フィギュアスケート 0
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山田維史
May 3, 2024
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今日の国際ニュースから2件。 1)スイスの年配婦人約2,000人が、スイス政府が気候変動対策を怠ったために健康や生活の質が低下し、命の危険にさらされているとして欧州人権裁判所(ECHR)に提訴していた裁判で、欧州人権裁判所(ECHR)は、スイス政府が気候変動に対する適切な対応を怠ったことは人権侵害にあたるという判決をくだした。 この判決はスイス政府のみに適応されるが、欧州人権裁判所には他にも同種の訴訟があげられており、このたびのスイス政府に対する判決が、他の訴訟に影響をおよぼす可能性がある、と報道されている。 気候変動問題が人権がらみであるという判断は、もっともなことながら、非常に先鋭な思想であると私は思う。欧州人権裁判所の判決に瞠目した。 2)チェチェン共和国が実に奇怪な禁止令を出した。すべての音楽や歌、ならびにダンス曲のテンポ(速度)を制限したという。1分あたり80拍〜116拍でなければならず、それよりも速くてもダメ、遅くてもダメ。その理由は、チェチェン人の心と音楽のリズムが1分あたり80拍〜116拍だからだそうだ。 要するにロックやテクノポップスなどを禁止するためなのかもしれないが、他国のこととは言え、なんともアホらしい。行き過ぎた民族主義は、文化や芸術を狭い檻に閉じ込めるのである。 他国のことと私は言ったが、いやいや他国のことではない、我が日本にもこういう偏狭な民族主義者はいる。アホな政治屋はいる。要するに無教養な愛国主義者である。・・・ああ、思い出した。もう40年くらい昔になるだろうか、ある大新聞系列の民放ラジオが、いわゆる洋楽を排除して和楽ばかりを放送する方針を実行した。論評なども愛国主義者、民族主義者のみが代わる代わる出演していた。 聴取者をあなどっていたのだろう、その連中が言論人としてどんな発言をし、どんな本を書いているか、代わり番こに出演させれば放送がプロパガンダであることに気づかれないだろうと考えたに違いなかった。おあいにくさま、視聴者は敏感なのだ。朝から晩まで洋楽が放送されないことを気づかないはずはなかろう。 アホが文化を操作しようとしても、長続きはしないものだ。文化の命は一人の人間の寿命より長いということを知りたまえ。
Apr 9, 2024
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【4月4日】 岡口基一・仙台高裁判事が訴追されたSNSへの投稿について殺人事件をめぐる9件のうち7件は、度重なる投稿で被害遺族に苦痛を与え続けたとして、国民の信託を受けた裁判官にあるまじき「非行」として、不服申し立てができない弾劾裁判において判事罷免の判決があった。昨日の判決が出るまで1年間を要した。 弾劾裁判で裁判官の役を担う裁判員は衆参国会議員14人で構成される。その裁判員3分の2以上の賛成で罷免される。 ところで今回の弾劾裁判の報道を見ると、朝日新聞(4月4日朝刊、遠藤隆史記者)は次のように報じている。重要な点なのでそのまま引用させてもらう。 〈岡口氏は裁判の途中で、10年ごとにある裁判官の再任を希望しないと表明。罷免されなくても今月12日の任期満了で退官することになっていた。判決は、こうした点を踏まえ「罷免には疑問が残る」などの少数意見があった、とした。〉 私が呆れたのは、この「少数意見」に対してである。この意見を提出した裁判員が誰であるかは不明だが、この人たちは弾劾裁判の「本義」を完全に誤解している。誤解というより、理解していない。 弾劾裁判は「辞職」勧告ではないのである。この判決は在任中の言動に対するいわば処罰であって、裁判官としての名誉を剥奪するか否かの問題である。したがって、当人が再任を希望しないとか、任期満了を控えているなどということは、なんら無関係である。そんなことは一切考慮する必要がない。判事として国民の信託に反する非行があったか否かを綿密な証拠をもって審議すればよいのである。これが弾劾裁判の「本義」である。 今回裁判員となった衆参国会議員の幾人かから提出された「少数意見」は、まったくトンチンカンな意見。程度が低いのは判事連中ばかりではないことは、私は常々思っていたが、弾劾裁判という重大な場でここまでアホなことを言う国会議員がいるとは、・・・この国、危ないよ。
Apr 4, 2024
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岡口基一・仙台高裁判事が弾劾裁判によって罷免になった。 当然だろうね。近頃の判事連中は程度が低いからねー。
Apr 3, 2024
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注目すべき報道が毎日新聞に出た。鎌倉市の鶴岡八幡宮が、全国各地の神社を包括する宗教法人神社本庁から離脱する方針を固めた。宗教法人法に基づき境内に告示されたという。 神社本庁は鶴岡八幡宮からの通知書を受け取ったが、離脱の理由は明記されていなかった。 これですぐに離脱が決定したわけではなく、今後、神奈川県知事の認証が必要であるため、正式な離脱までには尚時間を要するとのこと。 離脱理由があきらかではないので、様子見ということになるが、私個人は離脱に賛成である。私はいかなる宗教もまったく信仰しないので、鶴岡八幡宮に対する私の賛意は、神社本庁の水面下での政治的な動静を憂えてのことだ。神社本庁の動静とは、すなわち民主主義にもとづく国際平和を謳う現行の日本国憲法を破棄して、天皇を頂く富国強兵男尊女卑の明治憲法への回帰を本意とする団体の一員としての活動である。この団体は安倍政権内の政策研究会と強く結ばれていることが知られている。安倍晋三は祖父岸信介の意志を受け継ぎ、虚仮(こけ)の一念で日本を軍国主義国家にしようとしていた男だ。 鶴岡八幡宮が神社本庁から離脱を決めた意図は不明だ。その意図にあらたな危険な政治目的がないことを、私は願うばかりである。下の画像は、15歳の中学生だった私の手帳に書かれた岸信介氏の署名。私は「怪物」に会いに行ったのだ。警護の人たちが私を捕えた。岸氏が「坊やを放しなさい」と言った。首相を辞任して半年後の1960年12月のことだった。
Mar 12, 2024
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全作品 山田維史All art works by Tadami Yamada
Mar 6, 2024
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日本の宇宙航空研究開発機構(JAXA)は、昨年9月に打ち上げた月探査機「SLIM(スリム)」が本日20日未明、月面の想定地点に、(おそらく)ピンポイントで軟着陸したと発表した。日本としては初めての月面着陸という快挙である。機体の状況を示す通信がSLIMから送られてきているという。ただし太陽電池パネルは太陽光をとらえていず、現在送られてくる信号は搭載したバッテリーの電力によるもので、このままだと電池はまもなく消耗してしまう。 太陽電池パネルが太陽光をとらえていないのは、JAXAによれば太陽がSLIMの「想定外」の方向にあるためだという。 「想定外」! 何が起こるかわからないのが宇宙探査飛行ではある。その関係諸問題についてまったく無知な私でも、何が起こるかわからないところで行われている研究でありアクションであることは十分承知している。しかしながら、それだからこそ、いとも気軽に発言される「想定外」という言葉・・・その認識のありように、私は一種の恐怖を感じる。 これまで人類を月に運び、帰還させ、あるいは宇宙船に長期滞在させ、それも無事に帰還させたり要員交代をしてきた。もちろん人命を失う痛ましい事故も経験してきたうえでのことながら、これらの業績に「想定外」という言葉がはたして許されていただろうか? たかが・・・と言ってはいけないが、しかしやはり想定した月地点にピンポイントで着陸した探査機が、「たかが」太陽光の向きをとらえることができない。それを「想定外」といい、月面軟着陸したがその成功は「60%」などと発言する。謙虚な発言ではない。透けて見えるのは気取りだ。 日本の原子力関係者にしろ、他の科学的な研究者や高度技術者にしろ、コロナウィルス禍における関係省庁や医者にしろ、じつに恥ずかしげもなく「想定外」と言う。それですべての過誤や責任が免除されると思ってはいまいか。事態の対処法としての失敗をその言葉で決着しようとしているのではないか。・・・起こった事態の説明としてその言葉を聞いた多くの人は、ほとんど口にこそ出してはいないが、「想定外」と言う言葉の真意を「無能力」と感じているかもしれない。その口に出さない反応を、発言当事者は知っているのか? あるいは、私はこうも考える。自らの無能、シミュレーション能力の欠如を隠蔽する、また、糊塗する「想定外」という言葉が、日本社会のなかで「文化」になっているのではないか。シミュレーション能力の欠如は、太平洋戦争時の軍部の政策・戦略に顕著にみられたことだ。それは「貧すれば鈍する」の謂いそのものに発したことであったかもしれないが、物事を直視して未来を想定する社会科学の能力に徹底的に欠けていたからである。その能力を日本社会は養成してこなかったのだ。「想定」あるいは「シミュレーション」というのは、それを行う人の能力内にほぼ限定されるからで、要は既得能力とその発展的洞察力の問題なのだ。・・・もし「想定外」という言葉が日本社会のなかで「文化」になっているとしたら、我々は容易にその文化から抜け出せはすまい。
Jan 20, 2024
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2024年元旦は、大変な災害に見舞われて幕を開けた。一刻も早い国家的な救助と復興を願う。今後も十分な注意が必要であるが、私は確かな報道機関の情報を取得するだけにする。いくつかの気がついたことがあるけれども、私自身はあえて発言しない。このような重大事に、軽薄な言動や流言飛語をもてあそんで喜ぶ品性下劣な奴らが必ずいるからだ。
Jan 3, 2024
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明治欽定憲法(大日本帝国憲法;旧憲法)のもとで戦争暴力に明け暮れていた日本は、1941年12月8日、結果としてこれが最後となる戦争暴力の総仕上げ、太平洋戦争へ突き進んだ。今日はその開戦から82年目である。 豊臣秀吉による朝鮮侵略以後、日本は他国を敵に回して戦争をすることはなかった。その間、国内は必ずしも万民平安というわけではなかった。良政が布かれていたわけではなかった。しかしながら、世界史の視点では、他国と戦火をまじえることがなかった実にめずらしい国であった。 明治維新によって幕藩体制は完全に崩壊したが、それは封建的な社会が崩壊してまったく新しい日本が誕生したことは意味していない。世界に伍すように制定された憲法は、主権を天皇に置き(立憲君主制)、すなわち立法権は天皇にあり、国民は天皇の臣民と規定されて見せかけの自由のかげで拘束された。 そこからの日本は、富国強兵・国威発揚を掲げて戦争暴力の世紀へと突き進んだ。その歩みは、プロパガンダと欺瞞と陰謀と脅迫と死の受容と・・・あらゆる手段を使って国民を暴力装置の(いくらでも取り替えのきく)歯車となし、1945年8月15日までつづいたのであった。 1941年12月8日から1945年8月15日までの、日本人の戦死者および犠牲死者、約300万人。それ以前にすでに戦死者の数は縷縷として横たわっていた。 日本の20世紀の前半は暴力の季節であった。その季節をまるでなかったかのように、歴史を修正しようとやっきになっている者たちは、実は今にあとを絶たない。修正といえば本来は正しく修めることであるが、「歴史修正主義」というのは学問ならざる自己中心的な一種の狂気である。それはきわめて心理的な主張であるため、狂気と評するのは間違いではない。 歴史修正主義の彼ら/彼女らは、上述したような事実を直視する人たちを指して「自虐的」と攻撃する。狂者が発する言葉がまさに精神病理学的な「自虐」という言葉であるのは興味深くもあり、また滑稽でもある。しかし、事実を見極める態度・思考は自虐とは違う。逆である。歴史修正主義者の事実を見極めることをしない方法論、自他を公平な視点でとらえて利益の公平なパラダイム理論をめざさない議論は、両者に禍根を残すばかりだ。その禍根は長期に渡り、世代を超えるため、結果としてそれこそ「自虐」に堕ちるのである。端的に言えば、歴史修正主義は自虐的な史観なのだ。 現在、日本国憲法の改正について取りざたされている。戦争放棄を宣言した第9条が、改正の主眼とされているようだが、改正論者の狙いはそれではない。彼らの言う自主憲法の制定とは、君主制の元での明治憲法(後註)の復活である。じつは彼らは「明治憲法」の復活をめざしているのだ。意外と思われる人がいるかもしれないが、事実である。その団体や関連組織、関係者等の実名はここに挙げないが、大変巧みな手段を使って、いわゆる草の根運動の手法で全国に勢力を広げている。安倍政権の政策研究のなかで「明治憲法」実現が模索されていた。閣僚は全員、その実現を目指す団体に名を連ね、彼らによって支持されていた。現に、いまも。 私は、何にも属さない。必ずしもあらゆるる事柄に中立ではないが、自由を束縛されそうな社会の進み行きや、戦争志向のうさんくさい思考には反対する。 暴力装置として機能した明治憲法の復活は断固l拒絶する。「臣民」だと? 無礼な!【註】 明治欽定憲法(明治22年(1889)2月11日〜昭和21年(1947)11月2日)の骨格をなす思想はおおよそ次の通り1)神国思想に覆われた天皇主権(立憲絶対君主制)2)軍国主義(国民の個としての尊厳を閑却した「醜(しこ)の御盾(みたて):国民は天皇を守る盾である」という思想が発生してくる)3)国家緊急事態条項(天皇を総帥とする軍がすべての権限を掌握し、国民の日常生活に深く介入し、その言動を規制して馴致させる)4)男性中心の家父長家族制度(女性蔑視。女性は男性にかしずき子を産む道具という思想)5)教育勅語(天皇の名による上の1、2、3、4を徹底する臣民教育) ◉ 現・憲法改正において緊急事態条項を盛り込めば、戦争放棄の第9条をあえて議論する必要はなくなることに注意すべきである。参考:映画「人間の条件 第1部」 原作は五味川純平の同名小説。著者は自身の体験(戦争、入隊、軍隊生活、捕虜)を基に本作を書いた。 On December 8, Japan, which had been devoted to war violence under the Meiji EmperorConstitution, rushed forward to the Pacific War, the final final act of violence. Today marks the 82nd anniversary of start of the war. After Toyotomi Hideyoshi’s invasion of Korea,Japan never went to war against other countries. During that time, Japan was not necessarily at peace for all people. It was not as if good govern-ment was in place. However, from the perspective of world history, it was a truly rare country that never engaged in war with other countries. Although the Meiji Restoration completely mean Japan was born. The Constitution, which was a enacted to be on par with the world’s best, placed sovereignty in the Emperor ( constitutional monarchy), that is, the legislative power rested with the Emperor, and the people were defined as the Emperor’s subjects and were restrained under the guise of freedom. From then on, Japan pushed forward into a century of war and violence with the goal of enhancing its national prestige. This process continued until August 15, 1945, with propaganda, deception, conspiracies, threats, acceptance of death, and the use of all means to turn the people into (replaceable) cogs of the machine of violence. From December 8, 1941 to August 15, 1945, approximately 3 million Japanese people died in battle and sacrificed. Even before that, the numberof war dead had already fallen. The first half of the 20th century in Japan was a season of violence. In fact, there is no end to those who are bent on revising history as if the season never happened. Revision is essentially about cultivating things correctly, but “historical revision-ism” is not academic, but a kind of self-centered madness. It is a very psychological claim, so it is not wrong to call it madness. Those who are historical revisionists attack people who directly face the above-mentioned facts,calling them “masochistic.” It is both interesting andhumorous that the words uttered by a madman are precisely the psychopathological word “masochism.”However, the attitude and thinking of determining thefacts is different from self-deprecation (masochistic). Historical revisionists’ methodologies that do not assess the facts, and arguments that do not aim at aparadigm theory that views self and others from an impartial perspective and are fair in their interests, willonly cause trouble for both parties. Because the root cause of this misfortune is long-term and transcends generations, the result is “masochism.” Simply put, historical revisionism is a self-deprecating view of history. Currently, there is talk of amending the Japanese Constitution. Article 9, which declares the renunciationof war, seems to be the focus of the revision, but that isnot what revisionists are aiming for. The establishment of an independent constitution, they say, is a restorationof the Meiji Constitution* under the monarchy system. In fact, they are aiming to restore the “Meiji Constitution.” This may seem surprising to some, but it is true. I won’t mention the actual name of the groups, related organi-zations, and people involved here, but they are using very clever means to spread their influence across the country through the so-called grassroots movement method. The Abe administration’s policy research soughtto realize the “Meiji Constitution.” All of the ministers weremembers of, and supported by, organizations aiming tomake this happen. Actually, even now. I don’t belong to anything. Although I am not neces-sarily neutral in all matters. I am opposed to the prog-ress of society that threatens to restrict freedom and tosuspicious thoughts that are war-oriented. I firmly reject the restoration of the Meiji Constitution,which functioned as a violent device. What about “subjects”? Rude!【* note】The basic ideas of the Meiji Eperor Constitution are roughly as follows:1) Emperor's sovereignty covered by divine country ideology (constitutional absolute monarchy)2) Militarism (The idea that the people are a shield to protect the emperor, which ignores the dignity of the people as individuals, emerges.3) National emergency clause (the military seizes all authority, deeply intervenes in the daily lives of the people, and regulates their speech and behavior to make them conform)4) Male-centered patriarchal family system (disdain for women; the idea that women are tools for men to give birth to children)5) Imperial Rescript on Education (subject education that thoroughly implements 1, 2, 3and 4 above) ◉ It should be noted that if the current constitutionamendment includes a state of emergency clause, there will beno need to discuss Article 9, which renounces war.Tadami Yamada
Dec 8, 2023
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昨年7月の参院選挙における「一票の格差」が最大3.03倍であったことで、投票価値の平等を求める憲法に違反しているとして提訴された訴訟は、このブログで昨日書いたように、「合憲」とする判決が下された。 本日、報道各社はその詳細を報じている。私はその報道に接して、昨日疑問を呈したように、最高裁の判決論理はやはりおかしいと思わざるをえない。憲法に規定された条項に照らして「合憲」か「違憲」を争う訴訟において、判決理由にいわゆる「情状酌量」が入り込むことなどあり得ないはずだ。しかるに今回の(今後の判例となる)合憲判決理由には、まぎれもない「情状酌量」が入っている。 以下に、朝日新聞2023年10月19日朝刊の遠藤隆史氏の記事の後半部分を、少し長くなるが引用させてもらう。朝日新聞と遠藤氏、どうかお許しください。〈 (判決は)15年の公職選挙法改正で二つの選挙区を一つにする「合区」が2カ所で実施され、格差は5倍から3倍程度に縮み、「拡大傾向にあるとも言えない」とした。 大法廷は合区について「対象4県で投票率の低下や無効投票率の上昇が見られるなど、有権者に都道府県ごとに地域の実情に通じた国会議員を選出するとの考えがなお強いことがうかがわれる」と言及。さらなる選挙制度の見直しには一定の時間が必要と述べた。 こうした経緯を踏まえ、国会が改革の議論を続けつつ、合区を維持していることを考慮すれば、22年選挙は「違憲とは言えない」と結論づけた。ただ、「格差の更なる是正は喫緊の課題だ」とも付言し、「根本的な見直しも含めた方策」の検討を求めた。(以下略) 〉 さらに同じ紙面の磯部佳孝氏の記事の冒頭を引用させていただく。〈最高裁の合憲判決に、参院の選挙制度を協議してきた与野党から安堵の声があがった。自民党の世耕弘成参院幹事長は18日、記者団に「難しい議論だということを(最高裁は)よくご理解をいただいている」と語った。〉 この二つの記事から解ることは、なるほど最高裁の判決理由の文章は、あちらを立てたり、こちらを立てたり、苦心の跡がうかがわれる。オツムの良さがあらわれている。だが、YesでもないしNoでもないが、あらかじめ用意した「合憲」への導入のためには、それは「情状酌量」以外の何物でもなかろう。そのことは自民党の世耕氏が記者団に語った言葉に反映している。最高裁大法廷の判決は、憲法に規定された条項に照らしての判断から微妙にズレている、と私は思う。そのズレが、最高裁が今後の国会の選挙制度改革を「監視」することを意味するのかどうか。一旦「判例」をつくってしまった後で、国会に対する是正勧告が強くはたらくかどうか。・・・私は大いに疑問視する。
