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昨日の「クローズアップ現代」は外国人の研修生の実態をとりあげていました。研修生とは名ばかりで、安い労働力として中小企業に体よく使われている!!実態です。最低賃金の半分以下の給料で、朝8時から夜中の1~2時まで!働かされていたり、逃げられないようにパスポートや預金通帳まで取り上げられていたり、酷いところではトイレの時間を1分いくらとお給料から差し引くのだとか!!まるで昔のたこ部屋・・・そういう状況におかれたある女性が、上司から?タイトルのような暴言を浴びせられたと言うのです!どっちのセリフだ!と叫びたくなりました。人間を人間扱いしないことこそ、卑しい非人間的なことではないでしょうか?こんな恥ずかしい人たちしか知らずに、日本人はこんなに酷い人たちなのか?と彼女たちが考えてもおかしくないし、日本は酷い国だと考えてもおかしくない、と思いました。始めは国際貢献という美しい目的があったのかもしれません。しかし、ホントは安い労働力が目的だったのですね。外国人を搾取するのが目的だったのだということでしょうか。どこが国際貢献???研修生と言えばやがては両国の架け橋にもなりうる、貴重な人たちではありませんか?その人たちを両国の宝として大事にするならわかりますが、「動物」!扱いだなんて!!!経済力があるということは人間的にりっぱであるということの証にはならないし、いばって人のことを「人間ではない」なんて言う権利も与えられるものではないですよね。経済力がものをいう社会であることは健全な社会とは言えないような気がしてきました。
2006年11月30日
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「核保有国」の仲間入りとかなんとかえらい誇らしげに言うほうも言う方ですが、「核保有国」とは「認めない」という言い方もなんか変・・認めるという言い方はなんかいいことのようではありませんか?「核保有国」と「認められる」ことは恥ずかしいことではないでしょうか?核を持たないということこそ、誇り高いことであって、「核を持った国」なんて、軽蔑されるべきだと思いますね。核を持ったから一人前に扱われるだろうなんて考える国も情けないですが、必死で認めないと言い張っている国も情けない・・・もったら軽蔑するだけだよと言えばいいのに・・核を持つことは国として恥ずかしいこと人間として恥ずかしいことではないでしょうか・・・そうした意識は国家という枠に縛られていては出てきにくいかもしれない地球は人類のもの、人類のためには核やその他の兵器は必要ありません。と世界中から声が起こる日がきっと来ると思います。それがありうると考えられない人たちが「核」を有難がっているのだと・・
2006年11月29日
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本当にロクなこと考えませんね。教育再生会議って・・・教師がいじめをしている、それではその教師は処分だ、というのとそっくりこいつが悪いこいつを除けばいいんだそれがいじめを増長させていることに気がつかないそんなことでいじめ問題が解決するならこんな簡単なことはないでしょう。厳しい罰を与えるということ、それが実を結ぶのは曲がりなりにも「同じように悪いことをしている人は同じように罰せられる」ということを社会が示している場合に限られるのではないでしょうか?今の自民党のやっていること、「前首相のやった筋の通らないことで、今筋を通すのが難しい問題になっている」これはいじめのようなものではありませんか?こんな大々的ないじめがまかり通っているのに、そしてそれに対して誰も処分されたりしてないのに、子供にだけ罰を与えても、素直に聞き入れられるわけがありません。その場は素直に従っても、それは鬱屈して蓄積される虞がないとは言えません。社会がいじめを容認している例はその他にいくらでもあります。ついこの間定年を迎えた運輸会社の社員の方は、内部告発をしたばかりに30年以上も、草むしりのみさせられるとかのいじめを受けていたのは周知のことです。いじめに罰を与えても、罰せられるからいじめはやめよう、となるとは思えません。少年法の罰則を強化しても少年犯罪の若年化は阻止できませんでした。いじめを本当に止めたいなら、子供の人権を認めている今の教育基本法を遵守して子供に寄り添った教育をすべての子供に保証するべきです。教育基本法を改悪して子供の権利を縮小すべきではないのです。人を国家の道具にすべきではないのです。
2006年11月26日
