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ジェイコブがモダンジャズ喫茶店に入り浸ってクスリをやったりセックスしたりして伯父一家を殺害する話。●あらすじ住むところがないジェイコブはユキ(男)の家に泊まり、モダンジャズ喫茶店でケイコやキャスやユキや吉とクスリでラリったり、少年時代を思い出したりする。ユキはホモではなさそうだけれど女嫌いで、金持ちの親を脅して金をもらって生活していて、親の会社を爆弾で吹っ飛ばすつもりだった。ジェイコブは相手が誰だかわからない女に向かって出すつもりがない嘘の手紙を書き、母方の伯父の高木直一郎の貨物会社で働いていて高木一家を皆殺しにするか金品を盗る計画を立てるものの、定食屋の白痴のミオが火事で死んで計画を中断したことを思い出す。ユキはジェイコブを実家に連れて行って下見をして、ジェイコブと一緒に一家を機関銃で殺して金を奪って家を爆破する計画をねる。ジェイコブは昔の夢を見て、高木の家に脅迫電話をしようとするものの高木の妻が電話にでたので二年ぶりに伯父の家に遊びに行くことにすると、みつくろった箱入りのマスカットが爆弾のように思える。吉が覚醒剤をやりすぎて死に、ジェイコブは吉の恋人のロペとその友達とドライブした後に東京に戻り、ユキの部屋に行くとユキの兄が会社に爆破予告の手紙が届いた件でユキを説得に来ていた。ユキは爆弾を作ろうとして感電死する。ジェイコブはキャスに求婚されて結婚して、キャスと一緒に高木の家に行って、いったんキャスを車から降ろして高木夫婦と娘の友子をバールで撲殺したあとモダンジャズ喫茶店に行く。●感想三人称。登場人物や風景の外面描写をしない文体で、どの時代のどの地域が物語の舞台なのかも不明。ジェイコブやキャスやロペやジルといった外国人風の名前の登場人物たちの国籍も人種も不明。物語の舞台が不明なまま少年時代の回想を入れてくるので、ますます物語世界があやふやになる。タブレット状のクスリでラリっていると書いているけれど、クスリの名前が不明だしアッパー系なのかダウナー系なのかも不明。モダンジャズ喫茶店も店名が書かれず、最後まで「モダンジャズ喫茶店」と一般名詞で書かれているし、モダンジャズ喫茶店の場所が東京にあるとわかるのがの158ページで、東京のどこにあるのかは不明だし、店内の広さも内装も不明。こういう細部のリアリティが欠如していて情報不足なので、読者が物語世界の具体像を想像できない。人物像が抽象的なままドラッグやらセックスやらを書いたところで面白さにつながらないので、技術的に失敗している。さらに物語展開も冗長で、246ページしかないのに50ページを過ぎてもまだジェイコブたちがモダンジャズ喫茶店でラリって延々とだべっているだけで物語の方向性が見えず、よくわからない人たちがうだうだしている話をされても興味がもてないので続きを読む気が失せる。読者が一番物語に興味を持っている冒頭部分で読者をひきつける面白さを提供できないのは長編小説としては重大な欠点で、構成が練られていない。ジェイコブの出自をあえて隠して、過去の回想を小出しにすることでモダンジャズ喫茶店でだべっている退屈さをごまかそうとしているけれど、ストーリー(それからどうなるのか)がないままプロット(なぜそうなったのか)だけを展開されても見所がないし、過去をはさむことで場面と時系列がばらばらになって現在も過去の両方とも中途半端になっていていっそうつまらなくなっている。そのうえジェイコブが高木一家を殺そうと執着する動機が不明で、終盤になってようやく高木がジェイコブの実の父親と噂されていると書かれるものの情報を出すのが遅すぎるし、結局ジェイコブが何者で、何をやりたかったのかよくわからない。ドラッグと暴力とセックスを書いておけばセンセーショナルな感じを演出できたような時代の古臭さがむんむんで、19歳の若者の話を読んでいるという感じがまったくせず、モダンジャズ好きなおっさんの昔話を読んでいるような感じ。先日読んだケルアックの『路上』もジャズとドラッグとセックスの話だったけれど、こちらは若者の熱狂をよく書いていて、テーマが似ているだけにいっそう『十九歳のジェイコブ』のつまらなさが際立ってしまう。