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9 いびつに歪められている・子供 現代という時代について考える時、どうしても「弱者」の代表的存在としての子供たち、との関連を抜きにには、語れないような気がします。 いつの時代でも、相対的な弱者、いわゆる社会的に見た場合の弱者、が存在するでしょうが、今ほどその問題が深刻化し、慢性化している時代が考えにくいほどに、事態は危機的です。誰もそれに気付いていないからではなく、誰も彼もが、二言目には子供の為に、あるいは子供たちの未来・将来の為にと唱えながら、その実は、それとは反対の事を子供たちに押し付けている。それが問題だ、と言いたいのです。何か問題がある場合に、その問題の本質が正しく把握されている時には、実はもうそれは、実際上解決されたも同然なのです。危険なのは、人々が口々に「問題だ、問題だ」と叫んでいるのに、事態の在り様を間違って掴まえているようなケースですよ。 親達は、そして大人たちは、子供たちに何を本気で望んでいるのでしょうか。自分達の子供にどうなってもらったら満足するのでしょう? 誰も彼もが、一流の大学を出て、大企業に就職して、ハンサムや美人と結婚して、老後は完全看護の施設で安楽に過ごす。めでたしメデタシ。そんな「お伽ばなし」を本気で信じているのでしょうか。もし本気で信じて、それに向って邁進するつもりなら、何も申し上げることはありません。どうぞご勝手に、でことはおしまいです。 それとも、それは理想だけれど、現実にはどうも上手く行きそうでないから、それが問題なのだとでも言いたいのでしょうか―。冗談はこれくらいにしておきますね。本当は、どうしたら良いのか分からないのではありませんか。分からないなら、分からないと正直に答えれば良いのです。そして、相談すれば。一体誰に?識者に、いやいや、当の子供たちにですよ。悪ふざけを言っているのではありません。 子供たちは、実は何もかも知っているのですね。自分達が自分の人生をどう生きたいのかを、ちゃんと知っているのです。ただし、大人のように知っているわけではありませんが。時間がかかるのです。子供たちが大人に、親や教師や、そのほかの物識りたちに、自分が本当はこう生きたいと、告げるためには。ですから、どうか時間を彼らに与えてやっていただきたい。性急に、彼らに、子供たちに押し付けないで頂きたいのです。自分達大人が抱いている「不安」を。そうです、大人たちは大きな不安をかかえているのですね。不安で、不安で、ただただ不安なのです。だから弱者である子供に、精一杯の強がりと病的な苛立ちを押し付けて自分の思うようには決して運ばない現実に、怯えている。でも、不安だなんて、とても言えない。だから窮地に立たされた弱虫がそうするように、決然と、まるで勇気ある者の如く、行動するのです。そして、益々事態を悪化させているのです。
2012年12月31日
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8 生命の意義について、特に「遊び」の意義について 六回目 精神界の王者にしてもイエスの死は、余りにも力なく弱々し過ぎる最後だとは思いませんか、みなさんは。ユダの裏切りにあい、ゴルゴダの刑場までの道行きの場面などを、たとえば映画などで見る時などは特にそう感じました。しかしながら、視点を変えてみると、全く別の意味が 露に なっていることに、気づかされる。ええ、神の立場、演出者側の立場に立てば、その意図がなへんにあったのかが明確に、浮かび上がってくるではありませんか、ええ、その通り。力弱い一人の受肉者の境遇にあって、彼イエスほど苦しみや、受難の圧迫に耐え続けることの出来た「人間」は他に誰もいないのですから。過去においても恐らくは今後においても。極限の苦しみ、磔刑の最後の時イエスは「アッバ(お父ちゃん)」と叫んだと伝えられていますが、かつて自分が天の神から遣わされたあのメシアであることを一も二もなく大勢の人々に了解させる為に、実に恐るべき力を発揮し数々の奇跡をおこさせたイエスとはまるで別人であるかのような変貌振りです。 やはり、私はイエスが偉大な、そして比類のない素晴らしい詩人だったことを強調したい。芸術家の中の芸術家・イエス。芸術の本質には遊び、遊戯性があります。我々一人ひとりを憂き世の辛い頸木から解放する真の救いがある。福音とは、イエスの説く神の便り福音とは、そのことの中に象徴的に示されている――。そんな風に、無理を承知で強弁したい誘惑にさえ、駆られますが、今はその時ではありません。 人類の師と呼ばれる、古代ギリシャの賢人・ソクラテスは彼が心底から愛している国家が、自分に死を命ずるならと、国外に逃亡を勧める友人達の言葉を制して、自ら進んで毒杯を仰いで従容として死に赴いたと言います。古代の偉人のまことに見事としか言いようのない最後と比べる時、イエスの対照的な死に方は、我々に何か非常に大事な事を告げようとしている。そんな具合に、考えを進めてきた私は、次のような結論に到達していたのです、はい。 つまり、私達人間はこの世に生を享けて、様々な辛い事、困難なこと。悲しいことに次々に見舞われ、その都度、落胆したり、絶望の淵に沈んだりしますが、それはとても、孤独にして無力な一個人には耐え得ないことです。そこで死が、そしてそれに続く復活が必要なのですね。勿論、本当の死ではなく仮の「死」と「復活」。そうです、通過儀礼としての仮死と再生を通して、私たちは自分の心・精神・魂(たましい)を健全・健康に、正常な状態に保ち続ける必要性があるのです。そして勿論、それらと密接に関係している身体・肉体も真の意味で初めて健康かつ正常に保つ事が可能になる。 そのことを、イエスの生涯は、その極めてドラマティックな最後も含めて私たちに教えようとしているのではありますまいか。 今現在の私自身の関心と意識のあり方がそうさせるのか、カタルシスとイニシエーションの方に引き寄せ過ぎたきらいがあるにせよ、この様な解釈にも十分な根拠があるのですよ、ええ。 イエスの説くところの天国は、この地上に、既にあるのですね。 人々が、各自の心の中にそれを、天国を招き入れる用意さえすればなのですが……。
2012年12月17日
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8 生命について、特に「遊び」の意義 その五 良寛のエピソードで有名なのが、子供たちとの関係です。一緒に「手まり」を突いて遊んだり、かくれんぼに興じて、日の暮れるのも忘れた―、と言った内容ですね。ここから自然に浮かんでくるどこか牧歌的とでも称すべき暢気で柔和、とても平和で、毎日を楽しみ生きることや生活自体をひたすらエンジョイする術を体得した達人・仙人の様なイメージがある。また一方では、実に厳格・峻烈とでも形容すべき内面の、孤独でストイックな高い精神性。恐らくは殆ど極限まで己を厳しく律したであろう彼の人生の在りよう。この両極端の著しくかけ離れて見える、まさにこの点に良寛和尚の人間としての、書家としての限りない魅力の秘密が隠されているのではないでしょうか。 ここで、唐突のようですが、「謎の人物、イエス・キリスト」について話題を転じる事を、どうかお許し下さい。 人類の歴史の上でも、指折りの有名人であるイエス・キリストに対して、敢て「謎の」と形容詞を付けたわけは、単純です。長い間、この私にとって深い謎に包まれたこの偉人は、実は専門的な研究者たちにとってさえ、謎の人物であり、その全部が究明されつくしているわけではないようです。クリスチャンでもなんでもない、一人の門外漢にしか過ぎない私にとっても、イエス・キリストと呼ばれる人間の在り方が、不思議なほどの魅力を持って、私のこれまでの人生の様々な局面において何処からともなく立ち現れては、何事かを問いかけてくるようだったのですよ。 カイザルのものはカイザルへ、と言ったイエスは地上を支配する権力者を志向してはいませんが、明らかに天国・神の国の王者である事を強く自認しています。魂・心・精神の世界の王にして偉大なる支配者たるイエス・キリストの、あの余りにも無残で悲惨な「人間」としての最後は一体なんとしたことなのでしょうか?勿論、人類全体の罪を一身に背負っての父なる神に対する贖罪行為という意味づけがあり、その後の復活が用意されてはいますが――。それにしても、と以前の私はいぶかしく感じずにはいられませんでした、実際の話が、事実。 キリスト論を展開するのが狙いではありません。ここではキリストが何よりも傑出した詩人だったことに注目していただきたいのですね。 「栄華を極めたあのソロモン王ですら、野の百合が身にまとうことを許された程の豪華な衣装を、その身に付けたことがない」―、うろ覚えですので正確な表現ではないかもしれませんが、その比喩の意表をついた卓抜さ巧さは、余りにも非凡。そのほか数多くの名文句が、イエスの口から語られますが、みなさんが良くご存知の通りです、はい。 人々の心を浄化する芸術の中でも、ドラマの中の名セリフとしての詩は、あまたの芸術中もっとも尊重されるべき、霊妙・不可思議なる効果を我々にもたらします。そして、イエスの短い一生は、余りにも劇的、ドラマティックに過ぎるではありませんか……・
2012年12月12日
