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アコースティックでギター・バンドをしていた頃、CSN&Y(クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング)とともに、ギター伴奏のコピーによく励んだミュージシャンがいた。 ジェームス・テーラー(James Taylor)。米ボストン生まれのシンガー・ソングライター。1969年にデビューし、1970~80年代を通じて、その温もりのある優しい歌声と美しく、分かりやすいメロディーで、幅広いファンの支持を集めた。 ジェームスの69年のデビュー・アルバムは、何とビートルズがつくった英アップル・レコードからの発売だった。しかし、商業的には成功せず、アメリカに帰ったジェームスは、新たな展開を目指してワーナー・レコードに移籍する。 そして、歴史的なアルバム「スイート・ベイビー・ジェイムス」(70年=写真左)を発表。そして、続いて出した「マッド・スライド・スリム(Mud Slide Slim)」(71年=写真右)も大ヒットし、その人気を不動のものにした。 この2枚のアルバムからは、「ファイア・アンド・レイン(Fire and Rain)」(畠山美由紀さんもカバーしてます!)、「スイート・ベイビー・ジェイムス(Sweet Baby James)」、「君の友だち(You've got a friend=キャロル・キングのカバー)」、「カントリー・ロード(Country Road)」(ジョン・デンバーの曲とは違います)などのヒット曲を送り出したが、残念ながら、日本では爆発的とまでの人気を得る存在にはなれなかった。 彼の素晴らしさは、歌もさることながら、やはりそのギター・ワーク。それまでのギターを使ったシンガー・ソングライターは、コード弾きかせいぜいアルペジオかフィンガー・ピッキングだったが、ジェイムスは、革命的といえるような個性的な伴奏を編み出し、自分の曲に生かした。 だから、彼の曲はギターの音色のとても綺麗な曲が多い。簡単そうで、難しいテクニックも目立つ。でも、素人でも一生懸命練習すれば、何とか手の届く範囲だから、僕はよく彼の演奏をコピーした。 当時、もちろん国内版のギターのタブ楽譜はなかったから、ホームステイするために、初めてアメリカへ渡った1973年(当時は1$=約270円だった)、コネチカット州の楽器店で彼の楽譜(ギターのタブ譜付き!)=写真左=を見つけたときは、天にも昇る気持ちだった。僕は、その楽譜を宝物のように扱い、一生懸命練習した。 ジェームズはその頃、「うつろな愛(Love In Vain」がヒット中だった歌手のカーリー・サイモンと、電撃的に結婚。そして、結婚後間もなくカーリーを伴って来日し、大阪にもやって来た(カーリーとは82年に離婚)。 フェスティバル・ホールで開かれたコンサートには、もちろん僕は万難を排して見に行った。昼・夜2回公演という今では考えられないようなコンサート。僕は昼の部の方へ行った。誠実そうな人柄と、アルバムからのヒット曲ばかりがほとんどの、期待通りの素晴らしい内容に僕はとても満足した。 コンサートの途中、ジェームスは、カーリーが飛び入り出演するんじゃないかと期待しているファンに、「ごめん。彼女は今ちょっと買い物に出かけているんだ」とわびていた。後で聞いた話では、夜の部では、カーリーが登場して一緒に、「うつろな愛」をデュエットしたんだとか。あー残念! 夜の部を選べばよかった…。 最近のジェームスは、あまり音沙汰がない。2002年には久々に、「オクトーバー・ロード(October Road)」という新作アルバム(写真右)を発表した。今年は、最新ツアーを記録したDVDも出したりしているが、米国内でも、それほど精力的に活動している訳ではない(レイ・チャールズが死の直後リリースしたデュエット・アルバムでは1曲、共演していたけれど…)。 「もう十分稼いだし、もうステージは気が向いたらでいいや」とジェームス自身は思っているのかもしれないが、1948年生まれの57歳だから、まだ引退するには若すぎる。あの澄み切った歌声を日本でもう一度聴いてみたいのだけれど…。人気ブログランキングへGO!→【人気ブログランキング】
2005/10/31
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シェリー(Sherry)と言えば、「一部のウイスキーの熟成の使われる樽の元になったお酒」という知識くらいしかなかった。以前は、ほとんど飲まなかった。だが最近、シェリー好きのブログの友人たちの影響もあって、BARで、シェリーを飲むことが多くなった。 ワイン同様ぶどうから造るシェリーは、ワインに似ているが、味や香りやボディーはかなり違う。腐敗防止(酒精強化)のためブランデーも添加されているので、味わいはとてもしっかりしている。ワインというより、ブランデーやダーク・ラム、グラッパなどに近い感じもするし、僕はむしろ食後酒として飲む方が好きだ(写真左=辛口のシェリーは大好き!)。 主な産地はスペイン・アンダルシア地方(ちなみに、スペイン(語)ではシェリーのことを「ヘレス」と呼ぶとか)。海に近いこの地方は、地中海性の温暖な気候に加えて、石灰質の土壌に恵まれ、シェリーに合うぶどうの栽培にとても適しているという。 シェリーの樽は、ワインで満杯にはせず、上部に空間を少し残す。その方が発酵がうまく進み、発酵後しばらくすると、液の表面に白いカビのような膜が出来てくる。この膜(フロール=「花」という意味)が、シェリー独特の香りを生む秘密だという(写真右の2枚=多彩なシェリーは奥が深い)。 スペインにはたくさんのシェリーがあるそうだが、残念ながら、日本ではあまり多くの種類は飲めない。美味しいシェリーが飲みたければ、シェリーの品揃えに力を入れているBARに行くのが一番。大阪だと、キタにある「A」や、ミナミの「H」などが有名だ。 僕は勤め先の関係で、前者の「A」に行くことが多い。この「A」のマスター・バーテンダーのMさんは、シェリーに魅せられて、アンダルシア地方にも何度も足を運んだというだけあって、シェリーについてはとても詳しい。 「A」には50種類近いシェリーが用意されている。「食前酒」のイメージが強いシェリーだが、僕はこの「A」でシェリーにもいろんな種類があり、食後に飲んでも十分美味しいことを教わった(写真左=シェリー・ブランデーなんて酒もあります)。 それまでは、フィノ(きりっとした辛口)と、マッカランなどの熟成樽として有名なオロロソ(芳醇な味わい=甘・辛口両方ある)くらいしか種類を知らなかった僕だが、アモンティリヤード(優しい口当たりの中甘口~辛口)、オロロソ(芳醇な味わい=甘・辛口両方ある)、ペデロ・ヒメネス(甘口)、マンサリーリャ(繊細な辛口)、パロ・コルタド(オロロソとアモンティリヤードの中間)など…、実に多彩な世界があることをMさんから学んだ。 シェリーにはもう一つ、「ヴェネンシア」という欠かせない道具がある。長さ1mほどの弾力性のある金属製の棒の先に、円筒形のカップが付いていて、シェリーを満たしたカップを、頭のやや上くらいの高さにまで一気に引き上げながらグラスに注ぐ。そうするとグラスに落ちるまでの間、シェリーが空気に触れて、よりまろやかな味わいになるという。 「ヴェネンシア」を使ったこのパフォーマンスをする人のことを、「ヴェネンシアドール」(写真右)というが、その注ぐ動作の美しさは、見ているだけでも楽しい。初めての人は、「おーっ!」とびっくりすること間違いない。 Mさんはスペインにまで行って「ヴェネンシアドール」の資格を取った本格派。僕はひそかに、「西日本No1のヴェネンシアドール」と思っている。機会があれば、ぜひMさんに「シェリーを、ヴェネンシアで」と頼んでみてください。 そして、できれば「ヴェネンシア」したものと、しなかったものを飲み比べ、その微妙な味わいの違いを楽しんでみるのも一興だ。たかがシェリー、されどシェリー。ほんとに奥が深い酒だと思う。人気ブログランキングへGO!→【人気ブログランキング】
2005/10/29
