フィギュアスケート 0
全76件 (76件中 1-50件目)
我が家の小庭の片隅のアガパンサスが6cmほどに芽を出した。一昨日、外出の際にはまったく影も形もなかったのに、わずか1日半でこの勢い。すごいなー。そしてたしかに春が来ている。 この緑濃い芽を見て、一部の庭木の雪避けをとりはずした。こちらも小さな小さな若葉が出ていた。 ところで朝日新聞の朝刊に岩手県奥州市黒石寺の雪中の(「夏祭り」と称する)伝統行事「蘇民祭」が、今年を最後に1000年といわれる歴史を閉じるという。日本全国各地に存在する主に稲作豊穣祈願のための、いわゆる裸祭りの最も代表的な例である。 黒石寺蘇民祭のほかに会津福満虚空菩薩圓蔵寺七日堂裸詣り、岡山県西大寺会陽、愛知県国府宮裸祭り、同じく愛知県美浜町上野間神社身代わり若衆裸参り、伊賀市陽夫多神社裸裸押し豊穣祈願、京都日野法界寺阿弥陀堂裸踊り、江ノ島八坂神社天王祭、香川県善通寺大会陽、小豆島木馬夏祭り盆踊り、沼津市厳冬海中禊祭り、千葉県四街道市和良比裸祭り(どろんこ祭り)、秩父荒川猪鼻熊野神社甘酒こぼし、磐田市下太八王子神社米とぎ祭り・・・等々。ちょっと思い出しただけでもこれだけの伝統行事としての裸祭りがある。 黒石寺蘇民祭が終了するのは、関係者の高齢化や担い手不足であるという。この終了を前にして黒石寺住職がニュース番組のインタヴューに応えて、「裸であることが大事なのではない」という意味の発言をしていた。私は、おやおや、と思った。まことに失礼ながら、住職さん、裸祭りの本意について知識が不足していられませんか、勘違いをしておられませんか、と。 豊穣祈願の祭りで男が裸になって福男と称す、あるいは神男と称される役目に就くのは、それなりの意味があるのである。これらの裸祭りでは、女が裸になることはない。いかに男女平等の時代になっても、裸になって祈願するのは男なのである。ありていに述べれば、豊穣祈願は性神信仰と深いところで結びついていて、いわば男の種まきを象徴化しているのだ。男たちは禊で身を清め、男の裸を捧げて生殖能力を神に祈るのである(後註)。岡山西大寺の会陽や国府宮の会陽における選ばれた「神男」が、文字通り素っ裸になり全身の体毛をすべて剃りおとす。数百人の褌一本の男たちが、神男に触れて御利益を得ようと殺到してもみあう。神男は一心を賭し、また一身を賭して地域住民の祈願の代理を務めるのである。黒石寺蘇民際においても蘇民袋の宝木を争い求める男たちの多くが、かつては素っ裸であった。それは神によって霊力を付与されるべく捧げられた清らかな裸体である。 どの地域においても時代の趨勢に逆らえないことは出てくるだろう。しかしかつて在った祭りの「本意」を忘れたり曲解したりすべきではない。その「本意」にこそ文化があるのだ。【註】禊した男の裸体が豊穣祈願と性神信仰が結びついた象徴儀礼となっている例は、大相撲にも見られる。横綱の土俵入りで化粧回しに横綱(降雨を祈願する稲妻を象徴化した垂(しで)を飾った注連縄)を締めているが、土俵上でこの化粧回しを両手でヒョイとわずかに持ち上げる仕草をする。おそらく現在ではその意味を尋ねる人はいないであろうが、これはまさに男性器を神にお見せして稲作豊穣のための霊力を賜る祈願の象徴化である。土俵上で四股を踏むのも大地(あるいは大地母神)への祈りである。土俵に女性が上がらないというしきたりは、女性差別では全然無く、女性は大地そのものだからである。女性はここでは崇められているのである。 相撲は漁撈民族隼人族から発祥したと考えられている。漁撈民族が裸体であること常態であるが、稲作民族に統合支配される過程で、相撲もまた稲作豊穣儀礼となってきた、と私山田は考えている。 しかしながらその稲作豊穣祈願としての本来の信奉は忘れ去られておそらく久しい。国際的な人気のスポーツとなった相撲は、いくら「伝統」を強調しても豊穣神信仰は形骸化しているのである。 An example of a ritual in which the nude body of apurified man is used as a symbol of prayers for fertility and belief in sex gods can also be seen in O-sumo (the great sumo wrestling). When a yokozuna (cham-pion) enters the dohyo (the ring), he tightens his yoko-zuna (the shimenawa rope adorned with a shide sym-bolizing a lightning bolt to pray for rain) as a kesho-mawashi (a luxuriously embroidered make-up apron),but when he enters the ring, he slightly lifts the kesho-mawashi with both hands. Although no one wouldprobably ask about its meaning today, it is a symbol ofa prayer for showing the male genitals to God and receiving spiritual power for a fertile rice crop. Steppingon the shiko (legs) on the ring is also a prayer to the earth ( or the mother goddess). The custom of not allowing women to the enter the ring is not discrimi-nation against women at all, it is because women arethe earth itself. Women are worshiped here. Sumo is thought to have originated from the Hayatotribe, a fishing tribe. It was common for fishing tribesto be naked, but I, Yamada, am thinking that in theprocess of being integrated and controlled by the ricefarming tribe, sumo which originated from the Hayatotribe had also become a rice harvest ritual. However, its original belief as a prayer for a rich riceharvest had probably been forgotten for a long time.No matter how much sumo wrestling, which hasbecome an internationally popular sport, emphasizesits "tradition," the belief in the god of fertility hasbecome a mere token.Tadami Yamada
Feb 18, 2024
コメント(0)
私は先日、南方熊楠の明治44年の論文に天正少年遣欧使節に関する記述があると、その部分を引き写して書いた。その本を書棚から取り出したついでに、昔読んだのを再び拾い読みしていると、「アッ!」と思い出させた論文があった。その論文に添ったひとつの例として、私自身がもう30年以上昔に採録した怪異譚である。怪異譚ではあるが、亡母から聞いた話で、登場人物の実名がはっきりしている。じつは、それゆえに、私はどんなかたちにせよ公表することをためらっていたのだ。 母方の家は寺院で代々の僧侶だったが、それだからというわけではないが、伝わる怪異譚は多い。しかもそれらは出所があいまいな伝聞ではなく、みな実名が明らかな実体験としての怪異譚である。私は、南方熊楠に倣ったわけではないが、30年ほど前にあらためて亡母から聞き取りした数々の怪異譚を原稿に書き起こした。いま、その原稿をさがしたのだが、引っ越しさわぎで紛失したのか、出てこない。 南方熊楠が、唐の860年ころに成立した段成式著『酉陽雑爼(ゆうようざっそ)』が怪異譚を載せているために多くの批判をあびていることに反論している。段成式は狭い地域の伝聞を採録しているのではなく、古今東西に同じような譚がないか類話の系統を調査している。その怪異譚は決して誇張して記述しているのではない。この方法こそ学問をするものの態度である、と言っている。 この方法論はまさに南方熊楠の態度でもある。熊楠の博学はたんなる知識の寄せ集めではなく、まさにひとつの珍しい事象を見聞きしたなら、その類例をもとめて膨大な資料を披瀝しているのである。 たとえば誰でも知っているグリム童話『シンデレラ』について、熊楠は古今東西の古文書を渉猟し、海外の学者にも類話の渉猟を依頼してきたが、16世紀より古い資料はみつかっていない。しかしながら13世紀に日本の無住著『沙石集』には欧州の諸話より一層詳細に同じような話が書かれていることを発見した。そこからその根を同じくする話の人類学的な真意が問われることになるのである。 さて、南方熊楠の論文『睡眠中に霊魂抜け出づとの迷信』に、『伊勢物語』『古今著聞集』『拾芥抄』その他外国の例を示し、「霊魂夢中、また心労はなはだしき時、また死亡前に身を離れて他行するを、他の眼に火の玉と見ゆると信ずる俗習ありしを知り得。」とあり、私はながらく公表をためらってきた怪異譚を思い出したのである。それはまさに死を前にした人が睡眠中に自身を離れ、遠く飛び、海を渡り、会いたい人の眼前に火の玉となって現れたのだった。 私は、実名を仮名に変えて、この短い物語を書いてみる。 昭和初頭、A夫妻は樺太に住んでいた。ある日、妻は裁縫中に歯が痛んだので、さしたる考えもなく持っていた針で歯を突いた。すると針が折れた。あっと驚いた瞬間にその折れた針先を飲み込んでしまったのである。針は消化器官に入り、しかし便にまじって出ることなく、血管にもぐりこんでしまった。(現在の医学は血管をめぐる針を取り出すことが可能かもしれないが)手術は不可能とされ、血流とともに体内をめぐり、そのまま死をむかえることとなった。 臨終が近いことを告げられた夫は、病床につききりで妻をみていた。妻は眠っていた。しばらくすると目をあけ、「Mさんに会いに行ってきました」と言った。夫は「よく眠っていたけど、夢を見ていたんだね」と言った。すると妻は「いいえ、夢ではありません。私、背中でスーッと滑って行きましたの。でも、Mさんは薄情だった。私がいくら呼んでも逃げて行くの・・・ほんとうに薄情なひと・・・」 ・・・そのMさんだが、北海道の江差近傍の土橋に住んでいた(私の亡母の姉である)。夕方遅くなって厚沢部町から帰って来た。道が二股に分かれていて、いずれ再び合流するのだが、ちょうど D の字になっていた。D の下の方が厚沢部町とするとMさんの家(すなわち亡母の実家である寺)は、Dのふくらみの上の方、合流点のやや手前だった。Mさんは二股の岐路を膨らみの方へ足早に歩いた。すると行く手に大きな火の玉が出現した。Mさんは「魂いいいー」と叫びながら、走り、一番近くの家に飛び込んだ。村の住人はみな顔見知りである。「寺のMさん、どうしたのです」「火の玉に追いかけられて・・・」 その家の主人がMさんを寺まで送り届けようと言い、一同が玄関の戸をあけると、庭のスモモの木の枝に火の玉がまるで座るように止まっていた。 Aさんの死が知らされた。のちに、妻の臨終に立ちあった夫Aさんの話とMさんの話とが、日時があまりにも一致するので、ひとつの出来事として、また不思議な話として、亡母も記憶したのだという。 30年ほど前、私はこの怪異譚が、「背中でスーッと滑って行った」というA妻の表現や、「庭のスモモの木の枝」という具体的な細部があるので記録しておこうと思ったのだった。スモモの木があった家の実名もわかっていた。 この話の肝心なところは、死を前にした人の睡眠中の夢として処理してしまえる事柄と、遠く離れて数人の人が同時に目撃した火の玉現象とが、Mさんをキー・ワードとして結びつけられたことである。両者の日時が同じということ以外は証明不可能である。臨終の人が語ったことと数人の人が同時に目撃したこととを結びつけたところに俗信がはたらいた余地があったと言えるけれども、はたして熊楠の言うごとく「俗習」や「迷信」とばかり言えるかどうか。そのような問いかけをせざるを得ない話が、ここに例示できると思う。 念のために言うが、私は無信心者であり迷信を寄せ付けない。他人の信心は何事も受け止めて聞くが、それは自他を厳しく分けて認識しているからであり、私自身の心は動かない。幻想に立脚する物亊・人事を遥拝しない。教団とか党派とか集団とか、軍隊はもとより、とにかく人間が群れで行動するのを見ると嫌悪感をもよおす。ロボット化した集団行動を美しいと思わない。迷信を受け付けない点では亡父も亡母もまた然り。亡父亡母については、迷信を信じない者の心理に迷信らしきことが不図兆すことがあるかもしれない例となる別な話がある。ここでは述べない。僧侶だった亡き伯父は、高徳の僧といわれていたが、この人の仏心は形式を説かなかった。・・・したがって上に述べた話は、あくまでもひとつの人類学的な記録である。
Sep 10, 2023
コメント(0)
私はこのブログの5月14日の日記に、若桑みどり氏の大著『クアトロ・ラガッツィ 天正少年使節と世界帝国』をその朝に読み終えたと書いた。1582年、キリシタン大名3氏、大友義鎮・大村純忠・有馬晴信の名代として派遣された「天正遣欧使節」の4人の少年はローマへの長途の旅に着く。伊東マンショ(正使)、千々石ミゲル(副使)、中浦ジュリアン(副使)、原マルティノ(副使)の4人である。彼らはローマ教皇やスペイン国王フェリペ2世に謁見し、各地で盛大な歓迎を受けた。少年たちの見事な態度と知性は、ヨーロッパの貴顕の賛嘆やまなかったという。彼らは8年後の1590年に帰国した。・・・しかしながら日本の状況は一変していた。バテレン追放令が発布され、宣教師やキリシタン信徒の虐殺がはじまっていた。4人の少年たちはそれぞれ過酷な人生を歩むことになる・・・ 伊東マンショは信仰を守りつづけ、後年、司祭に叙階された。中浦ジュリアンも司祭に叙階されたが、長崎で逆さ穴吊りによって殉教した。もっとも語学に秀でていたといわれる原マルティノはマカオに追放された。そして千々石ミゲルは・・・どのような理由か不明ながら棄教した。 千々石ミゲルの生涯は、裏切り者の汚名を着せられ他の3人とはまったくことなる苦難の人生だったと思われる。棄教後の彼の人生については詳細は不明で、謎とされてきた。 さて、長い前置きになった。 じつは今日の朝日新聞夕刊に、その千々石ミゲルの遺骨発掘とそれにともなって少しばかり明らかになったことがらについて報じれれている。長崎県諫早市は千々石ミゲル終焉の地といわれ、墓石が確認されていた。新聞によると、現存される千々石ミゲルの子孫と有志が墓所調査プロジェクトを立ち上げ、あしかけ10年の歳月をかけて、暮石の下に墓穴があることを発見した。そして夫婦と思われる男女の遺骨を発見した。長持を転用したとみられる棺のなかの女性の遺骨の胸のあたりには、ガラス玉や板ガラス片の信仰具と推測される物が置かれてあった。男性の遺骨は横向きに足を曲げて横たわり、副葬品はなかった。 この男性遺骨が千々石ミゲルであり、二体が夫婦であり、妻がキリスト教信仰者であるなら夫もまた信仰者であったろう・・・ いまだ研究途上にあり、推測の域はでないと(私は)思うが、しかしながら千々石ミゲルの棄教の真意を問う、あるいは問わざるを得ない今回の遺骨発掘であることは間違いない。そして、私は日本におけるキリスト教布教史にまったく不案内であるが、あえて棄教の汚名をかぶって信仰を守り抜くという信仰のありかたの明らかな証拠となるなら、これまた新たな研究問題が出てきたと言うべきかもしれない。朝日新聞「千々石ミゲルは棄教したのか」・・・・・・・・・・・・・・・・・・【後記】 上の記事を書いた後、ベッドに就いてから思い出した。天正少年遣欧使節の動向の一端に触れている当時の記述を、意外にも南方熊楠が明治43年7月刊行の『東京人類学会雑誌』に発表した論文のなかに見出すのである。論文の主題は少年使節についてではない。いま、その論文から抜き書きしてみよう。 南方熊楠『本邦における動物崇拝』より「蜜蜂」の項。〔前文略〕「予が大英博物館にて閲せし ‘Breve Ragguaglio del’ Isola del Giapone ristampato in Firenze,’ 1585(天正十三年、九州の諸族がローマに派遣せる使節より聞くところを板行せるなり)に、日本に蜜蜂なければ蜜も蜜蝋もなし、その代りに一種の木あり、好季節をもってこれを傷つけ、出る汁を蒸留して蝋代りの品を採れども、蜜蝋ほど稠厚ならずとあるは、漆のことを言えるにや。」〔以下略〕 平凡社 東洋文庫352 『南方熊楠文集 1』165~166p. 文中の ‘Breve Ragguaglio del’ Isola del Giapone ristampato in Firenze,’ 1585 は、『1585年にフィレンツェで再版された日本島に関する短報』とでも訳せよう。ただしdel’ Isola とあるのは、原本の誤植か、あるいは熊楠の誤記か東洋文庫の校正ミスかは判断できないが、dell’ Isola が正しいかもしれない。 さて、私が注目するのは南方熊楠が大英博物館で閲覧した上記の本のイタリア語原本が、1585年にフィレンツェで刊行されているてんである。 若桑みどり氏の著書によれば、少年使節の一行は1584年11月14日にスペイン国王フェリペ2世に謁見している。そして翌年1585年3月1日にフィレンツェに到着した。ローマに入ったのは3月22日の夕方だった。つまり南方熊楠が閲覧した再刊本は、まさに少年たちがフィレンツェに到着した年に刊行されたことになる。さまざまな行事に少年たちは出席し、その様子は若桑氏が教皇庁の記録などから書いている。しかし私が興味深く思うのは、蜜蜂と蜜蝋の話題が、かの地の貴顕とのあいだにあったというエピソードである。この些細ともいえるエピソードに活き活きとした情景が浮かんで来はしまいか。さらに私が感心するのは、少年たちが話したこんな事柄が、遠国の「情報」として短報誌に記載した、そのフィレンツェの情報収集力である。実のところ産物情報は貿易等で重要なのだ。さすがにルネッサンスのまっただなかにあったフィレンツェである。 南方熊楠によるこの記述は、典拠原本も明記されているが、天正少年使節に関する歴史書には書かれていないような気がするのでここに書いておく。
Sep 6, 2023
コメント(0)
「星も見えない空 淋しく眺め・・・」と歌うのはフランク永井の「羽田発七時五十分」(作詞:宮川哲夫)。 きょうは七夕である。ところどころに青空が覗くが、全体としては薄曇り。どうも星空は望めそうにない。フランク永井さんはつづけて「待っていたのに 会えない人よ」と歌った。七夕は恋の祭りでもある。 戀さまざま願の絲も白きより 蕪村 じつに鋭い。いろいろな恋がある。相思相愛もあれば、遠くからただ想いを寄せる恋もある。恋のかたちがさまざまなら、その主人公の境遇もさまざまである。しかしいずれにしろ恋のはじめは、何色にも染まっていない・・・あるいは何色にも染まりうる・・・白さだ。恋の行方など誰も知らない。しかし今宵は星に願いの糸をかけるのだ。 蕪村の句はそういうことを詠んでいる。 七夕祭は、古代中国(6世紀)の書『荊楚歳時記』を出典とする乞巧奠(こきでん)が元来の名称である。すなわち、 「以綵縷穿七孔針 或以金銀チュウ石為針* 陳瓜果於庭中以乞巧有螻子網於瓜上則以為得巧」 *(チュウは金へんにユ喩の右のつくり) (綵縷(さいる;五色の糸)を以て七孔の針を穿ち、あるいは金・銀・チュウ石(黄銅鉱)を以て針を為(まね)り、庭中に於いて瓜果(かか;ウリ)を陳(つら)ね、瓜上に於いて網にある螻子(ろうし;おけら、虫)を以て巧を乞う(上達を願う)、すなわち以て巧みを得るをおさめる。・・・山田訓み)とある。 『荊楚歳時記』が日本に伝来したのは奈良時代の750年より前と考えられている。 乞巧奠はその意味するとおり技芸の上達を願う祭りである。平安朝にはずいぶん手の込んだしきたりの行事だったようだ。江戸時代ころになると簡素化して、上下の身分にかかわらず、とくに女性の楽しい夏の風物誌になった。明治時代にはいったんさびれ、再び一層簡素化して現代に残っているような七夕になったようだ。 蕪村の句にある「願いの絲」というのは、織姫に由来して五色の糸を供えたり笹竹に掛けた習俗をさしている。日本で「たなばた」と言うのも、棚機津姫を日本語訓みにしたもので、日本の神話時代の天棚機姫神(あまのたなはたひめのかみ)に似ていることから同一視された。ただし、七夕祭は織物の神を祀るだけではなく、詩歌や筆蹟の上達、算盤(そろばん)、帳記などの上達を願ってそれぞれに見合う品々を飾った。【註】『荊楚歳時記』;平凡社刊東洋文庫324の190p. に原文はないが、和訓は、「綵縷を結び、七孔の針を穿ち、或いは金・銀・チュウ石を以て針を為り、几筵(きえん)・酒脯・瓜果を庭中に陳んね、以て巧を乞う。喜子(くも)、瓜上に網することあらば、則ち以て符応ずと為す」とある。 老いぬれば星影うすき二つ星 青穹(山田維史) 恋や恋なきひと思う星まつり 愛憎の彼岸此岸や星合わせ平凡社刊 東洋文庫324 1978年初版七夕祭 『女有職学文庫』より
