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本土決戦部隊の終焉 第二次大戦の末期の昭和20年3月、日本軍はフィリピンのマニラを失い、ルソン島の山中に追い詰められていました。またこの月には、東京、名古屋、大阪、神戸、そして二度目の名古屋大空襲があり、各地の都市も襲われていたのです。このような時、日本軍部が一番恐れていたのは、アメリカ軍による日本本土上陸作戦でした。 当時、本土決戦には、240万人の防衛部隊が必要とされましたが、陸海軍の主力は中国大陸と南方にあり、日本国内の兵力は皆無に近い状況でした。そのため、国内の民間人すべての男子を根こそぎに動員せざるを得なくなり、さらに女子を含む全国民を軍隊的な編成のもとに置く国民義勇隊が組織されたのです。そこで日本は、内地に残されていた中・高・少年男子を動員して、本土決戦部隊を編成したのです。この部隊は、昭和20年3月の時点において、大本営ー総軍ー方面軍ー師団—連隊という編成によるものでした。 この総軍は、本土決戦を担当する軍として新設されたもので、そのうちの第1総軍は、東日本と中部地方を作戦地域とし、重点地域は関東平野とされました。終戦時には6つの総軍があり、総軍の総司令官には陸軍大将が就任しました。総軍には総司令部が置かれ、参謀部・経理部・軍医部・獣医部・法務部・兵務部及報道部から構成されていました。第11方面軍は、昭和20年2月、東北地方を作戦地域として編成されていたのですが、4月8日になって、第1総軍の指揮下に入り、アメリカ軍との本土決戦に備えさせられたものです。なお、第11方面軍司令官は、天皇に直属していました。 のちに知ったのですが、第11方面軍隷下の第72師団(通称・進(しん)師団)、昭和19年4月4日、前線に配備されて留守となっていた仙台第2師団を基幹にして仙台で新設されました。そして昭和20年2月1日に福島市に本部を移駐、アメリカ軍による磐城方面への敵前上陸を想定し、阿武隈山系を盾にして撃破する本土防衛部隊とされたのです。しかも戦況によっては、東北から関東に転進して反撃作戦を展開する師団であり、きわめて優秀な師団であると宣伝されました。この72師団は、歩兵第134、第152、第155連隊(通称・伝(でん)・会津若松編成)、野砲兵、工兵、輜重兵各一連隊、速射砲隊、通信隊で編成されていました。しかしその内実は、全く違っていたようです。 (三春町史より) 昭和二十年三月二十七日、三春に陸軍部隊駐屯の要請があり、影山宅での常会で先遣隊進駐が説明され、次のことが伝達された。 将校 65名連隊本部 三春国民学校 兵士 約700名 兵舎 田村中学校。三春煙草専売局。各寺院 馬匹 120〜130頭 注1 隣組とは国民総動員体制の末端組織で市町村行政の下請 け機関として組織されたもので、昭和15年9月には隣 組の会合、『常会』の運営基準が決められ実行に移されま した。さらに生活必需品の配給も隣組を通じて行われ、個 人生活の領域まで拘束したのです。ただしここでの常会は、 内容から言って常会長会と思われます。 注2 ここに『馬匹120〜130頭』とありますが、私には、 馬がいたという記憶はありません。ともかく私の記憶に あるのは、当時舗装されていなかった今の国道288号線 を、何か多くの物資を積み大八車を牽く兵士の隊列が、 もうもうと立つ土埃の中をどこかに運んでいた様子です。 20年4月、この72師団・進部隊は福島市に移駐したのですが、wikiによると福島高商内に『伝(でん)部隊』の門標を掲げて駐とんしたとあります。しかし私は、これは『進部隊』の間違いではなかったかと想像しています。何故なら三春には、第155連隊・『伝部隊』が進駐していたからです。この伝部隊について、東京の自衛隊本部や郡山の自衛隊駐屯地にも問い合わせてみましたが資料が全くなく、福島市の自衛隊駐屯地の資料室に若干残されているのみでした。 昭和20年、それが何時であったかの記憶はありませんが、伝部隊という陸軍部隊が、三春専売局や田村中学校に設営されました。彼ら若い兵士たちは、伝部隊の軍歌を歌いながら、毎日毎日、多くの大八車を引いて専売局から蟻のように物を運び出していました。あの大量の物品は、どこへ運ばれたのであろうか。その作業で、道路の舗装もされていなかった町中が、ほこりだらけになっていました。 伝部隊歌 北海嵐 吹き荒れて 桜花は狂ふ太平洋 今皇国の興亡を この一戦に賭(と)するとき 大御言詔(おおみことのり) 畏(かしこ)みて 決然立ちし伝部隊 注=この歌詞は、福島市在住の菅野賢司氏よりご提供頂きまし たが、私はこのメロディを記憶しております。 (当時155連隊通信兵であった郡山市・斉藤弥三郎さん) 米に粟などが混ぜ込まれた飯は、今ならとても食えたものではなかった。