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ぼくがテレビを見ないことにする話。
●あらすじ古文書学者のぼくは妻子がバカンスに行っている間、ベルリンで奨学金をもらいながらティツィアーノとカルル五世の研究をしていて、アパートの上の階のドレッシャー夫妻から旅行中の植物の水遣りを頼まれるものの水遣りを忘れ、テレビを見ないと決心して、論文を書き始めて、妻に電話してテレビ見ない自慢をしたら妻も見てないといわれ、友人のジョンにテレビ見てない自慢をしたらジョンはテレビを持ってなくて、暑さで植物を枯らしてしまってシダを冷蔵庫に突っ込んでテレビを見ると論文を書く気をなくしてしまう。ドレッシャー夫妻がバカンスから帰ってきたので冷蔵庫のシダを発見されないようになんとかごまかす。数週間してジョンの彼女のウルズラが飛行機に乗せてくれるというので家に行くもののウルズラが寝ていたのでテレビを見て待ち、ウルズラが起きたので空港に行って飛行機に乗る。次の週に美術館に行き、帰りにプールに寄って奨学金をくれた財団の理事長のメヘリウスと偶然会うとテレビ番組を見たかと話を振られたので見てないという。9月に妻と子供がベルリンに戻ってきて、息子を幼稚園に送った後でショーウィンドーを見て小型ポータブルテレビを衝動買いしてしまうもののテレビの音で仕事に集中できなくなり、テレビを見ていた妻が上の階のドレッシャーが討論番組に出ているのを見つける。
●感想
一昔前の一人称小説という感じで、なぜこの語り手はテレビや私生活について語るのかという語りの動機がなく、ナラトロジー上の整合性がついていない。さらには括弧で自分にツッコミを入れる小説的饒舌が鼻について、自分では面白いとうぬぼれているひねくれた人物の語りに延々とつき合わされるのはイライラする。
内容としては文章量が多い割には中身がないようなどうでもいい日常生活を改行せずにつらつら書いて、隣人の植物を枯らしたり飛行機に乗ったりしたというだけでプロットが面白いわけでもなく、普通の小説ならば削られるような内容を200ページ程に引き伸ばしていて、小説というよりは長いデッサン。エッセイをデッサンのように書くのならまだわかるけれど、小説でこの内容をこのやり方で書くメリットはなく、プロットにもテーマにも関連しない無駄な場面が増えて冗長になるデメリットのほうが目に付く。ミュッセの『ティツィアーノの息子』が云々と研究内容を延々と語るくだりではミュッセが誰なのかということを読者に説明しないまま語るので退屈で読み飛ばしたくなるし、結局ミュッセはプロットに関係するわけでもない。それに現代人にとってはテレビという装置がもはや古いのでテーマ自体も面白くない。ユーモアが唯一の売りなんだろうけど、ユーモアを徹底し切れておらず、自分語りに夢中で他人の観察をしておらず、他人の反応をまたずに自分につっこんで自己満足でエピソードを終わらせてしまうので、シチュエーションコメディにもなっていない独りよがりになっている。
訳者の野崎歓は「これはまさに新しいタイプの私小説、というよりいっそトゥーサン氏の生活と意見といった類の書物」で、「トゥーサンという作家の美質がもっとものびのびと表現された作品であり、いつ読み返しても思わず微笑みが洩れてしまうような、稀有な喜びに包まれた小説」と絶賛しているけれど、私にはまったく笑えなかったし、筒井康隆のテレビネタのスラップスティックSF小説のほうがこの小説よりもよっぽど面白い。保坂和志グループの作家が好きな人ならなんでもないようなことを書いた小説が幸せだったと思うのかもしれないけれど、私の日常には十分面白い出来事があるので、わざわざ金を払ってこの小説を読むほどの価値がない。帯と裏表紙にも傑作長編という悪質な誇大広告が書いてあったのでそのぶん評価を減らした。
ちなみに1997年にベルギーでもっとも名誉ある文学賞であるルーセル賞を受賞したらしいけど、この程度の小説に名誉ある文学賞をあげないといけないほどの人材不足ならもうベルギー人は小説書かないでチョコだけ作ってればいいよ。この小説に108円もの大金を払うくらいならチョコを食べたほうがましだった。
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