Oct 19, 2023
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日本国憲法は投票価値の平等を求めている。しかしながら過去の国政選挙においてその平等が実現したことはほとんどない。一票の格差が1972年の衆議院選挙では最大4.987倍に広がり、1992年の参議院選挙で最大6.586倍に広がった。この不平等な結果について選挙無効を求める訴訟が何度か起こされ、1972年12月の衆議院選については初めて最高裁の違憲判決が出た。しかしながら、(私は論理的に理解に苦しむのだが)選挙自体は有効としたのだった。 ことほどさように、これまでの「一票の格差」訴訟において、「違憲状態」「違憲」と判決が出たにもかかわらず最高裁によって選挙自体は有効とされたため、選挙がやり直しになったことは一度もない。 そして、「違憲状態」「違憲」となった場合、国会は即座に選挙制度の改革に取り組まなければならない義務と責任が生じる。つまり、国会に生じる義務と責任は、選挙民人口の移動と増減により選挙制度を絶えず見直してゆかなければならないことを意味している。だが、「違憲状態」「違憲」の判決にもかかわらず、この最高裁の(まことに奇怪な)「選挙自体は有効」というお墨付きに甘んじて、国会は本気で取り組んできたことはない。憲法の番人であるはずの最高裁は、法治国家日本の社会存立の根幹の枠組みである憲法の、その憲法が唱う「投票価値の平等」を実現するための誰しもが有無を言うことない論理的な判決を下していない、ということであろう。最高裁よ、それは何故だ? 国会は(私が思うに)少なくとも国勢調査が行われる5年に一度は、選挙制度を合理的に見直すべきで、そのように立法すべきなのだ。 さらに合わせて、なぜ国会議員たちは現行選挙制度の改革を進めることを渋るのかを、考えてみるべきであろう。改革を渋るのは、何故だ? 「一票の格差」問題を深く追求することで、憲法をお題目としか考えない、日本の三権の異常性が見えてくるかもしれない。 さて、以上は前置きである。 昨年7月の参議院選は一票の格差が最大で3.03倍だったとして提訴されていた。その最高裁判決が本日2023年10月18日に下された。「合憲」であると。 判決理由は明日報道されるであろう。はたして読むに耐えるものであるかどうか。最高裁判事たちのオツムの程度を疑わなくてよいものかどうか。あるいは最高裁判事の地位にあぐらをかいて、病んでいるかもしれない心性を、疑わなくてよいものかどうかを。【参考】日本大百科全書「一票の格差」小学館・矢野武朝日新聞「最高裁大法廷判決」10月18日
Oct 18, 2023
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明治神宮外苑地区の再開発という名目のもとに、美しい歴史的景観をたもってきた多数の樹木が伐採されようとしている。この計画には多数の批判があり、樹木伐採に反対の意見も多い。しかし再開発事業者(三井不動産、明治神宮、日本スポーツ振興センター、伊藤忠)は、聞く耳をもたない。新宿区はほとんど能天気に、そして東京都はいじましいくらいこそこそと、この再開発事業をバックアップしている。まさに虚仮の一念で計画実現に邁進しているのである。 神域を荒らすこの計画に明治神宮が参画しているのだから呆れる。近頃の神職どもは金に目がくらみ、神もへったくれも無いのであろう。いったいどんな顔をさらして参詣人に対しているのやら。神職の信心のいいかげんさは明らかだ。無信仰者の私が、そのように感じるのだ。 事業者も東京都も、ラグビー場をはじめとするスポーツ施設に都民の目を誘導しようとしているようだが、再開発計画の中心はむしろ商業モール建設にあると思われる。そしてその商業モール完成予想図は、私が知ったとき、存在するにも関わらずなぜかwebサイトのPRページには掲載していなかった。 以前、私はこのブログに書いたが、商業施設というものはしょっちゅう建て替えが必要なのだ。めまぐるしい時代の流行をとりいれていかなければ、集客率が激減するからだ。現代建築は、「築く」というより「設置」あるいは包装のような「貼り付け」であるから、20年ほど経てば老朽化する。壊さなければならない。時間が蓄積した建築美は望みようもないのである (後註)。つまり神宮外苑に計画されている商業地区は、今後、果てることない騒然とした建て替えスパン(短期間)地区になるということだ。事業者にとってそんなことは問題にもならないであろう。それこそ金の湧き出る地区ということだ。この事業者にとって、100年200年、1000年の命の樹木のつくりだす景観美・・・東京という大都会のまんなかに曳えいとして静謐を保つ空間など、どうでもよいのだろう。我が身より永い先の社会や街のことなど、どうでもよいのだろう。 再々南方熊楠を引き合いに出す。 熊楠の書簡中に、二通の「神社合祀反対書簡」がある。二通ともに松村任三に当てた手紙である。松村任三(まつむらじんぞう;1856-1928)は東京帝国大学理学部植物学教授で小石川植物園の初代園長。この二通の書簡はともに大変長文であるが、「諸神社および神社趾の乱潰(らんかい)日々挙行せられおり(県郡当局者はこれを神社整理と称うれども、実は風儀破壊、神社不整理を行なうものなり)、一刻も早く少々なりともさし当たり意見を陳述すべしと存じ・・・」と起筆している。 以下実名をあげて、町の勢力家(実は巨盗:熊楠の註)、警察、神官が村や山の人々をおだてまくり、偽の書類を作成し、那智山の乱伐を策謀した事件を述べる。さらに次々と例をあげ、神主が世話人と共謀して健壮の大樟を枯れ木と称して切り倒し、根まで掘り起こして売りさばき、鬱蒼と枝葉をのばしていた大樟の樹株の下から清水が湧いてそそいでいた神池をも壊滅してしまった。美しい景観ばかりか貴重な植物群を一顧だにせずに絶滅させている、と述べている。 この南方熊楠の書簡を読んでみることを私は多くの人に勧める。 南方熊楠が和歌山県田辺湾の神島(かしま)の保全につとめ、照葉樹林が覆う神島が今に残ったことは、周知であろう。古来、神が住む島とされてきたのだったが、この島の樹木も入札により伐採の手が入っていたのだった。南方熊楠の勧告を当時の村長が理解し、すでに伐採した木の値を差し引いた約7割の金額を村議会は落札業者に返却したのである。こうして神島は保全された。 私はこの書簡を読み、今まさに明治神宮外苑でしゅったいしている樹木伐採問題に相通じると思った。事業者や自治体行政を、さすがに「巨盗」とは言わないが、文化的・歴史的景観の破壊者の汚名は被らなければならないだろう。それほど大事に保って行かなければならない樹木群のはずだ。 今日の朝日新聞朝刊に、東京都が事業者に対し樹木保全の具体策を高木の伐採開始前に示すよう事業者にもとめたと報じた。今月にも始まる予定だった伐採は、計画より遅延することになろうが、法的強制力はない。・・・つまり樹木伐採は事業者の計画通りにおこなわれる。取り返しがつかない愚かなことだ。【後註】 南方熊楠の上記書簡中に次の記述がある。おもしろいので引いておく。 「(前文略)往年チガコ出板の ‘Monist’ 紙上に、開化の定義の一として、建築が後代に永く遺り、たといその国民亡ぶるも建築が伝わるべきものにあらざれば真の開化にあらずと言いし学者ありしは、至極珍ながら欧人の気質を発揮して面白し。(略)菊池幽芳氏が書きしごとく、欧州の寺院等は建築のみ広壮で樹林池泉の助くるないから、風致ということ一向なし、というも至当の言たり。」 『南方熊楠文集 1』東洋文庫352, 339p. ヨーロッパ文化と日本文化とそれぞれの論者の説はいずれも言い得て妙、比較文化論としておもしろい。両者の論説に沿って明治神宮外苑再開発のプランを見るに、そのいずれにも当てはまらない。建築の永続性もなければ、樹林池泉の風致を壊乱するばかりだ。
Sep 14, 2023
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ああ、こういうニュースにであうと、いったい何と言ったらいいのだろう。インドの或る小学校でイスラム教徒7歳の児童に対し、子供たち全員が平手打ちをするように女性教師が指示をした。その様子を撮影し、SNSに投稿した。・・・CNNが報じ、その動画の一部分もあわせて掲載している。 CNN インドで教師がイスラム教徒児童を平手打ちするよう指示 女性教師や学校当局は、宗教差別ではないと他の理由を付けて弁明している。しかし、仮にインドの宗教人口の約80%のヒンドゥー教の児童に対して、他の子供たち全員がリンチを科すようにこの教師は指示したかどうか。 私は、このニュースにしばし言葉を失い、コメントすらできない。人間性を逸脱したこのような教師(狂師)が出現し、処罰されないこともある、とだけを確認しておこう。【後日の記】 上のニュースに接した時、じつは一つのことに気づいていた。次のようなことである。 インドではかなり頻繁に男が集団で一人の女性をレイプする事件が起こっているようだ。成人女性のみならず、年端もいかない少女も、むごたらしい犠牲になっている。あるいは一家の名誉を傷付けたとかいう名目で、父親や夫が娘や妻を殺めたり、あろうことか火を放って焼殺したりの事件もある。夫の死後、残された妻が、親族の無情さによって、焼身自殺に追い詰められた事件もあった。 根底にあるのは女性蔑視の思想であり、それが宗教教義にまぎれこんでいたり、家父長制度や社会階級制度に一体化されている。しかも集団レイプのように、一種ご都合主義的な面も垣間見られる社会意識が、社会正義の名の下に女性犠牲者を血祭りにあげていると、少なくとも私には思える。 上のニュースの小学校の女性教師は、子供を教える立場の教師としてばかりでなく、蔑視されている(あるいは蔑視されがちな)女性の立場を自らに引き受けて理解していたなら、自分が指示した学級児童集団による私刑(リンチ)が、じつはインド社会で頻発している上述の事件とまったく根を一つにすることに気づいたはずだ。 それともこの女性教師は、教師といういわばエリート性によって、男性的社会意識を自らの精神に育んでしまっていたのだろうか。 イスラム教徒の7歳の少年に対して平手打ちのリンチを加えた子供達は、やがて大人になって同様な言動を社会正義とするかもしれない。しないという保証はまったくない。そしてもし、将来、リンチに加わる場面に遭遇した時、子供の時の平手打ちにした経験が、心理的歯止めを破るモチベーションになり、かわって心理的痛みを覆い隠す「社会正義」が頭を擡げるであろう。 (9月2日 記)
Aug 29, 2023
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大阪府所蔵の美術作品105点が大阪市住之江区の咲洲庁舎の地下駐車場に置かれていることが過日わかった。私は呆れるより、どうせそんなことだと思い、関係機関・関係者連中の文化教養程度の低さに絶望的になる。 かつて安宅産業株式会社が収集した国宝2点と重要文化財12件を含む約1,000点におよぶ見事な東洋陶磁コレクションが、安宅産業の事実上の倒産により、その行方が懸念された。結局は同社の主要銀行だった住友銀行が買い取り、最終的に住友銀行は大阪市に寄贈し、現在の大阪市立東洋陶磁美術館の柱として収蔵された。じつは安宅コレクションの行方について世界が色めき立ったとき、その一部がニューヨーク・メトロポリタン美術館に展示されたのを、私はニューヨークで観ていた。見事な東洋風な会場セッティングの静謐な展覧会だった。私はコレクションをめぐる状況が如何様になっているか、もちらん知る由もなかったが、「このままメトロポリタン美術館の所有になってしまうのだろうか・・・」と、ヘンな不安感を抱いた。「ヘンな」と言うのは、「メトロポリタン美術館ならこのコレクションの安住の地になるだろう。それは不安定な日本に在るより良いかもしれない」という、アンビバレントな思いだった。 さらにもう一件。 日本がいわゆるバブル景気に沸いた時期、某社がアンゼルム・キーファーの代表的な大型作品を買い集めた。このことはあまり一般的に知られていなかった。しかし、それが一気に知られることになった。某社が破綻し、アンゼルム・キーファー作品が売却されることになったのだ。たしか売却前にある美術館で全作品の展覧会が開かれた。それはまさにキーファーの傑作揃いと言ってよかった。私は現代ドイツ表現主義を代表するアンゼルム・キーファーの作品が大量に日本国内に存在していたことに驚いた。それを収集した某社の「見識」にも驚いた・・・と言いたいところだが、この売却話によってそれが見識ではなく、文化的教養でもないことが判明したのだ。それは「投機」の対象だったのだろう。 このコレクションを一括購入したのはスイスの或る私設美術館だったはずだ。美術館オーナーは、「この傑作が二度とこの美術館から出ることはない」と言明したとか・・・ またもや私はため息だった。そして、「美術作品というものはそれを所有すべき人を知っている」と思った。 さて、冒頭の咲洲(さきしま)庁舎の地下駐車場に放置されている美術作品群だが、大阪府は今日8月18日に専門家からなる「アート作品活用・保全検討チーム」の初会合を開催した。毎日新聞が報じている。 まあ、その記事を読む限り、はっきり言ってバカ者の集まりですな。人類が4万年間、営々と美術作品を作り続けてきた、その意味を、彼らは彼らの人生で一度も考えたことがないだろう。発言の端々におのずと現れている。教養とは、そういうことだ。岡目八目、当人には分からない教養の有る無しが他人には分かるんだ。婚活だ終活だなどと言っていると、漢文の素養がないことがわかってしまうわけだ。専門家だなどと言ってとりつくろってもダメ。発する言葉がどんな芯から生まれているかということだ。 「アート作品活用・保全検討チーム」の会合で提案された美術作品のディジタル化は、単なる記録でしかない。この提案は、実物の作品はどうするかという根本問題に答えていない。ディジタル化だ、IT化だ、生成AIだ、などと老人が息巻いて推進するのは老人の口説の常。先端技術に疎いと思われたくないんだ。老人は本質に迫る老人の知恵を発揮することが社会貢献というものだろう。 ディジタル画像には作品が発光している質感(テクスチャー)が無い、人間の目の構造だけがとらえる色彩の織りなす数億の光と陰の驚異が無い、その顔料組成の化学的な知性が読み取れない、たとえ一見は2次元平面と思える作品表面のミクロ的な3次元性がない、作品に蓄積されて刻々と変化してゆく時間性がない、物としての被破壊性がない(被破壊性も作品の宿命的な性質)、人間的に淫することを受容しない(エロチックな魅力がない)・・・ディジタル画像は無いものずくしだ。要するにディジタル化が現物の美術作品に代るものではないのである。 安宅コレクションの東洋陶磁にしろアンゼルム・キーファーの作品にしろ、ディジタル画像では何ほどのことも見て取れない。私はたんなる言葉のアヤとして言っているのではない。美術作品はデジタル化などできない「物質美」なのだ。 それでは作品とは何だ? 一例をあげよう。シュルレアリストのピエール・モリニエ(Pierre Molinier, 1900-1976)は、自作油絵に或る輝きをあたえるために、自分のスペルマを絵の具に混入した。その行為が油彩化学上どのような実質的な効果があるかは不明だが(エッグ・テンペラ画の媒剤が卵であることを思えば、スペルマも同じタンパク質だけど)、作品を創作する行為とはそのような自己のやむにやまれぬ心理に起因するものであり、人類が4万年もの長きにわたって行ってきた「人間的ないとなみ」なのだ。私たちはそうした他人の営みの結果としての美術作品を「直に」観ることによって、「何事かを」感じ、何事かを会得しているのだ。それはときに鑑賞者の人生の返照となっている。 大阪府の「アート作品活用・保全検討チーム」は、たんなる野蛮な馬鹿者の集まりになってはいけない。美術作品を地下駐車場に置くことだけでも十分野蛮だ。毎日新聞記事
Aug 18, 2023
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若者が死ぬ戦争を夢見る老人のたわごとに私は飽き飽きしている。ジョージ・マクガバン(アメリカ合衆国元連邦下院議員・元連邦上院議員)
Aug 9, 2023
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長崎原爆被爆78年 暑き日やなおも焼けよと原爆の火 青穹(山田維史)山田維史/Tadami Yamada
Aug 9, 2023
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『あなたは どっちを選びますか?』『広島原爆犠牲死25万人の為の25万個の黒い点』『私は人智を信じる』 2018年4月 ニューヨーク・アートEXPO において展示『広島原爆犠牲死25万人の為の25万個の黒い点』制作過程粗いボール紙に竹ペンと墨汁で正確に25万個の点を打った。その後、直射日光に晒した。自然にひび割れができることで、私の意思による統御がおよばない状態を表現とした。さらにキャンヴァスに貼り付け、周囲を油絵の具のホワイトで平滑に3回塗重ねた。下部にグレイで英語による画題と署名をし、完全乾燥後、油絵の具を塗った部分のみを透明樹脂で加工した。死者を囲い込む、冷たい、つるりとした人工的な純粋性を象徴するためである。ニューヨークでの観客『レッド・アラート』山田維史/ Tadami Yamada
Aug 6, 2023
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CNNが伝えるところ、ペンス前副大統領は、2020年米大統領選の結果を覆す試みについて捜査する特別検察官がトランプ前大統領を起訴したことを受けて、自らの認識を示した。その見解のなかで、私は次の発言に注目した。それは米国のみならず、我が日本においても、国政を担う最高権力者の重大なるポジションを明示しているからである。ペンス前米副大統領は、こう述べた。 「自らを憲法の上に位置付ける者は決して、米国の大統領になるべきではない」 「自らを憲法の上に位置付けるよう他人に要請する者も決して、大統領に再任されてはならない」(CNN 2023.08.03 Thu posted at 09:36 JST より) 上の言葉の米国を日本におきかえて、私たちはこの指摘を受け止めなければならない。なぜなら、このところの日本の代々の首相は独善的に軽々と憲法を無視し、その言動は、「この人は憲法の何たるかに全く無知なのではないか?」と、まさかの疑念をいだかせるからである。しかもそのありうべからざる首相の言動を、一般国民のみならず司法も法学者も、ほとんど痴呆のように受け流している現状だ。いったいこの国はどうなっているんだ? まるで近代以前のようではないか。 他国の前副大統領の指摘に、我が日本の首相の資質を重ねなければならないのは、いかにも残念だ。しかしながら、憲法を無視する重大違反者をポカンと見ているわけにはいかないのだ。 Former Vice President Pence has made his mark aftera special counsel investigating an attempt to overturnthe outcome of the 2020 U.S. presidential electionindicated former President Trump, CNN reprt. In Pence'sview, I noted the following statement: This is because,not only in the United States, but also in Japan, it clearly indicates the important position of the supreme power who is in charge of national affaird. Former US Vice President Pence said: "Anyone who puts himself above the Constitutionshould never become president of the United States." "Anyone who asks others to place themselves abovethe Constitution must never be reappointed to thepresidency." (From CNN 2023.08.03 Thu posted at09:36 JST) We must accept this point by substing "Japan" for the the word "United States" in the above. This is becauserecent Japanese prime ministers have selfishly consid-ered themselves to be correct and disrespected theconstitution, and their words and actions made methink, "Isn't this person completely ignorant of whatthe constitution is? " Moreover, not only the publicbut also the judiciary and legal scholars are almost blinded by the Prime Minister's policies that ignore theConstitution, which should not be allowed. What the hell is going on in this country? " Sounds pre-modern,doesn't it? It is truly a pity that the qualities of our Japaneseprime minister have to be superimosed on thosepointed out by the former vice president of othercountry. However, we cannot look down on seriousviolators who ignore the Constitution. Tadami Yamada
Aug 3, 2023
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「虚仮の一念」とは、言うまでもないとは思うが、愚か者がみずからの愚かな主張に気づかずに無理やり押し通すことだ。あるいは、愚かさや判断ミスに気がついても自尊心や私利私欲のために他の意見を拒否して主張を押し通す。あるいは詭弁を弄したり詐術を用いたり更なる愚かな画策を付加する。・・・これらの所業はみな「虚仮の一念」である。 さて、岸田政権はまさに「虚仮の一念」の政治と私は言おう。 マイナンバーカードをめぐる諸々の良からぬ問題の発生とそれへの対応は、マイナンバーカードという制度のそもそも人間性否定的であることを考察をすることなく、前方に据えた軽薄な決定論を後追いで制度化しようとしている。 この制度は哲学的には人倫に反する問題を含んでいる。尊厳ある個人に番号をつけること・・・姓名を剥いで、焼印を押すのと変わりない制度を発想する精神と思考の歪みを、私は指摘する。人間の尊厳を否定して成り立つ社会の利便性とは、いったい何だろう? 先日、岸田首相はマスコミの記者から自身はマイナンバーカードを持っているかと質問され、「ノーコメント」と答えた。語るに落ちたとはこのことだ。持っているなら、「持っている」と応えてそれで済むはずだ。マイナンバーカード制度の推進者として当然、そう答えなければならなかったはずだ。 この記者会見のほんの短いやりとりが意味したことは、権力を振るう岸田氏のいいかげんさと、この制度自体に現時点のみならず将来的にも危険をはらんでいることの明証にほかならない。 いま問題となっている健康保険証の廃止政策に関しては、国民皆保険制度のもとで利用者層をきわめて限定的に抽出して立案してはいないか。非常にはばひろい年齢層というにとどまらず様々な病者の状況を、単純に一律化してはいないか。そして国民の健康と現実的な病態に対する重要な福祉制度を、ディジタルAIの脆弱性に全面的に託していないか。 こうした問題は、ディジタル担当大臣の沽券の問題ではない。 地方政治に目を移せば、大阪府は万博のパビリオン建設の申請が皆無で、2025年の開催までに会場建設が間に合わない事態となっているという。 この問題に対して、会場建設工事の残業規制を廃止してしまおうという企てがあるようだ。この規制法を廃止してしまえば、工事労働者を働かせたいだけ働かすことができる・・・というわけだ。残業規制廃止画策者は、稼ぎたい人は働きたいだけ働けるとする説明が予想できるが。・・・ここにも「虚仮の一念」がある。万博を決定した政治屋の沽券、あるいは利権屋の悪巧みである。あわてて行政面の帳尻合わせをするはかりごとである。 国政のみならず地方政治においても、「虚仮の一念」は願い下げにしなければならない。
Aug 1, 2023
