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お宝発見! ある事情により、生家を手放すことになりました。しかし「いざ出る」となると、それは大変なことでした。 まず大まかな家財ともう使われなくなった漆器や陶器などを運び出し、残された物をひとまとめにして更に選別、空になった建物の中に、それ以外の物がないかを確認しました。ところが土蔵の梁の上に、何か黒いものを見つけたのです。ハシゴを使って登り、持ってみると、それは意外に軽い箱状の物でした。床に下ろしてみると、埃にまみれてはいましたが、丁度モーターなどのコイルのように、麻紐でグルグル巻きになっていました。揺すってみましたが、音もしません。ともかく、丁寧に解(ほど)いてみました。 麻紐のコイルの下は、油紙で包まれていました。この油紙を取り除いてみると、また麻紐のコイルが表れたのです。またこのコイルを、丁寧に解いてみますと、また油紙に包まれていたのです。この油紙を取り除いてみると、和紙が貼られた30センチ平方の平面に1メーター20センチほどの長さの箱が出てきたのです。しかもその箱は、長い引き出しだったのです。 引き出しの引き手を引いてみました。すると中には、やはり油紙に包まれた長い物が二つ入っていました。「一体、何が?」その思いで二つの包みを開いてみると、なんと、刀が二振り出てきたのです。引き抜いてみました。薄暗い土蔵の光の中で、それは鈍く光っていました。このように厳重に保管されていたせいか、錆一つなく輝いていたのです。 「この刀は、何時の時代に、誰が保管したものであろうか?」 そしてこの保管されていた状況から考えて、後の世代の誰かが開けることを予想したに違いないと思われました。それが私だったとは! 私はおぼろげに、刀剣類の所持には許可が必要と知っていました。そこで、警察に持って行ってみました。警察では、発見に至る経緯を事細かに聞かれました。そして後日、福島県教育委員会から『銃砲刀剣類登録証』が、「もし家から持ちだす時は、必ずこの登録証を携行するように」との指示と一緒に届いたのです。 さて刀の所有についての法的処理は済んだのですが、これの保管についてはまったくの素人でした。デパートに行って刀の保存の道具を購入して事情を話したところ、「一度研ぎ師に相談したら」と言われました。おカネがかかるなと心配はしたのですが、それでも友人のツテで研ぎ師の紹介を受け、これを持ち込みました。彼もこの刀の保存状態の良さに驚いていました。そしてこう言ったのです。 「この際ですから、白鞘を作られたらどうですか。古い鞘に収めて置くと内部に付いている古い油で痛むことがあります。だから新しい白鞘を作られて保存されたらいいと思います。元の刀の鞘には、竹光を作っておかれたらどうかと思います」私は、その教えに従いました。 すべての作業が終わり、刀が戻ってきた時、それを床の間に飾ってみました。「おゝ、何かすごいな!」と思いました。しかし時が経つにつれ、自分の枕元にある床の間に人を斬る道具があるということが、どうもしっくり来なくなったのです。「この刀は、人の血を吸ったことがあったのであろうか?」。そのような思いが、そこに刀を置くことに不安を感じるようになったのです。 やむを得ません。今は自宅の倉庫の中で、家族にも知られず、昔のように静かに眠っています。『宝の持ち腐れ』とは良く言ったものだと思っています。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2017.02.26
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対極にある者 これらの取材中、私は帰布二世との対極にある人たちのいたことを知った。日本からハワイに帰らなかった二世たちであり、帰れなかった二世たちである。このうちハワイに帰らなかった二世たちの理由は分からないが、自分の意志として日本に永住を決めたものと思われる。また帰れなかった二世たちは、ハワイに帰ろうと思いながら果たせなかった人たちである。帰れなかった理由で特に多かったのは、年老いた祖父母などの病気やその介助のためであったことが多い。 私はハワイで、帰米二世がどう定義付けがされているか知りたかった。そのためホノルル図書館を訪ねた。図書館では、『帰米二世とは、幼少期に日本に戻り、太平洋戦争前にハワイへ帰って来た人たち』であったということが確認できた。