ】が本来の呼び名でした。現在【奈良盆地】といっている場所は、縄文人がやって来た時は盆地ではなく琵琶湖ほどの大きな湖沼だったそうです。その中に半島的にわずかに見えていたのが三輪山とか大和三山(畝傍山・天香具山(人工的につくった聖地)・耳成山)のような島的に存在していた地帯で、この湖沼の畔に竪穴住居をたて定住してコロニーをつくったのが港川人でした。湖中の島であった三輪山周辺に、縄文時代の遺跡やピラミッド・巨石文化の遺跡が現在も多くあるのは港川人たちが三輪山を御神体(アニミズム)として崇拝していたからです。大和三山が二等辺三角形を形作り、三輪山と畝傍山を結んだ線は冬至の【日の入り】に当たる線になっているのも彼らの太陽信仰だと考えられます。始皇帝の秦帝国は、盛時には華北から越南(ベトナム)までの地を支配していましたがやがて退去し、漢の武帝の時に中越と南越の秦人は多く日本列島に亡命しました。 BC213年、秦始皇帝による焚書坑儒により亡ぼされた孔子・孟子の子孫、ガド族は、イスラエル北朝系からユダヤ南朝系に転身しました。猿田彦尊と大物主命は、それぞれ陸路と海路によるユダヤ系の東方亡命者で同盟関係にありましたので始皇帝の末裔、シメオン系大国主命とは敵対していたのです。秦始皇帝の焚書坑儒事件に始まったユダヤ人同士の古代南北朝の争いでありシメオン族とガド族の壮絶な戦いは日本列島にも持ち越されました。 BC74年、辰韓(秦韓)にいた 秦の亡命者シメオン族らは、【天の王朝】のエビス王から背振山脈南部(佐賀平野)を割譲されると鳥栖と吉野ヶ里の地に委奴国を建てました。147年、後漢に圧された高句麗(北倭人)が倭奴国(ユダヤ人)および東表国(南倭人)を攻撃しました。当時の東表国(エブス王朝)は、朝鮮半島の金官加羅国とワンセットの文化圏とする海人族の千年続く【天の王朝】で、倭奴国は、その同盟国でした。その時、東表国エビス王は海部知男命でしたが、これより高句麗と敵対関係になり東アジアの覇権を競う東夷諸族の争い=【倭の大乱】が始りました。163年、猿田彦尊の子孫がシメオン系大国主命の委奴国に追われ九州から奈良へ東遷して東?国および伊勢国を建てますが、230年頃、大国主命の子孫たちによって旧伊勢国を攻撃され、その首都吉武高木・平原遺跡 および太陽神殿を破壊されて古墳内の超大型青銅鏡を悉く破砕されました。やがて大国主命も猿田彦尊の同盟者大物主命&神武軍団に殺害されますが、大国主命の子孫によって奈良大和の地に秦王国(ユダヤ王国)が建国されます。 その後、九州以外の地を支配下においた秦王国は、その子孫が14代の王位を継承しましたがこの王が66歳で病死したとき3人の女子しかいなかったため、5世紀後半【倭の五王時代】高句麗から渡来していたレビ族系の東漢氏(やまとのあやし・秦氏)が実力を買われて秦王国の王位を継承しました。秦氏が王となったこの秦王国は、織物業の普及や【前方後円墳】築造などの巨大土木工事によって大いに発展しました。東日流(つがる)の荒吐五王国(東北王朝)とも友好関係を結び東アジア諸国から秦王国は【イ妥タイ国】とよばれるようになりましたが、それは九州の【倭国】に対して"より大きな国"と認識され盛んに交易が行われました。538年には倭国(九州王朝)および秦王国(奈良大和の飛鳥王朝)へ百済聖明王から仏教が公伝され秦王国の王は天子と呼ばれるようになっていきます。その秦王国天子アマタリシホコの子孫が長い歴史を経て現在は中川宮→三笠宮→平成天皇の系統になっています。
2012/05/04

