三角猫の巣窟

三角猫の巣窟

PR

×

キーワードサーチ

▼キーワード検索

サイド自由欄

コメント新着

三角猫@ Re[1]:戦争反対について考える(04/02) 四角いハムスターさんへ 四角いハムスタ…
四角いハムスター@ Re:戦争反対について考える(04/02) お久しぶりです。 コメントはしておりま…
三角猫 @ Re[1]:善本位制について考える(08/02) 四角いハムスターさんへ 善本位制がうま…
四角いハムスター@ Re:善本位制について考える(08/02) 三角猫さんへ 中国は国家安全ために自国…
三角猫 @ Re[1]:善本位制について考える(08/02) 四角いハムスターさんへ 私は宗教国家の…
2019.01.06
XML
カテゴリ: 小説
アラサー校閲者の女がしょぼいおっさんに恋する話。

●あらすじ

1:零細出版社で校閲の仕事をしている34歳の入江冬子は同僚からハブられていて、大手出版社勤務の同い年の石川聖(女)に仕事への姿勢をほめられたので3年前に退社してフリーランスになる。

2:9年前の冬に25歳の誕生日に真夜中を歩いてから毎年誕生日の夜に散歩をしばくようになる。聖と酒をしばいて愚痴を聞かされる。

3:仕事を終えたらカルチャーセンターの講座が気になる。

4:カルチャーセンターをしばいてゲロを吐いたときに50代の高校の物理教師の三束(みつつか)とぶつかって、鞄もなくしたので三束に金を借りて茶をしばいてお互いに光が好きだという。

5:三束が夏休みになったので茶をしばいて本をもらって、聖から恋バナを聞く。

6:高校三年生のときに水野くんの家をしばいて初セックスをしたら、ぼんやり生きてるのを見るといらいらするとキレられる。

7:安酒を飲んでいたら恭子から前の会社の上司が死んだと連絡が来たので通夜をしばくと、聖は正論を言うけどもめ事が多いし男癖が悪いから利用されないように気をつけろと恭子に忠告される。



9:15年ぶりに高校の同級生の早川典子に会って昼飯をしばいたら、子供ができてからセックスレスで旦那が浮気していると典子に相談される。月曜なのに三束と会ったので茶をしばいて、酒を飲まないと会話できないと打ち明ける。

10:11月に片頭痛で仕事量を減らして酒を飲むのをやめて、三束が好きで会うのがつらくなったので茶をしばかなくなるものの、今までの人生で自分でなにも選択してこなかったことを反省して三束に電話して恋愛感情を確認する。

