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私は自然体の杏のたたずまいが好きで、「平清盛」の北条政子役以来彼女のファンです。妙に周囲に阿諛ししたような、今ふうにキャピキャピした感じが皆無で、年齢のわりに大人びて見える。たんに飾らないというのではなくて、私はそこにかなり意志的なものを感じるのです。 これまた深読みですが、それはひょっとするとモデルとしての経験から来ているのではないか?いつぞやコシノヒロコさんとの興味深い対談がありましたが、杏は彼女のコレクションのモデルをしていたようですね。考えてみればモデル業というのは、新作のコレクションを一瞬にして最高に見せる仕事なわけです。極論すれば「動くマネキン」と言っても好い。マネキンがヘンに「個性」を発揮しては、肝心のコレクションがどこかへ行ってしまうので、ご法度なのです。 杏の魅力はそういう意味で、「一瞬にして我が身を消し去る」技量にあるのではないか?彼女がさかんにCMに使われるのも、そのあたり出しゃばらず商品を引き立たせられる魅力にあるのでしょう。ヒロコさんとの対談を見ていてそう思ったものでした。 さて、そうした彼女が俳優をやるとなれば、これまた真逆の技量が必要となって来るわけです。役者とは「役柄を一瞬にして我が身に憑依させる」技量のことをいうのでしょう。これまた自身の個性とは関係なく、しかし今度は我が身自身を「引き立たせる」技量がいるわけです。今後彼女がどのような方向に向って行くのか、私の密かな楽しみの一つです。 そういうつながりで、普段見ない朝ドラを「カーネー」以来久しぶりに観ていたのですが、残念ながら途中で降板してしまいました。同じ時代が描かれているのに、戦時の印象がまるで違って見えてしまうのはなぜなのか? それは一言で云えば、「過去(他者)」に「今(自己)」の思念を安易に読み込んでいないかどうかの違いだと思う(以下は杏さんの話ではありません)。 「カーネー」の製作者は「体験していない事」に対して、厳しい抑制を行っていたように思う。「他者の体験」を語ることの困難さを彼らは強く意識していたのではないか?で、それはおそらく「阪神大震災」の経験があったからだろう、と私は想像するのです。 平成の私たちが経験している大破局とは、紛れもなく「阪神大震災」と「東日本大震災」ですが、同時代であっても被災者の実体験と、それを聞かされる私たちの間には千里の径庭があるわけです。「阪神」の被災者には私の身近にも体験者がおり、何度もその話を聞くのですが、彼らが異口同音に「こればかりは実際に被災してみないと分らない」と言うとき、私たちは沈黙せざるを得ない。ひょっとするとこの人たちと私たちには「共有」といった言葉は、不可能なのではないかという気分にさえ陥るのです。 大事なのはこの不能感を意識しつつ、なお私たちはその事象に向って渾身の「想像力を羽ばたかせる」姿勢は保ちつづけなければならない、ということだ思う。 この「過去」と「今」の関係とは、そのまま「他者」と「自己」という言葉に置き換えられるものです。「他者」を語ろうとする時、安易に「自己」の予断を持ち込んだら、途端に相手が見えなくなるでしょう。早い話、戦時中に今の朝ドラに描かれるような「反戦思想」(主人公の周りは反戦平和主義者ばかりです)が本当に在り得たのか、はなはだ疑わしい。 勘助や糸子はもっとシンプルに「軍隊嫌い」「権力嫌い」だった(これは戦前でもごく普通の感覚だったでしょう。兵役逃れのノウハウがまことしやかに巷間に上がっていたのですから)のであって、いかなる意味でも「~主義者」ではない。だからそれはストレートに「国が間違っている」とか「戦争は悪」といった浮ついた話にはならないのであって、これはあるいは作り手の意図を超えて現れたものだったかもしれません。それを可能にしたのは作中人物(他者)に対する、作り手側(自己)の「謙虚さ」あるいは「敬意」といったものがあったからでしょう。 ひらたく言えば、作中人物から発せられる「声」に注意深く耳をそば立たせる、という態度です。 