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★【送料無料】 DVD/洋画/英雄~国姓爺合戦~/DVF-50価格:3,990円(税込、送料込) 最近、次の行動を考えるときに、自分に関わりのあるものから、何か方向性を導き出すという思考方法が働く。今度、従妹の結婚式にスペインに行くこと、亡き妻の母国の台湾、そして愛する日本。スペイン、台湾、日本で共通するもの探すためにネットで検索にかけた。 そうすると出てきました。「サメの漁獲量の順位」 多い順から、インドネシア、インド、スペイン、台湾・・・日本(9位)のようです。サメは、フカヒレを目当てに獲られます。フカヒレの50%は香港に集まるそうです。 少し勉強になりましたが、これを探すために検索をかけたのではないです。 ありました。「オランダ統治時代(台湾)」・1622年 オランダ東インド会社、台湾統治・1626年 スペイン、台湾進出。・1642年 オランダ、スペインを駆逐・1652年 郭懐一の反乱・1662年 鄭成功がオランダを駆逐。鄭政権の幕開け 鄭成功(1626-1662)は、台湾を奪還した英雄。その英雄は、父が鄭芝龍、母は長崎平戸の出身の日本人であり、日本人と漢族のダブルである。 鄭成功をモデルとして、世話物として「国姓爺合戦」の物語を描いたのが近松門左衛門である。甘輝の重んじる「義」と、国姓爺の母の「母の情け」とで板挟みになるが、最終的に錦祥女の自刃でことが動くことになる。現代人には理解できない価値観やもしれない。しかし、近松のやるせない現実を描く手法には、読者や観衆をうならせるものがある。 中村染五郎が、近松門左衛門の作品が好きで、シェークスピアよりもすごい作家なんじゃないなかと本に書いてあったのを思い出す。 鄭成功の時代は、北の清が台頭し、明が衰微。福建省に追いやられている。世界は大航海時代で、スペインやオランダが東シナ海に交易を求めて跋扈する。同時に倭寇等の海賊が現れ海上貿易で富をなした。非常に経済的に活発で活動的な時代を迎えていた。そうした中、交易を閉ざしていた明が衰微するのは、時代の流れから容易に理解ができる気がする。 一方、日本に目を転ずれば、戦国時代から新たな秩序を求めて江戸幕府が開幕し、国の形を整えていく。文化においては、千利休が茶道という禅に通じる新たな文化を起こし確立された。その茶会の様子は、神屋宗湛、津田宗及、今井宗久、松屋久政らの四大茶会記に見て取れる。異文化に対しては、厳しい措置が取られた。キリシタン弾圧が日本全国で徹底された。 このように、16C、17Cの環東シナ海の国々は、文化の衝突と交易の拡大が大胆にも実行された時代であった。日本人と漢族のダブルである鄭成功が、オランダ支配下にあった台湾を奪還するということは、この時代を見事に象徴しているかのようである。そして、今のグローバル化の時代。現代に示唆することがなにかあるのではないかと、そんな直感も働く。 キリスト教、茶道、禅、政治の転換、自由な交易 そうした時代、日本は鎖国へと突き進むのだが、今のグローバル化する時代からすれば、むしろ逆行した行動のように映る。なぜ、鎖国が国に秩序と安定を与え、文化的にも栄華を誇るようになったのかは、十分に考察すべきことだと思う。今の時代に鎖国したほうがよいと短絡的なことをいっているわけではなく、単に不思議なこととして疑問に思うだけである。 さしせまって、今の時代に話は移るが、国の債務超過が目前、原子力事故、少子高齢化問題、相次ぐ企業破綻、すべてが体制的ないきずまりを見せている。国家という枠組みで、新たな思想をもとに国づくりを企画する時期に差し掛かっている。しかし、そのような力強い未来像は、誰も提示はしていない。将来は年寄りばかりで、若者の負担が増大する。そんなネガティブな姿しか提示できないようでは、ますます、活力もなくなり人口も激減し、未来に希望が持てなり、自滅への道へと進むであろう。このままの出生率に近い形で推移すれば、2060年には人口が約8,600万人になるという。約4,000万人も減るのである。内需拡大どころの話ではない。大幅な経済規模縮小である。人口が減っても生産性が高い産業に特化すればよいとのお気楽な議論を展開する人もいるが、全ての人が、全てそんな事業に携われるわけもない。 世界はグローバル化の流れがあり、世界は境界なく混じり合う方向へ向かう。TTPを受け入れろをいっているのではない。TPPは農業、医療の分野で重大な問題がある。TTPというしくみが、このまま原則論を押し通すならば、望ましくない。