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ロシア内戦を経て1922年(大正11年)12月30日に成立したソビエト連邦は、69年後の1991年(平成3年)12月25日に大統領ゴルバチョフの辞任に伴い崩壊しました。その日のうちにソ連より規模が小さいロシア連邦が成立したのですね。それに伴い、かつてのソ連を構成していた国々は、それぞれが独立国として独自の歩みを始めました。ソ連時代のスポーツは全てマルクス・レーニン主義をかかげる国の威信発揚のための道具でした。共産主義というシステム上、全てのスポーツ選手が国家の管理下におけるステート・アマであるという位置づけでした。なので資本主義国のようなプロスポーツやプロ選手は存在しなかったのです。オリンピックなどの国際大会に向けては強化策がとられ、選手育成プログラムによって育成させられた選手が、数多くのメダルを獲得していました。今のロシアもドーピング問題で揺れていますが、ソ連時代はもっとひどくて、オリンピックで首位だった競技のほとんどの選手がドーピングによる薬漬け状態であったことが当事者の告白により明らかになってます。スポーツは国際大会などに出場する選手だけではなく、一般市民にもソ連人の生活の一部として政府が強制的に推し進めていました。いわゆるスポーツプロパガンダです。スポーツもまた共産思想を鼓舞するための道具だったのですね。ほとんどの公園にはホッケーリンクがあり、冬はアイスホッケーが、夏にはサッカーが行われていました。工場にはスポーツを呼びかけるポスターが貼られていました。子供たちは「ソビエトのために労働と国防に備える」と呼ばれる体育プログラムを受けさせられていました。これは検定のようなもので、年齢別に100m 走など各種目の合格ラインが定められ、合格するとバッジをもらうことができました。逆にスポーツ音痴は世間から冷たい目で見られていた時代です。ソ連において厳しく禁止されたスポーツもあります。「ボディビル」です。1973年のソ連スポーツ委員会で「筋トレをして鏡の前でポーズをとり、自分の姿を鏡で眺めるボディビルはソ連人に相応しくない。これらの筋トレは筋肉を大きくすることが目的のトレーニング。自己満足、エゴイズム、体自慢はソ連の体育システムとかけ離れている。ソ連の体育は集団意識、労働的活躍、政治的活躍の育成のためにあるべきだ」との採決がおこなわれたのです。要するに、ソ連は使える肉体を持ったスポーツマンを望んでおり、ポーズを見せびらかすための飾りの筋肉は必要ないということ。政府がもっとも力を入れたのが「国民ラジオ体操」です。毎朝6時、国歌のあとラジオ体操が放送されていました。「国民」とついているように、これは子供だけが対象ではなく、全ソ連人民が対象でした。体にいいだけではなく、全国民が毎朝同じ時間に体操をするということで国民の一体化にも貢献したのです。ラジオで、ラジオ体操を指揮していたのは体育中央研究所の教員であるゴルデェフ・ニコライです。彼は声で体の動き方を適切に伝えることができる能力を持った専門家でした。そしてピアノの演奏はロディオーノフ。ロディオーノフの演奏は素晴らしく、ラジオ体操を聞いているファンからの手紙もたくさん届きましいた。その中には「ロディオーノフの演奏が素晴らしすぎるので体操をやめて音楽だけ聞いています」と書かれてるのもありました。「朝のラジオ体操」Утренняя зарядка по радио 1939 годこの国民ラジオ体操とは別に、職場では「生産体操」と呼ばれる体操も導入されました。こちらはお昼前か仕事終わりに行われ、体操時にはインストラクターが指導にあたりました。この時間を「元気の5分間」と呼んで、スターリンの言葉「敵から母国を守れる労働者の世代を育てなくては」と云う趣旨に基づいて、法律で「強制的」に体操させられたのです。それでは当時行われていた「国民ラジオ体操」と「生産体操」の画像を続けて一挙にご覧いただきましょう。本来の趣旨とは違うスポーツ。なんかグロテスクでシュールですよ。
Jan 31, 2020
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東京都の立川市に「国立極地研究所」なるものがあるそうですね。南極、北極と、その周辺地域に関して、物理学や生物学などさまざまな科学的観点から観測、実験などを行っている機関だそうな。「国立極地研究所南極・北極科学館」と云うものが併設されていて、昭和基地からの映像も放映されてるそうです。元宇宙飛行士の毛利衛が「宇宙には数分でたどり着けるが、昭和基地には何日もかかる。宇宙よりも遠いですね」と話したことから制作されたのがTVアニメの「宇宙よりも遠い場所」。そう云われると、地球上に極地と呼ばれる場所は南極、北極を除いてどれくらい残っているのでしょう。まぁ、極地=南極、北極だから、ここでは「最果ての地」=「秘境」のことね。「第3の極地」と云えばヒマラヤ山脈のことだけど、近年はどこにでも登山者が入ってて、はたして極地と云えるのかどうか。「K2」みたいに、ホントウに実力のある登攀家しか受け付けないとこだったら別だけど。まぁ、こう云った「絶景」はTBSの「世界遺産」を見てりゃ網羅されてるけど、人間が開拓したり住んでるとこも含まれてますからね。世界三大瀑布と呼ばれるアルゼンチンとブラジルにまたがる「イグアスの滝」、ジンバブエとザンビアにまたがる「ヴィクトリアの滝」、「ナイアガラの滝」だって観光化されててハイヒールで滝の傍まで歩いていける。それどころかヴィクトリアの滝なんて、地球温暖化で100年ぶりという干ばつに見舞われ干上がっているくらいですものね。トルコの「カッパドキア」やインドネシアの「ボロブドゥール遺跡」だって観光化されてるし。アメリカ、アリゾナ州にある「アンテロープ・キャニオン」はマーブル模様の岩の隙間から太陽光線が差し込む「サンビーム」で有名だし、ラスベガスから車の移動で約450km だから秘境と云えば秘境ですが、アメリカのことですからツアーが盛んです。ボリビアの「ウユニ塩湖」はどうでしょう?塩の採取で人が入っているけど、まばらそうだし「天空の鏡」は一度は見てみたいかも。しかし、ここもツアーが盛んで絶景には違いありませんが、秘境とはいいがたそうです。やっぱ秘境と云うとベネズエラのギアナ高地にある世界最大級の滝「エンジェルフォール」かなぁ。なんせ落差979m でこの落差のため、水は滝下部に達するより前に分散して空気と絡み合い、滝下部は暴風雨のようになっていて、滝壺が存在しないらしい。それより何より、ここに至るまでの道のり。1日1便の飛行機に乗ってカナイマまで行き、そこから川の上流へ向かって約4時間ボートで移動。その後、ジャングルの中でぬかるんで滑りやすい坂道を歩くこと60分~90分。もちろん先住民ペモン族のガイドは必須です。しかし、秘境と云うとなんと云ってもベネズエラ、ガイアナ、ブラジルの3つの国境にまたがっているロライマ山、つまり南米最高標高のテプイ(テーブルマウンテン)でしょう。ここに行くにはヘリを飛ばすか、ジャングルをかき分けながら50kmハイクして、それから400m の岩壁を登るか。この山に初登頂したのはイム・トゥルンと云うイギリスの植物学者ですが、彼の講演会を聴いてロライマの風景に感激し、小説「失われた世界」を執筆したのがコナン・ドイルです。ギアナ高地付近は地球移動の回転軸にあたると考えられているのですね。このため火山噴火や地震などの地質学的な変化の影響をほとんどうけず、地球では最古の岩盤がそのまま残っていると云われています。ガイアナ共和国にあるカイエチュール・フォールズもスゴイらしい。なにしろナイアガラの滝の約5倍高さから垂直に落ちる単一の滝としては世界最大なんです。しかもここに行く唯一の方法は飛行機をチャーターして、最寄りの着陸設備のある場所に向かい、そこから更に熱帯雨林の中を2~3時間歩かなければなりません。ジャングルの中は猛毒もってるカエルとか危険もイッパイとか。ここは観光地ではないので滝に落下防止柵なんてありません。もし重い荷物を背負って道なき道をあるきたいならカナダのヌナブト準州にある「シュヴァルツェンバッハ・フォールズ」がイチバンです。この滝に行くには4,000$(約45万円)のツアーが組まれてます。だったら楽チン?かな(笑)ツアーに参加したらバックパックを背負って14日間歩き続けます。その後、ボートで移動して、それから起伏の激しい岩山をまた14日間かけて歩き続けなければならないのです。で、たどり着いた先には北極圏最大落差520m の滝が待ってます。しかも、この滝は氷河が解ける夏季にしか姿を表さず、冬季には氷河の凍結によって水が涸れてしまうのです。ノルウェーに「トロールの舌」という意味の「トロルトゥンガ」と云う岩のスラブがあるらしい。ここにたどり着くには、小川や滝、山々を通る往復8~12時間の徒歩が必要です。スラブの形は異様で、下からの高度は700m 。なんですが、こんな道のりで、順番待ちは1時間以上が普通らしい。最後にご紹介するのは人の住んでる町です。それが辺境?カナダ最北端、ヌナブト準州クィキクタアルク地域のエルズミーア島にある「アラート」と云う町は、定住地としては世界最北なんです。北極点まで約830km 、海は1年中氷に覆われています。人口は62人で、他にカナダ軍の施設や気象台、大気観測研究所の職員が駐在しているだけです。アラート空港は恒久的に設置されている空港としては世界最北の空港なんです。とは云え、私の齢と脚と体力と財力ではどこも行けませんな(笑)
Jan 30, 2020
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日本のフィギュアスケート発祥の地は、仙台市青葉城の堀である五色沼とされています。五色沼は、仙台城の三の丸と大手門前に広がる池で、かつては冬になると氷結し、絶好のスケート場になっていました。1887年(明治20年)ごろには、すでにこの池で外国人らがスケートに興じていたと云う話しです。1897年(明治30年)ごろ、アメリカ人のデブィソンが、この場所で日本人の子供たちにフィギュアスケートを教えました。さらに1905年(明治38年)には仙台市内の旧制第二高等学校の学生だった佐藤幸三、田代三郎、河久保子朗と云う3人の青年が、同校のドイツ語教官ウェルヘルという人物に、この池でフィギュアスケートの基本を学びました。基礎を学んだ彼らは、後輩たちにフィギュアスケートを教え、日本各地で普及活動をおこなったのです。河久保は、アメリカ人が書いたフィギュアスケートの書籍を翻訳したり、実際に演技指導をしたりと、日本スケート会の黎明期に重要な役割を果たしました。河久保は後に「日本スケート会」も発足させています。五色沼は、こうしたエピソードから「フィギュアスケートの発祥地」とされるようになりました。そもそもアイススケートの起源は旧石器時代にまで遡ると云われています。スイスやイギリス、スカンディナヴィア半島などヨーロッパの広い地域でマンモス、シカ、ウシなどの骨を加工した獣骨スケートが見つかっているのです。もちろんスポーツのためではなく、スキーやソリと同様に、物資を運ぶ手段として用いられていました。こうして最初のスケートのブレード(刃)には、動物の骨が用いられてました。時代が下がっても、豚や馬のスネ部分が主原料で、それを紐で靴に縛り付けたのです。さらに時代が下り中世以降は、オランダのフリースラント州やイギリスのケンブリッジシャー州付近などの沼沢地帯でスケートは発展していきました。オランダでは、12世紀ごろから運河の建設が行われていたこともあり、17世紀には既に都市と都市とを網の目のように結ぶほど運河が発達してました。この運河が結氷するとアイスリンク代わりとなり、スケートはあらゆる階層の人々の娯楽として発展していったのです。スケートのブレードに鉄が使われ出したのは13世紀になってからです。14世紀ごろからは、木製のスケート靴が用いられるようになりました。ただし鉄製は実用化まで時間がかかり、長いこと主流は木と骨を組み合わせたブレードでした。こうしてスケートは一般庶民まで広く行き渡っていくのですが、農民階級と貴族階級とではスケートに対する考え方の違いが生まれていくのですね。目的地に向かってできるだけ早く到着することを重視した農民階級。それに対し、貴族階級では優雅さや芸術性を重んじたのです。やがて貴族階級の人々は、両腕を組み背筋を伸ばして滑走する独特の滑走術を生み出し、このオランダ貴族の滑走術はヨーロッパ各地の貴族階級に広がっていきました。これがスピードスケートとフィギュアスケートの分岐点だったのです。産業革命あとの19世紀は、スポーツにとっても大きな変革の時代でした。それまで娯楽であった運動が、競技として洗練されていったのです。しかし、スケートリンクに関して云えば依然として氷結した湖沼や運河。いわゆる天然のスケートリンクのまま。つまり天候に左右されたのですね。そんな制約を吹き飛ばす施設が1876年(明治9年)5月、イギリスはチェルシーのキングスロードに誕生したのです。世界最初の屋内アイスリンク「グラシアリウム」の登場。屋内リンク発明者のジョン・ゲーミー教授は、肉を保存するための冷蔵に関する実験に従事しているときにこのアイデアを思いつきました。コンクリート床の上に、平らな銅パイプを張り巡らし、エーテル、グリセリン、水のミックスをパイプにポンプで送りました。化学反応でパイプ内に冷たさが生じ、水が凍結したのです。グラシアリウムはクラブメンバーのみが利用可能でした。当時最高級の社交界のたまり場となったのです。グラシアリウムの壁にはアルプスの壁画、また見物人のために一段高くなった座席と喫煙者用のバルコニーが設けられていました。このリンクの大きさは40フィート(約12m )×24フィート(約7m )でした。現在のフィギュアスケートリンクの国際規格は60m × 30m ですから、約1/20しかなかった計算になります。1877年には同じイギリスのラスホルム、ムーア通りに別の屋内スケートリンクも開設されてます。こっちは会員専用ではなく一般開放してて、学校利用では特別料金が提供されてたようです。こっちのリンクはマンチェスターのカーリングチームに人気がありました。日本で最初に人工のスケートリンクができたのは第2次世界大戦前の大正時代末期です。大阪の市岡パラダイス内の「北極館」が最初です。市岡パラダイスと云うのは現在の大阪港にあった大娯楽施設です。1925年(大正14年)にオープンした市岡パラダイスには、ロサンゼルスのミリオンダラーシアターを参考に設計された大劇場「桂座」、野外劇場、大浴場「千人風呂」、活動写真館、魔宮殿、遊園地、動物園などがありました。当時東洋一の高さであった30m の飛行塔もあって、園内の池には5色のイルミネーションで照らされた人工の滝が流れていました。その施設の一部としてスケートリンク「北極館」もあったのです。市岡パラダイスは1930年(昭和5年)に閉鎖されました。大浴場「千人風呂」のみ営業を続けていましたが、その大浴場も1934年(昭和9年)の室戸台風で高潮被害を受け、そのまま閉鎖となったのです。