11:聖にもらったお古の服でめかしこんでハイソなレストランで三束と晩飯をしばいて、三束に愛を告白して誕生日の真夜中に一緒に歩くように頼む。

12:アパートに戻ったら聖がいて見てるといらいらすると絡まれて、聖に友達になりたいと泣かれる。

13:妊娠した聖と37歳の誕生日を祝う。2年前の誕生日の真夜中に三束は来なくて、高校教師だというのは嘘だと打ち明ける手紙が来てそれきりだった。

●感想

冬子(わたし)の一人称。誰に対してなぜ語っているのかというナラトロジーの始末ができていない不自然な一人称になっているので、三束に宛てた手紙だとか何かしら語る口実をつくるべき。わたしを冬子に変えて三人称でも成り立つ文章なので、だったら三人称で書くほうがまし。いつの時代の出来事なのかも不明で、たとえば団塊の世代の34歳とバブル世代の34歳と就職氷河期世代の34歳だと恋愛観や結婚観が違うので、34歳と年齢を特定するだけでは書き方が不十分で、時代も特定しないとアクチュアリティがなくなる。
仕事内容を掘り下げていけば校閲の職業紹介として面白くなる可能性もあったけれど、職場でぼっちでフリーランスになったという設定のせいでそっちの掘り下げは足りなくて仕事の特殊性が物語の面白さにつながっていないし、作家が取材しやすい出版業界の職業に逃げたようでよくない。校閲と校正の違いを掘り下げるくらいはやってほしい。校閲業界だけだと話が広がらないので結局他の登場人物を加えるためにカルチャーセンターという外部要素を持ち出してこないといけなくなって物語が遠回りしたうえに結局カルチャーセンターにも行かなくて、主人公が校閲者である必然性もなくなって、デートもたいてい茶をしばくだけで退屈。
主人公が誤植のない本はないと言っているのであえて誤植だらけにして三束が三東や三吏になったりする間違い探しするような遊びを入れるやり方もあったかもしれないけれど、そういう遊び心もない。異化やマジックリアリズムや不条理といった文学らしい遊びもないので技法的な見どころがない。性欲や結婚や妊娠や育児といった恋愛にまつわる諸要素を掘り下げるようなはっきりしたテーゼもなくて、聖のヤリマンや典子のセックスレスとかを浅くちりばめてそれに対する冬子の意見がなくてアンチテーゼやジンテーゼもないので、思想的な見どころもない。冬と夜と光とクリスマスと別れというサンボリズム的な感傷を強調する月並みな恋愛小説になっている。
物語は展開が遅いうえにたいした出来事が起きなくて、350ページほどの小説なのに半分を過ぎても三束と茶をしばく程度の関係にしか進展していないし、何か事件が起きるわけでもなくて濡れ場もないので恋愛小説としての山場がない。文章は丁寧に書いてあって聖の自己愛性人格障害っぷりに特徴がよく出ているのはよいけれど、話が退屈すぎるのがよくない。女性読者なら取るに足らないような些細な会話から垣間見える人間関係の距離感が面白いのかもしれないけれど、私はプロットがない小説は退屈すぎて飽きてしまう。冬子は悪い人ではないれど人間的な魅力がなくて、感情の起伏が乏しくてユーモアもウィットも色気も愛嬌もなくてぼんやり生きているアラサーのボッチがどういう恋愛をしようがどういう仕事をしようがどうでもよくなって興味がなくなる。もしこの小説が三人称なら冬子と聖の恋愛を比較したり、冬子と三束を交互に書いたりするような演出の仕方もあるので物語に起伏をつけて見せ場が作れるけれど、一人称にしてしまったせいで冬子の目的のない自分語りが延々と続く構図になって読者の興味を引くための工夫が足りなくて映画なら10分で見るのをやめるレベルでつまらない。それに最後まで読んだところでクライマックスが聖にとられて結局恋愛の話でなくて友情の話になっていて、話の着地点がおかしい。女性が人生の選択をするという点にしても、たぶん冬子のようなぼんやりした読者以外は30代になる前にとっくに人生の選択をしてきて冬子を見ていていらいらする側だと思うし、そういう点で読者を選ぶ小説である。主人公が20代ならぼんやりするのもまだわかるけれど、婚期が過ぎているのに高校生みたいなどんくさい恋愛をするのはぼんやりしすぎだろう。
帯に太田光の「天才が紡ぐ繊細な物語に超感動、美しい表現はもはや言葉の芸術」と変な誉め言葉を書いているけれど、そもそも小説は言葉の芸術なのが当たり前で、言葉の芸術じゃなかったら値段をつけて売るレベルでない。言葉の芸術であるという当然のことを門外漢の芸人がいちいち褒めて天才扱いしないといけないほど文学のレベルは落ちているということになる。帯には「芥川賞作家が渾身で描く、究極の恋愛。」というキャッチフレーズも書いてあるけれど、究極の恋愛ってなんだとこの帯を書いた人に聞きたい。どこがどう究極で、誰にとって究極なんだ。これが究極の恋愛なら講談社の他の恋愛小説は究極未満の恋愛なので読む価値ないのだろうか。というわけで誇大広告のぶんだけ評価を減らした。出版社は頭が弱い人を煽るような誇大広告をやめて、帯くらいまじめに書いたらどうなんだ。




すべて真夜中の恋人たち【電子書籍】[ 川上未映子 ]





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2019.01.06 05:24:52
コメントを書く
[小説] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: