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下町の中小企業が訴訟や赤字の危機を乗り越えてロケットの部品を作る話。第145回直木賞受賞作。●あらすじプロローグ佃は100億円のロケットの打ち上げに失敗する。第一章 カウントダウン佃は父親の佃製作所を継いで業績を伸ばしたものの、大手取引先が取引をやめると言い出して赤字になる見込みで、さらに大手のナカシマ工業からエンジンの特許侵害で訴えられて、銀行からの融資も断られる。佃の元妻は特許訴訟に強い弁護士を紹介しようかというものの佃は断り、第一回の口頭弁論で顧問弁護士が役に立たなかったので、やっぱり元妻に頼って元ナカシマ工業の顧問弁護士だった神谷を紹介してもらって、エンジェル投資家に転換社債を買ってもらって当面の資金繰りをして、逆にナカシマ工業を特許侵害で訴える。第二章 迷走スターダスト計画帝国重工の財前は巨額の資金で研究したロケット部品のバルブの特許を先に佃製作所に取られてしまったので、訴訟で金が必要な佃製作所から特許を20億円で買い叩こうと目論むものの佃に断れらてしまい、佃の倒産を待って子会社化するのではロケット打ち上げプロジェクトの予定に間に合わなくなってしまうので、なんとか特許を買おうとする。佃製作所がナカシマ工業を訴えた裁判は有利に進んで裁判官は56億で和解を提案して、ナカシマ工業は新聞記事に批判されたので和解すると、財前は佃製作所から特許を買うのが不可能になった。第三章 下町ドリーム財前は年5億で特許使用契約をしようとするものの、佃はリスクなしで儲かる特許ビジネスを嫌がって社員の反対を押し切ってロケットの部品を供給したがる。財前が会社を視察したら思った以上に技術力が高かったので外注を検討するものの、社長の方針とは対立するので交渉担当を外される。第四章 揺れる心国産ロケットへの部品供給の夢にこだわる佃が社員の反発にあって会社で孤立しているところに大手企業から買収の話が出て、大学教授になれという誘いも来て悩む。財前の代わりに帝国重工の交渉担当になった富山はテストで難癖をつけて部品供給を断って特許使用契約をするつもりだった。第五章 佃プライド帝国重工は佃製作所を視察して過剰設備だの営業赤字だのとぼろくそにけなしたので、佃に反対していた若手社員たちがプライドを刺激されて奮起して、テストの第一段階を通過して帝国重工をやりこめる。第六章 品質の砦テストで異常値が出て、部品供給に反対する佃製作所の真野が部品をすり替えたことが判明する。帝国重工は納入ミスを理由にテストを中止するものの、佃はテストを中止するなら特許使用契約もしないというので、帝国重工はテストを再開する。第七章 リフト・オフエンジンの燃焼実験は失敗に終わったので原因を究明すると、帝国重工はバルブのせいにしようとするものの帝国重工のフィルタが原因だった。財前が社長を説得して佃製作所のバルブが採用されて、燃焼実験が成功する。会社を辞めた真野からは新しいビジネスのアイデアが提案される。エピローグ種子島でロケットの打ち上げが成功する。●感想三人称。物語の展開のテンポがよく、冒頭で大企業を敵役にして主人公が立て続けに理不尽な目に合うことで、読者が主人公に同情して読者を味方につけることができる。日本人は時代劇が好きで権力に虐げられる弱者に肩入れしたがるので、敵と味方をはっきりさせるのはベタな構成だけれどエンタメでは効果的な手法といえる。ロケット製造や特許訴訟という読者が知らない特殊な業界をテーマにしながらも、読者が理解できないような特殊な用語は出てこなくて、このリアリティの水準はよい。説明を入れるタイミングや量もちょうどよく、視点の移動もスムーズで、文章がこなれていてよみやすい。500ページくらいあるけれど読みやすいので長さは気にならない。外面描写がほとんどなくて人物像を想像しにくいし、描写に比喩とかのポエジーがないのは物足りない。会話である程度性格を強調してキャラ付けしているので、外面描写がなくても想像で補う派の人は気にしないかもしれない。