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2018.11.01
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カテゴリ: 教養書

フォトジェニー説やモンタージュ説などの1910年代から50年代までの映画理論の解説書。

●まとめ

ルイ・デリュック:映画の表現の基礎的な要素は装置、照明、リズム、マスク(俳優)で、リズムはモンタージュを目指している。モンタージュで異なる映像を交互に組み合わせることができ、我々は内面的にも外面的にも並行して起こった事件を見ることができる。現在と過去、現実と夢の関連と対立の可能性はフォトジェニックな芸術の一番暗示的な手段の一つ。

ジェルメーヌ・デュラック:プロデューサーは俳優たちに演じられている劇的境遇で述べられるストーリーを物語ることが必要だと信じているが、動きと境遇との混同があるので、劇化という束縛から解放されなければならない。映画の魂である運動は、単に人工的に映像の自然の展開の上に置かれたテーマの図解で、ドラマを創造するものは十分な運動の強さである。運動の表現はリズムのみに基づく。リズムは物質的要素と感情的要素から作り上げられた運動の展開である。映画作品はあらゆる外部からの美学を拒み、固有の美学を探し求めなければならない。映画の動きは生命(飛び跳ねる馬、芽を出す穀物など)でなければならない。映画の動きは人間に限定されず、自然と夢の世界にも伸びて行かなければならない。デュラックは感動をただ視覚的に構成されたものの総合的表現を通してだけ人に伝えて、文学的伝統に従属している叙述的、心理学的、劇的な要素を拒んで、その理想を映像によって示したのはアベル・ガンスの『鉄路の白バラ』のレール、機関車、ボイラー、車輪、圧力計、煙、トンネルなどの視覚的シンフォニーを構成しているシークェンス。

ルネ・ドゥミック:映画の登場人物は避けあうか、または結びつくために、できるだけ多く行ったり来たりしなければならない状態におく必要がある。

レオン・ムーシナック:リズムの優越性を主張。リズムの組み合わせによって引き起こされる感動が基本的であるばかりでなく、その要素を分析し、音楽的価値を持つ時間の単位の上に基礎を置いた映像による表現としてそれらの要素を具象化することができる。すなわち量というものがリズムの記録される世界となる。

エリー・フォール:映画が演劇に併合させられるのに反対。映画を絵画、音楽、舞踏を含む動く建築という概念でとらえる。

ルネ・シュオップ:映画は形而上学的な本質を持っている。運動の分解と現実の特権的な把握とによって、この世界の秘密の顔を暴くことによって、映画はあらゆる創造されたものの奥にある神秘の忠実な図表を与えてくれる。映画はそれぞれの登場人物から、いっそう真実な人物、形而上学的な存在を我々に示す。運動は純粋リズムほどには映画の目的ではない。

ジャン・エプスタン:ストーリーを否定して、何も起こらないのではなく大したことが起きない映画を望む。この主題の欠如が現実からその神秘と潜在した象徴主義の重々しさ全体を解放させる。映画は本質的に超自然で、存在していないもの、非現実的なものを見る。シネマトグラフの魔法は時間のディメンションと方向を変えさせることができる能力に帰着する。フォトジェニーは第一に動性の機能として現れた。運動の表現がシネマトグラフの存在理由であり、主要な能力であり、天性の基礎的表現である。映画は本質が運動に結び付けられているので、いたるところに運動を検出して、普遍的な動性を暴いている。映画は形の観念を否定する。運動が形であり、映画の形を作る。したがって映画は静止しているもの、非常に正確なもの、理屈っぽい理性というようなすべてに対して本能的に嫌悪の心を抱いている。その流動性によって、動いているもの、紆余曲折しているものなどに対して本質的な親和力を持っている。そこから映画が夢の世界と完全な対応をしめしている事実が生まれてくる。

