全2件 (2件中 1-2件目)
1
A・クリュイタンス それにしてもこのクリュイタンス盤、私が手に入れた当時でも、そのLPはすでに廉価版で録音は古い、したがって演奏もカラヤンのオートバイで疾走するような、「今ふう」ではないという印象があったのですが、このyoutubeの復刻版は私の手元にあるレコードより、明らかに解像度がいいような気がする。同じ音源でありながら、アナログのレコードでは音割れはするは、高音は抜け切れないは、、低音は濁るという具合で、まあ何回も擦り切れるほど聴いたせいもありますが、各楽器ごとの鮮明さ加減は、今どきのデジタルな音色を彷彿させて、ビックリしてしまいますね。 しかし彼の十八番は、何といってもフランス音楽。手勢のパリ音楽院管弦楽団と残した数々の名盤は、比較的録音が新しかったせいか、今でも十分堪能できます。その中でもバレエ音楽《ダフニスとクロエ》は、私の中の決定版で、とくに第三部の無言劇で奏されるフリュートのソロ(46分ぐらいから)は、これぞ音楽のミューズ、パンの奏でる音かと思わせる、なんと妖しい音色であることか。 繰り返しになりますが、彼の演奏スタイルは「洒脱」さ(俗気がなく、さっぱりしていること。あかぬけしていること )と、「端正」さ(姿・形や動作などが正しくてきちんとしていること )が、ごく自然に溶け合っているという点でしょう。軽妙洒脱(軽やかでしゃれていること。俗っぽくなく、さわやかで洗練されて巧みなこと)な演奏と言えば、今どきの指揮者には、大いにしなやかで、気の利いた演奏を聴かせる人が結構いるのですが、それと曲全体の端正な佇まいを両立させるのは、なかなか厄介なのではないか。 彼の指揮はオーケストラを十分歌わせながらも、決してカジュアルなジャケット姿とはならない。そんなスタイルは古いと言われそうですが、私はむしろクラシックに対する敬意に満ちていると感じます(私自身が古くなったのかもしれません)。 そのあたり、例えばM.ラベルの「亡き王女のためのパヴァーヌ 」とか、「ボレロ 」など、教科書の第一番めに載せるべき、ごく正統的な演奏なのに、各ソリストの歌心をのびのびと引き出して、しかも何の衒いもない。その後の指揮者は、多かれ少なかれこの演奏を意識せざるを得なかったのではないか?かのカラヤンも手勢のベルリンフィルで、負けじと名演奏を披露していますが、いかんせんドイツ的秩序と、フランスの闊達な風土は異なる。五十年代六十年代のフランスは、世界の文化思潮の明らかな一つの中心で、とくに思想哲学界では名だたる英智たちが綺羅星のように世界を牽引していましたね。 クリュイタンスは、そうしたフランス的汎ヨーロッパ文化の音楽の担い手として、期待を一身に集めていたのですが、惜しむらくというか、返す返す残念でならないのは、指揮者として円熟期に入る手前、たしか六十歳ほどで癌で急逝してしまったのです。当時の日本の音楽評論家の中には「世界の医学界は音楽家に対して頭を垂れるべきである」みたいなことを叫んでいる人もいましたね。それほど一回かぎりに終わった彼とパリ音楽院オケの来日公演は、日本のクラシック界にとって衝撃だったのです。 ベートーヴェンを筆頭にドイツ的な、いわば肩肘の張った「真面目な音楽」が、それまでの日本のクラシック界の主潮だったのに対し、彼らは一瞬にして目から鱗を落とすような鮮やかな伝説的名演を残したのでした。今やそうした語り草はLPの復刻版でしか、知るよすがはなくなってしまいました。 あらでものことを言ってもしかたがないのですが、もし彼が存命でカラヤンと同じく1980年代ぐらいまで指揮していたら、世界のクラシックシーンは今とは多少変わっていたのではないか、と私など妄想してしまう。少なくともカラヤンさんは、もう少し「彼らしい」というか、自身の霊感に忠実な演奏を行ったのではないかしらん。クリュイタンスがいなくなってしまった結果、彼に比肩し得るドイツ以外の指揮者がいなくなってしまったのです。 それは彼をドイツのクラシック代表から、否応なくヨーロッパ音楽代表のような立ち位置に押し上げてしまい、聴衆もまたそれを望んだのでしょう。そうした趨勢は彼自身の指揮振りにも、多少影響を与えたのではないか?要は彼が取り上げる音楽は、そのつど汎ヨーロッパ的な精神の体現を求められたということです。で、時には彼自身の意にそぐわない音楽も、取り上げざるを得なかった場合もあったのではないかしらん。 彼らの一世代前のクラシックシーンと言えば、ドイツならご存じフルトヴェングラー、イタリアならトスカニーニ、フランスならP・モントゥーといったカリスマ的指揮者が鼎立して、それら全体が醸し出す「多様性」の花びらこそ、汎ヨーロッパ的精神の希望を形作っていたと思うのですが、クリュイタンスの死後、何となく貧寒な相貌に変わっていったような気がしたのは、私だけでしょうか。 クリュイタンスという、そろそろ忘れかけている指揮者について、まとまって話する機会はたぶんそうそうないと思うので、横道と知りつつ長話になってしまいました。