ドラマ化したら外面描写のなさやポエジーのなさといった文章表現上の欠点はなくなるので、ストーリーテリングを重視してドラマ化を狙うエンタメならこういう書き方が一種の完成系なのかもしれない。私は経済小説のテーマには興味があるものの経済小説作家は文章が残念なことが多くてあまり期待していなかったのだけれど、この小説は経済小説の中では面白く読めるほうだった。欠点としては、元妻が元ナカシマ工業の顧問弁護士だった神谷を紹介するあたりがご都合主義的な展開で、その後元妻の出番もなくなるので単なる弁護士紹介役としてしか存在意義がない。娘はちょろっと出てきて父親を「片や苦しんでいる人がいるって言うのに見殺しにする。最低じゃない」とぼろくそに批判したくせにエピローグではころっと態度を変えてロケット打ち上げを祝福していて、人物像や人間関係が薄っぺらい。男性の登場人物は夢を追う人として扱われている一方で、女性の登場人物は何の魅力も活躍も描かれておらず、物語を盛り上げるのに都合がいい存在としてしか扱われていないあたりはフェミニズム批評に突っ込まれそうな感じ。それから80ページで「三田は誇らしげにいうと、空のグラスをバーテンに掲げ、おかわりを告げた。」と地の文でバーテンダーをバーテンと書いているのはよくない。バーテンダーとして誇りをもって働いている人はフーテンが由来のバーテンという蔑称で呼ばれるのを嫌っているので、バーテンダーと正式な職業名を書くべきである。本来なら編集者や校閲者が指摘するべきだろうに、賞をとって代表作になるような作品で出版社が作家に恥をかかせてはいけない。★★★★☆下町ロケット【電子書籍】[ 池井戸潤 ]
2019.12.29
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擬人化の使い方を解説した動画をアップロードしました。擬人化でキャラクター化すればどんな概念でも物語にすることができるし、難しい技術や文学理論の知識が必要ないという点でアマチュアでも使いやすいテクニックです。
2019.12.25
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最近はトヨタで上司のパワハラが原因で部下が適応障害になって自殺したり、三菱電機で上司のパワハラで新入社員が自殺したり、楽天で上司に暴行されて障害が残った元社員が労災認定されたりして、大企業内部で事件が相次いでいる。なんでこんな事件が起きるのかというと、企業が文系を軽視して道徳と教養がなくなって、金儲けや出世の欲が肥大化して儲かれば何をやってもいいと規範をなくしてアノミー的状態になったのが原因じゃないかと思う。教養というのは定義がいろいろあるけれど、学問の習得と人格形成の両方に影響するものだろう。現代はあらゆる点で道徳と教養のなさが目立つおかしな社会である。常用漢字さえも読めないような人が世襲で政治家になっているのがそもそもおかしい。大学全入時代になって学位の価値も落ちて、大学生なのに中学生レベルの英語や数学もできずに振り込め詐欺とかの犯罪をやるFラン大学生もいるし、有名大学に入ってリア充になって調子に乗って集団暴行事件を起こす学生もいる。さらに教養よりもコミュニケーション能力を重視して採用するようになって大学で実務につながらない教養を頑張って身につける意味が低下したし、実務の役に立たない文系はいらないといわれて文学部だと就職に不利になるようになった。SNSが出てきて奇抜な言動をして炎上で注目を集める問題児がインフルエンサーとして儲けられるようになって、教養を身に着けて人格者になったからと言って何か得をするわけでもなくなって、むしろ謙虚で目立たないと損するようになった。勝ち組・負け組という流行語が出てきて学歴も年収もマウンティングして他人を見下すための道具になって、うわべの肩書だけで人間を判断して他人の人格への最低限の敬意さえなくなった。過労自殺した電通の社員の高橋まつりのツイッターは他人をぼろくそに見下したひどいもので、慈悲のない言葉で他人を非難していると自分の逃げ道さえもなくしてしまうことに気づかないのは東大卒なのに思想や哲学の教養が足りなかったのだろう。