Jan 29, 2020
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1970年代の日本と云うのは、私にはもっとも縁のない時期でした。なにしろ71年(昭和46年)にバンコクに赴任して、それから7年間日本には帰ってませんでしたからね。この年の9月に「カップヌードル」が発売されたけど、その姿を見ることなく機上の人でした。なので1973年(昭和48年)のトイレットペーパー騒動は経験してません。ニュースで見ただけです。トイレットペーパー騒動、覚えてらっしゃいます?オイルショックがきっかけで、物資不足の流言飛語が飛び交って、トイレットペーパーや洗剤など石油関連商品の買い占め騒動がおこったこと。結局、ガセ情報で多くの消費者は沢山のトイレットペーパーを山積み保管してましたなぁ。70年代ファッションと云うと、私にはど~してもモデルの"山口小夜子"さんが浮かんできます。今と違ってパリコレで活躍する日本人なんて珍しい時代に、切れ長の目と黒髪のおかっぱ髪で登場し日本人ブームを巻き起こした花形モデル。そんな山口小夜子さんも2007年、急性肺炎のため死去しました。そんな70年代もファッションとなると前半と後半で趣きが異なってきます。60~70年代前半に象徴されるヒッピー時代。中性的な服装やベルボトムが大流行りしましたなぁ。ベルボトム、私もまっ白なベルボトム履いていました。今だったら尿取りパッドでもつけないと年でチョイ漏れ=白いパンツにシミがつくが心配だけど、このころはそんな心配ありませんでした(笑)1973年にはガロ(GARO)の「学生街の喫茶店」やかぐや姫の「神田川」がヒットしてフォークも隆盛をきわめたけど、私はこの時代の日本のフォークって、なんか貧乏くさくって好きではありませんでした。下の画像は1973年~74年に放映された「人造人間キカイダー」の続編「キカイダー01」でマリ(ビジンダーの人間の姿)役でレギュラー出演していた志穂美悦子。なんとも服装が70年代前半そのものですね。下の画像はどちらも1971年(昭和46年)に池袋で撮られた写真ですが、このころの日本女性はミニスカート全盛だったのですね。時代が70年代半ばを過ぎるとヒッピー思想は衰え始めたましたが、既成概念にとらわれないという流れはその後のファッションにも引き継がれました。自由な発想のもと、さまざまなデザインが生み出され、人々が思い思いの服装を着こなすようになり始めた時代です。ミニスカートからロングスカートへと変化し、エスニックファッションやゆったりとしたビッグスタイルも受け入れられたのもこの時期からです。もうひとつ70年代に特筆されるのが「ペアルック」ですね。いまどき上から下までクローンのようにまったく一緒の衣裳で、仲良く手をつないで歩いているカップルなんて見かけたら、ガラケーならぬガラカップルとしか見えませんが、70年代はこのペアルックってのも実に多かった。ちなみにペアルックは和製英語なので海外では通用しませんよ~ペア(Pair)+ルック(Look)、英語ではMatching Outfits(おそろいの服装)です。これが70年代の写真を見るとオモシロイ。とてもこんな恰好して連れ立ってよ~歩けんわ。
Jan 28, 2020
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絵画の技法でアナモルフォーシスと云うのがあります。ゆがんだ画像を斜めの角度から見たとき正常な形が見えるようになるもと、円筒状の鏡のようなものに映したとき正常に表示されるものがあります。この技法はかなり古くからあって、角度変更による投影が描かれ出したのは15世紀の早期ルネサンスからです。斜面投影の最も古い例は有名なレオナルド・ダ・ヴィンチの「レオナルドの目」です。またルネサンスのドイツの画家ハンス・ホルバインはよくこの手のアナモルフォーシスを使用したことで知られています。彼の絵の中で「大使たち」はその例として最も有名です。手前にある細長い物体を左斜め下から見ると頭蓋骨に見えるようになってます。このアナモルフォーシスの技法を使って、ドキッとする現実味を帯びた昆虫たちを描く画家がいます。ポルトガルのセルジオ・オディスと云うストリートアーティストです。彼の作品の多くは壁のコーナーを活用し、リアリティのある3Dアートを制作しているのです。この立体的に見える蛇口と蜘蛛ですが...正面から見るとイビツな形。こうしたアナモルフォーシスの絵は特定の角度からでないとちゃんと見えないのです。その代り、ツボにはまった角度からだと見事に立体的になります。オディスの作品を見ていきましょう。次の作品は、構造を説明する動画のリンクが画像に埋め込まれています。画像をクリックすると見れます。まぁ、とにかく見事としか云いようがないですね。これらの作品はすべて缶スプレーを使って描いています。依頼されて、こんな大きな壁画を描くことも多いです。
Jan 27, 2020
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競泳の瀬戸大也が好調そのもので、今年の国際大会「チャンピオンズシリーズ」の200m バタフライに出場し、日本新記録をマークして優勝しましたね。まだ瀬戸大也は25歳。2017年には優佳さんなんて、きれいな奥さんもらったし、子供もできたし、これが好調の要因かな?しかし、私にはバタフライと云うと、「水の超人」イアン・ソープに代わり、世界の頂点に昇りつめた「水の怪物」アメリカの"マイケル・フェルプス"が頭に浮かびます。なんせ世界選手権で通算33個のメダルを獲得していますが、そのうち26個が金メダル。それよりなにより2004年に行われたアテネ五輪と2008年の北京五輪で金メダルを連続獲得してるし、2012年のロンドン五輪も含めオリンピックメダルとしては歴代最多の28個、その内、金メダルは23個なんですから。マイケル・フェルプスはさまざまな種目でメダルを獲得しましたが、もっとも得意とした200m バタフライでは、2001年に男子競泳史上最年少15歳9ヶ月で世界記録を更新してから2019年まで18年間世界記録保持者を維持し続けました。もちろん、その間、自己記録を更新し続けたワケですが、その回数たるや7回の世界記録更新。そのフェルプス、子供のころ注意欠陥・多動性障害(ADHD)の診断を受けてたのですね。彼にはホイットニーと云う競泳選手だった姉が居ますが、この姉の影響で水泳を始めたと云うより、多動性障害特有の有り余ったエネルギーのはけ口として、母親が水泳を始めさせたのが真実です。実はフェルプスが幼いころ、両親は離婚。子供たちは母親に引き取られましたが、プールがまさに父親を失った辛さをまぎらわす場となり、コーチが代理父のような存在だったのです。ADHDとは年齢不相応に自分をコントロールできず、落ち着きがなかったり、物事に集中できる時間が短い、忘れ物が多い、衝動的な行動をとるなどの症状を云います。子供たちは幼児期は活発であることが当然ですが、成長とともに次第に自分をコントロールできるようになっていきますね。ところがADHDの子供はこのコントロールがきかないまま成長していくのです。その原因はまだ確定していません。これの発生原因は胎生、出産時のトラブルや子どもが成長していく環境などが複雑に関係していると考えられていますが、思春期になると多動衝動性が軽減することもあります。ADHDの子供は不注意、多動性、衝動性などの症状以外にも、その症状を理解されないまま不適切な状況、対応が続くと、怒りっぽくなったり、反抗的な態度や攻撃的な行動を取るなど周囲との関わりがうまくいかなくなります。また、学習に遅れが見られたり、叱られ続けることなどで自尊心、自己評価が低くなるなど2次的な問題が生じる可能性もあります。まれに大人になってもADHDの症状があらわれることもあります。もし、大人の人で「もしかしたら自分はADHDなのかも?」と思うことがあったら、先ずは無料で利用できる発達障害者支援センターや障害者職業・生活支援センター、相談支援事業所などで相談することです。特に「障害者就業・生活支援センター」は生活と仕事の悩み両方の相談に乗ってくれます。より専門的な支援先へつなぐ役割も果たしているので、最初の相談先に最も適しています。フェルプスは2014年、酒気帯び運転で逮捕され、米国水連から「6ヶ月の競技会出場停止」「既に代表権を獲得していた翌年の世界選手権の代表権剥奪」という処分を下されます。逮捕後、45日間のリハビリ施設収容中に、長年わだかまりとなっていた「父親に捨てられた」という感情と向き合い、父親と面会、関係修復をしたのです。
Jan 26, 2020
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旅館でいただく和朝食もいいけど、自宅でとなるとど~してもパン食になります。と、云うか和食の朝食って旅館ぐらいしか思い当たらないなぁ。単に、和朝食を作る手間がタイヘンだからですが。昨年の1世帯あたりのパン消費量1位は例年通り京都府と云う統計がでてますね。しかし、総務省統計局の家計調査で、全国の都道府県庁所在市と政令指定都市を2016年~2018年の3年間平均で調べたところ「市」で云えば滋賀県の「大津市」だとか。その後に続くのが大阪府の堺市、京都市、大阪市、岡山市と続くらしい。どっちにしても関西勢が多いです。逆に都道府県で云えば、パン消費量が最も少ないのは福島県で京都府の半分以下。その他、山形県、秋田県、宮城県、岩手県と東北各県が下位を占めているそうです。これは農業就業者の多少と「納豆」消費量が関係しているらしい。イギリスと云えば料理が美味しくないで有名で、フランス料理やイタリア料理などと比べ種類が少なく、食材や調理法の多様性も貧弱。イギリス料理の不味さはイギリス人が自認するところなんだとか。だいたい野菜は本来の食感がわからなくなるほど茹でる、油で食材が黒くなるまで揚げる、麺を必要以上に茹でるなどと料理の基本が分かってないの?と云った調理法なんですからね。評判が極めて悪いイギリス料理で、唯一誇れるものがあります。フル・ブレックファスト(Full breakfast)つまり朝食です。作家のサマセット・モームは「イギリスで美味しい食事がしたければ、1日に3回朝食を取ればいい」と云ったほどですから。もっとも、この言葉の裏には昼・夕食の質の低さを皮肉ったものらしいですが(笑)イギリス以外の欧州で一般的に供されるコンチネンタル・ブレックファストが簡素なのに対して、より量と栄養に優れているのも事実なんですね。しかし近年のイギリスの朝食は簡素化する傾向が強くなっているようで、一般家庭ではシリアル、トーストとマーマレード、紅茶かコーヒーぐらいで、生野菜、ハム、チーズが出されることはほとんどないらしい。伝統的な朝食だと紅茶かコーヒーの後に穀類を水や牛乳などで炊いたポリッジ(粥)が供されることも多いです。その他のヨーロッパの国はどうでしょう?先ずはフランス。映画なんかでは、パリのカフェあたりでも単にクロワッサンとカフェオレなんかで済ませているような。実際、フランスでは、女性の約8割が働いているので、朝はみんな大忙し。平時の朝食は子供たちも自分でバゲットパンを真ん中で切ったオープンサンドの「タルティーヌ」やクレープに好きなジャムやハチミツなどを塗って食べるだけらしい。これにカフェオレとフルーツを合わせるのが、フランスのシンプルな朝食だとか。ドイツもフランスと似たり寄ったり。作るものではなく、並べるものみたいな。冷蔵庫からハムやチーズ、バター、ジャムなどを取り出し、食卓に並べる。そして保存ケースから取り出したパンにバターやジャムを塗ったりすれば、ドイツ朝食のできあがり。ただ並べて塗るだけです。と、云っても、我が家の朝食も一緒ですが(笑)ドイツパンは、250g 以上の大型パン「ブロート」と小型パンの「ブレートヒェン」に分かれます。ブロートで300~400種類あり、ブレートヒェンは1,200種類にも上るそうです。ドイツパンは生地が密に詰まっていて、どっしりしています。ドイツパンって、なんかボソボソしておいしくないって人が居ますが、実は食べ方が重要なんです。ブロートなら、先ずは薄くスライスしなくてはなりません。ドイツの家庭にはどの家にもパンスライサーがあるのです。薄くスライスしたら、その上に好みのものを塗ったり載せたりします。基本はバターにチーズ、ハム、サラミなんか。その上にトマトやキュウリのスライスを載せたりもします。バターの上にジャム、クリームチーズを塗り重ねたりなど、何層も重ねていきます。スペインの朝ごはんと云えば「チュロス」。要するに揚げパンですな。これにホットチョコレートの組み合わせがよく食べられてます。スペインのカフェなんかでは遅いところでは正午ぐらいまで2~3ユーロほどのモーニングセット「デサジューノ」をやってます。遅い時間までモーニングやってるなんて、名古屋の喫茶店と同じでんがな(笑)デサジューノの基本はコーヒーとパンとパンに塗るジャムやバターです。トマトペーストとオリーブオイルの「パン・コン・トマテ」も定番でよく食べられるらしいです。ポーランドはちょっと変わってて1日5食なんですね。朝食タイムは7~8時ごろと他国と変わりませんが、ここで摂る朝食はシンプルで、薄くスライスしたライ麦パンにチーズ、ハム、キュウリなどをのせたオープンサンドが多いです。これにコーヒーやオレンジジュース、ヨーグルトやフルーツなど。で、ポーランドのメインの食事は夕食ではなく、「昼食」なんです。それも14時から15時と遅め。なので朝食とってから小腹が空いてしまいす。それでブランチとも云うべき「第2の朝食」時間帯があります。10時~11時ごろに第2の朝食を取る習慣があり、職場や学校でもその時間が設けられています。内容はチーズやハムなどを挟んだサンドイッチやフルーツなどの手軽なものが多いです。ロシアの朝食、定番はソバ(蕎麦)のカーシャです。カーシャはお粥のことで、ソバを水と牛乳で煮て作ります。日本のお粥と違い、甘いのが特徴です。実はソバは世界中で食べられてて、ロシアのソバ消費量は日本の10倍以上あります。忙しい朝に、カーシャを煮て作るには時間がかかるため、スーパーなどでは牛乳をまぜるだけのシリアルタイプや電子レンジで温めるだけのカーシャが売られているそうです。「ブルヌイ」もロシアの朝食では定番です。ブルヌイはソバ粉でつくった生地を直径13cm ~18cm 位の大きさで薄く焼いたロシア流のクレープです。ジャムやサワークリームを包んだり、イクラやサーモンを包んで食べます。ロシアには、ブリヌイを専門とするファーストフード店も存在します。トルコ人にとって朝食は1日の中でイチバン大切な時間帯になります。家族みんなが集まり、一緒に食事を楽しみます。レストランにも朝食メニューがあるので、朝から外でゆっくり朝食を食べたりもします。トルコ定番の朝食は、パン、白チーズ、オリーブ、きゅうり、トマト、卵料理、バターや蜂蜜、ジャム、そしてフルーツとチャイ(紅茶)のセットです。朝食で食べる卵料理の定番はトルコ風スクランブルエッグの「メネメン」です。メネメンは卵、トマト、青トウガラシに黒コショウや赤トウガラシなどの香辛料を加え、オリーブオイルもしくはひまわり油で炒めたものです。メネメンは朝食の中心となる料理です。では、ラテンアメリカは?アルゼンチンと云うと食肉国家なので、朝から肉料理?と思ったら意外に簡素なんですね。アルゼンチンの朝食の定番は、何といってもクロワッサンなんです。アルゼンチンではクロワッサンのことを「メディア ルナ」と呼びます。クロワッサンの形「半月」という意味です。カフェで朝食セットを頼むと、クロワッサンにハムとチーズを挟んでオーブンで焼いた物を出してくれます。クロワッサンにもいくつか種類があって、ちょっと塩っぽい物、甘い「ドゥルセ・デ・レチェ」が練り込まれた物などもあります。ドゥルセ・デ・レチェは、固体または液体キャラメルでラテンアメリカの伝統的な糖菓です。砂糖を入れた牛乳をゆっくりと加熱して作ります。ブラジルの朝食、定番は「ポン・フランセース」というブラジル風フランスパンと、ハム、チーズ、たくさんのフルーツ、フレッシュジュース、コーヒーです。パンはナイフで割り、ハムとチーズを挟んで食べます。パンを叩いて、潰して食べるのがブラジル流です。ポン・フランセースと並んで、ブラジルの定番パンは日本でも人気のあるポンデケージョ(チーズパン)です。丸くて小さいパンで、タピオカ粉で出来ているため、外はサクサク、中はモチモチした食感のチーズパンです。メキシコの朝食で代表的なのは「ウエボス・ランチェロス」です。マサ(トウモロコシの粉)で作ったトルティーヤに半熟の目玉焼き、サルサをのせたものです。付け合せに「フリホーレス(煮豆)」と「クレマ(サワークリーム)」をつけたりします。