日本人のルーツ、ウガヤ王朝はアッカド人とラガッシュ人(フツリ人とウル人の混血)の連合部族でこの王朝が後にウラルトゥ国を建てました。 アッカド人の出自に関して最も有力な推測は、BC4000年以降のハラフ高地に自然銅を運んだカスピ海周辺の人々だと考えられます。ハラフ文化は、東はヴァン湖から西は地中海におよびその年代はBC5000年の末と推定されます。アッカドのサルゴン王朝は、BC3000年頃のアッカド人の民族移動の後BC2360年頃、バビロンを支配しましたがBC2190年から2120年にかけグート人がシュメールからアッカド人を追放し、その時に、アッカド人と共にインダス渓谷に亡命したウルの月神の一族がチベットに於いて月氏になりました。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーウラルトゥ王国を建てた後、スキタイやアッシリア系印欧語族に追われ、キンメリ人やチュルク人と共にバクトリアに逃れ、さらに華北に移動し、ここで秦に伐たれたため、満州に入って扶余国の前期王朝を建てました。そして穢王アグリイサシが扶余と合体して自ら東明王になって後期王朝を建てました。この時、前期王朝は東扶余に移り、後に扶余王仇台は公孫氏と同盟して南下し、馬韓の帯方、いまの京城に伯済国を建てましたが公孫度の娘、卑弥呼を娶って公孫氏に帯方の地を譲り、北九州に上陸して伊都国を建てました。仇台は伯済国では百済の始祖仇首になり、伊都国ではイワレヒコ、後の神武になりました。 後期王朝はインドから一旦河南省の宛に入り、そこから満州へ来た穢族です。この人々はウルのカルデア人のことです。BC1530年、ヒッタイトがハムラビ王朝を倒した後、カッシート人王朝ができたため、バビロニアを 【カルドウニアシス】と呼び後世【カルデア】と呼んだのです。ウンマ王ルーガルザグギシとグート人の王シャルラク に始まり、バビロニアのカッシート王朝となり、さらにそのカッシート人がバンヂャップに入って後期ヴェーダ時代に、インド十六王朝のなかのクル国になった後、カルデラ人の子孫のプール族と合体してガンガ流域に移り、ベトナムの文郎国を経て中国大陸の河南省に移民した国家です。BC1000年紀のインドは、ガンジス流域を中心にして十六王朝があってカッシート人を中心とする月神王朝とアラビア海の海商を中心とする日神王朝系に分かれていました。月神王統は、カッシート人の亡命者が主流なので中国史の大月氏と同じルーツから二分したものです。月神王統の諸国からマガダ国が次第に頭角を表してついにインドに統一王朝を建てましたがマガダ国力を支えたのは、この地のインド最大の製鉄地域でした。マガダの製鉄はヴォラテイアという漂白の民によってなされていたといいますが彼らは、サカ族系であったといいます。また東の方、メナム河の流域に、ドバラヴァティというモン族の国家があり吐火羅あるいは堕羅と書かれ、モン族は自らタラインと称していました。この吐火羅人は、月氏系ですが、この月氏は、中国史の月氏ではなくインドから入った月神王朝、すなわちカッシート人の子孫のクル族のことです。インドネシアで発見された銅鼓には月氏の絵があって、これはインドの月氏であったようです。インドに入ったカッシート人とサカ族は、それぞれクル国とプール国をたてて合流し、のちにメナム流域のモン族を支配した吐火羅国をたて、さらにベトナムで文郎国をたてた後、阿南省の南陽に植民して製鉄基地をたてたと考えられます。マガダの都は、ガヤで、中国では、これを伽耶と書き、これが朝鮮の駕洛諸国の語源になったらしい。十六王朝の時代に、サカ族は、アソカ国をたて、コーサラ国では釈迦を生みさらに、マガダ国の製鉄部族になりました。国史のニギハヤヒノ命である穢国の王、アグリナロシはプール族の王でした。アグリはインドの製塩カーストのアグリアーを意味します。------「通典」の穢伝より------ 穢人はその性質が慎み深く誠実で、貪欲なところが少なく、恥というものを知っている。衣服は男女ともみな円い襟をつけ、男子は広さ数寸の銀花をつけて飾りにしている。穢人の習俗では、山川を重んじ、山にも川にもそれぞれ邑落ごとの区域というものがあって、みだりに立ち入ることが出来ない。同族内では婚姻せず、タブーが多い。