2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全23件 (23件中 1-23件目)
1

旧富士川町役場のある岩淵地区は間宿(あいのしゅく)と呼ばれ、宿場と宿場の間にある休憩用の町です。当時、富士川の船渡名主の一軒であった常盤家は大名等が休憩する小休本陣をつとめていました。旧富士川町役場の脇には江戸から三十七里目の一里塚がありますが、塚の榎が虫害のため昭和42年に枯れてしまったため、昭和45年に2代目が植えられました。岩淵を東へ進むと富士川になります。富士川橋の少し上流には常夜灯と石碑があります。この常夜灯は富士川の文政13年(1830年)に建てられたもの。身延線が開通するまでは船による運送が行われていました。石碑は富士川を船が通れるよう開削工事に尽力した角倉了以・素庵親子を顕彰したものです。
2009年07月30日
コメント(2)

沼津には旧海軍の音響研究本部がありました。ここではレーダー、ソナー等の当時では最先端の研究が行われていました。現在でも内浦にあるオキシーテックでソナー等の研究開発が行われている。音響研究本部は香貫に置かれ、江の浦、淡島、大瀬などに実験施設などが点在していました。施設では女子挺身隊など約2千名が働いていたそうです。沼津第3中の前には石碑があり、裏には「少女菊池ひで等七名空爆の犠牲となりて・・・」と刻まれている。
2009年07月29日
コメント(2)

富士川の下流にある堤防、雁堤(かりがねづつみ)は幾度も氾濫する富士川を治めようとして造られた堤防で1615年から工事が始まり完成したのは1674年。工事に取り組んだのは古郷氏は三代にわたってこの難工事を完成させました。この堤防工事には悲しい人柱の伝説があります。富士川を渡ってきた老夫婦の巡礼が籠下村(現・松岡)の代官陣屋の前を通ると、役人に呼び止められ陣屋の中に連れて行かれました。すると一人の役人がこう言いました。「まことに申し訳ないが、あなたに頼みがある」どのような頼みか巡礼が聞くと「実は、大きな堤防を作っているのだが、なかなか工事が進まない。すでに代官親子五十年の歳月と莫大な費用がかかっている」「そこで人柱を建てようということになり、その日から富士川を渡ってきた千人目を人柱にすることに決めました。その千人目があなたなのです」すると巡礼は 「私は子供もおらず、身内は連れ合いだけです。そのため諸国を巡礼の旅に出ているのです。人とのお役に立てるのなら喜んで人柱になりましょう」「しかし、これから東国の霊場を回らなければなりません。それがすめば必ず帰ってきてお役にたちましょう」それから半年後に老夫婦は再び代官陣屋を訪れました。役人たちはもう戻ってく来ないと思っていたので驚きました。巡礼は「くれぐれも妻を頼みましたよ」と言い残し約束通りに人柱となったのです。
2009年07月28日
コメント(2)

今日27日に東駿河湾環状道路の沼津ICから三島塚原IC間が暫定開通しました(通行料は無料です)。この環状道路は沼津から箱根・伊豆方面へのスムーズなアクセスを目指したもので、計画では沼津市原から函南町平井までを予定しており沼津岡宮から函南町までは伊豆縦貫道の一部となります。早速、開通した沼津ICから三島塚原ICまでを走ってみました。沼津ICでは伊豆縦貫道への専用レーンが出来ました。従来の国道246・1号線方面は左側のレーン、縦貫道は右側のレーンになります。東名から直結なのでアクセスは便利になります。長泉ICまでは片側1車線、第二東名が完成すると、長泉JCTで第二東名と接続するそうです。長泉ICと一般道への取り付け道路は複雑になっているので注意しましょう。旧246方面への取り付け道路には出口に信号がないので、早期の信号設置を望みたいです。2車線になると、すいすい進めますが高速道路ではないので法定速度を守りましょう。三島萩ICはハーフインターで三島塚原から沼津IC方面のみとなっています。三島加茂ICはまだ工事中のため利用できません。終点の三島塚原IC、国道1号と合流します。開通初日ということで出口はかなり渋滞でした。沼津ICから三島塚原ICまでは信号がないので、多少渋滞していても従来の国1を使うルートより早いとは思いますが・・・この先、伊豆縦貫道が全て開通すれば沼津から下田までかなりの距離と時間が短縮されるでしょう。塚原ICから岡宮IC付近までの走行模様
2009年07月27日
コメント(6)