Jan 25, 2020
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大阪の海遊館がある天保山にちっちゃな人魚姫の像があります。大阪港のドブ河みたいな不釣り合いなとこになんで人魚姫?実は、これは大阪港とデンマークのコペンハーゲン港との友好記念に、1995年、実物の4/5の複製が寄贈されたものなんですね。この人魚姫の像を送ったのは有名なデンマークのビール「カールスバーグ」社なんです。なぜかと云うとコペンハーゲンにある本物の人魚姫の像自体がカールスバーグ2代目社長カール・ヤコブセンがコペンハーゲン市に寄贈したものなんです。「人魚姫」の物語はご存じの通りアンデルセンの童話ですが、このお話しを基にしたバレエ「人魚姫」があります。この演目をたまたまデンマーク王立劇場でカール・ヤコブセンが観たのですね。その舞台に感激して人魚姫の像を創ること決意したと云う次第です。この人魚姫の像 製作については面白い逸話があって、モデルをバレエ「人魚姫」で人魚姫を演じた当時デンマーク王立劇場のプリマドンナであるエレン・プリースに依頼したのです。ところが彼女は裸体モデルを拒否。頭部だけのモデルになってしまいました。しかたないので、製作していた彫刻家エドヴァルド・エリクセンの妻エリーネ・エリクセンが首から下のモデルになったのです。それで、アンデルセンの原作では、腰から下は魚だったはずなのですが、この人魚姫は2本足の足首の辺りまで人間で、それより下にようやく魚のひれがついてます。それは、エリーネの脚があまりに美しく、鱗で覆うのがしのびなかったためなんです。そのエリーネ・エリクセンの妹のインゲボルグ・シーヴァルセンと云うのは、岡田眞澄のお母さんと云うのは以前にもふれました。しかし、このコペンハーゲンの人魚姫は、シンガポールのマーライオン、シドニーのオペラハウスとあわせて「世界三大がっかり」と云われてますね(笑)で、そんなことは置いといて、人魚姫像を寄贈したカール・ヤコブセンの会社「カールスバーグ(Carlsberg)」のこと。この会社で作るビールのロゴには、王冠のマークがついてます。これはデンマーク王室御用達の証なんです。カール・ヤコブセンの父親、J.C.ヤコブセンがカールスバーグを創業したのは1847年と云いますから、日本では江戸時代の天保の後、弘化4年で、中国では「清」の時代です。そのヤコブセンがビール醸造研究のため「カールスバーグ研究所」を開設したのは1875年。このカールスバーグ研究所の業績によってビールの大量供給の道が開かれたのです。カールスバーグ研究所は、単なる醸造研究所と云うよりも生化学的知識を深めるために設立されたのです。化学科と生理学科がありました。特にラガー発酵の原因となる酵母種であるサッカロマイセス・カールスベルゲンシス(Saccharomyces carlsbergensis)の分離と、酸塩基化学におけるpHの概念の導入で知られていました。 研究所の化学部門長を務めたデンマークの化学者セーレン・セーレンセンは、pHの概念、物質の酸性度と塩基性度を測定するためのスケールを導入しました。カールスバーグ研究所で働いている間、彼はタンパク質に対するイオン濃度の影響を研究し、水素イオンの濃度が特に重要であることを発見しました。1883年には、エミール・クリスチャン・ハンセン博士によって酵母の純粋培養技術の開発がなされ、さきほど述べたビールの大量供給の道が開かれたのです。シンガポールのセントーサ島にあるカールスバーグ・スカイタワーは110m の高さがある展望塔ですが、これはカールスバーグ社がスポンサーになっています。
Jan 24, 2020
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私は鉄道に疎いので、ヨメ実家のある新横まで「のぞみ」で行ってても、それがどんな形式の電車なのか興味もありません。なにしろ死ぬまで時間は自由な高齢者ですから、「何もそんなに急がなくても」と思うくらいですが、ビジネスマンやお盆、正月の繁忙期に帰省する方々にとっては少しでも早くと思うでしょうね。新幹線が登場した1964年、東京~新大阪間の東海道新幹線は時速210km でした。現在の整備新幹線で、時速260km 。2027年開通予定のリニア新幹線に至っては時速505km も出ます。全国新幹線鉄道整備法では、新幹線を「その主たる区間を列車が時速200km 以上の高速度で走行できる幹線鉄道」と定義しています。1972年に開業した山陽新幹線。大阪から行くと、六甲トンネルに始まって博多まで、まぁなんとトンネルの多いこと!トンネルがないのは西明石~姫路間のみで、トンネル区間が占める割合は50.8%とか。景色楽しもうにも、次々にトンネルに突入して楽しむどころではありません。山陽新幹線、開業当時は時速210km でしたが、現在は時速300km だしてます。この路線、開業当時から問題をかかえていたのですね。トンネルが多いのもそれが原因なんですが、とにかく平野部の住宅密集化がハンパない。で、住宅が密集していて用地買収が困難なことでトンネルが必然的に多くなったワケですが、こんどは電車がトンネルから脱出する際、俗に「トンネルドン」と呼ばれるトンネル微気圧波が発生するのです。高速で空気を押しやるために風の壁が作られ、砲音のような騒音が発生するうえ、車体が減速するのでエネルギーも無駄になります。いくらトンネルが多いと云っても、住宅密集地を走ることに変わりは有りません。このトンネルドンが大変な問題になって、夜間試験中に赤ちゃんが泣き出した、瓦が落ちたと苦情が殺到したのです。いくら車体強度、台車強度、力行性能などすべて時速320km 対応として設計されてても、これでは宝の持ち腐れです。その問題を解決したのが当時、JR西日本の技術者だった中津英治でした。彼は日本野鳥の会の会員でもありました。中津は「カワセミ」に着目したのです。そう、鳥のカワセミです。カワセミの流線型のくちばしは魚を獲るうえで非常に実用的。先端が尖っているために水しぶきを上げずとも川の中にダイブできるのです。水がくちばしに沿って後ろへ流れ、衝撃が減少するからです。そこで中津は丸みを帯びた新幹線の先端をカワセミのくちばしに似せてみたのです。「ノーズ」あるいは「鼻」と呼ばれる部分です。私は、なんであんなにノーズを長くするのか不思議でした。その分、乗客の席が少なくなってしまう。しかし、必然があったのですね。1997年に時速300km 運転に対応する車両として投入された東海道・山陽新幹線500系の先頭部は全長27m のうち15m がノーズになる大胆なデザインとなりました。高速走行時に列車に貼りつく空気の層(境界層)が列車から離れる際に発生する振動も軽減できるよう設計されているのです。こうして現在の新幹線はエネルギーをロスすることなく時速300km で疾走できるようになったのですね。また騒音対策の一環として、パンタグラフはフクロウの羽と同じカーブをつけることで騒音を低減しています。警戒心の強いネズミでさえ気がつかないほど静かに飛行できるフクロウの羽の形状がベストだったのです。土台は空気抵抗を減らすためにペンギンを参考にしたそうです。500系の製作費は1両あたり約3億円。1編成46億円と300系よりも6億円弱余分にコストが掛かったため、東京~博多間の直通のぞみの半分を担うことができる9編成しか製造されませんでした。しかし、500系の運用により、15%速く、15%電力消費が少なくなりました。また、居住地域でのノイズを70db 以下に抑えることができたのです。
Jan 23, 2020
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ミハエラ・ノロックと云う32歳のルーマニアの女性写真家がいます。16歳の時に父から中古カメラを譲り受け、大学でも写真を専攻したものの、仕事とすることはあきらめていました。しかし、観光で訪れたエチオピアで、現地の女性たちに魅了されてしまったのです。平然と裸で生活している女性がいる一方で、都会で現代的な生活を送る女性もいる。「1つの国でこれだけの美しさと多様性が存在しているのなら、他の国々ではどうだろう?」それがきっかけでした。仕事を辞めて、旅と撮影の生活をスタートさせたのは。2013年からバックパッカーとして世界56ヵ国に旅して、出会った女性たちに声を掛け、撮った写真は2,000人以上。その中から544人の写真を厳選してアメリカで写真集として出版したら、たちまち大反響を呼び、今や世界の主要国でそれぞれの言語版で出版されるようになりました。日本でもパイインターナショナルから写真集「世界の美しい女性たち」として出版されてます。ミハエラはSNSも発信していて、なにしろ貧乏旅行なので、彼女は仕事を「The Atlas of Beauty」と名付けたプロジェクトにしたところ、世界中から支援の寄付が集まるようになりました。インスタグラムのフォロワーは現在26万人以上います。インスタグラム「The Atlas Of Beauty」サイト彼女が撮りたいのは、モデル然とした女性ではありません。それだったら、スタジオのポートレート作家になれば済むことです。彼女が着目したのは、世界の多様性と人間の普遍的な美しさについてです。なので若者もいれば高齢者もいる。イラクの戦闘地帯にだって足を運びます。目の色も、髪の色も、肌も身にまとう衣装も違う。1人ひとりのストーリー。戦闘地域に近づいたことも、危険なスラム街をさまよったこともあります。撮影を断られることもある。女性たちに打ち解けてもらうため、心地よい雰囲気作りを心がけ、必ず自然光の下で撮影をすると云います。そこには単なる写真家と云うワクを越えて、より長い時間をともに過ごし、話を聞き、そして写真を撮ると云う当たり前だけど、なかなか徹底できないことを成し遂げてるスゴサがありますね。ギリシャの難民キャンプで、ボランティアの英国人女性が、シリアから来たクルド人の女の子を抱いている。異なる文化で育った2人が、自然に身を寄せる様子が美しい。ブラジルの若い母親は15歳で出産し、子供の父親は出産の数週間前に殺害されたと云う。赤ん坊を抱いてバスで2時間かけて町の中心部に出て、ココナツ・ジュースを露店で売って生計を立てていた。苦しい生活の中でも、毎晩手洗いしているという娘の服には、汚れひとつない。この写真集には彼女たちの「ストーリー」が添えられているのです。「多様性」と「普遍的な美しさ」。一見、相反するように感じるふたつの言葉ですが、彼女の作品を見ていると「なるほど」と感心しきり。特に、都会的な衣装よりも、民族衣装を身にまとってる女性に魅力感じますね。いわゆる「美人」と云う一言でくくれないような人も大勢出てきます。ミハエラは「私の考える美しさとは、ありのままの自分でいること」「私たちはみな、同じ美しい種族に属している」と述べています。
Jan 22, 2020