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社内で移った、新しい職場の仕事を覚えるに忙しくて余裕もなく、最近は、ホームグラウンド・ピアノBARの「M」に少しご無沙汰していた。 案の定、「M」のヴォーカリストのSさんから先日、「元気にしてますか?」とメールが来た。「今度の月曜日、私の誕生日だから」との追伸付きで…。「それって、お祝いに来てよ」っていうこと?(だから、ちゃんとお邪魔しましたよー。お祝いのシャンパンを抱えて、ね!)。 それはともかく、ジャズ・ピアノの方は、ちょっと練習不足気味なんだけど、そうしたなかでも、一番よく弾いている(練習している)曲がある。それは「My Foolish Heart」に次いで、僕の好きな曲。 ルイス・キャロル原作の童話をアニメにしたディズニー映画の主題歌(原作は童話というより、限りなく哲学的で、難解な筋書きだけれど…)。「Alice In Wonderland(不思議の国のアリス)」。とても美しいメロディーで、軽快なワルツ。 「Alice In Wonderland」は、ディズニーの主題歌でも有名だが、ジャズ・ピアニストのビル・エバンスがアレンジした同名の曲もとても有名だ(と少なくとも僕は思っている)(写真左上=エバンス演奏の「Alice…」が収録されているアルバム「Sunday At The Village Vangard」)。 オリジナルメロディーの五線譜(写真右中=今回は珍しく手書きで書きました。写真ピンボケでごめんなさい!)には、シャープもフラットもない。Dmというコードで始まるから、一応イ短調なのかと思うんだけれど、メロディー・ラインは、どちらかと言えば明るい。これって、ハ長調なのかなぁ?(どなたか教えてくださーい)。 ちょっと専門的で、マニアックになるが、サビのメロディーに移る前の、数小節のメロディーやコード進行が、ディズニー版とエバンス版では若干違うのだ。ディズニー・バージョン(写真左下=ディズニー版の楽譜)は、やや暗い感じだが、エバンスのは明るい感じ(機会があれば聞き比べるのも一興!)。 この曲をジャズ・ボーカルで歌う人は、もちろんディズニー・バージョンで歌うが、ジャズ・トリオで演奏するスタンダード・ナンバーとしては、いつの間にか、エバンスのバージョンが定着してしまった(これも僕には七不思議の一つ)。 で、僕はエバンスがトリオで弾いたバージョンで、ピアノ・パートを練習している。いつもはコード弾きを中心にジャズを弾いている僕だけれど、今回は一生懸命、五線譜と格闘している。音符があまり読めない僕には、これは結構しんどい作業なんだが、(先ほども書いたけれど)シャープやフラットがない分、初級者にも手が届く。 エバンスの曲は、メインのメロディー(ワン・コーラス=16×4で、64小節)を弾いた後、アドリブをさらに2~3コーラスくり返す。これがエバンス流に自由奔放に弾いていて、コピーするのは、素人ピアノ弾きの僕にはなかなか至難の技(でも一応、嬉しいことにアドリブ譜はある)。 でもシャープやフラットがないから、僕なりの感性で自由に真似しても、結構サマになることが分かってきた。これが楽しい。何回練習しても同じアドリブは2度と弾けない。最初で最後、2度とこの世に存在しないメロディー(アドリブ)が空間に解き放たれる。 今のところ、完成度は5割くらい。7~8割完成したかなと自分で自信が持てるようになったら、「M」でも披露してみようかなと思っているが、究極の目標は、「My Foolish Heart」のように楽譜なしでも弾けること。さて、いつになるか約束できないけれど、乞うご期待!人気ブログランキングへGO!→【人気ブログランキング】
2005/10/27
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「(イタリアから)日本に帰ったら、必ず観てね」と言われた映画があった。それを先日ようやく、DVDを借りてきて観た。すでにご覧の方には、「何を今さら」という映画。「冷静と情熱のあいだ」。 主演は竹之内豊。その相手役に香港スターのケリー・チャン。ラブ・ストーリーで、舞台はフィレンツェ、ミラノ、そして東京。東京はまぁ、添え物のような感じで、物語のほとんどは、最初の2つの街で進行する。 順正(竹之内)とあおい(チャン)の二人は、かつては恋人同士。あおいは香港人と日本人のハーフ。留学していた東京の大学で知り合い、愛し合うようになる。だが、あることがきっかけで別れ、その8年後(?)くらいに、イタリアで再会する。 順正は古絵画の修復士としてフィレンツェで修業中だった。あおいはミラノで、アメリカ人実業家と一緒に暮らし、不自由のない生活をしていた。順正は今も、別れたあおいが心の片隅から消えない。 二人にはある約束があった。「10年後、二人の愛が変わってなければ、フィレンツェのドゥオーモ(フィレンツェ名物の聖堂=下の写真の右奥に見える大きな聖堂)の上で会おう」という約束が。あおいは再び現れた順正を見て、心が揺れる。順正は、あおいが昔、順正の元を去った本当の理由を、まだ知らない。 これ以上は、映画のネタに関わるので、あまり詳しくは書けないけれど、とにかく、外国を舞台にした日本映画のラブ・ストーリーとしては、よく出来ていて、興行的にも成功した部類に入るんだろうと思う。 竹之内のイタリア語や英語のセリフも、ケリー・チャンの日本語もそう不自然ではない。チャンはそれもそのはず、神戸のカナディアン・アカデミーに3年間通っていたんだとか(Madokaさんと、ひょっとして同級生?)。 アッシジを案内してくれたガイドさん(フィレンツェ在住の日本人女性、30代後半?)は、「とにかくフィレンツェの街の映像がめちゃきれい。きっと訪れた所がいっぱい出てくるから、見てるだけでも楽しいよ」と太鼓判。 確かに、この映画中のフィレンツェやミラノの街の映像は、筆舌に尽くしがたいほど美しい。とくに、竹之内が自転車で駆け抜けるフィレンツェの細い街路がとても素敵だ。「こんな街で1カ月でもいいから暮らしてみたい」と思うのは僕だけではないだろう。 かのガイドさんは、この映画の撮影中の竹之内君をフィレンツェで見て、すっかりファンになってしまったとか。「かっこいいったらなかった」と言う。確かに、この映画の順正はかっこいい。僕が女でも惚れてしまうだろう。それに比べて、常磐貴子似のケリー・チャンは、ちょっと、あおいのイメージとは違うなぁ…。 映画では、ドゥオーモが「愛を語り合う場所」という設定になっていたが、ガイドさんは「フィレンツェの地元の人に何人も聞いたけれど、そんな話は聞いたことがない」という話。「愛」どころか、どちらかと言えば血なまぐさい歴史もあるという。 まぁ、「高い場所での再会」という設定は、きっと、あのケリー・グラントとデボラ・カーの名作「めぐり逢い」からヒントを得たんだろうなぁ…、とは思うけれど、まぁ映像が美しすぎるから許してしまう僕。ハッピー・エンドで終わるのも、僕好みだから…。 フィレンツェもいいけど、ミラノも実に美しい。路面電車がとても街に似合う街だ。次回はぜひミラノを訪ねたいという気持ちが、ますます強くなってきた。人気ブログランキングへGO!→【人気ブログランキング】
2005/10/25
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阪神タイガースファンの友人夫婦が、「遅ればせながら、セ・リーグ優勝祝い&日本シリーズ制覇祈願のパーティーをやろう!」と企画。土曜の午後、お誘いを受けて、友人宅にお邪魔した。 集まった6人のメンバーを前に、友人は「きょうのお酒はワインづくしでいくから。いいのを開けるぞー!」と最初から全開モード。で、いきなり出てきたのが、ドン・ペリ!(写真左) 「えーっ! こんなんから、飲んでええのー?」と驚く我々。 僕は「ドン・ペリ体験」は初めてではなく、一応味は知っている。しかし集まったメンバーのなかには、「初めて飲むー、感激!」という人もいて、嫌でも盛り上がる。 そして、次に出て来たのが、何と知る人ぞ知るイタリアの銘酒「サシカイア」(写真右)。味わいはもちろん、香りや果実味、なめらかさ、奥行きとも、申し分なし。ヴィンテージが2000年だったから、ややまだ若いかなぁと心配したが、意外と十分に飲み頃ではあった。 そして、本日の最初のメニューは、料理の得意な友人の奥様自慢の前菜がずらり。どれもがワインに合う素晴らしい一品で、全員の食が進むこと、進むこと(写真左=左から時計回りに、「サーモンのカルパッチョ、アスパラガス添え」「キノコ5種のマリネのソテー」「貝柱のサラダ」「揚げサンマのマリネ」「ナスの冷製バルサミコ風味」)。 5時頃から飲み始めて、盛り上がってきた頃に、テレビでは日本シリーズ阪神対ロッテの第1戦がスタート。次なるワインはブルゴーニュのピノノワールの赤(写真右下)。 ブルゴーニュにはあまり詳しくない僕は、ラベルを見てもよく分からなかったが、友人の「たぶん美味しいと思う」とコメント通り、飲みやすくて、ふくよかな果実味が広がる。 