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2018.07.01
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​最近 模倣について ​書いたページのアクセスが増えたと思ったら、芥川賞の候補作になった北条裕子の『美しい顔』が参考文献の類似表現を使ったという騒動でもめているようである。美人女性がデビュー作で批評家から高評価されたあげくに芥川賞候補という出世街道に乗ったのに、逆に注目を浴びたタイミングでケチが付いた。私はこの小説を読んでいないし、読むつもりもないけれど、賞レースで疑惑がある作品が候補になるのは由々しき問題なので、この問題について考えることにする。
『美しい顔』がどういう小説かと言うと、群像のウェブサイトには「十七歳の私と幼い弟を残して母は行方知れずになった。マスコミの取材に協力するうち、私の内側で何かが変わっていく。未曾有の災厄に襲われた人間はどのように一歩を踏み出すのか――。選考委員激賞の驚異のデビュー作。」と書いてある。『美しい顔』と参考文献がどの程度の類似なのかは、​ netgeekの記事 ​によると「その横に名前、身長、体重、所持品、手術跡といったことが書いてある」、「今日までに見つかっている遺体はこれがすべてです」といったセリフが類似表現らしい。出版関係者らしい​ Tsunoda Naokoのブログ ​によると、つまみ食いしている箇所がけっこうあるそうである。​ 朝日新聞の記事 ​によると、遺体を蓑虫が一列にならんでいるようにたとえている部分が類似している。これを見る限りだと偶然の類似はありえなくて、コピペ改変型の剽窃のように私には見える。

●講談社と新潮社の対応

講談社は7月3日に​ 群像新人文学賞「美しい顔」関連報道について ​と声明を出して、「6月29日以降の一部報道により、本作と著者について中傷、誹謗等がインターネット上等で散見され、盗用や剽窃などという誤った認識を与える文言まで飛び交う事態となりました。これらの不当な扱いによって、本作と著者およびそのご家族、新人文学賞選考にあたった多くの関係者の名誉が著しく傷つけられたことに対し、強い憤りを持つとともに、厳重に抗議いたします。今回の問題は参考文献の未表示、および本作中の被災地の描写における一部の記述の類似に限定されると考えております。その類似は作品の根幹にかかわるものではなく、著作権法にかかわる盗用や剽窃などには一切あたりません。」と言っている。
一方で新潮社は「『遺体』と複数の類似箇所が生じていることについては、単に参考文献として記載して解決する問題ではないと考えています。北条氏、講談社には、類似箇所の修正含め引き続き誠意ある対応を求めています」言っている。
剽窃か否かは当事者同士の協議で最終的な結論が出るだろうから外野がどうこう言ってもしょうがないのだけれど、私は単に事実の参照に留まらなくてミノ虫とかの比喩表現が似すぎていると思うので、新潮社を支持するし、盗作や剽窃が誤った認識だとは思わない。
しかし裁判で盗作を認定する基準はすごく厳しいらしいので、おそらくは裁判をしたら講談社の言うとおりに法律上は盗作や剽窃ではないという判決になるかもしれない。だからといって、裁判官が読者として作家を応援するわけではない。選考委員や批評家がほめたし法律上は問題ないと講談社が強弁したところで、最終的に作品の価値を判断するのは個々の読者である。読者が読む価値がないと思えば、それがその小説の価値である。

