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擬洋風建築の学校といえば、やっぱり松本の旧開智学校でしょう。明治9年に建てられた校舎は昭和38年まで学校として使われました。擬洋風建築の特徴である和洋折衷のデザイン、独特の技術がみてとれます。 正面の玄関には龍の彫り物、これは日光東照宮の龍をまねたものだそうですこの玄関は皇族などの来賓が来たときだけ使われ普段は裏の入り口から子供たちが出入りしていました。玄関上部にある表札の脇には天使がいました。龍に天使、面白い組み合わせですね。内部のドアにも透かし彫りがあり和風のつくり、講堂はステンドグラスにシャンデリアで洋風のつくりです。この校舎を設計・施工したのは立石清重という大工で、手本となる建物を自費で見て回る研究熱心で腕のよい大工でした。 校舎の中は博物館として公開されてます、面白かったのは当時の日誌が見れること。この日の日誌には「不良行為で2週間・・・」 とあります。2週間の停学、どんな悪さをしのかでしょうかね。他には今日は天気が良いから特別に散歩に行った」 などもありました。 この旧開智学校と伊豆・松崎の岩科学校は姉妹館の提携を結んでおり親善友好の交流があります。 現在の開智学校です、上部の塔や玄関が旧校舎の雰囲気を残しています。
2009年04月30日
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見付学校は明治8年(1875年)に開校した小学校で、擬洋風建築といわれる和洋折衷の建築デザインで、擬洋風建築の学校では松崎の旧岩科学校や長野県松本市の旧開智学校などが今も残されています。学校の基礎になっている石垣が横須賀城の石垣で、玄関はエンタシス様式(中央部が膨らんだ円柱)に近い飾り柱、屋上には2層の楼閣が付けられています。入り口に付けられた扁額は当時の浜松県・県令から寄贈されたもので荀子の一節にある「木は縄を受くれば直く、金は砥石に就かば利(するど)く」(木は縄をあてれば真っ直ぐに育つ、金属は砥げば鋭く切れるようになる)の意味真っ直ぐ、利発な子供になって貰いたいという願いが込められているようですね。 校舎の中は博物館となっており見付学校の歴史や昔の教育資料や古民具などが展示してあります。お手玉やおはじき、あやとり、けん玉など昔の遊びが体験できるコーナーもあるので親子で一緒に遊んでみるのも良いかもしれませんね。 この学校の塔は太鼓やぐらで登校の合図や時報として太鼓が鳴らされていたそうです。ここにある太鼓が三方原の合戦のさいに浜松城で鳴らされた太鼓だと伝えられています。あくまでも言い伝えなので真偽のほどは?ですが。
2009年04月28日
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三方原の合戦で大敗をした家康は命からがら浜松城へ逃げました。浜松城では追ってくる武田軍に備えてかがり火を焚き太鼓を叩きます、武田軍は計略があるのではと恐れ城攻めを控えいったん退却しました。この時に打たれた太鼓が意外な場所にあるのですが・・・ さて、難を逃れた家康はただ負けるだけでは武将の恥じなんとか反撃しようと一計を案じます。犀ヶ崖と呼ばれる谷の両側に布を渡して橋があるかのように見せかけて夜営している武田軍を急襲します。あわてた武田軍は布の橋を渡ろうと崖に転落、武田軍に大きな損害を与えました。一説では布の橋ではなく幕をはり陣があるように見せたのが事実であるとも。 三方原の合戦から数年後、夜な夜な犀ヶ崖の谷底からうめき声が聞こえたりイナゴが大発生するなどし、人々は犀ヶ崖で亡くなった兵士の祟りだと恐れました。そこで家康は僧侶を呼び供養しました、これが浜松に伝わる遠州大念仏の由来になりました。三方原の霊をまつった宗円堂は犀ヶ崖資料館として公開されており三方原合戦の資料や遠州大念仏の資料を見ることができます。ここには本多忠真の碑や夏目吉信の碑、なぜか鼠小僧次郎吉の墓もありました。本多忠真は徳川四天王の一人、本多忠勝の叔父で三方原撤退の際にしんがりをつとめ武田勢に切り込んだ、夏目吉信は「我こそは家康なり」と叫び家康が逃げる際に身代わりとなった猛将です。
2009年04月26日
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家康が生涯で一度の大負けをした大三方原の古戦場を訪ねてみました。上洛を目論む信玄は甲斐から伊那、岐阜へ向かうと思われたが二俣城などを攻略しながら南下してきました。まだ若かった家康は家臣の反対を押し切り出陣、祝田坂を下る武田軍を背後から襲うと出陣します。 しかし武田軍はすでに陣を構えて徳川軍を待っており武田軍と徳川軍は激突します。武田軍は約2万5千の兵力、徳川軍は約1万1千で兵力の差が大きく徳川軍は約2時間の戦闘で敗走します。 三方原台地は住宅地になっており実際にはどこで合戦が行われたか定かではありませんが、三方原霊園には古戦場の碑があります。
2009年04月25日
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久しぶりに裾野市にある五竜の滝へ行ってみました。端午の節句が近いので鯉のぼりが泳いでいました、泳ぐというか、滝を昇っているようですね。鯉は滝を昇ると竜になるそうですがこの鯉はどうでしょうか。 五竜の滝は昔は佐野瀑園と呼ばれ、五竜館というホテルがあり皇族や著名な文人も訪れた名所です。滝のある公園には若山牧水の碑があり「富士が嶺や すそのに来り 仰ぐとき いよよ親しき 山にぞありける」と刻まれています。 鯉のぼりは5月6日まで揚げられるそうです。
2009年04月23日
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道の駅・天城越えに立ち寄ったら敷地内にある昭和の森会館にも寄ってみましょう。この施設は「森の情報館」と「伊豆近代文学博物館」の二つに別れています。 森の情報館は天城の自然や歴史についての資料があり、特に天城の林業についての資料が多くあります。日本書紀には伊豆国で船を作り枯野と名付けたとあり、天城湯ヶ島が造船地であると言われているそうですが、山で船を作る?なんとなく実感が湧かないですね。ちなみに明治につくられた軍艦「天城」は天城の木材を使ったそうです。 伊豆近代文学博物館は入場料が300円の有料になり、伊豆にゆかりのある文人達の資料が展示してあります。なかでも井上靖と川端康成については資料が豊富に展示してありました。 外の庭園には井上靖が暮らした旧宅が移築されています。井上家は天城湯ヶ島で代々医者をしており井上靖の曽祖父は伊豆でも指折りの名医でした。井上靖は幼少の頃をこの天城で過ごしています。
2009年04月21日
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道の駅・天城越えに隣接する天城グリーンガーデンでは500種類、1万3000本のシャクナゲが植えられており今が見頃になっています。 シャクナゲ(石楠花)はツツジの仲間で数多くの品種があります。 伊豆半島固有のアマギシャクナゲの原種や交配種が特に多く見られます。その他にミズバショウなどの山野草も咲いており花も見ながらの散策にはよいポイントでしょう。しゃくなげ祭りは5月10日までで、期間中はシャクナゲの苗木販売が行われる。
2009年04月20日
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伊豆・稲取の雛のつるし飾りは日本三大つるし飾りの一つで、稲取の他には酒田の傘福、柳川のさげもん があげられます。最近では各地でもつるし飾りをかざる所が多くなっているようですが稲取では端午の節句もつるし飾りです。古くは武者絵などの幟旗のすそに飾りを縫い付けていたそうですが、数年前から端午のつるし飾りを始めるようになりました。 端午の節句らしく縫い飾りで作った鯉のぼりと兜もありました。つるし端午の飾りは6月30日まで文化公園端午の展示会場で見られます。 文化公園には足湯があるので足湯でまったたり癒されるのもいいですね、奥のほうにはウサギを放し飼いにしてあり、ウサギを見てるだけでも癒されちゃます。
2009年04月19日
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城は堀や土塁、石垣などで仕切られたいくつかのエリアに分かれています。このエリアを曲輪(くるわ)、と呼びます、郭(くるわ)とも書くこともあります。近年では本丸、二ノ丸などのように丸(まる)と呼ぶことが多いようです。そして曲輪の配置を縄張(なわばり)と呼んでいます、縄張は城を設計するときに縄を張って構造を決めたことに由来するそうです。 縄張りには曲輪の配置によって基本的な分類があり ・ 輪郭式 平城に多い一般的な形で本丸を中央に配置して四方を均等に防御します。 普通は四角形だが田中城のように円形のものもあります。 ・ 梯郭式 本丸の三方向を囲む方式、囲みがない本丸の背後には崖や湖など になっており天然の要害となる。 ・ 連郭式 縦型に曲輪を配置してある、横からの防御が手薄になる欠点がある。
2009年04月18日
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静岡県立美術館で行われている「黄金文明展」を見に行ってきました。ブルガリアで発掘されたトラキア人の残した黄金文明の遺産を公開しています。特に注目の展示品は黄金のマスクと黄金の花冠黄金のマスクは重厚な作りで風格があり、冠は精巧なデザインで気品がありました。 エジプト王朝が始まるはるか以前から存在したトラキア文化、そしてギリシャ、ペルシャ、ローマなどの文化にお互いが影響しあった、古代のロマンを感じる展示内容でした。 県立美術館といえばロダンの常設展示でしょうか。企画展示は撮影不可でしたので、ロダン館で写真を撮ってきました。こちらはストロボ・シャッター音なら撮影可能になってます。
2009年04月16日
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富士宮に源頼朝が馬を繋いだとされる桜があります、この桜はシロヤマザクラで4月の10日から20日頃に花を咲かせます。今はすでに満開になって散り始めていますが、頼朝の時代からの息吹を感じるような気もします。 この桜の奥にはこの地の旧家である井出家があります。頼朝が巻狩りを行ったときに泊まったとされていますが、当時の館は少し北東にあったようです。井出家に残されている門は高麗門と呼ばれるもので城の城門として使われる様式であるため、井出家が当地では重要な家柄であったかがわかります。 下馬桜は国の特別天然記念物、井出家の高麗門と長屋は市の文化財になっています。
2009年04月14日
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城の防御に欠かせない堀ですが、形状や目的などによっていくつもの種類があります。 水堀と空堀 堀に水の張った水堀と水のない空堀があります。 水堀は安土桃山時代からの近世の城に多く用いられました、近世の城でも山に 作られた城では空堀が多かったようです。 形状 ・ 箱堀 底が平らな堀、水堀によく使われます。 ・ 毛抜堀 底がU形になっている堀、これも水堀に多いようです。 ・ 薬研堀 底がV形になっている堀、空堀に多く使われました。 ・ 片薬研堀 底がレ形になった堀、これも空堀に多く使われました。 また、堀の底に仕切りを設けて敵の移動を困難にした畝堀や障子堀もあります。 山に作られた城では斜面に沿って縦方向に作られた竪堀がよく見られます。
2009年04月12日
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このブログでいくつか城を紹介しましたが、難解な用語があってわかりにくいのでちょっと用語の説明をします。 沼津城の図面をブログ友達の智太郎さんに描いてもらったので、それををもとに説明します。 虎口(こぐち) 城の出入り口です、小口(小さい入り口)から由来しているそうです。 形状や用途によっていくつか種類があります ・ 大手門 城の正門にあたります、信長・秀吉の時代からは二重の門を作るのが 主流になってます。追手門とも呼びます。 ・ 食違門 クランク状に曲げてある門、敵が直ぐに入れないようにしてあります。 ・ 馬出門(うまだしもん) 陣地設けて防御と攻撃を可能にしたものです。 ・ 搦手門(からめてもん) 城の裏口になります、非常口の役割もありした。 写真は駿府城の東御門櫓門になっており、櫓の上から石を落とすなどして敵を攻撃できるようになっています。門の中側はL字状の通路になっており敵が容易に入れない構造になっています。
2009年04月09日
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三島の中心にある商店街の一角に可愛らしい人形があります。「つるべっ子」と名前がつけられたこの人形は人が近づくと「よ~いっしょ」と水を汲んでくれるからくり人形。人形の衣装は季節によって替わっています。 動画はこちらで見れます。 この「つるべっ子」には「めぐみの子」という兄弟がいて、そちらは白滝公園で活躍しています。 「つるべっ子」のある台の下には金魚が泳いでいました。何回かここを通ったことがありますが、じっくり見たのは今回が初めてだったので金魚がいたとはビックリです。
2009年04月07日
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三島市の中心部流れる源兵衛川をちょっと散策してきました。三島市では街中がせせらぎコースと呼ばれる水辺の散策コースがありますが今回は三島広小路から田町まで歩いてみました。源兵衛川は楽寿園の小浜池から農業用水を引くために源兵衛さんが作った川だと云われています。 源兵衛橋のすぐ近くにある神社にある鐘は江戸時代に時を知らせていた時の鐘。 飛び石を渡って鉄橋の下を潜ったり、川の中に渡した道を通ったり面白い散策路で子供に返って冒険してるような気分になりました。しばらく民家の脇を抜けて行くと、緑に囲まれた「水の苑緑地」に。 この先には川沿いに桜並木が続いており、もう桜が満開になっていました。 街中からそれほど離れていないのにこれほどきれいな水がある川は素晴らしいことだと思います。一昔前は汚い川で散策などとても出来なかったそうですが、いまでは清流となって疏水百選にも選ばれています。
2009年04月06日
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藤枝市にある田中城(跡)です、この城は全国的にみても珍しい城だと思います。なにが珍しいかというと、城の配置(縄張り)です。写真では判らないですが地図を見ると・・・ 小学校のある所が本丸のあった場所です、本丸を中心に道路が同心円になっているのがわかります。「城は小円もって善とする」とあるそうですが、その通りに城になっています。(ただし、本丸は四角形です) 小学校の校庭には田中城のミニチュアが造れていました。田中城は武田氏によって三重の堀と三日月堀を持つ城が造られ、江戸時代になってから四重の堀を持つ城に拡張されました。ミニチュアでは天守閣がありますが、実際には天守閣はなく物見櫓が築かれていました。 徳川家康が天ぷらを食べて腹痛を起こし、その後駿府城で息を引き取りますが、その天ぷらを食べた場所がこの田中城とされています。
2009年04月04日
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磐田市にある旧赤松家は明治20年代に作られた門・塀が残っています。正門は左右に門番小屋が設けられた立派な造りで、レンガは当主の赤松氏が自ら指導して磐田で焼いたレンガだそうです。この写真では判りにくいですが、塀と門番小屋のレンガの積み方が違います。門番小屋の積み方はフランス積み(正式にはフランドル積み)と呼ばれる積みかたです。 門と塀は明治20年に建てられたもので、母屋はここには残っていませんが復元された土蔵が建てられています。敷地内には記念館が併設されており有料でお茶のサービスがあり、庭園を眺めて一服することも。(記念館は無料で入れます) 赤松家の当主であった赤松則良は明治時代に海軍中将を務めた軍人・政治家で若き頃から海軍士官を目指し、幕末には咸臨丸の最年少乗組員として渡米したり造船技術を学ぶためにオランダで留学もします。明治時代には沼津兵学校の教授や海軍兵大学校の教授、海軍省副官などの要職につき海軍中将にまで出世します。記念館には勝海舟の書簡など当時の貴重な資料が展示してあります。
2009年04月02日
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