パワハラをする人はストレス発散なのか退職に追い込みたいのか私怨なのか原因はわからないけれど、他人を罵倒して死に追いやるというのは人間として倫理観が根本的におかしい。産経新聞の記事によると三菱電機は極限まで追い込んで成果を出させる体質で、社員の一割以上が精神疾患で休職したそうだけれど、これは異常な職場環境である。普段顔を合わせる同僚さえ罵倒して死に追いやるような人の上に立つべきでない人物が上司になるような組織で、顔が見えない客のことを考えて仕事をしているとはとうてい思えないけれど、この人たちは何が生きがいなのだろうかと疑問に思う。有名大学を卒業して大企業に就職した人たちに人格破綻者がごろごろいるのは教育が人格や道徳の形成に機能していないといえるし、こうした人たちが日本をだめにしたともいえる。日本の指導者層は教養を身に着けて思想を深めて知識をアップデートして新しい物やサービスを作って幸福を追求することをせず、バブルの頃に儲かったらゴルフやらノーパンしゃぶしゃぶやらの接待漬けで放蕩して、不景気になったら下請けや労働者をいじめぬいて搾取して、道徳も技術もない企業では非合理的な精神論で売り上げを上げようとしてパワハラや長時間労働をする。物やサービスを作るには才能も努力も必要だけれど、弱者から搾取すれば無能な経営者でも利益を出せるので、無能な経営者たちはこぞって人材派遣業に飛びついた。国際人材派遣事業団体連合(CIETT)の2006年のデータだと世界の労働者派遣事業者数で最も多いのが日本の3万6000社、2位がイギリスの1万500社、3位がアメリカの6200社、4位がドイツで5058社で、日本はアメリカの5倍だというからどれだけ日本の経営者が就職氷河期の2000年代に中間搾取で儲けようとしていたのかがよくわかる。起業したがるオーナーから搾取するフランチャイズビジネスや、金持ちになりたがる情報弱者から搾取する情報商材ビジネスなんかも2000年代に流行した。5ちゃんねるに昔の経営者の言葉と今の経営者の言葉のコピペがときどき貼られているけれど、昔の経営者は庶民が豊かにならないと企業は成長しないと考えているのに対して、今の経営者は企業の利益拡大を正当化するために自己責任論で搾取を正当化していて、いくら個々の企業や経営者が利益を出そうが社会全体は衰退するという合成の誤謬に陥って、日本は低成長になるべくしてなっている。昔は老人のタンス預金が投資に回らない死に金だったけれど、今は過去最大の463兆円の企業の内部留保が死に金になっている。不況の時に銀行が黒字の企業からも貸しはがしをしたので経営者が銀行不信になって内部留保をためたがるのも理解できるけれど、弱者からの搾取でため込んだ内部留保は本来は労働者が子供を産んで育てるための資金として使われるはずで、未来の社会を築くための金だった。企業が自ら人件費をコストとして削って少子化を促進したのだから、少子化で物が売れなくて企業の業績が悪化したり人手不足で技術継承ができなくなったりしても自業自得として受け入れるべきだろう。日本企業は外国だと優位に立って搾取ができないので、経団連は新たな搾取対象として移民を日本に入れたがっているけれど、好景気の時に短期で高給で稼いで母国に帰るならまだしも、外国人介護士がほとんど母国に帰ってしまったように不景気の時に低賃金の長時間労働で搾取されて不幸になるためにわざわざ日本に定住する人はいない。いま日本がインバウンドで儲かっているのは外国と違ってサービス業の店員がチップをもらえないのに低賃金に見合わないほどの高品質なサービスを提供しているからで、日本は観光客が一時的に滞在するにはよい国だけれど、労働者にとっては稼げないし無意味な資格を取らされるし理不尽な社内規則があるし残業代は払わないしで定住するには魅力のない国である。4月に創設した新在留資格の「特定技能」での在留外国人数が11月末時点で1019人だそうで、政府が初年度に想定していた最大4万人より大幅に少ない。経団連は金儲けのために外国人労働者の受け入れを推進するだけで、日本をどういう国家にしたいのかというビジョンがない。歴史や哲学の教養がないと社会をよくするために大局を見る目をなくして、企業のために社会を犠牲にするようになって、個人的な利益のために不祥事を起こすようになる。