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先日冥王星にはガミラス軍の前線基地があったのに、と書いた。そうしたら、昨日娘から「銀河鉄道999でも冥王星は重要な役割を果たしたじゃん!」と注意されてしまった。 そうですよ、なんで忘れていたんだろう。冥王星は銀河鉄道999の太陽系最果ての駅として非常に重要な星として登場している。「銀河鉄道999」の第6話「迷いの星のシャドウ」がその話し。 冥王星は「寒く・・永久に凍りついたさいはての小さな惑星・・・」とメーテルに紹介されている。何が重要かというと、この星には外宇宙に旅立った人々の生身の体が、透き通るような冥王星の氷の大地に何千・何万と永久保存されているのだ。 そしてその「墓」の番人をしているのが機械人間の「シャドウ」。彼女は生身の体に戻り、地球に戻ることを夢見て今も一人、冥王星にたたずんでいる・・・ さらに(これは私のうろ覚えだが)その保存されている幾万の体の中に、メーテル自身の生身の体もあったはず。これほど重要な星が太陽系の「惑星」ではなくなってしまうなんて! 松本零士も昨日の新聞で「もっと情緒的に判断できないものか」と語っていた。彼の主要な作品で冥王星の果たした役割は大きいのだから、感慨もひとしおなのだろう。 今朝の新聞では、ユニヴァーサル・ミュージック担当者の話として、「23日にラトル・BPOの『惑星』を冥王星付きで発売したが、今後はこうした形はなくなりますね」との談話が載っていた。世界中の教科書からもいっせいに冥王星の名前が削除される。ああ、さらば冥王星・・・ でも私たちは絶対君の名前を忘れないよ。なんと最新で最後の「冥王星」付きとなるのか?ラトル/ホルスト:惑星(冥王星付き)こちらもクリックいただけましたら幸いですこちらも始めてみましたので、お願い申し上げます
2006年08月26日
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先日、太陽系の惑星数が現在の9個から12個に増えるかもしれないというニュースを伝えたが、このニュースの続編はびっくり仰天、12個に増えるどころか8個に減ることになりそうなのだ。以下毎日新聞記事をご覧いただきたい。『チェコのプラハで総会を開いている国際天文学連合(IAU)は22日、惑星の定義案を大幅に修正、冥王星を惑星から外す最終案をまとめた。この結果、太陽系の惑星数は、現在の九つから八つに減ることになった。同日昼の公開討論会で、原案を微修正して3分割した案を提示したが、反対論が相次いだため抜本的な修正に踏み切った。23日も細かい表現などの最終調整を続け、24日午後の全体会議で採択を目指す。 最終案は、太陽系惑星の定義を「太陽の周りを回り、自らの重力で球状となる天体」とする当初案を継承したうえで「軌道上で圧倒的に大きい天体」という新たな項目を付け加えた。 冥王星は、より大きい海王星と軌道が一部重なるうえ、03年に発見された「2003UB313」など同等規模の天体が周辺にあるため新たに加わった項目を満たさず、惑星から外れることになった。当初の定義案では惑星に昇格する予定だった小惑星セレスとUB313も、同様の理由で惑星とはみなされない。 冥王星やその周辺の天体は惑星とは異なる「矮惑星(わいわくせい)」と位置づける。ただし、「冥王星系天体」などの名称を与える案を作り、惑星の定義案とともに2案を総会に提案する。22日に示した修正案では、冥王星と冥王星の衛星「カロン」を二重惑星とする案も示したが、冥王星が惑星でなくなることから廃案とした。』 いやぁ、9個から12個に増えるという最初のニュースにも驚いたが、結果はなんと冥王星までが惑星ではなくなってしまうという、9回裏満塁でいきなり没収試合みたいな結末。驚きましたなぁ。 それにしても今生きている人の殆どが「冥王星」を太陽系の惑星として認知しているだろうから、それが全く否定されるというのは世界的大事件といえるだろう。冥王星が発見されたのが1930年。そのころは地球と同じ大きさと考えられていたが、実際は月よりも小さいらしい。 いつから太陽系惑星という認知を受けたのかは知らないが、こんな大事なことがこの21世紀までそのままにされていたとはちょっと信じがたい。 宇宙戦艦ヤマトでも、冥王星は重要な星だった。太陽系の一番外側の星で、ガミラス帝国の前線基地があり、ここから遊星爆弾を発射していたし、反射衛星砲まであったのだ!なのにいまさら惑星の資格なし、だなんて・・・(関係ないですよね!) ということは、ホルストの「惑星」組曲はそのままの形が一番正しい、ということに落ち着きそうだ。最近はマシューズの「冥王星」をセットにしたアルバムが増えていたが、今後は一体どうなるのだろうか? これが最新の「惑星」ですラトル/ホルスト:惑星(冥王星付き)こちらもクリックいただけましたら幸いですこちらも始めてみましたので、お願い申し上げます
2006年08月23日

今日の高校野球決勝戦、駒大苫小牧対早稲田実業の試合は凄かった。延長15回を闘い、1-1で決着つかず37年ぶりの決勝引き分け再試合。歴史に残る大試合となった。 今大会はホームラン本数の記録を大幅に更新し、打撃戦の試合が多かったため、正直完全に打高投低で決勝もノーガードの壮絶な打ち合いになるのかと思っていたが、予想は完全に裏切られた。 駒大田中、早実斉藤の素晴らしい投げ合い。ランナーが出ても得点を許さない鉄壁の守り。三連覇の偉業か、初優勝かの意地がぶつかり合った。 私も母校の応援で春夏の甲子園を体験させてもらったことがあるが、マウンドのナインと大観衆が一体となって勝負に一喜一憂するのは堪えられない。 それにしても甲子園はピッチャーにとって過酷だ。準々決勝以降は連日の試合となり、一人しかいない場合は三連投になる。田中・斉藤共に今日は四連投になった。特に斉藤は四連投、一人で投げ抜いた。もはや限界を遙かに超えて、(あまり好きではないが)精神力の闘いになってしまった。 厳しい顔の田中が時折見せる笑顔がなかなかいい。殆どポーカーフェイスの斉藤。明日はどちらの笑顔が見られるのか。どちらのチームも、頑張れ! こちらもクリックいただけましたら幸いですこちらも始めてみましたので、お願い申し上げます