みしまコロッケは箱根の西麓で採れた三島馬鈴薯(メイクイーン)を100%使ったコロッケ。コロッケでB級グルメのグランプリを狙うべく開発された三島の新名物です。三島馬鈴薯を使っていれば中の具はお店の自由だそうで、いろいろな店のコロッケを食べ比べるのも面白いかもしれませんね。三島馬鈴薯を使ったコロッケはメークインの甘み、ジャガイモの味がしっかり出ていて美味しかったです。姉妹品としてサツマイモを使った甘藷みしまコロッケもあってサツマイモの季節はこちらもどうぞ。 <地元で話題の!>みしまコロッケ 5個入り【10P21Jul09】
2009年07月26日
コメント(2)

島田駅からほど近い所にある扇町公園に「平和之礎」という慰霊碑があります。ここは1945年7月26日に島田に落とされた爆弾の爆心地。この爆撃は原爆投下の任務にあたるテニアンの第509混成群団が原爆投下の訓練のために行ったもの。使用された爆弾は長崎型の模擬弾。爆弾にはTNT火薬1万ポンド(4.5トン)が詰められており、爆心地には直径10メートルの穴が開いたそうです。爆撃による死者は47名(そのうち即死者は33名)、負傷者は140余名、全壊家屋60戸と大きな被害が出ました。島田の他に焼津、浜松でも模擬弾が投下され、また全国では50発が投下されています。
2009年07月22日
コメント(8)

沼津の千本に首塚と呼ばれる塚があります。明治33年に暴風で倒れた松の木の下から多くの頭蓋骨が発見され、地元の人がこれを集めてここに供養したそうです。発見された多くの頭蓋骨は天正8年に北条氏と武田氏との間で行われた合戦で戦死した兵達のものであることが昭和29年の調査で結果わかりました。天正8年に行われた合戦では武田VS北条の駿河湾海戦がおこなれており、この戦いによる戦死者の遺骨だと思えます。このあたりでは、夜になると首のない武者が馬に乗って走るという怪談も伝わっています。
2009年07月21日
コメント(4)

貴重な湿地の環境を再現した浮島沼自然公園が富士市にありますが、このあたりの地名は中里字鬼ヶ島と呼ばれています。地元に伝わる話では・・・昔はこのあたりに鬼がたくさん住んでおり田畑を荒らしたり、村人が一人で畑へ行くとずいぶんひどい目にあいました。そのため誰も近づかなくなりましたが、このままでは仕方がないので村人を集めて鬼退治をしたそうです。
2009年07月21日
コメント(2)

沼津市の根方街道沿いに岡野公園という小さな公園があります。小さな公園だけど、大きな銅像が建っています。この像の人物は岡野喜太郎氏で現・スルガ銀行の創始者。彼は沼津市青野で生まれ、、明治20年に貯蓄組合共同社を創設、明治28年には根方銀行となり、明治45年に駿河銀行に改称。、現在はスルガ銀行となっています。氏が銀行業を始めたきっかけは青年時代に農業をしていた頃、天災に備えた貯蓄を痛感したからだそうです。氏が他界したのは101歳、碑文には「欲を離れるのが長寿の秘訣である」という意味の言葉が刻まれている。
2009年07月20日
コメント(5)