「聴こう」とする姿勢の前にのみ、「他者」は律動性を帯びて立ち上がって来るのだと思う。 「カーネー」だけが戦時の空気感を、あるいは出し得ていたかもしれないのは、結局時代の空気というものはそれを通過していない世代には、「絶対に共有出来ない」という強い認識があったからではないか? そういう意味で「想像力」というのは、決して所与のものではなく、強く意識することで備わって行く種類の「力」だと思うのです。なぜそれがそんなに重大なのか?それは「想像力」がヒトがヒト足るべき必須な条件だからでしょう。過去に遡り未来に思いを馳せて、「他者」の存在を意識することが出来るのはヒトだけだからです。 これはあるいは我が身を一旦カッコに入れて、相手(対象)を見詰められる「力」と言っても好い。「源氏物語」など「今(自己)」の思念を棚上げにしないと、到底読めた代物じゃないでしょう。 と考えて来ると、想像「力」というのが、どうやらヒトの尺度を測る一種のものさしになっていることに気付きますね。「強靭な想像」力とは、自身を「カッコに入れる(対自化)出来る」力のことであり、それは大人に成って行くこと(成熟)への階梯でもあるからです。 小中学校で情操教育が必須なのは、もちろん楽器や絵が出来るようになるためではなくて、想像力の鍛錬=成人させることが、教育の基本眼目だからです。このあたり、塾では絶対にマネ出来ない。 「カーネー」はそういう意味で、期せずしてヒトのヒト足るべき想像「力」を鍛錬する、最上の教材になっていたのではないか知らん。
2014.03.19
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ところでフィギュアから離れますが、今大会残念だったスキージャンプの高梨沙羅さん、デビュー当時から不利と言われた小さな体型を、むしろ逆手に取ったような大ジャンプを観ながら、つくづく思ったものです。他の選手がその大柄な体躯で、助走の加速度と大きな揚力を生かして、何やら力ずくで飛んでいるように見えるのに対し、彼女のジャンプは、あたかもツバメのように軽々と空気の中を駆け抜けて行く。重力に抗っているという感じが、少しもしないのです(見た目の話ですよ)。遮るものが無ければ、どこまで飛んでいくんだろう、という感じさえ抱かせるジャンプですね。 私はこれを観ながら、戦後モダニズムの詩人田村隆一の「鳥(でしたか?)」を思い出してしまいました。― 鳥は飛ぶ、鳥は鳥の中を飛ぶ ―という一節です。 ツバメが空を駆け抜けるとき、ツバメの身体は、厳密にツバメの体躯に止まっていない。周囲の大気と一体化した中空の中を飛んでいるのです。「拡張された身体」の中を飛んでいると言ってもいい。高梨さんもまた周囲の大気と融和して、その中を駆け抜けて行っている感じ。 だから彼女もまた、「先輩方への恩返し」などと、気を使ったコメントを繰り返す必要はない。私たちは「沙羅は飛ぶ、沙羅は沙羅の中を飛ぶ」ジャンプを観るのを願っているのです。これは何も先輩諸氏をネグレクトしたことにはならない。くどいようですが、アスリートとは「結局は、自分との戦いですから…」。出来ればジャンプ台周辺の大気と「友達」になって、どこまでも飛翔して行ってほしい、と思うのは私だけでしょうか。 それにしてもオリンピックの女子ジャンプは、何で「ノーマルヒル」一種目だけなのか、不思議で仕方がない。メダルの大盤振る舞いをするために、何やら種目をやたら増やしている競技が多いのに、これはどうみてもおかしいですね。 閑話休題 フィギュアの話に戻ります。と言うか、もうほとんど話は出尽くしているのですが。 ヒトは高度に社会的動物ですから、普段はもちろん「内部の流れ」の発動に、身を任せることは許されません。とはいえ、生き物は本態として具有するものを、ときに開放する場面も求めるのであって、スポーツはその「擬態的イベント」の一つと言って好いでしょう(ヒトのエロス的側面は、より端的な生き物の本態的現れであるわけですが、それは取り合えず、ここでの話とは関係ないので触れません)。 