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大坂なおみ選手のこと 酷暑の中で京都橘の話をしているうちに、台風が来いの地震が揺りいの、まったく気伏せりなことが続いていたのですが、USオープンで大坂なおみ選手が優勝したので、その飛び切りユニークであるらしいキャラクターの話がしたいのです。 彼女が日本人のお母さんとハイチ人のお父さんのお子さんで、しかも三歳のときからアメリカ在住であることを考えれば、本人がアメリカ籍であってもハイチ籍であっても、じつはちっともおかしくないはずですが、これを指摘する人が案外少ない。何だか純正の日本製で、彼女のすべてが日本で作られたかのような扱いです。肝心なことは、彼女にとって「日本」というのは選択されたものであって、生まれたときから「逃れがたく」その血、その言語、その振る舞いの中で育ったわけではない、ということでしょう。 逆に言えば、であるにもかかわらず、日本と子供のときから行き来し(母方のお祖父さんが、根室にいらっしゃるそうですね)、日本語がほぼしゃべれないにもかかわらず、日本籍で国際大会に出場しているというところなのです(国籍は今のところ日米の二重だそうですね)。これは例えば、日本生まれだけど出場機会のチャンスが見込める外国籍で、国際大会に臨むアスリートたちとは、ずいぶん立ち位置が違うような印象がする。お母さんの影響が大きいのだろう、と言ってしまえばそれまでですが、そんなことないだろう(だいいち、お父さんに失礼じゃないですか)、15歳~20歳ぐらいの人たちというのは、個人差はあるだろうけれど、試行錯誤を繰り返しながらも、ビックリするほど自身の判断で行動し出すものです。 で、そのうえで、彼女が「自分はシャイで、人見知りする日本人だ」と、ハッキリ言明しているところが面白い。同じような話で、先日の優勝インタビューでは「勝ってしまって、ゴメンナサイ」と言ってしまうところも、これまた吹き出してしまう。本当にシャイで人見知りする性格の人たちは(というか、要は「日本人」は)、こういうとき大抵黙ってしまうか、せいぜい微笑んでたたずんでいるのではないかしらん。 であるにもかかわらず、私たちは彼女に「真性の日本人」というか、「大和魂」を見出してしまう。それは今回のUSオープンで、いよいよはっきりと分かってきたことでした。決勝戦の前に「セリーナ・ウィリアムズ選手と対戦できるのがうれしいし、とっても名誉なことだと思う。だって、相手は世界のセリーナよ!」とあっけらかんと言って、インタビュアーを絶句させてしまうところ。これ茶化しているのでもなんでもなくて、素直に本心を言っているのです。 「勝てる、勝てない」といったこと以前に、世界最高の舞台で世界最強の選手と「戦える」ということが、うれしくてうれしくてしかたがない。で、その「喜び」をどう本番で表現するか、その答えは本戦で鮮やかに示されていましたね。要は「今現在の自分のパフォーマンスを、最高レベルでどうやって出し切るか」ということです。その際会場が完全なアウェーで、異様な雰囲気であったとしても、「だから自分は力を出せなかった、集中出来なかった」とは言わない。なぜなら、そんなことで仮に自身のパフォーマンスが100パーセント出せなかったら、「相手に失礼じゃないか」ということなのです。 この場合の「相手」とは、もちろん第一義的にはセリーナ選手ですが、たぶんそれだけじゃないだろう。USオープンという栄えある会場に対しても、そこに参集しているテニスファンに対しても、ということです。こういう捉え方というのは、ごく日本的というか「大和魂」そのものだと私は思う。大坂さんがそれをどれくらい意識しているか、私には分からないけれども、エートスとしてそれをすごく感じてしまう。 昔、澤さんが「なでしこジャパン」を率いていた時代に、反日一色の中国武漢での試合のあと、ブーイングが巻き起こる会場で何が起こったか。彼女たちがしたのは「試合を見てくれて、皆さんありがとう!」という横断幕を掲げたことでした。その間もものすごいブーイングが続いたのですが、後の現地ネット等の書き込みや新聞では、「彼女たちは偉い、中国人であることが恥ずかしい」といった文面が見られました。さすが儒教発祥の国、「礼儀・礼節」については多少でも、本家意識のある国だなと思ったものです。 さて、そうこう大坂さんが「言葉少な」に、相手に対して最高の敬意を払っている間、得体の知れない「怒り」の持って行き場に困ってしまったのは、当のセリーナ選手と会場のファンでした。「自己主張と勝利」だけが正義とされるアメリカ式エートスに従えば、彼女はそうせざるを得ない。