PR
キーワードサーチ
コメント新着
パリのベルムネ・ジュン画廊三代目当主の著者が印象主義者を支援した両親の思い出を語った本。
印象派を擁護した劇作家ジョルジュ・フェイドー、劇作家トリスタン・ベルナール、俳優サッシャ・ギトリイ、画商アンブロワーズ・ヴォラールの人となりとエピソード、印象派の画家たちのエピソードが書いてある。画家との親しさによって文章量はばらばらで、ボナールについては詳しく20ページ以上書いているけれど、ピカソ、モルガン=スネール、シニャック、キゼなどは1ページ程度でたいしたことは書いていない。著者の両親は画商として芸術家と交流して芸術のために戦い、早くからその筋に賞賛されたり政府の賞を受けた画家を警戒して、真摯な芸術というきびしい道を選んだはずの人が贅沢な趣味を持っていて物質的な贅沢に心を奪われていたら創造者とはみなさず、民の声は間違っているので大衆がすぐについてくるのは警告に等しいと考えていたそうな。単なる金儲けのための画商にならず、権威主義にならず、自らの審美眼で優れた芸術家を発掘しようとする姿勢はよい。
著者が両親から聞いた話を書いているのでエピソードは断片的だけれど、ドガが女嫌いで女をぶさいくに描いていたひどい人物だとか、ロダンは下彫り工がおおまかに彫った石を仕上げただけで名声を得るために名士との待ち合わせにわざと遅れて自分を印象付けていたとか、トゥールーズ=ロートレックが死んだときに父親はパチンコで小石を撃って死体にたかるハエを迎撃していて親子そろって変人だったとか、ボナールは嫉妬深い悪妻マルトのせいで交友を制限されたとか、直接画家に会った人の内輪の話ならではの人物像が見えるので、印象派の画家について伝記的なことを調べている人には読む価値があるかもしれない。美術史的な一般知識を知りたい人は他の本を読んだほうがよい。
さて世界では印象主義がもはや古い芸術として扱われている一方で、日本では印象主義が今でもなお大人気だけれど、これは日本人が芸術のトレンドを理解していない芸術オンチだというわけではないだろう。日本人は自然の美に対して鋭敏であるがゆえに、印象主義の風景画に描かれた風景の美に感応するのだろうと私は思う。印象派の先駆者となったモネはジャポニズムの影響を受けていて日本びいきだし、日本人が印象派びいきになるのも当然である。それに日本人は任侠好きなので、虐げられていた芸術家がついに認められる話は日本人にうけるのだろう。
厚切りジェイソンみたいな日本についてろくに知識が無い傲慢なアメリカ人は他の国にも四季があるよと言って日本人の四季自慢を馬鹿にしているけれど、芸術的な観点から見るとアメリカには四季がない、言い換えると自然現象としての四季の気温と天候の変化はあってもその四季の特徴を美としてとらえて理想化する感受性が乏しい。日本では自然を司る八百万の神々を敬い怖れるとともに自然の美を意識していて、俳諧連歌で四季折々の感動を表現して、花鳥風月を掛け軸や屏風に描いて、庭に自然の姿を模した日本庭園を造り、季節ごとに着物の文様が違ったりして、春夏秋冬の自然の美をミニチュア化して日常生活の中で自然を鑑賞して四季の季節感を楽しんできたわけである。かたや西洋では風景画がたんなる背景でなく独立した主題になったのは16世紀のルネサンスのパティニールやアルトドルファーやブリューゲルからで、それ以前は自然に美を見出していなかった。
LITERAは「西洋絵画には、ミレーをはじめ四季をモチーフにした絵画がたくさんある」
といっているけれど、たくさんはない。そもそもキリスト教では人間は神が人間に与えた自然を支配してよいものとしてみなしているので、自然は神秘的な美の対象というよりは野蛮な未開拓地にある資源でしかなく、大航海時代には船の建造のためにヨーロッパの森林が消失して、産業革命で工業化が進んで自然が身近なものでなくなってしまって、ようやく18世紀以降に自然を意識するようになってヴィヴァルディの「四季」やバルビゾン派の田舎の風景画やターナーの風景画やワーズワースの自然賛美の詩が作られて四季折々の美を意識して自然回帰するようになったわけで、外国に四季を題材にした作品があるから外国にも四季があると言うのは芸術作品が作られた成り立ちを理解していないし、「どこの国にでもあるようなものを自分の国だけのようにがなり立てて」というのは芸術への理解がない発言である。フィンランドの四季とバルビゾンの四季と日本の四季はそれぞれ気温も植物相も違っている別個の四季だし、日本の四季にしても北海道の冬と沖縄の冬はまったく違う冬である。同じ場所でも時代が違えば四季も違うからこそ芸術家は自分が生きた時代の自分が生きたその場所にしかない唯一無二の四季の瞬間を観察して作品に描いて後世に残すわけで、どこの国にでもあるような観念上の四季を適当に想像で描いたのではない。LITERAがミレーを引き合いに出すならミレーが描きたかった18世紀のバルビゾンならではの四季を尊重するべきだろうに逆に「どこの国にでもあるようなもの」として貶めて、ネトウヨと一緒にミレーまでも冒涜している。LITERAは芸術を理解していないくせに「本と雑誌の知を再発見」を標榜しているのだからあきれてしまう。無知の再発見というべきだろう。
自然を愛でる文化がある国では芸術作品がちゃんと残っているし、その点ではアジアと欧米ではまったく自然の見方が異なっている。中国や日本では古来から自然の美を観賞して四季折々の特徴を趣きとしてとらえて芸術作品として残した一方で、西洋では16世紀のルネサンス以前は自然をテーマにした有名な芸術作品はないし、もしルネサンス以前の西洋で四季を愛でるような文化があったならば王侯貴族が率先してその文化を保護しただろうし芸術作品として残っていたはずである。厚切りジェイソンがアメリカにも四季があるというなら、いつアメリカ人が四季に美を見出したのか説明してほしいもんである。アメリカで四季をテーマにした代表作はレイチェル・カーソンの『沈黙の春』だろうに、環境破壊しまくりのアメリカ人がアメリカの四季を日本の四季と同列に語るなっちゅうの。
★★★☆☆
印象主義の戦い ドベルヒル著(中古)
『小林秀雄全集第三巻 私小説論』 2024.02.25
ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』 2021.12.09
シンシア・ソールツマン『ゴッホ「医師ガ… 2021.06.19