全2件 (2件中 1-2件目)
1
ドメスティックな「私」 「未完成」の冒頭に現れる、有名な低音のモティーフは第一主題ではなく、この曲の主調がB Minor(ロ短調)とあるとおり、曲全体の厳粛な気分を予告するもので、展開部ではこのモティーフが大きく扱われてますね。しかしこうした重厚な響きを、直截に彼の人生的な深刻さと捉えるのは早計で、素顔の彼はウィーンの街で数多くの友人の助けを借りながら、若者らしいボヘミアン生活を送っていたのです。 とすれば、ここに表現された深刻な気分というのは、たぶん彼が畏敬してやまなかったベートーヴェンのような、堂々たる交響楽を志向したからではないか?となると、この第一楽章、あまりガッチリ演奏されると、かえって生身の彼らしくなくなるという仕儀になります。クリュイタンスの演奏は、そのあたりじゅうぶんしなやかに、むしろ若者の哀感を感じさせる歌わせ方をしていて、私は好きです。 それにしても、ベートーヴェンと並んでロマン派の創始とされるシューベルト。じつは形式的には、ごく古典的な枠組みを守っていて、決して革新的とはいえない。むしろベートーヴェンのほうが形式については、はるかに挑戦的だったでしょう(何しろ、交響曲に合唱をくっつけたりしたのですから)?であるにもかかわらず、私たちは彼の音楽に溢れるばかりの感情の表出を感じる。この曲は二十五歳ごろに書かれているのです。 そうした気分は「未完成」の第二楽章に至って、より鮮明になって来ますね。 第一主題の憧憬に満ちたモティーフと、何やら不安を感じさせる第二主題の対照が見事で、こうした未来への希望と不安、繊細で移ろいやすい気分というのは、芸術的な青春そのものの音楽と言っていいでしょう。とくに第二主題の主旋律に伴走する弦の響き(2分20秒あたりからと、再現部8分5秒くらいから)は、コードを複雑に変えながら進行させていて、微妙な気分の揺らぎを表して余りあるでしょう。 しかし、ここまで細やかな表現をしてしまうと、壮大な四楽章編成の交響楽を維持するのは難しかったのではないか。ご存じのとおり、彼は歌曲の名手として名を残したのです。そうしたドメスティックな「私」を表現するのに、歌曲はちょうど良い形態だったのでしょう。 私、思うのですよ。自身の移ろいゆく気持ちを、このように微細に表した響きというのは、確かにそれまでの交響楽にはなかったので、こうした「私」の率直な吐露こそ、ロマン派の精神と言われ、ブルックナーやマーラーに(時に、しどけないほどの仕方で)継承されていったのではないかと。 ベートーヴェンは確かに従来の古典的枠組みを大々的に壊して、「私」を堂々と主張したけど、このような仕方での自己表明はしなかった。このあたり彼はどこまでも「意志」の人で、その響きはさながら国会演説のように、常に「外向き」に発せられた「私」の表明なのです。ベートーヴェンが「内向き」な響きを見せ始めるのは、晩年のピアノソナタや弦楽四重奏あたりからではないかしらん。 おしまいにもう一つ、先の話とようやく結びついて来るのですが、この第二楽章、じつは展開部のないソナタ形式で、第一第二主題の提示とその再現という、あたかも長大な二部形式のようになっているということです。で、それを繋ぐ経過部(4分30秒から5分44秒くらい)は、一分ほどと短いですが第一主題を基調として、とてつもなく美しい響きを聴かせる。まさしくブリッジパッセージの華と言っていい瞬間なのではないかしらん。 ここを聴いていると、またまたシューベルトが歌曲の神様であったことを思い起こさずにいられません。歌曲は先の「天使のくれた奇跡」が、まさしくそうであったように、一連のまとまったフレーズに歌詞を一番二番と重ねていく楽曲形式でしょう。シューベルトのフレーズは(この場合は二つですが)、その提示部だけでじゅうぶん自足していて、これ以上展開のしようがないというか、ここに展開部が入ったら冗長になって、この第二楽章のあえかな印象が、あるいは不鮮明になったかもしれない。彼はそれをやめて簡潔な経過句にすることで、全体の気分が淀まないようにしたのでしょう。これってやっぱり自家薬籠中の歌曲の手法から来たのではないか(異論はあるでしょうが)。 この曲は昔から、未完の名曲ということで「果たして、この一二楽章だけで、楽曲として完結していると言えるか」といった議論が、延々と続けられていました。現に彼自身が三楽章のスケッチも残していて、構想としては全四楽章の壮大な交響曲を目指したらしいのですが、結局のところ途中放棄したらしいというか、この人、わりと途中で中断して別の楽曲に取り掛かるということの多かった人でした。 「完結しているか」と言われれば、もちろん完結していない、だから「未完成」ということになるのですが、シューベルトはあるいは「この曲に盛ろうとした歌心は、もうこれで充分」としたのではないか?今でも指揮者によっては、「未完」の作品としての印象を強調して、この第二楽章を案外あっさりと済ますケースもあるのですが、クリュイタンスの場合はそうしない。コーダのところ、あり得ないほど長く伸ばして、「ここまでで完全に自足している、これで充分だよ」と、聴く者に暗示をかけているかのようなエンディングになってますね。
2019.07.05
コメント(0)