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去る7月12日のこのブログ日記で、私は故常石敬一氏を追悼した。そして氏が歴史の闇から発掘し研究された、旧日本軍関東軍731部隊による細菌戦生体実験等の残虐行為の実態にふれた。私の書棚からご著書『消えた細菌戰部隊 関東軍731部隊』(1981) の画像を掲出した。 ところで、偶然とはいえあまりにも日にちが近いが、今朝の朝日新聞デジタル版が、〈旧日本軍731部隊の「職員表」発見 発足時の組織の姿あきらかに〉と、後藤遼太 編集委員・北野隆一記名の記事を掲載した。旧日本軍731部隊の「職員表」発見 それによれば、明治学院大学国際平和研究所の松野誠也研究員(日本近現代史)が、国立公文書館に保管されている文書のなかから、細菌戦部隊731部隊について、部隊構成、隊員名、階級などが記録された「職員表」を見つけた。 731部隊については敗戦直前に、施設(生体解剖をしたとされる実験室や死体焼却施設など)を破壊し、関連文書等も焼却され、部隊の実態について不明な点が多かった。 ペスト菌を細菌兵器として使用する人体実験も行われたといわれるが、それらのデータは終戦時にアメリカに引き渡す裏取引がおこなわれたとされ、731部隊関係者は誰一人戦争裁判にかけられていない。常石敬一氏は、ソ連人捕虜の生体実験に関して、ソ連側の裁判への日本軍関係者引き渡し要求に関する文書を、ソ連の記録に発見した。しかしこの裁判に731部隊関係者が引き渡されることはなく、結局、731部隊は歴史の闇に消えた。常石氏の著書の「消えた・・・」とあるのは、そういうことである。 さて、松野誠也氏が発見した731部隊「職員表」が、今後、多くの人たちによってどのように読み取られ、解釈されるか、私は注意していこうと思う。まさかとは思うが、日本の研究者を称する人たちのなかにはいつの時代にも「時流」におもねる御都合主義の解釈をする、そういう非科学的な、つまり学問とはいえないような「歴史研究」があるからだ。なぜそんなことがおこるのかといえば、私が観察するところ、「歴史」は、自分の手のひらの上で世界を転がしているような幻想にひたれるもののようだ。しかもその幻想は、誰でも浸れる。誰でもだ。「歴史」はエンターテイメントになる。そしてどんな幻想的な歴史解釈でも、徒党を組めば、政治的な「力」になる。その危うい政治力は、第一次資料によって証拠を積み上げてゆく科学的な歴史研究をする学者に対しては、第一線に立つことを強権によって拒む。愚か者が権力を握ると国も人心もワヤクチャとなるが、現在、日本の私たちは、さまざまな局面で危ういところに立っている、と私は思う。【付記】小説家森村誠一氏に『悪魔の飽食』(1981)、『続・悪魔の飽食』(1982) がある。この著書で731部隊の実態をあきらかにしたとされたが、『続・悪魔の飽食』に証拠として掲載された写真が、じつはまったく無関係な1912年に出版された『明治四十三年南満州「ペスト」流行誌附録写真帖』(関東郡督府臨時防疫部刊)からの流用であることが判明した。森村氏はそれを認めて公式に謝罪した。・・・ことほど左様に、優れた小説家森村誠一氏にして、自己の言説の主張のために悪魔が忍び寄ることがあるのである。
Jul 19, 2023
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深海3800mに眠るタイタニック号残骸を見るツアーの潜水艇は、深海圧力に耐えられず圧壊(水圧で潰されて破壊)し、操縦士一人と乗客4人は傷ましい死を遂げたとみられている。タイタニックの舳先からおよそ490m離れた海底で潜水艇のコーン状の後部(米沿岸警備隊スポークスマンの英語ではそのように言っていた)の残骸が発見された(日本の新聞報道では破片の一部と書いている)。また潜水艇と母船との連絡が途絶えたほぼ同時刻に、米海軍が圧壊音を検知してい、捜索チームに連絡していたという。ツアー運営会社も乗員5人への弔意を発表した。 1997年に映画『タイタニック』を制作したジェームズ・キャメロン監督は、タイタニック号沈没事故とこのツアー潜水艇タイタンの事故との共通点を次のように指摘している。 タイタニック号は航海中の前方に氷山があると何度も警告されていたにも関わらず、船長は月明かりのない暗い海を全速力で氷原に突っ込んで行った。 (一方、タイタニック残骸見学ツアーの)認証されていない潜水艇に関する警告は聞き入れられなかった(*)。(CNNに拠る)(*運営会社の従業員が潜水艇は深海4,000mの水圧に耐えられないことを会社に警告していた。この従業員は解雇された。) この二つの傷ましい事故は、所も同じ場所で起こった。そしてなんという因縁であろうか、潜水艇の操縦士の妻ウェンディー・ラッシュさんは、タイタニック号沈没で亡くなった老夫妻の子孫(玄孫)であるという。老夫妻は当時の米国小売業界の名士で米百貨店「メイシーズ」の共同オーナーのイジドー & アイダ・ストラウス夫妻。キャメロン監督『タイタニック』で、救命ボートに乗らずにベッドで抱き合って死を選んだ老夫妻のモデルなのだそうだ。英国公文書館のタイタニック関係文書によれば、実際のストラウス夫妻は、救命ボートに乗るように促されたが老人が乗るより若い人が乗った方が良いと言った。夫妻はデッキで手を固く握りあっていた姿が目撃されていた。・・・この老夫妻の玄孫(ひ孫さんの娘)が、タイタニック残骸見学ツアー潜水艇タイタンの操縦士の妻だという。 ところで私は、キャメロン監督の上述の指摘・・・タイタニック号と潜水艇との警告無視の結果の事故という共通点に、もう一件、知床半島沖観光船の沈没事故も全く同じ警告無視だったと付け加える。 2022年4月23日に起こったこの事故は、乗客乗員26名が亡くなった。そして現在もなお6名の御遺体は行方不明である。操舵していた亡くなった豊田船長は、事故のおよそ一ヶ月前に友人に当てたメッセージに、「ブラック企業で右往左往」と書いていたという。無理な出航命令や過酷な労働、さらに船の修理を頼んでも無視された、と。 これらの事件に現れているのは、経営者/指揮官あるいは自称他称の指導者の「傲慢」であり、誤った自信により「聞く耳を持たない」ことだろう。こういう人格は、破局がおとずれるまで突き進む傾向にある。その例は、上記三者に限らず、歴史にも、現代の我々の社会に、そして世界中に、擧げるにことかかない。 このたびの潜水艇事故は、限定的な傷ましい事故ではなく、広く大きな社会に共通な問題を例示していると、私は思ったのである。
Jun 23, 2023
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日本にやってきた観光客は、その多くが訪問地で経験した親切や優しさを語る。 すべての日本人が親切で優しいわけではない。現に私は、電車の中で日本人の乗客からヘイトスピーチ攻撃されている欧米系の女性を救い、さらに別の日にアジア系の女性を救ったことがある。特定の個人を標的にしていなくても、人種的偏見をぬぐいきれない日本人が集団を形成してヘイト・スピーチを繰り返しているのは、まったく稀ではない。彼らに正統な理があるわけではないのは、たとえば、コロナウィルス禍により海外からの観光客がゼロにちかいほど激減した途端に、地域経済は壊滅状態になった。理知のない人種主義のヘイト言行などしている場合ではないことを気付かなければならないのだ。 しかしながら、そのような日本の恥を晒している、井の中の蛙のような日本人が、愚かに跳梁跋扈しているにもかかわらず、日本人の無償の親切心と優しさはたしかに世界の多くの人々の意識にかたちづくられてきた。 「世界市民」として互いに手をとりあってゆく・・・「困ったときは相見互い」「あすは我身」、そんな世知を日本人は文化として育んできた。・・・はずであった。けれどもたったいま国会で成立した『入国管理難民法(改正案)』は、せっかく市民レベルで世界にアピールしてきた「外国人に対する日本人の親切と優しさ」を、完全にくつがえしてしまった。 私はいかなる政党にも組しないし、その意味ではまったく政治的人間ではない。それでも、この法案の審議過程においては、「この改正法が成立すれば難民申請者が強制送還され、投獄、拷問、虐殺されることになり、この改正法は人の命を奪う法律になるであろう」という主旨の、立憲党と共産党の反対主張は正しいと思った。他国におけることではあるが、強制送還された難民が屠殺場に送られた動物のように虐殺された事例を,私も聞いているからだ。戦争難民、政治難民、経済難民等、各人事情は違うであろうが、自国がそのような国であるからこそ難民として命からがら脱出したはずだ。しかも日本を頼ってたどりつくのは、陸つづきの周辺国へ逃れるのとは異なりその道程に一層の困難さがあるだろう。しかしながら両党の主張は、最終的には、渋々だかあっさりだか知らぬが、頽れてしまった。どうやら彼らの主張は本気で日本の「世界市民」たることの法的アピールではなく、党利党略による反対のための反対であったらしい。 この『入国管理難民法』は、国内法ではあるが、世界各国の人を相手にしているので、じつはきわめて重要な法律のひとつであるがずだ。さらでだに入国管理施設における被収容者の死亡事件はあとをたたない。人権侵害もとおりこして、まるで不作為殺人と言いたくなるような悲惨な事件がおこっている。事件がおこるたびに「今後このようなことがないようにする」とか何とか言うが、被収容者をはじめから人と思わないかのような対応をしているということは、入国管理官や諸々の関係職員の人格に深く根ざした傲慢があるからではないか。入管「常勤」の医者が勤務中に酒に酔って女性収容者を診察したなどは、呆れたではすまされない。このような勤務状態が常体化していたのではないか。そしてとりもなおさず我が立法府(国会・衆参議員)の堕落であろう。そのような人物を選出した我々日本人の堕落であろう。 私は、『入国管理難民法改正法』は、改悪されただけでなく、人種差別思想と棄民思想が潜在する人間的に堕落した法律であると思う。
Jun 9, 2023
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岸田首相に。首相秘書官というれっきとした公人だからあなたの息子について言うが、もういいかげんにこの幼稚な息子を秘書官などに据えておくのはおやめなさい。国政を担わせるために修行をさせているつもりか知らぬが、あなたの家族の問題ではありません。国民に対して無責任きわまりなく、無礼です。
May 26, 2023
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ポスター制作;山田維史
May 3, 2023
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前任の国家公安委員の二之湯氏も軽佻であったが、現職の谷国家公安委員長もオツムが軽いようだ。公安委員長とはお気軽な職なのかねー。いい部下を持つとバカをやっていられるのだね。大事への対処も口先で事がすむようだ。 首相も首相だ、こういう人物を国家公安委員に任命するということは、人を見る目がないということ。目が節穴だということだ。自分が爆殺されかねなかった折も折り、公安委員長は楽しみにしていた鰻丼に我慢ができず、職務を部下にまかせて舌鼓を打っていたというのだから、任命責任がある首相としては自業自得というところか。 いまや日本の国会議員は、国会議員じゃなくて酷怪戯淫だね。あるいは滑稽擬員か。「バカがすなる政治というものを吾もしてみんとてすなり」 『ドサ日記』奇之面諛屎(きのつらゆき)
Apr 26, 2023
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選挙応援演説に向かう首相に爆発物を投つけて逮捕された容擬者(24歳)は、依然として黙秘しているという。しかしこの男の生活環境ならびに背景を捜索した警察によると、現行の公職選挙法をめぐって提訴し、係争中であることが判明した。これには私は少し驚いた。この男は去る参議院議員選挙において立候補を申し出たが、法定年齢の30歳未満であったことと供託金300万円の支払い能力がなかったために立候補を拒否された。このことに精神的苦痛を受けた、つまり公職選挙法の法理念にそぐわない規定ではないかという不満から、国を相手に神戸地裁に提訴に及んだようだ。 裁判の審判は現行法に沿っておこなわれるので、現行法が本来の公職選挙法理念にそぐわず精神的苦痛を受けたという理由の訴訟で、この原告が勝利する確立は非常に少なかろう。尤も、裁判所は訴状を受理しているのだから、まあ、見込みがないとも言い切れないかもしれない。 しかし、この男のこの背景が、岸田首相に爆発物を投げつけるという行為と如何に結びつくだろうか? 犯罪行為が必ずしも論理性を貫徹しているものではないとは思う。しかしながら安倍晋三元首相を銃撃殺した山上徹也の場合は、私は、論理的に一貫していたと思う。誤解がないようにあらかじめ言っておくが、私は山上徹也の犯罪を擁護しているわけではない。安倍晋三が特定宗教集団とかなり強く結びついていたことは、山上徹也の妄想ではあるまい。むしろ山上は安倍晋三の背後関係を良く知っていた、と私は思う。尤も、安倍晋三は選挙票田と金が目当てで、その特定宗教集団の宗教を名目としながらの他の活動には案外ノンシャランスだったかもしれない。あるいは政治的には反共で一致していると思ったかもしれない。しかし、この集団のトップがかつて北朝鮮のトップと手を結んだことを、深く考えたことがあるかどうか。すくなくとも安倍晋三とこの宗教集団との関係性は「信教の自由」の範疇外であろう。銃撃殺事件後、各マスコミの調査等によって、多くの政治家が選挙と金のためにこの集団と関係していたことが判明している。 ・・・ともかくも山上は、自らの家庭の崩壊の原因となり、現在もその渦中で経済的精神的に追いつめられた状態を造りだした特定宗教集団と安倍晋三元首相とを結びつける相当の理由があったと言えよう。 岸田首相(あるいはパイプ爆弾らしき爆発物使用によって被害は演説の聴衆に及ぶ可能性があったことを含め)を襲撃する理由が、山上徹也のように明確には第三者に見えて来ない。安倍晋三の国葬を岸田首相が強行したことに反対していたそうだ。たしかにあの国葬に反対した国民は非常に多くいた。それにしてもそれが暗殺を実行するに足る理由とは、第三者には得心がゆかないだろう。他にも外観できない内的論理がないとは言い切れない。そうだとしたら彼は黙秘をつづけるべきではない。黙秘によってこの容疑者に利することは何もないと、私は思う。弁護士を要求しているそうだが、弁護士を当惑させずに内的論理を説明する必要があろう。はたしてそれができるかどうか。容疑者の弁明ないし自供は、今後の検察の刑事訴訟法に則った「事件の再構成」の論理性に影響してくる。 私は、報道の一部に気にとめた事実があった。この容疑者は上記の提訴した問題に関連して、某議員と面会して話をしたことがあるという。某議員の証言である。その面会時に、この容疑者の男は、「市議の報酬はどのくらいか」と訊いたそうだ(朝日新聞デジタル 2023年4月18日10時43分)。男は無職だという。 A 24-year old suspect who was arrested for throw-ing explosives at the prime minister on his way to anelection speech is said to remain silent. However, according to the police who searched the man's livingenvironment and background, it was found that hehad filed a lawsuit over the current Public Offices Election Law and was pending. This surprised me a little. This man offered to run for the House of Councilors in last House of Councilors election, buthe was refused because he was under the legal ageof 30 and was unable to pay the 3 million yen deposit.It seems that he was emotionally distressed by this,in other words, dissatisfied that the provision wasnot in line with the legal principles of the PublicOffices Election Law, and filed a lawsuit againstthe government in the Kobe District Court. Judgement will be conducted in accordance withthe current law, so it is highly unlikely that the plaintiffwill win in a lawsuit claiming that the current law isinconsistent with the original principles of the PublicOffices Election Law and that he suffered mentalanguish. Of course, since the court has accepted the complaint, well, it may not be possible to say that there is no chance. But how does this man's background relate to theact of throwing explosives at Prime Minister Kishida? I don't think criminal acts are necessarily logical.However, in the case of Tetsuya Yamagami, whoshot and killed former Prime Minister Shinzo Abe,I think he was logically consistent. To avoid mis-understandings, I am not defending Tetsuya Yamagami's crimes. It is not Tetsuya Yamagami'sdelusion that Shinzo Abe was strongly associatedwith a specific religious group. Rather, I believe that Yamagami was well aware of Shinzo Abe'sbackground. Of course, Shinzo Abe was interestedin electoral votes and money, and he may havebeen surprisingly nonchalant about his other activities under the name of the religion of thatparticular religious group. Or maybe he thought he and the group were politically anti-communistand unanimous. But had he ever thought deeplyabout the fact the head of this group once joinedhands with the head of North Korea? At the veryleast, Shinzo Abe's relationship with this religiousgroup would fall outside the scope of "religiousfreedom." After the shooting incident, investiga-tions by various media outlets revealed that manypoliticians were associated with this group forthe sake of elections and money. ... In any case, itcanbe said that Yamagami had a good reason toassociate former Prime Minister Shinzo Abe witha specific religious group that caused the collapseof his own family and has created a state of economic and spiritual despair in the midst of it.I think. The reasons for attacking Prime Minister Kishida(or the use of explosives that looked like pipebombs, which could have affected the audience ofthe speech), could not be clearly seen by a thirdparty like Tetsuya Yamagami. It is said that he was opposed to Prime Minister Kishida's forcedstate funeral for Shinzo Abe. Certainly, there werea great many people who opposed that statefuneral. Even so, a third party wouldn't be con-vinced that that was enough reason to carry outthe assassination. It cannot be said that there isno other internal logic that cannot be seen. If so,he should not remain silent. I don't think thissuspect has anything to gain by remainingsilent. He say he's asking for a lawyer. However,I think that he'll need to explain her internal logicwithout embarrassing the lawyer. Whether it canbe done or not. The defendant's explanation orconfession will affect the logic of the futureprosecution's "restructuring of the case" in accordance with the Code of Criminal Procedure. There was a fact that caught my attention insome of reports. The suspect is said to have metand talked with a city council member in connec-tion with the issue of running for the House ofCouncilors election mentioned above. This is thetestimony of the city council member. At the timeof the meeting, the suspect asked, "How much isthe city council's salary?" The man is unemployed.Tadami Yamada
Apr 18, 2023
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「腐っても鯛」と言うが、アメリカ合衆国の前大統領を刑事起訴したニューヨーク州マンハッタン地区検察官が招集した大陪審の報道に接すると、ついそんな言葉を呟きたくなる。裁判がどのように結審するかは予測できないが、ともあれ大統領経験者が史上初めて刑事起訴されたという事実は記録された。CNNは、ビジネス関連詐欺30件以上の罪状であると報じている。 民主主義の旗手を自認していたアメリカに、国民を分断する深い亀裂を入れたのが前大統領であり、その支持者たちは議会襲撃というこれまたアメリカにとって前代未聞の事件を起こしていた。この事件はまさに民主主義への実際行動による攻撃だった。前大統領はいまだに自らが敗れた大統領選挙の不正を主張し、暴動は正義のために起るべくして起ったと主張している。しかも法的非難に対しては、陰謀論を主張し、臆面も無く大統領経験者に認められている特権をふりかざして来た。 ただ、言い添えるなら、アメリカは所有欲に基づく個人主義思想の発祥国である(フランスの個人主義とは見ている先が異なる)。そして前大統領はその体現者であり、彼の国民に向けた自国第一主義の政治的主張は、まさに所有欲に基づく個人主義の拡大である。彼の支持者はその内向きの考えに熱狂している。(ロシアや北朝鮮のトップはこの思潮が世界的に拡大することを恐れている。しかしながら、私が思うに、彼らの主張は世界や自国民向けのアリバイ作りの大義名分であって、国民の生活をないがしろにしたそのトップ権力者の「個人的な」生活環境を見れば、むしろ自らの権勢欲と個人的所有欲の実現と持続が目的であり、アメリカの前大統領となんら変わることはない。彼らが互いの親密さを演出しながら握手をかわしたのは当然である。さらに言うなら、富める国の最下層にどのような人たちがいるかをみれば、その国の構造の仕組(制度)が解り、往々にして支配者の欺瞞も見えてくる。) このような前大統領に対して、マンハッタン地区大陪審は長い捜査の結果、「忖度」などしなかったのである。大陪審は相当の覚悟をしたであろうが、証拠は揃った、罪状認否は法廷でするがよい、ということだ。私が「腐っても鯛」と呟いたのは、民主主義の土俵際で、大統領経験者であろうとも法律違反の容疑があれば、起訴して法廷に立たせる遵法精神は寄り切られずに踏ん張りを見せたからである。 さて、日本の政権を担う議員たちよ、国会議員たちよ、最高裁・高裁・地裁の判事たちよ、検察庁の検事たちよ、官僚たちよ、諸君は日本を「糞の溜桶」にして、そのなかで温々としてはいないか? 堕落した日本の「糞」になっていないか?