おかずといっても、沢庵とか梅干ししか記憶にない。 私は、通信兵でありながら憲兵を兼ねていた。各部隊を巡回監視していたが、兵の間には日本敗戦の気分が横溢しており、叛乱となるのを抑える役目があった。しかし実際に、それが起こることはなかった。通信といっても今のような音声によるものではなく、モールス信号で、それも数字のみに暗号化したもので連絡した。 玉音放送は、上官と二人だけで通信室のラジオで聞いた。通信兵という立場から、ある程度の状況を知っていたので、特に深い感慨は持たなかった。なにか当然のことが当たり前に過ぎていったような感じであった。 (三春町・野内政一さん、平田研二郎さん) 4月8日、第155連隊・伝部隊の司令部が三春に置かれた。その一部が郡山の桃見台国民学校に駐屯、高射砲台座を構築した。4月12日、第155連隊は郡山大空襲の救援に行ったが徒歩で向かったようだ。この郡山大空襲の際は三春でも空襲警報が発令され、けたたましいサイレンの音に追われるようにして、私たち児童生徒は三春国民学校の裏山に避難した。町の高台や町周辺の丘に散開した伝部隊は、蛸壺を掘って小銃で応戦しようとしていた。しかし私の記憶では、何らかの武器で対空射撃をしたという記憶はない。ともかく町を取り囲むようにある丘には、数多くの蛸壺が掘られていた。また三春駅正面の丘では、軍馬が飼われていた。 (三春町・村田マサさん) 三春の町の中を小さな川が流れています。この桜川で、よく炊事係の兵士たちが食事後の食器洗いをしていました。ここで食べ残されたご飯粒が流れるのを見て、「一般人は米を食べられないのに勿体ない」と思っていました。今の御免町の西山医院あたりに伝書鳩部隊がいて、よく飯ごうの焦げ飯を桜川で洗っていました。下流に流れた残飯が、民間で飼っていたアヒルの餌になっていました。また町内の料理屋に(彼女の実家は料理屋でした)、一般には手に入らない米や酒、それに料理の材料を持ち込んで来る将校の姿が見られました。 5月10日、第155連隊・伝部隊は、三春進駐からほぼ一ヶ月後、その主力を小野新町国民学校に移しました。その後も更に連隊本部は平に移され、四倉、高久、小名浜、湯本、富岡にかけて散開、アメリカ軍の上陸に備えたのですが、8月15日、終戦となりました。このように終戦直前の半年にも満たぬ間の慌ただしい軍隊の移駐は、三春や小野町民、そしていわき市民の記憶にも乏しく、戦後のどさくさの中での連隊資料の焼却命令などもあってか、忘れ去られてしまったようです。当初、第155連隊本部が郡山にではなく三春におかれたことについては、すでに軍部は、郡山がアメリカ軍による爆撃の標的になっていたことを知っていたからではないでしょうか。 この第155連隊は、国土防衛機動打撃連隊という勇ましい名にもかかわらず、会津若松で編成された当時、軍事訓練どころか松の根掘りをやらされていた記録が残されています。この第155連隊について、HP『汽車に魅せられて』に、『薪(まき)で走ったC12』がありますので、そのまま転載させていただきます。 (当時、会津連隊で機関銃手をしていた酒井上等兵の回想) 昭和二十年四月、会津若松に駐屯する一五五連隊に変った命令書が届いた。それは、「連隊は松の木を掘り起こし根っこを集めて、五月までに指定された貨物列車に積み込むこと」という内容だったらしい。 二十年四月の始め、いつものように磐梯山の麓の演習場(摺上原、現在の磐梯牧場付近)に行ったんだが、そんな時は機関銃や鉄砲の変りに斧を肩に担ぎ、銃剣の変りにナタでよ、まるで工兵隊の行進だったよ。演習場に着いてから大隊長が「今回の演習では松ノ木を伐採する。根っこから採る油が貴重な航空燃料になる」と訓示があった。戦争末期航空燃料不足に苦しんだ軍が、国内で生産出来る揮発油・松根油を代用燃料に使う事を考えたのだった。 それからがすごかったべ、まるで木こりの大群よ、分隊ごとに分かれた兵隊が松ノ木を根こそぎ掘り起こしていったんだから。雪解けでよ、土がしめっていたからおもしれえように次々に引っこ抜いたよ。 根っこだけを翁島駅に待っている貨物列車にリヤカーで運ぶという作業が四月一杯続いた。根っこで一杯になった貨車は9600(蒸気機関車の形式名)に牽かれ、郡山方面に運ばれたという。五月までに演習場から猪苗代湖の浜まで、それから浜沿いに松ノ木は根こそぎ消えていった。 四月一杯で演習?が終わった部隊は、切り倒された松ノ木を45センチぐらいの薪にする作業が待っていた。翁島駅で貨車に積み込まれた薪は、9600に牽かれ会津若松へ下っていった。 根っこがねえ松が、ごろごろころがっていてよ、今度はそれを45センチぐらいの薪にする作業が待っていたんだ。ひと抱えずつ、縄で束ねてよ、またリヤカーで翁島駅さ運んでよ、全部薪にして貨物列車に運びこむまで半月かかったかな? 