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泌尿器科医で登山家の著者が登山家のトイレ、旅人のトイレ、女性のトイレにまつわるエピソードを書いたエッセイ。1995年にTOTO出版から出版されて、2000年に中公文庫から出版された本。●面白かったところのまとめ・マッターホルンのソルベイヒュッテのトイレは北壁の上部から突き出ていて、汚物を2000-3000メートル下に直接投下する。・モンテローザ・ヒュッテには岩場の窪地に対面式のトイレがあって、雪解け水で自然に汚物が流れる水洗トイレになっている。・うんこを大キジ、しっこを小キジ、おならをからキジ、女性がトイレに行くのをお花摘みという。・高山病はひどくなると尿が作られずトイレに行かなくなるので、高山病の程度を見分けるためにトイレの回数をチェックする。●感想登山中にトイレはどうするのかというあまり語られていない話題が主題で、着眼点は面白い。しかし外国の山の話が多くて、日本人読者にとって身近な日本の山の話題が少ないし、古いエピソードなので携帯トイレとかバイオトイレとかの最近の話題もないのはちょっと物足りない感じ。登山家の谷口けいがお花摘みに行って滑落して亡くなった事故があったけれど、山でトイレをもっと安全にやる道具を登山用品メーカーが開発したらいいんじゃないかと思う。さてトイレについて何か考えようと思ったものの、前回トイレとフィクションについて考えてしまってあまり考えることがないので、トイレと変態について考えることにする。異性のトイレに興奮する人は一般的に変態と呼ばれていて、隠しカメラを仕掛けたり、汲み取りトイレの底に侵入してうんこまみれになりながら排泄を眺める人さえいる。もし人々が排泄行為に羞恥心を感じなくて、中国の田舎のようにドアがないニーハオトイレを使っているいる社会なら排泄行為に興味をもつ変態は存在しないのではなかろうか。排泄を見られることに羞恥心を持って、個室のトイレを使うからこそ、その個室を覗こうとする変態が出てくる。つまりは羞恥心がトイレをエロスにする要点になる。私が友人と海岸に釣りに行ったときに友人が砂浜に野グソをして、私が流木を探しにうろうろしていたら、そっちにはうんこがあるから行くな、プライバシーの侵害だと言われたことがある。うんこを見るのがなぜプライバシーの侵害になるのかというと、うんこは食べたものや健康状態がわかる個人情報が含まれているからである。犯罪捜査だと空き巣が現場に残したうんこを分析するそうな。動物は糞尿を縄張りを示すマーキングに使うけれど、これは動物の嗅覚が優れていて糞尿が個体を識別する情報になりえるからこそ成立するわけで、人間の場合は嗅覚が退化して排泄物の臭いだけでは個人を特定できないので、排泄物と個人情報を結び付ける考え方は健康管理や犯罪捜査に限定されていて、医学的知識がないとうんこからは有益な個人情報は得られない。つまり一般的な人間は普段はうんこと個人を結び付ける考え方をしておらず、変態はうんこに欲情するというより、うんこをした人の羞恥に欲情すると言える。そもそも羞恥心とは何なのか。恥ずかしいという言葉の意味はgoo辞書には「自分の欠点・過失などを自覚して体裁悪く感じるさま。面目ない。」「人目につきたくない思いである。気詰まりである。てれくさい。」「相手がすぐれていて気おくれするさま。立派である。」と載っている。排泄が生きるうえで必須の行為で健康管理上でも重要であるにもかかわらず、なぜ排泄が恥ずかしいのかというと、排泄に性器の露出が伴うことと、うんこが不衛生で臭いことが原因だろう。肛門は性器でないので、肛門を見られること自体は本来は恥ずかしいことではないはずだし、排泄行為自体は生理的な欠点ではない。となると不衛生で他人が嫌がるうんこを排泄しているところを人目につきたくないという社会的な要因によって恥ずかしさが生じるのだろう。昔のアイドルはうんこをしないと言われていたそうだけれど、これは不潔なうんこを純粋なアイドルから切り離して神聖視しようという心理なのだろう。羞恥というのは一種のハラスメントで、相手を恥ずかしがらせること、あるいは相手の恥ずかしいところを覗くことに快楽を感じる人がいるようである。露出狂の羞恥プレイというポルノのカテゴリーがあるけれど、これがアマゾンのHuaorani族Yanomami族のように普段から全裸や半裸で生活して自然の中で野グソしている人たちなら裸であることに羞恥心がないのでポルノにならない。『ソウナンですか?』という漫画は女子高校生が遭難して筏の上で友人に見られながらうんこする場面が描かれていて、登場人物の女子高校生が恥ずかしがりながらうんこをするのでエロスとして成立するけれど、これが中年のおっさんが堂々とうんこする話だったら物語にならない。つまり羞恥心がポルノに結び付くと言えるけれど、ただポルノを見たいだけなら無修正ポルノがわんさかあるので、変態がなぜわざわざトイレを覗きたがるのかは羞恥心だけでは説明がつかない。