2006年08月20日
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ナチスの武装親衛隊に所属していたことを告白したノーベル賞・ギュンター・グラス氏の自伝に予約が殺到し、9月からの発売予定を前倒ししてすでに発売が開始されたらしい。こうしたニュースを聞くにつれても、戦後61年経ってもあの大戦はまだ終わっていないのだという思いを新たにさせられる。 クラシックを聴いていると、その長い歴史の中で戦争がテーマになっている曲が多いのに気づく。大元を辿れば、音楽は軍隊の士気を高めるための「行進曲」から発達してきたこともあり、また、19世紀も20世紀も戦争が絶えなかったこともあって、音楽の題材には困らなかったということもあるだろう。 ショスタコーヴィチのように、独裁国家の中にあって我が身を守るため無理矢理曲を書いた(書かされた)人もいる。なにせ独裁者のお気に召す曲を書かないと処刑されてしまうのだから、いくら才能があっても迎合せざるを得ない。彼の交響曲の殆どは戦争やソビエト革命をテーマにしている。 ショスタコの交響曲第7番「レニングラード」はいわゆる「戦争を題材にした曲」としては最大規模の作品だろう。演奏時間は90分近く、フルオーケストラの咆哮が聴衆を圧倒する。 今はなきレニングラード(現在のサンクトペテルスブルク)にナチスドイツ軍が押し寄せる。街は完全に包囲され、2年近くに渡って市街戦が続き、最終的にソ連軍が街を解放する。その悲惨な闘いの模様をショスタコは巨大な音の城塞に仕立て上げた。 この曲の西側での初演はトスカニーニが勤め、またたくまに世界各国で演奏される人気曲となった。しかし当のショスタコは後年、「証言」の中で、「あの曲は、スターリンが破壊し、ヒトラーがとどめを刺したレニングラードを主題にしたのだ」と述べている。 戦争を主題にしたといっても様々な理由がある。今年、ナクソスから発売された大木正夫の交響曲第5番「ヒロシマ」は、原爆の惨禍をこれでもかと描いた悲しい音楽。日本のクラシック音楽の歴史は短く、戦争にまつわる作品は第二次大戦、特に原爆をテーマにしたものが多いが、この曲はその最右翼たるものだろう。 グラス氏のニュースを読みながら、彼はこの61年間、ショスタコの音楽を聴いたことがあったのだろうか、とふと考えた。おそらくはあるだろう。ではシェーンベルクの「ワルシャワの生き残り」はどうだろう?グレツキの「悲歌のシンフォニー」は? 音楽は人を癒す力があるが、辛い記憶をとどめる役目も背負っている。楽天にはトスカニーニ盤がないようですバーンスタイン/ショスタコーヴィチ:交響曲第7番&第9番こちらもクリックいただけましたら幸いですこちらも始めてみましたので、お願い申し上げます
2006年08月20日

先日話題の「ゲド戦記」を観た。なにが話題かって、ブログで検索すると批判的な意見が圧倒的に多い。ジブリ作品にとっては大変珍しい現象だ。 鑑賞した結果は、残念ながら大方の評判を裏付けるような印象しかもてなかった。自分にとって最も衝撃的だったのは、昼間部で展開がまどろっこしいために睡魔に襲われ、10分ほど寝てしまったこと。 私は、つまらない(脚本が平板な)映画を観ると途端に眠くなる癖がある。今までジブリ作品でそんな状態になったことは一度もなかったので、その方が衝撃だった。ようするに今までのジブリ作品にあるドラマティックなストーリー展開がない。映画の前半30分でドラマの帰結が分ってしまうのだ。 TVCMでは盛んに「命を大切にしない奴は大嫌いだ!」という台詞を流している。これは主人公の男の子が剣で悪人をなぎ倒すことを咎める言葉なのだが、その主人公は冒頭で父親を殺してしまう。しかし驚くべき事に、この重大な事件が映画の中では究明されず、主人公は最後まで大して葛藤せず映画は終わってしまう。映画を象徴する大事な言葉が全く無消化に終わっている作品を私は初めて見た。 「ゲド戦記」は長い長い物語であり、今回の映画はその中間部を映像化したものだというが、原作では「親殺し」はないとのこと。ということは宮崎吾朗監督はそこに大きな意味を持たせるためにあえて作品に挿入したはずだが、それが後半で全く処理されていないのは何故なのか。 問題は他にも多数ある。映画の題名である「ゲド戦記」のゲドは今回の映画の主人公ではない。何故そうなのかという説明もない。更に原作を読んでいないと意味が分らない箇所が多すぎる。 終盤の魔女との闘いが平板。イマジネーションは父親の比ではなく、退屈で凡庸な演出が続き、絵もどことなく荒くなっていて盛上がらない。 例のCMで使われている歌をうたう新人の子を重要な役回りに起用しているが、これが感情移入が出来ていなくて(素人だから当然だが)とにかく下手。なぜ役者や声優を使わないのだろう。 何よりも残念なのは、ジブリの(というよりも宮崎駿の)大胆なコマ割り(映画で云えばカメラワーク)がなく、従来の作品には必ずあったハッとするようなシーンが全くないこと。その点、改めて父親・宮崎駿の天才を再認識させられた。 ジブリも大きくなりすぎたのかもしれない。「もののけ姫」までは宮崎駿の個人会社みたいなもので、「仕事がなければ休めばいい」というこのご時世に珍しく職人的な会社だった。ところが「もののけ姫」以降、ジブリ美術館を開館し、毎年大型作品を発表するようになった。 