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アナトリアのチャタルフュイックのフュイックとは、テペあるいはテラ、丘をいいます。数千年に及んで、何世代もの人間が住居をつくり、それが壊れた後、後からやってきた人たちがその上に新しい住居をつくって住み着く。昔の家は粘土でつくったから、その営みが繰り返される度に、だんだん高さを増していく。そして、ついには丘にまで成長したのです。チャタルフュイックの周辺は、もとは大きな湖だったらしい。しかしBC1万年頃から、湖は徐々に干上がり、昔湖の底だった土地が肥沃な農業の適地となりました。チャタルフュイックに、最も早い時期の人間の住居跡が現れるのは、BC7000年頃です。BC7000年頃といえば、アナトリアからパキスタンにかけての地域で、小麦や大麦が初めて栽培されるようになった時代です。また山羊や豚が家畜化された時代でもあります。チャタルフュイックより早い文明の主要な根跡はエリコだけです。チャタルフュイックの人々は小麦や大麦、リンゴ、ピスタッシェナッツ、アーモンドなどを食べていました。主食は家畜化された牛ですが、野性の動物を狩る状況が壁画に描かれているところから、狩猟も重要な食料補給手段だったようです。チャタルフュイックの近くには、黒曜石の産地があり、チャタルフュイックに1000年以上先行するエリコの遺跡で黒曜石が出土しています。そのエリコの黒曜石はアナトリアから運んできたものと考えられています。エリコの住人は、黒曜石の採掘のためにチャタルフュイックに住み始めたようです。集落は非常に特徴的な姿をして、家々はすべてコンパクトに密集し、間に道路がありませんでした。外側の壁には入口がなく、人々は木製の梯子を使ってまず屋根に昇り、屋根を伝わって再び梯子で所々に設けられている中庭に降り、そこから家に入りました。窓は、壁の高い部分にのみ設けられたことから、チャタルフュイックの人々が、ある程度は外敵に備えていたことは推察できます。チャタルフュイックでは、住居の床下に死者を葬りました。死体は、外に放置され、はげわし、あるいは小動物、などの清掃人によって、きれいにされた後、室内の床下に葬られました。後世の鳥葬の原型です。チャタルフュイックからは、火で焼いた粘土製のスタンプや石臼が、出土しています。小麦・豆にしても顔料・火薬にしても、すべては、粉から始まるところに気づいた人間は、すばらしいと思います。そこから無限の可能性が広がりました。スタンプの用途については、たぶん衣類や袋布の所有権を示すためと推定できます。家はすべて密集して建てられており、その間には道路もなく人々は顔を突き合わせて住んでいました。まだ私有財産など生まれていなかった頃ですが、身の回り品や当座の食料については、家族別の所有関係をはっきりさせておく必要があったのではないか。無用な争いを避け、多数の人たちが平和的に暮らすためには、所有権をはっきりさせる必要があります。しかし、まだ文字が発明されるより3000年も昔のこと、自分の所有権を表わす唯一の手段が、粘土で特別の文様のスタンプをつくり、顔料をつけて、自分の衣類や穀物を入れたと思われる布の袋に押すことだったのでしょう。印章の起源は、メソポタミアではなく、それより遥かに古いチャタルフュイックだったのです。 メソポタミア北方の山地を廻る肥沃なる三角州を極めて早期に占領したのはナトゥフ文化の流れを汲む地中海人種ののエリコの人々でした。 長頭型の地中海人種はさらにスーサに於ける早期の住民を形成しインダス文明に先行する時期に北部インドを占領しました。アナトリア北部ヴァン湖付近にいたアルメノイドは地中海人種にやや遅れてスーサやインドへ進入しました。シュメール、ハッティ、ミタンニ、フルリ、エラムなどがアルメノイドに属し、彩陶文化の担い手でした。したがって肥沃なる三角州文明は早期から長頭型の地中海人種と高短頭型のアルメノイドの混血された人種によって形成されスーサでは最古のスメリア文明でした。