私は野良猫がうんこをするのを観察したりするけれど、これは私が変態なのではなくて猫の習性を知りたいという知的好奇心によるものである。同様に変態も痴的好奇心で異性のトイレを観察していると思われる。明治時代の女性は立小便をしていたそうだけれど、近代化したら人々は排泄を見られるのを恥ずかしがってトイレの個室を使うようになって異性がどうやって排泄をしているのか不明になったので、わざわざ異性のトイレを覗くようになったのだろう。羞恥心で隠すことと、隠されたことを暴くことがセットになって、トイレを覗く変態という独特の性癖が生まれたのかもしれない。羞恥心と露出度は相関関係があって、どこまで隠せばよいのかという問題が出てくる。食事をしているところを見られたくないという人もいるようで、これは食事が排泄を連想させることが原因だろう。あるいは病気でないのに日常的にマスクをする人も増えたけれど、口と肛門は一つの穴としてつながっている入り口と出口で、肛門からうんこの臭いがするのと同様に口からも口臭がして不衛生なので、肛門を見せたくない人は口も見せたくないだろう。羞恥心を極めると最終的にイスラム教徒の女性のようにブルカを被って目以外を覆って、性的なシグナルを一切外部に露出しなくなる。全裸でも全覆いでも複数の人が望んでやるなら文化になるけれど、他人がそうするように強制したら人権侵害になる。これは人間が社会的生活をする動物であるがゆえに生じる問題で、文化的規則を優先しない個人は集団からはじきだされて生活できなくなるので、生まれ育った地域特有の羞恥レベルを継承することになる。変態はその文化的規則に違反するがゆえに変態なのである。★★★☆☆【中古】 マッターホルンの空中トイレ 中公文庫/今井通子(著者) 【中古】afb
2019.02.25
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文化人類学的に世界中の国や民族のトイレと文化についてのうんちくを書いた本。●面白かったところのまとめ・文化人類学は文化相対論で、文化水準が高いか低いかではなく、それぞれの民族の生活様式やものの考え方は環境に適応した歴史観で形成されたもので、文化の形が異なっているだけだと考える。その対極はエスノセントリズムで、自分たちの民族と文化を中心に他の民族と文化を評価して下位にランクづける考え方。・シボレテ(ためし言葉)は元来ヘブライ語で水の流れという意味だったが、イスラエルでは特定の集団の習慣や服装を指す言葉になり、古代イスラエルの一族であるエフライム人が敵対関係でシをうまく発音できないギレアデ人を見破るためし言葉として使ったので、合言葉として使われるようになった。・アイヌは大小便を嫌っていて、山の中に男女別のトイレを作って土を掘って用を足して埋めた。明治時代に日本政府がアイヌを農民化しようとしたとき、アイヌは和人が田んぼに下肥をまくのを不潔だと言って聞き入れなかった。・糞は汚くて邪鬼も嫌うとして魔よけになって、お丸が転じて麿や子供の○○丸の語源になったという説があり、刺激的な臭いのする楠や樟もクソに由来する可能性がある。1333年に千早城に立てこもった楠木正成が大佛家時率いる幕府軍に煮立った糞尿を浴びせて戦果をあげた。・文明国が衛生的で未開民族が不衛生というのは間違い。自然の浄化力が保たれていれば体に泥がつくことは衛生的に問題ないし、風呂に入る必要がない。狩猟採集民族はキャンプを移す移動生活をしていて、去った後のゴミは動物に食べられたり太陽の紫外線によって雑菌が死滅して自然に浄化する。しかし人が一か所に集結して都市生活を営むようになると自然では処理しきれない量のゴミがたまって雑菌や病原菌が増殖するので、文化的な進歩と言うより悪化した生活環境への対応として上下水道などの施設が整備された。ローマ、アテネ、大坂、江戸などの都市で浴場が整備されたのは偶然ではない。・人間以外の哺乳類は自然脱肛で肛門周辺を出したり引っ込めたりできるので肛門の周りに糞がつかないが、人間は二足歩行して尻の筋肉が発達したせいで糞を拭かなければならなくなった。粗食が多かった農民の糞はコロコロしてほとんど拭かないで済んでヘラや縄や藁などでかすを落とすだけでよかったが、素材を調理・加工する技術が発達して繊維質の少ない食品や製粉で作る製品が多くなると糞がべちょべちょしてお尻が汚くなるので紙を使うか水で洗浄しないといけなくなった。奈良時代にはチュウギが使われるようになり、平安末期から落とし紙を使う習慣が始まった。・アラブ圏には豚に人糞を食べさせる豚便所があり、アラブ人は人糞を食う豚は汚らわしいとして豚肉を食べようとしない。しかし中近東のキリスト教徒は豚肉を食べるので、アラブ人が豚肉を食べないことの説明にならない。沖縄、韓国、中国にも豚便所がある。・糞の化石の糞石から落とし主が食べたものや健康状態が分析できる。日本最古のトイレのうちの一つが福井県の鳥浜貝塚にあり、4000-6000年前に川床に杭を打ち込んだ桟橋のような施設があったと推測される。