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アパレル業界の「ワールド」では、従業員の9割が正社員に!なっているそうで・・・6000人のパート・アルバイトの中から5000人がこの4月から正社員になったというのです。希望者全員というのがまたいいですね♪この正社員化で、人件費は約22億円増えることになるそうですが。雇用が安定することで、労働意欲も湧きます。優秀な人材を確保することもできるでしょう。長期的に見れば企業にとって損はない、ということでしょうか。働く側にとってもこれは喜ばしいことだと思います。パートで何十年と働いても、賃金体系は時給のまま、保険も年金もない、ボーナスもない、正社員への道もない、ということが多い中、これは快挙!と言いたくなりました。同じ働く仲間が、かたや、正社員、かたやパートという形で分断されていると、何かといらぬ壁ができてしまうことはありそうです。その壁が取り払われるだけで、余計なストレスも少なくなると思われます。ボーナスの日は休みたい、というパートさんの声は切実なものがあると思います。もっといいのは、正社員の労働時間の短縮です。今の多くの労働者は働きすぎで、そのために育児の時間も十分にとれない面もあります。一生の内でホンの何年かの育児にかかる時間も、社会は容認できないのか?と嘆かなくてもいいように。。育児の方は社会のバックアップがもっとあれば、親が付きっ切りでなくてもいいというのはありますが、それが充実していても、親が直接関わる時間も確保できていた方がいいと思うのです。ワールドの場合、労働時間のことはわかりませんが、労働者の待遇改善は大歓迎です。「ワールド」に続け!と多くの企業に期待します。
2006年11月22日
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知り合いのお子さんが幼稚園に入園するというので、「出費がかさんで生活が大変」、とのことです。その幼稚園には制服が・・今では珍しくないのでしょうか。そしてそれは当たり前なのでしょうか?3歳~6歳くらいまで、子供は驚異的に発育するんじゃなかったっけ?その間、毎年制服を買い換えるのでしょうか?それとも、お友達や近所の人のおさがりが期待できるのでしょうか?ぶかぶかの制服を着ているお子さんを見たことはないので、何かそれなりの工夫があるのかもしれませんね。でも、何か腑に落ちません。子供はいつだって、のびのびとしていたいのではないか?制服のようにこわばったものを身に着けていては体が固くなってしまうのでは?思い切り汚すことが出来ないようなものを毎日朝晩、着させて窮屈ではないのか?何かとてもよい目的があるかは知りませんが、その目的よりも、”自由にのびのび”の方が子供の発達にとっていいことのように考えるのは、心が狭いのでしょうか?子供に着せるものは、普段は普段着で十分、ではないかと思ってしまいます。毎朝毎晩、いや夜ではなく、夕方ですか、改まらなくても・・と。。しかもお金がかかりますよね~。。靴下までおそろいのマークがついているっていうのですから(1足で千円以上も!)洋服やさんのためにはいいかもしれませんが、子供のためには??と考えてしまいます。
2006年11月20日
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今日の言葉の紹介朝のラジオで聞いた言葉。尾木直樹さんでした。「現行の教育基本法にはロマンがあり、子供に対する全幅の信頼があり、世界にも類を見ない」「改正案では子供を一段低いものとみなしている」「態度を養うというのは形を重視していることであって、心ではない。例えば電車でお年寄りに席を譲るのでも、『評価に結びつくから譲る』ことを奨励するようなもの。心から譲りたいという気持を育てるのとでは大違い。評価、評価でがんじがらめにするだけ」ロマンと言うのは憲法のロマンを教育にそのまま生かそうとしていること?でしょうか。毎日新聞の記事から、ある都内の公立中の校長先生のお話。「いじめを教育委員会に報告しても問題の解決には役立たない。かえっていろいろ膨大な調査が課され、肝心の子供に向き合うことが出来なくなる」考課制度がとりいれられ、相対評価が下がると昇給に影響が出るようになったことも大きいようです。A~Fの6段階にわけ、最高―50%アップから最低―100%カットまで!!「教委の顔色を伺って現場に教委の方針を伝える『ヒラメ校長』をふやすだけ。教育現場にこれほどなじまないものはない」考課制度は都教委だけでなく、多くの府県でもとりいれらているとのこと。これでは子どもにしわ寄せがいくのもうなづけます。いじめの構造がこんなところにも、という感じがします。「子供が100人いたら100通りの育ち方がある、それに責任を負うのが教師の仕事」現行法にある、「教育は直接国民に責任をもつ」ということはそういうことであり、それをなくしてしまう改正案は教育は「子供のため」でなく、「国のために都合のいい子供を育てるため」のものになると尾木さんは警告しています。今日委員会で改正案が採決されましたが、賛成した与党の方々、子どもたちに恥ずかしいと思わないのかな? いや、申し訳ない、と。