アベル・ガンス:映画は光の音楽。速度、偏在、今まで経験されなかった諸感覚が日常の要素になる芸術こそが映画。いろいろの動きが同時に存在すること、いろいろな時間と時代が同時に存在すること、過去、現在、未来がそれぞれの破壊の中に凝集される。

ルネ・クレール:第七芸術の文学的伝統への結び直しを否認して、デカルト的論理学から解放された映画を望む。絶対的な数学的解決が呼び起された映像の感情的価値を無視していることは間違っている。

超現実主義:アド・キルーを中心に映画は本質的に超現実主義的で、人生の潜在的内容について夢見られた表現手段とみなす。人生と夢、知覚しうるものと知覚しえないものとの偉大な融合が映画によってなされる。

アヴァン・ガルド:マルクス主義的に映画の中にブルジョワ的伝統から解放される手段を見ている。ハンス・リヒテルは映画は論理と明らかな意識に還元はできないが、厳格に抒情的でかつ創造的で、異常な映画的可能性の利用から生まれるであろう超現実に達することによって人間を解放しようとした。

リアリズム:文学や演劇のようにスクリーン上でリアリズムを試み、人生の断片であろうと望み、幻想を拒み、人間や物事を当然あらねばならぬもののようにではなく、あるがままに描く。作家は映画の価値を低めるためではなく、反対に伝統的な芸術の美しい嘘を精神から解放して、映画はその精神を真実に開くものであることを示す。ジガ・ヴェルトフは映画が俳優、衣装、メークアップ、スタジオ、装置、照明などのあらゆる演出を拒否し、人間の眼よりも一層客観的な眼であるカメラに従属しなければならないと主張した。リアリズムは社会政治問題に対してはっきりした態度を示してアンガジェの映画と区別できなくなり、その傾向と結びついた映画監督はたいていマルクス主義者になった。イタリアのネオ・リアリズムはロシアの社会主義リアリズムから発生して、情緒と夢の優越性を再び導きいれるネオ・ロマンティスムの表現。

表現主義:1914-1920年の間にドイツでは表現主義が隆盛になる。ドイツ文学の2/3が夜の闇の価値に定義づけられていて、夜は外見のヴェールが切り裂かれて我々が普遍的秘密に参加することができる瞬間で、自我と非我との区別を廃止して人間は人間性から脱して、宇宙の中に溶け込んで超現実に達して、そこではすべてが可能である。表現主義は昼の価値を退けて、夜を凝集しようと試みる。

ベラ・バラージュ:映画の大映しは映画と演劇を区別し、映画に特別に抒情的な性格を与え、特別の力のある近接と孤立を創造し、大写しは最小の手段によって最大の悲劇を暗示することを可能にしている。顔の小さなしわも性格の基礎的な特性の一つとなり、一つの筋肉の震えも独自の意味を持って心の中の大事件を示す。映画のリズムを創造するのはモンタージュで、同時性のモンタージュはお互いの間に論理的つながりを持たない事実を集めて宇宙的印象、存在の概観、世界の一種の全的ヴィジョンなどを呼び起こそうと努めて、繰り返しのモンタージュは一つのシークェンスの同じ数のライト・モチーフを構成する視覚的モチーフの繰り返しの上に基礎を置く。

フセヴォロド・プドウキン:モンタージュの型の定義は対照、平行、同時性、ライト・モチーフの四つで、モンタージュの本質的な機能は観客におけるある心理的過程を決定すること。映像の構成が詩的価値を示すとすれば、それは精神に働きかけることであり、ある知的作用を促すことである。カメラによって創造され、演出者の意見に従って別々のセルロイド断片を選び編集した後に新しい一つの時間、映画的時間が生まれる。時間の省略と集中化と同様に、空間の凝縮と習合がある。そして映画的空間は、不調和な諸要素の均一の総合として現れる。