●誰が悪いのか

5ちゃんねるでの議論を見ていると類似表現を見抜けなかった編集者や選考委員を責める人もいるようだけれど、その点で私は群像新人文学賞の選考段階での編集者や選考委員を責める気はない。プロ作家に担当編集者がついている場合ならテーマについて参考資料を調べたり助言したり取材を手伝ったり校正したりするだろうからパクればわかるだろうけれど、素性の知れない新人が持ち込んだ小説を一読してどの本のどの表現のパクリかなんてすぐにわかるもんでもない。たとえば死体の描写にしても、震災関連のノンフィクションだけでなく、震災とは全然関係ない戦争小説や医療小説からパクっている可能性だってありうるし、漫画や映画やアメドラのような絵や映像からパクっている可能性だってあるので、膨大なデータベースからパクリを検出して類似度を判定するAIでもないと選考期限内の短期間でパクリを見つけるのは無理である。賞レースで編集者や文学賞の選考委員がパクリを見抜けなかったのはそれはそれで問題で選考システムを改善するべきだけれど、それよりもまず編集者や選考委員さえだまそうとする作家の姿勢が問題である。
新人作家が他人の創作や表現に敬意を払わない創作姿勢でデビューしてよいのか、それを出版社が後押ししてよいのか。著者だけでなく、群像の編集部や新人賞の選考委員の姿勢も問われる。自販機のコンセントでスマホを充電して1円の盗電でも捕まるように、たった一行の剽窃でも作家のモラルとしてはアウトである。謝ったら許してくれる人もいるかもしれないけれど、超えていけないラインを超える危ない人として距離を置かれてもしょうがない。大衆小説ならまだしも、純文学で自分の言葉で表現しようとせず、他人が考えて表現したことを自分の表現のように扱うのは恥ずかしいことである。
近年はインターネットで一般人の感想が共有できるようになって、小説家だけでなく漫画家やイラストレーターやデザイナーやミュージシャンのパクリが次々に判明したけれど、調べればわかったり、パクられた人が見たらわかったりような安易なパクり方をする人は、すごいものを見つけてきて自分名義に書き換えたら自分がすごいと勘違いしているようなもので、創作がしたくて創作しているわけではない。称賛されたいという結果ありきで称賛されるに値する元ネタを見つけてきて改変するのは創作ではないし、その称賛は元ネタのほうに与えられるべきものである。芸術家なら大江健三郎がフォークナーをパスティーシュしたように、優れた芸術のテクニックや感性を取り入れて自分の持ち味として確立するべきであって、他の作品の内容や表現を転用する短絡的なパクリには芸がない。芸がないのは芸術ではない。
東日本大震災を経験して、津波や原発や復興に何も感じず何も考えなかったという日本人はほとんどいないだろう。自分が生きている間に千年に一度の天災が起きたなら、その印象を何らかの形で表現したり記録に残したりしたいと思うのは当然である。しかし大勢の人が経験して注目したことだからこそ、半端な創作では実体験の鮮烈な衝撃に劣る。戦争、天災、革命、テロのような史実の重大事件をモチーフにして傑作を作れば注目をあびて芸術史に残るし、そこに芸術家の野心も絡むけれど、重大事件だからこそそれを取り扱う作家の思想や芸術性が問われるわけで、若い新人が扱うテーマとしては向いていない。衝撃的なモチーフを扱ってすごいことをやった気分になるのは作家としてはナイーブである。カミュが『ペスト』で架空の事件に見舞われた登場人物たちを通じて不条理の思想を展開したように、テーマを掘り下げていく思想の深さのほうが重要である。『美しい顔』は作者が取材不足を自覚しているなら他の本の内容をパクってまで東日本大震災を舞台にしなくても、隕石の墜落とか巨大蟹の襲来とか巨大だんじりの暴走とか架空の事件を物語にして、これは震災の比喩だなと読者に気づかせるようなやり方もできたはずである。そうしないで直接東日本大震災の被災者の女子高生を主人公にしたあたりに震災ポルノで話題作りを狙うあざとさが見える。芥川賞の候補になったことがある小説家の 木村紅美のTwitter ​で震災を題材にすることへの葛藤がつぶやかれているけれど、これがまっとうにテーマに向き合おうとする小説家の態度だと思う。

●取材しないで小説を書くのはよいのか

私はフィクションに取材は必要ないと思う。たとえ現実とは違うような記述があったとしても、そういうことが起きている可能世界なのだという風にみなすこともできる。ポストモダニズム以降はプロットの矛盾さえも許容して面白さとしてみなすようになったし、マジックリアリズムのように動物がしゃべってもいいし、実験的な文章表現でもいいし、つまりは何でもありである。そこに作者の思想や芸術的なテクニックが表現されていれば、それが作品の価値を裏付ける。なんでもありなら想像で適当に書いてよいというわけでもなく、逆説的に、何でもありだからこそ作者の教養や思想が試される。同じテーマの先行作品を読んで差別化しているか、比喩に想像力があるか、語彙が豊富か、哲学や文学理論を理解しているか、現実世界の政治経済をどうとらえているか、生老病死にどう向き合うか、等の複合的な知識を統括して作品として完成させる芸術観や思想が必要になる。取材をしたからといって芸術になるわけではないし、取材をしなかったからといって芸術でなくなるわけではない。例えばピカソは内戦中のスペインに行かずにパリのスタジオで「ゲルニカ」を描いたし、宗教画を描いた画家でキリストやマリアに会ったことがある人なんて一人もいないけれど、取材しないからといって芸術性を損なうわけではない。リアリズムだけが芸術の評価基準ではない。