若者が主人公であるにもかかわらず舞台設定があいまいで同時代性を書き損ねていることがこの小説の決定的なつまらなさで、音楽は音だけでなくファッションや仕事や生き方にも影響するのに、ただジェイコブがコルトレーンが云々アイラーが云々と一人で音に耽っているだけで主人公としての人間的魅力がなく、この小説を読んだところでジェイコブが傾倒しているモダンジャズの面白さやモダンジャズに関わる若者たちの思想が伝わらず、モダンジャズが好きな作者の自己満足になっている。Amazonの商品説明文には「十九歳の癒されることのない渇き。青春文学の金字塔! クスリで濁った頭と体を、ジャズに共鳴させるジェイコブ。精緻な構成と文体で、死をもってしか解決できない愛と憎しみを描いた名作の復刊! 」と信じられないようなことが書いてあったのである! クンデラのように音楽的リズムを文体に反映させているわけでもないし、時系列もぐちゃぐちゃなのに、どこが精緻な構成と文体なのか説明してほしいもんである! 駄目なものを駄目といわずにこういう不誠実で詐欺的な商品説明を書く人が出版業界にいるせいで、ますます文学に幻滅してしまうのである! 文末に感嘆符つけりゃいいってもんじゃねーぞこの野郎である!この小説を読むくらいなら1957年の『West Side Story』、1965年の『The Sound of Music』、1977年の『Saturday Night Fever』、1982年の『Wild Style』、1983年の『Flshdance』、1984年の『Breakin'』、1999年の『The Virgin Suicides』、2000年の『Almost Famous(あの頃ペニー・レインと)』とかの音楽と若者の関わり方を描いた映画でも見たほうがましだなあと思って、映画を見たのだった。いやぁ、映画って本当にいいもんですね。★★☆☆☆十九歳のジェイコブ【電子書籍】[ 中上 健次 ]
2017.02.22
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関東大震災の被害状況について書いた本。●まとめ大正4年11月に群発地震が起きたとき、地震学教室の今村明恒は過去の江戸の大地震の統計から100年周期説を主張して、50年以内に大地震が必ず起きて、石油ランプの普及や水道管の破壊で大火災が起きて10-20万人の死者がでると警告するものの、今村の上司で第一人者の大森房吉は庶民の動揺を抑えようとして、東京が震災をこうむるのは数百年に一度で今村説は根拠がないと批難して、学会では今村は法螺吹きだと批難されて、二人は対立したまま地震研究を続ける。大正12年(1923年)9月1日に大地震が起き、震源地に近い相模湾周辺の小田原や横浜は被害が甚大で、家屋が倒壊して鉄道が脱線する。東京府は神奈川県や房総半島よりは地震は弱かったものの、地盤が弱い地域や下町で家屋が全半壊し、東京初の高層建築物の十二階(凌雲閣)も倒れる。今村の警告は的中して東京市内15区すべてで発生した火災が避難民の荷物や家財に引火しながら延焼して火災旋風が起き、旧陸軍被服廠跡の広大な空き地に避難した推定4万人のうち3万8千人が死亡した(関東大震災の全東京市の死者の55%強)。浅草の吉原公園の池に逃げた400人以上の花魁たちは溺死する。隅田川の永代橋は両側から火が迫って人々が窒息死したり川に飛び込んで溺死したりして、隅田川は死体に覆われる。避難民が運び出した荷物が延焼の原因になり、警察官が避難民の反感をかいながらも荷物を捨てさせた場所では延焼を免れ、浅草観音も避難民の荷物の運びいれを防いで境内の池を放水して延焼を防ぎ、神田区和泉町や佐久間町は消防署の助力なしで住民が協力して神田川の水をバケツリレーしたり防火線をしいたりして延焼を防いだ。家屋を失った130万人が公園や学校に避難するものの混乱が起きる。横浜市は東京を上回る家屋倒壊で全市の総面積の80%が焼失した。地震で新聞が発行できず、情報を得る手段がない中で人々は錯乱して大津波や富士山爆発の流言が拡大し、各新聞社も流言を事実のように報道し始める。刑務所の囚人が集団脱走したという流言が信じ込まれた中で、横浜市で発生した朝鮮人が放火しているという流言に尾ひれがついて東京に伝わり、武装した自警団が暴走して朝鮮人を尋問して殺害し始める。