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数日前に、未音亭のハープシコードの弦が一本、いつの間にか切れてしまいました。切れていたのは下段鍵盤C#の音。まさに鍵盤のど真ん中の音で、これを触らずに弾けるような曲はまあないといってよく、仕方なく上段鍵盤へ逃げたりして弾いていましたが、そのうちメンドーになって楽器に触らなくなってしまいました。(いつものようにメールで東京古楽器センター[ギタルラ社]に交換用の弦を送ってくれるよう頼んだものの、今のところナシのつぶて。どのみちあと数日はこの状態でしょう。)というわけで、久しぶりにピアノでスカルラッティさまのソナタを弾いてみました。ピアノがハープシコードの「上位互換機」ではないことは以前どこかで書いたような気がしますが、実際タッチ一つとってもハープシコードとはまるで違います。とにかく重い!それからこのフワフワする感じが何とも違和感!(あー、随分ご無沙汰していたのだなァ...)ギタルラ社の方に言わせると、ハープシコードを上手に弾けるようになることはピアノの演奏にとってもプラスになる、とのことでしたが、多分逆は成り立たない?のでしょう。どっちもヘタな亭主にとってはいずれにしてもあまりご利益がない話ではありますが。スカルラッティのソナタ群が、主にはハープシコードという楽器の持つ音色や機能を前提にして書かれているであろうことはある程度想像がつきますが、彼の生きていた時代(1685年~1757年)の後半は、クリストフォリが「強弱付きチェンバロ」、つまり今日のピアノの原型となった楽器=フォルテピアノを開発していた時期と重なっており、専門家によっては「スカルラッティもフォルテピアノを多用したハズ」と主張される方も結構いらっしゃるようです。それはさておき、スカルラッティのソナタの中には、ピアノで弾くと実にピュアで奥深い響きになる曲がいくつもあります。特に緩徐な曲がすばらしい。あまり知られていない名曲ということで紹介すると、亭主のオススメは例えばK. 126。これをツァハリアスのCD冒頭にある名演で聴いて以来、亭主は結構真面目にピアノで「練習」しています。(ちなみに、幸い楽譜としては全音から出ている橋本英二先生校訂の「スカルラッティ100のソナタ集」第一巻に収録されています。)それから、スカルラッティはバッハの大好きなフーガを見限っていたようで、ほとんど作品を残していないのですが、いくつかある作品はどれも名曲といってよいもので(それなりに有名でもあります)、例えばK. 69、K. 87といった曲をピアノの残響の中で聴いていると別世界を旅しているような気分になります。お試しあれ。
2010.05.30
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ピアノ作品のジャンルの一つとして「練習曲」と名前がついたものがあります。(もちろんピアノに限らず、他の色々な楽器についても似たようなものだと想像しますが...)この「練習曲」という言葉を聞いて、もっぱら鑑賞する側の人々がすぐに連想するのは、ショパンの2つの練習曲集のような名曲の数々だと思います。が、多少とも先生についてピアノ演奏のレッスンを受けたことがある人(亭主もしかり)が思い起こすのは、ハノンだのツェルニーだのといった退屈な「指体操」本。岡田暁生氏の「ピアニストになりたい!」を読むと、どうやらこういった指体操本は、19世紀になっていわゆる市民階級(裕福な商人達)の子女の間で「ピアノのお稽古」が流行したことが背景にあるらしい。まあ、この手の「実用書」はどんな世界にもつきものですが、ショパンの「練習曲」も元は「エチュード(=英語でStudy)」、つまり「研究」という題目を持つことからも察せられるように、そういった実用本とは一線を画すものです。「研究」の目的が、楽器の持つ表現の可能性を拡げるための演奏技術の開拓、ということであれば、当然それによってもたらされる新しい表現が聞くものにとっても魅力的であるべき(さもなくば技術のための技術、単なる鍵盤のサーカスといった見せ物的な意味しかない)ということになります。その点、ショパンの練習曲はピアノ音楽についてそのような高度な完成の域に達した最初の例かもしれません。(亭主が思うに、ショパンのそれと双璧を成すのがドビュッシーのエチュード。内田光子の演奏は今でも亭主にとって「聖典」の一つです。ちなみにショパンの方は名盤が目白押しですが、亭主のお勧めはフレンチ・カナディアンのピアニスト、Louis Lortieの録音です。1986年と少し古い録音ですが、その清々しい演奏は何度聴いても飽きが来ません。)ところで、まだピアノが生まれたばかりの「フォルテピアノ」だった頃、つまりハープシコードが(世俗音楽における)鍵盤楽器の主役だった時代にそのような表題を持って世に出たのが、ドメニコ・スカルラッティの「チェンバロのための練習曲集(Essercizi per Gravicembalo)」で、1738年(あるいは1739年初頭)、ロンドンで出版されました。その冒頭には、スカルラッティ自身の言葉で次のように記されています。