彼女はまさしくアメリカという世界標準の文化を、背中いっぱいに背負って試合に臨んでいたのです。 一義的には審判に食ってかかったように見えますが、これは「怒りのはけ口」として、たまたまそこに噴出したに過ぎない。もし大坂さんがセリーナ選手の抗議や態度に、他の選手同様何らかの反応を示していたら、それこそ待ってましたとばかり、彼女はたちまち会場全体のヒールと化したでしょう(西欧人どおしの戦いでは、よくあることです)。 大坂さんは頭が好いというか、たぶん天性のものなんでしょうが、そういう「ややこしいこと」には関心がない。それより早く試合がしたかったのではないか、それも決勝戦にふさわしい立派な内容の試合を(これも「なでしこ」の振る舞いかたとよく似ている。外国で妙な判定があっても、彼女たちはどこ吹く風で、さっさと次のプレーに入るので、猛抗議が来るはずと待ち構えている審判が、かえってあっけに取られるという場面が、かつていくつもありました)。最後は何だか、はなはだ困ったチャンの母さんに対して、子供がおずおず「止めときいな」と合図しているみたいな図柄で、思わず笑ってしまいました。 表彰式のセレモニーでも、彼女の態度は一貫していましたね。本人は一切関わっていないにもかかわらず、お世辞にも「栄光ある試合内容」とはならなかった、どころかUSオープン史上あるいは最大の汚点を残しかねない中味で、彼女はたった一人で「大会の品位」を保とうとしたのです。「ゴメンナサイ」という言葉はそういう文化から出て来た。なぜならそれこそが、結局彼女自身の品格を守ることにつながるから。このあたり、まぎれもなく「大和魂」というか、サムライの精神じゃないですか。私はそういう彼女のエートスというのが、どのようにして育まれて来たのか、尽きせぬ興味が沸いて来ます。やっぱりお母さんかなあ。
2018.09.12
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パロディ 話が何だか横にも縦にも拡散しているような気がするので、元に戻します。 それにしても、京都橘というマーチングバンドのありようというのは、期せずしてパロディというか、かなり毒を含んだメッセージを、さまざまな方向に発しているように思える。 ちなみにパロディとは、例によってwikipediaによれば、-他の芸術作品を揶揄や風刺、批判する目的を持って模倣した作品、あるいはその手法のこと-とありますが、肝心なことは「揶揄や風刺、あるいは批判を目的とした模倣」というのは、ややもすると元の作品より一段低く見なされがちなのですが、真に力を持ったパロディというのは、ときに元の作品と同等か、場合によってはそれ以上のしゃれた批評精神を発揮することがあるということです。 京都橘はもちろん「模倣」ではなく純正のオリジナルですが、私の申し上げたいのは、彼女たちの持する意識されざる「批評精神」といった構えのことなのです。 直截には「マーチングバンドは、かくあるべし」というような、大人の都合による「物語」に対するもの。通念的な作り上げられた高校生ではなく、自前のJK像を常に発信してるじゃないですか。 次に音楽のありようそのものの問い直し。「音楽とはいったい何か?」という命題を突き詰めていったときに、それがもし「聞き手に届いたとき、はじめて成立するもの」とするならば、それを「確実に届ける」ために、私たちの場合は「エンターテインメントに徹します」というコンセプトを、自前で編み出したということ。このあたりプロアマ、POPクラシックのジャンルを問わず、既存の音楽観を無前提で受け入れている日本の音楽シーンには、かなり耳の痛いところがあるのではないか? さらに加えて、これまた彼女たちのアメリカ音楽(とりわけジャズ)への深いリスペクトは、そのまま現在のアメリカ社会のありように対する「批評」にもなっているのです(とりわけトランプさん!?)。2012年のBenefit Concertが、かつてのアメリカンポップスやジャズを通覧するような中味だったことは前にも触れましたが、今年のBenefitでは、なんとディープパープルやM・ジャクソンまで取り上げて、かつてのアメリカ音楽の多様性と懐深さを称揚してるじゃないですか。 そして、それを伝える「方法」としてのKAWAIIコスチュームと振り付け。これは大人と子供、男と女のバリアを取り払う「寛容性」の象徴として、まるきり威嚇的でない仕方で、私たちにメッセージを送り続けているでしょう。 おしまいは、それらをいっこう報じない大手既存メディアに対する「踏み絵」として、彼女たちのパフォーマンスはあり続けているということ。