・平城京や藤原宮には細長い溝にまたがって水で流す水洗トイレがあったと推測される。庶民は空地や道端で糞をしていたようで錦小路は糞小路と呼ばれていた。京都は長年下肥をしたおかげで独特の京野菜が育ったものの、戦後にGHQが寄生虫防止に下肥を禁止して化学肥料が使われるようになってから京野菜の味が変わった。・中世ヨーロッパでは修道院や城にしかトイレはなく、庶民はおまるに用を足して道に捨てていた。12-13世紀のパリでは道路の中央の浅い溝に水が流れていてそこに汚物を流した。イギリスではフランス語が公用語だったのでフランス語に由来するgardy loo(水に気をつけろ)と叫んで窓から汚物を捨てていたが、1371年にロンドンでは汚物を窓から捨てると罰金が科せられる法律が制定された。都市に糞尿があふれていたので14世紀のロンドンでペストが発生して一日に7000人が死んだ。19世紀にコレラが流行したことをきっかけにして都市部の下水道が整備されて、1855年にはロンドンの下水道が開設されて汚水がテムズ川に流されるようになった。1775年にイギリス人のカミングズがU字型の排水管をつけた水洗便器を開発して、1884年にジェニングズが木の便座をつけたジェニングズ式水洗便器を開発して、ウォータークローゼット(WC)が定着する。・江戸時代には茶屋が公衆トイレの役割を果たして客の糞尿を農家に売った。長屋の家主(雇われ管理人)は便所の糞尿を農民に売った代金が給金より高く、店子に汲み取り農家が持ってきた野菜を分けた。・イヌイットは糞尿をフル活用して、尿を毛皮の処理やアイボリーの加工に使ったり、傷口に尿を塗って尿酸の殺菌作用で化膿を防いだり、尿は参加すると脂肪を溶解するアンモニア化合物ができるので石鹸代わりにしてアザラシやクジラの脂をおとすのに尿を使ったり、蒸し風呂で尿で体を洗ったりする。●感想研究書と言うよりうんちくを書いた軽い読み物で、著者が自分で現地調査した情報だけでなく他の資料の引用もあるので内容がどれだけ正確なのかは不明だけれど、日本やイヌイットのトイレについては割と詳しく書いてある。今は上下水道が整備されているから都市が不衛生だというのは実感しにくいけれど、関東大震災後の避難所にトイレがなくて糞尿があふれて赤痢や腸チフスが発生したり、東日本大震災で新浦安のマンションのトイレが使えなくなってウンコナガレネーゼと呼ばれたりしたように、都市は災害が起きてインフラが破壊された時に深刻なトイレ問題が起きる。人が集まるイベントでもしばしばトイレで問題が起きていて、FIが開催された富士スピードウェイは帰りのバスに乗るために数時間待たないといけないほど行列ができて、仮設トイレが不足してうんこがあふれたり、バス停にトイレがなくて野グソする人が出てきたり、バスの中で漏らす人がいて地獄とさえ言われた。日本のウォシュレットが外国人に評判だとはいえ、インフラとしてのトイレはあまり整備されていなくて公衆トイレの場所もわかりにくいので、政治家や企業はトイレについて真剣に考えたほうがよいと思う。さてフィクションとトイレについて考えることにする。フィクションでトイレが出てくるのはだいたいポルノ、ホラー、ミステリ、学園もので、一人のはずの空間に何者かが闖入してくるというパターンや、いじめが起きたり不良がたむろしたりするパターンでトイレが舞台に使われる。下ネタやギャグ漫画以外ではうんこが物語に出てくることはあまりない。トイレが主題のフィクションで一番有名な話がトイレの花子さんで、いまだに学校の七不思議のテンプレとして残っている。なぜトイレが怖いのかと言うと、トイレは狭くて窓が小さくて薄暗い空間なうえに、個室の中から外の様子が確認できなくて、排便中は無防備になるのですぐには逃げられないところに原因がある。ホラーだとたいていトイレにびっくりさせる仕掛けがある。『ザ・グリード』というパニックホラー映画だと客船がモンスターに襲われてトイレに逃げ込んだらトイレの穴からモンスターが出てきて食べられてしまうという演出があるし、『宇宙戦争』だと女の子が小便しようとして父親から離れて川岸に行ったら川上から大量の死体が流れてくるという演出がある。しかし演出を間違うとギャグになってしまう危険もあって、たとえばリングの貞子が井戸でなく便器からうんこまみれになって出てきたら、怖いというより汚いから近寄ってほしくない話になってしまう。それに狭くて無防備で一人になる場所なら風呂でもいいわけで、風呂のほうがお色気シーンとして使い勝手がいいぶんトイレの上位互換になる。歴史小説やファンタジーだと、トイレやうんこをどうしているのかという点が書かれていないのでリアリティがなくなる。中世風のファンタジーをリアルに考えると貴族や英雄が不潔な生活をしているという夢のない話になってしまうので、トイレについては書かれていないのだろう。ドラゴンクエストなんかは民家にトイレがないけれど、たぶん勇者が調べている壺がおまるとして使われている。ポケットモンスターのモンスターボールの中は快適な環境だそうだけれどトイレがあるという設定ではないので、たぶんポケモンたちは狭いボールの中でうんこまみれになっている。そう考えるとシュールである。『SCUM』という囚人がサバイバルするゲームだと物を食べるだけでなくうんこもするシステムだけれど、リアルだからと言って面白くなるわけでもないので、結局トイレやうんこはフィクションでリアルに描写するほどの価値がなくて、演出でちょろっと使われる程度で十分なのかもしれない。★★★☆☆