Jul 7, 2023
コメント(0)
イングランド王ヘンリー8世(1491-1547: 在位1509-1547)が所持していた祈禱書に、王自身による書込みが発見された。発見者はカナダ・カールトン大学英文科のミシェリン・ホワイト准教授。祈祷書の調査中に偶然発見したという。CNNのジャック・ガイ氏が報じている。英ヘンリー8世の祈祷書に書込み発見 ヘンリー8世はもともとカトリック教徒であったが、教会によって不適とされたアン・ブーリンと結婚をするために、カトリックから国教教会を分離させた。アン・ブーリンは2番目の王妃である。後のエリザベス1世の母である。ヘンリー8世は6度の結婚をした。当初は世継ぎとしての男子の出生を望んだためであったが、息子エドワード6世の誕生後も次々と結婚を繰り返した。晩年の王は、好色、利己的、無慈悲であり、またパラノイアだったとされる。 このたびの問題の祈祷書は、最後の王妃となったキャサリン・パーがラテン語から英語に翻訳して王に贈ったもので、4っつの詩篇から成り、1554年に印刷された。中に14箇所の王の書込みがあるという。書き込みと言っても文字ではなく、「指差しマーク(manicure)」と「三つ葉模様(trefoil)」である。 発見者のミシェリン・ホワイト准教授によれば、王が書込みしたその部分の詞句から王の不安や苦悩を窺い知れるという。 上掲のCNNニュースにある祈祷書の画像の指差しマークの部分を読んでみる。古英語なので現代英語とはスペルが異なりラテン語も混じっているようなので、私の読み違いがあるかもしれない。【原文】 Take away thy plages from me: for thy punithement hache made me bothe fable and faynt.【現代語】 Take away your plagues from me: for your punishment have made me both week and faint. 【日本語訳】 あなたの懲罰(伝染病)を私から遠ざけてください。あなたの懲罰は私を弱々しく気抜けにしてしまいました。 この王の書込みは、ヘンリー8世についての一般的なイメージの変更を迫っているのかもしれない。興味深い発見である。 (追記)思い出したので書いておく。もう60年近い昔、ヘンリー8世が着用していた甲冑の正確な複製を英国が貸し出し、日本橋・三越の「英国展」で展示された。私はそれを見ている。背丈、体格、並外れて大きな人だと思った。
Jul 2, 2023
コメント(0)
昨日以来、イスラエルの考古学チームが新たな死海文書の断片を発見したニュースで、世界中の考古学者や博物館関係者および聖書研究家が興奮しているようだ。1947年に死海の海岸近くのクムラン洞窟から発見され、その後、11の洞窟から次々に発見されていたが、今回12番目となる洞窟からほぼ60年ぶりの新発見である(発見は2017年)。 このたび死海文書の断片が発見されたのは、エルサレム南西のジュディアン砂漠の切立った断崖の中程にある洞窟からである。この洞窟は通常では人が近づけない。発見された断片は約2,000年前のものもので数ミリから親指の爪ほどのサイズ。そのかず、数ダース。 ジュディアン砂漠には発見場所となった洞窟のような洞窟がいくつもあり、イスラエル国立考古学チームは4年間におよぶ大規模プロジェクトを構えての今回の発表だった。断片のなかには聖書に関連する文字もあり、現在の聖書が歴史的にどのような変遷をたどって確立したかを探求する重要な資料となるであろうと予測されている。 ニュースから離れるが、私にはひとつの疑問がある。これら死海文書(Dead Sea Scrolls)と称されている文書は、イスラエルのクムラン教団によって作成されたと言われている。しかし断片的遺物の発見場所が、常にあちらこちらの「洞窟」であるのは、何故だろう。学問上、当然もちあがる疑問だと私は思うのだが、私の浅学ゆえにこの単純な疑問に対する明確な答を知らない。一つの洞窟ではないのだ、イスラエルの死海北西沿岸部であることは一致するものの、あちらこちらにある幾つもの洞窟なのだ。クムラン教団の僧たちが、それぞれ分かれて各洞窟で信仰生活をおくっていた、と言うことかも知れない。しかしそれは私の推測の域をでない。しかもどうやら異なる洞窟で発見された各断片の文章に重複がないらしい。なぜだろう?【付記】今回この洞窟から発見されたのは死海文書断片だけではない。およそ1万500年前のほぼ完全な状態の大きな籠、そして6,000年前の少年の骸骨と布にくるまれた少女のミイラ、さらに土器や金属製の鋒(槍の穂先)、貨幣など多くの遺物が出土した。この発掘プロジェクトのチーフは、TVのインタヴューに応えて「ローマ支配からの逃亡者が隠れ暮らした場所」と言っている。(山田のひとりごと=それにしても1万500年前から6,000年前までのなんと大きなひらきだろう! 洞窟という大きさ広さが限定された場所である。約4,500年間の生活の遺跡としては出土品が少な過ぎないか? そして、遺骨はなぜ少年少女の2体だけなのだろう?) ザ・ニューヨーク・タイムズ I24NEWS CBN NEWS ところでちょうど1年前、スミソニアン・マガジンの2020年3月16日号が、死海文書の偽物事件を報じた。「聖書博物館の死海文書はすべて偽物, 報告書が発見」とセンセーショナルな見出しが躍った。 このニュースを憶えていられるだろうか? その概略を述べてみよう。 ホビーロビー社長のスティーブ・グリーン氏がワシントンDCにある広大な機関「聖書博物館」のために16の死海文書の断片のコレクション取得に努めた。 1950年代にカリル・イスカンダー・シャヒンという名前の古物商が、地元のベドウィン族の人物から死海文書の断片を購入し、コレクターに販売し始めた。2002年には、70のあらたな断片が市場に出回りコレクターたちの熾烈な獲得競争が始まった。それらはスイスの金庫に長い間隠されていたものだという噂があった。 スティーブ・グリーン氏はこの2002年以降に市場に出て来たコレクションから死海文書を購入した。 2016年、グリーン氏が博物館のために調達した16の断片のなかの13について、著名な聖書研究家が本を出版した。その本には、これら13の断片について学術的な分析を利用したが、科学的なテストはおこなわなかったと記された。 翌2017年に聖書博物館は開館した。 あらたに豊富な資金によって科学的な分析をした報告書が提出された。そして、この報告書は、「エルサレムのイスラエル博物館が所蔵する死海文書の信憑性について疑うものではない」と断り、しかしワシントンDCのグリーン氏によって調達された16の断片のすべては、「本物の死海文書の断片を模倣することを目的として、20世紀に作成された意図的な偽造であることを示唆する特徴」を、科学的なテストは示したと述べた。 博物館はこの偽造を疑う死海文書を所蔵品表示から削除した。 この偽造問題はワシントンDCの聖書博物館の問題にとどまることなく、2002年以降に市場に出回った死海文書(Dead Sea Scrolls)すべてに疑問を投げかけているのである。【注】引用はすべて Smithonian MAGAZINE, SMARTNEWS, March 16, 2020 より。 SMARTNEWS, March 16, 2020 以上が聖書博物館のために調達した死海文書断片が偽造品であったという事件の概要である。 私はここに訳出しなかったが、スミソニアン・マガジンの記事は科学的分析について、それがどのような結果を導き出したかを簡単に説明している。 考古学資料のみならず美術品についても、こんにち、その真贋をテストする科学技術、および電子顕微鏡や色価分析器、分子構造や原子価を分析する装置、あるいは磁気断層撮影等の機器の発達はめざましい。博物館や美術館、あるいは大学や警察の研究所において、真贋のテストは日々おこなわれている。ただ一般の目には触れないだけである。【付記】死海文書は羊皮紙(パーチメント)に書かれている。このおよそ2千年を経て肉眼ではほとんど判読不能になっている文字を読み取ったのは、NASAの星を探索する技術である。 なお、ワシントンDCの聖書博物館は現在、新型コロナウィルス禍のため閉館中である。【追記】イスラエル博物館所蔵の死海文書(Dead Sea Scrolls)は、ディジタル化されて原資料画像とともに一般公開されているので、解明された断片は英語で読む事ができる。
Mar 17, 2021
コメント(0)
歴史的建築遺産等の保存修理に欠かせない伝統技術。その日本の技術が、「伝統建築工匠の技:木造建造物を受け継ぐための伝統技術」としてユネスコの無形文化遺産に登録される見通しだ。正式決定になるかどうかは12月中旬まで待たなければならないが、まずは前祝いを述べておきたい。 イギリスのヴィクトリア・アンド・アルバート美術館や大英博物館、あるいはアメリカのメトロポリタン美術館やニューヨーク近代美術館等における美術品の修復については、各美術館・博物館がその修復作業過程を映像記録し、現在では誰でもがヴィデオで観ることができる。油絵や壁画の修復時の洗浄、そしてまた古書の補修に、日本の和紙が使われていることも見逃せない。木工美術品の修復に日本製の鑿(のみ)が使われている例も、私は知っている。 大英博物館では巨大絵画の修復に、各国から修復師を募集し、共同修復を実施したことがあった。重要美術品の修復技術を国際的に共有しようといういわば研修を兼ねたすばらしいプロジェクトである。このような「気前の良い」考えは、文化財がどの国に所蔵されていようとも、「人類の公共財」という認識から発生してくるのだ。 「人類の公共財」という思想は17世紀のオランダから生まれた。いま私はその経緯を述べている時間がない。そこを省略し、しかしまあ、私が絵描きの端くれだから身びいきして言うのではないが、美術館・博物館を潰すような政府は、国民にとって危険だといって過言ではない。「財政難だから美術館を廃止する」とか「この作品は政府の方針に合ないから排除する」と言われても、たぶん国民の多くは、そんな発言をする政治家や政府を危険だとは考えないかもしれない。しかしこれは、その政治家や政府の正体をおおいに疑ってみるべきなのだ。 現在(あるいは昔から)、ある主義主張を標榜して美術品や歴史的建造物や遺跡を破壊している。異なった宗教、異なった民族がなかなか共存できず、破壊と殺戮をくりかえしている現状。・・・しかし、「公共財」という観念は、一つの国内あるいは一つの民族内に限るものではないのである。世界は一方で破壊をし、他の一方では世界情勢が危ういとはいえ、「人類の公共財」という観念がようやく世界共通の観念になってきているかもしれない。自国が所蔵する重要美術品の修復を多数の国々から招いた修復師でおこなうなどがその例であろう。もちろんユネスコの世界遺産制度は「公共財」という思想なくしては成り立たない。たとい登録申請した政府には「観光資源」の思惑がひそんでいたとしてもである。 Traditional tecjnology that is indispensable for the preservation and repair of historical architecturalheritage. The Japanese technology is expected to beregistered as a UNESCO Intangible Cultural Heritageas "Traditional Architects' Techniques : TraditionalTechbiques for Inheriting Wooden Buildings". Wehave to wait until mid-December to make a formaldecision, but fiest of all, I would like to congratulatethis news. Regarding the restoration of works of art at theVictoria and Albert Museum and the British Museumin the United Kingdom, or the Metropolitan Museumof Art and the Museum of Modern Art in the UnitedStates, each museum recorded many videos therestoration work process, and now everyone can see the video. It cannot be overlooked that Japanesewashi is used for cleaning oil paintings and murals when they are restored, and also old books' restora-tion. I also know of examples of Japanese woodwork-ing chisel being used to restore woodwork art. British Museum had also recruited restorationistsfrom various countries to restore a giant painting.It iwas a wonderful project that also serves as train-ing to share the restoration techniques of importantart objects in the British Museum internationallythrough actual restoration. Such a "gentle" idea arises from the recognition that cultural propertiesare "public goods of mankind," no matter whichcountry holds them. The idea "public goods of mankind" was born inthe Netherlands in the 17th century. Now I don'thave time to tell the story about it. I'll omit the details of its process, but i don't say that it because I self am just a painter though, but it's no exaggeration to say that a government that destroys museums is danger-ous for the people. Even if politicians and government say, "I will abolish the museum because of financial difficulties," or "I will exculde this work because it does not meet the government's policy," probably many people think not dangerous. But the people should be highly suspicious of true character of politicians and government who make such statements. Now a day (or from old times too(, works of art, historic buildings and ruins are destroied with advocating a certain principle. The current situa-tion is that different religious and different ethnic groups cannot easily coexist, and destruction and murder are repeated. ... But the idea of "public goods" is not limited to one country or one ethnic group. And while on the one hand destroying manythings though, on the other side the idea of "publicgoods" may have finally became a universal idea,even though the world situation is at stake. An example would be the restoration of important art objects owned by one's own country by restorers invited from many countries. Of course, the UNESCO World Heritage system would not be possible without the idea of "public goods." Even if the gov-ernment that applied for registration had the spec-ulation of as "tourism resources" hidden in it.Tadami Yamada
Nov 18, 2020
コメント(0)