アニメの制作現場は過酷で、アニメーターの賃金は低い。非常に高度な技術を要求されているのに多くの人手と手間暇が要求されるため、第一線で働く若手の賃金は低く、過酷な労働環境だ。 その中で良心的な作品を提供するためには、資金力の豊富なジブリが安定的な経営を続けていくことが日本のアニメ界のためには必要だろう。それは分るのだが、今回のような作品を「ジブリブランド」で大キャンペーンを展開していったのでは、やがて客は離れてしまうのではないか。 宮崎駿は嫌がっているだろうが、「ジブリ」はかのディズニーのように、多くの日本の親子にとって「信頼のブランド」になってしまった。この無形の「信頼」と多額の初期投資回収のため「商業的成功」を義務づけられたジレンマが、今後ジブリ作品をつまらなくしていくのではないかと危惧している。 原作が長大なための映像化の難しさは理解できるが、それでも作品の評価はその上映時間内で判断される宿命を負っている。原作を読まなければ内容が分らない映画は、作品としては失敗作だ。そういう意味で今回の「ゲド戦記」はジブリ初の壮大な失敗作だと思う。 今回の作品を観て、宮崎駿は引退を撤回し、次回作の構想を練り始めたらしい。それが危機感によるものかどうかは分らないが、私としてはもう一作「ナウシカ」の完結編か「紅の豚」のような彼本来の軽快なアクションを楽しめる作品をもう一本、作って欲しいと思っているのだが・・・理屈抜きに楽しめる傑作です!紅の豚 DVDこちらもクリックいただけましたら幸いですこちらも始めてみましたので、お願い申し上げます
2006年08月19日

前回は太陽系惑星が12個になるというニュースにちなんでホルストの「惑星」について触れたが、考えてみると「宇宙」を実感させるクラシック音楽って何だろう?いっぱいあるようで、実はそんなに思いつかない気がするのは私だけだろうか。 よくよく考えてみるとクラシック音楽は、当たり前のことだが人間の身の回りの事柄を題材にしてきた。それは例えば季節を表現することだったり、人間の喜怒哀楽という感情だったり、はたまた鳥や花など他の生物を音楽で表現することだった。 ヴィヴァルディはすでに300年以上前に四季を音楽で描いた。ベルリオーズが「幻想交響曲」で阿片中毒患者の夢想を描けば、ベートーヴェンは第九交響曲で人類愛を謳ってみせた。サン・サーンスは「動物の謝肉祭」でさまざまな動物たちを音で表現した。そうかと思えば、リヒャルト・シュトラウスは「家庭交響曲」の中でスプーンを音で表現した、と述べている。作曲家たちは身の回りのあらゆる現象を音にする挑戦を続けてきたのだ。 人類が宇宙へ飛び立つことが夢のまた夢だった時代に、その宇宙を題材にすることは想像の限界を超えると言うか、考えもしなかったという状態だったのかもしれない。ようやく20世紀初頭になってマーラーがその第八「千人の」交響曲において、「この冒頭で宇宙の鳴動を描いた」と言ってのけた。 確かに第八の冒頭はスケールが巨大で宇宙的な拡がりを感じはするが、我々がすでに知っている静寂の宇宙のイメージではなく、まだまだ西洋神話伝説の神々がおわす輝く宇宙、という感じがする。 しかしその後、有名どころの作曲家で宇宙をテーマに曲を残した人がいるだろうか。シベリウスもショスタコもラヴェルもドビュッシーもそのような曲を残していない。唯一スクリャービンが最後の舞台劇を「宇宙」と名づけたが、これはどうやら精神の内幕=宇宙という内容のようなので、純粋に宇宙を表現しているものではない。 私の記憶に残っているものとしては、「2001年宇宙の旅」で使用されていたリゲティの「永遠の宇宙へ」という作品。静寂の中の無機質な音の乱舞、さらに無言歌の挿入など、暗くて不気味な宇宙を見事に表現していた。 こうしてみると20世紀初頭に「惑星」をぶち上げたホルストはやはりとんでもなく偉大な気がする。世界的には本当にこの組曲だけで知られている作曲家であり、しかし他の作曲家による同じような内容の曲は皆無。それとも私が知らないだけなのだろうか。暑い夏の夜に星空を思い浮かべられるような曲をご存知の方、ぜひともご教授いただきたい。 こちらもクリックいただけましたら幸いですこちらも始めてみましたので、お願い申し上げます
2006年08月18日
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先日、国際天文学連合(こんな学会があったとは!)で太陽系の惑星がこれまで認められていた9個からいきなり12個になる新定義が提案されたと云うことでかなりの話題になっている。24日の採決でもし採択されると、今後太陽系の惑星数は12個となり、世界中の科学の教科書が書き直しを迫られることになるという。 それにしても「セレス」「カロン」など名前が付いている星はいいとして「第10惑星」というのはいかにも色気がない。ホルストの「惑星」に描かれた惑星たちは8個、近年はマシューズの「冥王星」を付けて演奏したり、アルバムを構成することが多いが、この先はどうなるのだろう? ホルストの「惑星」は太陽系惑星の特徴を絶妙な旋律で描いた傑作。一つ一つの惑星について、神話や思想、占星術などからくる歴史的な印象を音に仕立てた。彼の生きていた20世紀初頭には冥王星が発見されていなかったため、海王星までのラインナップになっているのだ。 人類の宇宙への夢は果てしない。今日までNHKでやっていた海外ドラマ特選「宇宙へ」も見応えのある作品だった。 米ソの宇宙開発競争、月面着陸までの熾烈な競争を両者の視点から描き、大変興味深かった。大戦終了時にドイツのV2ロケット開発責任者だったフォン・ブラウンはアメリカに渡り、元ナチのレッテルに苦しみながら次第に信頼を得て、最後には月面に人間を送り込むことに成功する。 