演習? が終わって会津に戻ったらよ、機関区に薪がいっぱい積んであったんでわかったよ、根っこは飛行機、薪は汽車の石炭の替わりだったんだな。根っこで飛行機が飛んだかはしらねえが、薪で汽車は走ったようだな。 昭和二十年当時、会津若松機関区には2120形2両、C12形11両、9600形11両、C58形8両の32両が在籍していました。松ノ木で作られた薪は、入れ換え用の2120形や会津線(只見線)で走っていたC12形蒸気機関車の燃料となったそうです。 (当時、会津若松区で機関助手をしていた、佐藤機関士の回想) 終戦の年の五月だったかな、貨車いっぺえ薪を積んだ貨物が毎日のように機関区にきてよ。そこら中に積み上げるもんで、機関区中が松ヤニ臭かったよ。それをよ、C12に一杯積んでよ、発車すんだ、松の薪だから良く燃えるんだが一向に蒸気が上がんなくて苦労したよ。坂下駅まではいいんだが、坂下から塔寺駅までの坂が難所でよ、いくら薪を放り込んでも圧が出なくてよ、機関士も苦労したべ。俺はずっと薪をくべっぱなしでそれどころじゃなかったがな。 梅雨時はひどかったな、濡れた線路が登れなくてよ、塔寺まであと2キロぐれえで空転が始まって止まっちまったよ、結局圧が下がって坂下までずるずるよ。駅に戻ったら駅長が「ダメか?」と聞くんだよ、俺は「石炭じゃねえがらな」と言うと駅長が笑ってたな。圧を一杯に上げてから、勢いをつけ発車してなんとか登ったがな。 夏は圧が上がるんでなんとかなったが、冬は無理だなと思っていたら区長が粉ばっかしの石炭をどっからか探してきてくれてよ、石炭のありがたさがわかったよ。 この松ノ木で作られた薪は、昭和20年5月~10月まで、C12形蒸気機関車の燃料として燃やし尽くされたといわれます。これらは戦争が生んだ珍事ですが、このような話は当時としては珍しくなかったようです。ついでに言うと、バスやトラックも木炭自動車と呼ばれ、薪で走っていました。あの戦争の末期、日本の軍隊は、大本営による勇ましい大戦果の発表にもかかわらず、すでに軍隊の体をなしていなかったのです。 資 料 歩兵第一五五連隊歌 一、鶴ヶ城頭桜咲く 輝く昭和一九年 時は四月二十六日 わが神国を守護せよと 尊き軍旗賜りぬ 二、征史を飾る日露役 なかに勲功高かりし その伝統をうけ継ぎて 見よ若松の連隊の 健児の意気は火の如し 三、磐梯おろし荒ぶ時 炎熱土を焦がすとき 鉄の如くに心身を 錬りて鍛えし白虎隊 昔のあとに相競う 四、太平洋の浪狂い わが敵寄せて金○(区に瓦)の 無欠の皇土犯す秋 決戦決死決勝の 盟いは堅し健児団 五、あゝ燦として天照す 大日の丸の旗のもと 護国の任を負える身ぞ 五条の聖諭いただきて 至誠一つに集うなり 注=この歌は陸上自衛隊福島駐屯地防衛館の提供を受けまし たが、メロディは不明です。 年 表 昭和20年1月 第一五五連隊の第一大隊及び第三大隊は原の町地区に、 第二大隊は小名浜地区に駐留した。 4月11日 連隊本部は、三春の田村中学校に置かれた。 5月10日 連隊本部が田村中学校より三春国民学校に移され、その主 力は小野新町国民学校に駐留した。 6月 1日 連隊本部が、三春より平の磐城女子高等学校に移される。 7月15日 連隊本部が磐城女子高等学校より岩崎村(いわき市湯本) に移され、橋頭堡拠点陣地構築が始められた。 8月15日 敗戦。 参考文献2010 福島の学徒動員の全て 福島の学徒勤労動員を記録する会 代表・大内寛隆 クサカ印刷 消灯ラッパ(伝三三七五部隊)・福島県出身者の戦争体験記より 田中達郎著 http://ameblo.jp/momomomospring/image-10986290367-11417534151.html 以上ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2017.08.22
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銃後の生活 第二次大戦中、『銃後』という言葉がありました。銃を持つ前線の兵の背後、つまり内地、これも古いかな? という意味で使われたものです。今回はその銃後の社会について、私の思い出すままに、箇条書きにしてみました。 第二次大戦以前より、全ての学校に奉安殿というものがあり、天皇皇后の御真影が祀られていた。登校する全ての人が、ここに最敬礼をしなければ、校庭にも入れなかった。 教育勅語は、明治天皇の勅語として明治二十三年(1890)に発布された。国民学校でも、国民の祝祭日には講堂に集められ、モーニングに白手袋に正装した校長が、壇上からうやうやしく奉読した。私たちは家に帰ってから、子供同士でこんなことを言って遊んでいた。「朕、思うに屁をたれた。汝臣民臭かろう。国家のためだ我慢せよ・・・」。