アルメノイドのフルリ人は、後のアーリア=印欧語族になったと考えられます。エラムには数多くのフルリ人が関与していた記録が残されており、 ヒッタイト帝国と交流があった事が分かっています。フルリ人は、メソポタミアのシュメールとアッカドからアナトリアとヒッタイト王国までの間の広いエリアを支配していました。フルリが、アーリア人かインド・ヨーロッパ語族起源であったと考えられます。エラム各地にフルリ人が移住しており、エラムの諸都市にはフルリ人の王を頂く都市が多数出ていて彼らの王たちはインド・ヨーロッパ語族の名前をもっていました。そして、彼らの軍隊と騎兵用語は、インド・ヨーロッパ語族から生じています。フルリ人は、文化的、宗教的にヒッタイト人に影響を与え、ヒッタイトの神話が、フルリに由来することも解ってきました。紀元前1300年、大規模な移住と侵略の圧力の中で、フルリは自らの王国の北東の部分へ退き、バン湖の近くで彼らの新しい首都を創出して、彼らの王国をウルアルトゥ(アララト)と呼びました。
2012/06/12

中東地域に現れた最初の人間と考えられるケバラン人が姿を現すのがBC1万8000年頃。 それは、ヨ-ロッパの氷河期の最盛期に当たっていました。ヨ-ロッパは氷河期に一度ほとんど無人化した可能性があります。寒冷化から逃げなければならなかった彼らの行き先は南にしかありませんでした。彼らケバラン人は、中東、パレスチナに現れその後の文明の主流になりました。約1万5000年前、地球の温暖化が始まり、不毛の砂漠だったシリアの北部に草原や森林が広がりました。新しく出現したシリアの環境は、木ノ実や小動物など豊富な食糧を供給し、周辺の狩猟採取民族が、ハルーラという場所で定着生活に入ります。しかし、約1万1000年前に、地球的規模の寒気の揺り戻しがありました。シリア北部の自然環境は、もはやかっての生産性豊かなものではなくなり人類史上最初の定着生活を始めていた人々は、人口の増加をもたらし、そこへ突如襲った環境の激変と、それに伴う食糧の減少は村落の住人を窮地に追い込んだに違いありません。しかし彼らは、未曾有の困難に敢然と立ち向かったらしい。この時代の地層の考古学的発掘が興味深い事実を発見しました。約150種類の植物の種が発見されたのです。中には、クローバーの種など、とうてい食用に耐えない植物の種も含まれていました。明らかに彼らは、危機に直面して、ありとあらゆる可能性を探ったとおもわれます。彼らにとって幸いだったのは、その中に小麦が含まれていたことです。小麦は比較的寒さに強い。さらに現代の専門家の研究によって、小麦の驚くべき性質が明かになりました。野性の小麦は、たった10年程度の繰返し栽培でも、その性質を見る見る変え粒が大きくなり殻は柔らかくなって、食用に適したものになったのです。この小麦の変幻自在の性質が、その後の文明の発展に決定的な影響を与えました。しかし、初期の農業村落のほとんどは、大きな規模の町に発展する前に消えていきました。初期農業村落の幼児死亡率は高かったのです。BC1万1000年頃、中東に現れたナトウフ人は、ケバラン人の系譜につながります。世界最古の農業は、BC1万年より少し下がった頃、カルメル山の周辺に溯ります。エリコの町は天然のオアシスで、エリシャの泉は、遊牧民たちの水飲み場でした。人が集まりやすい場所だったのです。エリコの最初の住民ナトウフ人が、北西のカルメル山の山麓からやって来たと考えられています。その周辺には、現在の大麦や小麦の先祖の野生種が自生していて、最初は、野生の麦を動物の骨の柄に石の刃を埋め込んだ原始的な鎌で採取し始めたと思われます。農業は通常の採取経済に比べて50倍もの生産性をもつといいます。カルメル山からエリコへ移り、農業を始めたナトウフの人々は、共存共栄の元に平等に暮らし生産性を高めましたから幼児死亡率を減らし2000人ほどにも人口を増やしました。エリコの最初の文明は約1000年続きました。