Mar 31, 2023
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今朝、6時40分、地震があった。「来たな」と思ったが、1,2度揺れただけで体感の揺れはおさまった。じつは一昨日の夜明け前にも、ごくごく微かなさざ波のような揺れを背中に感じた。私はまだベッドの中だったのだ。もし活動中だったなら感じはしなかったであろうような、微弱な揺れだった。そんなことがあったから、今朝、私は「来たな」と思ったのである。 3月11日は、東日本大震災から12年目の祈念の日だった。それについて私はこのブログに何も書かなかったが、忘れていたわけではない。 東日本現地の方々のような被災を私の家族はしなかった。が、当時、私は母を在宅看護しており、その母は身動きがとれない状態で、しかもチューブに繫がれ、室内脱窒素還元酸素発生装置にも繫がれていた。とても避難できる状態ではなかった。母は、目で私に問いかけた。いざとなったら息子の私は逃げてほしい。しかし一人置いていかれるのは恐ろしい。母の気持と感情は両極に引き裂かれていた。私は、母に覆いかぶさるようにして落下物を防ぎながら、「大丈夫、置いて逃げないよ。一緒にいるよ。心配しないで」と言った。 ・・・浴室の壁の一部が落下し、門から玄関までの敷石が隆起したり、裏のコンクリート塀に亀裂が入ったりしたが、遠くの弟一家も含めて我家に人的被害はなかった。また、各種の医療関係サーヴィスも、迅速な対応してくれた。これには感謝してもしきれないくらいだった。その後の計画停電の区域からわずかにはずれたことは、電動医療機器を使っていた母のために幸いだった。計画停電が発令されたときは、本当にゾッとした。そのために母を死なせなければならない、と思ったのである。 そんなわけで、あの震災は決して他人事ではなく、忘れはしない。そして、その後の政府の対応の悪さ(12年後の現在も3万人を越す避難者がいる)、想像力に欠ける政治、原発関連裁判における司法判断の「悪辣さ」、この国に遙か昔から伝統的に存在する「棄民思想」に、私は暗澹たる思いを抱える。 There was an wartgquake at 6:40 this morning. Itought, "Hey,you've come," but after just one or twotremors, the tremors subsided. In fact, even beforedawn the day before yesterday, I felt a faint rippringwave on my back. I was still in bed. It was a fainttremor that I wouldn't have felt had I been active. That's what happened to me this morning, and I thought , "Hey, you've come." March 11th was the 12th anniversary of the GreatEast Jaoan Earthquake. I didn't write anything aboutit on this blog, but I haven't forgotten. My family did not suffer the same damage as thelocal people in eastern Japan. However, at that time,I was nursing my mother at home, and my motherwas in a state of being unable to move, and wasconnected to a tube and an indoor denitrifyingreduction oxygen generator.She was in no evacuate.My mother asked me qith her eyes. In case of emer-gency, she want me to run away. But geing left alone is scary. My mother's feelings were torn apart.I leaned over my mother to keep her from fallingobjects and said, "Don't worry, I won't leave youbehind. I'll be with you. Don't worry." ... A part of the wall of the batheroom fell down, the paving stones from the gate to the entrancewere uplifted, and the concrete wall behind thehouse cracked. There was no other damage. Inaddition, various medical-related services responded quickly. I couldn't thank them enoughfor this. Luckily for my mother, who used electri-cal medical equioment, we were just outside thearea of the rolling blackout that followed. I wasreally horrified when the rolling blackout wasannounced. I thought I had to let my mother diefor that. That's why I will never forget that disaster.And the poor response of the government afterthat (even now, 12 years kater, there are stillover 30,000 evacuees), the politics lackingimagination, the "vicious" judicial judgementsin the nuclear power plant-related trials, andthe long time ago in this country, I have a gloomy feeling about the idea of abandoningpeople, which has traditionally existed sincethen.Tadami Yamada
Mar 15, 2023
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午後、2022年度の新聞協会賞を「国土交通省による基幹統計の不正をめぐる一連のスクープと関連報道」によって受賞した、朝日新聞の社会部調査報道キャップ伊藤嘉孝氏の講演を聴いた。取材現場の「舞台裏」をテーマに1時間半のお話。主催、多摩西部朝日会。後援、朝日新聞社会部。会場は八王子市芸術文化会館いちょうホール。 調査報道とは、伊藤氏によれば、報道しなければ無かったことになるか隠蔽されてしまう事柄を、地道に丹念に調査し、ファクト(事実)を検証し、場合によっては大変長い時間をかけて調べ上げたことを記事にして発表すること。したがって調査は秘密裏に行われ、どのような取材体制で行われるかも秘密になる。 ・・・たとえば、新聞協会賞を受賞した「国土交通省の基幹統計不正」は、調査から発表までに、およそ半年を要した、と。それは実際に調査に要した時間だけではなく、記者が専門家から数学や統計学のレクチャーを受けたり、錯綜する事柄と膨大な取材資料を最終的に限られた紙面に如何に解り易く記事に書くかに七転八倒した時間でもある。このスクープの最初の記事は、わずか100数十行にまとめなければならなかった、と。・・・あるいは統一教会問題で、統一教会に関わりのあった全政治家(国会議員、地方議会議員、知事)の実数を調べ上げたときは、1週間で3,000人に1万回以上の電話をかけている。噂をもとに記事を書くのではなく、本人に直接確認することが重要だった。事実としての数字を得ることが重要だった、と。 伊藤嘉孝氏はなかなか話し辛かったであろう。記者として手の内を明かすわけにはゆくまい。しかし、一般の新聞読者が知ることがない取材現場の「裏舞台」を聴けたことは面白く、貴重であった。スクープ記事に半年の調査があったとは驚きだった。
Mar 8, 2023
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平成26年(2014) 当時、安倍元首相が放送における「政治的公平」を楯に、現行放送が偏向的であるとして、礒崎陽輔総理補佐官を通じて総務省放送政策課に電話連絡し、放送法の解釈をめぐる問題が発生した。安倍元首相の真意は、政権に都合の悪い言論は封じなければならないという、放送界への「圧力」とも解される問題である。この問題に関して官邸と総務省との間に如何なる経緯があったのか、またどのように話し合われたのか。 本年3月2日、立憲民主党の小西洋之参議院議員が、この経緯を記した総務省の内部文書を総務省職員から提供されたとして公表した。 これに対し、当時の総務大臣であった高市早苗衆議院議員・現経済安全保障担当大臣が、当該文書は「捏造であり、不正確」と反論し、かつ行政文書であるゆえの自らの説明責任を果たすことなく、逆に、当該文書が真性だとする証拠を示すよう、追及する小西氏側に筋違いな要求をした(している)。 本日3月7日、松本剛明総務大臣は、午前の閣議後の会見で、安倍政権下で放送法の政治的公平性について、首相官邸側と総務省側とのやりとりを記録した内部文書とされる資料は、すべて総務省の行政文書であると認めた。 それにつづいて、総務省は当該文書全78ページをインターネットで公開した。「政治的公平」に関する放送法の解釈について行政文書 この問題は、安倍晋三元首相が違法を疑うにたる恣意的政権運営をしていたことの一つの証となるかもしれない重大性を含んでいる。民主主義国家を標榜してきた日本が、じつは政権によってそれを崩壊する方向へと進んでいる証となるかもしれない。 2015年、高市総務相は、放送法のもとめる「政治的公平」に違反していないかどうかは「ひとつの番組だけをみて判断する場合がある」と答弁し、さらに翌2016年には、「違反を繰り返せば電波を止めることもある」と、「停波」にまで言及した。 各種報道によれば、高市氏が「ひとつの番組」と述べたことについて、当時、安倍首相が TBS「サンデーモーニング」を名指ししたとされる。安倍政権にとって不都合な意見をコメンテーターが述べたことを安倍元首相は問題にしたのである。 高市氏が言論の自由に対する政治介入をにおわせる「停波」に言及するまでに、放送法を如何に解釈するかについて官邸と総務省との間に念入りな準備があったことを、このたび公開された総務省行政文書は示している。 総務省が異例ともいえる一般公開にふみきった極秘内部文書を、じっくり読む必要があろう。
Mar 7, 2023
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野菜をはじめ食料品や日用品の価格高騰はいちじるしいが、電気料金高騰のため大学の運営に影響がでてきているようだ。東京芸術大学では経費削減のために練習用アップライト・ピアノを5台売却した、と朝日新聞朝刊が報じた。大学図書館の利用時間を短縮したりスーパーコンピューターの利用制限をしている大学もあるというから私は驚いた。 昔から蔵書を廃棄処分にする大学図書館はあった。いや、大学図書館のみならず、公立図書館がそれをやっている。これは収蔵庫がいっぱいになったからというのが主な理由のようで、経費削減や電気料金高騰のためではない。文化行政貧困国の「面目」、ハハハ、面目躍如。私はこの理由に呆れ、恥ずかしく思っていたが、しかしながら芸術大学が、経費削減のために、学生が練習するためのピアノを売却したという話を聞いたことがない。 芸大はいわばプロフェッショナルをめざす人たちが難関試験を経て学んでいる所のはずだ。芸大で学んだからといって、それですぐに飯を食えるわけではなかろうが、少なくとも素人の道楽のための大学ではないはずだ。 まあ、ありていに憚らず言うと、芸術系大学の運営というのは金がかかるので(学生の方も大金が要る)、秀才ばかりを集めているわけではない。箸にも棒にもかからない者の受験料や入学金で、一握りの秀才(いや、たった一人かもしれない)の学びを支えなければならない。 しかしながら、入学させた以上は、よりよい学びの機会を与えなければならないのは、大学運営者の「義務」であろう。練習用のピアノを奪って、まさか紙鍵盤でも叩けというのじゃあるまいな? 文部科学省は何をしている。 政府は何をしているんだ。 そして、私はここで筆を止めるべきか? ちがう。 この電気料金高騰問題と密接に連動しているのが、原発再稼動問題であること。原発再稼動を容認する国民が多くなっているらしいことを指摘しておかなければならない。 政府の狙い目と民意がここに来て一致しはじめているということだ。福島第一原発の地震津波被害事故が、・・・その核心部分がまだまったく解決していないにもかかわらずだ。喉元過ぎれば熱さ忘れると言うが、喉元も過ぎていないうちに、原子力規制委員会がもはや水面下でこそこそ原発推進をしていることはないと考えたらしい。原発推進の影武者が本来の顔を現した。再稼動に反対する者はひとりもいなかったようだ。 いやいや、原子力規制委員会だけではない。広島県教育委員会はさっそく学校教科書から『はだしのゲン』を削除するよう教科書出版社に通達した。『はだしのゲン』が「原爆の実状を誤らせる」というのが教育委員会の言い分。出版社が削除しなければ教科書を認可しないぞと、立場を嵩(かさ)にかけたヤクザな脅しをちらつかせる。教育委員会の常套的な悪知恵である。 ・・・さて、私は訊こう。広島県教育委員会の現任委員のなかに、原爆の「実状」を経験した者がいるのか、と。実際に被爆した者はいるのか、いないのか? いないのではないかと私は推測する。原爆の経験者は、1945年8月6日ないし長崎の9日以前に生まれた77歳以上でなければならない。私と同年齢か、それより年輩ということ。この年齢は厳然とした事実だ。教育委員会の現任委員は原爆の実状を経験してはいまい。 「原爆の実状を誤らせる」という見解は、教育委員会おとくいの「嘘」。「屁理屈」だ。この言説だけだと、「実状」をめぐって全く正反対ともなる二つの論が成り立つ。すなわち、「被爆の惨状」論と、原子力利用の安全神話に基づく幻想の「安全現状」論である。広島県教育委員会は『はだしのゲン』を規制するにあたって、このありうべき二つの論のいずれをも深く論じてはいない。 学校教科書から『はだしのゲン』を削除するという問題は、原発再稼動問題と決して無縁ではあるまい。さらにそのもっと奥にある核兵器保持容認への動きとも無縁ではあるまい。 ・・・日本の教育委員会が歴史的に如何なる経緯で創設されたかを検証すれば、時は変われどその歴史的な本性は変わらずに来たといえる。時の政府の顔色を窺い、国民を「教育」する役目。義務教育の子供に狙いをつけている本性が凄まじい。某国や某某国が人民や子供を拉致して強制的思想教育を施しているのと、狙いは何ら変わりはない。文部科学省・教育委員会は、こと学校教育に関しては「学問の自由」と何等関係ないのである。 民主主義国家を内部から崩壊させるムーブメントは、コツコツと醸成されてきた。日本の政治家が悪政を遂行するときにはしばしば「粛々とおこなう」と言うが、民主主義国家から全体主義軍事国家への転換は、粛々と怠り無く準備されてきた。国民の大多数の意見を汲むという、まさに「民主主義」によって、民主主義は内部崩壊する。民主主義にはそのような重大な弱点がある。国民が困窮に陥ったときに民主主義は最も脆くなる。国民が我が手で我が首を絞めてしまうのだ。 高笑いするのは誰だ! 電気料金高騰問題はその高笑いする者たちの待ち望んだ機会になるかもしれない。
Feb 21, 2023
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トルコ/シリアを襲った地震は大変な状況のようだ。建物の倒壊の凄まじさもさることながら、厳寒の中での救助作業は困難をきわめ、すでに生存者救助限界の72時間を過ぎた。本日正午までに、両国合せての死者は1万5383人に達した(CNNによる)。今後さらに増加するであろう。世界保健機関 (WHO)の試算によると2300万人が被災したとみられている。世界70カ国と14国際機関が支援の手をさしのべているようで、もちろん日本も2回にわけて即座に救助隊を派遣した。トルコは歴史的に親日国といわれてきた。昔トルコの船が遭難したときに日本人が救助したことへの恩義を感じて、国をあげていつまでも忘れないでいてくれるのである。 まったく私事であるが、あれは何年前になるか・・・ある音楽家のリサイタルで、私は当時の駐日トルコ大使夫人に紹介されて御挨拶申しあげた。30年くらいも昔になるかもしれない。経緯は忘れているのに、大使夫人の装いなどは目に浮かんで来る。こんな時に不謹慎であるが、どうも私は女性の装いを無意識に一瞬のうちに目に焼き付けて記憶してしまうらしい。ここに書かないけれども、大使夫人のドレスの色やアクセサリーを今でも思い出して述べることができる。 そんなことがあったものだから、内陸震源型地震で史上最大ともいわれているこのたびの同国の地震被害に心が冷える。なによりも人命救助が先決なのは言うまでもないが、今後の復興に思いをめぐらせると、地震大国と言われる日本が培ってきた耐震建築技術をもって支援することも日本政府は考えてもいいのではないか。トルコは内陸型複雑プレートの上にある国だそうだが、日本の耐震建築技術支援が実現するなら却って日本の為にもなるのではないか。現在、まさに日本は幾つかの大地震到来が予想されているのだから。
Feb 9, 2023
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現在、世界各国のトップ権力者あるいはその地位の経験者には、その言動や政策を観察している精神医学者や心理学者によって、パラノイア(誇大妄想や被害妄想、過度な虚言がある偏執症)やサイコパス(粗暴性・凶暴性がある精神病)を指摘されている人物がいる。 その人数が多いのか少ないのかを指摘することは、実際のところ難しい。しかしながら苦悩の人生をどれだけの国民が強いられているか、また無意識的に顔に仮面を貼り付けた心理的な「ねじれ」が「国民性」となっていることが、第三者的多数によって指摘可能ならば、そこには権力者個人の病的な異常性がある、と私は考える。 「権力」の興味深い点は、それを頂点として底辺に広がる社会に、権力者の異常性と同じような異常者や異常な現象があちらこちらに出現し始めることだ。そうなると、・・・病膏肓(やまいこうこう)という言葉があるが・・・社会が二進も三進も行かないほどに悪のガスが膨満し、そのガスがエネルギーとなって国を誤った方向へ動かしてゆく。ヒトラーのナチス政権によって、当時のドイツ国民がサディスティックに堕落していった例は、そのことを我々に教えている。 さて、我が日本の権力者はどうであろう。 パラノイアやサイコパスを指摘される人物はいないのであろうか。 上述の私の意見は、国政に関わることだけについて言っているのではない。 もちろん閣僚の度重なる汚職。暴言。国庫に臭い手を突っ込む奴ら。国民を食い物にする議員達。・・・日本の政治は、はるか明治維新前から暴力と暴力専門家であるヤクザと固く結びついて来た(注)。現に、議論にならぬ言葉の暴力は止むことはなく続いており、また、ヤクザ口調でまくし立て国会の品位を汚している閣僚がいる。 ・・・そのような人格卑しい議員を選出している日本の社会で、頻繁すぎるほど頻繁に学校教師による児童・生徒・学生に対する暴言や暴力行為が起こってい、幼稚園児に対する保育士の暴力が起こっている。障害者施設における介護士の暴力・性的虐待。児童相談所や教育委員会の職務怠慢・欺瞞・虐待加担・隠蔽工作。世間の目から隔絶された刑務所や拘置所における、収監者に対する刑務官や警察官によるサディスティックな虐待。外国人に対する虐待。・・・これらは全て組織的階級性があり、強者/弱者という社会が容認している立場の違いがある。「パワハラ(パワー・ハラスメント)」などとジャナリスムは表現しているが、実のところ心理的には強者のサディズムの発露である。ナチス政権下で起こっていたことと同根だと考える。 強者による虐待や暴行が常態化するうちに、強者に一種の暴行の楽しみが萌してくるのだ。その例は、刑務官が収監者を裸にしてその肛門に対して肛門が負傷するほど強烈な放水した事件などは、刑務官の性的な快楽が潜む虐待でしかあるまい。あるいはまた、最近起こった義父による幼女虐待から死に至らしめた事件で、義父が連日の虐待を始めるにあたり、「楽しみの始まりだ」と幼女に言っていたと供述している。・・・少子化傾向を国家弱体化の元凶であるとして、女性は結婚して子供を産むことが務めだと公言して止まない男女議員がいる。しかし、日本はまさに現在、子供受難の国である。それは国政の至らなさなのではあるまいか。 ・・・そしてさらに、私は官僚たちの政権扈従の事実隠蔽や詐称による組織維持にも似たような臭いを嗅ぎつける。 私は、裁判官にも時の政権に対するへつらいを感じることがある。司法の独立性を裁判官が放棄しているのだ。これは裁判官の任命は天皇がすることになっているが、それは内閣の指名に基づいており、任命権は内閣にあるからである。司法の独立はひとえに任命された裁判官の人格にかかっている。制度的に見れば、日本の三権分立の内実はグチャグチャなのだ。 サディズムは誘拐や監禁や拉致等の犯罪事件の中にも出現している。つまり、人を人と思わないという反社会的な精神構造が育まれていると言ってよいだろう。自他の意識が明確で、自意識が独立した社会意識になっているのではなく、自他の区別がない幼児性を引きずってい、自己中心的なのである。 自己中心的な精神の幼児性が、日本の社会にどのように広がっているかについて、ごく卑近な例で示してみよう。近年頻繁に耳目にする「〇〇過ぎる」という言葉に現れている、と私は観察している。曰く、「可愛い過ぎる」「美味過ぎる」「上手過ぎる」「美し過ぎる」「ヤバ過ぎる」等々。 (注:ヤバイという俗語は危険というほどの意味であろうが、素晴らしいというほどの極めて多様性がある用法に変質している) このように言っている本人は、じつは褒め言葉であることが多いのだが、その無意識に横たわっているのは物事の判断が自己を中心にしている、ということである。素直にストレートに、「可愛い」「うまい」「上手だ」「美しい」と言えば済むはずだが、微妙に自意識が絡んでくる。前もって批判を軽くかわしているのだ。「可愛い」「うまい」「上手だ」「美しい」と言ったなら、「ヘー? どこがよ。あんた、そんなふうに思うの?」という批判が出るかもしれない。そこで傷つかない程度の自己基準を設けておいて、「過ぎる」と言って自己基準を曖昧にしているのである。彼らが「可愛過ぎる」と言うとき、その意識は他人に対して「大変可愛い」と言うのとは異なっている。この奇怪な日本語用法はナルシスティックな幼児性である。 議論が少々遠回りしたが、日本社会に蔓延しているナルシスティックな幼児性が、私は権力者や国会議員や地方議会議員の精神構造を形成していると観察しているのである。彼らは誰もが尊大に構え、大人の中の大人のように見られがちだ。しかしながら、彼らの責務によって陶冶されるはずの人格に、反社会的に流れてゆく緩みがあることは指摘されなければならない。人格とは社会的なものである。意識に社会が存在しないナルシスティックな幼児性にとっては、人格もへったくれもない。己しかないのだから、当然である。 世界の或る権力者のようなパラノイアやサイコパスを指摘されないまでも、今や日本の社会が二進も三進も行かないほどに悪のガスが膨満し、国を動かし始めているのではないか? 私の懸念である。(注) 次の注目すべき研究がある。私は上記で「暴力専門家であるヤクザ」という表現をしたが、エイコ・マルワ・シナワ氏の表現の借用である。 