まだ続きがあったのだが、済みません、忘れました。 経済警察というものがあった。これは経済統制違反を取り締まるために設けられた特別の警察組織で、日中戦争の全面化にあたって物資の統制を本格化するため,1938年、保安部に経済保安課を新設したもので、1941年になって経済警察部の新設へとつらなり,商品不足に対する戦時経済の強制的確立をはかり、民間による自由な経済活動を取り締まった。 特別高等警察は国事警察として、戦争遂行・国体護持のために無政府主義者、共産主義者、社会主義者、および国家の存在を否認する者や過激な国家主義者を査察・内偵し、取り締まることを目的とした政治警察である。いわば秘密警察のようなものであり、被疑者の自白を引き出すために暴力を伴う過酷な尋問、拷問を加えた記録が数多く残されるなど、「特高」は当時の思想弾圧の象徴ともいえる存在であった。 戦時体制下の国民総動員のための最末端の行政補助組織として位置づけられた隣組は、1組につき5~10戸程度で構成され、各戸から1名以上が参加する定例集会である常会により運営された。ここでは大政翼賛会中央本部からその道府県支部、郡市支部、町村支部を経て町内常会・部落常会、そして隣組の常会へと至る組織系統で、間接的には、住民の行動監視の意味もあった。 大日本国防婦人会は、満洲事変への出征兵士の送迎を機に結成された。大阪国防婦人会をその前身として、割烹着にたすきの出で立ちで「国防は台所から」をスローガンに、軍部の指導のもと家庭婦人、労働婦人を中心に国防献金、廃品回収、献納運動等を通じて組織を拡大した。家庭内の鉄製の鍋釜は土鍋に変わり、寺の梵鐘や記念碑の鉄の鎖までも回収した。 そのような頃、全国民に対して、竹槍訓練や防火訓練が強制されるようになった。国民の目にも劣勢が明らかになり、プロパガンダや戦意高揚で煽っても無理となった。そうした時に国という組織は、その存在意義を保つために、実際には意味がなくても、国民の目を、竹槍訓練や防火訓練によってそらそうとした。そのため当時は、「空襲があれば火を消すのが国民の義務」とされた。住民が、バケツリレーなどでの防火訓練を繰り返した。火に見立てた発煙筒に防空頭巾の女性たちが、バケツで水をかけた。しかし実際に爆撃を落とされた時には、それこそ「焼け石に水」で、東京大空襲のときには、消火活動をしていたために逃げ遅れた人も多かったという。 防空壕は爆風や爆弾破片、爆風などによる危害を避けるための応急的な待避設備であり、命中弾を受けた場合の安全性はかならずしも保証されたものではなかった。一般家庭では、自分の敷地内の庭や空き地などに設けられた。集団的防空壕の多くは、丘の中腹などに横穴が掘られた。私たち学童も、空襲警報の出るたびに、学校の土手に掘られた防空壕やお城山の林に退避した。当時我が家は、田村郡唯一のガソリン配給所であった。当然裏庭に防空壕を掘ったが、その他にもドラム缶2〜3本を畑のある丘に作った防空壕に保管した。爆撃で火が付き爆裂して町に燃え広がるのを恐れたためである。 食料不足で弁当を作れない家庭が増え、昼食は家に戻って食べるようになった。つまり一日に二度、学校を往復した。雑炊は良い方で、芋やカボチャを多く食べた。今と違って、当時のカボチャが不味かったという記憶と、そのカボチャを多く食べたため、指の先が黄色に変色した覚えがある。ともかく農作物増産のため、鉄道の法面、学校の校庭、県道の端などでも、サツマイモやトウモロコシが植えられた。学校の朝礼などは、作場道のように狭い場所に縦に並んで行われた。 出征兵士を見送るため、住民などが駅まで日の丸の小旗を振って行列した。駅頭では、各地から応召された軍服姿の若者たちを、列車が出発するまで「万歳・万歳」で見送った。涙を見せずに送られて行く側の気持ちは、どうであったであろうか。 『誉れの家』とは、特に第二次世界大戦前後の時期に、その一家から出征した兵士が戦死したことを指す表現であった。戦死者が出た家には、玄関などの表札と並べて『誉の家』と記した札などを掲げることが一般的に行なわれていた。戦時中、誉の家は、周囲から尊敬を集めていたとされるが戦後は一変、逆に辛い思いにさらされたという。 飛行機操縦訓練のため、郡山の海軍飛行場から、赤い二枚羽根の練習機がよく飛んできた。子供心にも絵本に描かれていた勇ましい戦闘機などとは違うその飛行機の姿に、何やらのうら寂しさを感じていた。その頃の田村中学では、生徒たちのためのグライダー訓練が行われていた。私の記憶では、操縦の教官が乗り、生徒たちがそれを引いて飛ばした。ところが田村中学の校庭は丘に囲まれているため、急角度で上昇したので、そのままバックで落ちてしまった。怪我人が出たのか、グライダーのその後はどうなったのか、記憶にはない。 灯火管制というものがあった。