音楽のプロトコル 一つのまとまったフレーズに、ごくシンプルに歌詞だけを取り換えて、童謡や民謡(「赤とんぼ」みたいな)のように繰り返し奏するしかたを、仮に西欧楽理式に解析するとすれば、一部形式AA´またはAB(A´はAの終止形、BはAとは別の終止形)ということになります。 ならば、同じ反復の単調さに飽き足らず、途中にある変化を加えたとするなら、それは「二部形式」ということになるでしょう。分かりやすい例として、「荒城の月」のようなAA´BA´という典型がありますね。 この「荒城の月」の絵に画いたような二部形式とは、「主題の提示」「主題 の終止」「展開」「主題 の終止の再現」と言い替えることも出来ます。しかしこれってよく見ると、もうすでに「提示部」「展開部」「再現部」という、ソナタの基本形の三部形式を予感させるじゃないですか。 西欧クラシックを考えるうえで、一つの完成形である「ソナタ形式」というのは、この「提示部」の主題を二つにし、「展開部」もそれにともなって大規模化させたうえに、前後に序奏とコーダもくっつけたものとみるべきで、ご存じのとおり、それらはバッハやヘンデルといった諸形式乱立のバロック時代の後、ハイドン、モーツァルトの頃に完成し、宮廷やオペラ劇場で大いにもてはやされたのでした。 私、思うのですが、なぜこの形式が、いわゆる古典派時代に多用されたのかを考えるとき、おそらく当時の聴衆には、それがいちばん聴き心地が良かったからなのだろう、という気がするのです。レコードもDVDもない時代、それは一回で聴き取れる、分かりやすい楽曲形式だったのではないか? ハイドンは百曲以上、モーツァルトでも四十一曲の交響曲を残し、さらには同じ形式でオペラの序曲なども書いていたわけで、しかも作曲家は彼ら以外にも大勢いたことを考えるなら、一回こっきりで二度と演奏されることのない楽曲も多々あったでしょう。してみれば、一聴にして聴く者の耳を捉える、要は「収まりのいい形式」として愛用されたのではないか。さながら音楽の量産形式が出来たようなものですね。 それにしてもここまで、しんきくさい話をして来て思うのは、他の人にも分かるような仕方で、音楽の話をしていこうとすると、当の私がずうっとそうであるように、結局また西欧語法に従うしかないということです。考えてみれば、ト音記号も五線譜も全部西欧音楽のプロトコル(手順書)。今や世界中の音楽がほぼすべて、西欧語法によってしか語れないというのは、英語があたかも万国共通語のような形で蔓延している現況よりも、はるかに恐るべき事態かもしれない。なぜなら音楽は直截無意識のうちに、五感に入り込んでくるからです。 音楽教育がそのプロトコル(手順書)の指南にあったと考えてみれば、それが全然面白くなかったのは当たり前で、英語教育のプロトコル指南と一緒だったからということでしょうか? とはいえ、問答無用に西欧の楽理楽典を、あたりまえのように振り回すより、先に触れたような「歌唱の始まり」のようなものを意識していれば、あるいはもう少し生産的な話が出来るのではないか?というか、自分の話し方も、話している当の音楽自体も「相対化」して、見つめることが出来るかもしれない、という淡い期待があるので、こんな話をしているのです。 さて、「音楽を楽しむ」という話からはほど遠く、昔習った悪夢のような音楽教育さながらの(今は知りません)、小難しい議論にはなはだ疲れたので、ちょっと一服してシューベルトの交響曲第八番「未完成」の第一楽章を聴いてみたいのです。六十年ほど前(!)の録音と古いですが、私はA・クリュイタンス指揮ベルリンフィルのが好きです。 これ、以前にも取り上げたかもしれませんが、クリュイタンスはベルギー出身でもっぱらパリで活動していたせいか、フランス的な洒脱な側面とドイツ的な謹厳性が、不思議なほど調和していて、この「未完成」も本場独墺の指揮者とは、かなり違ったテイストを感じます。テンポはあきれるほど悠揚として迫らず、歌わせるところは思い切り歌わせながら、絞めるところはガッチリ絞めるという絶妙のバランスですね。重厚そのもののベームさん、ドラマティックな演出優先のカラヤンさんと比べると、何だか「近しい」というか、「心にこめがたくて、言ひおき」はじめざるを得なかった作曲家の、こぼれるような「歌心」を再生させている。 で、その味は荘厳なドイツ系の指揮より、親しみやすい生身のシューベルトを、結果的に感じさせるということに、私の場合にはなってしまうのです。 まあこの感想には「シューベルトの味は、そんなものではない(彼はウィーン子であって、断じてパリっ子ではない)」とばかり、さまざま異論もあるのでしょうが、ベルリンフィルもフルトヴェングラーやカラヤンのような絶対的帝王の時とは、かなり異なるクリュイタンスの在りように刺激されたか、ずいぶんしなやかな演奏をしているじゃないですか。同時期に録音された「田園 」や「英雄 」も、とくに弱音の取り扱いが出色で、私の懐かしいライブラリーの一つです。 余談ですが、子供のころ初めて「未完成」の第一主題を聴いたとき、楽器の種類が分からず大いに首をひねったことを思い出します。それがクラリネットとオーボエの重奏で紡ぎ出されている音色であることを知ったのはずうっと後のことで、ハーモニーというのが主旋律と伴奏などという単純なものでなく、さまざまな楽器群の「混ぜ合わせ全体の響き」を指すのだと勝手に合点したものでした。
2019.07.03
コメント(0)
全2件 (2件中 1-2件目)
1
![]()
![]()
![]()