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牧之原市にある勝間田城は平安末期から室町中期に勢力を伸ばした勝間田一族の居城だった城で応永年間(1394年~1427年)に建てられたと推定されています。 麓の駐車場に車を停めて茶畑を登っていくと富士山静岡空港の管制塔が見えました。(富士山静岡空港は6月4日に開港予定)茶畑の端に出曲輪の跡があり、さらに進むと城跡の石碑が建っていました。二の曲輪、三の曲輪跡ははっきりしており建物の土台も残っているようです二の曲輪では礎石を使った建物が建てられていたようで、兵糧米などの倉庫として使われていたようです。 二の曲輪から尾根伝いに登った所に本曲輪があります。ここには藤原(勝間田)長清の句碑があります、長清は鎌倉時代の文人で夫木和歌集の編纂をしています。 勝間田一族は応仁の乱までは勢力を伸ばしていましたが、今川氏と対立して文明8年(1476年)に勝間田城は落城、一族は四散してしまいます。一説では御殿場方面へ逃れたといわれており、御殿場にカツマタ姓が多いのはこのためかも知れません。
2009年05月28日
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東海道線 熱海-函南間にある丹那トンネルは鉄道史上でもかなりの難工事でした。丹那トンネルの長さは7804メートル、大正7年(1918年)に着工し工事期間は16年にもなりました。湧水や崩壊による大事故は6回も起こり67名もの尊い犠牲者がでました。トンネルの熱海口には犠牲者の名前を彫った丹那トンネル殉職碑が建てられています。 トンネルがある丹那盆地には丹那断層があり地震の発生源でもありました1930年に丹那盆地を震源地として起きた地震で断層がずれたためにトンネルも直線ではなくわずかに曲がっているそうです。
2009年05月26日
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函南町には「新幹線下」という変わった名前のバス停があります、ちなみに、「新幹線上」というバス停もあります。新幹線のガード下ではないのに「新幹線下」? さらに、この辺は「新幹線区」だそうで、なぜ新幹線なのか新幹線の新丹那トンネル建設時にここに建設作業者の官舎があったそうですそれで新幹線区という地名になりました。(今は上沢になってます)
2009年05月25日
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伊豆市と沼津の重須を結ぶ山道を行くと雄飛滝があります。滝は2段になっていおり上段が20メートル、下段が10メートルこの滝の特徴は柱状節理と呼ばれる柱状になった岩で、人工的に岩を積み上げたようなところを水が流れています。柱状節理の岩肌を流れる滝は伊豆地方には多いようで、伊豆半島の火山活動や地殻変動に関係あるのかもしれませんね。
2009年05月23日
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ブログ開設より1000日になりました。一時期、更新が中断したこともありましたが、ここまで続けてこれたのは皆様のお陰です、改めて御礼申し上げます。 ブログ開設1000日記念としてホームページ版も立ち上げました 当ブログともどもよろしくお願いします。
2009年05月23日
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沼津の静浦漁港に小さな島があり、瓜島というのが正式名称らしいのですが地元では西郷島と呼ばれています。かつて、西郷隆盛の弟である西郷従道の別荘がこの島にあったそうです。西郷従道は海軍大臣や内務大臣を歴任し明治27年(1894年)には海軍大将になり、後に元帥の称号を得ました。当時の静浦から島郷にかけては要人の別荘が多くあり、皇室の別荘(御用邸)が島郷に出来たのも、これら要人の別荘が多かったためであったようです。 現在の島は堤防から陸続きになっているので磯遊びや釣りで訪れる人が多いようでかなりゴミが散乱しており優雅な別荘があったとは思えませんでした。島から湾を挟んだ大堤防は釣りのメッカで休日には竿が乱立します。
2009年05月21日
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「花沢城」は日本坂トンネルの焼津口に程近い場所にあるのですが、標柱しか見つからず何度も探してようやく城への入り口を見つけました。花沢の里駐車場のすぐ近くに「珍鳥公園」があり、公園の裏手の山が花沢城。この鳥がいる公園はキジの仲間が多いようですが、鳥の名前を書いた札がないので何の鳥かわかりませんでした。 (^_^;) 珍鳥公園から花沢の里に向かうと長屋門風のトイレがある三叉路に出るので、左に曲がりしばらく坂を登ると花沢城跡の標柱がありました。標柱のある所から左の道へ入り分岐を右へ行くとリフトのレールが左手にあります。ここが城への登り口です。2本あるレールの左側のレールに沿って山を登れば本丸へたどり着くのですがそこへ行くのには大変でした。 レール近くに道らしきものがあるので、そこを登って行くと茶畑が見えてきます。茶畑の外周に沿って急な坂を登ると行き止り?周辺を探すと藪の中に獣道のような道を発見! 藪を潜ると人が通ったような跡が残されていました。どんどん奥へ進むと開けた台地の上に出ました。 レールの終点になっているこの台地の上が花沢城の本丸跡です。花沢城は今川義元が天文年間(1532~1554年)に築いた城で元亀元年(1570年)に武田軍によって攻められて落城し、そのまま廃城となりました。以前は登り口に案内板があったようですが、今は誰も整備しないらしく訪れる人も少ない朽ち果てた城跡のようで、苦労して登ったのがっかりでした(-_-;)