病気にかかったり、死者が出たりすると忌み嫌って、すぐさま旧い居宅を棄て、新しいのを作る。麻を栽培して養蚕し、綿・布を作ることを知っている。星宿をうかがうことに聡く、その年が豊作かどうかを予め知っている。珠玉を宝物としない。また虎を祭祀してこれを神としている。穢人の邑落、相互の間で侵犯することがあれば、直ちにその双方を罰して生口・牛馬を取り立てるが、これを「責禍」(虎神様のお咎め)と称している。盗みをする者は少ない。矛は三丈もの長さがあって、時には数人でこの矛を持ち、巧みに歩戦する。かの有名な【楽浪の壇弓】というのは穢の地で産出されたものである。穢族または国史のニギハヤヒ一族には、青い目の人々もいたらしい。平安時代から村はずれに天部、余部などという部落があって元来は天の王朝の人々の部落でした。新羅の奈良王朝を破って百済人が平安王朝を建てた時その圧制の下で家を捨てた人々が、この地に次々と入り込んできました。山形県の余目も最果ての余部と考えられますがここには青い目の人々が多いのです。あらゆる文化が辺境に、辺境にと逃れるように、天部の純粋の形態は東北地方に残ったようです。天の王朝一族は、ニギハヤヒ族の他、東表国・金官国の中臣族、公孫燕・邪馬壱国の大伴族などもありますが、このような青い目の人もいたかもしれません。
2012/05/03

古代イ ン ド 史 インドへ侵入した人々 【原住民】 1.原始インド種族は、旧石器時代の種族であって、彼らは租なる天然石を 器具として使用し金属の使用、農耕、燧(ひうち)火の方法を知らず、 家屋の建築法を知らず、森林或いは洞窟に住居した遊牧民でした。 彼らの食物は果実・動物類にして、木・角・石製の武器を使用。ーーーーーーーーーーー-ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー2.次に新石器時代に移住した種族は、石器を磨き、形も人工を加え、 前期住民より遙かに進歩し、家屋を建て、家畜を飼い、農作をし、 土器、土瓶を使用しましたが彼らも遊牧民で定住せず、豊沃の地を 見出して転々移動、彼らはインドの先住民として知られるコラリアン 種族、オーストラリア系統に属します。 【開拓民】 3.新石器時代の先住民に続いてインドへ移動したのはドラヴィダ人です。彼らの原始種族は地中海人種であって、地中海地方から移動をはじめメソポタミアを経てパルチスタンへ、そしてインドに侵入したと考えられます。すると、彼らはヨルダン川付近のエリコの住民ナトゥフの末裔かもしれません。ドラヴィダ人は、シュメール人やエラム人の同族です。彼らは、4大文明の担い手でした。彼らはアーリア人に先立つこと1千年前にインドに侵入し、コラリアン種族を征服して東部地方へ圧迫しつつ、モヘンジョ・ダロ、ハラッパ、ニレの文化を開拓しBC3000年~2800年にわたって、全インドに繁栄し優れた独立文化を持っていました。アーリアとは【高貴な人】という意味であり、後にインドを植民地化した白人側の自称で、寧ろ古代インドで発達した文化を有していたのは先住のドラヴィダ人の方で最初野蛮な遊牧民であったアーリア人がインドに侵入し定住するに及んで、戦術、農作村落制度、家長制度、その他工業経済等に関して、かなりの文化的発達を遂げたのはドラヴィダ人の文化に接触し、それに影響された結果です。野蛮民であったアーリア人が、如何にして先住民のドラヴィダ人を征服したかというとドラヴィダ人の知らなかった馬の使用を知っていたからです。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 【アーリア人】 アーリア種族は最初何れか寒帯地方に住んでいましたが、それが西東へ分離西方へ向かった一族はヨーロッパ民族となり、東方へ向かった一派はカスピ海の付近に住居し、さらにアッシリア、バビロンを経てしだいに南下し、そこで宗教上の争いより分離し一部はペルシャへ、他の一部はインドへ侵入しました。 