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クリミア旅行のハイライトは、列車での帰途の旅でした。シンフェローポリ発サンクトペテルブルク行き。へぇ、そんな列車あるのか、便利だなぁ、行きは飛行機でけっこう高かったけど列車だと半額だし切符買ってみるか。7日夕方6時発で9日早朝4時半着。夕方出て朝着くのね。…ん?ちょっと待て。7日夕方6時発で9日早朝4時半着。つまり8日は丸一日列車の中ってことですか!?そう、広大なロシア・ウクライナの大地を南から北へ向けて駆けるこの便は、出発から到着まで約35時間かかったのです。乗り込むと…暑い!エアコンがありません。しかしクリミアは灼熱なのであります。うだるような4人車室。同室になった海水浴帰りに親子連れは「エカテリンブルク(シベリアの入口)から来たのよ。 だからこんな暑さ経験したことなくて死にそう…」と悶える。私も同様に倒れ伏す。と、途中駅でホームにメロン売りが。そういえばクリミアはメロンとか果物がおいしいわよ、と大家さんが薦めていたっけ。ホテルのご飯が野菜果物ナシのオール乳化生活だったからすっかり忘れていたよ。しかし降りて買いにいく元気なし…と、寝台でぐてっとしていたら、いつの間に降りたのやらエカテリンブルクのママさんが両手に袋を抱えて戻ってくる。中にはメロン、メロン、メロン…(たぶん6つくらい)そして私に「一つあげる」わぁ、なんていい人なんでしょう。列車はクリミア半島に別れを告げ、ウクライナ東部の平野を駆け抜けます。どこまでも広がる畑、夕焼け空、ところどころに湖。人の生活って、想像できないくらいいろんなところにいろんな形で存在してるんだなぁと思います。日が暮れる頃、急に風がぐっと涼しくなりました。ところが風はママさんと子供の寝台を直撃して今度は寒くなってしまったらしい。窓を閉めるママさん。これでもとの灼熱に逆戻り…未明にハリコフでウクライナの女性出国審査官が乗り込んできて居丈高にあれ出せこれ出せと命令して去り、1時間くらいしてロシアの入国審査官が同じようなことをしていくと、もう朝で、そこはロシア。曇り空で、寒い…!丸一日列車の中のこの日は寝台に横になったまま、本を読み、お腹がすいたらちょっと食べ、眠くなったら眠り、目が覚めたらまた本を読み…という猫のような生活でした。(猫は本を読みませんが。)ちなみに食堂車はどこかにあるはずなのですが周囲の乗客は全く行こうとせず、持ち込んだ食料を消費しています。それから、シャワーがないのがだんだんつらくなってくる。シベリア鉄道もやっぱりシャワーないんでしょうか?そうすると全線乗車の人は1週間近くフロなし生活なのか…?手持ち食料と飲料が底をつくかと不安になった頃、もう一夜を越して、ペテルブルクに到着しました。横になったままでも腰が痛くなることを知りました。ペテルブルクは寒く、用心のために持って行ったけれども旅行中一度も着なかったフリースを羽織って、朝の街を家路についたのでした…〔まとめ〕ロシア研究やってる身なので、 ロシア縦断できてよかったです。 でも、一生に一度でいいです。
2006/08/15
暑さに参って観光地めぐりもそこそこに、それでは何をしていたかというと海水浴でした。実は水泳は中学2年生の授業以来、海に入るのはかれこれ20年ぶり。長年、水着着るなんて足が太くて云々かんぬんと拒否ってきましたが、猛暑の中、立派なロシア人の奥様方のおビキニ姿を目のあたりにするともうなんでもいいやという気分になったもので。クリミアのビーチはこんな。小さめビーチ。皆さん、紫外線とかあまり気にせず焼いてます。堤防から飛び込むのも彼らの楽しみ。砂ではなく丸石で、浜は大変狭いです。それを各ホテル、保養所が縄張り分けし、間に堤防を築くという状態…はっきり言って美しくありません。苔むしたテトラポッドや軍艦の横で泳いで喜んでいるロシア人お姉ちゃんたちもいました。どうも彼らは、風光明媚でなくても質素に楽しめるようです。でも水はとてもきれいでした。浜でごろごろしていると、お菓子売りのおばさんやお姉さんがやってきます。ペテルブルクでペチェーニエを制覇した身としては、やはり買わねばなりますまい。売り物は概ね2種類。まずバトンチク。(棒という意味。)皮にはマス目模様が入ってます。アイス最中みたい。キャラメル状に煮詰められたコンデンスミルクがウェハース生地でできた棒の中に詰まっています。私好みの味と食感。そしてバクラバ。じかに触ると手がべとべとになります。バクラバって本当はトルコの小さなパイ菓子のことです。でもクリミア・ハン国的アレンジが入るとこれがバクラバになるのかな…粉で作った生地を揚げて蜜をからめたもので、かりんとうのような食感です。素朴だけどなかなかおいしかった。ところで15年ぶりの水泳でしたが、私は当時も泳げなかったし、今も泳げないということが分かりました。仕方ないので黒海の水底の岩につかまって海草のように漂っておりました。涼しかったからまぁいいか。