地元の警察は朝鮮人の放火事件は起きていなかったという事実を確認して流言を止めようとするものの、市民からの通報があまりに多くて政府が事実として扱ってしまったので、全国規模に流言が広がって朝鮮人が殺害される。政府は流言を掲載した新聞を発行禁止にして流言を止めるものの、警察と軍が流言に乗じて社会主義者を殺害していたことが明るみに出て非難される。死体が多すぎて火葬場での処理能力を超えていて、車が燃えて腐乱死体を移送する能力もなく、人手も足りなかったので、死体の集積をやめてその場で焼却するものの火力が足りず、新発明の重油火葬装置を使って焼却する。死体処理が終わっても避難所に便所がないせいで糞尿があふれて、近隣の県から汲取り器具をもらって処理するものの、赤痢や腸チフスなどの伝染病が流行する。バラック街は衛生状態が悪く、食料や貴金属の略奪や婦女誘拐がおき、無料配給の噂を聞いた群集が暴徒化する。品薄で物価が上昇して、政府は民衆が商人や資産家に暴動を起こさないように暴利を得ている卸売商を検挙して物価を安定させる。大森は脳腫瘍で衰弱しつつもシドニーから帰国して誤りを認めて今村を幹事に推挙して死に、大地震を予言した今村は英雄扱いされた。●感想大災害を警告した学者が冷遇されるという災害映画のテンプレのような展開で始まり、データや手記や著者の意見を交えつつ関東大震災の被害と後処理について書いていく形式。この本に書かれた情報の信憑性がどれくらいあるのかはわからないものの、生存者の手記が生々しいので下手な小説よりも読み応えがある。さて現代にこういう本を読む意義がどこにあるかというと、過去を教訓にするために読むわけである。ここで見落としてはいけないのが339ページで今村が「日本の各地方で大震災の来襲する恐れのない地域は絶対にない」と大阪方面に大地震の襲来の可能性をほのめかしている点で、いわば阪神・淡路大震災も予見しているともいえる。『関東大震災』は1973年が初版のようだけれど、この本を読んでいれば1995年の阪神・淡路大震災に備えることもできたかもしれない。しかし関西方面では大地震は起きないとのんきに構えていたようで、阪神・淡路大震災では水道施設が壊滅して消火活動が遅れていて、大地震が起きて被害が顕在化するまでろくに対策をとってこなかったがゆえに大被害につながったともいえるし、あまり過去の教訓が活かされていなかったようである。自然災害が起きるのはしょうがないとして、過去の失敗を教訓にすれば人災の部分は減らせるだろうに、結局は自分が被害にあうまでは他人事として興味を持たない人が多いのだろう。東日本大震災で首都の東京でも危険を実体験したおかげで地震後の対処についてはだいぶ啓蒙活動が進んでいるし、首都直下型地震や南海トラフ地震が起きても割と冷静に行動できるんじゃないかと思う。関東大震災というと地震後の流言で朝鮮人が殺されたことで知られているので、流言について考えることにした。流言は根拠のないうわさで、デマは政治的な目的で意図的に流すうわさで、厳密に言うと違う意味らしい。大正時代の日本人は一部の金持ち以外は高等教育を受けていないし、総辞職を繰り返す政府や併合して間もない朝鮮人が信用されていない時期だったので、災害時にパニックになって流言を信じて自警団が過剰な防衛行動をとったのは悪条件がいくつも重なったせいだろう。じゃあ現代人は高等教育を受けたから流言は広まらないかというとそうでもなくて、現代でも不幸の手紙だとかチェーンメールだとかノストラダムスの予言だとかリツイートだとかで怪しい情報が拡散しているし、熊本地震でライオンが逃げたと偽情報を拡散した愉快犯が逮捕されたりしている。なんで現代でもなおデマが拡散したり、偽ニュースが信じられるかというと、刺激的だからじゃないかと私は思う。刺激的というのはつまり情報によって脳が刺激されて恐怖や怒りや同情や好奇心や共感といった感情を引き起こすということで、事実か否かではなく、刺激があるか否かという基準で判断している人の間でデマが広がるのだろう。事実か否かというのは知識と論理的思考能力を持ってないと判断できない一方で、刺激があるか否かというのは感情で誰でも瞬時に判断できる。