「読者よ.貴方が素人であろうと専門家であろうと,これらの作品の中に深遠な学問を期待するのではなく,むしろ貴方をハープシコードの練達へと導く才気にあふれた芸術の戯れを期待するように.」「チェンバロのショパン」と言われるスカルラッティの「練習曲集」がショパンのそれにも匹敵するような意味を(ハープシコード音楽に対して)持つであろうことは容易に想像できます。が、ハープシコードという楽器を前提にした音楽であるため、必ずしもピアノとの相性はよくありません。(「エチュード」の目的、また楽器の違いを考えれば明らかです。)というわけで、ピアノ全盛の現代ではほとんど忘れられた存在になっており、その中でも特に有名な十曲程度がほんの時たまピアノのレパートリーとして(指馴らし程度に)取り上げられるだけ、という残念な状況になっています。それにしても亭主にとって不思議なのは、このようなハープシコード音楽にとってある種のバイブルと思われるような曲集が、つまみ食いでなく一つのまとまった作品として(ハープシコードの演奏家さえからも)取り上げられることが全くといってよいほどない、ということです。実際、世の中に出回っているCD録音を見てもそのようなものはないに等しい(結局ロスやベルダーの全曲録音に頼るしかない)し、楽譜についてもSchirmer社のものが1つあるぐらいで、後は全集版を手に入れるしかない、という状態。(亭主はオリジナルのファクシミリ版を持っていますが、さすがにこれは読みにくいので、普段はバカ高いウジュール[Heugel]版の全集を使っています。)この、最後を有名な「猫フーガ」で締めくくる一大曲集、スカルラッティ音楽の原点として是非とも再評価してほしいものです。
2010.05.29
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以前の日記で、「感覚の芸術」という言葉を書き記しましたが、その後これを無意識に反芻しているうちに、亭主の頭の片隅で眠っていた表題の引用句がふっと思い浮かびました。All art constantly aspires towards the condition of music.これは、19世紀後半に英国で活躍した批評家、ウォルター・ペイターの言葉で、彼の代表作である「ルネッサンス」という評論集の中にあります。かつて亭主が若かりし頃のお気に入りのセリフで、「音楽はリクツじゃない!」と言えばいいところを多少気取って(あるいは教養のあるところをひけらかし、一方で自信がないところを引用でハクを付ける?)使っていたものでした。今やそんな気取りも失せた中年(壮年?)になってしまいましたが、この引用句は音楽(特に言葉を伴わない楽曲)が人の心にストレートに働きかけることができるという点であらゆる芸術表現の王である、ということを実によく表していると思います。そういえば、ドメニコ・スカルラッティの直接的な言葉として伝わっている数少ないものの一つに、同時代の音楽評論家チャールス・バーニーの聞き書きとして次のような言葉があります。「彼[スカルラッティ]はそのレッスンであらゆる作曲のルールを破ったことを分かっていたが,これらルールからの逸脱がはたして耳を聾するものだっただろうか,と聞いた.そして,そういうことはない,という答えに対して,才能ある者が注意を払うべきルールとしては,音楽をその対象とする感覚[=耳]だけは不快にさせないことであって,これ以外のものはほとんどないと考えている,と語った.」ここで文中に「レッスン」とあるのは彼が生前に出版した唯一の作品、「練習曲集(Essercizi per Gravicembalo)」のことで、30曲(カークパトリック番号で最初の1番から30番まで)のハープシコード作品からなっています。スカルラッティの言葉は、やはり「音楽はリクツではない(=感覚の芸術)」ということを作曲する側の立場から語っているように聞こえます。(こういう音楽観の対極にあるのが、シェーンベルクの十二音音楽の類いだ、なんて思うのは亭主だけ?)ちなみに、「練習曲集」オリジナルの表題ページにはハープシコードの図柄の上にラテン語のモットー、「Curarum Levamen(人生は楽しく!)」とあります。今の亭主には大いに慰めとなる言葉。最近購入したiPod Touchiにレーザーで彫り込んでもらい、一人悦に入っているところです。
2010.05.28