2019.02.15
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くら寿司のアルバイトが不衛生な動画を投稿したのが原因で解雇されて損害賠償請求されるらしいけれど、従業員が職場で迷惑行為を撮影してSNSに投稿する事件(通称バイトテロ)が後を絶たない。特にTwitterに迷惑行為を投稿する人が多くて、馬鹿発見器としてバカッターとさえ呼ばれている。これは単に会社と従業員だけの問題でなく、無関係な客が食中毒とかの被害に巻き込まれる可能性がある危険な行為なので、こういう事件が起きないようにしないといけない。●バイトテロが起きる原因・精神的な未熟さ精神が未熟な子供は自分と他人の人格の区別がつかなくて、自分の財産と他人の財産の区別もついていない。精神が未熟なまま幼稚な大人になった人は職場の備品を自分の私物のように扱ってふざけるわけである。ふざけたいなら他人に迷惑をかけずに自分の財産を使ってふざければよいという当たり前のことを理解してないのである。精神的に未熟だと善悪の倫理観を基準にして物事を判断するのでなく、感情を基準にして物事を判断するので、悪いことをして注意されても相手に対してうざい、むかつくと感情的に反発して反省しないので、何が悪いのか理解しないまま気まぐれにとんでもないことをしでかす大人になる。・社会性の欠如叱らない方針の親に甘やかされて育てられた子供というのは自己中心的で、自分の行為が他人にどのように見られて、どんな反応が来るのかというメタ認知能力が低いので、自分が満足できればよいというその場の思い付きで後先を考えずに行動をする。しかし自己顕示欲が肥大しているにもかかわらず自分が何か優れたことをやる能力はないので、手っ取り早く目立つために迷惑行為を誇らしげにやる。そのうえ自分を中心とした狭い交友関係だけにしか興味がなくて社会の一員としての自己像がなく、自分と関係のない他人への興味がなくてニュースも見ないので、他に迷惑行為をSNSに投稿して逮捕されたり損害賠償請求をされたりしている人が大勢いても、他人の失敗から学ぶということをしないのである。・責任感の欠如経営者はリスクを負って銀行から融資してもらって、店舗を作って同業他社に負けないようにメニューを研究して、食材の仕入れを安定させて、広告宣伝費をかけて宣伝して、膨大な時間と金と手間をかけて経営している。バイトテロをする人たちは他人が苦労して作ったビジネスから自分の給料が払われていることを理解していないので、平気で雇い主の信用を落とすことができる。それに学生バイトは生活を親に頼っていて失職して生活が成り立たなくなることへの危機感もないので、仕事や生活への責任感が欠如しているのである。たとえ短期雇用のアルバイトでも組織の一員として目的ややりがいを持って働いていたら、職場や客に迷惑をかける行為をしようという発想にならない。・衛生観念の欠如アホは目に見えない細菌に対して無知であるがゆえに衛生観念がない。衛生観念がないので、飲食店で不潔なことをやると業務妨害になるという意識がないまま迷惑行為をする。安い飲食店は客層が悪くて店員だけでなく客もアホなので、全裸で椅子に座ったり、ソースの容器を鼻に突っ込んだりする。・ネットリテラシーの欠如ネットリテラシーがない人はSNSは友達だけが投稿を閲覧できると誤解していて、一度流出した画像や動画はネット上から回収できないと理解していないので、平気で迷惑行為をSNSに投稿して炎上する。いったん迷惑行為がネットで拡散されて個人が特定されると、生涯にわたって不利益を受けることになることを理解していないのである。たとえ企業と和解して犯罪にはならなかったとしても、就職活動で人事が名前を検索すると迷惑行為の証拠が出てくるのでまともな会社への就職がほぼ無理になって、企業への損害賠償以上に生涯賃金を損することにさえなりうる。・同調圧力迷惑行為をする人と撮影する人がセットになることで迷惑行為が露見して炎上するけれど、なぜ撮影する側が止めないのかという問題がある。SNSのグループチャットで育った世代は倫理よりも内輪のノリを優先して、批判的な人はグループから締め出して快適な人間関係を維持しようとするので、制止する人間がいない集団ができあがる。アルバイトだと様々な年齢の人が上下関係がない状態で人間関係を維持する必要がでてきて、雰囲気を悪くしないようにする圧力が生まれる。そうなると悪いことをする人がいても、やめたほうがいいよと指摘するとノリが悪い奴として仲間はずれにされるので、指摘できなくなるのである。