そして怒りや恐怖というのは生存本能に関わる強い感情なので、感情的になったぶんだけ理性的な判断力を失って、真偽不明な情報を信じ込んで、よかれと思って他の人に全力でデマを伝えてしまうわけである。この種の刺激は取り扱いに注意が必要で、エンターテイメント作品としてパッケージして日常から隔離すれば恐怖でも怒りでも人を楽しませることができる反面、日常生活に無分別にたれながされると危ない。テレビの討論番組ではデータに基づいて淡々と議論するよりも感情的に口論するほうが話題になるし、事件や事故の犠牲者の数が少ないよりも多いほうが注目されるけれど、報道が事実を元にせずにセンセーショナルな刺激を優先して情報発信してしまうと報道機関としての役割から逸脱する。幽霊や占いはエンタメとしてテレビで特集するぶんには楽しめる反面、実生活で除霊をやったり幸運を呼ぶ壷を売ったりするとオカルト商法として被害がでる。上岡龍太郎が『探偵!ナイトスクープ』で幽霊を調査したディレクターに対して激怒したけれど、この種の刺激の危険性を知っていたからこそ証拠もなく恐怖心を煽る心霊ごっこに怒ったのだろう。朝日新聞の従軍慰安婦報道に関する壮大なデマも事実に基づかないまま被害者が可哀想だという感情をあおってどんどん被害を水増ししていって感情的な人たちが事実確認をしないまま信じ込むことになった。大正時代にデマを信じて朝鮮人を殺していた人も、現代にデマを信じて反日運動をしている左翼も構図は同じで、刺激的な偽の情報で感情的になって不毛な騒ぎを起こしているわけである。事実に基づいて冷静に行動していれば問題解決はむしろ早かっただろうに、感情的になったがゆえに問題を無駄に長引かせてこじらせて深刻化させることになる。報道機関でさえ正確に事実を伝えるとは限らないどころか平気で捏造や偏向報道をするし、悪意を持った人が流言を言いふらすこと自体を止めることはできないし、無数の情報が飛び交う中では専門家でもない人がいちいち自分で真偽を確認して回ることもできない。政府や大学の権威がある機関から直ちに影響はないから安全だの危険だから避難しろだのと矛盾する情報が出てくることもある。そうなるとデマに踊らされないための自衛手段としては、真偽不明な情報はすべて疑って判断を保留して、自分が理解しておらず確認もしていないことをむやみに信じず、科学的に検証可能な方法で事実を確認して、最低限デマを広める行為に加担しないのが大事だろう。自分がデマに踊らされて間違った行動をしたときに、情報源が間違っていたのが悪いというのは責任転嫁の言い訳にしかならないし、情報源を確かめないまま行動したのは自分の責任である。たとえば四日市ジャスコ誤認逮捕死亡事件では、老人からキャッシュカードを強盗しようとした女が「泥棒」といったことを信じて買い物客と警察官が無実の老人を取り押さえてその後に老人は死亡したけれど、これも根拠のない情報に基づいて軽率な行動をしたことは非難されてしかるべきだろう。2ちゃんねるとかのキチママ遭遇体験談を読んだことがある人なら被害者ぶる人が必ずしも被害者とは限らないことを知っているし、客や警察官は感情的に正義感をふりかざして老人を犯人扱いして取り押さえる前にいったん善悪の判断を保留して、最初から冷静に監視カメラで状況を確認して犯人の女と老人の双方から事情聴取をしていれば犯人の女を逃がすことも老人を死なせることもなかった。正義感がある阿呆はカルト宗教や極右や極左と似たようなもんで、自分が正しいと信じて自己満足のヒロイズムに浸って他人のことを考えずに間違った行動をするので始末に終えない。私は阿呆ではあるものの正義感はないし、間違った行動をするよりは何も行動しないほうがまだましだと思っている。行動に移す前にまず考えるべきことがあるし、自分が思慮不足な阿呆であることを弁えて慎重に行動していれば、感情任せに阿呆なことをしでかして他人に迷惑をかけずに済む。しかし自分がデマにだまされなかったとしても、周りの人が皆デマを信じていたらどうすればよいのかは対応に困る。感情的な相手に感情的に対処すれば力ずくで解決することになるし、感情的な相手に理性的に対処して主張の根拠を尋ねても相手には理性がなくなっているので話が通じないだろうし、さらには陰謀論を主張する相手には科学的に信用できそうなデータを見せても情報の捏造を疑われたら効果がない。