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1982-84年に雑誌『潮』に連載された高橋康雄との対談の原稿をまとめた本。
●各章の内容
・触れられた死──序にかえて
ブランショのカフカ論にあるカフカの死のとらえ方、ハイデッガーの存在の未済性としての死のとらえ方とそれに対するサルトルの批判の解説。
・『死』体験の意味古代の死体験と精神病などについての対談。
・戦中派の生き方敵兵を弔った島尾敏夫や戦争を肯定した高村光太郎についての対談。
・東洋と西洋の生死感自分の生死より大きなものを乗り越える日本人と、個の人間より大きなものは存在しないという西洋の生死の考え方についての対談。
・『銀河鉄道の夜』にみる死後の世界宮沢賢治の仏教的な永世の観念と童話的なユートピアの観念についての対談。
・再生もしくは救済物語について──大江健三郎著『新しい人よ眼ざめよ』を読む大江健三郎の連作小説の私小説とフィクションの裂け目の良し悪しの対談。
・<死>が恐怖でなくなるとき──『イワン・イリイチの死』と『マルテの手記』を読む死病になったイワン・イリイチが死を受け入れる話の対談。
・心霊現象とホログラフィ──『霊界日記』から『空像としての世界』までスエデンボルグ、エンゲルス、タルコフスキー、アリストテレスなどの心霊論の対談。
・資料(1)「生きること」と「死ぬこと」仏教、社会学、民俗学、哲学で生きることと死ぬことがどう考えられたかという話。
・資料(2)証言・私が見た死の瞬間臨死体験の証言集。
・資料(3)参考文献数百冊の参考文献が列挙されている。
●感想
対談部分は各章が20ページほどしかなく、生死のテーマの割には文章量が少なくて掘り下げが不十分な感じ。対談でない序にかえてと資料1が個人的には面白かった。文学や哲学が好きな人は何かしら面白いところがあるかもしれない。各章の対談については特に感想がないので、現代のエンタメ業界で死
をどう扱っているのかを考えることにする。
物語には死がつきものだけれど、はたしてその死がひとりの人間の死として真摯に扱われているかというと必ずしもそうではない。昔の純文学では妹の死だとか、戦友の死だとか、作者が死を体験して一度しか書き得ない真摯な物語にしている。評判がよかったから次回作も妹が死ぬやつでよろしくなんて編集者に言われても書けるものではない。戦中派の世代くらいまでは死は真摯に考えるべきテーマとして扱われてたけれど、商業主義の中で職業作家が作品を量産するようになると、もはや個人的な死のテーマは古臭いものとして見向きされなくなり、病苦やら事故やらの現実の地味な死よりも、誇張された過激な死が読者の感情を動かす安直な娯楽として量産されるようになってしまう。
『GANZT』や『進撃の巨人』や『彼岸島』やホラー映画やゾンビ映画は侵略者や殺人鬼や得体のしれないものに襲われる理不尽な死の恐怖をあおり、『リアルアカウント』や『神様の言うとおり』や『BTOOOM!』や『ダーウィンズゲーム』は箱庭の中で殺し合いをして、『東京喰種』や『亜人』はマイノリティの復讐としての死をあおる。『サンクチュアリ』や『静かなるドン』とかのやくざ漫画は任侠道を強調するために対立するやくざを殺したり殺されたりする。恋愛小説や少女漫画では恋人が事故や難病で死んで同情を誘う。『キングダム』や『ヒストリエ』や『ヴィンランド・サガ』は過去の戦争での戦いと死を強調する。時代劇は勧善懲悪で悪人を殺すカタルシスがあり、ミステリーは勧善懲悪で殺人犯を捕まえるカタルシスがある。『Trash』や『DEAD Tube』はエログロの派手な死を客寄せにする。海外のシリーズ物のドラマでは役者が契約更新しないときによくわからない理由で殺されるし、バトルものの漫画だとテコ入れで新キャラと登場させるために人気がない登場人物を殺したりする。