夜、電灯の光が漏れると建物があるのが米軍機に察知されるという理由で、電灯の傘に覆いを付けて光が周りに広がらないようにし、カーテンで光を遮断した。ラジオにも布をかぶせて、豆電球の光までにも気を遣った。また暗い夜道を歩く人のために、商店街などでは店頭の雨戸に幅20センチほどの白い紙を貼り、その目印とした。 戦争での重要なエネルギー源は、石油であった。その原油不足に悩んだ軍部は各地の松の木の根を掘らせ、これを乾溜することで油状液体を得ようとした。松根油と呼ばれた。これを航空ガソリンの原料としての利用が試みられたが、非常に労力が掛かり収率も悪いため実用化には至らなかったという。この松の木の伐採や松の根を掘るのに、多くの中学生が動員された。富久山から日和田に残されていた奥州街道松並木も、ほとんどこの時に伐採されたと思われる。しかし近年、日和田の住民により、復旧運動が実施されている。こんな所に今でも、戦争の傷跡が残されている。 ガソリン不足は、当時そう多くもなかった自動車にも及んだ。そこに現われたのが木炭自動車である。これは、木炭をエネルギー源とし、車載した木炭ガス発生装置により、わずかに発生する水素を回収して走った自動車である。しかしエンジンを掛けるためには、送風機を手で回さなければならなかった。そのため多くの時間と手間掛かった。朝早くから、この送風機を回して走る準備をする音が聞こえていた。しかもガソリンとは違い、その力不足は否めなかった。これと同じように使われたのが石炭ではなく木炭を焚く蒸気機関車である。しかし坂になると自力では登れず、客が降りてみんなで押したという嘘みたいな話も残されている。 私ら国民学校年少組にも仕事が回されてきた。山から桑の木を伐って作業所にはこび、その皮を剥く仕事である。先生から、「アメリカ兵が突撃して来る時は、どうせ死ぬからとボロを着て来るが、日本兵はフンドシまで新しくして突撃する。その服を作るための皮剥ぎだからしっかりやれ!」と戟を飛ばされた。戦後五十年も近くになって、こんな話を聞いた。「あんなもので軍服が作れる訳がない。あの繊維を集めて紙を作り、風船爆弾を飛ばしたんだ。」風船爆弾とは、大きな風船に爆弾を吊るし、福島県沿岸部から東に吹く偏西風に乗せて空に放出するもので、アメリカ本土で爆発するように仕掛けられていた。この基地の近くを常磐線の列車が通る時、必ず海岸側の窓の鎧戸を閉めさせられた。しかしそんなことまでしても、カリフォルニアの山中にたどりついた幾つかの爆弾が爆発し、小さな山火事か二〜三度起きただけとしか聞いていない。 ラジオがブザーのような音を発すると、番組を中断して緊急の臨時放送があった。「東部軍管区発表、東部軍管区発表。敵B29約○○機は、○○方面より潜入、○○方面へ向かうが如し」そして空襲警報が発令されると、我が家では祖父母と姉が防空壕へ、病の重かった父は、母と私の3人で土蔵に隠れることになっていた。そして昭和20年4月12日、郡山大空襲があった。B29の大編隊が、時折、その機体をピカリピカリと太陽に輝かせながら、しかし数が多いだけに物凄い轟音を響かせながら飛んで行った。その轟音のため、家の屋鳴り振動も物凄く、ガラス戸は共振のため今にも割れそうな音を立てていた。止む無く、家の中のガラス戸というガラス戸を外した。そのガラスには、割れても飛び散らないようにと、障子紙が張られていた。私は父母と一緒に、土蔵へ逃げ込んだ。郡山の方角からは、爆弾の爆発音の間に、高射砲の応戦しているらしい音がしていた。2階にあるタンスの取手が、爆発音にリンクして、カタカタ・カタカタと鳴っていた。三春の空にも艦載機が飛び回り、民家に向かって撃たれる機銃弾の音が、豆を撒くかのように聞こえていた。突然、ズシンという音とともに、一瞬、土蔵の部厚い扉が弓なりになった。母は訓練通りに防空ズキンをかぶり、火叩きとバケツを持って現場へ飛び出して行った。その後を追うかのように、赤色では敵機に目立つからと黒く染められた消防車が一台、走って行った。幸い不発弾であったが、直撃を受けた三春大神宮入り口の一軒の民家が大破した。その時の爆弾の破片でも当たったのか、今でも神社の大鳥居前の石灯篭の一部が、欠けたままになっている。この郡山大空襲で保土谷化学郡山工場や日東紡績富久山工場などが襲われ、学徒動員されていた郡山商業学校や相馬中学の生徒らの中にも、多数の爆死者が出た。 この小さな町にも敵の艦載機による空襲が何度かあった。そのうちの一度は、登校中に起こった。子どもたち全員が、国民学校の防空壕に逃げ込んだ。たまたま逃げ遅れた私は、防空壕の入り口近くに屈み込んで待避していた。その時、低空で壕をめがけるように機銃を一直線に射ちながら飛んできた一機が、その銃弾の土煙の列を残して壕口の直前で這い上がるように上空に飛び去っていった。その恐怖に、何人かの子どもが泣き出してしまった。