エジプト考古学者たちは大興奮のようだ。 11月14日、エジプト考古省が、サッカラの地下12メートルから盗掘された形跡がないおよそ4,500年前の未開封の木製棺100および多数の彫刻等を発見したと発表した。それらは鮮やかに彩色され、ヒエログリフ(象形文字)が描かれ、きわめて良好な状態をたもっているミイラが納められていた。そのうちの一体をX線検査したところ、40歳代の男性と推定され、脳は鼻から取り除かれて防腐処理されていた。 COVID-19のパンデミックによって発表が延期されていたらしいが、記者会見したエジプト考古省のカレド・エル=エナニー長官は興奮を抑えきれないように、エジプト考古最高評議会議長ムスタファ・ワジリー氏を初めとするエジプト人考古学関係者を賞賛した。 実は、サッカラでは昨年(2019)の9月と10月にも手つかずの棺59基が発見されていて、そのニュースも世界を驚かせた。サッカラはカイロから20マイル(約32.2km)、現存する最も古い4500年前の階段ピラミッドのある地である。このサッカラの階段ピラミッドは、ギザの有名なピラミッドより約200年古い。サッカラはおよそ3,000年間、埋葬の地であった。古代エジプト史において、後期(664-332 B.C.)そしてギリシアがファラオとして支配したプトレマイオス朝(305-30 B.C)の間、サッカラは共同墓地というよりも再生祈願のための巡礼地であったようだ(英国マンチェスター博物館キャンベル・プライス氏説)。それはメッカやルルドのような聖地であり、エジプト各地からのみならず東地中海地方全域から巡礼者が訪れていた。この時代、階段ピラミッドはすでに建設されてから数千年が経っていたのである。 近年の地球物理学によって、この一帯の砂の中には数多くの寺院が埋もれていることがわかっている。考古学者たちはすでに数百万点の動物のミイラを発掘している。犬、猫、鳥を含むそれらのミイラは再生祈願の供物だったと信じられている。それらにはコブラやワニや、数ダースにおよぶ猫のミイラ、二頭のライオンの子どものミイラが含まれていることが、2019年11月に報告された(Netflix がドキュメンタリー〈Secrets of the Saqqara Tomb / サッカラ墳墓の秘密〉を制作している)。 このたび発掘された100基を超す棺や副葬品は、カイロのエジプト考古博物館ならびに国立エジプト文明博物館、そして来年開館されるギザの大エジプト博物館等、幾つかのエジプト文化研究機関に分散して展示されるようだ。 私は、世界の古代文明の再生信仰 (Regeneration Faith)とその表徴様式に関心がある。サッカラが東地中海地方の古代の国々からも訪れていた再生祈願の巡礼聖地だったという、マンチェスター博物館長プライス氏の説を紹介した次第だ。【参考資料】 Jo Marchant "Archaeologists Are Just Beginning to Unearth the Mummies and secrets of Saqquara" SMISONIANMAG.COM Angy Essam "Egypt to announce discovery of 100more coffins in Saqqara" Washington Post, and others--------------------------- Egyptian archaeologists seem to be very excited. On November 14, the Egyptian Ministry of Archae-ology announced that it had found 100 unopenedwooden coffins and numerous sculptures about4,500 years ago that have no evidence of beingrobbed at 12 meters below ground in Saqqara. Theywere brightly colored, hieroglyphs were drawn, andcontained mummies in very good condition. An X-rayexamination of one of them revealed that it was a man in his 40s, and his brain had been removed fromhis nose and treated with preservatives. It seems that the announcement was postponed due to the pandemic of COVID-19, but at the press con-ference, Egypt's Antiquities Minister, Khaled el-Enany, who looks so as hard to suppress the excitement, praised the Mr. Mustafa Waziry (the head of Egypt's Supreme Council of Antiquities), and also praised theEgyptian archaeologists. In fact, 59 untouched coffins were discovered inSaqqara in September and October of last year (2019),and the news surprised the world. Saqqara is 20 milesfrom Cairo and is home to the Step Pyramid of 4500 years ago which is the current surviving the oldest. This Saqqara Step Pyramid is about 200 years older than the famous Pyramids of Giza. Saqqara was a burial site for about 3000 years. It seems that during the late (664-332 BC), and Greek-dominated Ptolemaic dynasties (305-30 BC), in ancient Egyptian history, Saqqara was a pilgrimage site for rebirth rather than a communal graveyard (Mr. Campbell Price's theory, Manchester Museum, England). It was a sacred place like Mecca and Lourdes, and was visited by pilgrims not only from all over Egypt but also from all over the east-ern Mediterranean region. At this time, the Step Pyramid was already had built thousands of years ago. Geophysics in recent years has shown that many temples are buried in the sand of this area. Archaeologists have already unearthed millions ofanimal mummies. Those mummies, including dogs, cats and birds, are believed to have been offerings of rebirth prayers. They were reported in November2019 to include cobras and crocodile, dozens ofcat mummies, and mummies of two lion cubs (Netflix reported in the documentary Secrets of theSaqqara Tomb). It seems that more than 100 coffins and burial items excavated this time will be exhibited at several Egyptian cultural researth institutions, including the Egyptian Museum, the National Egyptian Civilization Museum in Cairo, and the Grand Egyptian Museum in Giza, which will open next year. I am interested in the Regenaration Faith of ancient civilization in the world and its manifes-tation style. I introduced the theory of Manches-ter Museum director Mr. Price that Saqqara wasa pilgrimage site for rebirth prayers.【reference material above mentioned】Tadami Yamada
Nov 16, 2020
コメント(0)
朝日新聞デジタルで、「9種の木、重文の本堂の柱に 再建に込めた農民の思い」と題して戸村登氏が、私にとって大変興味深い記事を書いていられる。 国指定重要文化財である岐阜県御嵩町の願興寺本堂は、現在、解体修理中である。その本堂の柱材として9種類の木が使用されていることが分かった。しかもその9種の木材は、寺社建築に使用されることが稀ないわゆる「雑木」であるという。同寺には1572年の戦で消失した寺を「地域の農民たちが苦労して再建した(1581年)」と書かれた文献が残ってい、戸村登記者は「寺を必死によみがえらせた当時の姿がうかがわれる発見だ」と紹介していられる。 私がこの発見に深い関心をいだくのは、次のような理由である。 日本の寺社古建築は、その全体の構造図面を見て気付くことなのだが、信仰の宇宙を構造化する意志・・・それこそがまさに信仰心の深さの具現である・・・が、神仏と人間との関係を現実の地勢に閲し、さらに決定した地面をさえ上下に構造化し、建築材を信仰に添わせて建築的に構造化している。私はこの事実を、一部の人々だけの信仰心ではおそらく成立しなかっただろうと考えている。つまり、広く社会全体が信仰世界になっていることが重要で、このことは現代的な宗派的な諸宗教信仰とは別なのではないか。私は、ひそかに「古典的な魂」と言っている。なぜかというと、じつは上記のような寺社建築が時代が現代に近づくにつれて、いわば地面に対して「置物」になってくるからだ。信仰心の表徴が表面的なものになってくるのである。たとえ美々として荘厳されていても、それは「目に見える」ものだ。私が上記したことは、ほとんどの場合、目に見えないか、気付きにくいのである。 岐阜県御嵩町の願興寺本堂に9種の材木が使われていたこと、しかもその材木がいわゆる「雑木」の類いである事実は、戸村登記者が示唆したように農民たちの「必死」な念いの証左である。雑木を使ったから信仰心が無いというのでは全然ない。むしろその逆である。封建社会のなかで「下層」に位置づけられた農民が、どうして檜のような高価な管理材を求められよう。農民のせめても手のとどく限りで掻き集められた柱材9種だったのだ。これこそが、私の指摘する深い信仰の宇宙の具現化なのである。 私の観点からは、願興寺本堂は国定重要文化財から国宝に格上げしてもよかろうにと思うが、さて、現在進行中の解体修理の計画がいかなるものかが注目である。せっかく発見した9種の柱材が示す古の農民の信仰心を活かせるのかどうか・・・朝日新聞デジタル戸村登氏記事 In the Asahi Shimbun Digital, Mr. Noboru Tomurawrote a very interesting article for me, entitled"Nine kinds of trees, the thoughts of the farmerswho put them into the pillars of the main hall of theBuddhist temple of the Important Cultural Proper-ty". The main hall of Gankōji Temple in Mitake Town,Gifu Prefecture, which is a nationally designatedimportant cultural property, is currently being dis-mantled and repaired. It was found that nine kindsof wood were used as the pillar material of the main hall. Moreover, the nine types of wood aresaid to be so-called "miscellaneous trees" that arerarely used in temple and shrine construction.There is a historical document in the temple thatsays, "The local fermers struggled to rebuild thetemple, which disappeared in the war of 1572,"and Mr. Tomura said, " The temple was desper-ately revived. It is a discovery (of using of nine kinds of wood) that shows the appearance of those days (1581)." I am deeply interested in this discovery for thefollowing reasons. You will notice the ancient architecture of Jap-anese temples and shrines by looking at theoverall structural drawing, but the will to struc-ture the universe of faith ... that was exactly theembodiment of the depth of faith ... The rela-tionship between gods or Buddha and human being was reviewed to the actual ground, and even the determined ground was structured upand down, and the building materials wereselected carefully and architectually structuredfollowing the faith. I believe this fact was probably not true with the faith of some people alone. In other words,it was important that society as a whole was areligious world, which was different from modern religious beliefs. I secretly call it a"classical soul," The reason is that, as the timesapproach the present age, the above-mention-ed temple and shrine architecture became, soto speak, a "figurine" against the ground, Themanifestation of faith becomes superficial. Even if it is beautiful and majestic, it is "visible".Most of the things I mentioned above areinvisible or hard to notice. As writer Tomura suggested, the fact thatnine kinds of timber were used in the mainhall of Gankōji Temple in Mitake Town, GifePrefecture, and that the timber is a kind ofso-called "miscellaneous wood" is the"desperate" feeling of the farmers. It is aproof of the fact. It's not that they had nofaith because they used miscellaneous woods.Rather, the opposite is true. How could farmers, who were positioned in the "lowerlayer" of the feudal society, be asked forexpensive management materials such ascypress? At the very least of the farmers, there were nine types of pillars that were scraped up as far asa they could reach. Thisis the realization of the universe of deepfaith that I point out. For my point of view, I think that the mainhall of Gankōji may be uppraded from anational important cultural property to anational treasure, but what is the current dis-mantling and repair plan? Whether or not thefaith of the old peasants shown by the ninekinds of wood of pillars discovered with greateffort can be utilized ...Tadami Yamada
Oct 12, 2020
コメント(0)
10億年前から生存していたと推測されるが、1973年に米テキサス州の民家の庭で増殖しているのが発見され、2016年に学術研究論文が発表されて世界を驚かした奇妙な生物「モジホコリ(学名:Physarum polycephalum)」が、先日10月19日からフランスのパリ動物園で初めて一般公開されている。10月18日にCNNが報じていた。 「モジホコリ」とはどんな生物なのか? なぜ奇妙なのか? それは、植物でもなく動物でもなく菌類でもない。720種類の性をもち、脳はないが学習能力があり、有害物を認識してそれを避け、時速4cmの速度で自己増殖し、形態を変え、しかしまたもとの姿に戻ることもできるという。CNNは増殖している動画を掲載していたが、学名Physarum polycephalumでネット検索すれば、たくさんの静止画像や動画を見ることができる。 女だ男だ、オスだメスだと言っている我々人間には、720種類の性別など想像もつかないが、これこそ「モジホコリ」が10億年生きながらえてきた秘密かもしれない。社会通念、あるいは文化概念の大胆な変革のヒントがこの「奇妙」な生物の実在に伺えるかもしれない。おもしろいことだ。 It is estimated that it was alive for one billion yearsago, but it was discovered that it was proliferating inthe garden of a private house in Texas, USA in 1973,an academic research paper was announced in 2016,and the strange that surprised the world The organ-ism " Mojihokori (Scientific name: Physarum poly-cephalum)" has been opened to the public for thefirst time at the Paris Zoo in France since 19 Oct.CNN reported on October 18th. What kind of living thing is "Mojihokori" ? Whyis it strange? It is not a plant, an animal, or a fungus. 720types of sex, no brain but ability to learn, recog-nize and avoid harmful substances, self-repro-duce at a speed of 4cm/hour, change form, butcan also return to its original form That's it. CNN published a growing video, but if you search the internet with the scientific namePhysarum polycephalum, you can see many stillimages and videos. We human beings who are women and men and males and females can't imagine 720 dif-ferent genders, but this may be the secret that Mojihokori has lived for one billion years. A hint of social change or a bold change in cultural concept may be found in the existence of this "strange" creature. That's interesting.By Tadami Yamada
Oct 25, 2019
コメント(0)