平時でさえデマを信じて騒ぐ人が大勢いるのに、非常時にデマを信じて殺気立った人たちを押さえ込むとなると警察や軍が武力制圧するしかない。イスラム国の兵士がジハードで敵を殺して死ぬと天国で処女と結婚できるという根拠のないデマを信じて嬉々として殺人しているのを説得しようがないようなもんである。となると、個人でできる対処法としてはデマを信じ込んでいる人を説得するのをやめて巻き込まれないように逃げるくらいしか対処法を思いつかない。じゃあどこに逃げるかというと、逃げ場がない。現在の人間の阿呆な知能ではこの世界についてよくわからないがゆえに、世界の解釈をめぐってキリスト教だのイスラム教だの資本主義だの社会主義だのを争って右往左往しているという段階から何千年も抜け出せないわけで、右に逃げても左に逃げても逃げた先には別のデマを信じている阿呆の群れがいるので、人間社会にいる限りつねにデマに悩まされることになる。そういう点ではひきこもって社会に参加しないのは正常な行動なのかもしれない。あるいは多数派に所属して嘘まみれの社会に適応してデマでも占いでもエセ科学でもなんでも処世術に利用するのが賢い阿呆の生き方なのかもしれない。同じ阿呆なら踊らにゃ損なのだろうか、あるいは不運と踊っちまうのだろうか、よくわからない。ううむ。★★★★☆関東大震災 【電子書籍】[ 吉村 昭 ]
2017.02.20
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アガメムノーン王が妻と従兄弟に殺される話。●あらすじトロイアー遠征のギリシア軍の総大将のアルゴス王アガメムノーンがトロイアーの都のイーリオスを攻略して勝利を告げる松明を見て、王妃のクリュタイメーストラーは犠牲の祭りをするものの、結末が定まる前に先走るのは女のやることだと批判されて浮気をしていると噂になる。布告使によると、アガメムノーンは戦に勝利して帰還したものの、嵐でアルゴス軍の船は壊滅してアガメムノーンの弟で副大将のメネラーオスの行方がわからなくなっていた。アガメムノーンはトロイアーの王女のカッサンドラーを捕虜として宮殿に連れてくると、カッサンドラーはコロスの長にアポローンの神託を告げ、アガメムノーンと自分は殺されるものの、いま亡命している人が帰ってきて、母を殺して父の血の代償を求めて一族の狂乱沙汰の最後の押さえとなるという。アガメムノーンの従兄弟のアイギストスは父のテュエステースがアガメムノーンの父のアトレウスに息子を殺されて食わされたことを恨んでいて、クリュタイメーストラーは娘のイーピゲネイアが遠征軍の出陣前に人身御供に捧げられたことを恨んでいたので、共謀してアガメムノーンを騙し討ちする。コロスの長はアイギストスを臆病者と罵って、アガメムノーンの息子のオレステースが生きて帰ってきたら血祭りにすると言うと、アイギストスはコロスの長を殺そうとするものの、クリュタイメーストラーはアイギストスを宥める。●感想ホメロスの『イリアス』と『オデュッセイア』に書かれたトロイア戦争を下敷きにしているようなので、そっちを先に読んでトロイア戦争や人間関係を把握してからこの作品を読むほうが面白いかもしれない。巻頭の登場人物の説明ではメネラーオスやオレステースについて書かれていないのに作品内では言及されているので、訳注や他のソースを参照して情報を補完する必要があって、短い割には話がわかりにくい。作中ではテュエステースが息子を殺されて食わされたことだけ書かれているものの、ウィキペディアを見るとそもそもテュエステースがアトレウスの妻のアーエロペーと不倫したのが原因らしい。テュエステースが兄嫁と不倫していざこざが起きて、息子のアイギストスも従兄弟の嫁と不倫していざこざが起きて、どうしようもない一族である。プロットとしてはアイギストスがアガメムノーンを殺して父親の復讐を果たすというだけで終わり方があっけなかったのだけれど、解説によると『アガメムノーン』、『コエーポロイ』、『エウメニデス』が一連の因果話を順に取り上げた三部作構成劇(トリロギアー)でオレステイア(オレステースの悲劇)三部作と呼ばれていて、オレステースの仇討ちと裁判まで話が展開するらしい。なんか上中下巻セットのうちの上巻だけを買わされたようでだまされたような気がする。それでもコロスの合唱部分の詩的な言葉使いはよいので、文学として読んでもそれなりに見所がある。おっおっおっおっおぃ、ぽ、ぽぃ、だぁ。おぉポローン、おぉポローン!とカッサンドラーが絶叫するところはシリアスな場面なのだけれど、筒井康隆っぽくて面白い。★★★☆☆【中古】 アガメムノーン 岩波文庫/アイスキュロス(著者),久保正彰(訳者) 【中古】afb