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一昨日のDVDブック「チェンバロ」の記事で、プサルテリウムやサントゥールを自在に操り不思議な音響世界を繰り出す方々に触れましたが、亭主はあまりに強烈な印象を受けたので早速ネット上で調べてみたところ、ありました、彼らのホームページ。さらに、その演奏を入れたCD、「ドックチア」があるのを知り、その日のうちに通販で注文しておいたところ、本日首尾よくゲット。早速演奏を聴かせて頂きましたが、ここで使われている数十種類ものほとんど馴染みのない楽器群が奏でる響きの何とも新鮮でまたどこか懐かしいこと。ライナーノートの解説記事で江波戸昭さんも書かれていましたが、これらは「古楽器=古びて絶えてしまった楽器」ではなく、「昔からある楽器」、いまだに生きている楽器として十分な存在感があります。けれども、こういった楽器を前にしてすぐに問題になるのは「これらでどういう曲を奏でるのか?」でしょう。結局のところ、楽器の魅力はそれが奏でる音楽の中にしかなく、それによって天と地ほども違いが出ることは、このような「古楽器」だけでなく現代の楽器群にも当てはまります。(亭主がハープシコードにハマったわけも、結局のところスカルラッティのソナタという素晴らしいレパートリーに出会ったからです。)その点、カテリーナ古楽合奏団が発掘?してこのCDに収めたレパートリーはこれらの楽器の魅力を百二十パーセント引き出していると思います。ここで百でなく百二十と言ったのは、そのアンサンブルの妙がこれまた大変素晴らしいものだからです。(収められた20曲を聴いている間、亭主はずーっと唸らされっぱなしでした。)時には十指に余るヴァラエティの楽器群が作り出す実に幻想的な世界。ある程度「発掘」したものに基づいているにしても、多分楽器の選択も含めた曲の構成はこの楽団のオリジナルに違いなく、その感覚の確かさは見事なものです。そして、あのプサルテリウムとサントゥールのデュオもちゃんとありました。「愛する人よ」という題名のついた、作者不詳の12世紀フランスの曲。この二つの楽器の響き合いは、現代のそれに例えるならピアノとバイブといったところでしょうか。(いまだ亭主の愛聴盤であるチック・コリアとゲーリー・バートンの「チューリッヒ・ライブ」を連想しました。)ジャズがそうであるように、こういう音楽を「民族音楽」という言葉でくくるのはやはりしっくり来ない気がします。彼らがカテリーナ「古楽合奏団」と名乗っているのも、その辺のニュアンスを感じました。
2010.05.25
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亭主が住むつくばに昨年「イーアス(いい明日?)」とかいう名前の大きなショッピングモールが出来ました。この手のモールは大体女性客相手の店ばかりで亭主には縁がないことが多いのですが、イーアスにはヤマハが入っているので時々用を足しに行きます。今日も雨の中、午後からお目当ての楽譜を仕入れに出向きました。(普段の日曜日だったにもかかわらず、天気のせいか着いてみると駐車場は満杯。空きを見つけるのに一苦労しました。)さて、お目当てのものを首尾よくゲットした後、ぶらぶらと音楽書の書棚の前をぶらついていると、表題の本が目に留まりました。亭主も三年前にマイ楽器を手にして以来、ハープシコードのことは一通り知っているつもりだったのですが、造本が綺麗だったのと、付録のDVDに曽根麻矢子さんの演奏が収録されているとオビに書かれているのを見て、衝動買いしてしまいました。(著者の久保田彰さんは、もちろん言わずと知れたハープシコード製作の大家です。)こうして本を眺めると、「一般の読者に分かりやすく」ということで、専門用語を出来るだけ控えた説明文に加え、写真もふんだんに使われていて、楽器の初期の歴史からフォルテピアノの発明に至るまでを短い時間で理解できるようになっています。それにも増して好企画なのが付録のDVD。やはり楽器は音が鳴って初めて存在理由があるもので、本に登場する楽器がどのような響きを持っているのかを一目瞭然、ではなく一聴瞭然にしてくれます。(ハープシコードの場合はやはり見る方も大事で、特に美しい塗装や装飾の質感は写真よりも光の下での動画によって、よりよく捉えられている感じです。)ちなみに亭主は、曽根麻矢子さんをはじめとした演奏家の方々によるハープシコード演奏もさることながら、DVDの始めの方で出て来る楽器、プサルテリウムとサンツゥール(ダルシマー)という楽器の音色にクギ付けになりました。ナレーションによれば前者はハープシコードの起源(アラブ世界よりヨーロッパに伝播)という楽器、また後者はコダーイの「ハーリ・ヤーノッシュ」に出て来る?ツィンバロンを思わせるものでしたが、これらを使って奏でられる音楽(13世紀ごろのスペインの作品、「聖母マリアのカンティガ」からの作品)の素晴らしいこと!この見慣れない楽器を器用に操りながら不思議に幻惑的な音響世界を作り出す二人のおじさんは一体何者なの?と大いに驚きまた感動することしばしでした。(クレジットによると「カテリーナ古楽合奏団」のメンバー、松本雅隆さんと上野哲生さんという方々でした。失礼いたしました。)スペインと言えば、もちろんスカルラッティがその後半生を過ごしながらあの膨大なハープシコード・ソナタを作曲した土地であり、またスペインとアラブ世界の深いつながりも改めて指摘されるまでもありませんが、スカルラッティのソナタの中に聴かれるスペインの市井の響きの中には、ギターだけでなくこのプサルテリウムの音色もきっと隠れているに違いない、と想像しながら楽しんだひとときでした。
2010.05.23