2006年11月15日
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安倍内閣がどうしても今国会で「教育基本法」を変えなくては、と言ってます。何故急ぐ?今いじめの問題が子どもたちの心をずたずたにしている時に、だからこそ、”教育基本法を今変えなくてはならない”、となるのでしょうか?その整合性を、シロウトにもわかるように、是非示してほしい。そうでなければ、責任をまっとうしたことにならないと思います。教育の現場が大変な時に、やけどをしている時に、もっと熱いお湯を注ぐようなものではありませんか?「改正案」と現行法を比べてみたらすぐわかります。「案」では個人の大切さがかなり背景に引っ込み、代わりに国家が前面に押し出されています。これでは、命を大事に、といっても子どもたちに単なる説教をしているのと同じです。国家の方が個人より大事だと読めるからです。子どもたちを今よりもっと追い詰める結果になるでしょう。個人の命の大切さを子どもたちに教えたいなら、教育に対する国の圧力はいりません。人間の命は無条件に大事、と教えるべきです。国とか公共のために大事なんじゃない。このことさえ、教えることができたら(そしてそれはやろうと思えば十分可能です)、自分の命も、友達の命も、同じように大切なものだと考えることができるようになります。国家のためだの、公共のためだの、持ち出してくる必要なんか全然ないのです。あなたが個人として尊ばれるということは、あなたの友達が個人として尊ばれるということと同じことなんだよということさえ、子どもたちにわかってもらうことができたら、いじめたりいじめられたりすることはどちらも不幸なことだということがわかってもらえたら・・友達同士助け合えるような素晴しい人間関係を子どもの時から築くことができたら・・それが大事なことであって、いじめに関係ない法律を変えるなんぞ、どこを見てるんじゃい!と言いたい気持です。
2006年11月13日
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昨日の「太田光総理」の番組で気になった言葉の一つそれが清水邦明国明氏が発した「スイッチが入っていない」という言葉。(指摘して下さる方があり訂正しましたm(__)m邦→国)子どもを自然の中にポンと放り出しても、何をしていいかわからない状況だったりするとのこと。(いかに、遊ぶ道具がないと遊べないか、工夫して遊ぶということを知らないナ・・)ということではなくて、自然とのふれあいというものになれてなくて、人間が「自然とお友達」になるというより、「人間自身が自然そのものなんだという感覚」がまだ全然生まれてない、という状態のことかな?と思ったのです。ところが、そう思ったら自分自身もまだスイッチって入ってないかも?という気が・・違う意味かもしれませんが、同じように高木美保さんも「自殺未遂まで追い詰められ!、農業を始めて、救われたのは、自然の時間の流れと自分の時間の流れが同じだと感じた時」というようなことを述べておられました。ことは高木さんが「農業を毎日1時間学校教育に取り入れよう」(正確ではありません)というマニュフェストをだしたことから始まったお話です。農業と言うのは―農家育ちなので、か―特に関心をもってしまう分野です。昨年の9月に書いた静岡の「野良里」という農作業所のことを思い出しました。「子どもたちが目を輝かせている、農作業に!」というので驚いたのです。子どもに農作業をさせるなんて反対!という意見の方々、聞いてみると、ご自分がやりたくない、と思っていらっしゃるような・・「高木さんのやってることは本業の農家の方たちに失礼」とのご意見は、西川史子氏。「勉強さえやっていれば、農業なんてはする必要なし」とも(なんてとは仰ってなかったような気がしまして訂正しました)。農業なんて私のすることじゃない、と言ってるようで、その方がよっぽど農家の方々に失礼ではありませんか?と私などは思うのですが・・・「食べ物作りは他の誰かがやってくれて、私はお金さえ払えばいい」ということでしょう。でもお金を山ほど積んだって、作ってくれる人がいなければ、買うことはできません。どうやって作るのか頭の中でわかっていても、実際にやってみなければその通りにできるかどうかわからないのです。本当のありがたみは自分で作ってみてこそ。。でもその「場」がなければどうすることもできません。生きていくのに、農作業の結果の産物は必要不可欠のものだと思います。チャンスがあるなら、作ってみる、という経験をすることはとても意味があることだと思うのですが。。。静岡の「野良里」でいきいきと農作業をしている子どもたちを想像してみませんか?