私は敵の飛行士の顔を、操縦席に見たような気がする。誰も怪我はしなかったが、映画のスローモーションの一シーンのように思い出される。 郡山への大規模な爆撃の他に、この周辺の町村にも空襲があった。田村郡大越町では町の大半が爆撃で焼失、死者4人という被害を受けている。田村郡谷田川村、滝根町、船引町、そして石城郡川前村でも空襲を受けた。田村郡中郷村の西方(にしかた)ダムを狙ったのか、急降下しながら機銃掃射をしていった。手摺りに弾の穴が5ヶ所あったが、従業員を狙ったものであろうか。その他にも、軍施設のあった相馬郡原町、双葉郡富岡町、そして工場のない双葉郡川内村でも爆撃を受けている。しかしこれら阿武隈高地にあり、軍事的にそれほど重要な施設があったとは思えない所も爆撃を受けている。「三省堂刊・日本の空襲1北海道・東北」によると、これらの空襲は帰路の燃料節約のため、飛行中に目についた所に残った爆弾を捨てて行ったのが真相らしい。『とばっちり爆撃』とも言える。しかしそのような爆弾の下には、多くの民間人たちがいたのであるから、何ともやるせない、理不尽な話である。この悪戯半分? の爆撃で、49人もの死者を出している。これがアメリカ軍の行っていた無差別爆撃の実体であった。県内の死者は、全体で700人を超したという。ちなみに日本の木造家屋焼却攻撃のため開発された焼夷弾は、その後のベトナム戦争でのナパーム弾、イラクやアフガニスタンのクラスター爆弾に発展? していったという。 日本海軍は、ジュラルミン素材の欠乏が深刻化したため、木製飛行機の製造を計画し、九九式艦上爆撃機を基にした爆撃機の木製化に着手した。また陸軍では、60馬力程度の自動車用エンジンを搭載したモーターボートを製造、海の特攻隊として使われたという。これらの状況をどう察知したのか詐欺師が暗躍、熱海町中山地内の国有林を私有林と偽り、各所でこれらの山林を売りさばいた。この地でも『国策』と言われ、それに協力しようとした被害者が、多く出たという。いつの世にも、悪い奴がいるものだ。 日本の国民は、昭和天皇の玉音放送で敗戦を知った。ラジオを持っている家に集まり、『気をつけ』の姿勢で聞いた。しかし同じ放送を聞いた筈なのに、『戦争継続』と聞いた組と『敗戦』と聞いた組に別れた。天皇の言葉が難しい日本語で分かり難かったこともあったが、当時の並3式ラジオ自体の調整が難しく、増幅度を上げようとすると容易に『ピーキュー』とハウリングを起こしてしまうことから、聞き取り難かったこともあった。 タケノコ生活という言葉があった。戦後の物資統制とインフレの結果現金の価値が下がり、国民は生活物資を求めるため、手持ちの衣類と食糧の物々交換がヤミ取引の主流となった。その結果、消費者側は、物々交換のために家から持ち出す着物類が少なくなることが、成長するタケノコが毎日その外皮を脱捨てて竹になって行く様に似ていることから風刺された言葉である。 戦後の決戦とでもいうような話が残されている。それは日本に進駐してきた連合軍が、ある程度落ち着いて油断している時を見て、これを攻撃するというものであった。そのために多くの飛行機や戦車を油紙でくるみ、穴を掘って隠したというものであった。まことしやかに言われる大人の言葉に、幼い私も、いささか眉唾で聞いていた。 戦後も混乱が続いていた。ラジオでは一日三回、お互いの安否を問い合わせる「尋ね人の時間」が放送された。社会は動揺し、血生臭い事件が続発していた。「下山事件」「三鷹事件」そして「松川・金谷川事件」が相次いだ。これら事件の多くは共産党員の仕業とされ、起訴されていった。またソ連からシベリアに抑留され強制労働をさせられていた旧軍人の引揚船が舞鶴に入港すると、迎えに出ていた家族などの懇請を振り切り、集団で上京して代々木の共産党本部へ行き、集団で共産党に入党する騒ぎなどが報道されていた。俗に『代々木参り』と言われた。そのために私たちは、「共産党は、おっかない」という感じを持つようになった。 アメリカ兵は格好が良かった。洗いざらしのコザッパリした服装。そしてとにかく陽気だった。神社やお寺の境内への石段を、ジープで登り下りして見せるのだから、見物の人垣が出来た。「ギブミー チョコレート」の世代の誕生である。とにかくハローと言いながらジープの後を追うと、何かしら貰えた。ある時、缶詰を貰ってきた。色は濃い緑の軍隊で使用していた色で、外側には何も書かれていなかった。家族の好奇の目の中で開けられた缶の中身は、何とパンであった。皆で食べたが、旨いとは思えなかった。またある時はパイナップルが出てきた。これは旨かった。私は「生きている内に、もう一度食えるかな」と本気で思ったものである。 旧日本軍の解体が進んだ。その復員してきた軍人の中には、栗毛の毛並みのいい馬に乗り、軍服とはいえこざっぱりした服装で帰って来る者もいた。なかには缶詰などの保存食料をいっぱい持って帰った人の噂などもあり、「有る所には有ったんだ」と羨ましがった。 DDTというものがあった。アメリカ兵が来て、何度も学校で、襟首からポンプのようなものを差し込まれ、身体中が真っ白になるほど薬剤を散布された。多く発生していた蚤やシラミを駆除するためであった。今の若い人たちは、蚤やシラミなど、見たことがあるだろうか。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2017.08.11