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最近「マイ・ブーム」という和製英語?を聞かなくなりましたが、亭主のこのところのマイ・ブームはベルダーによるD.スカルラッティ・ソナタの全曲録音CDです。未音亭ホームのディスコグラフィでも紹介していますが、彼は全 555曲の録音を成し遂げた二人目の演奏家です。これに先立つのは、スコット・ロスで、彼の録音(スカルラッティ生誕300年の 1985年に完成、1988年にCDとして発売)は世界初の偉業として、当時のクラッシック音楽界で大きな注目を集めました。スコット・ロスは思い立ってから一年半ぐらいの短期間で集中的に仕事をしたのに対し、ベルダーの方は八年がかりというペースでじっくり取り組んでします。いずれにせよ、二人とも三十代半ばからという気力・体力ともに充実した時期に取り組んだ点では共通しています。ロスの録音に比べてベルダーのそれが持つ特徴は多々ありますが、その中でも目につく点として演奏に用いた楽器の多彩さがあります。ロスの演奏が三種類程度の楽器(主にイタリアンとフレンチ)を使って行われ たのに対し、ベルダーは全部で十二台の楽器を用いており、中でも特筆すべき点の一つとして三十曲程度についてはフォルテピアノを用いてい ます。なお、最も多く用いられたのは二台のイタリアン・モデル(ジウスチ=17世紀後半ルッカの製作者)で全体の半分弱を占め、その次にフレミッシュ(リュッカース)とジャーマン(ミートケ)がそれぞれ二割程度、残りをフレンチ、スパニッシュのハープシコードおよびフォルテピアノ(フェリーニ)で録音しています。ところで、スカルラッティのソナタを演奏する際に問題になることとして、楽器の持つ音域があります。そもそもピアノと違って、ハープシコードには世界標準というものがなく(そのようなものが出来る前にアンシャン・レジームとともに一旦絶滅しました)、イタリアン、フレミッシュ、ジャーマン等々、17-18世紀にヨーロッパ各地で作られていた楽器がほぼそのまま複製されて演奏に供されることが多いのですが、オリジナルの楽器はほとんどが4オクターブから4オクターブ半程度の音域しかなく、多少音域を拡張するにしても5オクターブを超えることはまずありません。(ちなみに、この事情は18世紀のフォルテピアノについても同じようです。)ところが、スカルラッティのソナタ、特にカークパトリック番号で後ろの方のそれはフルに5オクターブ、最大でFF-g3(5オク ターブ+1=62[or 63]音、K. 485)という広い音域を必要するので、こういった楽器では演奏不能(あるいは演奏に際して一部曲に手を加えて音域を狭める)ということになります。(実際、このK. 485というソナタは数ある名曲の一つでもあり、この問題は小さくありません。)亭主の見るところ、スカルラッティのソナタがあまり演奏会で取り上げられない理由の一つにこの音域問題があるのではないか、とにらんでいるほどです。ベルダーの録音では、この最大音域をカバーする楽器としてイタリアン・モデル(ジウスチ)が用いられています。それも、通常なら精々5オクターブまでの拡張モデル (FF-f3)しかないところを、多分この録音用に特別 にg3まで届くような楽器をあつらえたのではないかと想像されます。ただ、この選択は亭主にはやや不満が残るところで、どうせなら「スパニッシュ・モデル」で最大音域をカバーする楽器を用意して欲しかったナァ、と思います。というのもカークパトリックによれば、バルバラ王妃が持っていた十二台のうち、61鍵の音域を持っていた三台はいずれもスペイン製の楽器であることが分かっているからで、K. 485をはじめとした多数のソナタがこのような楽器を念頭において作曲されたと思われるからです。ちなみに、ベルダーの録音で用いられている「after Iberian examples」とある楽器は独特の明るい音色を持っていて、亭主のお気に入りです。けれども、それにも増して素晴らしいのがリュッカースの音色。これは亭主が今まで聴いたハープシコード の中でも最高の音色といってよいでしょう。(あー、こういう楽器を毎日弾いてみたい!)とはいえ、スカルラッティやバルバラ王妃が実際に弾いていた楽器がどんな音色だったのかは永遠の謎で、勝手に想像するしかないのでしょう...というわけで、スコット・ロスの全曲録音をお持ちの方も、このベルダーの録音は必聴モノです。
2010.05.22
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イヴォンヌ・ロリオが亡くなったという短い訃報記事を見ました。亭主は20世紀以降の「西洋クラッシック音楽」をあまり好きではないのですが、オリビエ・メシアンはその中でも例外の一人です。ピアノをやっていて多分最初に出会う彼の曲があの「みどりごイエスに注ぐ20の眼差し」。これを若きミシェル・ベロフが録音したレコード(今でもCD共々持っていますが)を初めて聞いた時の衝撃はいまだ記憶に新しいものがあります。(とにかくリズムの感覚がすごい...)こうしてメシアンの作品に触れ始めると、ほどなく彼の作品の主要な演奏家としてイヴォンヌ・ロリオの名前にしばしば出くわすようになります。