しかしリアリズムの作品を作る際には、物語にリアリティを出すために現実世界を取材する必要がある。そこでどの程度取材をするのかという線引きが作家の芸術観によって違う。実体験を私小説として書く人や、資料を何百冊も読んで外国に滞在したりして専門家レベルの知識をもつまで取材する人もいるけれど、リアリティがあるからといって物語が面白くなるというわけでもない。予算と時間が限られている中で、事実関係の取材に力を入れるよりも、プロットを面白くするために力を入れるという制作方針もあってよい。たとえばテレビや映画の時代劇なんかは時代考証がいいかげんで、刀の差し方が間違っているとか、歩き方が違うとか、専門家が見ればわかるレベルでいろいろ間違っているらしい。しかし視聴者も江戸時代に生きたことはないのでその間違いには気づかないし、事実と違うからといって物語の面白さを損なうわけではない。視聴者もそれが作り物だということは頭の片隅に入れながらフィクションの世界に没頭して楽しんでいるので、こんなの僕の先祖が生きた江戸時代じゃないよと怒り出す人はいない。さすがに時代劇に携帯電話やメロンパンが出てくるレベルで事実と違うなら視聴者に怒られるだろうけれど、時代劇っぽい雰囲気を壊していなければたいていの視聴者は満足する。だったら別にそこまで時代考証や事実にこだわらなくても、フィクションとして面白ければいいんじゃないかという考え方もできる。

さて『美しい顔』の件に戻ると、この小説は現実世界の東日本大震災を舞台にした一人称のリアリズムの物語なのだから、ちゃんと取材して書かないと現地の人が読んだ時には作り物としての粗が見えてしまう。私は読んでないから何とも言えないのだけれど、​ 5ちゃんねるの文芸誌の感想スレ ​に投稿された感想では「東北の沿岸部は東北のなかでも訛りが強い場所で、そうした訛りを用いられないところに違和感があった。」「なまりがないところから作品がめっちゃほつれて虚構性があらわになる」とリアリティの欠如を指摘しているものがあった。私はとうほぐ出身でふぐすまの知人もいるのでふぐすまの方言や訛りもある程度わかるけれど、主人公のあねちゃが話す言葉にリアリティがないならその心理にもリアリティがなくなるので、リアリズム小説としては大きな瑕疵になる。『美しい顔』を絶賛した群像新人文学賞の選考委員や批評家たちは東北出身でないから方言のおかしさには気づかなかったんだろうか。現地を取材しないでこれだけ書けるのはすごいと批評家がほめているけれど、この小説は被災地のトポスが重要なのだから取材するべきだった。例えばアイヌがアイヌ語で話すのと標準語で話すのでは違う意味を持つというのは誰でも理解できると思うけれど、『美しい顔』は福島の人が方言でなく標準語で話すことの意味を考慮しているのか疑問である。地方の人にとっては方言が母語で、標準語はテレビや本で後天的に覚えるものなので、地域の絆や伝統を重視している人ほど方言を使う。映画だと白人以外の役を白人にやらせるホワイトウォッシングというのがあるけれど、地方の人の役を標準語をしゃべる人にやらせるのは標準語ウォッシングとでもいうようなもので、著者や批評家がそこに無自覚なのだとしたら、方言を話す人のアイデンティティや地域とのつながりを軽視しているということだ。方言や訛りは同郷の人が聞けばあのひとはあの地域の出身なのだなと一発で見抜けるくらいのアイデンティティのよりどころである。批評家の佐々木敦は「真正面からあの出来事に向き合っているさまに感動を覚える」と言っているけれど、出来事に向き合う以前に、人間に向き合うべきではないか。