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学童疎開と工場疎開 学童疎開 第二次大戦の激化とともに、昭和19年6月30日、学童疎開促進要綱が決定されました。これはアメリカ軍の爆撃に対しての必要から、国民学校(小学校)初等科児童の疎開を促進することとされたのです。東京における学童疎開は、アメリカ軍による本土空襲の可能性が高まった昭和19年8月4日に始められました。まず政府は、児童の親戚や縁者などを頼る縁故疎開を奨励しました。この縁故による初期の疎開児童は少しずつ疎開先の国民学校のクラスに編入されました。その頃、2年生であった私たちのクラスも少しずつ膨張し、やがて教室をはみ出し、窓際の廊下にまで机が並んだのです。しかし彼らは、近所とか知っている人の親戚であり、彼らを受け入れる私たち子どもに特に抵抗感はありませんでした。むしろ彼らは、私たちの羨望の的だったのです。都会的な雰囲気をもつ服装や態度や言葉、そしてその容姿そのものが近寄り難く見えたし、その上彼らは、私たちが絵本や話でしか知らないものに乗り、触れ、そして見て知っていたのです。例えば、美術館・博物館・図書館・動物園・飛行機・市内電車・遊園地などです。しかしそれはそれとして、地元の子との間で問題を起こすことはありませんでした。むしろ私たちの方が彼らと「なんとかして交際したい」という思いから杉鉄砲などを作ってあげて、歓心を得ようとしたものです。 しかし中期になると縁故疎開児童は大幅に増え、しかも授業では疎開児童の成績が地元児童より優位に立つようになりました。その上、大勢となってきた都会育ちの彼らの何気ない言動が、地元の子の気持ちを逆なでするようになり、屈折した心理状況が発生してきたのです。例えば彼らと町を歩いている時など、無意識にではあろうが、「町が昔のままで、その辺からヒョイと『ちょんまげ』を結った侍が出てきそうな感じだ」などと言われると、何となく身の縮む思いがしたものです。今、当時を思い出すと、地元の子にとっては、これらは、大いなる負のカルチャーショックであったのではなかったかと思われます。例えば学芸会で、疎開して来た女子児童が琴演奏し、ピアノの弾き語りをしたのを見て驚いたのを、私は今でも憶えています。 ところで親戚などがいない児童の場合、国民学校初等科3年以上6年までの児童については、保護者の申請に基づき、集団疎開が実施されました。「教職員モ学童ト共ニ共同生活ヲ行フ」という学校単位の集団疎開は、この年の8月に始まりました。これらの学校での授業は、疎開先の学校の分教場になるという形式か、地元に委託する形式かを受け入れ側と協議して行われ、昭和20年の春には、全国で約40万人を超える児童が疎開していったのです。 その集団疎開先となった三春町では、午前は地元児童、午後は疎開児童による二部授業が、同じ校舎を使って行われました。地元児童・疎開児童にかかわらず、学校へは隊伍を組んで登校し、奉安殿に最敬礼、それから教室に入りました。この周辺での集団疎開は、三春町に東京都中野区の江古田国民学校159人の児童や荒川区真土国民学校の207人の児童が、また江古田国民学校は須賀川町に201人、田村郡御館村(現・郡山市中田町)に72人が分散して疎開、その他にも荒川区第一日暮里国民学校の児童が熱海町(現・郡山市)などで実施されました。 集団ではあっても、疎開して来た子どもたちも心細かったでしょうが、地元でも差し入れをしたり、一日里親を実施するなど、受け入れに腐心していました。とにかく東京とは文化の程度が違っていたのですから、子どもたちの間にいらぬ葛藤が起きたり、疎開学校同士間での対立もあったりしたのです。ところが郡山市に子どもたちが疎開して来た様子はありません。これは、郡山への爆撃が予想されたからかも知れませんが、実際にも大きな空襲を受けています。それもあってか、郡山市内から郊外へ疎開していった子どもたちが、少なからずあったようです。 疎開学童数の福島県への割り当ては、三万名であり、実施されたのは28,958名でした。文部省は、昭和21年3月末まで継続とした学童集団疎開でしたが、卒業予定年次の子どもたちを、昭和20年末までに全員帰校させることとしたのです。 