エイコ・マルコ・シナワ著、藤田美菜子訳 『悪党・ヤクザ・ナショナリスト 近代日本の暴力政治』 朝日新聞出版 朝日選書997、2020年 At present, psychiatrists and psychologists whoobserve the behavior and political policies of toppowers around the world and those who have heldsuch positions have paranoia (delusions of grandeur,persecution, and excessive lying) and psychopaths(psychotic disorders with brutality and ferocity) havebeen pointed out. It is actually difficult to point out whether thenumber is large or small. However, the people whoare forced to live a life of anguish, and the psycho-logical "twist" that unconsciously puts a mask ontheir face has become a "national character." If a third-party majority of people from outside can pointit out, I think there is a pathological abnormality of theindividual in power. The interesting thing about "power" is that in the society that spreads from the top to bottom, abnor-mal people and abnormal phenomena similar to theabnormalities of those in power begin to appearhere and there. In that case, there is a word called"Yamai Koukou", but the evil gas swelled so that thesociety and misled the country move in the direction.The sadistic corruption of the German people at thatWW II time by Hitler's Nazi regime teaches us this. Well, what about our Japanese powers? Isn't there anyone who points out paranoia andpsychopathy? My opinion above is not only about matters relatedto national politics. Of course, the repeated corruption of cabinet minis-ters. rant. Those who stick their stinking hands intothe treasury. Lawmakers who prey on the people, ... Japanese politics has been tightly linked with violenceand the yakuza, who are experts on violence, long before the Meiji Restoration (*). In fact, the violence of uncontroversial words continues without stopping, and there are cabinet ministers who are tarnishing thedignity of the Diet with yakuza tone. ... In a Japanese society that elects such low-rankinglegislators, school teachers verbally and violently act against children, students, and students too frequently, and kindergarten teachers violence against kindergar-ten children occurs. ing. Violence and sexual abuse by caregivers in facilities for the disabled. Neglect of duty,deception, complicity in abuse, and cover-up work by child guidance centers and boards of education. Sadistic abuse of inmates by prison guards and policein secluded prisons and detention centers. Abuse offoreigners. ...These are all organized hierarchies, and there are differences in the positions of the strongand the weak that society accepts. Journalism de-scribes it as “power harassment,” but psychologically itis actually the manifestation of the sadism of the strong. I think it's the same root as what happened under the Nazi regime. As abuses and assaulys by the strong become normalized, a kind of enjoyment of violence begins toemerge in the strong. An example, the incident such asprison officers stripping prisoner of his clothes andspraying them with water so strong that they injure prisonaer's anus is nothing more than abuse that lurkin the sexual pleasures of prison officers. Or in another example, this is a recent case of childabuse by her stepfather, which led to her death. Whenher stepfather began to abuse her every day, he toldthe little girl, "Well, this is the beginning of the fun." Hestated to the police. ... There are some legislators, both male and female,who openly declare that it is the duty of women to getmarried and have children, citing the declining birthrateas the root cause of the nation's weakening. However,Japan is a country of child suffering right now. Isn'tthat the inadequacy of national politics?... And I also smell something similar to bureaucrats' concealment of subordination to the regime and maintenance of the organization through false pretenses. I sometimes feel that the judges are flattered by theadministration of the time. Judges are renouncing theindependence of the judiciary. This is because the appointment of judges is supposed to be made by theemperor, but it is based on the nomination of the cabinet, and the right to appoint judges rests with thecabinet. The independence of the judiciary depends solely on the character of the appointed judges. Froman institutional point of view, the separation of Japan'sthree powers (judicial, legislative, and administrative) isa mess. Sadism also appears in criminal cases such as kid-napping, confinement, and abduction. In other words,It ican be daid that an anti-social mental structure is being nurtured that does not regard people as people. It is not that self-consciousness is clear and self-consciousness has become an independent socialconsciousness, but it is self-centered that it is draggingthe childishness that there is no distinction betweenself and others. Let's take a very familiar example of how the childishness of a self-centered spirit spreads in Japanese society. I observe that it appears in the word "too much" that I hear frequently in recent years. He said, "Too cute", "Too much delicious", "Too much good", "Too much beautiful", "Too much dangerous (althoughthey mean "Too much great")", etc. In fact, the person who says this is often a compli-ment, but what lies unconsciously is that the judgmentof things is centered on the self. It should be enough tosimply say "cute", "good", "skillful", and "beautiful", butthere is a subtle sense of self-consciousness involved. They dodge criticism lightly in advance. If you say"cute", "good", "skilled", and "beautiful", you might getcriticism like "Hey? Where are you? Do you think that way?" Therefore, we set a self-standard to the extent that it does not hurt, and then say "too much" to makethe self-standard ambiguous. When they say "too muchcute", their awareness is different from saying "verycute" to others. This bizarre Japanese usage is narcis-sistic childishness. Although the discussion has been somewhat detoured, I observe that the narcissistic childishness hat is prevalent in Japanese society forms the mentalstructure of those in power, Diet members, and local assembly members. They are all arrogant and tend tobe seen as adults among adults. However, it must bepointed out that there is an anti-social flow of loose-ness in the personality that should be cultivated by their duties. Personality is social. For the narcissistic childishness in which there is no society in conscious-ness, there is no personality or sloppiness. It is naturalbecause there is only oneself. Even if the paranoia and psychopathy of somepowerful people in the world are not pointed out, isn't Japanese society now filled with evil gas to thepoint where it can't move forward or backward, andis starting to move the country? This is my concern.*(note) There is the following notable research. I used theexpression "yakuza who are experts in violence" above, but I borrowed the expression from Ms. EikoMaruko Sinawer.Written by Eiko Maruwa Siniawer, Translated by Minako Fujita"Akutoh・Yakuza・Nationalists: Violent Politics in Modern Japan" Asahi Sensho 997, Asahi Shimbun Publishing, 2020Original book;"Ruffans, Yakuza, Nationalists: The Violent Politics ofModern Japan, 1860-1960"Ithaca, Cornell University Press, 2008Tadami Yamada
Dec 26, 2022
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午前中に、予約してあった新型コロナウィルス・オミクロン株対応ワクチンを接種した。新型コロナウィルス対応ワクチンの5回目の接種である。近所の医院は今年中の予約は完了していたので(1ヶ月前のことだ)、少し遠いが高幡不動まで自転車で行ってきた。 走りながら、街の様子は変わりなく見えた。一昨年、COVID-19のパンデミックが起こってからほぼ1年半ほどは、街は閑散として、車の往来も少なく思えた。その後、最近になって政府や東京都の政策が変わり、街に人の往来が戻ってきたようだ。 政策の変更と同時に、自治体における感染者数・感染による死亡者数が報道されなくなった。国の対策委員会トップが、対策が多忙を極めているので全国感染者総数の把握を中止する提言をした。 私は、全く非科学的な愚かな考えだと批判した。 大変なことは重々承知しているし、目にも見えている。しかし統計をとるということは、いまこの時の対策のためばかりではなく、はるか将来を見越してのことだ。将来の科学的判断のための重要な基礎資料となる。それをきちんと制作して、残してゆくことは、いつの時代であろうと今を生きている人間の責務である。このたびのような事態ならば、医学的な判断材料としてのみならず、パンデミックやクラスターが社会全体をどんな状態にするのか、人々はどんな動きをするのか、どんな対応策がシステム化されるべきなのか・・・そのような社会学的な研究の重要資料となるはずなのだ。政策および現場対応責任者には非科学的な思考者は任につけるべきではないのだ。人間は誰しもが不安に煽られて右往左往する。しかし、不安を動機とするその場しのぎの政策は、必ずや将来に禍根を残す。・・・私の批判の矛先はそこまでおよぶ。 In the morning, I inoculated the vaccine for the newcoronavirus Omicron strain that had been reserved.This is the 5th inoculation of the new coronavirusvaccine for me. A nearby clinic was fully booked for this year (it was a month ago), so I went to Takahata-fudo, which is a little far away, by bicycle. As I ran by bicycle, the city seemed unchanged. Twoyears ago, for about a year and a half after COVID-19pandemic broke out, the city seemed to be quiet withlittle traffic. After that, recentry, the govermment andTokyo metropolitan govermment changeed theirpolicies, and it seemed that people have returned tothe city. At the same time as the policy change, thenumber of infected people and the number of deathsdue to infection in local govermment's countermeas-ures committee proposed to stop tracking the totalnumber of infected people nationwide because thecountermeasures were extremely busy. I criticized it was as a totally unscientiffic and stupididea. I am fully aware of the difficulties, and I can see it.However, collecting statistics is not only for counter-measures at this time, but also for anticipating thefuture. It will be an important basic material for futurescientific judgement. It is the duty of people who livein the present to create and leave them properly, nomatter what era they are in. In the event of a situationlike this, it should not only be used as a basis formedical judgement, but also what kind of situationpandemics and clusters will affect society as a whole,what kind of movements people will take, and whatkind of countermeasures should be systematized.Or... it should be an important material for suchsociological research. No unscientific thinker shouldbe in charge of policy and field response. All humanbeing are driven back and forth by anxiety. However,stopgap policies motivated by anxiety will inevitablyleave troubles in the future. ... that's where my criticism goes.Tadami Yamada
Dec 23, 2022
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一つ提案する。 自衛隊はこれまで自らの存在を「肩身がせまい」と嘆いてきた。憲法9条の改正(実は平和憲法の改悪)を画策する者たちは、その言葉を盾にとって戦後すぐの時期から策謀をめぐらしてきた。その首謀者の一人岸信介に、私は15歳の中学生の時に会いに行き、実際、面会している。 しかし、どうやら、国会議員たちはさしたる熟慮もせず、憲法もそっちのけにして、敵地先制攻撃を可能とし、長距離兵器保有の決定をした。自衛隊員のご家族にとっては喜ばしいことなのか、悲しむべきことなのか、私はわからない。しかしながら、はっきり言えることは、今後は肩身を広くして自衛隊員は死闘を繰り広げることができる。 とはいえ、自衛隊員のご家族にはやはり忸怩たる思いがあろう。 そこで、決して廃棄されたのではない現憲法をないがしろにして(法学者は誰も問い詰めないが、憲法逸脱や無視は国家に対する最大の犯罪である)、このような決定をした国会議員の今後の処遇について、私は一つの提案をする。 全ての国会議員は、義務として1年間、海外の戦闘地域に傭兵として研修に送り出す。なかなか勇ましく、悪賢い奴らだから、きっと良い働きをするだろう。なに、たとえ死んでも、議員の代わりはいくらでもいる。将来がある若者を戦場に送り、ミサイルの標的にするよりよほど「国家」のためだと思うのだが。如何? そりゃァ、男女平等、機会均等だ、女性議員だって自国のためにも同盟国のためにも勇敢に戦うだろう。何しろ普段から、とんでもはっぷんの言辞を弄する女性議員たちだ。 国会議員・・・国民の代表だもの。まずは先手を打って、死に場所に立つ覚悟で、立派に「敵」を倒してみせなきゃ、肩書きが廃る。そうでしょう、戦後生まれの岸田さん? あなたは税を打ち出の小槌と思っているようだが、国の身の丈を超える防衛費で国民を疲弊させた挙句、戦地から遺体袋に入れられて帰国したなら、たぶん「国葬」だ。 とにかく国会議員全員が一度戦闘の前線に行きなされ。戦争大好きな支持団体もあるようだからね。アハッ、私の提案だ。
Dec 17, 2022
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なんだろうねー、この男は。川崎幼稚園の増田立義理事長のことだ。3歳の園児が通園バスに鍵をかけた状態で置き去りにされ、5時間後に心肺停止で発見されて死亡が確認された事件。この通園バスは増田理事長が運転し、添乗者がひとりいたという。 記者会見における増田理事長の弁明を聞くと、この男は自分の不注意で子どもを死なせた重大さを、さほど重大だとは衷心より悔いていないのではないか、と私は感じた。前もって用意したコメントを読んだことに私はこの男の心の在り様を疑ったが、読み上げから離れての弁明にすでにして自己保身がある。 その弁明を、そのまま文字で再現してみよう。彼は、次のように述べた。 「ドアの方は見ました。でも後ろ側は見えないですね、運転席から」 この理事長は、この言葉で何を言おうとしたのだ? この、「でも」は、何を表わしている? ・・・私が、この男が自己保身に向かっていると言ったのは、この、「でも」という接続詞のためだ。そしてそれにつづく「見えないですね、運転席から」の「ね」。自分の過失を他人事のように言う。この「ね」で、いったい誰を説得しようとしているのか。 増田はバスのドアは見て、園児たちが降車するのを見ていた。しかしながら増田が座っていた運転席からは後部座席は見えない。見えないのであえて確認はしなかった。運転席から動こうとはしなかった。確認することなど念頭になかったのだ。・・・増田理事長の弁明のなかの「ね」は、いま私が〈見えない「ので」〉と書いた文意に一致するであろう。彼の言葉の「ね」は、その生き方のすべてを表明してしまっている、と私は思う。 幼稚園の理事長を務める者が、どうやら子どもを知らないようだ。子どもは大人のようには行動しない。車に揺られて眠ってしまう子どもだっている。かくれんぼのように座席の陰にかくれて、みつけてくれるのを、いつまでも待っている子どももいる。・・・子どもの理屈は、大人の理屈とはことなる。子どもには子どもの、大人が理解できないような理屈がある。しかし子どもの心理はなかなか察知できないものだ。・・・この通園バスに乗っていた他の園児たちがみな降車しているとき、死んだ園児がなぜひとりだけ車内にとりのこされたかは後々まで判明しないだろう。しかしながら、子どもを預かる者が、運転席から立ち上がりもせず、降車する子どもの人数も数えないとは、いったいどういうことだろう。 つい先頃、この事件とまったく同様の、通園バスに置き去りにされて死亡した幼稚園児の事件があったばかりだ。増田理事長はこの事件を同業者としてどのように見ていたのか。粗雑な神経、子どもを食い物にする商売根性だけなのか、と私は思う。 彼は、新しい理事長と園長が着任次第、すみやかに理事を辞任すると,上記の記者会見で述べた。責任を執るということらしいが、それは死んだ子どもに対する責任ではない。その点も、この男の心の中では曖昧のようだ。TBSNEWSーDIGのアナウンサーが、「(増田は)深々と頭をさげた」と言った。しかし、彼はいったい誰に頭を下げたのだ?