大英博物館において奈良・大英博物館主催「奈良 ー 日本の信仰と美のはじまり」展が3日に開幕したという。朝日新聞社などが特別協力している。 その朝日新聞DIGITALに紹介記事が写真付で掲載されている。出品物などの写真である。 ところがその出品物の写真に付けられた名称を見て、---いや、その漢字で書かれた名称に振られたルビを見て、私は嘆息してしまった。〈銅造観音菩薩立像・夢違(ゆめちがい)観音(法隆寺、飛鳥時代〉と書かれていたからだ。 朝日新聞社よ、夢違(ゆめちがい)ではありません、(ゆめたがへ)です。方違え(かたたがへ)と同じ名詞です。この訓みはこの観音信仰の本質を指すばかりではなく、言うなれば信仰の形、あるいは信仰のベクトルをあらわしているのです。 どういうことか。 「違へ」は他動詞から名詞に変化したと考えられる言葉です。この観音菩薩立像については、もともと他動詞であることが重要なのです。すなわちその主体は観音様だからです。凡夫のよからぬ夢を変えてくださる。---そこに信仰が生まれているのです。凡夫の切なる願いがこめられているのです。「悪夢を変えてくださるのだ」と。 「ゆめちがい」とも言うのだなどという強弁は通りません。私は朝日新聞の校閲係は何をしているんだと思いましたよ。文化を紹介するなら正しく伝えてください。 The exhibition entitled " Nara ー The Beginning ofFaith and Beauty in Japan" is held under the sponsor-ship of Nara and the British Museum at the British Museum. The opening ceremony was on the 3rd Sep..The Asahi Shimbun and others are specially coopera-ting. The Asahi Shimbun DIGITAL has an intoroductory arti-cle with photos. They are photographs of the exhibits. However, when I looked at the name given to the photograph of the exhibit, and I saw the ruby(agate) alongside by the name written in the kanji, I sighed. This is because it was written as "Bronze Kannon statue, Yumé-chigai Kannon (Horyuji, Asuka period)". Hey, Asahi Shimbun! It's not "Yumé-chigai". It is cor-rect in "Yumé-tagaé". It is the same noun as a word "katatagaé". This reading not only points to the essence of this Kannon faith, but also because it represents the form of faith, or the vector of faith, so to speak. What does it mean? "tagaé" is a word that seems to have changed from atransitive verb to a noun. It is important that this Kannon statue's name is originally a transitive verb.That is because the subject is Kannon. He will change the extraordinary dream of common mortals....Faith isborn this point. Common mortal has a great wish."Yumé-tagaé Kannon will change my nightmare(badthings)". There is no strong argument that it is also called"Yumé-chigai". I thought what the Asahi Shimbun reviewer was doing. Please tell correct if you intro-duce culture.By Tadami Yamada
Oct 4, 2019
コメント(0)
私がほぼ毎日のようにチェックしている、世界中の日々の考古学情報を伝えるインターネット・サイト〈Seeker〉が、今日、おもしろいことを報じている。翻訳して掲載できないので残念だが、内容は次のようだ。 アイルランドは北ダブリンから50マイル、ドゥラケラスの町近くの泥炭地で、掘削機で作業していたところ、地表から12フィート(約3m66cm)の地下でワックス状の22ポンド(約1kg)の塊を発掘した。塊は強いチーズのような臭いがした。アイルランド国立博物館に送り、炭素年代測定によって、この塊が2000年前のバターであることが判明した。 専門家は、まさか地下から2000年前のクリーミーな、理論的には食べられる状態(原文は、The newly found butter is still edible – theoretically、と書いている)のバターが発掘されるとは予想だにしなかったという。神饌として儀式埋葬されたのではなく、保存のために埋められたのだろうと推測している。というのは宗教儀式埋葬の場合、何百という数のバターのパッケージは木箱の内部に配置され、剣や装飾品とともに埋葬されるからで、アイルランドの湿原泥炭地ではこれまでにも、バターこそ影も形もなくなってはいたが、儀式埋葬品が発掘されていた。 今回、食べられる状態のバターが発掘された場所は、古代には3つの王国の接合部にあたり、近づくのが難しいミステリアスで政治的には所有者のない土地のような状態だった。すなわちこのバターが一般食料品として埋蔵されたのであろうというのである。 なぜ、バターが2000年間も保存できたのか。湿原の特異な化学反応に起因すると考えられ、泥炭を構築するミズゴケ(the peat-building Sphagnum moss)は、寒冷、酸、および分解を防ぎ、細菌を固定化無酸素条件下に埋め込んで成育するのである。 理論的には食べることが可能であるが、「まあ、食べない方がよいでしょう」と、この記事は専門家の意見を紹介して結んでいる。
Jun 14, 2016
コメント(0)
テレビ東京の番組『美の巨人たち』が、会津若松市飯盛山山腹にある奇想の建築、円通三匝堂(さんそうどう)、通称栄螺堂(さざえどう)をとりあげていた。番組自体はつまらないものだったが、私は中学・高校時代にこの地に住んでこの栄螺堂に親しんだ。TV映像で見ると昔とは周囲の環境が変わっていて、個人の所有物件なのでいたしかたないとしても、残念なことではある。 このブログを始めてすぐの2005年8月24日に、私は栄螺堂について書いている。その記事を以下に再掲することにする。 会津若松市の北東に小高い岡のような飯盛山がある。戊辰戦争のとき白虎隊の少年達が悲惨な自刃をした場所である。御存知のかたもあるだろう。 この山の中腹に正宗禅寺円通三匝堂(さんそうどう)、通称栄螺堂(さざえどう)という大変めずらしい建築がある。寛政8年(1796)の建立である。ある種の建築空間に敏感に反応し、あまつさえ性的昂揚感さえおぼえる私だ。この栄螺堂こそ私の眷恋(けんれん)の建築のひとつなのである。 外観は六角堂なのであるが、内部はまるでDNAのように二重螺旋のスロープが4層を貫いている。高さは約16m。唐破風の正面から入ると、右回りにスロープが螺旋状にのぼり、頂上で橋を渡ると、下りのスロープがこんどは左回りに螺旋を描きつつ正面とは正反対にある背面出口に通じている。 まさにDNA遺伝子の二重螺旋構造そっくり。のぼる人と降りる人が顔を会わせることはない。本来、このスロープにそって計33体の観音像がまつられていて、上下一巡すると西国観音札所を巡礼したことになるという、江戸時代の庶民のための簡易巡礼道だった。 このような〈栄螺堂〉は葛飾北斎の「富嶽三十六景五百らかん寺さざゐどう」や、江戸名所図絵「五百羅漢寺三匝堂」にも描かれ、頂上の見晴らし台から遠く富士山を望み見る江戸の人々のすがたをしのぶことができる。現存するこの形式の仏堂は関東に3棟、そしてこの会津飯盛山の1棟だけである。しかし塔の形は飯盛山のものだけで、仏堂建築としてはきわめて特異なものである。 私としては、この特異な建築構造の発想の源を知ることに関心が向う。建築学的研究の嚆矢は日本大学理工学部建築史研究室の小林文次教授であろう。私の収集した資料のなかにこの御堂の実測図があるが、それは小林研究室が1965年8月に制作したものである。 はたして日本人のオリジナルな発想であるか、それともヨーロッパあたりの渡来であるか。 秋田藩主で画家でもあった佐竹曙山が残したスケッチ帳に二重螺旋の図があり、日本における初期西洋画についての研究者はこのスケッチを洋書からの写しと考えて来た。小林教授はこのもとの書物を1670年にロンドンで出版されたジョゼフ・モクソン(1627―1700)の著書『実用透視画法』の第35図であることを発見した。そして佐竹曙山が1785年に没していることをふまえて、飯盛山の栄螺堂が建立された1796年以前に、二重螺旋構造の建築図は日本の一部の人には知られていたと発表した。しかし小林教授は慎重に、曙山のスケッチと栄螺堂を結ぶ直接的史料は発見されていないと述べている。 二重螺旋階段といえば、私は、レオナルド・ダ・ヴィンチの発想になるというフランソワ1世のためのシャンボール城の中央階段を思い出す。つい最近(註;この記事を書いた2005年)、NHK・TVがレオナルドをめぐる番組でこの中央階段の映像を見せていた。残念ながらその天才的発想と同じ発想になる建築が、会津若松市に現存することまでは気が回らなかったようだ。 何もかもぶっこわしてしまった会津若松だが、どうかこの建築は建築史上重要なものであることを忘れないでほしいものだ。世界に誇れる建築でありますぞ。そしてもとはと言えば実用に発するものながら、なんと幻想味にあふれていることか。なんだかそのあたりに、実用と非実用とのうまい組み合わせの哲学が発見できるのではないだろうか。私はいまそんな思いに深くとらわれているのだ。
Feb 27, 2016
コメント(0)
さきほどまでBS-TBSの「にっぽん歴史鑑定 忠臣蔵」を観ていた(22時~23時)。きょう12月14日(正確には元禄15年(1702年)15日未明)は、赤穂浪士が吉良邸に討ち入りした日である。番組は、人形浄瑠璃や講談、あるいは歌舞伎でおなじみの「忠臣蔵」----いわばフィクション-----と史実とを史料によって比較するというもの。 ❶ 大石内蔵助良雄がどういう人物であったか? ❷ 大石の祇園一力茶屋遊興は事実か? ❸ 垣見五郎兵衛を名のって江戸を目指した大石が東海道宿で本物の垣見五郎兵衛に出会ったのは事実か? ❹ 岡野金衛門が吉良邸の女中を恋人として吉良邸図面を入手したのは事実か? ❺ 赤埴源蔵の徳利の分かれは事実か? ❻ 討ち入り当日に大石が内匠頭未亡人に会い、秘かに四十七士の血判状を渡したのは事実か? 以上のことを検証していた。私は2、5以外は史実を知っていたが、しかし面白い番組だった。 私は、「忠臣蔵」に特に強い関心があったわけではない。それでも、高輪の泉岳寺を訪ねて小さな博物館を見ている。また、箱根の関所跡の博物館で、赤穂城に向かう受城正使の播磨龍野藩主・脇坂淡路守安照が関所を通過したことを記した帳簿も見ている。 あるいは、赤穂浪士大高源吾とは知らぬまま俳友であった宝井其角(きかく)は、討ち入りの日の夕刻、歳末の煤払用の煤竹売りに身をやつした源吾に両国橋で偶然出会い、その落ちぶれように隅田川の流れにたとえながら、「年の瀬や水の流れと人の身は」と一句。すると源吾(子葉という俳号を名のっていた)は、付け句「明日またるるその宝船」と詠んで別れる。宝井其角がこの子葉が赤穂四十七士の一人大高源吾だと知ったのは討ち入り後のことであった。-----前置が長くなったが、私はその宝井其角の供養塔にも詣でている。世田谷区北烏山の称往寺にそれはある。それと気づかないほどの小さな供養塔だ。 ちなみに、北烏山は寺町で、多くの寺院が隣り合って在るが、明暦の大火後に江戸市中の墓地がこの地に多く改葬されたのである。寺々を巡れば、浮世絵師喜多川歌麿の墓や、『江戸名所図絵』の作者長谷川雪旦の墓、『春色梅児誉美』の作者為永春水の墓、あるいは明治時代の生人形師の初代安本亀八の立派すぎるほど立派な墓に出会う。 「忠臣蔵」のなかで語られることはないが、吉良上野介義央(よしなか/よしひさ:後註)が討ち入りを警戒して、たびたび本所の屋敷から江戸城近くの米沢藩第四代藩主上杉綱憲(つなのり)邸を訪ねて滞在している。 上杉綱憲は実は吉良上野介の長子三郎で、三郎の母は米沢藩第二代藩主定勝の娘。定勝の継嗣・第三代藩主綱勝にとって吉良三郎は甥にあたる。 ではなぜ吉良上野介の長子・三郎が米沢藩第四代藩主となり綱憲を名のるようになったのか。第三代藩主綱勝が急死してしまったのだ。しかも綱勝には子がなかった。家督を継ぐ者を幕府に申請する間もなかったのである。上杉家は取潰しになること必定であった。 ------ここに登場するのが、会津松平藩祖の保科正之である。正之の長女・媛姫(はるひめ)は第三代藩主綱勝に嫁いで徳姫と名を変えていたが、子をもうけぬうちに事故で急死していた。そしてつづく綱勝の急死。名家上杉家を断絶から救ったのが保科正之だった。将軍家綱の絶大な信頼を得ていた正之は、綱勝が死ぬ前に甥である吉良三郎を養子縁組して上杉家の家督相続をするという遺言をしていた、としたのである。 幕末、戊辰戦争で会津藩が官軍に包囲されたとき、山形米沢藩が最後まで会津藩援護したのには上述のような160年ほど昔の恩義を感じてのことだった。 「忠臣蔵」から話が逸れてしまったが、吉良家と上杉家の関係を知っておくのはムダではあるまい。我が会津がおおきく関わっていた! 保科正之が死んだのが1672年。その丁度30年後の1702年に、赤穂浪士の吉良邸討ち入りであった。徳川時代の並みいる大名のなかで最高の頭脳と有徳を評価される保科正之だが、もし生きて浅野内匠頭刃傷事件が出(しゅったい)していたなら、どのように対処したであろう。 【註】吉良義央の読みは、明確には分からず、従来「よしなか」と読まれてきたが、現・愛知県吉良町の吉良家菩提寺古文書から「よしひさ」と読めることが分かり、近年になって「よしひさ」という読みが定着しつつある。
Dec 14, 2015
コメント(0)
15世紀のイングランド王リチャード三世の2012年に発見された遺骨について、並びにレスター大学の研究について、私はこのブログで何度か言及してきた。このたびレスター大学は一応の研究成果を得たので、遺骨を再埋葬することになった。その埋葬式が今日26日にレスター大聖堂で挙行された、とCNNが伝えている。【関連報道】CNN リチャード3世を再埋葬、カンバーバッチさんが詩朗読 英 再埋葬にあたってレスター大学はおもしろい事実を発表している。イギリスでいま最も人気のある映画俳優の一人、ベネディクト・カンバーバッチさんが、DNA鑑定により、リチャード三世の遠い親戚にあたる 、というのである。【関連報道】毎日新聞 英俳優:カンバーバッチさん、リチャード3世の血縁と判明 最近の遺伝子研究は目覚ましく、私たちは(一般論としてではなく、このブログを読んでいる一人一人が)およそ1万7000年前の直接の祖先にたどりつことが可能だ。したがって、カンバーバッチさんの先祖がリチャード三世であるという事実は、遺伝子研究の発展的成果としては何等目新しいことではない。ただその事実が、人気俳優だけに、おもしろいのである。 さらに、(絵描きの私としては)カンバーバッチさんの容貌がリチャード三世の肖像と大変良く似ていることがおもしろい。リチャード三世の肖像として知られる絵は、本人を目の前にして描いたものではない。ずいぶん後に、生前の面影の記憶をたよりに、あるいは伝聞をもとに描かれた肖像画である。それが、カンバーバッチさんの容貌と似ているとは、どういうことか。伝聞や昔の記憶が非常に確かなばかりでなく、いまでこそ名前を忘れられている画家の〈再現力〉の技量の優秀なることの証かもしれない。---ちょっと言葉で言い表せないでいるが、私は画家としてそのことに想いを集中する。 美術史には本人の死後年月を経てから描かれた肖像画、あるいは肖像彫刻が数限りなく存在する。それらが本当に本人と似ているかどうかを確認することはできない。遠い縁戚にあたるカンバーバッチさんの容貌とリチャード三世の容貌との類似を知るような事例は、おそらく肖像美術において異例のことではなかろうか。
Mar 27, 2015
コメント(2)
きょうも午前中、午後と、地域の福祉活動。4時から少し制作。 話は変る。 毎日新聞によれば、「東京帝国大の総長を計12年近く務め、昭和天皇の教育にも深く関わった山川健次郎(1854〜1931年)の日記の写本が見つかった」という。 なぜ私がこの記事に留意したかというと、昨年NHKの大河ドラマ「八重の桜」を観た方は思い出すであろうが、山川健次郎は会津藩国家老・山川重固の三男(後に兄・山川大蔵--維新後に浩と改名--が、家督と家老職を継いだ)。鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)が起った1868年、健次郎14歳、会津藩校日新館に学び、白虎隊士であった。明治4年、アメリカに渡りイェール大学で物理学の学位を取得した。帰国後は東京大学で日本人として初めての物理学教授となり、その9年後には東京大学の初の物理学博士となった。これらの経歴については「八重の桜」でもドラマ化されていたが、以後、東京帝国大学総長(一度退任するが、再びその職に就いた)、九州帝国大学総長、京都帝国大学総長を「兼任」した。三つの帝国大学総長を兼任したのは山川健次郎を措いてほかにいない。 私の母校会津高等学校は、藩校日新館を源として明治維新後は私学日新館、さらに旧制会津中学校を経て現在に至っている。明治維新後の会津が時の政府によって悲惨な状況を強制されたことは、これも「八重の桜」に見るとおりだ。学校を開設することも許されず、このとき非常なる尽力をしたのが山川浩(当時、東京師範学校総長だった)と弟の山川健次郎だった。兄弟は奉加帳を持ってまわったと聞く。我が母校の創建者なのである。 会津藩主松平容保(まつだいら かたもり)が京都守護職に任ぜられた前後の経緯を知る重要な史料が、山川浩が著した「京都守護職始末」である。この著述を完成せずに浩は没し、健次郎が書き継いで完成したといわれている。復刻本が出ているが、近代デジタルライブラリーで原本を読むことができる。 さて、毎日新聞が報じている山川健次郎の日記は、1913年から15年、および1919年から20年まで4冊で、原本は2001年以降所在不明になってい、発見されたのはその写しだという。当時の大学運営に関わる文部省とのやりとりが詳細に書かれていて、貴重な史料である、と発見者の中沢俊輔・秋田大講師と共同研究者の小宮京・青山学院大准教授の評価だ。 なんにせよ、我が母校の創立に尽力された御人の日記である。遠い昔が、また少し私の胸に近づいたような気がする。【関連報道】毎日新聞 昭和天皇:教育に影響 元東京帝大総長の日記写本を発見 2014年12月04日 11時09分
Dec 4, 2014
コメント(0)
2012年にイングランド中部のレスター大学遺跡調査チームによって発掘された15世紀のイングランド王リチャード3世の遺骨に関する研究は、その後もいよいよ深化しているようだ。 この件については、私は数度にわたってこのブログに書いて来たが(ページ左のArchivesのカテゴリ「博物学・歴史」をご覧ください)、きょう、CNN.co.jpは、遺骨から採取したDNAから、リチャード3世が金髪で青い瞳だったと推測される発表があったと報じている。 ロンドンの肖像画美術館【後註】が所蔵する画像をはじめ、リチャード3世の肖像画は数点ある。いずれも直に描いたものではなく、想像によるものだ。それらは、どうやらシェイクスピアの戯曲「リチャード3世」に影響されること少なくないようで、いわゆる残忍、冷酷なイメージとなっている。 画家である私にとって興味深いのは、髪の色がどの絵もみな暗い栗色か、ほとんど黒に近く、金髪は1点もない。そこに、欧米文化、特に 'royal' をめぐっては金髪を最上位に置く、したがって「悪」のイメージとしてのリチャード3世の髪の色を黒っぽく描いたことに、一種の「偏見」が透けて見えるような気がすると言ったなら、それこそ私の穿ちすぎだろうか。 尤も、王統(royal family tree)が、本当に混じりけなく受け継がれてきたとすれば、なにも「偏見」と言わなくとも、遙か時間の彼方の金髪の遺伝子が縷々子孫に伝わっているかもしれない。そうだとしても、DNAミトコンドリアが子孫に伝わるのは女性のミトコンドリアだけで、男性の遺伝子は絶滅してゆく。世界中にまたがる同一ミトコンドリアの伝播追跡調査によって明らかになったことである。(このブログの読者諸氏よ、あなたがたご夫婦の遺伝子は、女のお子さんのみによって受け継がれてゆくのです。女性のミトコンドリアを過去に遡ってゆくと、やがて数万年前のアフリカの大地にいた「イヴ」にたどりつくことができます) ---というわけで、万世一系の王統など言うのは、人類の最も愚かな幻想のひとつと言ってよかろう。そのために、あるときは血みどろの殺戮がおこなわれていたのであり、リチャード3世の物語は、まさにその殺戮の歴史の物語である。 さて、リチャード3世の実像が金髪碧眼と判明したからといって、シェイクスピア「リチャード3世」の上演にあたって、今後、俳優達が役作りのうえで何か変化があるとは思えないが、レスター大学の研究から更なる新事実が判明するかどうか、私としては興味がつきない。世界の歴史学がどんどん進化している。まさに「空想から科学へ」だ。いつまでも空想に固執して愛国者を気取る歴史学者は、どこの誰だい!【註】 各国に肖像美術館がある。自国の偉人のみならず世界の偉人(歴史がそれを覆すこともあるが)の人間性を、画家の洞察によって知ろうということだろう。いわば人間学のための美術館だ。 肖像美術館のもうひとつのバージョンと言ってよいだろうが、アメリカのプリンストン大学図書館のローレンス・ハットン・コレクションは、ライフ・マスクとデス・マスクの104点にのぼる貴重なコレクションである。肖像画にしろライフ/デス・マスクにしろ、日本にはこのようなまとまった収集は「美術館」としてはない。これもまた文化の相違、人間をいかにすれば総体的に理解できるかという、人間学が根底にあるかないかに関わっている。