しかし、農業が安定し、穀物を貯蔵し、エリコが繁栄し豊かになると外敵が出現し、城壁を造らなくては、ならなくなったと思われます。ナトウフの人々は、アナトリアへ、武器を探しにいったようです。黒曜石です。その時に、農業技術の情報もアナトリアへ、流れたと考えられます。しかしBC7000年頃、その文明は急に終わります。新しい人たちがやって来たのです。エリコとともに、パレスチナのいくつかの地点が同じ運命を辿りました。侵入は、かなりの規模で行われたのでしょう。新しい侵入者は北シリアからやって来たと考えられています。この人々は、アナトリア方面から入って来たらしい。エリコのそれまでの円形の家は方形の家にとって代わりました。その方形の家の床の壁は、磨かれた「しっくい」で覆われていました。この方形で磨かれたしっくいの床の家という、かなり特徴のある家がアナトリアのチャタルフュイックの遺跡で発見されています。黒曜石の原産地は、アナトリアですが、大きく分けて二つあり一つはカッパドキア周辺、もう一つは、ヴァン湖の北岸地帯にありました。カッパドキア系とヴァン湖系の分布は比較的はっきりと分かれており前者はアナトリア南部からパレスティナにかけての地域、後者はチグリス川とユーフラテス川流域が中心になります。しかしヴァン湖系の分布は、一部がカッパドキア系の範囲(パレスティナとチャタルフュイック)を中心としたアナトリアの一部)に混在しています。一方、ヴァン湖系の黒曜石の産地は多数あり、チグリス川およびその支流地域を中心にユーフラテス川沿岸そしてイラン南西部のスーサ辺りから出土しています。と、いうことは、パレスチナ(カナン)のエリコの人々の地域にヴァン湖系が侵略し範囲を拡げたということです。そのヴァン湖系の人々が、アルメノイドだと思われます。ハッティ・ミタンニ・フッリ族などと共にエラム族もアルメノイドに組み込まれます。BC5100年から4300年までにバビロニア北部でハラフ文化が展開しました。この文化の特徴は彩文土器、銅、円形のトロス(祠堂)、押捺印章などで【分業】がはじまり、金属細工人、陶工、石工が生まれ、銅鉱石が交易されて、農村の自給経済を変容させました。この頃から銅鉱石を採集してハラフ農民と交換した人々が後にセム族特にアッカド人として歴史に現れます。北部にハラフ文化が展開しつつあった時、バビロニア南部ではエリドゥ期で沼沢地に農耕社会が形成されました。シュメール人が現れる1000年も前のことです。エラム族は、インドのドラヴィダ族と共に、地中海からインダスに至る広範囲な地域を移動し、その一部はアルメノイドと混じりながらシュメール人となってBC3500年頃、ウバイド人がいたバビロンの地に侵入しました。「史記」の伏犠氏は、この人々です。アルメノイドとは、アナトリア東部のヴァン湖の北岸地帯にいた人々です。それは、黒曜石の分布図で現在も解析できるようです。黒曜石は、火山性ガラスでナイフなど鋭利な刃として、中東では銅化合物に取って代られるまで使われました。地中海人種は、シリアからペルシア湾に至るメソポタミア北方の山地を廻る肥沃なる三角州を極めて早期に占領し、スサに於ける早期の住民を形成しました。肥沃なる三角州文明は、早期から長頭型の地中海人種と高短頭型のアルメノイドの混血人種によって形成され最も古いスメリア文明が発生していたのでした。私は、地中海人種をパレスチナのエリコから来た人々、アルメノイドをバン湖付近にいた人々と考えます。彼ら混血したスメル人(シュメール・ウル人牛頭)は、四方に散り、小アジア(トルコ)、メソポタミア文明、クレタ文明、インド文明、エジプト文明にも共通の文化を及ぼしました。彼らが中央アジアのトルキスタンに現れた最古のユーロポイドと考えられます。
2012/06/12