Sep 7, 2022
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故安倍晋三氏の国葬挙行について問題視されている。当然である。国税によって国葬とすべき法的根拠が無いからだ。しかしそれを国会で審議すること無く政府がほぼ独断決定した。さらに問題なのは、教育委員会が学校に対して半旗(弔旗)掲揚を促している。 その教育委員会の通達を私は以下に問題視する。 いったいに教育委員会は、ろくでもないことにはまことに一生懸命である。頭の程度が低いというよりも、組織の精神的機軸に狂気体質があるのではないかと私は常々疑っている。 空虚なシンボルに対する拝跪志向は、もっとも著しく様々な教育現場で目撃する。これは精神分析的あるいは心理学的に分析すると、自らを(すなわち教育委員会自身)をシンボルに同一化することによって、大きな権力を自らに付与することができるという極めて危険な幻想である。 そのような精神や心理が目的するのは、真の意味の、つまりあらゆる人間に通用する「教育」ではない。時の国家体制におもねる、いわば御都合主義な教育である。「教育」が、人間探究学から離れて、時の権力体制に従順な人間を育成するという意味になっている。まあ、それも教育ではある。日本の教育委員会の学校教育課が担って来たのはそれである。 英語の「educate (教育する)」の語源はラテン語の educere であるが、このラテン語はさらに e-ducere に分解される。e + ducere だ。そして e=ex=out, ducere=lead, またはdraw である。すなわち英語の educate の意味は、「人間が本来持つ能力を人間から引き出す」ということである。 しかしながら日本語の「教育」という言葉で示されて来た実質は、むしろ「従順性を植え付ける」という意味を強くして用いられて来たようだ。たとえば「小作人教育」「小僧教育」「平民教育」「軍隊教育」「婦女子教育」等々。さらにスポー等における暴力的教育や、学校教師による体罰による教育。この体罰についてはかつて文部科学大臣が容認するような表現で公言した。 そのようなことは日本の教育においてばかりではない。諸外国でも行われて来た。19世紀イギリスでは特に貴族階級の学校では教師や上級生による鞭打ちが頻繁におこなわれていた。また同じくイギリスの18世紀に関する文献を読んでいると、孤児院における教育を「farm」という言葉を使っているのに出くわす。farm は耕作とか動物飼育を意味する言葉だが、教育と飼育が同じ実体として考えられているのである。 また、ナチス政権下のドイツ軍では、なにかというと兵士を全裸にして尻を鞭打ちした。その光景は写真に残っている。映画監督ヴィスコンティは、ナチスを称して「尻と鞭と血」と言っていた。日本の旧海軍でも同様なことが行われていた。「けつバット」という言葉が今に残っている。人間を兵器にするために集団ロボット化しなければならず、「教育」という名で「個人」という人格と人権を剥奪したのである。 他国のことはともかくとして、要するに被虐/嗜虐的な支配構造の形成が、ほとんどその自覚無しに行われてきた。それが日本語の「教育」の中身に確実に存在した。そのような教育を、いわゆる「臣民教育」を引き継ぐような流れで促して来た、とも言えるのが教育委員会であり、その上にある文部科学省の学校教育課である。 大正11年(1922)に雑誌『少女号』に掲載された清水かつら作詞・弘田龍太郎作曲『雀の学校』という童謡は、誰もが知っていよう。 「チイチイパッパ チイパッパ 雀の学校の先生は 鞭を振り振り チイパッパ 生徒の雀は輪になって お口を揃えて チイパッパ まだまだいけない チイパッパ も一度一緒に チイパッパ チイチイパッパ チイパッパ」 この一見無邪気な童謡だが、教育に関する文化遺産を考察するうえで、歌詞の解釈と歴史的背景について議論されてきた。それは作詞者・作曲者の思いには無かったことかもしれない。しかし、「歌は世につれ、世は歌につれ」というのは真実である。歌の力のすばらしさでもあるが、歌が(絵も小説も同様に)罪つくりもするのである。 私は今日のこの日記ではあえてその問題にふれないが、『雀の学校』が議論されなければならなかったについては、私が上述指摘したことがらが、少なからず・・・いや、おおいに関係しているのである。あらためて言うと、日本における「教育」とは如何なることを指しているかという問題である。『雀の学校』の初出が、『少女号』という幼年女性のための雑誌であった点も注意しなければならない。 私の言っていることは極端であると思う人もいるであろう。しかし、このたびの安倍晋三氏国葬において教育委員会が学校に対して半旗(弔旗)掲揚を促す通達をしたことは、まさに私が述べたことの証拠である。解釈は各学校の判断にまかせるというような、きわめてずる賢い弁明をしているが、各学校がこの通達から逃れられないことを・・・つまり教員に対して睨みを効かしているぞと強迫めかして・・・弁明しているのだ。教育委員会の常套的方策である。 安倍晋三という人物が、国民の総意をもって葬送するに値するかどうか。こたえは「否」である。元首相であるけれど、・・・いや、首相という日本の政治の頂点にありながら、きわめて多くの暗い疑惑をまとっていた。追悼は個々人でするのが最もふさわしい。この人物の国葬を企画する人がいるとおり、傑物と思う人も少なくはあるまい。本心から涙滂沱して悼んでいるのかどうか。日本の政治は、ほとんど個人的な慾のかけひきだ。それをあたかも国家の利害であるかのように装っている。個人的な慾など私の知ったことではない。
Aug 25, 2022
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77年目の第二次大戦終戦記念日山田維史『死せる230万人の兵士のために』1991年作
Aug 15, 2022
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暑い夏。・・・これはなにも季節の謂いばかりではない。本日、第2次岸田改造内閣が発足した。「改造」は単なるドタマ(頭、面子)のすげ替えで、泥沼日本政治の浄化をめざしつつの国内外の困難に対する立案ができる行政府であるかどうかは多いに疑問だ。内閣人事においても与党人事においても、黒い霧をまとった人物を切り捨てることはできなかった。この鈍感な政府に果たして何ができるだろう。 悪に染まってしまった人間は、自らを悪と認識できないものだ。したがって、「説明責任」を追求はするけれど、(筆者山田は笑ってしまうのだが)私はこれこれこんなふうに悪事をいたしましたなどと「説明」する悪人が、どこに居よう。もしも説明するとしたら、それは「嘘」を言う機会を与えられたとほくそ笑むだろう。現に某国の首長とその配下の政治家連中の発言が例示している。・・・つまり、説明を求めるためには、追求力が必要だということ。相手をとことん追いつめ、逃げ場をふさぐ周到な準備と本質理解の能力がいるのだ。子どもの学級会のような質問をし、それに対するその場しのぎの応えをひとつ与えられると、もう二の句がつげない。それでは「説明責任」などと当事者に向かって言う資格はない。 しかし、私は最近のマスコミに興味深い傾向があると思っている。旧統一教会と政界あるいは政治家個人との関係についての探索が、右系マスコミも左系マスコミもほぼひとしく追求しているということ。この動勢は、これまでの政治的問題に関する報道にはあまりみなかったことだ。今までなら右系マスコミにしろ左系マスコミにしろ、ちかごろ大流行りの「忖度」が、記事のはしばしに(おそらく社の方針として)見え隠れしていた。それが旧統一教会と政界あるいは政治家個人との関係問題ではマスコミ各社の方針の対立がほとんど見られない。ただし、新聞にしろTVにしろ、個人論評は除かなければならない。どんな問題についてもTV芸者論評はあとをたたないらしい。 この件に関するかぎりマスコミ各社の主張対立が見えないと思っていたら、じつは今朝、私の家のポストに立派に印刷されたチラシが投込まれていた。それは中国系の一種のカルト宗教団体のチラシだった(ただし中国はこのカルト教団を弾圧した)。私は「なるほどな」と思ったのは、そのチラシの主旨は明確で、「勝共」だった。つまり韓国系の旧統一教会と同じ目的である。 本来なら、この二者はおそらく対抗的な関係かもしれない。しかしながらここにきて、上述のようにマスコミ各社が同じような方針で旧統一教会のありようを追求していることに、このチラシの団体は脅威を感じたのではあるまいか。旧統一教会と政界あるいは政治家個人との関係を、政界で率先して追求している野党を、このチラシの団体は名指しで敵であるとしている。旧統一教会を外側からサポートしている、と言えよう。また、宣伝工作次第では弾圧国家体制に対する反撃する機会、そして今こそ自らの勝機だと思っているかもしれない。 日本は、この押し寄せる黒い霧とそれがつくりだした深い闇から脱出するのは、相当難しいだろう。むしろ日本のことなどどうでもよくて、闇は深ければ深いほど甘い汁を吸えると思っているのが、国民を食い物にする日本の政治屋かもしれない。 「まさか、まさかと思っているのが命取り」 そうじゃないかえ、みなの衆!
Aug 10, 2022
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1945年8月9日 長崎原爆犠牲死者189,163人に 77年目の祈りを捧げ 世界平和の希求を誓います山田維史『1945年8月9日 長崎』 2011年8月9日作 紙にインク, 竹ペン
Aug 9, 2022
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今日も最高気温37℃の猛暑。私は水分補給しながら一日中作品制作。1点完成し、次ぎの作品もおよそ半分まで描いた。 書いておきたい社会問題は毎日限りも無いが、書いている時間がちょっと取れない。ひとつだけ私の考えを述べておく。 政府コロナ対策分科会の尾見茂会長が記者会見した。その会見で、尾見会長は新型コロナウィルスの感染拡大状況がさらに逼迫化すると予想され、その「第7波」への緊急対応として、政府に提言した。そのなかに次のような一件があった。 すなわち、感染者のすべての数字を把握している現状を中止すべきだ、と言うのである。 おいおい、感染者数を把握しないで、どうして実効ある感染対策ができるというのだ? 科学的な根拠となるのは、まず第一に正確な数字であろう。感染症者のただしい数字は、「今」しか記録できないものだ。あとから追いかけて拾集することはできないのである。しかも感染症の世界的なパンデミックのあらゆる真性な記録は、目先の現状対策のためばかりではない。人類の将来のためでもある。その認識は重要であるはずだ。 他国のことは言いたくはないが、某国は何事も国民に隠して幻想で立国しようとしているようだが、この感染症についても世界がまったく信用しない数字を発表している。正確な数字を誰も把握していないために、救助の手もさしのべられないだろう。救助は必要ないと言っているようだが、それは死に瀕している多くの国民の声ではあるまい。 尾見氏の発言を聴いて、私はからかいたくなる。「もうたいへん、ボクちゃん、できない。だって、頭んなか、真っ白だもん!」と言っているように、私には聞える。そして、この人には科学的な真摯さがないのではあるまいか、と。 あなたの能力でお手あげならば、身を退くべきでしょう。感染症対策は、政治的なみみっちい駆引きにはそぐわないのです。
Aug 3, 2022
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おっと、こいつは注意が必要だ。安倍晋三氏銃撃殺の容疑で逮捕された山上徹也が、本日7月25日、精神鑑定のために鑑定留置となった。(奈良西警察署から大坂拘置所に移送された;追記) 鑑定留置理由。 ・・山上容疑者は、これまでの調べに対して、母親が特定宗教団体に多額の献金をしたため破産し、家庭崩壊に至った。ためにその宗教団体に対して恨みを抱くようになり、宗教団体のトップを狙ったが近づけず、(その宗教団体と関係があると思った)安倍晋三氏を襲撃した。・・・この供述について、検察は、特定宗教団体(すでに、旧名・統一教会と判明し、一般に知れている)に対する恨みから安倍晋三氏殺害にいたる間に、「論理の飛躍がある」ので、精神鑑定をすることにした、と述べた。 私が注意したのは、検察が「論理の飛躍がある」と言っている点である。 もう一度、山上容疑者の供述を見てみよう。私にはまったく論理に飛躍があるとは思えない。少なくとも山上にとってはきわめて論理的だ。では、検察は何を問題にしたのか? じつはそれも明らかだ。 検察は、安倍晋三氏と特定宗教団体とに何らかの関係性があるかもしれないという、山上容疑者にとっては重要な点を、なおざりにするか、むしろその関係性を頭から否定的に考えている。あるいは逮捕直後に各メディアが、山上の供述によれば、安倍晋三氏が特定宗教団体と関係があると「思い込んだ」、と報道したように、検察も、「思い込み」として処理しようとしているかもしれない。それが、山上徹也に精神鑑定をするという「理由付け」であると、私は推測する。 つまり、安倍晋三氏と特定宗教団体は何の関係もないのに、関係があると「妄想」した、というのが検察が考えたストーリ。山上徹也の供述が、精神に異常を来しているがゆえの「論理的破綻」という図式である。このストーリを確定してしまえば、現在、おくればせながら各メディアが探索し報道している安倍晋三前首相と統一教会が関係があるか無いかという問題について、検察は手をつけずにすますことができる。私は、それが検察の考えのような気がする。この考えに添うように、この事件は公判まで運ばれるかもしれない。 鑑定留置期間は7月25日から11月25日までの4ヶ月。ずいぶん長い。 私は、山上徹也容疑者を銃撃殺人犯としては、まったく弁護しない。しかしながら、この男の起こした事件から、多くの日本国民にとって意外な、日本の広く深い「闇」が露呈しはじめているのかもしれない。そしてその深い闇は、検察組織の奥にも広がっているかもしれない。 精神鑑定の結果如何で、前首相を銃撃して殺害した犯人に対する量刑に、当然、軽い刑にするか重い刑にするかの問題が出て来よう。普通ならば、重大犯罪者に対する厳罰を要求する検察が、その重い量刑をあえて断念してでも、触れずにおきたいことがあるのかもしれない。それが、検察当局にとっても思いがけず露呈しそうだ。そこで容疑者の「精神鑑定」を考えたのではないか?「国葬」は国民を目隠しするにはまったく都合がよい。 私は、もちろん、そんなことは無い、と言い切りたいのだ。だが、この鑑定留置については、「上手の手から水」のような胡散臭さを感じないではない。 私は、私自身の方針として、なるべく推測で物を言わない・書かないことにしている。きょうの記述は、その禁を破った。この事件、検察の動向および後の裁判から判決にいたるまで、今後に注目、注目。 【追記】 7月27日 TBS NEWS DIG の映像。・・・現職閣僚等の関係の記者会見において、記者が国家公安委員長・二之湯智氏に対して、旧統一教会教会の「関連団体のイベント『ピースロード』について2018年京都府実行委員会の委員長を務めたのは事実でしょうか」という質問をしたところ、二之湯智国家公安委員長は、「今おっしゃったことは事実です」と応えた。 ・・・国家公安委員会委員長という要職(国務大臣であり、内閣総理大臣に任命され、内閣府に属す)にありながら、早い時期に社会問題になっていた宗教団体に、安易に近づいているのみならずその関連団体のイベントの実行委員長まで引き受けている事実に、私、山田は唖然とするどころか職務逸脱の危険さへ感じる。そして、山上徹也容疑者は、「思い込み」どころか、むしろこの宗教教団と日本の政治家や公職者との浅からぬ関係の実体を良く知っている、といえるかもしれないと私は思う。 鑑定留置は裁判所の留置状が必要であるが、当事者(つまり山上徹也)は鑑定留置を拒否することができない。また、鑑定受託者(鑑定人)には宣誓義務がない(後註)。 山上徹也の供述を「論理の飛躍」と言う官憲や精神鑑定人には、充分注意する必要があろうと思う。何かを隠蔽しようとしているかもしれない。その理由として私の推測を述べれば次のようだ。 つまり、刑事訴訟法の手続きに則り起訴状を作成するにあたり、山上徹也の供述どおり安倍晋三前首相と統一教会との密接な関係が事実となれば、前首相暗殺事件という”単純”な殺人事件に終始しない大きな政治問題に発展する可能性を避けられないだろう。検察はおそらく深いところを知っている。それゆえに、そこを、どうしても避けて起訴したいのではないか。山上徹也に対する精神鑑定の警察・検察の本当の意図は、山上徹也の「真実」とは何の関係もないのではないか、と私は疑念を抱く。 【註】犯罪容疑者であるけれども一個の人間性を「鑑定」するという、上位者意識の鑑定人に宣誓義務が無いと規定している法律は、じつに奇怪であるが、この法理念は、如何なる考えに基づくのだろう? 精神鑑定は、その結果如何では判決の量刑に差異が生じ、それが容疑者を重い刑罰を課せられる可能性から「救済」できる。無罪になる可能性もあるからだ。しかしまた、精神鑑定人自身の人間性によっては、まったく反対に重い刑罰を課す要因ともなる鑑定結果を提出する場合も当然ありうる。そのような事例は過去に存在することが、或る少年犯罪事件に関して報告されている。しかしながら鑑定人に宣誓義務が無いために、鑑定人は如何なる判断をしようとも罰せられることはない。 語弊を恐れずに述べれば、精神医学は、その発達史に鑑みても、充分に「科学」とは言えない余地を残している、と私は考えている。人間の精神というのは、決して万人を一括りにできないのだ。私たち個々人は、結局のところ、60億分の1の精神の持ち主だということだ。それが人間というものである。 Oops, I have to need to be careful about this. Tetsuya Yamagami, who was arrested on suspicionof shooting Shinzo Abe, was detained today for amental test on July 25. Reason for appraisal detention: ... Yamagami has stated as follows in response tothe investigation so far. His mother made a largedonation to a particular religious group and wentbankrupt, leading to his gamily collapse. He beganto have a grudge against the religious group, aimingfor the top of the religious group, but couldn't getclose to to it, and Yamagami thought that formerPrime Minister Abe had something to do with thereligious group, so he attacked Shinzo Abe. ... Regarding this statement, the prosecution saidthat there was a "leap of logic" between the grudgeagainst a particular religious group (already knownas the former name, Unification Church) and themurder of the former Prime Minister Shinzo Abe.The investigation and prosecution said they decided to do a psychiatric evaluation of Yamagami. I was careful that the prosecution said that therewas a "leap of logic". Let's look at Yamagami's statement again. I don'tthink there is a leap in logic at all. At least forYamagami, it's quite logical. So what did the prosecution have to do with Yamagami's statement? Actually, that is also clear. The prosecution neglects the important point forYamagami that there may be some relationship between Shinzo Abe and the religious group, orrather considers the relationship negatively fromthe head. ... Or, as the media reported immediatelyafter the arrest that Yamagami "believed" that theformer Prime Minister Shinzo Abe had somethingto do with the religious group, according to Yamagami's statement, the prosecution may be trying to treat it as a "belief of Yamagami." un-known. I presume that is the "reason" for TetsuyaYamagami to give a psychological assessment. In other words, Shinzo Abe and the particularreligious group had nothing to do with each other,but Yamagami had a "delusion" that they had arelationship with each other. The prosecution'sstory is that Tetsuya Yamagami's statement is a"logical failure" because he has an abnormality in his mind. Once this prosecution's story is fina-lized, the prosecution can leave to touch on theproblem about relationship between former Prime Minister Shinzo Abe and the Unification Church, which is currently being explored and reported bythe media. i feel that is the idea of the prosecution.Inline with this idea, the case may be brought totrial. The appraisal detention period is 4 monthsfrom July 25th to November 25th. It's quitelong. I do not defend Tetsuya Yamagami as ashooting murderer at all. However, the incidentcaused by this man may have begun to reveal thewide and deep "darkness" of Japan, which issurprising to many Japanese people. And that deepdarkness may extend deep into the prosecution'sorganization. Depending on the result of the psychologicalexamination, the sentencing of the criminal whoshot and killed the former prime minister will, ofcourse, be a matter of light or heavy punishment.The prosecution, which normally demands strictpunishment for serious criminals, may want toleave it untouched, even if it dares to abandon theheavy sentence. That is likely to be unexpectedly revealed to the prosecutor's office. So maybe theythought about the suspect's"psychiatric assessment"? And now, "the state funeral" of ShinzoAbe is quite convenient for blindfold the people. I want to say that, of course, that is not the case. However, with regard to this appraisaldetention, I feel the odor of "water leakedfrom their skilled hands". As my own policy, I try not to say or write byguessing as much as possible. Today's descrip-tion broke that ban. From this case, the prosecution's trends, andthe subsequent trials to the judgment, I will payattention to the future.(Addition;) July 27, TBS NEWS DIG video. ...At a pressconference related to incumbent ministers, etc., when the reporter asked Mr. Satoshi Ninoyu, the chairman of the National Public Safety Commission, "Is it true that you chaired the 2018 Kyoto PrefecturalExecutive Committee for the event Peace Road whichthe related organization of the former Unified Church?", Satoshi Ninoyu, Chairman of the NationalPublic Safety Commission, said, "It is true that you justsaid". ... Mr.Ninoyu is in a key position as Chairman of theNational Public Safety Commission (Minister of State,appointed by the Prime Minister, and belong to theCabinet Office). Nevertheless, I, Yamada, was far frombeing stunned by the fact that he was not only easilyapproaching a religious group that had become a social problem at an early stage, but also undertook the executive committee chairman of the event of that related group. I feel the danger of. And I think it maybe said that Tetsuya Yamagami is more familiar withthe substance of the relationship between this religiouscult and Japanese politicians and public officials, ratherthan "belief". Appraisal detention requires a court de-tention letter, but the parties (that is, Tetsuya Yama-gami) cannot refuse the appraisal detention. In addi-tion, the appraisal trustee (expert) is not obliged to swear. I think it is necessary to pay close attention to prosecutors and psychiatrists who call Tetsuya Yama-gami's statement a "leap of logic." They (and also the government) may be trying to hide something. My guess is as follows. In short, when preparing an indictment in accord-ance with the procedure of the Code of CriminalProcedure, if the close relationship between formerPrime Minister Shinzo Abe and the Unification Churchbecomes true as stated by Tetsuya Yamagami, a"simple" murder case called the assassination of theformer Prime Minister. It will be inevitable that it willdevelop into a big political problem that never ends.The prosecution probably knows the depths. There-fore, they definitely want to avoid and prosecute.) Tadami Yamada