しかし現実には、ハワイに帰ったのが戦後、それも十年を超えての帰布者も多かったという。しかし戦後の帰布ともなれば、日系二世による第100大隊や第442連隊の輝かしい戦歴がアメリカ中に知られた後のことであり、日系人に対する評価が大分好転してからのことになる。それもあってか、定義付けは、次のように変わっていた。 狭義の定義=幼少期もしくは太平洋戦争前に離米、国民学校もしくはさらに上位 の学校で軍国主義的皇民教育を受け、太平洋戦争前に帰米した者。 広義の定義=離米の時期等すべてが同じであるが、太平洋戦争終結後の1948 年から52年にかけて帰った者。戦後帰米と呼ばれる。 この定義は、私が予想していた年齢、つまり旧制中学入学時点の年齢での来日者で、太平洋戦争開始以前にアメリカへ帰った人たちであるとしていたイメージの修正には役立った。図書館では、こんなことを話してくれた。「当時、アメリカ側に情報を内報する日系二世がいましてね。私たちは、そういう二世を『アメリカ政府に協力する裏切り者』という意味で、『イヌ』という隠語で呼んでいました」 明治期以来のハワイにおける日本人移民たちは、より関係の深い組織、県人会を組織するようになる。1920年代に発足したハワイ各地の福島県人会も、この例に漏れない。ハワイ州最古のハワイ島福島県人同志会の設立は、明治三十一年(1898)であるから、すでに百十年を越えている。彼らは常に祖国日本の動静を注視してきた。時にそれは、日系人たちを巻き込む事件にもなりかねなかったからである。 日本は戦争をすることで、海外に住む日系人、そしてそれらの二世たちに多大な犠牲を与えた。そして日本の敗戦は、さらなる犠牲者を生むことになる。それは間もなく消えたが、ハワイで景気のいい日本の謀略放送を聞いて信じていた人たちが作った『勝った組』の派生である。『必勝組』、あるいは『布哇大勝利同志会』などと称される人々が各島にいたのである。しかもハワイ島のヒロでは、1970年代後半まで、「必勝会」なるものがあったそうであるから、その根深さには驚かされる。 戦争により日本全土は焦土と化し、敗戦後の再興もおぼつかない中、これを救ったのが敵国であった連合国、特にアメリカからの援助であった。それでもこの敗れた国を祖国と考える多くの国の日系人たちも、自分たちの苦衷を顧みず多くの寄付をした。それにはハワイの日本語新聞によるキャンペーンの効果も大きかった。細々と再起をはじめた日系人団体が募金などの活動をはじめ、それに応じた。それはまたこのような組織としての他に、個人による協力や援助も相次いだのである。「日本から明るいニュースが届けば誇らしい気分になるし、悪いニュースであると辛い気持になる。どうか日本は、よい国であって欲しい」 この表現は、数代にもわたったハワイの移民たちの、偽らざる心情であろう。日本が苦しいとき、これら各地の県人会は、全力を上げてそのときどきに起きた祖国日本の受けた苦衷を援助・協力してきた。大正十二年(1923)の関東大震災のときの義捐金募金など、その活動には刮目すべきものがある。この援助活動の実践のために組織され、これら活動の拠点となったホノルル福島県人会の設立は、関東大震災のあった年であった。 ホノルル福島県人会は戦争で一時中断したが、日系二世による第100大隊や第442連隊のイタリア、ドイツ戦線での多くの命を失う戦闘などもあり、日系人の地位の向上が見られるなかで、1949年の再興につながった。2011年の東日本大震災への支援や募金活動は、福島県に対する愛情の最たるものであろう。これらハワイ各地の福島県人会の活動には、帰布二世を含む二世たちの次の世代の力も大きかった。つまり三世や四世たちの力である。現在の福島県人会員の多くは二世の子どもや孫たちである。その二世たちも高齢化し、各家庭とも曾孫(五世)がいる時代となった。祖父や親たちが戦争に行くなどしてどんな苦労をしたかを尋ねても、その口は重かった。重かったと言うより、知らされていなかったというのが本当かもしれない。だからなのか、その口の重さと反比例して、その態度は明るかった。 戦後70年、日本でこそ第二次世界大戦後に戦争はないが、アメリカでは二十回以上の戦争や武力行使を行っている。二世の子や孫は、祖国日本に深い思いを抱きながらも、これらの戦争などにどう対処してきたのであろうか。ハワイでは今でも、『辛抱人』というハワイ製の日本語の造語が残されている。いまはあまり使われなくなったが、意味は『我慢して勤倹節約してカネを貯める人、苦労の多い人』という意味である。ハワイの移民となった日本人は、入植以来幾世代にもわたって多くの苦難を舐めさせられてきた。そのような中、無意識のうちに祖国日本を慕うのか、日本人同士の結婚が多い。彼らはすでに、五世、つまり玄孫の時代なのにである。その彼らが日本のため、母県のためにと協力してくれているのである。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2017.02.21