2006年に北米トヨタの大高英昭社長が秘書にセクハラで訴えられて膨大な和解金を払ったり、西室泰三が東芝と日本郵政で大きなM&Aをしたいという個人的な欲求で会社を私物化して無理なM&Aをして大失敗したけれど、下請けや従業員から搾り取った金が個人の欲望のしりぬぐいに使われるというのはものすごい社会的損失である。オリンパスの不正経理やAIJ投資顧問の詐欺やペジーのスパコン助成金詐欺やオーナー商法の安愚楽牧場やケフィア事業振興会や薬事法違反の健康食品や効果がないダイエット商品や横領や窃盗や強盗など、不道徳的な企業や個人が起こした様々な事件の損失や、パワハラで精神を病んだりブラック企業で体を壊したりした労働者の医療費の総額の数兆円ぶんが道徳の価値と言える。道徳があるからといって金を儲けることはできないけれど、道徳があれば不正による損失は防げた。経営者に道徳があれば不正を隠ぺいをしなかったかもしれないし、従業員に道徳があれば内部通報で被害を最小限にできたかもしれない。文系は役に立たないからいらないといって文学や哲学を切り捨てて、不道徳を咎めるブレーキをなくしたことが実業界の経営リスクといえる。ケフィア事業振興会のグループ企業で破産したかぶちゃん農園の鏑木武弥社長は自殺したけれど、父親を手伝って後ろめたい仕事をやらずに父親と縁を切って慎ましくまっとうに生きていれば死ぬこともなかっただろう。こんなモラルのない経営者が跋扈する中で、就職氷河期世代は新卒の時に搾取対象の社会的弱者として圧迫面接やパワハラや人権侵害の洗脳研修といった道徳のデフレとでもいうような惨状を目の当たりにしている。じゃあ就職氷河期世代で出世した人はモラルがない先輩社員を反面教師にしたかというと逆で、社会に順応して自己責任論を唱えて弱者からの搾取を正当化してパワハラをする側になってしまった。5ちゃんねるで就職氷河期の話題になるとテンプレのように俺は大企業で年収ン千万だし底辺は努力不足で自己責任という人が出てくるけれど、こういう人はミクロ視点で今だけ金だけ自分だけのことを考えて、マクロ視点で物事を考えることができない。こういう自分の事しか考えない人は人の上に立つべきでない人の代表例だけれど、他人の手柄をぶんどるくらい自己中心的なサイコパスや自己愛性人格障害の人のほうが企業の中では出世できる仕組みになっているがゆえに人の上に立つべきでない人物が部下を指導する立場になってしまって、いまだにひどいパワハラが起きているのだろう。道徳や教養を身に着け損ねたまま就職すると、会社に長時間拘束されてスキルアップして金を稼ぐことが人生の目的になって、もはや金儲けにつながらない道徳や教養を身につける機会も時間もないのではないかと思う。高度経済成長期には中卒や高卒の人たちが学業をあきらめて働いたけれど、私の父の友人で中卒で左官になったIさんは大学院に行った私をかわいがってくれて、酔うと「おれは高校に行きたかったなあ」としみじみと言っていた。たぶんIさんに今はネットで勉強できるよと勧めても意味はなくて、若いときに教養を得られないまま生きざるを得なかったことは後で埋め合わせることはできないのだろう。教養にあこがれた集団就職世代の高齢者がいる一方で、受験戦争を生き残った就職氷河期世代の大卒が非正規雇用になって低賃金で使いつぶされたり、数年の学費をかけて勉強した博士の行き場がなくて底辺に落ちたりして、就職には学位証書という紙きれだけが必要で教養は数百万円払ってまで手に入れる金銭的メリットがないと判明したのは皮肉な話である。結局は労働者は教養がないまま黙って搾取されているほうが経営者にも政治家にも都合がいいのである。日本は小説家が知的エリートでなくなって小説がだめになったけれど、それ以上に大説がだめになっていて、経営者や政治家は論語読みの論語知らずどころか論語を読んでいないレベルにまで教養が低下して、マクロ視点で国家の将来を考える力をなくしたようである。西郷隆盛は道徳を基礎にした政治をしたかったようで、「功ある者には禄を与えよ、徳ある者には地位を与えよ」という書経の言葉を引用していたそうだけれど、西郷隆盛が西南戦争で死なずに明治時代の指導者になっていたら日本は違った歴史をたどったのかもしれない。