サリエリの独り言日記
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後期シベリウスのいかにも晦渋で荘重な最後の交響曲第7番(作品105)と交響詩「タピオラ」(作品112)。 当初、ごくロマン的な楽想で北欧の国民楽派の代表とも目された彼が、急速にそこから離れさまざまな試みを経て、いわば集大成として発表したのが上の二曲で、ここにはシベリウス以外の音は一つもない。第7番の冒頭からトロンボーンの咆哮に到るまでの、気の遠くなるほど長いフレーズを聴いてごらんなさい。確かにワーグナーやブルックナーも長大なクレッシェンドをよく聴かせますが、シベリウスのはもっと入り組んだ構造になっていて、その書法はむしろ同時期のマーラーに近いのではないかしらん。 ただし、そこに流れるエートスはまったく違っていて、マーラーがどこまでも自身の精神というか、さらにはわが身の無意識の底に明滅する神経的な軋み音に囚われているように見えるのに対し、シベリウスの音はそうした個人的な囚われからは最も遠いところにあるような気がします。 それは一体どこから出てくるのだろうと考えると、ヒントになるのはもう一方の交響詩「タピオラ」で、これはフィンランドの叙事詩「カレワラ」に登場する森の神「タピオ」の領土という意味だそうです。しかしそこには物語的要素は一つもなく、いわば神の領域にある森の空気感を、ただただ表わしたものとでも言えばいいのでしょうか。 冒頭いきなり現れる悲劇的なモティーフが、何度も執拗に繰り返され変奏されるだけで、全体としてはシンプルな二部構成になっているように思うのですが、凝った書法が用いられているにも拘らず、音の印象はとても淡色に近い。早い話、同時期のストラビンスキーやR・シュトラウスのきらびやかな音色とは比較になりません。 であるにも拘らず、聴いたあとの印象は、神々の息吹きに満ちたフィンランドの森としか言いようがないので、これは即物的な自然の描写とは明らかに違う。森や湖や山の姿に、神だの精霊といった人智を超えた「思念の息吹き」を嗅ぎ取るのは、汎神論的な日本人にとってはごく自然な気分なのですが、個人の感情とか意志に重きを置いた近代ヨーロッパにおいては、一種「異教徒」的な感触を与えるものだったのではないか。個人の抱く理想とか思念は優れた表現によって、いずれ一般社会と結びつくというのが、予定調和的な近代ヨーロッパ精神というものだったでしょう。 しかし「タピオラ」にはそうした調和的な人格の予感は希薄で、何度も言いますが、そこから聴こえてくるのは、人ならぬ森=異物から発せられる、理解し難い「思念の息吹き」ようなものだけなのです。 と、それに比べれば、交響曲第7番は明らかにもっと大きな広がりがあり、その視界には人も含まれていて、後半には舞踊のようなモティーフも現れますね。要はこちらの感触は不気味な「思念」というより、はるかにスッキリと意識化された明晰な風景(Vision)を感じさせるのです。人によっては、シベリウスはこれで人も自然も含めた一切合財、つまり「世界」を表現しようとしたのではないか、といった議論もあるようですね。 とはいえ、それはかつての「フィンランディア」だの交響曲第2番のような、書法の明晰性とは明らかに違う。いずれもフィンランドの風土性を強く意識させつつも、第7番はそこから抜け出てより大きな世界をみせているような気がするのです。 それにしてもシベリウスの音楽に一貫しているのは、個人の精神にいささかも拘泥していない、というスタンスなのではないか?音楽家たちにはどのようにして楽想が現れてくるのか、などという問いは、あるいはほとんど愚問なのかもしれませんが、マーラーの歌心の出所と彼とではずいぶん違っていたろう、という気がしてしかたがない。 マーラーは明らかに自身に潜む「内なる邪悪」にしかと対面して、それを明晰化しようと気が狂うほど格闘したのに対し、シベリウスはどうもそういう仕方で内心を見詰めたという感じはしません。彼の耳は明らかに「外」に向っているのです。彼はフランスからの帰国後、後半生をほとんど森の中の閉居〈アイノラ〉で過ごしたことは、よく知られていますが、あるいは「外」からの声に飛び抜けた耳を持っていたのかもしれませんね。彼の歌心に必要不可欠だったのは、森や湖や小鳥の発する「声」だったのでしょう。
2016.03.12
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