これに対し、やはりV2ミサイル設計担当だった別の人間はソ連に渡り、強制収容所の恐怖とソ連内での栄達という飴と鞭によって必死で宇宙ロケット開発に励む。その恐怖の力によって、当初ソ連は宇宙開発において米国をリードすることが出来たのだ。 しかしそうした無理な開発はいつまでも続かない。ソ連の硬直した体制内では、大陸間弾道弾は飛ばせても友人月面宇宙船の開発は不可能だった。番組はその背景を実にドラマティックに見せてくれた。 人類が月面に降り立ったのが1969年。すでに35年以上が経過したのに、人類は次のステップ(他の惑星への有人飛行)には成功しておらず、月面基地や大規模な宇宙ステーションの設営にもまだ成功していない。そういう意味では宇宙への挑戦は停滞していると云うことになるのだろうか? 手塚治虫がアトムの誕生日としたのが2003年。スタンリー・キューブリックが創造した映画「2001年宇宙の旅」では人類はもっと発達した科学技術を駆使しているように見えた。人類の宇宙開発への挑戦は、今後まだスピードアップしていくのだろうか。 ホルストもフォン・ブラウンも、生きた世界は全くことなるが「宇宙」に挑戦し勝利した人間といって差し支えないだろう。自分が生きているうちに大気圏外から地球を眺めることが出来たらなんと素敵なことなんだろう・・・これは見果てぬ夢なのだろうか?最新の「惑星」を聴いてみましょう!ラトル/ホルスト:惑星(冥王星付き)こちらもクリックいただけましたら幸いですこちらも始めてみましたので、お願い申し上げます
2006年08月17日

昨日は交響曲(超有名どころ)のタイトルについて書いてみた。で、今日は世に殆ど知られていないサブタイトル付き交響曲をご紹介しよう。もし全部ご存じでしたらあなたは立派な交響曲マニア。もちろん、なんの役にも立ちませんが・・・○P.ノアゴー 交響曲第6番「At The End of the Day」(いろいろ考慮した結果)○B.リース 交響曲第4番「Memorial Candles」(追悼の蟷螂)○F.コーウエン 交響曲第3番「スカンジナヴィア」○V.ダンディ 交響曲第3番「勇敢なフランス人」○F.ベルワルド 交響曲第3番「サンギュリエール」(風変わりな)○R.ボートン 交響曲第2番「ディーエドゥリ」(ケルト交響曲)○A.ブリス 合唱交響曲「朝の英雄たち」○J.B.フェルステル 交響曲第4番「復活祭前夜」○H.ハーティー アイルランド交響曲 ○スクリャービン 神聖劇序夜 第1部「宇宙」 最後のスクリャービンは最も有名で、交響曲第2番「悪魔的な詩」、第3番「神聖な詩」第4番「法悦の詩」とやってきて、最後になんでもありの舞台劇「宇宙」に辿り着いたのでした。正確には交響曲ではないのだが、まぁ命名の壮大さを買ってみた。 ダンディは「フランスの山人の歌による交響曲」だけが有名だが、この曲もなかなかの佳品。お薦めなのはベルワルドの交響曲「サンギュリエール」とボートンの「ディエードゥリ」。 前者はベートーヴェンと同時代のノルウエー人作曲家で殆ど知られていないが、四つの交響曲を残した。第一楽章冒頭主題がまさに「風変わり」で一度聴いたら忘れられない名旋律。 ボートンは20世紀の作曲だが、爽やかで馴染みやすい旋律が特徴。第二楽章の「月光の牧歌」がとにかく美しい。ただ、BBCクラシックスから出ているCDしか現役盤がないかもしれない。 という感じでまだまだ知られていないサブタイトル付き交響曲はいっぱいあるだろう。いずれも確かに帯に書いてあると「なんじゃこれは?」と手に取る効果は発揮する。ただ、タイトルが付いているからといってその曲が名曲かどうかは全く保証の限りではないのだが・・・ こちらもクリックいただけましたら幸いですこちらも始めてみましたので、お願い申し上げます
2006年08月17日

交響曲には結構サブタイトルが付いたものが多い。先日ある方から、サブタイトルは作曲家自らがつけていると思っていた、とのご質問があったので、今日はちょっとこの話題に触れてみたい。 おそらく史上最も有名なタイトルつき交響曲といえばベートーヴェンの「運命」とシューベルトの「未完成」だろうが、実はこの二つの題名は作曲者がつけたものではない。 「運命」の方は、ベートーヴェン自身が冒頭の運命主題を「運命はこのように扉を叩くのだ」と語ったところから来ているが、本人がそう名づけた訳ではない。「未完成」の方も、文字通りこの曲の最終楽章が無く未完成だったところから来ているので、これもシューベルト自身が名づけた訳ではない。 面白いのは、外国でのこれらのタイトルの扱われ方。「未完成」は大抵のアルバムに「UNFINISHED」と記載されているが、「運命」の方はまず絶対といってよいほど記載が無い。日本では「ベートーヴェン交響曲第5番」というより「運命」と云ったほうが通りが早いが、国際的には「運命」という呼び名は認知されていないようだ。 似たようなので意外なのは。ショスタコーヴィチの交響曲第5番「革命」。国内盤のジャケット帯にはほぼ100%「革命」とつくが、輸入盤にはその表記はない。もしあればご紹介いただきたいほどの稀少盤だと思う。これも作曲家本人がつけたわけではなく、共産党のお偉方がつけたとか諸説あるが今ひとつはっきりしていない。 ベートーヴェンは他にも「英雄」「田園」「合唱」と盛りだくさん。交響曲第3番の「英雄」は、楽譜表紙に「ある英雄の思い出のために」と本人が記しているから、これは本人が名づけたといってもいいだろう。これは外国でも「エロイカ」交響曲で通っており、輸入盤の表記も「EROICA」とあるものが多い。 「田園」の由来はちょっと失念してしまったのでどなたかご教授いただけると助かります。「PASTORALE」は輸入盤にも表記されることが多いから、これも本人が名づけたものかもしれない。 面白いのは第九。