もし西郷隆盛が1000億円持っていたら、通帳に1000億円記帳して貧乏人に見せびらかすなんてことはせずに日本の将来のために使っただろう。渋沢栄一は『論語と算盤』を書いたように論語を思想の拠り所にしていて日本の経済の基礎を作って日本の近代化に多大な貢献したけれど、その道徳を重んじた思想は金に目がくらんだ教養のない経営者たちには受け継がれなかったようである。2024年の一万円札の人物に渋沢栄一が採用される予定だけれど、私は道徳をなくした現代の日本の紙幣に渋沢栄一の肖像は使ってほしくない。どこかのブラック企業の社長の肖像でも使うほうが日本の紙幣として似合っている。モリエールの喜劇『守銭奴』には金のために子供を利用しようとする父親が登場するけれど、巨額の内部留保を抱えたまま投資にも慈善事業にも回さずに少子化で衰退するのは守銭国家とでもいうべきで、日本社会は近くから見たら悲劇だけれど、遠くから見たら喜劇である。現代の日本に当事者として生きている我々には悲劇しか鑑賞できないのは残念である。
2019.12.20
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中世フランス文学の評論、狂気や不幸や不寛容についての考察、1931年にフランスの文学者エドワール・シャンピョンを訪ねたことや読書などのエッセイ集。●まとめ・ラブレーの『ガルガンチュワとパンタグリュエル物語』のテレームの僧院に台所があったのか否か、パンタグリュエリヨン草はただの麻でなくラブレーの決意の象徴だという考察。・ラブレーは人喰人を怪物とみなしていて修道僧を嘲弄する別名だったが、モンテーニュはポルトガル人の原住民虐殺と比較して死んだ人間を食べるよりも生きている人を拷問するほうが野蛮で、人喰人のヨーロッパ批判はもっともだと考えた。・エラスムスは『痴愚神礼賛』でカトリック教会を嘲笑して寛容の精神を説いたヒューマニストと言われるが、エラスムス自身は思想の勝利のために戦おうとせずに自己の静穏のために逃げて、迫害された新教徒の病気の弟子が救いを求めて尋ねて来ても門を開けず、フッテンに批判されるとルター派でないことを強調してルター派と対立した。・文芸や学問にかかわる人が常に政治問題を論じて作品や研究にも常に取り扱われねばならぬとは言わないが、いくら有限な芸術、高尚な学理に耽っても、現代に生きる自分の倫理を忘却してはならぬ。無知や無関心のゆえに一人の危険人物の登場を許したら、その人物の冒す一切の暴力を許すものである。トーマス・マンは人類の問題が生死にかかわるほどの重大さを以て提起されているのはその政治的形態のもとにおいてなのだと言ってスペイン戦争で政治などどうでも構わぬという人々を批判したように、詩人や学者も投票が要求されているので文芸や学理に耽る時間を割かねばならない。・デンマークの言語学者のクリストフ・ニーロップは『戦争と文明』で正義人道の名によって人間同士がお互いに殺戮しあう戦争の愚劣さに抗議している。カピタリスムは初めは人間の利便幸福のためにあったが、これが多くの人間を不幸にするところまで硬化してきた以上は制度を変えるか棄てるかせねばならない。人間のくせにこの制度の奴隷となり機械おなってこの制度の必然的結末ともいえる戦争まで起こすことは愚挙である。・寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になってはいけない。秩序を乱す人々に対しては当然社会的制裁を加えてしかるべきだが、その制裁はあくまで人間的でなければならぬし、秩序の必要を納得さえるような結果を持つ制裁でなければならない。寛容と不寛容が相対峙したとき、寛容は最悪の場合に最低限の暴力を用いることがあるかもしれぬのに対して、不寛容は初めから終わりまで暴力を用いる。J・B・ビュアリの『思想の自由の歴史』によると寛容なローマ社会は寛容を脅すキリスト教の不寛容を抹殺して自らの寛容を保とうとしたが、ローマよりもキリスト教のほうが不寛容だったので、宗教寛容令を出したせいでキリスト教の不寛容が君臨して思想が奴隷化して知識が進歩しない千年が始まったという。