最初の5品だけでも、もう結構お腹がいっぱいになっているのだが、奥様が次なるメインとして出してきてくれたのは、「鴨のロースト赤ワイン風味ソース、松茸&パパイヤ添え」という超豪華な大皿料理(写真左)。「松茸」と聞いて、全員からほぼ同時に「おーっ!」という声が上がる。 鴨のロースト具合も、松茸(少しソテーしてある)も最高! そして意外や意外、パパイヤっという南洋の果物がこの料理にとても合うことも、新鮮な発見だった。 さて、本日の主役であるはずのタイガース。「初戦の先発が井川ちゅうことは、岡田監督は捨てゲームと思とるんかいな」という我々の予想通り、中盤でつかまった井川が打たれる、打たれる。リリーフしたはずの橋本も、2本の本塁打を浴びてあえなく沈没。1-10となっては、「もうきょうは、こらあかん…」(写真右=美しいシャンパン・グラスの彫刻=サンドブラスト=も奥様作でーす!)。 さて、試合の流れが決まってしまった後は、再びワインに戻って、阪神タイガース2003年優勝記念ワイン(これはボルドー)、ブルゴーニュをまたもう1本、さらに「ホテル・ド・ミクニ」のハウスワインという白ワイン(ただし、これは全員が「いまいち判定」。みんな「三国さんの舌はどうかしてるー」との意見で一致)を開けて、この夜はしめて6本(写真左=持ち込んだトラ応援グッズも元気がなーい)。 奥様は「まだ2品あるんだけど、食べてねー」と。「えーっ!もう入らないよー」と我々は悲鳴に近い反応。で、出てきたのが「豚肉のロースト、プルーン風味」「エビとチキンのドリア」。最後には、デザートのケーキまで(写真撮るのを忘れた!)。せっかくイタリアで太った分ほぼ戻ったのがまたリバウンドかも。 シリーズ第1戦の方は終盤、ボールが見えなくなるほどの濃霧が発生。結局、そのままコールド・ゲームになるという前代未聞の珍事となった。も千葉マリンスタジアムは、秋の夜に濃霧が出やすいので有名だという。「こんな球場で、10月末にナイターやるっちゅうのがどうかしとる!」と八つ当たり気味の我々。 試合はさておき、本日は美味しい酒と、シェフ顔負けの奥様の最高の手作り料理を堪能いたしました。リバウンドへの恐怖も、美味の誘惑には勝てませーん。すっかりご馳走になって、感謝感激! 食べ散らかしたまま帰ってすみませーん! 次回は我が家で、日本シリーズ制覇祝い(残念会かな)をやりましょう!!人気ブログランキングへGO!→【人気ブログランキング】
2005/10/23
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20代から30代前半までは、結構タバコを吸っていたが、最近はほとんど吸わない(週に1本吸うか吸わないか…)。新幹線でも禁煙車に乗る。「それなら、いっそ禁煙すれば」とよく言われる。まぁ事実上、禁煙しているみたいなもんなんだけど…。 世の嫌煙の流れもあって、タバコは最近は肩身が狭い。だから最近は、Barでもタバコを吸う人が減った。とくに男性の喫煙客が少なくなったような感じがする(それに比べて、20代の女性客で喫煙マナーの悪い人が目立つような気も…)。 タバコの肩身が狭いから、お店のマッチに力を入れるBarも少なくなった。昔のBar(のマスター)は、マッチ箱のデザイン一つにも、とても愛情を注いだ。趣のある、素敵なマッチ箱が多かった(写真左=懐かしいマッチ箱たち。今はなき名Barのものも)。 それがいまや、「マッチありますか?」と聞くと、100円ライターを差し出す店さえある。時代は変わった。時代が変わればBarも変わる。そしてBarにマッチが存在する意味も変わる。 そう言えば、家でマッチを擦ることもほとんどなくなった(僕の家では、蚊取り線香に火を付けるときくらい…か)。 昔から、Barへ行けば帰り際に、マッチをよく貰った。実用のためにというよりも、そのBarの想い出を、家に帰ってもう一度しみじみとかみしめるために。マッチは僕の時間を引き戻してくれる。 数年前、数多くたまったBarのマッチ箱を前にして、ふと、額装してみようかと思い立った(写真右)。懐かしいマッチ箱たちを、色や大きさを考えながら配置していく作業は、ことのほか楽しかった。 そして1個1個のマッチを見るたびに、その店の風景やマスター(バーテンダー)の顔が浮かんだ。額装に選んだマッチたちのなかには、今はもう存在しないBarのものも多い。Bar好きの皆さんなら、このなかの幾つかのマッチを見て、きっと感慨ひとしおのはず。 最近は、素敵なデザインのBarのマッチ箱が少なくなった。紫煙にけむるBarは今では好きではないが、Barにはやはり、素敵な「その店だけのマッチ」が存在してほしい。マッチはBarの文化を伝える貴重な証だから…。人気ブログランキングへGO!→【人気ブログランキング】
2005/10/21
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秋と言えば、やはり味覚の秋。そして、秋の味覚の代表と言えば、キノコ。と言う訳で、久しぶりに、ブログの友人ご夫婦がやっている阿波座の「おまかせキッチン・あらかし」へ。 実は、10日ほど前のテレビ(関西ローカルです。すみません)で、「あらかし」が登場。土曜日のお昼、トミーズが司会をやってる「せやねん」という番組にチーフが出てきて、今が旬のキノコをいっぱい使ったパスタ料理を紹介していた。 そのまたテレビの10日ほど前に発売された「関西ウォーカー」という雑誌でも、やはり「あらかし」のキノコ・メニューがいっぱい出ていた。それがもう、涎が出そうなくらい、めちゃ美味しそー!で、これは行って食べるしかない!! だから、友人とあらかしに到着してまず頼んだのが、キノコを何と10種類以上も使ったソテー(写真左)。アワビタケ、ホンシメジ、エリンギ、ヤマブシタケ、黒マイタケ、ハナビラタケ、生キクラゲ、オオモミタケ、カキノキタケ…等々、聞いたことも見たこともないようなキノコがいっぱい。 味付けは、オリーブ・オイルを使っているから洋風だが、どこか和風っぽい素朴で、優しい味わいも感じさせる。新鮮なキノコは歯ごたえもあるうえ、ソースの味もしっかり染み込んでいて、旨いったらない!(写真右=本日の晩ご飯のお供は麦焼酎「泰明」。香ばしくて、喉越しも良し!) 続いて頼んだのは、もちろんテレビにも登場の、その名も「白馬の森パスタ」(写真左)。チーフが長野・白馬村にいた頃から得意としていた料理とか。もちろんいろんな種類のキノコたっぷり。番組がオンエアされた日は、「客がみんなこれを頼むから、パスタだけで5kgも使った」という。 ソースは和風揚げ出し風(隠し味に大根おろし!)だが、赤ワインも使っているので、とても上品な味わい。トッピングの刻みノリが効いている。パスタは僕の大好きな細いタイプ(1.2mmくらい?)。これで不味い訳がない。 もちろん、これだけで僕らの胃袋が満足する訳がない。名物の、「豆腐三昧」、「ダチョウの3種塩焼き」(写真右)、「ゴーヤとキノコのちゃんぷるー」(またキノコ!)もしっかり頼んで、キノコの天ぷらまでサービスしてもらい(感謝!)、ちょっと食べ過ぎたかな? でも、「そんなに、いろんなキノコが食べられるのは今の季節だけ?」と誰もが聞きたい質問を、チーフにぶつけると、「いやぁ、今は(冷蔵技術も進んで)年中、それなりにたくさんキノコが食べられるから、大丈夫」と嬉しい答え。「白馬の森パスタ」は年中OKとのことでーす! みんな良かったね。
2005/10/19