シベリア南部のユーロポイドの中心地域は、イェニセイ川上流域・アルタイ山地方面にあって、そこでは前3000年紀末から前2000年紀前半のミヌシンスク盆地を中心として、アファナシェヴォ文化(早期青銅器文化)、それに続いて前2000年紀後半から末期頃まで、カザーフ草原からミヌシンスク盆地にわたって広く分布したアンドロノヴォ文化(前期青銅器文化)の担い手が、いずれもユーロポイドでした。その内、アンドロノヴォ文化は、ユーラシアに広布した大ユーロポイドの一分枝としてカザフスタンで成立し、東方へ移動した一亜人種であることが人類学者の見解です。これに対し、前2000年紀末ないし前1000年紀の最初の四分の一頃の、中期青銅器時代のカラスク文化の担い手は、典型的なユーロポイドとモンゴロイドの性質をもったものがミヌシンスク盆地で共存しており、モンゴロイドは東アジア分枝の特徴である狭顔を示し、黄河流域の中国新石器時代の彩文土器文化人(シナ型モンゴロイド亜人種)に類似しているといいます。カラスク文化は、内モンゴル・長城地帯のオルドス青銅器文化とも親縁な関係にあり、華北の殷周青銅器文化とも関連のあるものでした。従って、ミヌシンスク盆地に現れたシナ型モンゴロイド亜人種は内モンゴル・長城地帯方面からモンゴル高原を経由して、北上していったものと考えられています。一方、大モンゴロイドの他の分枝がシベリアの早期青銅器時代に、北方ユーラシアの森林地帯に沿って、遠く北欧のバルト海沿岸地方まで、浸透した事実が観察されておりイエニセイ川以西では、ヨーロッパとアジアの人種 の境界が森林地帯と草原地帯に符号しています。西方のモンゴロイドの浸透は、シベリア北部の森林地帯に沿って起こっており一方、イエニセイ川上流域から西トルキスタンを隔離している西シベリアの低地の広大な草原地帯は、長くユーロポイドによって占住されたといいます。イェニセイ川上流域のミヌシンスク盆地における、前七世紀~前二世紀のタガール文化の担い手はユーロポイドで、長頭型と短頭型の二亜人種が識別されました。タガール文化は、南ロシアのスキタイ文化や、西シベリア・カザフスタンのサルマート・サカ文化と密接な関係にあります。すなわち、この時代のイエニセイ川上流の住民は、東南モンゴロイドよりも西南のユーロポイドに、はるかに強い結ぶつきを示しており、それが北方ユーラシアに於ける最初の牧畜・騎馬民族文化(スキタイ系金属文化)の潮流とも完全に符合するといいます。この事実が、スキタイ系金属文化の分布圏内に西南から東北に並んだ中央アジア史上最初の騎馬民族であるスキタイ、サルマタイ、サカ、康居、烏孫(ウスン)、月氏、隔昆(堅昆)などの民族がいずれもユーロポイドと解されている所以の一つですが、それには、古代中国やギリシア・ローマの史書に、【深目高鼻】とか【多髯】とか、彼らについて、そのユーロポイド的風貌を示唆する記載があります。ミヌシンスク盆地では、タガール文化に続いて、前二世紀~後三、四世紀の間にタシトゥイク文化が現れ、トルコ・モンゴル系民族文化要素の含有が観察され、土着住民であるユーロポイドとモンゴロイドとの混融を示します。ミヌシンスク盆地から西方のアルタイの高地や山麓でも、前1000年紀の後半頃東方からのモンゴロイドの到来、特に匈奴(フン)の西遷を示唆する長頭型モンゴロイドの出現が指摘されています。それがいっそう明確になるのは、キルギズ共和国内のタラス川流域や天山・アライ山脈で発見された匈奴の古墳から出土した人骨からであり、典型的なモンゴロイドも、典型的なユーロポイドも両者の混合型もあって、1、2世紀頃のキルギジアの匈奴は単一なものではなく、各種の胡族の集合体であったことを示しています。本来はモンゴロイドの匈奴がキルジアまで西遷したころには、各地で先住のユーロポイド住民の鳥孫(ウソン)やサカや康居などを取り込んで、人種的にも複雑化したことを示唆しています。これと同様な現象は、ハンガリーのフン(西方匈奴)の古墳出土人骨の調査でも明らかになっています。4世紀に【草原の遊牧民=匈奴(フン)】が出現するまで、ヨーロッパでは、中央アジア型の典型的なモンゴロイドの存在は知られていなかく、フンを普通のユーロポイド型に比べて身長が低いこと、肩幅が広いこと、毛深くないこと、頬骨の著しい、広い顔、細い眼、扁平な鼻となどと、歴史家によって記述され、それらの特徴は、フンがモンゴロイドに属することを物語っています。この匈奴=フンの西遷は、モンゴロイドのヨーロッパへの最初の移動であり、その後ユーラシアに起こった東から西へのモンゴロイドの波状的西方移動の序幕でありました。