伊豆の海岸沿いは崖などに掘られたいくつもの穴が見られます。これは太平洋戦争末期に特攻兵器の格納庫などとして掘られたものです。写真は沼津市の内浦湾にある横穴で、内浦湾では震洋隊の第15突撃隊の本部が江ノ浦に置かれました。西伊豆町の田子では特攻基地の説明板がありました。田子には震洋と海竜の基地があり三十数本の横穴が掘られたそうです。震洋は水上特攻兵器でベニヤ造りのモーターボートに爆薬を付けたもの、海竜は小型潜水艇で魚雷による攻撃をするが、体当たり攻撃するものもあったそうです。特攻兵器というと神風や人間魚雷といわれた回天が思い浮かびましたが、モータボートによる特攻があり、伊豆にこのような基地があったと知り驚きました。参考文献:史跡が語る静岡の十五年戦争
2009年07月19日
コメント(0)

ゆうすげ(夕菅)、黄菅とも呼びユリ科の花で夕方に花が開いて翌日の午前中にはにしぼんでしまいます。昼間は見られない夜の花です。奥石廊崎の“あいあい岬”にあるユウスゲ公園では多くの夕菅が群生しており、海に夕日が落ちる頃合には斜面一面に黄色い花が咲き風に揺れます。公園の端には「あいの鐘」があり夕暮れの中、鐘を鳴らすカップルも。ユウスゲの花は8月頃まで見られるようです。
2009年07月18日
コメント(2)

東海道・三島宿から境川を越えて駿河の国に入りすこしばかり行くと大きな常夜灯があります。これだけ立派な常夜灯が道路沿いにあるのは珍しいですね。この常夜灯は弘化3年(1846年)の建立というから幕末の頃から防災、村内安全、そして街道を通る旅人を見守っています。
2009年07月18日
コメント(2)

岳南鉄道・原田駅の名物といえばやっぱり「めん太郎」でしょう。駅舎に隣接する小さな店ですが、鉄道利用客の他にもこの店を目当てにくる常連も多くいます。基本は「かけそば・うどん」、トッピッングはササミ天や野菜天、桜えび天など多くの種類があり好みやお腹の空き具合で色々選べるのがいいですね。ダシの利いた夏の季節は冷たいぶっかけもあります。注文のときにネギや天かすを入れてもいいか聞いてくれて、ちょっとした気配りがうれしいです。値段も安く、早い・旨いでうれしさ倍増です。
2009年07月16日
コメント(4)

三島の市街地は空襲にあわなかったためか、古い建築物が多く残されています。その中でも特徴的なのは看板建築といわれる様式の建物。看板建築は看板を立てることではありませんよ ^^; 主に店舗兼住宅(1Fが店舗、2Fが住居)で軒が出ていない平面的な造り、壁はモルタルやタイル、銅板張りになっています。のっぺりした建物でまるで看板のようなので、「看板建築」と言われており関東大震災から昭和初期に多く用いられました。代表的な三島の看板建築であるムラカミは大正15年の築で国の登録文化財になっています。今は「せせらぎ一服処 ムラカミ屋」として休憩所兼駄菓子屋となっています。これもかなり古そうな建物、2階部分のデザインが凝ってますね。メガネ屋さん、これもそうでしょうか。大きな視力検査の表がついているので信号待ちの時によく見てます。看板付きの看板建築?三島の本町・田町界隈も再開発などでマンション等に立て替えられる所が多いですが、看板建築に限らず古い建物をまだ見ることができます。 古い建物も消えつつありますが、歴史的な資料としても残してもらいたいものです。
2009年07月14日
コメント(5)

沼津市の原の旧東海道沿いにある美味しい水の豆腐屋さん。店の前にある蛇口は誰でも使うことができて、ペットボトルやポリ容器に水を汲みに来る人が絶えません。水が美味しければ豆腐も美味しいですよ。原の湧き水は他にも高嶋酒造が有名ですね。 【プレゼントチャンス実施中】 弱アルカリ水富士山麓の溶岩水1.5リットル8本入
2009年07月13日
コメント(6)