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東京オリンピックと云えば、もうカウントダウンがどんどん進み、今日現在で余すところ185日。まさに間近ってな感じになってきましたね。その前の東京オリンピックは1964年でした。私が中学生のころ。有名な「東洋の魔女」の日本女子バレーよりも、男子100m で金メダルとったボブ・ヘイズの走りっぷりに驚嘆したこと覚えています。このときの記録は10秒0で、今では平凡な記録ですが、準決勝では人類で初めて「10秒の壁」を破る9秒9を追い風参考でマークしています。この1964年のオリンピックが「有色人種」国家における史上初のオリンピックだったワケですが、実は日本でそれ以前に開催予定だったオリンピックがあったのですね。それが1940年(昭和15年)の東京オリンピックです。つまり戦前。史上初めて欧米以外の有色人種国家で開催されるオリンピックだったのです。このオリンピックは紀元二千六百年記念行事としての性格ももっていました。ところが1937年(昭和12年)に始まった日中戦争(支那事変)の影響と、軍部が物資や兵士を取られるのを嫌って反対。結局、日本政府が開催権を返上してしまったのですね。で、東京開催が中止になって、招致合戦で東京の次点であったフィンランドのヘルシンキが代替地に選ばれたのだけど、こちらは第二次大戦の勃発でまたまた中止の憂き目に。結局、1948年(昭和23年)のロンドン・オリンピックまでお預けとなりました。ちなみに再開されたロンドン・オリンピックには敗戦国の日本とドイツは招待されませんでした。1940年の幻と消えた東京オリンピックの前の大会はベルリンオリンピック。これはヒトラーのオリンピックとして有名ですね。この大会で「聖火リレー」が初めて実施されました。聖火リレーはもともとヒトラーのプロパガンダのために組み込まれたイベントだったのです。そのベルリンオリンピックのひとつ前は1932年(昭和7年)のロサンゼルス大会。このロサンゼルス大会において、活躍した選手がいます。しかも1度現役引退をした後、また復帰して男子10,000m で金メダルをとった選手です。それがヤヌス・クソチンスキー。ポーランドの選手です。クソチンスキーは第二次世界大戦勃発後、ポーランド軍に志願します。ナチス・ドイツの攻撃で2度の負傷を負った後、1940年3月に「AB行動」と呼ばれるポーランドの指導層や知識層をナチス・ドイツが逮捕、拷問、虐殺した作戦で捕えられてしまいます。そして3ヶ月後にワルシャワ郊外のパルミリ村の虐殺専用地で殺害されてしまうのです。さきほど、第二次世界大戦勃発~終結まで、オリンピックは開催されなかったと云いましたが、非公式ながらポーランドでドイツ軍に捕らえられた捕虜たちがオリンピックを開催していたのです。オリンピックと云うにはおこがましいのですが、それでも仲間意識や平時の状態に飢えていた、捕虜だけで作られたオリンピックだったのです。これを始めたきっかけは、ヴォルデンベルグの将校用収容所に収容されていたポーランド人将校たちが、前述の母国のアスリート、ヤヌス・クソチンスキーを悼み開いたオリンピックでした。これが「ヴォルデンベルグ・オリンピック」です。ヴォルデンベルグのドイツ人看守はこれを許可したのですね。凶器となるフェンシング、アーチェリー、槍投げ、棒高跳びはなしで、44のイベントを行うことを許可したのです。昔のオリンピックはスポーツ競技だけでなく、芸術なども競技として加えられていたので、音楽、アート、彫刻なども種目に入りました。囚人たちは自分たち独自のプログラムを作ることや、収容所の郵便局の厚意によって記念切手を発行することまで許されました。7,000人の捕虜のうち、およそ369人が参加し、ほとんどの選手がハンドボールからバスケットボール、果てはチェスまで複数の競技に出場しました。ボクシングもあったのですが、捕虜たちの体力が弱っていたために骨折が相次ぎ、試合はあっと云う間の決着が多かったらしい。ほぼ同じころグロス・ボーンと云う、3,000人が収容されてる別のポーランドの捕虜収容所でも、独自のセレモニーが行われ、優勝者はボール紙で作ったメダルを授与されました。これらの2つの収容所は将校用の収容所だったため、ドイツ側も肩書きのついている捕虜たちに一目おいて許可されたようです。1945年1月までに、それぞれの捕虜たちは収容所から移送されることになります。要するに死の行進です。どれだけの人々が犠牲になったのか、詳細は知られていません。
Jan 21, 2020
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19世紀初頭にフランス生まれで、イギリスで活躍した技術者がいました。サー・マーク・イザムバード・ブルネル。ポーツマスの海軍工廠でイギリス海軍向けの滑車の生産法を確立したことで知られています。彼が採用した方法はアセンブリー・ラインと呼ばれ、現代のライン(流れ作業)生産方式の先駆けとなりました。また回転式のこぎりや地下鉄を開発したのもマーク・ブルネルです。彼のもっとも有名な話は「フナクイムシが木材にあけた穴」を見てシールド工法のアイディアを思いついたことです。これが世界初の河川の下を通るトンネル「テムズトンネル」の工事に応用されました。このサー・マーク・イザムバード・ブルネルの息子で、20歳で父親のテムズトンネル工事に技師として加わった青年がいます。結局、テムズトンネルの工事では出水事故で負傷したためその仕事から離れました。しかし、彼は父親をしのぐ異才の持ち主で、あっと驚くような鉄道、船、橋を建造し、BBCの行った「100人のもっとも偉大な英国人」の投票で堂々第2位に選ばれました。それがイザムバード・キングダム・ブルネルです。イザムバード・キングダム・ブルネル(以下イザムバード)の偉業のひとつが大西洋横断のために1837年当時、世界最大の蒸気船「グレート・ウェスタン号」を建造したことです。彼は、1818年以来"帆船"で運営されてきた大西洋横断定期船はやがて"蒸気船"に置き換わると考えました。なぜなら1850年代に入るころ、オーストラリアでゴールドラッシュが起こり、イギリスとオーストラリアを結ぶ長距離航路への需要が高まったのですが、当時の蒸気船ではイギリスからオーストラリアへ向かうためには、途中のケープタウンで燃料の石炭を補給する必要がありました。そしてこの石炭はイギリスからケープタウンまで帆船で運ばなければならず、確保には手間がかかったのです。そのためこの航路では蒸気船よりも帆船のほうが主流だったのですね。そこに目を付けたのが、イザムバードです。彼は以前から「船に積める燃料などの容量は船の長さの3乗に比例し、必要な燃料は船の長さの2乗に比例する」という理論の持ち主でした。つまり、大きい船ほど経済的だと。イザムバードはこの理論をもとに、グレートウェスタンを設計したのです。模型写真で分かる通り、四本マストの補助用の帆も備え付けられていますが、実際には使われていません。巨大なボイラーはグレート・ウェスタンの船体の約半分を占めましたが、それでも乗客数148名、船客サロンは奥行き75フィート(約23m )、最大幅34フィート(約10m )ありました。総トン数は2,340トン、全長212フィート(約65m )。大西洋を横断する処女航海では、24名の1等船室乗客を乗せてました。運賃は35ギニーで、これは当時の労働階級の年収を上回る金額でした。イザムバードはさらに1843年、鋼製の船体の蒸気船「グレート・ブリテン」(3,443t )を建造してます。そして1852年にはさらに巨大な「グレート・イースタン」(22,500t )を建造してるのですが、グレート・イースタンのお話しは最後に。グレート・ブリテン号はデビュー当時、旧型の外輪船でしたが、その後換装し、世界初の実用大型スクリュー推進船として革命的な役割を演じました。乗客数は外輪船当時260人、スクリュー船になってからは210人。当時はマンモス客船として世界的な脚光を浴びました。イザムバードの業績はなにも船だけではありません。1840年代、グレート・ウェスタン鉄道の建設に尽力しましたが、その成果のひとつが安定性と乗客の乗り心地の改善のために2,140mm の広軌を採用したことです。グレート・ウェスタン鉄道はロンドンからイングランドの西の突端までをつなぐ鉄道で、途中、起伏の多いデヴォンを通らなければなりませんでした。そこでイザムバードは勾配のある山で列車を走らせるための新たな方法を試そうとしました。それが「大気圧鉄道」です。これは、機関車で牽引するのではなく、備えつけられたスチームエンジンがレールの間に敷かれたパイプの中に真空状態を作り、それが列車を引っ張る仕組みになっていました。時速32km ほどで全車両を引っ張ることができたのですが致命的な欠陥があったのです。パイプには柔軟性のある密閉剤が必要でしたが、当時手に入る材料は革しかありませんでした。革を柔軟に保つ唯一の方法は、定期的に獣脂でコーティングすることです。脂に浸した革はネズミの大好物だったので、年中ネズミが革の密閉剤をかじってしまい、そのたびに列車が止まってしまったのです。1年もたたないうちに、イザムバードは失敗を認め、もとの蒸気機関車に戻しました。船の話に戻しましょう。1852年にイザムバード最後の大仕事「グレート・イースタン」を建造しました。グレート・イースタンは19世紀最大級の蒸気船です。全長200m 超という、それまで最大級の蒸気船と比較しても6倍近い大きさでした。解体された1889年の時点でもまだ世界最大の地位にあった船です。船体は鉄板を使用した2重構造で、鉄板の厚さは外側が2cm 、内側が1.5cm 、板の間隔は85cm 。船体には横方向に10ヶ所、縦方向に2ヶ所の内壁を作り水密性を確保しています。船内は1等800名、2等2,000名、3等1,200名の計4,000名が収容可能。また、長さ20m 、幅14m 、高さ4m のグランド・サロンもありました。また、グレート・ウェスタンと同様に蒸気船でありながら6本のマストをもっていましたが、19世紀の蒸気船では帆を持っていること自体は珍しくなかったのです。しかし帆の大きさは5,400平方メートルと、この船を動かすには大きさが足りず、ほとんど使われなかったため、後に船倉に収納されました。それにも関わらず、グレート・イースタンがサザンプトンからニューヨークへ向けての処女航海の乗客はたったの43名でした。それには進水までのグレート・イースタンの不幸な歴史が災いして市民が乗船を敬遠したからです。当初、巨大な蒸気船の建造工事は話題となり、現場には多くの見物客が押し寄せ、新聞や雑誌でも多く取り上げられました。工事は順調にいったかに見えましたが、イザムバードと建造主任の間がしだいにこじれるようになりました。そして建設途中の1856年2月、経営上の問題から突然、建造主任が引退し、作業員は全員解雇されてしまったのです。作業は3ヶ月にわたり中断。工事再開後はイザムバード自らが工事主任の役割を引き継ぎ、1857年、進水可能な状態までこぎつけました。ところが進水作業は船の巨大さで失敗し、作業中の事故で5名の負傷者が出てしまいました。1858年1月30日、ようやく進水に成功しました。船はそのままデトフォードのドックに係留され、進水後の工事を行うことになりました。ところが、これまでの工事の遅れなどで、すでに予算の2倍近い金額が費やされていて、イースタン蒸気航海会社は破産の危機を迎えたのです。なんとかイザムバードが走り回って別会社を立ち上げ、資本金34万ポンドを募ることでこの事態を乗り切りました。しかしイザムバードは連日の過労がたたり、長期にわたる療養を余儀なくされてしまったのです。1859年になって、やっとイザムバードは現場復帰しました。そして試運転を行った。しかし試運転の前日、イザムバードは船内の最終点検を行っていた時、心臓発作により甲板上で倒れ病院へ運ばれたのです。試運転は多くの見物人の中で行われました。ところが、給水管が密閉された状態でボイラー水が加熱されたことが原因で、運転中に煙突が吹き飛び、作業員に死者数名、負傷者十数名を出す大災害となってしまったのです。イザムバードは病院でこの事故を聞き、9月15日、53歳で息を引き取りました。グレート・イースタンの処女航海後も、乗船率はかんばしくありませんでした。大西洋航路は当時多数の船が就航している激戦航路であり、そこにグレート・イースタンを満員にできるほどの乗客を新たに確保することはできなかったのです。さらに、1861年には大嵐にあい、修繕に8ヶ月を要する大きな被害を出したと思ったら、翌年には地図に載っていない暗礁にぶつかり、船底に穴をあけるという事故まで経験しました。そして1864年に会社は倒産し、グレート・イースタンは競売にかけられることになってしまったのです。グレート・イースタンが競売にかけられていたころ、英国では大西洋横断電信ケーブルの敷設計画が進められていました。ケーブルを敷設するためには大型の船が必要でした。そしてグレート・イースタンが目を付けられたのです。こうしてグレート・イースタンは大西洋横断電信ケーブルの敷設作業を行い、ヨーロッパと北アメリカ大陸は電信網で結ばれました。その後も大西洋横断電信ケーブルや、スエズからムンバイへのケーブル敷設に使用されました。
Jan 20, 2020
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電話機が発明されたのは19世紀後半のことですが、その発明の特許をめぐりややこしい話があることは有名ですね。1871年にイタリアのアントニオ・メウッチが、重病の妻との会話を目的に電話を発明します。ところが経営していた会社が倒産し、資金難に陥ったことから、電話機の特許申請料を払えないという悲運に見舞われたのです。さらに、それから5年後の1876年、トーマス・エジソンも電話機の特許を取得しようとしますが、書類の不備が原因で、こちらも特許を取得できてません。一般に、電話の発明者とされるグラハム・ベルが、アメリカの特許庁に特許を出願したのは、エジソンが書類不備となった1ヶ月後。さらにベルに遅れること2時間、電話のもととなる機器を発明したイライシャ・グレイも特許を出願しましたが、アメリカの制度では先に特許を出願したものを優先するため、電話機の特許はベルのものになったのですね。しかし、ベルの特許申請した電話機はまだまだ機能としては不十分で、とても聞き取りづらかった。それを1878年にエジソンが改良を加え、現在使われているような聞きやすい電話になっていったのです。で、1881年になって、フィラデルフィア・ローカル・テレグラフ・カンパニーが、通話を録音するために電話機とトーマス・エジソンの蓄音機を合体させた機器を試作しました。目的は電話の会話を録音するマシンです。これはビジネスの通話内容を後から話し合うのを目的に製作されたのです。マシンは試作品の段階までいったのですが、エジソンは試作段階で手を引いてしまいます。新聞記事の中で彼は「発明は確かにしたが、それを売れるようにするのは機械工がする仕事だ」と。つまり自分は発明するだけと云う思想なんですな。そして、人々にこのマシンを買いたいと思わせるのは、当時の機械工には荷が重すぎました。こうして留守電のアイデアは古くからあったのですが、それを実現するには当時の技術ではまだまだムリがあったのです。それから月日は経ち、1960年になってやっと実用に耐えうる留守番電話機が発明されます。誰が発明したと思われます?なんと日本人です。「橋本和芙(かずお)」彼は世界に1,000件を越す特許を取った発明家として知られています。上の画像の右側が橋本の発明した留守番電話ですが、なんかダイヤルの文字盤がヘンですねぇ。実は橋本は1957年には「電話自動応対装置」として特許を取得してたのですが、日本ではほとんど売れなかったのです。そこでアメリカでも特許を取得し、アメリカのパイオニア社と共同開発した「アンサホン」を1960年になって販売したところこれが大ヒット。なので写真はアメリカ仕様だったのですね。この初代の「留守番電話」は、ワシントンにあるスミソニアン協会の米国歴史博物館に寄贈されました。この留守番電話を発明したキッカケが面白い。1951年、橋本が新しい家に引っ越し、電話を引き直したところ、知らない人あての借金返済催促の電話が夜中までかかってきたのです。要するに間違い電話なんですが、それが幾人もの催促人から繰り返しかかってきて、うっとおしいったらありゃしない。そこで彼は、電磁石の力で受話器が上がり、テープレコーダーから自動音声が流れる装置を作ったのが留守番電話の発明に結びついたのです。橋本の発明はそれだけにとどまらず、「ナンバーディスプレイ」を導入した電話も開発しています。また、彼は発明家としてのみならず、慈善家としても知られており、1988年には「フォンテル基金」を設立、電話による通信技術の研究と発展に大きく貢献しました。これらの功績により黄綬褒章が授与された上に、1994年には、ニュージャージー工科大学から、名誉理学博士の称号が贈られました。