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20年ぶりくらいの訪問だったから、そこへ行き着くまで、だいぶ迷ってしまった。「何度も上京しているのに、いつも通り過ぎるばかりでごめんなさい」とつぶやきながら…、ようやく目指すBarの入り口に来た。 午後4時半という嬉しい開店時刻と同時に、店にお邪魔した。Bar「Camellia(カメリア)」(写真左)。東京駅の建物の中にあるホテル、「東京ステーションホテル」の2階にある、歴史を感じさせる素敵な酒場だ。 クラシックな赤レンガが美しい東京駅のなかに、ホテルがあること自体あまり知られていない。1914年(大正3年)開業というから90年余の歴史を刻む、由緒あるホテル。 丸の内側のほぼ中央にホテルの入り口があるが、玄関をくぐると、レトロな雰囲気を漂わせたロビーの素晴らしさに、ため息が出る。 カメリアはそのロビーを抜けて、2階に上がり、細く長い、曲がりくねった廊下を5、6分ほど歩いたところにある(写真右=カメリアのバック・バー。壁のロゴにもレトロな趣が…) 「こんなところにバーがあるなんて…!」というロケーション。カメリア自体は、1951年(昭和26年)のオープン。バー入り口のすぐ側の窓からは、八角形をした1階の改札口前広場の風景が見下ろせる(写真左)。何千、何万という出会いと別れの舞台だったに違いない場所が…。 そして、バーの窓からは駅のホームや、到着・出発する列車も見える。駅というドラマの舞台がこんな近く、肌で感じられる酒場を、作家が小説の材料として見逃す訳がない。 川端康成、内田百聞、江戸川乱歩、松本清張…と、Barカメリアは、数多くの作家に愛されてきた。このホテルに泊まり、カメリアの居心地のいいカウンターでウイスキーを飲むのを愛したという。とくに松本清張は、この酒場で、あの名作「点と線」のアイデアをひらめいたとか。 カメリアは文字通り、隠れ家的なバーであり、バー愛好家にも意外と知られていない名バー。ここにはいつもと変わらぬ、ゆっくりとした素敵な時間が流れている(写真右=絵入りのコースターも素敵だ)。【カメリア】東京都千代田区丸の内1丁目9-1、東京ステーションホテル2階 電話03-3231-2511 午後4時半~11時(平日)、午後4時~9時(日祝日) 土曜のみ休業【追記】東京駅ビルの全面改造に伴い、東京ステーションホテルも改装されることになり、カメリアも建物内で移転・改装されるというニュースを、その後聞きました。現在の装いのカメリアが楽しめるのは2月末とのこと。カメリア自体は残るにしても、あのレトロな旧カメリアがなくなるとはさびしい限りです。
2005/10/17
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週末、仕事でちょっと東京へ行ってきた。今回のBAR巡りの話は、また別の機会に譲るとして、翌朝大阪へ帰る前、午前中の数時間を使って、東京の下町を少し散策した。 地下鉄・千代田線の根津で下りて、北西へ進路をとる。ご存じの人はよくわかると思うが、この辺りは坂道が多い。いきなり結構急な坂道。碑文が立っていて、「異人坂」との名が。東大草創期の頃、お抱え外国人教師がこの辺りにたくさん住んでいたので、その名が付いたという。 さらに進むともう車は通れず、下る階段坂(写真左)に行き着いた。そこを降りてしばらく歩くと、根津神社。五代将軍綱吉によって建てられた由緒ある神社では、ちょうどお祭り(「根津・千駄木 下町まつり」とか)をやっていた(写真右)。境内にはフリーマーケットも出ていて客で賑わっている。 根津神社にもお別れして、根津裏門坂を左手に進路をとり、さらに登る。右手には日本医大・高度救急救命センターの建物が。どこかで既視感(見覚え)があると思ったら、「マークスの山」とか邦画で結構、ロケの舞台として使われている病院だとか。 病院本館を通り過ぎて右手へ折れる。そして200mほど歩くと、僕の散策の最大の目的であった「夏目漱石・旧居跡」にたどり着く。昔はこのあたりも千駄木と言ったらしいが、現在は向丘2丁目とある。ここにあった旧居で、漱石は「我が輩は猫である」「坊ちゃん」「草枕」などの漱石文学の代表作を生みだした。 残念ながら、旧居自体は愛知県の明治村に移築されていて、この場所には旧居のしのぶ手掛かりは何もない。ただ、記念の石碑(写真左)が漱石の功績を記すのみ。すぐそばに立つ「橘桜会館」というモダンな建物が不釣り合いだが、敷地を提供されたような形で記念碑が立っているから、文句は言いにくい。 ただし、記念碑の背に立つ塀の上に猫のモニュメント(写真右)を造ったセンスは誉めてあげたい。猫好きで、野良猫たちに好き勝手に家の敷地内を出入りさせたという漱石。小説のモデルとなった猫の墓まで造ったことでも有名だ。 周辺に、漱石の生きていた明治期の家並みはほとんどないだろうが、僕は精一杯想像力をめぐらせて、漱石先生が通りを気むずかしい顔をして、散歩している姿を思い浮かべた。 そのとき偶然、黒い猫が一匹、僕の前を横切った。「漱石先生になり代わり、うらんかんろさんのご訪問を歓迎いたします」とは言わなかったが…。さて、漱石先生にお別れした僕は、千駄木駅方面へ坂を下る。 途中、鴎外記念図書館なる施設(森鴎外が30歳から住んだ旧居跡。図書館内には「鴎外記念室」があるという)にも出合ったが、時間がないので、ここはまた次回の楽しみに。 根津、千駄木、そしてすぐお隣の谷中辺りは戦災の被害が少なかったせいか、昔の下町の面影がとてもよく残る、東京でも稀有なエリア。角を一つ曲がると、昔ながらの駄菓子屋があったりして、歩くたびに発見がある街。首都圏にお住まいの方も、ぜひ一度ゆっくり散策してみてください。
2005/10/15
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大好きなイラストレーター、矢吹申彦さんから新刊の絵本が届いた(写真左)。そのタイトルは「猫づくし」。中身はその名の通り、矢吹さんが長年描き続けてきた猫の絵の集大成というようなもの。 この絵本の刊行に合わせて、9月28日から10月8日まで、銀座の画廊で「小さな猫の展覧会」という個展を催した矢吹さん。期間中、訪れることができないために、僕は初日のパーティーに間に合うように花を贈った。その返礼として、わざわざ絵本を送ってくださったのだ。 絵本には可愛い猫の絵があふれていて(59匹も登場する!=写真右下&左下)、僕のような猫好きにはたまらない絵本だ。前書きには「ぜんたい、猫の気持ちというものが判らん。お前さんは、可愛いのか、恐いのか、優しいのか、冷たいのか。そこのところ、答えてごらん」とある。 「猫に小判」「猫だまし」「猫かわいがり」など「猫」の付く言い回しをテーマにした各頁は、矢吹さんのほのぼのとした絵とともに、猫の独白を借りた洒脱な一文が付いている。 例えば、「猫に鰹節」という絵(写真)では、「そりゃ、僕にカツブシの番をさせるダナさんの方が悪いに決まっているネ。ダナさんだって、お酒の番が出来ますかい。きっと呑んでしまうに違いない。僕たちだけがガマンするのは、不公平と云うもんだ」。 う~ん、なるほど、いいねぇと頷いてしまう猫たちの言葉が実に粋で、面白い。それもそのはず、本の帯には「猫の本音を聞く絵本」とあった。「後掻き」で矢吹さんはこう記す。 「長い歳月、よほど猫の絵を描いてきた。(中略)猫には物語があるから描く。私は黙って、猫に語ってもらうことにした。長い歳月だから、家(うち)の猫も様々…」。 構想から、かれこれ3年の時を経て完成した絵本は、メルヘンの香りいっぱいの絵、非現実的なシュールな絵、猫を擬人化した絵等々、実に楽しくて、ほのぼのしている(写真右=絵本には「赤塚不二夫氏へのオマージュも)。 あーっ、個展に行きたかったなぁ…。猫好きの方は気に入ること間違いないこの絵本。絶対オススメです。【メモ】有限会社スーパーエディション刊。オールカラー86頁。2200円(税別)。
2005/10/13
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「うらんかんろさん? Madokaでーす」。ひょっとしたらという予感はあったけれど、携帯への突然の電話には、やはり驚いた。 ブログで知り合った友人で、米オレゴン州在住の画家Madokaさんからだった。10月の第2週から一時帰国するという話は、Madokaさんのブログで読んで知っていた(Madokaさんの実家は京都です)。 僕は、以前にMadokaさんから教えてもらったフルーツ・カクテルの美味しい大阪・ミナミのBar「ヴィクター」(写真左)に、先週の水曜日にお邪魔した。そして、お店の方に僕の伝言メモを託した。 メモには僕の携帯の番号も記した。一時帰国中に、Madokaさんがきっと一度は訪れるんじゃないかという、予感があったから…。 電話の向こうのMadokaさんは、ヴィクターにいた。「たった今着いて、メモを読んだところ」という。そして、僕はミナミへ急いだ。店にはMadokaさんの素敵なご両親(お父さんはプロの写真家でいらっしゃる)、Madokaさんの気さくなご主人(米国の方です)も一緒だった。 Madokaさんは、僕がイラストレーターの矢吹申彦氏についての日記(6月25日)を書いた際、初めて訪れてくれた。自身のホームページ(ブログ)も持っておられて、覗きにいったところ、絵や文章に好奇心をかき立てられるような何かがあった。 「いつかは逢ってみたい」と願って、一時帰国されるというのでチャンスに賭けたが、嬉しい出会いが、こんなに早く実現するとは思わなかった。店の方も「予想通りでしたね」と微笑んだ(写真右下=Madokaさん夫妻と仲良く1枚)。 初対面なのに、初めてではないように話がはずんだ。Madokaさんは、オレゴンでいま住んでいるポートランドのこと、以前住んでいたボストンのこと、日本でカナディアン・アカデミーという国際学校に中高と通っていた頃のこと、お父さんの仕事に付き添って世界中を旅したこと等々…、いろいろ話してくれた。 僕はもちろん、写真を見せながら先日のイタリアの旅の話をした。そして、僕の育った頃の大阪・ミナミ(まさにヴィクターのある辺りがそうだ)のことや、家族のことや、矢吹さんの最近の個展のこと、アメリカでのホスト・ファミリーのことなど…、あぁ、たくさん喋り過ぎて、全てはよく思い出せなーい。 楽しい時間はあっという間に過ぎる。京都まで帰らなければならないMadokaさんファミリー。そろそろお開きの時間になった。次はいつ再会できるか分からない。でも、またきっといつか会えるような予感がする。 いつかは僕もポートランドを訪れてみたい。それまでには、世界がもっと平和になり、憎悪や流血がなくなってくれればと願う。