2006/08/13
クリミア半島には、いくつかの史跡があります。18世紀まで親オスマン政権であるクリミア・ハン国の支配下にあったため、その首都バフチサライにはハンの宮殿跡が。後にプーシキンが詩に詠み、バレエになった『バフチサライの泉』の舞台はここです。愛妾の死を嘆いてハンが作らせた噴水が歌われていて、実際この噴水が今でもあるんですが、それ以外にもこの宮殿には屋内、屋外問わず噴水がたくさん。やっぱり当時から暑かったのね…噴水部屋。水音で声がかき消されるので、外部に聞かれたくない密談はここでしたそう。庭の噴水。病気の皇太子がこの水を飲んだら治った「奇跡の水」。でもロシア人ガイドは「要は水がきれいだったってことですね」とバッサリ。エカチェリーナ二世によるロシア帝国へのクリミア併合後、ロシア人の入植活動が積極的に行われます。その指導者的存在だったのが19世紀前半にこの辺り(新ロシア及びベッサラビア)の総督に任じられたミハイル・ヴォロンツォーフ。アルプカという黒海を臨む町に、彼の宮殿が残っています。父が外交官でイギリス生活が長かった一家は、ここにチューダー様式のお城を作りました。私、ロシアでたくさん宮殿見ましたけど、イギリス風のなんて初めてです。宮殿内部もチューダー様式。なかなか快適そう。それでいて黒海に面した裏側はモスク風。その趣味はどうかと思うけど…当時流行りだったようです。壁に書いてあるアラビア文字は、どうやらかなりアヤシイ、適当に真似たものらしい。先ごろ海外でよく見かける、怪しい漢字Tシャツみたいなものでしょうか。温暖な気候を求めて、ロマノフ家もここに離宮を建てました。それがリヴァディヤ宮殿。19世紀半ばに皇后の静養のために作られてから改築され、現在残っているのは20世紀初頭のもの。最後の皇帝ニコライ二世ファミリーが使用した宮殿です。正直なところ、あまり個性ある建物ではなく、おもしろくなかったような…ちなみにロシア革命後は、農民のための保養所として使われたそうです。皇室財産を農民へ。象徴的行為だったんでしょうね。それから、第二次世界大戦末期のヤルタ会談が行われたのはここ。スターリン、チャーチル、ルーズヴェルトが座った椅子とか書斎とかいろいろ残されていました。この他にも、古代ギリシャ人の遺跡とか、チェーホフの家博物館とか、見るべきものがあったのですがあまりの暑さにグロッキーになり、行くのを断念してしまいました。こんなに暑くて、昔の人は保養になったんだろうか。
2006/08/12
ソ連人は、夏になると競ってクリミアをはじめとする黒海沿岸へとバカンスに出かけたそうです。最近は海外志向が強まってクリミアの人気は落ち気味、と聞きましたがどうしてどうして、列車も飛行機もホテルも軒並み満員。どうにかいろいろな予約を完了して、いざ南に向かいました。保養地、そして海のある温暖なクリミア。青い海、白い砂、柔らかな風を思い描いて…ところが来てみたら、なんか違う。温暖どころか灼熱だったのは書きましたが、さらに、よく言えばノスタルジックな雰囲気、はっきり言わせてもらえばひなびた観光地だなーという…たとえば、クワス売りの小型タンク車が町のあちこちに点在。これ、首都ではもう見られません。(ちなみにクワスとは、黒パンを醗酵させた ロシア・ウクライナ独特の清涼飲料)夕暮れのバスターミナル、というか停車場。左端の明るいところには、錆びた鉄製のスロットマシーンが並べてあって、おじさんたちがビール瓶片手に熱中。なんだか縁日の光の中のような、物悲しい、懐かしい光景です。おそらくソ連時代から何十年も、この辺りの雰囲気は変わっていないのでしょう。ソ連観光させてもらってる気分になりました。物価はかなり安く、ビールが70円程度で各種取り揃え。