エイゼンシュタイン:一つの感情的動きをそそのかし、その結果一つの観念の連なりを引き起こすように構成された一連の映像を作ることが重要。映画はダイナミックで頭脳の興奮を促す唯一の具象的な芸術で、その思想の動きは静止的で、それが現実的にくりひろげられる助けとはならないが、その思想の糧となることのできる他の芸術にとってと同じようには行われえない。モンタージュの最も完成された形式は多音モンタージュで、カットは独自の動き、光の強さ、筋の展開中の段階などの独自の手がかりによってのみならず、一連の多様な線の同時の進行を通してもお互いに結び付けられている。その同時の進行は独立した美学的展開を保つと同時に、そのシークェンスの相対的展開にも参加している。エイゼンシュタインにとって芸術とは心理学的な分野において原始的な精神過程の形式に向かって人工的な退化を行うことにほかならない。

ルドルフ・アルンハイム:空間的深さの制限、色彩の欠如、照明、場面構成、対象の距離、空間及び時間の連続性の欠如、感覚的活動力の視覚的要素への要約などの欠陥と考えられるこれらの現実との差異が、反対に美学的表現の要素で、我々の近くの3つのディメンションがスクリーン上では2つのディメンションに縮小されるということが映画の表現手段を貧しくするどころか、かえって豊かにすることができる。対象物はますます直接的となり、異常な方法で提示されるという事実によって、一層生々した印象を生み出す。

スポティスウッド:映画言語の特別な諸要素は視覚的な要素と視覚的でない要素に分けられ、視覚的な要素は自然の因子と映画的な因子に分けられる。自然の視覚的な因子は静止的なものと力学的なものに分けられる。静止的な区別の諸要素はカメラアングル、場面構成、照明、深さの欠如など。力学的な因子はカメラの動きに相応する。

イタリア派:ルイジ・キアリーニはフィルムは芸術であり、シネマは企業であるとして、技術、芸術、企業を区別して、技術と企業が芸術を悪化してはならないという。芸術的傾向は一つの映画を他の映画から区別しようと試み、企業的傾向は映画を一様化しようとする。

カメラ万年筆説:漢字などの表象文字が意味をあらわすように、映画は一つの見世物ではなく、一つの文字であるという考え方。

美学の問題:映画のカット割やカメラの動きや俳優の演技をスタッフに説明して厳格に管理するプドウキン(慎重派)と、おおざっぱな台本しか用意せずに演出者が具象化しようとする主題に命に吹き込むようにするエイゼンシュタイン(即興派)の見解が相違する。映画製作を合理化するとインスピレーションに頼ることが困難になるという問題がある。

●感想

1958年の刊行で古くて翻訳が日本語としてこなれていなくて『戦艦ポチョムキン』が『甲鉄艦ポテムキン』になっていたりして何の映画なのかわかりにくいので読みにくいし、一人の評論家の意見を2-4ページ程度で紹介して解説も短いし、映画のタイトルを挙げてもどういう映画なのかという注釈もなく写真もないので内容も理解しにくく、映画の初心者向けの内容ではないので古い映画を見ていない人がこの本を読んでもつまらないだろうと思う。それでも演劇→無声映画→トーキーへの表現手法の発展は20世紀初期の人にとって衝撃だったのだろうし、新しい表現手段として現れた映画をどうとらえてどこに価値を見出したのかという当時の人の反応は新鮮である。今は映画は山ほどネットに落ちていて無料でもつまらないので見ないけれど、そのつまらなさの原因はなんなのかというと、現代人は生まれたころからすでに映画が存在していて、ルイジ・キアリーニが言うように企業が映画を一様化してハリウッド映画やディズニー映画のように視聴者にうけるようなハッピーエンドになるストーリーテリングや演出の手法が既に確立されて、監督の権力がなくなって作る側が映画とは何ぞやモンタージュとは何ぞやという本質を問いながら試行錯誤して芸術表現をすることをやめてしまい、見る側も映画は二時間でストーリーが完結する娯楽だという理解の範疇を超える衝撃的な芸術作品を期待しなくなってしまったのが原因かもしれない。昔の映画監督は自然の風景や天候にこだわってその一瞬でしか撮れない映像を撮ったそうだけれど、今は緑色の殺風景なスタジオでタイツを着て演技して衣装や背景をCGで合成して何度でもやり直しができて修正がきく人工物で、映画に自然や偶然は存在しなくなっている。アニメーションが夢のような架空の世界を描くようになったことで実写映画が夢を描かなくなって、かといってリアリズムでもなくて、夢でもなくリアルでもなくどこかで似たようなものを見たことがある中途半端な作り物になってしまった。アニメ版の『ポプテピピック』がクソアニメだと開き直って声優に丸投げして無茶なアドリブをやらせたりして、アニメのほうが映画よりよっぽど冒険してるなあと思う。