日本では「第九」という表記が完全に市民権を得ているが、アルバムの帯にはこれまた「合唱」または「合唱つき」という表記がほぼ100%入っている。しかしまたもやこれはわが国だけの現象のようで、諸外国では「CHORAL」というタイトルつきもあるが、「SYMPHONY No.9」とシンプルなものの方が多い。 「合唱」というのも、ベートーヴェン自身がつけたものではないらしい。こうしてみていくと、いくつかの例外を除き、諸外国では作曲家自身が名づけた場合は表記するが、それ以外のものはしない、という暗黙の了解があるような気がする。翻って我が日本は、とにかく売れればよいということでなんでもかんでも付けたがる傾向にあるようだ。 だからと言ってなんでも付ければ良いと言う者ではない。確かマーラーの交響曲第3番に「大いなる朝への讃歌」とかいうとんでもないタイトルを付けたCDがあった。さすがにそれ以外にはお目にかかったことは無いが、基本的に作曲者の命名以外は使用しない方が良いに決まっている。 まだまだ面白いサブタイトルは数多くあるが、とりあえず今日はこの辺で。ちなみに私の一番好きなサブタイトルはカール・ニールセンの交響曲第4番、その名も「不滅」。これも正確には作曲者の命名ではないが、でもかっこいいでしょ? こちらもクリックいただけましたら幸いですこちらも始めてみましたので、お願い申し上げます
2006年08月16日

61回目の終戦記念日は、朝から小泉首相の靖国参拝で慌しかった。昨年は中韓の批判ボルテージが高かったので取りやめたが、今年は最後の「公約実現チャンス」ということで挙行したようだ。 もとより中韓の批判は自由だが、外交ルートを通じてのいちゃもんは完全な内政干渉である。中韓の教科書内容についてもし日本が外交ルートで抗議したら、一体どのような事態になるだろうか。日本はそこまで愚かではないからやらないが、他国の内情に軽々しく口を挟んで良いと思っていること自体が未成熟な国家の証である。 では本日の小泉首相の靖国参拝が正しいかというとそうでもない。なぜなら、今日の参拝がはっきり云って全く火急の問題ではないこの案件を蒸し返すことによって、またぞろ中韓との外交関係がおかしくなることは自明の理。なのにこの件を解決するなんら有効な手立てを持たないまま参拝に及んだのでは、無策のまま相手の顔にボールを投げつけるようなものだ。 好むと好まざるとに関わらず、日本は中韓と共存していかなければならない。その為の正常な外交ルートは保持していなければならないし、中韓とは領土問題等もっと差し迫った懸案が数多く存在する。 そんな時に、過去の歴史解釈を巡っていつまでも泥仕合を演じていて良いわけが無い。中韓はメンツを潰されたと感じてまた騒ぐだろう。8月15日に首相が参拝するかどうかは、彼らにとっても重要な問題なのだ。 何回も書いているが、中国に関する限り、あの戦争は明らかな侵略戦争である。ただし、西欧列強の方がはるかに早くから中国への侵略を開始しており、最後に残ったのが地理的に一番近かった日本であったに過ぎない。日本が中国を侵略したのは対ソビエトに対する地政学上の理由と、その頃盛んであった帝国主義的領土獲大によるものだった。 中国からすれば、あの戦争を指導したA級戦犯が軍神として奉られているのは我慢できないだろう。しかしそれは外交問題ではなく、日本の国内問題である。常軌を逸した抗議活動をすべき問題ではないのに、必要以上に国民の敵愾心を煽るのは自国の政権維持の為といわれても仕方あるまい。 韓国の場合は事情が全く異なる。韓国は太平洋戦争が始まる30年も前に日本に併合され、A級戦犯達はその併合劇にはなんら関与していない。日韓併合は国際的に承認されていたし、一度も戦争状態になったことが無いのだ。それ故中国は戦後戦勝国となったが、韓国(朝鮮)は戦勝国の列に加わることを拒否されている。 韓国の抗議というのは殆どが感情的で筋が通らないものが多いが、そもそも日韓の政府レベルで靖国問題など存在しないのではないかとさえ思う。 日中韓が歴史解釈で不毛な泥仕合を演じている間、レバノンでは実際の戦闘で多くの命が失われている。米英の航空路線を狙った空前のテロ計画も明るみに出た。イギリスの閣僚が、「すでに第三次世界大戦の様相を呈している」と語るほど、世界は戦火にまみれている。それは西欧の力の信望が中東諸国と正面からぶつかっているからだ。 せめて日中韓は、同じアジア民族として分かり合えるようになりたいものだ。困難ではあっても、力による対決が何も生まないことを、毎日のニュースが教えてくれているではないか。こちらもクリックいただけましたら幸いですこちらも始めてみましたので、お願い申し上げます
2006年08月15日
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「ブリキの太鼓」の原作者で、ノーベル文学賞作家のギュンター・グラスが、青年時代にナチスの武装親衛隊(SS)に所属していたことを告白し、批判の渦に巻き込まれている。 グラスは平和運動家、左派系の作家として有名で、特に代表作とされる「ブリキの太鼓」は映画化され、カンヌでグランプリを獲得している。私も見たが、鋭く悲しい反戦映画として強烈に記憶に残っている。 氏はこれまで、戦争中は国防軍に所属していたと語っていた。今回武装親衛隊への所属を明らかにしたことで「やっと過去を口にすることが出来た」と語っているという。当然ながら、相当な葛藤があったことは間違いない。 このグラス氏の告白は、ドイツ内外で大きな波紋と批判を呼び起こしている。ノーベル文学賞はもとより、生まれた街グダニスクの名誉市民賞をも返上すべきだと云われ始めた。 分らない方が多いかも知れないので詳述するが、「武装親衛隊」が嫌悪されるのは、「武装親衛隊(SS)」とはそもそもヒトラーの身辺警護のために創設された部隊であり、「ドイツ国防軍」とは全く異なる組織だったことによるものだ。 