Jul 25, 2022
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我ながらすばらしいスピードで作品が完成してゆく。きょうも夕食前には1点できあがった。この作品は四日間で完成した。絵を描くことに専念できない仕事があるので、とにかく少しでも時間を貯金したい。 昨日の朝に注文した本が、きょうの昼前に届いた。学術論文も読みつづけている。メモを取る記述も少なくない。・・・・・・・・・・・・ さて、政府が故安倍晋三氏の国葬を異例な早さで即決し、実施日時を発表した。 故人を悼むことにやぶさかでない人もいるだろう。人の死を利用して、お祭り騒ぎで国民のミス・リードを画策する者たちもいるだろう。「死」は、それが誰の如何なる死であれ、人々を黙らせるものだからだ。 しかし、前首相安倍晋三氏は、その政治的言動が必ずしも賞賛に価するものではなかった。 官僚を自死に追い込んだ事件の主体者という疑惑もあり、その疑惑はまったく晴れたわけではない。この事件は首相という立場を利用した、私情をまじえての国有財産売却の臭いがある。 そして、憲法無視の嫌疑である。これは、前例をつくってしまえばその後は何とかなる、という考えから来ているだろう。堕落した思考だ。 国内外の政治を「お友達政治」といって得意になる、甘ったれた「俺様を見よ」感覚の時代遅れ。それは国民をないがしろにする常習的な密約政治感覚である。中曽根康弘にもあった感覚だ。国際政治が「お友達政治」感覚では乗り切れないことの危険性は、本人以外の良識ある人たちはみな知っていた。それは国際平和的友好関係を構築する政治感覚とは相容れない。国益に資するというよりむしろ個人的利益に資する方向性を備えているからだ。その感覚がどのようなものであるかは、安倍氏がお友達と言っていた米国のトランプ前大統領の政権が例示していたし、ロシアのプーチン大統領には日本政府はまんまと手玉にとられた。その事実は、政府が口にする「国益」に、むしろ反するような結果となったと評してもよかろう。 「死者に鞭打つ」という。私の述べていることが、それであるなら、一国の首相であった人物であれば、それが誰であれ、当然受けなければならない、鞭打たれなければならない、死後の傷みである。 このような人物を国葬するとは、まさに岸田政権は、彼の首相でありつづけたいあからさまな自己保存の欲望をむきだしにして、腐敗政治を継承することを示したことになろう。 行政庁の不正横行は、公務員法によって上意下達の命令実行に縛られている官僚が、政治の腐敗なかんずく為政者の悪徳を知悉してい、敏感に反応して、そのなかで自己保存をさぐっているからにほかならない。腐った為政者のもとでは官僚も腐るのである。「悪貨は良貨を駆逐する」という19世紀のグレシャムの法則は、組織や機構のなかでも生きているのだ。現・行政庁の不正は、為政者の悪徳を模倣しているのである。それは表面的には見えにくい安倍政権の内臓がいかなる状態であったかを如実に示していると言えるであろう。 一国の首相経験者が銃撃されて殺されたということは、重大な問題である。その点は、今後、あらゆる方面から深く真摯に検証してゆく必要がある。 しかし、私は再び言う。その問題の重要性と「国葬」は、全く違う問題だ。「国葬」とは、故人の業績と人格とに国民の総意で「栄誉」を捧げるものである。そのような人物であったならば、国民は、よろこんで国税を費やするであろう。(私は金額の多寡を言っているのではない。念のため断っておく)。 The government has announced the state funeral ofthe late Shinzo Abe with an unusual prompt decision. Some people may not be afraid to mourn the de-ceased. Some will use the death to make fuss and planto lead the people in the wrong direction. Because "death" silences people, no matter what the death of any person. However, the former Prime Minister Shinzo Abe wasnot always worthy of praise for his political words anddeeds. There is also a suspicion that he was the subject ofthe case that forced bureaucrats to die, and that sus-picion has not been cleared at all. This case has the smell of selling state- owned property with the per-sonality of the prime minister. And there is suspicion of ignoring the Constitution. This may come from the idea that once you set aprecedent, you can do something about it. It's acorrupt thought. The politics of Japan and abroad is called "friendpolitics", and it is outdated with a sweet "look at me"feeling. A habitual secret agreement political sensethat neglects the people. It's a feeling that YasuhiroNakasone also had. All sensible people other than himself knew the danger that international politicscould not be overcome with a sense of "friend politics."It is incompatible with the political sense of buildinginternational peaceful friendships. This is because ithas a direction that contributes to personal interestsrather than to national interests. The Trump admin-istration in the United States illustrated what that feeling was like, and the Japanese government wastaken care of by Russian President Vladimir Putin. Itcan be said that this fact was rather contrary to the"national interest" that the government said. It is said to "whip the dead". What I am saying is,if that is the case, the posthumous hurt that anyonewho was the prime minister of a country must take,must be whipped. The state funeral of such a person would have shown that the Kishida administration would inheritthe corrupt politics, exposing the overt desire forself-preservation to remain his prime minister. The fraudulent rampant of administrative ministriesis none other than the fact that bureaucrats, who arebound by the civil servant law to carry out commandhierarchies, are aware of political corruption andthe vices of the politicians, and are searching for self-preservation. Because it is rotten, bureaucratsare also rotten under the politicians. Gresham's law ofthe 19th century, "bad money drives out good money,"lives on in organizations and institutions. The insus-tice of the current administrative agency imitates thevices of the politicians. It can be said that it clearlyshows the state of the Abe administration's interbalorgans. The fact that a former prime minister of a countrywas shot and killed is a serious problem. In the future,it will be necessary to examine this point deeply and sincerely from all directions. However, I will say it again. The seriousness ofthe problem and the "state funeral" are completelydifferent problems. A "state funeral" is a consensusof the people to give "honor" to the achievements and personality of the deceased. If he/she weresuch a person, the people would be happy to spendthe national tax. (I'm not saying the amount of money. I'll decline it just in case).Tadami Yamada
Jul 23, 2022
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安倍晋三元首相に対する銃撃殺は、まことに痛ましい限りだ。 私は、その後の各社報道を読んでいて、気付いたことがある。それは、報道およびこの事件に関する論評が、ことごとく「言論に対する暴力」という主旨であることだ。私は、ちょっと待て、この事件の本質は「言論に対する暴力」なのか? と疑念が差した。 安倍元首相は、近鉄西大寺駅前で、このたびの参議院選挙候補者の応援演説をしていた。それは確かだ。 しかしながら、現行犯で捕えられた容疑者(犯人と言ってよかろうが)の奈良県警に対する供述というものを、報道で読む限り、ほぼ次のようだ。 犯人は「安倍元首相の信条に恨みはない」と言い、特定宗教団体を名指して、この犯人の母親が入信して多額の金銭をこの団体につぎこみ(寄進? 献金? 上納? 霊感商法により?)、破産し家庭崩壊となった。初めはこの宗教団体の首位者(トップ、と供述しているようだ)を狙ったが、近づけなかった。この宗教団体を安倍元首相が国内でひろめた(毎日新聞の表現。朝日新聞は、「安倍元首相が(この団体と)近い」、と表現)と「思い込み(各社報道による)」・・・手製の銃で狙撃した。 今後、警察は犯行に至る経緯を取り調べるであろうが、上述の「供述」が真実であるならば、私は、この事件の本質は「言論に対する暴力」ではない、と考える。安倍元首相が選挙応援演説中であり、二日後の7月10日(本日)に投票日を控えていたので、如何にも「言論に対する暴力」の相貌を呈しているように見える。犯人は元海上自衛官という経歴もあり、第三者(傍観者)の想像を掻立てるかもしれないが、安倍元首相の「言論」に対する攻撃ではあるまい。事件の本質ではないだろう。 かつて1960年、17歳の右翼少年山口乙矢が、演説中の社会党代議士浅沼稲次郎氏を刺殺した。日本政治史および社会史には言論に対する暴力事件は、多くはないにしろ決してすくなくもない。暴力が実行されないまでも、言論の自由・表現の自由をさまたげる行為は地方行政の主動でむしろ頻繁に起っている。 安倍晋三元首相銃撃殺事件は、今後、日本政治史および日本社会史において特筆されるであろう。私が危ぶむのは、元首相が「言論に対する暴力」で暗殺されたと記録されることだ。 現在、各社報道も評論家だという人も、ほぼことごとくこの事件を「言論に対する暴力」と看做している。しかし、犯人が言っているらしい「安倍元首相に対する恨み」は、安倍氏の「言論」に向けられたものではなさそうだ。犯人にとっての事件の本質は別のところにある。その点は見誤ってはならないだろう。 民主主義を標榜する日本社会にとって、言論に対する暴力は最も忌むべきことであり、危険なことである。しかし、本質を見誤った報道や論評は、言論の自由の自爆装置となりかねない。 The shooting of former Prime Minister Shinzo Abe istruly painful. I have noticed while reading the media reports eachcompany after that. That is, the press and commentary on this case are all about "violence againstspeech." Wait a minute, is the essence of thiscase "violence against speech"? I was skeptical. Former Prime Minister Abe was giving a support speech for the candidate for the Upper House election in front of Kintetsu Saidaiji Station. That'sfor sure. However, as far as I read in the press, the statementof the suspect (although it may be called the criminal)who was caught by the current offender to the NaraPrefectural Police is almost as follows. The criminal said, "I have no grudge against thecreed of former Prime Minister Abe," and named aspecific religious group, and the criminal's mothergave a large amount of money into this group (Is this money donation?), Bankruptcy and familycollapse. became. At first, he aimed at the leader ofthis religious group (it seems to have stated to useward "the Top"), but he couldn't get close to the top.Former Prime Minister Abe spread this religiousgroup in Japan (Expression of Mainichi Shimbun. Asahi Shimbun expressed that "Former PrimeMinister Abe is close to this group") and he"believed" it ( according to each company's report).... he shout with a homemade gun. The police will investigate the circumstances lead-ing up to the crime in the future, but if the above-mentioned "statement" is true, I think that the es-sence of this case is not "violence against speech". Former Prime Minister Abe is giving an electionsupport speech, and two days later, July 10 (today),the voting day is coming up, so it seems that this case is showing the appearance of "violence againstspeech". The criminal has a history of being a former SDF personnel, and may stir the imaginationof a third party (bystander), but it is not an attackon former Prime Minister Abe's "speech." It wouldn'tbe the essence of the case. In 1960, the 17 years old right-wing boy, OtoyaYamaguchi, stabbed and killed Inejiro Asanuma, therepresentative of Socialist party, during his speech.there are not many, if not many, cases of violenceagainst speech in Japanese political and social history. Even if violence is not carried out, acts that impede freedom of speech and expression are ratherfrequent, driven by local governments. The case of the shooting of former PrimeMinisterShinzo Abe will be noted in the history of Japanesepolitics and social history in the future. My concernis that the former Prime Minister is recorded assassi-nated in "violence against speech." Currently, even those who report on each compny and are critics regard this case as "violence againstspeech". However, the "grudge against former PrimeMinister Abe" that the criminal seems to say is notdirected to Mr. Abe's "speech." The essence of thecase for the criminal lies elsewhere. That pointshould not be misunderstood. For the Japanese society advocating democracy,violence against speech is the most abominable anddangerous thing. However, reports and commentarythat misunderstand the essence can become aself-destruct device for free speech.Tadami Yamada
Jul 10, 2022
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本日8日、午前11時30分頃、奈良市・近鉄大和西大寺駅前で街頭演説中の安倍晋三元首相が銃撃された。各社の報道によれば、安倍氏の背後に向け2発発射された。安倍氏は心肺停止となり、救急搬送された。 犯人は、その場で警護のSPに取り押さえられ、41歳の元海上自衛官と報じられた。奈良県警によれば、犯人は、「安倍元首相の政治信条に対する恨みではない」と供述しているという。 その後の詳しい報道は途絶えていたが、複数の政府関係者が午後5時03分死亡を確認したと報じられた。また、奈良県立医科大学附属病院の吉川公彦院長と救急医学の福島英賢教授が記者会見し、安倍晋三元首相は午後5時03分に死亡したと正式に発表した。・・・・・・・・・【付記】 安倍元首相が救急搬送された奈良県立医科大学附属病院の吉川公彦院長と救急医学の福島英賢教授が記者会見した。 私は記者会見のライブ放送を聞いていて、質問する記者に対して、おや?と思ったことがある。「心肺停止」という言葉の定義を知らないのではあるまいか、と私が思った記者がいたことだ。 「心肺停止」というのは法的な言葉である。心臓と肺が停止という医学的状態を差しているのではない。つまり「死んでいる」と一般人が判断できる状態であっても、法的には「死亡」ではないのである。「死亡」を確定できるのは、ただひとり医者に限られるのである。医者が「死亡」を宣言したときにはじめて「死亡」が確定される。これは何を意味するかといえば、医者が「死亡」診断書に署名した時点で、件の人物のすべての「公民権」が停止され、「相続」という法手続が開始されるのである。したがって医者が死亡診断書に書名するまでは、「心肺停止」という言葉が使われる。 たとえば雪山遭難者が遭難から1週間後に発見されても、医者が死亡を確定するまでは「心肺停止」状態なのである。一般人の感覚からすると随分ずれているように思うかもしれないが、じつは医者が確定する「死亡」とは、時間を遡行しないでその確定時点から日本国民としてのすべての義務と権利が失効するという、重大な法的な意味があるからである。死亡診断書に死亡時刻が明記されるのは、そのような意味があるのである。死亡診断書に明記された死亡時刻から、死者は、法的な「屍体」という「物」になるのである。 報道記者がそのような言葉の定義を知らないとは、私は唖然とする。 また、ついでに述べれば、心肺停止の被銃撃者に対する救急医療は、あくまでも救急医療であり、「検視」および「検死」ではない。「検視」および「検死」は、検察庁の領域である。したがって、奈良県立医科大学附属病院の救急医学の福島英賢教授のチームは、当然のことながら「検視」および司法解剖による「検死」をしたのではない。 報道記者たちはこの点もあまり明確に理解していないように私は見受けた。記者諸君は常識的な事柄をもっと勉強しなければいけないね。
Jul 8, 2022
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昼頃から雨が降り始めた。それまでは青空も覗いていた好天気だったのだが。間が悪いというか、外出準備中だった。午後2時から午後4時まで、民生委員・児童委員の夏期研修がスケジュールされていた。ヤングケアラーに関する勉強である。 私の亡母は、リスクが非常に大きい三度の手術を医者も驚く生命力でのりきり、寝たきり状態の在宅医療患者となった。私は、1日24時間付ききりで、4年間看護した。そのことが、母亡き後、民生委員に推薦される基になったのだが、私は60代だったので、もとよりヤングケアラーではない。しかし、きょうの研修で、ヤングケアラーの現状は、その子どもたちの精神状態をふくめて、私の経験した実情をほとんどそっくり子どもに置き換えたものだと思った。 大人の私に大変だったのだから、小・中学生、そして高校生にしろ大学生にしろ、それはそれは大変であろう。しかも、彼らは若くて元気がいいと見られているので、法的に介護保険が申請できない。被介護者の家に誰か元気な家人がいる場合、介護保健が認可せれるのが非常に難しいのである。この子どもたちを何とか公的手段で救助できないか、あるいはせめて補助できないかと、官民のサポート組織は頭を使ってはいる。おかしな法律だが、それが日本の現状だ。 ヤングケアラーの子どもに辿り着いた(接触できた)官民のサポーターに対して、ほとんどの子どもたちは弱音を吐くことがない。「だいじょうぶ」と言うそうだ。・・・しかし、ほんとうにだいじょうぶなのだろうか? だいじょうぶのはずはない、と断言してよいだろう。私は先に、「子どもたちの精神状態をふくめて、私の経験した実情」と述べた。必ずしも子どもの精神状態と同じではなかろうが、私に「だいじょうぶ」と言わせたのは私のプライドだった。 私は12歳のときに自ら望んで勉学のために家族と離れた。13年後の25歳のときに、突然、両親が私と一緒に住みたいと引っ越してくるまで、私は身寄りがいない土地で独りで暮らしていた。そして父、それから母と、つぎつぎに病魔に襲われた。ちょうどその頃、私はイラストレーターとして仕事の依頼がひきもきれずに来るようになり、文字通り眠る時間もなく仕事をしていた。父が深刻な病状と判っても、ほとんど弟にまかせてしまっていた。そして、私は見舞いに行く時間もつくれないまま、父は入院先の大学病院で死んだ。 ・・・私は後悔した。描き、売れなければ、食っていかれない、何の保証も無い職業で私自身の人生をつくっていかなければならなかった。しかし、子どものときから13年間、何ひとつ指図もしなければ文句も言わなかった父を、見殺しにしたような、ふたつの気持の板挟みになった。 そして父の死後間もなく、母が大病になった。実は、父が存命中にすでに母の病気は判明していた。大きな動脈瘤が腹部にできていた。あまりにも大き過ぎて、また、年齢も年齢だったので、大学病院でも手術が不可能と判断していたのだ。この手術を決行することになったのは、母の別の大手術が成功し、それを知った動脈瘤を担当していた主治医が、あるいはこちらのほうも母は耐えるかもしれないと思ったようだ。私は大きな賭けをした。母の生命力に賭けたのだ。そして、母は直径5cmの巨大動脈瘤にステントを挿入するという、主治医のいうには最高齢の事例となる手術に耐えた。しかしその後間もなく、母は動脈解離をおこした。さすがに手術はできず、薬物療法により50日間の入院で、骨と皮ばかりに痩せこけて、しかし母は生き延びた。50日間の絶対安静状態の入院で、母の精神状態は恐怖と孤独に冒された。幻覚が現れ、叫び声をあげた。私は、拘禁症状とおなじような症状だと思った。母はそれ以上入院をつづけられなくなっていた。私は危険を承知で在宅医療を申し出た。 母は寝たきり状態でもあり介護保険はすんなり認可された。すぐさまケアマネージャーが来宅し、介護プランを作成した。医療用ベッドや、室内酸素発生装置、および携帯酸素発生装置と酸素ボンベ(これはMR検査のために病院の寝台車で通院するとき及び入浴時に使用)や、吸痰器が家に運び込まれた。そして訪問医療や訪問看護士や訪問入浴、液体完全栄養食、薬剤配達等々が介護保険で手配された。 (付記: 父のために介護保険申請をしようとしたとき、調査員が来宅した。調査員は病床の父に対して赤ん坊のように接した。赤ん坊言葉でばかげた質問を繰り返した。私は、「無礼者!」と一喝したい気持を抑えた。しかし、このような屈辱に耐えている父を見て、介護保険申請を止めた。) 私は、「私のプライド」と言った。父を死なせたようなことをしたくなかったのだ。子どものときから家を離れ、母にさびしい思いをさせた。その13年間を、いま私は埋め合わせをしなければなるまい。そして・・・息子として、見る影もなくなった哀れな母の姿を、他人に見せたくなかった。また、私なりの長い長い周囲との葛藤のすえにようやく作り上げた絵を描くことに専念できる環境、・・・それは私自身の「孤独」が紡ぎ出す作品のための環境であり、イメージを育むための環境を、他人が家のなかに出入りすることで乱されたくなかったのだ。それは、微妙な「気配」の環境だからであった。 私は、看護士が来宅する前に、すべてのことをすませてしまった。下(しも)の始末をし、おむつを取り替え、シーツを替え、身体を拭い、新しい寝衣に着替えさせ、顔をととのえ、口腔を清浄にし、流動食を2時間かけて鼻腔より入れ、・・・一日の始まりをすべてやりおえて、看護士を迎え、医師を迎え、訪問入浴のスタッフを迎えた。 看護士はほとんど何もすることがなく、ただ血圧を計測して帰っていった。その血圧計測さへも、すでに私がやり、看護日誌に記録していた。尤も、在宅医療が始まった当初は、母はまだ少し元気があったので、無意識のうちに鼻から入っている流動食用の管を引き抜いた。そのたびに看護士に急いで来宅してもらい、管を入れ直してもらった。それは夜中のこともあり、正月中だったこともあった。看護士には申し訳なかったが、その管が母の「食事」のための唯一の手段だった。後には主治医の指導で私がその技術を修得したが。 訪問入浴は、部屋の中にシートを敷き、バスタブをいれ、外部の車載湯沸装置とモーターポンプで連結する。患者はハンモックに寝たままの状態で入浴する。排水は家の浴室の排水口を使用するので、私は前もって浴室の清掃もすませておいた。・・・じつは、訪問入浴に頼る前は、父の場合も母の場合も、私が抱えて入浴させていた。我家の浴槽は床に埋め込みになっている。浴槽の底に滑りどめのマットを敷きつめ、浴槽のなかにフランスのニースから取り寄せた桜の香りの液体石鹸を投入し、洗い終わると湯を抜き、そのままシャワーで石鹸を流し落とした。しかし、病状がすすむにつれて抱えて入浴させることが不可能になったのである。 プライド。そう、プライドだったと思う。プライベートを見せることへの抵抗。しかし見せなければならなかったので、「だいじょうぶ」と笑いながら黙々とやりきる。やりきってみせるという意地。 私は自分の状況を誰にも口外しなかった。相談をしたとして、通り一遍の慰めをされても、言葉のバイブレーションや表情筋のかすかな変化に敏感な私の感覚は、かえって苦痛を増すばかりだったからだ。 母の状態がもう末期だというころ、いつものように来宅した主治医が私を見て、「ちょっとお兄さんの状態を診てみましょう」と言って、血圧や血糖値などを検診した。そして、「病気すれすれのところに来てます。すぐに病院に行ってください」。 私は、4年間、自分のベッドに寝たことが一度も無かった。母の医療ベッドの脇の床にゴロ寝していた。母が寝ながら咳き込んで、数時間前の流動食が胃から逆流し、つまり嘔吐することがあった。私は急いで母のベッドに跳びのり、「おかあちゃん、ごめん!」と言いざま、母の胴体をかかえて逆さまにつり下げた。嘔吐物が肺に流入しないようにだ。なにしろ一食分の流動食は800ml。嘔吐すると胃液とともに洗面器一杯ぐらいになる。もちろん洗面器など用意できるはずはない。ベッドも床も吐瀉物まみれになった。私は全部吐きおわるのを見計らい、つりさげていた母を私の膝の上に頭を下に、顔を横向きにし、あいた手で吸引器に管を装着して口から入れ、喉の奥に残っている内容物を吸い出した。それから、夜中だったが、主治医に電話をして来宅を乞うた。汚物が肺に入って、肺炎を起こしていないかを診てもらわなければならなかった。また、鼻腔から胃までとどく長さの管を常に装着しているので、新しい管を入れ直さなければならかった。・・・そんなこんなで、私は母のベッドのそばを離れられなかったのだ。それやこれやで休息をとれない生活が4年間つづいていたので、私自身の身体も病気寸前まできていたのだろう。 ヤングケアラーの子どもたちが、どのような介護をしているにせよ、ほとんどは子どもの手に負えることではない、と私は想像する。しかし、自分の置かれている状況を他と比較して客観的に観ることは、おそらくできないのではあるまいか。そして、サポーターに問われれば健気にも「だいじょうぶ」と言っているように、私には思える。そのような状態が、はたして何年つづくのかもわからずに。小学生が成人を過ぎても、まだ依然として父や母を、場合によっては祖父母をたったひとりで介護している例が、決して少なくはないらしい。ヤングケアラーの子どもたちは、いったい何時、自分自身の人生設計ができるのであろう。 ・・・私自身は、・・・60代だった私自身は、介護の4年間、まったく職業的営為から離れなければならなかった。私は、訪問看護士が来宅した最初の日に、私の思いをすべて話し、人前で初めて泣いた。看護士は自分の将来的な設計を話した。わたしより20載も年下だ。私はその人がまっすぐに自分の人生を進むだろうと思った。そして、私は泣いたあとで、きっぱり心がきまった。できるだけ母を長生きさせるために、何年間でも介護をやりぬいてやる、と。すべてがおわった後で、私が絵描きに戻れるか否かは、私の能力次第だ、と。 ヤングケアラーの子どもたちが、自分自身の人生を確かなものにできるように、われわれ大人は何をしたらよいだろう。彼らの介護の状況をそのままに、心の補助をすれば、それでいいのだろうか。それとも、彼らが今やっている仕事を、そっくり誰かが替われば、よいのだろうか。 昔のような家族形態の復活を提言する人もあろうが、そんな復古が可能だろうか。地域のサポートを提言する人がいるが、地域のサポートがそんなに容易だろうか。「おせっかい」を乗り越えた、他人の人生をガッチリ受け止めるサポートができるだろうか。 私の母は、「兄ちゃんと一緒に暮らせて、楽しかった!」と言い、死んで逝った。ヤングケアラーの子どもたちのなかには、燃え尽き症候群がおこることがあるそうだ。長く辛い仕事をやりっきった後におそってくる心身の空虚感である。私自身、母の死後に、イラストレーターとして画家として筆を執れるまでには数ヶ月の時間が必要だった。かと言って、その数ヶ月間、休息が取れたというのでもなかったのである。
Jul 5, 2022
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沖縄戦全犠牲者のための「慰霊の日」、私も遠くから24万1686人の戦没者を追悼します。 沖縄県糸満市の「平和の碑」に名前を刻まれた24万1686人の沖縄戦の戦没者は、日本全国からの出身者のみならず、米英や朝鮮半島の出身者をふくむ。戦争の犠牲に、国籍等は関係ない。このような思想がなくては、平和を祈れるはずはないからである。 ことしは12日間かけて、碑に刻まれた全戦没者のお名前を読み上げたそうだ。私はそのニュースを万感の思いで受け止めた。現在もなお、戦争を指向(嗜好)する人たちが、後を絶たないからである。 On “Okinawa Memorial Day” for all the victims of theBattle of Okinawa, I also mourn the 241,686 war deadfrom afar. The 241,686 people who died in the Battle of Okinawa, whose names were engraved on the “Monu-ment of Peace” in Itoman City, Okinawa Prefecture, include not only people from all over Japan but alsopeople from the United States, Britain and the KoreanPeninsula. Nationality is irrelevant to the victims of thewar. Without such an idea, we cannot pray for peace. It took 12 days to read out the names of all the wardead engraved on the monument. I took the news with all my heart. This is because there are still manypeople who are are oriented toward war (preferences).Tadami Yamada
Jun 23, 2022
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在外邦人が国民審査の投票ができない現行の「国民審査法」は、憲法第79条に違反するとした、最高裁大法廷(裁判長・大谷直人長官)の判決が、本日5月25日にあった。裁判官全員の一致した意見だった。 最高裁裁判官国民審査権は日本国民が憲法で保証された重要な権利である。しかしながら現行法は「国民審査の在外投票不可」を設けて来た。長らく問題視されていたその条項を、立法府(国会)は糾そうとはしないできた。それに対し、きょうの最高裁判決は、「立法不作為」と断じ、賠償を命じた。 法令が憲法に違反していると判決が下された例は、大東亜戦争終結後11件あった(*)。そのうち、立法不作為による賠償を命じたのは2件あった。したがってこのたびの、在外邦人国民審査を制限した「国民審査法」に対する違憲判決は、まさに画期的判決である。さらに判決は、この審査権は過去にもどって回復できないものなので、現行法は早急に改正されなければならない、とした。 なぜこのように強く命じたかというと、じつはこれまで立法不作為の理由として、広く海外に在住する有権者に投票用紙を過たず送達するのが困難だという意見があったからだ。このような愚劣ともいえる考えを、判決は、いくらでも工夫できるだろう,頭を使えよ、と封じたというわけである。 いまや、世界中あらゆるところに日本人が在住し、それぞれの立場、それぞれのやりかたで「活躍」している。日本人は昔のような「井の中の蛙」ではないのである。その人たちから,日本国民としての重大な権限を奪ってはならない。【*後註】 戦後立法の違憲法令の11件を、多いとみるか比較的少ないとみるか、意見がわかれるかもしれない。私は、多い、と考える。というよりも、立法府(国会)が、憲法を熟知していない、あるいは憲法違反を承知しながら法令を制作している疑いがある、と思うのだ。そのような国会議員が国政を担っているのだという、恐ろしさを感じる。「呆れる」という感情をこえて、「恐ろしさ」である。
May 25, 2022
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山田維史故清水和彦氏作『九条りんご』「私は若者たちが死ぬ戦争を夢見る年寄連中の話を聞くのはうんざりだ」 ジョージ・マックガヴァーン (ポスターはWebサイトより)
May 3, 2022
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東京は明日、雪になるかもしれない。そんな予報が出ている。 それを見越して、コピー用紙を数束買いに出た。文字原稿を印刷していて、1度にA4判を500枚印刷したので買い置きがなくなったのだ。 私は執筆にコンピューターを使っている。しかし、書き上がった原稿を、紙に印刷しないと安心できない。USBメモリーやDVDに記録するけれども、これらのメディアは、決して安心できる保存媒体ではないからである。私は何度もそれで取り返しがつかない失敗をしてきた。 その一つの媒体が、MDである。この媒体はすでに製造が中止になり、それと同時に読み取り装置も店頭から消えた。使用していた読み取り機は、コンピューターのヴァージョンに適合しなくなった。コンピューターが2,3年ごとに次々とヴァージョン・アップをするので、いつのまにか記録媒体のヴァージョンと適合しなくなるのだ。 ソフトウェアーも然りである。私はIT企業会社の勝手な理由による使用媒体との不適合発生によって、どれほど金銭的損失をこうむってきたことか。初期のアップルワークスに始まり、編集ソフトのクウォークエクスプレス、イラストレーター、フォトショップ、各種の外字漢字ソフト、エクセル、ワード、オフィス、はがきソフトetc. 私のような個人使用者が100万円、200万円の出費を強いられているのだから、一般会社や官公庁の出費は莫大であろう。官公庁の出費は、つまりは国民の税金で支払われているのだ。 電子書籍についても言える。電子書籍は個人の財物とはならない。紙の書籍のような所有の概念が成立しないからだ。おそらく古書の概念も成立しないだろう。古書を繙くという学術世界が破綻するだろう。 私はこのブログにおいて、オックスフォード大学の各カレッジの図書館や、アイルランドのトリニティーカレッジ図書館の画像を掲載した。またニューヨークのかつての財閥ピアポント・モーガンの私設図書館、現在のモーガン・ライブラリー・アンド・ミュージアムが何を意味しているか、あるいはヴァチカンの全長数十キロにおよぶという秘密図書館が、何を意味しているか、誰か考えたことがあるだろうか。なぜ彼の国の人々は、その膨大な記録を紙に書き残し、現在も書き、未来へ繫げようとしているのか、私たちは考えたことがあるだろうか。 同様の事体は、早くもヴィデオテープに出来(しゅったい)していた。家庭におけるヴィデオテープ録画が機器の製造中止で再生不可能になった。もちろん商品として販売されていた映画や音楽等のヴィデオテープも然りだ。現在、専門会社に依頼すると、ヴィデオテープ録画をDVDに変換してくれる。しかし、それとて、1本の変換費用が900円以上するのではないか。私は,1本1,500円という広告を見たことがある。 「巨大IT企業に世界は支配されてしまう」という意見がある。まったく的外れとも言えない。 政府が公文書保存を紙から電子媒体に変えるといっている。 「バカな!」と、私は驚いた。将来的に公文書記録が存在しない国になってしまう! このバカ者たちの政策により、国家の基盤となる重要資料が失われてしまう。そうなれば、もはや国家を維持してゆけまい。いや、国家の態をなすまい。 日本は世界の歴史的時間の流れに結びつこうという意志(意思)を、徹底的に欠如した文化をはぐくんできたことを指摘しておかなければならない。 世界のあらゆる民族が、その生命を原初からの時間に結び、さらに未来へつなぐ橋渡しとして現在を文化的にとらえている。しかしながら、日本人は、時間を分断してきた。まるで刹那を生きることに腐心するかのように。 事実、日本の伝統と称す「年号」が、それを示している。 この伝統は、完全に世界の時間から分離している。「嘉元」元年などと言われて、はたしてどれだけの人が、世界時間と結びつけて認識できるだろう。『源氏物語』が世界最古の長編小説だと知っていて、しかも奇特に「寛弘4年頃」に成立したと知っていて、その年号が西暦1007年のことだと指摘できる人が、どれほどいるだろう。1007年であることを知らないで、「世界最古の長編小説」だと言っても世界には通用しない。 日本の原初から流れているはずの時間を、文化的に、ぶつ切りにしているのだ。日本の歴史は生命の神話的根源につながってはいない。日本神話は政治的根源ではあっても、茫漠たる生命の根源を物語ろうという意志からは遠い。 この記事を読まれた方は、私が何を言っているのかと思うかもしれない。 じつは、「政府が公文書保存を紙から電子媒体に変える」という政策は、きわめて「日本人らしい」のだ。多くの国民は、この政策に疑問を抱かないかもしれない。紙資源の無駄をはぶき、「エコロジカル」な先進的な考えではないか! と、賛意を示す人もあろう。それだから良いと,私は言うのではない。 電子メディアの脆弱性は、冒頭で述べた私の小さな経験を例にするまでもなく、現在、国政上の大きな問題になっている記録の削除や書き換え、あるいは国際的なハッキング等々、問題が多過ぎる。何より、バカ者政治家や官僚には好都合であろうが、歴史の検証が不可能になる虞れがある。 公文書の勝手な削除や書き換えは、それを誰が行おうと、日本国民に対する重大「犯罪」であるのだが、問題を追及する意識は極めて低い。あまつさえ、国家に対するその重大「犯罪」の上で政治の中枢が胡座(あぐら)をかいてさえいる。 私が危惧するのは、その点だ。私が、日本の基盤がなくなる、というのはそのことである。 私たちは、もはや、世界時間から分離し、日本人として民族の時間をぶつ切りに切り捨てて、それで良しとしてゆくことは出来ないのだ。それは偏狭な民族主義とは相容れない「国」についての考え方である。なんなら「新・愛国心」と言ってくれても良い。 Tokyo may snow tomorrow. Such a forecast has comeout. In anticipation of that, I went out to buy a few bundlesof copy paper. I was printing a text manuscript, and Iprinted 500 A4 size sheets at a time, so I had no stock. I use a computer for writing. However, I cannot be re-lieved unless I print the written manuscript on paper.Although it is recorded on a USB memory or DVD, thesemedia are by no means a safe storage medium. I havemade irreparable mistakes with it many times. One of the media is MD. The medium has alreadybeen discontinued, and at the same time the readerhas disappeared from the store. The reader I was usingno longer fits the computer version. Computers up-grade their versions one after another every few years,and before I know it, they don't match the version ofthe recording medium. The same is true for software. I have suffered a fi-nancial loss due to the incompatibility with the mediumused for the AI company's own reasons. Beginning withearly Apple Works, editing software such as Quark XPress, Illustrator, Photoshop, various external charac-ter kanji software, Excel, Word, Office, postcard soft-ware, etc.. Since individual users like me are forced to spend1 million yen and 2 million yen, the expenses of general companies and government offices would beenormous. Government spending is, in other words,paid by national taxes. The same can be said for e-books. E-books are notpersonal property. This is because the concept of ownership like a paper book does not hold. Theacademic world of brewing old books will collapse. In this blog, I posted images of the libraries ofeach college of Oxford University and the library ofTrinity College in Ireland. And what does New York'sformer conglomerate Pierpont Morgan's privatelibrary, the current Morgan Library and Museum, orthe secret library of Vatican's tens kilometers longmean? Or has anyone ever thought about it? Havewe ever wondered why the people of that countrieswrote down that huge records on paper, still writingit, and trying to make it into the future? A similar thing was already made into a video tape.Videotape recording at home became unplayabledue to discontinuation of equipment. Of course, thesame goes for video tapes such as movies andmusic that were sold as products. Currently, if youask a specialized company, they will convert thevideotape recording to DVD. However, the con-version cost for one tape may be 900 yen or more.I have seen an advertisement for 1,500 yen perone videotape. There is an opinion that the world will bedominated by a huge IT company. It can't be saidto be completely off the mark. It is said that the Japanese government will changethe storage of official documents from paper toelectronic media. I was surprised,”How stupid!". In the future, it willbe a country where there are no official documentrecords! Due to the policies these idiots, importantmaterials that form the basis of the nation will belost. If that happens, we can no longer maintain thenation. No, it doesn't form a national state. It must be pointed out that Japan has cultivateda culture that completely lacks the will to connectwith the historical flow of time in the world. All the peoples of the world culturally view thepresent as a bridge that connects their lives to thetime from the beginning and further to the future.However, the Japanese have divided the time. It'sas if people have been at great pains about livinga moment. In fact, the name of an era, which is called theJapanese tradition, shows that. This tradition is completely separated from thetime of the world. For example, if It is said that thefirst year of "Kagen", and how many people canrecognize it in connection with world time. Howmany people know that "Genji Monogatari", if theyknow that it is the oldest novel in the world, andthat it was written around "Kanko 4th year", but that the year is 1007 AD. There will be. Withoutknowing that it is 1007, even if it is said to be"the oldest novel in the world", it does not workin the world. Culturally, the time that should have flowed fromthe beginning of Japan is cut into pieces. Japanesehistory does not lead to the mythical origin of life.Although Japanese mythology is a political source,it is far from the will to tell the source of vaguelife. If you read this article, you may wonder what I am saying. In fact, the policy of "the government changingthe storage of official documents from paper toelectronic media" is extremely "Japanese-like."Many people may not question this policy. Is it an"ecological" advanced idea that eliminates wasteof paper resources, isn't it? Some people mayshow their support. That's why I'm not saying it'sgood. The vulnerabilities of electronic media are notlimited to my small experience mentioned at thebeginning, but there are many problems suchas deletion and rewriting of records, which arecurrenrtly major problems in national affairs, andinternational hacking. Above all, it may be convenient for stupid politicians and bureaucrats, but it may make itimpossible to verify history. The arbitrary deletion or rewriting of official documents is a serious "crime" against theJapanese people, no matter who does is extremelylow. Even more, the political center sit even cross-legged on its serious "crime" against nation. That's what I'm worried about. That is why thepeople will lose the foundation of Japan. We can no longer separate from world time, cutoff ethnic time as Japanese, and make it good. It isa way of thinking about "the nation" that is incom-patible with narrow nationalism. You can say "New Patriotism". Of course, it is me.Tadami Yamada
Feb 9, 2022
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