2009年05月19日
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足柄峠から神奈川県に入ると古道の道標があります。その後、古道は林の中を抜けて県道を横断してを繰り返して下ってゆきます。石畳の道もありましたが、かなり傾斜がきつい所があるので下りは注意が必要です。途中で古道が判らなくなり(新道との合流点付近)そのまま県道を通り地蔵堂へ。ここでからバスに乗って関本へ行くのも良いのですがバスの本数が少ないので歩いて駅へ向かうことにしました。県道を進むと「金太郎の蹴飛ばし石」、田原攻めのときに家康が陣を敷いた「陣場跡」などがあり矢倉沢の集落にでます。そのまま県道を直進すれば関本(大雄山駅)へ、橋を渡って別の県道を行くと山北へ。 バスを利用する場合は本数が少ないので前もってバスの時刻を確認しておきましょう
2009年05月17日
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銚子ヶ淵から先に進むと「クラモンガ湧水花園」という看板がありました。花園といっても、ただの原っぱにしか見えませんでしたが ^^;縄文時代の遺跡があったり、水源保護のために自然に近い環境にしてあるようです。さらに進むと「虎御前石」入り口の看板、本道から500メートルほど先にあるようなので今回はパスして先に進みました。やがて林道は舗装された県道に合流します。 途中に古道や峠への近道もあります(いずれも徒歩専用)林の中を抜ける古道を進み急坂を登りきると再び県道に合流し、峠まであと10分もう一息です。足柄峠には足柄城跡や新羅三郎義光吹笙の石、足柄関所跡や聖天堂などいくつもの史跡があり見所が多い所です。「吹笙の石」は笙の名人だった新羅三郎義光が、この石に座って笙の奥義を伝授したという話です。 足柄峠を越えると神奈川県に入り、この先道は矢倉沢へと続きます。
2009年05月16日
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足柄道は東海道が整備される前は重要な街道として古くから利用された街道で江戸時代に箱根越えの道が整備されてからも脇往還として使われました。その足柄道を歩いてみました。今回は携帯写メなので、画像の質が悪いですが、ご容赦下さい。 スタートはJR御殿場線・足柄駅です。ハイキングコースにもなっている足柄古道の標識がある方へ進むと、民家が途切れて、砂利道の林道になります。標識には足柄峠まで90分とありました。 しばらく進むと緑の中に鮮やかな赤い橋、なんでも縁結びの神社らしいです社から程近いとろには「対面の滝」への入り口があります。この滝は金太郎(坂田金時)と源頼光が対面した場所、足柄山に赤い雲があるのを見た源頼光が雲の下に偉人がいるに違いないと、家来の渡辺綱に命じて探しに行かせたところ、金太郎親子を見付けてこの場所で対面したそうです。 滝から林道へ戻り、進むと「銚子ヶ淵」があります、この淵には伝説があり祝言の最中に屁をした嫁がそれを恥じてここへ身を投げました。その後、この淵に女が履いていた草履が何度も浮かぶので、村人が地蔵を建てて祀って、霊を慰めたそうです。結婚式の最中にオナラをしたら恥ずかしいけど、何も身投げすることは・・・
2009年05月15日
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童謡「みかんの花咲く丘」は終戦直後の昭和21年に作詞:加藤省吾、作曲:海沼實によって作られました。この曲がラジオで初めて放送されたのはNHKのスタジオと伊東の伊東西国民学校(現・伊東市立西小学校)を結ぶ日本初のラジオ二元放送のときでした。放送ぎりぎりまで曲が出来ずに伊東へ向かう汽車の中で作曲をしたというエピソードが残されています。 亀石峠の伊東寄りに「みかんの花咲く丘の碑」があり、天気が良いときはここから歌詞のように青い海を見ることができます。今はみかんの花も咲き始め、まだ三分咲きぐらいですが甘い香りが漂っていました。
2009年05月13日
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静岡市の繁華街に落ち着いた感じの一角がありました。ここは江戸時代に代官屋敷があった場所で、最後の将軍・徳川慶喜が住まいとした場所でもありました。 江戸城が開城されると徳川慶喜は水戸で謹慎させられていましたが、駿府に身柄を移され、徳川幕府は幕を閉じます。謹慎処分が明けた明治2年にこの場所に居を構え、写真や自転車、油絵など当時としてはハイカラな趣味を持って過ごします。ここに植えられてある竹は慶喜お手植えの竹で駿府での謹慎場所であった宝台院に植えたものを株分けして植えてあります。また、庭園は池泉回遊式庭園で京の庭師・小川治兵衛作(平安神宮を手がけた庭師)の作によるもの。明治21年に同市内の西草深に慶喜が転居してから後は料亭「浮月楼」となり伊藤博文など著名人が多く訪れたそうです。現在でも浮月楼は見事な庭園が自慢な料亭として営業しています。
2009年05月12日
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塩の道で運ばれたとされる黒曜石の産出地である信州・和田を訪ねました。和田宿は中山道28番目の宿場で次の宿場である諏訪との間に難所の一つ和田峠があるため多くの旅人がこの宿場に足を留めた思われます。和田には本陣や旅籠など当時の様子を残す古い建物がのこっており資料館として公開されていました。(各資料館共通の入場券で300円) 黒曜石資料館には男女倉遺跡から出土した石器などが展示してあり、古くからこの地で石器文明が発達していたことがわかります。また、ここからは関東方面にも黒曜石が運ばれていたり、伊豆諸島からも関東方面などに運ばれていたそうです。石器時代の人がそれだけ労力をかけて運んだ黒曜石は狩や生活にとても重要なものだったからでしょうね。 和田峠付近で探せば黒曜石が拾えるらしいですが、素人ではよく分かりません、立ち寄った東餅屋のドライブインにお土産用に売ってたのを買ってきました。店主いわく 「うちの石は本物の和田産だよ」だそうです。
2009年05月10日
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偕楽園といえば水戸の偕楽園を思い浮かべますが、裾野市にも偕楽園がありました。裾野市の偕楽園は元々地元の共有地で地域の人たちが自ら木を植えたりして大切にしてきた場所でした。昭和33年に裾野市に管理が委ねられ偕楽園として一般に開放された公園になりました。 ここには不動の滝と呼ばれる滝があります、高さは10メートルぐらいで、滝のそばには不動堂があり、これが「不動の滝」の由来となったようです。公園の下流側には大きな道路が出来て開けていますが不動堂がある上流側は昔ながらの民家が残る侘び寂びがある感じでした。
2009年05月09日
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伊豆の豪族・藤原維景は平安末期に駿河守として現在の修善寺・日向に赴任したが後に湯ヶ島・柿木に本拠を移し、これが狩野氏の祖だといわれています。 狩野城への登り口はいくつかありますが、柿木橋バス停から登ってみました。登り口からしばらくは段々畑に沿って行くと林のなかにはいります。開けた台地の上にある中郭にはお堂があり、説明板がありましたが割れていたり一部は地面に落ちており、あまり手入れがされていないようでした。中郭から先に進むと本郭、西郭があり堀の跡も残っています。帰りは農村公園の方へおりました。こちらには駐車場があるので車で行くとしたらこちらから登る方がよいかもしれませんね。 狩野城は狩野川と柿木川の合流点にあり天然の要害ですが、狩野茂光の代に平家によって落城、その後再建され伊豆の一大豪族とて権勢を振るいましたが北条早雲の伊豆攻めによって再び落城します。 狩野といえば日本画の狩野派、この狩野派も狩野一族が祖だとも言われています。
2009年05月06日
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星の糞(黒曜石)や塩が運ばれた「塩の道」は大須賀・相良から御前崎を通り秋葉山から信州へ、さらに日本海へ抜ける長大な交易路。交易だけではなく軍事上でも信仰でも重要な役割を果たしてきました。 塩の道公園は「塩の道」をモチーフにした公園で園内の散策路は秋葉街道や千国街道、田沼横須賀街道など名前が付けられておりそれぞれの沿線市町村の木が植えられています。中央の丘は日本アルプスをイメージしてあり、その丘に和田峠の黒曜石が塩の道のシンボルとして置かれています。 歴史街道館では小笠出身で、さまざまな街道を旅した画家・杉山良雄氏の展示が行われています。街道の様子やそこで暮らす人を描いた素朴だが風情のある絵は見る者の心を和ませててくれるものがありました。
2009年05月04日
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御前崎に「星の糞遺跡」と呼ばれる変な名前の遺跡があります。現地に行ってみると、ただの空き地のようで遺跡とも思えないのですが、星の糞っていったいなんでしょうか? その正体は黒曜石、黒曜石がキラキラ光るのを「星の糞」と呼んだようですどうせなら、「星の涙」のほうがロマンティックでよいのにね~黒曜石の主な産出地で静岡県に近いのは信州の和田峠付近、古代人ははるばる信州へ黒曜石を求めに、また信州のからは塩を求めに交易したと考えられています。この交易路は「塩の道」と呼ばれ、菊川市にある「歴史街道館」にはこの塩の道についての資料などがあり、写真の黒曜石も歴史街道館に置いてあるものです。
2009年05月03日
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松本の続きです、城好きとしては国宝・松本城を見ておきたいですよね。天守閣が現存する貴重な城として国宝に指定されています。天守が建築されたのは秀吉の配下となった石川数正が松本に移入した文禄2年から3年(1593~1594年)頃だとされています。 写真右側が乾天守、中央の大天守、左側が辰巳附け櫓の三棟がある構造で辰巳附け櫓と付嘱する月見櫓は三代将軍・家光をもてなすために寛永年間に作られたもので、この建物は風雅な造りになっていました。 本丸御殿は天守の建設後に建てられ、城主の居住と普段の執務が行われましたが享保12年(1727年)に焼失して再建はされませんでした。本丸御殿に替わり二ノ丸御殿に政務の場所が移され幕末まで使われました。
2009年05月02日
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