人は、人が我が身の在りようを、一段繰り上げようとする姿に「打たれる」のです。あるいは「沈黙させられる」と言っても好い。繰り上げても繰り上げても、なお目指す先には、はるか「空の上の雲」が広がっているのですが、なおかつそれを目指して行こうとする在りようこそ、「生きていること」の証しでしょう。こうした在りようは、もちろんスポーツに止まらず芸術や文学や科学その他、人の営み全般にあまねく広がっているのですが、アスリートはそうした「生き物」の掛け替えのなさを、端的に我が身一つの身体で私たちに明示してくれる。この明示性こそ、メダルの色や数などといった下世話な世界をはるかに超越して、私たちが真に「価値として求めている何物か」なのでしょう。 私はそういうふうにして、真央さんのフィギュアを見詰めて行きたい。 「真央は跳ぶ、真央は真央の中を跳ぶ」、というような。 荒川さんと浅田真央さんの対談、及び真央さんのFPに刺激されて、ずいぶん立ち入ったおしゃべりをしてしまいました。もちろんここの中味は私の厳密に個人的な妄想であって、沙羅さんも含め本人さんたちの在りようとは一切関係ありません。それでもこういう話をしてみる契機って、何かにつけ「怒り顔」でものを言うのが主流の今どき、滅多に無いじゃないですか。それが出来ただけで、私にとってソチは大いに値打ちがあった。 と言うわけで、お仕舞いはやはり真央さんのFPを観ることにしましょう。いろいろ画像を観たのですが、今回はオーソドックスにテレビの中継ビデオにリンクしておきます。優美というよりは、まさしくタラソワさん流の「驀進型」の演出。審判員を尻目に、それでも真央さんから立ち昇って来る世界は何なのか?― 「再び、女神は氷上に舞い降りたか?」 おわり ―
2014.03.06
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さて、再びインタビューの話に戻ります。 真央さんが「結局は、自分との戦いですから…」と云っていたのは、たんに自身のフィジカル的精神的な練磨のことを指していたのではないでしょう。我が身一つのことに集中するために、それを阻害する要因をいかに排除して行くか、という命題も含まれていたと思うのです。彼女の「絶対緊張出来ないように、集中していた」と言うところの「緊張」には、「緊張」の要因は外部から到来するという含意があって、それから身を守るために「集中」していた、ということではなかったかしらん。 荒川さんやイチローには、そうした精神の在りようを明瞭に示す「儀式」があって、トリノでのFPに入る前の彼女、毎回バッターボックスに入る前の彼には、一種の「帳(とばり)」が降りているように見える。端的に云えば「獲物を狙うときの生き物」の表情です。このとき「外部」は一切遮断されている。先に触れた「アスリートは超エゴイスティックであって好い(あるべきだ)」というのは、こういう状態であることを指すのです。パフォーマンスは厳密に、彼らの「内部の流れ」に添って展開するのであって、それを押し止めることは誰にも出来ない。 これはある意味、生き物の原初の在りようを、「呼び起こす」儀式と言っても好いかもしれません。一旦狙いを定めたチーターを、誰も押し止めることは出来ません、なぜならそれは、すでにチーターの「意識を越えた地点から発せられたもの」だからです。そのときチーターは、後戻り不能の沸き上がる「内部の流れ」に、身を任せていると言っていい。 で面白いのは、この厳密に内部の流れに「身を任せている」、当のチーターの「振るまい」は、完全に「外部と一致」している、ということなのです。彼の身体は周囲の草原や獲物の風景に溶け込んで、完全に一体化しているように見える。私の言う「拡張された身体性」とは、こういう意味です。 フィギュアで言うなら、氷と一体化した、あるいはリンクが「拡張された身体」として意識されるとき、女神は「舞い降りて来る」のでしょう。