Dec 3, 2014
コメント(0)
今日は日野市平山の小学校で開催された「平山季重まつり」に行く。 平山季重(ひらやま すえしげ;保延6年[1140]?ー建暦2年[1212]?)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての勇猛果敢で「一谷嫩軍記」や「吾妻鏡」に名を残す武将。 生まれ在所と所領が武蔵国多西郡(たさいごうり)舟木田荘(ふなきだのしょう)平山郷(現東京都日野市平山)。現在の京王線平山城址公園駅前にその居館があったとされ、近年の発掘調査で遺構の一部が確認されている。またその背後の丘陵は平山城址公園として東京都立公園になっているが、遺構は発見されていないものの砦ないし山城があったとされる。中央部に小体ながら季重神社が鎮座する。またそこから下った中腹に大澤山宗印禅寺があり、平山季重の墓と僧形の木彫季重坐像(日野市重要文化財)が祀られている。墓はかつては居館跡に建てられた太平山大福寺(天正年間に季重の子孫が建立)にあったのだが、明治初期に廃寺となり現在の宗印禅寺に移された(墓とはいえ、追善供養塔のようなものと考えられる)。 平山季重は保元・平治の乱で源義朝・義平親子に従って平重盛に挑戦した。しかし義朝の死後は平氏に扈従し、重盛の死後は平山郷に平穏に暮していたが義朝の遺児頼朝が挙兵するとそれに従い、源義経に従って佐竹氏征伐の金砂城(きんさじょう)の戦いでは熊谷直実とともに目覚ましい軍功をたてた。 寿永3年(1184年)の一の谷の戦いにおいて鵯越(ひよどりごえ)の先陣をきっての戦いぶり、翌元暦2年(1185年)の屋島の戦い、壇ノ浦の戦いでの勇猛果敢ぶりで名を馳せ、後白河法皇によって右衛門尉に任ぜられた。しかしこの任官が頼朝に無断であったため怒りを買い、頼朝に罵られる(吾妻鏡)。 (余談だが、私の注意をひくのは、頼朝は怒りの罵りで平山季重の顔のことを言っていることだ。「顔はふわふわとして」と言っている。この言葉から私は、源頼朝という男の性格は女々しかったのではないか、と推測するのだ。子供じゃあるまいし男が男の顔ー容貌ーを指して罵るなんて---)一勇齋国芳画「源平合戦(部分図)平山季重一ノ谷西木戸攻めの場」 さて、「平山季重まつり」はいわゆる古来伝統の祭礼ではない。今年が9回目のまだ新しい、子供を中心にしてのイヴェントといってよいだろう。したがって伝統的祭礼に有する様式美はない。そのかわり子供達の楽しい賑わいと、何よりも「得意芸発表会」には応募者が殺到するそうだ。この日のために自主的にソロダンスやグループダンスや歌唱を練習する。自分たちで振り付けや構成を考えるグループもあるとか。 展示コーナーには、平山季重を俳句と俳画に表すコンテストもあり、6年生数十人の作品が展示されていた。中にひとり、アナグラム(文字謎)で平山季重を読み込んでいた児童がいたけれど、審査した先生は気がついたかしら。こういう特異な感性をもつ子供に的確に対応できる教師だったなら、私は嬉しいのだが。
Sep 28, 2014
コメント(0)
午前中いっぱい、東京都日野市南平丘陵地帯雑木林のキノコ観察会に参加。 日野市では「緑と清流課」(自治体としてめずらしい「課」かもしれない)と住民有志によって、市内に残っている里山の雑木林を守っている。ほぼ20年毎に樹木を伐採して新しい萌芽を促しているが、伐採木は各所に設けられた炭焼窯で木炭にし、その木炭は河床に敷きつめて水質浄化を図っている。 これらの里山は途中分断されているかのように見えるが、八王子市ー日野市ー多摩市とにまたがる広大な緑地を形成し、特に日野市の場合は森林公園として散策道や休憩所が大変良く整えられて多摩動物園や明星大学キャンパスにつらなっている。八王子市側には私がいつもおとずれる東京薬科大学の薬草園とその自然林薬草園、そして東京農工大学の観察林とが含まれ、これらと接しつつ中央大学と帝京大学のキャンパスが広がる。 さて、散策しつつ目にした樹木--- コナラ、カシワ、トチノキ、バッコヤナギ、ホウノキ、ヤブムラサキ、イヌザクラ、ヤマザクラ、ケヤキ、ムラサキシキブ、イヌシデ、バナイカダ、ガマズミ、イロハモミジ、ミズキ、ハリギリ、クヌギ、アオハダ、エゴノキ、ヤマウルシ、シラカシ、アラカシ、スダジイ、マテバシイ。クヌギのドングリ みつけた菌類・地衣蘚苔類--- ヒイロタケ、ノウタケ、ナラタケモドキ、ベニタケ、ミダレタケ、ハタケシメジ、エリマキツチグリ(牧野はエリマキツチガキ;Geastrum triplex (Jungh.)Fisch)、エゴノキタケ、ニガクリタケ、アラゲキクラゲ、テングタケ、ホコリタケ、キコブタケ、カワラタケ、チャウロコタケ、ニセショウロ、ホウロクタケ、ハカワラタケ、ニクウスバタケ、カタウロコタケ。 ウメノキゴケ。 ほかに名称を同定できないもの1種。あるいはスジチャダイゴケか。径5mm、丈8~10mmのやや乳棒状、ただし頭頂部は平もしくはやや凹んでいる。茎部に短い棘様突起が粗密生する。色はやや緑がかった灰色。伐採朽木に3本くっついて並列していた。 ただし、これについては私ひとりの関心事。多くの参加者(60名余)とボランティアの解説者にとっては可食キノコか毒キノコかが関心事で、「菌類」が問題ではないらしかった。長々とにぎやかなカイセツをしている間に私の目には8種類のキノコが映じていたのだが---
Sep 27, 2014
コメント(0)
2012年にイングランド中部レスターの古くは教会跡、現在は駐車場となっている地から15世紀のイングランド王リチャード3世の遺骨が、レスター大学遺跡調査チームによって発掘された。この件については、私は数度にわたってこのブログに書いて来た(ページ左のArchivesのカテゴリ「博物学・歴史」をご覧ください)。 私の関心はシェイクスピアの「リチャード3世」に因っている。というのも、ここに描かれている王は、脊柱側彎曲症をわずらっていると描写されているが、史実としてそれを事実として証明する資料がない。 イギリスにおけるシェイクスピアに関する研究は微に入り細に入る成果を誇るが、それでもなお、シェイクスピアが一体どこからリチャード3世の脊柱側彎曲症のことを知り得たのか不明なのだった。実はリチャード3世については正確な記録史料が残っているのだそうだが、この肉体上の問題については史料がないのだ。そのため、脊柱側彎曲症はシェイクスピアの創作ではないかと言われさえしてきた。イングランド通史を著しているディッケンズも、この件についてまったく触れていない。 レスター大学の発掘調査は、この脊柱側彎曲症の問題を一挙に解決してしまった。王の遺骨は脊椎骨が11番目から22番目までが引き絞った弓のように歴然と彎曲していたのである。 まあ、この事実によって、私としては、先きに述べたシェイクスピアが一体どこから知り得たかという疑問が、あらためて台頭したのであるけれども。おそらく戯曲「リチャード3世」をめぐってシェイクスピアを研究している人にとっても同じであろう。 レスター大学の研究は、その後さらに進展し、昨年9月には、リチャード3世は回虫に感染していたことを確認した。回虫感染は症状が激しければ腸閉塞を起こし、子供の場合は発達障害を招く。おそらく王は日常的に腹部に不快感があったと推測できる。暴力を好む王だったとされるが、あるいは回虫感染症にも因無しとは言えないかもしれない。 また、今年の8月には、遺骨分析からリチャード3世がワイン好きの美食家であったと発表された。当時のCNN.co.jpは次のように伝えている。 「英地質調査所(BGS)の研究者らがこの遺骨に含まれる酸素、ストロンチウム、窒素、炭素などの同位体を分析し、結果を考古学専門誌JASに発表した。生物の体を構成する元素の同位体比には、生活環境や食生活が反映される。研究を率いた同位体地球化学者のアンジェラ・ラム博士によると、チームはリチャード3世の遺骨から臼歯と小臼歯、肋骨(ろっこつ)と大腿(だいたい)骨を1本ずつ取り出して分析した。」「歯の成分は子ども時代に生えたまま変化しないため、子ども時代の生活を知る手掛かりとなる。一方、体の骨は折れても修復されることから分かるように、生涯を通じて変化する。その中でも肋骨は密度が低く、2~3年の周期で生まれ変わる。大腿骨は密度が高くて代謝が遅いため、10~15年ほどさかのぼった時期の生活が反映される。」「リチャード3世は1485年、王位に就いてからわずか2年2カ月後に戦死した。代謝の周期が異なる骨を調べることにより、即位前後で食生活が大きく変化したことが分かったという。(略)酸素同位体の構成比にはどこの水を飲んでいたかが表れるとされ、リチャード3世は晩年を英国の南西端部で送ったと読み取れるような分析結果が出た。しかしこれは記録と一致しない。」「チームは酸素同位体比に影響を及ぼす別の要因を探した。ビールに同じような作用があることは知られているが、当時庶民の飲み物だった。そこで浮上したのが、上流階級だけが味わうことのできた酒、つまりワインだ。現代のワインを使って実験を繰り返した結果、酸素同位体比に影響することが初めて確認され、リチャード3世は1日1本ほどの量を飲んでいたとの結論が導き出せたという。」(以上CNN.co.jpより引用) さて、昨日CNN.co.jpは、レスター大学の新たな研究成果を報じた。遺骨にリチャード3世の壮絶な最期がしるされていたという。 死の前後に負ったとみられる11カ所もの傷。11カ所のうち9カ所は頭部に。 致命傷とみられる頭蓋骨の下面に2カ所。剣あるいは矛による大きな切り傷。とがった武器による刺し傷。おそらく兜を脱いでいたのだろうと推測された。 骨盤の大きな損傷は、「遺体は馬の背からつり下げた状態で戦場からレスターへ運ばれたとの説があることから、この時に受けた損傷ではないかと、(論文をまとめたサラ・ハインズワース)教授は指摘する。」 ディッケンズは次のように書いている。 「その夜、一頭の馬がレスターのグレイ・フライアーズ教会に導き入れられた。その背にはボロ袋のような丸裸の屍体がくくりつけられていた。そこに埋葬するためであった。」(山田維史訳) 遺骨は来春、レスター大聖堂にあらためて埋葬されるという。遺骨から直接の調査研究も一段落というところなのだろう。【関連報道】CNN.co.jp リチャード3世、遺骨から浮かび上がる壮絶な最期 2014.09.18 Thu posted at 16:43 JST
Sep 20, 2014
コメント(2)
9月も今日はもう4日。なにかとスケジュールが詰まった忙しい月が始まった。 そんな中、午後、民生委員の仕事で歩き回った。せっせと動いていると、まだまだ残暑は厳しい。顔は涼しい顔ながら、衣服の下は汗だ。4時、帰宅。 ところで、 福岡は筥崎宮の放生会(ほうじょうや)が、12日に初日を迎える。ここで売られるガラス細工の「チャンポン」作りが追い込みに入っていると、朝日新聞が伝えている。 「チャンポン」---はて?と私が思ったのは、この名称に私はなじみがなく、むしろ「ビードロ」と言ったほうが喜多川歌麿の浮世絵「ビードロを吹く娘」をすぐに思い出す。あるいは「ポッペン」とか「ポッピン」。喜多川歌麿「ビードロを吹く娘」 「ビードロ」は、ガラスを意味するポルトガル語に由来する。「チャンポン」や「ポッペン」「ポッピン」は、これを吹いたときの音から来ている。 私がこれを、いつ、どこで実際に吹いたのか、まったく思い出せないが、その音と、ロート状の底をふさいでいるごく薄いガラスが、吹くたびにポッペンポッペンと凹凸をくりかえす感覚は憶えている。 楽器でもない、やはり玩具なのだろうが、なんとも不思議な「発明」だ。ガラスは、「ガラスの城」とか「ガラスの動物園」とか「ガラスの少年」、あるいは「ガラスの仮面」など、繊細で脆いことの形容になっている。が、「チャンポン」「ポッペン」「ビードロ」は、どっこいその逆で、ガラスの弾性を最大限に活かした玩具だ。 玩具とは言え、喜多川歌麿の浮世絵に見られるとおり、江戸時代にはおそらく高価な品で、したがって子供の玩具ではなかったかもしれない。歌麿は、このビードロを使って、繊細で儚げに見える女の性根にある弾力的な強さを、象徴的に表現したのではなかろうか。 筥崎宮の放生会で、「チャンポン」が売られるようになったのは、いつの頃からだろう。そして、何か由来があるのだろうか。どうも境内の夜店の単なる売り物とは思えない。新聞の、「チャンポン」作りが追い込みに入っている」という記述に、何か物々しさを私は感じるのだ。もし、由来をご存知の方があれば教えていただきたいものだ。
Sep 4, 2014
コメント(2)
今朝、軒下に体長5mmほどの小さなクモが、不定形な巣を張っていたので、払い落そうと思った。そのとき一匹のハエが飛んで来て、ガラス戸の表面を上り始めた。ハエの体長は8mmほど。やがてクモまで10cmばかりに迫ったときだった。ハエの脚が一本のクモの糸に触れたのだ。糸が揺れた。上の方でクモがキッと身構えるのが観てとれた。ハエはあばれた。しかし、糸は切れるようで切れない。クモがツーっと下りて来た。一瞬のうちに、もがいているハエの胴体に一巻き二巻きの糸をからめた。ハエは一層暴れた。クモはもとの上方へ退き、じっとハエの様子を視る。 私は最後まで見物することにした。 ハエはなおも暴れた。が、次第に体力を消耗し、動くたびに羽などにも糸が絡み付いた。クモはふたたび下りて来て、確かめるように脚でハエに触れた。ハエは不自由な手足を、動かした。クモは退き、しかし上にはもどらず、途中に留まって獲物が弱るのをまっている。 そのまま4、5分が経過。ハエはほとんど動かなくなった。クモが近づき、(私の目には良く見えないが)新たな糸を繰り出して、巧みな技術でハエの全身を絡めとりだした。ハエのからだが少しずつ白っぽくなってゆく。ハエのからだは黒っぽく透けて見えてはいるが、薄い真綿でくるんだように、繭状になていった。クモは、一旦ハエから離れ、休憩でもするのかそのまま獲物を視ていた。が、それも束の間、やおら獲物に取り付いたのだ。「喰っている」と私は観た。正確に言えば「吸っている」だろうか。----捕獲の瞬間から20分経過していた。 私はクモも巣も払い落さず、その場を離れた。後刻、また見てみようと思って。 クモと言えば、私は小学校5、6年生のときに、クモとその巣とをセットにした標本をつくろうと考え、実際に採集も始めたのだったが、失敗に終わった。それまでに各種の標本をつくり観察を重ねてきた。小学1年生のときの蘚苔類標本(長野県子供科学賞受賞)に始まり、蝶、蛾、山野植物、シダ類、シダの胞子の研究、水棲幼虫、水棲昆虫などである。私の小学生時代はそれがほぼすべてである。そのなかで唯一の挫折が「クモとその巣」の標本だった。 考え方は、現在思い返しても「あれ」で良かったんだ、と思う。まず、巣の標本の作り方だ。巾2cm、厚さ1cmほどの角材で20~30cm四方の木枠を二つ作る。その一つにクモの巣を掬い採り、もう一つの木枠で挟み込む。それから木枠と同じ大きさの板ガラス(当時、アクリル板などは無かった)で木枠を挟むように覆い、ガラスを木枠に固定する。クモそのものは試験管や適当な大きさの透明なガラス瓶に入れる。---こういう計画だった。 なぜ挫折したかというと、コストがかかり過ぎた。私はお小遣いというものは一銭ももらったことがなかったので(我家では子供がお金の話をするのは、はしたないとたしなめられた)、---いや、それ以前に、戦後間もない田舎には現在のようにDIYの店など皆無、子供が角材やガラス板を気軽に入手できなかったのだ。 と、いうわけで今日の日記は早々とクモの話を。 そういえば、水上勉さんの中編小説にジョロウグモを闘わす民俗をめぐっての物語があった。学生時代に文芸誌に掲載されたのを読んだ。題名は失念しているなー。【追記】 水上勉氏の小説の題名を思い出した。雑誌「文芸」に載ったのは「坊の岬物語」(1964年、単行本は1965年)。 水上氏にはこれより先きに「蜘蛛の村にて」という小説、他にも「くも恋いの記」がある。1960年代の半ばころまで、「蜘蛛」に関心があったようだ、と付け加えておく。
Aug 1, 2014
コメント(3)
ディクスン・カーのミステリー「曲った蝶番」には、オートマトン(automaton;自動人形)が重要な小道具として登場する。自動人形、あるいはカラクリ人形。ロボットの、また、コンピューター制御のメカニックのご先祖様と言ってもよいだろう。 日本の各地に残っているカラクリ人形芝居を故郷の祭礼とともに懐かしく思い出す人もいるにちがいない。日本では早くも「日本書紀」に、カラクリらしきものの記述がある。祭などでカラクリ人形芝居が見られるようになるのは室町時代あたりからで、17世紀以降のこと。 18世紀末、すなわち1796年には細川半蔵の「機巧図彙(からくりずい)」が出版されている。この中に図説されているのが例の「茶運び人形」で、東京上野の国立科学博物館にその復元がある。ずいぶん昔だが、模型店で組み立てキットが売り出されたことがあった。実物はゼンマイ仕掛に鯨の髭を使っているのだが、模型キットでは何を代用していたのか。 「機巧図彙」については、私に大失敗の思い出がある。 もう40年ほども昔、新宿の南口の裏通り、現在のように奇麗に再開発される以前、汚らしい公衆トイレやポルノショップが立ち並ぶあたりに、みすぼらしい古本屋があった。ゾッキ本が主な売り物だったが、入口右側の書棚には澁澤龍彦のサド選集や桃源社のユイスマンなどが並んだ一画があり、私はときどき立ち寄ってめぼしいものを探すことがあった。入口の左側、通りに面して半間巾の、まるで立付けの悪い出窓のようなショーウインドウがあった。いつもはたいした本も出してはいないのだが、あるとき、立ち寄る気もなく通り過ぎようとしてチラと目をやった。なんと、和本「機巧図彙」が立てかけてあるではないか。私はあわててショーウインドウに駆け寄った。まがうことない細川半蔵の「機巧図彙」である。幾らだ? 高い! 金がない。 すごすごとその場を離れたが、数日後、やっぱり無理をしてでも買うべきだと思った。勢い込んで出かけた。「機巧図彙」は影も形もなかった! ところでヨーロッパの自動人形事情は、おもしろいことにその隆盛時期は日本とほぼ期を一にしている。1770年代、スイスの時計職人ピエール・ジャケ=ドロー(1721-1790)が極めて精巧な数々のオートマタを制作した。なかでも自動書記人形や弦楽器演奏人形は有名だ。これらのオートマタのコレクターとして、フランスのシャンソン歌手ジュリエット・グレコさんは有名だが、私は昔、そうしたコレクターから貸与された20点ほどの展覧会を見たことがる。 アメリカのフィラデルフィア博物館にもすばらしいコレクションがある。ピエール・ジャケ=ドローの自動人形はおよそ6.000の部品から成るが、フィラデルフィア博物館の所蔵品は完璧に整備されていて、みごとな動きを見せる。 じつは今までは長い前置きで、昨日のCNN.co.jpが、フィラデルフィア所蔵の書記人形の動画を掲載していたので、それをご覧いただきたかったのだ。驚異的な流麗さで文字や絵を描く18世紀のロボットを見てください。CNN.co.jp 200年前の人形が絵や字を書く様子 次のようなサイトもあります。http://www.ablogtowatch.com/jaquet-droz-the-writer-automata-awesome-antique-android/ ディクスン・カー「曲った蝶番」 カバー画;山田維史
Mar 15, 2014
コメント(0)