あらゆるジャンルのあらゆる物語でわんさか人が死んでいるけれど、その死が読者自身の死の考察につながるかというと、あまり繋がっていない。読者がいる現実世界とは違う可能世界における死として処理されてしまって、読者は単に別世界で展開される途方もない物語を眺めるだけになってしまい、自分ならどうするだろうかと感情移入して考える機会が乏しくなっている。登場人物の死はプロットを作動させる装置であったり、読者の感情をゆさぶる装置だったりして、作家が真摯に考えるべき重大なテーマというよりは物語の構成上のギミックになってしまった。現代の商業主義のなかで量産されるフィクションにはリアリティがなく、存在感がない人間が死んだところでその死には重みがなく、ドラゴンボールでさくさく生き返らせられる程度の存在でしかない。小説や漫画や映画の過激な死に親しんだ日本人が、自殺の生中継動画やISISの処刑動画を見てショックを受けているのは、結局はフィクションの死は現実の死ほどの重要性を持っていなかったということだろう。
『クレヨンしんちゃん』や『ちびまる子ちゃん』のように登場人物が何十年も年をとらない世界をループして生きていて老いや病気や死がまったくない世界よりは、リアリティがなくても死がある世界のほうがまだましだとは私は思うけれど、結局死の考察につながらないという点ではどっちも読者が人生の意味を考えるのには役に立たない。リアリティがなかろうがエンタメとして面白くて儲かればいいじゃんというのもひとつの考えだけれど、皆が金儲けのために面白さだけ追求していたら誰が死の考察を担うのか。死は誰にでも訪れるものなのに、死の考察は医者や哲学者や宗教家任せでよいのか。それに現実離れしたフィクションの世界が拡張されたところで、現実逃避がはかどるだけで実生活の充実に繋がらないのではないか。ホラー映画の幽霊に呪い殺されることは怖がるのに、自分が天災やテロで明日死ぬかもしれないことは怖がらないのか。フィクションの死を怖がったり楽しんだりして、自分の死に無頓着というのでは本末転倒ではないか。
漫画家はデビューが早くて高学歴な人が乏しいので、死ぬのが怖い、死んだから悲しいという感情的な次元で死を描いて、哲学的な次元で死の考察を深めることができないのはしょうがないかもしれないし、編集者の指示でエンタメとして読者にとってわかりやすい話にしないといけないのかもしれない。一方で、もともとシリアスなテーマを担ってきたはずの純文学作家は何をやっているのかというと、高校生やらニートやら主婦やらをもてはやして、高学歴な知識人でないどころか社会人よりも人生経験が乏しくて政治経済の一般常識さえないような作家の身辺雑記やらエンタメ寄りの空想やらに退化してしまい、哲学的な次元で生死のテーマを掘り下げられるような本格派の純文学作家が出てこなくなった。それゆえにシリアスで暗いテーマをまじめに書いた古典小説が未だに重宝されるのだけれど、何のために生きるのか、避けられない死にどう対処するのか、自ら死を選ぶべきかというテーマは、高齢化の介護苦や自殺や過労死やひきこもりやいじめといった現代日本社会の根底にある問題なので、現代は現代で生と死のテーマに向き合わないといけないはずで、古典小説では代替にならない部分がある。医者兼作家の南木佳士は医者として死をどうとらえたのかを小説にしたし、介護のテーマならモブ・ノリオや鹿島田真希や村田喜代子が書いたけれど、やはり地味なせいかあまり人気がない。というわけで漫画でも小説でも現代人の死生観の考察につながって読者の人生を豊かにするような作品が少なくなってしまった。
もともと日本人は死に関する話は不謹慎だとして避ける傾向があり、天災や事故が起きてもモザイクをかけて死体を映さないようにして現実に直面するのを避けて、悲しいというだけで死の話題を掘り下げずに流してしまう。みじめに生きることやみじめに死ぬことの受け入れ方がよくわからない人たちが試行錯誤して無理心中やら通り魔やら飛び降り自殺やら硫化水素自殺やら死刑になりたくて無差別殺人するやらの変な死に方をするのが社会問題ではなく個人の問題として放っておかれて、死ぬ必要がない人まで巻き込まれるのは社会的損失である。屋上や駅に自殺防止の柵を作ったところで根本的な解決にはなっていないので、やけになって衝動的な自殺や通り魔やテロを起こさないような死生観の成熟が必要だろうけれど、学校ではフリーターになったら人生失敗するよと恐怖だけあおって失敗した後の生き方はまったく教えないまま社会に送り出して、そうして失敗した人たちを自己責任として責めて、社会の責任ではないと開き直っている。これではいつまでも自殺も通り魔もなくならない。