かつて私はトリノの荒川さんの演技について、外国紙評の翻訳を受け売りして、「彼女はその時、氷を支配(Control)しているように見えた」(荒川静香論2.2006年05月20日)という言い方をしてしまいましたが、今考えるとこれは違っていたのかもしれない。Controlしていたのではなく、「一体化」していたのでしょう。 武道で「敵に勝つ最善手は、敵を作らないことである」という格言がありますが、この場合の「敵」とは、自身の「内部の流れ」を阻害する一切のもの、つまり「外部すべて」ということでしょう。しかし「外部すべて」を排除するとは、どういうことなのか?それは結局、よく言われる「我が身を捨てる(意識を去る)」と同義ということなのか?私は武道その他で定番化された、このような用語を使うのがイヤで、話が行きつ戻りつしているのかもしれません。 やはり私はこういうとき、「身体を拡張する」という言い方をしてみたい。身体の在りようを「一次元、繰り上げる」という意味においてです。「敵に勝つには、自身の身体を拡張するしかない」のであれば、「真の敵は、我が身」にあるということになる。その地点まで来て、やっと、「結局は、自分との戦いですから…」という真央さんの言葉につながって来たように思うのです。 何だか、話がややこしくなってしまいました、すいません。― つづく ―
2014.03.05
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その楽しさと感動の在り処を、今大会の真央さんはものの見事に示してくれました。言うなれば、それは「一人、坂の上の雲に向かって、なお天駈けようとするパイオニアの姿」なのではないか?凡人は誰一人それに関与することは出来ず、ただ見守る他ないのですが、けだし「英雄」とはその孤高性によって、私たちにいつまでも語り継がれる「伝説」を残すものです。 彼女はバンクーバーですでに、同一大会で3回のトリプルアクセルを成功させるという、金字塔を打ち立てていますが、今回はそれに加えて6種類8回の3回転ジャンプを成功させるという、破天荒な偉業を成し遂げました。私たちはまさしく「英雄伝説の生まれる瞬間に、立ち会えたのだ」ということを、もう一度確認したほうが好い。先の3回のトリプルアクセルもそうでしたが、今回のもひょっとすると、二度と遭遇することの出来ない瞬間であったかもしれないのです。 「失敗しないスケーティング」が、「メダル取り」方程式の定番になりつつある世界の潮流に一人抗って、真のアスリートが本来放つべき「不可能性への絶えざる挑戦」を続ける真央さんの姿勢は、今後のフィギュアスケートの在り方に強い示唆を与えるものでしょう。オリンピックがもし観る者に「勇気」と「感動」を与えるイベントなのだとすれば、お手盛り式の「メダル取り」は、そのもっとも対極にあるものです。それは人々から勇気も感動も奪い、シラケた後味の悪さと「恨み」だけを残すでしょう。 それにしても不思議なのは、例えば体操などの競技だと、新技が飛び出せば、たちまちそれに挑戦する他のアスリートたちが登場し、いつのまにやらその技がスタンダードになって行くものですが、女子フィギュアにはそれがありませんね。まあそれほどに真央さんのキャパシティが、卓越したものとも言えるのかもしれませんが、大事なのは彼女がトリプルアクセルを子供のときから跳んだということではなくて、23歳の今でも跳び続けているという事実の方でしょう。 昔、ルーマニアの女子体操が曲芸的な技を軽々と決めて、世界を席巻したことがありましたが、コマネチさんを始めとして、明らかにそれは子供の体型が生んだ技でした。私たちは彼女らの演技を観て、「感服」はしても「感動」はしなかったのを覚えています(悪いですけど、何やらサーカス小屋の曲芸を観るような)。 このあたり、何やら示唆的ではないか?他は誰も跳ばないにしても、真央さんのフィギュアでは、トリプルアクセルは完全に「スタンダード化されている」、つまり他のアスリートも挑戦してしかるべし、という可能性を含んでいるということなのです。