先日紹介した日野市百草の「倉沢里山を愛する会」事務局の田村裕介・はる子夫妻から、活動10周年目の平成22年11月に出版された「緑の風は永遠に」を贈られた。A4判255頁の大型本である。10年のボランティア活動のなかで発行してきた、No.1〜No.53号までの会報を編集したものだが、写真を添えた楽しさにあふれたエッセイのみならず、緑地保全の実質的作業に関する記録、あるいは生物観察等、貴重な記録になっている。 私が最も注目し、讃嘆したのは資料編として掲載している、倉沢里山の全植物を2004年から2010年にわたって調査した記録だ。そのリストは詳細に作成されている。木本類122種、草本類(シダを含む)368種、合計490種。そのすべてについて、種名(別名)、科名、分類区分(木本類、草本類)、生育地(倉沢、日野、南多摩、全国)を記し、さらに学術的に確かな典拠を示して次のような付帯事項を記す(下に画像)。すなわち、 「倉沢里山にとって貴重な種」「全国的に見て希産植物」「三多摩地方にとって貴重種」「日野市にとって貴重種」「帰化植物」「野生化した植物(山田註;元来、園芸種であるという意味)」「日野市内には少ない植物」/「絶滅危惧 lA類」「絶滅危惧 lB類」「絶滅危惧 ll類」「準絶滅危惧」 こうして長い年月をかけて調査する間、緑地の手入れによって新たに発見された植物もあるという。 私が「倉沢里山を愛する会」の活動に目をみはり、また、教えられるのは、「知性」が愛の基盤にあることが大切だということだ。原生林と里山のちがいは、言うまでもないが、里山は人の手が入るということ。その、手の入れ方に「知性」がなければ、緑地としての山は消えてしまう。愛にもいろいろあるけれど、人間存在をふくめて全生物の存在が一体となること、そういう哲学無くしては里山保全どころか国土さへ危うくなろう。 倉沢里山を愛する会
Jan 23, 2014
コメント(0)
かつてこのブログで私は、日野市百草の幻の遺跡と称されている、「真慈悲寺遺跡」発掘について書いた(Nov 9, 2008)。このあたり一帯は、武蔵野丘陵の面影を現在に残す、貴重な森林緑地である。 その百草倉沢地区で、「倉沢里山」を守るべく仲間を募ってボランティアで、すでに14年間、実質的な活動をしている「倉沢里山を愛する会」、およびその活動の一環として運営する市民農園「アリスの丘ファーム」の田村裕介・はる子夫妻、その、はる子夫人と私はお知り合いになり、活動の一端を聞かせてもらった。 「倉沢里山を愛する会」は、日野市とパートナーシップ協定を結び、雑木林の下草刈りや落ち葉掃きなどを行って緑地の維持管理をするとともに、里山散策会やファームで収穫した農産物を使ってのアウトドア・クッキングを楽しんでいる。毎回50名ほどの参加者があるというから、盛況だ。詳しくはホームページがあるのでそこをご覧いただきたい。 倉沢里山を愛する会 会が設立されて10周年目の2011年には、トヨタ自動車株式会社のトヨタ環境活動助成プログラムと損保ジャパン環境財団の助成を受けて「くらさわ・ノート」と題する冊子を出版している。 私は田村夫人からその冊子を贈られ、一読、驚嘆した。というのも、私は子供のころ、野草や蝶の標本作りに明け暮れていた。それだから一層、ある一つの地区の植物群、および昆虫やその他の小動物を、詳細に観察記録していることに喜びを隠しきれなかったのだ。 地域の生物群というのは、植物図鑑や昆虫・動物図鑑ではまったく知り得ないことなのである。私の書棚に、生物学御研究所編「皇居の植物」(1989年、保育社刊)という一本があるが、こういう書籍というのは、まあ、珍しいのだと言ってよかろう。 倉沢里山の植生調査によれば、木本類122種、草本類368種が存在するという。「くらさわ・ノート」は、四季に章分けし、155種の植物、17種の鳥、39種の昆虫と小動物が写真で記録されている。撮影は田村裕介氏である(企画・制作も)。この冊子を手に里山を散策したらどんなに楽しかろう。 以下に「くらさわ・ノート」とその頁の画像を掲載しておこう。
Jan 16, 2014
コメント(4)
ヨーク朝最後のイングランド王リチャード三世(1452-1485; 在位 1483-1485)については、その遺骨が昨年527年ぶりに発掘発見されたことなど、このブログでも何度か書いてきた。きょうのCNNニュースは、その遺骨からさらに新しい事実が判明したと報じている。 遺骨を調べていた研究チームがリチャード三世が回虫感染していた事実をみつけたと、4日、英国医学誌ランセットが報告したというもの。 腸があったとみられる骨盤周辺の土壌に回虫の卵を発見、その他の遺骨周辺土壌からは発見されなかったため、研究チームは、リチャード三世の回虫感染を断定した。 この新事実が興味深いのは、リチャード三世の様々にとりざたされてきた性格、たとえばその一つの暴力性などについて、回虫感染症の臨床病理学的な症状例に照らし合わせて、あるいは信頼性のたかい推測ができるのではないかということ。乳児期から感染したとすれば、発達障害の可能性もあり、それと脊椎側彎曲症との関係如何も説明されてくるかもしれない。あるいは、常時、腹部に不快感をかかえていただろうから、それが性格形成に影響していなかったかどうか。・・・謎の多い王だけに、これからも新たな論議がありそうだ。 ところで、英国の医学誌ランセットは、権威ある専門雑誌なのだが、掲載論文のなかには一般人にもなかなか興味深いものも載せている。今回のリチャード三世の回虫感染症もその一例。かつては、イタリアとオーストリアとの国境のアルプスの氷河から発見された5,300年前のアイスマンの身体に発見された点状の刺青について、いわゆる東洋医学における鍼灸のツボに一致するという研究論文が載ったこともあった。 このアイスマン論文、私はたまたま国会図書館のバックナンバーを読んでいてみつけ、翻訳して故湯浅泰雄博士にプレゼントした。湯浅博士はすぐに電話をかけてきて、私の翻訳をもとにして論文を書きたいとおっしゃった。私は、「もちろんそのつもりでお送りしたのです。お役にたててなによりです」と申上げた。 話が横道にそれたが、「ランセット」は医学誌といっても、ちょいと目がはなせない面白い専門誌なのである。【関連報道】CNN 遺骨発見のリチャード3世に回虫感染、英研究チーム報告 2013.09.05 Thu posted at 15:57 JST
Sep 5, 2013
コメント(2)
昨日のつづきです。チャールズ・ディッケンズ『子供のためのイングランド史』より第25章「リチャード3世治下のイングランド」(Part 2) 山田維史 訳 彼の成功の時代は楽しかった。リチャードは、議会を招集し金を獲得するために考えた。そして議会が招集された。議会は彼が望む以上の喜びを彼に与え、おもねった。イングランドの正統な王であると、彼と彼の唯一の息子エドワードに対して宣誓した。エドワードはそのとき11歳、次の王位継承者だった。 リチャードは議会に言わせるべきことを充分に承知していた。エリザベス王女はヨーク家の女性相続人として人々に記憶されていた。そしてリチャードは、加えて、彼女をリッチモンドのヘンリーと結婚させようとしている陰謀団の計画についての正確な情報も入手していた。彼は、陰謀団の裏をかいて彼女を息子と結婚させれば、それが一層彼を強くし、彼らをを弱めるにちがいないと感じた。この展望を携えて彼はウエストミンスターの聖所におもむいた。そこにまだ故王(山田註:リチャードの兄エドワード4世)の未亡人と彼女の娘(山田註:王女エリザベス・オブ・ヨーク))がいた。彼はふたりに宮廷に来るように懇願した。宮廷で・・・と、彼は有りと在る物に誓って言った・・・彼女達は安全に名誉あるもてなしをされるであろう、と。彼女達は申し出によりやって来た。ところが宮廷に滞在すること一ヶ月、彼の息子が突然に死んだ。・・・あるいは毒殺された・・・それで彼の計画はこなごなに砕け散ってしまった。 この窮地のなかでリチャード王は常に積極的に「私は別の計画を立てなければならない」と考えた。そして、エリザベス王女は彼の姪だったのだが、彼女と自分自身との結婚を企てた。その道筋にはひとつの厄介な問題が横たわっていた。彼の妻、アン王妃である。彼女は生きていた。しかし、彼は(甥たちを思い出して)邪魔者を如何に取り除くかを知っていた。そして彼は、王妃は2月に死ぬであろうことは確かだと感じていると告げながら、エリザベス王女に求愛した。王女は大変誠実な若い貴婦人というわけではなかった。つまり、軽蔑と憎悪で彼女の兄弟を殺した男を拒絶せず、彼を心から愛していると開けっぴろげに誓った。そして2月になった。王妃は死ななかった。エリザベスは、長過ぎて待ちきれないと、意見を吐露した。しかしながらリチャード王は、彼が予言したことからそう遠くないところにいた。王妃は3月に死んだのである。彼は事を注意深く運んだのだった。それからこの愛し合うカップルは結婚を望んだ。しかし、彼らは落胆した。と言うのも、このような結婚計画は、イングランドではまったく好かれなかったのだ。王の首席顧問ラトクリフとケイツビーは、そんな計画に決して着手しなかったにちがいない。そこで王は、そのようなことをまったく考えたことはないと、公然と宣誓せざるを得なかった。 この時までに、彼は、国民のすべての階級から恐れられ、憎悪されていた。彼の貴族たちは日ごとに彼のそばから離れて行った。彼はあえて別の議会を招集しなかった。彼の罪をそこで批難されないようにだった。そして金がほしかった。市民階級すべてが彼に反抗して腹をたてないように、彼らの 〈慈悲心〉 をあてにせざるをえなかった。 また、こんなことも言われた。良心によって打ちひしがれながら、彼は恐ろしい夢を見た。そして夜中に飛び起き、恐怖と良心の呵責にかられて荒れ狂った、と。 このすべてを通じて、死ぬまで積極的だった彼は、リッチモンドのヘンリーと彼の追随者たちが彼に逆らってフランスからフリート艦に乗ってやって来ていると聞いて、彼らに対するきびきびした声明文を発布した。そして凶暴で残忍なイノシシのように戦闘をくりひろげた。そのイノシシは彼の楯に標されていた。 リッチモンドのヘンリーは6千の兵士とともにミルフォード・ヘイヴァンに上陸した。リチャード王に逆らって軍を進め、北ウェールズを通り、2倍にふくれあがった軍隊とともにレスターに野営した。ボズワース・フィールドで二つの軍隊は出合った。 やって来るヘンリーの兵士たちを見、自分を見捨てたイギリス貴族たちとともにいるその大軍を見て、リチャードは青ざめた。彼らのなかに、強力なスタンリー卿とその息子(リチャードは彼をしっかり記憶にとどめようとした)がいたのだ。しかし、彼は邪悪だったが勇気もあった。そして戦闘のまっただ中に突っ込んで行った。彼はあちらこちらへ騎馬を駆り、前後左右を打ちまくった。彼がノーザンバランド伯爵・・・リチャードの数少ない味方の一人だった・・・を見つけたとき、ノーザンバランド伯が動きを止めて立ち上がり、彼の軍隊の本体がためらった(後註1)。その時だった、リッチモンドのヘンリーが彼の騎士たちの小さなかたまりのなかにいるのが、自暴自棄になったリチャードの目に入った。彼は全速力でヘンリーに向かって駈け、「反逆者め!」と叫びながらヘンリーの旗手を殺した。恐怖にかられた馬が別の領主を振り落とした。そしてヘンリーを斬り倒すために思い切り一撃を喰らわした(後註2)。しかし、それが打ちおろされる瞬間、ウィリアム・スタンリー卿がとっさにそれを躱した。リチャードは再び腕を振り上げる前に、押し寄せる軍勢の中でぐっと耐え、落馬し、そして殺された。スタンリー卿は王冠を拾い上げた。打ち瑕だらけで、踏みつけられ、血に染まっていた。彼はそれをリッチモンド公の頭上に置いた。「ヘンリー王万歳!」大きな歓呼があがった。 その夜、一頭の馬がレスターのグレイ・フライアーズ教会に導き入れられた。その背にはボロ袋のような丸裸の屍体がくくりつけられていた。そこに埋葬するためであった(後註3)。家系図の最後の屍体(後註4)、リチャード3世、強奪者にして殺人者、2年間の統治の後、32歳でボズワース・フィールドの戦いで戦死。【山田註】1)ディッケンズは明瞭に書いてはいないが、リチャード3世が唯一の味方と思っていたノーザンバランド伯ヘンリー・パーシーは、このときリチャード3世派(ヨーク家派)の右翼で指揮しながら戦況を見ていた。しかし自らの率いる軍隊を動かそうとはしなかったのだった。その後、テューダー朝が成立するとノーザンバランド伯ヘンリー・パーシーはその王朝のために活躍したので、ボズワースの戦場での彼の行動は「裏切り」と言ってよいだろう。2)リチャード3世の武器は斧であった。 3)現在は駐車場になっているこの場所で、レスター大学の遺跡発掘チームが一体の完全な遺骨を発見し、それがリチャード3世であることが科学的に証明されたについては、すでにこのブログで述べた。その死から517年が経っていた。4)ヨーク王朝最後の王ということ。
Aug 2, 2013
コメント(0)
きのうの日記でリチャード3世に触れた。それで、ものはついでと、チャールズ・ディッケンズが子供の為に書いた『イングランド史』の「リチャード3世治下のイングランド」の章を読み直してみた。どうせなら翻訳してブログの読者にお目にかけようと思い、それを以下に掲載します。この章は短いのですが、今日と明日と2回にわけることにします。ディッケンズが長く述べてきたイギリス史の途中の章なので、そこまでの経過がないと話を把握しづらいとは思いますが、お読みいただけたならと思います。チャールズ・ディッケンズ『子供のためのイングランド史』より第25章「リチャード3世治下のイングランド」 山田維史訳 リチャード3世は、その朝、眠りから覚めるとウェストミンスター・ホールへ行った。ホールには大理石の椅子があった。二人の大貴族の間にあるその椅子に彼は坐った。そして、彼は人々に告げた。この場所で新しい王政が始まる、と。というのも、君主の第一の義務は万人に等しく法を執行することであり、正義を主張することであったからだ。それから彼は馬に乗ってシティ(ロンドン)へ戻った。シティで彼は、あたかも実際に戴冠して王権に就いたかのように、また、正統的な男であるかのように、聖職者と群衆に迎えられた。聖職者と群衆は、そのような臆病なごろつきに対して、ひそかに自分たちを恥じなければならなかった、と私(筆者ディッケンズ)は思っている。 新しい王と王妃は、すぐに、人々が大好きなショーとばか騒ぎのなかで戴冠した。そして王は、彼の支配権を知らしめるために各地へ行進を繰り出した。人々が充分にショーを楽しみ騒ぎたてるように、彼はヨークにおいて二度目の戴冠をした。彼は行く所どこでも、強靭な肺をもった善良な民衆から歓びの叫びで迎えられた。人々は喉を痛めつけるほど叫ぶと、金が支払われたのだった。「リチャード王に神の祝福を!」 計画はもののみごとに成功した。王の支配を知らしめるために各地への王の行進は、それ以後、他の強奪者たちの真似するところとなった、と私は述べておく。 この旅の間に、リチャード王はワーウィックに一週間滞在した。そしてワーウィックから彼は、かつて行われた殺人のなかでも最も邪悪な殺人者の一人にあてて、二人の幼い王子、ロンドン塔に幽閉されているリチャードの甥たち(後註)を殺すよう、本国へ指示を送った。 ロバート・ブラッケンベリー卿は、当時、ロンドン塔の総督だった。彼に、ジョン・グリーンという名の送達吏によってリチャード王からの手紙がもたらされた。ある理由によって二人の王子を処刑せよ、という命令だった。しかしブラッケンベリー卿は・・・私(ディッケンズ)は、彼が自分の子供をもち、愛していたからだ、と思いたいのだが・・・、そのような恐ろしい仕事はただの一遍たりとも私にはできない、という返書をしたためた。ジョンは馬に拍車をかけ、埃を巻き上げながら戻った。王は不機嫌にしばらく考えていたが、彼の乗馬の師であるジェイムズ・ティレル卿を呼ぶように言いつけた。そしてティレル卿にロンドン塔の指揮を奪って、24時間、ロンドン塔のすべての鍵を所持する権限を与えた。望まれていることを熟知していたティレルは、身の回りから二人の無情な悪党を探し、自分の馬丁の一人ジョン・ディグトンと、殺し屋のマイルス・フォレストを選んだ。これらの二人の助っ人を従えて、ティレルは八月上旬のある日、ロンドン塔へ行った。王からの権限委任状を示し、4時間と20時間、指揮を奪い、鍵の所有を獲得した。そして暗い夜のとばりが降りると、罪深い悪漢のように忍び足で暗い石の螺旋階段を上り、暗い石の通路を二人の幼い王子がいる部屋の扉までやってきた。王子たちは就寝前のお祈りをし、ベッドに横たわり、お互いの腕を握った。ティレルは二人の悪魔ジョン・ディグトンとマイルス・フォレストを送りこみ、様子をうかがいながら扉の内に耳を澄ませていた。二人はベッドと枕で王子たちを窒息させた。そして屍体を階段の下まで運んだ。階段の足許に埋め、たくさんの石を積みあげた。夜が明けた。ティレルはロンドン塔の指揮権を手放した。鍵をもとに戻し、一度も後ろを見ずに大急ぎで立ち去った。ロバート・ブラッケンベリー卿は恐怖と悲しみで王子たちの部屋に向かった。そして王子たちが永遠にいなくなってしまったことを知った。 読者諸君は、この歴史のすべてをとおして、裏切り者が決して誠実ではなかったのではなく、如何に誠実であったかを知る。諸君は、バッキンガム公爵がまもなくリチャード王に背いたと知っても、驚きはしないだろう(後註)。 バッキンガム公は、リチャードの王位を剥奪し、正統な王冠の主の頭上にそれを戻すために組織された陰謀団に加入した。リチャードは殺人を秘密にしておくつもりだった。しかし、彼のスパイから陰謀団の存在を聞き知り、さらに、多くの領主と紳士たちがロンドン塔の二人の王子の健康を祝って秘密裏に酒を酌み交わしたことを知って、彼は王子たちが死んだことを知らせた。陰謀者たちは、一瞬邪魔がはいったけれども、すぐに殺人者リチャードに背いてリッチモンド伯爵ヘンリーを王位に即けるための決議をした。リッチモンド伯ヘンリーは、ヘンリー5世の未亡人でオウェイン・チューダーと結婚したキャサリンの孫である。ヘンリーの出自はランカスター家だったので、彼らは、彼が故王の長女で現在はヨーク家の女性相続人であるエリザベス王女と結婚すべきだと勧めた。すなわちこの敵同士の縁組によって、赤薔薇と白薔薇との宿命的な薔薇戦争が終結する、と。すべての実質的なことが協議された。ブリタニーからやって来るヘンリーの期日と、イングランドの様々な場所における反リチャード決起とが同時刻に調整された。十月のその日、反乱はおこなわれた。しかしながら不成功に終わった。リチャードは準備していたのである。ヘンリーは嵐で海に押し戻されてしまった。イングランドの彼の支援者たちは散りぢりにされた。バッキンガム公爵は捕らえられ、ただちにソールズベリーの市場の広場で斬首された。 (つづく)【山田註】1)バッキンガム公爵ヘンリーはリチャード3世の政権樹立に貢献した。後に、ここに書かれているように、反乱を起こす。2)ロンドン等に幽閉された二人の王子とは、リチャードの兄、イングランド王エドワード4世の息子で王位を継承したエドワード5世とその弟リチャード・オブ・シュルーズベリーである。したがってふたりはリチャード3世の甥にあたる。リチャード3世は兄エドワード4世に忠誠を誓い、兄の死後幼いエドワード5世が王位に即くとその摂政となった。しかしその権力を手中にするや故兄王の王妃一派を捕らえて粛正し、エドワード5世と弟王子をも塔に幽閉、3ヶ月後にエドワード5世の王位の正当性を否定する議会に推挙されて自ら王位に即いた。
Aug 1, 2013
コメント(0)
昨年の8月、イングランド中部のレスターの駐車場の地下を発掘していたレスター大学の遺跡研究チームが、一体の完全な人骨を発見した。精査の結果、今年の2月、それがリチャード3世( Richard III, 1452年10月2日 - 1485年8月22日 ; 在位1483-1485)の遺骨であることが判明した。遺骨のDNAと、リチャード3世の姉の子孫になる人のDNAが一致したのである。遺骨には大きな特徴があった。脊柱側彎曲症が歴然としてい、また頭骨にも、剣か斧によって殺害されたと歴史が伝えるとおりの損傷痕があった。脊柱側彎曲症については、シェイクスピアの戯曲『リチャード3世の悲劇』に描写されていたのであるが、これまではその特徴がシェイクスピアの創作ではないかと言われてきた。リチャード3世の身体的な特徴を描写した信頼すべき史料がないからだった(後註)。それが遺骨発見によって、シェイクスピアの描写が事実であったことが逆証明されたというオマケが付いた。 この発掘についてのレスター大学の発表は、次のサイトで見ることができる。The Search for King Richard III - The Scientific Outcome【註】後世のリチャード3世の身体的な特徴は、シェイクスピアの描写を踏襲するか、少なからず影響されているらしい。ちなみに19世紀のディッケンズ(1812-1870)の『イングランド史』では、次のように描写されている。[although he was a clever man, fair of speech, and not ill-looking, in spite of one of his shoulders being something higher than the other.](彼は如才ない男で、弁舌さわやか、醜い容貌ではなかったが、両肩の一方がいくらか高かった。) ところで、そのシェイクスピアによるリチャード3世の身体的特徴「脊柱側彎曲症」であるが、現在までにそれを証明する史料が発見されていないのなら、シェイクスピアはどこで知り得たのであろう。戯曲『リチャード3世の悲劇』が初演されたのは1591年で、リチャード3世の死からおよそ100年後のことである。100年なら、まだ古老からの聞き伝えが其処此処に残っていたかもしれない。しかし、それならばなおのこと、なぜ史料には現れないのか。シェイクスピアに関わることについて本家本元のイギリスにおける探索研究は微に入り細に入り膨大なものだ。その網の目から洩れるような史料があろうとは到底思えない。 「シェイクスピアのインフォーメーション・ソースは何だ?」・・・私の素朴な疑問である。 シェイクスピアのリチャード3世は、野心のある役者ならハムレットとともに演じてみたいキャラクターにちがいない。身体障害のために歩くさへ不自由であるばかりか、容貌は醜く、陰険狡猾、人に好かれない、しかしながら弁舌さわやか。また一方で、善政を布いたとも言われる。不自由な身体をものともせず、率先して戦場に出、戦死した。イギリス史上、戦死した王はたった3人しかいないが、その一人がリチャード3世なのである。まことに一筋縄ではゆかない複雑怪奇な人格。役者に挑戦状をつきつけているようなキャラクターである。 日本でもしばしば上演されているが、BBC制作のものがYouTubeで全編観ることができる。RICHARD III 再び、ところで、だ。 きょうのCNNによれば、上述のレスター遺跡を継続発掘していたレスター大学の研究者たちが、同じ場所から新たな石棺を発掘した。その石棺、蓋を開けると、中に、鉛でできた別の棺が入れ子状に納められていた。鉛の穴から覗くと足が見えるのだという。リチャード3世よりも100年ほど前のものと推測されるが、人物はまだ特定されていない。これから鉛の蓋を開けるために棺の状態等を慎重に調査するそうだ。CNN.co.jp : リチャード3世の埋葬地で謎の2重棺が出土 英