Jan 19, 2020
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いまは歩きスマホや、道の真ん中で立ち止まってスマホに見入るなど、スマホのマナーがやかましく云われてますね。通勤電車なんかに乗ったら、1車輛みんなスマホ見てるのぢゃ無いか?と思うほど多くの人がスマホに見入ってる。少し前まで、電車でマンガ読んでる中高年が非難されてたけど、今般はみんながみんなスマホだから年齢による区別ができない。スマホは電池切れすると用をなさないですが、昔は電池切れの心配ないスマホに代わるものがありましたな。これを電車なんかで広げられると、うっとおしいったらありゃしない。この姿はアメリカでも一緒だったようで、昔のアメリカの画像を眺めてみるとよく出てきます。それが...日本なんか目ぢゃない徹底ぶり。もう、どこでも新聞って具合です。なんせ時代が時代だから、情報を得ると云ったら新聞しかなかったですからね。しかし、ご存じですか?アメリカの新聞ってハンパないほど分厚いのです。例えば映画「ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書」で有名な「ニューヨーク・タイムズ」 は平日で厚さ1cm 以上、クリスマスやサンクスギビングデーと云った祝日や年末になると厚さ3cm は超えてしまいます。こんな分厚い新聞かかえて電車に乗り込むのでしょうか?それとも記事内容によってページが区切られてるので(折りこみも別々)いらないページは捨ててしまうのでしょうか?日本と違って、アメリカの全国紙と云うのは「USAトゥデイ」と「ウォール・ストリート・ジャーナル」だけです。どこに行っても、その街で発行している新聞が必ずあり、一般に流通してるのは全国紙よりも地方紙の方が圧倒的に多いのです。そして夕刊がなく、1日1回の発行のみです。通常、「ニューヨーク・タイムズ」など堅い新聞が朝刊紙として発行され、大衆紙と呼ばれる「デイリーニュース」などスポーツ新聞や、「ニューヨークポスト」と云ったタブロイド紙が夕刊として発行されます。最初に電車の話を出したので、車内で新聞読んでる姿からご覧いただきましょうか。なかなかに凄まじいですよ。みんな1950年代~60年代の写真です。ケネディが暗殺されたときは車輛に乗ってる全員が新聞にクギづけです。さて、この新聞に夢中画像はなにも列車内に限りません。もう、街のいたるところで老いも若きも、男女を問わず、みんな熱中して新聞に首ったけだったのですね。それだけ情報の元が新聞しかなかった証拠です。キング牧師が暗殺されたニュースに見入る人々。
Jan 18, 2020
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秋から冬にかけて、こんな症状に悩まされてる人がいるんですね。季節性感情障害(SAD)。秋から冬にかけて、きまって気分の落ち込みが見られる障害のことらしい。SADは一種の「うつ病」です。特徴は、秋または冬に抑うつが始まり、春や夏になると治まるという特有のサイクルを繰り返します。なので「反復性冬季うつ病」と呼ばれることもあります。症状は普通のうつと同じで、 気分が落ち込んだり、気力がなくなったり、時には生きる張り合いがなくなったり。イライラして、他人に会いたくなくなったりします。SADには普通のうつ病とは異なる症状もでます。普通のうつ病の人は、眠れなくなり食欲もなくなるのが一般的ですが、SADの人の場合は、睡眠時間が長くなり食欲も増すことが多いのです。そして何よりの特徴は、春になると回復すると云うこと。SADの人の1/3が春から夏にかけて、逆に気分が高揚した状態になります。SADになる原因は非常に単純です。単に「冬場の日照時間不足」なんです。光が不足すると脳内でセロトニンの分泌が減り、そのためにうつ病になりやすくなるのですね。日本では昼間カーテン閉めてて、夜中になると起きだすオタクぐらいしかSADになる確率少ないのでは?と考えがちですが、現代の生活では屋内で過ごすことが多く、普通の人でもかかる可能性「0」とは云い切れません。SADにならないよう「ブライトライト」と云う商品が売られてます。要するにLEDを使った光源なんですが、30cm の距離で10,000ルクスを照射できるので、室内で太陽光に近い光を浴びることができるのですね。日本でもAmazon なんかで手に入ります。日照時間の短い北欧なんかではもっと深刻で、スカンジナビア諸国ではブライトライトを設置した「光療法カフェ」は当たり前のように存在しています。こっちはニューヨークの光療法カフェです。ニューヨークも緯度が北海道くらいの位置にありますから、日照時間は結構短いのですね。これらのカフェで使用されてたり、日本で市販されてる「ブライトライト」。照射される光は太陽光に似ていますが、紫外線は出ないので肌や目に害がないのですね。秋に症状が出始めたら、毎日30分~1時間、できれば朝食時がもっとも効果がでるそうです。効果は現れるのがとても早く、ほとんどの人が最初の1週間で症状の改善を実感するとあります。このブライトライトを使って副作用が出る人もあります。人によっては頭痛や吐き気、目のかすみなどの症状が出るのですが、ブライトライトからの距離を長めにすれば、これらの症状は軽くなります。ただし離れ過ぎてはいけません。目とブライトライトとの距離がありすぎると、治療に必要な明るさが足りなくなり、同様の効果を得るためには、時間を長くする必要があるからです。また、夕方5時以降に使用すると寝つきが悪くなることがあるので、控えた方がいいとあります。まぁ、寒くても頻繁に外に出て太陽光をあびてれば、日本だったら大丈夫とは思うのですが。深刻なのは「新生児黄疸」です。この場合、治療にもっともよく使われるのが「光線療法」。つまりブライトライトなどを使ってする治療と同じですが、市販されてるライトボックスよりもっと強力な(効果の高い)青色光線の専用光線療法器を使います。光線療法の先駆けは1903年にノーベル賞を受賞したデンマークの内科医ニールス・フィンセンです。彼はUV光を集中させた光線を使って、顔面および頸部の皮膚組織を破壊する結核の一種である狼瘡患者を治療しました。これは現代医学が発見される数十年前、太陽光と清潔で乾燥した空気が、結核に罹患している患者に推奨された治療法だったのです。当時の医療従事者は、病気を治療するための光の研究に力を入れていたコペンハーゲンのフィンセン研究所に知識を求めて集まりました。1920年代には、自然太陽療法(ヘリオセラピー)やランプを用いた人工光療法(光線療法)が治療の一環として普及したのです。フランスのサヴォワ県にエクス=レ=バンと云う都市があります。温泉保養地として国際的に知られる都市ですが、日本人には1998年に開催されたサッカー・ワールドカップフランス大会において、日本代表チームのキャンプ地となったことで有名です。このエクス=レ=バンに1929年、世界初の「回転式サンルーム」が誕生しました。より効率的な紫外線治療を行うためにこの設備を着想し、特許をとったのはルーマニア生まれのジャン・セドマン博士です。建物は建築家のアンドレ・ファルデが設計しました。待合室と検査室のある1階とその上に尖った円錐形の屋根をもつ小塔があり、その内部にあるエレベーターとらせん階段で上に上がることができるようになっています。タワーの上には、水平に両サイドに延びるウィングがあり、太陽の動きに合わせて回転するようになっているのです。ウィングの中央には、監視・制御ルームがあり、両サイドのウィングは患者のためのガラス張りの治療室になっていました。水平に回転するウィングは、長さ25m 、幅6m で重さは80t もありました。各治療室には、傾けることのできるベッドがあり、患者を太陽光に対して垂直に保つことができるようになっています。また酸化ニッケルやコバルトガラスのスクリーンが、特定の波長の光をブロックすることができるようになっていて、患者のさまざまな患部に直接、太陽光を集中して当てるためのレンズも備わっていたのです。1934年、セドマン博士はさらにフランス、アルプ=マリティムのヴァロリスや、インド、グジャラート州のジャムナガルにも、このサンルームを新設しています。
Jan 17, 2020
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15歳ですでに振り付けをはじめていたというボブ・フォッシー。繊細なパフォーマンスを加味した振付をこなし、映画監督としても超一流のセンスを見せました。なにしろブロードウェイで「スイート・チャリティー」や「シカゴ」の振り付けをやった人ですからね。この人の天才的なダンスを見ることが出来るのが、スタンリー・ドーネン監督の映画「星の王子さま」。この映画でボブ・フォッシーは砂漠に住むヘビに扮しています。マイケル・ジャクソンに多大な影響を与えたと云われるスネークダンス。スネークダンスと云えばボブ・フォッシーと云われるくらい。ボブ・フォッシーは自身の身体でヘビを表現したけど、だいたい映画なんかに登場するスネークダンスと云うのは、自分の身体にヘビを巻き付けたり、ヘビを相手に踊ったり。インド映画とか昔のハリウッド映画の定番でしたな。そう云えば、1982年公開のSF映画「ブレードランナー」にも、人類に造反した人造人間が身を隠すため"ヘビ女"に扮して踊るシーンがありました。ここでも、ヘビを身体に巻き付けてのダンスです。こう云うダンスや人間ポンプなどいわゆる「見世物小屋」芸はサーカスと区別されており、海外では「フリークショー」と呼ばれています。そんなスネークダンスで有名な映像があります。なんと1950年代の映像。当時、フランスで大人気だったジャニーン・ジャニクとクリスチャン・アルノーのカップル。ヘビ柄のコスチュームを着たジャニクは、その柔軟な体でヘビに擬態し、妖艶に踊るのです。それを誘導するのがヘビ使いアルノーの役目と云うワケです。ジャニクのクネックネっぷりはなかなかに見事。鍛えれば、人間の身体ってこんなに柔軟になるのですね。私なんて身体が固い方だから、こんな動きしたら骨折してしまいます(笑)Bendy girl does snake dance (Janik & Arnaut)
Jan 16, 2020
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18世紀にスイスの貴族で、自然科学者でもあったオラス=ベネディクト・ド・ソシュールと云うオッサンがいました。このオッサン、科学者と云ってもなかなかのスポーツマン。1786年にヨーロッパアルプスの最高峰、モンブランを水晶取りのジャック・バルマとミッシェル=ガブリエル・パッカールが初登頂をはたしたのですが、この登頂を主導したのがソシュールなんです。ソシュールはもともと自身が初登頂を目指したのですが、なかなか果たせず、初登頂の翌年1787年になってやっと登頂してます。しかし、周辺で初登頂した山も多く、一般には登山という概念さえ希薄であった当時、山麓のシャモニーやツェルマットのような場所へ旅行者の興味を呼び寄せる動機付けをおこなった人物として「近代登山の創始者」とも呼ばれています。彼の元々の登山の目的は物理学者としてアルプスの氷河を研究することでした。多数の観測機器を持って登頂を果たし、山頂で沸点や雪の温度、自身の脈拍などを測定したのです。ソシュールはとにかく測定魔でした。測れるもの、いや、ときには測れないものまで、ありとあらゆるものを測ってみようとしたのです。そのために、毛髪湿度計、磁力計、風力計など、さまざまま測定機器を自分で発明しました。高度の違いによる気温、気圧の減率を確立したり、太陽によって空気が温められるメカニズムを調べるために、黒い箱の中に温度計を設置して、ほかのオープンな場所との太陽光の強さの違いを比較する装置を開発したりしました。自分で作ったツールと科学セットを持って、谷を歩き回り、山の高みに登るうちに、ソシュールは空の色について疑問に思うようになりました。地元では、高みに上がるほど、空は黒くなり、次第に無色になると云われて恐れられていた時代です。空の青さは何日かたつと、わずかに薄れて雲の白い色に溶け込んでいくため、視覚的な効果であることは彼には分かっていました。この色の変化は、水分含量の違いによるのではないかと彼は結論づけたのです。彼はプルシアンブルーのサスペンションを使って、白と黒の間で識別できる、あらゆる色合いのブルーに染めた一辺を集めてカラーサークルを作り「シアン計」と名付けました。要するにリトマス試験紙の"空"対応版ですね。シアン計による測定で、大気の状態を知ることができるようになりました。2006年にイギリス国立物理学研究所の研究者がこのシアン計を使って測定したところ、リオ・デ・ジャネイロの空の色が最も青いと云う報告をしています。青空の謎は、19世紀のイギリスの物理学者ジョン・ティンダルが「チンダル現象」を発見して初めて解決されました。面白いことにティンダルもまた登山家でもあったのです。アルプス山脈5番目の最高峰ヴァイスホルンの初登頂に成功したほか、マッターホルンの初登頂を競いましたが、エドワード・ウィンパーに先を越されています。しかし1868年にマッターホルンの初縦走に成功しているのです。彼もまた、物理学者としてアルプスの氷河を研究することが目的で登山をしてました。チンダル現象は光の散乱現象である「ミー散乱」によって散乱され、光の通路がその斜めや横からでも光って見える現象を云います。太陽が雲に隠れているときに雲の切れ間や端から光が漏れ、光線の柱が放射状に地上へ降り注いで見える薄明光線が身近なチンダル現象の一種です。
Jan 15, 2020