さて私は映画館がない田舎で育っていてろくに映画を見ていなくて映画評論はできないので、映画以上に消費されているポルノやYouTubeの動画について考えてみることにする。
人間はセックスのときにどういう運動を行うかを観察するのがポルノの目的である。ポルノは人間の生理的真実を表現しているにも関わらず、公序良俗に反するものとして規制されて芸術表現とはみなされずにアングラに押しやられているけれど、一般家庭にビデオデッキやパソコンが普及したのもポルノのおかげで生活に必須の要素なので、実際は社会にかなりの影響力がある。セックスというのは基本的にリズミカルな運動だけれど、運動があれば面白くなるというわけでもない。洋物ポルノでマッチョ男優とセクシー女優がアクロバティックなセックスをしてオーイエスオーイエスといっても別に面白くない。行為を映してもそこに人間の感情を映していなくてドラマもストーリーもBGMも効果音もないので、祭りでわっしょいわっしょいと神輿を担ぐみたいなもんで、賑やかな運動でしかない。スポーツもどきの運動をするくらいならむしろ体操やフィギュアスケートみたいにセクシャルアーツとして正式な競技にして体位ごとに技術点や芸術点を採点して、種目別に演技を競うほうが面白いかもしれない。オリンピックだと体力を持て余したアスリートに大量のコンドームを配っているそうだけれど、どうせセックスするならセックスを競技にしてもよいではないか。
日本のポルノはアニメも漫画も実写も人気の一大産業だけれど、なぜ外国でhentaiというジャンルを確立するほど人気になったのかというと、セックスの物理的な運動や女優の外見や年齢よりも、ストーリーの中での愛情、嫉妬、羞恥心、背徳、罪悪感といった感情表現を中心にしているからだろう。江戸時代の春画でタコが人間にセクハラしているのがその後のhentaiに代表される触手モンスターになったり、無機物でさえも擬人化して感情を持たせて性的コンテンツにしてしまったりするのは、付喪神やもののけや妖怪といった神道的な想像力が性的な妄想と結びついて超現実的なものになっていて日本ならではの面白さがある。こういう日本文化とポルノの融合は実写のロマンポルノでは起きなくて、漫画やアニメやゲームといった二次元の表現手法が自由になったことで開花した。世界中でポルノの規制が緩くなったら、インドで大勢で踊りながらセックスするポルノとか、香港でカンフーの達人がワイヤーアクションを使って空中でセックスするポルノとか、北欧の女騎士が敵につかまってくっ殺せというポルノとか、各国の文化を反映した独自のポルノが出てきてポルノがもっと面白くなるかもしれない。ポルノはコンテンツビジネスとしては有望なんじゃないかと思うのだけれど、クリエイターが本格的にやろうとしなくて名作映画のパロディみたいなしょぼいポルノやストーリーがなくてただセックスするだけのつまらないポルノしかないのは残念である。日本映画も濡れ場が薄暗くてやたら感傷的で、性のとらえ方に遊び心や面白さがない。イタリアのポルノ映画の巨匠ティント・ブラスは性欲や裸体や性器やセックスを人間から締め出そうとせずに堂々と描いていて、AVみたいに単に性器を大写しにするのでなくてシースルーの下着や鏡を使ったじらしのテクニックとかの画面の見せ方が面白い。『TRICK』も上田教授の巨根いじりが面白い。テレビ業界も昔はバカ殿様やトゥナイトや火曜サスペンスの温泉旅館殺人事件とかでおっぱいや裸が出ていたけれど、もしポルノが規制されていなかったとしたらテレビや映画はもっと面白くなっていたかもしれない。松嶋クロスは人前でセックスするAV女優は人間のくずだと言っていたけれど、そんなのは芸術を知らない女衒の物の見方である。