それを拒んでいるものは何なのか?もはや言うを待たないでしょう。現在の採点方式が、アスリートに新たな挑戦をさせるのを拒んでいるのです。 「高いポイントが与えられているじゃないの」という声が返ってくるかもしれませんが、新技や新構成に対する評価としてはあまりにも低い。挑戦するリスクに比べて、あまりにも魅力がないということなのです。アスリートから挑戦の気持ちを奪ってしまう得点システムなど、その基本思想が狂っているとしか言いようがない。他のアスリートが試みていないかと言えば、そうではない。先日のテレビで例のスルツカヤさんが、「私も練習した、しかし跳べなかった」とおっしゃってましたね。アスリートなら誰だって、新たな技には挑戦してみたいと思うのが心でしょう。 真のアスリートを生み出すための、「挑戦を促す得点システム」とはどういうものか。これはもう完全な素人の妄想ですが、要は現在の採点方式とは別個に、減点の無い「チャレンジポイント」を設けるべきなのだと思う。それを何点にするかで、また大もめにもめたりするのでしょうが、今回のソチを見る限り、今のままでは、またぞろ退屈で汚れた「メダル取り」合戦が繰り返されそうで、想像するだけでウンザリです。 プルシェンコさんじゃないですが、「4回転を跳ばない男子フィギュアなんて、アイスダンスみたいなもんだ」というのは、そのまま女子におけるトリプルアクセル他に当てはめるべき話なのです。彼がイッチョ最初にSP失敗直後の真央さんを応援していたのも、パイオニアであることの難しさ、挑戦することの厳しさ怖さをよく知っていたからでしょう。アスリート仲間は真の王者が誰であるか、誰に敬意を払うべきかを、よく知っているのです。― つづく ―
2014.03.04
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さて、いささか晦渋な話になってしまったので、「女神」はこれくらいにして、以下は少し下世話な話題をします。他ならぬキム・ヨナ選手のことなのです。4年前のバンクーバー五輪のとき、私は彼女の演技を絶賛しました(2010年02月27日)。お手盛りの非現実的な採点結果は、フィギュアというスポーツに大いに泥を塗り、それを仕掛けた国家あるいは組織機関の品格を大いに貶めたとはいえ、それはヨナさん個人の達成した偉業を揺るがすものではない。その考えは今でも変わっていません。 技術の難易度と演技の洗練が、極度にまでバランスされて非の打ち所がない。これはトリノで荒川さんが示した金メダルへの道の「方程式の最適解」になっているのです。公平に見てバンクーバーでのヨナさんの金は揺るがないでしょう。 それにわざわざ泥を塗って、大いに彼女の名誉を貶めたのは、彼女以外の「力」です。そのあたりはキチンと区分けして考えたほうが好い。未だにそのような仕方でしか、自国あるいは自己の存在証明が出来ない人たちが、国家あるいは民族あるいは組織集団単位で、世界には存在するということです。おかげで彼女の一挙手一投足は、いつのまにやら生身の個人を離れて、はるか中空の国家機関他を体現するものとなってしまいました。 今回ソチに降りったったヨナさんの第一声、「ここの氷は、好きではありません」。私は早くも予防線を張っている彼女の姿勢にウンザリしてしまいました。彼女は滑る前からソチでの金は、不可能だと思っていたかのようです。なぜならバンクーバーでの採点結果を、誰よりも知悉していたのは、彼女だったからです。同じことを他国にやられたら、どないしたって勝てっこない。そこには個人のパフォーマンスとかチャレンジ精神の介在する余地はないのです。 国家あるいは彼女自身とは関係のない召命を目一杯背負わされて彼女、リンクを滑っていて、ちっとも「楽しくなかった」のではないか? とはいえ今回のソチでの彼女の演技を観ていると、ヨナ方式でのメダルへの「最適解」は、限界に近づいているという気がしないでもない。なぜなら他の選手は、厳密にヨナさんの方程式に沿って、それをちょっとずつ上回る仕方で錬磨して来たかに見えるからです。