亭主のLPコレクションの中には、その昔エラートが出した「メシアンの芸術」という全12巻のうちの半分ぐらいが残っていて、当然のことながらそこでも彼女は活躍しています。めぼしいところでは「8つの前奏曲」、「4つのリズムの練習曲」というピアノ作品が入った1枚、それから「神の降臨のための3つの小典礼」という声楽曲の1枚。残念ながら、どういう曲だったか思い出せないのですが...例によってウィキペディアを覗いてみると、彼女は「パリ音楽院における初見演奏の課題曲としてメシアンが作曲した《ロンドー》により、ジャン=ミシェル・ダマーズと首席を分け合った(1943年)」とありました。実はこのダマーズ、亭主が「CDでどうしても手に入らないのでLPからイタ出しした」作品、「フルートとハープのためのソナタ」の作曲者でもあります。(ちなみにLPは往年の名手、ランパルとラスキーヌによる演奏で、この曲は彼らのために書かれたもの。)ダマーズさんはまだご存命のようで、メシアンのような「前衛的な」音楽には背を向けてこのような優美な作品をものされているらしい...おっと、話がそれました。ベロフもそうですが、メシアンのピアノ作品を聴かせられるピアニストは、多分極めてリズム感の鋭い演奏家なんだろうと想像します。昔「鳥のカタログ」をロリオのレコードで聴いた覚えがありまが、鳥のさえずりから引き出されたとても複雑なリズムに目を回したような印象があります。これを機に、彼女の演奏にもう一度耳を傾けてみようかな...(合掌)
2010.05.20
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クラシカ・ジャパンで放送された「アルゲリッチ&クレーメル、メモリー・オブ・コンサート」という1時間強の番組を拝見。2006年にベルリンで収録されたコンサートを短く編集し、曲の合間にクレーメルの語りが入るという作りで、曲目はクライスラーの小品から始まって、シューマンのヴァイオリン・ソナタ2番から1楽章、シューマンの「子供の情景」から数曲(アルゲリッチのソロ)、バルトークの無伴奏ヴァイオリン・ソナタからいくつかの部分(クレーメルのソロ)、またアルゲリッチのソロの続き(子供の情景)、そしてバルトークのヴァイオリン・ソナタをまたデュオでやり、最後はクライスラーの「愛の悲しみ」で番組が終わる、といった案配でした。 以前にもちょっと触れましたが、こうしてお二人をしげしげと映像で眺めるのは随分久しぶりで、アルゲリッチの方は髪の三割ぐらいが白く、クレーメルに至ってはあの少ない髪が真っ白、おまけにあごにぐるっと白い髭を蓄えている、といったところが目につき、遠目には結構年寄りのカップルに見えるのですが、もちろん演奏の方は微塵も「老い」を感じさせるものはなく、メラメラと燃えるように熱い(暑い?)演奏を聴かせてくれました。(...これに限らず、最近折に触れて思うのですが、やはり21世紀は年寄りが元気な世紀なんですね。亭主のような壮年世代は毎日仕事に追われて青息吐息ですが。)ところで、この番組でもシューマンの曲ばかり聞くことになり、このところ亭主は何故かシューマンにえらくご縁があります。これらを聞きながら、最近訳出したS. シットウェルの著作(「ドメニコ・スカルラッティの背景」)の中にあるシューマンに関するくだりを思い出していました。曰く、「シューマンはというと(これもまたあの孤立した意見によると)現実性—真の見せかけというあの古典的な意味における現実性—を獲得した全くのロマン主義芸術家に見える.詩はるつぼの炎によって変転し,音楽は詩という意味で一つの経験となる.もしシューマンのアラベスクはトウモロコシ畑の脇での散歩などではないというのなら,比喩的表現というものは感覚の芸術ではない.シューマンの音楽は極めて本質的に他者の存在によって大衆化されているが,それは滅多に一人を超えることはなく,けっして二人を超えることはない.だが,我々はこれが正しいかどうか確信が持てるほどにはシューマンの性格を十分に知らないのではないだろうか?」話が脇にそれましたが、クレーメルの語るところではこのお二人、とても音楽的な感性が近い(要するにウマが合う)ということで、もう随分長くデュオ活動をやっているようです。演奏を聴いていても、何ともバロック的というか、「表現」に対する欲求の度合いの高さでこの二人には共通するものがあるなァ、などと感じることしきりでした。
2010.05.18