先に大手メディアが青山繁晴議員を取り上げないのは、おそらく既存の行動規範や思考様式そのものを脅かされるのが、イヤでイヤでしょうがないからじゃないか、という話を何度もしましたが、今回もそこまであからさまではないにしても、何となく彼女たちの行いが、今どきの大手メディアの「エートスに抵触する」と、勝手に忖度して「なかったことにしている」のではないか、と勘ぐれる要素があるのです。 考えてもみてください。正月元旦のカリフォルニアの朝日を受けて、日章旗が誇らしげに飛び跳ねている光景というのは、彼らのエートスからしてみれば、「これは教育上、はなはだよろしくない、日本はこのように誇らしげであっていいのだろうか?」といった、敗戦後ずうっと是認されてきた奇妙に捻じ曲がった価値観に、かなり効果的なヤスリをかけているじゃないですか。ここの「教育上、よろしくない」とは、「国民への教育上」ということですよ。返すがえす言いますが、日本の大手メディアはいつから「国民を教化」するプロパガンダ・メディアと、自分たちを倣岸にも位置づけるようになったのか? 実は彼らには「前科(?)」があって、2006年トリノオリンピックで荒川静香さんが金メダルを取ったとき、授与式のあと彼女が日の丸をまとって、リンクで祝福を受けていたときの映像を完全にネグレクトしているのです(民放もNHKも全部!)。 この「エートス」というのは、無意識に条件反射のようにして、その判断や振る舞いに現れてくるので始末が悪い。たぶんメディアだけでなく、おそらく現地領事館も含めて、「できれば触れないことにしておこう。タカが新年のパレードだし、昨年のマーチングコンテストで、京都橘が金賞取ったわけでもないしね」ということになったのではないか知らん。まあ、このあたりは完全な邪推ですが。 と、何だかまた不愉快な話になってしまいましたね。 とはいえ、京都橘の話はだいぶ長くなったので、これくらいにしておきます。再び口直しとして、格段に進歩した今年のBenefit Concertでの「星条旗よ、永遠なれ」と、アンコールのまたもや「Sing Sing Sing」を、別の撮影者(GForce183さん)の映像で観てみましょう。 「星条旗よ、永遠なれ」は、現地アメリカ人の指揮者の、いわば京都橘のレスポンスの良さを見切ったような細かな指示に、各ポジションがよくついていって、数あるプロアマの演奏の中でも、屈指の出来映えになったのではないかしらん。一方の「Sing Sing Sing」は、これまたここを先途と、「会場の天井も吹き飛べ」というような「猛演奏?」となりました。 最後にもう一つおまけとして、これはローズ・パレードではありませんが、今年春3月に行われた「2018京都さくらパレード」の様子( I LOVE BRASSさんの動画)を見てください。御池通りから寺町商店街を通って四条通までの、いわばノンストップ演奏というより、ノンストップアクションと言うべきパフォーマンス、見ものですよ。10分あたりの「パイレーツ・オブ・カリビアン」を見ていると、何やら海賊船に乗ってどこかへ連れて行かれるような気分に誘われる。どこに連れて行かれるのかは分からない(たぶん本人たちも分からない)けれど、人の波を押しのけ押し分け進んで行く彼女たちを見ていると、少なくとも、とんでもないことには、ならないだろうという気もして来ますね。 それにしても、追っかけの動画撮影者(ほとんど、オッサンですが)の多いこと。吹き出してしまいますが、それがあるからこんな話も出来るんですよね。追記 蛇足でなく追記として、ここまであえて触れなかった男子の京都橘諸兄について。ローズ・パレードでは200人ほどの女子の大群に数人という配置で、ことと次第ではケシ粒のように霞んでしまいそうなところ、付かず離れず絶妙のポジションで結構目立ってますね。 こういう位置取りを、誰が(どちらが)考えついたのか不明ですが、彼らのしっかりエッジの効いたステップは、全体の躍動感にかなり影響を与えているように見える。これらたった数人のサポートがあるから、200人に及ぶ女子は安心して自分たちのパフォーマンスを、思い切り発揮出来たのじゃないか、とさえ思わせますね。仮にオール女子だったら、もう少し「構えた」雰囲気になったかもしれない。 怒られるのを覚悟で、ついでに言ってしまうと、まるで数百頭の羊の群れをサポートする牧羊犬みたい。付かず離れず、しかし目立たない形で全体を誘導するのに、男=オスというのは数人で事足りるということでしょうか。しかしそれもまた、女たち(京都の)の策略で、彼らのほうが知らず、そのように祀り上げられているような、いないような。 何だか最後のが、当たっているような気がして来ました。
2018.09.07
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