この地方にも、次のような資料が残されています。昭和20年2月、 6年生女児帰京昭和20年3月10日 6年生男児帰京昭和20年3月26日 第2次疎開児出発昭和20年4月26日 第3次疎開児出発昭和20年7月 第4次疎開児出発 この期間中にあたる昭和20年3月10日には、あの『東京大空襲』がありました。この「東京大空襲」による死者数は10万人以上、罹災者は100万人を超えたとされています。各地の疎開地から戻ったばかりに、被害に会った子どもたちも少なくはなかったと思われます。 このような疎開が、ヨーロッパでもありました。イギリスでは、ドイツがポーランドに侵入した1939年9月1日、直ちに疎開を開始し、ドイツに宣戦布告した9月3日には、学童82万人を含む147万人の公的疎開が完了していました。自分で疎開を手配した人を合わせると3日で、三百数十万人もの人が疎開したといわれます。ロンドンやマンチェスター、リバプール、バーミンガム、ブリストル、ベルファスト、シェフィールド、ポーツマス、プリマス、サウサンプトン、カーディフ、コヴェントリー、エクセター、スウォンジ、ノッティンガム、ブライトン、イーストボーン、クライド湾岸の都市など多数の都市が焼き払われ、その周辺に住む学童の疎開が、百万人単位で行われました。行き先は主にスコットランドなど国内の北部でしたが、より安全な疎開先として、アメリカやイギリス連邦の自治領であるカナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ連邦共和国にも子供たちを公的あるいは私的に疎開させた親もいたのです。小中学生は里親の家庭に引取られ、乳幼児連れの母親も個人の家庭に間借りをしたのです。宿泊先決定に際して、子供たちは「家畜市場の羊のように」里親から選ばれる場面もあり、それは心の傷となって残ったこともあったようです。政府が学童疎開の終結と帰還を表明したのは、疎開から丸5年後の1944年9月であり、その全ては、1945年7月12日のロンドンへの帰還で終わったのです。 フィンランドでは、就学前の子どもを中心とした約8万人という大規模な学童疎開が実施されました。疎開先は、その多くが隣国のスウェーデンやデンマークそしてノルウェーでした。受け入れ側のスウェーデンでは、フィンランドに対する支援の意識が高まり、「フィンランド支援センター」が立ち上げられ、フィンランドの子供達を無償でスウェーデン人の家庭が受け入れたのです。しかしこれら国を超えての長期にわたった疎開は、子どもたちから母国語を奪ったこともあり、戦後になっても疎開先の国に留まった例も少なくなく、スウェーデンに約15,000人以上、デンマークに約50人が残ったといわれています。戦争は敗戦国日本ばかりではなく、関係各国の子どもたちをも巻き込んでいたのです。 工場疎開 これと同じ時期に、工場疎開も行われました。工場疎開とは建物疎開とは異なり、重要工場を安全な場所に移転させることです。日本では太平洋戦争末期に、航空機工場や兵器工場の地下施設化や、工作機械類の疎開が行われました。このときに建設された地下施設の中には、松代大本営跡など、戦争遺跡として保存されているものもあります。この壕は現在、長野市により、一般に内部公開されていますが、この中の一部の壕は、信州大学の宇宙線観測施設が設けられています。なお満州に疎開した工場もありましたが、これはソ連対日参戦により、多くの工作機械が旧ソ連軍に持ち去られる結果となってしまいました。 当時の郡山には、陸軍部隊と海軍飛行場があり、その上親会社と一緒に東京から疎開してきた小さな工場がありましたから、軍隊と軍需工場の集中していた街となっていました。その上、学徒動員などで留守がちの学校も、軍需工場として使われたのです。安積高女、郡山商業学校、桃見台国民学校、須賀川商業学校、須賀川高女、須賀川第一国民学校、須賀川第二国民学校、三春の田村中学校などがそうでした。なお桃見台国民学校には、高射砲陣地まで設置されていました。戦後になって、疎開していた親会社のほとんどが東京に戻りましたが、現在でも下請けとしてこの地に入っていた町工場の幾つかは、郡山での経営を続けています。また疎開した工場の中でも、エプソンなどは、精工舎が長野県に疎開して、その疎開先のほうが本社よりも大きくなってしまったという例もあります。郡山に難を避けた工場が、軍需工場としての新設備とその培われた技術力でこの街に根付き、そしてこの街の発展に寄与されていることを、思い起こすべきでしょう。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2017.08.01
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