2006年11月11日
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足立区教委が「学校のランク付けによって予算配分をしよう」という目論みを今回はあきらめたようです。区民からの批判の多さに流石にこんなことをごり押しするのはまずいという判断をされたようなのですが・・・でも、横でのランク付けはしないとしたところはいいのですが、やはりどれだけ頑張ったかが予算付けの指標になるとのお考えは変わらず、「伸び率」というのを新たな指標にするのだそうで・・伸び率が一番よかったところは何百万円とかまたやるのでしょうか。伸び率のランク付けが待っているわけですね。しかし、その「伸び率」とは一体なんぞや?数字でものを判断しようとすると大切なものが抜けていくような気がするのは、「人間のなんたるか、は数字で推し測るものではない」という思いがあるから・・学校でそんな数字ばかり追いかけて、どんな人間を育てようと言うのか?成果主義で労働者を追い立てる『会社の論理』がこんなところまで汚染しにやってきているかのような・・それについて来れないやつは振り落とす?のでしょうか・・・教育委員会の皆さん、数字で子どもたちを判断するのをやめてください。人間の価値はそんなところにあるのではない、他人の心の痛みがどれだけわかるか、が数字で判断できますか?一番大切な心のあり方が数字で判断できますか?どれだけ命が大切なものであるか、数字で表せますか?新しいことを学ぶ時、ワクワクする心を、目の輝きをどうやって数値化するのでしょう?仲間と一緒にいられることで得られる喜び、一緒に何か出来る喜び、表現できる喜び、そんなの数字では表しようがないのではありませんか?そうしたことこそ、学校で学んでほしいように思うのですが・・・
2006年11月08日
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足立区教委が都と区の行う学力テストの成績によって小中学校のランク付けを行い、それによって付ける予算を割り振りするとか。Aランク(全体の1割)500万円B(2割),C(3割)と下がってDランク(4割)は200万円。きのう楽天でよくお邪魔するまろさんのところで拝見しびっくり。今日昼休みにネットで読むことができました。何を考えているのか?いじめ問題がこれほど大きく取り上げられているのに、その最中に「それに取り組むはず」の教育に携わる上の方の方たちが「さらに大規模ないじめを率先して行っている」ようなものだと思いました。学校は知識を詰め込むだけのところでいいのでしょうか?たくさんものを知っているということで、他のものを踏みにじっても許されるのでしょうか?子どもたちにそういう意識を植え付けることになりませんか?学校の成績がよいことは、(よければそれにこしたことはありませんが)、それだけが人間の「人間らしいところ」のすべてではありません。一つの価値観だけを重視しては全人格的な成長を望むことはできません。学歴偏重には一定の歯止めが必要だとの認識はみんなのものではなかったでしょうか。それなのに今回の足立区のお偉方は、学力の差で一方を優遇し、そのためにその他大勢の子どもたちの所へ行くべき税金を回そうというのです。高校の予備校化が問題にされているときに、小学校から予備校化していくようなものではありませんか?それなら学校なんていらない、塾さえあれば、ということになりませんか?子どもたちがヒトとのつながりを学ぶ大事な時に、他の子との学力競争のみが意義あることだと教えるつもりでしょうか。足立区の皆さん、子どもたちのために断固反対してくださいといいたいくらいです。マスコミからあまりこのことに対して意見が聞こえてこないのが不思議・・・
2006年11月06日
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ロボットの軍事利用というのは昔から言われていて今に始まったことではないですが、今日「NHKスペシャル サイボーグ技術が人類を変える」を見て、ロボットが軍事的に利用されることに、恐らく初めて!恐怖を感じました。戦争で、ロボット同士が殺しあう、いや、壊しあう?のを考えるとヒトの代わりにロボット同士を戦わせてヒトは後景に下がって技術の優劣を争う?みたいなら滑稽な感じもするのですが、「片方がロボットで片方が人間だったら」いやだな、と。そのロボットが一人歩きして人類に立ち向かってくる、なんてSF映画のようなことも想像してしまいました。ヒトを殺すロボットをヒトが作る、という事態は人類に対する挑戦とまで考えます。人類は殺しあわなくても、 分かり合えるはず、 助け合えるはず、 共存できるはずという自分たち自身の力を信ずることができないのでしょうか?軍事利用といってもヒトは殺さないんだよというならいいんですが・・・
2006年11月03日
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