丸いお城で紹介した田中城の下屋敷が復元されていると知り出かけてきました。田中城に建てれていたものや下屋敷にあった建物を移築・復元したもので貴重な資料も展示してあります。明治維新後に田中城に入った高橋泥舟はこの建物を「光風霄月楼(こうふうせいげつろう)」と名付けたそうです。他にも櫓内には田中城や田中藩に関する資料がありました。資料によると、江戸後期の田中藩は4万石(実質は5万石)で城のある藤枝の他に駿東郡や下総にも領地を持っていました。櫓の他に郷蔵、茶室、中間部屋・厩があり、いずれも市の文化財となっている貴重な建物。茶室は田中藩家老の茶室だといわれており、清楚な感じがする数奇屋造り。郷蔵は天保14年に建て替えたという記録が残っているので、かなり昔に建たようです。厩には馬がいて、びっくりしましたが人形でした。厩には中間部屋が併設されており安政6年頃の築だと推定されています。小さいながらも庭園も復元されていました。写真は池のほとりにある「亀石」です。亀に見えるでしょうか?下屋敷には亀石と鶴石があったそうですが、鶴石は行方不明で亀石は偶然掘り出されて発見されたそうです。
2009年07月11日
コメント(6)

富士市の今泉に「源太坂」という坂があります。ここには芭蕉の句碑があり「目にかかる 時やことさら 五月富士」 の句が刻まれています。五月は、梅雨の今頃をさす季語。梅雨時には富士山を見れる機会はあまりありませんね。新富士駅の観光案内所では富士山が見えなかった日には「男前証明書」、「べっぴん証明書」が貰えるそうです。さて、「源太坂」の由来は源太からきています。源太とは梶原源太景季のことで、源頼朝に仕える武将です。頼朝は2頭名馬、生食(いけづき)と麿墨(するすみ)を持っており、麿墨を源太に、生食を佐々木四郎高綱に与えました。この今泉で野営をした際に源太が麿墨を自慢したところ、高綱が生食に乗っていることを知り嫉妬した源太が高綱を刺そうとしますが、高綱が「これは頼朝公のうまやから盗んだのだ」と嘘をついて難を逃れたそうです。
2009年07月09日
コメント(4)

富士市の大淵に伝わる話です。昔、大淵新田におばあさんと男の子が住んでいました。男の子は両親を亡くしおばあさんに育てられました。男の子は両親が恋しくかったのですが、近所の子供らから「親なしっ子」と呼ばれイジメにあううちに、だんだん性格が悪くなり石を投げたり、畑を荒らすようになり「大淵小僧」と呼ばれる嫌われ者になってしまいました。そのうち物を盗むようになり、おばあさんの言う事も聞かなくなってしまいました。村人は小僧を捕まえて遠くに置き去りにしましたが、すぐに戻ってきて悪さをします。堪忍の緒が切れた村人の中から「殺してしまえ!」という者が出て、名主は反対しましましたが、とうとう村人に囲まれ殴り殺されてしまいました。それから、小僧を殴った人が次々と病気でなくなり、そのうち村じゅうに謎の病気が伝染でしていきました。「これは小僧の祟りにちがいない」と小僧を祭る地蔵を建てたところ病気は治おったそうです。その大淵小僧の祠は丸火自然公園のはずれの森にあります。丸火でキャンプをするときは、ここへ肝試しに来ることが定番らしいです。イジメを受ける方もイジメる方も悲しい思いをするという教訓なんでしょうが、この話は実際にあった話だとも聞きます。
2009年07月08日
コメント(2)

軽井沢にやってきました。信州の軽井沢ではなくて函南町の軽井沢です。この軽井沢は三島から熱海へ抜ける熱海街道と呼ばれる道の中間にあるちいさな集落。公会堂の前には正岡子規の句碑がぽつんと建てれていました。 「唐きびの からでたく湯や 山の宿」正岡子規が韮山から熱海へ向う途中に軽井沢に宿を求め、素朴だが心温まるもてなしを受けてこの句を読んだそうです。熱海街道は根府川から熱海・伊豆山を経て三島方面へ向う街道の一部で、昔は箱根越えを避けてここを通る旅人いましたが、現在は熱函道路ができ、あまり通る車も多くなくひっそりとしています。 名作の風景-森鴎外/正岡子規/夏目漱石/芥川龍之介 -絵で読む珠玉の日本文学(8)-(DVD) ◆20...
2009年07月07日
コメント(4)