2019.08.22
コメント(0)
「自由」の意味 ひところ話題になった「名古屋トリエンナーレ騒動」。思ってしまうのは、全般に「自由の行使」という意味を、はき違えているのじゃないかということでした。この騒動では、「表現の自由」があたかも人間の「所与の権利」のごとく扱われ、例によってネット上の炎上や威迫によって、結果として「官憲が不当な圧力を加えた」みたいな報道が、当然至極のように流されてましたね。 しかし、さしたる検討もなく「自由を無限大に行使」しようとすれば、どういう結果を招くかという点では、いつものとおり驚くほど(あるいは情けないほど)退屈な事例となってしまいました。 「トリエンナーレ騒動」で不思議でしかたがないのは、主催である芸術監督や展示物の製作者たちは、自分たちが唱導したい「自由な表現」を行えば、それと対極の位置にあるであろう、「他者」たちの「自由な表現」(あるいは行為)も同時的に認めることになるということに、まるで意識がいっていないという点です。要は「リスクを自ら取る」気配が、はじめから感じられないということでしょう。あたかも自分たちだけが、「特権的に自由という檻に守られている」かのようなそぶりで、「表現の自由」を行使するというのは、考えてみればずいぶん滑稽な図柄じゃないですか。 この二つは厳密に「等価」であって、自身の行為に対して、一方の「自由」が制限されるのであれば、それは少し考えればすぐ分かることですが、相手方の自由を奪っているという点で、真の「自由の行使」とは言えないでしょう。 「自由の行使」には厳密に、常にそれと等価のリスクとコストが伴う。それは何も「威迫」とか「圧力」といった下世話なリスクではなくって(そんなものは「表現者」にとって、何のリスクでもありません)、自身の表現力に掛けるリスクということです。この人たちは「この表現で自身の伝えたいことを、本当に伝えられるのか?」というような、検討や葛藤をどれほど重ねたのだろうかという気がする。 真の検討や葛藤があれば、先のような馬鹿げた威迫や圧力はなかっただろうし、かりにあったとしても、それだけの身銭を切って、わが身の身体を本当に賭しての展示物であるなら、堂々とした反駁も主張もできたはずなのですが、ずいぶんあっさり引いてしまったじゃないですか(それもいかにも他人のせいであるかのような素振りで)。ということは、最初からそんなリスクは取る気などなかった、と言われてもしかたがないんじゃないか。となると、この人たちの「表現者」としての資質も、疑いを入れざるを得ないということになってしまう。モーツァルトや漱石など、文字どおり「身体を削って(身銭を切って)表現に掛けた」わけでしょう。 さしたる自己検討も行わず、ごく手軽に「表現の不自由」を表現しようとするから、こういう結果を招くのです。変な例えですが、仮に「偽の少女像」に対置するに「ベトナムの慰安婦像」、天皇の肖像を焼く写真の正面に「文さんの肖像を焼く写真」を展示したら、もう少しまともな問題定義が出来たのでは。もちろん、あっちからもこっちからも、文字どおり十字砲火を浴びたでしょうが、表現者としてはそれこそ本望じゃないですか。要はこの程度の「表現」には、このレベルの反発しか返ってこなかったということです。 真の「自由の行使」には、常にその行使のレベルに対応したリスクとコストが掛かる。そんなこと青山さんの在りようを見ていれば、すぐ分かることです。「ほかの何者からも独立した、真に自由な立場と言説を確保する」、つまり真に「自由」であるために、どれだけ危険と身銭を切らねばならないか、ということをです。 しかし、だからこそ意見や世界観に若干相違があるような私のような人間にも、この人の声は確かに届く、これって大事なことじゃないですか。 肝心なのは、日本では相応のリスクとコストを、「わが身が引き受ける覚悟」があるのであれば、それこそ何をやっても自由の国だということであって、そうでない国は世界中にごまんとあるということでしょう。それを当然の権利のごとく、手軽に持ち出すのは(ネットの書き込み欄じゃあるまいし)止めてもらいたいというか、もうちょっと頭を冷やしてよく考えてみたらいかが?
2019.08.21
コメント(0)
全2件 (2件中 1-2件目)
1