ローマはキリスト教徒に殉教者と名乗る口実を与えずに寛容たるべきだった。人間を対峙せしめる様々な信念があるが、寛容精神によって克服されないわけはない。不寛容に報いるに不寛容を以てすることは不寛容を肥大させるに過ぎないし、たとえ不寛容的暴力に圧倒されるかもしれない寛容も、個人の生命を乗り越えて、必ず人間と共に歩み続けるであろう。・タヴェ・ドラトゥール博物館にカトリーヌ・ド・メディチのミイラ化した脚がある。新教徒のアンリ四世(アンリ・ド・ナヴァール公)は旧教徒のアンリ三世王の妹マルグリット・ド・ヴァロアと政略結婚したが、マルグリッドはマルゴ公妃と呼ばれて戯歌になるほどの男狂いで王命で軟禁されていて、アンリ四世が旧教徒に改宗して王位について離婚する。「ラ・リーグ(神聖同盟)」の頭領だったギュイーズ公は新教徒軍の総帥ナヴァール公の強敵だったが、アンリ三世に謀殺される。そのころナヴァール公にとって邪魔ものだったアンリ三世の母親のカトリーヌ・ド・メディチ太后は1589年に肋膜炎で病死する。迷信家だったカトリーヌ太后はノストラダムスやリュッグジエリなどの占星術師を重用して占いで行動を決めていて、サン・ジェルマンに近づくなと言われてサン・ジェルマンという地名を避けていたが、ジュリヤン・ド・サン・ジェルマンという貴族に看取られて死に、遺体はぞんざいに扱われてサン・ドニ大聖堂に埋められる。フランス革命の際に1793年に弾丸製造に必要な金属類を徴発する目的でサン・ドニ大聖堂の王家の墓が暴かれて、革命政府の美術管理委員のアレクサンドル・ルノワールによる珍奇博物館(プチ・ゾーギュスタン博物館)には王族の遺体の一部が陳列されて、のちにサン・ドニ大聖堂に戻されたが遺体が散逸した。カトリーヌ太后の脚が本物ならばこのときに持ち出されたのかもしれない。●感想前半の評論は中世フランス文学に興味がない人が読んでも面白くないと思う。現代人が考える価値がある部分は中盤のエッセイで、寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきかという点と、芸術家や学者も政治に目を向けるべきだという点だろう。著者は無知や無関心のゆえに一人の危険人物の登場を許したらいかんと言っているけれど、その一方では不寛容の暴力に圧倒されても寛容であるべきと言っていて、この点は矛盾している。著者にとって危険人物の登場を許さないことと、不寛容であるべきではないことのどちらが優先するべきことなのかわからない。著者は消極的な反戦論者で寛容は結局は不寛容に勝つから我々の生命はそのために燃焼されてもやむをえぬという楽観的な意見を言っているけれど、これは戦争は経験してもテロリズムを経験していない人の甘い考えだと思う。国家転覆を狙うカルト宗教だの聖戦を掲げる原理主義だのに対して寛容な態度で放っておいたら勢力が拡大して武力を持つようになり、著者が想定するような「最低限の暴力」では社会的制裁を加える事さえできなくなって治安維持が不可能になる。ボコ・ハラムが跋扈して村人を殺戮するアフリカ諸国や麻薬カルテルが警察官を買収して政治家を殺すメキシコみたいなのが法治国家として機能しなくなった国の末路である。現代の科学思想と相いれなくて民主主義によって決められた政治や法律に従うつもりもなくて他人の権利を尊重しない集団は、勢力を拡大する前に文明や文化の破壊者として文明から締め出すしかなかろう。庇を貸して母屋を取られるという諺は伊達に残っているものではない。芸術家も政治に目を向けるべきだという点は私は賛成である。純文学は私小説が盛んで個人の内面を掘り下げてきたけれど、個人の集合体である社会の問題をどう解決するのか、社会はどうあるべきなのかという思想が弱くて、かつてプロレタリア文学や戦争小説で人間の倫理や社会の在り方に問題提起したような小説の存在感が現代ではすっかりなくなった。就職氷河期時代に『蟹工船』がブームになったけれど、現代を当事者として生きている作家が古典を超える作品を書けず、現代の読者の心をつかめないあたりに文学の劣化が如実に出ている。