Jul 31, 2013
コメント(0)
29日の朝日新聞と毎日新聞が、大変興味深い考古学上の発見記事を掲載していた。エチオピアのコンソ遺跡で、日本・エチオピア合同調査隊が175万年前の世界最古の「握り斧」などの加工された石器を発見したというもの。 同じ遺跡の約100万年にわたる地層から多数の石器が発見され、いわば各地層の年代毎にどのように技術が発展してきたかを証す貴重な発見という。 今回見つかった約350点の石器のうち約50点は、175万年前のホモ・ハビリスからホモ・エレクトスに移行する初期原人が登場した時期につくられたもので、もっとも新しいものはそれより約100万年後の地層から出土。すなわち175万年前から85万年前にいたる各年代の石器というわけである。 残年ながらここに写真を掲載できないが、175万年前の石器の加工は粗いが、85万年前のものはより綿密に計算されて薄く左右対象になるよう作られている。石を欠く技術が目にも明らかに次第に進歩しているのである。東京大学総合研究所博物館の諏訪教授は、初期原人からより進んだ認知能力の獲得へつながっていったと考えられる、と述べている。 ところで私が関心をひかれたのは、石の粗い加工から一層緻密な加工技術を獲得するまで、100万年かかっているという事に対してである。 100万年! にわかには信じられない年月だ。無からひとつの発見、・・・道具を使うという発見をするまで、おそらく気の遠くなるような時間を要したであろうことは、まァ、想像できる。その道具を、つまり自然石を、割り欠いて新たな段階に進むまでにも甚大な時間が必要であっただろうことも想像できる。いや、できるとしよう。しかし、石を割り欠くと一層利便性が増すと認識した知能が、次の段階に技術を発展させるために100万年という時間が必要だろうか? はしなくも映画『2001年宇宙への旅』の冒頭シーンを想いだす。猿人が他の動物の骨を道具として使いだす、あの印象的なシーンである。この猿人たちがホモ・エレクトス(立原人)に生物的進化をとげるまでに何万年も何十万年もかかったであろうことは理解しよう。そして、私はここでひとつの実例を思い出す。道具を使う野生の猿がいるという報告だ。TVドキュメンタリーで実際に撮影された映像がしばしば流されている。杖を使って川を渡る猿。あるいは石を使って固い木の実を割って食べる猿。その振り上げて落とす石の選択性と、台が何度も使用されてきたために摩滅してうまい具合の受け皿になっていることも指摘しなければならない。さらに親猿のその技術を、子猿がじっと見て、何度も失敗を繰り返したあげく、ついに石で木の実を割る技術を獲得するということ。どうやら群のなかでその技術は親から子へと、継承されているのである。 われら近・現代人は、技術革新の時代を生きている。その革新のスピードはもの狂おしいほどだ。 航空機の歴史は、レオナルド・ダ・ヴィンチのパリ手稿に実現へのプロセスの第一歩がうかがえる。人間はおそらく大昔から鳥のように空を飛ぶ夢を見てきたにちがいない。男性なら経験あろうが、睡眠中の性夢にはしばしば飛行がともなう。男性能力が空中を自在に飛行するというイメージに転化するのであろう。レオナルドは、鳥人間を夢想したり、コウモリの羽を模した布製の翼を考案した。いまならさしずめオートジャイロと言うべき飛行船の図を描き、人力飛行機の設計図を描いた。パリ手稿は1490年前後から1500頃までのノートである。 フランスのフェリックス・デュ・タンブル(1823-1890)が航空機の設計で特許をとったのが1857年。人類史上最初といわれる単葉機による動力飛行が1874年。ドイツのオットー・リリエンタール(1848-1896)が『飛行技術の基礎としての鳥の飛翔』を著したのが1889年。ベルリン近郊の丘で飛行実験を開始したのが1891年。実験飛行中に墜落して死亡したのは1896年。 アメリカのウィルバー(1867-1912)とオーヴィル(1871-1948)のライト兄弟は、1900年から1901年にかけてグライダーを設計するも揚力を得られずに失敗。そして2年後の1903年12月17日、ノースカロライナ州のキティホークはキルビルヒルズで世界初の有人飛行に成功した。1回目の飛行が12秒間、120フィート(約4m)、4回目が59秒間、852フィート(約27m)。 レオナルド・ダ・ヴィンチの夢想からこの時まで400年が経っている。そしてライト兄弟の初フライトから今年の12月でちょうど110年である。この時間を長いとみるか短いとみるか。 時まさに今、航空機はステルスだオスプレイだ、はたまたボーイング787と問題は次々出ているが、技術的な発展のめざましさに否やを言う人はいないだろう。 かくして私はもういちど初期原人の石器加工の技術の進捗にもどるけれど、粗い加工から綿密な計算のもとに作られたことを伺わせる薄い刃の石斧にいたるまで100万年を要した、という考古学者の意見には、まだストーンと胸に落ちてくる得心がないのである。【関連報道】朝日新聞 世界最古175万年前の「握りおの」 エチオピアで発見 2013年1月30日2時31分神戸新聞 最古級、原人の石おの発見 エチオピアで175万年前 2013/1/29 05:00
Jan 30, 2013
コメント(0)
毎日新聞が、平家物語に登場し、後白川法皇の側近として平氏打倒の陰謀事件(鹿ヶ谷事件)に加わったとして流罪となった俊寛僧都の自筆書状を、東京大学史料編纂所の尾上陽介准教授(古記録学)が発見したと報じている。 俊寛の鬼界島流罪は、能や歌舞伎に脚色され、現代でも演じられる人気演目。さきごろ亡くなられた中村勘三郎さんの代表的な外題だった。 また井上靖の小説『後白河院』もある。しかし実在した俊寛の自筆書簡がみつかったのは初めてとのこと。 「先に読みたる巻物を、また引き開き同じ跡を、繰り返し繰り返し、見れども見れども、ただ成経康頼(なりつね・やすより)と、書きたるその名ばかりなり、もしも礼紙(らいし)にやあるらんと、巻き返して見れども、僧都とも俊寛とも、書ける文字はさらになし、こは夢かさても夢ならば、覚めよ覚めよと現なき、俊寛が有様を、見るこそあはれなりけれ・・・」 謡曲『俊寛』から、鬼界が島に都よりもたらされた赦免状に、自分の名前がないことを知る俊寛の驚愕の場面である。 このたび発見された手紙は1168~69年のものとほぼ断定できるようだ。「鹿ヶ谷事件」とは別ながら、まさか844年後に、自筆の署名が世に出ようとは想いもしなかったであろう。 中村勘三郎さんがこのことを知ったなら興奮したのじゃないかしら。毎日新聞 俊寛:自筆書状を初確認 デジタル化で署名「読めた」 2013年01月26日 15時00分(最終更新 01月26日 15時39分)
Jan 26, 2013
コメント(0)
きのうの日記で述べた会津若松の藩校「日新館」の天文台跡の昭和33年当時の写真をご覧ください。私が中学1年生のときに、自分のカメラで撮影したものです。桜が咲いていますので、4月頃、たぶん入学直後に撮影したのでしょう。学校の正門がまさにこの手前にあり、正門あたりから撮ったのだと思います。現在は、桜も松もみな引き抜かれて、石垣だけになっています。 ちなみに江戸時代末期において、天文台が存在した藩はごく少数でした。たしか三、四。会津藩は子弟教育に非常に力を入れていたのですが、戊辰戦争において官軍から見ていわば賊軍となって敗れ、領地を没収されて無一物となった士分および領民は悲惨な境遇に置かれました。そこから這い上がるために、「学問」への志向は一層めざましいものとなり、その気風は現在に受け継がれています。『八重の桜』の主人公、山本八重、後の新島襄の夫人新島八重もそういう気風のなかにあった女性だったと言えます。
Jan 23, 2013
コメント(4)
約束があって午前中に外出した。随分早く到着したので、近くの高幡不動を散策した。 金剛寺境内から不動ヶ丘の山中に入る。四国八十八カ所を招来した巡礼コースをたどりながら、鎌倉時代の高幡城址まで登った。山頂が平坦になっていて、その昔、高幡城という山城があった場所といわれている。今は、鬱蒼とした木立があるばかりで、遺構が存在するわけではない。 高幡城址をはじめ、この一帯は、八王子城址、滝山城址、浄福寺城址(案下城址)、小田野城、初澤城址、片倉城址、平山城址、平山北城址など、鎌倉時代には多くの小城があった。なかには物見櫓程度のものもあったようだが、鎌倉時代後期には後北条氏の領地であったこともあり、武蔵野と鎌倉とを結ぶ要所だった。 なるほど今でも高幡城址に立てば、周囲360度を一望できるのである。 朝、8時半、すでにリュックを背負ったハイカーも山道を登っていた。いたって静かな林のなかで私は、小さな地蔵尊像をたどるように小1時間散策した。梅雨どきには山紫陽花が群生することで有名なのだが、いまはツユクサやヌスビトハギ、それにマンジュシャゲがところどころに咲いているばかり。道には松ボックリがたくさん落ちていた。 ところで、私はふと奇妙なものに目をとめたのである。 初め、遠くから、梅の実の大きさの真っ赤に熟した木の実に、白いキノコが寄生しているのだと思った。赤い実は、虫に食われたかのように穴が開いていた。私はその赤い実が何であるかが気になり、また、その実からゾックリ茎を出したキノコの正体も気になった。で、近づいて、手に取った。 「???・・・なんだこりゃ?」 赤い実と思ったのは、キノコのカサだった。虫食いの穴から内側が見え、キノコの茎がカサに付いていた。それでは白いキノコと思ったのは・・・これもキノコだった。赤いカサの内側から出た茎が白いカサの内側にしっかりくっついて、つまり一体化している。が、白いカサの内側にはキノコ特有のヒダがないことから、どうやらこの白いカサは、赤いキノコの茎を保護する外套のようであった。 初めて見るキノコだった。私は大きな樫の枯れ葉を拾ってキノコをそっと包み、こわれないように胸のポケットに入れた。帰宅してから調べようと思って。 約束の用事をすませて急いで帰宅し、手持ちの図鑑を開いた。 私が所持している菌類図鑑は、保育社『標準原色図鑑全集14; 菌類』、 "A colour guide to familiar MUSHROOMS" By Dr. Mirko Svrček、および牧野富太郎『新日本植物圖鑑』である。 しかしいずれにも該当するキノコはみつからなかった。 ただ、根元の白い部分は、菌壷といわれるものであろうことが分かった。どんなキノコにもあるのではないが、「すっぽんたけ科」や「かごたけ科」、そして「まつたけ科」の「たまごてんぐたけ」(毒キノコ)にみられる「脚包」と呼ばれるものが、それらしかった。 赤いカサのキノコ本体は、「アカヤマタケ」あるいは「トガリベニヤマタケ」かと思われるが、カサの形状に関する記述からすると、断定はしかねる。 「アカヤマタケ」「トガリベニヤマタケ」はその名にも示されているように、円錐状のとがったカサをしている。成長が進むと開くということだが、私が採集してきたキノコのカサは、写真で示したように、全然とがってはいない。むしろ丸みを帯びた鳥卵状である。また「アカヤマタケ」「トガリベニヤマタケ」が、菌壷、ないし脚包をもっているかどうかも図鑑には説明がない。ただしカサは、触れると表面がやや粘液状でベタ付く、というのは同様である。 残念ながら、いまのところ、このキノコがなんであるかの判断は保留である。 ともかく画像をご覧いただこう。
Oct 5, 2012
コメント(0)
きのうの朝日新聞に「あっ、そうだったのか」と、60年後にして知らされた小さな囲み記事があった。 春には北へ、秋には南へ渡りをすることで知られているアサギマダラという蝶がいる。世界的にはカナダあたりから遙か南米メキシコまで3,000キロの渡りをするオオカバマダラが有名だが、アサギマダラは、日本で唯一の渡り蝶である。 そのアサギマダラが、渡りの途中に長野県大町市の古川孝雄さん宅のフジバカマ畑に立ち寄っている、というのである。 私が60年後に知ったというのは、じつは小学1年生のときに、このアサギマダラを長野県南佐久郡川上村で採集しているからだ。昆虫少年だった私にとって、それが最初で最後のアサギマダラとの出会いだった。おそらく私は、渡りの季節に、渡りの通り路で出会ったのだろう。 当時、アサギマダラが渡り蝶であることは蝶類学会でも知られていなかった。私が小学生時代から使っている保育社の横山光夫著『原色日本蝶類図鑑』(この図鑑は知る人ぞ知る名著である)には次のように記述されている。 「九州から北海道まで全土に分布するが、南方系のもので本種のように北部の寒冷地にまで棲息するものはきわめて珍しく他にあまり例をみない。(中略)かつて筆者が支那海の中央を航行中、船上に舞いおりたこの蝶を見たが、東京や大阪の都心でも度々見受けられて話題となっている。(後略)」 この記述は、アサギマダラが渡りをする蝶であることが知られていなかったことを示している。ちなみに、オオカバマダラの渡りについては、この図鑑はその旨の記述がある。 私は、いまでも採集したときの光景を周囲の景色ともども目に浮かべることができる。しかし、その影像はいわばフレームの端がぼやけていて、川上村のどこであったかを特定することはできない。なにしろ植物や蝶を探して、一人で村のあちらこちらを歩き回っていたのだったから・・・ 資料保存箱をさがせば、60年後の現在でも、その標本はある。そして、添付ラベルには採集日付と場所が記録されているはずだが・・・。
Sep 29, 2012
コメント(0)
蒸し暑い一日だった。午前0時を過ぎた今も、暑気はおさまらない。長い手紙を書いて、さきほど投函してきた。夜気が湿っていた。 老母の遺品のなかに、母の高等女学校一年生のときの歴史教科書がみつかった。大正13年に改訂版が執筆され、昭和5年(1930年)に文部省検定済となっている。82年前の教科書だ。裏表紙に、ペンで、一年一組として母の名前が記されていた。 「女子用国史」とあるから、別に「男子用」があったのだろう。教育の主旨が異なっていたようだ。著者の識辞に、「婦徳の修養に資せしめんことを期した」とある。歴史学が科学よりはいささか恣意的なものであったことが窺える。 もっとも、現代の文部科学省の方針も、こと日本史に関するかぎり、あまり科学的とは言えない。誰のために為すことか知らぬが、ご都合主義であることを恥じる様子も無い。大学の史学科の学生が、あきれるような見解を得々と話すのを聞いたことがある。我国に科学的な史学が育つのはいつのことやら・・・と、私は思ったことだ。
Jul 4, 2012
コメント(2)
東京(関東一円)では173年ぶりという金環日食を観て、次の機会は300年後。東京在住者としては千載一遇のチャンスだったわけだ。しかもまさにゴールド・リングが完成したときに雲が晴れた。 朝、登校する子供たちが、「金環食、金環食」と言いながら通りを走ってゆくのが聞えていた。学校で観察することになっていたのかもしれない。いつもより登校時間が早かった。子供を送り出した母親たちが、そのまま通りで立ち話しながら日食を待っていたようだ。いざ金環食になったとたん,2,3の違った場所から母親たちの歓声が聞えた。「見える見える。すごいすごい」 食は9時2分に終った。 ところで、ひきつづき6月6日の朝方、こんどは金星が太陽面を通過するのが見られる。黒い芥子粒のような点が、太陽の左上部から右斜め下にむかって通過して行くはずだ。太陽と金星と地球が一直線上にならぶのである。 2012年6月6日のこの天体ショーを、遥か昔、マヤの天文学者たちが予測していた。彼らの天文学、おそるべし。地球滅亡などという愚言も呈するが、そういう人心攪乱の(政治的)予言を別にすれば、マヤ文明の真摯な観察を積み重ねたうえでの天文知識の高度さ正確さは、現代のそれに匹敵するほどである。 日本の天照大神の天の岩戸隠れの神話は、私見によれば日食、それも金環食の解釈である。すなわち太陽信仰のなかの一つのエピソードである。 日食メガネは捨てずに取っておき、6月6日の天体ショーに使うことにしよう。 閑話休題。 八百屋の店先に、小振りの朝掘り筍が、3本くらいずつまとめてパックして売っていた。今年最後の朝掘りだという。買って来て、筍御飯をつくり、仏前にそなえた。父の位牌のそばに母の位牌がならんだ。法名はそれぞれ、「蓮生院釋顕月」「光徳院釋尼恵心」という。
May 21, 2012
コメント(0)
きたる5月21日に日本の各地、広範囲で見ることができる金環食が話題になっている。 それもそのはずで、十年に一回、ないし数十年に一回の割合でしか起らない金環食、日本にいながらにして見られるのはきわめて限られている。前回は、1987年9月23日に沖縄で見ることができた。次回は、2030年6月1日に、北海道で見ることができる。 私のように東京在住者にとっては、なんと173年ぶり。次に東京で見ることができるのは、ちょうど300年後の2312年4月8日である。データによれば、西暦になってから、そして今後1,000年の間、すなわち3,000年間に現在のこの東京なる地で金環食が観測された(される)のは、わずか8回なのだそうだ。5月21日の金環食が話題になるのもむべなるかなである。 この日、もっとも完全なリングが観測できるのは静岡県。午前7時32分14秒。 東京は午前7時34分33秒。埼玉、午前7時34分48秒。水戸、午前7時36分23秒。 鹿児島や高知の方々は午前7時22分、大阪の方は午前7時29分には観測用眼鏡を着用して天をあおいでください。わずか数十秒後にその地でもっとも美しい状態が過ぎてゆきます。
Apr 24, 2012
コメント(0)
きたる4月24日は、植物学者牧野富太郎博士(1862-1957)の誕生日、今年は生誕150年にあたる。 私の座右の書の一冊が、『牧野 新日本植物圖鑑』(MAKINO'S New ILLUSTRATED FLORA OF JAPAN)。3896種の植物を収録する。そのうちのおよそ半数に近い1500種以上が牧野博士の命名。驚異である。 私は、子供時代、山野を巡って蝶や植物を採集し、標本をつくることに明け暮れていた。現在でもそのごく一部を保存している。そんなわけで、牧野博士は敬愛してやまぬ植物学者だった。 現在、東京・練馬区にある旧牧野邸の牧野記念庭園記念館で、生誕150周年の記念展示がおこなわれている。入場は無料。6月17日まで。
Apr 21, 2012
コメント(0)
聖ヴァレンタインの日である。 この日にチョコレートを贈り女性から男性に愛の告白をするという習慣は、私の若い頃にはなかったので、あまりピンと来ないのだが、それでも66歳のお爺ちゃんもチョコレートを贈られることがないわけではない。 ところで、聖ヴァレンタインの頭蓋骨が、ローマのサンタ・マリア・イン・コスメディン教会に祀られているのをご存知の人も多いかもしれない。 この教会の歴史は複雑で古い。それについては措いておこう。しかし、じつは誰でもご存知の教会なのだ。 映画『ローマの休日』でオードリー・ヘップバーンとグレゴリー・ペックが手をいれて遊ぶ「真実の口」。あれはこの教会の正面外壁にある彫刻である。 聖ヴァレンタインの頭蓋骨は、正面祭壇の左側の祭壇に、ちょっと変った櫃(ケース)に納められて祀られている。頭蓋骨の頂が花々で飾られているのは、「愛の聖人」信仰のあらわれかもしれない。 その画像をご覧いただきましょう。
Feb 14, 2012
コメント(2)