・ガバナンスの欠如そもそもバイトテロが起きるのは責任者が不在でバイトを監督できていないのが根本原因である。飲食店は管理者でも高卒や調理師学校とかの専門卒だったりしてマネジメントを理解していなかったりする。店長が不在で頑張ろうが頑張るまいが給料に反映されなかったり、店長がお気に入りのバイトちゃんを優遇したりすると、バイトの士気が下がってまじめに働くのがばからしくなってモラルハザードが起きる。●バイトテロを予防するための対策・アホを雇わないドン・キホーテが偏差値40以下の高校の生徒は採用しないという内部文書が流出して問題になったけれど、会計や食品や医療などに関する仕事にはアホは関わらないほうが社会にとって利益になるので、私は学歴フィルターがあることは差別だとは思わない。発達障害でないのに勉強しないのは本人の責任なので、怠け者のアホとしてフィルタリングされたくなければ真面目に勉強して社会的信用を得ればよいだけである。偏差値が低い学校の何が問題かと言うと、同級生や先輩もアホでまともな仕事についていなくて不良化している場合があって、反社会的勢力とつながりがある人を雇ってしまうと窃盗の手引きをしたり企業秘密を漏洩したりする可能性があるし、元従業員が金庫の場所や入金のタイミングを把握していて犯罪をすることもある。親や学校がさじを投げたような常識のないアホを企業が一から教育するのはコストがかかりすぎるので、だったら最初からアホを雇わないほうが企業にとっても客にとっても利益になる。・コミュ力重視の採用をやめる飲食店は明るくて元気な人を採用したがるけれど、陽キャラやウェーイ系やパーリーピーポーと呼ばれる人たちは群れを作りたがって、目立ちたがりで集団になると騒ぐ性質を持っていて、仕事が暇な時間帯の孤独と退屈に耐えられなくてちょっと暇があると退屈しのぎにくだらないことをやりだす。そのうえ若いと性欲が強くて強引なので、早稲田大学のスーパーフリーのように偏差値が高くても人格的に問題があって集団で違法行為をする場合がある。ペッパーランチ事件のように刑事事件になるとバイトテロ以上に企業イメージが悪化して、一度アンチが発生したら店名を変えようが経営者が変わろうがその人たちは二度と客にならない。コミュ力よりも人格を重視して、真面目で法律を守る人を雇うほうがよい。・アルバイトの賃金を上げる低賃金の仕事には相応の人間しか応募しないし、仕事に対するモチベーションも低い。どれだけ広告宣伝費をかけて芸能人にCMをさせて好感度を上げようが末端のバイトが不祥事を起こせば台無しになるし、バイトがへまをして食中毒や火事などで死者がでると賠償は億単位になる。バイトの賃金を減らして多少経費削減したところで問題が起きた時の代償が大きすぎるので、昇給や社員登用の制度を作って待遇を良くしてまともな人を雇って客層を良くして客単価を上げるほうがリスクが少なくなる。・やってはいけないことの教育をする飲食店や小売店は人手不足なので、アホでも仕方なく雇わざるをえないという場合もあるかもしれない。たいていの会社は何をどうやるかという仕事の手順については教育をするけれど、何をやってはいけないかは常識なのでわざわざ教えていない。しかしこれでは常識のないアホは理解できないので、業務用の大きな冷凍庫に入って記念撮影してはいけないとか、業務用の大きな流し台を風呂代わりにしてはいけないとか、アレルギーがある人にアレルギー食材を食べさせたらどうなるのか試してはいけないとか、ヴィーガンの料理にこっそり肉を混ぜて食べさせてはいけないとか、客の個人情報を悪用してストーカーしてはいけないとか、アホでも理解できるようにやってはいけないことを例示して、規則に違反したら解雇では済まなくて損害賠償請求があるのだとちゃんと教えないといけない。犬のしつけでもやってほしいことをしたら褒めるというだけでなくて、やってはいけないことを叱ってちゃんと教えている。・職場にスマホを持ち込ませないバイトテロをする人は何かやって注目を集めたいという自己顕示欲から迷惑行為を撮影してSNSに投稿するけれど、物理的に撮影や投稿ができない環境に置けばふざけても注目されなくなるので迷惑行為をするインセンティブがなくなる。仕事中はスマホの電源を切ってロッカーに入れるなりすればいいだけなので、企業側は費用をかけずに対策できる。・監視カメラをつける店舗の監視カメラは空き巣や強盗への対策というだけでなく、従業員のおつりの横領とか在庫の窃盗とかの内部の犯罪を防止するために使われている。スーパーや本屋とかだと客が不審な動きをすると検知するタイプの監視カメラもあって、今後はそういう技術がバイトテロ対策や事故防止とかにも使われると思う。飲食店や小売店では人手不足で非正規だけで現場を回すのが常態化していて、これがモラルハザードの温床になっていて、バイトテロはたいてい裏方の人目がないところで作業している人が起こす。24時間営業の店舗では社員や店長がバイトにつきっきりで監督するのは現実的に不可能な部分があるけれど、カメラで見られていれば変なことはやらなくなる。