端的に言えば「絶対に失敗しないスケート」をする、ということでしょう。なぜなら「これなら私にも出来る」からです。真央さんの方程式は、誰が見たって真央さん以外解けない(だってトリプルアクセルは、他の誰も跳べない)。 結果はヨナさんの予言どおりになりました。お手盛りの「出来ばえ点」云々以前に、ヨナ方式だとフィギュアの出来ばえがほぼ拮抗してしまうという結果となったのです。拮抗すれば国家あるいは諸機関の介在が働くわけで、「金メダル取り」は個人の力とは、まったく関係なくなってしまう。 今回の女子フィギュアを観ていて、どうも現在の採点方式は、そろそろ見直しの時期が来ているのではないか?何も真央さんの得点高がいつも不当に低いからどうだ、ということではなくて、このままの採点方式を続けるなら、遠からず女子フィギュアの未来には限界が来るだろう、という気がするのです。 そもそも現在の採点方式が採用されたのは、8年以上前確かトリノの前の年からだったと思いますが、全般的な技術点と印象点の合計だけで長らくやっていたのが、あまりに不当な採点評価の頻発と、例の審判員の買収スキャンダルで見直しがなされて、採点の中身をより詳細に開示出来るようにしたのが、現在の方式だったと思います。とはいえ別に冬季に限らず、いわゆる採点競技というのは、人の目が入るぶん、常に「当、不当」の騒ぎが絶えない種目で、これは判定に人が介在し、さらにはその背景に国家や営利企業の思惑が絡む限り、永遠に終わることはないでしょう。 肝心なことは、そんな噴飯ものの判定競技であっても、フィギュアスケートは観ていても楽しいし感動もあるということです。― つづく ―
2014.03.03
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さて、私たちは荒川さんのインタビューに導かれるようにして、そのはなはだミステリアスな「一瞬」とは何であったのか、を探ろうとして来たわけです。もちろんそんな境域など凡庸な私たちには、絶対分りっこないのですが、それでもそれに出来るかぎり迫ってみることは、決して無駄ではないというか(他所さんの悪口を言うより)、前向きの思考を喚起させるという意味で、精神衛生上もずっと好いでしょう。 「女神が舞い降りて来る」のを検知出来るのは、何度も言うように、「絶対孤独」の淵に我が身を置くのを引き受けることの出来た、ごく限られた人たちだけであって、逆説的に云えばそうした境域は誰とも共有出来ない、ごく特権的に現れる純粋個人的な「愉悦」なのでしょう。「最後の無頼派」と云われた囲碁界の伝説的棋士藤沢秀行さんは、なぜ囲碁を打つとき以外は博打、酒、女にそこまで溺れるのか?と聞かれたとき、言下に「怖いからだよ」と答えていましたね。「(勝負というのは)上に行けば行くほど、ますますその怖さが見えて来る(その恐怖に堪えられない)からだよ」。それでも囲碁を辞められないのは、その「恐怖」にあえて身を置くことによってのみ、初めて「女神が舞い降りて来る」という感覚が、他を以って換え難い「愉悦」だったからでしょう。 まだまだ若い真央さんが、「女神が降りて来る」感覚を掴んだかどうかというのは、これは純粋個人の感覚領域に属することなので(歯の痛みのように)、誰にも分らない(共有出来ない)。それでもこれは私の完全な想像ですが、終盤のステップシークエンスのとき、彼女はあたかも何者かに導かれるようにして、身体が「勝手に」滑っているような感覚になったのではないかしらん、トリノの荒川さんのステップがそうであったように。これはもちろん何者かが現に実在していたわけではなくて、身体が新たな領域に「拡張」したことを示しているのです。 インタビューの終わりのほうで、「今後どうするのか(競技は続けるのか、次期オリンピックは?)」といった、いささかフライング気味の質問に対し、「今はまだ分りません。取り合えず、3月に世界選手権があるので」という答え。私はこれを聞いたとき、目が丸くなりました。