2017.02.15
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やもめのイケメンエリート広告マンが年増のあばすれと恋をする話。●あらすじ第一部レーガン政権時代にミズーリ州セントルイスの27歳のユダヤ系のコピーライターのマックス・バロンは2年前に妻のジェイニーを交通事故で亡くしたことをまだひきずっていて、イケメンなのに恋人がいない。マックスがホラウィッツのバチェラーパーティーに行くと、友人たちがホワイト・パレスで買ったハンバーガーを食べていたものの空の商品があったので、マックスが店に行って愛想が悪い中年の女店員に文句を言う。マックスがバーに行って尻のでかい女に興味を持つと、その女はホワイト・パレスの中年女のノーラで、マックスはノーラと知的な会話ができないことにいらつきながらも一緒に飲んでノーラは息子を白血病で亡くして夫が出て行ったという生い立ちを聞いて、酔ったノーラを家に送っていく途中に事故をおこして仕方なくノーラの家に泊まると、寝ている間にノーラにファックされて、テクニシャンだったので気に入ってしまう。第二部教師をやめて広告業界に転職したマックスは上司のローズマリーを慕っていたが、彼女はレズビアンだった。マックスが作ったCMにクレームがきたことがきっかけで大口顧客の銀行のCM担当に昇進して、仕事の合間にノーラとファックするものの育ちが違うので話が合わない。ジェイニーの二周忌に墓参りして義母のサラに会い、サラと母親が喧嘩する。マックスはホラウィッツの結婚式でノーラを友人に紹介するのが恥ずかしくてノーラを結婚式に呼ばずに嘘をついたもののノーラにばれ、マックスとノーラはお互いに信用していないので酒を飲みつつ会話して酒びたりになる。第三部マックスはサラと会ってノーラのことを相談すると、破滅するからすぐ別れろと言われるもののマックスは反発し、マックスはホラウィッツのハネムーン写真を見た際にコカインをやった勢いで付き合っている女性がいると友人に告げ、ノーラがマックスに本を借りて読書を始めたり、ローズマリーが失恋したり、マックスとノーラがスーパーで口論したり、占い師をしているノーラの姉のジュディがやってきてマックスを占ったり、マックスがノーラを母親に紹介して意気投合して、ホラウィッツ家の感謝祭のパーティーでノーラを友人たちに紹介するもののユダヤ人でないノーラは反感を持たれる。マックスはノーラとレストランに行って、ローズマリーと銀行のディラック夫婦と偶然会うものの、ノーラを恥じて紹介しなかったのでノーラは自分がマックスの人生の一部にはなれないのだと悟って、ひとりで帰って仕事もやめて行方をくらましてしまう。第四部マックスはノーラの件をローズマリーに相談して、銀行のCMの仕事にうちこむ。ノーラをイメージして作ったCMの女優の演技にイヤリングをいじる場面を取り入れて最高のCMを作ったものの、ディラックが駄目だししたので、マックスはぶちきれてディラックを罵ってクビになる。マックスがローズマリーに紹介してもらった仕事でこき使われている間に母親が事故死して、葬式でサラに会って母親が嫌いだったことを打ち明ける。マックスがジュディに電話するとノーラが出たのでニューヨークまで会いに行くと、ノーラは勤めているギリシャ料理店のオーナーのジョージと同棲しているというので、マックスがジョージを紹介してもらって値踏みして、ノーラに結婚を申し込むものの断られる。ニューヨークでの職探しもうまくいかず、マックスは孤独にみじめにすごしているとようやく仕事が決まったのでノーラを食事に誘うと、ノーラがアパートを訪ねてくる。●感想主人公のマックス視点の三人称。ウィットや皮肉を交えた文章や会話で物語を展開していくある種の典型的なアメリカの小説の文体。