2005/10/11
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伊太利亜往還記フィレンツェ、ローマ、アッシジ編、ご愛読有難うございました。最後に、3回の日記で紹介できなかったこと、旅の途中で感じたこと、気付いたこと等をもう少し書きつづってみたいと思います。 ◆選べる機内の映画 行きも帰りも、ジャンボ機内では座席ごとにテレビがあり、映画が12本上映されていて、好きなのを観ることができた。ゲームも確か10種類くらいあった。海外旅行に行くたびに驚くのは、長時間のフライト中、乗客をいかに退屈させないかの工夫がどんどん進化していくこと。 それに比べ、エコノミークラスの座席の狭さは日航機だけでなく、外国のエアラインも30年前からあまり変わっていないような気がする。新幹線だって、この40年で座席間隔は随分広くなって快適になったというのに…(写真左=フィレンツェの広場で見た屋台のユニフォーム屋さん。なぜか「NAKATA」がまだ売られている)。 日本人と比べ、体格の大きな外国人などはとても窮屈そうだし、日本人の体格も確実に大きくなっている。なぜだ…という感じ。次回はエコノミークラスもビジネス並みに広いというヴァージン・アトランティック航空にぜひ乗ってみたいと思う。 ◆入り口が分かりにくい ウフィッツィ美術館もヴァチカン美術館も入り口はどこという表示が極めて少ない。朝イチで向かっても探すのに少々苦労した。まぁ僕より先に着いた人たちが並んでいるので、よく探せば分かるのだけれど…。 ヴァチカン美術館などは個人用と団体用とで入り口が分かれていて、最寄りの地下鉄で下りて、人たちが並んでいる後に並んだら、どうも何かおかしい。聞いてみれば、そこは団体客ばかりの列。個人用は正面入り口の左側にあり、その列は、僕らが最初並んでいたのと反対方向へ列が伸びていた(写真右)。 あわてて並び直したが、無駄な時間を使い、後から来た100人くらいに先を越されてしまった。皆さんもこれからヴァチカン美術館へ行くときは、通常の最寄り駅とされている「チプロ・ムゼイ」駅よりも、一つ手前の「オッタヴィアーノ」駅で降りる方が個人客の行列の後ろが近いので、覚えておいてください。 ◆ローマの地下鉄はあまり快適ではない ローマには地下鉄が2路線(A線とB線)ある。僕らは今回、スペイン広場からヴァチカンへ行く際だけに利用したが、まず切符の自販機に1ユーロ硬貨を入れても入れても戻ってくる。自販機は1台しかなく、改札にはだれもいない。故障中とも書いてないので、とにかく何度も何度も挑戦して、ようやく8回目くらいでコインが通り、カードのような切符が出てきた。 このカードに改札口の刻印機で刻印してゲートを押して入場するシステムだが、今度は刻印機のカード入り口にカードが入らない。その時、どこからか駅員が現れ、「こうやるんだ」とやってくれた。いい加減なこの国の国民性を表すような地下鉄。現在はC線を建設中だが、このC線も「本来の計画通りならもう出来ているのだが、工事の遅れであと5年もかかるらしい」とはガイドさんの話(写真左=感動的だった「最後の審判」。シスチナ礼拝堂内は撮影禁止だったので、この画像だけは借り物です)。 ◆観光施設のトイレはどこも汚い 観光施設のトイレはどこも汚いし、便座がなかったりするのは当たり前という感じ。フィレンツェの玄関口の空港のトイレも、3つあった便器の2つまでが便座がなかった。ペーパーも日本のようなソフトでやわらかいものではなく、硬いざらざらしたもの。 男子トイレだけかと思ったら、女子トイレでも同じで、便座のない便器がよくあったという。男性ならなんとかなるとしても、女性は大変だろう。連れ合いは「腰痛になりそうな格好をさせられる」と憤慨していた。観光を重要な産業に位置付けているイタリア政府よ、何とかしろよと言いたい。 旅行中、比較的きれいなトイレだったのはホテルの部屋と、サン・ピエトロ寺院のトイレくらい。観光施設のトイレの清潔さ、設備の良さでは、僕は日本に軍配を上げざるを得ない。 ◆「スリに注意」と言われて 「地下鉄の車内はスリが多い。とくに入り口近くは立たないで」とガイドさんに言われた。朝乗った際は通勤時間だったこともあって、ほぼ満員。後から乗った僕らは入り口付近に立つしかない。スリが多いなんて言われると、周りの乗客が皆スリに見えて、精神衛生上、非常によくない。 駅のホームも暗くて、そうきれいではない。地上の出入り口も少なくて分かりにくい。はっきり言って地下鉄はロンドンやパリとは違って、そう快適ではない。連れ合いも「地下鉄は気持ち悪い」というので、結局この後は、市内の移動は徒歩かタクシーにした。ローマへ行ったら、話の種に一度は地下鉄に乗ってみるのもいいだろうが、あまり頻繁な利用はお勧めできない(写真右=市場のチーズ屋さん。たくさんあって選ぶのに迷いそう)。 ◆イタリア人も働くようになった? 前回の日記で「スペイン広場周辺では日曜でも開けている店が多かったし、昼休みなしの店もあった」と記したが、それでも、「いい加減」「時間にルーズ」という言葉は、この国の国民のためにあるのかもしれない。列車が30分、1時間遅れるのは当たり前。始業時間もあまり守らない。 ローマで泊まったホテルは、6時半から朝食OKとあったので、食堂がオープンする時刻ちょうどに行った。だが、まだ電気も付いてなくて暗い。「まだなのか?」と従業員に聞くと、「あと2分待ってね」と言う。仕方がないのでロビーで待ったが、オープンしたのは10分後。そして、僕らが席に付いてもお詫びの言葉もない。でも、こんなささいなことで怒っていては体が持たない。いい加減な国民性も、付き合っているうちに愛らしいと思えるようになってくる。 ◆車は荒っぽい、信号を守らない◆ タクシーに乗っても、バスに乗っても感じるのが、イタリア人の車の運転の凄さ。方向指示器を出さずに車線変更なんては当たり前。赤信号だって、車が来なければGO! 縦列駐車は、前と後ろに停まっている車にぶつけて、1台分のスペースをつくってしまう!!もう驚きの連続。彼らに言わせれば、「信号は道路の飾り、車線の白線は道路の模様」なんだって。 ローマ在住の日本人によれば、世界で一番法律が多いのはイタリア。でも、一番その法律を守らないのもイタリア人とか。自動車学校に通った日本人の友人は、いきなりの路上教習で、赤信号で停まったら教官に怒られたという。「お前が停まったら、ローマじゅうの渋滞の原因になる!」と。いやはや。 ◆ピッツアはローマの方が… フィレンツェでもローマでもピッツアを食べたが、フィレンツェのピッツェリアはナポリ出身の人が多くて、生地が厚い。これに比べて、ローマのピッツアは生地が薄い。どちらが美味いかは好き嫌いだが、僕らが好きなのはローマのピッツア(写真左=ピッツェリアでは、小さいピースでいろんな種類が楽しめる)。 ピッツェリアでは何種類ものピッツアが楽しめるが、普通のオステリアやトラットリアでは、1枚単位。でも頼めばきっと1枚の半分、半分を別の種類で焼いてくれますので、お試しあれ(僕らも、半分をマルゲリータ、半分をナポレターノで焼いてもらいました)。 ◆ジェラートも旨いよ フィレンツェでもローマでもジェラート屋があちこちにあって、実に旨い。とくにローマは結構汗ばむいい天気だったので、僕らはよく食べながら歩いた。コーンに乗せるジェラートも沢山の種類から選べるので楽しい(写真右)。ただし、例えば「リモーネ(レモン風味)とティラミスの、2つください」と頼むと、僕らはリモーネのコーンとティラミスのコーンが別々に出てくると思っていたが、出てきたのは2つを積み重ねたコーンが1個。 