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我が家の伝説 私は今年80歳。あのことがあったのは結婚前であったから、大分昔のことになる。 我が家には、三つの土蔵があった。それらは母屋から近い順に、『前の蔵』、『中の蔵』、『裏の蔵』と呼ばれていた。ある夜、その『前の蔵』の扉を開けると、すぐ左に、地下室へ行く階段があったという夢を見た。地下室があるなどと聞いたことも見たこともなかった私は気になり、翌日起床するとすぐ、『前の蔵』へ行ってみた。扉を開けた左には、いつも見慣れていた半間四方ほどの押入れが鎮座していた。夢で見たのはここかと思って押入れの戸びらを開いてみたが、何の変哲もない様子である。よく観察してみたが、押入れの背後の板は土蔵の壁にピッタリ付いており、人が入り込めるような隙間は見当たらなかった。押入れの床も叩いてみたが、それも開くような様子はなかった。 「やっぱり夢だったな」、そう思いながら蔵の中を見渡した。すると今まで気にも留めなかった床の中央部に、空気穴として使われていたものなのか、半間四方ほどの平らな格子状の床を見つけた。そこを上から眺めてみると、格子を透かして下の土が見えていた。「ん…?」 私は何やら妙なものがあるのに、気がついた。 格子を外してみると、籾殻が富士山の形に整えられていたものがあった。再び、「ん…?」、である。これはどう考えてみても、これを作った本人以外の人が手をつければ分かるようにしていた方法としか思われない。すでに祖父・父ともに亡くなっていた私は、今やこの家の当主である。私はその富士山の真ん中を、傍にあった木の棒で刺してみた。富士山が大きく崩れ、刺した棒が木の板に当たる音がした。そこで今度は思い切って、富士山を掻き払ってみると、何かの蓋になっているような木の板があった。またしても「ん…?」、である。 私は恐る恐る、その蓋を除けてみた。するとそこには陶器の壺の首が見え、壺の中には、何やら油紙で包まれたようなものが見えた。壺は、半分以上が土に埋まっていたので、中身だけを取り出した。それは体積の割には、重いように思われた。薄暗い土蔵の中で開いたその包みの中からは、細い縄が通された結構な量の古銭と一緒に、和紙に包まれた細長いものが出てきた。それを開けてみると、長い髪の毛の束があったのである。その髪の毛はもろく、簡単に折れ、そして崩れるようであった。「うーん…」。 私は思わず唸った。 これは一体誰のもので、何のために保存していたものなのであろうか。薄暗い中で見たそれは、あまり気持ちの良いものではなかった。「そうか、これはこの髪の毛の持主が、ここから出してもらいたくて、夢になったのか」 そう思った私は、日を置かずして菩提寺の法蔵寺にお願いをし、供養して墓に納めてもらった。 あれから幾星霜。 平成十年(1998)、私は先祖伝来続けてきた営業の全てを整理した。長年の取引先による取り込み詐欺、そして2004年におきた大水害の被害から立ち上がることは出来ないであろうという危機意識が、その根底にあった。しかし営業を止めるということには、大変な労力を要するものであった。全社員への退職金と銀行借り入れの返済。それだけでも大変なのに、約束手形を受取っていた取引先の一部は不渡りとされるのではないかと恐れ、暴力団に安く売った会社も現れた。これら暴力団からは、支払期日を守ることへの脅迫も受けていたのである。 これら一斉に襲ってきた多くの支払いに対して、当然ながら資金不足となった。実家の売却のことを聞きつけた当時の三春町長から、「三春の町屋資料館にしたいので、是非買い取りたい」との打診を受けた。当時、三春歴史民俗資料館や三春人形館などを作って町興しに力を入れていた町長は、我が家の建物の時代は新しいものの江戸期の様式で間口が狭く、奥行きが長かったのである。町長は、そのことに気がついたのかも知れなかった。