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8 生命について、特に「遊び」の意義 その四 そして各自、各家庭での主体的な解決策―、それは個人個人の人生に対する姿勢に直結した、自分の人生をどう生きるか、またどう生きたらより良く充実して生きられるのか、という大命題と真正面から向き合う事を意味します。誰か他人の、親とか教師、あるいは先輩や社会的指導者の意見や力を、鵜呑みにするような受身の姿勢ではなく自分自身の創意と工夫・努力によって、より輝くための努力を開始することは、自分により相応しい、それ故に、より生きるに値する人生を創造する事に、直結するに違いありません。人生には、こう生きたら良いなどという出来合い(レディーメイド)な人生などはなく、常に自分が自分自身に注文を出す(オーダーメイド)方式しかないのですから。自分の人生です。どう生きても良いのです。自分が満足している限りは…。そしてトライ&エラー、これあるのみ。経験から、あるいは切実な体験を通じて成長し、人生の輝きを増していく。それ以外に、人は生き様がないのでありますね。 ここでもう一人、僧侶の良寛について触れておきます。今の私が或る意味ではもっとも関心と興味をそそられている人物だからですが、遊びという観点からも、忘れてはならない方だと思うからです。その詳しい人物像や伝記などについては、ほかの専門家の解説に譲ることにして今はこの本のテーマにそって、必要最小限度のことだけを、述べるに止めたいと考えます。 良寛さんの呼び名で、一般に広く親しまれているお坊さんは、また書道の達人として高名ですよ。この私も、若い頃に、下手の横好きで勉強していたお習字のお手本に、良寛さんのものを選び、幾度か挑戦してみた覚えがあるのですが、とてもとても、まるで歯がたちませんでした。細身の、素人眼には稚拙なように見えるその字が、実は鋼のような強靭なバネを内部に蔵していて、私如き凡手の、手の届くところではないのですね。外見と深いところにある本質。これは生理の必然とでも形容すべき関係によって密接に結びついている理屈なのですが、ちょっと見や未熟な者には理解不能。お恥ずかしい次第ですが、私が良寛書の驚嘆すべき本当の姿を垣間見るようになった、少しでも近くに寄り、理解を深める事が出来るようになった、そんな風に感じたのはつい最近のことなのでした。
2012年12月10日
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生命について、特に「遊び」の意義 その三 ここまで縷々、論を展開して参った私の意図は、次の一事にあります。つまり、私たち人間・人類を含む全生命は、唯単にこの地球上に存在するだけで、そのことだけで十二分に存在意義があるのだと。繰り返しますよ。生命は、本来、この世に存在すること自体に大いなる意義があるのです、勿論、何らの条件等無しに。誰からも余計な注文など要らないで。どうか、この極めて大切な真実、生命に関する根本命題を肝に銘じて、決して忘れないで頂きたい。 そしてもう一つ、生命にとって生きることの中心・核心にある「遊び」の重要性について、注意を是が非でも、喚起しておきたいのですね。そうです、現代に生きる私たち人間にとってこそ、この「遊び」の大切さ・重要性は改めて、再認識される必要があるのです。ペットたちはあらゆる機会・チャンスをとらえて、私たち飼い主の人間達にそのことを教えようとしている。だからこそ、飼い主である私たちの心が、また病んだり疲れたりした「魂・たましい」が、強く癒されると感じるのです、実際。 遊びをせんとや 生まれけむ 戯(たはぶ)れせんとや 生まれけむ 遊ぶ子供の 声聞けば 我が身さえこそ 動(ゆる)がるれ (梁塵秘抄 巻二) 専門的には色々な解釈が可能ですが、素直に次のように読み解いたらよいのではないでしょうか。つまり、外で無心に遊びに興じている子供たちの声を聞いていると、大人である私でさえも妙に、何故かしらこの心が揺さぶられるような、大きな感動の思いに包まれている事だよ。そうしてみると、そもそも私達人間と言うものは、「遊び」や「お遊戯」等と言う、日常生活には直接役立たない、一見して無意味・無価値と感じられる時間、そうした「あそび」に興じたり、一時的に我を忘れるような瞬間に、無邪気な幼児のように没頭する、唯それだけの為にこの世に生を享けたのではないかと錯覚する、奇妙で不思議な思いに自然に、とても強く捉えられている。一体、どうしたことだろう……。とても、とても不可思議だ―、その様な内心の呟きに、私達もまた無心で、心を空しくした状態で、耳を傾けさえすればよいのではないでしょうか? そう言えば西行にも、子供の頃を詠んだ和歌がいくつかありますがその根底には,この梁塵秘抄の唄に通うような想いがあるように、私には思われますが、いかがでしょう……。 さて、現代の日本社会に起こっている様々な「異常」事態を考える際にこの「遊び」の精神・エネルギーの衰退、あるいは、軽視と言う問題を取り上げないわけにはいかないように、私には思われてなりません。特に、子供たちの世界での、所謂「遊び・遊戯」の重要性を、我々大人たちはもっともっと真剣に、また前向きに認識した上で問題の所在について掘り下げ、議論を深めた後に、銘々で抜本的な対策を講じることを期待したいものですね、是非とも。
2012年12月07日
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8 生命について、特に「遊び」の意義について ・その二 ところでこの「本能」と呼ばれるものですが、辞書によれば動物が教えられたのではなく、生まれつき持っている性質・能力のことです。そしてこの本能については、今日の人間社会では、不当にと少なくとも私の目には見えるほどに軽視、または、蔑視されているように感じられる。「本能の赴くままに」とか「本能をむき出しにして」とかの表現は、決して死後などではありませんよ。 本能とは、なにか恥ずべきもの、所在をあからさまにしてはいけないもの、のように扱われ、捉えられる局面が多いように思われますね、なんだか。 ところが、その本能だけで生きている筈の、ペットたちが人々の心を癒す。癒している現実を、一体どう受け止めたらよいのでしょう。 私の考えはこうです。動物における本能とは本来、とても清潔なものです。それは生物が生物として生きていく上で、必要にして欠くべからざるものであるが故に、純粋であり、さらには美しいとすら形容してよい。 この様に考えてきますと、悪いのは本能ではないと、私たち人間の所謂「文化」なるものに、疑いの目を向けたくなります。文化とはそもそも何物なのか……?学問的なレベルでの議論はとても私の手に負える代物ではありません。ごくごく分かり易く、「国民や民族の 生き癖 のようなもの。その結果として顕著な学問・芸術など」と、一応説明しておきましょうか。人間の文化とは、何のことはない人間と言う一種の生き物の「生き癖」なのだ。と、乱暴に一回言い切ってしまえば、隠されていた真実の在り処が、一気に見えてきたりしないでしょうか。如何でしょう。 ここで、本能を自然とか、野生という言葉に置き換えてみてもよいかもしれません。母なる地球を含む全宇宙という大自然や、限りなく偉大な野生から、著しく逸脱し、横道に逸れすぎてしまった我々人類との間に立って、自然や野生を思い出させる貴重な便(よすが)となっている存在。それこそがペットたちなのだ、と。さすれば、咎(とが)があるのは本能や野生の方ではなくて、人間のあり方や生き方のほうなのだ。一寸見には、詭弁を弄しているように見える、本来の、正真正銘の正論がご納得頂けたでしょうか――。
2012年12月06日
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8 生命について、特に「遊び」の意義 改めて申すまでも無い事ですが、この世界には生命の無い物質と、その物質を体の大きな要素として生命現象を営む生命体・生物とが存在し、この生命体・生物は生殖行為によって種全体の繁栄をはかりますが、固体は予め定められた時間・年数を行き切ると、生命体である事を止めて、体を構成していた別々の物質に分解・還元する――、というような事柄が教科書などには記述されています。が、しかしこれに類した科学的な説明をたとえどれほど沢山読んだとしても、生命の不思議・神秘を解明することには役立たないでしょう。科学が進歩すれば、進歩するほど、生命の持つ不思議さは益々深まっていくような感さえしますよ。 真摯に研究に取り組む、良心的、かつ優秀な学者であればあれほど一種宗教的な感慨に深く心を揺さぶられると聴きましたが、その通りであろうと肯かれますね。 地球上に数ある生物の中でも、自らを「万物の霊長」と称して水の惑星・地球が生み出した多くの生命体に強力な(いや、暴力的、否狂暴な)影響を与え続けてきた「生物界の王者」たる人類!?21世紀の今日に至って、俄かに自分達の所業の結果として、地上に招来している数々の悲惨な現実を前に、反省しきり、と思いきや、なかなかどうして、話はそう簡単には終わりそうもありません、はい。実に、実に嘆かわしい限りであります…、と、そんな何処かの能天気な評論家のような慨嘆に耽って、自己満足の空虚な時を過ごしていられるような、そんな生易しい、暢気な時代ではありません。 私たちには、何が何でも「幸せに生きる正当な権利」も、そして勿論、然るべき「義務」も、両方共に、持ち合わせがあるのですから、ですね。 ところで、ペットの癒しということが頻りに言われています、世間では。犬や猫や、小鳥たちペットは本来野生状態で、それこそ自然に、自由に伸び伸びと生きるはずだったのでしょうが、私たち人間の手で改良されペット化され、色々な家庭で飼われるようになった。このペットたちを含む動物達と、我々人間とを分けるものとは、一体なんでしょうか?ちょっと見には、簡単そうなテーマですが、意外やそれ程単純ではない。それは最近の色々な研究者達の報告などから窺い知ることができるのですが、ここでは仮に、本能だけで生きているものと、そうではないものとの違いとして、話を進めることにいたしましょう。 われわれ人間は言葉を始めとする、様々な道具を使って生活しその結果として高度な文化を持っているが、他の動物達は本能だけを頼り、本能だけで生存している存在だ。とまあ、この様に考えるわけです。
2012年12月02日
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