YouTubeで店をライブ配信している弁当屋があるように、高い監視カメラを導入しなくてもよい。ちなみにパスワードがかかっていない監視カメラの映像が見られるサイトがあって、2014年に大手コンビニの映像とかが垂れ流しになっていて問題になった。大手企業はちゃんと対策したようだけれど、中小企業とかは未だに対策ができていないようで監視カメラの映像が丸見えの事務所とか工場とかがあるので、ちゃんと設定をしたほうがよい。・学校や企業でのネットリテラシーの教育をする若いアルバイトだけでなく中高年もネットリテラシーがない人がいて、スマホやパソコンの操作はできるけれどネットの仕組みはよく知らない場合に動画や個人情報の流出とかの問題が起きる。バイトテロだけでなく、有名人が客としてきたときにはしゃいで個人情報をツイートする人とか、ハメ撮りが流出した人とか、匿名掲示板に「相変わらず1円にもならん雑音がおおいな」と書き込んだのがばれた経営者もいる。経営陣が高齢でネットリテラシーの重要性を理解していない場合は現場の教育がされずにほったらかしになるけれど、問題が起きて企業イメージが悪化してから教育しても遅いので、上場企業とか規模が大きい会社は問題が起きないようにネットリテラシーについて教育するべきである。
2019.02.09
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数学を使わずにわかりやすく書かれたミクロ経済学の入門書。●面白かったところのまとめ・ミクロ経済学は何をどれだけ生産して、できた生産物を誰にどれだけ分配するかを探求する。生産資源を何の生産にどれだけ配分するかという配分の問題、生産技術の選択の問題、生産物の消費者間の分配の問題がどう解決されるかは経済の仕組みに依存していて、資本主義諸国では市場メカニズムによる私的な利益追求で解決している。・市場の失敗:所有権がない財やサービス、所有権があっても退化を支払わずに購入できる財やサービスの場合は市場メカニズムはうまく機能しなくなり、狭い意味の「市場の失敗」と呼ばれる。・家計の行動は生産要素保有量以上は市場に供給できず、生産要素と消費財の価格が変われば需給が影響を受けて、家計の嗜好に依存する。ミクロ経済学では各家計は与えられた生産要素保有量と市場で決まる価格のもとで、実現可能なすべての生産要素供給量、消費財需要量の組み合わせを考え、この中でもっとも家計の嗜好にあった選択をすると考える。・嗜好は「選好関係」、「無差別曲線図」、「効用関数」、「限界代替率」で表すことができる。家計は予算制約線上の組み合わせから嗜好に最も合致した組み合わせを選ぶ。家計の最適消費計画は予算制約線の形状に依存するので、所得や財の価格が変化すれば需要が変化する。異なる水準の所得に対応する最適消費の軌跡は「所得消費曲線」と呼ばれる。所得消費曲線からある財の消費と所得の関係を導き出して図にしたのを「エンゲル曲線」と呼ぶ。財が食料のような必需品なら必要消費量が決まっているので所得が増えても消費はそれほど増加せずに消費の所得弾力性が小さくて、奢侈品は所得が増えれば消費が増えるので消費の所得弾力性が大きい。・所得が増えることで需要が増えるものを「正常財」と呼び、ファストフードなど所得が増えることで需要が減る財を「下級財」と呼ぶ。価格が変化して需要がシフトする現象を「消費の代替」と呼び、その財を「代替財」と呼ぶ。・生産主体である企業は組織であるがゆえの自己増殖的性格と、組織間競争に伴う組織防衛の問題を解決していく。技術(生産関数)を満たす生産要素(労働や機械など)の投入量と産出量の組み合わせから企業利潤を最大化するものを見つけることが行動基準となる。生産量が決まっている場合は総費用を最小にする生産要素量の組み合わせを見つけて、最低限必要な総費用額を導き出せて、この関係を「費用関数」と呼ぶ。しかし企業は必ずしも常にすべての生産要素の投入量を調整できるとは限らないので、短期では量が決まっている工場や機械などの「固定投入物」と、投入量を調整できる原材料などの「可変投入物」を区別する。費用も固定投入物を買う費用は固定費用、可変投入物を買う費用は可変費用として区別する。長期の場合はすべての生産要素は可変的で、機械や工場も償却が終わるので固定費用はない。・減価償却費用、利子費用、維持費用は現存する機械の台数に比例する。多くの機械設備は買い手がなくて中古市場で売却できないので、操業を中止しても機械を売却して債務を返済することができず、債務が残る限り減価償却費と利子費用を支払い続けないといけない。このような費用を「サンクされた」固定費用と呼ぶ。・労働者を一人多く雇用することによって追加的に得られる生産量を「労働の限界生産性」または「限界生産物」と呼ぶ。限界生産性は労働量が増えるほど減少すると考えられていて、これを「限界生産性逓減の法則」と呼ぶ。労働投入を一人増やすことで企業の利潤は[限界生産物価値]-[賃金]の分だけ増加するので、限界生産物価値と賃金が一致する水準まで雇用される。