蒼天は円蓋の如く陸地は棋局に似たり、世人は黒白に分かれて往来して栄辱を争えり、というのは諸葛孔明の詩だけれど、現代の日本は左右に分かれているというべきだろう。今は右翼も左翼も儲かるビジネスになって、世間の関心をひくパフォーマンスとしてお互いを貶めていて、そこに乗っかる文化人の劣化がひどい。天下国家を論じるにしても理想を語らずに相手を嘲笑するだけの倫理がない人間が増えたところでまともな未来が作れるものではないけれど、悪名は無名に勝って低俗な人ほど目立ってしまう。まともな人でも政治に目を向けると変な右翼や左翼に絡まれやすくなるし、マツコ・デラックスがN国党に投票した人を批判したら党首につきまとわれたように、スラップ訴訟に巻き込まれると時間も金も無駄になるので政治に関わる事が敬遠されてしまって、後ろ盾があって声が大きい勢力が残る。環境少女グレタ・トゥンベリが中国の環境破壊は批判しないように金の鎖でつながれている人は飼い主を批判しないので、右翼も左翼も問題を抱えていながら自浄作用がなくて批判者を敵視して身内で褒めあって結束を固めて先鋭化していく一方である。これはよくない。どこにも属さずに金で縛られない孤独な人こそが個人の倫理と知性に基づいて政治を批判できるだろうし、マスメディアが信用できない今こそ小説が個人の理性に訴える役割を果たせるはずである。しかしSNSで誰でも簡単に交流できるがゆえにうわべを取り繕わないと仲間外れにされるし、小利口に立ち回って味方を増やすほうが豊かになれる時代では孤独であることが異常であるかのように扱われてしまって、伏龍と呼ばれた諸葛孔明や獄中で本を執筆したサルトルのように閑居して思想を深めて社会を変える力を持つユニークな個人というのはもはや出現しないのかもしれない。ヘミングウェイは小説家は孤独でなければならないというようなことをどこかで言っていたような気がするけれど、孤独に考えて文章を書くことは小説家の力になるので、これから小説家を目指す若者は孤独を恐れずに生きてほしいものである。★★★☆☆【中古】 渡辺一夫評論選 狂気について 他二十二篇 岩波文庫/清水徹(著者),大江健三郎(著者) 【中古】afb
2019.12.11
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認知心理学に基づく小説の書き方の動画をアップロードしました。普通の文学部の講義ではたぶん認知心理学を教えていないと思うので、文学部の学生にも役に立つかもしれません。巷では面白くてどんどんページをめくって続きを読みたくなるような小説を「ドライブ感がある」と呼んでいるようですが、これは読者の脳のワーキングメモリに情報が保持されて読者の他の記憶と結びついて脳が活性化して、読者が場面を想像しやすくて臨場感を感じられる状態と言えます。読者にとって面白い小説を書くには、作者が書きたいことを書きっぱなしにするのでなく、しおりを挟むのにちょうどいい休憩ポイントを作ったり、クライマックスを一気に展開したりして、作者は読者の認知をコントロールする御者のような役割をしないといけません。特にミステリは読者に物語がどう見えているのかという認知をコントロールしないと、意外なあの人が犯人だったという衝撃の展開にはできないので、普通の小説以上に構成力が必要になります。なろう小説のようなアマチュアの小説の問題点は作品が完成する前に連載形式で投稿するので書きっぱなしで推敲されていない点で、こういう連載形式の小説は出来上がったときに各章の進行のペースがばらばらで読みにくかったり、あるいは逆に緩急がなくてだらだら展開して脱線が多くて退屈だったりします。ひとつの場面の描写の技術だけならアマチュア作家でもうまい人がいますが、推敲して作品の完成度を高める技術がアマチュア作家とプロ作家の差としてでます。ある程度小説を書けるけれどもっと小説をうまく書いてプロ作家になりたい人は、連載形式で文章の量だけ多く書くのでなく、完成させた作品を推敲して文章の質を高めて、推敲の技術を磨くとよいと思います。
2019.12.08
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