伊東にある観光案内所「伊東観光番」は松原交番だった建物です。この松原交番は昭和33年に設置され県内では現存する最古の交番建物。見た目も昭和を感じさせるような造りです。交番横の広場にはイタリア・リエティ市より贈られたモニュメントがあります。このモニュメントにはリエティ市特産のオリーブオイルを絞るさいに使われた石臼が使われおり、壁画にはオリーブ娘が描かれています。伊東では先日、タライ乗り競争が行われましたが、リエティ市ではワイン樽乗りレースが行われるそうです。ワインの店 ちどり屋
2009年07月06日
コメント(2)

菊川市にある黒田家は江戸時代に四千石の旗本、本多日向守の代官であったといわれています。主屋、長門門、米蔵が文化財に指定されていますが、現在は改修工事が行われいます。敷地内には資料館があり黒田家に代々伝わる貴重な資料が展示してあります。この代官屋敷は周囲を堀で囲まれており、敷地面積は1haほどあるのでちょっとした小城といったところでしょうか。
2009年07月05日
コメント(0)

出かけた先でいろいろと不思議で変わった物、面白いを見つけます。 沼津で見かけたクイズ付き看板、答えは何でしょう?これも沼津で見かけました、謎のロボット。伊豆の某コンビニにて、消費税込みの価格?伊東の猫の博物館には「小便小僧」ならぬ「小便猫」が長泉町にある人形のある家。昔は駄菓子屋みたいだったけど、今は人形屋敷?富士市吉原にある古い洋館、一般の民家でこのような洋館は珍しいかも。
2009年07月04日
コメント(4)

伊豆半島の先端、石廊崎の少し西にある入間地区はきれいな海に自然があふれる小さな集落ですが、これからの季節は海水浴、キャンプと賑わうことでしょう。ここ入間の名所といえば「千畳敷」です、南伊豆遊歩道を歩いて「千畳敷」に行ってみました。遊歩道の入り口は藪に覆われており、登山道のような感じがするきつい勾配の登り道が続きます。藪が開けた所で海が見えました、崖の向こうに見える岩が千畳敷、まだまだ距離がありそうです。 登山道のような道を登りきるとコンクリート舗装の道に出て、ここからはダラダラした下り坂、別ルートでくれば車でも行けそうです。山を見ると三角の岩が、山に“おにぎり”が張り付いたようで不思議、舗装道路の終点は広場になっており、その先はまた歩道になります。こんどは崖を降りる急な下り坂、途中でオーバーハングした岩の下を通るときは、岩が落ちてこないかドキドキしました。海岸に下りたら今度は岩場を伝う道、まるで蜀の桟道のようです。途中、道がすごく細くなっている箇所があって足を滑らしたら海に・・・慎重に足元を確かめて歩いていきました。桟道を抜けたら広い岩場が目の前に広がっていました。千畳敷は釣りのメッカで渡し舟も出ているそうです、釣りをするのにわざわざ山道を歩いていかないですよねぇ。海をのぞくと適度にサラシがあっていかにもメジナが居そうですね。ときおり高い波がくるので要注意。岩場は自然に侵食されてできた穴以外に人工的に切り取られた跡がいくもあり(昔の石切り場跡だそうです)、古代遺跡のようでした。私が行ったときは誰もここにはおらず、絶海の孤島に来たような気分、しばらく秘境に来たような気分を味わってぼーっとしてましたが、波が高くなってきたので退散することにしました。来るときは気が付かなかったけど、崖をなれ落ちる滝が見えました。う~ん、まさに秘境的景色かな。 潮騒の宿 銀の海
2009年07月01日
コメント(2)
全23件 (23件中 1-23件目)
1