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最近のオリンピックをご覧になった方だったら、見覚えあるでしょう。選手の何人かがとてもカラフルなテープを張り付けている場面を。これ、キネシオテープって云うんですね。キネシオテープってのは、アクリル系粘着剤を用いた健康な筋肉と同じ伸縮率を持つ綿やアクリルのテープです。運動による障害や疼痛を治療する目的で使われてます。テープを張ることで体内に隙間が出来てリンパ液の流れが良くなり、それにより新陳代謝が改善。自然治癒力が高まり、貼っておくだけで筋肉の痛みや凝り、怪我・手術後の内出血の治りが早くなると云われています。なのでスポーツ選手でなくても、一般の人でも使っていいのですが、私のように人工関節で慢性的な筋骨格痛がある場合、痛みの緩和には役立ちますが、慢性痛の身体障害を軽減すると云う効果はないんですな。ピップフジモト、ニチバン、日東電工(ニトムズ)、アルケアなどから販売されてます。サッカーのベッカムが使用しだしてから「ファッションテーピング」とも呼ばれるようになったキネシオテープ、実は日本人が開発したものなのです。米国公認カイロプラクターの加瀬建造が1970年代~80年代に開発して、彼の会社が「キネシオ」のブランド名で商品を販売するようになったのです。開発当初は目たたないように皮膚色が主に使われていたそうですが、北京オリンピックあたりから、スポーツ選手がチームカラーに合わせた「カラーキネ」を使用し始めたのがカラフルになった要因です。テーピングにはもちろんワザが必要で、加瀬建造が会長を務めるキネシオテーピング協会がキネシオテーピングの基礎知識から指導員までの4段階の民間資格を発行するとともにセミナーを行っています。イギリスでは4,000人以上の人がキネシオテーピング技術の訓練を受け、トップアスリートたちの体のテーピングを行っているそうです。基本的にはテープで固定せず、筋肉に沿って貼ると云う方法です。しかし、キネシオテープの効果に懐疑的な見方もあります。なぜなら、キネシオテープは北京オリンピックとロンドンオリンピックで選手に無料で配ったことで一気に人気が上がり、2008年ビーチバレーのイベントでケリー・ウォルシュ・ジェニングスとミスティ・メイトレーナーが使っていたことで広く露出し大衆化したからです。このペアはロンドンオリンピックで、わずか1セット落としたのみで、アテネオリンピック、北京オリンピックに続き、オリンピック三連覇となる金メダルを獲得した偉業の持ち主です。つまり、効果のほどは分からないけど、キネシオテープの人気は完全にテレビ放送のスポンサーをしていたためだと。
Jan 14, 2020
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世界一のベストセラーはご存じ「聖書」です。発行部数は諸説ありますが、少なくとも50~60億冊以上発行されたらしい。サイズが世界最大の本はハンガリーで見ることができます。そのサイズたるや縦4.18m ×横3.77m 、重さ1,420kg !もちろんギネスに載ってます。この本が収められているのは首都ブダペスト東方240km 、アグテレク国立公園内にあるシンペトリの町にある、美しく改装された水車小屋の中です。それを収容する水車小屋は、訪問者が自分で紙を製紙することができる、ハンガリーで唯一の製紙工場でもあります。また同じ建物内には、グーテンベルク博物館もあって、図解された聖書、印刷機と装置、製紙に関わる歴史の大規模なコレクションがあります。件の本は「自然遺産」関係の内容で、346ページあります。2010年にパルガさん夫婦とボランティア25人によって制作されました。しかし、この本はいわばギネス記録をとるために出版されたようなもので、そのサイズにする動機付けは弱いですね。その点、ギネスなんて存在してなかった中世にとてつもないサイズの写本が作られました。その写本が「ギガス写本」と呼ばれるものです。「ギガス写本」は皮革と金属製装飾で覆われた木製のフォルダで束ねられており、縦92cm ×横50cm 、厚さ22cm 、重さ75kg で、中世の現存する写本としては最大です。「ギガス(gigas)」とはスペイン語で「巨大」と云う意味なんですね。この本は13世紀初め、ボヘミア(現在のチェコ)のベネディクト会の修道院で修道僧ヘルマンによって作られたと考えられています。ヴルガータ版聖書を含み、他にも様々な歴史的文書が含まれていて、全てラテン語で書かれているらしい。ちなみにその修道院は15世紀に破壊されてしまいます。元々は320枚の紙が束ねられていましたが、一部は後に除去されています。しかし、誰がどんな目的で除去したのかは不明ですが、除去されたページにはベネディクト会の禁欲的規則が書かれていたと見られています。現在は適度な品質の羊皮紙310枚が束ねられています。その後シトー会の修道院に渡ったのですが、ブジェヴノフのベネディクト会修道院が買い戻しました。それで1477年から1593年までブロウモフの修道院の図書館に保管されていたのですが、1594年にプラハに持ち去られ、神聖ローマ帝国のローマ皇帝であり、ローマ王やハンガリー王、ボヘミア王となったルドルフ2世のコレクションの一部となってしまいました。このルドルフ2世は政治よりも、芸術、文化、科学が大好きで膨大なコレクションを築き、驚異の部屋を作った逸話の持ち主です。ところが、また転機がおこるのです。ドイツとスイスでの宗教改革による新教派(プロテスタント)とカトリックとの対立のなか展開された最後で最大の宗教戦争と云われる三十年戦争。当時のヨーロッパでは大国として大きな影響力を持っていたデンマーク、スウェーデン、フランス、スペインなどヨーロッパ中を巻き込む国際紛争へと発展したのですが、この三十年戦争の末期に「ギガス写本」はスウェーデン軍が戦利品として持ち帰ってしまい、未だに返還されずにストックホルムのスウェーデン国立図書館の収蔵となってます。しかし、通常は公開されていないので、ストックホルムに旅行に行っても見ることはできません。一般に閲覧できたのは、2007年~2008年まで、貸与という形でスウェーデンからプラハに一時的に戻され、チェコ国立図書館で展示されたのみです。この写本には際立った特徴があります。290枚目のフォリオの右ページは通常なら空きページなのですが、このページに高さ約50cm の独特な悪魔のイラストが描かれているのです。その前の数ページはやや黒ずんだ羊皮紙に非常に薄暗い文字で書かれていて、写本内の他のページとは異なる印象です。そのあたりだけ色が異なるのは、数世紀に渡って陳列されてきたため、羊皮紙が日焼けしたためと見られているのですな。で、この悪魔のイラスト製作にまつわる伝説から「ギガス写本」は「悪魔の聖書 (Devil's Bible)」 とも呼ばれているのです。中世期に語られていた伝説によると、この写本を書いた修道僧ヘルマンは修道僧としての誓いを破り監禁された修道僧だと云います。この厳しい刑罰を耐えるため、彼は修道院を永遠に称え全ての人類の知識を集めるべく、一晩で本を写本することを誓いました。しかし真夜中ごろになって誓いを守れそうにないことが明らかとなり、彼は神ではなく堕天使ルシファーに語りかけ、自身の魂と引き換えに本を完成させてほしいと願ったのです。悪魔は写本を完成させ、その修道僧は感謝の意を表すために悪魔の絵を追加したと云うことですな。写本作業を再現してみたところ、実際には完成までに20年以上かかると見積もられてるそうです。
Jan 13, 2020
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1978年(昭和53年)7月30日がどれほど特別な日だったか、これは当日、沖縄に居た人しか分かりません。戦前の沖縄は、日本国内のほかの地域と同じく、自動車は左側通行でしたが、戦争終了後、沖縄を占領下に置いたアメリカ政府が出した指令により、右側通行に変更されました。日本本土とは逆の自動車は右側通行と云う状況は、1972年の本土復帰後も継続されていました。しかし道路交通に関する国際条約(ジュネーブ道路交通条約)では「一国一交通制度」、つまりひとつの国はひとつの交通方法でなければならないと云う条約に則り、ついに沖縄も本土と同じく左側通行への切替を実施することが決まったのです。その自動車は"右側通行"から"左側通行"への切り替え日が1978年7月30日、俗に「730」と呼ばれる一大作業だったのです。交通ルールを真逆に変えると云う作業は、「ハイ、今日から左側通行ね~」と云うほど簡単なものではありません。標識や信号、車線レーンの道路標示など県内の道路インフラ全てを7月29日22時~翌30日の6時までの「8時間」で完全に入れ替えねばなりません。まさに一大事業です。もちろん沖縄本島だけでなく、宮古島や八重山列島など他の島でも同時に変更作業を進めなければなりません。作業に伴う交通整理など沖縄県警だけではとても対処しきれないので、警視庁をはじめ全国各県警の警察官約3,000人が応援に駆けつけ、沖縄県警の警官約1,400人と合わせて、8月下旬まで交通整理にあたりました。「730」当日までに実施しておかねばならない工事も多々あります。交通の妨げにならないためのバス停用の窪みも、交差点付近のバス停は、交差点を過ぎたところになくてはならないので、そのまま継続して使えないものも多数でてきます。交差点はさらに大変で、車線が反対になることで、角を削ったりと、いろいろな工事を行わなくてはならなかったのです。ガードレールは、車が接触した場合に車体をえぐり取らないよう、繋ぎ目の引っかかる部分を進行方向とは反対に向くように組まれていますが、この繋ぎ目も逆にしなくてはなりません。そのため左側通行に併せて重ね直したりしました。実施前から準備段階として、幹線道路ではあらかじめ左側通行用の標識や信号を設置した上で、それらをカバーで覆い隠しておき、変更作業時にその覆いを外して右側通行用の標識にかぶせ直す方法が用いられました。また、車線のレーン、右左折表示などの道路標示も、左側通行用の標示をあらかじめ描いた上で黒のカバーテープで覆い、変更作業時にバーナーによってテープを除去するという方法が取られました。これら覆いやカバーテープを用いた方法は世界初であり、「カバーアンドテープ方式」や発案者の名を取って「久高方式」と呼ばれ、短時間で効率よく作業を行うことを可能にしたのです。7月29日の午後10時。サイレンが鳴らされます。緊急車両や特別に許可を受けた自動車以外は、翌朝6時の切り替えまで走行禁止となります。 折しも接近した台風8号の影響で風雨の激しい夜でした。変更作業に際して約800人の作業員と約300台の車両が動員され、約19億円が投資されました。その間、新標識から旧標識へ目隠しの移動、新白線を隠していたテープの除去などが行われたのです。明けて30日4時18分、沖縄県全ての道路で切り替え工事が終了。5時50分、全ての車が停車したのち右車線から左車線に移動。6時、再びサイレンが鳴り、多くの県民が見物する中で、止まっていた車が左車線を走行し始めたのです。730施行によりバス停の行き先も逆になったのですが、切り替え当初は従来のバス停から乗車し、反対の方向へ連れて行かれた乗客。運転席側の右側の窓をたたき乗車させてくれと訴える乗客が多くいました。「沖縄730交通」の秘話この沖縄の730を遡ること11年前に、北欧スウェーデンでまったく同じことが行われていました。ヨーロッパ諸国の多くでは、自動車は道路の右側を走る交通ルールが取り入れられていますが、1967年夏までのスウェーデンでは左側通行が取り入れられていました。隣国のノルウェーやフィンランドと陸続きであるスウェーデンにとってこの違いは少なからず問題となっており、特に国境付近では左側通行であることが原因で交通事故がたびたび発生していたのです。このような安全上の問題や、北欧諸国やヨーロッパ諸国の一員としての存在感を示すために、スウェーデン政府は道路交通ルールを180度入れ替えて左側通行から右側通行へと完全にシフトすることを決定しました。新しい交通ルールが始まるのは1967年9月3日と定められ、この日はスウェーデン語で「右側通行への変更」を意味する「Hogertrafikomlaggningen」またはシンプルに「Hデー」と呼ばれることになりました。多くの国民が活動している日中にルールが変化すると混乱をきたすことになるため、新ルールは午前5時に一斉に適用されることになりました。また、これにあわせて一部の車両を除く全ての車両は、当日朝1時から6時まで走行を禁止されました。沖縄のケースと同じで、国中の道路に設置されている道路標識や道路上に描かれている矢印などの道路標示、一方通行路の再設定などを全て右側通行ルールに合致するように入れ替える必要があります。沖縄は県単位ですが、こっちは国単位での入れ替えです。スウェーデン政府はこの一大事業を成し遂げるために、国を挙げた取り組みを行うこととなりました。まだ自動車が充分行き渡ってなかった時代ですが、それでも国内にある約36万個の道路標識を更新する必要がありました。もちろんHデーにあわせての変更です。そのために、地方政府の職員や軍隊が動員されて国中で作業が行われました。この事業に投じられた予算は、6億2,800万スウェーデンクローナ(現在の価値で26億クローナ、約333億円)。36万ヵ所の道路標識が更新され、公共交通機関である9,000台のバスで、出入口を車体の左右両方に取り付ける改造が行われました。事業を成功させるためにキャンペーングッズまでもが作られ、人々に対する周知が進められました。当時のスウェーデンはテレビ、ラジオともにチャンネルが1つしかなく、他にメディアと呼べるものは新聞や雑誌ぐらいだったため、現代とは比べものにならないくらい容易に多くの人にアプローチする事ができたそうです。しかし、気になるのは自動車のハンドル位置がそのままで、道路の走る側だけを入れ替えると大混乱が起こりそうなわけですが、そこではスウェーデン特有の自動車環境が大きく後押しになったとのこと。当時、国内で登録されている車の多くは外国から輸入された車が多く、そのほとんどが右側通行に適した「左ハンドル」の車だったのですね。また、スウェーデンの自動車メーカー「ボルボ」はヨーロッパ諸国向け仕様と同じ左ハンドル車をスウェーデン国内で多く販売していたそうです。そのおかげでスウェーデン国民の多くは左ハンドルの自動車を運転することに慣れていました。と、云っても、Hデー直後の混乱は下の画像の通りです。余談ですが、近年のスウェーデンの交通行政は、特に交通事故による犠牲者を減らすことに主眼が置かれており、1997年からは交通による死者をゼロにする「Vision Zero」という取り組みが進められています。そのかいあって、スウェーデンは世界で最も交通事故死者数の割合が低い国で、2016年の死者は国内あわせてわずか260人です。これまでは自動車が道路の主役でしたが、これを歩行者や自転車を優先した交通の仕組みづくりも進められているそうです。自動車メーカーのボルボは3点式のシートベルトを発明しましたが、スウェーデン政府の取り組みを受けて、このシートベルト技術を世界中の車が採用できるように特許を無償で公開しています。ボルボの対応によって、あらゆる自動車メーカーが3点式シートベルトを採用することになり、世界中で多くの人の命を救うことに成功してるのです。
Jan 12, 2020