アーリア人種族がBC2千年頃遊牧民として中央アジアに移動しつつあった時代に於いてはインド先住民、ドラヴィダ人に比して極めて幼稚な文化しか持っていませんでした。インドアーリア人には、二系統の種族がありました。彼らは、同時期にインドへ侵入しました。4.【純潔アーリアン】 北方の寒帯から侵入したカッシート(羊加)、ミタンニの白人種 歌作成する能力を有するためバラモン(僧)になる 月神王朝 陸系 カッシート 月氏5.【混血アーリアン】 メソポタミアから海を越えて侵入しセム族と混血した結果黒色となったラガッシュ(牛加)、アッカドの黒い混血種、人身牛頭・・・神農氏 日神王朝 海系 カルデア・マガン・エブス・フェニキア バラモン・アーリアンの宗教や 祭祀に反対運動をした人々。クシャトリア 武勇(武士)に富んでいたためクシャトリとなって施主の地位を得た。
2012/05/03

匈奴には二部族あり。チュルク族のシウ伊逗部とキンメリ族のシウ刀漫部です。 新石器時代の後期、BC3000年紀の初めにかけて、南シベリアのイェニセイ河上流とアルタイ地方に、アフナシェバ文化が栄えました。この文化の担い手は周囲のモンゴロイドと異なり、パレオ・ユーロペオイド的(白人)でした。アフナシェバ文化は、西シベリアのソンスク地方にBC1750年~1200年の間分布したアンドロノヴォ文化という青銅文化につながり、さらにアンドロノヴォ文化は、BC2000年紀末南シベリアのカラスク文化と中央アジア北部のダザバギャプ文化に代わりました。カラスク文化は、殷の青銅文化と同様に、西アジアに発達した金属文化の東方流入によって発達したといわれます。この人々は、アナトリア~メソポタミアから自然銅を求めて散っていった人々の末裔と考えられます。中国北部で【丁零】と呼ばれた人々が、殷の住民から借用した様々な文化的要素、とくに青銅鋳造の技術を南シベリアに持ち込んだとおもわれます。カラスク人につづくタガール人は(マイエミール人とともに)西シベリアの古いユーロペオイド(白人)に属し、中国史の丁零です。【丁零】は、チュルク族の一派ですが、カラスク文化の担い手が【丁零】ならば、その祖型にあたるアンドロノヴォ文化、さらに、その祖型にあたるアナシェヴァ文化も、同じくチュルク族の文化と考えられます。学者の今岡十一郎氏は、シベリアにいた丁零と、西はトルコ人と広大な範囲を包括するチュルク族は、ウラル・アルタイ語族=ツラン族といい、この内、ツングース、蒙古、サモエード、フィノウグリア、チュルクの五族があるといいます。「ツラン族は、BC8000年頃、シュメールの地にいたが、BC3000年以降アフリカ民族がセム族を滅ぼして自らセム族となり、BC2200~2000年頃シュメール帝国を滅ぼしてしまった。この状況のもとで、ツラン族はBC3000年頃からインド、中央アジア、東アジア方面に移動した」と述べて、そしてチュルク族については、「往昔その原郷のアルタイ山脈から出発し、ほぼ北東と西に広がって、主としてアジアに限局する地域を占めた。西に進んだ一部はイデル・ウラルとクリミア地方からバルカン南東隅まで・・・また他の一部はドナウ盆地にまで進出した。彼らの支配は、名目的にはメソポタミア、シリア、パレスチナ、北アラビアに及び、またかつて一時的に、イラン、アフガニスタ、インドまで伸張し、さらにアルジェリア、全バルカン半島全ハンガリー平野を領有していた時代があった」と述べています彼らはシルクロード全域に亘って分布し、アレキサンダー大王が洛陽に侵入するまで中原の支配者だったのです。のちの高句麗・百済・天皇家につながります。この人々は後に分裂して【丁零】【殷庶の高令】【匈奴高令部】【高句麗】などになりました。 シウ伊逗氏は、イシン王ミコ(国常立命)の孫が入って継いだものでメルッハ人(穢族)やウラルトゥ人(伯族)のうち、匈奴に入った人々は、つぶさにみて、これを王としました。