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しばらくぶりに室内楽のコンサートを聞きに行きました。会場はつくばカピオホール。TXつくば駅から歩いて数分、つくば国際会議場(「エポカルつくば」)に隣接する多目的ホールです。(つくばには音楽専用ホールとして磯崎新がデザインしたノバホールが駅近くにありますが、カピオホールはもう少しこじんまりしています。)演奏を聴かせてくれたのは「アンサンブル・ジョア」という女性ばかりの室内楽アンサンブル。2008年に結成されたという比較的新しい演奏家集団ですが、実はそのメンバーのお一人は、亭主の息子が習っているヴァイオリンの先生でもあります。というわけで、今日は息子共々先生の模範演奏を拝聴となりました。曲目は、最初にメンデルスゾーンの作品で「弦楽四重奏のための4つの小品」から。ロマン派にうとい亭主にとっては目新しい曲目でしたが、タンタタタタ・タンタタタタ、という速いリズムが出て来たりするところは如何にもメンデルスゾーンといった感じ。(プログラムには最後のフーガを除いた3曲とありましたが、どうもフーガが演奏された様子。)2曲目はシューマンのピアノ四重曲。これも亭主にはあまり馴染みのない曲でしたが、聞いているうちにだんだん「シューマンってほんとにロマン派なの?」というギモンが湧いて来ました。その昔ピアノを習っていたころ、レッスンの課題に有名なあの「幻想小曲集」の一曲目を与えられて「なにこれ、なんかドビュッシーみたいな...」と思った覚えがありますが、この四重奏曲について言えば、どうも明確な旋律というものがなく、どちらかというとコード進行で出来ているような感じ。その点だけをとれば、ある種のバロック音楽のような趣すら感じられます。休憩を挟んでプログラム最後はショスタコーヴィッチのピアノ五重奏曲。これは亭主も知っている数少ない彼の作品で、第三楽章のスケルツォの演奏は特に楽しませて頂きました。(あのようなオスティナート?のリズムは原始的な感性に訴えるものがありますネ。)前の曲も含め、技術的にも相当に高度な作品のようでしたが、結成後2年ということで奏者の息もよく合っていて大変素晴らしい演奏で、亭主も耳の保養になりました。
2010.05.16
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亭主のような「昭和の青春」世代は、なけなしの小遣いでせっせとLPレコードを買って聞いた世代。’80年代にCDが現れたころまでには既に数百枚のLPを溜め込んでいました。(現在も亭主の本棚のかなりの部分を占拠中。)もちろん、CDが出てからもしばらくの間はレパートリーの多さでLPがCDを圧倒していたわけですが、まもなく逆転して世紀をまたぐ頃にはLPは市場からほとんど姿を消してしまいました。LPをはじめ、アナログオーディオを知らない世代には多分まったく実感がないと思われますが、デジタルオーディオになって一番変わったのは「雑音の少なさ」でしょう。アナログの弱点の一つは、録音媒体自身が持つノイズから自由になれないことです。磁気テープのヒスノイズ、LPでは針と盤の摩擦音に加え、盤上のキズやホコリに針が当たるスクラッチノイズと、どんなに頑張ってもこういったノイズから「完全」に自由になることは出来ませんでした。ところが、デジタルでは機械が0か1の信号を区別できればよいので、録音から再生まですべてデジタル化されていればメディアの雑音は文字通り完全になくすことが出来ます。(CDの表示で「DDD」とあるのがそれ。)音と音の「間」に訪れる静寂を、LP時代に悩まされたスクラッチノイズに邪魔されることなく、緊張感を持続しながら鑑賞できるというのは実に素晴らしいことです。 こう書くと、なんだかアナログオーディオ全体が現在より劣っていたかのような印象を与えてしまいますが、そうとも限らないのではないかという気もします。デジタル化でノイズフリーになったところは確かに大きな進歩なのですが、再生されたトータルな音として見ると、LP時代に時々出会ったような「驚愕するように素晴らしい音響」に巡り会うことはむしろ希になったような気がするのは亭主だけでしょうか?(まあ、亭主も単に年を経るうちに基準が辛くなっただけ?かも知れませんが...)今でも鮮烈に憶えているのは、ミケランジェリの弾いたドビュッシーの「映像I,II集」(ドイツ・グラムフォン)、あるいはカリオペというレーベルで出現したラヴェルの室内楽のレコードに最初に針を落とした時の驚異的な音響の素晴らしさです。ところで、こういった「名盤」は後にCDとしても手に入るようになり、亭主もさっそく上記LPのCD盤を手に入れて、「感動よもう一度」とばかりワクワクしながら聞いてみたのですが、これがまた期待はずれ。特にカリオペのシリーズは30年も経ってからのデジタル化とあってか、元の音源が相当に劣化していた模様です。というのも、このような古い録音はたいてい磁気テープに収まっているのですが、磁気テープの保磁力が有限だったり、テープの材質が変質するなど、時間とともに記録全体が傷む(かわりにノイズも増える)、要するにテープがヨレヨレになってしまうというわけです。ヨレたテープの前では、現代のデジタル技術もお手上げといったところ。 そもそも磁気テープが経時変化に弱いことは昔から分かっていたことで(劣化の中には重なったテープ間で音が転写されるといった厄介なものもあります)、亭主が若い頃にも、既にテープ上で編集の済んだ音をエジソンの蓄音機さながらメタルディスクにガリガリと刻み込み、それをマスターレコーディングとして保存するようなことも行われていたようです。(そのようなマスターディスクから直接LPを起こした「ダイレクト・カット」盤と称するものも出回っていました。)その点、テープよりはLPの方が(そっと保存されていれば)断然日持ちがよさそうです。