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2024.01.19
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カテゴリ: 光圀の諸国への旅
 大得民牛肉麺館の向かいは、​ 恵済宮 ​という道観と寺が合わせた寺院である。文化財であるため、たいわんだけではなく日本のからの観光客も多いが、わしにとって小さいころから参拝してきた寺院である。台湾に戻ったら必ずここへ参拝する。



 正面の入り口から階段に登り、芝山岩という丘に登るのだ。



 芝山岩隘門。いわゆる関所、関隘。これは1825年に建てられた文化財。清国は台湾を領土としたばかりの時、大陸の住民の台湾渡航を厳しく制限したが徐々に緩和してきた。すでに福建省から多くの人が台湾に渡ったが、漳州と泉州出身の人はよくケンカしていた。漳州の人は守りやすい丘に恵済宮を建て、さらにそれを守るための関隘も設置したのだ。日本の寺、神社も同じく、かつて戦争時に城、関所として機能することもあり、丘、山に立たれたのだ。​ 上野東照宮 ​もまさにこのような理由で上野戦争の時彰義隊の本陣となったのだ。上野の寛永寺はお寺であるが、西国、都に何があった時、天皇を京都から迎えるための御所のため建てられたのだ。



 台湾の道観、寺、道観と寺による寺院には多くの神様を祀るのだ。ここもそうであった。主祭神は、開漳聖王、観音菩薩、文昌帝君。中国の唐の時、まだ未開発の福建省漳州で起こった反乱を鎮めた後に、開発に着手した陳元光という将軍がのち漳州の人に開漳聖王と呼ばれ、神様として祀られている。文昌帝君は中華圏における学問の神様の一人である。恵済宮は文昌帝君を主祭神としているため、受験時期で多くの受験者とその保護者が参拝しに来る。わしも小さい頃から受験合格のためここへ参拝してきた。今は、自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう守っていただきたいため、参拝いたした。





 恵済宮は日本近代史における芝山巌事件という出来事の舞台でもある。恵済宮を参拝した時、隣の裏道から進むと、「六氏先生之墓」が見える。



 1895年(明治28)、台湾は清国から日本へ割譲され、日本の植民地となった。伊沢修二・台湾総督府民政局学務部長は長期統治のための教育政策を行うための責任者となり、日本語を普及させるために、当時まだ道観だった恵済宮の前身である恵済堂を間借りし、日本語教師の養成の学堂を開いた。伊沢とともに、教育に当たったのは、山田耕造、だけではなく、初代群馬県令楫取素彦の次男で吉田松陰の甥にあたる楫取道明、井原順之助、関口長太郎、山田耕造、中島長吉、桂金太郎、平井数馬であった。しかし伊沢と山田が乙未戦争のため台湾へ出征し、病死した北白川宮能久親王の棺とともに日本へ一時帰国した時、台北周辺の治安が悪化してしまった。結局、1896年1月に楫取、井原、関口、山田、中島、桂、平井と用務員を合わせ7人が抗日ゲリラに殺害された。六人は不憫と思う住民に埋葬された。この事件はいわゆる芝山巌事件である。殺害された六人の先生は六氏先生あるいは六士先生と呼ばれた。



 六氏先生をはじめ、台湾教育に殉じた人々を祀るため昭和5年(1930)に創建された芝山巌神社の社殿の前に、1896年に建てられた「学務官僚遭難之碑」がある。



 伊藤博文の揮毫によるものである。芝山巌事件がきっかけで日本は統治政策をさらに強化したという。



 蒋介石や中国国民党は1949年に台湾へ逃げた時、芝山巌神社をはじめ多くの神社をつぶした。芝山巌界隈で多くの特務関係の機構が設置されたため、芝山巌神社の本殿跡に蒋介石の側近で特務のトップとして知られ、国民政府軍事委員会調査統計局副局長を務めていた戴笠を記念する「雨農閲覧室」を建てた。実際にここから、台湾の情報・治安機関を統括する国家安全局の本部にある陽明山への大通りのところもほぼ一本道ぐらいで近い。なお、戴笠という名前も本名であるかどうかわからないという。

 この時、恵済宮の住職は、六氏先生の墓跡から遺骨を密かに移し、無名の墓を造って祀っていた。のち台湾の民主化が推進された時、六氏先生之墓や学務官僚遭難之碑の復元も果たせた








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最終更新日  2024.01.30 00:05:36コメント(0) | コメントを書く
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