有名なクリミアワインは直売所が多数あり、最も高くても1瓶1000円くらいでした。ホテル代も、ハイシーズンでありながら1泊1人あたま2500円くらいで朝食とビーチ使用料込。冬は半額くらいになるそうです。ちなみにホテルの朝食は、ヨーグルト、トヴォーログ、チーズ、ケフィール、スメタナ…と乳製品ばかりでした。パンと卵の他は、毎朝、乳製品ばかり3皿ほど並ぶのです。野菜果物が全くない。これって安ホテルだから…?とムッとしていたら、後で大家さんに聞いたところによると、クリミアのホテルや保養所では健康増進のためにどこでもそういう食事なのだそうです。たしかに帰ってきたら、お腹の調子がいいゼ。
2006/08/10
今朝、クリミアから帰ってきました。暑かった・・・・・!なぜ盛夏にわざわざ暑いところに行ったんだろう、ペテルブルクはこんなに涼しいのに…詳しくは後ほど、数回に分けて。夕暮れの黒海(アイヴァゾフスキーの絵画風)暑さに猫もグッタリ(シンフェローポリ駅にて)犬だってグッタリ(バフチサライにて)
2006/08/09
今夜の夜行列車に乗って、クリミア半島に行ってきます。現在はウクライナにあるクリミア半島ですが、ロシア人には大人気の保養地。さらに1.古代ギリシャ人の商業活動による遺跡2.クリミア・タタール人によるイスラム教文化の痕跡3.帝政末期ロシアの皇室・貴族の別荘地ということで、歴史的にも見るものがたくさんあるのが楽しみです。ブログの更新は、10日頃から再開します…本文と全く関係のない最新サービス?ショット爆睡ティモーシャ。ヘンな格好前足が一本余分にあるのは、隣のプーシカがはみだしているため仰向けディオゲン。私に引っくり返されて、猫パンチ猫パンチ。でもこの後バランスを崩して、私の膝から落っこちる。お利口なプーシカは隙がないので、お間抜けな写真がなかなか撮れません。
2006/08/02
ヴイボルグはペテルブルクから北へ120キロほど、フィンランドとの国境にある町です。こちらも5月初めは連休、国外旅行したいけれど悲しいかな手元不如意だったので、じゃあせめて違う国の空気でも吸えるか?と思って国境までやってきました。カレリアとも呼ばれるこの地域はフィンランドと地続きであり、白樺と松の森に覆われ、ところどころに湖が点在しています。この頃にわかに暖かくなったのであたりは芽吹きはじめた新緑。森の中のダーチャ(簡易別荘)に向かう人多数で、植木やら犬やら抱えてぞろぞろ森に入っていく様を見ると、ロシア人ってほんとうは森の民でペテルブルクやらモスクワやら大都市で暮らしているのは仮の姿なんじゃ、という気分になります。さて私たちが向かうのは、ヴイボルグ要塞と博物館。この町には海に張り出した中世の要塞があるというのです。1番か6番か12番のバスで行かれるって書いてあったっけ。あ、12番が来たから乗りましょう。駅を出てすぐ、教会が見えてきました。「湖に浮かんできれいですねぇ」「後で駅に戻ってきたら行きましょう」バスは橋を渡ります。海に点在する浮島。標識には左の矢印とともに「ヘルシンキ」の文字。あぁ外国が近い…ところがそのままバスは走り続け、森に突入。やがてたどりついた終点は…ここ、どこ?思わず運転手さんに聞きます。「ヴイボルグ要塞へは行かないんでしょうか」運転手さんはしばらく沈黙した後、「…帰りに通るよ」帰りって…同じ道。実はヴイボルグ要塞ってこれだったんかーい!湖じゃなくて海だったのね。ていうかバスに乗るほどの距離じゃないじゃん!!(運転手さん、アホな外国人め、と思ったかも、とほほ…)この町は、13世紀にスウェーデン王国によって要塞が築かれたことによって始まります。重要な通商、軍事拠点でしたので、隣接国の奪い合いになることがしばしば。まず18世紀初頭、ロシア・ピョートル大帝とスウェーデン・カール12世の北方戦争で戦場となり、ロシアに手に落ちました。「これで首都ペテルブルクも安泰」とのピョートルの言葉が残っているそうです。そして20世紀には、ソ連・フィンランド戦争で激戦地となりました。要塞の博物館には、「いかに我々がカレリアを解放したか」と誇らしげに記してありましたが…フィンランド側に言わせれば、全く違う歴史になるでしょう。要塞の展示品には、ソ・フィン戦争中の、「私たちの部隊の生き残りは5人だ。 これから次のような計画で突入する」という鉛筆書きのメモで、下にロシア兵5人の署名があるものがありました。このメモは、戦後20年ほどしてから森の中で見つかったそうです。彼らがどうなったのかはわからず、説明書きでは「英雄」と称揚されていましたが…やはり戦争は、兵卒も含め一般人には悲劇だよなぁと思わされました。しかし戦火にさらされながらも、ヴイボルグは近代の町並みがよく残っています。要塞の塔の上から古い町並みなにより空気がきれい。自然環境の汚染度の低さでは、フィンランドが1位、ロシアは72位だそうです。隣り合っているのにこの差はナニ!国境ではたしかに、フィンランドからの清浄な風が吹いているようでした。そして外国旅行気分もやや満たされたのでした…