その提案に応じることは、建物が自分の手から離れても、建物自体は長く残るかも知れないという安堵感もあった。三春に住む親戚などの、賛意も得られた。私は、実家の売却の申し入れを受け入れた。私の実家は町の所有となったが、それもあって借財のすべてにピリオドを打つことが出来たのである。 そのような頃、叔母から、次のような話を聞いた。 「(太平洋)戦争中に、おじいさん(8代目・私は10代目)が、『裏の蔵』の『上がりがまち』に、何か一人で埋めていたのを見た覚えがある。何を埋めたかは知らないが、もし何かあったら忘れずに掘るといい」 そうは言われても既に三春町の物になってしまった今、勝手に掘り返す訳にもいかなかったし、その気にもならなかった。忘れた訳ではなかったが、そのまま時間が経っていった。そしてある日、三春へ行った時、愕然とした。あの実家の全てが取り壊され、ポツン、ポツン、ポツンと三つの土蔵だけが取り残されていたからである。私はその時、叔母の言葉をすっかり忘れていた。そしてそれに気がついて三春へ行った時、すでに土蔵の改造はほとんど済み、床も綺麗に貼られ、土蔵を利用した新しいカフェの開店準備が進んでいた。もう、どうすることも出来なかった。私は黙って帰ってきた。 私は今でも、「本当におじいさんは『裏の蔵』に、何かを埋めて隠したのではなかろうか」と疑問に思っている。そしてあの夢は、本当は『前の蔵』ではなく『裏の蔵』の夢であって、おじいさんが夢で、孫の私に何かを伝えようとしたのではないだろうか」とも思っている。叔母も亡くなってしまった今、それを確認する方法はなくなってしまったが、自分が所有しているうちに掘り返してみなかったことと、『前の蔵』の壺、多分夢の中の地下室を掘り起こさなかったことに、若干の悔いが残っている。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2017.02.16
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『 帰 布 二 世 』 の 証 言(10) このアメリカ政府の不当な扱いに対し、抵抗する術さえ分からぬ日本からやってきた一世たち。しかしこうした移民を親にもつ日系の二世たちは、親たちに抵抗している。そして自らのふがいなさに嘆きつつ、時として子供たちにまでなじられる一世の親たち。彼らの苦悩は計り知れないものがあったと思われる。 いずれにしても、ハワイにおいての帰布二世たちは少数派であった。言葉も不自由であったから、むしろいじめの対象になったようである。そのことはさらに、小さくなって生きざるを得なかったのではあるまいか。すでに帰布二世の世代そのものが少なくなってしまった今、その親たちは皆無である。その時の親たちの苦しい気持を聞く方法は、永遠に失われてしまった。 この取材のまとめの意味で、『ある二世の轍』より次の文章を引用してみる。起きた時期は不明であるが、内容から言って1930年代の後半かと推測できる。いずれにしても、米国籍を有する成人に近い日系人にとって、日本は住み難い国になっていたのは間違いない。 非国民 大事な頭をボールと間違えられる 東京留学時代のことである。私は特許局に数種の登録をしていた。そのことで米国市民である証明書を必要としたので、アメリカ大使館に出入りしていた。 ある日の午後、同僚とともにいつものように、牛込区を歩いていると、「君、ちょっと」と呼び止められた。何事かと、その男に問い返すと、その男はポケットから身分証明書を取り出した。男は私が虫けらより嫌いな特高警察の者であった。次に男はつっけんどんに、「ちょっと来い」と言うと、もう自分はドンドン先に歩き始めた。私らも仕方なく、その男に従って行った。私の同僚はというと、特高と知っただけで青くなっている。私と同道したことを後悔しているかも知れぬという考えが頭をかすめた。しかし私はなぜか落ち着いていた。それが特高の気に障ったのか、しばらく行ってとある交番の裏側に連行された。 そこには、私服が二人と制服が二人いて、それに私を連行した男が加わって計五人となった。 「君はどんな目的で日本に来たのか。何のためにアメリカ大使館に出入りするのだ。大体に見当はついているんだ。電機製作所で働くように見せかけ、実は電機館や特許局に出入りして、日本の発展、研究状況を逐一メモしているんだろう。日本人の顔をしながら、この非常時(一九三九年末)に時局も憂えず、毎日学校や製作所を巡り歩くとは何事だ。