店の従業員は1個をつくった後、連れ合いに「あんたは何?」と聞く。では、1個(コーン)に1種類のジェラートだけを乗せて欲しければ、どう頼んだらいいのか? 「solo、(ジェラートの種類)、per favore」でいい。簡単なのでぜひ、覚えて行ってください。 ◆イタリア語の発音は日本人には易しい 旅行中は買い物でも、リストランテでも、タクシーでも、もっぱらイタリア語(8割くらいは)で通した。出発3カ月前から、通勤の行き帰りなどには旅行会話のMDを聞いて、マイカーを1人で運転するときなどは音楽の代わりにイタリア語のMDを聞いて、復唱していろんな表現を覚えた。 どの外国へ旅行しても、現地の言葉で喋って通じると実に楽しい。フランス語やドイツ語と違ってイタリア語のいいところは、発音がほぼローマ字読みでOKで、アクセントの位置やイントネーショーンさえ間違わなければ、まず日本人が喋っても確実に通じること。冠詞とか、動詞や形容詞の語尾変化などは、少々間違っても大丈夫。相手は必ず理解してくれる。 リストランテを電話で予約するのはちょっと怖いという場合は、早めに直接店へ行って交渉すれば、イタリア語だって怖くない。基本的な言い回し(Vorrei prenotare un tavolo per due per stasera alle 時刻?=今晩X時に2人予約できますか?)さえ覚えれば、大丈夫だ(高級店でなくとも、人気のある店は予約した方が絶対にいい。今回の晩飯を食べた店では、2度ほど予約なしの人の行列を見た)。 ブォンジョルノ(おはよう&こんにちは)とグラッチェ(ありがとう)とアリヴェデールチ(さようなら)、イル・コント、ペルファヴォーレ(お勘定をお願い)の4語だけでも、旅行はできる。でも、もし皆さんが近い将来、イタリアに行かれるのなら、もう少しいろいろ喋ってみてほしい。現地の人との距離はぐんと近づき、親しみも増し、サービスも違ってくること間違いなし。 ◆ユーロはユーロ圏で使い切ろう ロンドン・ヒースロー空港での乗り継ぎ時間に買い物をしたと日記に書いたが、ユーロは、基本的にヒースローの免税店ではあまり歓迎されない。お札は一応OKだが、硬貨はダメ。1ユーロ、2ユーロの小銭をたくさん持っていた僕は、ヒースローで使い切ろうとしたアテが外れ、日本円のお札やカードで買い物をするハメになった。 ただし、1万円札や千円札で払っても、日本円ではお釣りはくれない。英ポンドでくれる。最終的に僕のポケットには余ったユーロ硬貨とポンド紙幣&硬貨、それに日本円のお札が混在するおかしなことになった。ユーロはやはりユーロ圏で使い切ってしまうに限るかも。
2005/10/07
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◆スペイン広場は人、人、人… アッシジをバスで発って2時間半、僕らはついに25日夕、憧れのローマに到着した。首都ローマは人口約300万人。フィレンツェとは比べ物にならないような大都市。宿はホテル・ヴィクトリアという。午後5時前にはチェック・インを終えることができた僕らは、荷物はそのままにして早速ローマの街に繰り出した。 ホテルは市内のほぼ中心の閑静なエリアにある。地下鉄の最寄り駅にも、徒歩10分弱という好ロケーション。今回の旅では、ホテルのロケーションにほんとに恵まれている。まず、あの映画「ローマの休日」の舞台であまりにも有名なスペイン広場(写真左)へ。 ガイドさんが、「ホテルからスペイン広場へは近道の安全な地下道がありますよ」と教えてくれたので、そのルートで目指す。1分でも時間の惜しい観光客にとっては、こういうアドバイスは助かる。 スペイン広場は夕方近くになっても人であふれていた。そのほとんどは世界中からの観光客。広場の階段で記念写真を撮った僕らは、早速徒歩で約10分ほどのところにある、トレビの泉へ(写真右=ローマのピッツアは生地が薄くてめちゃ美味しい!)。 トレビの泉も観光客で鈴なり状態。ここですることは一つ。泉に背を向けてコインを投げること。僕らも早速、泉のそばでコイン投げに挑んだ。事前にガイドさんから、「コインを左手で持って右肩越しに投げること」、投げる枚数は「ローマにまた来たいと思ったら1枚、好きな人と結婚したければ2枚、一緒にいる人と別れたければ3枚ですよ」と聞いていた。もちろん僕は1枚だけ!。 ◆ローマ最古のリストランテ?! スペイン広場とトレビの泉をとりあえず押さえた僕らは、次は今夜の晩飯を予定のリストランテ「ラ・カンパーナ」(写真左)の周辺へ予約がてら向かう。ガイドブックには、「創業1518年、ルネサンス時代から同じ場所、同じ名前で営業を続けるローマ最古のリストランテで、地元の人気店」とあった。 初老のオーナーらしきおじさんが出てきて、今夜2人いけるかと尋ねると「Bene!(ベーネ=いいよ!)」と嬉しいお言葉。8時に予約を入れて、もうしばらくの間、辺りでウインドウ・ショッピングを続ける。 予約した「ラ・カンパーナ」に着くと、開店30分後なのに店内はもう、8割方満席。僕らは店の奥の方のテーブル。まず、名物のアンティパストの盛り合わせ(写真右)を頼み、その後、「久しぶりにコメの飯を食べたいね」ということで、キノコのリゾット、さらに海老(スカンピ海老よりも一回り大きい海老)の香草焼きも頼んだ。 どれも美味! やはり人気店というだけあると納得。もちろん、美味しい「Vino della casa(ハウスワイン)」も白、赤両方をいただき、う~ん幸せ! 隣席の欧米人らしい中年夫婦が、僕らの食べるリゾットを興味深そうに眺めている。そんなとき隣のテーブルのミネラルの瓶が僕ら側に倒れてきた(幸い、中身は空)ことがきっかけで、その夫婦と話がはずみ始めた(会話は英語で)。 夫の方はイギリス人、妻(たぶん年上)は南アフリカ出身の白人で、二人とも現在はスイスに住んでいると言う。夫の方はイタリアは3度目ということで、イタリア語は僕より流暢だった(当たり前?!)。ご夫婦は先に店を出て、「また、いつか逢いましょう!」と別れた。きっと二度出逢うことはないだろうけれど、旅は一期一会。こんな出逢いも実に楽しい。 ◆とにかく観光、まずヴァチカンへ 翌日は6時に起きて、6時半にホテルで朝食。そして、すぐさまヴァチカン美術館へ向かった。ホテルからヴァチカンまでは地下鉄で4駅。ローマへ来て初めての地下鉄だ。「地下鉄はスリが多い」と聞いているから緊張が走る(写真左=ヴァチカン美術館の出口を出ると、サン・ピエトロ広場)。 ヴァチカン美術館へは7時半すぎに到着。すでに200人ほどが並んでいる(開館は8時45分)。僕らの後も、観光客(巡礼者?)が次々と。開館時には、列はもう千人以上に。早めに行ってつくづく良かった。 この美術館でのお目当ては「アテネの学堂」(写真右)を含むラファエロの間(4室)と、「最後の審判」有名なシスティナ礼拝堂、展示室の要所、要所をてきぱきと観て行って、僕らは最後のシスティナ礼拝堂には入館後、約1時間半でたどり着けた。 礼拝堂のミケランジェロ作「最後の審判」は圧巻(残念ながらここだけ撮影不可)。凄いというしか言葉が見つからない。想像以上に高い天井に描かれた絵は、思ったよりも鮮やか。見学者もただ息を呑んで、天井を見上げている。 「最後の審判」は、キリスト教徒でなくとも、きっと胸を打つことを僕は疑わない。ヴァチカン訪問は、この「最後の審判」を観るだけでも十分価値がある。(写真左) ◆感動的なコロッセオ! ヴァチカンを後にした僕らは、時間を節約するためタクシーでコロッセオへ。約10ほどで到着。コロッセオは比較的すいていて、約30分ほど並んだだけで入場できた。内部に入ると、その巨大さにただ感動! ローマでの観光客は圧倒的にアメリカ人が多い。その次にドイツ人。あとスペイン語圏の人たち。コロッセオの前では、グラディエーター(古代の拳闘士)の格好をした若いにいちゃん(写真左)が大きな剣を手に、「一緒に記念写真を撮ろう」と観光客に声をかけている。夫婦連ればかりのアメリカ人の団体客には、「写真は10ユーロだけど、あんたの女房を殺すのは無料だぜ!」と声をかけ、爆笑が起こる。 コロッセオ見学を終えた僕らは、歩いてすぐ隣にある古代ローマの政庁跡「フォロ・ロマーノ」(写真左)、さらに歩いて10分余のところにある「真実の口」へ。古代の排水口の蓋(ふた)が観光名所になった後者は、蓋に描かれた顔の口に手を入れると、嘘つきなら手が抜けなくなるという逸話が有名。 映画「ローマの休日」でも、グレコリー・ペックが口に入れた手が取れなくなるような仕草をするシーンでお馴染みだが、やはり観光客には人気のスポットで、写真をとるため50人ほどの行列ができていた。 ◆最後の夜はヴィーノ・バール さて、とりあえず予定していた観光も済ませ、残り時間はお土産の物色に。「ローマ最後の夜にはどこで食べようか」と思案して選んだ店は、スペイン広場から目と鼻の先にある「Shaki Wine Bar」(写真右)。実は、この店はステラビアさんの友人のお薦めの店。僕も一応、晩飯の候補としてチェックは入れておいたが、雰囲気のいい、素敵なヴィーノ・バールだった。 「Shaki Wine Bar」はグラスで飲めるワインも10数種あるうえ、フード・メニューも充実していて、接客も味も合格点! テーブルから道行くローマっ子や観光客を観ながら飲むのも楽しい。僕らが席に付いて程なく、店はいっぱい。通りかかったカップルが「Un Tavolo per due?(2人いける?」と尋ね、満席と聞いて残念そう。やはり予約してよかった! ラビオリを使ったトマトソース&チーズ風味の料理も、チキンのサラダも、カナッペの盛り合わせもめちゃ旨!(写真左) ステラビアさん、有難う!美味しい料理とワインのせいで、ついついワインも進んだ。ローマでも美味しいものが、実にリーズナブルに楽しめる。日本もこういう店がもっと増えてほしいなと、思う。 ◆グラッチェ、イターリア! チャオ、ローマ! さて、いよいよローマともお別れ。最終日は観光の時間もなく、ホテル近くの酒屋さん(エノテカ)で最後の買い物をする。僕のお目当てはワインよりも、ウイスキー。それもオールド・ボトル。イタリアには俗に「イタリア回り」と言われるオールド・ボトルが数多く眠っているという噂を昔から聞いてきた。 しかし、ローマやフィレンツェでも酒屋はあちこち覗いたが、そんなマニアックな店には出合わなかった。しかし、灯台もと暗し。泊まったホテルのすぐ側に、結構マニアックな酒屋があった(写真右)。写真は撮れなかったけれど、アボット・チョイスの陶器瓶がごろごろ、ラベルがぼろぼろのマッカランとかも棚に見える。 帰途、ロンドンに寄る(→ヒースローで買い物する)ことを考えて、ラフロイグの少し昔のオフィシャル(10年くらい前かな)を1本だけ購入。38ユーロだったから、まぁ良心的な値段か(酒屋の主人は英語がほとんどできず大変でしたが…)。 そんなこんなでローマを後にして、ロンドン経由で帰国の途に。ヒースローの「Duty Free」では、モルトを忘れずに2本買い、これで2人の持ち込み制限ギリギリの6本。スーツケースや手荷物が重~い(次回は、航空便で別送することも真剣に考えねば)。 ロンドン発関空行きの日航機は28日、無事に到着。夢のような毎日から、また現実の世界に引き戻された僕らでした。長々と書き連ねてきた旅日記もこれでおしまい。皆さま、お付き合い有難うございました。
2005/10/05
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◆アッシジと聖フランチェスコ 清貧の聖者フランチェスコ(1182?~1226)の町・アッシジは、フィレンツェから南東へバスで3時間ほどのところ、標高424m。田園地帯を見下ろすオリーブの丘にある。南北約1km、東西約4kmほど、人口約2万4千人の小さな町だ。 何が有名かと言えば、12~13世紀の中世の建物や街並みがほぼ完璧に残っていて、今もそこで人々が暮らしを営んでいるという稀有な街だ(ちなみに、フィレンツェはもう少し後の15世紀に花ひらいた街だ)。 アッシジは、ご存じの人も多いと思うが、2000年にユネスコの「世界遺産」にも認定された。だからという訳でもないが、イタリアでは欧米人だけでなく、日本人にも人気の観光地の一つだ。(写真左=フィレンツェからアッシジへの道中には、ワインのブドウ畑やオリーブ畑がたくさん見える)。 僕らの乗ったフィレンツェ発「JALユーロエキスプレス」のバスは、定員45人の大型バスだが、運転手さんとガイドさん以外、僕らも含めてわずか6人。「ロンドンの同時テロ以降、日本から観光に来る人が減りましてねぇ…」と残念そうなガイドさん。これでは採算取れないだろうなと同情してしまう。 11時頃アッシジに着いた僕らは、ガイドさんに連れられて、石畳の坂道をひたすら登る、登る。中腹からは、両側の建物の色は白とピンクに見事に統一されている。 ガイドさんの話では、建て直す際も必ず地元産の同じ色の石を使うことや、住宅の窓枠の色は茶色か緑色にすることなどの規則が決められているという(写真右=アッシジで必ず皆が訪れる「聖フランチェスコ教会」)。 ◆欧米人には「巡礼の地」 アッシジの名を歴史上有名にしたのは、この地に生まれたジョバンニ・ディ・ベルナルドーネという若者(後の聖フランチェスコ)。裕福な家庭で放蕩生活を送っていたジョバンニは、軍隊で捕虜になるなどの苦労を重ねた後、20歳の時、信仰に目覚め、宗教の世界に身を投じる。そしてすべての財産を放棄し、終生、清貧生活を送りながら貧者のために尽くし、44歳で亡くなるまで各地で布教につとめたという。 欧米のキリスト教徒にとっては、アッシジや聖フランチェスコの名は、特別の重みを持つようで、欧米人にとっては、ここへは観光ではなく巡礼のため訪れると言った方がいいかもしれない(ちなみに、米西海岸のサンフランシスコの名の由来は、この聖フランチェスコの名前からという)。 僕らが立ち寄った25日(日)も、当然、欧米人がたくさん訪れていたが、教会の内外あちこちで祈りを捧げる老夫婦の姿も目立った(写真左=アッシジの中心、コムーネ広場。古代ローマ時代の建物も見える)。 フランチェスコの墓のある「サン・フランチェスコ教会」がアッシジ最大の見学スポット。教会には、現在60人の修道士がいて、日本人修道士も2人いるという。遠くアッシジまで来て修業する気持ちを聞いてみたい気もしたが、「余計なお世話」と言われるだろう。 ちょうど日曜とあって、教会内ではミサが開かれていた。観光客はミサの最中なので「しゃべるな」と入館の際、注意される。欧米の観光客らの多くは、一緒にミサに参加して祈りを捧げ、入り口の寄付受付所でなにがしかの寄付までしていた(写真右=アッシジの街路は細くて曲がりくねって、しおかもアップダウンがあり、結構疲れる)。 ◆無信心の徒には居心地の悪さ 「サン・フランチェスコ教会」は、通称「下の教会」「上の教会」という2つの教会に分かれている。「下の教会」には、聖フランチェスコや彼の4人の弟子の眠る墓があり、「上の教会」には、聖フランチェスコの生涯を描いたジョットによる有名な28枚のフレスコ画がある。 2つの教会は、行列ができるほどの込みようだった。地下の聖フランチェスコの墓の前では、じっとひざまづいて祈る欧米人が多い。一応仏教徒でも無信心に近い僕にとって、聖地のこの場所はなんとなく場違いな気がして、言いようのない居心地の悪さを感じた(写真左=フィレンツェでは猫をほとんど見かけなかったが、アッシジでは街のあちこちに)。 アッシジは美しい。清らかな美しさに満ちあふれている。だが、ここを観光の場でなく、巡礼の地として訪れている欧米人の信仰心を共有することは無理だった。白とピンクだけの清純なアッシジよりも、色彩多彩なフィレンツェの方が、僕には合う。 アッシジでは、聖フランチェスコ教会のほか、フランチェスコの弟子でもあった修道女「聖キアーラ」を祀った「サンタ・アキーラ聖堂」を見学(フランチェスコやキアーラが着ていた衣服を教会地下で公開している)して、昼食のため指定のリストランテへ。 ◆唯一、不満だったアッシジの昼食 坂道を下ったところにある雰囲気のいいリストランテとあって、少し期待したのだけれど、メニューも選べず、パスタも鶏料理の味もいまいち。はっきり言って、今回の旅行で一番まずい店だった。やはり、店は自分で探して選ぶに限る(写真右=料理はいまいちだったが、ランチの店で飲んだワインは、果実味が豊かで旨かった)。 ただし、ここのリストランテのオーナーはワイン醸造所も持っていて、銘柄の「Montefalco Sagrantino」は、地元でもコストパフォーマンスのいい評判のワインとか。一応試飲させてもらっが、タンニンがしっかり効いて、深みもある。納得できる味と価格(30ユーロ)だったので1本購入。帰りのローマ空港の免税店では56ユーロで売っていたので、ちょっとラッキーかな。 食後、アッシジを後にした僕らは、いよいよローマへ。あと2時間半の旅程だ。イタリアに来ているんだという実感が、ますます沸いてくる。(→以下「5日の日記」へ)。
2005/10/03