そこで昔の録音をCD化するに際し、テープに代わって状態のよいLPディスクを探し出し、それを音源にしてリマスターするといったことも実際に行われているそうで、これを「LPからのイタ(板)出し」と称しているらしい。ちなみに、このごろ新聞で「アイデア商品」の広告を見ていると、手持ちのLPからワンタッチでCDに焼いてくれる便利なLPプレーヤーなどが売られていて、少し心を動かされそうになりました。実は亭主も古いLPプレーヤーを使って自分で「イタ出し」を試みたことがあります。が、これが結構手間ひまのかかるメンドウな作業。ダイナミックレンジを調整したり、トラックとトラックの間を分けたり、また一旦録ったデータ形式を他に変換したりと、どうしてもCDで手に入らないものを何枚分かやったところでウンザリしてやめてしまいました。そもそもLPプレーヤー(DENONのDP-1200、「ダイレクトドライブ」です(懐かしい言葉!))は普段納戸にしまわれているので、その度毎に引っ張り出してアンプにつなぎ直すというバリアもあります。(今のオーディオセットにLPプレーヤーの居場所はないので...)なんかもっと手軽な方法はないものやら。
2010.05.15
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スカルラッティのソナタは555曲もあります。このゾロ目の数字、その研究をライフワークにしていたラルフ・カークパトリックが、当時知られていた原典を整理した結果得られた鍵盤用ソナタ(厳密には「ソナタ」という名前を持たない曲も含まれますが)の数から来ています。その後、いくつか新たに見つかった曲もあるので正確にはもう少し多いようですが、いずれにしてもこんなに沢山の数の曲を「ソナタ全集」としてポンと渡されても、フツーのリスナーはどうしていいか分からな~い状態になってしまいますよネ。(有名な曲は精々40~50曲と全体の一割に満たない程度、CDにして30枚以上のディスクを前にして、K. 1番から順繰りに聞いて行く、というのは千里の道を行くがごとし、です。)もちろん上述のような悩みは、現在2種類ある「ソナタ全集」(スコット・ロスとピーター・ヤン・ベルダーの録音)を前にした時だけの話ですが、亭主はこの2つ、どちらでもよいので是非多くの人に聞いてみて欲しいなァ、と思うのです。そこで、以下に亭主がやっている工夫を1つご紹介まで。実はスカルラッティのソナタ、その大部分はもともと「ソナタ曲集」として30曲程度が一まとまりになって合本されたものが15巻集まって全体を形成していることが知られています(詳しくは、このような15巻の筆写譜が2セット確認されていて、一方はベネチアの図書館、他方はパルマの図書館に保管されています)。このうち、ベネチアにあるものは装丁も豪華で、明らかにあのバルバラ王妃が使っていたものと推測されています。しかも、そのうちの13巻にはIからXIIIまで番号がついていて、ソナタの並び方も何かしら意味ありげ。少なくとも作曲者本人がこれらの合本「ソナタ集」を作るに際して何らかの関与をしたのでは、と想像させます。そこでiPodの登場です。亭主はせっせとスコット・ロスのCDをiTuneにコピーした後、それらのソナタ中からベネチア・セットの各巻に含まれる曲をプレイリストに並べて、全15巻を復元してみました。(そもそもK.1~30はスカルラッティ自身が「練習曲集(Essercizi)」として生前に出版したものですが、そのように纏まったCDすらまだ世の中にない?みたいなので、これも当然プレイリストです。)こうして各巻を聞いてみると、それぞれの巻の特徴も見えて来てなかなか楽しめますヨ。(例えば、曲集の最後をフーガで締める、というのがEsserciziだけでないこともこれで分かりました。) iPodがなかった時代にはこんなことはとても困難でした。有り難い時代になったものです。是非お試しあれ。
2010.05.13
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最近「クラシカ・ジャパン」の番組を眺めていたところ、放送内容予告番組の中で今月の目玉の一つ、マルタ・アルゲリッチの出演した一昨年の音楽祭の様子が映し出されていました。その映像を見てびっくり、あの長い髪の毛のかなりの部分が白くなっているのです。実は毎月送られて来る番組案内冊子の今月号表紙写真にもピアノの前の彼女の姿が載っていて、その白いものが混じっているような画像をながめながら、撮影時の光の加減だろうなどと想像していたのですが...もっとも調べてみると1941年生まれというので、実は彼女、もうじき古希を迎えられるという御年におなりなのでした。髪に白いものが混じるのも当然ですが、むしろそれを隠そうともしないところに彼女の性格が現れている?のでしょうか。コンサートに通っていた30年前ほどに見た彼女の舞台姿は今のそれとほとんど変わらない(いつも黒尽くめ、舞台を大股でスタスタ歩いている)様子で、「自分は自分」、という感じが伝わってきます。それにしても、もうライブで彼女の演奏に接する機会はないのかなー、等と忙しい我が身の上を顧みてため息...