夢日記を書くほど自分の夢に関心があるわけではない。フロイトの夢分析も、10代20代の頃は興味をもってその著作を次々に読んだが、当方が年齢を重ねるにしたがってフロイト理論をさほど信用しなくなった。なるほど若い頃の夢は、自分の性体験や願望とかなり緊密に結びついていると思われなくもなかった。しかし年をとると「性」にはおさまりきらない何事かが夢に表現されていると感じるようになった。そしてその程度には関心をもって、特に頻繁に見る光景ないし風景については、このブログでもときどき書いてきた。 ところで、ついさきほど(14:07)、asahi.comが「夢が撮られちゃう?! 米研究員ら、脳活動から映像復元」と題して、カリフォルニア大学バークリー校の西本伸志氏の研究グループが、夢で見たことを映像として再現できるかもしれないと発表したと報じている。 その映像は同大学のニュース・センターにアクセスして見ることができる。 脳が記憶している画像を映像として取り出せるかどうかという研究は非常に興味深いが、インターネットで公開されている映像を見るかぎり、少なくとも現段階では私はなんとも言いかねる。 夢はおぼろげのようではあるが、私の場合、おそらく意識が細部を認識しようとしているのであろうとき、夢の中で私の目は対象に非常に接近(ズーム・イン)しているのを感じる。夢の中で、目を皿のようにして対象にぐいぐい押し付けている感覚である。・・・私はこれまで「夢日記」と称する著作物をいくつか読んで来た。たとえば『明恵上人夢記』であるとか、『正木ひろし 夢日記』などである。しかし、そのいずれの著作にも、夢の内容は記述されているが、私のように対象の細部を見ようとして目を押し付ける感覚、夢の中で目をズーム・インさせる感覚について記述しているものを読んだことがない。・・・それはともかく、私の夢の画像は、かならずしもおぼろげではないのだ。 西本氏等の研究は、まだ始まったばかりなのかもしれない。しかし私にはなんとなくそのコンピューター・プログラミングのアイデア・・・「人が動画を見ている時の血流の変化などの脳活動を記録し、血流の状態と映像との関係をモデル化して、1800万秒(5千時間)の動画を組み合わせて復元する」・・・に誤りがあるような気がする。 つまり、人間の「個」を一般化してモデル化できるのか、という疑問である。このアイデの根底には「夢占い」と同様の通俗性が初めから横たわっていはしないか。いかにも科学的なようでいて、根本の提示ないし定義に何かしらの錯誤があって、科学的と思っていることが疑似科学でしかない、というような・・・。 私のこの疑問は、西本氏等の研究に対する否定から発しているものではない。というのは、過日、荒俣宏氏との対談でも話したことだが、私の幻想画の研究は、私の作品を見た人から「あなたは、なぜ、私の見た夢を描くのか」と詰問されたことに始まるからだ。見知らぬ人の夢を、私は自分の画想として共有したのだろうか? 「個」を超越する「夢の原型」のようなイメージが存在するのだろうか? たとえばユングの説のように。・・・この私の問いに、もしもYesなら、西本氏のように複雑な個を無視したモデル化も可能だろうからだ。 というわけで、asahi.comの伝える「夢が撮られちゃう?! 米研究員ら、脳活動から映像復元」に注目したのである。 UC BERKELEY News Center"Scientists use brain imaging to reveal the movies in our mind"
Oct 2, 2011
コメント(2)
イスラエル博物館が所蔵する『死海写本』が、同博物館とグーグルとの共同によってグーグル検索でネットで一般公開されている。非常に良くできたシステムで、超高解像度画像で巻物を順を追って見られ、拡大もできる。また、ポインターを文書上に置くと、その部分が英訳される。日本語には対応していないが、英訳から日本語訳にすることが可能になった。 「死海写本」は1947年に死海の北側クムラルの洞窟から発見された古写本で、その後、数回にわたって近辺の洞窟から発見され、紀元前125年から紀元55年頃までに巻物の形態で書かれた旧約聖書の断片。 現在公開されている巻物はオリジナル7巻のうち次の5巻。(カッコ内の日本語はとりあえずの山田訳) ◎Great Isaiah Scroll(大イザヤ書巻)・・・全長734cm ◎Temple Scroll(神殿書巻) ◎War Scroll(戦争書巻) ◎Community Rule Scroll(共同体規則書巻) ◎Commentary on the Habakkuk Scroll(ハバクク書注解巻)〈ディジタル死海写本〉へのアクセスは次のとおり。 The Digital Dead Sea Scrolls
Sep 28, 2011
コメント(0)
すばらし眺めだ。我が家の小庭で三種類のアゲハチョウが同時に舞っている。アオスジアゲハ、キアゲハ、クロアゲハである。いずれもやや小振りなのは秋型だから。 我が家の庭に毎年アゲハが舞うのは、食樹・産卵樹となるユズがあるためだろう。しかし、今日のように三種が同時に舞っているのは見たことがない。初めて見る光景である。おそらく羽化して間もないのであろう、翅に傷みがまったくない。元気な美しい飛翔だ。
Sep 17, 2011
コメント(0)
最も地球に似た太陽系外惑星の発見を毎日jpのナショナルジオグラフィックニュースが伝えている。 地球から36光年離れた場所にあるHD85512bと呼ばれる惑星が、それ。チリにあるヨーロッパ南天天文台の高精度視線速度系外惑星探査装置(High Accuracy Radial Velocity Planet Searcher)によって発見されたという。表面部に液体の水が存在する可能性が高く、したがって水を存在の必須条件とするわれわれが知る形態の生命体が存在する可能性もある。 ただし、現在の観測機器では、36光年彼方にある惑星の大気の組成を測定することはできない。もちろん有人宇宙飛行の現在の能力の限界も超えていて、人類がこの惑星に降り立つことはできない。 しかし、なんとも楽しいニュースではある。 ちなみにHD85512bに関するオリジナル論文 "A Habitable Planet around HD 85512?" が、コーネル大学図書館のWebサイトで公開されている。
Aug 31, 2011
コメント(0)
ニューヨークのリバティー島に立つ自由の女神像は、フランスより寄贈されて今年で125年になる。 自由の女神は、2001年の同時多発テロ後、長らく閉鎖され、2年前に再び一般に開放された。CNNによれば、昨日、合衆国サラザール内務長官が、女神像の一般開放は10月までとし、以後、隣のエリス島の移民局博物館とともに1年間かけて改修工事に入ると告示した。 女神像の内部は周知のように頭頂の宝冠の展望室までエレベーターと螺旋階段で登ってゆける。その部分が一層安全にすべく改修され、また台座内部の展示室に多方からアクセスできるようにするようだ。 ところでこの自由の女神像(正式には、世界を照らす自由の女神)は、ギュスト・バルトルディの120cm丈の彫刻をもとに、1884年、パリのガジェット・ゴーティエー工房で制作された。鉄骨を組み300枚の銅板をかぶせボルトで留めている。銅板打ち出しの方法は、本来の鋳造方法より軽量で制作費用も安いからだった。内部の鉄骨構造は、エッフエル塔の設計工事をしたギュスターヴ・エッフェルの会社、エッフェル社が設計製作した。 女神像はばらばらにされて214の木箱に詰められ、蒸気帆船イゼーレ号でアメリカに運ばれた。 アメリカでは1886年に大々的な祝賀会が催された。しかし、ギュスターヴ・エッフェルはいささかガッカリしたらしい。女神の内部の鉄骨構造の美しさに誰も注目しなかったからだ。 「よし、それなら・・・」とばかり発奮して次に設計をしたのが、あのパリはシャン・ド・マルス公園北端のセーヌ河畔に建造されたエッフェル塔であった(と、まあ、言われています)。 エッフェル塔は、フランス革命100周年記念パリ万国博覧会のモニュメントとして設計コンペティションの優勝作として建造された。エッフェルの設計と一般に言われることがあるが、事実はエッフェル社のモーリス・ケクランとエミーユ・ヌーギエが設計し、ギュスターヴ・エッフェルはいわば総合ディレクターであった。自由の女神像が製作された同じ1884年9月に、3人の名前でエッヘル塔の鉄骨構造に関する新案特許を登録している。そして、新時代の象徴として1887年に着工し、1889年3月に竣工した。自由の女神像とまったく時を接して建造されたのである。 ところでギュスターヴ・エッフェルが自由の女神の真の美しさは内部にありと自負したその内部を、私はかつて写真に撮影している。ずいぶん以前にこのブログで紹介したことがあるが(Feb 24, 2006)、ことのついでに再び掲載してみよう。(1)私が所蔵する‘SCIENTIFIC AMERICAN’1885年6月13日号の復刻版に自由の女神建造の様子がリポートされ、内部の鉄骨構造がイラストレートされている。参考までに。(2)女神の衣服の裏側。部分分割して銅板を打ち出し接合していることが良く分る。(3)台座内部はエレベーターが通じ、像の中は螺旋階段が頭部まで。(4)同上。‘サイエンテフィック・アメリカン’の図を参照。(5)頭部の冠の内部。展望台になっていて、頭のてっぺんに電球が1個。(6)おまけ。台座の内部の展示室廊下、鋳造模型の女神の鼻穴に頭をつっこんで、子供たちが遊んでいた。
Aug 12, 2011
コメント(2)
今朝、6時半に老母の経管栄養を点滴で入れながら、そのベッドのかたわらで横になって、昨日書いたマダラチョウの数万キロの大移動のことを想った。この大移住は、冬の季節を温暖な霧につつまれた森で過ごすためである。一本の樹木の葉叢のなかに数万、数十万のマダラチョウが折り重なるように止まり、そのまま次の季節の到来を待つ。おそらく大群で身体を寄せ合うことで体温の低下を防いでいるのであろう。 そんなことを想っているうちに、ふと、安西冬衛の有名な一行詩を思い出した。 てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った。 「てふてふ」という旧かな使いが蝶々そのものをイメージさせ、またその音声的な面白さ。韃靼海峡という字面と、ここにも音声的な面白さ。かなの優しさに対する漢字の堅さ、非情さ。それらがストレートに絵になって記憶に焼き付く。けだし、「詩」であり、名詩と評されるゆえんである。 そして不意に、私が小学1年生のときに、初めてシャクトリムシを見つけたときのことを思い出した。長野県の川上第二小学校の校庭。雲梯(うんてい)のそばの木の枝に、それは、いた。・・・58年も昔のことだ。いままで一度も思い出したことはなかったが、いま、ありありと映像が浮かんできた。ゆっくりゆっくりからだを「くの字」に曲げながら枝の上を這ってゆく一匹のシャクトリムシ・・・
Aug 8, 2011
コメント(0)
昨日書いた伯父のもとを訪れた「小さい人たち」について、伯父の日常がいかにしっかりしたものであったにしろ、認知症の症状にすぎないと一刀両断にすることはたやすい。それですめば、私はなにも伯父の恥をさらす必要はなかった。 私が興味をもったのは、それがたとえ幻覚にしろ、日本古来の伝承ないし説話に登場する「小さ神」あるいは「小さ子」の系譜に思いをいたすからである。伯父の見ていたモノが、「小さ神」や「小さ子」だというつもりはない。しかし、そのような系譜につらなるような「イメージ」を、自らの末期をまぢかにして、日常的に「見ていた」ということに関心を抱かない訳にはゆかないのである。 「小さ神」とは、粟の穂に飛ばされて常世の国に行った少彦名神(すくなひこなのかみ)のこと。奈良県桜井市三輪の大神神社(おおみわじんじゃ)に祀られている。この「小さ神」は、民間説話のなかの、たとえば日本霊異記に出て来る道場法師や、下って御伽草子のなかの一寸法師のルーツと考えられている。すなわち「小さ子」である。一寸法師、踵太郎(あくとたろう)、豆助、五分太郎・次郎、一寸小太郎。それらはみな「小さ子」である。さらにその類縁にあるのが、桃太郎であり、瓜子姫であり、かぐや姫である。 これらについて詳しくのべる余裕はない。ちなみに、集英社文庫【荒俣宏コレクション】のなかの『短編小説集』は、荒俣氏の唯一の短編小説集であるが、このなかの『福子妖異録』は「小さ子」に材をとったもの。おそらく荒俣氏は、御伽噺こそ小説のルーツと考えて、この短編集によって御伽噺の復権をめざしているのであろう。私の好きな荒俣小説だ。 「小さ子」は、私見によれば、江戸時代になって一層俗化し(あるいは逆説的に聖化して、とも言えるが)、子供の姿から大人の姿である「豆男」として、性愛現場の目撃者となる。もともと「小さ子」は善悪併せ持つ、・・・あるいは優しさと残虐さを併せ持つ、あるいは両性具有的な存在である。ジョルジュ・バタイユではないが、エロスを「死にいたる生の高揚」ととらえれば、大人のすがたなのに豆粒みたいな「豆男」が、性愛現場に入り込んで生の高揚の営みの目撃者になったとしても一向に不思議ではない。 さて、私はもうすこし伯父の様子を書いておく。伯父が見ていた「小さい人たち」は、服装などは「唐子(からこ)」のようであったらしい。伯父のもとを訪れて遊んでいたけれど、伯父はその様子を嬉しそうに眺めていただけであり、一緒に遊んでいたわけではない。まるで縁先に小鳥が来て遊ぶのを眺めるように、見ていたのだ。「よくおいでなさった、よくおいでなさった」と。僧侶らしい居ずまいで。・・・この姿を、家人たちは、ボケてしまったとは誰も思っていない。自分たちに見えないモノを見ているとは思っても。このことは書いておくべきだろう。 人間とは、げに面白きかな、である。
Jun 7, 2011
コメント(3)
午前9時にすませた老母の訪問入浴は、端午の節句にちなんでの菖蒲湯。その清々しい香りを、はたして本人は楽しんだかどうか。 菖蒲湯の発祥がいつの頃かは明確でないが、古来、サトイモ科のこの植物の根茎を乾燥させて健胃薬として用い、また葉とともに身体を温めるのに用いられた。江戸時代、江戸の湯屋(銭湯)はみな、端午の日には菖蒲湯と称して、浴槽に菖蒲を入れた。菖蒲酒を酌み、柏餅、粽を食って、佳節をめでた。 昔、私が子供の頃は我が家でもやっていたことだが、軒端に菖蒲を蓬とともに差して飾りもした。この風習も、「我国久しきならはし也」と古書にある。どうやら菖蒲が水辺に生えるため、陰陽五行による「五月は午の月、南方離火の時也」で、水草で火気を祓ったのらしい。「端午」、すなわち午の月の端緒。 端午の節句は、また、男の子の節句。「菖蒲」に「勝負」を掛けて、子供の遊びにも菖蒲が大活躍した。長い葉を頭に鉢巻きし、葉を差して立て、兜に見立てた。「菖蒲兜」と云い、現在の甲冑人形の原型といわれている。さらに長い葉は刀になった。「菖蒲太刀」である。家の床の間にも太く反りかえった木刀が飾られ、これをも「菖蒲太刀」と称した。武に秀でた男になる祈願であるが、同時に、私は、男根象徴であると推測している。 これらは五月人形飾りとして現在に引き継がれているが、すでに姿を消したと思われる端午の節句の子供の遊びに、「印地打(いんじうち)」がある。「国史大辞典」に詳しく述べられているので、興味のある方はそちらを参照していただくとして、「印地打」は、すなわち「石打ち」から転じたらしい。河原に集まった子供たちが二手に分かれて、小石を投げて合戦をするのである。雪合戦ならぬ、礫(つぶて)合戦だ。子供はみな腰に菖蒲太刀をさして戦う。現在の親たちなら青ざめてしまうであろう、いとも乱暴な遊びである。 石打は『平家物語』や『義経記』にも出てくる。『保元物語』には「八丁礫の喜平治」なる人物が登場する。喜平治の投げる礫は驚異的な飛距離を誇ったのであろう。元来「石打」は、れっきとした軍の武器、武術だったのである。おそらく武器の発達にともない、石を投げ合うのは子供の遊びになっていったのであろう。 そういえば、映画『無法松の一生』(稲垣浩監督、1943年版・阪東妻三郎主演、1958年版・三船敏郎主演)のなかに、提灯行列にまぎれて学生が河原で喧嘩するシーンがあったことを思い出す。この喧嘩、どうも「印地打」の伝統があった頃の変化形のような気がする。 鈴木清順監督の『けんかえれじい』(1966年、高橋英樹主演)にも、学校対立の旧制中学生の喧嘩のシーンがある。というより、映画タイトルが示すように、喧嘩に明け暮れる青春物語。ここにも「印地打」の遠いこだまが聞こえる。 ちなみに、『無法松の一生』の1943年版で少年の役を演じたのは長門裕之氏である。また、『けんかえれじい』の舞台は、会津喜多方である。北一輝が出てきたりするが、喜多方中学(現・喜多方高校)と会津中学(現・会津高校。私の母校)と解される。もちろん楽しい「ふぃくしょん」である。
May 4, 2011
コメント(0)
きょうは温かい一日だった。積っていた雪もほとんど溶けて消えた。猫達は日溜まりが嬉しそうだ。 私は、時間をみつけては、図像学関係の収集資料の整理。原資料からコンピューターでスキャンして、説明文を書き込み、プリント・アウトする。プリントは現状で200点ほどになる予定。まだ30点あまり。 作業をしながら、全体を見通す精神史・哲学史を頭のなかでつづってゆく。やっかいであり、また面白くもあるのが、オーソドックス(正統派)から、はみでる図像だ。はみでている部分の意味と、何故そこにそういうものが出現したかを、歴史を背景に、当方の知識を総動員して読み解いてゆく。・・・そこが、面白い。何年も何年も経って、はっ、と気づくこともある。ユリーカ!である。
Feb 13, 2011
コメント(0)
朝日新聞夕刊に、幕末の会津藩および庄内藩に関する、驚きの記事が出ている。 渡辺延志記者によれば、「戊辰戦争での薩摩・長州を中心とした新政府軍との対決を目前に、会津・庄内両藩がプロイセン(ドイツ)との提携を模索していたことが東京大史料編纂所の箱石大・准教授らの研究で明らかになった。ドイツの文書館で確認した資料は、両藩が北海道などの領地の譲渡を提案したが、宰相ビスマルクは戦争への中立などを理由に断ったことを伝えていた。」と。 確認された文書は1868年(明治元年)の文書3点。 1は、7月31日付、駐日代理公使フォン・ブラントがビスマルクに宛てたもの。会津・庄内藩から日本海側の領地売却の相談を受けた、という内容。 2は、10月8日付、ビスマルクからフォン・ローン海相宛。他国の不信や妬みをかうことになるので却下の意向を伝え、海相の意向を尋ねている。 3は、10月18日付、海相からビスマルク宰相宛の返書。 両藩が売却を申し出た北海道の領地とは、幕府が北方警備強化のために1859年に東北有力6藩に与えたもので、会津藩は根室、紋別などを領有し、庄内藩は留萌や天塩を領有していた。両藩は対薩長で同盟関係にあった。 両藩がプロイセンに上記の件を打診した時期、新政府軍と幕府側との戦争はいよいよ東北での戦いに移るところだった。「両藩は武器入手のルートや資金の確保を目指したとみられる」と、渡辺記者は書いているが、そのとおりであろう。この交渉は不調におわったわけだが、会津藩の敗因のひとつに銃の旧式だったことが言われて来たので、もしも(歴史に「もしも」はないのだが)、プロイセンと提携が成立して新式の銃が入手できていたなら、あの戊辰の戦はちがう方向になっていたかもしれない。 ・・・それにしても、今回新発見された事実は、日本側にはまったく知られてなかったことだけに、追い詰められた会津・庄内両藩が国際関係にその打開策をもとめて行動を起していたということと合わせて、驚きである。幕末の気風は、いささか見直す必要がでてきたのではあるまいか。
Feb 5, 2011
コメント(0)
双子座流星群、さきほどベランダに出て夜空を見上げたが、厚い雲におおわれていた。夕方5時頃には、半月が雲間隠れに見えていたので、あるいはと期待していたのだが・・・ 私が双子座流星群にこだわるのは、・・・こだわると言うほど大袈裟な心情ではないが・・・この「遊卵画廊」にいささかの関係がある。 双子座というのは、地球から見ると2月下旬頃に天空のほぼ真上に二つの星が並んで輝いている。一等星であるアルファ星カストールとベータ星ポリュデウケース(ポルックス)である。この名はギリシャ神話の神々の王ゼウスとスパルタ王テュンダレオスの妻レダとのあいだに生まれた双子の息子たちに由来する。ゼウスは白鳥に化身してレダとまじわったのだった。この神話が、ヨーロッパ美術史において「レダと白鳥」というテーマで長らく多くの画家たちの関心をひきつけてきた。私は、卵から生まれた双子をそれぞれの画家がどのように作品のなかで扱っているかに興味をもち、調べてきた。その概説は、この「遊卵画廊」のフリーページの論文室に『卵の象徴と図像』として掲載している。 レダと白鳥の神話では、じつはレダは2個の卵を産んでいて、一つの卵からはカストールとポリュデウケースが生まれ「和」を象徴し、もう一つの卵からはやはり双子のヘレネーとクリュタイメーストラーが生まれ「不和」を象徴している。美術史でこの神話がテーマとなった思想的背景は、拙論をお読みいただくとして・・・こうして書きながら窓から夜空をながめると、さきほどまでの曇り空はうそのように晴れ、月が輝き、星も輝いている。・・・ちょっとベランダに出てみましょう。 見えます、見えます。流星が東の空に飛んでいますよ! 今すぐ御覧になってください。15分くらいはじっと辛抱して夜空を見ていてくださいネ!
Dec 14, 2010
コメント(0)
全76件 (76件中 1-50件目)