●盗作した人の才能はどう評価するのか

『美しい顔』は盗作だとしても選考委員や批評家が激賞したのだから才能があると擁護している人もいた。これは半分は当たっているものの半分は間違いである。つまらない作品や下手な作品からパクっても意味がないので、パクる人は面白い作品を見つけてくる審美眼はあるという意味では才能がある。しかしその審美眼に創作能力が伴わなず、独力で作品を生み出せないのでは創作の才能はない。
審美眼があっても創作能力が乏しいなら、技術力や発想力が身に着くまで地道に下積み修行をするのが本筋である。あるいは作家になることに固執せずに編集者や批評家として作家以上の審美眼を発揮することだってできる。あるいはある程度の創作能力があっても独創性が乏しくて何かを参照しないとうまく創作ができないなら、漫画や映画を公式にノベライズしたり、舞台用に脚本化したり、人気小説の外伝を担当したり、翻訳したりする道もある。
そもそも芸術家が自分の才能を確信しているなら他人から盗作なんかしない。盗作しないと良い作品を作れないなら、それは芸術家として独自のものを作ろうとする信念や創作技術が足りないということなので芸術家として不適格だし、盗作で作品を底上げして楽してオシャレな芸術家の立場を手に入れようという態度は芸術への冒涜である。盗作した人を才能があるからといって業界に留まらせようとするほど人材不足なら、そんな業界は潰れてしまえばいい。

●文学賞はちゃんと選考しないと賞としての意味がない

私は文学賞の賞金額が低いことがパクリの温床になっているんじゃないかと思う。群像新人文学賞の賞金はたかが50万円で、小説を書くくらいなら普通に働いたほうがましなゴミのような賞金額である。他の純文学の新人賞も横並びで似たようなもので、高くても100万円である。そもそも大手出版社が50-100万円で業界の将来を担う才能を募集しているのを編集者はおかしいと思わないのだろうか。出版社は高い金を払って新卒採用して高学歴な編集者を採用しているのに、新人作家の発掘にはろくに金を払おうとしない。群像新人賞は原稿用紙50-250枚までの作品が対象なので、250枚の作品で受賞したとしたら原稿用紙1枚あたり2000円である。原稿用紙1枚書くのに2時間かかれば時給1000円である。さらに取材費用も持ち出しなので、50万の賞金で利益を出そうと思ったらろくに取材費用などかけられない。群像新人文学賞は「気鋭の才能を輩出した群像新人文学賞は、更に一層の清新な才能を待望しています。」と言っているけれど、これではスーパーマンを最低賃金で募集してやりがいを搾取しようとするブラック企業のようなもんである。ゴミのような賞金しか出せないなら、それに見合うゴミのような作品しか集まらなくて当然だろう。もらえるかどうかもわからないゴミのような賞金を目当てに金と時間をかけて取材して真面目に小説を書くのも馬鹿らしいので、50枚でも250枚でも賞金が同じなら、なるべく労力を削って短く書くのが合理的な判断だし、パクってばれなかったら小遣い稼ぎできてラッキーというモラルのないセコケチの格好のターゲットになる。ちなみに第47回文藝賞でもネットからモチーフを盗作して受賞取り消しになったそうな。詩をパクって詩の賞を受賞しまくって激賞された女子中学生もいた。複数の新人賞でパクリが激賞されて受賞したり、デビュー後に実力不足でパクったりしていて、純文学の存亡にかかわる重大インシデントだらけで、もう今までのように応募者のモラルに頼る選考のやり方ではだめなのだ。出版社が本気で新人作家を発掘したいなら、賞金を高額にしてそのぶん選考を厳しくするほうがよいと私は思う。作品を作家と切り分けて作品単体の良し悪しを評価するやり方ではパクリは見抜けないので、例えば新人賞の最終候補に残った人と選考委員が芸術観や創作手法や文学的教養について討論して作家としての資質を吟味するような手間をかけた選考方法が新人作家の発掘に必要かもしれない。あるいは将棋だとアマチュアがプロ棋士になるためにプロ棋士と師弟関係を結んで奨励会に推薦してもらう必要があるように、新人賞受賞作として推した選考委員が新人のメンターとして数年間指導するなりして連帯責任を負うというやり方でもよい。作品の質を保つように出版業界全体で賞レースの選考の仕組みを改善していくべきだろうに、今変われないならいつ変わるのだろうか。早稲田のセクハラ批評家じじいにもあきれたけれど、『美しい顔』をめぐる講談社や批評家たちの対応にもあきれてしまった。講談社が真似しても参考文献扱いすればOKという姿勢で文学にかかわるつもりなら、もう清新な才能を待望するのはやめたほうがいい。






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最終更新日  2021.09.28 21:12:57
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