2010.05.12
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先ほどまで聞いていたNHK-FMで、昨年ワルシャワで開催された「ショパンと彼のヨーロッパ」国際音楽祭での、アレクサンドル・メルニコフとかいうピアニストのリサイタルの様子が流れていました。使われている楽器が1849年製のピアノ、ということで、どんなものかと思って聞いてみましたが、やはり現代楽器の音を聞き慣れた耳にはイマイチ...弱音-中音ぐらいまでは結構綺麗に響くんですが、フォルテになると妙にポロポロした音(なんだかカナダライやカンカンを叩いているような...)になってしまうんですねェ。 この「ポロポロ」した音色、もっと古い「フォルテピアノ(ピアノフォルテ?)」も同じような傾向の音を出します。想像するに、弦を張ってあるフレームの強度が充分でなく、弦の振動(振幅)が大きくなるとフレームが強制振動で歪み始めて、結局音の減衰が速くなる(長く響かない)せいかも。 ちなみに、元祖フォルテピアノ、つまりクリストフォリの手になる「強弱可変ハープシコード」を久保田彰氏が複製した楽器で、渡邊順生氏がスカルラッティのソナタを弾いた録音を聞く機会がありましたが、こちらの音はむしろハープシコードそのものに近く、音色的には(確かに音の強弱はつくものの)「地味なハープシコード」という感じ。 というわけで、ハープシコードと違い、「フォルテピアノ」はやはり亭主から見て「過渡的な」楽器、という印象を拭えません。上のリサイタルで出て来た楽器から判断すると、「19世紀のピアノもまだ発展途上?だった」ということになりますかね。(べつに過渡的でも何でも、それなりにいい音を出してくれれば楽しめるのですが、肝心の音がイマイチなので、わざわざこういう楽器での演奏を好んで聞く気にならないというわけです。)逆に、現在のスタインウェイやヤマハのフルコンが如何に完成された「究極の楽器」であるかについて思いを新たにすることになります。(とはいえ、ウチにフルコンを置くわけにはいかないところが悩みの種...やれやれ。)
2010.05.10
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ことしはショパン生誕二百年?とかいうことで、最近のラ・フォル・ジュルネ(オ・ジャポン)でもピアノ演奏会のプログラムは彼の作品ばかり取り上げられているようです。 未音亭亭主もショパンはもちろん好きな作曲家です。彼の作品群を聞いていると、ピアノという楽器が持つ多様で奥深い表現や響きの可能性が、それ以前の作曲家のものに比べて飛躍的に拡大しているように感じられます。(他に同じことを感じられる作家がいるとすれば、ドビュッシーとスクリャビンぐらいでしょうか?) でも、この数年来、亭主がハマっているのはスカルラッティです。ピアノしか知らなかった3年前まではそうでもなかったのですが、自宅にハープシコード(チェンバロ)を入れてマイ楽器に触り始めた途端、スポっとハマってしまいました。亭主自身、これはまったく予想外の展開でした。(なにしろ購入の動機は、「あーこれでバッハのイタリア協奏曲やラモーの楽しい小品を弾きたい」というものでしたから。)とにかく、スカルラッティのソナタをハープシコードで弾いていると時間を忘れるぐらい楽しい!555曲もあるソナタの探索は汲めども尽きぬ驚きと楽しみの泉です。(もちろん弾くだけでなく、今ではスコット・ロスやピーター・ヤン・ベルダーの全録音をiPodで持ち歩く毎日です。) さて、スカルラッティにハマったところで、もっとスカルラッティのことを知りたいと思って色々ネット上を探したのですが、何と日本語で読める伝記や解説本の類いは皆無。そこでシットウェルというイギリスの作家が大昔(1935年!)に書いた彼の評伝を読んでいて出会った言葉が「チェンバロのショパン」でした。(この本、たまたま日本の古書店で見つけて購入。)ハマってみて分かりましたが、確かにピアノという楽器の存在なしにショパンを語れないように、ハープシコードという楽器なしにスカルラッティのことは語れない感じです。(ピアノを習うとすぐにショパンを弾きたくなるように、ハープシコードを手にした人は何時か必ずそうなるハズ?と思います。) 現代のピアノはハープシコード(チェンバロ)の「上位互換機」だと思われている人が多いのではと思います。(亭主もマイ楽器を持つまでは漠然とそう思っていました。^^;;)でもこの2つ、実は全然違う楽器です。オルガンとピアノの違いに匹敵するといってもよいでしょう(共通なのは鍵盤で弾く、というところぐらい?)。スカルラッティがマイナーである理由はやはりハープシコードという楽器がマイナーだからでしょうね。でもこの楽器、ピアノに比べて日本の住宅事情にもフィットしているし(音も小さめで、楽器も大人一人ぐらいの重さ)、なによりもスカルラッティという素晴らしいレパートリーがあるので、もっともっと普及する価値が充分にあると感じています。(日本には曽根麻矢子をはじめ、スター級の演奏家も数多くいらっしゃいますし。) スカルラッティにハマったついでに、亭主は先に触れたシットウェルの著作の邦訳を私家版として製本してしまいました(残りがまだ数十部あり)。ご興味のある方はコメント欄にどうぞ。
2010.05.09
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