TTPがダメなら、別の方法で、グローバル化の試みたほうがよい。 グローバル化の流れは正しい。しかし、日本国として守るべきものと変えてゆくべきもの、それを明確にすべきである。日本の国としてのアイデンティティを十分考え、ゆずってはならないものは、ゆずらない。その部分を明確にして、法律で、きちっと強制するところはおさえておくようにすることだと思う。 そして、そういったアイデンティティと守りつつ、少子高齢化の問題を解決するひとつの方策として、移民受け入れは、拡大したほうがよいと考えている。 こういうと保守的な層から、批判を受けるかもしれないが、グローバル化というのは、外へばかり拡がるのではなく、内へもグローバル化し、人間の内面もグローバル化しなければ、人間がついていけなくなる現象であると思える。 そういう視点に立ったとき、16C,17Cに環東シナ海の国々で起こったことから学べることは、文化的衝突が起こった時の、よくもあれ、あしくもあるその身のこなし方ではないかと思う。そんな風に直感している。宗教や文化は人類の財産である。それだけ人間の中でも根深い。近松の国姓爺合戦も、価値観と価値観のせめぎあいである。その中で身のこなし方を選択している。 そこで思うのが、今後の教育および体制の基本となることは、日本の歴史、文化、価値観をきちっと教え込む一方、多様な価値観を受け入れる思考の習慣化が必要となってくると思う。自分自身を守る一方、広い心でそれぞれの人格に敬意を払う。それこそ、今後の日本を形作る上で必要なことだと思う。当たり前のようなことをいっているようだが、誰しも徹底されていないし、できていない。今の日本に足りないのは、基本的な事項の確認と徹底だと思われる。 そんなこんなんで、17Cの環東シナ海の国々にまつわる歴史に、今、注目している。
2012年02月29日
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【送料無料】いっぷく拝見決定版価格:2,100円(税込、送料別) 騒々しいメディア、政治、世界経済、原子力発電所事故などせちがない世の中に惑わされ、心にさざなみがたって落ち着かないと思っていところ、この本がすこんと落ちて入ってきました。「いっぷく拝見」。本当に一服しました。 茶の間の掛物の言葉を茶道や禅の観点からこんせつ丁寧に解説したもので、その内容には恐れ入りましたといいたくなるほどでした。本当に悟りに近いひとでないと書けない文章だと思います。それだけ、すっとわかりやすく心に落ちてきました。茶をやってみたくなりました。 この本を読んで分かるのは、茶道や禅が目指すものは、和して、一体となり、あるがままの姿となって執着なく無心となることだとわかる。そして、心が乱されない穏やかな(閑・関)境地へ達する。茶の稽古や禅の修行はそこへ到達するために、くり返しくり返し体を通して行われる。 現代人にとっては、不思議な境地だと思われる。喧々諤々喧嘩のような議論が当たり前のように毎日のように行われる昨今、求められているものやもしれない。 茶室に入り、湯のたぎる松風とひとつになり、部屋の外の雨滴とひとつとなり、また主客一如の境地へと達し、山へ入れば、水と、空を見れば白雲と、鳥と、ひとつになり、やがては大自然と、そして全宇宙とひとつとなり、すべての二元的に対立したものから遠ざかり、忘我し、座忘し、無心となる。そして、あるがままの姿となり、「直心の交わり」となる。そんな心穏やかな境地に達せられればいいなあと思う。 茶をはじめよかな。1.千利休の道家の精神「四規」・・・「和敬清寂」・「和」 茶事・茶会においても、点前のすべてにの動作、道具の扱いすべてに「和」という根本がいる。「人との交わり」においても、主客一体という人間関係から「一座建立」がなされる。・「敬」 「客の心になりて亭主せよ 亭主の心になりて客いたせ」つまり、一心同体になること・「清」 亭主は客の通る露地をあらかじめ清掃して打ち水をする。また、客は露地を通って蹲踞(つくばい)で手と口をススグとか洗うというのではなく「清める」。・「寂」 何ものにも乱されることのない、静かな心。「不動心」(抜粋) 客が静かに心を落ち着けて茶席に入ります。そして床の掛物を拝見して自分自身の心を清めるのです。そうして、お香のかおりをきき、花を拝見する。湯の煮える松風の音を聞いて、静かに乱れない心で感謝を込めてお茶をいただく。こうした実践・体験の積み重ねによって「寂」は大自然に同化するということになり、自然の中に溶け込み、自然を見つめ、さらに自分自身をも深く見つめることによって、不動の信念が生まれるのです。「和して流れず 敬してへつらわず 清くしていさぎよく 寂にしてやかましゅうせざれ」:「和敬清寂」の実践、千利休の教示。2.無賓主の茶(抜粋P225) 茶道の本旨は無賓主の茶であるといわれますが、この無賓主の茶を生涯の目標とされた方が元伯宗旦居士であります。主客ともに妄心を離れ、直心(じきしん)に茶そのものになりきって雑念を混じえず、いつのまにか心に起こるすべての乱れが消え去ってしまい、身のこなし一挙手一投足すべての手前作法が無心無作の中にでき、賓主ともに「直心の交わり」の中で一座建立がなされることを、無賓主の茶というべきでしょう。3.六度:六波羅蜜(人間形成の重要な六つの実践項目) :「布施」「持戒」「忍辱(にんにく)」「精進」「禅定」「智恵」・「布施」 本来は自分だけの欲にとらわれず、他に施し奉仕すること。茶ならば、一碗の茶を心から差しあげ、茶事の場合、心を尽くしてもてなしをすること。・「持戒」 法則に従って、自分自身を清めていく。人にはやさしく、己に厳しく・「忍辱」 どんなに苦しいことがあっても耐え忍ぶ心を養う、そして他には寛容であること。・「精進」 茶を点てたり喫したりする稽古も大切ですが、点前の作法を日常の立ち居振る舞いにも結びつけ、実際の生活の中に生かしていくということ、さらには分限に応じて精進することも大事。・「智恵」 まことの道を体得すること。4.随流認得性(抜粋P315) 世の中の動きにしても、次から次へといろいろな運命が私どもに襲いかかってきます。その運命の波にもなれながらも、私どもの心は万鏡に随ってさまざまに変化します。雲はいつも風に乗って移行し、水は常に低きに流れる。そこには何のこだわりも執着もなく、無心に人生の流れに処していく。この「無心の心」こそが、「転ずる処、実に能く幽なり」で、自由無碍であり、奥の深いはかり知れないものであります。こうした流れに素直に応じながら、本心を自覚すれば、喜びにも有頂天になることなく、悲しみにも憂うることもなく淡々と乗り越えていくことができる、という意味になると思います。5.松風 湯のたぎる音を5段階にわけてたもの。「蚯音」「蟹眼」「連珠」「魚目」「松風」 「松風」は釜の湯のたぎる最適の湯相の音として、これが松に吹く風の音に似ていることからこの名がある。:後入の時に釜の湯のたぎる松風の音を聞きつつ躙口(にじりぐち)から入る。一切の俗塵を捨て切って松風とひとつとなる。6.雲無心鳥知還(抜粋p395) 雲が何の心意もなく悠々として山の峰あたりに広がっている、雲も無心、飛ぶ鳥も無心でいるさまで、意識した美では到達することのできない自然の妙景です。そして、その自然は誰彼の区別をもたず、あるがままに動いています。こうした無心で自然な心で我々も暮らしてみたい、これが茶を学ぶものの理想郷でなければならないと思うのです。・・・・茶道とは無心を体験する道でもあると思います。7.稽古(抜粋p495)利休居士道家の中で、茶道の稽古は「一点前点てるうちには善悪と、有無の心のわかちをも知る」と示されているように、手前を学ぶというのは、体の構えから、扱う道具のこと、点前の順序などを体に覚えさせるために、くり返しくり返し修め行うことです。また、点前中に他所ごとに気を取られたり、考えついたりするのは、有心(塵)であり妄心(埃)といわざるを得ません。「稽古とは一より習い十を知り 十よりかえるもとのその一」8.ふくささばき(抜粋p478) 濃茶点前の時に茶入を清めるためのふくささばきの所作として四方さばきをします。ふくさはご承知のように四角形で、東西南北と、北東、東南、南西、西北の四隅、さらに三角にたたんで天と地です。まさに、盡十方世界を表しているのではないでしょうか。9.関(抜粋p506) 禅だけに限らず茶道においても「関」があります。茶席に入る露地には必ず「関守石」があります。この石は茶席に入る道しるべとして置かれてあることはご承知のとおりですが、ひるがえって考えれば、人生の道しるべとして受け止めることもできましょう。茶席の躙口も「関」の表象があります。思考するものは、躙口を入ることを許されないのです。「思考する」とは、妄想するなよ、あれこれ迷うなよ、ということであり、この語句を心にきざんでこそ、はじめて躙口という「関」が開かれ通ることができるのです。
2012年02月16日
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