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ヨーロッパは2度目。前回はパリとロンドン。イタリアは初めて訪問だった。もともとダ・ヴィンチとイタリア料理が好きだった僕は、10年くらい前から、いつかイタリアへと願ってきた。そして、その夢がようやく…。 ◆フランクフルトで早速 行きはフランクフルトまで、日航機でまず約11時間。そこで、ルフトハンザ航空のフィレンツェ行きへ乗り換え。前回のヨーロッパと違って、EU統合の後は、イタリアへの入国手続きも経由地のフランクフルトできるというのが有り難い。おかげでフィレンツェでは飛行機を降りて荷物を受け取るだけでOKという。 乗り換え便の出発までは、3時間ほどの待ち時間がある。これは有効に使わねばと、早速、空港内にあるビア・パブ「Goethe Bar(ゲーテ・バー)」で、ドイツ・ビールを味わう。銘柄は「Licher Pils」(写真左の右側)と「Paulaner Hefeweizen」(写真左の左側)という、日本では珍しい銘柄。前者は軽いタイプで、後者はコクのあるアルト・タイプぽいが、ともに美味しく、1杯の予定がもう1杯おかわり! ◆いざフィレンツェへ フランクフルトからフレンツェまでは、約2時間の旅程。100人乗りくらいの小さなジェット機の機内は狭いうえに、満員。機内のアナウンスは、イタリア行き便なのに、なぜかドイツ語と英語だけ。「イタリア人乗客には不親切だなぁ」と思いつつ、この頃になると日本時間だと日付も変わっているので、睡魔に負けてひと眠り。 フィレンツェに着いたら、旅行会社(阪神航空)の現地係員の女性(日本人)が迎えに来てくれた。僕らが申し込んだ旅行は、フィレンツェ~アッシジ~ローマ5泊7日というツアーだが、空港~ホテルの送迎とホテル(朝食付き、フィレンツェ3泊、ローマ2泊)が含まれているだけで、後はほぼ自由行動(写真右=フィレンェの街並み。赤い屋根瓦が特徴だ)。 唯一、フィレンツェ~アッシジ~ローマ間の約7時間ほどの移動だけが、指定のバス(JALユーロ・エキスプレス)に乗り、指定のリストランテ(アッシジ)でランチを食べるという内容(写真左=かつてのフィレンツェ共和国政庁であったヴェッキオ宮。高さ94mの塔は町のシンボル)。 僕らは海外に行くときは必ず、ホテルだけが付いていて、現地自由行動のツアーを申し込む。その方が、自分たちの行動が拘束されないで済むし、若干のハプニングはあっても時間を有効に使えて、好きなところが観光できて、美味しい料理も食べられることが多い。 さて、初日は長時間フライトの後、ホテル到着は夜10時過ぎ。さすがの僕らも疲れてぐったり。ホテルの部屋でイタリアの地ビールを飲んで、翌朝に備えて早めにおやすみなさい。 ◆なにわともあれウフィッツィ 翌日まず、フィレンツェと言えば、世界中の観光客が必ず訪れる「ウフィッツイ美術館」(写真右)へ。ガイドブックには「2~3時間待ちの行列は当たり前」と書いてある。行列にそんなに時間を使いたくないと、とにかく7時に朝食を食べた後、すぐウフィッツイをめざす。幸い泊まったホテル・バレストリは、ウフィッツイまで歩いて2~3分という絶好のロケーション。これはラッキーだった。 ウフィッツィ美術館は、ダ・ビンチ、ミケランジェロ、ラファエロ、ボッティチェリら、ルネサンスの巨匠のコレクションで有名。7時20分頃から並んだおかげで、幸い1時間弱で入館(開館は8時15分~)でき、素晴らしい絵画や彫刻を堪能できた。 ウフィッツィの後は、当時フィレンツェを支配していたメディチ家の宮殿、「ヴェッキオ宮」を見学(この宮殿は映画「ハンニバル」にも確か登場してたっけ)。内部の調度品の素晴らしさに、ただただ驚くばかり(写真左=ヴェッキオ宮の前には、ミケランジェロ作のダビテ像が)。 ◆テロ不安で警備は厳重 ロンドンの同時テロ以降、ヨーロッパはどこもセキュリティ・チェックが厳重。空港だけでなく、主な観光施設や広場のような場所では、警官の姿(なかには自動小銃!携帯の警官も)がやたらと目立つ(写真右=フィレンツェの広場には騎馬警官の姿も)。 なかでもフランクフルト空港は今回の旅行で一番厳しく、僕は、靴に付いて金具のせいで靴を脱がされ、厳しくチェックされた。ウフィッツィ美術館やヴェッキオ宮も入り口では金属探知機をくぐらされ、手荷物の中身も調べられる。 ただ、金属探知機の感度にも空港によってはかなり違いがある。同じ金具の付いた靴で通り抜けても、ローマやロンドンでは「ピィー!」とは鳴らなかった(写真左=フィレンツェ観光中に何かの祭のパレードに遭遇!)。 気軽に、楽しい旅行というのは、残念だけれど、もはや不可能な時代に僕らは生きているようだ(アメリカはもっと厳しいというから、この程度なら我慢の範囲内かもしれない)。 ◆トスカーナ料理を堪能 フィレンツェでの晩ご飯は2日間とも、ガイドブックやインターネットで事前に調べていったトラットリアやリストランテへ行った。1日目は、ヴェッキオ宮そばの「Anita」という店。2日目はあのグッチ本店(フィレンツェにあります)のすぐそばにある「Marione」という店(写真右=中央市場の果物屋さん)。 いずれの店も、昼間の観光の合間に、店を訪ねて主人に直接、夜の予約を入れた(もちろんイタリア語で! 特訓3カ月の成果が何とか生きた!)。2つとも大衆的なトラットリアという感じの店だが、とくに後者の方は、僕らが店に入った後は超満員になり、行列もできていたので、地元では人気の店らしい。 ローマもそうだったが、イタリアはとにかく食費が安い! よほど高い店でなければ、ワインを1人3杯くらい飲んで、腹一杯食べても2人で、日本円で5000~7000円の範囲でおさまる。こんな嬉しい国はない。 困るのは、(他のヨーロッパの国も同様だが)1人前の量がとんでもなく多いこと。パスタも1人前が、日本の2人分くらいの量がある。初日の「Anita」ではパスタを2種類頼んで、あと料理を2品頼んだら、さすがの僕らも食べきれず、少し残すはめになった(写真左=「Anita」で食べた料理。パスタが旨かった!)。 メニューは、手書きのイタリア語という店が多くて、Antipasto、Primo、Secondoの区別は分かっても、実に読みにくーい。果物や魚の名前や調理法に当たるイタリア語を知らないと、お手上げ。次回は、メニューももう少し読めるように頑張ろうっと。 と言う訳で、どの店でも、とにかく「Che cosa mi consiglia?(おすすめ料理は何?)」と尋ねてから頼んだが、やはり日本人とみると、食べやすいトマトソース系の料理を勧めたがる傾向があるという印象。もっとも、お味の方は事前のリサーチがうまくいったのか、パスタも、肉・魚料理もとにかく素朴な味わいで美味しかった(写真右=酒屋さんではグラッパが充実。50種類近くも!) ◆観光も買い物も歩いてOK フィレンツェは人口約45万人。雰囲気は日本だと京都っていう感じだが、街の規模で言えば金沢とか姫路くらいの街か。観光スポットの旧市街は端から端まで歩いても30分くらいで、徒歩で観光や買い物などが十分可能というのが嬉しい。 ルネサンス時代の街並みや通りがとてもよく保存されていて、「街そのものが美術館」という印象。随所に点在する広場は、迷路のような細い街路で結ばれている(写真左)。一つ通りを曲がると、どこへ迷い込むか分からないような、このミステリアスな雰囲気が、僕はとても好きだ。 日本人が大好きなショッピングも、さきほど触れたグッチの本店やフェラガモの本店(写真右=本店内にはフェラガモ博物館も併設。店員の愛想は悪い!)のほかにも、ヨーロッパの主要なブランドのショップが、市中心部の、そう広くないエリア(トルナフォーニ通り&ヴィーニャ・ヌオーヴォ通り周辺)に集まっているので、買い物にはとても便利。 連れ合いも、本人が狙っている物に加え、娘や母に頼まれた物まで、お目当ての店をあちこち探し歩いたが、フィレンツェが丸々2日間あったうえ、効率的に回れたこともあって、本人曰く「フィレンツェで買い物の8割は出来た!」と満足そう。 フィレンツェでの2日間で、僕らが他に訪れた場所は、花の聖母教会(ドゥオーモ)&ジョットの鐘楼(ヴェッキオ宮と並ぶもう一つのフィレンツェのシンボル)、ドゥオーモ附属美術館(ミケランジェロの「未完のピエタ」で有名)、ピッティ宮&附属のパラティーナ美術館(ラファエロの作品11点を所蔵!)、メディチ家礼拝堂(内部の装飾が圧巻!)等々。 フィレンツェ観光を満喫した僕らは、3日目はバスで世界遺産にも認定された「中世そのものの街」アッシジへ→(「3日の日記」へ続く)。
2005/10/01
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