2006/05/07
モスクワの東、電車で3時間半ほどのところにヴラジーミルという古都があります。寮の友人たちと、実は7月に行ったのですが、ずっと書きそびれていたので、今年が終わらないうちに一言二言。ヴラジーミルは、モスクワ近郊の観光名勝である「黄金の環」を構成する都市のひとつです。モンゴルの来襲、占領以前の12-13世紀に、ルーシ(ロシアの古い名称)の中心であったヴラジーミル公国の首都でした。古い時代だけあって、建築も一味違います。たとえばこちら。中心部のこの聖堂(名前を忘れてしまった…)、おもしろかったのは、壁面に彫られている絵の一つが「アレクサンドル・マケドンスキー」だと聞いたことです。つまりマケドニアのアレクサンドロス大王ということ。後の時代のロシアの教会で「アレクサンドル」と言えばたいてい「アレクサンドル・ネフスキー」という聖人ですが、この時代にはまだアレクサンドル・ネフスキーはいなかった(もしくは同時代人)のですね。このように、ヴラジーミルの教会建築は、ギリシア正教の影響をモロに受けているわけです。またもや名前を忘れてしまったこちらの大聖堂。これもまた、屋根のてっぺんのネギ坊主があまりふくらんでおらず、すっきりした半球形であるところが、モスクワのワシーリー聖堂等、後代のロシア正教の建築とは異なる点だそうです。最後に、これはきちんと名前を覚えています。ちょっと郊外にあるポクロフ・ナ・ネルリ教会。見渡す限りの緑の草原を歩いて横切ると、ようやく向こうに見えてくる白壁の教会でした。ストイックな美しさで、とても感銘を受けました。今頃は雪の中なのでしょうね。(しかし私の撮る写真は、 電線が横切っていたり、ど真ん中に木があったり、 どうも詰めが甘いな…)
2005/12/21
カザンはロシア帝国時代から十指に入る大都市で、カザン大学という名門があります。この大学は若き日のレーニンが学んだことで有名。それゆえ正門前には十代のレーニン像が建っていますが、このヤング・レーニン像、ある点でロシア全国に数多あるレーニン像と異なっています。さあ、そのある点とは、なんでしょう?(世界ふしぎ発見風。)(答)髪の毛がふさふさ。カザンはもともとタタール人の都市だったのを16世紀にイヴァン雷帝が攻め落として以来ロシア人が移住したため、現在でもロシア人地区とムスリム地区に分かれています。ただし現在はタタルスタン自治共和国の首都であり、当局はイスラム復興に力を入れているようです。現代のオイル・マネーで豊かなイスラム国家では真っ白な壁、緑の屋根、ブラックミラーの窓からなる大きなビルが流行りの建築らしいのですが、カザンでもトルコ系建築会社により、こういうデザインのモスクやデパートが建設中。逆に、19世紀末から20世紀初頭にかけて作られたロシアの民家は、当局の指示により、急速に取り壊されているそうです。私たちを案内してくれたタタール人男性は今風の建物より、こうした古い家を愛しているようで、解体現場で工事人のおじちゃんたちに「なんで壊すんだ!」と食ってかかっていました。その彼が連れて行ってくれたのが、トルストイの家。文豪レフ・トルストイもカザン大学で一時期学んだのですが、(しかし留年を繰り返して卒業できなかったのだが)そのとき寄宿していた叔母さんの家なのだそうです。が、しかし。行ってみると窓にガラスはなく、天井もところどころ落ちて、中も庭も草ぼうぼう。これは・・・廃墟というんじゃないでしょうか?と言いたかったけど彼はすごく嬉しそうで、「じゃあ階段で2階に上がってみましょう!」って、階段、傾いてるし、2階の踊り場は骨組みだけで床がないし…先輩は本気で嫌がっていましたが、楽しそうな彼のペースに乗せられて、いつ崩れるかわからぬ古屋を歩き回り、「きっとこの部屋でトルストイが寝起きしたんじゃないですかね~」とガイドを受けたのでした。まだ他にもいろいろありましたが、カザンの話はこの辺で。ともあれとてもおもしろい町ですので、機会があったら訪れる価値はあると思います。