しかし、その後衰退し、ミコ王の子孫は、しばしば刀漫氏に養われました。ミコ王(国常立命)の子孫の冒頓は幼くして異相を刀漫氏に嫌われ、月氏に人質とされた後、襲われました。冒頓は走り逃れ、迂回して殷(箕子朝鮮)に助けを求め、箕子は巧みに外部諸族と相談したのでウラルトゥ(伯族)は、密かに匈奴内部から内応しました。その結果、冒頓は、匈奴に入って単于となり、これが匈奴刀漫部となり冒頓はキンメリ人漢軍を包囲して、まさに高祖をとりこにしようとし反転して匈奴と箕子(殷)の間の諸族を追い払いましたので、のち箕子(殷)は亡び、その遺民が高句麗となりましたが、その経緯は、漢が賄賂を使って冒頓の志を失わしめたからでした。ウラルトゥ(伯族)は、衰え、久しく辺境に潜んでいました。ここに至り、辰王(馬韓王・もと箕子朝鮮の上将卓)が卒本川の流域、コツ升骨と丸都の領域を提供したため、高令族がやってきて高句麗をたてました。この時、楼蘭にいた月氏を滅ぼしたのですが、その時の様子が漢代の史書に記されています。【・・・月氏を亡ぼし、これをすべて斬殺し降服させ、楼蘭、烏孫、呼掲および、その近くの国々三十六国を平定し皆、匈奴の国とした・・・】月氏王の骸を金杯にして酒を注いで飲んだという逸話は、この時のものでしょう。匈奴刀漫部は、【宮下文書】では面足尊の一族になっています。この人々は、ウラルトゥ史に出てくるキンメリ人のことで、のちにウラルトゥは、キンメリ人の刀漫単于をウガヤ王としています。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 匈奴国家は、単于の出身氏族を頂点とする幾つかの有力な氏族が直接支配する部族集団とそれぞれの部族長(王)を通じて、彼らが間接に支配する多くの部族、あるいは部族的集団とで構成された部族国家で、動員できる兵力も三十余万にすぎませんでした。それでも機動力に富んだ匈奴の騎兵部隊の侵入に対して、長城の守りは、ほとんど無力でした。漢の高祖も歩兵を主とする大軍を率いて遠征し平城に至りましたが冒頓の術中に陥ってしまい単于の妻に賄賂を贈って、やっと危地を脱することができたのでした
2012/05/03

数万年前まで日本列島は中国大陸とつながっていて、シベリヤのバイカル湖あたりから古モンゴロイドと呼ばれる人々が今の日本列島の地へと移ってきて、1万年近く続いた縄文時代の担い手になりました。彼ら古モンゴロイドの言葉がアイヌ語に僅かに残り、それはそのまま韓語にも通じるといいます。むしろ韓国語のほうが日本語よりアイヌ語に近いといえます。(日本語) (アイヌ語) (韓語) 神 Kamui カム、コム川 nai ネ寒い chamusi チュブまたアイヌ語はネイティブアメリカンの言葉にも近いとされます。ユーラシアの北方にはアジアからヨーロッパまで坦々としたステップ地帯が連なっています。狩猟民族はマンモスや鹿を追いかけてユーラシア大陸を抜けて北東のシベリアへ進み、さらに南北アメリカに渡たりました。温暖の時は北方へ、厳寒になると南下して陸続きの日本列島にも渡って来ました。約1万年前に大陸の端っこの陸地が海面上昇のために分断され日本列島が出現しました。朝鮮半島と日本列島をつないだのは船でした。半島からイカダを出せば海流に乗って簡単に列島に流れ着いてしまうのです。韓国・釜山市にある東山洞貝塚は5千年前の朝鮮半島と日本列島の絆の地でした。そこからは九州産と見られる縄文土器や有田の黒曜石などが出土しています。一方、対馬や九州北部の遺跡からは当時の朝鮮半島産の土器が出土しています。釜山市辺りは昔、金官加羅国があった所で、砂鉄を生産し周辺諸国と鉄貿易が盛んでした。 金官加羅は、九州の国東半島に本国があり、釜山はその出先機関もしくは植民地でありました。