基本的には志願制であり、入隊に関しては最低三代まで家系を遡り純粋なドイツ人であることを要求し、身長178センチ以上、身体剛健で虫歯一本の存在も許されなかったという。入隊に際しては「ヒトラー個人への服従」を誓い、入隊後も国防軍にはない徹底的なナチ党の思想教育を施された、まさにナチ・エリートというべき存在だった。 この武装親衛隊は大きく二種類に大別化されていた。一方は国防軍と共に最前線で闘う最精鋭部隊としての任務を負い、もう片方が悪名高い強制収容所管理や占領地での他民族抑圧を担った部隊、通称「髑髏部隊」であった。戦後ニュルンベルク裁判等ではこの分別があいまいになり、武装親衛隊イコール残虐な殺人部隊、という認識が広まり、現在に至っている。 グラス氏は「武装親衛隊に徴兵された」と語っているが、基本的にSSは志願制であり、前述したとおり入隊基準も大変厳しかった。大戦末期とはいえ、国防軍にも所属していなかった16歳の少年を、親衛隊が徴兵したかどうかの証明は難しいのではないか。 戦後、SSに所属していた人間は就職活動上徹底的な差別を受けた。当然ながら、その所属を隠し通したまま亡くなった人々も数多くいただろう。グラス氏も本当の事が言えず、悩み苦しんだに違いない。しかし、彼は過去を明らかにすることを自ら望んだのだ。SSであったことが最初から明らかであれば、ノーベル文学賞はおろか作家として世に出ることも困難であったろう。しかし、ドイツと世界はその才能を高く評価したのだ。 SSの歴史は古い。1929年、ナチ党が政権を握る4年も前からすでにそれは存在していた。33年にナチが政権を獲得した頃から本格的な膨張を始めるが、その頃の入隊者ならいざ知らず、1944年の敗戦直前、16歳での入隊を今となっては誰が攻めることが出来るというのか。 おそらくグラス氏は、真実が明らかになれば数々の栄誉を手離さなければならないことなどは覚悟の上だろう。それでも云わなければならない思いが全てに優先したのだから、ノーベル文学賞やグダニスク名誉市民賞は返上しても仕方がない。たとえ全ての賞を返上しても、作品は永遠に残る。 9月に発表されるという氏の自伝に、彼の真摯な告白が載っていればと願うばかりである。 それにしても、戦後61年が経過したが、日本同様ドイツにとっても、あの戦争はまだまだ終わってはいないのだ、という認識を新たにさせられたニュースであった。ああ、悲しき叙事詩ですブリキの太鼓(期間限定) ◆20%OFF!こちらもクリックいただけましたら幸いですこちらも始めてみましたので、お願い申し上げます
2006年08月14日

少年マガジン誌上でなんと「巨人の星」の新連載が始まった。以下読売オンラインの記事をご一読いただきたい。『花形が主役の新「巨人の星」、少年マガジンで連載開始 (読売新聞) 1966~71年に「週刊少年マガジン」(講談社)に連載され、スポ根ブームを巻き起こした「巨人の星」が、35年ぶりに新作漫画として“復活”した。 星飛雄馬(ひゅうま)のライバルだった花形(はながた)満を主役にし、舞台設定も現代に移すなど、往年の名作が大胆にリメークされている。 タイトルは、「新約『巨人の星』 花形」(村上よしゆき画)で、きょう発売の同誌8月9日号から連載開始。梶原一騎原作、川崎のぼる画によるオリジナル版は、少年期から父・一徹(いってつ)のスパルタ教育を受けた飛雄馬が、ライバルとの激闘を繰り返しながら巨人軍のエースになる物語だが、今回、花形を主役にした理由について、同誌では「今の中高生には、貧しさからはい上がる飛雄馬より、恵まれた環境にある花形のほうがリアリティーがある」と話している』 という記事につられて、普段はもう全く読まないマガジンを立ち読みしてみたが・・・いやはや、これが酷いシロモノ。ストーリーはなんだか学園ラブコメ(おそらく最近の傾向で、あれもこれもと欲張った)で品がなく、野球描写は下手。往年の名作の影も形もなく、全く別の作品だった。 「巨人の星」の匂いすらないのに、なぜ「新約 巨人の星」などとつける必要があったのか?今週号を見た限りではその意図が全く分らなかった。 「巨人の星」は自分にとって必ずしも気に入っている作品ではないが、日本が戦後辿ってきた時代を忠実に描写した作品として漫画の歴史に残る不朽の名作だ。いわゆるスポ根物の草分けであり、程度の差はあるが現在のスポーツ漫画の原型を作った作品である。 失礼を承知であえて云うならば、この「新約 巨人の星」は旧作に何ら関係ないどころか、旧作の名誉をも汚す怖れのある駄作に見えた。そもそも編集部が語る「今の子供達には貧困から這い上がる星飛雄馬よりも、金持ちの花形の方がリアリティがある」というのはあまりにも現代の子供達をバカにしていないか? どんなに時代が変わっても、スポーツの世界はハングリーな者しか生き残れない。才能はもちろん必要だが、その才能を花開かせるのは泥臭い努力しかない。そんなことは今の子供でもわかっている。しかし今回の「巨人の星」にはそんな泥臭さは微塵も感じられなかった。 編集部の「貧乏な星より金持ちの花形の方がリアリティがある」というのは、必死の努力をして這い上がる姿を否定し、才能もカネもあるものが悠々と世間を渡っていく、という内容になるということなのか? それはそれで、全く別の野球漫画として連載が始まったのだったら何の問題もない。しかし大袈裟にも「新約」などと名付け、往年の名作の名を語って話題作りを狙おうというのであれば、それはあまりにあざとい行為と云わねばなるまい。 「巨人の星」という作品名から連想されるのは、友情・努力・血・汗・成功、そして非情な挫折だ。挫折のない巨人の星はあり得ない。しかし今回の「ラブコメ巨人の星」からそんな汗くさい臭いは微塵も感じられないのだ。 それにしても今回の作品、原作者筋の了解はどのように受けたのだろうか。作品の内容よりも、そんな裏舞台のことが気になるのがかなり悲しい。梶原一騎が生きていたら、絶対に許さなかったはずなのだが・・・川崎のぼるは金に困っていたのだろうか。 そもそも、巨人が最下位争いをしているこのご時世に、なんで「巨人の星」なんだろう・・!?一気に読むとまた感動しますね巨人の星 〔KCSP版〕全11巻 梶原一騎/作・川崎のぼる/画 こちらもクリックいただけましたら幸いです