登場人物はユダヤやレズビアンといった特徴づけがぬかりなく、ステレオタイプ的ながらもキャラ立ちしている。長編小説らしくじっくりと描写して、マックスの年齢や容姿や職業などの基本情報をノーラとの会話で自然な流れで小出しにしていて、物語展開と描写のペース配分にむらがなくてよくできている。序盤はセックスで読者の注意を引いておいて、仕事と恋愛の二つをプロットの軸にしてマックスとノーラの教養や金銭感覚などの心理的な障害をひとつずつ対比させながら反発しつつも徐々に仲良くなっていく様子を描いていくという計算された展開で、プロットとしてはマックスやノーラの嘘がばれたり、ノーラの姉に占いをさせたりといった小技的な演出も仕込んでいる。第三部の終わりでマックスとノーラはいったん別れるものの、ノーラの姉の占いでマックスとノーラが結婚する未来が告げられているので、読者は二人が結婚するハッピーエンドの結末を想像できるわけである。しかし予兆やら占いやらで結末を暗示するのは古典小説に使われた古臭い手法で、ノーラの姉が過去も未来も見通せるチート能力者なのはさすがにやりすぎで不自然な感じ。妻が事故死したうえに終盤で母親も事故死するのもあからさまに終盤に話を盛っている感じがでてしまってやりすぎ。だいぶ書きなれた人の文章だと思ったけれど、著者のプロフィールをみたらこれが処女作だというので、処女作の割りにうまいのかと思ったらアイオワ大学のライターズ・ワークショップで修士号をとったようなのでそこで創作技法を学んでいろいろなテクニックをてんこ盛りにしたのだろう。しかし第一部に気合が入っている反面、第三部からは疲れたのか場面と場面のつなぎの部分の描写を省いて一行あきの場面転換が増えてきて場面が飛び飛びになっていて、文章のユーモアも乏しくなって構成や心理描写が雑になっていて、そのあたりに処女作らしい詰めの甘さが出ている。著者はこれが処女作にして代表作となって映画化されて、2作目を書いたけれど他にめぼしい作品もないまま2003年に49才で心臓病か卒中で早死にしてしまって、伸びしろがありそうなのに残念。小説版よりも映画版のほうが有名になったようで、著者は映画の原作者程度の扱いでWikipediaのページすらない。さて恋愛小説はたいてい物語の展開がパターン化されているので、プロット自体の面白さには私はあまり期待していない。初恋とか片思いとかの平凡な恋愛を美化するか、禁じられた恋で盛り上がるか、三角関係で恋人の取り合いをするか、失恋の感傷を強調するか、エロスに耽るか、どういう展開であれ、恋愛状態に陥った男女の心理描写の仕方で作品の出来栄えが変わってくる。日本の三流恋愛小説だと男女の二人の仲を書いただけで脇役に存在感がなくて社会性がなくて話が広がらない物語になりがちだけれど、この小説はマックスがノーラと付き合うことが他人にどう思われるかという社会性も常に意識していて、そこにマックスの心理的葛藤が生まれていて感情が複雑になっていてよい。親や友人たちといった脇役たちが主人公に意識されることで直接プロットに関わらないにしても登場人物としての存在感が出る。この辺は社交を重視するアメリカならではの心理状態で、日本の恋愛小説にはあまりない類の面白さである。所詮は恋愛小説だとあまり期待しないで読んだものの、思いのほか技術的にしっかりしていて、マックスとノーラが始終喧嘩していて物語の緊張感が持続していたので飽きずに読めた。第三部で中だるみしている欠点もあるものの第四部で盛り返しているし、処女作でこれだけ書ければ十分な出来ばえ。この小説は創作理論を学んで人生経験を生かしつつ社会をよく観察して丁寧に小説を書けば処女作でも500ページの長編小説に仕上げることができるという技術水準の指標になりそうなので、1987年のやや古い小説だけれど作家を目指す人は読んでみても損はないかもしれない。★★★★☆【中古】 ぼくの美しい人だから 新潮文庫/グレン・サヴァン(著者),雨沢泰(訳者) 【中古】afbぼくの美しい人だから [ ジェームズ・スペイダー ]
2017.02.09