2005/08/24
モスクワ-カザン間は、往復とも寝台列車でした。ロシアでも、寝台はひとつのコンパートメントに4つ。各寝台にカーテンがついていないのが日本との大きな違いで最初は衝撃でしたが、絨毯が敷いてあったり、花が飾られていたりして車体自体は日本のブルートレインよりきれいです。行きのモスクワ発19:20の寝台列車、先輩と二人で乗り込むと、カザン在住のお母さんに呼ばれて休暇しにいくロシア人のスマートなサラリーマンのおじさんと、モスクワ出張を終えてカザンに帰るタタール人のお兄さん(しかし年齢を聞いたら年下だったのがショック)と一緒のコンパートメントに。日本人が珍しかったのと、彼ら二人とも仕事が終わった後の開放感に浸っていたのとでお兄さんが車掌からビールをしこたま買い込み、「まぁ飲め飲め」の宴会に。夜更けて宴もたけなわ、既に車掌に主電燈を切られた後の23:30、ふと電車がスピードを落として止まりました。なんだろう?と思うと、おじさんお兄さんが途中停車駅だよ、降りよう空気を吸ってこよう、と言います。え、電車に置いていかれない?とびくびくしつつ背を押されて降ろされると、そこは漆黒の闇に覆われたプラットフォーム。(つまり電燈がまったくない。)でも空は月夜で、白く明るく光っています。するとそこへ現れたのは、手に手に大きなものを抱えたロシア人の大集団。よく見ればそれは、ティーカップのセットが入った箱や、シャンデリア、ガラス製の細長い鶴の置物・・・鶴が月光を浴びてきらめくシュールな光景を呆然と眺めながら、「なんですかこれ?」とお兄さんに聞くと、「ここグスフルスタリ(と聞こえたけど、正確ではないかも)には ガラス工場があって、地元の人が電車が来るたびに 名産品を売りに来ているんだよ」つまりじもてぃーがお小遣い稼ぎに電車の乗客におみやげ物を売りに来ているわけです。しかし夜の11時半だぞ!?暗くてよくわからないまま、私はガラスの栓抜き、先輩は卵型の小物入れを買いました。車室に戻ってよく見てみると、私の栓抜きは「ガラスだから力入れると割れるぞ。使えないな」と笑われ、先輩の小物入れはなんとメイド・イン・ジャパン、愛知のノリタケ・チャイナでした。翌朝7:30にカザンに着くと、お兄さんはさくっと電車を降り、おじさんは「じゃあキミたち、楽しい旅行になるといいな!」と言って去っていきました。ロシアの寝台列車、結構おもしろいものです。もっとも帰りの寝台では、ありえないくらいいびきがうるさいロシア人のおじいさんと同室になり、私たちは眠れずヨロヨロに。そのおじいさん、ほんとは隣のコンパートメントだけど孫たちがいて場所がないんだよ、と言って、我々の方の空いてる寝台にやってきたのですが、後から思うに、いびきを嫌がる家族に「あっち行って!」と放逐されたのではないだろうか・・・
2005/08/22
土日に、カザンという町に先輩と二人で出かけました。カザンはモスクワの東にあり、夜行列車で一晩かかります。(いま地球の歩き方を見ましたが、 載っていない! おもしろいところだと思うんだけどなぁ。)この町、30日に千年祭があるそうで、この頃こちらの雑誌やテレビに登場する機会が多くなりました。私たちが行ったときは町中が突貫工事中で砂塵立ち込めていましたが、たぶん式典に間に合わないんだろうなぁ…という雰囲気が濃厚。行きの寝台列車で一緒になったタタール人のお兄さんに「1000年って、どんな出来事から1000年なんです?」と聞いたら、「そりゃ町の創設からだよ」と言われてあちゃー愚問であった、と思ったのですが、着いてから案内してくれた、先輩の友人のタタール人にさらに聞いてみたら、発掘で出た貨幣が概ね1005年前後のものと考えられ、交易があったからには町もあったのだろう、だからカザンの成立は1005年である、とごく数年前(帰ってきてから調べたら1999年)に決められた、という、おそろしく大雑把な経緯の、そして何らかの政治的打算に満ちた記念日のようです。
2005/08/21
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