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アリス・リデルは1800年代後半~1900年代初頭に実在したイギリス人女性で、この時代としては珍しく82歳まで生き続けていました。彼女の父親はオックスフォード大学クライストチャーチの学寮長でした。この父親の経歴が彼女を著名にしたのです。みなさんはこの物語をご存じですよね。「ある日、アリスは川辺の土手で読書中の姉の傍で退屈を感じながら座っていた。すると、そこに服を着た白ウサギが、人の言葉を喋りながら通りかかる」「驚いたアリスは、白ウサギを追いかけて、ウサギ穴に落ち、さまざまなものが壁の棚に置いてあるその穴を長い時間をかけて落下する」「着いた場所は、広間になっていた。アリスは、そこで金の鍵と通り抜けることができないほどの小さな扉を見つける」「その傍には不思議な小瓶があり、それを飲んだアリスはみるみる小さくなる」「しかし、今度は鍵をテーブルに置き忘れて、取れなくなってしまう」...そう、ルイス・キャロルの有名な児童小説「不思議の国のアリス」。アリス・リデルこそ、ルイス・キャロルが描いた幼い少女アリス、そのモデルだったのです。父親のヘンリー・リデルは、現在も学生の間で用いられている「リドル=スコットのギリシャ語辞典」の共著者で、クライスト・チャーチの学寮長に任命されると、一家はこの学寮に移り住んでいます。アリス、3歳のときです。アリスには2人の兄と1人の姉、2人の弟、2人の妹がおり、これらの子女たちは成長すると両親に混じって食後の音楽会や室内ゲームに参加することが許されました。アリスは若い頃からオックスフォードの学者や芸術家と交流する機会を持てたのですね。その中のひとりが「不思議の国のアリス」の著者ルイス・キャロルです。ルイス・キャロルと云うのは筆名で、本名はチャールズ・ラトウィッジ・ドジソンと云う数学者で、かつ論理学者、写真家と云う経歴の持ち主でした。もともと「不思議の国のアリス」はルイス・キャロルが出版しようと思って書いた物語ではなかったのです。アリスがキャロルと知り合ったのはまったくの偶然です。写真家の彼は、大聖堂を撮影しようとしていたとき好奇心の強い姉妹が彼の傍に寄っていったのです。キャロルは長男ハリーと長女ロリーナとはすでに面識がありましたが、間もなく4歳になるアリスとはこのとき初めて出会っています。彼はアリスの父親が学寮長を務めるクライストチャーチの寮生だったのです。この日からキャロルと親しくなった姉妹は、それから乳母に付き添われてしばしばキャロルの部屋を訪れるようになりました。キャロルにお話を作って聞かせてもらったり、様々な衣装を着て写真を撮ってもらったりして遊ぶようになり、後には連れ立ってボートを使ったピクニックなどもするようになっていったのです。「不思議の国のアリス」出版3年前の1862年7月4日。この日キャロルは、長女ロリーナ、三女イーディス、そしてアリスとキャロルのカレッジ同僚ロビンスン・ダックワースとともに、川をボートで遡るピクニックに出かけました。アリス10歳のときです。ボートの中で、キャロルは少女たちに、「アリス」という名の少女の冒険物語を即興で語って聞かせたのです。アリスはその話を気に入り、自分のために物語を書き留めておいてくれるようキャロルにせがみました。そこでキャロルはピクニックの翌日からその作業に取り掛かり、手書きによる作品「地下の国のアリス」が完成したのは1863年2月のことでしたが、さらに自分の手で挿絵や装丁まで仕上げたうえで、翌1864年11月26日にアリスにこの本をプレゼントしたのです。またキャロルは知己で幻想文学、児童文学の人気作家であったジョージ・マクドナルドに原稿を見せました。マクドナルド夫妻は手紙で、作品を正式に出版することをキャロルに勧めたのです。こうしてキャロルは出版を決意し、「地下の国のアリス」から当事者にしかわからないジョークなどを取り除き、「チェシャ猫」や「狂ったお茶会」などの新たな挿話を書き足して、タイトルも「不思議の国のアリス」に改め出版にこぎつけたのです。また1871年に出版された続編「鏡の国のアリス」の物語にも、キャロルがアリスと経験したさまざまな出来事が反映されており、巻末の跋詩にはアリスの名前が踏冠詩の形で詠み込まれています。アリス・リデルは20歳の時、クライストチャーチに入学したヴィクトリア女王の4男レオポルド王子と恋愛関係になりましたが、身分違いの恋愛は成就せず、結局この交際は王子の卒業後まもなく終わりました。レオポルド王子は血友病患者として知られており、持病のために30歳で亡くなっています。王子への思いを諦めたアリスは、その4年後の1880年、地主の息子レジナルド・ジャーヴィス・ハーグリーヴスと結婚しました。結婚後はハンプシャーにあるハーグリーヴズの屋敷に住み、アリスが一家の社交の中心となっていったのです。3人の息子を生みましたが、上の2人はいずれも第1次世界大戦で戦死してしまいます。1926年には夫レジナルドが死去。1932年、アリス80歳のときになって、コロンビア大学から名誉文学博士号が贈られました。ルイス・キャロルの生誕100年を記念してのことです。その2年後の1934年、アリスは家族に看取られながらブリーチズの自宅で息を引き取りました。
Jan 11, 2020
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きのうは、大坂ナンバのJTBにちょっと用事があって出かけてました。ちょうどナンバ近隣の今宮戎神社の10日えびすの前夜祭、宵えびすです。きょうが本えびすで、明日が残り福。戎さまは商売繁盛の神さまなので、私には縁もゆかりもないけれど、運動がてら立ち寄ってみました。毎年のことながら、スゴイ人出です。宵えびすでこれですから、本えびすだったらど~なるんでしょう。今日行われる、男たちが猛ダッシュで走り抜ける「開門神事福男選び」で有名な西宮戎と違って、今宮戎は境内が比較的狭い。なので、入場制限があって、先にお参りした人が出てから、次のお参り客を入れるので境内前で待たなければなりません。では、先ずはお約束の"福娘"でも。今宮戎の信仰が盛んになったのは豊臣の時代になってからです。商売繁盛のお祈りした後は、本殿の裏手に回って、大きな「銅鑼(ドラ)」を叩きます。お祭りしてる七福神の一柱"えべっさん"は耳が遠いので、銅鑼を叩いて大きな音を出して、お願いの念を押すと云う意味です。後は膨大な数の屋台ですね。10日えびすを象徴するのが「小宝」。銭叺(ぜにかます)、銭袋、末広、小判、丁銀、烏帽子、臼、小槌、米俵、鯛などの縁起物を束ねたものです。これは神社から授与(実際はお金とられます)されますが、それを持って行って屋台の吉兆(熊手)に「替える」のですね。それが変じて「買う」になり、商売繁盛につながると云うワケです。で、屋台の吉兆と云うのはものすごく高いです。小さなものでも1万円はします。たいていの商売人は3~5万円ぐらいの吉兆を買って、翌年の10日えびすに持参し、焼いてもらうよう奉納するのですな。屋台のうち、店内で飲食できるところは行くものではありません。値札が貼ってないのです。どんなにチョット頼んでも、間違いなく1人 1万円はぼったくられます。
Jan 10, 2020
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きょうは映画の初期の初期に撮られた作品のご紹介から。アメリカの映画監督にして、俳優でもあり、脚本家でもあったD・W・グリフィス。映画作法の基礎を築いた人物で、モンタージュ、カットバック、クローズアップなど様々な映画技術を確立して、映画を芸術的な域へと高めた「映画の父」と呼ばれている人物です。グリフィスの作品と云えばアメリカ初の長編映画「國民の創生」や「イントレランス」が有名ですね。「國民の創生」は、KKK誕生物語を南部白人の立場から描いた物語だったため、北部においては黒人差別映画として上映拒否されたり物議を醸しましたが、作品自体は大ヒット。ニューヨークでは44週間連続で上映されたという記録をもっています。この作品はクローズアップやフラッシュバックなどを効果的に使用するなど、映画技術や編集で画期的な工夫がみられ、後にアメリカ国立フィルム登録簿に登録されています。映画史上最大の古典として語り継がれている「イントレランス」は4時代の物語が同時並行的に描かれるという当時としては革新的な作品でした。しかし難解との評判を呼び、アメリカ本国では興行的に失敗に終わった作品です。作品自体はクロスカッティングや大胆なクローズアップ、カットバック、超ロングショットの遠景、移動撮影など画期的な撮影技術を駆使して映画独自の表現を行い、アメリカ映画史上の古典的名作として、後にはソ連(ロシア)の映画作家にまで影響を及ぼしました。1919年には、チャップリン、ダグラス・フェアバンクス、メアリー・ピックフォードと共にユナイテッド・アーティスツ社を創設しています。そう、あのユナイテッド・アーティスツです。そのグリフィスの作品で1908年に発表された「RESCUED FROM AN EAGLES NEST(ワシが赤子をさらっていった)」と云う、日本ではほとんど知られていない映画があります。当時最先端の映像をつなぎ合わせる技術によって完成した、ワシにさらわれた子どもの救出映像で、特撮映画のはしりと云える作品です。この時代の映画ですから、と~ぜん無声映画です。今だったらCGでササッと作れる映像も、この時代はタイヘンそう。背景の景色は完全にペインティングですね。Rescued from an Eagle's Nest (1908) - 1st Henry B. Walthall movie appearance - D.W. Griffith cameo
Jan 9, 2020
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お姫さま抱っこって、私ら高齢者のイメージは介護ですがな(笑)壁ドンよりも頭ポンよりも歴史の古いお姫様だっこ。普通は結婚式を終え、ハネムーンに旅立つ新郎が花嫁を抱きかかえて幸せをアピールするポーズですが、恋愛中でも求めたり、やってあげたり。あれって、男の方はけっこう腕と腰に負担かかるし、だいいちそんな長い時間、維持できるワケがない。これが普通なんですが...これもお姫さま抱っこの範疇?さらわれてるとしか見えないですけど。1人対多人数でも、お姫さま抱っこって云うんですかねぇ。逆転バージョンもあります(笑)お姫さま抱っこって、元々は古代ローマの風習らしい。新郎新婦が新居に入る際に、花嫁が入り口でつまづくことが凶兆だと見なした習慣から、入り口から屋内まで抱きかかえられたまま運ばれたのが由来です。昔のパルプ・マガジンやB級映画では、モンスターにさらわれるヒロインは、必ずお姫さま抱っこで連れ去られるのが定番でした。アート・ディレクターの高橋ヨシキに云わせると「お姫さま抱っこ」=「半魚人持ち」らしい。1954年に公開された映画「大アマゾンの半魚人」に代表的なお姫さま抱っこが見られるからです。ちなみに1955年公開のマリリン・モンロー主演映画「七年目の浮気」で、モンローが地下鉄の通気口に立ち、モンローの白いスカートがふわりと浮き上がる有名なシーンは、トム・イーウェル演じるリチャードとこの「大アマゾンの半魚人」を見た後で、映画館前で起こる設定です。「大アマゾンの半魚人」は興行的に大成功をおさめ、翌1955年には続編の「半魚人の逆襲」が制作されるのですな。ここでも半魚人はヒロインをお姫さま抱っこで連れ去ってしまいます。しかしお姫さま抱っこをするモンスターは何も半魚人の専売特許ではありません。サスガに「キングコング」ではデカ過ぎてお姫さま抱っこにほど遠いし、「ゾンビ」では抱っこされる前に食われてしまうけど(笑)モンスターのひとり、フランケンシュタインもお姫さま抱っこしてます。これは1948年公開の「凸凹フランケンシュタイン」。なんで抱きかかえてるのがマーメイドなんや?「狼男」だって負けていません。1961年公開の「吸血狼男」では...こっちはスペイン映画の「ウルフマンのマーク」。1968年公開作品です。ミイラは?やってますよ~1944年公開の「ミイラの呪い」。1965年に公開されたメキシコ映画「アドベンチャー センター・オブ・ジ・アース」では得体の知れないモンスターまで。なんか忘れていません?そうそう「ドラキュラ」ですね。ドラキュラ伯爵と云えば"クリストファー・リー"。実に9本の映画でドラキュラを演じていますが、必ずと云っていいほどお姫さま抱っこがつきもの。しかも、他のモンスターに抱っこされるヒロインは気絶してることが多いけど、ドラキュラのそれはちゃんと目を開いてるものね。死人なんか生きてるのか分からんオッサンがお姫さま抱っこしてるのが「プラン9・フロム・アウタースペース」。まぁ、SFなんですけどね。これは1959年公開作品です。SFと云えば1955年公開の「宇宙水爆戦」。宇宙船内に紛れ込んだ"昆虫生物ミュータント"がなぜかお姫さま抱っこ(笑)と云っても、これは映画宣伝用のスチール写真ですけどね。1953年公開の「ファントム・フロム・スペース」では目に見えないエイリアンが、蒸発する直前に見えるようになります。その姿たるや(笑)とかイロイロあって、1956年の「禁断の惑星」では、ついにロボット"ロビー"までアン・フランシス演ずるヒロイン"アルティラ"をお姫さま抱っこをしているポスターが!でも、これポスターだけの世界なんですよね。実際に映画を観てもどこにもこんなシーンなんて出てきません。
Jan 8, 2020