「ソチは私のフィギュアの集大成」と言っていた手前、てっきり真央さんはここで一旦きっちり区切りをつけるものと思っていたからです。 となれば、考えられるのは「メダル取り」ではなく、このごく限られた人だけに特権的に立ち現れるらしい「愉悦」の正体を、今一度リンクの上で確かめてみたい、ということなのかもしれません。氷を支配するのではなく、氷と融和するような「拡張された身体(イチローのバットが、イチローの拡張された身体であるように)」の感覚を、今一度確認したいというような。 仮に「メダル取り」が再開の理由となるならば、それは次回のオリンピックは言うに及ばず、限りなく「下世話」な動機付けとなるでしょう。なぜならフィギュアの判定は、自身の心技体とはまったく関係のない、はるか我が身を離れたところで行われるからです。イチローが内と外を厳しく峻別し、審判の判定に驚くほどそっけないのは「それは自分のバッティングとは関係がない」からです。そう考えたほうが「自分のパフォーマンスは、はるかに維持しやすい」。 荒川さんが「リンクに立つと、一人でしょう」と言えば、真央さんも「結局は自分との戦いですから」とおっしゃっていたところをみると、あるいはごく自分だけに限局した「超ボジティヴ思考」を採用することで、今回の難局を乗り越えたのかもしれない。「メダルはともかく、自分が4年間やって来たことだけは、思い切りやってやろう」、後の結果は「それは他人の判定することだから(私の手を離れている。ここで自らが自分に課し、自身がやって納得したこととは)」関係がない。 私は真のトップアスリートは、ある意味「超エゴイスト」であって好いと思う。もちろん社会的にはエゴイストであっては困るのですが、「技を究める」ことが出来るのは、結局「我が身一つ」なのです。ピッチやリンクにコーチが立っているわけではない。だからこと競技に関するかぎりは、「恩返し」とか「みんなの代表(まして国の代表)」などと言明する必要などない。それが自分の技にプラスに転化出来るぶんには、いくらでも意識し利用すれば好いけれども、逆に我が身を「呪縛」するものとして、それが立ち現れて来るのであれば、そんなものは排除するにこしたことはないでしょう。 このあたり、日本のアスリートは本当に「行儀が良い」というか、良く「出来ている人」が多いのですが、それが逆に自身のパフォーマンスを押し下げる場合もあるということも、意識した方が好いのではないか。私たちはとてつもないプレッシャーを我が身一つに引き受けて、なおかつ新たな地平を切り開こうとするアスリートが、競技中は「超エゴイスティック」になることを、誰も非難しませんよ。そのとき私たちは、彼らが(誰にも共有出来ない)別次元の世界に入っていて、絶対に関与出来るものではないことを、よく知ってますよ。― つづく ―
2014.03.02
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それにしても真の天才の天才たる所以は、どれだけ気が伏せってどれだけ寝不足であろうと、「一瞬」にして「一挙」に自身のパフォーマンスを開放出来てしまえる、というところにあるのではないか?一日がかりで解けない方程式の問題を、粘って三日間かけて自力で解いたとき、それはその一問が解けたに止まらず、方程式全体の概念が一挙に目の前に開示されたような(今だ解けてないのに、全部射界に入ったような)気がする、というような体験なら私たちもしたような気がします(?)が、カギはどうやら「一瞬」にして自身のパフォーマンスを、(今だ到達していない)最高難度の地点まで、「一挙に」引き上げてしまえる力なのかもしれません。 これをかつての荒川論やイチロー、なでしこジャパンなどの話で、「変身」だの「憑依」だの「拡張された身体」だのといった、はなはだスピリチュアルな用語で論じて来たのですが、彼らに共通するのはそうした「一瞬」が我が身に到来するときの「感覚」を、おそらく経験的に「知っている」ということなのです。