それに自殺が禁止されている宗教の人が死にどう対処するのかというのも日本ではあまり議論されない。キリスト教徒は銃の暴発だとか薬の飲みすぎだとか車のスピードの出しすぎだとかの事故にみせかけた自殺をしてはっきりと自殺とわかるような死に方を避けているらしいし、イスラム原理主義者はジハードで殉職して天国に行くことに救いを見出しているらしい。宗教を持つのは救済になりうる反面、自殺を禁止されているせいで現実逃避的な死に方になる。それに宗教の教義自体が問題をはらんでいて生きるのが大変になる可能性もあるので、宗教を信じたら煩悩から開放されて死からも救われるかというと微妙である。キリスト教徒は神様が助けてくれないんじゃないかと疑ったり嘆いたりして、神様に頼らずに苦難にどうにか対処しようとする物語を小説にしたのでキリスト教圏では傑作古典小説がけっこうあるのだけれど、どういうわけかイスラム教徒の文学の傑作というのはあまりないようである。イスラム教徒が人生の悩みや苦しみを持っていないというわけではないだろうけど、宗教の束縛が強すぎて神を疑うような内容は書けないのかもしれない。
私は無神論者で人類も地球も滅ぶと思っているので、人類滅亡から世界を救うセカイ系の作品は子供だましの物語で見る価値がないと思っている。最近人気の『君の名は。』も彗星墜落から町を救ってハッピーエンドの話のようだけれど、私は見る価値がないと思っている。世界は救われないし、救う必要もないし、救われるべきなのは個人である。重要なのは世界を救うことよりも、どうやって個々人が自分の運命としての死を受容して、死ぬために生きるという矛盾した生に折り合いをつけるかということで、死の受容を通じて個人は死の恐怖やら愛情の喪失やらから救われることになる。一時的に世界を滅亡の危機から救ったところで、最終的に人間の世界は不可避な形で滅亡するので、絶望の先延ばしにすぎない。
『魔法少女まどか☆マギカ』も魔女から世界を救う話だけれど、これが他のセカイ系のアニメと違うのは、主人公がどうやって世界を救ったかということより、どうやって自分の死を受容したかという過程が描かれているところで、ただ悪人を倒して世界を救うだけの話ならヒーロー戦隊モノと大差ないのでヒットしなかっただろう。しかしこれはやはりアニメでリアリティがないので大人が見る作品としては不満がある。ネビル・シュートの『渚にて』(邦題『エンド・オブ・ザ・ワールド』)はテレビ映画化されて、核戦争後の放射能汚染で人類滅亡に直面したオーストラリアの人たちがどうやって死を選んだかというのを描いているけれど、私はこういう救いようがない作品が好きである。ゾンビ映画だとどうやって理不尽な感染による自分の死を受け入れるのか、感染した家族や仲間との離別を決断するかという人間ドラマに面白さがある。バイオハザードのように重装備でバッタバッタ怪物をなぎ倒すアクション映画はゾンビ映画としてはつまらない。ホラーは死にたくない人たちが悪霊やら殺人鬼やらの強制的な死から逃げようとする話で、いわば頑なに死を受容しない物語だけれど、『シックス・センス』のラストのように死の受容があるあたりがカタルシスになっている。スティーブン・キングの『ミスト』は万策尽きて死を受容して息子を殺した後に救助隊が来るというラストだけれど、その部分は映画のオリジナル結末でそれなりにプロットとしての狙いがあるのはわかるけれど、いかにもとってつけたようなどんでん返しで悪評の原因になってしまった。迫りくる死を受け入れるか、死から必死に逃げ続けるかは各登場人物たちの決断だったのに、物語にいなかった部外者の軍隊がいきなりやってきて水を差したので、それまでの物語はなんだったのかというしらけた感じになってしまう。
というわけで、作品内での死の扱い方が傑作か駄作か、芸術か娯楽かの判断基準のひとつになるかもしれない。登場人物のうそくさい死は物語内で積み上げてきたその人物の生さえもうそくさくしてしまい、物語を台無しにしてしまう。エンタメでも人生の中の幸福な部分だけを書いて物語をハッピーエンドで終わらせてしまい、その先にある死を書かないのはごまかしだと思う。創作に携わる人たちは金儲けのために暇つぶしにしかならない娯楽作品を作るのでなく、作者自身が生死に向き合い、読者の人生に寄り添うような作品を作ってほしいものである。
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