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私は若いころぜんぜん運動らしい運動をしなかったのですが、この歳になって腰に人工関節を入れて否応なしに脚力をつけなければ現状維持すら困難な事態に。それが今では、普通の人から見たら緩やかでも、私なりの筋トレに励むきっかけになりました。筋トレやってイチバンの効能って何だと思われます?実は、筋力を強くする以上にもっと切実な効果があるんです。それはどんどん自信がついてきて、顔つきまで変わっていくと云うこと。筋トレを全くやっていない人とは違うと云う自負です。もちろん本格的な筋トレやってる人のように筋肉ムキムキには程遠かっても、意識はまったく違います。以前はひどい猫背だったのが、今ではシャンと背筋を伸ばして歩いています。この差と云うのは、私みたいに高齢者には見た目で老人くさいか、くさくないかの分かれ目ですね。きっかけはリハビリ施設にあるウォーキングマシン。ただマシンを使って歩くだけでなく、歩く姿勢大切ですね。足をあげて、着地もしっかり、かなりちゃんと歩いていると思ってたのに、先日、インストラクターから着地は合格だけど、足を地面から離すタイミングがちょっと早いとアドバイス。なるほど、今まで着地にばかり気をとられて、足をあげること考えていませんでした。こう云う風に、プロのインストラクターでなくても、誰か横から見ていてくれる人が必要です。私が行ってるリハビリ施設は高齢者専用なので、ほとんどの人は腰を曲げたままウォーキングマシンに乗っていて、アドバイスされても容易に応じない人が多い。やりたくてもできないと云うより、かたくなに自分のスタイルを守っているのですね。それが老人の証拠だと云うのに(笑)筋トレは早く動く方が筋肉がつくと信じてる人が多いと思いますが、しかし勢いをつけてスピーディに筋トレをおこなうと、これは全身運動になって効率的に特定の筋肉強化にはなりません。逆にすばやく動くと、それだけ関節に負荷がかかり、怪我のリスクが高まるだけです。むしろゆっくり時間をかけて行うスロートレーニングが最近の流行りです。筋トレと云えば「スクワット」ですが、これもやっていくうちに徐々に負荷を感じにくくなってきます。「ちょっと慣れてきたな」と感じたら、より動作のスピードを落として、ゆっくりトレーニングすることです。こうすることで、同じ回数のトレーニングでも効果的に筋肉を鍛えられます。学校の体力測定なんかでもやってる上体起こし(腹筋)って、昔はかなりしっかり上体を起こすよう指導されましたね。文部科学省による新体力テスト実施要項にも「仰臥姿勢から、両ひじと両大腿部が付くまで上体を起こす」とあります。しかし近年では、トレーニングとして上体起こしを行う際に、反動をつけて起こしたり、身体全部起こしをすることで、腰や背骨を傷め、腰痛などの原因になることが広く知られています。上体起こしによって脊椎が圧迫される力は、腰痛につながる基準値と同等なんです。力がかかった状態で腰の曲げ伸ばしすることが、椎間板を痛めるリスクがあるため、なるべく背骨を摩耗しない方法で腹筋を鍛えるのが望ましいのです。もうアメリカの陸軍では上体起こしでの腹筋運動は廃止しています。日本バスケットボール協会でも、指導者養成講座で上体起こしは止めるように指導しています。こうした協会が推奨しているのが、腹筋を収縮させて胸部を曲げ、上部を20度ほど起こす、「カールアップ」と云うトレーニングです。「たった20度!?」と思うかもしれませんが、腰や背中を痛めることなく、腹筋に大きな負担をかけ、安全に腹筋を鍛える方法です。運動をして、逆に身体を壊しては本末転倒ですからね。とにかく筋トレの原則は全部同じで①呼吸を止めない ②重い負荷をかけない ③動作を速くしないです。私が通ってるリハビリ施設は高齢者専用なので、ほとんどの人は家にいるよりマシとか、家人に無理やり送り出される人が多く、考えてトレーニングをやってるでもなく、また家では全く何もしてないのが現状です。週1回とか2回、リハビリ施設にきて、その時だけ遊び半分に身体を動かす。逆にウォーキングなんかに励んでいる人の中には「雨の日でも、調子が悪い日でも、同じ距離を毎日欠かさず歩かないと意味がない」と信じてるのも多いですね。しかし、効果面で云うなら、日によって歩く距離が違っても、場合によっては休んでも問題ありません。逆に筋トレの場合は、2~3日間を空けて筋肉を回復させた方が効率的と云うことがよく知られています。無理して怪我するよりマシですものね。無理のない範囲で続けて行くことが肝心なんです。初心者が筋肉をつけたいなら週2回。年齢と共に落ちていく筋肉を落ちないように維持したいなら週1回、筋トレをやるのが理想です。もちろんやってるときは正しい方法で、真剣に取り組むことが肝要です。逆に週3回以上やると、ダメージを受けた筋肉の回復を待たずに筋肉を痛めつけるので、効果はうんと少なくなります。プロテインの効果は私にはわかりません。一応、筋力強化のプロテインだけは摂取していますが、劇的に効果が見えるものではないので。プロテインにもイロイロあって、私の摂取している筋力強化の他に、痩せるプロテインとか、逆に体重増加のプロテインなんかもあります。筋トレみたいな運動を行なった後は、体への吸収スピードが早い乳製品が原料の「ホエイプロテイン」がいいみたいです。摂取後約1~2時間で体に吸収されるので、運動後の栄養補給に最適なんですな。傷ついた筋繊維の修復や強化に効果があると云われています。体重1kg あたり2g を1日の目安に摂取するようにします。プロテインは、種類によって最適な摂取タイミングが異なります。体への吸収が早いホエイプロテインはスポーツや筋肉トレーニングの後30~40分以内に摂取しなければならず、私は施設に行って帰ってきたらちょうど40分くらい経ってるので、スグに摂取しています。吸収が緩やかなソイプロテインとガゼインプロテインは食前や就寝前に摂取するのがいいです。どっちにしてもプロテインは値段も高いので万人向きではないですね。プロテインは混ざりにくいのが多いので、プロテインシェーカーでよく混ぜて摂るようにしています。どっちにしても筋トレは私みたいに施設を利用しないとできないことはありません。私は施設では有酸素運動を中心に無酸素運動も併せておこなっていますが、イラストにあるようにどちらも日常で充分できることばかりです。ポイントは歩くにしても、ダラダラ歩かず、1歩1歩を大切に、足の運び方と姿勢、スピードを意識して歩くことです。せっかくおなじ行動してるのですから、ちょっとでも運動につながらないとソンしますからね。
Jan 7, 2020
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そりゃあ大勢いる女優さんの中にはにゃんこ好きもいるでしょう。なんですが、ちょっとネタ切れで、きょうはこう云うことで誤魔化して(笑)先ずはアメリカの人気ドラマ「デスパレートな妻たち(デス妻)」で、チャーミングでわがままな主婦ガブリエル・ソリス役を演じ、大ブレイクを果たしたエヴァ・ロンゴリアから。う~ん、うちのと違って、いかにも頭のよさそうなロシアンですねぇ。お次はイタリア女優のモニカ・ヴィッティ。1960年の「情事」から始まって、「夜」「太陽はひとりぼっち」「赤い砂漠」とミケランジェロ・アントニオーニ監督作品の常連ですね。次はタイロン・パワーと一度結婚したフランスの女優アナベラ。フランスを代表する大女優でした。1936年の「戦ひの前夜」でヴェネツィア国際映画祭 女優賞を獲得してます。実は、マリリン・モンローも大のにゃんこ好きなんですよ。グレンダ・ファレル。彼女は映画、TV、演劇となんでもこなすアメリカの女優でした。50年以上にわたり、100を超える映画やTVシリーズ、多数のブロードウェイ劇に出演したのですよ。TV番組「The Office」のアンジェラ・キンゼイってのは、なんであんなに資産を持ってるのでしょうねぇ。純資産が1,200万$もあります。こちらは2匹のにゃんこの飼い主で、どちらのにゃんこも保護した子です。うちのミミちゃんと同じ柄だけど、うちと違っていいもの食べてるのやろなぁ。映画「ハリー・ポッター」シリーズに登場する空想好きの少女ルーナ・ラブグッドを演じてるイヴァナ・リンチ。彼女のにゃんこの名前はルナとダンブルドアです。おっと、これは違った!(笑)さて、ここらで「ボリウッド」、つまりインドの女優さんもご紹介しましょうかね。先ずはインド出身だけど、イギリス国籍の女優兼歌手のアリア・バット。23歳のスーパースターで、猫の人です。彼女は2匹のにゃんこと同居していて、1匹はピカ、もう1匹はシーバ。新人女優のザリーン・カーンは、なかなかのべっぴんさん。彼女は栄養失調の街頭猫を救出し、養子にしました。彼女はアメリカの動物愛護団体PETA(動物の倫理的扱いを求める人々の会)のメンバーで、動物への優しさを称える「動物への英雄」賞を受賞しています。最後は"キック"女優、ジャクリーン・フェルナンデス。スリランカ出身ですね。ジャクリーン・フェルナンデスは絶対的な動物愛好家です。彼女は、ミュウミュウという名の毛皮のような白にゃんこと同居しています。おまけ「恋のマイアヒ」
Jan 6, 2020
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殺伐とした戦場だからこそ、兵士たちは昔から生き物を大切にしてきたのでしょうね。ワンちゃんを可愛がる兵士の画像はよく見ますが、にゃんこもご同様。しかし、これほどまでに生き物を大切にする気持ちがあれば、敵に対しても同じなのにね。古今東西、昔から生き物と兵士は切っても切れない関係なのだ。戦争のおこるメカニズムは、究極の経済活動とよく云われます。そんな経済戦争を仕掛けてるのは、安全な場所でヌクヌクと我が世の春を謳歌している政治家たち。そして、泥沼の戦場で明日をも知れぬ身をさらしているのは一兵卒たちばかりです。誰も、敵が憎くって殺そうなんて兵士は居ないでしょう。戦場に放り込まれて、どんどん自己を失って、政治的な心理操作をされて。せめて生き物と接することで、もう一度、自分を取り戻してほしいですね。
Jan 5, 2020
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ロシア人2人組アーティストで、にゃんこのイラストレーターがいます。Lingvistovと云う、イラストのカードやプリントをネット販売してるグループなんですが、このメンバーのイラストがコミカルでなんともほのぼの。「猫好きの人は、生きるために毎日猫となにかしらの関りを持つことを重要としています。この猫のイラストを見ると、毎日いつでも猫があなたを笑顔にし、暖かさと快適さを与えてくれることを思い出させてくれます。本当に必要なのは、愛、そして猫なのです!」なんて愛あるコメント残してるLingvistov。そんなLingvistov のイラストを見ると、まさににゃんこ同居人にとってはこれぞ日常!「猫あるある」のオンパレードです。先ずは「黒猫と写真を撮るとこうなる」の図お次は「椅子の後ろで仲間割れ」。その次のは私も毎朝、体験してます。それも早朝3時半ごろ。それまではヨメと一緒に寝てるのに、決まって朝になると...「目覚まし時計がいらない」。お次も私はいつも経験してます。うちのミミちゃんは、カメラを向けると決まって顔をプイ!カメラ目線してるにゃんこ画像見ると、なんでうちのは...「写真を撮ろうとした時はツレない」。次は...「気付けば見られている」。ねぇ、視線を感じて振り返ればヤツがいる。監視カメラ以上の高性能なヤツが。これもありあり。だいたい片付けもの始めると、それまでプイだったのにいきなり参加するんですよね~「開けたらとにかく入りたがる。そして散らかす」。「グルーミング中に呼んだ時」。そうそう、これこれ。このバカ面(笑)腹たつんですよね~このバカ猫!なんて云っちゃうよ。「さんざんおねだりして、その後しらんぷり」。次は...あははは、やってくれるよ。「ベッドに来たと思ったらその姿勢」。と、まぁ、にゃんこ同居人にはお馴染みのシーンばかりなのですが、イラストのタッチが優しいですね。そして、日本(我が家)のにゃんこも、ロシアのにゃんこも、やることは同じだと知った次第です。
Jan 4, 2020
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お正月なので、我が家ではことさらネタもない。なんせ初詣も行かないからなぁ。恒例の今宮戎(いまみやえびす)、今年は9日が宵えびすで、10日が本えびす、11日が残り福だけど、何回行ってもあの人混みにはへきへきさせられます。だいたい商売繁盛の神さまは、うちには関係ないし。まぁ、よっぽど気が向いたら行ってみます。きょうは画像だけでも景気いい(ときの)写真、ご覧いただきましょうかねぇ。史上最高のボーナスが出た1967年(昭和42年)の画像。これを知らない若者はおったまげるでしょう。これ、大阪高島屋の経理の画像。売上がとてつもなく多くなって、1万円札が乱れ飛んだときのものです。こっちはその前年の大阪高島屋。やっぱ札束の嵐。こんな景気いいときもあったのですよね。この年、TVアニメ「鉄腕アトム」の最終回が大晦日に放送されました。平均視聴率は30%超えです。
Jan 3, 2020
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やっぱりね。やっぱ、お正月と云っても、どこにも出かけないし、きょうは息子家族が来るだけ。ただそれだけの、毎年恒例のお正月を過ごしています。お正月だから自撮りでもするか(お正月と関係あるの?)なんて人も多いでしょうね。って云うか、自撮りするのに、宣言しないと撮れないこと自体が高齢者の証拠(笑)今でこそ、誰もが手軽にスマホで自撮りできるけど、昔のフィルム時代、それもカメラにセルフタイマーがついてなかった時代はタイヘンでしたでしょうね。現存する最も古い自撮り写真は1839年に撮られた写真家ロバート・コルネリウスの写真です。この時代のカメラはフイルム(乾板)の感度が悪いので、3~15分くらいジッとしていないとブレてしまうので、撮られる方もなかなかにタイヘン。この写真はコルネリウスがフィラデルフィアのファミリーストアの外に座って撮られたものです。彼はレンズキャップを取り外して(要するにシャッターです)フレームに飛び込み、しばらく座ってから再びレンズキャップをしてレンズを覆うことで撮影を完了しました。次の写真はガンナートーマス・チャールズ・リッチモンドベイカーと云う人が撮った自撮り写真で、鏡に写った自身を撮ってます。鏡を使う手法は長い間、自撮りの定番でした。これを物語ってるのが約100年前の家族写真。20世紀初頭の典型的なアメリカの家族写真ですが、切り株に鏡が置いてあって、写真を撮っている人がちゃっかり写り込むようにしてあります。最後にご紹介するのは1909年にジョセフ・バイロンと云うオッサンが撮った自撮り。ニューヨーク5番街のマルソースタジオの屋根で撮影されたと伝えられています。両腕を伸ばしているのは、 当時カメラがかなり大きかったので、両腕で支えないとならなかったからです。その11年後の1920年、バイロンは再び同じ屋根に立ちましたが、今回は彼と同僚のピリー・マクドナルド、マルソー大佐、ポップ・コア、ベンジャミン・フォークのグループ写真を撮りました。バイロンが左手でカメラを持って、舞台芸術写真家のベン・フォークは右手でカメラの反対側を持っています。ジョセフ・バイロンはイギリスの写真家で、1888年アメリカに移住し、1892年にマンハッタンに写真スタジオを開設しました。このスタジオは、ブロードウェイのショーやそのほかの舞台撮影に特化しています。スタジオは今でもバイロン・フォトグラフィーという名前で運営されています。
Jan 2, 2020
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明けおめーなんて、もう死語かな?まぁいいや。どっちにしても、明けましておめでとうございます。とうとう来てしまった2020年。と、云っても老い先短いこの身にはなんの変化もありませんが。まぁ、人間で云えば80歳を越えた我が家の最年長者ミミちゃんとぼちぼちと。ブログも細々と続けさせていただきます。今年もヨロシクお願いします。世界中のみんなが平和で幸せでありますように。
Jan 1, 2020
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