2006年08月13日
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噂に上っては消えていた「のだめ」のドラマ化が遂に10月からフジの月9で本決まりになり、先日から話題になっている。 ちょっと聞いたところでは、今春最初にTBSでドラマ化の話があったが途中頓挫し、各局の激しい争奪戦の上最終的にフジの月9に決まったとか。なにせ今夏のドラマは各局ともあまり視聴率がふるわず、コミック累計1100万部のお化けコンテンツ獲得には各局目の色が変わっただろう。 取りあえず発表された配役はのだめに上野樹里、千秋に玉木宏。そしてシュトレーゼマンはなぜか竹中直人。ってことはドイツ人という設定は変えてしまうのかな。彼はどうやってもドイツ人には見えないし。 上野は若手の中では演技力に定評があり、雰囲気的にもあのほんわかしたところが案外のだめに合うかもしれないが、玉木宏はどうかなぁ。現在指揮も特訓中ということだが、ファンの方には失礼だが千秋のクールな知性がちょっと感じられないような・・・ アニメ化も決定しており、やはりフジ系列で来年1月から、という報道もあった。ファンとしてはこちらの方が期待が大きい。最近のTVドラマはみなワンクール(三ヶ月)という短いサイクルの放映になってしまい、ドラマに深みがなくなっている。今回ののだめも、その短さでは原作のおもしろさをきちんと伝えることは難しいだろう。 のだめの面白さというかヒットの要因は、クラシック音楽のまじめな描写と独特のギャグセンスの絶妙な融合にある。ところが最近のTVドラマの安易な制作レベルだと、ただの「どたばたギャグドラマ」になりかねないから、ファンとしてはとにかく原作の雰囲気を壊さないで欲しいと祈るのみだ。 とはいっても、初回を見るまでは期待と不安が交錯して落ち着かない日々になりそうな・・・よろしければ、(まだ途中ですが)のだめコーナーもご覧下さいませ。こちらがのだめデス!のだめカンタービレ(#1)作中に登場する名曲集デスのだめカンタービレ CD BOOKこちらもクリックいただけましたら幸いですこちらも始めてみましたので、お願い申し上げます
2006年08月12日
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5日、往年の大ソプラノ歌手、エリザベート・シュワルコップの訃報が流れた。なにせスポーツ新聞にまで載っていたのだから驚いた。 私は殆どオペラを見ないが、何かの機会にリヒャルト・シュトラウスの「バラの騎士」(カラヤン指揮)を見て、その元帥夫人役のシュワルツコップの美しさには目を見張った。とにかくまさに「元帥夫人」にふさわしい美貌と気品に溢れ、(しかも多くのオペラ歌手のように太っていなくて)その美しい声にあっという間に魅了されたのだ。あれはDVDにもなっているはずなので同曲のお勧め盤である。 ところで、あちこちの訃報記事には皆、「引退後、彼女は1940年にナチス党に入党したことを明らかにした」とあった。それは決して心情的にナチスに傾倒したのではなく、あくまで仕事を得るためであった、と本人は釈明している。 あの時代、ドイツでナチス党員であるかないかは生活していく上で雲泥の差があった。特に音楽の世界ではゲッペルスが牛耳る帝国音楽院があらゆるポストの人事を掌握しており、党員である音楽家を最優先で重用した。有望な新人でも、党員であるかないかで大きな差別を受けたのだ。 若きカラヤンも同じように、入党した・しないで戦後追求を受け苦しんだ。真相はどうやら入党していたらしいが、それもベルリン・フィルなどでポストを得るためであり、特に党員の活動をしたわけではなかったらしい。 あのシュワルツコップでさえ、職を得るためには入党しなければならないほどひどい時代だった。ちなみにナチスはそうした差別待遇をあまりにも露骨に推進したため、非党員の人々が猫も杓子も入党しようとしたので、確か40年か41年に新規党員の募集を打ち切っているはず。シュワルツコップもあと一年ほど我慢できれば、戦後忌々しい追及を受けずに済んだはずなのだが・・・ カラヤンやシュワルツコップのような超一流の音楽家でさえ、死ぬまでナチスの記憶に苦しめられた。彼らの演奏するリヒャルト・シュトラウス自身も帝国音楽院総裁を務めたが、彼らの演奏が素晴らしいのは、生前のシュトラウスを知っていたことも大きいだろう。そのシュトラウスは、ナチスに従った自分の国が焦土になっていく悲しみを「メタモルフォーゼン」という曲で記憶に留めようとした。 ドイツの音楽家にとって、ナチスの亡霊はいまだに去ってはいないのだ。 不世出のソプラノのご冥福を心からお祈り申し上げたい。 ちょっとお年を召してますが、この方です シュワルツコップ/モーツァルト:歌曲集こちらもクリックいただけましたら幸いです
2006年08月08日