・二つ以上の可変投入物があるとき、企業は利潤最大化の前提条件である費用最小化のために投入物の組み合わせを検討して、この組み合わせの軌跡は「等量曲線」と呼ばれて、等量曲線の接線の勾配に-1を乗じた値は「技術的限界代替率」と呼ばれる。・市場メカニズムが実現する一般均衡が効率的配分であるための一つの条件は完全競争の仮定(各市場での各企業のマーケットシェアがほぼゼロで一企業が供給を変化させても市場全体の総供給がほとんど変化せず価格に影響がない)が成立することだが、現実には完全競争に近い市場は少なくて大部分の産業で上位数社が大きなマーケットシェアを持っていて、各企業が程度の差こそあれ市場価格を動かすことができることを「独占力」を持つという。・寡占の場合の二つの企業の戦略が高価格をつけるか低価格をつけるかだとすると、相手側の戦略が自己の選択にかかわらず現状のままだと予想した時、現在の戦略選択が最適となっている状態をナッシュ均衡と呼ぶ。ゲーム理論の囚人のジレンマのように寡占企業が競争的に行動するか結託して行動するかによって結果が異なる。寡占企業が結託してカルテルを結ぶ場合は経堂利潤を最大化しようとして独占的な高価格になる。寡占は需要が減退した時や原料価格の下落などで費用が低下したときにも価格が低下しない「価格硬直性」を作り出して、下がるべき価格が下がらない下方硬直性が存在すれば価格の調整が行われなくて資源配分が非効率になり、インフレーションの要因にもなる。・すべての財・サービスは排除費用と混雑費用の程度によって、私的財、純粋公共財、準公共財に区分できる。資源配分の効率性は限界代替率、限界変形率などの条件で決まるので、費用の負担の違いは効率性には影響しないが、費用の負担の違いは所得分配に大きな影響を与える。公共財の費用負担は所得の多い者に負担させる「応能原則」か、利益を受ける者に負担させる「応益原則」を適用するかが問題になる。応益原則に基づいて各消費者がそれぞれの限界代替率に比例して費用を負担して、公共財の供給量が最適になっている場合を「リンダール均衡」と呼ぶ。限界代替率の虚偽の申告で利益を得ることを「フリーライダー」問題と呼び、正しい申告をさせるインセンティブを持つメカニズムを「インセンティブ・コンパティブル」と呼ぶ。・不確実性や情報の非対称性の下では市場は必ずしも望ましい資源配分を実現しない。労働者がどの程度真面目に働いているかを企業側がわからないとモラルハザードが起きる。固定給では労働努力(労働のインセンティブ)を引き出せないが、ボーナスや歩合給制度では企業側は労働者が選ぶ努力水準を直接コントロールできなくても生産額に応じた給与システムを使うことで労働者に適切な労働努力を選択させることができて、労働のインセンティブを引き出す。●感想ミクロ経済学というのは小学校の算数で予算500円でリンゴとみかんを何個買うかみたいな問題に似ていて、思っていたよりとっつきやすい。しかし日常で使わない専門用語がどしどし出てきてひとつでも読み飛ばすと続きを理解できなくなるので、理解に合わせてちょっとずつ読んでいかないといけなくてわかりにくくて面倒くさい。あと奢侈(しゃし)とか逓減(ていげん)とかにふりがながふられていないので読めない。経済学者は見慣れている単語なのだろうけれど、私のような漢字を読めないアホに対して配慮が足りないのは入門書として不親切である。ミクロ経済学的な考え方はたいていの社会人にとって役に立つだろうけれど、入門書レベルでも読むのがつらい。さて苦労して読んだので、ミクロ経済学的にコンテンツビジネスを考えてみることにする。読者は本1冊から得られる満足感(便益)があって、読者は面白いかどうかわからない別の作者の本を買うより、既存の人気作品が完結するまで続巻を買う限界費用をかけるほうが面白さの限界便益を得られる。作者は取材して新しい作品を作って宣伝して市場参入する費用より、既存の作品を長引かせて世界観やキャラクターを使いまわすほうが少ない限界費用で物語が作れて、作品が完結するまで限界収入を得られる。こう考えると読者も作者もウィンウィンで人気作の続編がやたらと作られるのには納得がいくけれど、物語が長大化したらそのぶん面白くなるわけではないというのがコンテンツビジネスの問題で、利益目的で引き延ばされた長編でシリーズを全部見る価値のある傑作というのはほとんどなくて、話が長くなるほど登場人物が増えすぎてプロットを回収できなくなったり蛇足が増えたり作者のやる気がなくなったり休載が増えたり作風が変わったりして完成度が落ちてつまらなくなる。例えばアメドラは人気になってシーズンが増えるほど俳優の拘束期間が長くなってギャラが高騰して、製作側は可変費用を下げるために俳優をくびにして、次のシーズンに登場人物が突然死んだり新登場人物のエピソードをこじつけたりして話に辻褄があわなくなって視聴者が離れていって、限界収入<限界費用で負の利潤になって打ち切りみたいな終わり方をして台無しになる。あるいは漫画は1冊の値段は小説よりも安いけれど、20巻を超えるような長期連載になると読者はコミックスを買い続けているうちに作品ひとつに1万円以上かけていて予算制約線を越えているのにそれほど便益を得られていないことや、いつ完結するのか不明なまま限界費用を払い続けないといけないことに気づいて、完結前に脱落してそれまで集めていたコミックスを古本屋にまとめ売りする。作品が面白いうちは限界費用<限界便益なので視聴者は続きを買うけれど、作品がつまらなくなると限界費用>限界便益になって、完結するまで続きを買い続けるよりも別のコンテンツを買うほうがより便益を得られるわけである。製作者側にとっては続編の値段は変わらなくても、続編を増やしたぶんだけ面白さが落ちて収入が減って、続編1作あたりの限界収入も減っていくわけである。面白さを縦軸、巻数を横軸にしたときに面白さと作品の長さの相関の曲線はたぶん山型になって、冒頭部分から風呂敷を広げ始めて徐々に盛り上がっていって主要登場人物が出そろって因果関係を掘り下げて問題を解決したところで面白さがピークになって、そこから後日譚やらサイドストーリーやらどうでもいい新キャラ加入やらで引き延ばされるほど面白さが下降していくような感じになると思う。読者の予算内に面白さのピークを持ってきて終わると、作者と読者がウィンウィンになる。作品の長さの点では、1作品で完結する映画や小説のほうが引き延ばしがないぶん漫画やドラマよりも娯楽としては完成度が高くて満足度も高くなる。しかし食べ物のように同じものを繰り返し消費する財と違って、コンテンツはたいてい一回限りの消費で、費用に見合う便益があるかどうかは視聴してみないとわからないというところに問題がある。本の場合は再販制度があって定価が一定で、面白い作品もつまらない作品もページ数に応じて似た値段なので面白さに見合う適正価格もない。となると、読者は巷で話題の小説を選ぶよりも、嗜好に合わせて好きなジャンルの中でお気に入りの作家をみつけるのが最大の便益を得られる組み合わせになる。しかし作品を作るのには時間がかかるので作者の労働サービス供給よりも読者の余暇のほうが多くなり、作家はファンの余暇を満たせるほどポンポン新作を出せるわけではなくて需要に対して供給が追い付かなくなるので、作風やテーマが似た別の作家の作品が代替財となって需要がシフトする。雑誌は読者のお気に入りの作家の連載が終わったときに代替財の候補を見つけやすくするところに存在意義がある。それゆえに編集長が読者の需要を理解して作品を取捨選択して供給することが重要になる。「小説家になろう」というサイトはユニークユーザー数が約400万人いて人気なのは、いわゆるなろう系の読みやすい作風や異世界転生のテーマに偏っていて、編集長がいなくてもタグから嗜好にあう作品やその代替財を見つけやすいのが一因だろう。その一方でマンガ図書館Zはプロの漫画が無料で読み放題なのにユーザー数は月間100万人で素人のなろう小説ほど人気がないのは、大雑把なジャンル分けしかなくて作風やテーマや品質でのフィルタリングがうまくできていなくて、読者が嗜好に合う作品や代替財を見つけづらいのが一因だろう。例え無料でも嗜好に合わなければ時間の無駄になるので、費用>便益となって読者は読まないほうがましという選択をする。芸術はエンタメとは話が違ってきて、芸術は唯一無二のコンテンツであるほど価値が高くなるので、同じ満足度を得られる代替財がなくて需給が不安定になる。あまり芸術的でない作品を何作も鑑賞しても限界代替率が小さくて、すばらしい芸術1作と同じ満足度はなかなか得られない。例えばスタジオジブリは人気作品の続編を安易に作らずに作品の価値を長期的に保つというやり方をしているけれど、ジブリファンは宮崎吾朗や米林宏昌や細田守では満足していなくて代替財がないので、宮崎駿作品特有の満足度を得る需要があるのでラピュタやナウシカが何度もテレビで再放送されることになる。コンテンツビジネスは製作に高度な技術が必要であるがゆえに個々のクリエイターの技術水準がばらばらで、クリエイターの数を増やせばそのぶん限界生産性が高くなるわけではなく、計画的に増産して供給量を増やすことができないのが長期でビジネスをする際の欠点になっている。特に漫画は新人がなかなか育たなくて後継者不足のせいで、雑誌の看板になっている長期連載の人気作品がいっそう引き延ばされるという悪循環になっている。というわけで、技術承継ができず才能を育成できないのがコンテンツビジネスの問題の根源なのだろうと思う。少子化が加速する中でどう才能を見つけて育てるのかが今後のコンテンツビジネスの課題になるだろう。YouTuberは企業案件やスーパーチャットで楽に稼げるけれど、小説の新人賞は50-100万程度の賞金額でいろいろな権利が出版社にとられるのでは創作のインセンティブにならないんじゃなかろうか。★★★☆☆ミクロ経済学入門 (日経文庫) [ 奥野正寛 ]
2019.02.04
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