YouTubeの場合はテーマは多様だけれど映画やテレビよりも動画の目的がシンプルで、一つの動画に一つのネタしかなく、出演者も少なく、ストーリーや役作りや演技もない。そうなると必然的にそのネタをどうやって面白おかしく盛り上げるかという演出に労力が向かって、テンポがいい場面切り替えや早口の実況や大げさなリアクションや軽快なBGMやわかりやすいテロップという特徴が出る。これは予算がどんどん膨れ上がって複雑で技巧的になっていく映画の要素を分解して、数分で簡単に表現できる最小単位の面白さを追求した結果である。若い人たちの間ではTikTokで撮ったダンス動画が流行っているそうだけれど、これも映画の要素をリズムと身振りに還元して制作を単純化した演技のようなものである。ルドルフ・アルンハイムが言うように、ヒカキンの顔芸とか派手な原色のテロップとか対象物が異常な方法で提示されることで生き生きとした印象を生み出す。YouTubeは素人がテレビのまねごとをしていると揶揄されているけれど、単なる素人の寄せ集めなら今ほど人気になっていない。映画やテレビと違って動画の尺が自由だし、編集も試行錯誤できるし、プロの映像クリエイターに比べて動画の編集技術が未熟でも完成されていない黎明期で各自が好きなことをやっているからこそ面白いともいえるし、プロYouTuber化して機材やスタッフをそろえてテレビ番組のようにスポンサーや視聴者を意識しだすとかえってつまらなくなったりする。ユーザーが全世界にいて間口が広くて時間の奪い合いの競争が激しいだけにトップクリエイターは何かしら秀でた部分があって、YouTuberはテレビ慣れして気取っている芸能人と違って素人だからこそ喜怒哀楽の感情がじかに伝わって視聴者とコメントで交流できるという利点があるし、個々の動画の内容の良し悪しよりもクリエイターが前面に出ることでファンがつく。テレビ番組だと視聴者はどのプロデューサーやディレクターやカメラマンが担当したのかなんて知らないし、制作者は裏方にいて映像の中には出てこなくて、とんねるずやダウンタウンやマツコ・デラックスがスタッフいじりをするとスタッフが画面にちょっと映ったりするけれど、テレビの制作者側に数百万人のファンがつくということは基本的にないし、金をかけてプロが動画を制作したテレビ局の公式YouTubeチャンネルにはほとんどチャンネル登録者がいなくてコメント欄が閑散としていたり、コメントできない設定になっていたりする。制作者兼出演者というのがYouTubeならではの動画形式である。
映画が夢や超現実として語られたのに対して、YouTuberの動画は感情が強調されてはいるもののクリエイターの私的な日常の延長である。チャンネル登録者が数十万人もいるクリエイターが優れている点は日常をさらけ出しているところで、一種のリアリティーショーになっている。ヒロシがキャンプ動画のYouTuberとして人気になったけれど、他の人がキャンプや釣りや旅行をどうやっているのかというテレビでは取り上げない他人の日常への需要を掴んだからこそ人気になったわけで、芸人として芸をやる必要はない。売れない芸人YouTuberは芸人だから面白くしないといけないと思って非日常的な芸をやっているけれど、それこそテレビの真似事として需要を見誤っていて、先輩芸人の合コンのセッティングしたら怒られたとかのテレビではやらない芸人の日常の喜怒哀楽を動画化したほうがましである。動画自体にストーリーがなくても、他のYouTuberとの不仲とか事務所とのトラブルとか自宅バレとか炎上とか動画外で筋書きのないドラマが展開するので、動画は日常から切り離されたコンテンツではなくなっていて、映画のように2時間に物語をまとめなくても人生の一場面を切り取って動画として継続的に見せ続けることが物語になる。