その目的を話してみよ」 と詰問してきた。 「私はけっしてあやしい者ではないから心配はいりません」 と、平気で答えると、声を一段と荒らげ、 「何を目的で日本へやって来たんだ。怪しいかどうかを聞いているのではない。まともに返事しろ。正直に返事しないとためにならないぞ」 と大声で怒鳴りつけるのみでなく、凄みさえ加えてたたみかけてきた。わたしはありのまま、日本には勉学のために来たこと、特許局へは新案を登録するため出入りしていること、そのためには米国市民の証明を必要とすること、それは法律で決められていることであり、特許局へ行って出願中のもの、登録済みのものなど調べてほしいと言った。「なまいきなことをいうな。正直に答えろ」 と怒鳴りつけるや、尋問している奴が私のアゴを横にグイと押した。すると左側の私服がわたしの頭を右に押しやった。右側の奴が頭を後方に、後方の奴が力まかせに前方に、その間にもポカリポカリ、前のやつがまた後方にポカリ、口を開くすきを与えず、私の頭はボールのように前後左右に押しやられ殴られっぱなしである。重心を失い、意識さえ朦朧として、失神しそうになり、彼らが手を休めると前のめりに倒れかかった。 「オイ、コラッ、日本人なら日本人らしく直立せよ」 と頭上から怒鳴りつけてきた。けれど、直立などできるはずがない。さんざん頭をいたぶられ、殴られたのである。 「それ見ろ。貴様は日本人ではない。日本人はこれくらいのことでへたばらないぞ。非国民め、しっかりしろ」 私は完全に参ってしまった。弁解しようと口をあけかけると「非国民め」と怒鳴られ、「ちょっと待ってくれ」と哀願するとまたポカリ。「日本では問答無用だ」と、答えては殴られ、黙してもポカリとやられ詰めであった。しばらくして「悪かったと謝ったら、今日のところは返してやる」と言ったので、私は不本意ながら悪かったと詫びた。そのあと再び二つ三つポカリとやられて、やっと解放された。日本の特高はアメリカのリンチ(私刑)を思わせる惨いものであったのだ。 同道した同僚出雲勇次郎君は外で待ってくれていた。私が解放され出て来たのを見てすぐにも私の手を握らんとしたが、特高の眼に威圧されそれもなしえず、しばらく歩いてのち初めて口を開いた。かなり殴られたものの鼻血程度で解放されたのは幸運だった、と話合い足早に帰途についた。 それからは、行動範囲を制限し、身の安全を期し、やがて機を見てハワイへ逃げ帰ったのである。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2017.02.11
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福島県内の埋蔵金伝説 日本長者伝説は、別名『朝日夕日』とも言われます。長者、豪族の屋敷跡に黄金を埋めたという伝説で、多くはその財宝のありかを『朝日さし夕日輝くそのもとに黄金千枚瓦(かわら)万枚』などの口承歌謡をもって示唆する類型がほとんどです。また長者が大田植の際に時間が足りずに扇で日を招き返したために、罰があたって没落した、または死んだというような話を伴っているのもあります。これは稲作における太陽信仰の存在を考えさせられます。 ●虎丸長者の埋蔵金 源義家の蝦夷征伐の遠征で食料の供給を求められた虎丸長者が供出を拒んだため義家に滅ぼされてしまい、その時に財宝を埋めて逃げたという伝説です。虎丸の地に、「黄金千杯漆千杯朝日さし夕日輝く木の下にあり」と伝えて埋めたとされます。この言い伝えは、前述した類型と、まったく同じものです。 ●米長者の埋蔵金 前九年、後三年の役の頃、(二本松市)郡山台に居を構えていた米長者(虎丸長者とも)が、義家に対する供応を拒んだために滅ぼされたという伝説によるもので、郡山台に埋めたとされます。 こちらは実際に、二本松藩主丹羽長国が、幕末に探索したとの記録まで残されているそうです。幕末の頃、丹羽長国公は「黄金千杯漆千杯朝日さし夕日輝く木の下にあり」を信じ、杉田村の農民多数を使って「三つ葉うつ木の下」発掘をしたのですが、厚さ十センチ程の焼き米が多量に出土しただけで、何もなかったとのことです。もし長国が言い伝えの類型を知っていたら、発掘しなかったかも知れません。 ●銭森長者の埋蔵金 貞元年間(976〜978)、平泉の藤原一族で銭森長者と言われた藤原保祐が、大沼郡三島町の西方に黄金を埋めたとする埋蔵金伝説。なお三島町に西隆寺という名刹がありますが、この寺は弘仁二年(811)に法相宗の僧、安竹が聖徳太子の尊像を松竹庵に安置したことから始まりました。(場所は不明)その後貞元二年(977)に、銭森長者が寺沢という地に松竹庵を新築し寺に改めたものです。 ●葦名義広の埋蔵金 天正年間に伊達政宗と戦って破れた葦名氏が、落ち延びる途中で百頭あまりの馬に積んだ金塊や延べ棒を猪苗代湖に沈めたといわれます。野盗や落ち武者狩りの手から逃れるためには身軽になる必要があったのです。その逃亡の経路は、会津若松から東山温泉、飯盛山を通って猪苗代湖西北岸をそのまま湖に沿い、須賀川から常陸の国を目指したといわれますから、 沈められた可能性の高いのは猪苗代湖の南端かと考えられているそうです。事実、葦名氏筆頭家老の手記などの文献にそのことが記されており、信憑性は高いとされています。 ●小倉沢の埋蔵金 江戸時代の初期、赤津に埋めたとされる伝説です。赤津字小倉沢一帯には、会津蒲生氏の時代に盛んに掘られた金鉱があったそうです。これらの金鉱や金山で掘られた金の少しずつを鉱夫たちが密かに持ち出し、小倉神社の境内に埋めたという言い伝えが残っています。 ●四本松の埋蔵金(二本松市岩代町)長折字四本松に埋めたとされる伝説です。かつて四本松城があった四本松の名家の系図の裏に、「朝日さす、夕日輝くたんぽぽの、北の稲荷に 恩を埋める」との書き付けがあるといわれます。 ●長岡藩の埋蔵金 戊辰戦争の軍資金を会津に回送中の長岡藩士たちが、新政府軍の急追を察知して南会津郡只見町の浅草岳山麓に軍資金を埋めたといわれます。ただし急を受けて途中の池に投じた、と言う説もあり埋蔵金として残るならこちらの方かと考えられている。 ●勿来の関の埋蔵金 福島県の郷土史研究家が、勿来の関の研究する上で長年発掘収集した古銭類が五十種にもなったそうです。どうもここは、埋蔵金とは言っても黄金ではなく、おカネだったようです。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2017.02.06
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葦屋の駅家(えきか) 康保四年(967)より施行された延喜式の諸国駅伝馬条には、原則として現在の約16キロメートルごとに、五畿七道、402ヶ所の宿駅の名称が記されています。その中に「葦屋」という駅家があります。その南には磐瀬駅家、そして北には安達駅家がありました。それらは現在の地名から言っても、磐瀬駅家は須賀川周辺、また安達駅家はその北に湯日駅家(二本松市油井?)があるので本宮周辺と思われます。このことから、葦屋があったという場所は、いまの郡山ではないかと想像されるのです。 しかし、現在に至っても、葦屋の場所は特定されていません。兵士が駐留したと思われる方八丁、兵庫田、古館などの地名から、それらの付近ではなかったかという説もあります。『大日本地名辞書』では、葦屋を大槻町及び小原田の付近に比定していますが、『福島県史』では片平町から多田野町まで含めています。ところで葦屋が小原田の付近と想像すると、安積町の荒井猫田遺跡にあったビッグパレットが気になります。ここからは、古代の東山道や鎌倉時代の館や町、道路などが発見されているからです。その遺跡には、当時としてはかなり広い6mという道幅の幹線道路もあり、その路沿いには、多くの住居柱の穴の跡が並んでいました。 私が不思議に思うのは、『何もなかった所に、このように大きな規模の集落が忽然と現れるだろうか』ということです。もしかするとこの集落は、古代の葦屋の駅家を核として発達したものではないでしょうか。 そしてもう一つ疑問があります。大日本地名辞書に福島県史の記述を足して考えると、葦屋は相当広い範囲になります。ところが現在の郡山には、葦屋という地名がどこにも残されていないのです。そこで私は、この葦屋こそが、郡山となる以前の地名ではなかったかと想像するのです。 なお大日本地名辞書では、安積郷として日和田町、富久山町、熱海町の一帯を比定しています。安積という地名は、早い時期から使われていたようです。 ちなみに駅伝という競技名は、この駅家が由来だそうです。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2017.02.01
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