ゲルギエフ問題?については想像を超えて多くの方からご意見をいただいた。今日はその要約をしておきたい。 メールをいただいた殆どの方々は、ゲルギエフの前評判の高さと実際の演奏(CD)との印象のギャップを指摘されていた。しかし、実際に生演奏を聴いて感動された例ももちろんあった。しかしそれも、同じ曲をCDで聴くとその差の大きさに驚かれていた。 私も生演奏に接したが、ゲルギエフの風貌は間違いなく濃い~ロシア正統、爆演型の指揮者。その彼が汗びっしょり、すだれ頭を掻上げながら指揮する様はなかなか異様?である。 しかし、その容貌の凄さに反して、実際の内容はいたっておとなしめの指揮なのだ、ということが多くの方のご指摘で分ってきた。CDなどの売り文句や雑誌の記事などは、ともすれば「情熱的・迫力ある演奏・爆発的なパワー」などといった言葉を多用するが、ゲルギエフはそういう指揮をする人ではなかったのだ。 どうもロシアの指揮者というとスヴェトラーノフやフェドセーエフに代表される爆演型指揮者を想像し期待してしまうので、ゲルギエフに対しても自然とそういう雰囲気を要求してしまうのだろう。そこに売らんかな意識丸出しのマスコミ・CD会社の扇情的なキャッチコピーが乗っかり、「ゲルギエフとは迫力満点・個性的な指揮を得意とする人」という、実際とは異なる指揮者像が出来上がってしまったわけだ。 実際の彼は、奇をてらわないで自己主張を抑えた、ヨーロッパ型のスマートな演奏を得意としているようだ。まぁ云ってみればCDなどで聴くと今ひとつ面白味がない演奏、とも云えるのだが、オペラでの実績は相当なものがあるのだから、これからまだまだ面白くなる可能性を持っているのだろう。 それにしても、これまでゲルギエフに強烈な個性を求めて来た多くのファンを、フィリップス(CD発売元)はよくもまぁ誤魔化してきたものだ。でもこれだけ有名になったのだし、そろそろ彼の本当の姿を素直に伝えた方がいいのでは、と思うのだが・・・こちらもクリックいただけましたら幸いです
2006年08月06日
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作家の吉村昭氏が亡くなられた。私にとっての氏は「戦艦武蔵」「零式戦闘機」「陸奥爆沈」「ポーツマスの旗」等、歴史・戦史文学の第一人者だ。 氏の代表作は何か、というと意見は分かれるだろうが、私にとっては「戦艦武蔵」になろうか。日本人が太平洋戦争に注ぎ込んだ、膨大な情熱と狂気の一つの象徴としての戦艦武蔵の建造から終焉までを緻密な取材と冷静な筆致で描いた名作。 戦記文学の傑作としては吉田満の「戦艦大和ノ最期」があまりにも有名だ。この作品が大和に乗艦していた吉田氏自らの壮絶な体験を綴ったのに対し、「戦艦武蔵」は膨大な取材によるルポルタージュ作品。作品の性格は全く異なる。 何故日本人は負けると分っていたあの戦争に突入していったのか?毎年終戦記念日が近づくと繰り返されるこの問いに、吉村氏は「戦艦武蔵」を通じて回答を導き出そうとした。武蔵・大和という古今未曾有の超巨大戦艦を造りあげていく膨大なエネルギーは、そのまま一億玉砕の狂気となって戦争へと突進し、やがて破滅する。その過程の一つの象徴が戦艦武蔵なのだ。 学生時代に初めて読み、働くようになってからも時々読み返していた。今読んでも、ひたすら事実を追求する氏の真摯な姿勢に感銘を受けると共に、あの戦争についての止まない疑問が頭を駆けめぐる。 おりしも八月、氏の作品を読み返してみたいと思う。吉村先生のご冥福を心からお祈り申し上げます。写真はありませんが、不朽の名作です戦艦武蔵改版戦争文学の最高峰。戦艦大和ノ最期こちらもクリックいただけましたら幸いです
2006年08月05日
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掲示板でともさんやさすらい人さんから指摘されているが、私もゲルギエフの演奏に満足したことが無い。 実際ゲルギエフの世評は異常に高い。1953年生まれだからまだ55歳。指揮者では脂が乗り切った年齢だ。マリインスキー歌劇場のレベルを引き上げた功績がもっとも喧伝され、世界中の交響楽団に客演している。最近ではウイーン・フィルとのチャイコ三大交響曲集が話題を呼び、確か秋からロンドン交響楽団の指揮者も勤めるのではなかったか。 雑誌などでは、「ロシア音楽の正統な伝道者」や「情熱的な指揮」を謳われ、チャイコやストラヴィンスキーのCDの評価も高い。 しかし私はさすらい人さん同様、残念ながら彼のCD・生演奏共に感動した(感動できた)ことが一度も無い。しかし世評は非常に高いから、これは私だけの気まぐれなのだと思っていた。 しかしともさんやさすらい人さんのメールには、私が積年感じてきたことと同様の感想が述べられていた。一言でいうと、彼の演奏には宣伝されているような大きな感情的起伏などなく、演奏が一本調子で感動がないのだ。WPOとのチャイコ5番、「悲愴」を聴くとよく分かる。また、ショスタコの5番も今ひとつだ。 生演奏で辟易したのがショスタコ7番。N響とロッテルダム・フィルの合同演奏会で大いに期待して行ったのだが、あまりにも平板な演奏で、途中で眠気を抑えられなかった。 しかし先日のともさんの日記では、PMFオーケストラとの演奏会では素晴らしいチャイ5を披露したそうなのだ。一体このギャップはどこから来るのだろうか? 一説にはゲルギエフはあまりにも仕事をしすぎて、演奏にムラがあるというのを聞いたことがある。しかしそれでは多くのCDを聴いて一枚も感動できなかったというのは、確率論からして当てはまらないだろう。 少なくとPMFオケの演奏ではスタンディング・オベーションが起きる位なのだから、人々を感動させる実力は備えているのだ(私は体験していないが)。ということはその実力を平均的に披露する力がないのか? うーん、考えていくとやっぱり分からなくなる・・ゲルギエフって、一体どうよ?これが話題の?5番ですチャイコフスキー:交響曲第5番こちらもクリックいただけましたら幸いです
2006年08月03日
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