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小説、漫画、映画、ゲームとかのあらゆる作品の面白さがamazonとかのレビューサイトで批評されているけれど、おもしろい、つまらないという短文の感想が多かったり、ファンとアンチが乱闘して荒れていたり、あるいはファンが盲目的に褒めているだけだったりして、面白い作品を買いたいと思ってもユーザーレビューがあまり参考にならないことが多い。作品の面白さ、つまらなさを論じる際に独りよがりにならずに他の人の参考になるような建設的な感想をいうためにはどうすればよいのかということを考えてみて、構造主義的に作品の面白さを構成要素ごとに分ければよいのではないかと思いついたので、阿呆なりに浅知恵を総動員して必死に考えてみた。字数制限の都合でブログ記事だと書ききれないので、サブページの作品の面白さとは何かに書いたけれど、長いので抜粋。●面白さの要素・芸術的要素:真善美を追求する深い物語・感情的要素:幸せ、不幸、共感、反感、愛情、嫌悪、怒り、恐怖、空しさ、嫉妬、焦燥、葛藤などの複雑な感情を刺激する、魅力的な登場人物・知的要素:新奇性、謎の解明、予想外の出来事、戦略性、結末への期待、好奇心を刺激する・技術的要素:高度な創作技術、凝った構図や演出、世界観の一貫性、最新技術の使用・作家的要素:作家独自の思想、感性、体験●つまらなさの要素・芸術的要素:真善美を追求しない浅い物語・感情的要素:陳腐な感情をあざとく刺激する、無感情、魅力がなく印象に残らない登場人物・知的要素:既視感がある、結末の予想がつく、戦略性のない作業ゲーム ・技術的要素:絵や文章が下手、世界観が構成できていない、プロットが破綻している、ゲームにバグがある ・作家的要素:没個性的、パターン化、ハンコ絵、テンプレ展開、パクリ上記のように面白さとつまらなさの構成要素を芸術的要素、感情的要素、知的要素、技術的要素、作家的要素の5つの要素に分けてみたけれど、この要素に照らし合わせて、どこの要素が面白いとかどこの要素がつまらないとか、具体的な感想がいいやすくなるのではないかと思う。たとえば『古見さんは、コミュ症です。』という漫画はどう面白いのか考えてみる。人見知りでほとんどしゃべらないヒロインという主人公らしからぬ人物が主人公なところに新奇性があり、古見さんがブルブル震えたりフンスとやる気を出したりする多彩な感情表現に感情的要素の面白さがある。しかし脇役たちの奇面組的なわかりやすいキャラ設定は既視感があるし、脇役たちの感情表現がパターン化してしまい、せっかく古見さんがキャラ立ちしていても脇役のせいでリアリティがなくなってつまらなくなってしまう。主人公に友達がいなくて脇役たちが主人公を神格化する展開は『はんだくん』で既視感があって、私は先にはんだくんを読んでいたので古見さんのほうは相対的につまらないけれど、これは主人公が人見知りで他人と話せないという設定上、脇役たちで物語を動かしていかないといけないのでしょうがないのかもしれない。普通の高校生活の物語なので物語の展開に知的要素はなく、新しい漫画的表現を取り入れたとかの技術的要素もなく、友達とは何か、友情とは何かを哲学的に掘り下げるわけでもなくて芸術的要素もあまりなく、他の漫画に似ている部分が多くて作家的要素も乏しい。というわけで、私にとっては古見さんがかわいいという感情的要素にしかこの漫画の面白さがなく、古見さんと只野くんのラブコメ部分の感情表現はそこそこ面白いけれど、魅力のない脇役たちがでしゃばってくるギャグはつまらない。しかし『はんだくん』や『3年奇面組』を未読の人にはギャグ漫画としてもっと面白く感じるかもしれないし、いろいろな漫画の面白さの要素を手際よく取り入れているという見方をすれば効率の良い構成ともいえるし、もともと重厚なストーリーがあるような大作でもなくて体育祭だのプリクラだのの高校生活の短いエピソードを集めた小ぶりなコメディなので、暇つぶし程度には面白い。ちなみに私さんも、コミュ症ですけれど、どういうわけか刺青をいれたいかつい人たちと付き合いが増えてしまうという特攻の拓的な展開になってしまって、ゼンカモン的な人や半グレ的な人と何を話せばよいのかわからなくて困る。
2017.02.02
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