映画の物語は過去と現在と未来を凝集するけれど、YouTubeの動画は非連続の現在で、視聴者は個々の動画に興味をもつだけでなく、クリエイターの人生の続きを見たいのでチャンネル登録をするのである。映画のフィルムが高かったころは誰でも映画が撮れるわけではない特別な表現手法だったので映画俳優は役のイメージを壊さないために私生活を非公表にしていたけれど、今ではスマホに高性能のカメラがついて誰でも動画を撮れるようになって、もはや動画が現実とは別の世界を追及する手段ではなくなって、リア充の旅行記録とかおしゃれな料理とか仲間内でのふざけあいとか他の動画を見た反応とかのありふれた日常を見栄えよく演出するツールになって、動画に映るのが特別なスターではなくなった。元スマップの人たちが仲良くしている様子を動画にしたり、本田翼が趣味のゲームをやったりするだけでコンテンツになるし、アイドルだからといって華やかな舞台で歌って踊って私生活を非公開にして気取る必要はなくなったのである。ローガン・ポールのようなくだらないYouTuberもいるけれど、YouTubeを動画という檻の中に閉じ込められた人間を見世物にする動物園としてみれば、彼は人間がどこまで社会の役に立たないくだらない存在になれるのかに肉薄しているすばらしい標本である。そんで今はポルノとしてライブチャットが盛況らしくて、風俗がない地方都市の人がライブチャットで恋人といちゃいちゃする気分を味わうらしい。将来的には女優の演技としてポルノをパッケージ化する必要もなくなって、日常のセックスをYouTuberのように実況したりして人気になる人が出てくるのかもしれない。
映画は表現を試行錯誤した挙句に結局は売り上げ重視で文学的伝統にのっとったストーリーがあるドラマを目指して、邦画はポケモンや名探偵コナンのアニメ映画とか漫画や小説が原作の画一的な実写映画ばかりになって芸術志向の映画はほとんど話題にもならず、映画理論も知らない素人のYouTuberが動画をストーリーから解放して日常の面白さを再発見して映画以上の人気コンテンツになったのは皮肉な感じである。理論を考えれば最高の芸術として最良の結果になるというもんでもなく、その時代の人間にとって必要とされないものは消えていくものである。しかし消えていくものが劣っていて、残っているものが優れているかというと必ずしもそうではない。集団の人間関係でコミュニケーションのために複雑になった言語は感情を示す絵文字やLINEスタンプに簡略化されて、総合芸術である映画の演技や構成もリズムや風景やリアクションに還元されて単純化していき、批評はいいねボタンを押すだけになり、人間は複雑で手の込んだ表現を失ってどんどんあほになっていく。あほにとっては簡単でわかりやすいものほど価値があり、自分に理解できない複雑な芸術は必要なくなる。世界遺産に落書きする連中なんかが代表的なあほである。やがて人間よりもAIのほうが賢くなり、人間は考える力を失って感受性も退化してAIの指示通りに行動する自動装置になる。そういう未来が嫌な人は、わけがわからない芸術を鑑賞して感覚を拡張して、Googleに答えを求めるのをやめて答えのない問題を自分で考えないといけない。役に立たないようにみえるものを受け入れる感性を培うという意味では役に立たない芸術は逆説的に役に立っているし、芸術は金儲けのためにあほに迎合してはいけない。

★★★☆☆

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最終更新日  2018.11.01 17:21:07
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