これを【面土国】といったのは【九州は四面あり】というように、四面土国を省略した言い方で九州国というほどの意味でした。九州北東部にあった東表国(豊国)の倭人は【南倭】といわれ、日本の天皇家(南朝)はこの国家の王家とは直接の関係はありませんが、史書のうえでは、東表国の王が孝昭から開化までの天皇(北朝)になっています。ところで、【晋書】は【卑弥呼は宣帝の平げる公孫氏なり】と述べます。原文は、【漢末倭人乱攻伐不定。乃立女子為王。名日卑弥呼。宣帝之平公孫氏也......】この卑弥呼が、記紀では事代主命の娘、神武妃ヒメタタライスズになっているのですが記紀は大物主の軍団に【大來目】がいたと記しますから、遼東の公孫氏にはクメール人(古コメル族)またはその支派の瓦族がいたことは間違いなくこの時、満洲と朝鮮に残留したクメール人または北倭が、後に扶余王依羅(崇神)が倭の地に逃れたあとで、唐に敗れた高句麗人を収容して渤海国をたてさらに外蒙古では蒙瓦室韋となり、後に蒙古族になりました。ですから、ジンギス汗はもともと北倭の王だったのです。 南倭もまたBC1000年頃、ガンジス河口から採鉱のために、タルシシ船に乗って九州にやって来たエビス族の一派でした。国東半島の重藤遺跡によれば、彼らがこの地に上陸してトーテツ文の土器や青銅器を作り、これを殷に運び、また盛んに砂鉄を採って製鉄を行っていたことが判ります。 【北倭記】は国東の倭国を【東表国】として【殷(箕子朝鮮)と姻たり】とするのですが、後にこの国は面土国といい、駕洛国といい、金官加羅ともいったのです。この金官加羅の王族から分れたのが新羅の金氏であり、後の蘇我氏になります。穢国の(扶余後期王朝)の王、ニギハヤヒは熊本にあった多婆羅国の王で、これが後に新羅の昔氏になりました。また沖縄の狗奴国の王・南解次々雄または長髄彦は新羅の朴氏になりました。神武天皇は実は扶余(前期王朝)王、仇台(神武)のことで扶余と公孫氏が連合して、多羅婆国を併せて邪馬壱国を作ったのです。なので日本史で倭人と云うのは、大別して、九州の金官加羅国の【南倭】と公孫氏の分国であった邪馬壱国の【北倭】を指します。このうちの【南倭】が朝鮮半島南部の駕洛地方に展開していたのでした。東表国または金官加羅国の王家は箕子朝鮮のカルディア人と対婚したアラビア海の海人で、インドのガヤに中間基地があったらしい。この人々はBC1000年頃、ソロモン王のタルシシ船でマレー海域から北上して、北九州の国東半島で製鉄基地を築いたのですが、タルシシ船にはヒッタイトの鉱人がいて、ハットウサの地名によって宇佐八幡と名付けられました。この国の人民は猪族と南倭で、南倭の方はカーシ族の信仰を維持していました。宇佐の原神はバンコとトウビョウであったといいますが、バンコは猪族の犬神信仰でしたしトウビョウはもともとカーシ族のトウレンという蛇神信仰でした。 【旧唐書】は倭国と日本国を別の国として扱って『倭国は古の倭奴国である...-四面に小島、五十余国あり。その王は阿毎氏であった。一大率を置いて諸国を検察し、みなこれに畏付する--・・衣服の制はすこぶる新羅に類する』と述べていますが、【新羅に類する】というのは当然で、新羅は面土国または金官加羅国から分れた国だったからです。【四面に小島がある】というのは、いにしえの九州を四面といったからです。ここで委奴国(秦王国)というのは九州北東部にあった面土国の金官加羅国が馬韓に領土を分けて作らせた国で、後に邪馬壱国に征服されて秦人は去り、邪馬壱国のなかの奴国になります。邪馬壱国は福岡の伊都国、吉野ヶ里の倭奴国(奴国)、熊本の多婆羅国、日向の安羅国などの連合国家であって、この内、多羅婆国の王がニギハヤヒでしたが、王姓を阿毎氏といいました。記紀は『神武が十種神宝とともにこの姓をニギハヤヒから貰った』と書いています。
2012/05/02
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