2012/06/09

日本人の祖は中央アジアにて、ユーロポイドの白人とモンゴロイドの混血によって形成されたと考えられます。月氏、サカ族など中心になって倭国や秦国を造っていった人々白皙碧眼のヨーロッパ人種に近い容姿であったと推測されます。彼らが、蘇我氏、物部氏、藤原氏として君臨していた可能性があります。そのあたりを先達の歴史研究家、亀井貫一郎氏、石川三四郎氏、江上波夫氏は、よく調べておられるので、参考にさせていただいています。 ユーラシア大陸の歴史に重要な人種としてユーロポイド(ヨーロッパ人種)とモンゴロイドの2種があります。ユーロポイドはヨーロッパ、地中海、西アジアからトルキスタン北方ユーラシアに亘って古くから広く分布しました。これに対し、モンゴロイドは、モンゴリア、中国、東北アジア、東南アジアチベットに亘って、これまた古くから広く存在したらしい。中央アジアは、この二代人種の分布した地域の、いわば境界領域を成していましたが、非常に古くからトルキスタンの殆んど全域がユーロポイドによって占拠されていて、そこに長年にわたって形成された厚いユーロポイドの人種的基層が存在していました。中央アジアは、旧ソ連から独立した5カ国(カザフスタン・ウズベキスタン・ タジキスタン・キルギスタン・トルクメニスタン)をさし、かつて「トルキスタン」と呼ばれた地域の一部。画像/Wikipedia「トルキスタン」より ピンクの囲み全体が、 「トルキスタン」と呼ばれた地域で 左囲み部分=中央アジア。 その名残で、中央アジアを、西トルキスタンとも言います。 右囲み部分は、 中国が新疆ウイグル自治区(ウイグルスタンとも)」と主張し現地の人が「東トルキスタン」と主張してトラブっている地域。 トルキスタンに現れた最古のユーロポイドは、地中海人種あるいは西南アジア人種といわれる亜人種で西アジアの北部から前5000年紀末~前4000年紀初、現在のトルクメン共和国がイランと境を接するムルガブ川流域やコペト=ダーグ山麓地方に移住してきた初期農耕民で、長頭型をもって特徴づけられていました。次に前3000年紀~前2000年紀への移行期に、現在のウズベク共和国のシル・アム両河流域地帯に現れたのが短頭型のユーロポイド亜人種で、一方ではパミール=アライ高地から東トルキスタンまで、他方ではトランスカフカズや小アジアからバルカン半島まで広がっており、さらにアドリア海地方からアルプス山脈地方までアルプス亜人種として分布した短頭型ユーロポイドとも関係あるものでありました。またやや遅れて前2000年紀の後半に、イラン北部のエルブルズ山脈内に移動してきて、そこを根拠に騎馬民族的後期青銅器・初期鉄器文化を発達させた「山の武人」の短頭型人種とも一連のものと見られます。このようにトルキスタンのユーロポイドには、シル・アム両河流域人種のような短頭型亜人種とトランスカスピア(トルクメニア)亜人種のような長頭型の亜人種があり、これら両人種型はほぼ南北に平行して広く存在しました。前者の短頭型亜人種は、東は東トルキスタンから、西はアルプス地方まで、パミール=アライ、トランスカフカズ、小アジア、バルカン、アドリア海域を含めて分布し、後者の長頭型亜人種は、東は北インドからイラン、シリアを経て、西は地中海の半島部や島々まで広がっていました。一方、ユーラシア大陸の北方では、新石器時代にサーヤン・アルタイ高地からバイカル湖南辺までユーロポイドが浸透しており、バイカル湖の東・西両岸以東に広布したモンゴロイドと対立しました。
2012/06/04
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