で、たぶんそうした感覚は、だれとも共有出来ない「絶対孤独」の境域においてのみ、初めて感知される種類のものだということです。荒川さんは今回の真央さんが、誰も経験したことのない前代未聞の危機的状況を、「一瞬」にして「一挙」に立て直し、フィギュア史上かつてない連続ジャンプを決めてみせた在りように、我が身にかつて到来した感覚と共通した境域を、初めて検知したのかもしれない。それも自身とはまったく違う仕方でです。 荒川さんのインタビューが、どことなく饒舌なのは、そのあたりを暗に確かめたかったからではないか?「ソチまでのこの四年間は、あなたにとって何点でしたか?」という彼女の質問に対して、しばらく考えた末の真央さんの「100点です」という答えに、荒川さんが「そう!」と強く賛意を示していたのが、とても印象に残りました。 考えてみれば、真央さん自身が言うように、「メダルを持って返れなかったのは申し訳ない。しかしFPで自分がイメージして来たパフォーマンスはすべて出せた」というのは、外面的には本来満点とはいかない。それでも「100点です」と言い切れるのには、彼女の中に何か初めて「掴んだ」ものがあるからに違いない。で、それはおそらく荒川さんがトリノのリンクで引き寄せた「感覚」と同様のものであるに違いないと確信して、大きく賛意を表したのでしょう。氷上の女神は、確かに再び舞い降りたのです。荒川さんが盛んに「神懸かり的」という言葉を使っているのも、そのあたりの機微を暗示しているようです。 とはいえ、これは同時に荒川さんにとっての、ごく個人的な長年の「謎」が氷解した瞬間でもあったわけで、そうした気息は真央さんにも自ずと伝わる。互いの気脈が暗々裏に通じるとは、こういう瞬間を云うので、私にとっては今どきのヘタなドラマより、はるかにドラマ性が感じられて面白かった(もちろんすべて想像ですよ)。 ところでこのインタビューの中で、真央さんは注目すべき発言をしていますね。「今回のFPは、SPの失敗があったから出来たのかもしれない」というものです。これ一見メダルのプレッシャーが無くなったから跳べた、というふうに取られそうで、インタビュアーの二人も一瞬戸惑った素振りが見られましたが、たぶんそうではなくて、もしSPがそこそこの出来でメダル圏内に入っていたとしたら、あるいはFPの構成を若干変更したかもしれない、ということだと思うのです。 オリンピックがメダルを争うことに至高の価値を置く競技会であるなら、これは当然有得べき選択なので、トリノで荒川さんは冒頭の3回転3回転のダブルを、3回転2回転に変更しましたね。中継の八木沼さんはそれを「メダルを取りに来ましたね」とコメントし、続いて「ただしメダルの色を、何色にするかとなると(それは分らない)…」とおっしゃってました。要は金メダルを確定させる決定的な演技ではなく、メダルを確定させる構成に変更したということなのです。これにはさまざまな要因が考えられますが、何と云っても直前滑走のS・コーエンが失敗を繰り返したのが大きいでしょう。3位以内を確定するには「転倒しない」ということが、この時点で最優先課題になったのです。 結果的に後から滑ったスルツカヤさんが、およそ考えられない転倒をして、その後の滑走も可愛そうなくらい精彩を欠き、荒川さんに金メダルが飛び込んだわけです(これは何も荒川さんの達成した偉業を、くさしているわけじゃないですよ)。勝負の分かれ目というのは、時々刻々揺れ動いて行くもので、選択の正否は結果ではなく、時系列の中に置いて判定されるべきものです。 ということは今回の真央さんの「女子フィギュア史上およそ考えられない(8回の3回転ジャンプを組み込むという)構成は、メダルの可能性が消えたからあり得た」事態だということが納得出来る。逆に言えば、だからこそ私たちは真央さんの「とてつもない偉業」に立ち会えたと言うことが出来るのです。これは表層のプレッシャー云々で片付けるべき話ではない。― つづく ―
2014.03.01
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